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雑多です。

2024年6月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

#ラジオ・デアドラ
#完売本
#ヒルマリ
4.

 マリアンヌはヒルダの家に転がり込んでいるが二人は始終一緒にいるわけではない。ふらふらと街を歩きがちなヒルダよりマリアンヌの方が早くラジオ局に着いていることが殆どだ。しかし今晩は珍しくヒルダは余計な寄り道をせず局内で調べ物をしていたらしい。今は目処がついた、とのことで気分転換なのか自分の席に座って夕刊に目を通している。へヴリングにある炭鉱が閉山するという記事が一面を飾っていた。確かに水上バスも蒸気船は減ってきている。

「おかえりマリアンヌちゃん」
「はい、ただいま戻りました。今から台本を書きます」
「これ、今日かける予定の曲一覧ね。曲紹介も台本に書いてあげて。レオニーちゃんもそのうち曲飛ばしとかするようになっちゃうのかなあ……。あれ地味に困るのよね、始末書書くの私だもの」

 話が盛り上がり過ぎて尺の中に収まらなくなってしまった結果、かけるべき曲をかけられないことを曲飛ばしという。レオニーは番組当初と比べて更に喋りが達者になって来た。たまに書いておいた台本を無視することもある。彼女が直接ヒルダから曲一覧を受け取りマリアンヌの書いた台本を必要としなくなる日がそう遠くないうちにやってくるのだろう。

 マリアンヌは愛用している大きめのノートに縦の線を引いた。速記もどきでメモした内容を対比出来るように清書していく。よく葉書を送ってくる不眠症の理容師に意見を求めるのも良いかもしれない。名指しすると律儀に皆、返信の葉書を寄越すのだ。マリアンヌもそちら側だったので気持ちはよくわかる。

「うちのリスナーって頑固かと思いきや結構新しもの好きよね」

 マリアンヌの手元をヒルダが覗き込んでいた。ヒルダは液体シャンプー派でゴネリル邸の広い浴室に何種類もの瓶が整然と並べられている。別々に入浴した時にヒルダがどのシャンプーを使うのか予想するのはマリアンヌの密かな楽しみで的中したらテフにひとつ余計に角砂糖を入れることにしている。

 番組では冒頭でレオニーは今日がどんな一日であったのかを話す。レオニー本人のことを話すときもあれば番組スタッフのことを話すときもある。よく出歩き観察眼の鋭いヒルダの話は受けが良いのだが今日は出歩いていなかったようなのでレオニーにはマリアンヌのことを喋ってもらうことにした。労働争議の現場で番組の名前入り名刺を大量に配ったからだ。

 レオニーは最終の一本手前の市電で放送局に通っている。酔っ払いが多いのではないかとヒルダたちに心配されているが今のところ特に問題はない。放送局に着くと関係者用出入り口にラファエルが立っていた。

「ようレオニーさん!遅くから仕事で大変だな!」
「ラファエルこそ遅くまでお疲れさま!」

 すっかり友人になった二人だがそれでも規則は規則なので入館証を見せて局内に入っていく。当然まだスタジオには入れないのでレオニーはいつもヒルダが用意してくれる会議室でマリアンヌの台本に目を通す。手狭だが心地良く過ごせるように飲み物も軽食も参考資料も用意してある空間でヒルダとマリアンヌが地図を見ながらああでもないこうでもないと話し合っている。

「次の企画の相談でもしてるのか?」
「うん、でもまだ雲を掴むような感じでしっくり来なくて」

 ヒルダは眉間に皺を寄せながら眠気覚ましのテフに口をつけた。耳元では彼女お手製のイヤリングが輝いている。ヒルダは華やかな業界にいる華やかな女性だが案外地道な手作業も好きなのだ。

「ヒルダさん、把握しているのに敢えて言及しない、と把握出来なかったから言及すら出来なかった、には天地の差があります」
「マリアンヌの言ってることが哲学的でよく分かんないぞ」

 実際には途中から話を聞いたせいだがレオニーはわざと見当違いなことを言った。レオニーは放送中、番組を途中から聞き始めた人にもわかるように何の話をしていたのか説明を入れるようディレクターのヒルダから指示されることがある。その際の要約もマリアンヌは台本に書いておいてくれる。実に分かりやすい文を書くのだが実際に喋らせると本当に何が言いたいのか伝わってこない。

 その晩のレオニーは番組の冒頭で台本通りマリアンヌの話をした。

「頼めば葉書が山のように来るわけだからさ、待てばいいと思うんだよ。でもうちの作家は待てが出来なくてすぐ直接話を聞きにいっちゃうわけ!」

 目の下の隈は色濃く鏡を見る間を惜しんで必死にペンを走らせたせいで結い上げた水色の髪は崩れている。そんなマリアンヌを陰気で不器用と評価する者は多いし本人の自己評価も変わらない。だがレオニーやヒルダには私たちは新聞より早く伝えることが出来て新聞より人々の本音に寄り添うことが出来る、と誇らしげに語るマリアンヌが輝いて見えるのだ。畳む
#ラジオ・デアドラ
#完売本
#ヒルマリ
5.

 ヒルダは放送局全体を巻き込むべくチャリティ企画を立てた。番組内でレオニーがマリアンヌを元軍人の、と言って散々弄っていたし半年以上レオニーの番組を聴いているリスナーならマリアンヌのアパートで火事があったことは皆知っている。その上で職務質問されがちなリスナーと警察官の距離を縮めるような企画を、と提案したらえらく受けが良かったのだ。
 昔から木を隠すなら森の中という。我々の暮らしを支える公安三職つまり軍人、警察官、消防官に感謝を込めて彼らの詰所の休憩室にラジオを贈呈しようというのがヒルダの立てた企画だった。一度繋がりが出来ればその後どうなったのか等いくらでも好意的な第三者を装って接触することができる。
 レオニーがマイクのスイッチを入れた。目の前には構成作家のマリアンヌが用意したベルと箱が二つ置いてある。どちらの箱にもリスナーからの葉書が入っており三通ずつ読んだらどちらの箱がよく出来たウソでどちらの箱が道端で寝ていた時に本当にあった話なのか当てねばならない。正解すればマリアンヌがベルを鳴らしフレスベルク電機提供のラジオが贈呈される。

「茶色の箱三通目!"一週間前、競馬場前の広場で目が覚めた時、一面に広がる割れた酒瓶の欠片に日の出の光が当たってキラキラと美しく輝いていたので感動して泣いてしまいました"って……一週間前のレースってあれか?とんでもない番狂せがあったやつ?」

 レオニーの目の前に座っているマリアンヌが無言で頷いた。馬券は買わないがマリアンヌは馬が好きなので競馬にそこそこ興味を持っている。レオニーがいう通りレースが荒れたので乱闘があった。酒瓶を割る者がいてもおかしくはない。

「む、今ので分かったぞ!茶色の箱が本当にあった話の箱だな?乱闘があったのにすやすや寝てるのは大物の証拠じゃないぞ。耳鼻科に行って耳を診てもらえ」

 マリアンヌが真顔でベルを鳴らした。これでヒルダはデアドラ西消防署にラジオを届けることができる。火災の捜査は警察ではなく消防が行う。マリアンヌが前に住んでいたアパートはデアドラ西消防署の管轄だ。番組はつつがなく終わりいつもとは違いダイナーから飲み物や食べ物を取り寄せた。
 出前はしてくれない店なのだが目の前であること、早朝でまだ店が混んでいないことが功を奏しヒルダのおねだりが通っている。マリアンヌたちを前にしてレオニーが顔を顰めながらテフを啜っていた。壁の地図を凝視していたベレトがドーナツを一山食べ切ってしまったからではない。

「報道機関は捜査権はないが取材が出来る」
「報道されなかった小火騒ぎの話も聞きたいですね。火災防止週間のような理由があれば聞かせてもらえると思います」
「こんな話、どうやって私たちの手のひらにおさまるような大きさにするんだ……」

 壁に貼ってあるデアドラ市の大きな地図は印だらけ物騒な書き込みがされた付箋紙だらけになっていた。

「柄じゃないのは分かってるってば〜!」
「だが対象がもっと広がったら厄介だ。学校で異端狩りのことは習っただろう?」

 ヒルダは先端技術に関わる人々を狙う連続放火犯がいると予想している。単独犯なのか複数犯なのかは分からない。

「ええ、暴動を抑え死人の数を最小限にするためにも迅速に誰かを火炙りにせねばならなかったとか……」

 火炙り、という単語を口にしたマリアンヌは腕をさすった。感じた寒気は体感温度とは関係ないのだがすかさずヒルダがマリアンヌに後ろから抱きつく。

「どうやって収束したのかは知っているか?」
「そもそも何であんなことが始まったのか私知らないわ」

 マリアンヌの背中ごしの回答から察するにヒルダはとりあえずテストを凌げればいい派であったらしい。

「あの時代は疾病のせいで社会が崩れかけた。不安に駆られた人々が集団で起こしたヒステリー発作と言われているが収束した理由と同じくはっきりしない」
「収束したのは啓蒙思想の信奉者が裁判官の多数派になって無罪を言い渡すことが増えたからだという本を読みました」

 面白そうな本なので題名を教えて欲しい、とせがんだベレトはヒルダとマリアンヌの間にするりとわ入り込んでいる。彼女たちが付き合っていると知った男性は負け惜しみを言うことが多いのだが彼は微塵もそういうところがない。レオニーの見たところ自分たちに近づくを男性を警戒しがちなヒルダが珍しくベレトそしてラファエルには心を許していた。二人とも邪心がない。

「同調圧力に逆らえる者が増えたからだ。俺はこの番組が同調圧力に抗う者が集う砦になると思う」
「荷が重い!こっちは言われるがままマイクの前で話すだけで精一杯なのに!」
「レオニー、砦を守るのは人だ。そして君たちを守るのが俺の仕事だ。俺もひとつ仮説を立てた。立証するのを手伝って欲しい」

 ヒルダの推理もかなり尖った代物だがベレトの仮説は更に尖っていた。畳む
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#完売本
#ヒルマリ
6.

 社員の名簿が入手できた順ではないかと言うのがヒルダの仮説だったがベレトはそれすらしていないのでは、と言う。

「確かに軍事機密と関わる企業の場合は名簿を手に入れるのも手間がかかるはずです」
「例えばマリアンヌが前に住んでいたアパートの件なんだが……隣室の住人は科学雑誌で会社の研究室について語っていた」

 ベレトが雑誌を開いて机の上にそっと置いた。確かにマリアンヌの隣人が顔写真付きでインタビューに答えていた。ご近所付き合いというものをきちんとしていればマリアンヌが自力で気づいたのかもしれない。

「新聞や雑誌だけではなく放送で名前があがっていた被害者がいる可能性もある。放送局は最先端技術の塊だろう?」

 飄々として燃え残った私物をレオニーの番組に提供していたがマリアンヌも恐ろしかったのだろう。後ろから胸の下に回されたヒルダの手にインクの染みだらけの手を重ねて握りしめている。

「それは簡単に調べられます……。あの、わ、私もですが皆さんもずっと放送で名前が出て……」
「マリアンヌちゃん、大丈夫。私が守ってあげるから」

 マリアンヌはレオニー宛の悪意たっぷりな手紙は目立つ女性への嫌がらせに過ぎずヒルダが調べている一連の放火騒ぎとは無関係だと考えていた。表面には出さないがヒルダは激しく怒っている。マリアンヌと違いヒルダは怒れば怒るほど冷静になるのだ。

「俺の仮説が正しいかどうかは報道されなかった小火の件を取材する時に雑誌や新聞に載ったことがあるかどうか聞けば分かる」
「でもそのせいで変な噂が流れたら……」
「それって丁度いいじゃない」

 ヒルダはマリアンヌの言葉を遮った。どういうことかと訝しむマリアンヌそれにどういうことかと困惑するレオニーと違いベレトは意図を察したらしい。

「ヒルダの言う通りだ。取材を受ければ放火されるという噂が流れれば犯人たちの手の内がばれたも同然だ。どこから漏れたのか疑心暗鬼に駆られてくれたらいい、と俺は思っている」
「完全に証明できても警察や消防には教えないのか?こんな危ない連中さっさと逮捕して欲しいのに」

 レオニーはほとんど警察と縁がなかったので映画などで培った美しい誤解をしている。

「あのね、民間人の推理ってことで警察に情報提供すると……」
「むしろ警察はその可能性を完全に排除してから捜査を始めます。警察は捜査権がない民間人の推理をあてにしてはならないのです」

 苦虫を噛み潰したようなヒルダとマリアンヌを見てレオニーもそれが現状だと察したらしい。苦労が報われないことは世の常だがそれでも明快さを求めるのがヒトという生き物だ。

「だがもしかしたら……あれ、中々出てこないな」

 ベレトは胸元から革製の免許証入れを取り出した。本来なら免許証しか入れない物にぎっしりと小さなカードを詰めているのか取り出すのに四苦八苦している。

「ああもう……!貸してくれ!」

 レオニーはベレトから免許証入れを受け取り両端に力を入れてたわませると一枚ずつ小さなカードを取り出していった。よくわからない店の会員証に混ざって銃火器携帯許可証や小型船舶の運転免許証、黒魔法使用許可証や四輪や二輪の免許証などが机の上に広げられていく。

「お!マリアンヌやヒルダは見たことあるかもしれないけど私はこれ初めて見た!」

 厄災の箱の中に最後に残っていた希望のように免許証入れから最後に取り出されたのは探偵業免許証だった。警察学校に開設されている探偵用のコースに通って単位を取得し二年間助手として実務に就かなければ取得できない。ヒルダもマリアンヌも目を丸くして見ている。

「これが物を言うかもしれない。多少は警察も聞く耳を持つ。それに科学捜査を得意とする探偵、と言うことで番組から取材してもらえれば……」
「囮になるって言うのか?そんな危ないことをするほど給料が高いと思えない」

 レオニーは深夜帯のパーソナリティなのでデパートに勤めていた頃とあまり収入に差がない。ヒルダやマリアンヌも高給取りではないが今の二人は家賃を払う必要がない。そして拘束時間が長いので無駄遣いをする暇がなかった。

「いや、日給が発生するから収入的には安定してくれたくらいなんだ」

 ベレトは再び革製の免許証入れに一枚ずつ様々な免許をしまい始めた。今度は一番目立つところに探偵業免許証を入れている。

「結構世知辛いもんなんだな……」

 レオニーの呟きに重ねるようにしてデアドラ中央教会の朝を告げる鐘の音が鳴り響いた。何世紀経とうと荘厳な音は変わらない。防音室になっているスタジオやラジオがかかっているダイナーではあまり聞こえてこないが自然な音は体に直接呼びかけてくるような気がする。

「もう船も市電も始発が出た頃だな。今朝はもう帰りなさい。後片付けは俺がしておくから」

 マリアンヌはこう言う時にその気もないのに食い下がってしまいがちなのだがその朝は何故かレオニーやヒルダのように自然にベレトの厚意に甘えることができた。畳む
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#完売本
#ヒルマリ
7.

 まともな仕事についていないリスナーばかりの番組で扱うには壮大すぎるというレオニーの意見をマリアンヌはきちんと受け止めてくれた。ヒルダの人を見る目は素晴らしい。

「深夜放送と言えば怖い話だ!今日も引き続き調べたら怖かった話について話そう。図書館に置いてあるもの、例えば本や新聞の縮刷判や雑誌のバックナンバーで確かめられるもの限定だぞ」

 マリアンヌの人を見る目も素晴らしい、となるようにレオニーも精一杯話さねばならない。絶対に手のひらに収まるようにしてみせる、と言う宣言通り手のひらに収まるような企画になっている。人間はどう科学技術と付き合っていくべきか、危険な秘密結社にどう対抗するかという雲を掴むような話にすると殆どの者が語るべき言葉を持たない。

「火力発電所と駐輪場のたとえを知っていますか?」
「その言いぶりだとなんだか聖典みたいだな」

 台本の趣旨を説明するのに必要なのかマリアンヌはレオニーが聞いたことのない例えを口にした。町内に火力発電所を作るから何か聞きたいことがあれば遠慮なく、と言われても想像がつかないが駐輪場なら屋根付きなのか何台収容なのかなど皆細かく具体的なことを質問できる。火力発電所について質問したかったら火力発電所について具体的なことを知らねばならない。
 小さな話から始めて具体的にヒルダやベレトが何をしたのかリスナーにも想像がつくようになったら何を突き止めたのかを番組でも取り上げていく。

「この企画が始まるまで他の番組やアナウンサーあてにもあのおかしな魔法陣が描かれた手紙は継続して届いていた」

 ガラス越しにスタジオを眺めながらベレトはそう言った。マイクを挟んでレオニーとマリアンヌが座っている。レオニーが口籠もり目の前のマリアンヌがさらさらとノートに何かを書き付けていた。ペンを握る手はインクのしみだらけで昨日ヒルダが塗ってやったマニキュアは既にところどころ剥げている。

「あ、マリアンヌちゃんがきちんと対処したから!」

 ヒルダは目を丸くした。専門知識のあるマリアンヌがきちんと被害を報告し事態を深刻に捉えた上層部がラファエルとベレトを雇ったせいで犯人たちの目論見は失敗している。何としても成果を得たいと考え継続していたのだろう。ベレトは自分の顔の前でVサインを作った。お前のことを見ているぞ、と挑発するジェスチャーだ。

「そしてこれ、をされただけで相手は動きを止めた」

 ヒルダもマリアンヌも薄々気付いているがとにかく被害は広範囲にわたり個人や同好の士によるささやかな集団の規模を超えている。軍、消防、警察のような組織が新たに作られつつあるのだ。

「ひと睨みでひいてくれてよかった」
「今のところ刑法に違反してるからな」

 ベレトとマリアンヌが盛り上がっていたのでヒルダも異端者狩りについて本を読んでみた。当時のフォドラは病禍に苦しみ不安に覆われていた。何とかしたいという切なる思いがさらなる暗黒を呼び寄せていく。ヒルダたちが生きる現代も貧困問題や環境問題などさまざまな問題を抱えている。だがそれらを解決するために小火騒ぎや火事を起こして回るという手段には全く賛成できない。
 ガラスの向こうではレオニーが葉書を読み上げマリアンヌが笑っている。ヒルダはマイクに拾われないように静かに笑う彼女が好きだ。このままではアガルタの民のように女神に滅ぼされてしまう、と焦る人々は最新技術で救われる人の顔を見ようとしない。ヒルダはそこに憤慨している。
 ラジオという全く新しいメディアがなければマリアンヌは軍をやめた後まだ孤独にダイナーで働き続けていただろう。だがヒルダが関わっていた番組に宛てて彼女は葉書を出した。放送は今のところ唯一生中継が可能なメディアだが当時の番組を介したマリアンヌとヒルダのやりとりは古式ゆかしき文通に等しい。ヒルダは顔も知らないうちに彼女の独特な観察眼やわかりやすい文章に惚れ込んでいた。今回発揮された調査に関する技術力はマリアンヌを探すときに培ったのだろう。

「先端技術を禁止する法律を作られたらどうしようかな」

 答えが返ってくることを期待せずヒルダは呟いた。新聞の一面は近頃宗教警察のことばかり伝えてくる。賛否はかろうじて否の方が多いが今後は分からない。不規則で享楽的で周囲からの理解を諦めた暮らしを送る番組のリスナーたちはもちろん嫌がっている。

「何度でもそれはおかしいと言い続けるんだ。愛おしいと思うものがあるなら尚のこと言い続けるしかない」

 ベレトは声荒げず静かに、しかし聞き取りやすく話す。そして基本無表情なのだが珍しく柔らかい笑顔を浮かべながらヒルダの問いに答えた。意外性が全くない、とレオニーに指摘されたこともある通り学生時代のヒルダは勉強があまり好きではなかった。しかしベレトのような教師と出会っていたら少しは真面目に勉強したかもしれない。畳む
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#完売本
#ヒルマリ
8.

 マリアンヌのアパートや机を燃やした男はラファエルに羽交い締めにされながらも炎で浄化しなかったら世界が滅ぼされてしまう、と熱弁していた。緑の瞳は熱に浮かされていて激怒するレオニーとヒルダの姿が脳内で像を結んでいるかどうかは怪しい。
 ベレトに依頼された通り録音機材を回していたので一部始終の音声が録れている。最新型のマイクは机を漁る音や呪文を詠唱する声、それを阻止するため殴りかかるラファエルの叫び声を拾った筈だ。
 日頃はこの時間帯に見かけない他の階で働く者たちも騒ぎを聞きつけてやってきたので本番一時間前だというのに人だかりが出来ている。残念ながらテープを一本使い切ってしまったのでこの先のやり取りは音声に残せない。ベレトが取り上げた社員証はマリアンヌが確認したところ残念ながら本物だった。営業部門で働いていたらしい。
 通報を受けやってきた警察に男を引き渡す際ベレトは火事を起こせば世界が救われるなんて有り得ないだろう、と語りかけていた。いつもは表情に乏しい彼が珍しくうんざりとした表情を浮かべていたので強くマリアンヌの印象に残っている。
 男が狙っていたのは皆で調べた嫌がらせの小火や火事の記録をまとめて作った資料だ。公的機関へ訴えられる前に手を打とうとしたらしいが独断専行なのか命じられてのことなのかは分からない。
 餌にしたので仕方ないことだがマリアンヌの机が焦げている。煙や臭いを取るため大きく窓が開けられ入ってきた風のせいで水色の髪が乱れていた。

「イメージの問題だろうな……取り敢えずお高い録音機材が燃えなくて良かったと思おう」

 内密の話をするため野次馬たちを追い払ったレオニーが呆然としているマリアンヌの肩を軽く叩いた。レオニーは番組を続けていくうちに混沌とした場面に慣れたらしい。
 もしかしたら局内にいる危険人物を誘き出せるかもしれないとヒルダがベレトに提案した時マリアンヌは一連の放火事件の被害者として賛成できないと反対した。ヒルダの机や私物が燃えてしまうなど耐え難い。調査結果を集計し綺麗にまとめたのはヒルダでそれは彼女の机に入っていたのだが隙をついて資料を隠滅しようとした男は何故かマリアンヌの机を燃やした。

「なあマリアンヌさん、その机もう使い物にならないだろうからオデが下に運んでやるよ!」
「調書を取られるだろうから俺が下書きしておこうか」
「マリアンヌちゃん、下の方の引き出しに入ってるものなら無事なんじゃない?」

 黙っていればしっかり者に見えるマリアンヌが呆然としている姿はヒルダにもレオニーにも見慣れた光景だ。脳内だけが猛烈に動いている時もあれば本当に何も考えていない時もある。裏方として番組を支える構成作家の生活を支えるディレクターと本来支えられるだけの筈だった番組パーソナリティは無事だった引き出しの中から大量の書き付けと糊のチューブを七本、消しゴムを八個そして半年ほど前に失くしたと言って再発行してもらっていた黒魔法使用許可証を見つけ出した。士官学校を卒業し何年か軍務に就いていれば普通なら整理整頓の達人になる。厳しい訓練を経ても尚矯正されなかった散らかし癖はマリアンヌの強烈な個性なのだ。

「犯人、私とヒルダさんのことを何重にも間違えたんですね……」

 放送中、レオニーはヒルダにもよく言及する。かなり際どい企画の度に私が責任取るからやってみようの一言で押し切られた、とこぼすので知名度自体は高い。それとこれまでの番組でつけられた怠け者のヒルダ、という二つ名が印象に残っていたせいで混沌としたマリアンヌの机をヒルダの机だと思ったのだ。レオニーのせいでマリアンヌは再び被害に遭った、と言えなくもない。

「ああ、なんてことでしょう……ヒルダさん!恐ろしくありませんでしたか?」

 マリアンヌは片付けのため軍手をしていたヒルダの手を煤がつくことも気にせず白い手で取り握りしめている。レオニーは初めてマリアンヌが正面から誰かの顔を見つめている姿を目にした。彼女は常に伏し目がちに過ごし正面から誰かの顔を見るとしてもそれはヒルダだけだ。

「大丈夫だよ、資料も録音機材も燃えなかったし後で偉い人たちからたーくさん叱られるだろうけど今は大丈夫!」
「それにしてもヒルダさんと私を間違えるなんて……耐えがたいです……!」

 問題はそこではないのだがヒルダが何故マリアンヌを見つけ出さねばと思ったのかレオニーにも分かるような気がした。他の者が彼女の美徳に気付く前に唾をつけておかねば掻っ攫われてしまう。もたもたしているうちに小鳥の雛のようなマリアンヌの前に自分以外の誰かが現れてしまったら。彼女がそいつの顔を真っ直ぐに見ることがヒルダには耐え難かったのだ。畳む
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書き下ろし「焼け跡」

 アパートが半焼した。火元は隣室だったが隣人に瑕疵があったとも思えない。構成作家の安い給料で住める程度のぼろアパートだったのでいつ何があってもおかしくなかった。とは言え仕事を終えアパートの周りに消防士が見張り役として立っているところを見てしまったマリアンヌが受けた衝撃は大きい。住民です、と言って住所入りの身分証明書を見せて中に入った。
 消火活動で水浸しになった廊下を歩くとわずか数歩だというのに喉の奥に鉛のような何かが溜まっていく。わざと何度か瞬きしてから思い切って自室の玄関を開けるとやはり惨憺たる有様だった。焦がしてはならないものが焦げた匂いが室内に充満している。軍に何年もいたのに整理整頓が苦手なので元から部屋は酷い有様だったがそれでも火事だけは出していなかったのに。
 室内に置いてあったものは消火用の水で濡れているか焦げたか焦げ臭い匂いがついているか、に二分されている。床に膝と手をつきたかったがそうしたら今履いているなけなしのスカートすら駄目になってしまうだろう。幸い、通帳は防火加工がしてある貴重品入れに入っていたので無事だった。貴重品入れを探し出すついでに部屋の中を漁ってみたが、愛用していた帽子も仕事道具である辞書も読み返していた詩集も焦げている。天日干しでもすれば匂いは取れるのだろうか。目に入る何もかもが煙か水で傷んでいた。取り敢えず今晩の夜露をしのがねばならない。壁と天井はあるが安全のため今晩はここで寝泊まりするな、と消防士から指導されたからだ。
 マリアンヌは貴重品入れから銀行の通帳ともう帰れない実家の鍵を取り出し、ハンドバッグに突っ込んでからとぼとぼと職場に向けて歩き始めた。あそこなら二十四時間必ず誰かいるが市電はそうではない。
 火災現場にいると焦げ臭さに関して鼻が麻痺してしまう。しかし同じ車両に乗り合わせた他の者たちは違った。皆、違和感を覚え眉間に皺を寄せている。マリアンヌは学生時代や軍にいた頃に己が意図していないところで周りを困惑させていたことを思い出してしまった。
 嫌なことというのは立て続けに起こるものなのか職場の玄関先で履いていた靴のつま先が石畳のわずかな隙間に引っかかる。何故何もないところで転ぶのかとよく不思議がられたが転ばずに歩ける人たちには分かるまい。慌てて地面に手と膝をつくとかぶっていた帽子が転げ落ちた。今日は何から何までうまくいかない。

「あれ?どうしたの?帰ったはずだよね?」

 頭のてっぺんから爪先までいつも完璧なヒルダがマリアンヌの帽子を手渡してくれた。帽子は机の下に置いてあった貴重品入れを引っ張り出す時に煤がべっとりとてっぺんや縁についていたらしい。マリアンヌは自分と同じ車両に乗り合わせていた人々の彷徨う視線や困惑の理由を今更になって知った。

「その……と、隣の部屋から火が出て……」
「え!やだ!大変じゃない!」

 流石に予想外だったのかヒルダは薄紅色の瞳を大きく見開いて驚いている。

「はい、鎮火はしたので」

 マリアンヌは自分の部屋への延焼は免れたが煤や煙、消火活動で撒かれた水で持ち物の殆どが駄目になったことをヒルダに伝えた。とりあえず明日店が開いたら着替えを買わねばならない。

「うわ、これから片付けとか手続きで忙しくなるね。明日は休みをとらないと!」
「とりあえず夜露はしのげると思ってここに戻りました」

 マリアンヌはきっと全く軍人に見えない軍人だった筈だ。だがこういう時に士官学校上がりだという彼女の素地が透けて見える。本当に夜露をしのぐことしか考えていないのだ。ヒルダからすれば歯痒いことに明日以降は物件を見つけるまで安宿に泊まるつもりでいるのだろう。

「夜露って……局の仮眠室で寝るつもりだったの?」
「いいえ、デスクに突っ伏して寝ようと思っていました。仮眠室は他の方が使うかもしれませんし」
「とりあえずダイナーで何か食べようよ」

 マリアンヌは実家も遠いし友人も殆どいない。誰かに頼るとしたら自分しかいないという確信があったヒルダは手を差し伸べた。

「ゴネリル少佐のご実家に、わ、私が……?」

 ヒルダと付き合っているにも関わらずマリアンヌはホルストを理由にヒルダの自宅に近寄ろうとはしなかった。ホルストのことは大好きだが来たくない理由、を聞いてその時ばかりは彼が兄であることをヒルダは悔しく感じた。

「どうしていつも兄さんのことが出てくるのよ!付き合ってるのは私よ!それと私も明日片付け手伝うね」

 ダイナーで軽めの夕食をとりながらヒルダはひとまずしばらく自分の家に泊まるように、とマリアンヌに提案した。ホルストもヒルダが放送業界へ引き摺り込んだマリアンヌの窮状を知れば泊めるように言うだろう。ヒルダは兄のそういうところが好きだ。ゴネリル邸は無駄に広く部屋も余っている。マリアンヌは逡巡していたがヒルダの目論見通り段々とゴールがずれ始めた。最初は今晩泊まることすら拒否していたが今は次の物件が見つかるまでというのは甘え過ぎではないか、という話になっている。

「……ではお言葉に甘えてお世話になります」

 帰宅後にヒルダがかいつまんでマリアンヌの窮状を説明すると当然だがホルストも両親も気の毒に思ったらしい。念のためマリアンヌが軍にいたことはホルストに話さなかった。軍でうまくやっている者と軍で人間関係に躓いた者の話が噛み合うとは思えない。

 とりあえずヒルダは煤だらけで酷い有様のマリアンヌを風呂に放り込んでいる。その間にヒルダはソファーを引っ張り座面をベッドに変形させシーツを掛けた。あとは自分のベッドの下に入れてある毛布と枕を出せばいい。

「ありがとうございました」
「私のお古でごめんね」

 客用の掛け布団や枕を取りに行く前にマリアンヌがヒルダの部屋に戻ってきた。着替えなど持っていないのでマリアンヌのためヒルダは寝巻きを上から下まで貸してやっている。

「これからは着替え一式をロッカーに入れておくことにします……」
「そんなこと誰もしてないと思うな……。明日頑張って片付けちゃおうね!」
「申し訳ないのですが片付けより先に服を買いに行きたいんです……」

 ヒルダとマリアンヌは体格が違うから着心地が悪いのだろうか。今彼女が身につけている寝巻きは丈はともかく細身なマリアンヌにはきつくなさそうに見える。

「うん、別にいいけどまず何が買いに行きたいの?」
「肌着です……流石にお借りしっぱなしなのは申し訳ないので……」

 確かにそうだろう。翌朝、店が開く時間に合わせて起床しヒルダはまずマリアンヌの買い物に付き合った。買い物の仕方にも個性がある。マリアンヌはヒルダと違って熟考した結果買わないことが多かった。通帳の残高は減っていったが誰からも責められずにたくさん買い物ができる機会を堪能する。どの店でも焼け出されたと話すと店員たちは同情してくれた。
 片付けをする前にヒルダの家に買ったものを置いてから二人はマリアンヌのアパートに向かった。エプロンと軍手それに頭にバンダナを巻いてもう使い道がなくなったものをひたすら片付けていく。ヒルダの見たところ全て捨てるしかなさそうだった。だがマリアンヌは濡れたものと焦げたものに分け何故か濡れたものから容赦なくゴミ袋に詰めている。焦げたものは何故か手付かずだった。

「ねえそれだとゴミ袋の重さが偏っちゃわない?」
「焦げたものの中からレオニーさんの番組に提供できそうなものを探します」
「きっと聞いたリスナーの中では語り草になるわ」

 その前に考えなくても進められる作業を進めてしまいたい、というわけらしい。だがどういうことだかヒルダにはよく分からなかった。マリアンヌは沈黙をヒルダからの答えと受け取ったらしい。

「使い物にならない上に番組パーソナリティの私物ですらないと言う事実とレオニーさんの真っ当さが正面からぶつかった時に笑いが生まれる、と思いまして」

 そう言って番組に提供するため焦げた私物を漁るマリアンヌはまるで焼け跡から生える芽のようだ。この新芽をヒルダは守らねばならない。貯金を崩したり安月給をやりくりしながら家具や日用品を再び買い揃えていくうちにこの感性が失われたら大きな損失になる。きっかけが火事であったのは残念だがずっと兄に気兼ねしてヒルダの家に来てくれなかったマリアンヌが昨日は泊まってくれたことも含めてこれは千載一遇の機会を迎えたのだ。言うべきことはもう決まっている。

───ねえ、昨日泊まったから分かるでしょ?うちは今、部屋が余ってるの。だから───畳む
#かのひとはうつくしく番外編
#クロヒル
#ロレマリ
「フォドラの卵」
1.デアドラ

 クロード=フォン=リーガンがリーガン家の嫡子として公表されたのは一一七九年のことだった。しかしエドマンド辺境伯は一一七六年にマリアンヌを養女としていたおかげで、公表される前からリーガン家に引き取られた行儀見習いの少年について把握していた。
 ガスパール領のロナート卿のように見ず知らずの子供を養子にする場合と血縁者を養子にする場合は心構えが違ってくる。その微妙な機微を感じ取ることができたのも愛する娘を託してくれた妹夫妻の導きだろう。マリアンヌは出奔したエドマンド辺境伯の妹にもその夫にもよく似ている。
 あの頃は女神の恩寵と言われていた血が薄まっていたことにどの国の者も焦りを見せていた。エドマンド家の本家もここ三代ほど紋章保持者は生まれていない。夫の家に伝わるモーリスの血が薄まっていることに期待したエドマンド辺境伯の妹は賭けに出て───負けた。
 だが五年に渡った大乱の末、勝ち負けを決定していた盤面も砕け散っている。呪いは解けグロスタール家へ嫁いだマリアンヌはデアドラの上屋敷に顔を出していた。上屋敷と言ってもグロスタール家の上屋敷ではない。エドマンド家の上屋敷だ。昼食までに帰る、と言う約束で実家に顔を出している。
「婿殿の顔も見たかったのだが」
「ローレンツさんにも休息は必要です」
 一般論を盾にマリアンヌは夫を守った。ローレンツは認めようとしないが彼は気直なたちなので舅に苦手意識を持っている。そんな彼を庇う養女の姿が微笑ましいのでエドマンド辺境伯はどうしてもローレンツに構ってしまう。
「そういうことにしたいのであれば構わないが」
 マリアンヌとローレンツの付き合いは長い。ガルグ=マクで出会った二人は五年間の大乱とその後の後始末を経てようやく結ばれた。かつては希死念慮に囚われ、何の意見も持たなかったマリアンヌが他家に嫁ぎ、次から次に湧き出る言いたいことを我慢している。そんな心の動きが育ての親に見透かされていることを察した養女は大きくため息をついた。
「火事の件もありましたし、ヒルダさんのことが心配で、私、ローレンツさんにその話ばかりしてしまって……」
 ゴネリル家のご令嬢ヒルダはマリアンヌの大親友だ。マリアンヌもゴネリルへ足を運んだことがあるし、彼女もエドマンドに遊びにきたこともある。ずっと塞いでいたマリアンヌを華やかさで照らし、世間へと連れ出してくれた。そんな彼女は学生時代からクロード=フォン=リーガンと親しかったと聞く。
「だが、元盟主殿が地元で他のご令嬢を娶るのも気に入らないのだろう?」
 仮の話を聞いただけでマリアンヌはひどく顔を顰めた。ヒルダには早くクロードと幸せになって欲しいが遠くにいってほしくない───子どものような我儘をローレンツに聞かれるのは恥ずかしいがエドマンド辺境伯に聞かれるのは構わないらしい。
「それは勿論です!ヒルダさんのことを……そんな……!」
 クロード=フォン=リーガンがクロード=フォン=リーガンであることをやめなければヒルダは今頃デアドラに居を構えていただろう。そしてクロード=フォン=リーガンがその立場と名を捨てなければマリアンヌとローレンツの結婚も二年は早かったのではなかろうか。二人とも彼の後始末に奔走していた。
 それはともかく、大切な存在が想定外の相手と恋をして心が激しく揺れる───エドマンド辺境伯にも覚えがあった。
 妹が愛した親友は忌まわしい紋章をその身に宿していた、親友が愛した男はパルミラの王子だった、そんなところは似なくていいのに見事な相似形をとっている。
「だが、険しい道をいく彼女のことを尊敬しているのだろう?」
「はい、自分の気持ちに正直で我慢強いヒルダさんを尊敬しています」
 彼女たちの友情が末長く続くようエドマンド辺境伯は女神に願った。友人がいれば自分の死後もマリアンヌは孤独にならない。
 数度の往来を経て現実と理想の齟齬を引き受ける覚悟が決まったのか、マリアンヌによるとヒルダはパルミラへ居を移すのだという。王族である先方の事情で正式な結婚はまだ先だ。代々国境を守ってきたゴネリル家の娘がパルミラの者からは愛姫扱いをされる。
 マリアンヌはヒルダが敵対勢力から何らかの危害を加えられるのではないか、と心配していた。しかし彼女とティアナが意気投合したらおそらく殆どの問題は解決できるだろう。王の寵愛があったとはいえティアナは単身、敵国の王宮で生き残り、出産にもこぎつけた。息子が十五になるまで育て上げている。
 旧円卓会議に出席していた諸侯たちは何故我らが盟主殿は全く地に足がついていないことばかり考えつくのか、という疑問をずっと抱えていた。彼の真の名と彼の母の名を聞いてようやく長年の胸のつかえが取れたのだ。
 だがティアナを直接知らない若者に言っても理解しないだろう。
「マリアンヌ……まだ起きていないことを漠然と憂うより先に考えねばならないことがある」
 あの怠惰なお嬢様が実に慎重に事を運んでいる。周りに頭を下げ周知し、目標へと進んでいく姿はどこか彼女の兄ホルストに似ていた。手続きの時間はかかるかもしれないがヒルダはいずれクロード、いやカリード王子の正妃となるだろう。
「王都で叛乱が起きた場合の逃走経路でしょうか?お義父さま、私……」
 エドマンド辺境伯は大袈裟にため息をついた。マリアンヌはまだ起きていないこと、に囚われている。
「それもまだ起きていないこと、だ。祝いの品を贈ってやらねば。形式はどうあれ二人は同居するのだから」
「そ、そうでした!お義父さまならヒルダさんとクロードさんに何を贈りますか?」
 ここでローレンツさんと相談しなくては、と言わないのがマリアンヌの個性だ。それを受け入れる度量のある男でなければマリアンヌのことは渡せない。君の名は出てこなかったよ───後日、ローレンツと会った時に必ず伝えなくては。エドマンド辺境伯はそう脳裏に刻んだ。
「そうだな、午後に街を散策しながら考えてみよう。さあ、もう帰りなさい。昼食は彼と取る予定なのだろう?」
 他国の王子とその愛姫への贈り物、となると生半可な物は贈れない。まずは誰にも邪魔されず、集中する必要があった。

 一人の昼食をゆったりと楽しんだエドマンド辺境伯の頭上を飛竜が飛んでいった。足首には産婆が騎乗していることを示す、黄色い飾りがついている。何か思いついたような気がしたがどうにもぼんやりとしている。
「念のために幌を出しますか?」
 船着場で商業地区に向かう主人を待っていた渡し船の漕ぎ手がそう、提案してきた。髪や服が汚れてしまったら引き返して汚れを落とさねばならない。
「いや、渋滞がない飛竜のほうが足が早いはずだ。ゆっくり漕いで距離を取ればいい」
 人口が密集する平時のデアドラにおいて、天馬や飛竜での飛行が許されているのは産婆と消火隊と領主の一族であるリーガン家の者だけだ。だが"落とし物"のことを考えたオズワルド公やゴドフロア卿は決して特権を行使しなかった。
 クロードだけが無邪気に特権を楽しんでいたのは彼の生まれのせいだろう。エドマンド辺境伯は飛び去る飛竜の後ろ姿を見つめた。先ほどの漠然とした思いつきを早く言語化してしまいたい。───無邪気な二人の喜ぶ顔はマリアンヌと婿殿が見れば良いのだ。畳む