-horreum-倉庫

雑多です。
#ラジオ・デアドラ
#完売本
#ヒルマリ
書き下ろし「焼け跡」

 アパートが半焼した。火元は隣室だったが隣人に瑕疵があったとも思えない。構成作家の安い給料で住める程度のぼろアパートだったのでいつ何があってもおかしくなかった。とは言え仕事を終えアパートの周りに消防士が見張り役として立っているところを見てしまったマリアンヌが受けた衝撃は大きい。住民です、と言って住所入りの身分証明書を見せて中に入った。
 消火活動で水浸しになった廊下を歩くとわずか数歩だというのに喉の奥に鉛のような何かが溜まっていく。わざと何度か瞬きしてから思い切って自室の玄関を開けるとやはり惨憺たる有様だった。焦がしてはならないものが焦げた匂いが室内に充満している。軍に何年もいたのに整理整頓が苦手なので元から部屋は酷い有様だったがそれでも火事だけは出していなかったのに。
 室内に置いてあったものは消火用の水で濡れているか焦げたか焦げ臭い匂いがついているか、に二分されている。床に膝と手をつきたかったがそうしたら今履いているなけなしのスカートすら駄目になってしまうだろう。幸い、通帳は防火加工がしてある貴重品入れに入っていたので無事だった。貴重品入れを探し出すついでに部屋の中を漁ってみたが、愛用していた帽子も仕事道具である辞書も読み返していた詩集も焦げている。天日干しでもすれば匂いは取れるのだろうか。目に入る何もかもが煙か水で傷んでいた。取り敢えず今晩の夜露をしのがねばならない。壁と天井はあるが安全のため今晩はここで寝泊まりするな、と消防士から指導されたからだ。
 マリアンヌは貴重品入れから銀行の通帳ともう帰れない実家の鍵を取り出し、ハンドバッグに突っ込んでからとぼとぼと職場に向けて歩き始めた。あそこなら二十四時間必ず誰かいるが市電はそうではない。
 火災現場にいると焦げ臭さに関して鼻が麻痺してしまう。しかし同じ車両に乗り合わせた他の者たちは違った。皆、違和感を覚え眉間に皺を寄せている。マリアンヌは学生時代や軍にいた頃に己が意図していないところで周りを困惑させていたことを思い出してしまった。
 嫌なことというのは立て続けに起こるものなのか職場の玄関先で履いていた靴のつま先が石畳のわずかな隙間に引っかかる。何故何もないところで転ぶのかとよく不思議がられたが転ばずに歩ける人たちには分かるまい。慌てて地面に手と膝をつくとかぶっていた帽子が転げ落ちた。今日は何から何までうまくいかない。

「あれ?どうしたの?帰ったはずだよね?」

 頭のてっぺんから爪先までいつも完璧なヒルダがマリアンヌの帽子を手渡してくれた。帽子は机の下に置いてあった貴重品入れを引っ張り出す時に煤がべっとりとてっぺんや縁についていたらしい。マリアンヌは自分と同じ車両に乗り合わせていた人々の彷徨う視線や困惑の理由を今更になって知った。

「その……と、隣の部屋から火が出て……」
「え!やだ!大変じゃない!」

 流石に予想外だったのかヒルダは薄紅色の瞳を大きく見開いて驚いている。

「はい、鎮火はしたので」

 マリアンヌは自分の部屋への延焼は免れたが煤や煙、消火活動で撒かれた水で持ち物の殆どが駄目になったことをヒルダに伝えた。とりあえず明日店が開いたら着替えを買わねばならない。

「うわ、これから片付けとか手続きで忙しくなるね。明日は休みをとらないと!」
「とりあえず夜露はしのげると思ってここに戻りました」

 マリアンヌはきっと全く軍人に見えない軍人だった筈だ。だがこういう時に士官学校上がりだという彼女の素地が透けて見える。本当に夜露をしのぐことしか考えていないのだ。ヒルダからすれば歯痒いことに明日以降は物件を見つけるまで安宿に泊まるつもりでいるのだろう。

「夜露って……局の仮眠室で寝るつもりだったの?」
「いいえ、デスクに突っ伏して寝ようと思っていました。仮眠室は他の方が使うかもしれませんし」
「とりあえずダイナーで何か食べようよ」

 マリアンヌは実家も遠いし友人も殆どいない。誰かに頼るとしたら自分しかいないという確信があったヒルダは手を差し伸べた。

「ゴネリル少佐のご実家に、わ、私が……?」

 ヒルダと付き合っているにも関わらずマリアンヌはホルストを理由にヒルダの自宅に近寄ろうとはしなかった。ホルストのことは大好きだが来たくない理由、を聞いてその時ばかりは彼が兄であることをヒルダは悔しく感じた。

「どうしていつも兄さんのことが出てくるのよ!付き合ってるのは私よ!それと私も明日片付け手伝うね」

 ダイナーで軽めの夕食をとりながらヒルダはひとまずしばらく自分の家に泊まるように、とマリアンヌに提案した。ホルストもヒルダが放送業界へ引き摺り込んだマリアンヌの窮状を知れば泊めるように言うだろう。ヒルダは兄のそういうところが好きだ。ゴネリル邸は無駄に広く部屋も余っている。マリアンヌは逡巡していたがヒルダの目論見通り段々とゴールがずれ始めた。最初は今晩泊まることすら拒否していたが今は次の物件が見つかるまでというのは甘え過ぎではないか、という話になっている。

「……ではお言葉に甘えてお世話になります」

 帰宅後にヒルダがかいつまんでマリアンヌの窮状を説明すると当然だがホルストも両親も気の毒に思ったらしい。念のためマリアンヌが軍にいたことはホルストに話さなかった。軍でうまくやっている者と軍で人間関係に躓いた者の話が噛み合うとは思えない。

 とりあえずヒルダは煤だらけで酷い有様のマリアンヌを風呂に放り込んでいる。その間にヒルダはソファーを引っ張り座面をベッドに変形させシーツを掛けた。あとは自分のベッドの下に入れてある毛布と枕を出せばいい。

「ありがとうございました」
「私のお古でごめんね」

 客用の掛け布団や枕を取りに行く前にマリアンヌがヒルダの部屋に戻ってきた。着替えなど持っていないのでマリアンヌのためヒルダは寝巻きを上から下まで貸してやっている。

「これからは着替え一式をロッカーに入れておくことにします……」
「そんなこと誰もしてないと思うな……。明日頑張って片付けちゃおうね!」
「申し訳ないのですが片付けより先に服を買いに行きたいんです……」

 ヒルダとマリアンヌは体格が違うから着心地が悪いのだろうか。今彼女が身につけている寝巻きは丈はともかく細身なマリアンヌにはきつくなさそうに見える。

「うん、別にいいけどまず何が買いに行きたいの?」
「肌着です……流石にお借りしっぱなしなのは申し訳ないので……」

 確かにそうだろう。翌朝、店が開く時間に合わせて起床しヒルダはまずマリアンヌの買い物に付き合った。買い物の仕方にも個性がある。マリアンヌはヒルダと違って熟考した結果買わないことが多かった。通帳の残高は減っていったが誰からも責められずにたくさん買い物ができる機会を堪能する。どの店でも焼け出されたと話すと店員たちは同情してくれた。
 片付けをする前にヒルダの家に買ったものを置いてから二人はマリアンヌのアパートに向かった。エプロンと軍手それに頭にバンダナを巻いてもう使い道がなくなったものをひたすら片付けていく。ヒルダの見たところ全て捨てるしかなさそうだった。だがマリアンヌは濡れたものと焦げたものに分け何故か濡れたものから容赦なくゴミ袋に詰めている。焦げたものは何故か手付かずだった。

「ねえそれだとゴミ袋の重さが偏っちゃわない?」
「焦げたものの中からレオニーさんの番組に提供できそうなものを探します」
「きっと聞いたリスナーの中では語り草になるわ」

 その前に考えなくても進められる作業を進めてしまいたい、というわけらしい。だがどういうことだかヒルダにはよく分からなかった。マリアンヌは沈黙をヒルダからの答えと受け取ったらしい。

「使い物にならない上に番組パーソナリティの私物ですらないと言う事実とレオニーさんの真っ当さが正面からぶつかった時に笑いが生まれる、と思いまして」

 そう言って番組に提供するため焦げた私物を漁るマリアンヌはまるで焼け跡から生える芽のようだ。この新芽をヒルダは守らねばならない。貯金を崩したり安月給をやりくりしながら家具や日用品を再び買い揃えていくうちにこの感性が失われたら大きな損失になる。きっかけが火事であったのは残念だがずっと兄に気兼ねしてヒルダの家に来てくれなかったマリアンヌが昨日は泊まってくれたことも含めてこれは千載一遇の機会を迎えたのだ。言うべきことはもう決まっている。

───ねえ、昨日泊まったから分かるでしょ?うちは今、部屋が余ってるの。だから───畳む