「flow」第1部4〜5「フェルディア総合大学」
#完売本 #flow #セテス #フレン #シルヴァン #アッシュ #ディミトリ #フェリクス
4.
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一三八五年
・細胞内のマグネトソームは外部磁場に反応し鞭毛を回転させシャーレの内部で激しく運動している
・鉱石の粉末を与えれば与えるほど移動速度が増していった
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執政官フェルディナント三世を宗教面から支える補佐として多忙な日々を送るセテスに代わって、フレンは熱心に勉強会に顔を出した。フォドラ中から評判を聞きつけて参加希望者がやってくる。規模が拡大し続けているため、いつまでも法学と信仰魔法の勉強会という形式を取っているわけにはいかなかった。ガルグ=マク司教座付属の学校となることが正式に決定し、セテスとフレンはその準備に追われている。
眷族は長命だが少し老いたせいか近頃のセテスは髪の色が黒に近い緑になっていた。大地を癒してなくなった頃のソティスよりも更に髪の色が濃い。ヒトならば色が抜けていくのだが、眷族は老いれば老いるほど髪の色が濃くなっていく。若草色の髪のまま亡くなったレアが生きていたらあの美しい声でセテスをからかったかもしれない。これがセテスとフレンという名で行う最後の活動になる予定だ。校舎の工事が終わり開校するその日まで眠らずにいたい。礼拝の時にフレンはいつもそう、祈っている。
セテスは基本、心配性でかつてはフレンの全てを管理したがった。ところがここ最近は、疲れやすいとこぼす娘が単身でペガサスに乗って遠出をしても止めようとしない。紺色に染めた飛行用の外套に身を包み、休眠中に世話になった修道女たちと次は何をする予定なのか、楽しそうに話す娘の姿を微笑んで見ている。
「良いお友達がたくさん出来ました。もし叶うなら次もあの修道院で眠りたいですわ」
おそらくそうなるだろう。そして次に娘が長い眠りについて目覚めた時に自分がまだ生きているかは分からない。その辺りのことをフレンも察している。セテスとフレンは悔いのないよう、お互い話すべきことは全て話すようにしていた。
「いいことだ。気をつけて行っておいで。その件について話せるなら話してくるといい」
歳の離れた修道女たちの中にいるフレンは孫のように見える。だが、実際は逆だ。フレンは彼女たちを孫のように思っている。そんな彼女たちの暮らす修道院では果物を収穫する時期が近づいていた。附属の果樹園で採れた果物を一年分のジャムに加工するので、今度は泊まりがけで手伝いに行くと言う。
フレンが老女たちに皆さまお若いのですからもっとお食べにならないといけません、と言うと奉仕活動に来ている地元のセイロス教の信徒たちは愉快そうに笑う。だがそれは一言一句間違いなくフレンの本心だった。
軽く浮かんだペガサスに跨ったフレンは地上で見送る父に手を振ると、友人たちのいる修道院へ向かって飛び立った。いつも青空に娘を乗せたペガサスの白い馬体が溶けて見えなっていくまでセテスは手を振っている。出来る限り元気な娘の姿を覚えておきたい。自分の今際の際に思い出すために。
セテスはフレンと共にいない時は自炊をしない。食事は全て修道院の食堂でとっている。一人で黙々と食事をしてそろそろ皿も空っぽになろうか、と言う時にフェルディアから帰ってきた修道士がダブネルシチューを載せた盆を手にセテスの隣に座った。
「セテス様、お久しぶりです。ご存知ですか?今度フェルディアの魔道学院が改名するそうですよ」
皆セテスとフレンが学校を作ろうとしているのを知っているため、少しでも彼らの役に立とうとしてくれる。ありがたいことだ、とセテスは笑みを浮かべて続きを促した。
「知らなかった。詳しく教えてもらえないか?」
「総合大学、という名前に変わるそうです。なんでも魔道以外も研究するようになるとかで」
「何を学べるようになるのだ?」
「文法学・論理学・修辞学・幾何学・算術・天文学・音楽です。元々はどの学問も魔力の質を高めるため魔道を始める前に学んでおくべき、とされるものですね。魔道学院時代はそれらを修めた者しか受け入れていませんでしたから、より初心者向けになったと言えるのかもしれません」
士官学校は戦場で確実に発動できればそれでよし、という考えだ。紋章持ちの学生が英雄の遺産に侵食されないかどうかという重大事案には気を配るが、その他の多少の粗には目をつぶってしまう。
「門戸は広がるな」
「ですがファーガス地方はあまり豊かな土地ではありません。そんなことをしても学生が増えないでしょう。短期間で即戦力を育成していた従来の方針があちらには合っていた様な気がします」
セテスはファーガス地方がまだファーガス神聖王国だった頃、ガルグ=マク士官学校にいた生徒たちのことを久しぶりに思い出した。皆、傷ついていたが我慢強く優秀な若者だった。あの時もう少し長く丹念に様子を見て彼らを導けたら、救えた者も中にはいただろう。その記憶がある者からすれば在籍年数が長くなるのは納得できる方針変更だった。
「いや、貧しい土地であればこそ、だと思う」
「引き札を貰ってあります。後でお届けしましょう。執務室で構いませんか?」
そういうと修道士は早く渡したいと言う気持ちで焦ったのか、あからさまに食事をかき込みはじめた。身体に良くないのでよく噛んで食べなさい、とたしなめてから修道院の執務室へ逆戻りするためセテスは席を立った。
ランプの灯りのもとで執務室に置いてあるわずかなファーガスやフェルディア、それに魔道学院の資料を眺めてセテスが待っていると扉を叩く音がした。先ほどの修道士が引き札を持ってきてくれたらしい。茶を入れて彼の労をねぎらうべきだろうかと思ったが、移動の疲れからか大欠伸をし、その非礼をセテスに詫びる姿をみてやめた。
居室に戻るか迷ったが念のため書庫に近く、調べ物がしやすい執務室で中身を検分することにした。四つ折りされた引き札を開くとまずブレーダッド家の家紋を取り入れた校章が目につく。今はもうない国を悼む気持ちがある者が選んだのだろうか。その下には修めることのできる学問の一覧と授業料が書いてある。
ヌーヴェル家中興の祖、と言われるコンスタンツェには魔道学院に強い思い入れがあった。そのためヌーヴェル家からこれまでかなりの資金援助があった筈だが、今後はどうやら学生たちから得た授業料で運営されていくらしい。
授業料を払いたくなるような教授陣を用意できるのかが肝心だが、そこはどうなのだろう。続けて読んでみるとさすがに元から名門なだけあって魔道の教授たちは魔道にはあまり詳しくないセテスですら半分は名を聞いたことがある。彼らから魔道を習えるなら通う期間が多少長くなろうと学生が集まるだろう。
めくって裏側を見ると片面には所在地と学内の地図が描かれている。入学後の生活が想像しやすくて参考になるとセテスは思った。もう片面には教師たちが書いた開学への思いを一言ずつ書いていて、それで全ての紙面が埋まっていた。目で追っていくとある一文がセテスの目に止まり、鼻からふっと息が抜ける。
「己を高めこの地を高めてほしい」B・アイスナー
ほとぼりが冷め、同一人物でないかと考える者が修道院からいなくなるまで一切連絡はしない、と言ってベレトはガルグ=マクを去っていった。そんな事情があるとしても眷族としても百年は長い。その間、何をやっているのかと思ったらこんなことをしていたとは。フレンが戻ったらベレトも似たようなことをしていた、とすぐに知らせてやらねば。久しぶりに愉快な気持ちでセテスは眠りについた。
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神祖は陸に上がった赤い土を手に取って捏ね、初めに羽根の生えたものを作った。
次に泳ぐもの、地を歩くものを作ったがそれらは皆、言葉を持たなかった。神祖は次に言葉を持つ者を作った。
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ガルグ=マクで新たな付属学校が設立されるかという頃、時を同じくして遠く離れた地フェルディアに在り、高い専門性を持つ魔道学院が大きな変化を迎えようとしていた。ヌーヴェル家、それに統一王国やセイロス教会からの寄付金は受け入れるが今後は学生から徴収する授業料を中心として運営される。
学内の倫理委員会の監査さえ通過できれば、という条件付きだが研究内容や教育内容が完全に自由化されることとなった。加えて学生や入学希望者からの要望があり、資金さえ集められれば学科も学部も学内の認可を取るだけで増設可能になった。
魔道を極めるには元から文法学・論理学・修辞学・幾何学・算術・天文学・音楽その全てを必要としていた。奇しくも統一王と同じ名を持つアンヴァル出身の教師がこれら七科は人間すべてが持つべき技芸だ、として魔道を学ぶ前の段階である者にも門戸を開くことにしたのだ。学生が増えれば授業料収入も増える。二年間七科を学んで学業を終わりにするもよし、七科のうちどれかを専攻しても良し。魔道専攻の学生達も二年間は必ず七科を学ぶ事になった。この七科のうち何を得意とし何を苦手とするのかで魔道の傾向も分かりやすくなる。
こうして魔道学院はその名をフェルディア総合大学と名を変えた。だが発案者は役職には就かず、入学式のその日までひたすら研究と開学の下準備に邁進していた。
入学式当日、新入生たちは緊張と期待の混ざった面持ちで壇上の教師による説明に耳を傾けていた。彼らは皆、出身地の違いはあれどファーガス地方を表す青い揃いの外套に身を包んでいる。この青はファーガスブルーと呼ばれ、軍隊においてファーガス出身者で作る部隊や騎士団などで鎧や武具の意匠に必ず取り入れられた。近代以降は学校の制服やプロスポーツのユニフォームにも使われるようになる。
首都となったフォドラ大陸の中心ガルグ=マク、南方貿易で栄えるアンヴァル、東方貿易で栄えるデアドラと違い特産品もなく貧しいファーガス地方はフェルディア総合大学をきっかけに優秀な人材を数多く輩出するようになった。そして後にこのフェルディア総合大学の学生が〝黒い水〟の謎を解き明かした。
「ではこれで説明を終わります。最後に私ベレト・アイスナーから個人的に言いたいことをふたつだけ。ひとつ目ですが専攻や所属学科がなんであれ心身共に健康であることを目指してください。精神の健康が魔力の質をはじめ、人生のあらゆる事に関わってきます。勿論学業にも関わってくることでしょう。この学校、失礼、大学は学業に関して厳しい目標を掲げますが我々教師たちも達成させるために全力を尽くします」
開学の準備が忙しすぎて、髪を切る時間も髪を染める時間も取れなかったベレトは壇上で若草色の髪を隠すため頭巾を目深にかぶって学生達に向けた話を続けている。
「ふたつ目です。皆さんがどこ出身の何者であれ、そうですね、例えばアドラステアやレスターに領地があろうと実家がガルグ=マクにあろうとフォドラ大陸以外の出身であろうと……今後はここフェルディアの誇り、ファーガス地方の誇りとなります。勉学に励む皆さんの助けとなれることを我々教師もまた誇りに思います。では寮に移動して荷物を置いたら食堂に集まってください。食事会を楽しんで!」
会場にいる人々から万雷の拍手を受けたベレトは軽く、頭を下げてから壇上から引っ込んだ。これでようやく食事ができると思い、薄い腹を撫でる。入学式の後に開催される食事会は食堂で大規模にやって親しみを持ってもらおう、という方針だ。賑やかしに卒業生たちも呼んでいるし、新入生も家族を連れてこられる者は家族を連れてきている。ベレトは皆の家族を見るのを楽しみにしていた。
「先生、妻と娘です」
「はは、先生なんて言わずに名前で構わないのに。久しぶりだな!ギュスタヴ、わざわざお祝いに来てくれてありがとう」
大勢の卒業生や新入生とその家族でごった返す食堂で、皿を手にどの料理を食べるか物色していると急に声をかけられた。振り向くと家族を連れたギュスタヴが笑って立っている。まだギュスタヴの腰くらいの背丈しかない娘が恥ずかしがって父親の服に抱きついて隠れていた。奥方が娘をたしなめると橙色の髪をしたアネットそっくりな子供が顔上げ自己紹介をした。
「はじめまして、アネットです」
なんてことだ。名前まで同じなのか。
「はじめまして、ベレトです。アネットも大きくなったらここでお勉強をしますか?」
はい、先生!と元気に返事をするアネットの頭をベレトはそっと撫でた。もし自分の心臓がきちんと動いていたら、激しい鼓動のせいで周りの音が一切聞こえないだろう、と思った。長く生きていれば望外の良いことがある。もしかしたら教え子たちに再び会えるのかもしれない。勿論このアネットはあのアネットではない。
───だが。
「ベレトは髪の長さ以外は学生の頃とちっとも変わらないな」
ギュスタヴがフェルディアの街中で魔道士として働き、結婚し子育てをしている間もずっとベレトは魔道学院にいて研究をしていた。英雄の遺産が子孫に与える影響について徹底的に調べられるのが、基礎研究を重視する魔道学院だけだったからだ。コンスタンツェはエーデルガルトから呆れられていたが、液体の色素を変える魔法は実用化しようと思えば実用化できた。ただそれが当時、戦争の役に立たなかっただけだ。
実学志向のガルグ=マクでは紋章持ちの若者が出陣し帰国して跡継ぎを作るまで生きていれば、死ななければそれで良しとされていた。戦地から戻って四、五年で人生を畳めと言われるのは人間らしい扱いではないし、根本的な解決ではない。その命を差し出せば戦況を有利に出来るからこそ紋章を受け継ぐ者たちは貴族として讃えられるのだ、領民や兵士たちを守るために己の命を惜しんではならない。ローレンツならそう言っただろう。彼もまたメルセデスのように諦めたが故の強さを持つ若者だった。
闇に蠢くものたちはもういない、と信じたいが何かをきっかけとして戦争が起きた場合、また紋章を受け継ぐ若者たちがすり潰さへてしまう。その前にどうしても回避の為の道筋を作っておきたかった。僅かばかりの手がかりは掴めたが道は遠い。
「そのうち切るさ。見た目が変わらないのは暮らしぶりが変わらないからだろうな。知りたいことがまだまだ尽きないよ」
「その調子では娘が大きくなる頃もまだ大学に居そうだな。その時は娘を頼むよ」
そういうとギュスタヴはアネットを連れて他の学友に妻と娘を紹介するべく、ベレトの前を去って行った。橙色の髪の毛が人混みに消えていくのを見届けたベレトは空腹だったことを思い出し、ゴーティエチーズグラタンを求めて皿を手にギュスタヴたちとは逆の方向に向かって歩き始めた。
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最初に神祖と同じ緑の髪をした者たちが作られた。
次に畑を耕し糸を紡ぎ神祖を讃えるべき者たちが作られた。
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フォドラ統一戦争から二百年近くを経ても、はぐれ魔獣、帝国系魔獣の被害はいまだに出ている。ヒトの時間感覚で言えば遥か昔だが、フォドラ統一戦争は眷族とアガルタの民の代理戦争でもあったため時間の尺度が異なっていた。フレンの友人たちが生活する修道院近くにも踏むと魔獣が発生する罠のような装置が誰が踏んでも構わない、と言った投げやりさで何百年も前から仕掛けられている。
ベレトは地域社会への貢献、研究の実践、資金調達の手段としてはぐれ魔獣や帝国系魔獣を狩っていた。しかしそれは彼が炎の紋章を持ち、単独行だったから出来たことだ。今のフレンのように白きものの姿に戻る力を失い天馬は厩舎に繋いだまま、守るべきものたちを背後にして装備は手槍だけ、という状態では無理な話なのだ。
フレンは咆哮を上げ威嚇するはぐれ魔獣に向かって手槍をなげつけ、自分だけに集中するように仕向けた。修道女たちが必死で回復魔法を掛けてくれるので均衡が保たれている。しかし彼女たちを逃さねばならない。もしフレンが魔獣の攻撃を防ぎきれず、逃げる彼女たちに当たってしまったら。そのことを考えると何度もライブをかけてもらうわけにはいかなかった。
「皆さま!私のことはお構いなく!早くお下がりください!」
フレンの気迫に押されて逃げ始めた老女たちはやはり足が遅い。額から流れる汗と血を手の甲で拭ったフレンは最後の手槍を握りしめ、魔獣を睨みつけた。最後に一投しようと腕を振り上げた時、フレンが思いもよらない方角からライナロックが放たれた。頭に直撃を喰らった魔獣は体勢を崩している。
「逃げろ!」
赤毛の青年は声のした方向を探しもせず一目散に若草色の髪を振り乱し、修道院の方角へ向かって駆け出すフレンの姿を見た赤毛の青年は感心したらしい。馬上で口笛を吹いた彼に追いつくため、必死で走ってきた雀斑の目立つ青年もフレンの後ろ姿を見て一瞬驚きの表情を浮かべたが、すぐに魔獣に向かって矢を放った。
「連携お願いします!」
「おうさ!絶対にミスリルを手に入れるぞ!」
馬を駆り、魔獣をどこから攻撃すべきか吟味すると赤毛の青年は今度は槍を握りしめて魔物の懐に入りこんだ。魔物の自重を利用して貫く技は真に勇敢な者にしか使えない。
その背にゴーティエの紋章が浮かんで消える。二人は重い音を立てて倒れた魔獣から使った武器とミスリルを回収するために近づいた。
「見てみろ、アッシュ。可愛い顔してたのにあの子はすごいな」
浅い傷しか負わせられなかったとはいえ、手槍が全て急所に刺さっている。それにあの場合、礼も言わず振り向かず言われた瞬間に駆け出すのは戦場においては正しい行為だ。青年は相棒の弓使いよりも若そうな少女が古兵のように振る舞うことに興味を持ったが、連れの呆れたような視線に負けた。無言で魔獣の亡骸を私物の短刀で切り裂いて自分の槍を引き抜く。任務でアンヴァルへ行った時に古道具屋で買った短刀で、魔獣の亡骸を切り裂くのにも果物の皮を剥くのにも使える。
「ねえ、シルヴァン。あの状況で可愛いとか可愛くないとか関係あるのかな」
「いいや絶対に可愛かった!真っ直ぐあっちに向かったってことは修道院の子かな。壊れた手槍を届けに行くついでに泊めてもらえないかな。宿代が節約できる」
「ダメだよシルヴァン。女子修道院は男子禁制だもの」
それでも回収した手槍は返却する必要があった。買い直すより鍛冶屋で修理してもらった方が安いからだ。自分の槍に続けてフレンの手槍も引き抜く。短刀で魔獣の皮を切り裂き、ミスリルを含んでいる内臓のあたりを突き刺したシルヴァンはしまった、というような顔をした。
「でも門前に置いておくくらいはしておこうぜ。それとアッシュ、悪いけど剣を貸してくれ。刃が届かない」
アッシュは腰の剣をシルヴァンに渡してから手持ちの布で、魔獣から引き抜かれた手槍の刃についた血を拭った。修道院に返す物が穢れているわけにはいかない。シルヴァンはアッシュから借りた刀を使ってミスリルを含んだ内臓を切り離し、袋に入れ馬の鞍に乗せた。アッシュが綺麗にして紐で括ってくれた槍は折れて軽くなっているので手に持つ。
「あの子が顔出してくれたらミスリルも半分こしてやりたいね。本当に半分はあの子の手柄だから」
二人は軍人をしている。これからデアドラヘ行き、研修を受けてからパルミラとの国境を護るフォドラの首飾りへ行くのだ。国境警備の任に就く。
問題は宿場町の物価が魔獣の出没により思ったより高くなっており、路銀が心許なくなってきたことだった。整備された街道を外れると出没するという魔獣を討伐してなんとかしよう、と言い出したシルヴァンにアッシュは最初いい顔をしなかった。だがここで稼いでおけばデアドラの本屋で本が買い放題だ、と言われてしまっては折れるしかない。
修道院に向かって、荷を乗せた馬を引き歩き出した彼らの帯にも馬具にもファーガスブルーが使われている。パルミラとの国境警備はレスター地方の部隊や騎士団が任にあたるのが基本だ。しかし人事交流の一環で他の地方から派遣される者がいる。地元に戻れば出世が約束されているが、家族を置いていくことになるので皆あまり行きたがらない。しかしシルヴァンとアッシュは進んで手を挙げた。
二人とも独身だったし、別の土地に興味があった。彼らにとって修道院の周りにあるこの森が、最後の見慣れた森になるだろう。ここから更に南下すると植物相が変わっていく。森の外れに建つ修道院の尖塔に気づいたのはシルヴァンより目が良いアッシュだった。錆び付いた呼び鈴の紐を引くと思ったより大きな音が鳴り響く。渉外担当であろう枯れ枝のように老いた修道女が門の前にやってきた。
「勇敢な手槍のお嬢さんはご無事ですか?」
ファーガスブルーの帯や馬具をもってしてもシルヴァンの如何にも遊び人です、と言った風情は拭いきれていない。修道女からは完全に不届者を見る目で見られている。居た堪れなくなったアッシュが紐で括ったフレンの手槍を手に、無言で二人の間に割り込んだ。槍の柄を見てようやく門前の二人が恩人である、と信用したのか修道女は門を開けた。
「確かにこれはフレン様の手槍です。ご親切にありがとうございます。どうかあなた方に女神の御加護がありますように」
「あの方のおかげで魔獣が倒せました。ミスリルが採れたので半分お分けしたいのです。僕らはこれから任務でデアドラまで行かねばなりません。道中の安全を祈っていただけませんか?」
デアドラと聞いてさすがに思うところがあったのか少しお待ちを、と言って修道女は中に引っ込んでしまった。誠実そうな自分の見た目を利用するアッシュに比べたら、見るからに遊び人な自分の方が実は誠実で初心なのではないかとシルヴァンは思う。
枯枝のような修道女が額に包帯を巻いた若草色の髪をした少女を連れて現れた。壊れた手槍を受け取り、シルヴァンとアッシュの名を聞いた彼女は何度も瞬きをしている。どうやら声も出せないほど驚いたらしい。
それでも彼女の古めかしい言葉での祈祷は、シルヴァンたちの故郷にいる司祭よりも堂々たるものだった。祈祷を終えるとフレン、と名乗った少女は何もかもが釣り合っていない。フレンはシルヴァンが言ってもアッシュが言っても小さな弟を相手にするかのように私からの餞別だと思いなさいと繰り返し言っミスリルは受け取ろうとしなかった。
5.
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一四一〇年
緑色の髪を持つ者たちは聖人として神祖の代わりに畑を耕し糸を紡ぐ者達を導いた。
しかし最初の畑を耕し糸を紡ぐものたちは神祖を称えることをやめ、聖人と神祖に逆らったので神祖はこれらを大水で滅ぼされた。
───
ガルグ=マクは首都機能を持った新市街とセイロス教会総本山である聖堂と付属の修道院や教育施設を中心とした旧市街に分かれている。旧市街の一角、セイロス教関係者の墓地にファーガスブルーのローブを身にまとった墓参者がいた。
彼だけが目の前の墓が伽藍堂であることを知っている。二十年ほど前、墓に入っているはずの人物たちと会った時は不思議な再会を肴に、それはそれは盛り上がった。フレンの出会ったシルヴァンとアッシュ、それにベレトの出会ったアネット。
ヒト相手だと稀にあることらしい。しかしセテスによると、眷族とそのようにして再会できたことはないのだという。
その後、髪が真っ黒になったセテスはフレンを伴って奥方の墓がある西海岸へ移住していった。眷族の肉体は本体の死後も武器に移植された血と骨は生き続けるくらい頑丈で、単なる火葬では亡骸が悪用されてしまう。妻の亡骸を守り娘を看取るのがセテスの、いや、キッホルの生涯最後の仕事なのだろう。ではキッホルの亡骸は誰が守ってくれるのだろうか。
眷族の亡骸を武器へ転用させないため、ベレトは紋章石を与えられた聖職者の埋葬における禁忌を調べた。その真逆の行為をすれば良いという仮説を立てたからだが、実験には至ってはいない。
ベレトは父ジェラルドと先代大司教レアの手により作り出された母シトリーの息子だ。母のことは全く覚えていない。戦後、自分に紋章石を譲って命を落とした母シトリーの墓を若き日のリンハルトと共に調査した際、ベレトは言葉を失った。
枢機卿アルファルドが正気を失ったの彼が愚かだったからではない───戦場育ちで人の亡骸など見慣れた身の上であればこそ、ベレトにとって両親の亡骸はあまりに異様だった。しかし調査したことは後悔していない。
レアから血を与えられただけのジェラルドの亡骸ですら、死後十年以上経っていたのに大して傷んでいなかった。関節を楽々と曲げることができた時に感じたものは恐怖だけではない。それに流石に青ざめたリンハルトが震える手でベレトの手を握って〝先生、大丈夫。死ぬなら生き物だから〟と慰めてくれたことは今でも覚えている。
フェルディア総合大学の名で、何度か聖廟への立ち入り調査を依頼したが全て断られている。だが、現地入りすれば何か思いつくかもしれない。そう考えたベレトは彼を直接知る者がもう誰も残っていないガルグ=マクに戻ってきた。聖廟は年に一度しか開かないが持ち出し厳禁の資料はその場で読むことが出来る。図書館に入る前に墓前で気合を入れたベレトは懐から入構許可札を取り出して首にかけた。フェルディア総合大学の一員であることを示す金属の札と合わさってかちゃかちゃと音を立てる。かつてガルグ=マク旧市街にベレトが入れない場所など存在しなかったので中々に新鮮な体験だ。
旧市街はまだベレトが王だった当時の面影を色濃く残している。それは街中を歩く学生たちの制服が元のままだからかもしれない。背中に背負った矢筒の矢羽と髪の毛が絡まった、と言ってきゃあきゃあ騒ぐ紫色の髪をした甲高い声の女学生とすれ違ったベレトは微かに笑った。きっと声からしてベルナデッタの子孫だろう。
六大貴族の子女たちは毎年必ず誰かが士官学校で学んでいる。初代たちは戦後「当主は戦争の際に必ず先陣を切り、前線から離れない」という誓いを立てた。勇敢に戦わぬ者に当主の資格なし。そしてこの誓い故に当主は己の命を危険に晒してまでやる価値がある戦争なのかどうか、深く考えられるのだ。散発的な残党による反乱はあったが、戦後二世紀を経てもなお内戦は起きていない。そして他国からの侵略も防げている。
昔は大聖堂二階の片隅に書庫があった。だが手狭でアビスの資料が収蔵できない。いちいち地下まで降りて読みに行くのが面倒だったベレトとリンハルトはレアの死後に修道院の敷地近くに図書館を作ってしまった。そしてなし崩しにアビスの存在を公表した。公表してしまったからにはアビスにも外部の目が入る。
アビスに逃げ込んでいた寄る辺なき人々のうち、法に触れていた者は法に則って処罰を受けた。しかしそれ以外の者たちは元住民であったコンスタンツェ、ベレトと共にアビスで戦ったリンハルト、それと意外なことに彼らに深く同情したベルナデッタを庇護者として生きることになった。
こんな逸話がある。フェルディナント一世が何かの会合で統一王の御代をどう表現するか問われた時、彼は無言で手袋を外し両手の掌を見せた。この逸話からわかるように徹底的な情報公開が統一王ベレトの治世の特徴と言われている。単純な育ちで権謀術数の類に慣れていなかったからなのか、秘密だらけのセイロス教会にうんざりしていたからなのかは本人にも分からない。
ベレトが図書館入口の壁にリンハルトの字をそのまま拡大して彫らせた碑文〝真理は汝を自由にする〟を撫でていると背後から声をかけられた。
「俺もその文が好きだよ」
「いきなり後ろから話しかけるせっかちな猪にふさわしいのは〝光陰矢の如し〟だと思うが」
〝光陰矢の如し〟は士官学校の書庫入口に掲示されている。軽く苛立っている学生の仕草に合わせて剣帯が少し音を立てた。そしてもう1人黙って控えている者がいる。
「士官学校の生徒がこちらの図書館に用があるとは珍しい。戦術書なら向こうにもあるだろうに」
ベレトがリンハルトの字から目を離さずに答えると後ろの三人は少し驚いたらしく、息を飲む音が聞こえる。振り向けばそこには懐かしい顔があった。フレンが出会ったシルヴァンとアッシュは成人していたが、ベレトが出会ったアネットは幼児で今、目の前にいる三人はベレトが知っている年齢のままだった。
彼らの腰にはファーガスブルーの帯が巻かれていて、だから碑文に触る怪しい男に話しかけてきたのだろう。ベレトは首から下げたフェルディア総合大学の身分証明札を取り外した。検分し難いだろう、と金髪の青年に渡すと水色の左目だけが落ち着きなく札とベレトの顔を行き来している。だが、全く右目は動かない。おそらく義眼なのだろう。ベレトが最後に見たディミトリの姿が影響しているのか、生来のものなのか事故なのかは判らないが今生ではあんな風に追い詰められた人生を歩まずに済むと良いのだが。そしてそのためにベレトにできることが何かあれば良いのだが。
ディミトリは札をベレトに返しながらどうして、と小さく呟いた。
「魔術を学ぶものは五感を研ぎ澄まさねばならない。名前は?」
「アイスナー教授、俺はディミトリです。こちらが同じくファーガスから入学したフェリクスで幼なじみです。こちらはドゥドゥ。片目が見えない俺を心配した父がダスカーの者はよく尽くすから、と言って付けてくれた従者です」
次にベレトは掌を顔の前でひらひらと動かし移り香を嗅いだだけで、ディミトリの右側に無言で佇む彼が温室で育てていたダスカー産の花の名を言い当てた。ご存知でしたか、と驚く今の彼も園芸が好きらしい。はしゃぎ過ぎた気がしたベレトは急に真顔になった。
「種も仕掛けもない手品の時間はこれでおしまい。読みたい資料があるのでね。君らも理学魔法や信仰魔法を学んでみるといい」
こんな風に教え子たちにたまに再会出来るなら、滅びるしかない一族のなり損ないの最後の一人として長い長い一生を送るのも悪くない、とベレトは思った。
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・マグネトソームの向きが揃う性質があり、これにより群れた時にN極とS極が発生する。
・両極が引き合う事によって高速で回転している
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ベレトとリンハルトが作らせた図書館は旧市街にある。新市街で働く文官たちからは遠いと言って不評だった。立地の都合上か何故か教会の文書も保存している。最も古いものは巻物で次に蛇腹状の折本、そして冊子状に綴じられた本の時代が始まる。肉筆写本、銅板印刷、活版印刷と全ての形式の本が収められていて、どの本もベレトの父ジェラルドが教会に不信を抱いた時期に起きた大火事でも焼けなかった強運の持ち主だ。
ベレトはフェルディナントのためにセイロス教会がかけていた印刷技術についての規制を解除している。彼が生涯を捧げた義務教育制度のためには大量の教科書が必要だった。労働力を奪われるという理由で導入は大揉めに揉めたことは記憶に新しい。
当時、意思の疎通が取れるようになった子供は大人と同じように働くべき、と言われていた。王はエーギル公に甘い、と言われてもどこかへ巡幸する度に必ず学校に立ち寄ったことをベレトは後悔していない。子供が子供のままでいられる期間をわずかばかりと言え、引き伸ばせた。それに王として子供は親が消費するものではない、と示せたのは良いことだった───ベレトは今でもそう思っている。
読み書き可能なものがそれまでになく、増加したおかげで出版が大きな産業になった。巻物も折本も冊子本含め、肉筆で作られた本は殆ど活版印刷で出版され直している。ベレトが今、手に取っている薬草の本も活版印刷で刷り直しされたものだ。製本技術の進化をひしひしと感じる。
そんなご時世でも聖廟の埋葬記録は刷り直しされることがなく、肉筆のものが残るのみだった。やはり禁帯出なので参考調査室で読むしかない。ペンを持ち込むとインクで肉筆の本を傷めてしまう可能性がある。このため参考調査室で肉筆の本を読む際には蝋引きの書字板と鉄筆以外の文具は持ち込めない。
ベレトが紐解いた記録や史料によるとアンヴァルで布教を始めたばかりの頃、初期のセイロス教では身分の分け隔てなく黒魔法を使わない火葬が望ましい、とされていた。しかしある時を境に紋章を宿している貴族は火葬が望ましく聖職者と薪を用意できない平民は土葬が望ましい、と規範が変化した。
大都市での人口増加に伴う木材の大量消費が問題視されたこととレアの禁術が絡んでいるのだろう。
薪が用意できる平民といってもその格差は激しい。最後の親孝行としてふんだんに薪を用意する跡取りもいれば金がないのか金を使うのがもったいないと思ったのか、誰かが他に死ぬのを待って他家と共同で亡骸を燃やす遺族もいる。飢饉や流行病、夏の暑い盛りや冬の寒さが厳しい時には必ず道連れができるものだ。全身にきちんと布を巻きつけておけば骨が混ざることはあまりないらしい。
聖職者たち以外が亡骸に軟膏を塗り、布で全身を包みこむのは薪の上に乗せて燃やした時の効率を考えてのことだ。しかし聖職者たちの亡骸に塗る軟膏は配合からして違う。
目的が違うからだ。本棚から持ち出した埋葬記録と葬礼と薬草学の本で作った山に埋もれてながら、ベレトは必死で必要な部分を書き出した。
聖職者の亡骸に塗る軟膏は蜜蝋の割合が不必要に多く、土に還すまいという意志を感じる。与えた紋章石を後で摘出する場合、門外漢のベレトからすると完全に土に返した後の方が楽な気がした。しかし実際に行動に移すなら元の形を保っている方が取り出しやすい可能性もある。
身内であったが故に死後、素材としてもレアに仕える羽目になった聖職者たちのことを考えるとベレトはいつも考え込んでしまう。彼らが望んでいたこととは思えないからだ。そしてレアが孤独で心を病んでいなければこんなことはしなかっただろう。ナバテアの民の亡骸を十傑の遺産の素材にされた時に感じた怒りと悲しみと同じ怒りと悲しみをヒトも感じるのだ。
すっかり陽が落ちて辺りは暗くなっている。持ち込んだ洋燈に火を灯すとつかれた目がガラスの中の炎から離れなくなった。フェルディナントが今のベレトを見たらローレンツを火葬した時のような顔をしている、と言うだろう。
ローレンツが戦死したミルディン大橋と彼の実家のあるグロスタール領までの経路が当時は確保できなかった。亡骸が傷む可能性があったので彼の亡骸はミルディンで直ちに火葬されている。今際の際の言葉を尊重し彼だけのために糸杉だけで薪を組んだ。
平民の亡骸を燃やす時は油を含んでよく燃える松も混ぜて薪の本数を減らす。黒鷲の教え子たちとベレトで検分したローレンツの私物には死装束と亡骸。完全に燃焼させるため死後に塗る軟膏、煙が焦げ臭くならずにするための香料が入っていた。これが戦地に赴く貴族の心得なのだな、と当時感心した覚えがある。形式に根拠があって非常に不愉快だ、と動揺したリンハルトがこぼしていて珍しくカスパルがたしなめていた。
フェルディナントはローレンツの遺骨を納める骨壺として美しい白磁の壺を選んだ。光が当たらないように正絹の布に包み、清めたローレンツの槍と鎧と共にフェルディナントがグロスタール家へ直接届けている。嫡子であったローレンツの埋葬式では祭壇には彼の髪の束が飾られていたと聞く。だから片側は髪が短かったのだろう。
戦後、ローレンツの弟が家督を継ぐ許可を求めてきた際にベレトはすぐに許可を出した。フォドラ統一戦争の際にセイロス教会と敵対した家は断絶させるべき、という意見を出すものはベレトの強烈な罪悪感を理解する気がない。
継ぎたいと名乗る者がいて血のつながりが確認できればベレトは全て許可を出した。流石にフレスベルグ家とブレーダッド家だけは改めてセイロス教会ではなく統一王の名において伯爵家として叙任し直している。これにより彼らは王族ではなくなりアドラステア帝国皇帝の継承権、ファーガス神聖王国国王の継承権それと免税の特権を完全に失った。しかし断絶するよりはずっとましと思ったのだろう。喜んで譲歩してくれた。だから先ほど会った三人もかつて出会ったアネットと同じく、名字まで前と同じ名前だろう。
ぼんやりしているうちに洋燈の火も消えてしまったので、再び灯りを点そうと詠唱していたら司書から声がうるさい、とベレトは怒られた。素直に切り上げ時と認め図書館を後にする。
旧市街の警備をする衛兵たちは嘘か本当か分からないが顔立ちの審査があるという。ベレトがガルグ=マクで教師をしていた頃も女子学生たちが門番の兵士に差し入れなどをして、よくかまっていた。ベレトが札を見せ修道院の宿坊に泊まっている、と告げた衛兵も親しみやすい顔をしていた。
門を開けてもらい構内を歩いていると訓練場から物音がする。入り口の松明が燃えているから誰かが訓練をしているのだろう。耳を済ませて聞いているとどうやら先程の三人が手合わせをしているようだった。
扉を開けて訓練場の中に入った瞬間、時が巻き戻った様な気がした。間取りも全く変わっていない。訓練用の模造剣の置き場所も変わっていなかった。ベレトは剣を手に取りそうになったがそれは止めた。図書館入り口でやったような芸当はフェルディアの同僚なら半分がやってのけるが剣だけは下手な振りができない。
ゆっくりと、わざと大きな音を立てて拍手をした。これが熱心で真面目な三人に向けての拍手なのか彼らと再会できたことへの拍手なのかベレトには分からなかった。畳む
#完売本 #flow #セテス #フレン #シルヴァン #アッシュ #ディミトリ #フェリクス
4.
───
一三八五年
・細胞内のマグネトソームは外部磁場に反応し鞭毛を回転させシャーレの内部で激しく運動している
・鉱石の粉末を与えれば与えるほど移動速度が増していった
───
執政官フェルディナント三世を宗教面から支える補佐として多忙な日々を送るセテスに代わって、フレンは熱心に勉強会に顔を出した。フォドラ中から評判を聞きつけて参加希望者がやってくる。規模が拡大し続けているため、いつまでも法学と信仰魔法の勉強会という形式を取っているわけにはいかなかった。ガルグ=マク司教座付属の学校となることが正式に決定し、セテスとフレンはその準備に追われている。
眷族は長命だが少し老いたせいか近頃のセテスは髪の色が黒に近い緑になっていた。大地を癒してなくなった頃のソティスよりも更に髪の色が濃い。ヒトならば色が抜けていくのだが、眷族は老いれば老いるほど髪の色が濃くなっていく。若草色の髪のまま亡くなったレアが生きていたらあの美しい声でセテスをからかったかもしれない。これがセテスとフレンという名で行う最後の活動になる予定だ。校舎の工事が終わり開校するその日まで眠らずにいたい。礼拝の時にフレンはいつもそう、祈っている。
セテスは基本、心配性でかつてはフレンの全てを管理したがった。ところがここ最近は、疲れやすいとこぼす娘が単身でペガサスに乗って遠出をしても止めようとしない。紺色に染めた飛行用の外套に身を包み、休眠中に世話になった修道女たちと次は何をする予定なのか、楽しそうに話す娘の姿を微笑んで見ている。
「良いお友達がたくさん出来ました。もし叶うなら次もあの修道院で眠りたいですわ」
おそらくそうなるだろう。そして次に娘が長い眠りについて目覚めた時に自分がまだ生きているかは分からない。その辺りのことをフレンも察している。セテスとフレンは悔いのないよう、お互い話すべきことは全て話すようにしていた。
「いいことだ。気をつけて行っておいで。その件について話せるなら話してくるといい」
歳の離れた修道女たちの中にいるフレンは孫のように見える。だが、実際は逆だ。フレンは彼女たちを孫のように思っている。そんな彼女たちの暮らす修道院では果物を収穫する時期が近づいていた。附属の果樹園で採れた果物を一年分のジャムに加工するので、今度は泊まりがけで手伝いに行くと言う。
フレンが老女たちに皆さまお若いのですからもっとお食べにならないといけません、と言うと奉仕活動に来ている地元のセイロス教の信徒たちは愉快そうに笑う。だがそれは一言一句間違いなくフレンの本心だった。
軽く浮かんだペガサスに跨ったフレンは地上で見送る父に手を振ると、友人たちのいる修道院へ向かって飛び立った。いつも青空に娘を乗せたペガサスの白い馬体が溶けて見えなっていくまでセテスは手を振っている。出来る限り元気な娘の姿を覚えておきたい。自分の今際の際に思い出すために。
セテスはフレンと共にいない時は自炊をしない。食事は全て修道院の食堂でとっている。一人で黙々と食事をしてそろそろ皿も空っぽになろうか、と言う時にフェルディアから帰ってきた修道士がダブネルシチューを載せた盆を手にセテスの隣に座った。
「セテス様、お久しぶりです。ご存知ですか?今度フェルディアの魔道学院が改名するそうですよ」
皆セテスとフレンが学校を作ろうとしているのを知っているため、少しでも彼らの役に立とうとしてくれる。ありがたいことだ、とセテスは笑みを浮かべて続きを促した。
「知らなかった。詳しく教えてもらえないか?」
「総合大学、という名前に変わるそうです。なんでも魔道以外も研究するようになるとかで」
「何を学べるようになるのだ?」
「文法学・論理学・修辞学・幾何学・算術・天文学・音楽です。元々はどの学問も魔力の質を高めるため魔道を始める前に学んでおくべき、とされるものですね。魔道学院時代はそれらを修めた者しか受け入れていませんでしたから、より初心者向けになったと言えるのかもしれません」
士官学校は戦場で確実に発動できればそれでよし、という考えだ。紋章持ちの学生が英雄の遺産に侵食されないかどうかという重大事案には気を配るが、その他の多少の粗には目をつぶってしまう。
「門戸は広がるな」
「ですがファーガス地方はあまり豊かな土地ではありません。そんなことをしても学生が増えないでしょう。短期間で即戦力を育成していた従来の方針があちらには合っていた様な気がします」
セテスはファーガス地方がまだファーガス神聖王国だった頃、ガルグ=マク士官学校にいた生徒たちのことを久しぶりに思い出した。皆、傷ついていたが我慢強く優秀な若者だった。あの時もう少し長く丹念に様子を見て彼らを導けたら、救えた者も中にはいただろう。その記憶がある者からすれば在籍年数が長くなるのは納得できる方針変更だった。
「いや、貧しい土地であればこそ、だと思う」
「引き札を貰ってあります。後でお届けしましょう。執務室で構いませんか?」
そういうと修道士は早く渡したいと言う気持ちで焦ったのか、あからさまに食事をかき込みはじめた。身体に良くないのでよく噛んで食べなさい、とたしなめてから修道院の執務室へ逆戻りするためセテスは席を立った。
ランプの灯りのもとで執務室に置いてあるわずかなファーガスやフェルディア、それに魔道学院の資料を眺めてセテスが待っていると扉を叩く音がした。先ほどの修道士が引き札を持ってきてくれたらしい。茶を入れて彼の労をねぎらうべきだろうかと思ったが、移動の疲れからか大欠伸をし、その非礼をセテスに詫びる姿をみてやめた。
居室に戻るか迷ったが念のため書庫に近く、調べ物がしやすい執務室で中身を検分することにした。四つ折りされた引き札を開くとまずブレーダッド家の家紋を取り入れた校章が目につく。今はもうない国を悼む気持ちがある者が選んだのだろうか。その下には修めることのできる学問の一覧と授業料が書いてある。
ヌーヴェル家中興の祖、と言われるコンスタンツェには魔道学院に強い思い入れがあった。そのためヌーヴェル家からこれまでかなりの資金援助があった筈だが、今後はどうやら学生たちから得た授業料で運営されていくらしい。
授業料を払いたくなるような教授陣を用意できるのかが肝心だが、そこはどうなのだろう。続けて読んでみるとさすがに元から名門なだけあって魔道の教授たちは魔道にはあまり詳しくないセテスですら半分は名を聞いたことがある。彼らから魔道を習えるなら通う期間が多少長くなろうと学生が集まるだろう。
めくって裏側を見ると片面には所在地と学内の地図が描かれている。入学後の生活が想像しやすくて参考になるとセテスは思った。もう片面には教師たちが書いた開学への思いを一言ずつ書いていて、それで全ての紙面が埋まっていた。目で追っていくとある一文がセテスの目に止まり、鼻からふっと息が抜ける。
「己を高めこの地を高めてほしい」B・アイスナー
ほとぼりが冷め、同一人物でないかと考える者が修道院からいなくなるまで一切連絡はしない、と言ってベレトはガルグ=マクを去っていった。そんな事情があるとしても眷族としても百年は長い。その間、何をやっているのかと思ったらこんなことをしていたとは。フレンが戻ったらベレトも似たようなことをしていた、とすぐに知らせてやらねば。久しぶりに愉快な気持ちでセテスは眠りについた。
───
神祖は陸に上がった赤い土を手に取って捏ね、初めに羽根の生えたものを作った。
次に泳ぐもの、地を歩くものを作ったがそれらは皆、言葉を持たなかった。神祖は次に言葉を持つ者を作った。
───
ガルグ=マクで新たな付属学校が設立されるかという頃、時を同じくして遠く離れた地フェルディアに在り、高い専門性を持つ魔道学院が大きな変化を迎えようとしていた。ヌーヴェル家、それに統一王国やセイロス教会からの寄付金は受け入れるが今後は学生から徴収する授業料を中心として運営される。
学内の倫理委員会の監査さえ通過できれば、という条件付きだが研究内容や教育内容が完全に自由化されることとなった。加えて学生や入学希望者からの要望があり、資金さえ集められれば学科も学部も学内の認可を取るだけで増設可能になった。
魔道を極めるには元から文法学・論理学・修辞学・幾何学・算術・天文学・音楽その全てを必要としていた。奇しくも統一王と同じ名を持つアンヴァル出身の教師がこれら七科は人間すべてが持つべき技芸だ、として魔道を学ぶ前の段階である者にも門戸を開くことにしたのだ。学生が増えれば授業料収入も増える。二年間七科を学んで学業を終わりにするもよし、七科のうちどれかを専攻しても良し。魔道専攻の学生達も二年間は必ず七科を学ぶ事になった。この七科のうち何を得意とし何を苦手とするのかで魔道の傾向も分かりやすくなる。
こうして魔道学院はその名をフェルディア総合大学と名を変えた。だが発案者は役職には就かず、入学式のその日までひたすら研究と開学の下準備に邁進していた。
入学式当日、新入生たちは緊張と期待の混ざった面持ちで壇上の教師による説明に耳を傾けていた。彼らは皆、出身地の違いはあれどファーガス地方を表す青い揃いの外套に身を包んでいる。この青はファーガスブルーと呼ばれ、軍隊においてファーガス出身者で作る部隊や騎士団などで鎧や武具の意匠に必ず取り入れられた。近代以降は学校の制服やプロスポーツのユニフォームにも使われるようになる。
首都となったフォドラ大陸の中心ガルグ=マク、南方貿易で栄えるアンヴァル、東方貿易で栄えるデアドラと違い特産品もなく貧しいファーガス地方はフェルディア総合大学をきっかけに優秀な人材を数多く輩出するようになった。そして後にこのフェルディア総合大学の学生が〝黒い水〟の謎を解き明かした。
「ではこれで説明を終わります。最後に私ベレト・アイスナーから個人的に言いたいことをふたつだけ。ひとつ目ですが専攻や所属学科がなんであれ心身共に健康であることを目指してください。精神の健康が魔力の質をはじめ、人生のあらゆる事に関わってきます。勿論学業にも関わってくることでしょう。この学校、失礼、大学は学業に関して厳しい目標を掲げますが我々教師たちも達成させるために全力を尽くします」
開学の準備が忙しすぎて、髪を切る時間も髪を染める時間も取れなかったベレトは壇上で若草色の髪を隠すため頭巾を目深にかぶって学生達に向けた話を続けている。
「ふたつ目です。皆さんがどこ出身の何者であれ、そうですね、例えばアドラステアやレスターに領地があろうと実家がガルグ=マクにあろうとフォドラ大陸以外の出身であろうと……今後はここフェルディアの誇り、ファーガス地方の誇りとなります。勉学に励む皆さんの助けとなれることを我々教師もまた誇りに思います。では寮に移動して荷物を置いたら食堂に集まってください。食事会を楽しんで!」
会場にいる人々から万雷の拍手を受けたベレトは軽く、頭を下げてから壇上から引っ込んだ。これでようやく食事ができると思い、薄い腹を撫でる。入学式の後に開催される食事会は食堂で大規模にやって親しみを持ってもらおう、という方針だ。賑やかしに卒業生たちも呼んでいるし、新入生も家族を連れてこられる者は家族を連れてきている。ベレトは皆の家族を見るのを楽しみにしていた。
「先生、妻と娘です」
「はは、先生なんて言わずに名前で構わないのに。久しぶりだな!ギュスタヴ、わざわざお祝いに来てくれてありがとう」
大勢の卒業生や新入生とその家族でごった返す食堂で、皿を手にどの料理を食べるか物色していると急に声をかけられた。振り向くと家族を連れたギュスタヴが笑って立っている。まだギュスタヴの腰くらいの背丈しかない娘が恥ずかしがって父親の服に抱きついて隠れていた。奥方が娘をたしなめると橙色の髪をしたアネットそっくりな子供が顔上げ自己紹介をした。
「はじめまして、アネットです」
なんてことだ。名前まで同じなのか。
「はじめまして、ベレトです。アネットも大きくなったらここでお勉強をしますか?」
はい、先生!と元気に返事をするアネットの頭をベレトはそっと撫でた。もし自分の心臓がきちんと動いていたら、激しい鼓動のせいで周りの音が一切聞こえないだろう、と思った。長く生きていれば望外の良いことがある。もしかしたら教え子たちに再び会えるのかもしれない。勿論このアネットはあのアネットではない。
───だが。
「ベレトは髪の長さ以外は学生の頃とちっとも変わらないな」
ギュスタヴがフェルディアの街中で魔道士として働き、結婚し子育てをしている間もずっとベレトは魔道学院にいて研究をしていた。英雄の遺産が子孫に与える影響について徹底的に調べられるのが、基礎研究を重視する魔道学院だけだったからだ。コンスタンツェはエーデルガルトから呆れられていたが、液体の色素を変える魔法は実用化しようと思えば実用化できた。ただそれが当時、戦争の役に立たなかっただけだ。
実学志向のガルグ=マクでは紋章持ちの若者が出陣し帰国して跡継ぎを作るまで生きていれば、死ななければそれで良しとされていた。戦地から戻って四、五年で人生を畳めと言われるのは人間らしい扱いではないし、根本的な解決ではない。その命を差し出せば戦況を有利に出来るからこそ紋章を受け継ぐ者たちは貴族として讃えられるのだ、領民や兵士たちを守るために己の命を惜しんではならない。ローレンツならそう言っただろう。彼もまたメルセデスのように諦めたが故の強さを持つ若者だった。
闇に蠢くものたちはもういない、と信じたいが何かをきっかけとして戦争が起きた場合、また紋章を受け継ぐ若者たちがすり潰さへてしまう。その前にどうしても回避の為の道筋を作っておきたかった。僅かばかりの手がかりは掴めたが道は遠い。
「そのうち切るさ。見た目が変わらないのは暮らしぶりが変わらないからだろうな。知りたいことがまだまだ尽きないよ」
「その調子では娘が大きくなる頃もまだ大学に居そうだな。その時は娘を頼むよ」
そういうとギュスタヴはアネットを連れて他の学友に妻と娘を紹介するべく、ベレトの前を去って行った。橙色の髪の毛が人混みに消えていくのを見届けたベレトは空腹だったことを思い出し、ゴーティエチーズグラタンを求めて皿を手にギュスタヴたちとは逆の方向に向かって歩き始めた。
───
最初に神祖と同じ緑の髪をした者たちが作られた。
次に畑を耕し糸を紡ぎ神祖を讃えるべき者たちが作られた。
───
フォドラ統一戦争から二百年近くを経ても、はぐれ魔獣、帝国系魔獣の被害はいまだに出ている。ヒトの時間感覚で言えば遥か昔だが、フォドラ統一戦争は眷族とアガルタの民の代理戦争でもあったため時間の尺度が異なっていた。フレンの友人たちが生活する修道院近くにも踏むと魔獣が発生する罠のような装置が誰が踏んでも構わない、と言った投げやりさで何百年も前から仕掛けられている。
ベレトは地域社会への貢献、研究の実践、資金調達の手段としてはぐれ魔獣や帝国系魔獣を狩っていた。しかしそれは彼が炎の紋章を持ち、単独行だったから出来たことだ。今のフレンのように白きものの姿に戻る力を失い天馬は厩舎に繋いだまま、守るべきものたちを背後にして装備は手槍だけ、という状態では無理な話なのだ。
フレンは咆哮を上げ威嚇するはぐれ魔獣に向かって手槍をなげつけ、自分だけに集中するように仕向けた。修道女たちが必死で回復魔法を掛けてくれるので均衡が保たれている。しかし彼女たちを逃さねばならない。もしフレンが魔獣の攻撃を防ぎきれず、逃げる彼女たちに当たってしまったら。そのことを考えると何度もライブをかけてもらうわけにはいかなかった。
「皆さま!私のことはお構いなく!早くお下がりください!」
フレンの気迫に押されて逃げ始めた老女たちはやはり足が遅い。額から流れる汗と血を手の甲で拭ったフレンは最後の手槍を握りしめ、魔獣を睨みつけた。最後に一投しようと腕を振り上げた時、フレンが思いもよらない方角からライナロックが放たれた。頭に直撃を喰らった魔獣は体勢を崩している。
「逃げろ!」
赤毛の青年は声のした方向を探しもせず一目散に若草色の髪を振り乱し、修道院の方角へ向かって駆け出すフレンの姿を見た赤毛の青年は感心したらしい。馬上で口笛を吹いた彼に追いつくため、必死で走ってきた雀斑の目立つ青年もフレンの後ろ姿を見て一瞬驚きの表情を浮かべたが、すぐに魔獣に向かって矢を放った。
「連携お願いします!」
「おうさ!絶対にミスリルを手に入れるぞ!」
馬を駆り、魔獣をどこから攻撃すべきか吟味すると赤毛の青年は今度は槍を握りしめて魔物の懐に入りこんだ。魔物の自重を利用して貫く技は真に勇敢な者にしか使えない。
その背にゴーティエの紋章が浮かんで消える。二人は重い音を立てて倒れた魔獣から使った武器とミスリルを回収するために近づいた。
「見てみろ、アッシュ。可愛い顔してたのにあの子はすごいな」
浅い傷しか負わせられなかったとはいえ、手槍が全て急所に刺さっている。それにあの場合、礼も言わず振り向かず言われた瞬間に駆け出すのは戦場においては正しい行為だ。青年は相棒の弓使いよりも若そうな少女が古兵のように振る舞うことに興味を持ったが、連れの呆れたような視線に負けた。無言で魔獣の亡骸を私物の短刀で切り裂いて自分の槍を引き抜く。任務でアンヴァルへ行った時に古道具屋で買った短刀で、魔獣の亡骸を切り裂くのにも果物の皮を剥くのにも使える。
「ねえ、シルヴァン。あの状況で可愛いとか可愛くないとか関係あるのかな」
「いいや絶対に可愛かった!真っ直ぐあっちに向かったってことは修道院の子かな。壊れた手槍を届けに行くついでに泊めてもらえないかな。宿代が節約できる」
「ダメだよシルヴァン。女子修道院は男子禁制だもの」
それでも回収した手槍は返却する必要があった。買い直すより鍛冶屋で修理してもらった方が安いからだ。自分の槍に続けてフレンの手槍も引き抜く。短刀で魔獣の皮を切り裂き、ミスリルを含んでいる内臓のあたりを突き刺したシルヴァンはしまった、というような顔をした。
「でも門前に置いておくくらいはしておこうぜ。それとアッシュ、悪いけど剣を貸してくれ。刃が届かない」
アッシュは腰の剣をシルヴァンに渡してから手持ちの布で、魔獣から引き抜かれた手槍の刃についた血を拭った。修道院に返す物が穢れているわけにはいかない。シルヴァンはアッシュから借りた刀を使ってミスリルを含んだ内臓を切り離し、袋に入れ馬の鞍に乗せた。アッシュが綺麗にして紐で括ってくれた槍は折れて軽くなっているので手に持つ。
「あの子が顔出してくれたらミスリルも半分こしてやりたいね。本当に半分はあの子の手柄だから」
二人は軍人をしている。これからデアドラヘ行き、研修を受けてからパルミラとの国境を護るフォドラの首飾りへ行くのだ。国境警備の任に就く。
問題は宿場町の物価が魔獣の出没により思ったより高くなっており、路銀が心許なくなってきたことだった。整備された街道を外れると出没するという魔獣を討伐してなんとかしよう、と言い出したシルヴァンにアッシュは最初いい顔をしなかった。だがここで稼いでおけばデアドラの本屋で本が買い放題だ、と言われてしまっては折れるしかない。
修道院に向かって、荷を乗せた馬を引き歩き出した彼らの帯にも馬具にもファーガスブルーが使われている。パルミラとの国境警備はレスター地方の部隊や騎士団が任にあたるのが基本だ。しかし人事交流の一環で他の地方から派遣される者がいる。地元に戻れば出世が約束されているが、家族を置いていくことになるので皆あまり行きたがらない。しかしシルヴァンとアッシュは進んで手を挙げた。
二人とも独身だったし、別の土地に興味があった。彼らにとって修道院の周りにあるこの森が、最後の見慣れた森になるだろう。ここから更に南下すると植物相が変わっていく。森の外れに建つ修道院の尖塔に気づいたのはシルヴァンより目が良いアッシュだった。錆び付いた呼び鈴の紐を引くと思ったより大きな音が鳴り響く。渉外担当であろう枯れ枝のように老いた修道女が門の前にやってきた。
「勇敢な手槍のお嬢さんはご無事ですか?」
ファーガスブルーの帯や馬具をもってしてもシルヴァンの如何にも遊び人です、と言った風情は拭いきれていない。修道女からは完全に不届者を見る目で見られている。居た堪れなくなったアッシュが紐で括ったフレンの手槍を手に、無言で二人の間に割り込んだ。槍の柄を見てようやく門前の二人が恩人である、と信用したのか修道女は門を開けた。
「確かにこれはフレン様の手槍です。ご親切にありがとうございます。どうかあなた方に女神の御加護がありますように」
「あの方のおかげで魔獣が倒せました。ミスリルが採れたので半分お分けしたいのです。僕らはこれから任務でデアドラまで行かねばなりません。道中の安全を祈っていただけませんか?」
デアドラと聞いてさすがに思うところがあったのか少しお待ちを、と言って修道女は中に引っ込んでしまった。誠実そうな自分の見た目を利用するアッシュに比べたら、見るからに遊び人な自分の方が実は誠実で初心なのではないかとシルヴァンは思う。
枯枝のような修道女が額に包帯を巻いた若草色の髪をした少女を連れて現れた。壊れた手槍を受け取り、シルヴァンとアッシュの名を聞いた彼女は何度も瞬きをしている。どうやら声も出せないほど驚いたらしい。
それでも彼女の古めかしい言葉での祈祷は、シルヴァンたちの故郷にいる司祭よりも堂々たるものだった。祈祷を終えるとフレン、と名乗った少女は何もかもが釣り合っていない。フレンはシルヴァンが言ってもアッシュが言っても小さな弟を相手にするかのように私からの餞別だと思いなさいと繰り返し言っミスリルは受け取ろうとしなかった。
5.
───
一四一〇年
緑色の髪を持つ者たちは聖人として神祖の代わりに畑を耕し糸を紡ぐ者達を導いた。
しかし最初の畑を耕し糸を紡ぐものたちは神祖を称えることをやめ、聖人と神祖に逆らったので神祖はこれらを大水で滅ぼされた。
───
ガルグ=マクは首都機能を持った新市街とセイロス教会総本山である聖堂と付属の修道院や教育施設を中心とした旧市街に分かれている。旧市街の一角、セイロス教関係者の墓地にファーガスブルーのローブを身にまとった墓参者がいた。
彼だけが目の前の墓が伽藍堂であることを知っている。二十年ほど前、墓に入っているはずの人物たちと会った時は不思議な再会を肴に、それはそれは盛り上がった。フレンの出会ったシルヴァンとアッシュ、それにベレトの出会ったアネット。
ヒト相手だと稀にあることらしい。しかしセテスによると、眷族とそのようにして再会できたことはないのだという。
その後、髪が真っ黒になったセテスはフレンを伴って奥方の墓がある西海岸へ移住していった。眷族の肉体は本体の死後も武器に移植された血と骨は生き続けるくらい頑丈で、単なる火葬では亡骸が悪用されてしまう。妻の亡骸を守り娘を看取るのがセテスの、いや、キッホルの生涯最後の仕事なのだろう。ではキッホルの亡骸は誰が守ってくれるのだろうか。
眷族の亡骸を武器へ転用させないため、ベレトは紋章石を与えられた聖職者の埋葬における禁忌を調べた。その真逆の行為をすれば良いという仮説を立てたからだが、実験には至ってはいない。
ベレトは父ジェラルドと先代大司教レアの手により作り出された母シトリーの息子だ。母のことは全く覚えていない。戦後、自分に紋章石を譲って命を落とした母シトリーの墓を若き日のリンハルトと共に調査した際、ベレトは言葉を失った。
枢機卿アルファルドが正気を失ったの彼が愚かだったからではない───戦場育ちで人の亡骸など見慣れた身の上であればこそ、ベレトにとって両親の亡骸はあまりに異様だった。しかし調査したことは後悔していない。
レアから血を与えられただけのジェラルドの亡骸ですら、死後十年以上経っていたのに大して傷んでいなかった。関節を楽々と曲げることができた時に感じたものは恐怖だけではない。それに流石に青ざめたリンハルトが震える手でベレトの手を握って〝先生、大丈夫。死ぬなら生き物だから〟と慰めてくれたことは今でも覚えている。
フェルディア総合大学の名で、何度か聖廟への立ち入り調査を依頼したが全て断られている。だが、現地入りすれば何か思いつくかもしれない。そう考えたベレトは彼を直接知る者がもう誰も残っていないガルグ=マクに戻ってきた。聖廟は年に一度しか開かないが持ち出し厳禁の資料はその場で読むことが出来る。図書館に入る前に墓前で気合を入れたベレトは懐から入構許可札を取り出して首にかけた。フェルディア総合大学の一員であることを示す金属の札と合わさってかちゃかちゃと音を立てる。かつてガルグ=マク旧市街にベレトが入れない場所など存在しなかったので中々に新鮮な体験だ。
旧市街はまだベレトが王だった当時の面影を色濃く残している。それは街中を歩く学生たちの制服が元のままだからかもしれない。背中に背負った矢筒の矢羽と髪の毛が絡まった、と言ってきゃあきゃあ騒ぐ紫色の髪をした甲高い声の女学生とすれ違ったベレトは微かに笑った。きっと声からしてベルナデッタの子孫だろう。
六大貴族の子女たちは毎年必ず誰かが士官学校で学んでいる。初代たちは戦後「当主は戦争の際に必ず先陣を切り、前線から離れない」という誓いを立てた。勇敢に戦わぬ者に当主の資格なし。そしてこの誓い故に当主は己の命を危険に晒してまでやる価値がある戦争なのかどうか、深く考えられるのだ。散発的な残党による反乱はあったが、戦後二世紀を経てもなお内戦は起きていない。そして他国からの侵略も防げている。
昔は大聖堂二階の片隅に書庫があった。だが手狭でアビスの資料が収蔵できない。いちいち地下まで降りて読みに行くのが面倒だったベレトとリンハルトはレアの死後に修道院の敷地近くに図書館を作ってしまった。そしてなし崩しにアビスの存在を公表した。公表してしまったからにはアビスにも外部の目が入る。
アビスに逃げ込んでいた寄る辺なき人々のうち、法に触れていた者は法に則って処罰を受けた。しかしそれ以外の者たちは元住民であったコンスタンツェ、ベレトと共にアビスで戦ったリンハルト、それと意外なことに彼らに深く同情したベルナデッタを庇護者として生きることになった。
こんな逸話がある。フェルディナント一世が何かの会合で統一王の御代をどう表現するか問われた時、彼は無言で手袋を外し両手の掌を見せた。この逸話からわかるように徹底的な情報公開が統一王ベレトの治世の特徴と言われている。単純な育ちで権謀術数の類に慣れていなかったからなのか、秘密だらけのセイロス教会にうんざりしていたからなのかは本人にも分からない。
ベレトが図書館入口の壁にリンハルトの字をそのまま拡大して彫らせた碑文〝真理は汝を自由にする〟を撫でていると背後から声をかけられた。
「俺もその文が好きだよ」
「いきなり後ろから話しかけるせっかちな猪にふさわしいのは〝光陰矢の如し〟だと思うが」
〝光陰矢の如し〟は士官学校の書庫入口に掲示されている。軽く苛立っている学生の仕草に合わせて剣帯が少し音を立てた。そしてもう1人黙って控えている者がいる。
「士官学校の生徒がこちらの図書館に用があるとは珍しい。戦術書なら向こうにもあるだろうに」
ベレトがリンハルトの字から目を離さずに答えると後ろの三人は少し驚いたらしく、息を飲む音が聞こえる。振り向けばそこには懐かしい顔があった。フレンが出会ったシルヴァンとアッシュは成人していたが、ベレトが出会ったアネットは幼児で今、目の前にいる三人はベレトが知っている年齢のままだった。
彼らの腰にはファーガスブルーの帯が巻かれていて、だから碑文に触る怪しい男に話しかけてきたのだろう。ベレトは首から下げたフェルディア総合大学の身分証明札を取り外した。検分し難いだろう、と金髪の青年に渡すと水色の左目だけが落ち着きなく札とベレトの顔を行き来している。だが、全く右目は動かない。おそらく義眼なのだろう。ベレトが最後に見たディミトリの姿が影響しているのか、生来のものなのか事故なのかは判らないが今生ではあんな風に追い詰められた人生を歩まずに済むと良いのだが。そしてそのためにベレトにできることが何かあれば良いのだが。
ディミトリは札をベレトに返しながらどうして、と小さく呟いた。
「魔術を学ぶものは五感を研ぎ澄まさねばならない。名前は?」
「アイスナー教授、俺はディミトリです。こちらが同じくファーガスから入学したフェリクスで幼なじみです。こちらはドゥドゥ。片目が見えない俺を心配した父がダスカーの者はよく尽くすから、と言って付けてくれた従者です」
次にベレトは掌を顔の前でひらひらと動かし移り香を嗅いだだけで、ディミトリの右側に無言で佇む彼が温室で育てていたダスカー産の花の名を言い当てた。ご存知でしたか、と驚く今の彼も園芸が好きらしい。はしゃぎ過ぎた気がしたベレトは急に真顔になった。
「種も仕掛けもない手品の時間はこれでおしまい。読みたい資料があるのでね。君らも理学魔法や信仰魔法を学んでみるといい」
こんな風に教え子たちにたまに再会出来るなら、滅びるしかない一族のなり損ないの最後の一人として長い長い一生を送るのも悪くない、とベレトは思った。
───
・マグネトソームの向きが揃う性質があり、これにより群れた時にN極とS極が発生する。
・両極が引き合う事によって高速で回転している
───
ベレトとリンハルトが作らせた図書館は旧市街にある。新市街で働く文官たちからは遠いと言って不評だった。立地の都合上か何故か教会の文書も保存している。最も古いものは巻物で次に蛇腹状の折本、そして冊子状に綴じられた本の時代が始まる。肉筆写本、銅板印刷、活版印刷と全ての形式の本が収められていて、どの本もベレトの父ジェラルドが教会に不信を抱いた時期に起きた大火事でも焼けなかった強運の持ち主だ。
ベレトはフェルディナントのためにセイロス教会がかけていた印刷技術についての規制を解除している。彼が生涯を捧げた義務教育制度のためには大量の教科書が必要だった。労働力を奪われるという理由で導入は大揉めに揉めたことは記憶に新しい。
当時、意思の疎通が取れるようになった子供は大人と同じように働くべき、と言われていた。王はエーギル公に甘い、と言われてもどこかへ巡幸する度に必ず学校に立ち寄ったことをベレトは後悔していない。子供が子供のままでいられる期間をわずかばかりと言え、引き伸ばせた。それに王として子供は親が消費するものではない、と示せたのは良いことだった───ベレトは今でもそう思っている。
読み書き可能なものがそれまでになく、増加したおかげで出版が大きな産業になった。巻物も折本も冊子本含め、肉筆で作られた本は殆ど活版印刷で出版され直している。ベレトが今、手に取っている薬草の本も活版印刷で刷り直しされたものだ。製本技術の進化をひしひしと感じる。
そんなご時世でも聖廟の埋葬記録は刷り直しされることがなく、肉筆のものが残るのみだった。やはり禁帯出なので参考調査室で読むしかない。ペンを持ち込むとインクで肉筆の本を傷めてしまう可能性がある。このため参考調査室で肉筆の本を読む際には蝋引きの書字板と鉄筆以外の文具は持ち込めない。
ベレトが紐解いた記録や史料によるとアンヴァルで布教を始めたばかりの頃、初期のセイロス教では身分の分け隔てなく黒魔法を使わない火葬が望ましい、とされていた。しかしある時を境に紋章を宿している貴族は火葬が望ましく聖職者と薪を用意できない平民は土葬が望ましい、と規範が変化した。
大都市での人口増加に伴う木材の大量消費が問題視されたこととレアの禁術が絡んでいるのだろう。
薪が用意できる平民といってもその格差は激しい。最後の親孝行としてふんだんに薪を用意する跡取りもいれば金がないのか金を使うのがもったいないと思ったのか、誰かが他に死ぬのを待って他家と共同で亡骸を燃やす遺族もいる。飢饉や流行病、夏の暑い盛りや冬の寒さが厳しい時には必ず道連れができるものだ。全身にきちんと布を巻きつけておけば骨が混ざることはあまりないらしい。
聖職者たち以外が亡骸に軟膏を塗り、布で全身を包みこむのは薪の上に乗せて燃やした時の効率を考えてのことだ。しかし聖職者たちの亡骸に塗る軟膏は配合からして違う。
目的が違うからだ。本棚から持ち出した埋葬記録と葬礼と薬草学の本で作った山に埋もれてながら、ベレトは必死で必要な部分を書き出した。
聖職者の亡骸に塗る軟膏は蜜蝋の割合が不必要に多く、土に還すまいという意志を感じる。与えた紋章石を後で摘出する場合、門外漢のベレトからすると完全に土に返した後の方が楽な気がした。しかし実際に行動に移すなら元の形を保っている方が取り出しやすい可能性もある。
身内であったが故に死後、素材としてもレアに仕える羽目になった聖職者たちのことを考えるとベレトはいつも考え込んでしまう。彼らが望んでいたこととは思えないからだ。そしてレアが孤独で心を病んでいなければこんなことはしなかっただろう。ナバテアの民の亡骸を十傑の遺産の素材にされた時に感じた怒りと悲しみと同じ怒りと悲しみをヒトも感じるのだ。
すっかり陽が落ちて辺りは暗くなっている。持ち込んだ洋燈に火を灯すとつかれた目がガラスの中の炎から離れなくなった。フェルディナントが今のベレトを見たらローレンツを火葬した時のような顔をしている、と言うだろう。
ローレンツが戦死したミルディン大橋と彼の実家のあるグロスタール領までの経路が当時は確保できなかった。亡骸が傷む可能性があったので彼の亡骸はミルディンで直ちに火葬されている。今際の際の言葉を尊重し彼だけのために糸杉だけで薪を組んだ。
平民の亡骸を燃やす時は油を含んでよく燃える松も混ぜて薪の本数を減らす。黒鷲の教え子たちとベレトで検分したローレンツの私物には死装束と亡骸。完全に燃焼させるため死後に塗る軟膏、煙が焦げ臭くならずにするための香料が入っていた。これが戦地に赴く貴族の心得なのだな、と当時感心した覚えがある。形式に根拠があって非常に不愉快だ、と動揺したリンハルトがこぼしていて珍しくカスパルがたしなめていた。
フェルディナントはローレンツの遺骨を納める骨壺として美しい白磁の壺を選んだ。光が当たらないように正絹の布に包み、清めたローレンツの槍と鎧と共にフェルディナントがグロスタール家へ直接届けている。嫡子であったローレンツの埋葬式では祭壇には彼の髪の束が飾られていたと聞く。だから片側は髪が短かったのだろう。
戦後、ローレンツの弟が家督を継ぐ許可を求めてきた際にベレトはすぐに許可を出した。フォドラ統一戦争の際にセイロス教会と敵対した家は断絶させるべき、という意見を出すものはベレトの強烈な罪悪感を理解する気がない。
継ぎたいと名乗る者がいて血のつながりが確認できればベレトは全て許可を出した。流石にフレスベルグ家とブレーダッド家だけは改めてセイロス教会ではなく統一王の名において伯爵家として叙任し直している。これにより彼らは王族ではなくなりアドラステア帝国皇帝の継承権、ファーガス神聖王国国王の継承権それと免税の特権を完全に失った。しかし断絶するよりはずっとましと思ったのだろう。喜んで譲歩してくれた。だから先ほど会った三人もかつて出会ったアネットと同じく、名字まで前と同じ名前だろう。
ぼんやりしているうちに洋燈の火も消えてしまったので、再び灯りを点そうと詠唱していたら司書から声がうるさい、とベレトは怒られた。素直に切り上げ時と認め図書館を後にする。
旧市街の警備をする衛兵たちは嘘か本当か分からないが顔立ちの審査があるという。ベレトがガルグ=マクで教師をしていた頃も女子学生たちが門番の兵士に差し入れなどをして、よくかまっていた。ベレトが札を見せ修道院の宿坊に泊まっている、と告げた衛兵も親しみやすい顔をしていた。
門を開けてもらい構内を歩いていると訓練場から物音がする。入り口の松明が燃えているから誰かが訓練をしているのだろう。耳を済ませて聞いているとどうやら先程の三人が手合わせをしているようだった。
扉を開けて訓練場の中に入った瞬間、時が巻き戻った様な気がした。間取りも全く変わっていない。訓練用の模造剣の置き場所も変わっていなかった。ベレトは剣を手に取りそうになったがそれは止めた。図書館入り口でやったような芸当はフェルディアの同僚なら半分がやってのけるが剣だけは下手な振りができない。
ゆっくりと、わざと大きな音を立てて拍手をした。これが熱心で真面目な三人に向けての拍手なのか彼らと再会できたことへの拍手なのかベレトには分からなかった。畳む
「flow」第1部6〜7「デアドラ」#完売本 #クロロレ #flow #年齢操作 #レオニー #イグナーツ #リシテア #ヒルダ
6.
───
一五二〇年
・与える鉱物の色によって作る膜の色が変化する。藍銅絋を与えると青になった。
・一定以上の酸素に晒し続けると硬化して鉱物の様になった
───
フェルディアでの暮らしを切り上げたベレトは旧レスター諸侯同盟の首都、水の都デアドラに来ていた。ファーガス地方では目にしなかった生牡蠣を殆ど噛まずにのみこむと体の中から海の香りがする。ベレトが貝の美味しさに目覚めたのはデアドラに来てからだった。
手元の牡蠣から海に視線を向ければ、沖の方に帆柱を何本も立てた巨大な帆船が何隻も行き来しているのが見える。ベレトはデアドラでは髪を染めず、若草色のまま少し伸ばして眼鏡をかけフェルディア出身のベレト=アイスナーとしてデアドラ港で働いている。
当初、ベレトはあることを確かめるため、パルミラへ行こうとしていた。しかしデアドラで懐かしい名前を聞いたのでレスター地方でしばらく過ごすことに決めた。デアドラ港はレスター諸侯同盟時代の文化を色濃く残している場所で、港を管理経営しているのは領主のリーガン家ではない。デアドラ港湾公社だ。
デアドラ港湾公社はレスター諸侯同盟時代に成立したデアドラ港湾法に基づき発足している。デアドラ港湾法はデアドラ港から得られる利益をリーガン家に独占させまいとしたレスター諸侯同盟の名家たちの差し金により成立した。港長はリーガン家以外から選ばれ港湾の管理経営権を全て握る。一元化されたことによりデアドラ港はますます発展したのでその伝統はいまだに生きていた。
ベレトは港湾公社の中でも港湾内の治安を守る巡警、という部門で働いている。港湾内の犯罪取り締まりは巡警の担当で密輸や密入国が起きないように目を光らせていた。そして荷積みや荷揚げをする沖仲仕(おきなかし)たちが起こす騒ぎを鎮めるのもベレトたち巡警の役目だ。
近頃は造船技術が発達したため混載貨物船は接岸出来ないほどの大型船ばかりになっている。そんな船が入港する際は沖仲仕たちが一斉に小さな艀で乗り込み、荷揚げや荷積みをする。港は水上輸送と陸上輸送が切り替わる境界線上にあり、ふたつの世界が重なる場所は独特の文化を持つ。
沖仲仕は外の世界から見れば日雇いの胡散臭い労務者だが、実は高い技術を持っている。彼らは船と荷を見ただけで、何をどの順番でどのように移動させるのかを熟知しなければならない。それでも毎年何件もの重大事故が起きる。
そんな環境下の彼らは気が荒くしょっちゅう騒ぎを起こす。その騒ぎを収めるのも、可能ならば起こさせないのもベレトの仕事だ。早朝に入港予定の船の荷揚げや荷積みのために雇われたのに到着が遅れて大量の沖仲仕たちが埠頭で夕方や深夜まで待機する───ベレトはそんな時に今までの巡警がやらなかった画期的な方法で騒ぎが起きないようにしていた。
屋台の店主が頼んでいない魚の串焼きをベレトの皿においた。
「センセイ、これは俺からの奢りだ。弟が世話になった」
フェルディナントが苦心して作り上げた義務教育制度だが、受けそびれる集団がどうしても出てくる。ベレトは待機させられた沖仲仕たちが持て余した時間を喧嘩で潰さないよう、無料で文字と算術を教えていた。ガルグ=マクやフェルディアで面倒を見ていたのは勉強が出来る若者だったのでまったく勝手が違う。
港で働く彼らに文字をAから順に教えようとしても拒絶して覚えてくれない。まずは自分の名前から文字を教えていく。港湾地区にも学校があるのだがそういった工夫はしてくれないらしい。普通に教えただけで作文や算術がよく出来る〝港の子供〟たちは沖仲仕ではなく船員になる。そこから更に航海術や数学の教育を受けて航海士や船長を目指す。途中、貿易商に誘われて陸に上がる者もいた。
「家族全員の名前をかける様にしてやっただけだ」
魚の腹から口を離すとベレトはそう言った。
「でもよぉセンセイ、諦めないで教えてくれたのはアンタだけだったんだぜ?この間生まれた子供の出生届はあいつが書いたんだ!」
「ああ!無事に生まれたのか!めでたいな。名前は?」
「ラファエルだ」
デアドラ港に入港する混載貨物船はありとあらゆる品を扱う。希少かつ貴重な武器の素材になるウーツ鉱やダークメタル、植物の種子、ガラス製品、茶葉、穀物、果物、布など重さも硬さも大きさも何もかも違う物を船が転覆しないように儲けが出るように大量に積み込まねばならない。目の前の店主の名字はキルステンだ。きっとラファエルは良い船乗りもしくは沖仲仕になるだろう。
「俺たち本当に感謝してるんだ。センセイが文字を教え始めてから港の雰囲気が変わった。だから港長に呼ばれたんだぜ。どんなもん食わせて貰ったのか教えてくれよ」
「牡蠣がいいな」
今食ったじゃねぇか、と呆れた顔で笑う店主は荷揚げの際に落下してきたウーツ鉱の塊が膝を直撃し、杖なしには歩くことができない身体になっている。しかし多少は算術が出来たことが彼を救った。そういう命綱を出来るだけたくさんの沖仲仕に持って欲しい、とベレトは思っている。
「それにしてもセンセイはすげえ食うなあ。この後カイショクなんだろ?入るのか?」
「いや、会食だけでは絶対満腹にならないから先に少し食べておこうと思ってな」
山積みになっている貝殻の中に食べ終わった魚の串を差し込んだベレトは口臭予防のため、レモンの櫛切りを咥えた。港長は若い頃からその愛らしい見た目に反し、港湾内のどの荒くれものたちよりも腕っぷしが強い。港長旗を掲げた港長船が港湾内の見回りに出ると彼女を知るあらゆるものがその身を正す。港長ヒルダ=ヴァレンティン=ゴネリル刀自とその若き護衛レオニー=ピネッリの前で自然体でいられるのは巡警ベレト=アイスナーしかいない。
「先生、こんなところにいたのか!遅れないように連れて来いって言われて探してたんだよ」
食事をしていると時間を忘れてしまう。ベレトは牡蠣小屋の店主に別れを告げ、迎えにきた呆れ顔のレオニーと共に波止場を後にした。
「しかし本当によく食うなあ」
「夕食の前に軽い夕食をとっただけだ」
屋敷までの足としてヒルダが馬車を寄越してくれていた。ベレトが御者に心付けを渡して客車に乗り込むと先客が目に入る。一体、誰だろうか。
「何があったんだレオニー?」
「望遠鏡が教会の禁制品に加わるってさ。多分その相談だろ」
石畳の上を走る馬車の中ならば車輪の音が邪魔をして話が外に漏れることはない。無言のまま目深にかぶった帽子で顔を隠している先客について、レオニーが何も言わないのでベレトも言及しなかった。
王として最初の半世紀は復興と融和に必死だった。次の半世紀は眷属の作り上げた檻からヒトの精神を自由にしようと努力したが、人々がレアからベレトに依存の対象を変更しただけだった。いつか手を引かねば自分もレアのようになってしまうかもしれない。そう思ってベレトはガルグ=マクを去った。黒鷲の子供たちの子孫は努力しているが制度も疲弊して社会が無力感に苛まれる時期が訪れたのだろう。
そういう状況にあって真面目な人々は原典に立ち返ろうとする。ガルグ=マクを中心としてセイロス教の原理主義が広まっていた。ベレトもセテスもセイロス教の聖典に変更を加えなかったため統一王の威光が消えた今、時代錯誤な規律が再び蘇ってきても全くおかしくない。輝かしき三百年は去り暗黒の十六世紀が始まった、と後の人々に言われる揺り戻しの時期がフォドラにおいて始まりつつあった。
───
・自らの磁気を調整し反発したり吸い寄せられたりする状況を利用して上下移動をする
・圧力をかけた時も酸素に晒した時のように硬化しダイアモンドと同等の硬度を備えた
───
目深にかぶった帽子で顔を隠した男は挨拶もせず、ベレトの聞き覚えのある声でセイロス教の教義は不自然だ、と言った。
それはそうだろう、他人事のようにベレトは思った。眷族がヒトを管理するために作った宗教なのだから。その後、敬虔な人々が十世紀近く理論武装を重ねたのがセイロス教だ。ベレトが百年程度抗ったところで敵うはずもない。識字率を上げて印刷と出版を自由にした。本の値段が下がり教典を個人的に読めるようにしても人々は論戦では聖職者に敵わない。
「首都ガルグ=マクではデアドラヘの外航船の入港を禁じろという意見も出ているそうだ」
船積港が外国である船舶を外航船と言う。レオニーが男の話を聞いて、形の良い眉を無言で跳ね上げた。レスター地方にとって東方貿易から得られる収入は莫大で生命線とも言える。険しいフォドラの喉元を超えねばならない陸路や飛竜による空路は大型貨物船を使った海上輸送には敵わない。
「フォドラの船が外海へ行くのを妨害するために望遠鏡が禁制品になったのだろう。レンズと筒をパルミラから売ってもらうしかないな」
「その発想はいいね、簡単に組み立てられるように説明書きも付けよう。技術は使わなくなるとすぐに失われる。異物の俺からしたらもったいない話だと思うよ」
六大貴族の一角を担うヌーヴェル家もブリギットやダグザとの交易で莫大な利益を得ていたはずだ。そしてその利益を魔道学院、改めフェルディア総合大学に寄付している。ヌーヴェル家のものたちが真っ先にこの動きに反撥しそうなものだがガルグ=マクでは一体、何があったのだろうか。ベレトの言葉を受け、帽子の男がつばの角度を直してため息をついた。そのため息にも聞き覚えがある。
ベレトはそっと手を伸ばして男の袖と手袋の隙間に見える地肌を指で叩いた。予想すらしていない動きだったのか男は息を呑んで堪えている。声を出すことを堪えたのか暗器を出すことを堪えたのか。
「長手袋をすることだ。言葉は完璧でもここでフォドラのものではないと分かってしまう。顔を隠すくらいだ。知られたくないのだろう?」
「あんた本当にただの巡警なのか?」
レオニーが耐え切れない、と言った風情で吹き出した。
「ああ、今日の会食はきっと面白いことになるだろうな!外の警備に就くのが残念だ」
馬車がヒルダの所有する屋敷に到着し、車輪の音が秘密を守ってくれなくなったので皆は再び口を閉じて馬車から降りた。この屋敷は高台にありデアドラ港が一望出来る美しい屋敷だが、港長を務めている間は港のすぐそばにある公邸に住む決まりなので本宅にすることが出来ない。
レオニーは客が二人とも屋内に入ったのを見届け御者から受け取った槍を構えた。玄関に立ち屋根に向かって叫ぶ。
「イグナーツだっけ?上空は任せたよ!」
屋敷内にいる客の方が化け物の様に強いことをレオニーは知っている。しかし物事には形式が必要で、客人も護衛を連れてきていた。上空警備なら本来はペガサスの方がいいのだが目立ち過ぎるので弓兵にした、と先方から事前に連絡をもらっている。細い体付きの男だが確かに弓の腕は一流である事は見せてもらったのでレオニーに異存はない。
ベレトと帽子の男を出迎えたヒルダは美しい歳の取り方をしていた。口の悪い港の男どもを黙らせていたのは強さだけが理由ではない。その証拠にベレトの謎の連れも少し緊張していた。食卓には既に数名の先客が着席している。値踏みするかのような視線が二人に向けられた。
「外套を脱いで帽子を取りなさい。今から皆を紹介するわ」
扉を閉じ食堂を密室にしたヒルダの言葉に従い、謎の客人は帽子を取って顔を見せた。褐色の肌に緑の目、前髪で小さな三つ編みを一本作っている。
黒髪に青い目の先客が不満げに何か呟いた。ベレトには聞き取ることが出来なかった連れの言葉を嗜めた男性は、紫色の髪を肩まで伸ばしている。金鹿の面々は個性が強くてんでばらばらに見えたが結びつきは強いらしい。年齢に開きがあれど学級の全員が同じ時代に存在し、薄いながらも関わりがあるのは初めて見た。
「こちらはエドマンド辺境伯とそのご令嬢のマリアンヌ」
よろしく、と言って微笑む黒髪の壮年男性は水色の髪をした十歳くらいの娘を連れて来ている。戦後二十年ほど経った頃だろうか。土地開発に絡んで救援要請があり、リンハルトがその際に得た英雄の遺産はエドマンド家に置いてきた。
「こちらはコーデリア伯リシテア」
「こちらはグロスタール伯ローレンツ」
エドマンド家は確かマリアンヌの直系でグロスタール家はローレンツの弟が継いだが、コーデリア家は傍系のものが継いでいる。二人とも家を再興したい、と陳情に来た先祖と顔立ちが似ていた。そしてリシテアの外見はディミトリと違って、ベレトの記憶に影響されていない。
「こちらはベレト=アイスナー」
名前を呼ばれベレトの意識は現在に戻った。レスター地方のもう一つの貿易港であるエドマンド港を管理するエドマンド家、アミッド大河の河川港であるアミッド港を管理するコーデリア家、そして何故かグロスタール家のものがいる。レスター地方の名家の者が一堂に介していた。彼らが集まらねばならない謎の客は何者なのか。
「皆さん、彼がフォドラ商会の新しい〝クロード〟よ。ローレンツはもう親しかったわね」
パルミラ王国は最初に最短航路の探索と確保に成功した船団に全ての権利を与えた。成功した船団は自分達の商会に目的地の名前をつけることが出来る。単純な名乗りは全てを独占している証で、最終的には相手国を経済的に支配することを目的とする危険な存在だ。〝クロード〟はパルミラ王国と戦い続け、その危険性を理解していた旧レスター諸侯同盟の名家達がフォドラ商会に送り込んだ密偵頭だった。
謎の客のうち一人の正体は分かったが、という視線がベレトに向かう。
「彼はこちらに一切悪意がないわ。それはゴネリル家が保証する。さあ、センセイ!言いたいことがあれば言って」
ヒルダが沖仲仕たちのような抑揚でセンセイ、とベレトのことを呼ぶので彼は吹き出してしまった。
「全く……悪ふざけが過ぎる。でも保証してくれてありがとう。英雄の遺産に適応し過ぎるものが家中にいたら隠さずフェルディア総合大学の魔道研究所に必ず相談してください。適切な処置をすれば生活に影響は出ません。だから恐れずに人生を楽しんで長生きしてほしい。あなた方は紋章の乗り物ではない」
かなり唐突だったが、ベレトは王であった時に言いたかったことをついに言葉に出来た。エーデルガルトにもディミトリたちにも言ってやりたかった。席を立ち小さなマリアンヌと視線を合わせるため、床に膝をつく。
「いきなり言われて怖かったね。でも今日言ったことを忘れないで。ブルトガングは主でもなければ敵でもない。ただの剣だから」
背後から拍手が聞こえた。
「あんたすごい度胸だな。俺もセンセイと呼びたいね」
「悪意がないならどう呼んでくれても構わないさ、名前なんて所詮、記号に過ぎない。〝クロード〟ならそれは分かっているはずだ」
ローレンツは軽口を叩く二人をじっと見つめている。リシテアはそんなローレンツを見つめてヒルダ刀自に判らない筈がないだろう、と思っていた。
───
次に神祖がお作りになられた畑を耕し糸を紡ぐ者たちは逆らうことをしなかったので安らぎを得た神祖は深い眠りについた。
残された聖人達は畑を耕し糸を紡ぐ者たちが二度と逆らうことのないように彼らの目をかすませ、物をあまり考えられないようにした。
───
ヒルダはそろそろ古希を迎える年頃でエドマンド辺境伯は四十代。ローレンツは三十歳になったばかりでリシテアが二十四歳だ。統一王と同じ名を名乗るヒルダの部下は見た目こそ自分と同じくらいだが、実はヒルダ刀自より遥かに年上なのではないだろうか?リシテアには何故かそのように感じられた。あのヒルダが彼の前では無意識に年下の娘のごとく振る舞っている。
コーデリア家とグロスタール家は再興してから深い繋がりを持つようになった。同じ時期にベレト王から家名を継ぐ許しを直接、貰ったからだろうか。中興の祖とされる先祖同士で何か思うところがあったのは確かで、婚姻関係でも結ばれ今や親戚と言っても過言ではない。だからリシテアは新しい〝クロード〟の顔を拝んでやろう、ローレンツを不幸にしたらアプラクサスで殺すと直接言ってやろうと思って父の代わりにこの会食に参加した。
だがベレトの方が緊急度が高い───反射的にそう思った。リシテアの目の前ではまだ不審な二人がセイロス教について軽口を叩いている。際どい二人の会話を聞いて堪えきれない、といった風情でくすくす笑うヒルダはリシテアにとって憧れの人だ。美しい年の取り方と胆力に本当に憧れている。
「ローレンツ、前に話した通り発表はまだだけれど私の次のデアドラ港の港長は貴方よ。これから貴方は港湾公社を率いて沿岸に出る魔獣や海賊、パルミラからの干渉だけでなく……ガルグ=マクからの干渉とも戦ってデアドラ港を通る積荷も人も全て守らなくてはならない。だから一番頼りになる部下を貴方に直接紹介したかった」
ローレンツは優雅に微笑んでお任せください、とだけ言った。百年前ならば海賊や魔獣それに密輸の対策だけで済んだが、今は身内からも足を引っ張られる状況だ。領民のためにミルディン大橋に行け、と父から命じられた時のローレンツもこんな微笑みを浮かべていたのかもしれない。
「センセイ、この子は私のお気に入りなの。守ってやってちょうだい。(剣でね)」
ヒルダはベレトに穏やかにそう言ったが、声に出さず口の形だけで剣でね、と伝えた瞬間は目が笑っていなかった。ベレトはデアドラ港湾公社には魔法職として採用されている。腰から下げているのも小ぶりな鉄の剣だけで、港湾公社には彼が剣を本格的に使えることを知るものは殆どいない。横目で周りを伺うと口の動きに注視しているものはいなかった。リシテアとエドマンド辺境伯はマリアンヌと話していたし〝クロード〟は年長者たちの会話を聞くふりをして、ローレンツを見つめている。
〝クロード〟はベレトが気づいた通り、三十歳を過ぎたのだから子供扱いは止めて欲しい、と頬を赤く染めてヒルダに言い返すローレンツを見ていた。肌の色が薄いと感情の機微が顔色に表れやすい。今日はその白い顔が映える水色の襯衣と体の線にきちんと沿った黒の上着を着ていた。襟元や袖口から見えるフリルの形が完璧で、肩まで伸ばした紫色の髪を美しい刺繍の入った白いリボンでひとまとめにしている。なんと暴き甲斐のある包み紙だろう、と思う。
昨日の寝室では君のお披露目だな、リシテアは君に言いたいことがあるらしいぞ、とローレンツから言われていたのに蓋を開けてみれば自分より遥かに胡散臭い人物がいてクロードは調子が狂ってしまった。
皆、ヒルダにしてやられたと言える。ヒルダの鳴らしたベルを合図に使用人たちが次々と料理や飲み物を持ってきた。彼らに聞かれれても構わない話題は料理と天気くらいしかない。
給仕を終えた使用人たちが下がり、それまでヒルダたちの会話を邪魔しないように娘と小声で話すだけだったエドマンド辺境伯が本題について発言した。
「しかし国内に閉じこもることを是とするこの有り様では海軍の常設は遠のきましたね。望遠鏡を使って索敵出来ないのならば海軍の意味がありませんし、全ての方針を無視して新しく軍港など作ったらガルグ=マクから睨まれてしまう」
作戦の度に結成され、終了すると解散するのがこの時代の海軍の在り方だった。沿岸警備は武装した船とそれぞれ契約して委託しているが、行き交う船舶が増加した今それだけでは心許ない。
「その件についてはアンヴァル港やヌーヴェル港とも連携する必要があるでしょうね。この場の私達だけで動いたらレスターはまた独立するつもりかと言われてしまうわ。そこはそんな面倒なことは避けたい、が皆の本音だろうけれど」
そう言いながらヒルダは器用にフォークとナイフで白身魚の骨を外して切り分けた。医師から食べられるうちは大丈夫と言われたが、元気なうちに完璧な状態でローレンツに役目を継がせたいと思っている。今日の会食はその最初の一歩だ。
「実際は逃げられる側に余裕や甲斐性がないんだ。だから縛りつけようとする。それは旧市街にとってとても残念なことだ」
旧市街にはセイロス教の総本山がある。ベレトの過激な発言に一同は押し黙った。この言葉も彼の本心だろう。〝クロード〟はそう見立てた。先ほどあれだけ鋭く教会の方針を批判していたにも関わらず、彼は本当に残念そうな顔をしている。
「これは望遠鏡や外航船だけの問題ではありません。リシテアの主治医もパルミラから輸入した薬剤を扱っていたせいで、嫌がらせを受けた。陸路の規制はまだ話に上がってもいないというのに」
付け合わせの野菜まできれいに食べて皿を空にしたローレンツが玉ねぎを残しているリシテアを見つめながら言った。リシテアはローレンツの視線を無視して皿の右下にフォークとナイフを並べて置いている。
「夫のイグナーツが医師を守ってくれなかったら、私は治療を受けられなかったでしょう」
今のリシテアは野菜嫌いは持ち越しているようだが前の彼女が想定していたより長生きをして、なんとイグナーツと結婚したという。だが闘病中の彼女はどんな状態だったのだろうか。ディミトリの目にベレトの記憶が影響した可能性があるようにリシテアにもベレトの記憶が影響していたのかもしれない。もしそうだとしたら───教え子たちの次の人生でもまた、こうしてすれ違えるとしたら、ベレトはその時の為に健康で結婚して幸せに過ごしているリシテアを覚えておかねばならない。それに敵対せず同じ陣営で共に過ごしているローレンツとクロードの姿も覚えておかねばならない。
「何か新しいことを始めようとするたびに旧市街の許可が必要になるとしたら新しいことは何もできない。許可を求めている間に古くなる。それが分かっていても旧市街はフォドラの全てをにぎる誘惑に耐えられない。精神を縛ろうとするはずだ」
「悪い子は地獄に堕ちて良い子は天国に行けるかもしれないけれど、悪い子は世界中どこにでも行けるのよ」
ベレトとヒルダの会話を聞いたエドマンド辺境伯が教育に悪いですな、と言いながらヒルダのために杯を掲げた。先ほどから続く際どい会話に若者たちは緊張しきっているかと思いきや〝クロード〟だけは口の中に残った魚の骨を一本ずつ指で摘んで皿の上に載せている。彼はご褒美の飴玉が割れないように勤めを果たすだろう。
7.
───
一六一〇年
大水で神祖に滅ぼされた〝最初の人々〟は陽の光の元で生きていかれぬ身となり地の底の冥界へ追いやられた。
冥界に追いやられた〝最初の人々〟は地上に戻ろうとして手足を地中から地上へと延ばすが〝今の人々〟は目が霞んでいるためそのことに気付かない。
───
ロディ海岸にある、使われていない教会に身なりの良い不思議な親子が住んでいた。村に教会の建物はあるのだが司祭が長い間何故か全く派遣されずにいる。村に信仰魔法の使い手も絶えて久しかったので村人は親子を受け入れていた。村人たちは紋章のことなど知る由もない。娘が回復魔法を使う際たまに浮かび上がる紋章を見ても〝セッちゃん〟の紋章は綺麗だなと思うだけだった。父親の〝キッさん〟は海と共に育った村人たちが呆れるほど釣りが下手だ。哀れに思った漁師が帰宅するついでにその日にとれた魚を二、三匹渡していく。村の老人や病人、怪我人の様子を見て回り、親子は静かに暮らしていた。
〝セッちゃん〟はどうやら身体が弱いらしい。最近はよく寝込むようになった。たまに手紙などが届くことだし、こんな田舎にいるより都会の大きな教会や施療院で診てもらった方が良いのではないか。村人たちは口々にそう言ったが、手は尽くしたので娘の身体が動くうちは亡くなった妻の思い出が残るこの土地で過ごしたい、と言う。〝キッさん〟の笑顔があまりに寂しそうだったので村人たちは何も言えなくなってしまった。
自分かフレン宛の手紙か何かが届いたのだろう。そう考えたセテスこと〝キッさん〟は村人の声を聞いて勝手口の扉を開けた。目の前には道案内をした村人と再会を諦めていた古い友人が立っている。ますます色が濃くなっているセテスの髪の毛を一瞥し〝キッさん〟と小さな声で言って笑いを堪えていた。
「笑うな。大したもてなしもできないが入ってくれ」
ガルグ=マクにいた頃にセテスたちが住んでいた部屋と比べると質素で狭いが、ベレトには彼らが穏やかな暮らしを送っているように感じられる。
「フレン、いやセスリーンの具合は?」
「あまり良くない。今も眠っているし次に目覚めたら急いで前の眠りで世話になった女子修道院へ連れていかねば」
レアの最期も眠ってばかりだったので、嫌でもその姿と今のフレンがベレトの中で重なってしまう。重い空気を変えるため、その修道院へ自分が見舞いに行けるのかを聞いて茶化すとセテスも力が抜けたのか小さく口の端を上げた。
「男子禁制なのが女子修道院だ。聖職者であれば入れるが今の姿では無理だろうな」
勧められて席についたベレトは世俗そのものの格好をしている。最近流行の縦縞模様の外套を着て伸ばした若草色の髪を後ろでひとつに束ねていた。かぶって三角帽子はデアドラ風に羽飾り付きで両脇と後を折り返してある。
「最近の流行はわからないな、何故鍔を折り返すのだろう」
「水が勝手に流れ落ちてくれて便利なんだ。長いこと港で働いていたから、帆や帆柱から水が落ちてきてくることがしょっちゅうあった」
セテスはファイアーで湯を沸かし紅茶を淹れた。茶器はガルグ=マクから持ってきたものだろう。ベレトにも見覚えがある。ベレトが手土産に持参したデアドラ名物の焼き菓子を紅茶に浸したのでセテスの眉間に少し皺が寄った。だがこの焼き菓子は非常に硬い。飲み物に浸して食べるのが前提の物なのでベレトはセテスを無視した。
「こちらは大丈夫なのか?」
硬い焼き菓子をぼりぼりと音を立てて囓るセテスとは対照的にベレトは柔らかくなった焼き菓子を静かに食べている。
「西部と比べれば、火炙りになるものはかなり少ない」
異端者狩りは貧しい土地で苛烈になる。社会不安に耐えられないのだ。温和な領主が穏便に済ませたい、と思っていても素早く異端者を火炙りにしないと激しい暴動が起きてしまう。乱暴な話だが現状ではそれが最も被害が少ない解決法だった。
「でも俺はファーガスに行くよ」
「パルミラの租界があるレスターとは違うのだ。危険すぎる。炎の紋章を見せても偽物と言われ、暴徒たちに殺されかねない」
「そうだな。今生の別れになるかもしれない。だから悔いがないように二人の顔を見に来たし、いくつか質問したかった。水葬された眷族はいるのか?」
海に出る魔獣は一体、どこで紋章石を体内に取り入れたのか。それを調べようと提案したのはクロードだった。闇に蠢くものたちは地下と地上を縄張りとしていて、残された資料を見るにどうやら海は眼中になかったらしい。
「ネメシスとの戦いの際に海で戦死して、亡骸が回収されなかったものは沢山いる」
海洋生物がその亡骸を食べれば眷族の骨を取り込んだことになってしまう。海の魔獣の出来上がりだ。
「本来はどう埋葬するのが正しかった?」
「紋章石を含む亡骸と言えども、利用するものがいないならばヒトと変わらない」
利用したのは闇に蠢くものたちと彼らのせいで精神を病んだレアだ。
「俺は彷徨い始めてから継承というものについて考え始めた。位階や立場、体質、外見それに紋章。何故これらは血が繋がっていると受け継がれるのだろう?」
「社会的な立場に関しては相続しているだけだろうに。肉体的なものに関しては遺伝、と言う」
ベレトが聞いたこともなければ目にしたこともない単語をセテスは口にした。
「セイロス教が抹消した単語はいったい何語あるんだ?特に彼らが世界を表すために使っていた独特の思考様式を一言で言えるならそれも知りたい」
「科学、だ。観察や調査をして分類する所まではフォドラの民と変わらないが、アガルタの民はそこから仮説を立て正しいか否かを試す。試した上で再現性があるかどうかを確認し、証明する。その成れの果てが墓荒らしと遺体損壊だ」
故に抹消もやむなし、と言うのが眷族の主張だった。しかし作物や家畜は人の手でより良い実りが得られるように交配されるし、漁師たちは空を見て明日の天気を知る。科学はどこからが有害でどこからが無害なのか。科学を止められるものは宗教以外にないのだろうか。
「数学でやるようなことを他の全てに当てはめるのか。なるほど」
「ベレト、何を考えている」
セテスの淹れた何杯目かの紅茶を飲み干したベレトは目を伏せ、古い友人の顔を見ずに口を開いた。
「俺は自分の人生で試すことができなかった、と思っただけだ。障害を負ったフレ……セスリーンと心臓の代わりに紋章石が埋め込んである俺の組み合わせで健康な子供は生まれたのだろうか?眷族であれヒトであれ」
レアの血を受け入れたヒトである父とレアに作り出され、紋章石で生かされていた母シトリーの間に生まれたベレトの心臓は動かなかった。ベレトが俯いていたので、セテスは手を伸ばし軽く肩を叩いた。
「愛故に突っ走る若者たちを見てみたかった気もするが、そこで踏みとどまるのは善良さだ。善良さは貴重だ。君が娘に無茶をさせなかったおかげであの子は最期まで自由に体を動かし、修道女の友人を山ほど作って生活を楽しみ学校を設立した。未婚だったが無為な生だったというものはいないだろう」
「そうだな、それはその通りだ」
「それに近頃は……我々は増えるために存在した訳ではない、と思うのだ。滅びかけの一族の負け惜しみに聞こえるかもしれないが、これは私の本音だ。さあ、セスリーンの、いや、フレンの顔を見てやってくれ」
セテスはベレトを娘の寝室に案内し、扉を背に立ったまま目頭を押さえた。扉の向こう側から勇気を出せなかったことをフレンに詫びながら嗚咽するベレトの声が聞こえる。だが、悔いはない。畳む
6.
───
一五二〇年
・与える鉱物の色によって作る膜の色が変化する。藍銅絋を与えると青になった。
・一定以上の酸素に晒し続けると硬化して鉱物の様になった
───
フェルディアでの暮らしを切り上げたベレトは旧レスター諸侯同盟の首都、水の都デアドラに来ていた。ファーガス地方では目にしなかった生牡蠣を殆ど噛まずにのみこむと体の中から海の香りがする。ベレトが貝の美味しさに目覚めたのはデアドラに来てからだった。
手元の牡蠣から海に視線を向ければ、沖の方に帆柱を何本も立てた巨大な帆船が何隻も行き来しているのが見える。ベレトはデアドラでは髪を染めず、若草色のまま少し伸ばして眼鏡をかけフェルディア出身のベレト=アイスナーとしてデアドラ港で働いている。
当初、ベレトはあることを確かめるため、パルミラへ行こうとしていた。しかしデアドラで懐かしい名前を聞いたのでレスター地方でしばらく過ごすことに決めた。デアドラ港はレスター諸侯同盟時代の文化を色濃く残している場所で、港を管理経営しているのは領主のリーガン家ではない。デアドラ港湾公社だ。
デアドラ港湾公社はレスター諸侯同盟時代に成立したデアドラ港湾法に基づき発足している。デアドラ港湾法はデアドラ港から得られる利益をリーガン家に独占させまいとしたレスター諸侯同盟の名家たちの差し金により成立した。港長はリーガン家以外から選ばれ港湾の管理経営権を全て握る。一元化されたことによりデアドラ港はますます発展したのでその伝統はいまだに生きていた。
ベレトは港湾公社の中でも港湾内の治安を守る巡警、という部門で働いている。港湾内の犯罪取り締まりは巡警の担当で密輸や密入国が起きないように目を光らせていた。そして荷積みや荷揚げをする沖仲仕(おきなかし)たちが起こす騒ぎを鎮めるのもベレトたち巡警の役目だ。
近頃は造船技術が発達したため混載貨物船は接岸出来ないほどの大型船ばかりになっている。そんな船が入港する際は沖仲仕たちが一斉に小さな艀で乗り込み、荷揚げや荷積みをする。港は水上輸送と陸上輸送が切り替わる境界線上にあり、ふたつの世界が重なる場所は独特の文化を持つ。
沖仲仕は外の世界から見れば日雇いの胡散臭い労務者だが、実は高い技術を持っている。彼らは船と荷を見ただけで、何をどの順番でどのように移動させるのかを熟知しなければならない。それでも毎年何件もの重大事故が起きる。
そんな環境下の彼らは気が荒くしょっちゅう騒ぎを起こす。その騒ぎを収めるのも、可能ならば起こさせないのもベレトの仕事だ。早朝に入港予定の船の荷揚げや荷積みのために雇われたのに到着が遅れて大量の沖仲仕たちが埠頭で夕方や深夜まで待機する───ベレトはそんな時に今までの巡警がやらなかった画期的な方法で騒ぎが起きないようにしていた。
屋台の店主が頼んでいない魚の串焼きをベレトの皿においた。
「センセイ、これは俺からの奢りだ。弟が世話になった」
フェルディナントが苦心して作り上げた義務教育制度だが、受けそびれる集団がどうしても出てくる。ベレトは待機させられた沖仲仕たちが持て余した時間を喧嘩で潰さないよう、無料で文字と算術を教えていた。ガルグ=マクやフェルディアで面倒を見ていたのは勉強が出来る若者だったのでまったく勝手が違う。
港で働く彼らに文字をAから順に教えようとしても拒絶して覚えてくれない。まずは自分の名前から文字を教えていく。港湾地区にも学校があるのだがそういった工夫はしてくれないらしい。普通に教えただけで作文や算術がよく出来る〝港の子供〟たちは沖仲仕ではなく船員になる。そこから更に航海術や数学の教育を受けて航海士や船長を目指す。途中、貿易商に誘われて陸に上がる者もいた。
「家族全員の名前をかける様にしてやっただけだ」
魚の腹から口を離すとベレトはそう言った。
「でもよぉセンセイ、諦めないで教えてくれたのはアンタだけだったんだぜ?この間生まれた子供の出生届はあいつが書いたんだ!」
「ああ!無事に生まれたのか!めでたいな。名前は?」
「ラファエルだ」
デアドラ港に入港する混載貨物船はありとあらゆる品を扱う。希少かつ貴重な武器の素材になるウーツ鉱やダークメタル、植物の種子、ガラス製品、茶葉、穀物、果物、布など重さも硬さも大きさも何もかも違う物を船が転覆しないように儲けが出るように大量に積み込まねばならない。目の前の店主の名字はキルステンだ。きっとラファエルは良い船乗りもしくは沖仲仕になるだろう。
「俺たち本当に感謝してるんだ。センセイが文字を教え始めてから港の雰囲気が変わった。だから港長に呼ばれたんだぜ。どんなもん食わせて貰ったのか教えてくれよ」
「牡蠣がいいな」
今食ったじゃねぇか、と呆れた顔で笑う店主は荷揚げの際に落下してきたウーツ鉱の塊が膝を直撃し、杖なしには歩くことができない身体になっている。しかし多少は算術が出来たことが彼を救った。そういう命綱を出来るだけたくさんの沖仲仕に持って欲しい、とベレトは思っている。
「それにしてもセンセイはすげえ食うなあ。この後カイショクなんだろ?入るのか?」
「いや、会食だけでは絶対満腹にならないから先に少し食べておこうと思ってな」
山積みになっている貝殻の中に食べ終わった魚の串を差し込んだベレトは口臭予防のため、レモンの櫛切りを咥えた。港長は若い頃からその愛らしい見た目に反し、港湾内のどの荒くれものたちよりも腕っぷしが強い。港長旗を掲げた港長船が港湾内の見回りに出ると彼女を知るあらゆるものがその身を正す。港長ヒルダ=ヴァレンティン=ゴネリル刀自とその若き護衛レオニー=ピネッリの前で自然体でいられるのは巡警ベレト=アイスナーしかいない。
「先生、こんなところにいたのか!遅れないように連れて来いって言われて探してたんだよ」
食事をしていると時間を忘れてしまう。ベレトは牡蠣小屋の店主に別れを告げ、迎えにきた呆れ顔のレオニーと共に波止場を後にした。
「しかし本当によく食うなあ」
「夕食の前に軽い夕食をとっただけだ」
屋敷までの足としてヒルダが馬車を寄越してくれていた。ベレトが御者に心付けを渡して客車に乗り込むと先客が目に入る。一体、誰だろうか。
「何があったんだレオニー?」
「望遠鏡が教会の禁制品に加わるってさ。多分その相談だろ」
石畳の上を走る馬車の中ならば車輪の音が邪魔をして話が外に漏れることはない。無言のまま目深にかぶった帽子で顔を隠している先客について、レオニーが何も言わないのでベレトも言及しなかった。
王として最初の半世紀は復興と融和に必死だった。次の半世紀は眷属の作り上げた檻からヒトの精神を自由にしようと努力したが、人々がレアからベレトに依存の対象を変更しただけだった。いつか手を引かねば自分もレアのようになってしまうかもしれない。そう思ってベレトはガルグ=マクを去った。黒鷲の子供たちの子孫は努力しているが制度も疲弊して社会が無力感に苛まれる時期が訪れたのだろう。
そういう状況にあって真面目な人々は原典に立ち返ろうとする。ガルグ=マクを中心としてセイロス教の原理主義が広まっていた。ベレトもセテスもセイロス教の聖典に変更を加えなかったため統一王の威光が消えた今、時代錯誤な規律が再び蘇ってきても全くおかしくない。輝かしき三百年は去り暗黒の十六世紀が始まった、と後の人々に言われる揺り戻しの時期がフォドラにおいて始まりつつあった。
───
・自らの磁気を調整し反発したり吸い寄せられたりする状況を利用して上下移動をする
・圧力をかけた時も酸素に晒した時のように硬化しダイアモンドと同等の硬度を備えた
───
目深にかぶった帽子で顔を隠した男は挨拶もせず、ベレトの聞き覚えのある声でセイロス教の教義は不自然だ、と言った。
それはそうだろう、他人事のようにベレトは思った。眷族がヒトを管理するために作った宗教なのだから。その後、敬虔な人々が十世紀近く理論武装を重ねたのがセイロス教だ。ベレトが百年程度抗ったところで敵うはずもない。識字率を上げて印刷と出版を自由にした。本の値段が下がり教典を個人的に読めるようにしても人々は論戦では聖職者に敵わない。
「首都ガルグ=マクではデアドラヘの外航船の入港を禁じろという意見も出ているそうだ」
船積港が外国である船舶を外航船と言う。レオニーが男の話を聞いて、形の良い眉を無言で跳ね上げた。レスター地方にとって東方貿易から得られる収入は莫大で生命線とも言える。険しいフォドラの喉元を超えねばならない陸路や飛竜による空路は大型貨物船を使った海上輸送には敵わない。
「フォドラの船が外海へ行くのを妨害するために望遠鏡が禁制品になったのだろう。レンズと筒をパルミラから売ってもらうしかないな」
「その発想はいいね、簡単に組み立てられるように説明書きも付けよう。技術は使わなくなるとすぐに失われる。異物の俺からしたらもったいない話だと思うよ」
六大貴族の一角を担うヌーヴェル家もブリギットやダグザとの交易で莫大な利益を得ていたはずだ。そしてその利益を魔道学院、改めフェルディア総合大学に寄付している。ヌーヴェル家のものたちが真っ先にこの動きに反撥しそうなものだがガルグ=マクでは一体、何があったのだろうか。ベレトの言葉を受け、帽子の男がつばの角度を直してため息をついた。そのため息にも聞き覚えがある。
ベレトはそっと手を伸ばして男の袖と手袋の隙間に見える地肌を指で叩いた。予想すらしていない動きだったのか男は息を呑んで堪えている。声を出すことを堪えたのか暗器を出すことを堪えたのか。
「長手袋をすることだ。言葉は完璧でもここでフォドラのものではないと分かってしまう。顔を隠すくらいだ。知られたくないのだろう?」
「あんた本当にただの巡警なのか?」
レオニーが耐え切れない、と言った風情で吹き出した。
「ああ、今日の会食はきっと面白いことになるだろうな!外の警備に就くのが残念だ」
馬車がヒルダの所有する屋敷に到着し、車輪の音が秘密を守ってくれなくなったので皆は再び口を閉じて馬車から降りた。この屋敷は高台にありデアドラ港が一望出来る美しい屋敷だが、港長を務めている間は港のすぐそばにある公邸に住む決まりなので本宅にすることが出来ない。
レオニーは客が二人とも屋内に入ったのを見届け御者から受け取った槍を構えた。玄関に立ち屋根に向かって叫ぶ。
「イグナーツだっけ?上空は任せたよ!」
屋敷内にいる客の方が化け物の様に強いことをレオニーは知っている。しかし物事には形式が必要で、客人も護衛を連れてきていた。上空警備なら本来はペガサスの方がいいのだが目立ち過ぎるので弓兵にした、と先方から事前に連絡をもらっている。細い体付きの男だが確かに弓の腕は一流である事は見せてもらったのでレオニーに異存はない。
ベレトと帽子の男を出迎えたヒルダは美しい歳の取り方をしていた。口の悪い港の男どもを黙らせていたのは強さだけが理由ではない。その証拠にベレトの謎の連れも少し緊張していた。食卓には既に数名の先客が着席している。値踏みするかのような視線が二人に向けられた。
「外套を脱いで帽子を取りなさい。今から皆を紹介するわ」
扉を閉じ食堂を密室にしたヒルダの言葉に従い、謎の客人は帽子を取って顔を見せた。褐色の肌に緑の目、前髪で小さな三つ編みを一本作っている。
黒髪に青い目の先客が不満げに何か呟いた。ベレトには聞き取ることが出来なかった連れの言葉を嗜めた男性は、紫色の髪を肩まで伸ばしている。金鹿の面々は個性が強くてんでばらばらに見えたが結びつきは強いらしい。年齢に開きがあれど学級の全員が同じ時代に存在し、薄いながらも関わりがあるのは初めて見た。
「こちらはエドマンド辺境伯とそのご令嬢のマリアンヌ」
よろしく、と言って微笑む黒髪の壮年男性は水色の髪をした十歳くらいの娘を連れて来ている。戦後二十年ほど経った頃だろうか。土地開発に絡んで救援要請があり、リンハルトがその際に得た英雄の遺産はエドマンド家に置いてきた。
「こちらはコーデリア伯リシテア」
「こちらはグロスタール伯ローレンツ」
エドマンド家は確かマリアンヌの直系でグロスタール家はローレンツの弟が継いだが、コーデリア家は傍系のものが継いでいる。二人とも家を再興したい、と陳情に来た先祖と顔立ちが似ていた。そしてリシテアの外見はディミトリと違って、ベレトの記憶に影響されていない。
「こちらはベレト=アイスナー」
名前を呼ばれベレトの意識は現在に戻った。レスター地方のもう一つの貿易港であるエドマンド港を管理するエドマンド家、アミッド大河の河川港であるアミッド港を管理するコーデリア家、そして何故かグロスタール家のものがいる。レスター地方の名家の者が一堂に介していた。彼らが集まらねばならない謎の客は何者なのか。
「皆さん、彼がフォドラ商会の新しい〝クロード〟よ。ローレンツはもう親しかったわね」
パルミラ王国は最初に最短航路の探索と確保に成功した船団に全ての権利を与えた。成功した船団は自分達の商会に目的地の名前をつけることが出来る。単純な名乗りは全てを独占している証で、最終的には相手国を経済的に支配することを目的とする危険な存在だ。〝クロード〟はパルミラ王国と戦い続け、その危険性を理解していた旧レスター諸侯同盟の名家達がフォドラ商会に送り込んだ密偵頭だった。
謎の客のうち一人の正体は分かったが、という視線がベレトに向かう。
「彼はこちらに一切悪意がないわ。それはゴネリル家が保証する。さあ、センセイ!言いたいことがあれば言って」
ヒルダが沖仲仕たちのような抑揚でセンセイ、とベレトのことを呼ぶので彼は吹き出してしまった。
「全く……悪ふざけが過ぎる。でも保証してくれてありがとう。英雄の遺産に適応し過ぎるものが家中にいたら隠さずフェルディア総合大学の魔道研究所に必ず相談してください。適切な処置をすれば生活に影響は出ません。だから恐れずに人生を楽しんで長生きしてほしい。あなた方は紋章の乗り物ではない」
かなり唐突だったが、ベレトは王であった時に言いたかったことをついに言葉に出来た。エーデルガルトにもディミトリたちにも言ってやりたかった。席を立ち小さなマリアンヌと視線を合わせるため、床に膝をつく。
「いきなり言われて怖かったね。でも今日言ったことを忘れないで。ブルトガングは主でもなければ敵でもない。ただの剣だから」
背後から拍手が聞こえた。
「あんたすごい度胸だな。俺もセンセイと呼びたいね」
「悪意がないならどう呼んでくれても構わないさ、名前なんて所詮、記号に過ぎない。〝クロード〟ならそれは分かっているはずだ」
ローレンツは軽口を叩く二人をじっと見つめている。リシテアはそんなローレンツを見つめてヒルダ刀自に判らない筈がないだろう、と思っていた。
───
次に神祖がお作りになられた畑を耕し糸を紡ぐ者たちは逆らうことをしなかったので安らぎを得た神祖は深い眠りについた。
残された聖人達は畑を耕し糸を紡ぐ者たちが二度と逆らうことのないように彼らの目をかすませ、物をあまり考えられないようにした。
───
ヒルダはそろそろ古希を迎える年頃でエドマンド辺境伯は四十代。ローレンツは三十歳になったばかりでリシテアが二十四歳だ。統一王と同じ名を名乗るヒルダの部下は見た目こそ自分と同じくらいだが、実はヒルダ刀自より遥かに年上なのではないだろうか?リシテアには何故かそのように感じられた。あのヒルダが彼の前では無意識に年下の娘のごとく振る舞っている。
コーデリア家とグロスタール家は再興してから深い繋がりを持つようになった。同じ時期にベレト王から家名を継ぐ許しを直接、貰ったからだろうか。中興の祖とされる先祖同士で何か思うところがあったのは確かで、婚姻関係でも結ばれ今や親戚と言っても過言ではない。だからリシテアは新しい〝クロード〟の顔を拝んでやろう、ローレンツを不幸にしたらアプラクサスで殺すと直接言ってやろうと思って父の代わりにこの会食に参加した。
だがベレトの方が緊急度が高い───反射的にそう思った。リシテアの目の前ではまだ不審な二人がセイロス教について軽口を叩いている。際どい二人の会話を聞いて堪えきれない、といった風情でくすくす笑うヒルダはリシテアにとって憧れの人だ。美しい年の取り方と胆力に本当に憧れている。
「ローレンツ、前に話した通り発表はまだだけれど私の次のデアドラ港の港長は貴方よ。これから貴方は港湾公社を率いて沿岸に出る魔獣や海賊、パルミラからの干渉だけでなく……ガルグ=マクからの干渉とも戦ってデアドラ港を通る積荷も人も全て守らなくてはならない。だから一番頼りになる部下を貴方に直接紹介したかった」
ローレンツは優雅に微笑んでお任せください、とだけ言った。百年前ならば海賊や魔獣それに密輸の対策だけで済んだが、今は身内からも足を引っ張られる状況だ。領民のためにミルディン大橋に行け、と父から命じられた時のローレンツもこんな微笑みを浮かべていたのかもしれない。
「センセイ、この子は私のお気に入りなの。守ってやってちょうだい。(剣でね)」
ヒルダはベレトに穏やかにそう言ったが、声に出さず口の形だけで剣でね、と伝えた瞬間は目が笑っていなかった。ベレトはデアドラ港湾公社には魔法職として採用されている。腰から下げているのも小ぶりな鉄の剣だけで、港湾公社には彼が剣を本格的に使えることを知るものは殆どいない。横目で周りを伺うと口の動きに注視しているものはいなかった。リシテアとエドマンド辺境伯はマリアンヌと話していたし〝クロード〟は年長者たちの会話を聞くふりをして、ローレンツを見つめている。
〝クロード〟はベレトが気づいた通り、三十歳を過ぎたのだから子供扱いは止めて欲しい、と頬を赤く染めてヒルダに言い返すローレンツを見ていた。肌の色が薄いと感情の機微が顔色に表れやすい。今日はその白い顔が映える水色の襯衣と体の線にきちんと沿った黒の上着を着ていた。襟元や袖口から見えるフリルの形が完璧で、肩まで伸ばした紫色の髪を美しい刺繍の入った白いリボンでひとまとめにしている。なんと暴き甲斐のある包み紙だろう、と思う。
昨日の寝室では君のお披露目だな、リシテアは君に言いたいことがあるらしいぞ、とローレンツから言われていたのに蓋を開けてみれば自分より遥かに胡散臭い人物がいてクロードは調子が狂ってしまった。
皆、ヒルダにしてやられたと言える。ヒルダの鳴らしたベルを合図に使用人たちが次々と料理や飲み物を持ってきた。彼らに聞かれれても構わない話題は料理と天気くらいしかない。
給仕を終えた使用人たちが下がり、それまでヒルダたちの会話を邪魔しないように娘と小声で話すだけだったエドマンド辺境伯が本題について発言した。
「しかし国内に閉じこもることを是とするこの有り様では海軍の常設は遠のきましたね。望遠鏡を使って索敵出来ないのならば海軍の意味がありませんし、全ての方針を無視して新しく軍港など作ったらガルグ=マクから睨まれてしまう」
作戦の度に結成され、終了すると解散するのがこの時代の海軍の在り方だった。沿岸警備は武装した船とそれぞれ契約して委託しているが、行き交う船舶が増加した今それだけでは心許ない。
「その件についてはアンヴァル港やヌーヴェル港とも連携する必要があるでしょうね。この場の私達だけで動いたらレスターはまた独立するつもりかと言われてしまうわ。そこはそんな面倒なことは避けたい、が皆の本音だろうけれど」
そう言いながらヒルダは器用にフォークとナイフで白身魚の骨を外して切り分けた。医師から食べられるうちは大丈夫と言われたが、元気なうちに完璧な状態でローレンツに役目を継がせたいと思っている。今日の会食はその最初の一歩だ。
「実際は逃げられる側に余裕や甲斐性がないんだ。だから縛りつけようとする。それは旧市街にとってとても残念なことだ」
旧市街にはセイロス教の総本山がある。ベレトの過激な発言に一同は押し黙った。この言葉も彼の本心だろう。〝クロード〟はそう見立てた。先ほどあれだけ鋭く教会の方針を批判していたにも関わらず、彼は本当に残念そうな顔をしている。
「これは望遠鏡や外航船だけの問題ではありません。リシテアの主治医もパルミラから輸入した薬剤を扱っていたせいで、嫌がらせを受けた。陸路の規制はまだ話に上がってもいないというのに」
付け合わせの野菜まできれいに食べて皿を空にしたローレンツが玉ねぎを残しているリシテアを見つめながら言った。リシテアはローレンツの視線を無視して皿の右下にフォークとナイフを並べて置いている。
「夫のイグナーツが医師を守ってくれなかったら、私は治療を受けられなかったでしょう」
今のリシテアは野菜嫌いは持ち越しているようだが前の彼女が想定していたより長生きをして、なんとイグナーツと結婚したという。だが闘病中の彼女はどんな状態だったのだろうか。ディミトリの目にベレトの記憶が影響した可能性があるようにリシテアにもベレトの記憶が影響していたのかもしれない。もしそうだとしたら───教え子たちの次の人生でもまた、こうしてすれ違えるとしたら、ベレトはその時の為に健康で結婚して幸せに過ごしているリシテアを覚えておかねばならない。それに敵対せず同じ陣営で共に過ごしているローレンツとクロードの姿も覚えておかねばならない。
「何か新しいことを始めようとするたびに旧市街の許可が必要になるとしたら新しいことは何もできない。許可を求めている間に古くなる。それが分かっていても旧市街はフォドラの全てをにぎる誘惑に耐えられない。精神を縛ろうとするはずだ」
「悪い子は地獄に堕ちて良い子は天国に行けるかもしれないけれど、悪い子は世界中どこにでも行けるのよ」
ベレトとヒルダの会話を聞いたエドマンド辺境伯が教育に悪いですな、と言いながらヒルダのために杯を掲げた。先ほどから続く際どい会話に若者たちは緊張しきっているかと思いきや〝クロード〟だけは口の中に残った魚の骨を一本ずつ指で摘んで皿の上に載せている。彼はご褒美の飴玉が割れないように勤めを果たすだろう。
7.
───
一六一〇年
大水で神祖に滅ぼされた〝最初の人々〟は陽の光の元で生きていかれぬ身となり地の底の冥界へ追いやられた。
冥界に追いやられた〝最初の人々〟は地上に戻ろうとして手足を地中から地上へと延ばすが〝今の人々〟は目が霞んでいるためそのことに気付かない。
───
ロディ海岸にある、使われていない教会に身なりの良い不思議な親子が住んでいた。村に教会の建物はあるのだが司祭が長い間何故か全く派遣されずにいる。村に信仰魔法の使い手も絶えて久しかったので村人は親子を受け入れていた。村人たちは紋章のことなど知る由もない。娘が回復魔法を使う際たまに浮かび上がる紋章を見ても〝セッちゃん〟の紋章は綺麗だなと思うだけだった。父親の〝キッさん〟は海と共に育った村人たちが呆れるほど釣りが下手だ。哀れに思った漁師が帰宅するついでにその日にとれた魚を二、三匹渡していく。村の老人や病人、怪我人の様子を見て回り、親子は静かに暮らしていた。
〝セッちゃん〟はどうやら身体が弱いらしい。最近はよく寝込むようになった。たまに手紙などが届くことだし、こんな田舎にいるより都会の大きな教会や施療院で診てもらった方が良いのではないか。村人たちは口々にそう言ったが、手は尽くしたので娘の身体が動くうちは亡くなった妻の思い出が残るこの土地で過ごしたい、と言う。〝キッさん〟の笑顔があまりに寂しそうだったので村人たちは何も言えなくなってしまった。
自分かフレン宛の手紙か何かが届いたのだろう。そう考えたセテスこと〝キッさん〟は村人の声を聞いて勝手口の扉を開けた。目の前には道案内をした村人と再会を諦めていた古い友人が立っている。ますます色が濃くなっているセテスの髪の毛を一瞥し〝キッさん〟と小さな声で言って笑いを堪えていた。
「笑うな。大したもてなしもできないが入ってくれ」
ガルグ=マクにいた頃にセテスたちが住んでいた部屋と比べると質素で狭いが、ベレトには彼らが穏やかな暮らしを送っているように感じられる。
「フレン、いやセスリーンの具合は?」
「あまり良くない。今も眠っているし次に目覚めたら急いで前の眠りで世話になった女子修道院へ連れていかねば」
レアの最期も眠ってばかりだったので、嫌でもその姿と今のフレンがベレトの中で重なってしまう。重い空気を変えるため、その修道院へ自分が見舞いに行けるのかを聞いて茶化すとセテスも力が抜けたのか小さく口の端を上げた。
「男子禁制なのが女子修道院だ。聖職者であれば入れるが今の姿では無理だろうな」
勧められて席についたベレトは世俗そのものの格好をしている。最近流行の縦縞模様の外套を着て伸ばした若草色の髪を後ろでひとつに束ねていた。かぶって三角帽子はデアドラ風に羽飾り付きで両脇と後を折り返してある。
「最近の流行はわからないな、何故鍔を折り返すのだろう」
「水が勝手に流れ落ちてくれて便利なんだ。長いこと港で働いていたから、帆や帆柱から水が落ちてきてくることがしょっちゅうあった」
セテスはファイアーで湯を沸かし紅茶を淹れた。茶器はガルグ=マクから持ってきたものだろう。ベレトにも見覚えがある。ベレトが手土産に持参したデアドラ名物の焼き菓子を紅茶に浸したのでセテスの眉間に少し皺が寄った。だがこの焼き菓子は非常に硬い。飲み物に浸して食べるのが前提の物なのでベレトはセテスを無視した。
「こちらは大丈夫なのか?」
硬い焼き菓子をぼりぼりと音を立てて囓るセテスとは対照的にベレトは柔らかくなった焼き菓子を静かに食べている。
「西部と比べれば、火炙りになるものはかなり少ない」
異端者狩りは貧しい土地で苛烈になる。社会不安に耐えられないのだ。温和な領主が穏便に済ませたい、と思っていても素早く異端者を火炙りにしないと激しい暴動が起きてしまう。乱暴な話だが現状ではそれが最も被害が少ない解決法だった。
「でも俺はファーガスに行くよ」
「パルミラの租界があるレスターとは違うのだ。危険すぎる。炎の紋章を見せても偽物と言われ、暴徒たちに殺されかねない」
「そうだな。今生の別れになるかもしれない。だから悔いがないように二人の顔を見に来たし、いくつか質問したかった。水葬された眷族はいるのか?」
海に出る魔獣は一体、どこで紋章石を体内に取り入れたのか。それを調べようと提案したのはクロードだった。闇に蠢くものたちは地下と地上を縄張りとしていて、残された資料を見るにどうやら海は眼中になかったらしい。
「ネメシスとの戦いの際に海で戦死して、亡骸が回収されなかったものは沢山いる」
海洋生物がその亡骸を食べれば眷族の骨を取り込んだことになってしまう。海の魔獣の出来上がりだ。
「本来はどう埋葬するのが正しかった?」
「紋章石を含む亡骸と言えども、利用するものがいないならばヒトと変わらない」
利用したのは闇に蠢くものたちと彼らのせいで精神を病んだレアだ。
「俺は彷徨い始めてから継承というものについて考え始めた。位階や立場、体質、外見それに紋章。何故これらは血が繋がっていると受け継がれるのだろう?」
「社会的な立場に関しては相続しているだけだろうに。肉体的なものに関しては遺伝、と言う」
ベレトが聞いたこともなければ目にしたこともない単語をセテスは口にした。
「セイロス教が抹消した単語はいったい何語あるんだ?特に彼らが世界を表すために使っていた独特の思考様式を一言で言えるならそれも知りたい」
「科学、だ。観察や調査をして分類する所まではフォドラの民と変わらないが、アガルタの民はそこから仮説を立て正しいか否かを試す。試した上で再現性があるかどうかを確認し、証明する。その成れの果てが墓荒らしと遺体損壊だ」
故に抹消もやむなし、と言うのが眷族の主張だった。しかし作物や家畜は人の手でより良い実りが得られるように交配されるし、漁師たちは空を見て明日の天気を知る。科学はどこからが有害でどこからが無害なのか。科学を止められるものは宗教以外にないのだろうか。
「数学でやるようなことを他の全てに当てはめるのか。なるほど」
「ベレト、何を考えている」
セテスの淹れた何杯目かの紅茶を飲み干したベレトは目を伏せ、古い友人の顔を見ずに口を開いた。
「俺は自分の人生で試すことができなかった、と思っただけだ。障害を負ったフレ……セスリーンと心臓の代わりに紋章石が埋め込んである俺の組み合わせで健康な子供は生まれたのだろうか?眷族であれヒトであれ」
レアの血を受け入れたヒトである父とレアに作り出され、紋章石で生かされていた母シトリーの間に生まれたベレトの心臓は動かなかった。ベレトが俯いていたので、セテスは手を伸ばし軽く肩を叩いた。
「愛故に突っ走る若者たちを見てみたかった気もするが、そこで踏みとどまるのは善良さだ。善良さは貴重だ。君が娘に無茶をさせなかったおかげであの子は最期まで自由に体を動かし、修道女の友人を山ほど作って生活を楽しみ学校を設立した。未婚だったが無為な生だったというものはいないだろう」
「そうだな、それはその通りだ」
「それに近頃は……我々は増えるために存在した訳ではない、と思うのだ。滅びかけの一族の負け惜しみに聞こえるかもしれないが、これは私の本音だ。さあ、セスリーンの、いや、フレンの顔を見てやってくれ」
セテスはベレトを娘の寝室に案内し、扉を背に立ったまま目頭を押さえた。扉の向こう側から勇気を出せなかったことをフレンに詫びながら嗚咽するベレトの声が聞こえる。だが、悔いはない。畳む
「flow」第1部8〜9「異端審問」#完売本 #flow #イングリット #ユーリス #メルセデス #リンハルト #ドロテア #ベルナデッタ
8.
───
一六一二年
聖人たちだけは地の底から地上へ戻らんと伸ばされる最初の人々の手足に気付いた。彼らの目は霞んでいないからである。
聖人たちは神祖に安らぎを与えた次の人々を守るために地の底から伸ばされる手足を切り捨てることにした。
───
ローヴェ領の人目につくところには必ず、ある落書きがされていた。やがてこの落書きは異端者狩りが行われていた地域全てに広がっていくのだが、この段階ではローヴェ領の中だけにとどまっている。落書きはなんであれ治安が乱れる兆しだ。意味のわからない記号のような落書きは大体、盗人たちの符丁で後日、強盗に入られたり火事にあったりすることが多い。巡警たちは記号を見つけるとどういう意味なのか、解読しようとする。だからこそ最近やたらみかける落書きの意図が読めずに困っていた。
〝NO〟と書いてあるだけだった。風刺や嫌がらせならば領主や名の知れた役人の名前や行状について.あることないことが書いてあるだろう。それにその中身から書き手を辿ることが出来る。しかし肝心の落書きは〝NO〟の一言だけなのだ。落書きだけではない。畑の麦がその形に踏みしめられていたこともある。今日は少し毛色が違っていて、役場の壁に貼ってあった官報やチラシ、ご老人言うところの引き札が〝NO〟の形に貼ってある。
この現象に困惑しているのはささやかな行政や司法だけではない。ささやかな規模ではあるがこの街には無法者たちも存在している。巡警たちがやたらとこちらを疑うが、彼らにとっても無意味な符丁だ。ただひたすら不愉快で我慢ならない。
例の形に貼り直されているチラシや官報を目にしたユーリスはまた自分たちが疑われてしまうと思い、苛立ちのあまり舌打ちをした。凝視しているうちに違和感を覚えた彼は魔が射したのか、白い指でチラシをそっと触った。この壁に貼られる紙は糊で貼られるのが常だが魔法で接着されている。やっていることは下らないが使われている魔法は恐ろしく高度だ。ローヴェ領出身でこんなことが出来るものはローヴェ領などに留まらず、成功するためにフェルディアかガルグ=マクへ行ってしまう。一連の落書きの下手人は余所者だ。
ただユーリスはこれをひたすら真面目な、馴染みの巡警に教えてやるかどうかを即決できなかった。彼女はユーリスを週に何度か市で屋台を出す串焼き屋としか思っていない。本人は口が硬いのだがいくらでも身上など調べられるものでガラテア出身であること、口減らしで巡警になったものの頑なさと正義感が邪魔をして任地から弾き出され、流れ流れてローヴェ領まで来たことをユーリスは知っている。
考えごとに没頭し過ぎていたせいだろうか。ユーリスは視線に気がつかなかった。自分に視線が向けられていると思った瞬間、振り向くと少し離れた建物の屋根が光った。遠眼鏡こと望遠鏡はセイロス教の禁忌に触れるとのことで他領はともかく、ローヴェ領内では使用出来なくなって久しい。食い荒らすほどの実りのないこの土地に余所者がなんの用事で来たのだろうか。利益も得られないのにこんなところに来るような余所者に顔を見られるのは嫌だったが、睨んでいることだけは判らせてやりたい。ユーリスはガラスが反射した光の方を睨みつけてやった。
一方、睨みつけられたベレトは離れた建物の平らな屋根の上で苦笑していた。セテスたち親子と別れた後で髪を切って黒く染めたので、士官学校で教師をしていた頃のような見た目になっている。ベレトは顔を上げて様子を見たがるイングリットの頭を軽く抑えた。
「ユーリスが気づいたな。まだ頭は下げたままで……三数えたら頭を上げていい」
ベレトは三数えると術式を解除した。壁に張り付いていた紙がバラバラと剥がれ落ち、何が表現されていたのかはその瞬間に壁を見ていたごく少数のものにしか伝わらない。
「本当にこんなことで捕らえられたメルセデスを助けられるのですか?」
「今すぐ助け出せというならオーラとライナロックをぶっ放すだけで済むが、それではメルセデスしか助けられない。今後このローヴェ領で火炙りにされるものが出ないようにするには少し時間はかかるが、これが一番だ」
ファーガスブルーの制服に身を包んだイングリッドは渋々引き下がったが、それは禁制品である望遠鏡を持った男の体捌きから彼が凄腕の戦士であることを察しているからだ。
「ユーリスは単なる串焼き屋の若者です。巻き込んでしまって良いものでしょうか?」
「いや、巻き込もう。審問会までに一人でも多く味方が欲しい」
異端審問は審問者による数日間の取り調べの後、住民たちが審問会を開催するかどうかを決める。住民たちが被疑者を守ろうとすれば開かれない。だが審問会が開かれた場合の有罪率は九割以上だ。審問会の有無は地域によってかなりの開きがある。残念ながらローヴェ領は尋問官から取り調べを受けた時点で有罪と感じる住民が多いため、審問会は開かれる確率が高い。
「デアドラのような都会の人からすれば不思議でしょうね」
イングリットが自嘲気味に呟いた。長い睫毛で陰が目元に落ちる。ガラテアもあまり雰囲気が変わらないらしい。領主たちは領民たちを導いているつもりでいるが、実際は領民たちに合わせた行動をする。王を失った混乱と恐怖でダスカーの民を犯人と決めつけ、一方的に殺戮に及んだし、若く美しいエーデルガルトが気に食わない領主を失脚させてくれるなら、と言って大陸中を侵攻した。
───貴族が必死で平民たちを導こうとしても最終的に政治は納税する彼らの意志に従わざるを得ない。それならば大衆の意志がより良いものになるような機会を与え、環境を整えるべきだ───
フェルディナント一世は義務教育について戦乱の最中からずっと考えていたという。彼の父親は為政者としては選択を失敗し続けたが、子育てには成功した。現実や大衆がフェルディナント一世の高い理想にまだ追いつかないとしても、理想を掲げ続けるのはエーギル家の使命だった。しかし六大貴族は実権を失いつつあり、それがこのような形で社会に影響を与えている。
「過ちを改めるのに遅すぎるということはない。時期の遅さは過ちを改めない理由にならない。メルセデスのところに行こうか」
デアドラから来た男は全く見覚えがないはずなのにどこか懐かしい。彼はメルセデスが異端審問官に連行された場に居合わせた際、息を呑んでから彼女の名前を小さく叫んだ。彼女が連行される様な人物ではないと証言してくれるかもしれない。審問官の側について護衛をしていたイングリットは聞き取れた、その声に驚いて男の顔を見た。メルセデスを拘束するふりをして励ましながらも、男から目を離さなかった結果がユーリスを覗き見している。尋問が芳しくなければメルセデスへの取り調べは激化していくだろう。
メルセデスが拘束されたのは彼女がよそ者であったこと、修道士であるにも関わらず信仰魔法ではなく薬草で医療行為を行ったことが理由だ。患者の中には稀に信仰魔法に拒絶反応を起こすものがいる。怪我を治しても、その代わりに視力聴力の一時的な低下や激しい頭痛に苛まれてしまう。メルセデスが判断した通り体質によって治療法を変更する方が合理的なのだが、彼女を訝しんだものがいたのだ。
禁制品の双眼鏡を胸元にしまうとベレトは屋根から地上の路地裏へ直接、繋がっている外階段を一段跳びで駆け下りた。イングリットも後に続いたが階段がぐらついていて冷や冷やする。それでも巡警である彼女が同行しなくてはベレトは留置所に入ることが出来ないので慌てて彼を追いかけた。
───
国際宇宙ステーションの実験モジュールにおいてエアロゲルを用いた宇宙塵の収集と微生物の曝露実験が開始された。
収集された宇宙塵は実験モジュールに回収され着陸・帰還カプセルに搭載され地上に向け射出される。
───
メルセデスはガルグ=マク旧市街にあるガルグ=マク司教座付属医学校で、医療を専門とする修道士になるため教育を受けた。メルセデスの母校は聖セスリーンを守護聖人とし、信仰魔法だけでなく薬学や医学を学ぶことができる。同じ頃、イングリットも聖キッホルを守護聖人とするガルグ=マク司教座付属法学校にいた。検事それに裁判官や弁護士を目指すものは資格取得を目指して四年間、巡警や裁判所の書記を目指すものは二年間ここで学ぶ。
ふたつの学校は共にフォドラ統一戦争の際に統一王ベレトに協力し、共に戦った司教セテスとその妹フレンが対になるかのように設立した。寮も共同だったため、イングリットとメルセデスはそこで出会っている。
留置所に入れられたメルセデスはイングリットが目を離した隙に手錠を後ろ手に変えられていた。あれでは飲み物や食べ物を口にする際、犬猫のように皿に顔を近づけねばならない。異端審問官の意図を理解したイングリットは震えるような怒りを覚えた。
後ろ手で印を結んで魔法を発動させるかもしれないのに何を考えているのか、と自分と入れ替わりに留置所へ詰めていた異端審問官の衛兵を叱り付ける。その勢いを借りて今日の尋問は異端審問官ではなく自分がやる、と言って彼らを追い出した。
手錠の位置を肩が少しでも楽になるように再び前へと変える。本来ならば魔法の使い手を拘束する時は定期的にサイレスで呪文が唱えられないようにせねばならない。
それも知らなかったのかそれとも出来なかったのか。とにかく異端審問官の質の悪さが分かる。メルセデスは憔悴していたが、イングリットの一連の茶番の意図を正確に読み深く安堵のため息をついた。肩を小さく回して凝りをほぐしている。
「流石に参ってしまったわ〜。私は治療をしただけなのに」
「メルセデス、デアドラに知人はいますか?」
淡い色の短く整えられた頭を横に振って、メルセデスは友人の質問に答えた。瞳には戸惑いが浮かんでいる。では近頃、落書きをして回っている謎の男ベレトはどこでメルセデスのことを知ったのだろうか。
改めて怪しんでいるとどこからかリブローが発動し、メルセデスの体が癒されていくのがイングリットにもわかった。彼女はベレトを参考人として留置所に連れて入る予定だったが、ベレトから拒否されている。怪しまれないため建物には入らず手助けをする、と言っていたがこういうことかと合点がいった。
「質問を変えます。こういう芸当をやってのける知人はいますか?」
メルセデスはしばし考え込んだ後に直接はいない、と返答した。心当たりはあるのだが、荒唐無稽過ぎて真面目な友人には言えない。今後どうしたものか───迷えるイングリットが口を開けたまま無言でいるとメルセデスが手首に鎖をつけたまま腕を伸ばし、両手でイングリットの頭を撫でた。
「私はまだ耐えられるから大丈夫よ」
囚われの身である友人から気を使われたイングリットが情けなさにため息をついた。気持ちばかりが空回りしている。
無為なやり取りを終え、部屋を去るイングリットの後ろ姿がメルセデスには何だか小さく見えた。きっと自信を失っているからだろう。
歴史の長いガルグ=マクには数多くの怪談が伝わっていて、その中のひとつに「不死の借り出し人」がある。本名を名乗れないものがあからさまな偽名としてわざと統一王の名を使っただけであろう、という種明かしも込みでメルセデスはその怪談が好きだった。「不死の借り出し人」にはメルセデスの実家に伝わる書き残してはいけない口伝と内容が一致する部分がある。不死者はかつてメルセデスの先祖に言った。
───探さなければ何も見つからない。だから気が済むまで彷徨うつもりだ───
留置所を出たイングリットが待ち合わせ場所であるユーリスの串焼き屋につくと、ベレトが既に串焼きに齧り付いていた。目の前の皿には既に大量の串が積み重ねられている。リブローをかけたあとでさっさと撤退していたらしい。
「変わった知り合いだな、イングリット」
ユーリスの言葉を適当に誤魔化し、雑踏に消えていってくれるような小声でイングリットはベレトに質問した。
「どこでメルセデスと知り合ったのですか?」
「彼女の親戚と古い知り合いで元から名前だけは知っていた」
「たったそれだけの繋がりで何故、こんなややこしいやり方で助けようとするんだ?」
「でもユーリス、あれの影響かは分かりませんが、離婚する勇気のなかった方がきちんと離婚しました。あのままではいつか夫から殺されてしまうと心配だったので良かったです」
そういうとイングリットはベレトから差し出された串焼きにかぶりついた。ユーリスの串焼きはあいかわらず絶妙な味付けで、毎日食べたくなる。
「参事会の連中が同意したらどうするんだ?」
「ライナロックでなんとかするが、そうならずに済むようにこの屋台をユーリスが店を出さない日に貸してくれ。椅子もあるしちょうど良さそうだ。明日なんてどうだろうか」
「俺様になんの得があるんだ!どんな裏がある?」
「裏はないが得はある。イングリットが好きになってくれるかもしれないぞ」
虚を突かれ顔を真っ赤にするユーリスたちを見て、黒鷲の教え子たちが教え子同士で付き合っていたならばこんな感じだったのだろうかとベレトは思った。
翌日からユーリスの厚意で貸してもらった屋台でベレトは身分や立場で分け隔てることなく無料で悩みごとを聞き、治癒魔法を連日かけ続けた。夜はユーリスと二人で領内に〝NO〟と刻む。
落書きの犯人であることはばれなかった。しかし教会の許可を取らず、世俗の極みである市場で数日間に渡って治癒魔法を無料でかけ続けたため、ベレトは計算通り異端審問官に取り調べされることになった。
イングリットに叱られたことを覚えていたのか、異端審問官の衛兵は手が前になるようにベレトに手錠をかけた。イングリットから聞いた通り、留置所は男女で檻が別れている。だが真向かいなのでメルセデスと直接話すためベレトはわざと逮捕された。
ベレトを尋問した異端審問官は職業というより商売で異端審問官をやっている類の人間らしく、罪を贖うために浄財を出してくれそうな本家はあるのかとしきりに聞いてくる。メルセデスもベレトも外れだったのであからさまにやる気をなくしたようで、なんの儲けも出せないローヴェ領での裁判をさっさと終えたがっている。腹いせに異端者を火炙りにして、もっと豊かな土地へ移動しようと考えているのが丸分かりだった。
「メルセデス、聞いていたか?俺の名前を聞いた瞬間にやる気をなくしていたな。アイスナーなんてファーガスでは典型的な平民の名字だからな」
見張り番も眠る夜更けに、ベレトは狭い廊下越しに苦笑しながらメルセデスにそう話しかけた。窓から入る白い月明かりが彼女を照らし神々しい雰囲気になっている。
「私の実家に伝わる不死者の話をしても良いかしら?こちらは名乗った覚えはないのに不死者は何故か私たちの名を知っているのよ」
「それは不思議な話だな」
一方でベレトのいる部屋は窓の位置の都合か月明かりはあまり入らず顔に濃い影が下りている。ベレトの探し物は未だに見つかっていないが、それを伝えてメルセデスの一族の口伝が変化してしまうのも何となくもったいない。
───
地上の微生物が宇宙空間でどれくらい生存できるのか、どの様に変化していくのかについて調査する為に極限環境微生物と酵母を入れた容器を実験モジュール外に設置。
生物及び有機化合物の惑星間移動が可能かどうかを検証する。
───
巡回中の異端審問官が見つけた異端者を審問会にかけるには領主と領民から作る参事会双方の合意が必要だ。審問の結果、命を奪うことが殆どであるため異端審問官は必ず地元の事情も汲んだ、という形式を守らねばならない。実入りの悪い地域では異端者を弾劾する動きが地元の領主批判の熱狂に繋がる前に異端者を速やかに火炙りにして終わるものだが、街に溢れる妙な落書きのせいか今回のローヴェ領では珍しく領主と参事会の意見が割れた。
何に対しての〝NO〟なのか全く明示されていないため教会が落書きの内容を取り締まることはできない。それに落書きという行為を取り締まるのは世俗の権力の仕事だ。領内の巡警たちが田舎故の人手不足の中で本当に困惑しながら、下手人を探し続けていたことが記録にきちんと残っている。イングリットが真面目に書類を作成していたので異端審問官は地元の巡警が怠惰だと難癖をつけることもできなかった。
残されていた記録によるとやり方も段々と巧妙になり、巡警たちも取り締まれないようになっていった。〝NO〟と読めるように物が並べ替えてあったり地面が濡れている。前者はともかく後者は上からバケツで水をかけてしまえばもう読めない。物を並べ替えるもよは厳罰に処す、道に水を撒くものは厳罰に処す、などと世俗に属する彼らが言えるわけはなかった。どちらも日常の行為で、許可制になどしてしまったら業務を圧迫してしまう。
領主である現在のローヴェ伯は個人的な意見はともかくガルグ=マクで教育を受け、神学について多少は知識がある。異端審問官が何をもって修道士たちを異端と判断したのか、彼にも多少は把握できた。
だから異端審問官に逆らえなかった。しかし参事会の人々はそうではない。彼らは皆信心深く毎週末必ず礼拝に出席する。しかしセイロス教聖典の読み方を理解していない。綴りは判れど教義の読み解き方を知らずに祈りを捧げている。
領民たちにとって余所者はこちらが田舎ものであることを蔑む、非常に腹が立つ存在だ。今回槍玉に挙げられた余所者二人は何やらよく分からない教会の難しい作法を守らなかったらしい。それでもローヴェ領の病人とけが人に尽くしてくれた。
たった一言〝NO〟と言えば二人を助けられる。そんな訳で参事会の出した結論は〝NO〟だった。
領主さまや尊い教会から派遣された偉い人の意見に異議を唱えるなど恐ろしくて出来ない。ずっとそう感じていたが実際は呆気なかった。それは違う、と主張しても世界は滅びなかった。それに領主が恐れていたようなことも起きていない。領民が領主や教会に少しでも異議を唱えるのは叛乱や暴動の始まりで、そんなことは絶対にあってはならないと考えていた。だが街は平穏を保っている。
しばらく入浴をしていないから、と焦って頬を染めるメルセデスをイングリットが喜びのあまり抱き上げていた。雲の隙間から陽が射す煉瓦造りの留置所の前で、地域に尽くすことを示すファーガスブルーに染められた巡警の制服と純潔と民への奉仕を表す白の修道服が重なり合っている。二色が風ではためく姿はただひたすら美しい。
彼女たちの顔立ちが美しいことはこの場合、重要ではなかった。修道士の本分通り病人と怪我人に尽くしたメルセデスを、巡警として真面目に職務を遂行していたイングリットが害することなく済んで幸せそうにはしゃいでいる姿が美しい。
美は人の心を動かし心の在り方を変える。心の在り方が変われば言動が変化する。イングリット自身はあまり意識していないが、真面目で巡警として地域の人に寄り添う彼女は人気者だ。参事会の面々は息子の嫁に来てくれないだろうかと皆思っている。彼女たちの作り上げた美しさによって、彼らは言語化できずとも己の選択の正しさを知った。領主であるローヴェ伯も内心では暴動が起きず、自領内で火炙りにされる異端者を出さずに済んだことを良しとしている。
ベレトは湧き立つ人々から背を向けて、祝祭のような空間から急いで距離を取ろうとする異端審問官の馬車を眺めていた。自分もセテスもいないガルグ=マクで誰がどのように絶望し、異端審問などと言う恐ろしい行為が流行ったのだろうか。
肩を軽く叩かれ振り向くとユーリスがベレトの背後をとっているをすり抜けられた。こんなことはかれこれ何年ぶりだろうか。
「あの馬車に向けてライナロックを一発かまそうなんて思ってないよな?」
ベレトが無言で首を横に振ったのを見てユーリスが人の悪そうな笑みを浮かべる。
「残念だ。手伝ってやりたかったよ」
「イングリットのところに行かなくていいのか?」
「俺は野暮じゃないからああ言う場に割り込まないんだ。楽しそうだし好きなだけくるくるまわらせておこうぜ」
ユーリスもベレトと同じく、審問官たちが乗り込んだ馬車がどこへ向かっているのか確認しに来たらしい。
「あれはガルグ=マクだな。あいつら司教座に泣きつきたくても、どう報告すれば良いか分からねえだろうな。上手いやり方だよ」
「流行るといいんだが」
これからガルグ=マクに乗り込むか地方の様子を見て回るか決めねば───そう思った瞬間、ベレトは強烈な眠気に襲われて意識を失った。ユーリスがいなければ頭を石畳で強打していただろう。彼が血相を変えて身体を支えてくれたことも分からず、これがフレンが嫌っていた〝眠り〟かと思う隙もなかった。
〝眠り〟からベレトが目覚めた時、傍にいたのはベレトの知らないメルセデスだった。確か彼女は肩より長く髪を伸ばしていたはずなのに。それに課題協力を依頼した覚えもない。何故自分を看病しているのがマヌエラやリンハルトではないのだろうか、と思った瞬間にベレトの中で時が四世紀ほど進んだ。こんな風に時間の感覚を失うのは久しぶりで、身体にも負荷がかかっていたのか咳き込んでしまう。自分はヒトとしては規格外の長命だが、眷族の中ではきっと驚くほどの短命なのだろうとベレトは悟った。
「倒れてから十日経過したわ。イングリットとユーリスは仕事。ユーリスは宿代を立て替えてくれたのよ。後で返してあげてね」
日付を聞いて深く安堵のため息をついたベレトは左胸に右手を置き再び目を閉じた。まだひたすら怠くて目を開けていられない。意識がある時はウインドを応用して鼓動があるように見せかけられるのだが、完全に意識を失ってしまったし今も怠いのでやりたくない。メルセデスは十日前、ベレトの心音や呼吸を確認した時に何を感じただろうか。
「言いふらすことでもないから言わないわ」
メルセデスはそう言ってベレトの右手の上にそっと手を重ねた。ひんやりとした心地がいい手だった。
「ありがとう。俺が探しているものはまだ見つからないんだが、たまに君たちに会えると本当に嬉しいよ」
ベレトは遥か昔に失った半身ソティスのこと、孤独感に蝕まれてしまったレアのことを考えた。ベレトが地位を手放した結果、フォドラは閉塞感に満ち満ちている。眷族はどうあるべきだったのだろうか。その答えが未だにベレトには見つけられない。
9.
───
一六五〇年
生命を構成する要素がどの様にして組み合わさったのか、細胞の中にそれらが閉じ込められた理由、これらのプロセスを進めるためのエネルギーは何であったのかを説明できなければどのように生命が始まったかを説明できたとは言えない。
パンスペルミア説は根本的な疑問に答えていないという意見もある。
───
三十年ほど前に辺境の風土病がフォドラ全土を襲った。感染率と致死率が共に高く小さな村の住民が全滅したこともあったという。当時の記録によると街には節々が黒ずんだ亡骸があふれていたらしい。
医師たちは感染を予防するため革製の長衣に全身を包み仮面をつけ、無力感に苛まれながら歩き回って死者の数を数えた。医師たちと似たような格好をした聖職者たちは動けなくなった病人たちへ最後の祈りを捧げて回る。そんな日々はフォドラ全土の人口が三分の二に減少するまで続いた。
病禍を経た社会は大きな変化を遂げていく。フォドラは長らく王を持たず、貴族たちの中から執政官が選ばれていたが人材が枯渇した。この時期に初めて騎士階級出身の執政官が選ばれている。
人口減以外の、何よりも大きな変化は魔法が使えるヒトの割合が激しく減少してしまったことだ。それまでも全人口の五パーセントほどしか存在しなかったが、病禍の後は二パーセントに減少してしまった。社会は魔法に代わる何か、を早急に見つけなくてはならない。
そんな状況下で、フェルディアとフェルディアを参考に下水道が整備された各地の新市街だけは難を逃れることが出来た。皮肉なことにアガルタの民、つまり闇に蠢くものたちの技術や知識が人々を救っている。後に病は悪臭が原因とされ、生き残った人々が各地で持ち主のいなくなった土地を使い下水道や公衆浴場を整備した。
飛竜や天馬に乗って首都であるガルグ=マクからファーガス方面に向かうと大きな黒い森が見える。ガルグ=マクから北上した人々はここがもうファーガスであることを木の葉の形で知るし、ファーガスから南下した人々はこの先にもう見慣れた木々はないことを知る。その森の端には歴史は長いが規模の小さな女子修道院があった。
修道院で眠り続ける娘の介護をするため、長逗留しているセテスは行きがけに目にした光景にずっと心を痛めていた。その村では病を持ち込む余所者との接触を避けるため沈黙交易をしていたらしい。村境に木箱に入れた金銭を置いておくと商人が木箱の金銭を受け取り、必要な物を木箱の中に置いて去る。村人は商人が完全にいなくなったのを確認してから購入した物を村の中に運ぶ。セテスが上空から目にした木箱は中身が回収されないまま数日が経過していた。村人が全て死に絶えたか身動き出来る者がもういなくなってしまったのだろう。
眷族がヒトを管理するようになってから何度か病が流行ることはあったが、今回のものは規模が違う。フェルディアの下水道にしても予防手段に過ぎず治療法は見つからないままだ。セテスがつい、アガルタの民が健在であれば全く違う方法で流行病に対抗できたかもしれない、と考えてしまうほどの惨状だった。このままではフォドラの首飾りから西は無人の荒野になってしまう。ある程度の人口がなければ文明を維持することも出来ない。レアが慈しんでいたフォドラの人々、娘のフレンを愛してくれた人々の子孫が死に絶えてしまうかもしれない。
フレンの体を拭いた修道女たちはいつもなら娘の眠る病室のすぐ近くに控えているセテスが見当たらないので、不思議に思い手分けして敷地内を探した。夕闇の中、熱心に聖堂で祈るセテスの横顔は苦悩と迷いに満ちている。少しでも気を紛らわすことができればと思った修道女たちはセテスを談話室でのお茶に誘った。
質素な作りの談話室には大きな年代物の給茶器と茶碗などをしまっている硝子戸の棚があった。給茶器は三段重ねのものでファーガス特有のデザインをしている。下段に熱した炭を入れ、小さな蛇口がついた中段に入れておいた水を沸かす。上段には茶葉と湯を入れっぱなしのティーポットを置いておく。当然煮詰まっていくのだが飲む時には中段のお湯で薄める。
老いた修道女は慣れた手つきで給茶器上段からティーポットを取り外し中身を確かめた。この修道院に黒魔法の使い手はいないので炭はその代わりだろう。煮詰まって濃くなってしまったお茶をお湯で薄める。
「寒い田舎では紅茶の楽しみ方も異なるものです。来客用ではなく自分たちが楽しむためですので多少の無作法はお許しください」
そういうとセテスを招いた修道女は若い修道女に人数分の茶碗と小皿と小匙を用意させた。手早く準備するためだろうか。何を求められているのか完全に分かっている若い修道女は更に戸棚から何かの瓶とジャムの瓶を取り出した。ジャムは色からすると木苺か何かのようだった。お茶請けだろうか。蓋を開けると素朴な甘い香りが部屋中に広がった。手慣れた様子で赤いジャムを小皿に盛り付けていく。
皆の茶碗にお茶を入れて回っていた修道女が再びティーポットに中段のお湯を入れ、給茶器上段に戻すと謎の瓶の蓋を開けた。ふわっと香った匂いから察するにそれはかなりきつそうな蒸留酒だった。セイロス教では飲酒を禁止していないが推奨もしていない。修行の一環で絶つことが望ましいとされているが、この寒さでは体を温めるために必要なのだろう。
老いた修道女が上機嫌でそれぞれのジャムの上に蒸留酒を振りかけていく。呆気にとられてその様子をセテスが見ていると、ある者は幸せそうに蒸留酒で伸ばしたジャムを舐めながら紅茶を口に含み、別の者はジャムの蒸留酒がけを紅茶に混ぜて飲み始めた。セテスも見よう見まねでジャムを舐めながら紅茶を飲んでみる。紅茶も淹れ方からして異なった。濃く煮詰めたものをお湯で薄めて飲むため全く味が違う。
「これはなかなか強烈な……だが癖になるというかなんというか……」
「私どもは辛いことがある時はこうして飲み干してしまうことにしております」
老いた修道女の言葉を聞いたセテスの脳裏にある考えが閃いた。自分の血がどんな影響を及ぼすのか正確に確かめる時間も設備もない。だが眷族の血が病を予防すること、病の症状を軽くすることだけは経験から知っている。検証なしにすぐに血を与えるとしたら騒ぎにならぬよう、偽りの希望にならぬよう、分からないように与える必要があった。
だがこのお茶に混ぜてしまえばジャムの香りと甘味、蒸留酒の香りと味で血の味や匂いをごまかせるだろう。セテスも血を与えることによって、かなり自分の寿命が縮まると分かっている。だがこの惨状を目にして出来ることがあるのに何もせずにはいられなかった。
流行病は森の近くにある小さな女子修道院や周りの集落も襲ったが、不思議とその地域では発症率が低かった。白魔法を使える人材の減少を受け、フェルディア総合大学に新設された医学部の医師たちが調査にやってきた。その地域は地下水が湧き、森には薪が豊富で毎日入浴する習慣と寒くて風邪が流行る時期には沸かしたお茶しか飲まない習慣があったことを致死率の低さと結びつけている。
医師たちは気がつかなかったが、この地域で生き延びた人々には他にも共通点があった。皆、髪と瞳の色が緑色で黒魔法も白魔法も使うことができた。
そしてそれは生まれつきではなかった筈なのに、彼らの子供たちにその形質が受け継がれた。
───
一六七五年
地上に伸ばした手足が全て切られてしまったので最初の人々は目が霞んだ者たちの皮をかぶって地上の様子をうかがった。
目が霞んだ者たちは宝が宝だと分からず、地中に打ち捨てていた。宝さえあればまた地上に戻れるかもしれないと考えた最初の人々はまず目が霞んだ者たちの皮を集めることにした。
───
山を切り開いて作られた首都ガルグ=マクの新市街には、統一王に仕えた六大貴族の上屋敷が固まっている地区がある。半世紀ほど前、病が流行った時代に貴族階級はかつてのような力を失った。だが人々はそれでも執政官を輩出し続けた六大貴族を名家として扱い、敬意を払う。誰が呼びはじめたか定かではないがこの地区はハイストリートと呼ばれていた。
ここの住民はその殆どが.本宅がある自領と首都であるガルグ=マクを行き来しながら暮らしている。その一画、アールノルト家の上屋敷に士官学校へ放り込まれて不満たっぷりな子供たちが集まっていた。先祖の立派な名を与えられたリンハルト、ドロテア、ベルナデッタの三名は休日になると窮屈な寮を出て、数時間だけでも誰かの上屋敷に集まるのを何よりも大きな楽しみにしている。
ベレト統一王の御代からの習慣で、セイロス教会に叙勲されて新たに貴族となったものたちはアドラステア帝国由来の称号である〝フォン〟を冠することがなくなっていた。これは叙勲された初代アールノルト家の当主ドロテアがフォンという称号を拒否したことによる。某貴族の私生児であったという彼女が生物学上の父親への反発を持ち続けていたからだ、とも言われるが真相は明らかになっていない。
四世紀もの長い間、離れずに過ごした六大貴族たちは互いに婚姻関係を結び、名乗る姓は違えど今や気の知れた親戚のような存在になっている。三人はまずドロテアがアンヴァルから取り寄せておいた銘菓を食べ尽くした。数世紀前から歌劇団の劇場前にある名店は数多くの著名人に愛されたという。
ベルナデッタは勝手知ったるドロテアの部屋の床に大きなクッションを抱いて座り込んでいる。リンハルトに至ってはドロテアのベッドに勝手に上がって横たわり、夢うつつ状態になっていた。
「野外演習やだあ!寮に帰りたくなぁい!一週間くらいお部屋でゴロゴロしてお絵描きしたい!」
この部屋の主であるドロテアだけが室内で立っていた。机の上の箱を持って寝転んでいる幼馴染みたちに声をかける。
「二人共見てよ!」
のろのろと起き上がった二人がドロテアの持つ箱を覗き込むと見事な細工の美しい硝子ペンが天鵞絨張りの箱の中に入っていた。ベルナデッタは基本やる気がない。だがひと目見て気に入ったのか素敵だ、何か描きたい、と騒ぎ出す。
「これは綺麗だね。どこで買ったの?」
「近くの店よ。前にリンハルトが欲しがってたものも置いてあったわ」
リンハルトが欲しがっているのは片眼鏡と拡大鏡だ。
「連れて行ってよ」
二人の会話を聞いたベルナデッタがベルも絵を描くのに硝子ペンが欲しいです!と珍しく乗り気なので三人は出かけることにした。庭の様なハイストリートから外れてどんどん路地裏に入っていく。ベルナデッタの記憶では靴屋だった店の前でドロテアが立ち止まった。看板も何もかもそのままだったが、中に入ると所狭しと硝子製品が靴と靴の間に飾られている。肩まで伸ばした黒髪を黄色いリボンでひとまとめにした店主が椅子に座って商品を布で拭いていた。傍には店内に入りこんだ野良犬が丸まって眠り込んでいる。初見の客に気付いた瞳は若葉色だった。
「靴屋が夜逃げした後でこの店の権利を中身ごと買ったんだ。欲しい靴があったら履いてみるといい。売るぞ」
「あなた変わり者ですね!ベルにはわかります!」
そんなことをわざわざ本人に向かって告げるベルナデッタこそどうなんだ、と思ったが面倒くさかったのでリンハルトは黙って店内を物色している。ドロテアが言っていた通り、硝子工芸品に混ざって様々なレンズが靴と靴の間に置いてある。壁には様々な枠がかけてあって、その場で好きな枠にはめてその場で拡大鏡にしてくれるらしい。
「レンズは全部あなたが研磨したの?」
「半々かな。パルミラで修行したんだ。自分が研磨したものは眼鏡屋に卸したりご覧の通り加工してして売ってる。工芸品もパルミラのものが多いかな?あれもそう」
店主が指差した先にはトンボの羽をモチーフにしたランプシェードが飾ってあった。何故か長靴の上に。この美しくもどこか人を食ったようなふざけた感覚は確かにドロテア好みだろう、とリンハルトは思った。
ベルナデッタは球体硝子から見た風景を描きたい、とのことで球体硝子と硝子ペンを買った。いつの世も芸術家はそのモチーフが好きらしい。夢中になって球体ガラス越しに店内を眺めている。
ドロテアは売れ残っていたサンダルを買い、リンハルトは片眼鏡をひとつと片眼鏡と寸法が同じ拡大鏡をひとつ買った。リンハルトが無意識に片眼鏡をつけたまま顔の前に拡大鏡をかざす。
「リンハルト!だめですよぉ!」
「ちょっと!そういうことはヘヴリング領でやってちょうだい!」
旧市街はセイロス教の総本山だ。顔を真っ青にして焦るベルナデッタとドロテアの声を聞き、店主は眉間にしわを寄せた。親指は首をかき切っている。
「へぇ信心深いね」
セイロス教ではレンズを縦に重ねることを禁止されている。見えないものを見ようとしてはならないのだ。天上におわす女神の姿を人間が見ようと試みるなど不敬そのものである、と読み取れなくもない文章が聖典にあるから仕方がない。宗教とはそういうものだ。
「客に死なれると夢見が悪いものだ。その代わりにこれをどうぞ。そのうち試そうと思っていたものだが忙しくてまだ試していない」
店主は小さなカードの真ん中に錐で穴を開けたもの、に何かを書き付けるとリンハルトに渡した。リンハルトは中身を改めてなるほどなるほど、と言いながら片目を瞑っている。意図が完全に伝わったのか受け取ったカードを窓にかざしている。好奇心が沸きあがって興奮したせいか、白い頰は朱に染まり瞳が輝いていた。
「硝子ビーズもいただこうかな。ねえ、あなた名前は何ていうの?これからしばらく相談に乗ってもらうから知らないと不便だよ」
「ベレト=アイスナーだ」
店主の名を聞いたドロテアとベルナデッタがため息をついた。皆、偉大な歴史上の人物と名前が全く同じなのでベレトへの視線が同意や共感に満ちている。
「おや、随分と高貴な名前だね。僕はリンハルト=フォン=ヘヴリングだ」
自分の名前を棚に上げ、リンハルトがベレトを揶揄った。統一戦争の際に活躍した先祖たちもこんな風に語り合っていたのだろうか。
「ファーガスでは典型的な平民の名字だよ。石を投げればアイスナー家の者に当たる」
ベレトの言葉を聞いたリンハルトがまあ名前なんてそんなもんだよね、と言うので皆で笑ったその時、狙いすましたかのように休日の終わりを告げる教会の鐘が鳴り響いた。
数週間後の休日にリンハルト一人でベレトの店に現れた。その手にはふたつ折りにした厚紙に穴を開け、硝子ビーズを嵌めて作った単レンズ式の簡素な顕微鏡の雛型がある。
「研磨できる?あと厚紙より真鍮か何かで作った方が良さそうだよ」
レンズを前後に重ねず、ガラスビーズをひと粒使用するだけで倍率は百五十倍になる。球体レンズとして職人が研磨したレンズを使えば倍率は更に上がるだろう。
ヘヴリング卿が作った単レンズ式顕微鏡はフォドラの生物学を大きく進歩させた。構造は単純なので現在では子供たちの自由研究の定番でもある。畳む
8.
───
一六一二年
聖人たちだけは地の底から地上へ戻らんと伸ばされる最初の人々の手足に気付いた。彼らの目は霞んでいないからである。
聖人たちは神祖に安らぎを与えた次の人々を守るために地の底から伸ばされる手足を切り捨てることにした。
───
ローヴェ領の人目につくところには必ず、ある落書きがされていた。やがてこの落書きは異端者狩りが行われていた地域全てに広がっていくのだが、この段階ではローヴェ領の中だけにとどまっている。落書きはなんであれ治安が乱れる兆しだ。意味のわからない記号のような落書きは大体、盗人たちの符丁で後日、強盗に入られたり火事にあったりすることが多い。巡警たちは記号を見つけるとどういう意味なのか、解読しようとする。だからこそ最近やたらみかける落書きの意図が読めずに困っていた。
〝NO〟と書いてあるだけだった。風刺や嫌がらせならば領主や名の知れた役人の名前や行状について.あることないことが書いてあるだろう。それにその中身から書き手を辿ることが出来る。しかし肝心の落書きは〝NO〟の一言だけなのだ。落書きだけではない。畑の麦がその形に踏みしめられていたこともある。今日は少し毛色が違っていて、役場の壁に貼ってあった官報やチラシ、ご老人言うところの引き札が〝NO〟の形に貼ってある。
この現象に困惑しているのはささやかな行政や司法だけではない。ささやかな規模ではあるがこの街には無法者たちも存在している。巡警たちがやたらとこちらを疑うが、彼らにとっても無意味な符丁だ。ただひたすら不愉快で我慢ならない。
例の形に貼り直されているチラシや官報を目にしたユーリスはまた自分たちが疑われてしまうと思い、苛立ちのあまり舌打ちをした。凝視しているうちに違和感を覚えた彼は魔が射したのか、白い指でチラシをそっと触った。この壁に貼られる紙は糊で貼られるのが常だが魔法で接着されている。やっていることは下らないが使われている魔法は恐ろしく高度だ。ローヴェ領出身でこんなことが出来るものはローヴェ領などに留まらず、成功するためにフェルディアかガルグ=マクへ行ってしまう。一連の落書きの下手人は余所者だ。
ただユーリスはこれをひたすら真面目な、馴染みの巡警に教えてやるかどうかを即決できなかった。彼女はユーリスを週に何度か市で屋台を出す串焼き屋としか思っていない。本人は口が硬いのだがいくらでも身上など調べられるものでガラテア出身であること、口減らしで巡警になったものの頑なさと正義感が邪魔をして任地から弾き出され、流れ流れてローヴェ領まで来たことをユーリスは知っている。
考えごとに没頭し過ぎていたせいだろうか。ユーリスは視線に気がつかなかった。自分に視線が向けられていると思った瞬間、振り向くと少し離れた建物の屋根が光った。遠眼鏡こと望遠鏡はセイロス教の禁忌に触れるとのことで他領はともかく、ローヴェ領内では使用出来なくなって久しい。食い荒らすほどの実りのないこの土地に余所者がなんの用事で来たのだろうか。利益も得られないのにこんなところに来るような余所者に顔を見られるのは嫌だったが、睨んでいることだけは判らせてやりたい。ユーリスはガラスが反射した光の方を睨みつけてやった。
一方、睨みつけられたベレトは離れた建物の平らな屋根の上で苦笑していた。セテスたち親子と別れた後で髪を切って黒く染めたので、士官学校で教師をしていた頃のような見た目になっている。ベレトは顔を上げて様子を見たがるイングリットの頭を軽く抑えた。
「ユーリスが気づいたな。まだ頭は下げたままで……三数えたら頭を上げていい」
ベレトは三数えると術式を解除した。壁に張り付いていた紙がバラバラと剥がれ落ち、何が表現されていたのかはその瞬間に壁を見ていたごく少数のものにしか伝わらない。
「本当にこんなことで捕らえられたメルセデスを助けられるのですか?」
「今すぐ助け出せというならオーラとライナロックをぶっ放すだけで済むが、それではメルセデスしか助けられない。今後このローヴェ領で火炙りにされるものが出ないようにするには少し時間はかかるが、これが一番だ」
ファーガスブルーの制服に身を包んだイングリッドは渋々引き下がったが、それは禁制品である望遠鏡を持った男の体捌きから彼が凄腕の戦士であることを察しているからだ。
「ユーリスは単なる串焼き屋の若者です。巻き込んでしまって良いものでしょうか?」
「いや、巻き込もう。審問会までに一人でも多く味方が欲しい」
異端審問は審問者による数日間の取り調べの後、住民たちが審問会を開催するかどうかを決める。住民たちが被疑者を守ろうとすれば開かれない。だが審問会が開かれた場合の有罪率は九割以上だ。審問会の有無は地域によってかなりの開きがある。残念ながらローヴェ領は尋問官から取り調べを受けた時点で有罪と感じる住民が多いため、審問会は開かれる確率が高い。
「デアドラのような都会の人からすれば不思議でしょうね」
イングリットが自嘲気味に呟いた。長い睫毛で陰が目元に落ちる。ガラテアもあまり雰囲気が変わらないらしい。領主たちは領民たちを導いているつもりでいるが、実際は領民たちに合わせた行動をする。王を失った混乱と恐怖でダスカーの民を犯人と決めつけ、一方的に殺戮に及んだし、若く美しいエーデルガルトが気に食わない領主を失脚させてくれるなら、と言って大陸中を侵攻した。
───貴族が必死で平民たちを導こうとしても最終的に政治は納税する彼らの意志に従わざるを得ない。それならば大衆の意志がより良いものになるような機会を与え、環境を整えるべきだ───
フェルディナント一世は義務教育について戦乱の最中からずっと考えていたという。彼の父親は為政者としては選択を失敗し続けたが、子育てには成功した。現実や大衆がフェルディナント一世の高い理想にまだ追いつかないとしても、理想を掲げ続けるのはエーギル家の使命だった。しかし六大貴族は実権を失いつつあり、それがこのような形で社会に影響を与えている。
「過ちを改めるのに遅すぎるということはない。時期の遅さは過ちを改めない理由にならない。メルセデスのところに行こうか」
デアドラから来た男は全く見覚えがないはずなのにどこか懐かしい。彼はメルセデスが異端審問官に連行された場に居合わせた際、息を呑んでから彼女の名前を小さく叫んだ。彼女が連行される様な人物ではないと証言してくれるかもしれない。審問官の側について護衛をしていたイングリットは聞き取れた、その声に驚いて男の顔を見た。メルセデスを拘束するふりをして励ましながらも、男から目を離さなかった結果がユーリスを覗き見している。尋問が芳しくなければメルセデスへの取り調べは激化していくだろう。
メルセデスが拘束されたのは彼女がよそ者であったこと、修道士であるにも関わらず信仰魔法ではなく薬草で医療行為を行ったことが理由だ。患者の中には稀に信仰魔法に拒絶反応を起こすものがいる。怪我を治しても、その代わりに視力聴力の一時的な低下や激しい頭痛に苛まれてしまう。メルセデスが判断した通り体質によって治療法を変更する方が合理的なのだが、彼女を訝しんだものがいたのだ。
禁制品の双眼鏡を胸元にしまうとベレトは屋根から地上の路地裏へ直接、繋がっている外階段を一段跳びで駆け下りた。イングリットも後に続いたが階段がぐらついていて冷や冷やする。それでも巡警である彼女が同行しなくてはベレトは留置所に入ることが出来ないので慌てて彼を追いかけた。
───
国際宇宙ステーションの実験モジュールにおいてエアロゲルを用いた宇宙塵の収集と微生物の曝露実験が開始された。
収集された宇宙塵は実験モジュールに回収され着陸・帰還カプセルに搭載され地上に向け射出される。
───
メルセデスはガルグ=マク旧市街にあるガルグ=マク司教座付属医学校で、医療を専門とする修道士になるため教育を受けた。メルセデスの母校は聖セスリーンを守護聖人とし、信仰魔法だけでなく薬学や医学を学ぶことができる。同じ頃、イングリットも聖キッホルを守護聖人とするガルグ=マク司教座付属法学校にいた。検事それに裁判官や弁護士を目指すものは資格取得を目指して四年間、巡警や裁判所の書記を目指すものは二年間ここで学ぶ。
ふたつの学校は共にフォドラ統一戦争の際に統一王ベレトに協力し、共に戦った司教セテスとその妹フレンが対になるかのように設立した。寮も共同だったため、イングリットとメルセデスはそこで出会っている。
留置所に入れられたメルセデスはイングリットが目を離した隙に手錠を後ろ手に変えられていた。あれでは飲み物や食べ物を口にする際、犬猫のように皿に顔を近づけねばならない。異端審問官の意図を理解したイングリットは震えるような怒りを覚えた。
後ろ手で印を結んで魔法を発動させるかもしれないのに何を考えているのか、と自分と入れ替わりに留置所へ詰めていた異端審問官の衛兵を叱り付ける。その勢いを借りて今日の尋問は異端審問官ではなく自分がやる、と言って彼らを追い出した。
手錠の位置を肩が少しでも楽になるように再び前へと変える。本来ならば魔法の使い手を拘束する時は定期的にサイレスで呪文が唱えられないようにせねばならない。
それも知らなかったのかそれとも出来なかったのか。とにかく異端審問官の質の悪さが分かる。メルセデスは憔悴していたが、イングリットの一連の茶番の意図を正確に読み深く安堵のため息をついた。肩を小さく回して凝りをほぐしている。
「流石に参ってしまったわ〜。私は治療をしただけなのに」
「メルセデス、デアドラに知人はいますか?」
淡い色の短く整えられた頭を横に振って、メルセデスは友人の質問に答えた。瞳には戸惑いが浮かんでいる。では近頃、落書きをして回っている謎の男ベレトはどこでメルセデスのことを知ったのだろうか。
改めて怪しんでいるとどこからかリブローが発動し、メルセデスの体が癒されていくのがイングリットにもわかった。彼女はベレトを参考人として留置所に連れて入る予定だったが、ベレトから拒否されている。怪しまれないため建物には入らず手助けをする、と言っていたがこういうことかと合点がいった。
「質問を変えます。こういう芸当をやってのける知人はいますか?」
メルセデスはしばし考え込んだ後に直接はいない、と返答した。心当たりはあるのだが、荒唐無稽過ぎて真面目な友人には言えない。今後どうしたものか───迷えるイングリットが口を開けたまま無言でいるとメルセデスが手首に鎖をつけたまま腕を伸ばし、両手でイングリットの頭を撫でた。
「私はまだ耐えられるから大丈夫よ」
囚われの身である友人から気を使われたイングリットが情けなさにため息をついた。気持ちばかりが空回りしている。
無為なやり取りを終え、部屋を去るイングリットの後ろ姿がメルセデスには何だか小さく見えた。きっと自信を失っているからだろう。
歴史の長いガルグ=マクには数多くの怪談が伝わっていて、その中のひとつに「不死の借り出し人」がある。本名を名乗れないものがあからさまな偽名としてわざと統一王の名を使っただけであろう、という種明かしも込みでメルセデスはその怪談が好きだった。「不死の借り出し人」にはメルセデスの実家に伝わる書き残してはいけない口伝と内容が一致する部分がある。不死者はかつてメルセデスの先祖に言った。
───探さなければ何も見つからない。だから気が済むまで彷徨うつもりだ───
留置所を出たイングリットが待ち合わせ場所であるユーリスの串焼き屋につくと、ベレトが既に串焼きに齧り付いていた。目の前の皿には既に大量の串が積み重ねられている。リブローをかけたあとでさっさと撤退していたらしい。
「変わった知り合いだな、イングリット」
ユーリスの言葉を適当に誤魔化し、雑踏に消えていってくれるような小声でイングリットはベレトに質問した。
「どこでメルセデスと知り合ったのですか?」
「彼女の親戚と古い知り合いで元から名前だけは知っていた」
「たったそれだけの繋がりで何故、こんなややこしいやり方で助けようとするんだ?」
「でもユーリス、あれの影響かは分かりませんが、離婚する勇気のなかった方がきちんと離婚しました。あのままではいつか夫から殺されてしまうと心配だったので良かったです」
そういうとイングリットはベレトから差し出された串焼きにかぶりついた。ユーリスの串焼きはあいかわらず絶妙な味付けで、毎日食べたくなる。
「参事会の連中が同意したらどうするんだ?」
「ライナロックでなんとかするが、そうならずに済むようにこの屋台をユーリスが店を出さない日に貸してくれ。椅子もあるしちょうど良さそうだ。明日なんてどうだろうか」
「俺様になんの得があるんだ!どんな裏がある?」
「裏はないが得はある。イングリットが好きになってくれるかもしれないぞ」
虚を突かれ顔を真っ赤にするユーリスたちを見て、黒鷲の教え子たちが教え子同士で付き合っていたならばこんな感じだったのだろうかとベレトは思った。
翌日からユーリスの厚意で貸してもらった屋台でベレトは身分や立場で分け隔てることなく無料で悩みごとを聞き、治癒魔法を連日かけ続けた。夜はユーリスと二人で領内に〝NO〟と刻む。
落書きの犯人であることはばれなかった。しかし教会の許可を取らず、世俗の極みである市場で数日間に渡って治癒魔法を無料でかけ続けたため、ベレトは計算通り異端審問官に取り調べされることになった。
イングリットに叱られたことを覚えていたのか、異端審問官の衛兵は手が前になるようにベレトに手錠をかけた。イングリットから聞いた通り、留置所は男女で檻が別れている。だが真向かいなのでメルセデスと直接話すためベレトはわざと逮捕された。
ベレトを尋問した異端審問官は職業というより商売で異端審問官をやっている類の人間らしく、罪を贖うために浄財を出してくれそうな本家はあるのかとしきりに聞いてくる。メルセデスもベレトも外れだったのであからさまにやる気をなくしたようで、なんの儲けも出せないローヴェ領での裁判をさっさと終えたがっている。腹いせに異端者を火炙りにして、もっと豊かな土地へ移動しようと考えているのが丸分かりだった。
「メルセデス、聞いていたか?俺の名前を聞いた瞬間にやる気をなくしていたな。アイスナーなんてファーガスでは典型的な平民の名字だからな」
見張り番も眠る夜更けに、ベレトは狭い廊下越しに苦笑しながらメルセデスにそう話しかけた。窓から入る白い月明かりが彼女を照らし神々しい雰囲気になっている。
「私の実家に伝わる不死者の話をしても良いかしら?こちらは名乗った覚えはないのに不死者は何故か私たちの名を知っているのよ」
「それは不思議な話だな」
一方でベレトのいる部屋は窓の位置の都合か月明かりはあまり入らず顔に濃い影が下りている。ベレトの探し物は未だに見つかっていないが、それを伝えてメルセデスの一族の口伝が変化してしまうのも何となくもったいない。
───
地上の微生物が宇宙空間でどれくらい生存できるのか、どの様に変化していくのかについて調査する為に極限環境微生物と酵母を入れた容器を実験モジュール外に設置。
生物及び有機化合物の惑星間移動が可能かどうかを検証する。
───
巡回中の異端審問官が見つけた異端者を審問会にかけるには領主と領民から作る参事会双方の合意が必要だ。審問の結果、命を奪うことが殆どであるため異端審問官は必ず地元の事情も汲んだ、という形式を守らねばならない。実入りの悪い地域では異端者を弾劾する動きが地元の領主批判の熱狂に繋がる前に異端者を速やかに火炙りにして終わるものだが、街に溢れる妙な落書きのせいか今回のローヴェ領では珍しく領主と参事会の意見が割れた。
何に対しての〝NO〟なのか全く明示されていないため教会が落書きの内容を取り締まることはできない。それに落書きという行為を取り締まるのは世俗の権力の仕事だ。領内の巡警たちが田舎故の人手不足の中で本当に困惑しながら、下手人を探し続けていたことが記録にきちんと残っている。イングリットが真面目に書類を作成していたので異端審問官は地元の巡警が怠惰だと難癖をつけることもできなかった。
残されていた記録によるとやり方も段々と巧妙になり、巡警たちも取り締まれないようになっていった。〝NO〟と読めるように物が並べ替えてあったり地面が濡れている。前者はともかく後者は上からバケツで水をかけてしまえばもう読めない。物を並べ替えるもよは厳罰に処す、道に水を撒くものは厳罰に処す、などと世俗に属する彼らが言えるわけはなかった。どちらも日常の行為で、許可制になどしてしまったら業務を圧迫してしまう。
領主である現在のローヴェ伯は個人的な意見はともかくガルグ=マクで教育を受け、神学について多少は知識がある。異端審問官が何をもって修道士たちを異端と判断したのか、彼にも多少は把握できた。
だから異端審問官に逆らえなかった。しかし参事会の人々はそうではない。彼らは皆信心深く毎週末必ず礼拝に出席する。しかしセイロス教聖典の読み方を理解していない。綴りは判れど教義の読み解き方を知らずに祈りを捧げている。
領民たちにとって余所者はこちらが田舎ものであることを蔑む、非常に腹が立つ存在だ。今回槍玉に挙げられた余所者二人は何やらよく分からない教会の難しい作法を守らなかったらしい。それでもローヴェ領の病人とけが人に尽くしてくれた。
たった一言〝NO〟と言えば二人を助けられる。そんな訳で参事会の出した結論は〝NO〟だった。
領主さまや尊い教会から派遣された偉い人の意見に異議を唱えるなど恐ろしくて出来ない。ずっとそう感じていたが実際は呆気なかった。それは違う、と主張しても世界は滅びなかった。それに領主が恐れていたようなことも起きていない。領民が領主や教会に少しでも異議を唱えるのは叛乱や暴動の始まりで、そんなことは絶対にあってはならないと考えていた。だが街は平穏を保っている。
しばらく入浴をしていないから、と焦って頬を染めるメルセデスをイングリットが喜びのあまり抱き上げていた。雲の隙間から陽が射す煉瓦造りの留置所の前で、地域に尽くすことを示すファーガスブルーに染められた巡警の制服と純潔と民への奉仕を表す白の修道服が重なり合っている。二色が風ではためく姿はただひたすら美しい。
彼女たちの顔立ちが美しいことはこの場合、重要ではなかった。修道士の本分通り病人と怪我人に尽くしたメルセデスを、巡警として真面目に職務を遂行していたイングリットが害することなく済んで幸せそうにはしゃいでいる姿が美しい。
美は人の心を動かし心の在り方を変える。心の在り方が変われば言動が変化する。イングリット自身はあまり意識していないが、真面目で巡警として地域の人に寄り添う彼女は人気者だ。参事会の面々は息子の嫁に来てくれないだろうかと皆思っている。彼女たちの作り上げた美しさによって、彼らは言語化できずとも己の選択の正しさを知った。領主であるローヴェ伯も内心では暴動が起きず、自領内で火炙りにされる異端者を出さずに済んだことを良しとしている。
ベレトは湧き立つ人々から背を向けて、祝祭のような空間から急いで距離を取ろうとする異端審問官の馬車を眺めていた。自分もセテスもいないガルグ=マクで誰がどのように絶望し、異端審問などと言う恐ろしい行為が流行ったのだろうか。
肩を軽く叩かれ振り向くとユーリスがベレトの背後をとっているをすり抜けられた。こんなことはかれこれ何年ぶりだろうか。
「あの馬車に向けてライナロックを一発かまそうなんて思ってないよな?」
ベレトが無言で首を横に振ったのを見てユーリスが人の悪そうな笑みを浮かべる。
「残念だ。手伝ってやりたかったよ」
「イングリットのところに行かなくていいのか?」
「俺は野暮じゃないからああ言う場に割り込まないんだ。楽しそうだし好きなだけくるくるまわらせておこうぜ」
ユーリスもベレトと同じく、審問官たちが乗り込んだ馬車がどこへ向かっているのか確認しに来たらしい。
「あれはガルグ=マクだな。あいつら司教座に泣きつきたくても、どう報告すれば良いか分からねえだろうな。上手いやり方だよ」
「流行るといいんだが」
これからガルグ=マクに乗り込むか地方の様子を見て回るか決めねば───そう思った瞬間、ベレトは強烈な眠気に襲われて意識を失った。ユーリスがいなければ頭を石畳で強打していただろう。彼が血相を変えて身体を支えてくれたことも分からず、これがフレンが嫌っていた〝眠り〟かと思う隙もなかった。
〝眠り〟からベレトが目覚めた時、傍にいたのはベレトの知らないメルセデスだった。確か彼女は肩より長く髪を伸ばしていたはずなのに。それに課題協力を依頼した覚えもない。何故自分を看病しているのがマヌエラやリンハルトではないのだろうか、と思った瞬間にベレトの中で時が四世紀ほど進んだ。こんな風に時間の感覚を失うのは久しぶりで、身体にも負荷がかかっていたのか咳き込んでしまう。自分はヒトとしては規格外の長命だが、眷族の中ではきっと驚くほどの短命なのだろうとベレトは悟った。
「倒れてから十日経過したわ。イングリットとユーリスは仕事。ユーリスは宿代を立て替えてくれたのよ。後で返してあげてね」
日付を聞いて深く安堵のため息をついたベレトは左胸に右手を置き再び目を閉じた。まだひたすら怠くて目を開けていられない。意識がある時はウインドを応用して鼓動があるように見せかけられるのだが、完全に意識を失ってしまったし今も怠いのでやりたくない。メルセデスは十日前、ベレトの心音や呼吸を確認した時に何を感じただろうか。
「言いふらすことでもないから言わないわ」
メルセデスはそう言ってベレトの右手の上にそっと手を重ねた。ひんやりとした心地がいい手だった。
「ありがとう。俺が探しているものはまだ見つからないんだが、たまに君たちに会えると本当に嬉しいよ」
ベレトは遥か昔に失った半身ソティスのこと、孤独感に蝕まれてしまったレアのことを考えた。ベレトが地位を手放した結果、フォドラは閉塞感に満ち満ちている。眷族はどうあるべきだったのだろうか。その答えが未だにベレトには見つけられない。
9.
───
一六五〇年
生命を構成する要素がどの様にして組み合わさったのか、細胞の中にそれらが閉じ込められた理由、これらのプロセスを進めるためのエネルギーは何であったのかを説明できなければどのように生命が始まったかを説明できたとは言えない。
パンスペルミア説は根本的な疑問に答えていないという意見もある。
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三十年ほど前に辺境の風土病がフォドラ全土を襲った。感染率と致死率が共に高く小さな村の住民が全滅したこともあったという。当時の記録によると街には節々が黒ずんだ亡骸があふれていたらしい。
医師たちは感染を予防するため革製の長衣に全身を包み仮面をつけ、無力感に苛まれながら歩き回って死者の数を数えた。医師たちと似たような格好をした聖職者たちは動けなくなった病人たちへ最後の祈りを捧げて回る。そんな日々はフォドラ全土の人口が三分の二に減少するまで続いた。
病禍を経た社会は大きな変化を遂げていく。フォドラは長らく王を持たず、貴族たちの中から執政官が選ばれていたが人材が枯渇した。この時期に初めて騎士階級出身の執政官が選ばれている。
人口減以外の、何よりも大きな変化は魔法が使えるヒトの割合が激しく減少してしまったことだ。それまでも全人口の五パーセントほどしか存在しなかったが、病禍の後は二パーセントに減少してしまった。社会は魔法に代わる何か、を早急に見つけなくてはならない。
そんな状況下で、フェルディアとフェルディアを参考に下水道が整備された各地の新市街だけは難を逃れることが出来た。皮肉なことにアガルタの民、つまり闇に蠢くものたちの技術や知識が人々を救っている。後に病は悪臭が原因とされ、生き残った人々が各地で持ち主のいなくなった土地を使い下水道や公衆浴場を整備した。
飛竜や天馬に乗って首都であるガルグ=マクからファーガス方面に向かうと大きな黒い森が見える。ガルグ=マクから北上した人々はここがもうファーガスであることを木の葉の形で知るし、ファーガスから南下した人々はこの先にもう見慣れた木々はないことを知る。その森の端には歴史は長いが規模の小さな女子修道院があった。
修道院で眠り続ける娘の介護をするため、長逗留しているセテスは行きがけに目にした光景にずっと心を痛めていた。その村では病を持ち込む余所者との接触を避けるため沈黙交易をしていたらしい。村境に木箱に入れた金銭を置いておくと商人が木箱の金銭を受け取り、必要な物を木箱の中に置いて去る。村人は商人が完全にいなくなったのを確認してから購入した物を村の中に運ぶ。セテスが上空から目にした木箱は中身が回収されないまま数日が経過していた。村人が全て死に絶えたか身動き出来る者がもういなくなってしまったのだろう。
眷族がヒトを管理するようになってから何度か病が流行ることはあったが、今回のものは規模が違う。フェルディアの下水道にしても予防手段に過ぎず治療法は見つからないままだ。セテスがつい、アガルタの民が健在であれば全く違う方法で流行病に対抗できたかもしれない、と考えてしまうほどの惨状だった。このままではフォドラの首飾りから西は無人の荒野になってしまう。ある程度の人口がなければ文明を維持することも出来ない。レアが慈しんでいたフォドラの人々、娘のフレンを愛してくれた人々の子孫が死に絶えてしまうかもしれない。
フレンの体を拭いた修道女たちはいつもなら娘の眠る病室のすぐ近くに控えているセテスが見当たらないので、不思議に思い手分けして敷地内を探した。夕闇の中、熱心に聖堂で祈るセテスの横顔は苦悩と迷いに満ちている。少しでも気を紛らわすことができればと思った修道女たちはセテスを談話室でのお茶に誘った。
質素な作りの談話室には大きな年代物の給茶器と茶碗などをしまっている硝子戸の棚があった。給茶器は三段重ねのものでファーガス特有のデザインをしている。下段に熱した炭を入れ、小さな蛇口がついた中段に入れておいた水を沸かす。上段には茶葉と湯を入れっぱなしのティーポットを置いておく。当然煮詰まっていくのだが飲む時には中段のお湯で薄める。
老いた修道女は慣れた手つきで給茶器上段からティーポットを取り外し中身を確かめた。この修道院に黒魔法の使い手はいないので炭はその代わりだろう。煮詰まって濃くなってしまったお茶をお湯で薄める。
「寒い田舎では紅茶の楽しみ方も異なるものです。来客用ではなく自分たちが楽しむためですので多少の無作法はお許しください」
そういうとセテスを招いた修道女は若い修道女に人数分の茶碗と小皿と小匙を用意させた。手早く準備するためだろうか。何を求められているのか完全に分かっている若い修道女は更に戸棚から何かの瓶とジャムの瓶を取り出した。ジャムは色からすると木苺か何かのようだった。お茶請けだろうか。蓋を開けると素朴な甘い香りが部屋中に広がった。手慣れた様子で赤いジャムを小皿に盛り付けていく。
皆の茶碗にお茶を入れて回っていた修道女が再びティーポットに中段のお湯を入れ、給茶器上段に戻すと謎の瓶の蓋を開けた。ふわっと香った匂いから察するにそれはかなりきつそうな蒸留酒だった。セイロス教では飲酒を禁止していないが推奨もしていない。修行の一環で絶つことが望ましいとされているが、この寒さでは体を温めるために必要なのだろう。
老いた修道女が上機嫌でそれぞれのジャムの上に蒸留酒を振りかけていく。呆気にとられてその様子をセテスが見ていると、ある者は幸せそうに蒸留酒で伸ばしたジャムを舐めながら紅茶を口に含み、別の者はジャムの蒸留酒がけを紅茶に混ぜて飲み始めた。セテスも見よう見まねでジャムを舐めながら紅茶を飲んでみる。紅茶も淹れ方からして異なった。濃く煮詰めたものをお湯で薄めて飲むため全く味が違う。
「これはなかなか強烈な……だが癖になるというかなんというか……」
「私どもは辛いことがある時はこうして飲み干してしまうことにしております」
老いた修道女の言葉を聞いたセテスの脳裏にある考えが閃いた。自分の血がどんな影響を及ぼすのか正確に確かめる時間も設備もない。だが眷族の血が病を予防すること、病の症状を軽くすることだけは経験から知っている。検証なしにすぐに血を与えるとしたら騒ぎにならぬよう、偽りの希望にならぬよう、分からないように与える必要があった。
だがこのお茶に混ぜてしまえばジャムの香りと甘味、蒸留酒の香りと味で血の味や匂いをごまかせるだろう。セテスも血を与えることによって、かなり自分の寿命が縮まると分かっている。だがこの惨状を目にして出来ることがあるのに何もせずにはいられなかった。
流行病は森の近くにある小さな女子修道院や周りの集落も襲ったが、不思議とその地域では発症率が低かった。白魔法を使える人材の減少を受け、フェルディア総合大学に新設された医学部の医師たちが調査にやってきた。その地域は地下水が湧き、森には薪が豊富で毎日入浴する習慣と寒くて風邪が流行る時期には沸かしたお茶しか飲まない習慣があったことを致死率の低さと結びつけている。
医師たちは気がつかなかったが、この地域で生き延びた人々には他にも共通点があった。皆、髪と瞳の色が緑色で黒魔法も白魔法も使うことができた。
そしてそれは生まれつきではなかった筈なのに、彼らの子供たちにその形質が受け継がれた。
───
一六七五年
地上に伸ばした手足が全て切られてしまったので最初の人々は目が霞んだ者たちの皮をかぶって地上の様子をうかがった。
目が霞んだ者たちは宝が宝だと分からず、地中に打ち捨てていた。宝さえあればまた地上に戻れるかもしれないと考えた最初の人々はまず目が霞んだ者たちの皮を集めることにした。
───
山を切り開いて作られた首都ガルグ=マクの新市街には、統一王に仕えた六大貴族の上屋敷が固まっている地区がある。半世紀ほど前、病が流行った時代に貴族階級はかつてのような力を失った。だが人々はそれでも執政官を輩出し続けた六大貴族を名家として扱い、敬意を払う。誰が呼びはじめたか定かではないがこの地区はハイストリートと呼ばれていた。
ここの住民はその殆どが.本宅がある自領と首都であるガルグ=マクを行き来しながら暮らしている。その一画、アールノルト家の上屋敷に士官学校へ放り込まれて不満たっぷりな子供たちが集まっていた。先祖の立派な名を与えられたリンハルト、ドロテア、ベルナデッタの三名は休日になると窮屈な寮を出て、数時間だけでも誰かの上屋敷に集まるのを何よりも大きな楽しみにしている。
ベレト統一王の御代からの習慣で、セイロス教会に叙勲されて新たに貴族となったものたちはアドラステア帝国由来の称号である〝フォン〟を冠することがなくなっていた。これは叙勲された初代アールノルト家の当主ドロテアがフォンという称号を拒否したことによる。某貴族の私生児であったという彼女が生物学上の父親への反発を持ち続けていたからだ、とも言われるが真相は明らかになっていない。
四世紀もの長い間、離れずに過ごした六大貴族たちは互いに婚姻関係を結び、名乗る姓は違えど今や気の知れた親戚のような存在になっている。三人はまずドロテアがアンヴァルから取り寄せておいた銘菓を食べ尽くした。数世紀前から歌劇団の劇場前にある名店は数多くの著名人に愛されたという。
ベルナデッタは勝手知ったるドロテアの部屋の床に大きなクッションを抱いて座り込んでいる。リンハルトに至ってはドロテアのベッドに勝手に上がって横たわり、夢うつつ状態になっていた。
「野外演習やだあ!寮に帰りたくなぁい!一週間くらいお部屋でゴロゴロしてお絵描きしたい!」
この部屋の主であるドロテアだけが室内で立っていた。机の上の箱を持って寝転んでいる幼馴染みたちに声をかける。
「二人共見てよ!」
のろのろと起き上がった二人がドロテアの持つ箱を覗き込むと見事な細工の美しい硝子ペンが天鵞絨張りの箱の中に入っていた。ベルナデッタは基本やる気がない。だがひと目見て気に入ったのか素敵だ、何か描きたい、と騒ぎ出す。
「これは綺麗だね。どこで買ったの?」
「近くの店よ。前にリンハルトが欲しがってたものも置いてあったわ」
リンハルトが欲しがっているのは片眼鏡と拡大鏡だ。
「連れて行ってよ」
二人の会話を聞いたベルナデッタがベルも絵を描くのに硝子ペンが欲しいです!と珍しく乗り気なので三人は出かけることにした。庭の様なハイストリートから外れてどんどん路地裏に入っていく。ベルナデッタの記憶では靴屋だった店の前でドロテアが立ち止まった。看板も何もかもそのままだったが、中に入ると所狭しと硝子製品が靴と靴の間に飾られている。肩まで伸ばした黒髪を黄色いリボンでひとまとめにした店主が椅子に座って商品を布で拭いていた。傍には店内に入りこんだ野良犬が丸まって眠り込んでいる。初見の客に気付いた瞳は若葉色だった。
「靴屋が夜逃げした後でこの店の権利を中身ごと買ったんだ。欲しい靴があったら履いてみるといい。売るぞ」
「あなた変わり者ですね!ベルにはわかります!」
そんなことをわざわざ本人に向かって告げるベルナデッタこそどうなんだ、と思ったが面倒くさかったのでリンハルトは黙って店内を物色している。ドロテアが言っていた通り、硝子工芸品に混ざって様々なレンズが靴と靴の間に置いてある。壁には様々な枠がかけてあって、その場で好きな枠にはめてその場で拡大鏡にしてくれるらしい。
「レンズは全部あなたが研磨したの?」
「半々かな。パルミラで修行したんだ。自分が研磨したものは眼鏡屋に卸したりご覧の通り加工してして売ってる。工芸品もパルミラのものが多いかな?あれもそう」
店主が指差した先にはトンボの羽をモチーフにしたランプシェードが飾ってあった。何故か長靴の上に。この美しくもどこか人を食ったようなふざけた感覚は確かにドロテア好みだろう、とリンハルトは思った。
ベルナデッタは球体硝子から見た風景を描きたい、とのことで球体硝子と硝子ペンを買った。いつの世も芸術家はそのモチーフが好きらしい。夢中になって球体ガラス越しに店内を眺めている。
ドロテアは売れ残っていたサンダルを買い、リンハルトは片眼鏡をひとつと片眼鏡と寸法が同じ拡大鏡をひとつ買った。リンハルトが無意識に片眼鏡をつけたまま顔の前に拡大鏡をかざす。
「リンハルト!だめですよぉ!」
「ちょっと!そういうことはヘヴリング領でやってちょうだい!」
旧市街はセイロス教の総本山だ。顔を真っ青にして焦るベルナデッタとドロテアの声を聞き、店主は眉間にしわを寄せた。親指は首をかき切っている。
「へぇ信心深いね」
セイロス教ではレンズを縦に重ねることを禁止されている。見えないものを見ようとしてはならないのだ。天上におわす女神の姿を人間が見ようと試みるなど不敬そのものである、と読み取れなくもない文章が聖典にあるから仕方がない。宗教とはそういうものだ。
「客に死なれると夢見が悪いものだ。その代わりにこれをどうぞ。そのうち試そうと思っていたものだが忙しくてまだ試していない」
店主は小さなカードの真ん中に錐で穴を開けたもの、に何かを書き付けるとリンハルトに渡した。リンハルトは中身を改めてなるほどなるほど、と言いながら片目を瞑っている。意図が完全に伝わったのか受け取ったカードを窓にかざしている。好奇心が沸きあがって興奮したせいか、白い頰は朱に染まり瞳が輝いていた。
「硝子ビーズもいただこうかな。ねえ、あなた名前は何ていうの?これからしばらく相談に乗ってもらうから知らないと不便だよ」
「ベレト=アイスナーだ」
店主の名を聞いたドロテアとベルナデッタがため息をついた。皆、偉大な歴史上の人物と名前が全く同じなのでベレトへの視線が同意や共感に満ちている。
「おや、随分と高貴な名前だね。僕はリンハルト=フォン=ヘヴリングだ」
自分の名前を棚に上げ、リンハルトがベレトを揶揄った。統一戦争の際に活躍した先祖たちもこんな風に語り合っていたのだろうか。
「ファーガスでは典型的な平民の名字だよ。石を投げればアイスナー家の者に当たる」
ベレトの言葉を聞いたリンハルトがまあ名前なんてそんなもんだよね、と言うので皆で笑ったその時、狙いすましたかのように休日の終わりを告げる教会の鐘が鳴り響いた。
数週間後の休日にリンハルト一人でベレトの店に現れた。その手にはふたつ折りにした厚紙に穴を開け、硝子ビーズを嵌めて作った単レンズ式の簡素な顕微鏡の雛型がある。
「研磨できる?あと厚紙より真鍮か何かで作った方が良さそうだよ」
レンズを前後に重ねず、ガラスビーズをひと粒使用するだけで倍率は百五十倍になる。球体レンズとして職人が研磨したレンズを使えば倍率は更に上がるだろう。
ヘヴリング卿が作った単レンズ式顕微鏡はフォドラの生物学を大きく進歩させた。構造は単純なので現在では子供たちの自由研究の定番でもある。畳む
「flow」第1部10〜11「代替品」#完売本 #flow #ヒューベルト #ペトラ #コンスタンツェ #ハピ #エーデルガルト #フェルディナント #カスパル
10.
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一七一〇年
僧侶の皮、王族の皮は誠に使い勝手が良く聖人たちをうまくごまかすことができた。
目の霞んだ人々は中身が入れ替わっていることに気づかない。そのまま僧侶の皮を被って聖人たちに近づいてみると彼らの数が減っていることに気付いた。聖人たちさえ居なくなってしまえば目の霞んだ人々など敵ではない。
───
パルミラやブリギットを始めとする周辺国と比べ、フォドラで医学が発展しなかった理由はいくつもある。信仰魔法への傾倒の他に大麻や阿片などが宗教上の禁忌に触れるため栽培すら出来ず、医療に利用出来なかったことも理由のひとつだ。
部位の切断など不可逆で激しい痛みを伴う外科的処置を行う際だけは利用出来なくもなかったが、その際も禁忌に触れない強い酒を使う例が殆どだった。気休めでしかない。
一世紀ほど前、病禍の時代にフォドラの社会は激しい変化を遂げた。それまでは大量の医薬品や設備を必要とし、完治させるまで時間がかかる医師より魔道書だけですぐに人を癒す修道士の方が必要経費が掛からず優れている、とされていた。
しかし信仰魔法は使い手が同じ空間に居続けなければ発動しない。だが薬は予め渡しておけば患者が辛くなったその時に服用できる。手術も終えてしまえば後は別のものに看護させれば良い。圧倒的な人手不足に直面し、フォドラでようやく医療行為が見直され───その一環で大麻や阿片の医学利用と栽培が解禁された。
麻酔に向く芥子は産地であるブリギットの中でも標高が高い乾燥した寒冷地で栽培され、温暖なアドラステア地方やレスター地方では中々根付かない。気候の条件から言えばファーガス地方では栽培可能だ。しかし信心深い人々が多いファーガスの農家は栽培したがらない。
安定供給を目指すならブリギットやダグザから輸入するしかなかった。フォドラ統一戦争の後にブリギットの女王ペトラ一世とベレト王の間で交わされた通商条約により、少ないながらも鎮痛剤そして麻酔薬の原料となる阿片の供給は安定している。しかしいずれは自力で芥子栽培をすることが望ましいとされていた。
調査の結果、フォドラの衛生局はオグマ山脈に連なる某高原ならば栽培可能ではないかと考え、ブリギットの農業勧業局から技術官を招き試験栽培を始めている。うまく運用できれば将来的には麻酔薬を全て国産品に切り替えられるだろう。
禁止薬物の原材料を育てているので霧が試験農場の詳細を隠してくれるのはありがたい。しかし目の前に伸ばした自分の手も見えないような霧は問題だ。作物に影響が出るし、コンスタンツェがヌーヴェル家の持つ魔道の知識を注ぎ込んで作った防御結界に触れても、魔獣と遭遇しても命がなくなるだろう。
早朝の吐く息も白く濁り己も消えてなくなりそうな天候の中、ヒューベルトはブリギットから派遣された技術官であるペトラを見つめた。正確に言えば彼女が持つランプの灯りを見つめている。
「果実、大きさ、ありません」
霧の向こうから片言で話す彼女はいつも誠実で、教えを乞う側を下に見ることがない。そこが彼女の持つ確かな知識と同じくらい素晴らしい点だ、とヒューベルトは評価している。そんな彼女の声は落胆していた。
つい先日まで目の前には赤い花が咲き乱れていた。芥子は花が枯れた後で結実し、その実を傷つけると白い乳液が滲み出す。その乳液はしばらく経つと粘性を示し色は黒く変化する。この黒くなった乳液を集めて乾かしたものが麻酔の原料となる生阿片だ。ひとつまみの生阿片を精製するのに花は百本近く必要になる。ブリギットでは一面の赤い芥子の花が季節の風物詩だ。世界中の痛みに苦しむ人々が赤い花にいくらでも金を払う。
「いいえ、結実しただけでも大したものです。ここは貴殿のお国の名産地と違って湿度が高い」
「ありがとう。しかし、種子、取れます。とても小さい、とても沢山、注意、必要です」
ダグザでは小さな物を表す時に〝芥子粒のような〟という言い回しを使うのだ、とヒューベルトの上司であるコンスタンツェが言っていた。種子を採取する時には取りこぼしがないよう、細心の注意を払う必要がある。芥子も大麻も国家が完全管理して栽培する予定なので間違いは許されない。そういった細かいことならば、と言って上司であり六大貴族に連なる名家出身のコンスタンツェがヒューベルトをこの計画の責任者に推薦した。
コンスタンツェに言わせれば医学と魔術は偉大なるヌーヴェル家の者によって融合を果たす筈だが、それには他人に任せねばならないことも多いらしい。
「ご安心ください。絶対にならずものたちの財源にはさせません」
ヒューベルトの家系は代々医療に携わる、と運命づけられている。ベレト王からベストラ家再興の許可が出た日に運命は決まった。現在はともかく当時は殆ど受け継ぐ地位も領地もなく、あるのは貴族の称号と王と対立した過去だけと言う虚しい状態だった家名に何故、先祖がこだわったのかがヒューベルトには理解できない。だが王はとても喜び、自分が喜んだことを記録に記せと命じたと聞く。
都合の良い逸話かと思いきや物好きな一族のものがガルグ=マク旧市街にある公文書館で確認したところ本当に事実として記されていた。王の心は広いにも程があるのではないだろうか。
「過去を気に病む必要はないが、どうしても気になるのならその分、他の誰かの命を救えば良い」
ベレト王はもっと広い意味を込めて先祖を激励した筈だが、とにかくベストラ家においてはそう言うことになったのだ。だが血筋のせいなのか黒魔法は使えても信仰魔法の才能が全くない。当時の世の中では分が悪かったが、信仰魔法を専門とする修道士ではなく医師や薬師になるしかなかった。
ベストラ家の人々は一族郎党で医学を志していくうちに、やがて医学研究における禁忌が少ない他国へ留学するようになった。他国で出版された医学書をフォドラ語に翻訳し、人体解剖実験に参加する。ヒューベルトも薬草について学ぶためにブリギットへ行ったことがあった。ベストラ家の人々は翻訳するだけでなく一族の者が他国で参加した様々な実験、特に解剖実験について本も書いた。
これらの医学書は統一王と呼ばれたベレトが印刷と出版を自由化しなければ、セイロス教の禁忌に触れていたため発禁となっていただろう。人体解剖を忌避する感覚は未だにフォドラでは色濃く残っている。
統一王に逆らった家系、というより現在では人の体を切り刻む家系という理由でヒューベルトの一族を嫌うものたちは多い。それでも彼の一族は効率良く人を救うことをまだ目指している。
「ならずもの、意味、何ですか?」
『ならずもの、です』
ヒューベルトがブリギット語で話すとペトラがため息をついた。言葉遣いに気をつけねばならない。彼がブリギット語を多少は理解できることが計画の責任者になれた理由のひとつだった。
「ヒューベルトと私、ブリギットではブリギット話す、フォドラではフォドラ語話す、約束です」
「申し訳ない。フォドラ語で単語の説明をすべきでした」
素直に謝るとヒューベルトも芥子の果実を検分し始めた。ペトラの指摘通り実が小さい。傷をつけてヘラを使い乳液を採取する方法では必要とする量を確保するために作付面積を倍にするか、新たな抽出方法を考える必要があった。頼りたくはないのだが、遠い祖先の残した恐ろしい記録に何か手掛かりがあるかもしれない。
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目の霞んだ人々のうち殆どのものが最初の人々が作った武器を持つことが出来ない。無理に持つと獣に成り果ててしまうからだ。
獣に成り果てたものは討ち取られた。そうしなくてはその土地を滅ぼしてしまう。
たまに人の姿を保ったまま武器を持てるものが現れるとその人々を尊い、と言って崇めた。
───
今時は魔法職で募集をかける時に勤務先が地方では中々人が集まらない。石でも投げた方がまだ効き目のありそうな理学魔法しか使えない癖に自分が選ばれし二パーセントだと分かっているので皆、成功するために都会へ行ってしまう。
ガルグ=マク新市街にある衛生局はフォドラの医療全てを統括している。信仰魔法との縦割り行政が長年の問題だったが、目標が治癒であるならば方法論の違いで管轄を分けるべきではない。
医療行為は世俗のものだ、という主張にセイロス教会がついにおれて信仰魔法も衛生局の管轄となった。衛生局側がアドラステア帝国の頃より続き、一度はお取り潰しの目にあったものの不屈の闘志で再興を果たして六大貴族にその名を連ねる名家、ヌーヴェル家のものを局長にした時点でセイロス教会が譲歩するのは決まっていたのかもしれない。医学と魔道は互いに欠けたところを補いあって更に便利になるべきだ、と言うのが衛生局の局長コンスタンツェの主張だった。
そういった高尚な議論はさておき、人口あたりの医療従事者数が足りていないと言う現状を解決するにはレストを使える修道士か鎮痛剤や麻酔を使える医師がいればいい。
全人口のうち二パーセントしかいない魔法が使えるののうち、何割が修道士になってくれるのかを考えると医師の方がまだ人数を読みやすかった。修道士は軍に入ることも多いが医師は医師になるしかない。修道士による治療と比べた時に経費の高さは問題だが、それを解決するため衛生局は鎮痛剤と麻酔薬の国産化を目指している。
勤務先がオグマ山脈の魔獣が出没する山奥、と言うこともあって試験農場の警備責任者は中々見つからなかった。コンスタンツェが張った防御結界を現地で保守点検をするものを早急に見つけねばならない。試験農場で栽培するのは依存性が極めて高い麻薬の原料でもある。関わるのは最少人数にしたいが衛生局としてもヒューベルトにそこまでさせるわけにいかなかった。試験農場の内側だけでも大変なのだから。
今日もどうせ見つからないのだろう。結界に綻びが出てヒューベルトたちを困らせる前にフェルディア総合大学まで直接探しにいかねば、と思いながらコンスタンツェは最上階の窓から実技審査の様子を眺めた。局の中庭で黒手袋をして古びたフェルディア総合大学のマントを着た男が結界を張っている。男性の場合、髪を伸ばしておいた方が多少は魔力の足しになるのだが、鬱陶しさに負けて若草色の髪を短く切っている時点で見込みはないように思えた。
しかし彼は杭も紙も使わず反閇だけで空間を閉じている。結界に向けて試験官がバケツの水をぶちまけても水が通過していくだけで何も起きなかったが、試験官が投げ込んだ木材は粉々になった。網状に結界を貼ることによって雨は通し、魔獣や人は通過させない仕組みになっているらしい。
コンスタンツェは慌てて机に戻って採用通知を書くと窓を開けて改良したウインドの呪文を唱え、採用通知を試験官の胸元に送った。
書類が風に乗って不自然な最短距離で試験官の胸元に飛び込んでくる。その様子を見たベレトは思わず口笛を吹いた。開いた窓の奥に金髪の巻き毛に囲まれた懐かしい顔を見つけ、思わず笑顔になってしまう。血筋もあるだろうが本人の努力が素晴らしい。
身なりを整えたら局長室へ向かうよう試験官から言われたベレトがチラチラと横目で局内を窺うとどうやら手狭なようで、書類が溢れ出しそうになっている。レンズ研磨も良い仕事だったが久しぶりに田舎で体を動かしたい気分なのに書類仕事は嫌だった。
ノッカーで扉を叩くと奥から入るように、と懐かしい声がベレトに話しかけてきた。久しぶりに出会うコンスタンツェは心もふたつに割れておらず安定している。一族郎党が捨て石にされ、領地も爵位も取り上げられた状態から這い上がった前のコンスタンツェが何の不安もなく育ったらこんな感じになるのだろう。第一印象だけでいえば愛されて育ったコンスタンツェの孫娘に雰囲気が似ていた。
「今時はまともに魔法が使えるものが中々いませんが貴方は違いました。安心して私の防御結界を任せられますわ!詳細は今から口頭で説明するのでこの場で覚えて帰って頂戴。何ひとつ書き残してはなりません」
オグマ山脈の某高原にある試験農場で何を栽培し誰がいるのか。どのような防御結界を張っているのか。秘匿部署とはそうしたものなので、ベレトは淀みなくコンスタンツェの説明を全て復唱した。
「ではすぐに出発します」
「路銀なしには辛い距離よ。ある程度の経費は先に下で受け取っておきなさい。それと身辺調査はもう部下がしているでしょうから事細かには聞きません」
そう言うとコンスタンツェは一度口を閉じてベレトの顔をじっと見つめた。白い肌に若草色の髪と瞳、ヌーヴェル領にある本宅に飾ってある王と六大貴族達の姿を描いた絵にどことなく雰囲気が似ているような気がする。
「貴方ガルグ=マクは初めてかしら?」
ガルグ=マクで一世紀以上を過ごし新市街を作ったのは自分だが、こう言う時は真顔でごく一部だけを伝えるに限る。
「何度か来たことはあります」
コンスタンツェは新しい部下の言葉を聞き、素直に引き下がった。彼が身につけていたフェルディア総合大学のマントは古すぎる。古着屋で買い物をしたと言われればそれ以上返す言葉はない。だが彼の姿を見るうちにコンスタンツェはヌーヴェル家に伝わる御伽噺を思い出してしまった。この御伽噺はノアの紋章を隠していた時と同じく、世間に対して隠された状態で伝えられている。
───フォドラ最後の王はまだ生きてフォドラ中を彷徨っている。正体を隠し、剣が使えることを隠して民の中に紛れ込んで様々な仕事に就いて生活を楽しんでいる。だからもし王と出くわしたとしても深く追求してはならない───
ヌーヴェル家は昔から魔道学院、つまり現在のフェルディア総合大学と縁が深く、禁退出扱いの資料も読むことが出来る。コンスタンツェの祖母が言うには3世紀ほど前に魔道学院で働いていたアンヴァル出身のベレト=アイスナーと名乗る人物と二世紀前にデアドラ港で働いていたフェルディア出身のベレト=アイスナーと名乗る人物は限りなく王である可能性が高いらしい。では先ほどまで目の前にいた人物はどうだろうか?
コンスタンツェは手を叩いて秘書を呼び、お茶の用意をするように言った。秘書が選んで淹れたベルガモットティーに口を付け、満足げに微笑むとコンスタンツェは窓の外を眺めた。
「あれっ?今日のコニーなんだかとっても嬉しそうじゃん」
「そうね、ハピ。あなたの秘書としては本当に酷い言葉遣いも全く気にならないほど機嫌が良いわ。試験農場の警備責任者も決まったし、久しぶりに大好きなお祖母様のことを思い出したからかしら」
「ふーんそうなんだ。思い出してあげるのも供養だって言うよ。じゃあこれはコニーのおばあちゃんにね」
そう言うとハピはカップをもうひとつ出して紅茶を淹れた。
11.
───
一七九〇年
武器を持っただけで獣に成り果てるならば目が霞んだ人々は獣も同然だ。
獣たちは聖人たちという牧者に飼い慣らされる羊の様だった。自分たちは違う、最初の人々はその様に考えた。
───
石炭は十七世紀初頭の病禍で魔法を産業に活かせなくなるまで、鍛冶屋の補助燃料や一般家庭の暖炉くらいにしか使い道がなかった。だが今や石炭は黒魔法の代替品となった。石炭はアドラステア地方、特にヘヴリング領の根幹をなす資源となっている。
眷族たちは自然への影響を気にかけて化石燃料ではなく、魔法を社会が消費するエネルギーの根本に据えていたが、フォドラから魔法の力が失われてしまったためこの流れはもう止まらない。
炭鉱には様々な技術が集約される。坑道から排出された地下水を汲み上げるため釣瓶や水上輪が利用され、軌道で石炭が運び出された。軌道は最初トロッコや馬車鉄道が走っていたが、のちに蒸気機関車が走るようになる。石炭を乾留したコークスを使った製鉄法が開発されると一気に安価で良質な鉄が提供されるようになった。黒いダイアモンドの力を借りたフォドラは工業化の時代を迎えている。
フレスベルグ家はアドラステア帝国の帝位継承権と免税特権を放棄することと引き換えに伯爵家として再興をベレト統一王から許された。その代わりに納税の義務を負い、苦し紛れに様々なことを模索している。そのうちのひとつがフレスベルグ製作所だ。鉱山機械の修理点検製作を生業としている。
継承権を返上し再興が許されたのはファーガス神聖王国の王位継承権を持っていたブレーダッド家も同じだ。だがブレーダッド家は民に親しまれていたので再興も民から望まれたものだろう。
しかしフレスベルグ家はそうではない。何代か前の祖先は苦労した、とエーデルガルトは幼い頃から何度も聞かされている。それはそうだろう。そもそも何故再興を目指したのか全く分からない、と彼女は思っている。
今では単に爵位を持っているだけで、やっていることは商家とほとんど変わらない。エーデルガルトは絵を描くのが好きだったのでせめて製図を引け、と言われた。その結果、流れ流れて親族が経営するフレスベルグ製作所で技術者として働いている。
接待用に絵面を綺麗にしたいから、という訳で呼び出されたエーデルガルトは豊かな茶色の髪を結い上げ、作業着ではなくドレスを身につけている。ドレスと言っても補正下着を着る必要がない簡素なものだ。羽織る上着も腰までしかない。まるで男物のような丈が短いデザインだったが動きやすいので気に入っている。
エーデルガルトはフェルディナントの作った〝火力で揚水する機械〟の実演が上手くいくかどうか、唇を真一文字にして紺色の瞳で見つめていた。執政官の案内役をしているので目線を機械だけに向けるのはよくないと分かっていたが、どうしてもそらすことが出来ない。
フェルディナントはアミッド大河で行われた櫂を外側に付けた船の実演で失敗している。彼は錨用の水平回転巻き上げ装置を使って櫂が動くように改造した。装置は理論通りに動いたのだが、巻き上げ装置のバーを押して回る人々の姿が古代の船のようだと酷評されてしまったのだ。
彼が考案した装置を帆船に導入すれば無風状態の際、船内に人手さえあれば風が受けられる地点まで到達出来る。満帆にしている帆船より速度も出た。実用性を疑われてしまったため導入する造船会社は今も存在しない。
とにかく今度は失敗するわけにいかない。〝火力で揚水する機械〟試作機の不具合を修正するため、フェルディナントは髪を切る暇も髭を剃る暇もなかった。しかしガルグ=マクからやってくる執政官とその部下たちの前で身嗜みを整えないのは問題がある。周りからそう言われた彼は慌てて髭を剃り、真新しい白い襯衣を身につけた。伸びた橙色の髪は後ろで束ねて誤魔化している。
執政官の視察先にフレスベルグ製作所が選ばれたのはフェルディナントが六大貴族エーギル家の出身だからだ。執政官から久しぶりに顔が見たい、と言われたら誰も断ることはできない。
現在の執政官は久しぶりに六大貴族から選出された。ベルグリーズ家の出身で、偉大な先祖に肖るべくカスパルと名付けられた青年は紋章も魔法適性も持たないので科学技術に嫌悪感がない。彼が身びいきする人間ではないことは知れ渡っているので、彼が褒めればフェルディナントが特許を取得する予定の〝火力で揚水する機械〟を導入する鉱山が増えるだろう。フェルディナントはフレスベルグ製作所の期待を背負っていた。
懐かしく思うもの同士、視線だけで挨拶すると補助ボイラーと主ボイラーの水量を確かめたフェルディナントはいささか緊張した面持ちで火を入れて視察団に向かって機械の説明を始めた。
「容器の中の水を蒸気で押し出し、蒸気の凝縮を利用して生まれた真空を利用してここの地下水を汲みあげます」
「フェルディナント、念のために凝縮について説明しておかないと」
先に作った資料を執政官府へ提出できるような余裕があれば良かったが、それも無理だったのでぶっつけ本番だ。技術者同士では説明する必要のない単語でも、こういう場では置いていかれるものを出さないために噛み砕いておくべきだろう。そう考えたエーデルガルトはフェルディナントに助け舟を出した。
「ありがとう、エーデルガルト。その通りだ。凝縮とはこの場合、気体が液体になることを言います」
理解したかどうかフェルディナントが目線で問うと少なくとも執政官は肯いた。興味津々と言った目つきで実演を見ている。賑やかな音を立て機械が地下水を吸い上げ始めた。
「そうか!体積が減るから真空になるんだな!」
「その通りだカスパ……いや、執政官。この機会は原理も操作も単純です。吐出し弁が音を立て、吐出し管が熱くなれば蒸気の凝縮によって真空が作り出せたと分かります。あとはレバーで切り替えるだけで地下水を汲み上げられるようになります」
良いものを見せてもらった、勉強になったと喜ぶ執政官たちを見て失敗はなかったと確信し、関係者一同の頬が緩む。
「燃料は炭鉱ならその場で採れる訳だし効率がいいな。実際に運用するとまた不具合が出てくるのかもしれないがこれはすごい。なあ、フェルディナントこれは試作品なんだろ?」
「ああそうだ。君の前での動作確認に成功したから直ちに特許は申請するが、まだまだ改良の余地はたくさんあるのだ。さらに改良を加えてフォドラ中の鉱山にこの機械を売ってみせる」
フェルディナントは拳を握りしめ高らかにカスパルの前で誓った。
「はは!その意気だぜ。法改正して安全のために設置を義務付ける日も近いな」
そんな会話も交わされたが結論から言うといざ、使おうとするとフェルディナントが発明した装置は高い圧力が必要となった。そのままでは危険すぎて鉱山で使用することは出来ない。この機会はエーデルガルトによって跡形もないほど改良され、ようやく実用化された。しかし根本となった〝火力で揚水する〟というフェルディナントの発想がなければ、世界初の商業用蒸気機関は生まれなかっただろう。
のちにエネルギー革命が起き、燃料の主役が石炭から石油に転換された。アドラステア地方の炭鉱は時の流れに逆らえず次々と閉鎖された。しかしその時すでにフォドラ有数の総合電機メーカーとして成長していたフレスベルグ製作所が閉鎖された炭鉱を離職した人々の新たな職場となり、彼らは慣れ親しんだアドラステア地方から離散することなく生活が出来た。
こうしてフレスベルグ家は産業史にも名を残した。
───
一八一〇年
微生物が宇宙空間を移動する際にどのように移動したのかについてはいくつかの説がある。
恒星からの放射圧、すなわち光圧で宇宙空間を移動した、とする光パンスペルミア説では微生物が隕石などに付着せず微生物それ自体が宇宙空間を移動したと主張している。
───
レスター地方の山岳地帯、通称フォドラの喉元に山の民と呼ばれるクパーラという少数民族が住んでいる。独自の文化とセイロス教とは異なる信仰を持ち、フォドラが統一されるまでは幻と言われるほど排他的だった。しかし信教の自由が保証された今は違う。
工業化が一気に進んだフォドラだが、彼らの居留地だけは時が止まったかのような光景を見られる。そして彼らは流れ着いた異物であるベレトが一日につき二時間くらいしか起きていられない生活を何年か続けていても全く気にしない。親切なことに毎日誰かが食べ物と飲み物と着替えを用意してくれるので、無言のまま夢遊病患者の様に食べて身綺麗にしてまた眠る。
クパーラの人々だけが魔法適性者の割合を五パーセントのまま保持しているし、フォドラの西側では珍しくなった大紋章を継ぐものもいた。野生の飛竜もクパーラの固有種だけは個体数が減少していない。
ベレトはここで眠るとごく稀にだが、ソティスの夢を見ることが出来た。数世紀分の答え合わせをゆったりと夢の中でしている。ふわふわと宙を漂う緑色の髪の少女は眉間にしわを寄せて頬を膨らませた。
「おぬし!長いことわしを思い出しもせず薄情ではないか!」
「怒られるのが怖くて」
「怒らぬ!!」
ソティスは声を思い切り荒げていたが気が付いていない。
「俺はレアを困惑させるようなことしかしなかった。今もそうだが言われないことを察するのは無理だったから」
「娘も知らないことだらけで、言えることの方が少なかったのであろう」
これはソティスのいう通りで、確かにレアは母の若き日の姿を知らなかった。久しぶりに目にするソティスの姿は髪の色を除けばフレンよりも眷族としては幼く見える。当時、ベレトにまとわりついていたソティスの姿を正確に伝えてもレアが自分の母親だと分からなかったのは当たり前かもしれない。
「そうだな。俺もレアが大司教をしていたのと同じくらい長く王をやっていたら、わからないことだらけで言えないことばかりになっただろう」
夢の中は自由な筈なのにベレトとソティスは懐かしい寮の自室にいた。自由だからどんな場所でも選べた筈なのに。
「ガルグ=マクにいた小童どもとその子孫はよくやっておる」
「きちんと俺の代わりのものも魔法の代わりになるものも見つけた」
レアは長命である己自身を社会を安定させる礎にした。しかしベレトの教え子たちは家系や血筋ではなく執政官という役職を社会を安定させる礎にした。役職に就く者が存在すれば良いだけなので、代替わりしようと先代の執政官と血縁がなかろうと揺らがないのだ。魔法を失った時も白魔法の代わりに医学を発展させ、黒魔法の代わりに科学を発展させた。
「おぬしが人間どもを全く疑わず信じて手放せたからじゃ。わしらはどこか少しは疑っておったし手放せなかった。子離れができなかった」
「俺は人間だったからなあ。ところでソティス。俺はあと何年生きていられる?」
フレンですらどんなに短く見積もっても千年以上は生きていた。レアやセテスは何千年も生きていた筈だ。だがベレトは心臓に嵌められた紋章石とそこに宿ったソティスの意識によって生かされているだけだ。
「数千年生きるのが本来の寿命だが、おぬしは千年もつかどうか分からない。わしらからすれば哀れなことに髪が若草色のまま童のうちに死ぬのじゃ」
どうやら残り時間は二世紀くらいのようだった。その間、八時間睡眠で過ごせるなら充分な時間があると言える。
「そのうち何年を眠って過ごす?」
しかし今のように二時間しか起きていられないならば、ベレトは死ぬまでこの居住区で微睡んでいるしかない。
「起きていたければ夢も含めて紋章の力を使わぬように心掛けよ。わしはおぬしと最後まで共にあろうぞ」
寂しそうなソティスの言葉には心当たりがあった。クパーラの人々が暮らす居留地には魔獣が出る。その魔獣を駆除しようとして返り討ちにあっていたバルタザールを助けるため、ベレトは久しぶりに炎の紋章の力を使った。そして起きていられなくなった。
「おい、アンタ起きたいのか?」
夢の中では目を開けていたのに現実では瞼が重く、バルタザールのたてた物音や声に反応して微かに動くだけだ。横たわったまま強張っている手を顔に乗せて指で眉間を揉む。
「起きたい」
「わっ!久しぶりに声を聞いたぞ。忘れかけてたぜ」
バルタザールはクパーラの人々が暮らす居留地にあるカジノで警備員をしている。大した産業のないクパーラではカジノが大きな収入源で、少数民族の生活や文化を守る資金もそこから捻出されている。博打うちの財布がクパーラを守っていた。そしてバルタザール本人も博打うちなので、彼のささやかな薄い財布も居留地を守ることに貢献している。
「金がかかったろうにすまなかった」
「いや、長老たちからアンタの面倒を見てやれば借金の返済日を伸ばしてやると言われたんでな。それでどんな夢を見た」
クパーラの人々は夢を重要視していた。彼らの考えでは夢だけが時と場所を超え、分からなくなってしまった真実に直接触れることができる。
現に彼らの創世神話は今も書き加えられている。夢を見るたびに分からなくなってしまった真実に触れ、分からなかったことが明らかになるからだ。神話の謎に触れるような夢は強い夢、と呼ばれる。ガルグ=マクから来た学者たちは定期的にクパーラの神話を記録に残していた。
バルタザールが起きていられなくなったベレトを今時珍しく治癒魔法が使える呪い師のところに担ぎ込んでいる。身体を信仰魔法で癒してもらった後も起きていられないベレトを見た呪い師は夢を見なければならない、と告げた。余っている部屋をベレトが夢を見るために使っても構わない、と言う。
クパーラでは昔から、人生を問うような強い夢は呪い師の管理下で見る。呪い師に夢を勧められた、ということで居留地の人々は異常な眠り方をするベレトを自然に受け入れていた。
「夢の中で会いたかった人に長生きしたければもう夢を見るなと言われた」
ため息をついたベレトの若草色の瞳から涙が一粒こぼれ落ち、頬を滑り下りていく。
ソティスの夢はおそらく炎の紋章とベレトの心臓にはまっている紋章石が揃わなければ見られない夢だ。現在、ベレトの心臓はソティスの依代でもある紋章石によって動いている。
ソティスの亡骸から作られた紋章石はまずアガルタの民から武器の動力源として利用され、次にレアが作り上げた何体もの〝お母さまの容れ物〟を生かすことにも使われた。力尽きつつある紋章石に炎の紋章の力は強すぎるのだろう。
「命を削るくらい強い夢なんだろう。たまにそういう話を聞くぜ」
「いつ頃死ぬのかも教えてもらえた」
「不思議でもなんでもないさ。夢だけが時と場所を超えられるんだから」
クパーラ育ちのバルタザールはそういうと呪い師がベレトのために作った夢を呼ぶ呪符を壁から剥がした。捨てるのが面倒なのか、掌中にある丸めた紙をファイアーで燃やしている。今時、クパーラ以外の土地ではなかなか見られる光景ではない。畳む
10.
───
一七一〇年
僧侶の皮、王族の皮は誠に使い勝手が良く聖人たちをうまくごまかすことができた。
目の霞んだ人々は中身が入れ替わっていることに気づかない。そのまま僧侶の皮を被って聖人たちに近づいてみると彼らの数が減っていることに気付いた。聖人たちさえ居なくなってしまえば目の霞んだ人々など敵ではない。
───
パルミラやブリギットを始めとする周辺国と比べ、フォドラで医学が発展しなかった理由はいくつもある。信仰魔法への傾倒の他に大麻や阿片などが宗教上の禁忌に触れるため栽培すら出来ず、医療に利用出来なかったことも理由のひとつだ。
部位の切断など不可逆で激しい痛みを伴う外科的処置を行う際だけは利用出来なくもなかったが、その際も禁忌に触れない強い酒を使う例が殆どだった。気休めでしかない。
一世紀ほど前、病禍の時代にフォドラの社会は激しい変化を遂げた。それまでは大量の医薬品や設備を必要とし、完治させるまで時間がかかる医師より魔道書だけですぐに人を癒す修道士の方が必要経費が掛からず優れている、とされていた。
しかし信仰魔法は使い手が同じ空間に居続けなければ発動しない。だが薬は予め渡しておけば患者が辛くなったその時に服用できる。手術も終えてしまえば後は別のものに看護させれば良い。圧倒的な人手不足に直面し、フォドラでようやく医療行為が見直され───その一環で大麻や阿片の医学利用と栽培が解禁された。
麻酔に向く芥子は産地であるブリギットの中でも標高が高い乾燥した寒冷地で栽培され、温暖なアドラステア地方やレスター地方では中々根付かない。気候の条件から言えばファーガス地方では栽培可能だ。しかし信心深い人々が多いファーガスの農家は栽培したがらない。
安定供給を目指すならブリギットやダグザから輸入するしかなかった。フォドラ統一戦争の後にブリギットの女王ペトラ一世とベレト王の間で交わされた通商条約により、少ないながらも鎮痛剤そして麻酔薬の原料となる阿片の供給は安定している。しかしいずれは自力で芥子栽培をすることが望ましいとされていた。
調査の結果、フォドラの衛生局はオグマ山脈に連なる某高原ならば栽培可能ではないかと考え、ブリギットの農業勧業局から技術官を招き試験栽培を始めている。うまく運用できれば将来的には麻酔薬を全て国産品に切り替えられるだろう。
禁止薬物の原材料を育てているので霧が試験農場の詳細を隠してくれるのはありがたい。しかし目の前に伸ばした自分の手も見えないような霧は問題だ。作物に影響が出るし、コンスタンツェがヌーヴェル家の持つ魔道の知識を注ぎ込んで作った防御結界に触れても、魔獣と遭遇しても命がなくなるだろう。
早朝の吐く息も白く濁り己も消えてなくなりそうな天候の中、ヒューベルトはブリギットから派遣された技術官であるペトラを見つめた。正確に言えば彼女が持つランプの灯りを見つめている。
「果実、大きさ、ありません」
霧の向こうから片言で話す彼女はいつも誠実で、教えを乞う側を下に見ることがない。そこが彼女の持つ確かな知識と同じくらい素晴らしい点だ、とヒューベルトは評価している。そんな彼女の声は落胆していた。
つい先日まで目の前には赤い花が咲き乱れていた。芥子は花が枯れた後で結実し、その実を傷つけると白い乳液が滲み出す。その乳液はしばらく経つと粘性を示し色は黒く変化する。この黒くなった乳液を集めて乾かしたものが麻酔の原料となる生阿片だ。ひとつまみの生阿片を精製するのに花は百本近く必要になる。ブリギットでは一面の赤い芥子の花が季節の風物詩だ。世界中の痛みに苦しむ人々が赤い花にいくらでも金を払う。
「いいえ、結実しただけでも大したものです。ここは貴殿のお国の名産地と違って湿度が高い」
「ありがとう。しかし、種子、取れます。とても小さい、とても沢山、注意、必要です」
ダグザでは小さな物を表す時に〝芥子粒のような〟という言い回しを使うのだ、とヒューベルトの上司であるコンスタンツェが言っていた。種子を採取する時には取りこぼしがないよう、細心の注意を払う必要がある。芥子も大麻も国家が完全管理して栽培する予定なので間違いは許されない。そういった細かいことならば、と言って上司であり六大貴族に連なる名家出身のコンスタンツェがヒューベルトをこの計画の責任者に推薦した。
コンスタンツェに言わせれば医学と魔術は偉大なるヌーヴェル家の者によって融合を果たす筈だが、それには他人に任せねばならないことも多いらしい。
「ご安心ください。絶対にならずものたちの財源にはさせません」
ヒューベルトの家系は代々医療に携わる、と運命づけられている。ベレト王からベストラ家再興の許可が出た日に運命は決まった。現在はともかく当時は殆ど受け継ぐ地位も領地もなく、あるのは貴族の称号と王と対立した過去だけと言う虚しい状態だった家名に何故、先祖がこだわったのかがヒューベルトには理解できない。だが王はとても喜び、自分が喜んだことを記録に記せと命じたと聞く。
都合の良い逸話かと思いきや物好きな一族のものがガルグ=マク旧市街にある公文書館で確認したところ本当に事実として記されていた。王の心は広いにも程があるのではないだろうか。
「過去を気に病む必要はないが、どうしても気になるのならその分、他の誰かの命を救えば良い」
ベレト王はもっと広い意味を込めて先祖を激励した筈だが、とにかくベストラ家においてはそう言うことになったのだ。だが血筋のせいなのか黒魔法は使えても信仰魔法の才能が全くない。当時の世の中では分が悪かったが、信仰魔法を専門とする修道士ではなく医師や薬師になるしかなかった。
ベストラ家の人々は一族郎党で医学を志していくうちに、やがて医学研究における禁忌が少ない他国へ留学するようになった。他国で出版された医学書をフォドラ語に翻訳し、人体解剖実験に参加する。ヒューベルトも薬草について学ぶためにブリギットへ行ったことがあった。ベストラ家の人々は翻訳するだけでなく一族の者が他国で参加した様々な実験、特に解剖実験について本も書いた。
これらの医学書は統一王と呼ばれたベレトが印刷と出版を自由化しなければ、セイロス教の禁忌に触れていたため発禁となっていただろう。人体解剖を忌避する感覚は未だにフォドラでは色濃く残っている。
統一王に逆らった家系、というより現在では人の体を切り刻む家系という理由でヒューベルトの一族を嫌うものたちは多い。それでも彼の一族は効率良く人を救うことをまだ目指している。
「ならずもの、意味、何ですか?」
『ならずもの、です』
ヒューベルトがブリギット語で話すとペトラがため息をついた。言葉遣いに気をつけねばならない。彼がブリギット語を多少は理解できることが計画の責任者になれた理由のひとつだった。
「ヒューベルトと私、ブリギットではブリギット話す、フォドラではフォドラ語話す、約束です」
「申し訳ない。フォドラ語で単語の説明をすべきでした」
素直に謝るとヒューベルトも芥子の果実を検分し始めた。ペトラの指摘通り実が小さい。傷をつけてヘラを使い乳液を採取する方法では必要とする量を確保するために作付面積を倍にするか、新たな抽出方法を考える必要があった。頼りたくはないのだが、遠い祖先の残した恐ろしい記録に何か手掛かりがあるかもしれない。
───
目の霞んだ人々のうち殆どのものが最初の人々が作った武器を持つことが出来ない。無理に持つと獣に成り果ててしまうからだ。
獣に成り果てたものは討ち取られた。そうしなくてはその土地を滅ぼしてしまう。
たまに人の姿を保ったまま武器を持てるものが現れるとその人々を尊い、と言って崇めた。
───
今時は魔法職で募集をかける時に勤務先が地方では中々人が集まらない。石でも投げた方がまだ効き目のありそうな理学魔法しか使えない癖に自分が選ばれし二パーセントだと分かっているので皆、成功するために都会へ行ってしまう。
ガルグ=マク新市街にある衛生局はフォドラの医療全てを統括している。信仰魔法との縦割り行政が長年の問題だったが、目標が治癒であるならば方法論の違いで管轄を分けるべきではない。
医療行為は世俗のものだ、という主張にセイロス教会がついにおれて信仰魔法も衛生局の管轄となった。衛生局側がアドラステア帝国の頃より続き、一度はお取り潰しの目にあったものの不屈の闘志で再興を果たして六大貴族にその名を連ねる名家、ヌーヴェル家のものを局長にした時点でセイロス教会が譲歩するのは決まっていたのかもしれない。医学と魔道は互いに欠けたところを補いあって更に便利になるべきだ、と言うのが衛生局の局長コンスタンツェの主張だった。
そういった高尚な議論はさておき、人口あたりの医療従事者数が足りていないと言う現状を解決するにはレストを使える修道士か鎮痛剤や麻酔を使える医師がいればいい。
全人口のうち二パーセントしかいない魔法が使えるののうち、何割が修道士になってくれるのかを考えると医師の方がまだ人数を読みやすかった。修道士は軍に入ることも多いが医師は医師になるしかない。修道士による治療と比べた時に経費の高さは問題だが、それを解決するため衛生局は鎮痛剤と麻酔薬の国産化を目指している。
勤務先がオグマ山脈の魔獣が出没する山奥、と言うこともあって試験農場の警備責任者は中々見つからなかった。コンスタンツェが張った防御結界を現地で保守点検をするものを早急に見つけねばならない。試験農場で栽培するのは依存性が極めて高い麻薬の原料でもある。関わるのは最少人数にしたいが衛生局としてもヒューベルトにそこまでさせるわけにいかなかった。試験農場の内側だけでも大変なのだから。
今日もどうせ見つからないのだろう。結界に綻びが出てヒューベルトたちを困らせる前にフェルディア総合大学まで直接探しにいかねば、と思いながらコンスタンツェは最上階の窓から実技審査の様子を眺めた。局の中庭で黒手袋をして古びたフェルディア総合大学のマントを着た男が結界を張っている。男性の場合、髪を伸ばしておいた方が多少は魔力の足しになるのだが、鬱陶しさに負けて若草色の髪を短く切っている時点で見込みはないように思えた。
しかし彼は杭も紙も使わず反閇だけで空間を閉じている。結界に向けて試験官がバケツの水をぶちまけても水が通過していくだけで何も起きなかったが、試験官が投げ込んだ木材は粉々になった。網状に結界を貼ることによって雨は通し、魔獣や人は通過させない仕組みになっているらしい。
コンスタンツェは慌てて机に戻って採用通知を書くと窓を開けて改良したウインドの呪文を唱え、採用通知を試験官の胸元に送った。
書類が風に乗って不自然な最短距離で試験官の胸元に飛び込んでくる。その様子を見たベレトは思わず口笛を吹いた。開いた窓の奥に金髪の巻き毛に囲まれた懐かしい顔を見つけ、思わず笑顔になってしまう。血筋もあるだろうが本人の努力が素晴らしい。
身なりを整えたら局長室へ向かうよう試験官から言われたベレトがチラチラと横目で局内を窺うとどうやら手狭なようで、書類が溢れ出しそうになっている。レンズ研磨も良い仕事だったが久しぶりに田舎で体を動かしたい気分なのに書類仕事は嫌だった。
ノッカーで扉を叩くと奥から入るように、と懐かしい声がベレトに話しかけてきた。久しぶりに出会うコンスタンツェは心もふたつに割れておらず安定している。一族郎党が捨て石にされ、領地も爵位も取り上げられた状態から這い上がった前のコンスタンツェが何の不安もなく育ったらこんな感じになるのだろう。第一印象だけでいえば愛されて育ったコンスタンツェの孫娘に雰囲気が似ていた。
「今時はまともに魔法が使えるものが中々いませんが貴方は違いました。安心して私の防御結界を任せられますわ!詳細は今から口頭で説明するのでこの場で覚えて帰って頂戴。何ひとつ書き残してはなりません」
オグマ山脈の某高原にある試験農場で何を栽培し誰がいるのか。どのような防御結界を張っているのか。秘匿部署とはそうしたものなので、ベレトは淀みなくコンスタンツェの説明を全て復唱した。
「ではすぐに出発します」
「路銀なしには辛い距離よ。ある程度の経費は先に下で受け取っておきなさい。それと身辺調査はもう部下がしているでしょうから事細かには聞きません」
そう言うとコンスタンツェは一度口を閉じてベレトの顔をじっと見つめた。白い肌に若草色の髪と瞳、ヌーヴェル領にある本宅に飾ってある王と六大貴族達の姿を描いた絵にどことなく雰囲気が似ているような気がする。
「貴方ガルグ=マクは初めてかしら?」
ガルグ=マクで一世紀以上を過ごし新市街を作ったのは自分だが、こう言う時は真顔でごく一部だけを伝えるに限る。
「何度か来たことはあります」
コンスタンツェは新しい部下の言葉を聞き、素直に引き下がった。彼が身につけていたフェルディア総合大学のマントは古すぎる。古着屋で買い物をしたと言われればそれ以上返す言葉はない。だが彼の姿を見るうちにコンスタンツェはヌーヴェル家に伝わる御伽噺を思い出してしまった。この御伽噺はノアの紋章を隠していた時と同じく、世間に対して隠された状態で伝えられている。
───フォドラ最後の王はまだ生きてフォドラ中を彷徨っている。正体を隠し、剣が使えることを隠して民の中に紛れ込んで様々な仕事に就いて生活を楽しんでいる。だからもし王と出くわしたとしても深く追求してはならない───
ヌーヴェル家は昔から魔道学院、つまり現在のフェルディア総合大学と縁が深く、禁退出扱いの資料も読むことが出来る。コンスタンツェの祖母が言うには3世紀ほど前に魔道学院で働いていたアンヴァル出身のベレト=アイスナーと名乗る人物と二世紀前にデアドラ港で働いていたフェルディア出身のベレト=アイスナーと名乗る人物は限りなく王である可能性が高いらしい。では先ほどまで目の前にいた人物はどうだろうか?
コンスタンツェは手を叩いて秘書を呼び、お茶の用意をするように言った。秘書が選んで淹れたベルガモットティーに口を付け、満足げに微笑むとコンスタンツェは窓の外を眺めた。
「あれっ?今日のコニーなんだかとっても嬉しそうじゃん」
「そうね、ハピ。あなたの秘書としては本当に酷い言葉遣いも全く気にならないほど機嫌が良いわ。試験農場の警備責任者も決まったし、久しぶりに大好きなお祖母様のことを思い出したからかしら」
「ふーんそうなんだ。思い出してあげるのも供養だって言うよ。じゃあこれはコニーのおばあちゃんにね」
そう言うとハピはカップをもうひとつ出して紅茶を淹れた。
11.
───
一七九〇年
武器を持っただけで獣に成り果てるならば目が霞んだ人々は獣も同然だ。
獣たちは聖人たちという牧者に飼い慣らされる羊の様だった。自分たちは違う、最初の人々はその様に考えた。
───
石炭は十七世紀初頭の病禍で魔法を産業に活かせなくなるまで、鍛冶屋の補助燃料や一般家庭の暖炉くらいにしか使い道がなかった。だが今や石炭は黒魔法の代替品となった。石炭はアドラステア地方、特にヘヴリング領の根幹をなす資源となっている。
眷族たちは自然への影響を気にかけて化石燃料ではなく、魔法を社会が消費するエネルギーの根本に据えていたが、フォドラから魔法の力が失われてしまったためこの流れはもう止まらない。
炭鉱には様々な技術が集約される。坑道から排出された地下水を汲み上げるため釣瓶や水上輪が利用され、軌道で石炭が運び出された。軌道は最初トロッコや馬車鉄道が走っていたが、のちに蒸気機関車が走るようになる。石炭を乾留したコークスを使った製鉄法が開発されると一気に安価で良質な鉄が提供されるようになった。黒いダイアモンドの力を借りたフォドラは工業化の時代を迎えている。
フレスベルグ家はアドラステア帝国の帝位継承権と免税特権を放棄することと引き換えに伯爵家として再興をベレト統一王から許された。その代わりに納税の義務を負い、苦し紛れに様々なことを模索している。そのうちのひとつがフレスベルグ製作所だ。鉱山機械の修理点検製作を生業としている。
継承権を返上し再興が許されたのはファーガス神聖王国の王位継承権を持っていたブレーダッド家も同じだ。だがブレーダッド家は民に親しまれていたので再興も民から望まれたものだろう。
しかしフレスベルグ家はそうではない。何代か前の祖先は苦労した、とエーデルガルトは幼い頃から何度も聞かされている。それはそうだろう。そもそも何故再興を目指したのか全く分からない、と彼女は思っている。
今では単に爵位を持っているだけで、やっていることは商家とほとんど変わらない。エーデルガルトは絵を描くのが好きだったのでせめて製図を引け、と言われた。その結果、流れ流れて親族が経営するフレスベルグ製作所で技術者として働いている。
接待用に絵面を綺麗にしたいから、という訳で呼び出されたエーデルガルトは豊かな茶色の髪を結い上げ、作業着ではなくドレスを身につけている。ドレスと言っても補正下着を着る必要がない簡素なものだ。羽織る上着も腰までしかない。まるで男物のような丈が短いデザインだったが動きやすいので気に入っている。
エーデルガルトはフェルディナントの作った〝火力で揚水する機械〟の実演が上手くいくかどうか、唇を真一文字にして紺色の瞳で見つめていた。執政官の案内役をしているので目線を機械だけに向けるのはよくないと分かっていたが、どうしてもそらすことが出来ない。
フェルディナントはアミッド大河で行われた櫂を外側に付けた船の実演で失敗している。彼は錨用の水平回転巻き上げ装置を使って櫂が動くように改造した。装置は理論通りに動いたのだが、巻き上げ装置のバーを押して回る人々の姿が古代の船のようだと酷評されてしまったのだ。
彼が考案した装置を帆船に導入すれば無風状態の際、船内に人手さえあれば風が受けられる地点まで到達出来る。満帆にしている帆船より速度も出た。実用性を疑われてしまったため導入する造船会社は今も存在しない。
とにかく今度は失敗するわけにいかない。〝火力で揚水する機械〟試作機の不具合を修正するため、フェルディナントは髪を切る暇も髭を剃る暇もなかった。しかしガルグ=マクからやってくる執政官とその部下たちの前で身嗜みを整えないのは問題がある。周りからそう言われた彼は慌てて髭を剃り、真新しい白い襯衣を身につけた。伸びた橙色の髪は後ろで束ねて誤魔化している。
執政官の視察先にフレスベルグ製作所が選ばれたのはフェルディナントが六大貴族エーギル家の出身だからだ。執政官から久しぶりに顔が見たい、と言われたら誰も断ることはできない。
現在の執政官は久しぶりに六大貴族から選出された。ベルグリーズ家の出身で、偉大な先祖に肖るべくカスパルと名付けられた青年は紋章も魔法適性も持たないので科学技術に嫌悪感がない。彼が身びいきする人間ではないことは知れ渡っているので、彼が褒めればフェルディナントが特許を取得する予定の〝火力で揚水する機械〟を導入する鉱山が増えるだろう。フェルディナントはフレスベルグ製作所の期待を背負っていた。
懐かしく思うもの同士、視線だけで挨拶すると補助ボイラーと主ボイラーの水量を確かめたフェルディナントはいささか緊張した面持ちで火を入れて視察団に向かって機械の説明を始めた。
「容器の中の水を蒸気で押し出し、蒸気の凝縮を利用して生まれた真空を利用してここの地下水を汲みあげます」
「フェルディナント、念のために凝縮について説明しておかないと」
先に作った資料を執政官府へ提出できるような余裕があれば良かったが、それも無理だったのでぶっつけ本番だ。技術者同士では説明する必要のない単語でも、こういう場では置いていかれるものを出さないために噛み砕いておくべきだろう。そう考えたエーデルガルトはフェルディナントに助け舟を出した。
「ありがとう、エーデルガルト。その通りだ。凝縮とはこの場合、気体が液体になることを言います」
理解したかどうかフェルディナントが目線で問うと少なくとも執政官は肯いた。興味津々と言った目つきで実演を見ている。賑やかな音を立て機械が地下水を吸い上げ始めた。
「そうか!体積が減るから真空になるんだな!」
「その通りだカスパ……いや、執政官。この機会は原理も操作も単純です。吐出し弁が音を立て、吐出し管が熱くなれば蒸気の凝縮によって真空が作り出せたと分かります。あとはレバーで切り替えるだけで地下水を汲み上げられるようになります」
良いものを見せてもらった、勉強になったと喜ぶ執政官たちを見て失敗はなかったと確信し、関係者一同の頬が緩む。
「燃料は炭鉱ならその場で採れる訳だし効率がいいな。実際に運用するとまた不具合が出てくるのかもしれないがこれはすごい。なあ、フェルディナントこれは試作品なんだろ?」
「ああそうだ。君の前での動作確認に成功したから直ちに特許は申請するが、まだまだ改良の余地はたくさんあるのだ。さらに改良を加えてフォドラ中の鉱山にこの機械を売ってみせる」
フェルディナントは拳を握りしめ高らかにカスパルの前で誓った。
「はは!その意気だぜ。法改正して安全のために設置を義務付ける日も近いな」
そんな会話も交わされたが結論から言うといざ、使おうとするとフェルディナントが発明した装置は高い圧力が必要となった。そのままでは危険すぎて鉱山で使用することは出来ない。この機会はエーデルガルトによって跡形もないほど改良され、ようやく実用化された。しかし根本となった〝火力で揚水する〟というフェルディナントの発想がなければ、世界初の商業用蒸気機関は生まれなかっただろう。
のちにエネルギー革命が起き、燃料の主役が石炭から石油に転換された。アドラステア地方の炭鉱は時の流れに逆らえず次々と閉鎖された。しかしその時すでにフォドラ有数の総合電機メーカーとして成長していたフレスベルグ製作所が閉鎖された炭鉱を離職した人々の新たな職場となり、彼らは慣れ親しんだアドラステア地方から離散することなく生活が出来た。
こうしてフレスベルグ家は産業史にも名を残した。
───
一八一〇年
微生物が宇宙空間を移動する際にどのように移動したのかについてはいくつかの説がある。
恒星からの放射圧、すなわち光圧で宇宙空間を移動した、とする光パンスペルミア説では微生物が隕石などに付着せず微生物それ自体が宇宙空間を移動したと主張している。
───
レスター地方の山岳地帯、通称フォドラの喉元に山の民と呼ばれるクパーラという少数民族が住んでいる。独自の文化とセイロス教とは異なる信仰を持ち、フォドラが統一されるまでは幻と言われるほど排他的だった。しかし信教の自由が保証された今は違う。
工業化が一気に進んだフォドラだが、彼らの居留地だけは時が止まったかのような光景を見られる。そして彼らは流れ着いた異物であるベレトが一日につき二時間くらいしか起きていられない生活を何年か続けていても全く気にしない。親切なことに毎日誰かが食べ物と飲み物と着替えを用意してくれるので、無言のまま夢遊病患者の様に食べて身綺麗にしてまた眠る。
クパーラの人々だけが魔法適性者の割合を五パーセントのまま保持しているし、フォドラの西側では珍しくなった大紋章を継ぐものもいた。野生の飛竜もクパーラの固有種だけは個体数が減少していない。
ベレトはここで眠るとごく稀にだが、ソティスの夢を見ることが出来た。数世紀分の答え合わせをゆったりと夢の中でしている。ふわふわと宙を漂う緑色の髪の少女は眉間にしわを寄せて頬を膨らませた。
「おぬし!長いことわしを思い出しもせず薄情ではないか!」
「怒られるのが怖くて」
「怒らぬ!!」
ソティスは声を思い切り荒げていたが気が付いていない。
「俺はレアを困惑させるようなことしかしなかった。今もそうだが言われないことを察するのは無理だったから」
「娘も知らないことだらけで、言えることの方が少なかったのであろう」
これはソティスのいう通りで、確かにレアは母の若き日の姿を知らなかった。久しぶりに目にするソティスの姿は髪の色を除けばフレンよりも眷族としては幼く見える。当時、ベレトにまとわりついていたソティスの姿を正確に伝えてもレアが自分の母親だと分からなかったのは当たり前かもしれない。
「そうだな。俺もレアが大司教をしていたのと同じくらい長く王をやっていたら、わからないことだらけで言えないことばかりになっただろう」
夢の中は自由な筈なのにベレトとソティスは懐かしい寮の自室にいた。自由だからどんな場所でも選べた筈なのに。
「ガルグ=マクにいた小童どもとその子孫はよくやっておる」
「きちんと俺の代わりのものも魔法の代わりになるものも見つけた」
レアは長命である己自身を社会を安定させる礎にした。しかしベレトの教え子たちは家系や血筋ではなく執政官という役職を社会を安定させる礎にした。役職に就く者が存在すれば良いだけなので、代替わりしようと先代の執政官と血縁がなかろうと揺らがないのだ。魔法を失った時も白魔法の代わりに医学を発展させ、黒魔法の代わりに科学を発展させた。
「おぬしが人間どもを全く疑わず信じて手放せたからじゃ。わしらはどこか少しは疑っておったし手放せなかった。子離れができなかった」
「俺は人間だったからなあ。ところでソティス。俺はあと何年生きていられる?」
フレンですらどんなに短く見積もっても千年以上は生きていた。レアやセテスは何千年も生きていた筈だ。だがベレトは心臓に嵌められた紋章石とそこに宿ったソティスの意識によって生かされているだけだ。
「数千年生きるのが本来の寿命だが、おぬしは千年もつかどうか分からない。わしらからすれば哀れなことに髪が若草色のまま童のうちに死ぬのじゃ」
どうやら残り時間は二世紀くらいのようだった。その間、八時間睡眠で過ごせるなら充分な時間があると言える。
「そのうち何年を眠って過ごす?」
しかし今のように二時間しか起きていられないならば、ベレトは死ぬまでこの居住区で微睡んでいるしかない。
「起きていたければ夢も含めて紋章の力を使わぬように心掛けよ。わしはおぬしと最後まで共にあろうぞ」
寂しそうなソティスの言葉には心当たりがあった。クパーラの人々が暮らす居留地には魔獣が出る。その魔獣を駆除しようとして返り討ちにあっていたバルタザールを助けるため、ベレトは久しぶりに炎の紋章の力を使った。そして起きていられなくなった。
「おい、アンタ起きたいのか?」
夢の中では目を開けていたのに現実では瞼が重く、バルタザールのたてた物音や声に反応して微かに動くだけだ。横たわったまま強張っている手を顔に乗せて指で眉間を揉む。
「起きたい」
「わっ!久しぶりに声を聞いたぞ。忘れかけてたぜ」
バルタザールはクパーラの人々が暮らす居留地にあるカジノで警備員をしている。大した産業のないクパーラではカジノが大きな収入源で、少数民族の生活や文化を守る資金もそこから捻出されている。博打うちの財布がクパーラを守っていた。そしてバルタザール本人も博打うちなので、彼のささやかな薄い財布も居留地を守ることに貢献している。
「金がかかったろうにすまなかった」
「いや、長老たちからアンタの面倒を見てやれば借金の返済日を伸ばしてやると言われたんでな。それでどんな夢を見た」
クパーラの人々は夢を重要視していた。彼らの考えでは夢だけが時と場所を超え、分からなくなってしまった真実に直接触れることができる。
現に彼らの創世神話は今も書き加えられている。夢を見るたびに分からなくなってしまった真実に触れ、分からなかったことが明らかになるからだ。神話の謎に触れるような夢は強い夢、と呼ばれる。ガルグ=マクから来た学者たちは定期的にクパーラの神話を記録に残していた。
バルタザールが起きていられなくなったベレトを今時珍しく治癒魔法が使える呪い師のところに担ぎ込んでいる。身体を信仰魔法で癒してもらった後も起きていられないベレトを見た呪い師は夢を見なければならない、と告げた。余っている部屋をベレトが夢を見るために使っても構わない、と言う。
クパーラでは昔から、人生を問うような強い夢は呪い師の管理下で見る。呪い師に夢を勧められた、ということで居留地の人々は異常な眠り方をするベレトを自然に受け入れていた。
「夢の中で会いたかった人に長生きしたければもう夢を見るなと言われた」
ため息をついたベレトの若草色の瞳から涙が一粒こぼれ落ち、頬を滑り下りていく。
ソティスの夢はおそらく炎の紋章とベレトの心臓にはまっている紋章石が揃わなければ見られない夢だ。現在、ベレトの心臓はソティスの依代でもある紋章石によって動いている。
ソティスの亡骸から作られた紋章石はまずアガルタの民から武器の動力源として利用され、次にレアが作り上げた何体もの〝お母さまの容れ物〟を生かすことにも使われた。力尽きつつある紋章石に炎の紋章の力は強すぎるのだろう。
「命を削るくらい強い夢なんだろう。たまにそういう話を聞くぜ」
「いつ頃死ぬのかも教えてもらえた」
「不思議でもなんでもないさ。夢だけが時と場所を超えられるんだから」
クパーラ育ちのバルタザールはそういうと呪い師がベレトのために作った夢を呼ぶ呪符を壁から剥がした。捨てるのが面倒なのか、掌中にある丸めた紙をファイアーで燃やしている。今時、クパーラ以外の土地ではなかなか見られる光景ではない。畳む
「flow」第1部12.「化石燃料」
#完売本 #flow #シルヴァン #アッシュ #フェリクス #ディミトリ #ヒューベルト #リンハルト
12.
───
一八五〇年
隕石や彗星などに付着して微生物が宇宙空間を移動したと主張するのが隕石パンスペルミア説だ。
光パンスペルミア説と同じく、隕石パンスペルミア説も微生物は宇宙空間の超低温と大気圏突入時の熱に耐えなくてはならないが隕石深部の温度は上がらないのではないかと予想されている。
───
ファーガス地方では昔から燃える黒水が採れた。北の隣国スレンやパルミラでは薬品や灯り油として使う事もあるらしい。だがセイロス教会はこの黒水の使用を禁止していた。そもそもファーガス地方では灯りは昔から魚の油で灯しているので使い道もない。黒水が滲み出ている場所では勝手に火事が起きることも多く、ファーガスの人々は危険を感じて近寄らないようにしていた。
アドラステア地方にはフォドラ有数の穀倉地帯と良質な炭鉱がある。レスター地方では酪農や大国であるパルミラとの交易、それとレンズや時計をはじめとする精密機械工業が盛んだ。しかしファーガス地方は工業化に乗り遅れてしまい、ガルグ=マク司教座附属大学と並んでフォドラの最高峰と言われるフェルディア総合大学の学生たちも皆、就職の際にはファーガス地方から外へと出て行ってしまう。
暖炉にかけた鍋で一日かけて茹でたくず野菜と芋で腹が満たされればそれで幸せという素朴な時代は去り、ファーガス地方は強烈に外部へ訴えかける何かを欲していた。
ゴーティエ領にある森の中で狩りに来た若者たちが円座を組んで何やら話し込んでいる。鴨が何羽かと野兎数匹は既に夕食にするための処理を終えていた。今晩の食卓は肉づくしになるだろう。互いに誤射を避けるためか、フェルディア総合大学の象徴であるファーガスブルーのローブを身につけている。彼らは皆そこの学生だった。
「シルヴァン、今回はお招きいただきありがとうございます!」
「いや、聞かれたくない話は自然の中でするのが一番だからな」
そういうとシルヴァンは辺りに生えている木の枝を手持ちの鉈で落とし、焚き火用に積み上げ始めた。乾燥した枝でなければ火がつかないのは子供でも知っている。アッシュが怪訝な顔をしているとシルヴァンは取り出した瓶から生木に向けて黒水を注ぎ、ファイアーで点火した。彼等は今時珍しく魔法適性を持っているが魔道専攻ではない。シルヴァンは地理学、フェリクスは法学、アッシュは商学が専攻だった。黒水の匂いを嗅いだフェリクスはシルヴァンを睨み付け、なんと言葉をかけるべきか考え込んでいる。
「教会に見つかったらまずいですよ!」
「そうだなアッシュ。でも冷静になって考えて欲しいんだ。今のを見ただろう?石炭が出来ることはこいつにも出来る。石炭の役割って結局は物を燃やして熱くすることだろ?それに炎の色を見てくれ。すごく明るいんだ。ランプに使える」
「だが液体は運びにくい。樽が何万個もいるな」
フェリクスは幼馴染を怒鳴りつけず冷静に反論することにした。
「でも隧道を掘ったりしなくていいんだぜ?汲み取るだけで済む」
「井戸水とは訳が違う。こんな危険なもの、汲み取るには専用の機械が必要だろう」
「それは石炭も変わらないだろ?だから一旗挙げようと思ってな」
お前らも手伝って、というとシルヴァンは右手でフェリクスを、左手でアッシュを捕まえた。アッシュは固まってしまったがフェリクスは鬱陶しそうに肩にかけられたシルヴァンの手を外した。
「シルヴァン、まさか大学が休みの時に闇雲に掘り起こすつもりか?そんな博打に俺たちを巻き込まないでくれ」
「手伝うってのはそういうことじゃなくてディミトリの説得だ」
「えっ?!ディミトリに掘ってもらうんですか?確かに彼は怪力ですけど…」
「違う!業者はもう見つけてある!ブレーダッドの名前が欲しいんだ」
シルヴァンは本気で黒い水を武器に戦うつもりだった。黒水を石炭のように使ってもらえれば子供が寒い冬、遠くまで薪を拾いに行って風邪をひく必要もない。その辺の生木で充分だ。そして石炭と違い屋内が煤で汚れることもない。生活はがらりと変わるだろう。だがファーガスの人々は保守的だ。全く新しいことを始めるにあたって、唯一無二であるブレーダッド家の名がどうしても欲しい。ブレーダッド家の威光があれば人々もシルヴァンの言うことに耳を傾けてくれる。
「なるほど。それならアッシュが適任だ」
「フェリクスが説得して下さいよ!僕には無理です!」
「いや、アッシュの言葉ならディミトリも耳を傾けるだろう。シルヴァンの癖によく考えたな。ところで俺は何故この場に呼ばれたんだ」
「だって教えなかったら後で拗ねるだろう?」
ぬけぬけと語るシルヴァンの顎に一発決めてやろうと顔を赤くしたフェリクスが無言で拳を握った瞬間、鳥が一斉に飛び立った。何かが高速で回転して耳に響く。これまで聞いたことのない不愉快な音がして、まだシルヴァンに捕まえられているままのアッシュが両耳を塞ぐ。
「ああ、始まったな。掘削を請負ってくれる業者を紹介するよ。連れてくるからここで待っててくれ。元から待ち合わせをしてたんだ」
シルヴァンが騒音がする方へ向かっていったので、フェリクスとアッシュは焚き火の前に取り残されてしまった。
「統一前は教会に禁じられていた品で商売を始めるなんて、とシルヴァンが周りから怒られないか心配ですね」
「それを言ったら統一前は活版印刷も望遠鏡も禁じられていたんだぞ」
シルヴァンの夢は叶うのだろうか。フェリクスは瓶を手に取り底に溜まった黒い水をじっと見つめた。確かに生木なのによく燃えている。薪を集める生活は変えられないとしても、いざと言う時に便利なのは悪いことではない。
現在のフォドラに王はいない。フォドラ最後の王であるベレト統一王は統一後の混乱が収まるまでのわずかな期間だけだが、セイロス教会の大司教も兼ねていた。その数年の間に大司教の名の下に行動の自由を世俗に取り戻している。大司教位はすぐに他のものに譲ってしまったが。
彼が規制を撤廃してフォドラが得たものは印刷技術、医学、科学だ。女神の恩寵を受け百五十年の長きに渡り、若々しい姿のままフォドラを治めた彼は魔法や神秘の申し子と言える。だが現代から見てみれば魔法が失われることを予測していた、としか思えない。もしそうだとしたら、何故十二世紀生まれの人物にそんな未来が予測できたのだろう。
「ただ馬鹿どもを黙らせるために小手先の工夫は必要だろうな。蒸留して色を変えるとか。それには設備も金も必要になるな」
そう言うとフェリクスは鼻を鳴らして焚き火に手をかざした。ファーガス地方のゴーティエ領は気候区分で言えば寒帯で、夏でも寒さを感じる日が多い。
「シルヴァンは融資を受けるためにディミトリが必要なんでしょうけど、上手くいくんでしょうか?」
「アッシュまで巻き込んだのにディミトリすら説得できないなら、シルヴァンに勝ち目はない」
派手に枝を踏む音とシルヴァンが誰かと話す声が聞こえた。最短距離で移動したいのか鉈で道を作りながらやってきたのは、短く切った黒髪に若草色の目をした同年代の男だった。シルヴァンから何か聞かされたのか、フェリクスとアッシュを見て笑顔を浮かべている。
「黒髪の方がフェリクス、雀斑がある方がアッシュだ」
「シルヴァンの思いつきに付き合わされて気の毒なことだ」
「いや、興味深い試みなので声をかけてもらって光栄に思っている。ガルグ=マクから来たベレトだ」
フェリクスもアッシュも黒い長手袋を取って差し出された白い手の感触をずっと昔から知っているような気がした。
───
一八五五年
「たったひとつの種」を高度に進化した知的生命体が「生命の種子」として送り込んだ、と主張するのが意図的パンスペルミア説だ。
殆どの惑星はニッケルやクロムだらけでモリブデンは希少であるにもかかわらず、生物は必須微量元素としてモリブデンを必要とする。
これはモリブデンが豊富な惑星で生命が誕生した名残であり、そこから「生命の種子」が送り出された為あらゆる生物の遺伝暗号の仕組みが驚くほど似ているのではないか、と言われている。
───
ファーガス地方の農家は昔から染み出る黒い水のせいで、収穫間際の作物が汚染されることに悩んでいた。フォドラの地図記号には黒い水に汚染され、農地に適さない土地を表すものがある。この地図記号はほぼファーガス地方でしか使われない。
他の地方に塩水の湧泉があれば塩が作れる。しかしファーガスの場合、湧泉が黒い水に汚染されていて塩は作れない。塩水と黒水の割合によっては薬用になることも多く、パルミラなどでは肌に塗る薬用油として使う。だがセイロス教会に黒い水の利用を禁じられていたため、フォドラではこうした湧泉も長らく放置されていた。
このファーガス地方にとって悩みの種でしかない黒い水を灯り油や燃料にする───初めてシルヴァンから聞かされたディミトリは混乱して、三回も同じ話をさせてしまった。その時、その場にいたアッシュもシルヴァンもこれは拙いな、という顔をしていた。
地表に染み出る黒い水の大元は地下にある。そこから安定して抽出するための井戸と黒い水を蒸留し、灯り油や燃料にするための製油所を作るには資金が無限に必要だ。シルヴァンはファーガス一の名家ブレーダッドの名さえあればあとは自分が探す、と言っていた。しかしディミトリはどうしても、誰からなんと言われようと彼の役に立ちたくて、自分の自由になる分だけではあったが資金を提供した。
五年たった今、思い返してみればあれは混乱していたわけではない。ディミトリはシルヴァンの豊かな発想に深く、とても深く感動しただけなのだ。
ゴーティエ領で採取、蒸留された灯り油と燃料は今のところ、ファーガス地方で忌避感なく使用されている。ブレーダッドオイルは創業5周年を迎えフェルディアに支社を作りそこを足場に、今後は首都ガルグ=マクやレスター、アドラステアへも売り込む予定だ。将来はもしかしたらパルミラやダグザなど海外へ販路を広げる日が来るかもしれない。
出来たばかりのフェルディア支社で、創業五周年を祝う祝賀会が行われた。関係者だけのささやかなものだったが皆、これまでにないほど満ち足りている。ディミトリ、ベレト、シルヴァン、フェリクス、アッシュの五人はなんだか離れ難く、残った酒で飲み直しをすることにしたのが数時間前の話だ。
明け方になりシルヴァン、フェリクス、アッシュの三人は酔い潰れて床に転がっている。結局フェリクスもアッシュもシルヴァンの起業に巻き込まれ、法務だ会計だと毎日忙しい日々を過ごしていた。ディミトリだけがブレーダッド家当主としてイーハをはじめとする領地を経営せねばならないため、ブレーダッドオイルを本業としていないことを少し寂しく感じている。彼らと職場が同じなら、うんざりするようなことがあってもきっと耐えられるだろう。
ディミトリも深酒が過ぎて着席したまま眠っていたのだが、物音で目が覚めてしまった。目覚めたことを後悔したくなるほど頭が痛い。
迎え酒になるものが欲しい。夜が白んでいく中で室内を見回すと立役者の一人であるベレトがブレーダッドオイルの商号を膝の上に乗せて静かに一人泣いている姿が目に入った。先ほどの物音は会場に飾った商号が落ちたか、それを彼が受け止めた音なのだろう。
「どうした、悲しいことでもあったのか?」
酔いが顔色に現れやすいディミトリは頬を赤く染めたままベレトに話しかけた。ベレトのそばにはいつもシルヴァンたちがいるので、ディミトリが彼とゆっくり二人きりで話すのはこれが初めてかもしれない。
「感動しているんだ。俺はこの商号を見るといつも感動して涙が出そうになる。酒が入ったからもう我慢できない」
ベレトは酔いがあまり顔色に出ないらしく、白い顔をしたまま若草色の瞳に涙をためて嵌めたままの黒手袋で目を擦っていた。
「何を言っているのかわからない」
横を向いた青い獅子が赤い炎を吐いているブレーダッドオイルの商号は確か、シルヴァンが金策でデアドラへ赴いた際に出会った画家に考えてもらったものだ。ファーガス地方の象徴である青獅子と灯り油に灯る炎を組み合わせている。ブレーダッドオイルがどの土地の企業で、何を扱っているのか見た瞬間にわかるよう工夫されていた。
頭の中で鐘が鳴り響くような頭痛のせいで、ディミトリはベレトの話がうまく聞き取れない。迎え酒にテーブルに残っていた誰かの飲み残しのワインを煽ったディミトリは酔っ払って泣いているベレトの言葉に再び耳を傾けた。
「ファーガスにしかないものがようやく見つかった。俺には見つけられなかったのに」
「何を言っているのかわからない。黒い水を見つけて井戸を掘ったのはお前だろう」
「シルヴァンに言われなければ掘らなかった」
「依頼がなければ掘らないのでは?」
「ではやはりシルヴァンはすごい」
ディミトリはアルコールに支配された頭で必死にベレトの言葉を理解しようとしたが上手くいかない。以前シルヴァンから聞いた、実際には目にしたことのない光景ばかりが脳裏に浮かぶ。
フェルディアにはないのだが、そしてそれがフェルディアが旧ファーガス神聖王国の首都に選ばれた理由のひとつだと今なら分かるのだが───ファーガス地方には昔から黒い水の浸み出し口がいくつもある。シルヴァンとベレトは丹念に自作の地図に浸み出し口を描き込み、周辺の土を調べて掘削する場所を決めた。
浸み出し口に現地で雇った人足たちにある程度の深さの穴を掘らせると、ベレトは先に溝が彫ってある杭を何本か差し込むのだという。手袋を外し、それらの杭に彼が指で術式を描いてウインドを発動すると螺旋状に動く風が発生する。
勝手に杭が回転し耳の奥に響くような轟音を立て、地中深くまで掘り進んでいくのだ。魔法の発動中はその場を離れられないので、効率が悪いものの蒸気機関を利用した掘削機と同じ量の作業を身ひとつでやってのけるベレトにシルヴァンは深く感謝した。
この祝賀会で彼はベレトにブレーダッドオイルの株を五株贈呈している。まだ配当金は少額だがいずれ指一本動かさずとも生活に困らない程度にはしてみせる、とシルヴァンはそう宣言していた。
ディミトリは魔道研究の本場フェルディア生まれのフェルディア育ちだ。シルヴァン、フェリクス、アッシュも魔法適性があり、フェルディア総合大学の学生である以上魔法は身近で慣れている。
だがベレトは格が違うのだ、といつだったかシルヴァンが興奮して話してくれた。フォドラの人々から魔法の力が失われる前の大魔道士のようだと言う。ベレトは身体から発する魔力の扱いに気を使っているらしい。彼の白い手を見たのは初対面の握手をした時だけで、それ以外ではいつも黒い手袋をしていた。
「いつか採掘作業を見に行ってもいいか?」
「いつでも歓迎する。試掘の手伝いができるように汚れても構わない服で来てくれ」
「鍬を壊さないように気をつけないとな。ブレーダッドの小紋章持ちなんだ」
日の出の暖かい光に照らされながら、ベレトと冗談を交わしたことをディミトリは何故かシルヴァンに話せなかった。いつもベレトを独占していたシルヴァンへの細やかな対抗心だったのかもしれない。
───
一九〇〇年
神祖は知恵をつけたという理由で最初の人々を冥界に追いやった。聖人たちは次の人々の目を霞ませて獣にした。
ヒトに知恵も永遠の命も与えるつもりがなく罰してばかりの神祖は聖人たちは聖なる存在として本当に崇めるべきなのだろうか。彼らの作った教会は伽藍堂に過ぎないのではないだろうか。
───
石炭が多く使われると燃やした時に発生するガスで空気が汚染される。ガルグ=マク、アンヴァル、フェルディア、それにデアドラ等の大都市では大気汚染が深刻だ。この件に関してセイロス教会ガルグ=マク司教座がこのまま石炭を使い続ければ、健康被害が理由で死ぬ者が更に増加するのだから便利さに耽溺せず禁欲的に生活せよ、との声明を発表した。
何にでも代替品は出てくるもので今後は燃やしても煤が出ないファーガス産の黒い水が石炭の代わりに使われるのだろう、と皆なんとなく考えている。それなら皆少し面倒に感じるだけで何とも思わないのだ。政府が法律で煤の出る燃料を規制すれば、煤が出ない燃料に需要が生まれる。そこに経済効果が生まれるのならば商人たちは全力を出す。
だがガルグ=マク旧市街の宗教家たちが出した要求には裏がある。それを感じ取った者たちは密かに強く警戒した。彼らは産業の時代から魔法の時代に立ち帰れと言っている。人々や社会から魔法の力が失われて久しい。
燃料を魔法に戻したら食い扶持が稼げず死ぬものが出てくるのにそれについては言及しない。皆聞き流し、この場では黒い水に切り替えるだけだろう。しかしこの手の手続きを考えない、考えさせない司教座の無責任さには問題がある。それともわざとなのか。
リンハルトは老眼鏡をかけ、何度読んだかわからない声明文をまた読み返した。ため息も何度吐いたかわからない。概要だけならば普通のことしか主張していない。そんな見かけが彼に更なる憂いを抱かせる
ヘヴリング領の経済は炭鉱にそこまで依存していない。だが生活は石炭に依存している。医療も信仰魔法ではなく殆ど医学によって提供されており、生活を改変しろと言われても困ることばかりだ。
ヘヴリング家の上屋敷があるハイストリートと司教座のある旧市街は大して離れていない。だがリンハルトには別の国のように感じられる。これからやってくる年若い客人も旧市街とは別の国の住人だ。リンハルトは客人のため、テフを用意するように執事に命じた。
黒衣に身を包んだ医師が召使に連れられ、リンハルトが待つ応接間に現れた。テーブルにバックギャモンのボードが開いてあるのを見た客人が微かに笑う。パルミラから輸入されたもので、近頃は老若男女を問わず流行っている。
「お招きいただきましてありがとうございます」
「僕と勝負できるのはヒューベルトくらいだからね。たまには赤でやってみない?」
ヒューベルトとリンハルトは対外的には診察のついでにバックギャモンで遊ぶ仲間、ということになっている。含みを持たせた仲であると理解しているのは同じく旧市街の干渉を嫌う極少数のものたちだけだ。
「いつも通り黒でお願いします」
互いにダイスを振って先手を決める。今日はリンハルトの方が大きい目が出たので先手となった。これはそのまま先手の出目としても使われる。執事が持ってきたテフを飲みながら遊ぶ、歳の離れた二人の姿は意外に穏やかだ。
「頼んでいたこと、調べてくれたかな」
「ある程度は。ガルグ=マク司教座で働く彼の地出身者のほとんどがキッホルとセスリーンの紋章を持っていました」
ヒューベルトの報告を受け、リンハルトはため息をついた。あの土地の領主が十傑の子孫ではないことは既に判明している。
「あの土地で血を与えたキッホルとセスリーンゆかりの聖人がいるんだろうなあ」
次にヒューベルトがダイスを振り、リンハルトの駒に邪魔される前に駒を進めた。
「確かに古代から中世にかけて、聖人たちが人の命を助けるために血を分け与えた例は枚挙にいとまがありません」
「だが集落丸ごとなんて、いくら頑丈な聖人でも血を失いすぎて死んでしまう」
「貴殿はいつ為されたとお考えですか?」
「古代や中世なら自慢して回るはずさ」
リンハルトの言葉に首肯したヒューベルトはすっかり冷めてしまったテフに口をつけた。当時の基準からしても、紋章が発現するほど沢山の血を与えられるのは特別なことだ。
「でも当時は他の土地から妬まれるような幸運だったから隠したんだ」
人間社会から魔力が失われた病禍の時期に、自らの命と引き換えにしてでも集落の命を救ってくれるような聖人と出会う幸運など滅多にあることではない。ベレト統一王の治世から三世紀ほどで制度は疲弊し、セイロス教原理主義派による異端者狩りがフォドラ全土を席巻した。病禍は互いに互いを疑う地獄のような状況で発生している。
「当時あの地域で起きたことは私も奇跡だと思います。うかつに言って回れば貴殿のおっしゃる通り、異端者狩りの対象になった可能性は高いですな」
病禍に苦しむ片田舎に偶然、血を分けてくれる聖人が現れる確率は限りなく低い。そもそも統一戦争の時点ですら、明確にナバテアの民であったと言えるのは三名だけだ。当時の大司教レアとその部下セテス、それに彼の妹でアガルタの民から血を狙われていたフレンしかいない。争いに巻き込まれることを避けて出自を隠しているものがいた可能性は否定できないが。
リンハルトの振ったダイスがゾロ目を出したのでヒューベルトの駒は弾き出され、バーに置かれることとなった。
「異端者狩りの理由も嫉妬だからね。生存戦略としては正しいし、それが強烈な成功体験になったんだろう」
だが正体を明かさず、真の目的を隠して目標を達成しようとする態度は誠実ではないとリンハルトは思う。
「聖人の血で強化された人々は当時の疲弊したフォドラにおいては珍しい、活力に溢れる有能な存在です。自然と推挙されてガルグ=マクで学んだり働いたりすることになったのでしょう」
「司教座附属の学校はキッホルとセスリーンが守護聖人だしね。彼らからしてみれば天啓だ。中々説得されない僕のことも女神から与えられた試練だと思っているね、きっと」
彼らは同じセスリーンの紋章を受け継ぎ、信仰魔法を得意とするリンハルトに親近感を持っている。だから彼らは自分たちが考える正しき道へリンハルトを誘導しようとするのだ。しかしリンハルトは彼らと正しさが共有出来ない。
「ヘヴリング家が加われば彼らにとって千人力なのは確かです。名門ですし、貴殿のような筋金入りの合理主義者が説得されたとなれば他のものにも揺さぶりをかけられる」
ダイスを振ったヒューベルトは素早く、バーの上にある自分の駒を元に戻した。互いの駒は行ったり来たりを繰り返していて、なかなかゴールしない。
「今も秘密にするのは呪術的な理由があるのかな?」
「それは私の専門外です」
ヒューベルトの駒はリンハルトの陣の中で逆転勝ちを狙い、乗るかそるかの勝負に出ていた。妻も小さな子供もいるような若者がこんなことをするのはゲームの中だけにしなくてはならない。
「君のご先祖は詳しそうだけどね。ヒューベルト、今後は僕が調べ物をするよ。君はご家族のためにも長生きしないと」
そう宣言したリンハルトは年老いて髪は白くなり、杖なしに歩けない。それでも知性の宿った瞳の色は失われていなかった。尊敬する年長者に言われて引き下がるしかなかったヒューベルトがリンハルトの葬儀に出席したのはこの翌年のことだった。彼の葬儀の場でヒューベルトだけが、リンハルトの死が不自然に早められたものであると分かっていた。畳む
#完売本 #flow #シルヴァン #アッシュ #フェリクス #ディミトリ #ヒューベルト #リンハルト
12.
───
一八五〇年
隕石や彗星などに付着して微生物が宇宙空間を移動したと主張するのが隕石パンスペルミア説だ。
光パンスペルミア説と同じく、隕石パンスペルミア説も微生物は宇宙空間の超低温と大気圏突入時の熱に耐えなくてはならないが隕石深部の温度は上がらないのではないかと予想されている。
───
ファーガス地方では昔から燃える黒水が採れた。北の隣国スレンやパルミラでは薬品や灯り油として使う事もあるらしい。だがセイロス教会はこの黒水の使用を禁止していた。そもそもファーガス地方では灯りは昔から魚の油で灯しているので使い道もない。黒水が滲み出ている場所では勝手に火事が起きることも多く、ファーガスの人々は危険を感じて近寄らないようにしていた。
アドラステア地方にはフォドラ有数の穀倉地帯と良質な炭鉱がある。レスター地方では酪農や大国であるパルミラとの交易、それとレンズや時計をはじめとする精密機械工業が盛んだ。しかしファーガス地方は工業化に乗り遅れてしまい、ガルグ=マク司教座附属大学と並んでフォドラの最高峰と言われるフェルディア総合大学の学生たちも皆、就職の際にはファーガス地方から外へと出て行ってしまう。
暖炉にかけた鍋で一日かけて茹でたくず野菜と芋で腹が満たされればそれで幸せという素朴な時代は去り、ファーガス地方は強烈に外部へ訴えかける何かを欲していた。
ゴーティエ領にある森の中で狩りに来た若者たちが円座を組んで何やら話し込んでいる。鴨が何羽かと野兎数匹は既に夕食にするための処理を終えていた。今晩の食卓は肉づくしになるだろう。互いに誤射を避けるためか、フェルディア総合大学の象徴であるファーガスブルーのローブを身につけている。彼らは皆そこの学生だった。
「シルヴァン、今回はお招きいただきありがとうございます!」
「いや、聞かれたくない話は自然の中でするのが一番だからな」
そういうとシルヴァンは辺りに生えている木の枝を手持ちの鉈で落とし、焚き火用に積み上げ始めた。乾燥した枝でなければ火がつかないのは子供でも知っている。アッシュが怪訝な顔をしているとシルヴァンは取り出した瓶から生木に向けて黒水を注ぎ、ファイアーで点火した。彼等は今時珍しく魔法適性を持っているが魔道専攻ではない。シルヴァンは地理学、フェリクスは法学、アッシュは商学が専攻だった。黒水の匂いを嗅いだフェリクスはシルヴァンを睨み付け、なんと言葉をかけるべきか考え込んでいる。
「教会に見つかったらまずいですよ!」
「そうだなアッシュ。でも冷静になって考えて欲しいんだ。今のを見ただろう?石炭が出来ることはこいつにも出来る。石炭の役割って結局は物を燃やして熱くすることだろ?それに炎の色を見てくれ。すごく明るいんだ。ランプに使える」
「だが液体は運びにくい。樽が何万個もいるな」
フェリクスは幼馴染を怒鳴りつけず冷静に反論することにした。
「でも隧道を掘ったりしなくていいんだぜ?汲み取るだけで済む」
「井戸水とは訳が違う。こんな危険なもの、汲み取るには専用の機械が必要だろう」
「それは石炭も変わらないだろ?だから一旗挙げようと思ってな」
お前らも手伝って、というとシルヴァンは右手でフェリクスを、左手でアッシュを捕まえた。アッシュは固まってしまったがフェリクスは鬱陶しそうに肩にかけられたシルヴァンの手を外した。
「シルヴァン、まさか大学が休みの時に闇雲に掘り起こすつもりか?そんな博打に俺たちを巻き込まないでくれ」
「手伝うってのはそういうことじゃなくてディミトリの説得だ」
「えっ?!ディミトリに掘ってもらうんですか?確かに彼は怪力ですけど…」
「違う!業者はもう見つけてある!ブレーダッドの名前が欲しいんだ」
シルヴァンは本気で黒い水を武器に戦うつもりだった。黒水を石炭のように使ってもらえれば子供が寒い冬、遠くまで薪を拾いに行って風邪をひく必要もない。その辺の生木で充分だ。そして石炭と違い屋内が煤で汚れることもない。生活はがらりと変わるだろう。だがファーガスの人々は保守的だ。全く新しいことを始めるにあたって、唯一無二であるブレーダッド家の名がどうしても欲しい。ブレーダッド家の威光があれば人々もシルヴァンの言うことに耳を傾けてくれる。
「なるほど。それならアッシュが適任だ」
「フェリクスが説得して下さいよ!僕には無理です!」
「いや、アッシュの言葉ならディミトリも耳を傾けるだろう。シルヴァンの癖によく考えたな。ところで俺は何故この場に呼ばれたんだ」
「だって教えなかったら後で拗ねるだろう?」
ぬけぬけと語るシルヴァンの顎に一発決めてやろうと顔を赤くしたフェリクスが無言で拳を握った瞬間、鳥が一斉に飛び立った。何かが高速で回転して耳に響く。これまで聞いたことのない不愉快な音がして、まだシルヴァンに捕まえられているままのアッシュが両耳を塞ぐ。
「ああ、始まったな。掘削を請負ってくれる業者を紹介するよ。連れてくるからここで待っててくれ。元から待ち合わせをしてたんだ」
シルヴァンが騒音がする方へ向かっていったので、フェリクスとアッシュは焚き火の前に取り残されてしまった。
「統一前は教会に禁じられていた品で商売を始めるなんて、とシルヴァンが周りから怒られないか心配ですね」
「それを言ったら統一前は活版印刷も望遠鏡も禁じられていたんだぞ」
シルヴァンの夢は叶うのだろうか。フェリクスは瓶を手に取り底に溜まった黒い水をじっと見つめた。確かに生木なのによく燃えている。薪を集める生活は変えられないとしても、いざと言う時に便利なのは悪いことではない。
現在のフォドラに王はいない。フォドラ最後の王であるベレト統一王は統一後の混乱が収まるまでのわずかな期間だけだが、セイロス教会の大司教も兼ねていた。その数年の間に大司教の名の下に行動の自由を世俗に取り戻している。大司教位はすぐに他のものに譲ってしまったが。
彼が規制を撤廃してフォドラが得たものは印刷技術、医学、科学だ。女神の恩寵を受け百五十年の長きに渡り、若々しい姿のままフォドラを治めた彼は魔法や神秘の申し子と言える。だが現代から見てみれば魔法が失われることを予測していた、としか思えない。もしそうだとしたら、何故十二世紀生まれの人物にそんな未来が予測できたのだろう。
「ただ馬鹿どもを黙らせるために小手先の工夫は必要だろうな。蒸留して色を変えるとか。それには設備も金も必要になるな」
そう言うとフェリクスは鼻を鳴らして焚き火に手をかざした。ファーガス地方のゴーティエ領は気候区分で言えば寒帯で、夏でも寒さを感じる日が多い。
「シルヴァンは融資を受けるためにディミトリが必要なんでしょうけど、上手くいくんでしょうか?」
「アッシュまで巻き込んだのにディミトリすら説得できないなら、シルヴァンに勝ち目はない」
派手に枝を踏む音とシルヴァンが誰かと話す声が聞こえた。最短距離で移動したいのか鉈で道を作りながらやってきたのは、短く切った黒髪に若草色の目をした同年代の男だった。シルヴァンから何か聞かされたのか、フェリクスとアッシュを見て笑顔を浮かべている。
「黒髪の方がフェリクス、雀斑がある方がアッシュだ」
「シルヴァンの思いつきに付き合わされて気の毒なことだ」
「いや、興味深い試みなので声をかけてもらって光栄に思っている。ガルグ=マクから来たベレトだ」
フェリクスもアッシュも黒い長手袋を取って差し出された白い手の感触をずっと昔から知っているような気がした。
───
一八五五年
「たったひとつの種」を高度に進化した知的生命体が「生命の種子」として送り込んだ、と主張するのが意図的パンスペルミア説だ。
殆どの惑星はニッケルやクロムだらけでモリブデンは希少であるにもかかわらず、生物は必須微量元素としてモリブデンを必要とする。
これはモリブデンが豊富な惑星で生命が誕生した名残であり、そこから「生命の種子」が送り出された為あらゆる生物の遺伝暗号の仕組みが驚くほど似ているのではないか、と言われている。
───
ファーガス地方の農家は昔から染み出る黒い水のせいで、収穫間際の作物が汚染されることに悩んでいた。フォドラの地図記号には黒い水に汚染され、農地に適さない土地を表すものがある。この地図記号はほぼファーガス地方でしか使われない。
他の地方に塩水の湧泉があれば塩が作れる。しかしファーガスの場合、湧泉が黒い水に汚染されていて塩は作れない。塩水と黒水の割合によっては薬用になることも多く、パルミラなどでは肌に塗る薬用油として使う。だがセイロス教会に黒い水の利用を禁じられていたため、フォドラではこうした湧泉も長らく放置されていた。
このファーガス地方にとって悩みの種でしかない黒い水を灯り油や燃料にする───初めてシルヴァンから聞かされたディミトリは混乱して、三回も同じ話をさせてしまった。その時、その場にいたアッシュもシルヴァンもこれは拙いな、という顔をしていた。
地表に染み出る黒い水の大元は地下にある。そこから安定して抽出するための井戸と黒い水を蒸留し、灯り油や燃料にするための製油所を作るには資金が無限に必要だ。シルヴァンはファーガス一の名家ブレーダッドの名さえあればあとは自分が探す、と言っていた。しかしディミトリはどうしても、誰からなんと言われようと彼の役に立ちたくて、自分の自由になる分だけではあったが資金を提供した。
五年たった今、思い返してみればあれは混乱していたわけではない。ディミトリはシルヴァンの豊かな発想に深く、とても深く感動しただけなのだ。
ゴーティエ領で採取、蒸留された灯り油と燃料は今のところ、ファーガス地方で忌避感なく使用されている。ブレーダッドオイルは創業5周年を迎えフェルディアに支社を作りそこを足場に、今後は首都ガルグ=マクやレスター、アドラステアへも売り込む予定だ。将来はもしかしたらパルミラやダグザなど海外へ販路を広げる日が来るかもしれない。
出来たばかりのフェルディア支社で、創業五周年を祝う祝賀会が行われた。関係者だけのささやかなものだったが皆、これまでにないほど満ち足りている。ディミトリ、ベレト、シルヴァン、フェリクス、アッシュの五人はなんだか離れ難く、残った酒で飲み直しをすることにしたのが数時間前の話だ。
明け方になりシルヴァン、フェリクス、アッシュの三人は酔い潰れて床に転がっている。結局フェリクスもアッシュもシルヴァンの起業に巻き込まれ、法務だ会計だと毎日忙しい日々を過ごしていた。ディミトリだけがブレーダッド家当主としてイーハをはじめとする領地を経営せねばならないため、ブレーダッドオイルを本業としていないことを少し寂しく感じている。彼らと職場が同じなら、うんざりするようなことがあってもきっと耐えられるだろう。
ディミトリも深酒が過ぎて着席したまま眠っていたのだが、物音で目が覚めてしまった。目覚めたことを後悔したくなるほど頭が痛い。
迎え酒になるものが欲しい。夜が白んでいく中で室内を見回すと立役者の一人であるベレトがブレーダッドオイルの商号を膝の上に乗せて静かに一人泣いている姿が目に入った。先ほどの物音は会場に飾った商号が落ちたか、それを彼が受け止めた音なのだろう。
「どうした、悲しいことでもあったのか?」
酔いが顔色に現れやすいディミトリは頬を赤く染めたままベレトに話しかけた。ベレトのそばにはいつもシルヴァンたちがいるので、ディミトリが彼とゆっくり二人きりで話すのはこれが初めてかもしれない。
「感動しているんだ。俺はこの商号を見るといつも感動して涙が出そうになる。酒が入ったからもう我慢できない」
ベレトは酔いがあまり顔色に出ないらしく、白い顔をしたまま若草色の瞳に涙をためて嵌めたままの黒手袋で目を擦っていた。
「何を言っているのかわからない」
横を向いた青い獅子が赤い炎を吐いているブレーダッドオイルの商号は確か、シルヴァンが金策でデアドラへ赴いた際に出会った画家に考えてもらったものだ。ファーガス地方の象徴である青獅子と灯り油に灯る炎を組み合わせている。ブレーダッドオイルがどの土地の企業で、何を扱っているのか見た瞬間にわかるよう工夫されていた。
頭の中で鐘が鳴り響くような頭痛のせいで、ディミトリはベレトの話がうまく聞き取れない。迎え酒にテーブルに残っていた誰かの飲み残しのワインを煽ったディミトリは酔っ払って泣いているベレトの言葉に再び耳を傾けた。
「ファーガスにしかないものがようやく見つかった。俺には見つけられなかったのに」
「何を言っているのかわからない。黒い水を見つけて井戸を掘ったのはお前だろう」
「シルヴァンに言われなければ掘らなかった」
「依頼がなければ掘らないのでは?」
「ではやはりシルヴァンはすごい」
ディミトリはアルコールに支配された頭で必死にベレトの言葉を理解しようとしたが上手くいかない。以前シルヴァンから聞いた、実際には目にしたことのない光景ばかりが脳裏に浮かぶ。
フェルディアにはないのだが、そしてそれがフェルディアが旧ファーガス神聖王国の首都に選ばれた理由のひとつだと今なら分かるのだが───ファーガス地方には昔から黒い水の浸み出し口がいくつもある。シルヴァンとベレトは丹念に自作の地図に浸み出し口を描き込み、周辺の土を調べて掘削する場所を決めた。
浸み出し口に現地で雇った人足たちにある程度の深さの穴を掘らせると、ベレトは先に溝が彫ってある杭を何本か差し込むのだという。手袋を外し、それらの杭に彼が指で術式を描いてウインドを発動すると螺旋状に動く風が発生する。
勝手に杭が回転し耳の奥に響くような轟音を立て、地中深くまで掘り進んでいくのだ。魔法の発動中はその場を離れられないので、効率が悪いものの蒸気機関を利用した掘削機と同じ量の作業を身ひとつでやってのけるベレトにシルヴァンは深く感謝した。
この祝賀会で彼はベレトにブレーダッドオイルの株を五株贈呈している。まだ配当金は少額だがいずれ指一本動かさずとも生活に困らない程度にはしてみせる、とシルヴァンはそう宣言していた。
ディミトリは魔道研究の本場フェルディア生まれのフェルディア育ちだ。シルヴァン、フェリクス、アッシュも魔法適性があり、フェルディア総合大学の学生である以上魔法は身近で慣れている。
だがベレトは格が違うのだ、といつだったかシルヴァンが興奮して話してくれた。フォドラの人々から魔法の力が失われる前の大魔道士のようだと言う。ベレトは身体から発する魔力の扱いに気を使っているらしい。彼の白い手を見たのは初対面の握手をした時だけで、それ以外ではいつも黒い手袋をしていた。
「いつか採掘作業を見に行ってもいいか?」
「いつでも歓迎する。試掘の手伝いができるように汚れても構わない服で来てくれ」
「鍬を壊さないように気をつけないとな。ブレーダッドの小紋章持ちなんだ」
日の出の暖かい光に照らされながら、ベレトと冗談を交わしたことをディミトリは何故かシルヴァンに話せなかった。いつもベレトを独占していたシルヴァンへの細やかな対抗心だったのかもしれない。
───
一九〇〇年
神祖は知恵をつけたという理由で最初の人々を冥界に追いやった。聖人たちは次の人々の目を霞ませて獣にした。
ヒトに知恵も永遠の命も与えるつもりがなく罰してばかりの神祖は聖人たちは聖なる存在として本当に崇めるべきなのだろうか。彼らの作った教会は伽藍堂に過ぎないのではないだろうか。
───
石炭が多く使われると燃やした時に発生するガスで空気が汚染される。ガルグ=マク、アンヴァル、フェルディア、それにデアドラ等の大都市では大気汚染が深刻だ。この件に関してセイロス教会ガルグ=マク司教座がこのまま石炭を使い続ければ、健康被害が理由で死ぬ者が更に増加するのだから便利さに耽溺せず禁欲的に生活せよ、との声明を発表した。
何にでも代替品は出てくるもので今後は燃やしても煤が出ないファーガス産の黒い水が石炭の代わりに使われるのだろう、と皆なんとなく考えている。それなら皆少し面倒に感じるだけで何とも思わないのだ。政府が法律で煤の出る燃料を規制すれば、煤が出ない燃料に需要が生まれる。そこに経済効果が生まれるのならば商人たちは全力を出す。
だがガルグ=マク旧市街の宗教家たちが出した要求には裏がある。それを感じ取った者たちは密かに強く警戒した。彼らは産業の時代から魔法の時代に立ち帰れと言っている。人々や社会から魔法の力が失われて久しい。
燃料を魔法に戻したら食い扶持が稼げず死ぬものが出てくるのにそれについては言及しない。皆聞き流し、この場では黒い水に切り替えるだけだろう。しかしこの手の手続きを考えない、考えさせない司教座の無責任さには問題がある。それともわざとなのか。
リンハルトは老眼鏡をかけ、何度読んだかわからない声明文をまた読み返した。ため息も何度吐いたかわからない。概要だけならば普通のことしか主張していない。そんな見かけが彼に更なる憂いを抱かせる
ヘヴリング領の経済は炭鉱にそこまで依存していない。だが生活は石炭に依存している。医療も信仰魔法ではなく殆ど医学によって提供されており、生活を改変しろと言われても困ることばかりだ。
ヘヴリング家の上屋敷があるハイストリートと司教座のある旧市街は大して離れていない。だがリンハルトには別の国のように感じられる。これからやってくる年若い客人も旧市街とは別の国の住人だ。リンハルトは客人のため、テフを用意するように執事に命じた。
黒衣に身を包んだ医師が召使に連れられ、リンハルトが待つ応接間に現れた。テーブルにバックギャモンのボードが開いてあるのを見た客人が微かに笑う。パルミラから輸入されたもので、近頃は老若男女を問わず流行っている。
「お招きいただきましてありがとうございます」
「僕と勝負できるのはヒューベルトくらいだからね。たまには赤でやってみない?」
ヒューベルトとリンハルトは対外的には診察のついでにバックギャモンで遊ぶ仲間、ということになっている。含みを持たせた仲であると理解しているのは同じく旧市街の干渉を嫌う極少数のものたちだけだ。
「いつも通り黒でお願いします」
互いにダイスを振って先手を決める。今日はリンハルトの方が大きい目が出たので先手となった。これはそのまま先手の出目としても使われる。執事が持ってきたテフを飲みながら遊ぶ、歳の離れた二人の姿は意外に穏やかだ。
「頼んでいたこと、調べてくれたかな」
「ある程度は。ガルグ=マク司教座で働く彼の地出身者のほとんどがキッホルとセスリーンの紋章を持っていました」
ヒューベルトの報告を受け、リンハルトはため息をついた。あの土地の領主が十傑の子孫ではないことは既に判明している。
「あの土地で血を与えたキッホルとセスリーンゆかりの聖人がいるんだろうなあ」
次にヒューベルトがダイスを振り、リンハルトの駒に邪魔される前に駒を進めた。
「確かに古代から中世にかけて、聖人たちが人の命を助けるために血を分け与えた例は枚挙にいとまがありません」
「だが集落丸ごとなんて、いくら頑丈な聖人でも血を失いすぎて死んでしまう」
「貴殿はいつ為されたとお考えですか?」
「古代や中世なら自慢して回るはずさ」
リンハルトの言葉に首肯したヒューベルトはすっかり冷めてしまったテフに口をつけた。当時の基準からしても、紋章が発現するほど沢山の血を与えられるのは特別なことだ。
「でも当時は他の土地から妬まれるような幸運だったから隠したんだ」
人間社会から魔力が失われた病禍の時期に、自らの命と引き換えにしてでも集落の命を救ってくれるような聖人と出会う幸運など滅多にあることではない。ベレト統一王の治世から三世紀ほどで制度は疲弊し、セイロス教原理主義派による異端者狩りがフォドラ全土を席巻した。病禍は互いに互いを疑う地獄のような状況で発生している。
「当時あの地域で起きたことは私も奇跡だと思います。うかつに言って回れば貴殿のおっしゃる通り、異端者狩りの対象になった可能性は高いですな」
病禍に苦しむ片田舎に偶然、血を分けてくれる聖人が現れる確率は限りなく低い。そもそも統一戦争の時点ですら、明確にナバテアの民であったと言えるのは三名だけだ。当時の大司教レアとその部下セテス、それに彼の妹でアガルタの民から血を狙われていたフレンしかいない。争いに巻き込まれることを避けて出自を隠しているものがいた可能性は否定できないが。
リンハルトの振ったダイスがゾロ目を出したのでヒューベルトの駒は弾き出され、バーに置かれることとなった。
「異端者狩りの理由も嫉妬だからね。生存戦略としては正しいし、それが強烈な成功体験になったんだろう」
だが正体を明かさず、真の目的を隠して目標を達成しようとする態度は誠実ではないとリンハルトは思う。
「聖人の血で強化された人々は当時の疲弊したフォドラにおいては珍しい、活力に溢れる有能な存在です。自然と推挙されてガルグ=マクで学んだり働いたりすることになったのでしょう」
「司教座附属の学校はキッホルとセスリーンが守護聖人だしね。彼らからしてみれば天啓だ。中々説得されない僕のことも女神から与えられた試練だと思っているね、きっと」
彼らは同じセスリーンの紋章を受け継ぎ、信仰魔法を得意とするリンハルトに親近感を持っている。だから彼らは自分たちが考える正しき道へリンハルトを誘導しようとするのだ。しかしリンハルトは彼らと正しさが共有出来ない。
「ヘヴリング家が加われば彼らにとって千人力なのは確かです。名門ですし、貴殿のような筋金入りの合理主義者が説得されたとなれば他のものにも揺さぶりをかけられる」
ダイスを振ったヒューベルトは素早く、バーの上にある自分の駒を元に戻した。互いの駒は行ったり来たりを繰り返していて、なかなかゴールしない。
「今も秘密にするのは呪術的な理由があるのかな?」
「それは私の専門外です」
ヒューベルトの駒はリンハルトの陣の中で逆転勝ちを狙い、乗るかそるかの勝負に出ていた。妻も小さな子供もいるような若者がこんなことをするのはゲームの中だけにしなくてはならない。
「君のご先祖は詳しそうだけどね。ヒューベルト、今後は僕が調べ物をするよ。君はご家族のためにも長生きしないと」
そう宣言したリンハルトは年老いて髪は白くなり、杖なしに歩けない。それでも知性の宿った瞳の色は失われていなかった。尊敬する年長者に言われて引き下がるしかなかったヒューベルトがリンハルトの葬儀に出席したのはこの翌年のことだった。彼の葬儀の場でヒューベルトだけが、リンハルトの死が不自然に早められたものであると分かっていた。畳む
「flow」第1部13.「ラジオ・デアドラ」
#完売本 #ヒルマリ #flow #レオニー #ラファエル
13.
───
一九二五年
そのように考えた最初の人々は神祖と聖人たちの至らなさを理由として欲のままに地上で生き、冥界へと追放された。
彼らは欲のままに真善美のすべてに反したので満たされぬ欲に苦しむ生と冥界以外の世界を持たない。
───
フォドラにおける無線通信の歴史はデアドラ港から始まっている。パルミラの電気技術者による無線音声送受信実験成功を受けてデアドラ港と船舶が連絡を取るための船舶無線が導入された。安全情報などの業務用でこの時点ではまだ電波を利用した航行用レーダーは開発されていない。音質が悪かったので通話には使えず船舶無線用の信号、次に電報のコードが決められ電報局が開局しフォドラの人々は新たな双方向通信手段を手に入れた。
数年後、首都であるガルグ=マク新市街に放送塔が建てられ試験放送が開始されると各地で開局申請が出された。しかしガルグ=マクの逓信省が許可を出したのは首都のガルグ=マク、アンヴァル、フェルディア、デアドラの四局だけだった。
ラジオデアドラは他局と違い日曜夜以外は二十四時間放送をし続けている。深夜帯のラジオパーソナリティとして雇用されたレオニーは元々は百貨店のエレベーターガールとして働いていたのだが買い物に訪れたラジオ局の構成作家が彼女の声の美しさと客の話し声に埋没しないその通りの良さに目を、いや耳を付けてスカウトしたのだった。
深夜帯一時から五時のうち三時から五時が彼女の担当で番組を終える時はおはようございます、という。早寝早起き派だったレオニーの生活は一変してしまった。
百貨店のエレベーターガールは街の小さな女の子なら誰もが憧れる花形職業だ。それだけで済んだらまだレオニーは動きやすく華やかな黄色と黒のチェック柄のジャケットに黒のスカートに身を包みエレベーターガールを続けていただろう。そんな素敵な制服に身を包みにこやかに客と接する姿が誘蛾灯の様におかしな男性を惹きつけることがある。
それは休日にレオニーが客として職場に買い物に来たときのことだった。あの時あのエレベーターにマリアンヌが乗っていなかったらレオニーは今でも百貨店で働いていたかもしれない。縁や運は本当に不思議なものだ。
その日、レオニーとマリアンヌが乗り合わせたエレベーターの中でレオニーは同僚が男性客から触られている事に気づいた。前からたちの悪い客がいるという話がエレベーターガール達の間で共有されていた。
モスグリーンのスカートが捲れ上がりストッキング用のガーターベルト着けた太ももが露わになる事もストッキングが傷む事もいとわずレオニーは不埒な振る舞いに及んだ男性客の腰に膝蹴りをくらわせ怯んだところで腕を捻じ上げて確保した。体が咄嗟に動いたのだという。レオニーは自分が男を確保している隙に早く非常ボタンを押す様に言ったのだが恐怖で竦んでいる同僚は手が震えて何も出来ずその場にいたマリアンヌが隙間から腕を伸ばして非常ボタンを押した。通信回線が開き何事か問う声に対して痴漢が出た、エレベーター内で既に確保したから警備員を呼んで欲しい、とレオニーが報告した。
「今日はもう仕事って気分じゃないだろうから許可が出たら私が代わってやるよ」
警察での手続きの都合上結局代わりに入る事は出来なかったようですが被害にあわれた方にそう提案したレオニーさんには後光がさして見えました、とマリアンヌは警察で証言している。
緊急停止したエレベーターの前には買い物客に犯人を見せない為か被害者が誰なのかを隠す為か警備員によって従業員用の出入り口まで衝立が並べられていた。人目につかぬよう搬入口に警察車両も到着していたがそれが地味な紺色だったのはどうやら百貨店側が配慮を、と警察に頼んだかららしい。
警察の事情聴取まで受けたマリアンヌは警察署前にある二十四時間営業のダイナーでレオニーに温かいココアを奢ってもらっていた。そこそこ消耗していたのでありがたくいただく。マリアンヌにとって久しぶりのココアだった。朝の情報番組担当のリシテアが死にたくなった時には大体脳に甘味が足りていないからまずココアを飲め、としつこく言っていたせいで一時期店頭からココアは姿を消していたが再び街中で見かけるようになった。リシテアは迂闊に自分の好きなものを番組内で挙げるせいで好物をなかなか食べられなくなる飲めなくなると言う事を繰り返している。
「マリアンヌだっけ?さっきはありがとな!」
ハキハキと喋るレオニーはエレベーターガールという機械的なイメージのある職についているせいか私服も女性の曲線美を目立たせる保守的ものではなく直線的なシルエットをつくるツーピースの体が動かしやすそうな服を身に付けていた。
「警察は第三者の証言があると動きやすいそうです」
「慣れてるんで驚いた!私なんか時間がかかりすぎてびっくりしたのに。予定とか合ったんじゃないか?大丈夫?」
レオニーは改めて物好きにも警察で証言してくれたマリアンヌを見つめた。流行りの釣鐘型をした帽子に収まっている水色の髪は短くしているようにも見えたがどうやら編み上げているらしい。書き物をする仕事なのか所作に問題があるのかその両方なのか短めにまくった上着から見えたブラウスの袖にインクの染みがついていた。
「私はラジオデアドラの構成作家で取材の手伝いもします。警察の方からお話を伺ったこともあります。だから慣れていると言ってもいい、のかもしれません」
遅れましたがと言ってマリアンヌが差し出した名刺には確かにラジオデアドラの物で表面に名前と部署とラジオ局の住所、裏には彼女が担当する番組名と放送時間が書いてある。レオニーが聞いたことのない深夜から早朝にかけて放送される番組ばかりだった。
「うちには受信機がないから職場の社員食堂で聞いてる。昼のドラマにみんな夢中だよ!作家って事はあれの脚本書いたりしてるのか?」
マリアンヌは構成作家なので台本は書くが脚本は書かない。口で説明するのは面倒なのでこの誤解についてはいつも言葉を濁してしまう。書き言葉ならばどんな面倒なことでもすらすらと説明が出来るのに話すとなると途端に口が動かなくなる。
「部署が違うので…」
「そっか。警察沙汰をきっかけにして営業をかけるのも変な話だけどさ、良かったらまた買い物に来てくれよな!私はエレベーターに乗りっぱなしだから値引きはできないけどさ」
「買い物もですがラジオデアドラの社員として百貨店に取材に伺う事もあるかもしれません。その時にもよろしくお願いします」
「分かった。上司にもそれとなく話しておくさ。とりあえず疲れたから今日は素直に帰るよ」
そう言うとレオニーは残りのココアを飲み干し伝票を手に取った。彼女がきびきびと動くので幅広の帽子についた大ぶりな羽飾りが楽しげに揺れる。躍動感と自信に満ち溢れる都会の働く女性そのものだった。
レオニーが去った後マリアンヌはココアのおかわりを頼み鞄から手帳を取り出した。忘れないうちに警察で逆に何を聞き出せたのか必死で書き留める。レオニーの溌剌さはこれで伝わるだろう。そう思ってメモを満足気に読み返していたマリアンヌだったがこの時、彼女はレオニーの個人的な連絡先を聞き忘れていた。その為思ったより早くラジオデアドラの社員として百貨店へ訪れることになる。
───
神祖に、聖人に、教会に至らぬ所があったとしても教会は聖なるものを、真善美を求めて生きる人々の為にそれらを示し続け理想と人々を繋ぐ架け橋でなくてはならない。
示された聖なるものを見た人々が自らの悪しき行いを恥じ良き行いをする様に心がけるからだ。
───
レオニーがガラス越しに出されたディレクターであるヒルダの合図に合わせてマイクロホンのスイッチを切った。目の前には構成作家のマリアンヌが座っていて清々しい日の出の光が放送を終えたばかりのレオニーたちを照らす。
「今日もなんてひどい台本なんだ!」
「ええ〜そうかなあ〜?マリアンヌちゃんの台本すっごく良かったと思うけど!」
「なんなんだよ!この焦げた私物プレゼントって!」
「レオニーさんなら絶対に面白く出来ると思いまして」
先週新市街にあるマリアンヌの住むアパートが火事で半焼した。半分残っている、とだけ聞くと暮らせそうな気もするが実際の現場は酷いものでとても生活など出来ない。幸いな事にその時、彼女は不在で焼けずに残った物もあった。余談だがその話を聞いたラジオデアドラの関係者たちは皆、一瞬はマリアンヌの不注意を疑ったという。
彼女は顔見知りからいきなり静謐の美を称えられるほど美しい女性なのだが構成作家として書く台本はレオニーに言わせればネジが飛んだ物ばかりだ。レオニーとマリアンヌの間にある机には番組で使った焦げた帽子それに焦げた辞書や焦げた詩集が数冊積み上げられている。
「使い物にならない上に番組パーソナリティの私物ですらないと言う事実とレオニーさんの真っ当さが正面からぶつかった時に笑いが生まれる、と思いまして」
「私マリアンヌちゃんの嫌なことがあってもタダで起きないところ大好き〜!」
「ありがとうございます。私も親切なヒルダさんがとても……好きです」
今はディレクターのヒルダが焼け出されたマリアンヌを「うちは部屋が余ってるから」という理由で自宅に住まわせてやっている。今日マリアンヌが着ている洋服も彼女の借り物だ。きっと一人暮らしをしていた数日前よりまともな生活を送っている筈だ。ヒルダはマリアンヌと違って化粧品を腐らせない。
「レオニーちゃんも一緒に朝ご飯食べよ!」
レオニーはこの二人に言い返してやろう、と番組放送中はいつも思っているのだが終わる頃には疲れと空腹で言い返す気力が残っていない。三人がやって来たラジオ局の目の前にあるダイナーは関係者御用達で二十四時間営業をしている。当然、この店の店内放送はラジオデアドラだ。早朝のニュース番組でアナウンサーが読み上げるニュースを聞きながら番組スタッフ達と朝食をとっているとまた火事が起きたようだった。火事のニュースを耳にしたマリアンヌが焼けたアパートのことを思い出して伏し目がちになる。
「なんか最近火事が多くない?取材に行ったら怒られるかなあ?」
目玉焼きの黄身を潰しながら何か思い付いたらしいヒルダがメモをし始めた。レオニーが担当している2時間はこんな時間はどうせ誰も聞いていない、と言う理由でやりたい放題の枠だ。こんな時間帯でも聞いているのは荷揚げや荷下ろしの為に待機しているデアドラ港の沖仲仕達が多く彼らに向けてボートレースや競馬中継の予告が入る。しかし朝5時を過ぎて嘘のように内容が真面目になった。今は解説員が最近の天候不順について語っている。
「焼け出された直後は忙しいので…」
マリアンヌがスクランブルエッグをケチャップとかき混ぜながら応じた。この口ぶりだと先方の都合がつきそうな頃に取材に行っても不思議ではない。相手を怒らせても泣かせても放送ではレオニーならなんとかしてくれるだろうと思っているので2人ともやりたい放題だ。
「そっかあ、それもそうだよね!あ、レオニーちゃんにまた手紙が来てるよ。食べ終わったら読んであげて」
ヒルダから渡される手紙の束はいつも開封済みだ。あんな時間に聞いていてわざわざレオニー宛の手紙を出すような聴取者は基本、好意があって好かれようとして手紙を出すが中にはきっと見るに耐えないようなものもあるだろう。しかし ヒルダはそういった類の手紙がレオニーの目に触れないようにしてくれている。
「あんた達がパーソナリティに見せられなかった手紙特集を出来ないんだからきっとすごいのをみてるんだろうな」
レオニーは塩で味付けしてある豆の煮物をトーストに乗せふたつ折りにして頬張った。朝食についての葉書やお便りを募集した際に書いてあった食べ方で試してみたら美味しかったのでよく真似している。豆が溢れないように器用に食べるとレオニーは手についたパン屑を払って手紙の束を手に取った。
「さあ、路面電車も動き始めたしレオニーちゃんは帰って一眠りして!」
「ヒルダ達は水上バスの始発待ちか。歴史地区は素敵だけど住むには少し不便だな」
ヒルダの自宅がある一帯は十五年前に歴史地区に指定されてから手押しの台車と乳母車と車椅子以外の車輪は使用が禁止されている。移動には足と船しか使えない。デアドラの新市街にあるマリーナに自家用船を係留するには莫大な費用がかかり空きがなかなか出ない為どうしても水上バスと水上タクシーを利用する様になる。
ヒルダはレスター地方屈指の名家であるゴネリル家の娘だ。ゴネリル家のルーツはパルミラの首飾り建設時までは確実に遡ることが可能で、それ以前になるとお伽話や神話の領域になる。ヒルダ言うところの由緒正しいご先祖サマ、がまだデアドラがレスター諸侯同盟の首都だった頃に建てた上屋敷は現在の新市街にあったのでまだその上屋敷を所有していればヒルダもレオニーの様に路面電車で帰宅できただろう。しかし彼女の曽祖父がその上屋敷をデアドラ市に売却し改めて網の様に水路が張り巡らされている旧市街へ家を建て直した。船着場がある立派な屋敷で ヒルダの曽祖父は毎朝、自宅からボートで釣りに出てその日に食べる魚を釣っていたらしい。ヒルダは釣りに興味がないが同居している父や兄は釣りが好きなので活用している。
「それじゃ遠慮なくお先に失礼するよ、二人ともおやすみ!」
レオニーが去るとヒルダはハンドバッグから彼女に渡さなかった開封済みの封筒を取り出した。マリアンヌに中身を確認させる。
「分かりにくいですがファイアーの術式です。レオニーさんに魔法適性があった場合、読み上げさせたらスタジオが火事になります」
マリアンヌは意外性の宝庫だ。口下手なのに文章を書かせれば誰よりも奇抜なものを書くし、引っ込み思案で人付き合いが苦手なのに全寮制の士官学校で理学魔法の訓練を受けていたのでメイジとプリースト双方の資格を持っている。寮でのあだ名はその無口さからサイレスだったらしい。
「あーあ、女だけで番組を作ってるからかしら?また警察に行かないと。その前に上に相談か」
「そうですね、誰かに読み上げられる前に加筆して術式を無効にしますから証言してください」
マリアンヌが万年筆で悪意の塊の様な便箋に記号や文字列を書き込むとそれらは一瞬だけ青く光り、すぐに輝きを失っていった。もしかしたら彼女のアパートの住人にもこんな手紙が来て知らずに読み上げた結果、火事になったのかもしれない。ヒルダもマリアンヌと同じことを考えたのか無言で頷いた。
───
隕石の衝突エネルギーで高温となった地表はどろどろに溶けて鉄などの重いものが沈み高い圧力の下で固まっていく。固形の内核と液状の外核が生まれ自転により液状の外核は回転し電気が発生した。その電気により生じた地磁気は惑星全体を覆い宇宙線や太陽風を遮る防御壁となる。
磁気微生物の中にあるマグネトソームは地磁気によって守られた惑星に引き寄せられていった。
───
ヒルダとマリアンヌから報告を受けた上司が悪意のある攻撃をされたと判断し局の法務部にこの案件は委ねられた。ラジオデアドラは警備体制の強化が必要と判断し警備員を新たに二名雇い入れた。大柄な金髪で、玄関に立っているだけで抑止力になるであろうラファエルと魔法を使った嫌がらせに対処出来るベレトだ。
ラファエルは休憩中、筋肉をいじめると称して背中に誰かを座らせながら腕立て伏せをしている姿が評判を呼び、たまにギャラなしで番組に出演させられている。もう1人のベレトは誰かの過去を思い起こさせる静かさなので番組でパーソナリティがたまに話題に出すものの出演した事はない。ただ、マリアンヌとは通じ合うものがあったのかすぐに打ち解けた為その姿を見た局内の男性陣は衝撃を受けた。今日もまた2人で立ち話をしている。
「ヒルダさん、一瞬だけ便箋に環が見えたんだそうです」
「魔法適性検査は」
「本家筋の方々は十傑の遺産絡みで受けていると聞いたことはありますが、ヒルダさん本人はどうなのか分かりません」
「今時はそんなものか……。自分のことだと捉えないと皆、ますます魔法とは縁遠くなるな」
ファイアーの術式が仕込んである新たな手紙をマリアンヌに見せられた際ベレトは線をたった一本書き足すだけで無効にした。マリアンヌはガルグ=マクの士官学校で正式な訓練を受けた身なので、目の前のベレトの腕が本物であることがそれだけで分かる。彼なら警察や軍の魔法部門で上級職にだってつける筈だが、地方で警備員をやっていると言うことはきっと訳ありなのだろう。
「でも私がプリーストの資格を持っていると知ると皆さんレストやライブをかけてもらいたがるんです。訳のわからない医薬品より自然で良い、と」
ふふ、と静かに笑うマリアンヌが内心で何を考えているのかベレトには手に取るようにわかる。レストやライブの術式だって訳がわからない癖に、と思っているのだ。今のマリアンヌはそこで笑えるから構成作家が出来る。ベレトが最初に出会ったマリアンヌなら無理だった筈だ。改めて良い時代になったと思う。豊かさで紋章も魔法も存在意義を薄められ、最初のマリアンヌが背負っていた重荷は今やないに等しい。
「人間は身勝手なものだ。だがそれも今や飯の種だね?今後は番組宛の手紙の開封は警備部がするべきだ。それと局員全ての魔法適性検査が必要だ」
「このおかしな嫌がらせがデアドラで横行しているなら皆自分の状態を知るべきですね、確かに」
ベレトはマリアンヌの言葉を首肯しながら大欠伸をした。もう交代要員も来たので帰る前に男性用仮眠室で寝るのだという。ラジオデアドラの男性用仮眠室はいつシーツを交換したのか誰も知らない。殆どの局員はここで寝るなら廊下の床に、という代物だ。一体どんな生き方をしてきたのだろう。マリアンヌだって紆余曲折あったがベレトのそれはなんだか途方もないような気がした。
一方その頃、ヒルダは損害保険代理店で一連の火事に火災保険の詐欺の可能性があるかどうか意見を聞き終え、市立図書館で新聞の縮刷版を読んでいた。不審な火事が起きたのはどこの誰の家なのかを調べている。まるで科学から魔法に立ち返れ、と言わんばかりに先端技術に関わる人の家ばかりが火事を起こしていた。放送局が狙われてもおかしくない。それに確かマリアンヌの隣人はレスター光学の研究所勤務だった。
続けてヒルダは警察白書にも手を伸ばした。犯罪被害者の分析が載っている筈だ。だが警察白書には年齢・性別・年収・居住地別の被害者分析は載っていても職業での分析はなかった。では加害者はどうだろうか。単独犯なのか組織なのか。脅迫の為に放火するのは犯罪組織の手口だと書いてあるが技術者を脅迫する犯罪組織とは一体どんな組織なのだろう。ヒルダには見当がつかなかった。一人で考え込んでいてもこれ以上いい考えは浮かびそうにない。今日のところはこれで時間切れのようだった。
ラジオ局に戻るとちょうど休憩室で放送終了後のリシテアが1人でココアを飲んでいた。ヒルダも自動販売機でソーダを買って向かいに座る。
「マリアンヌなら打ち合わせで会議室に行きましたよ」
「あーいいのいいの。リシテアちゃんにも考えてもらいたいんだけど、これ見てくれる?」
ヒルダのメモを見たリシテアが口に手を当ててうーん、と唸りながら考え込んでいる。年上のヒルダに頼られたからには気の利いた事を言いたいと思っていた。
「えっ、これはマリアンヌのアパートも関係あるんですか……?」
「それにレオニーちゃん宛にも変な手紙が来たの。おかしいって気がついてマリアンヌちゃんが無効にしてくれた」
「レオニーにもですか……。私にも来るかもしれませんね。その変な手紙」
リシテアはカップの底に残っていたココアを飲み干すと彼女なりの答えを出した。
「宗教関係とか?」
「えーっ!うちの局、司祭様の人生相談番組もあるのに?」
デアドラのセイロス教会聖職者は番組を持っているだけでなく、大規模な記念礼拝を行う際にラジオデアドラに広告も出すしラジオで説法もする。ラジオという新しい場と積極的に関わっていた。
「いや、デアドラのセイロス教会がどうのって話ではないです。今って二十世紀ですよ?ラジオもガス灯もある今、そんな主張をするならよっぽど強い後ろ盾がある、と確信していないと無理です。言えません。だから女神様が自分達の味方だと信じ込んでいる人達、それで宗教関係と言いました」
リシテアの説明はヒルダの腑に落ちたので大げさに礼を言った。彼女は手短に宗教関係、とは言ったが町中の小さな聖堂を守り、託児所を開いている修道女や神父の様な地に足がついた人々ではなく暗黒時代の異端審問官のような集団を指している。己の身に宿る魔力を蔑ろにしていた技術者たちを彼ら自身が持つ魔力で罰する、という残酷な発想はなかなか出てくるものではない。
リシテアが気がついたようなことを警察や保険会社の保険調査員が見逃すとも思えないが、警備部には伝えておくべきだろう。ヒルダが自分の机でベレト宛にメモを書きおえた時に近所の教会の鐘が鳴った。ヒルダにとっては放送準備の時間を知らせる鐘の音なのでスタジオにいかねばならない。放送終了後にベレトにすぐ渡せるようわかりやすい場所にメモを置いた。
放送中、誰もいなくなった部屋に緑の髪をした社員がそっと入り込みヒルダがベレトに渡す筈だったメモはその社員の手の中で燃やされた。最新の火災報知器も感知できないくらい小さな魔法の炎だった。
翌日、デイリーレスターの一面を宗教警察設立が検討されているという記事が飾った。写真は白黒なので読者は全く気がつかなかったがガルグ=マクでその準備にあたる人々は皆全て緑の髪に緑の目をしていた。
※細かい顛末が気になる場合はこちらもお読みください
https://horreum.sub.jp/teg/?tag=%e3%83%a...
畳む
#完売本 #ヒルマリ #flow #レオニー #ラファエル
13.
───
一九二五年
そのように考えた最初の人々は神祖と聖人たちの至らなさを理由として欲のままに地上で生き、冥界へと追放された。
彼らは欲のままに真善美のすべてに反したので満たされぬ欲に苦しむ生と冥界以外の世界を持たない。
───
フォドラにおける無線通信の歴史はデアドラ港から始まっている。パルミラの電気技術者による無線音声送受信実験成功を受けてデアドラ港と船舶が連絡を取るための船舶無線が導入された。安全情報などの業務用でこの時点ではまだ電波を利用した航行用レーダーは開発されていない。音質が悪かったので通話には使えず船舶無線用の信号、次に電報のコードが決められ電報局が開局しフォドラの人々は新たな双方向通信手段を手に入れた。
数年後、首都であるガルグ=マク新市街に放送塔が建てられ試験放送が開始されると各地で開局申請が出された。しかしガルグ=マクの逓信省が許可を出したのは首都のガルグ=マク、アンヴァル、フェルディア、デアドラの四局だけだった。
ラジオデアドラは他局と違い日曜夜以外は二十四時間放送をし続けている。深夜帯のラジオパーソナリティとして雇用されたレオニーは元々は百貨店のエレベーターガールとして働いていたのだが買い物に訪れたラジオ局の構成作家が彼女の声の美しさと客の話し声に埋没しないその通りの良さに目を、いや耳を付けてスカウトしたのだった。
深夜帯一時から五時のうち三時から五時が彼女の担当で番組を終える時はおはようございます、という。早寝早起き派だったレオニーの生活は一変してしまった。
百貨店のエレベーターガールは街の小さな女の子なら誰もが憧れる花形職業だ。それだけで済んだらまだレオニーは動きやすく華やかな黄色と黒のチェック柄のジャケットに黒のスカートに身を包みエレベーターガールを続けていただろう。そんな素敵な制服に身を包みにこやかに客と接する姿が誘蛾灯の様におかしな男性を惹きつけることがある。
それは休日にレオニーが客として職場に買い物に来たときのことだった。あの時あのエレベーターにマリアンヌが乗っていなかったらレオニーは今でも百貨店で働いていたかもしれない。縁や運は本当に不思議なものだ。
その日、レオニーとマリアンヌが乗り合わせたエレベーターの中でレオニーは同僚が男性客から触られている事に気づいた。前からたちの悪い客がいるという話がエレベーターガール達の間で共有されていた。
モスグリーンのスカートが捲れ上がりストッキング用のガーターベルト着けた太ももが露わになる事もストッキングが傷む事もいとわずレオニーは不埒な振る舞いに及んだ男性客の腰に膝蹴りをくらわせ怯んだところで腕を捻じ上げて確保した。体が咄嗟に動いたのだという。レオニーは自分が男を確保している隙に早く非常ボタンを押す様に言ったのだが恐怖で竦んでいる同僚は手が震えて何も出来ずその場にいたマリアンヌが隙間から腕を伸ばして非常ボタンを押した。通信回線が開き何事か問う声に対して痴漢が出た、エレベーター内で既に確保したから警備員を呼んで欲しい、とレオニーが報告した。
「今日はもう仕事って気分じゃないだろうから許可が出たら私が代わってやるよ」
警察での手続きの都合上結局代わりに入る事は出来なかったようですが被害にあわれた方にそう提案したレオニーさんには後光がさして見えました、とマリアンヌは警察で証言している。
緊急停止したエレベーターの前には買い物客に犯人を見せない為か被害者が誰なのかを隠す為か警備員によって従業員用の出入り口まで衝立が並べられていた。人目につかぬよう搬入口に警察車両も到着していたがそれが地味な紺色だったのはどうやら百貨店側が配慮を、と警察に頼んだかららしい。
警察の事情聴取まで受けたマリアンヌは警察署前にある二十四時間営業のダイナーでレオニーに温かいココアを奢ってもらっていた。そこそこ消耗していたのでありがたくいただく。マリアンヌにとって久しぶりのココアだった。朝の情報番組担当のリシテアが死にたくなった時には大体脳に甘味が足りていないからまずココアを飲め、としつこく言っていたせいで一時期店頭からココアは姿を消していたが再び街中で見かけるようになった。リシテアは迂闊に自分の好きなものを番組内で挙げるせいで好物をなかなか食べられなくなる飲めなくなると言う事を繰り返している。
「マリアンヌだっけ?さっきはありがとな!」
ハキハキと喋るレオニーはエレベーターガールという機械的なイメージのある職についているせいか私服も女性の曲線美を目立たせる保守的ものではなく直線的なシルエットをつくるツーピースの体が動かしやすそうな服を身に付けていた。
「警察は第三者の証言があると動きやすいそうです」
「慣れてるんで驚いた!私なんか時間がかかりすぎてびっくりしたのに。予定とか合ったんじゃないか?大丈夫?」
レオニーは改めて物好きにも警察で証言してくれたマリアンヌを見つめた。流行りの釣鐘型をした帽子に収まっている水色の髪は短くしているようにも見えたがどうやら編み上げているらしい。書き物をする仕事なのか所作に問題があるのかその両方なのか短めにまくった上着から見えたブラウスの袖にインクの染みがついていた。
「私はラジオデアドラの構成作家で取材の手伝いもします。警察の方からお話を伺ったこともあります。だから慣れていると言ってもいい、のかもしれません」
遅れましたがと言ってマリアンヌが差し出した名刺には確かにラジオデアドラの物で表面に名前と部署とラジオ局の住所、裏には彼女が担当する番組名と放送時間が書いてある。レオニーが聞いたことのない深夜から早朝にかけて放送される番組ばかりだった。
「うちには受信機がないから職場の社員食堂で聞いてる。昼のドラマにみんな夢中だよ!作家って事はあれの脚本書いたりしてるのか?」
マリアンヌは構成作家なので台本は書くが脚本は書かない。口で説明するのは面倒なのでこの誤解についてはいつも言葉を濁してしまう。書き言葉ならばどんな面倒なことでもすらすらと説明が出来るのに話すとなると途端に口が動かなくなる。
「部署が違うので…」
「そっか。警察沙汰をきっかけにして営業をかけるのも変な話だけどさ、良かったらまた買い物に来てくれよな!私はエレベーターに乗りっぱなしだから値引きはできないけどさ」
「買い物もですがラジオデアドラの社員として百貨店に取材に伺う事もあるかもしれません。その時にもよろしくお願いします」
「分かった。上司にもそれとなく話しておくさ。とりあえず疲れたから今日は素直に帰るよ」
そう言うとレオニーは残りのココアを飲み干し伝票を手に取った。彼女がきびきびと動くので幅広の帽子についた大ぶりな羽飾りが楽しげに揺れる。躍動感と自信に満ち溢れる都会の働く女性そのものだった。
レオニーが去った後マリアンヌはココアのおかわりを頼み鞄から手帳を取り出した。忘れないうちに警察で逆に何を聞き出せたのか必死で書き留める。レオニーの溌剌さはこれで伝わるだろう。そう思ってメモを満足気に読み返していたマリアンヌだったがこの時、彼女はレオニーの個人的な連絡先を聞き忘れていた。その為思ったより早くラジオデアドラの社員として百貨店へ訪れることになる。
───
神祖に、聖人に、教会に至らぬ所があったとしても教会は聖なるものを、真善美を求めて生きる人々の為にそれらを示し続け理想と人々を繋ぐ架け橋でなくてはならない。
示された聖なるものを見た人々が自らの悪しき行いを恥じ良き行いをする様に心がけるからだ。
───
レオニーがガラス越しに出されたディレクターであるヒルダの合図に合わせてマイクロホンのスイッチを切った。目の前には構成作家のマリアンヌが座っていて清々しい日の出の光が放送を終えたばかりのレオニーたちを照らす。
「今日もなんてひどい台本なんだ!」
「ええ〜そうかなあ〜?マリアンヌちゃんの台本すっごく良かったと思うけど!」
「なんなんだよ!この焦げた私物プレゼントって!」
「レオニーさんなら絶対に面白く出来ると思いまして」
先週新市街にあるマリアンヌの住むアパートが火事で半焼した。半分残っている、とだけ聞くと暮らせそうな気もするが実際の現場は酷いものでとても生活など出来ない。幸いな事にその時、彼女は不在で焼けずに残った物もあった。余談だがその話を聞いたラジオデアドラの関係者たちは皆、一瞬はマリアンヌの不注意を疑ったという。
彼女は顔見知りからいきなり静謐の美を称えられるほど美しい女性なのだが構成作家として書く台本はレオニーに言わせればネジが飛んだ物ばかりだ。レオニーとマリアンヌの間にある机には番組で使った焦げた帽子それに焦げた辞書や焦げた詩集が数冊積み上げられている。
「使い物にならない上に番組パーソナリティの私物ですらないと言う事実とレオニーさんの真っ当さが正面からぶつかった時に笑いが生まれる、と思いまして」
「私マリアンヌちゃんの嫌なことがあってもタダで起きないところ大好き〜!」
「ありがとうございます。私も親切なヒルダさんがとても……好きです」
今はディレクターのヒルダが焼け出されたマリアンヌを「うちは部屋が余ってるから」という理由で自宅に住まわせてやっている。今日マリアンヌが着ている洋服も彼女の借り物だ。きっと一人暮らしをしていた数日前よりまともな生活を送っている筈だ。ヒルダはマリアンヌと違って化粧品を腐らせない。
「レオニーちゃんも一緒に朝ご飯食べよ!」
レオニーはこの二人に言い返してやろう、と番組放送中はいつも思っているのだが終わる頃には疲れと空腹で言い返す気力が残っていない。三人がやって来たラジオ局の目の前にあるダイナーは関係者御用達で二十四時間営業をしている。当然、この店の店内放送はラジオデアドラだ。早朝のニュース番組でアナウンサーが読み上げるニュースを聞きながら番組スタッフ達と朝食をとっているとまた火事が起きたようだった。火事のニュースを耳にしたマリアンヌが焼けたアパートのことを思い出して伏し目がちになる。
「なんか最近火事が多くない?取材に行ったら怒られるかなあ?」
目玉焼きの黄身を潰しながら何か思い付いたらしいヒルダがメモをし始めた。レオニーが担当している2時間はこんな時間はどうせ誰も聞いていない、と言う理由でやりたい放題の枠だ。こんな時間帯でも聞いているのは荷揚げや荷下ろしの為に待機しているデアドラ港の沖仲仕達が多く彼らに向けてボートレースや競馬中継の予告が入る。しかし朝5時を過ぎて嘘のように内容が真面目になった。今は解説員が最近の天候不順について語っている。
「焼け出された直後は忙しいので…」
マリアンヌがスクランブルエッグをケチャップとかき混ぜながら応じた。この口ぶりだと先方の都合がつきそうな頃に取材に行っても不思議ではない。相手を怒らせても泣かせても放送ではレオニーならなんとかしてくれるだろうと思っているので2人ともやりたい放題だ。
「そっかあ、それもそうだよね!あ、レオニーちゃんにまた手紙が来てるよ。食べ終わったら読んであげて」
ヒルダから渡される手紙の束はいつも開封済みだ。あんな時間に聞いていてわざわざレオニー宛の手紙を出すような聴取者は基本、好意があって好かれようとして手紙を出すが中にはきっと見るに耐えないようなものもあるだろう。しかし ヒルダはそういった類の手紙がレオニーの目に触れないようにしてくれている。
「あんた達がパーソナリティに見せられなかった手紙特集を出来ないんだからきっとすごいのをみてるんだろうな」
レオニーは塩で味付けしてある豆の煮物をトーストに乗せふたつ折りにして頬張った。朝食についての葉書やお便りを募集した際に書いてあった食べ方で試してみたら美味しかったのでよく真似している。豆が溢れないように器用に食べるとレオニーは手についたパン屑を払って手紙の束を手に取った。
「さあ、路面電車も動き始めたしレオニーちゃんは帰って一眠りして!」
「ヒルダ達は水上バスの始発待ちか。歴史地区は素敵だけど住むには少し不便だな」
ヒルダの自宅がある一帯は十五年前に歴史地区に指定されてから手押しの台車と乳母車と車椅子以外の車輪は使用が禁止されている。移動には足と船しか使えない。デアドラの新市街にあるマリーナに自家用船を係留するには莫大な費用がかかり空きがなかなか出ない為どうしても水上バスと水上タクシーを利用する様になる。
ヒルダはレスター地方屈指の名家であるゴネリル家の娘だ。ゴネリル家のルーツはパルミラの首飾り建設時までは確実に遡ることが可能で、それ以前になるとお伽話や神話の領域になる。ヒルダ言うところの由緒正しいご先祖サマ、がまだデアドラがレスター諸侯同盟の首都だった頃に建てた上屋敷は現在の新市街にあったのでまだその上屋敷を所有していればヒルダもレオニーの様に路面電車で帰宅できただろう。しかし彼女の曽祖父がその上屋敷をデアドラ市に売却し改めて網の様に水路が張り巡らされている旧市街へ家を建て直した。船着場がある立派な屋敷で ヒルダの曽祖父は毎朝、自宅からボートで釣りに出てその日に食べる魚を釣っていたらしい。ヒルダは釣りに興味がないが同居している父や兄は釣りが好きなので活用している。
「それじゃ遠慮なくお先に失礼するよ、二人ともおやすみ!」
レオニーが去るとヒルダはハンドバッグから彼女に渡さなかった開封済みの封筒を取り出した。マリアンヌに中身を確認させる。
「分かりにくいですがファイアーの術式です。レオニーさんに魔法適性があった場合、読み上げさせたらスタジオが火事になります」
マリアンヌは意外性の宝庫だ。口下手なのに文章を書かせれば誰よりも奇抜なものを書くし、引っ込み思案で人付き合いが苦手なのに全寮制の士官学校で理学魔法の訓練を受けていたのでメイジとプリースト双方の資格を持っている。寮でのあだ名はその無口さからサイレスだったらしい。
「あーあ、女だけで番組を作ってるからかしら?また警察に行かないと。その前に上に相談か」
「そうですね、誰かに読み上げられる前に加筆して術式を無効にしますから証言してください」
マリアンヌが万年筆で悪意の塊の様な便箋に記号や文字列を書き込むとそれらは一瞬だけ青く光り、すぐに輝きを失っていった。もしかしたら彼女のアパートの住人にもこんな手紙が来て知らずに読み上げた結果、火事になったのかもしれない。ヒルダもマリアンヌと同じことを考えたのか無言で頷いた。
───
隕石の衝突エネルギーで高温となった地表はどろどろに溶けて鉄などの重いものが沈み高い圧力の下で固まっていく。固形の内核と液状の外核が生まれ自転により液状の外核は回転し電気が発生した。その電気により生じた地磁気は惑星全体を覆い宇宙線や太陽風を遮る防御壁となる。
磁気微生物の中にあるマグネトソームは地磁気によって守られた惑星に引き寄せられていった。
───
ヒルダとマリアンヌから報告を受けた上司が悪意のある攻撃をされたと判断し局の法務部にこの案件は委ねられた。ラジオデアドラは警備体制の強化が必要と判断し警備員を新たに二名雇い入れた。大柄な金髪で、玄関に立っているだけで抑止力になるであろうラファエルと魔法を使った嫌がらせに対処出来るベレトだ。
ラファエルは休憩中、筋肉をいじめると称して背中に誰かを座らせながら腕立て伏せをしている姿が評判を呼び、たまにギャラなしで番組に出演させられている。もう1人のベレトは誰かの過去を思い起こさせる静かさなので番組でパーソナリティがたまに話題に出すものの出演した事はない。ただ、マリアンヌとは通じ合うものがあったのかすぐに打ち解けた為その姿を見た局内の男性陣は衝撃を受けた。今日もまた2人で立ち話をしている。
「ヒルダさん、一瞬だけ便箋に環が見えたんだそうです」
「魔法適性検査は」
「本家筋の方々は十傑の遺産絡みで受けていると聞いたことはありますが、ヒルダさん本人はどうなのか分かりません」
「今時はそんなものか……。自分のことだと捉えないと皆、ますます魔法とは縁遠くなるな」
ファイアーの術式が仕込んである新たな手紙をマリアンヌに見せられた際ベレトは線をたった一本書き足すだけで無効にした。マリアンヌはガルグ=マクの士官学校で正式な訓練を受けた身なので、目の前のベレトの腕が本物であることがそれだけで分かる。彼なら警察や軍の魔法部門で上級職にだってつける筈だが、地方で警備員をやっていると言うことはきっと訳ありなのだろう。
「でも私がプリーストの資格を持っていると知ると皆さんレストやライブをかけてもらいたがるんです。訳のわからない医薬品より自然で良い、と」
ふふ、と静かに笑うマリアンヌが内心で何を考えているのかベレトには手に取るようにわかる。レストやライブの術式だって訳がわからない癖に、と思っているのだ。今のマリアンヌはそこで笑えるから構成作家が出来る。ベレトが最初に出会ったマリアンヌなら無理だった筈だ。改めて良い時代になったと思う。豊かさで紋章も魔法も存在意義を薄められ、最初のマリアンヌが背負っていた重荷は今やないに等しい。
「人間は身勝手なものだ。だがそれも今や飯の種だね?今後は番組宛の手紙の開封は警備部がするべきだ。それと局員全ての魔法適性検査が必要だ」
「このおかしな嫌がらせがデアドラで横行しているなら皆自分の状態を知るべきですね、確かに」
ベレトはマリアンヌの言葉を首肯しながら大欠伸をした。もう交代要員も来たので帰る前に男性用仮眠室で寝るのだという。ラジオデアドラの男性用仮眠室はいつシーツを交換したのか誰も知らない。殆どの局員はここで寝るなら廊下の床に、という代物だ。一体どんな生き方をしてきたのだろう。マリアンヌだって紆余曲折あったがベレトのそれはなんだか途方もないような気がした。
一方その頃、ヒルダは損害保険代理店で一連の火事に火災保険の詐欺の可能性があるかどうか意見を聞き終え、市立図書館で新聞の縮刷版を読んでいた。不審な火事が起きたのはどこの誰の家なのかを調べている。まるで科学から魔法に立ち返れ、と言わんばかりに先端技術に関わる人の家ばかりが火事を起こしていた。放送局が狙われてもおかしくない。それに確かマリアンヌの隣人はレスター光学の研究所勤務だった。
続けてヒルダは警察白書にも手を伸ばした。犯罪被害者の分析が載っている筈だ。だが警察白書には年齢・性別・年収・居住地別の被害者分析は載っていても職業での分析はなかった。では加害者はどうだろうか。単独犯なのか組織なのか。脅迫の為に放火するのは犯罪組織の手口だと書いてあるが技術者を脅迫する犯罪組織とは一体どんな組織なのだろう。ヒルダには見当がつかなかった。一人で考え込んでいてもこれ以上いい考えは浮かびそうにない。今日のところはこれで時間切れのようだった。
ラジオ局に戻るとちょうど休憩室で放送終了後のリシテアが1人でココアを飲んでいた。ヒルダも自動販売機でソーダを買って向かいに座る。
「マリアンヌなら打ち合わせで会議室に行きましたよ」
「あーいいのいいの。リシテアちゃんにも考えてもらいたいんだけど、これ見てくれる?」
ヒルダのメモを見たリシテアが口に手を当ててうーん、と唸りながら考え込んでいる。年上のヒルダに頼られたからには気の利いた事を言いたいと思っていた。
「えっ、これはマリアンヌのアパートも関係あるんですか……?」
「それにレオニーちゃん宛にも変な手紙が来たの。おかしいって気がついてマリアンヌちゃんが無効にしてくれた」
「レオニーにもですか……。私にも来るかもしれませんね。その変な手紙」
リシテアはカップの底に残っていたココアを飲み干すと彼女なりの答えを出した。
「宗教関係とか?」
「えーっ!うちの局、司祭様の人生相談番組もあるのに?」
デアドラのセイロス教会聖職者は番組を持っているだけでなく、大規模な記念礼拝を行う際にラジオデアドラに広告も出すしラジオで説法もする。ラジオという新しい場と積極的に関わっていた。
「いや、デアドラのセイロス教会がどうのって話ではないです。今って二十世紀ですよ?ラジオもガス灯もある今、そんな主張をするならよっぽど強い後ろ盾がある、と確信していないと無理です。言えません。だから女神様が自分達の味方だと信じ込んでいる人達、それで宗教関係と言いました」
リシテアの説明はヒルダの腑に落ちたので大げさに礼を言った。彼女は手短に宗教関係、とは言ったが町中の小さな聖堂を守り、託児所を開いている修道女や神父の様な地に足がついた人々ではなく暗黒時代の異端審問官のような集団を指している。己の身に宿る魔力を蔑ろにしていた技術者たちを彼ら自身が持つ魔力で罰する、という残酷な発想はなかなか出てくるものではない。
リシテアが気がついたようなことを警察や保険会社の保険調査員が見逃すとも思えないが、警備部には伝えておくべきだろう。ヒルダが自分の机でベレト宛にメモを書きおえた時に近所の教会の鐘が鳴った。ヒルダにとっては放送準備の時間を知らせる鐘の音なのでスタジオにいかねばならない。放送終了後にベレトにすぐ渡せるようわかりやすい場所にメモを置いた。
放送中、誰もいなくなった部屋に緑の髪をした社員がそっと入り込みヒルダがベレトに渡す筈だったメモはその社員の手の中で燃やされた。最新の火災報知器も感知できないくらい小さな魔法の炎だった。
翌日、デイリーレスターの一面を宗教警察設立が検討されているという記事が飾った。写真は白黒なので読者は全く気がつかなかったがガルグ=マクでその準備にあたる人々は皆全て緑の髪に緑の目をしていた。
※細かい顛末が気になる場合はこちらもお読みください
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畳む
台詞抜粋
誰からも文句を言われずに銀雪ルート(コンスタンツェ以外スカウトなし、マイユニットはベレト)の現パロが書きたかったので8世紀分の歴史をスケッチしました。
「flow」第1部1〜3「店じまい」
#完売本 #flow #表紙 #台詞まとめ #フレン #セテス #アネット #ギュスタヴ
───
一二九〇年
隕石が轟音を立ててぶつかり、その勢いは光を発するほどであった。
金属が溶け、あるものは浮かびあるものは沈み、やがて大地と海が生まれた。
虚空を漂っていた神祖はまず海に降り赤い土を掴むと息を吹き込んだ。
───
フォドラ統一国家の王ベレトは先代の大司教であったレアの命日に、なんとか時間を作った。側近セテスの妹であるフレンを自室での茶会に招いている。すでにベレトの治世は一世紀弱に及んでいた。しかし女神の恩寵を受けたのか、彼と彼の側近であるセテスとその妹は若々しい姿を保っている。
ベレトが山のように積まれた、フレン好みの茶菓子を無言で食べ終わったのでようやくフレンも口を開いた。
「先ほどから食べてばかり。お話ししていただかなくては用件が分かりませんわ、先生」
共に戦い大陸を統一した黒鷲の教え子たちも二十年ほど前に全てこの世を去っている。いまやベレトを先生と呼ぶのもフレンだけとなってしまった。
「フレン、何年おきにどれくらい眠っている?」
ヒトとしても眷族としても異物、としか言いようのないベレトは距離感が少しおかしい。茶菓子をフレンに殆ど食べさせず、全て自分で食べてしまうくらい言い淀んでいたのならもっと差し障りのない問い方もあったろうに。そんなフレンの内心の動揺の表れだろうか彼女の茶器はがちゃん、と音を立てた。
「法則性は掴めておりませんわ。そして休眠期と活動期は自分の意志では選べませんの。起きた時の環境設定はお父様と枢機卿達に任せていましたが……」
「枢機卿か。そういえば枢機卿の亡骸はあれで全部なのかな」
「共鳴現象にも有効範囲がありましてよ。亡骸がガルグ=マクにない方もいらっしゃいますわ」
レアが暴走した際、彼女の血を分け与えられた者たちの亡骸が蘇った。しかしあの時ベレトの父ジェラルドの亡骸は蘇っていない。おそらく同時に紋章石の欠片を与えられたかどうか、そして与えられた血の量や濃さ、頻度や儀式によってどう影響が出るのかが変わるのだろう。
「まあ暴走する〝白きもの〟もレアが最後の個体なんだろう。セテスもフレンもあの姿になる力は失っているんだよな?俺は元からその力を持っていない」
フレンは黙って引き続き、取り留めのないベレトの言葉に耳を傾けた。
「フレン、アビスの書庫を知っているだろう?いずれ女神の恩寵で長生きできる、という言葉でごまかしが聞かない時代が来る。その時に備えておかねば、と俺は思っている」
レアはそういう牧歌的な世界が末長く続くことを望んでいた。だがベレトの教え子という少ない母数の中ですら、それは欺瞞だと言い切る者が複数いた。言い切った者のうち天寿を全うできたのはリンハルトのみで、ヒューベルトとエーデルガルト、それにベレトと縁が薄かったクロードは戦場に散った。
「私は安定性に欠けるので、長期的な計画に関わることは出来ませんわ」
「そこだ」
「どこですの」
「自分が自分をあてに出来ないのは辛いな。でも自分が万全なら、全て完璧に出来るかと言ったらそれは違うぞフレン」
「無理だったとしても完璧を目指さなくては自堕落になるだけですわ」
ベレトはすでに出がらしになった茶葉にお湯を注いで、無理やりお代わりを作った。もはや色しか付いていない。かつての教え子フェルディナントとローレンツが見たら眉間にしわを寄せるだろう。
助けられたものと助けられなかったもの───二人はとても仲が良かった。彼らのことを思うと、未だに胸が引き裂かれそうになる。ベレトがヒトとして過ごした、今思えば貴重な時間を共にした若者たちだった。
「ヒトが白きものより生き物として劣っているのが明らかだからと言って、社会を完璧に制御しようとした結果が百年前の大戦だ。今後も我々……俺は頭数にいれていいのか分からないな。とにかく眷族が繁栄していくのならともかく、撤退について考えねばならない」
かつて幼いながらもネメシスと戦い、不可逆な障害を負った聖セスリーンことフレンは誰にも見せたことのない表情を浮かべた。たかだか百二十年程度しか生きていない若造が生意気なことを、とでも言っているようだった。
「私、これで失礼しますわ」
しばらくの睨み合いの末、そう言った時のフレンはいつものフレンに戻っていた。少々時代錯誤な服に包まれた去りゆく彼女の背に返答を期待せず、ベレトは声をかけた。
「フレン、負担は大きいが殿(しんがり)は武人の誉だよ」
フレンが去った後にベレトがテーブルから手を離すと、テーブルクロスに手の形の汗染みが出来ていた。灰色の悪魔と呼ばれ、フォドラ大陸を統一したベレトにもまだ恐ろしいものはある。
数節後、フレンが眠りについた。干渉されずに眠りにつくための場所は地方にあって、老いた修道女ばかりで修道院が選ばれることが多い。今回は旧ファーガス神聖王国にある修道院だった。
この手の遠出から帰ってくるセテスは、いつも少し顔色が悪い。ベレトが呑みながら話したい、というと一杯だけなら、と条件をつけて夜に時間を作ってくれた。
「フレンは一生、こんな風に長い眠りを必要とするのか?もしそうだとしたらセテスの死後はどうなる?俺は生物として歪だからフレンより長生き出来るのかわからないし、何か起きた時のために教えてもらいたい」
そもそもフレンはセテスより長く生きることが出来るのか。ベレトは以前から疑問に思っていたが、流石に聞けなかった。だが、引き伸ばしにも限界がある。
「私は本来の姿に戻る力を失ったが、寿命はまだ尽きない」
「セテス、以前フレンに話して怒らせてしまったのだが、いずれ女神の恩寵で長生きなんてごまかしが効かなくなる日が来る。俺はそれに備えたい」
「何をするつもりだ?ベレト」
「俺個人のことだけならとりあえず退位して、ヒトに王位を譲って……後はそうだな。将来的には学校に通ってみたいが、まずは南方で調べ物がしたい。知っておきたいことがあるんだ」
「調べ物はともかく学校など……。髪を染めてほとぼりの覚めた頃にガルグ=マクの士官学校にでも入るか?」
「いや、フェルディアかアンヴァルかデアドラに行く。皆の墓ならまだ残っているだろうしな」
ベレトが百年前に救えなかった若者たちの出身地を澱みなく挙げるのを聞いて、セテスは眉間にしわを寄せた。
「王の候補者はいるのか?」
「フレンが起きるまでに探すさ。これはフレン言うところの〝長期的な計画〟だからな。寂しいかい?」
フレンを怒らせたのでセテスも自分を怒るだろう。ベレトは内心で身構えたが、その予想は外れた。ヒトを何千年も導いた経験のある存在は、ベレトの想像より遥かに懐が深い。
「だが育てた子供が親に反抗し、親を拒絶して出て行かねば大人にしてやれたとは言えない」
フレンは戦傷が理由でもう、そういう大人にはなれないのだ───ベレトは悟った。だから彼は娘の全てを管理したがる。
「年の功、だな」
「ああ、一気に老いた気分だ。もう一杯だけいただこう」
ベレトは大司教レアにより創り出され、ジェラルド・アイスナーによりヒトとして育てられている。レアが弱ってしまった後、眷族としての教育はセテスから受けた。だからベレトは彼を今では親のようなものだと思っている。
そのセテスに自分の希望は伝えた。自分の心臓に入っている紋章石がいつまで保つのか、実際には全く分からない。だが、仮に今すぐ死んだとしてもあまり悔いはない、とベレトはそう思った。
2.
───
一三五〇年
海の中は神祖の恵みに満ち溢れていた。
息を吹き込まれた赤い土は広がり続けやがて海の底にある赤くかがやき溶けた金属があふれる泡だらけの裂け目へと至った。
海の底があまりに熱かったので赤い土は泡の中に隠れた。
───
統一王と呼ばれたベレトは長い治世の終盤で六大貴族の力を借り、様々なものを聖なる教会から俗世間に取り戻した。六大貴族なくしては彼の改革はひとつもなし得なかっただろう、と言われている。騎士と貴族の叙任権はセイロス教会が握っているが、セイロス教会の土地や財産などの世俗的な権利を守護し、与えるのはフォドラ統一国の国王だった。
旧アドラステア帝国の首都アンヴァルはセイロス教の聖地として名高い。そのアンヴァルで黒髪に緑の目をした青年が焼き菓子を頬張っていた。親方に頼まれて仕上げた蹄鉄をアンヴァル駐屯部隊の厩舎に納めてきた帰りなので、少しだけ自由時間がある。
彼が腰掛けているのは、名高きミッテルフランク歌劇団の本拠地である大劇場に至る長い長い階段だ。ミッテルフランク歌劇団と六大貴族アールノルト家の関係は深く長い。初代当主ドロテアが歌劇団に所属していたことから始まったため、アールノルト家は政治や軍事には関わらず芸術関係の道を歩むものも多い。劇場の支配人室には初代当主を称えるため、歌姫だった頃の彼女ではなく晩年の老いてもなお、強く美しかったドロテアの肖像画が飾られている。
ベレトは染めた黒髪をかきあげた。最初の百年間は伸びなかった髪の毛が長い時間をかけ少しずつ伸びてきている。自分では分からないが根元が少し緑に戻ってしまっているようだ。時の流れがベレトの肉体をどう始末するのか、百五十年たった今も分からない。
「マヌエラ先生御用達に間違いはないな」
ベレトは百五十年前の同僚の名を久しぶりに声に乗せた。彼女を直接知るものはこの場に自分しかいない。ミッテルフランク歌劇団の人気歌姫だったマヌエラは劇場周りの名店にも詳しく、アンヴァルに視察に行くならと言って色々教えてくれた。そのうちのひとつがこの店の焼き菓子で、天寿を全うしたマヌエラ亡き今も、昔と変わらぬ味を伝えている。ベレトの死後もこの店なら続くのかもしれない。この焼き菓子からはそんな頼もしさを感じる。
セイロス教会の鐘が鳴り響き、午後一時であることを街中に知らせた。この時間に市役所の壁に貼られている官報や引き札が最新のものに交換される。それらを確かめるため、ベレトは膝に落ちた食べかすを払って立ち上がった。
この街でかつて激しい戦闘があったことを直接、知る者はこの世にもうベレト、セテス、フレンの三人しか存在しない。美しく整然と敷き詰められた石畳の隙間をなぞるように流れていった血の跡は消え去った。しかしベレトの脳裏にはあの赤がまだ残っている。もう少し時が経ち、セテスとフレンが名を変えた時にでも思い出話をしたい。だが、彼らにいつどうやって連絡を取るかベレトはまだ考えていなかった。
ベレトは髪の根元が目立たないようにフードをかぶり直し、市役所へと向かった。市役所の壁の前には人だかりができている。日を追うごとに官報や引き札の情報量は増えていった。平和な世では、戦争にすり潰されていた物資や人材が一斉に建設的なことへ振り分けられる。そうして戦争では役に立たないと思われていた分野が伸びていくのだ。
官報や引き札で埋め尽くされた自由闊達な市役所の壁面はヒトの活動を可視化したものだ。もっと遠くへ、もっと早く、もっと沢山という欲求を傲慢と感じるか切なる願いと感じるか。立場の違いで解釈も異なるだろう。
デアドラからアンヴァルに戻った商人による引き札には何を売り、何を仕入れてきたのかが書いてある。細密画の大量印刷に耐える銅板での印刷が流行っているせいか、デアドラで仕入れた異国の品物が目立つよう絵にしてあった。
フェルディアからやってきた商人は毛皮製品を売りたいらしいが、加工前の毛皮もあるのでそれは仕立て屋に優先して売りたいと書いている。
官報には最近、アンヴァル郊外で鳥型の魔獣が多く発生しているので、〝見かけた場合は近寄らず最寄りのセイロス教会へ連絡せよ〟と書いてある。ベレトにしてみれば報奨金を得る良い機会だ。ついでにミスリルがいくつか手に入ればもっといい。今、世話になっているアンヴァルの鍛冶屋の親方への良い置き土産となるだろう。気の良い親方で今日も納入したらその後は少しなら好きにして構わない、と言ってくれた。
ベレトは死を装って退位した後に半世紀ほど土地を転々として様々な鍛冶屋で働いてみた。鍛冶屋と言ってもどんな土地で商売をしているかによって作る物が全く違う。兵舎のある土地や武具を揃えねばならない貴族のいる土地では武器や防具を作り、農地のある田舎では鍬や鋤を作る。田舎でも都会でも馬や天馬のための蹄鉄は絶対に必要だ。体力的にも辛い仕事なので常に人手を必要としている。
顧客として出入していた時には気にすることすらなかったが、鍛冶屋の中では危険で暑くて辛い鍛冶場で働くしかないものたちがたくさん働いていた。立場の弱い彼らは体に不具があっても分担して仕事にあたる。一人で全てを完遂しようとすれば高い技術力を必要とされる仕事であっても、細かく工程を分けて協力しあえばどんな非力で未熟な者でも成し遂げられるのだ。
今の職場で働いて十年くらい経つ。そろそろ滞在先と仕事を変えるつもりだが、鍛冶屋はベレトに大きな気づきを与えてくれた仕事だった。感謝しても感謝しきれない。
先の大戦後、あの時一体何が起きていたのか知るためにセイロス教会はアガルタの民が遺したものを詳しく調べた。仕組みはともかく動機が殆ど理解できないものが多く回収されている。例えばリンハルトが感心していた小さな金属の発射装置だ。火計でも使う火薬を小さな金属の球を弾き飛ばすために使う。弓か魔法を使えばいいだけのことなのに何故あんな精巧な装置を作ったのか。
大戦後、すぐにはアガルタの民を全く理解できなかった。しかし紋章や魔法と関係ない職に就き、日々それまで習得したことのない技術を学んでいくうちにアガルタの民が何を重視していたのか、ベレトは初めて理解できたような気がした。
彼らは再現性を何よりも重じていたのだ。弓を引く強い腕を持たないものでも魔法の術式を理解しないものでも遠くの敵を攻撃できる。条件さえ整えば。
紋章の力で実行できることの代替手段としては紋章学の父と呼ばれたハンネマンが開発した魔道具がある。しかしアガルタの民が目指していたものは魔法すら必要としない。彼らは魔法術式の代わりにフォドラの民が全く知らない思考法のようなものに基づき、全てを表現していた。
それ、を何と呼ぶのかベレトは知らない。リンハルトとハンネマンが生きていたら一緒に考えてくれただろう。
とりあえず官報で絶対に行くな、と書かれていた方角を目指してベレトは歩み始めた。自分が打った剣を使って、独りで魔獣を狩ると次に打つ時にどのようなものにするか考えがまとまり、地域社会への貢献が出来た上に金を稼げる。一石三鳥だ。
次はフェルディアの魔道学院で学ぶつもりのベレトにとってたまに出没する魔獣は開けるのに少し手間のかかる貯金箱のような存在と言える。
───
一三七〇年
やがて神祖の恵みは海の中だけでなく陸地にも至った。
地に満ちた恵みによりありとあらゆる植物が生まれた。
泡と共にあった赤い土は神祖の恵みを求めて陸地へ向かうことにした。
───
ベレトは予定通り旧ファーガス神聖王国の首都フェルディアに来ていた。今まで滞在していたアンヴァルより遥か北にあるせいか、やたらと肌寒く感じる。ローブの上から襟巻きを巻いていると地元民からそんな有様では真冬はどうするのか、と揶揄われる。その度に冬が来る前に凍死しないように巻いてるんだよ、と言い返した。
ベレトには魔道学院でやりたいことがいくつかある。鍛冶屋時代、余暇に魔獣退治をして蓄えた報奨金に加えて貯め込んだ素材を全て売り払い、魔道学院の入学金を作った。潜り込めさえすればなんとでもなる。学費や生活費が足りなくなったら、今度は魔法縛りでフェルディア近辺の魔獣を狩るつもりだった。地域社会へ貢献し報奨金が得られ、学んだことの実践ができる。
かつての教え子であるコンスタンツェ、メルセデス、アネット、ローレンツの後輩となるのは不思議な気持ちだった。毎日ローブを着て、紋章がないふりをしながら術式を模写し、魔道書を読んでいる。魔道学院の教育方針は実学一辺倒の士官学校と違って、理論と基本が最重要とされているからだ。
ベレトが鍛冶屋をしていた頃にタタラ場で使って、便利だったのはファイアーとウインドだった。鋼にもう少し熱量を与えたい時にファイアーとウインドで後押しする。狭い空間で発動させても誰も怪我をしないように効果範囲を極小にするのがコツだ。結構便利に使っていたのだが自己流にも程がある、危険すぎる、と教授たちからの評価は散々だった。
それでも鍛冶屋でついた妙な癖を直せ、と教授たちから言われなくなる日はやってくる。そしてようやくベレトは学院の資料室へ入ることを許された。珍しくはしゃぐ学生の姿を見て、教授達は魔導書を読めることを喜んでいると誤解していたがそうではない。真実を伝える必要もないので特に訂正はしなかった。ベレトは過去、魔道学院に在籍していた生徒に関する資料に目を通すためここに潜り込んでいる。
魔道学院での生活は人体をより一層魔道になじませ体内の魔力を高めると言う目的がある。そのため前期課程では士官学校より堅苦しい生活を強いられた。まるで修行僧のような暮らしだが、精神性を高めるにはそれが最も早いのも確かなので学生たちは皆、大人しく従っている。
瞑想する時間はあれど自由時間はあまりない。飲食物は肉体と精神が繋がっているため、完全に指導教官に管理される。そんな生活を送っていたかつての教え子たちの様子が知りたかった。
カスパルやリンハルトのようにはじめての団体生活が士官学校だった生徒は士官学校の生活が堅苦しい、とこぼしていたがメルセデスたちからすればガルグ=マクの暮らしは気楽だったろう。制服が着崩せて台所が使える。食事の選択肢が豊富で許可さえ取れば外出もできた。
資料室の窓を開け、ウインドを慎重に使って本の埃を外に排出する。くしゃみで本を汚さないためだ。紐で綴ってある生徒名簿の束を取り出して閲覧台に乗せる。ベレトは魔道学院での彼らの担任教師が残した記録をめくって見知った名前を探していった。
コンスタンツェ
豊かな発想と魔道への情熱と不屈の精神を持つ。能力に不安はないが、弱点になりうるほどのヌーヴェル家復興への焦りには注意が必要。しかしこの焦りが不屈の精神の源でもある。指導の際には精神状態を見極めなくてはならない。
ローレンツ
テュルソスの杖と相性が良すぎるため、肉体を守らねばならない。早急に自他の境界線を強固にする必要があり、本人が理解しやすい伯爵家嫡男としての自我に注目をさせた。しかしそのせいで身分という分かり易い殻に篭る傾向がある。成熟した大人になるにはそこからの解放が必要。
メルセデス
諦めた結果得られる物があるという強かさを身につけていることが素晴らしい。しかし複雑な家庭環境故に植え付けられたの無力感にどう抗うのか、その方法を彼女自身で確立し選び取る意志の強さが必要。
アネット
明るく振る舞っているが父親の失踪が無意識下で精神に影響を及ぼし、術式発動の速さに問題が生じている。本人の努力ではどうしようもない領域なので時が経ち衝撃が収まるまでは命中率を高めるように指導。
ベレトと出会う前の生徒たちの姿が脳裏に浮かぶ。この記録を作った魔道学院の教師はヌーヴェル家の復興を見届けてくれただろうか。ローレンツは理由があってあのような態度だったのだ、とわかって微笑ましい。あの振る舞いで自分を守っていたのだろう。フェルディナントによるとその後かなり柔軟な思考をするようになったらしい。だが最後まで伯爵家嫡子としての責務に忠実で、その誠実さ故に戦死した。
メルセデスと死神騎士について、ベレトはヒューベルトが残していた記録で知った。メルセデスはグロンダーズで戦場で弟を探していた可能性が高く、その後は消息不明となっている。ヒューベルトは目標への最短距離を取りたい面ばかりが目立ったが、利害の絡まない無関係な場では善良な青年だった。マルトリッツ家の姉弟についてもヒューベルトは当然、同情的だった。行きすぎた紋章主義と血統主義に批判的な彼の気持ちはベレトにも痛いほど理解出来る。父ジェラルドのことがなければエーデルガルトの手を取ったかもしれない。
アネットもダスカーの悲劇がなければ父親が失踪することもなく、落ち着いてフェルディアで魔道が極められただろう。その場合ベレトの教え子にはならないが。
記録の中の教え子たちは皆、ガルグ=マクにいた頃より更に幼かった。だがこの時点で大人の事情や家庭の事情に振り回されている。当時の教師たちが持つ、生徒たちへの真摯な思いと歯痒さと社会情勢への苛立ちが伝わる記録だった。
こんな記録を今、読んだところで取り返しはつかない。戦後すぐであろうと、コンスタンツェとフェルディナントを失って久しい現在であろうと変わらない。だが戦後すぐにこの資料を読んでいたら───感情が昂ったベレトはメルセデスと仲の良かったコンスタンツェ、それにローレンツと仲の良かったフェルディナントに話さずにいられなかっただろう。二人ともまた喪失感に苦しむことになったはずだ。だから今で良かったのかもしれない。
ベレトは室内が無人かどうかも確かめず、資料を目の前に開いたまま閲覧台に肘をついた。熱くなった瞼を押さえ、声を押し殺したが涙が止まらない。落ち着くまでかなりの時間を必要としたが、なんとか持ち直た。涙を古い紙の上にこぼすわけにはいかない。人差し指の第二関節で目を擦ると緑色の睫毛がついた。どうやらかなり強い力で目を擦ってしまったらしい。
無意識に親指で人差し指をさすった際、抜け落ちた睫毛が名簿の喉部分に挟まったが、ベレトはそれに気づかないまま名簿をそっと閉じた。
夜、ベレトが学生寮に戻ると同級生にそっと肩を叩かれた。彼は魔力を高めるため数日間無言の行に取り組んでいる最中なので、聞くことはできるが話すことができない。橙色の髪をした同級生は自分の青い眼と鼻を指差した後に首を傾げてベレトの目元に触れた。どうやら目の腫れが引いておらず、泣いていたのが丸わかりらしい。精神の乱れは魔力の乱れと言われるので心配してくれたのだろう。
「大丈夫だよギュスタヴ」
そう言って親切な隣室の住人の肩を叩いて自室に戻った。寝台に横たわり、眠りかけた瞬間ベレトはとあることに気付いて軽く叫び声を上げた。
まさかそんな。
だが今日見た資料によるとアネットの父親の名はギュスタヴだった。
3.
───
一三八〇年
・培養した微生物に鉛、硫黄、鉄の粉末を与えると細胞内の赤い粒が増加。磁鉄鉱と思われる
・磁鉄鉱によるマグネトソームが形成されている───
過ぎ去ってしまえば全ては一瞬のことだ。寝ぼけ眼のフレンが目覚めると世間はいつものように様変わりしていた。寝室に用意されていた古風な服を身につけ、控えていた修道女に礼を言う。老いた修道女は言い伝え通りの現象が起きた感動を年の功で隠していたが、喜びにほおを染めていた。空腹を覚えたので軽食と飲み物も用意してもらう。こういった素朴な人々をレアは愛していた。
フレンは一二九〇年ごろに眠りについた。今は何年なのかと壁に貼ってある暦に目をやる。一三八〇年と書いてあった。それなのにアドラステア帝国成立以前のように節ではなく月、と書いてある。古びた修道院といえども、いくらなんでも懐古主義が過ぎるとフレンは思った。
「何がありましたか?」
「ベレト王は若々しい見た目の長命な方でしたが大改革の後、命数を使い果たすかのようにお亡くなりになりました」
「まあ、ベレト先生が…」
ベレトは本当に死亡したのだろうか。それともフレンたちが定期的に名前を変えるように死亡を装って王を辞めたのだろうか。今のフレンには判断材料がない。自然死ならば眷族としては驚くほどの早死にだが、心臓を持たないヒトの身体に紋章石を埋め込んだ歪な肉体の平均的な寿命は何年くらいなのか?それもフレンには分からない。
先生、というフレンの呼びかけを聞いて老婆は驚いたようにぴくりと眉を動かしたが、口調に変化はなかった。
「王には血で繋いだ後継者がいらっしゃらなかったので大戦の頃、王と共に戦ったヘヴリング家、ベルグリーズ家、エーギル家、アールノルト家、ヴァーリ家、ヌーヴェル家、の中から代表を出し政は彼ら六大貴族による合議制で行われています」
ペトラは戦後、ブリギッドの女王になるため帰国してしまったのでその中に入っていない。フォドラとブリギッドの友好条約はカスパルがフォドラ側の責任者となって締結されている。それは統一王国にとって最初の外交交渉で、フレンが眠りについた時期においてはブリギッドがフォドラの一番の友好国だった。
「まあ。まるでかつてのレスター諸侯同盟のようですわ。代表はどなたが?」
「執政官はエーギル家のフェルディナント三世様です。残されたフェルディナント一世の肖像画に生き写しのお顔をしていらっしゃいます」
橙色の髪の一世とその孫くらいまではフレンの記憶にも残っている。一世は明朗快活を絵に描いたような人物だったが、息子と娘の名付けには正直驚かされた。
ヒューベルトとエーデルガルトと名付けたのだ。
かなり物議を醸し出したがその名を聞いてもベレトは一切、動じなかった。運命が切り開けるように、君らの功績をもってその名が纏うものが上書きされるように、と言って二人へそれぞれ銘の入った短剣を贈っている。後にそれはファーガス神聖王国の風習だ、とフレンは聞いた。救えなかったディミトリのことが念頭にあったのかもしれない。
ベレトは結婚して仮に心臓の動かない子が出来た場合は必ず、母シトリーがしてくれたように自分の紋章石を子供に譲ると明言していた。そして戦争で傷ついたフォドラをまとめあげられる者は彼以外に存在しなかった。
安定を求めた社会に応えた彼はどうやら家庭は持たずに生涯を終えたらしい。その代わりベレトは臣下の子供たちをとてもかわいがった。しかしフレンの知る限り、彼があのような贈り物をしたのはエーギル家のあの二人だけだ。フェルディナントとベレトの願い通りエーギル家の子供たちは統一王国の礎となったらしい。修道女がいう通りならば今もその状態は続いている。
現在の執政官がヒューベルトかエーデルガルトの直系の子孫ならば、あの剣は受け継いでいるのだろうか?そしてフレンの記憶が確かならばヒューベルトは自分のような苦労をさせたくない、と言って息子にはフェルディナント二世と名付けた筈だ。
眠りにつく前の記憶を手繰っていると下働きの者から軽食と飲み物を持ってきた、と声を、かけられた。何年振りの咀嚼と嚥下だろうか。白湯と細かく刻んだ季節の果物がフレンの身体に染み込んでいく。
「代表選出の際に三世が配った引き札には自分だけでなく、先祖の功績をまとめフェルディナント一世の肖像画を載せてありました。斬新な行いが騎士たちの間で評判を呼んだようでございます」
「引き札?騎士?どういうことですの?」
フレンには騎士に引き札を配ると元首になる仕組みがよく分からない。
「セイロス教会から叙任された騎士たち全員が入れ札を行って、六大貴族の代表が決まります。騎士たちは候補者の功績を考慮して誰に札を入れるのかを決めます」
騎士の叙任権を独占できているならば、この時代もセイロス教会の権威は保たれているのだろう。
「驚きました…」
「他にも何か気になることがございましたらこの修道院にもささやかな書庫がありますので、お父上の到着までどうぞお使いください」
修道女は一礼すると空いた皿を下げるため、フレンの寝室から退室した。今回は眠った後に連れてこられたのでガルグ=マクからここまでどれくらいかかるのかフレンは知らない。少し肌寒く感じるのでガルグ=マクより北方なのかもしれない。
フレンが書庫に入ると埃っぽい書庫特有の匂いがした。稀覯書は閉架にある、と壁に表示されている。一世紀近く経っているなら起きていた頃、親しんでいた本は全て稀覯書扱いになっているはずだ。
そう思っていたのに書棚を眺めてみると見覚えのある題名がいくつも目に入ってくる。ガラテア家のイングリットやロナート公の養子アッシュも好んで読んでいた本だがあからさまに版が違う。手に取ってみると裏表紙に値段が書いてあった。まずそれが信じられない。フレンが眠りにつく前と比べて書物の価格は五十分の一程度になっているようだった。かつて肉筆の写本は一冊で家一軒分の価値があったし、木版印刷の本もとても高価なものだった。
フレンが身を隠せるような田舎の修道院にこれだけの書物があることが信じがたい。書物の値段が下がった証拠といえるだろう。しかも書庫の存在を教えてくれた修道女はささやかな、と表現したのだ。眠りにつく前のフレンの常識で言えばこの蔵書量はささやかではない。
どうやら眠りについている間に印刷と製本で技術革新があったようだ。大改革、のうちのひとつだろう。フォドラの現生人類が闇に蠢く者たちと同じ道を歩み始めているのではないか、とフレンは恐ろしくなった。そして書棚のある一点に彼女の緑の目は釘付けになった。背表紙を眺めただけで動悸がおかしくなる。自然と目から涙が溢れた。
書物の価格は妥協できるとしてこれは本当に問題がある。セイロス教会は秩序を担う役割を失ってしまったのだろうか。
「レア様がご存命ならこんなこと許されませんわ。お父様、お気づきにならなかったの?」
ベレトも亡くこの流れを止める力をセテスが失ってしまった、というのならば今までのように体の不調に甘えてはいられない。かつてベレトが言ったように滅びていく種族だとしても、長きに渡りヒトを導いてきた種族の最後の生き残りとして、フレンにも出来ることがある。
まずフレンはこの修道院の書庫にある信仰魔法の専門書と医学書のうち、読んだことのないものを手に取るところから始めた。
───
・微生物の培養に成功
・空気中では細胞膜が白色に変化。水中に戻すと透明に戻り中に赤い粒が確認できた
───
フレンが目覚めたという連絡をうけ、セテスはベレトが首都と定めたガルグ=マクから娘の元へ向かった。眠ってしまった娘を運ぶ必要がなければ飛竜に乗って向かうのが一番早い。帰りにフレンを乗せるため、二人乗り用の鞍をつけられた飛竜は違和感を訴えるように鳴いたがなんとか宥めた。この飛竜はフレンを知る程に老いた個体なので、後でたっぷり労ってやらねばならない。
眼下に見える、首都として拡張されていったガルグ=マクは上昇するにつれてどんどん小さくなっていった。手綱を片手で器用にさばきながらセテスは外套の襟を上げて鼻を隠す。冷たい外気を体に取り込まないためだ。
空から街道を眺めると百年に及んだベレトの治世で道幅が広くなったことがわかる。以前は都市と都市を繋ぐ街道も道幅を広げないように教団の教えで規制していたが、ベレトはそれを自由化してしまった。
大戦後、レアは大司教の座を辞してカトリーヌを伴い赤き谷に居を構えた。彼女は基本、世情のことは知らぬよう関わらぬように療養生活を送っていたが、それでも耳に入ってしまうことがある。
道路の幅に関してもそうだった。ベレトは事情を知らないもの特有の大胆さで、心配するレアを〝強い意志を持って攻めてこようという敵は道幅が狭くても広くても気にしないから大丈夫〟という突飛な物言いで慰めていた。当時の焼け野原のようなフォドラにガルグ=マクへ進攻するような勢力は存在しなかったし、手際良く物資を運べたおかげで復興はセテスの目から見ても手早く進んだ気がする。
道幅の規制することによって物資の供給量を管理出すると各地方で人口を調整できる。学問に専従可能な人材の人数を一定以下に保つこと、学問に専従する人材をガルグ=マクとフェルディアの魔道学院に集中させて管理すること、という目的があったのだがそれもなし崩しになってしまった。
上空の強い風でセテスの外套がはためく。飛竜で訪問する際の目印になる、と言われた森が目に入ったので手綱を取って高度を下げた。久しぶりの遠出はいつになく時の流れや社会情勢の変化をセテスに感じさせてくる。
修道院の庭に降り立つと、セテスと飛竜に気付いた修道女が飛竜のために水の入った桶を持ってきてくれた。久しぶりに目覚めた娘が手を振りながら近づいてくる。あと何度こんな風に目覚めてくれるのだろうか。今回も無事に目覚めてくれたことにセテスは感謝した。
「おはようフレン」
「お父様!まあ!それにこの子!私覚えてますわ。また会えて嬉しいわ。あなた私のこと乗せてくださるの?」
笑顔で父親を抱きしめ、顔馴染みの飛竜を撫でたフレンだが図書館で見た本のことが忘れられない。早く自分が寝ている間に何があったのか話し合いをせねば、と焦ってしまう。
セテスとフレンが出発前に修道女たちにお礼を言うと皆、口々に女神の奇跡に触れられた私どもの方がお礼をしたいくらいだ、と言った。この修道院の修道女たちがフレンの眠りを守っていた百年弱の間に付けた記録が後世において〝白きもの〟の存在を証明する一端を担うのだが、それは数世紀後の話になる。
本来の姿を失い、自力で空を飛ぶ力を失った親子は飛竜にまたがると彼らに向けて手を振る修道女たちに手を振り返した。セテスことキッホルは娘にしっかりつかまるように言うと、手綱を操り飛竜をガルグ=マクの方へ向けて羽ばたかせた。フレンことセスリーンが何か話しかけてくるのだが、上空は風が強く声をうまく拾うことができない。ガルグ=マクに戻ってから改めて聞く、と言うとセテスはある方角を指さした。
フレンがそちらを見ると自分が百年近く眠っていた修道院があった。後日改めて礼を言いに行かねばと思う。その時はきちんとペガサスに乗って自分一人で訪問したい。陸路で三日かかろうとも空路であればひとっ飛びだ。懐かしいガルグ=マク修道院を目にしたフレンは降下に備え、振り落とされないように父の背中にしがみついた。
二百年前は門前町でしかなかったガルグ=マクの街並みは更に発展し、大陸全土の首都に相応しいものとなっている。ベレト王と六大貴族による最初の改革は遷都だった。百年前、政治の中心はガルグ=マク、南方貿易の中心はアンヴァル、東方貿易の中心はデアドラが担っていた。しかしその一方でフェルディアは北方貿易で栄えることが出来ず、それ故にファーガスの辺境がフレンが眠りにつく場所として選ばれた。
年老いた飛竜はああ疲れた、と言わんばかりにどさり、と音を立て勝手知ったるガルグ=マク修道院の竜舎前に着陸した。セテスの顔見知りであろう厩務員が二人の姿を認めて、踏み台を持って近寄ってくる。気遣いが不本意だったフレンは自分で降りられる、と言わんばかりにさっさと飛び降りてしまった。娘が使わないのなら自分も要らないとばかりにセテスも飛竜から飛び降りた。大人気ない二人の姿を見て厩務員がお若いことで!とからかってくる。
揃いの紺の外套を身につけた親子は修道院の敷地内にあるセテスの居室へと向かった。フレンが長い眠りから目覚めると、いつも父から社会情勢や現在の立場についてすぐ説明される。いつもは聞く一方だが今回はフレンにも話したいことがあった。
「ベレトは百年ほど前に死を装って王をやめ、やりたいことがあると言ってここを出て行った。何かあれば連絡が来るはずだ。今は先の大戦で活躍した六大貴族の子孫が交代で統一国家の執政官を勤めている」
「その話は修道院の方から教えていただきました。騎士たちの入れ札の件も。それよりお父様、百科事典についてお聞かせくださいな」
現生人類がアガルタの民のように科学を進歩させることを望まなかった眷属とセイロス教会は細心の注意を払っていた。植物や鉱物は悪用されないように百科事典は分野別に編纂され、大項目と小項目を教会が指定した物しか印刷や製本が出来ないようにしていた。セイロス教の秩序がなんであるのか、を体現したものが百科事典だったのだ。ところが今流通しているものは正に機械的に綴り順に項目を並べ、各項目間の相互参照も可能になっている。教会の検閲なしに印刷を可能にしたのもベレトの改革の一つだったらしい。
「先生はレア様がお嫌いだったのかしら」
一世紀ぶりに父が入れた紅茶を口にしたフレンが嘆く。レアが存命の頃から教会の検閲なしに本を作ること自体は可能だった。しかし検閲を通していない本は印刷を拒否され、肉筆で作るしかない。経費が高すぎて検閲なしの本は広く読まれることがなかった。
「もしそうならあの時エーデルガルトを守っただろう」
「でも自由に考えさせた結果、闇に蠢くものたちが今のヒトから生じたらと思うと私…」
「ベレトはレアから株分けされた野菜ではないから違いが生じても仕方がない」
眷族とベレトは体験してしてきたことも違う。彼の教え子とその子供たちは死ぬまで彼に忠実で、ジェラルドの亡骸は冒涜されることはなかった。
「お父様、今後どうなさるおつもりですの?」
「私はお前と違ってレアとベレトの考えが違うことを問題視しようとは思わない。ベレトのやることにも基本的には賛成してきた。だがアガルタの民のような集団が生じた時のために出来ることはいくつかあるのも確かだ」
翌週、修道院の中である勉強会が始まった。信仰魔法とセイロス教による秩序、つまり法学を研究する勉強会だった。畳む