「flow」第1部6〜7「デアドラ」#完売本 #クロロレ #flow #年齢操作 #レオニー #イグナーツ #リシテア #ヒルダ 続きを読む 6. ─── 一五二〇年 ・与える鉱物の色によって作る膜の色が変化する。藍銅絋を与えると青になった。 ・一定以上の酸素に晒し続けると硬化して鉱物の様になった ─── フェルディアでの暮らしを切り上げたベレトは旧レスター諸侯同盟の首都、水の都デアドラに来ていた。ファーガス地方では目にしなかった生牡蠣を殆ど噛まずにのみこむと体の中から海の香りがする。ベレトが貝の美味しさに目覚めたのはデアドラに来てからだった。 手元の牡蠣から海に視線を向ければ、沖の方に帆柱を何本も立てた巨大な帆船が何隻も行き来しているのが見える。ベレトはデアドラでは髪を染めず、若草色のまま少し伸ばして眼鏡をかけフェルディア出身のベレト=アイスナーとしてデアドラ港で働いている。 当初、ベレトはあることを確かめるため、パルミラへ行こうとしていた。しかしデアドラで懐かしい名前を聞いたのでレスター地方でしばらく過ごすことに決めた。デアドラ港はレスター諸侯同盟時代の文化を色濃く残している場所で、港を管理経営しているのは領主のリーガン家ではない。デアドラ港湾公社だ。 デアドラ港湾公社はレスター諸侯同盟時代に成立したデアドラ港湾法に基づき発足している。デアドラ港湾法はデアドラ港から得られる利益をリーガン家に独占させまいとしたレスター諸侯同盟の名家たちの差し金により成立した。港長はリーガン家以外から選ばれ港湾の管理経営権を全て握る。一元化されたことによりデアドラ港はますます発展したのでその伝統はいまだに生きていた。 ベレトは港湾公社の中でも港湾内の治安を守る巡警、という部門で働いている。港湾内の犯罪取り締まりは巡警の担当で密輸や密入国が起きないように目を光らせていた。そして荷積みや荷揚げをする沖仲仕(おきなかし)たちが起こす騒ぎを鎮めるのもベレトたち巡警の役目だ。 近頃は造船技術が発達したため混載貨物船は接岸出来ないほどの大型船ばかりになっている。そんな船が入港する際は沖仲仕たちが一斉に小さな艀で乗り込み、荷揚げや荷積みをする。港は水上輸送と陸上輸送が切り替わる境界線上にあり、ふたつの世界が重なる場所は独特の文化を持つ。 沖仲仕は外の世界から見れば日雇いの胡散臭い労務者だが、実は高い技術を持っている。彼らは船と荷を見ただけで、何をどの順番でどのように移動させるのかを熟知しなければならない。それでも毎年何件もの重大事故が起きる。 そんな環境下の彼らは気が荒くしょっちゅう騒ぎを起こす。その騒ぎを収めるのも、可能ならば起こさせないのもベレトの仕事だ。早朝に入港予定の船の荷揚げや荷積みのために雇われたのに到着が遅れて大量の沖仲仕たちが埠頭で夕方や深夜まで待機する───ベレトはそんな時に今までの巡警がやらなかった画期的な方法で騒ぎが起きないようにしていた。 屋台の店主が頼んでいない魚の串焼きをベレトの皿においた。 「センセイ、これは俺からの奢りだ。弟が世話になった」 フェルディナントが苦心して作り上げた義務教育制度だが、受けそびれる集団がどうしても出てくる。ベレトは待機させられた沖仲仕たちが持て余した時間を喧嘩で潰さないよう、無料で文字と算術を教えていた。ガルグ=マクやフェルディアで面倒を見ていたのは勉強が出来る若者だったのでまったく勝手が違う。 港で働く彼らに文字をAから順に教えようとしても拒絶して覚えてくれない。まずは自分の名前から文字を教えていく。港湾地区にも学校があるのだがそういった工夫はしてくれないらしい。普通に教えただけで作文や算術がよく出来る〝港の子供〟たちは沖仲仕ではなく船員になる。そこから更に航海術や数学の教育を受けて航海士や船長を目指す。途中、貿易商に誘われて陸に上がる者もいた。 「家族全員の名前をかける様にしてやっただけだ」 魚の腹から口を離すとベレトはそう言った。 「でもよぉセンセイ、諦めないで教えてくれたのはアンタだけだったんだぜ?この間生まれた子供の出生届はあいつが書いたんだ!」 「ああ!無事に生まれたのか!めでたいな。名前は?」 「ラファエルだ」 デアドラ港に入港する混載貨物船はありとあらゆる品を扱う。希少かつ貴重な武器の素材になるウーツ鉱やダークメタル、植物の種子、ガラス製品、茶葉、穀物、果物、布など重さも硬さも大きさも何もかも違う物を船が転覆しないように儲けが出るように大量に積み込まねばならない。目の前の店主の名字はキルステンだ。きっとラファエルは良い船乗りもしくは沖仲仕になるだろう。 「俺たち本当に感謝してるんだ。センセイが文字を教え始めてから港の雰囲気が変わった。だから港長に呼ばれたんだぜ。どんなもん食わせて貰ったのか教えてくれよ」 「牡蠣がいいな」 今食ったじゃねぇか、と呆れた顔で笑う店主は荷揚げの際に落下してきたウーツ鉱の塊が膝を直撃し、杖なしには歩くことができない身体になっている。しかし多少は算術が出来たことが彼を救った。そういう命綱を出来るだけたくさんの沖仲仕に持って欲しい、とベレトは思っている。 「それにしてもセンセイはすげえ食うなあ。この後カイショクなんだろ?入るのか?」 「いや、会食だけでは絶対満腹にならないから先に少し食べておこうと思ってな」 山積みになっている貝殻の中に食べ終わった魚の串を差し込んだベレトは口臭予防のため、レモンの櫛切りを咥えた。港長は若い頃からその愛らしい見た目に反し、港湾内のどの荒くれものたちよりも腕っぷしが強い。港長旗を掲げた港長船が港湾内の見回りに出ると彼女を知るあらゆるものがその身を正す。港長ヒルダ=ヴァレンティン=ゴネリル刀自とその若き護衛レオニー=ピネッリの前で自然体でいられるのは巡警ベレト=アイスナーしかいない。 「先生、こんなところにいたのか!遅れないように連れて来いって言われて探してたんだよ」 食事をしていると時間を忘れてしまう。ベレトは牡蠣小屋の店主に別れを告げ、迎えにきた呆れ顔のレオニーと共に波止場を後にした。 「しかし本当によく食うなあ」 「夕食の前に軽い夕食をとっただけだ」 屋敷までの足としてヒルダが馬車を寄越してくれていた。ベレトが御者に心付けを渡して客車に乗り込むと先客が目に入る。一体、誰だろうか。 「何があったんだレオニー?」 「望遠鏡が教会の禁制品に加わるってさ。多分その相談だろ」 石畳の上を走る馬車の中ならば車輪の音が邪魔をして話が外に漏れることはない。無言のまま目深にかぶった帽子で顔を隠している先客について、レオニーが何も言わないのでベレトも言及しなかった。 王として最初の半世紀は復興と融和に必死だった。次の半世紀は眷属の作り上げた檻からヒトの精神を自由にしようと努力したが、人々がレアからベレトに依存の対象を変更しただけだった。いつか手を引かねば自分もレアのようになってしまうかもしれない。そう思ってベレトはガルグ=マクを去った。黒鷲の子供たちの子孫は努力しているが制度も疲弊して社会が無力感に苛まれる時期が訪れたのだろう。 そういう状況にあって真面目な人々は原典に立ち返ろうとする。ガルグ=マクを中心としてセイロス教の原理主義が広まっていた。ベレトもセテスもセイロス教の聖典に変更を加えなかったため統一王の威光が消えた今、時代錯誤な規律が再び蘇ってきても全くおかしくない。輝かしき三百年は去り暗黒の十六世紀が始まった、と後の人々に言われる揺り戻しの時期がフォドラにおいて始まりつつあった。 ─── ・自らの磁気を調整し反発したり吸い寄せられたりする状況を利用して上下移動をする ・圧力をかけた時も酸素に晒した時のように硬化しダイアモンドと同等の硬度を備えた ─── 目深にかぶった帽子で顔を隠した男は挨拶もせず、ベレトの聞き覚えのある声でセイロス教の教義は不自然だ、と言った。 それはそうだろう、他人事のようにベレトは思った。眷族がヒトを管理するために作った宗教なのだから。その後、敬虔な人々が十世紀近く理論武装を重ねたのがセイロス教だ。ベレトが百年程度抗ったところで敵うはずもない。識字率を上げて印刷と出版を自由にした。本の値段が下がり教典を個人的に読めるようにしても人々は論戦では聖職者に敵わない。 「首都ガルグ=マクではデアドラヘの外航船の入港を禁じろという意見も出ているそうだ」 船積港が外国である船舶を外航船と言う。レオニーが男の話を聞いて、形の良い眉を無言で跳ね上げた。レスター地方にとって東方貿易から得られる収入は莫大で生命線とも言える。険しいフォドラの喉元を超えねばならない陸路や飛竜による空路は大型貨物船を使った海上輸送には敵わない。 「フォドラの船が外海へ行くのを妨害するために望遠鏡が禁制品になったのだろう。レンズと筒をパルミラから売ってもらうしかないな」 「その発想はいいね、簡単に組み立てられるように説明書きも付けよう。技術は使わなくなるとすぐに失われる。異物の俺からしたらもったいない話だと思うよ」 六大貴族の一角を担うヌーヴェル家もブリギットやダグザとの交易で莫大な利益を得ていたはずだ。そしてその利益を魔道学院、改めフェルディア総合大学に寄付している。ヌーヴェル家のものたちが真っ先にこの動きに反撥しそうなものだがガルグ=マクでは一体、何があったのだろうか。ベレトの言葉を受け、帽子の男がつばの角度を直してため息をついた。そのため息にも聞き覚えがある。 ベレトはそっと手を伸ばして男の袖と手袋の隙間に見える地肌を指で叩いた。予想すらしていない動きだったのか男は息を呑んで堪えている。声を出すことを堪えたのか暗器を出すことを堪えたのか。 「長手袋をすることだ。言葉は完璧でもここでフォドラのものではないと分かってしまう。顔を隠すくらいだ。知られたくないのだろう?」 「あんた本当にただの巡警なのか?」 レオニーが耐え切れない、と言った風情で吹き出した。 「ああ、今日の会食はきっと面白いことになるだろうな!外の警備に就くのが残念だ」 馬車がヒルダの所有する屋敷に到着し、車輪の音が秘密を守ってくれなくなったので皆は再び口を閉じて馬車から降りた。この屋敷は高台にありデアドラ港が一望出来る美しい屋敷だが、港長を務めている間は港のすぐそばにある公邸に住む決まりなので本宅にすることが出来ない。 レオニーは客が二人とも屋内に入ったのを見届け御者から受け取った槍を構えた。玄関に立ち屋根に向かって叫ぶ。 「イグナーツだっけ?上空は任せたよ!」 屋敷内にいる客の方が化け物の様に強いことをレオニーは知っている。しかし物事には形式が必要で、客人も護衛を連れてきていた。上空警備なら本来はペガサスの方がいいのだが目立ち過ぎるので弓兵にした、と先方から事前に連絡をもらっている。細い体付きの男だが確かに弓の腕は一流である事は見せてもらったのでレオニーに異存はない。 ベレトと帽子の男を出迎えたヒルダは美しい歳の取り方をしていた。口の悪い港の男どもを黙らせていたのは強さだけが理由ではない。その証拠にベレトの謎の連れも少し緊張していた。食卓には既に数名の先客が着席している。値踏みするかのような視線が二人に向けられた。 「外套を脱いで帽子を取りなさい。今から皆を紹介するわ」 扉を閉じ食堂を密室にしたヒルダの言葉に従い、謎の客人は帽子を取って顔を見せた。褐色の肌に緑の目、前髪で小さな三つ編みを一本作っている。 黒髪に青い目の先客が不満げに何か呟いた。ベレトには聞き取ることが出来なかった連れの言葉を嗜めた男性は、紫色の髪を肩まで伸ばしている。金鹿の面々は個性が強くてんでばらばらに見えたが結びつきは強いらしい。年齢に開きがあれど学級の全員が同じ時代に存在し、薄いながらも関わりがあるのは初めて見た。 「こちらはエドマンド辺境伯とそのご令嬢のマリアンヌ」 よろしく、と言って微笑む黒髪の壮年男性は水色の髪をした十歳くらいの娘を連れて来ている。戦後二十年ほど経った頃だろうか。土地開発に絡んで救援要請があり、リンハルトがその際に得た英雄の遺産はエドマンド家に置いてきた。 「こちらはコーデリア伯リシテア」 「こちらはグロスタール伯ローレンツ」 エドマンド家は確かマリアンヌの直系でグロスタール家はローレンツの弟が継いだが、コーデリア家は傍系のものが継いでいる。二人とも家を再興したい、と陳情に来た先祖と顔立ちが似ていた。そしてリシテアの外見はディミトリと違って、ベレトの記憶に影響されていない。 「こちらはベレト=アイスナー」 名前を呼ばれベレトの意識は現在に戻った。レスター地方のもう一つの貿易港であるエドマンド港を管理するエドマンド家、アミッド大河の河川港であるアミッド港を管理するコーデリア家、そして何故かグロスタール家のものがいる。レスター地方の名家の者が一堂に介していた。彼らが集まらねばならない謎の客は何者なのか。 「皆さん、彼がフォドラ商会の新しい〝クロード〟よ。ローレンツはもう親しかったわね」 パルミラ王国は最初に最短航路の探索と確保に成功した船団に全ての権利を与えた。成功した船団は自分達の商会に目的地の名前をつけることが出来る。単純な名乗りは全てを独占している証で、最終的には相手国を経済的に支配することを目的とする危険な存在だ。〝クロード〟はパルミラ王国と戦い続け、その危険性を理解していた旧レスター諸侯同盟の名家達がフォドラ商会に送り込んだ密偵頭だった。 謎の客のうち一人の正体は分かったが、という視線がベレトに向かう。 「彼はこちらに一切悪意がないわ。それはゴネリル家が保証する。さあ、センセイ!言いたいことがあれば言って」 ヒルダが沖仲仕たちのような抑揚でセンセイ、とベレトのことを呼ぶので彼は吹き出してしまった。 「全く……悪ふざけが過ぎる。でも保証してくれてありがとう。英雄の遺産に適応し過ぎるものが家中にいたら隠さずフェルディア総合大学の魔道研究所に必ず相談してください。適切な処置をすれば生活に影響は出ません。だから恐れずに人生を楽しんで長生きしてほしい。あなた方は紋章の乗り物ではない」 かなり唐突だったが、ベレトは王であった時に言いたかったことをついに言葉に出来た。エーデルガルトにもディミトリたちにも言ってやりたかった。席を立ち小さなマリアンヌと視線を合わせるため、床に膝をつく。 「いきなり言われて怖かったね。でも今日言ったことを忘れないで。ブルトガングは主でもなければ敵でもない。ただの剣だから」 背後から拍手が聞こえた。 「あんたすごい度胸だな。俺もセンセイと呼びたいね」 「悪意がないならどう呼んでくれても構わないさ、名前なんて所詮、記号に過ぎない。〝クロード〟ならそれは分かっているはずだ」 ローレンツは軽口を叩く二人をじっと見つめている。リシテアはそんなローレンツを見つめてヒルダ刀自に判らない筈がないだろう、と思っていた。 ─── 次に神祖がお作りになられた畑を耕し糸を紡ぐ者たちは逆らうことをしなかったので安らぎを得た神祖は深い眠りについた。 残された聖人達は畑を耕し糸を紡ぐ者たちが二度と逆らうことのないように彼らの目をかすませ、物をあまり考えられないようにした。 ─── ヒルダはそろそろ古希を迎える年頃でエドマンド辺境伯は四十代。ローレンツは三十歳になったばかりでリシテアが二十四歳だ。統一王と同じ名を名乗るヒルダの部下は見た目こそ自分と同じくらいだが、実はヒルダ刀自より遥かに年上なのではないだろうか?リシテアには何故かそのように感じられた。あのヒルダが彼の前では無意識に年下の娘のごとく振る舞っている。 コーデリア家とグロスタール家は再興してから深い繋がりを持つようになった。同じ時期にベレト王から家名を継ぐ許しを直接、貰ったからだろうか。中興の祖とされる先祖同士で何か思うところがあったのは確かで、婚姻関係でも結ばれ今や親戚と言っても過言ではない。だからリシテアは新しい〝クロード〟の顔を拝んでやろう、ローレンツを不幸にしたらアプラクサスで殺すと直接言ってやろうと思って父の代わりにこの会食に参加した。 だがベレトの方が緊急度が高い───反射的にそう思った。リシテアの目の前ではまだ不審な二人がセイロス教について軽口を叩いている。際どい二人の会話を聞いて堪えきれない、といった風情でくすくす笑うヒルダはリシテアにとって憧れの人だ。美しい年の取り方と胆力に本当に憧れている。 「ローレンツ、前に話した通り発表はまだだけれど私の次のデアドラ港の港長は貴方よ。これから貴方は港湾公社を率いて沿岸に出る魔獣や海賊、パルミラからの干渉だけでなく……ガルグ=マクからの干渉とも戦ってデアドラ港を通る積荷も人も全て守らなくてはならない。だから一番頼りになる部下を貴方に直接紹介したかった」 ローレンツは優雅に微笑んでお任せください、とだけ言った。百年前ならば海賊や魔獣それに密輸の対策だけで済んだが、今は身内からも足を引っ張られる状況だ。領民のためにミルディン大橋に行け、と父から命じられた時のローレンツもこんな微笑みを浮かべていたのかもしれない。 「センセイ、この子は私のお気に入りなの。守ってやってちょうだい。(剣でね)」 ヒルダはベレトに穏やかにそう言ったが、声に出さず口の形だけで剣でね、と伝えた瞬間は目が笑っていなかった。ベレトはデアドラ港湾公社には魔法職として採用されている。腰から下げているのも小ぶりな鉄の剣だけで、港湾公社には彼が剣を本格的に使えることを知るものは殆どいない。横目で周りを伺うと口の動きに注視しているものはいなかった。リシテアとエドマンド辺境伯はマリアンヌと話していたし〝クロード〟は年長者たちの会話を聞くふりをして、ローレンツを見つめている。 〝クロード〟はベレトが気づいた通り、三十歳を過ぎたのだから子供扱いは止めて欲しい、と頬を赤く染めてヒルダに言い返すローレンツを見ていた。肌の色が薄いと感情の機微が顔色に表れやすい。今日はその白い顔が映える水色の襯衣と体の線にきちんと沿った黒の上着を着ていた。襟元や袖口から見えるフリルの形が完璧で、肩まで伸ばした紫色の髪を美しい刺繍の入った白いリボンでひとまとめにしている。なんと暴き甲斐のある包み紙だろう、と思う。 昨日の寝室では君のお披露目だな、リシテアは君に言いたいことがあるらしいぞ、とローレンツから言われていたのに蓋を開けてみれば自分より遥かに胡散臭い人物がいてクロードは調子が狂ってしまった。 皆、ヒルダにしてやられたと言える。ヒルダの鳴らしたベルを合図に使用人たちが次々と料理や飲み物を持ってきた。彼らに聞かれれても構わない話題は料理と天気くらいしかない。 給仕を終えた使用人たちが下がり、それまでヒルダたちの会話を邪魔しないように娘と小声で話すだけだったエドマンド辺境伯が本題について発言した。 「しかし国内に閉じこもることを是とするこの有り様では海軍の常設は遠のきましたね。望遠鏡を使って索敵出来ないのならば海軍の意味がありませんし、全ての方針を無視して新しく軍港など作ったらガルグ=マクから睨まれてしまう」 作戦の度に結成され、終了すると解散するのがこの時代の海軍の在り方だった。沿岸警備は武装した船とそれぞれ契約して委託しているが、行き交う船舶が増加した今それだけでは心許ない。 「その件についてはアンヴァル港やヌーヴェル港とも連携する必要があるでしょうね。この場の私達だけで動いたらレスターはまた独立するつもりかと言われてしまうわ。そこはそんな面倒なことは避けたい、が皆の本音だろうけれど」 そう言いながらヒルダは器用にフォークとナイフで白身魚の骨を外して切り分けた。医師から食べられるうちは大丈夫と言われたが、元気なうちに完璧な状態でローレンツに役目を継がせたいと思っている。今日の会食はその最初の一歩だ。 「実際は逃げられる側に余裕や甲斐性がないんだ。だから縛りつけようとする。それは旧市街にとってとても残念なことだ」 旧市街にはセイロス教の総本山がある。ベレトの過激な発言に一同は押し黙った。この言葉も彼の本心だろう。〝クロード〟はそう見立てた。先ほどあれだけ鋭く教会の方針を批判していたにも関わらず、彼は本当に残念そうな顔をしている。 「これは望遠鏡や外航船だけの問題ではありません。リシテアの主治医もパルミラから輸入した薬剤を扱っていたせいで、嫌がらせを受けた。陸路の規制はまだ話に上がってもいないというのに」 付け合わせの野菜まできれいに食べて皿を空にしたローレンツが玉ねぎを残しているリシテアを見つめながら言った。リシテアはローレンツの視線を無視して皿の右下にフォークとナイフを並べて置いている。 「夫のイグナーツが医師を守ってくれなかったら、私は治療を受けられなかったでしょう」 今のリシテアは野菜嫌いは持ち越しているようだが前の彼女が想定していたより長生きをして、なんとイグナーツと結婚したという。だが闘病中の彼女はどんな状態だったのだろうか。ディミトリの目にベレトの記憶が影響した可能性があるようにリシテアにもベレトの記憶が影響していたのかもしれない。もしそうだとしたら───教え子たちの次の人生でもまた、こうしてすれ違えるとしたら、ベレトはその時の為に健康で結婚して幸せに過ごしているリシテアを覚えておかねばならない。それに敵対せず同じ陣営で共に過ごしているローレンツとクロードの姿も覚えておかねばならない。 「何か新しいことを始めようとするたびに旧市街の許可が必要になるとしたら新しいことは何もできない。許可を求めている間に古くなる。それが分かっていても旧市街はフォドラの全てをにぎる誘惑に耐えられない。精神を縛ろうとするはずだ」 「悪い子は地獄に堕ちて良い子は天国に行けるかもしれないけれど、悪い子は世界中どこにでも行けるのよ」 ベレトとヒルダの会話を聞いたエドマンド辺境伯が教育に悪いですな、と言いながらヒルダのために杯を掲げた。先ほどから続く際どい会話に若者たちは緊張しきっているかと思いきや〝クロード〟だけは口の中に残った魚の骨を一本ずつ指で摘んで皿の上に載せている。彼はご褒美の飴玉が割れないように勤めを果たすだろう。 7. ─── 一六一〇年 大水で神祖に滅ぼされた〝最初の人々〟は陽の光の元で生きていかれぬ身となり地の底の冥界へ追いやられた。 冥界に追いやられた〝最初の人々〟は地上に戻ろうとして手足を地中から地上へと延ばすが〝今の人々〟は目が霞んでいるためそのことに気付かない。 ─── ロディ海岸にある、使われていない教会に身なりの良い不思議な親子が住んでいた。村に教会の建物はあるのだが司祭が長い間何故か全く派遣されずにいる。村に信仰魔法の使い手も絶えて久しかったので村人は親子を受け入れていた。村人たちは紋章のことなど知る由もない。娘が回復魔法を使う際たまに浮かび上がる紋章を見ても〝セッちゃん〟の紋章は綺麗だなと思うだけだった。父親の〝キッさん〟は海と共に育った村人たちが呆れるほど釣りが下手だ。哀れに思った漁師が帰宅するついでにその日にとれた魚を二、三匹渡していく。村の老人や病人、怪我人の様子を見て回り、親子は静かに暮らしていた。 〝セッちゃん〟はどうやら身体が弱いらしい。最近はよく寝込むようになった。たまに手紙などが届くことだし、こんな田舎にいるより都会の大きな教会や施療院で診てもらった方が良いのではないか。村人たちは口々にそう言ったが、手は尽くしたので娘の身体が動くうちは亡くなった妻の思い出が残るこの土地で過ごしたい、と言う。〝キッさん〟の笑顔があまりに寂しそうだったので村人たちは何も言えなくなってしまった。 自分かフレン宛の手紙か何かが届いたのだろう。そう考えたセテスこと〝キッさん〟は村人の声を聞いて勝手口の扉を開けた。目の前には道案内をした村人と再会を諦めていた古い友人が立っている。ますます色が濃くなっているセテスの髪の毛を一瞥し〝キッさん〟と小さな声で言って笑いを堪えていた。 「笑うな。大したもてなしもできないが入ってくれ」 ガルグ=マクにいた頃にセテスたちが住んでいた部屋と比べると質素で狭いが、ベレトには彼らが穏やかな暮らしを送っているように感じられる。 「フレン、いやセスリーンの具合は?」 「あまり良くない。今も眠っているし次に目覚めたら急いで前の眠りで世話になった女子修道院へ連れていかねば」 レアの最期も眠ってばかりだったので、嫌でもその姿と今のフレンがベレトの中で重なってしまう。重い空気を変えるため、その修道院へ自分が見舞いに行けるのかを聞いて茶化すとセテスも力が抜けたのか小さく口の端を上げた。 「男子禁制なのが女子修道院だ。聖職者であれば入れるが今の姿では無理だろうな」 勧められて席についたベレトは世俗そのものの格好をしている。最近流行の縦縞模様の外套を着て伸ばした若草色の髪を後ろでひとつに束ねていた。かぶって三角帽子はデアドラ風に羽飾り付きで両脇と後を折り返してある。 「最近の流行はわからないな、何故鍔を折り返すのだろう」 「水が勝手に流れ落ちてくれて便利なんだ。長いこと港で働いていたから、帆や帆柱から水が落ちてきてくることがしょっちゅうあった」 セテスはファイアーで湯を沸かし紅茶を淹れた。茶器はガルグ=マクから持ってきたものだろう。ベレトにも見覚えがある。ベレトが手土産に持参したデアドラ名物の焼き菓子を紅茶に浸したのでセテスの眉間に少し皺が寄った。だがこの焼き菓子は非常に硬い。飲み物に浸して食べるのが前提の物なのでベレトはセテスを無視した。 「こちらは大丈夫なのか?」 硬い焼き菓子をぼりぼりと音を立てて囓るセテスとは対照的にベレトは柔らかくなった焼き菓子を静かに食べている。 「西部と比べれば、火炙りになるものはかなり少ない」 異端者狩りは貧しい土地で苛烈になる。社会不安に耐えられないのだ。温和な領主が穏便に済ませたい、と思っていても素早く異端者を火炙りにしないと激しい暴動が起きてしまう。乱暴な話だが現状ではそれが最も被害が少ない解決法だった。 「でも俺はファーガスに行くよ」 「パルミラの租界があるレスターとは違うのだ。危険すぎる。炎の紋章を見せても偽物と言われ、暴徒たちに殺されかねない」 「そうだな。今生の別れになるかもしれない。だから悔いがないように二人の顔を見に来たし、いくつか質問したかった。水葬された眷族はいるのか?」 海に出る魔獣は一体、どこで紋章石を体内に取り入れたのか。それを調べようと提案したのはクロードだった。闇に蠢くものたちは地下と地上を縄張りとしていて、残された資料を見るにどうやら海は眼中になかったらしい。 「ネメシスとの戦いの際に海で戦死して、亡骸が回収されなかったものは沢山いる」 海洋生物がその亡骸を食べれば眷族の骨を取り込んだことになってしまう。海の魔獣の出来上がりだ。 「本来はどう埋葬するのが正しかった?」 「紋章石を含む亡骸と言えども、利用するものがいないならばヒトと変わらない」 利用したのは闇に蠢くものたちと彼らのせいで精神を病んだレアだ。 「俺は彷徨い始めてから継承というものについて考え始めた。位階や立場、体質、外見それに紋章。何故これらは血が繋がっていると受け継がれるのだろう?」 「社会的な立場に関しては相続しているだけだろうに。肉体的なものに関しては遺伝、と言う」 ベレトが聞いたこともなければ目にしたこともない単語をセテスは口にした。 「セイロス教が抹消した単語はいったい何語あるんだ?特に彼らが世界を表すために使っていた独特の思考様式を一言で言えるならそれも知りたい」 「科学、だ。観察や調査をして分類する所まではフォドラの民と変わらないが、アガルタの民はそこから仮説を立て正しいか否かを試す。試した上で再現性があるかどうかを確認し、証明する。その成れの果てが墓荒らしと遺体損壊だ」 故に抹消もやむなし、と言うのが眷族の主張だった。しかし作物や家畜は人の手でより良い実りが得られるように交配されるし、漁師たちは空を見て明日の天気を知る。科学はどこからが有害でどこからが無害なのか。科学を止められるものは宗教以外にないのだろうか。 「数学でやるようなことを他の全てに当てはめるのか。なるほど」 「ベレト、何を考えている」 セテスの淹れた何杯目かの紅茶を飲み干したベレトは目を伏せ、古い友人の顔を見ずに口を開いた。 「俺は自分の人生で試すことができなかった、と思っただけだ。障害を負ったフレ……セスリーンと心臓の代わりに紋章石が埋め込んである俺の組み合わせで健康な子供は生まれたのだろうか?眷族であれヒトであれ」 レアの血を受け入れたヒトである父とレアに作り出され、紋章石で生かされていた母シトリーの間に生まれたベレトの心臓は動かなかった。ベレトが俯いていたので、セテスは手を伸ばし軽く肩を叩いた。 「愛故に突っ走る若者たちを見てみたかった気もするが、そこで踏みとどまるのは善良さだ。善良さは貴重だ。君が娘に無茶をさせなかったおかげであの子は最期まで自由に体を動かし、修道女の友人を山ほど作って生活を楽しみ学校を設立した。未婚だったが無為な生だったというものはいないだろう」 「そうだな、それはその通りだ」 「それに近頃は……我々は増えるために存在した訳ではない、と思うのだ。滅びかけの一族の負け惜しみに聞こえるかもしれないが、これは私の本音だ。さあ、セスリーンの、いや、フレンの顔を見てやってくれ」 セテスはベレトを娘の寝室に案内し、扉を背に立ったまま目頭を押さえた。扉の向こう側から勇気を出せなかったことをフレンに詫びながら嗚咽するベレトの声が聞こえる。だが、悔いはない。畳む 小説,BL 2024/11/15(Fri)
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一五二〇年
・与える鉱物の色によって作る膜の色が変化する。藍銅絋を与えると青になった。
・一定以上の酸素に晒し続けると硬化して鉱物の様になった
───
フェルディアでの暮らしを切り上げたベレトは旧レスター諸侯同盟の首都、水の都デアドラに来ていた。ファーガス地方では目にしなかった生牡蠣を殆ど噛まずにのみこむと体の中から海の香りがする。ベレトが貝の美味しさに目覚めたのはデアドラに来てからだった。
手元の牡蠣から海に視線を向ければ、沖の方に帆柱を何本も立てた巨大な帆船が何隻も行き来しているのが見える。ベレトはデアドラでは髪を染めず、若草色のまま少し伸ばして眼鏡をかけフェルディア出身のベレト=アイスナーとしてデアドラ港で働いている。
当初、ベレトはあることを確かめるため、パルミラへ行こうとしていた。しかしデアドラで懐かしい名前を聞いたのでレスター地方でしばらく過ごすことに決めた。デアドラ港はレスター諸侯同盟時代の文化を色濃く残している場所で、港を管理経営しているのは領主のリーガン家ではない。デアドラ港湾公社だ。
デアドラ港湾公社はレスター諸侯同盟時代に成立したデアドラ港湾法に基づき発足している。デアドラ港湾法はデアドラ港から得られる利益をリーガン家に独占させまいとしたレスター諸侯同盟の名家たちの差し金により成立した。港長はリーガン家以外から選ばれ港湾の管理経営権を全て握る。一元化されたことによりデアドラ港はますます発展したのでその伝統はいまだに生きていた。
ベレトは港湾公社の中でも港湾内の治安を守る巡警、という部門で働いている。港湾内の犯罪取り締まりは巡警の担当で密輸や密入国が起きないように目を光らせていた。そして荷積みや荷揚げをする沖仲仕(おきなかし)たちが起こす騒ぎを鎮めるのもベレトたち巡警の役目だ。
近頃は造船技術が発達したため混載貨物船は接岸出来ないほどの大型船ばかりになっている。そんな船が入港する際は沖仲仕たちが一斉に小さな艀で乗り込み、荷揚げや荷積みをする。港は水上輸送と陸上輸送が切り替わる境界線上にあり、ふたつの世界が重なる場所は独特の文化を持つ。
沖仲仕は外の世界から見れば日雇いの胡散臭い労務者だが、実は高い技術を持っている。彼らは船と荷を見ただけで、何をどの順番でどのように移動させるのかを熟知しなければならない。それでも毎年何件もの重大事故が起きる。
そんな環境下の彼らは気が荒くしょっちゅう騒ぎを起こす。その騒ぎを収めるのも、可能ならば起こさせないのもベレトの仕事だ。早朝に入港予定の船の荷揚げや荷積みのために雇われたのに到着が遅れて大量の沖仲仕たちが埠頭で夕方や深夜まで待機する───ベレトはそんな時に今までの巡警がやらなかった画期的な方法で騒ぎが起きないようにしていた。
屋台の店主が頼んでいない魚の串焼きをベレトの皿においた。
「センセイ、これは俺からの奢りだ。弟が世話になった」
フェルディナントが苦心して作り上げた義務教育制度だが、受けそびれる集団がどうしても出てくる。ベレトは待機させられた沖仲仕たちが持て余した時間を喧嘩で潰さないよう、無料で文字と算術を教えていた。ガルグ=マクやフェルディアで面倒を見ていたのは勉強が出来る若者だったのでまったく勝手が違う。
港で働く彼らに文字をAから順に教えようとしても拒絶して覚えてくれない。まずは自分の名前から文字を教えていく。港湾地区にも学校があるのだがそういった工夫はしてくれないらしい。普通に教えただけで作文や算術がよく出来る〝港の子供〟たちは沖仲仕ではなく船員になる。そこから更に航海術や数学の教育を受けて航海士や船長を目指す。途中、貿易商に誘われて陸に上がる者もいた。
「家族全員の名前をかける様にしてやっただけだ」
魚の腹から口を離すとベレトはそう言った。
「でもよぉセンセイ、諦めないで教えてくれたのはアンタだけだったんだぜ?この間生まれた子供の出生届はあいつが書いたんだ!」
「ああ!無事に生まれたのか!めでたいな。名前は?」
「ラファエルだ」
デアドラ港に入港する混載貨物船はありとあらゆる品を扱う。希少かつ貴重な武器の素材になるウーツ鉱やダークメタル、植物の種子、ガラス製品、茶葉、穀物、果物、布など重さも硬さも大きさも何もかも違う物を船が転覆しないように儲けが出るように大量に積み込まねばならない。目の前の店主の名字はキルステンだ。きっとラファエルは良い船乗りもしくは沖仲仕になるだろう。
「俺たち本当に感謝してるんだ。センセイが文字を教え始めてから港の雰囲気が変わった。だから港長に呼ばれたんだぜ。どんなもん食わせて貰ったのか教えてくれよ」
「牡蠣がいいな」
今食ったじゃねぇか、と呆れた顔で笑う店主は荷揚げの際に落下してきたウーツ鉱の塊が膝を直撃し、杖なしには歩くことができない身体になっている。しかし多少は算術が出来たことが彼を救った。そういう命綱を出来るだけたくさんの沖仲仕に持って欲しい、とベレトは思っている。
「それにしてもセンセイはすげえ食うなあ。この後カイショクなんだろ?入るのか?」
「いや、会食だけでは絶対満腹にならないから先に少し食べておこうと思ってな」
山積みになっている貝殻の中に食べ終わった魚の串を差し込んだベレトは口臭予防のため、レモンの櫛切りを咥えた。港長は若い頃からその愛らしい見た目に反し、港湾内のどの荒くれものたちよりも腕っぷしが強い。港長旗を掲げた港長船が港湾内の見回りに出ると彼女を知るあらゆるものがその身を正す。港長ヒルダ=ヴァレンティン=ゴネリル刀自とその若き護衛レオニー=ピネッリの前で自然体でいられるのは巡警ベレト=アイスナーしかいない。
「先生、こんなところにいたのか!遅れないように連れて来いって言われて探してたんだよ」
食事をしていると時間を忘れてしまう。ベレトは牡蠣小屋の店主に別れを告げ、迎えにきた呆れ顔のレオニーと共に波止場を後にした。
「しかし本当によく食うなあ」
「夕食の前に軽い夕食をとっただけだ」
屋敷までの足としてヒルダが馬車を寄越してくれていた。ベレトが御者に心付けを渡して客車に乗り込むと先客が目に入る。一体、誰だろうか。
「何があったんだレオニー?」
「望遠鏡が教会の禁制品に加わるってさ。多分その相談だろ」
石畳の上を走る馬車の中ならば車輪の音が邪魔をして話が外に漏れることはない。無言のまま目深にかぶった帽子で顔を隠している先客について、レオニーが何も言わないのでベレトも言及しなかった。
王として最初の半世紀は復興と融和に必死だった。次の半世紀は眷属の作り上げた檻からヒトの精神を自由にしようと努力したが、人々がレアからベレトに依存の対象を変更しただけだった。いつか手を引かねば自分もレアのようになってしまうかもしれない。そう思ってベレトはガルグ=マクを去った。黒鷲の子供たちの子孫は努力しているが制度も疲弊して社会が無力感に苛まれる時期が訪れたのだろう。
そういう状況にあって真面目な人々は原典に立ち返ろうとする。ガルグ=マクを中心としてセイロス教の原理主義が広まっていた。ベレトもセテスもセイロス教の聖典に変更を加えなかったため統一王の威光が消えた今、時代錯誤な規律が再び蘇ってきても全くおかしくない。輝かしき三百年は去り暗黒の十六世紀が始まった、と後の人々に言われる揺り戻しの時期がフォドラにおいて始まりつつあった。
───
・自らの磁気を調整し反発したり吸い寄せられたりする状況を利用して上下移動をする
・圧力をかけた時も酸素に晒した時のように硬化しダイアモンドと同等の硬度を備えた
───
目深にかぶった帽子で顔を隠した男は挨拶もせず、ベレトの聞き覚えのある声でセイロス教の教義は不自然だ、と言った。
それはそうだろう、他人事のようにベレトは思った。眷族がヒトを管理するために作った宗教なのだから。その後、敬虔な人々が十世紀近く理論武装を重ねたのがセイロス教だ。ベレトが百年程度抗ったところで敵うはずもない。識字率を上げて印刷と出版を自由にした。本の値段が下がり教典を個人的に読めるようにしても人々は論戦では聖職者に敵わない。
「首都ガルグ=マクではデアドラヘの外航船の入港を禁じろという意見も出ているそうだ」
船積港が外国である船舶を外航船と言う。レオニーが男の話を聞いて、形の良い眉を無言で跳ね上げた。レスター地方にとって東方貿易から得られる収入は莫大で生命線とも言える。険しいフォドラの喉元を超えねばならない陸路や飛竜による空路は大型貨物船を使った海上輸送には敵わない。
「フォドラの船が外海へ行くのを妨害するために望遠鏡が禁制品になったのだろう。レンズと筒をパルミラから売ってもらうしかないな」
「その発想はいいね、簡単に組み立てられるように説明書きも付けよう。技術は使わなくなるとすぐに失われる。異物の俺からしたらもったいない話だと思うよ」
六大貴族の一角を担うヌーヴェル家もブリギットやダグザとの交易で莫大な利益を得ていたはずだ。そしてその利益を魔道学院、改めフェルディア総合大学に寄付している。ヌーヴェル家のものたちが真っ先にこの動きに反撥しそうなものだがガルグ=マクでは一体、何があったのだろうか。ベレトの言葉を受け、帽子の男がつばの角度を直してため息をついた。そのため息にも聞き覚えがある。
ベレトはそっと手を伸ばして男の袖と手袋の隙間に見える地肌を指で叩いた。予想すらしていない動きだったのか男は息を呑んで堪えている。声を出すことを堪えたのか暗器を出すことを堪えたのか。
「長手袋をすることだ。言葉は完璧でもここでフォドラのものではないと分かってしまう。顔を隠すくらいだ。知られたくないのだろう?」
「あんた本当にただの巡警なのか?」
レオニーが耐え切れない、と言った風情で吹き出した。
「ああ、今日の会食はきっと面白いことになるだろうな!外の警備に就くのが残念だ」
馬車がヒルダの所有する屋敷に到着し、車輪の音が秘密を守ってくれなくなったので皆は再び口を閉じて馬車から降りた。この屋敷は高台にありデアドラ港が一望出来る美しい屋敷だが、港長を務めている間は港のすぐそばにある公邸に住む決まりなので本宅にすることが出来ない。
レオニーは客が二人とも屋内に入ったのを見届け御者から受け取った槍を構えた。玄関に立ち屋根に向かって叫ぶ。
「イグナーツだっけ?上空は任せたよ!」
屋敷内にいる客の方が化け物の様に強いことをレオニーは知っている。しかし物事には形式が必要で、客人も護衛を連れてきていた。上空警備なら本来はペガサスの方がいいのだが目立ち過ぎるので弓兵にした、と先方から事前に連絡をもらっている。細い体付きの男だが確かに弓の腕は一流である事は見せてもらったのでレオニーに異存はない。
ベレトと帽子の男を出迎えたヒルダは美しい歳の取り方をしていた。口の悪い港の男どもを黙らせていたのは強さだけが理由ではない。その証拠にベレトの謎の連れも少し緊張していた。食卓には既に数名の先客が着席している。値踏みするかのような視線が二人に向けられた。
「外套を脱いで帽子を取りなさい。今から皆を紹介するわ」
扉を閉じ食堂を密室にしたヒルダの言葉に従い、謎の客人は帽子を取って顔を見せた。褐色の肌に緑の目、前髪で小さな三つ編みを一本作っている。
黒髪に青い目の先客が不満げに何か呟いた。ベレトには聞き取ることが出来なかった連れの言葉を嗜めた男性は、紫色の髪を肩まで伸ばしている。金鹿の面々は個性が強くてんでばらばらに見えたが結びつきは強いらしい。年齢に開きがあれど学級の全員が同じ時代に存在し、薄いながらも関わりがあるのは初めて見た。
「こちらはエドマンド辺境伯とそのご令嬢のマリアンヌ」
よろしく、と言って微笑む黒髪の壮年男性は水色の髪をした十歳くらいの娘を連れて来ている。戦後二十年ほど経った頃だろうか。土地開発に絡んで救援要請があり、リンハルトがその際に得た英雄の遺産はエドマンド家に置いてきた。
「こちらはコーデリア伯リシテア」
「こちらはグロスタール伯ローレンツ」
エドマンド家は確かマリアンヌの直系でグロスタール家はローレンツの弟が継いだが、コーデリア家は傍系のものが継いでいる。二人とも家を再興したい、と陳情に来た先祖と顔立ちが似ていた。そしてリシテアの外見はディミトリと違って、ベレトの記憶に影響されていない。
「こちらはベレト=アイスナー」
名前を呼ばれベレトの意識は現在に戻った。レスター地方のもう一つの貿易港であるエドマンド港を管理するエドマンド家、アミッド大河の河川港であるアミッド港を管理するコーデリア家、そして何故かグロスタール家のものがいる。レスター地方の名家の者が一堂に介していた。彼らが集まらねばならない謎の客は何者なのか。
「皆さん、彼がフォドラ商会の新しい〝クロード〟よ。ローレンツはもう親しかったわね」
パルミラ王国は最初に最短航路の探索と確保に成功した船団に全ての権利を与えた。成功した船団は自分達の商会に目的地の名前をつけることが出来る。単純な名乗りは全てを独占している証で、最終的には相手国を経済的に支配することを目的とする危険な存在だ。〝クロード〟はパルミラ王国と戦い続け、その危険性を理解していた旧レスター諸侯同盟の名家達がフォドラ商会に送り込んだ密偵頭だった。
謎の客のうち一人の正体は分かったが、という視線がベレトに向かう。
「彼はこちらに一切悪意がないわ。それはゴネリル家が保証する。さあ、センセイ!言いたいことがあれば言って」
ヒルダが沖仲仕たちのような抑揚でセンセイ、とベレトのことを呼ぶので彼は吹き出してしまった。
「全く……悪ふざけが過ぎる。でも保証してくれてありがとう。英雄の遺産に適応し過ぎるものが家中にいたら隠さずフェルディア総合大学の魔道研究所に必ず相談してください。適切な処置をすれば生活に影響は出ません。だから恐れずに人生を楽しんで長生きしてほしい。あなた方は紋章の乗り物ではない」
かなり唐突だったが、ベレトは王であった時に言いたかったことをついに言葉に出来た。エーデルガルトにもディミトリたちにも言ってやりたかった。席を立ち小さなマリアンヌと視線を合わせるため、床に膝をつく。
「いきなり言われて怖かったね。でも今日言ったことを忘れないで。ブルトガングは主でもなければ敵でもない。ただの剣だから」
背後から拍手が聞こえた。
「あんたすごい度胸だな。俺もセンセイと呼びたいね」
「悪意がないならどう呼んでくれても構わないさ、名前なんて所詮、記号に過ぎない。〝クロード〟ならそれは分かっているはずだ」
ローレンツは軽口を叩く二人をじっと見つめている。リシテアはそんなローレンツを見つめてヒルダ刀自に判らない筈がないだろう、と思っていた。
───
次に神祖がお作りになられた畑を耕し糸を紡ぐ者たちは逆らうことをしなかったので安らぎを得た神祖は深い眠りについた。
残された聖人達は畑を耕し糸を紡ぐ者たちが二度と逆らうことのないように彼らの目をかすませ、物をあまり考えられないようにした。
───
ヒルダはそろそろ古希を迎える年頃でエドマンド辺境伯は四十代。ローレンツは三十歳になったばかりでリシテアが二十四歳だ。統一王と同じ名を名乗るヒルダの部下は見た目こそ自分と同じくらいだが、実はヒルダ刀自より遥かに年上なのではないだろうか?リシテアには何故かそのように感じられた。あのヒルダが彼の前では無意識に年下の娘のごとく振る舞っている。
コーデリア家とグロスタール家は再興してから深い繋がりを持つようになった。同じ時期にベレト王から家名を継ぐ許しを直接、貰ったからだろうか。中興の祖とされる先祖同士で何か思うところがあったのは確かで、婚姻関係でも結ばれ今や親戚と言っても過言ではない。だからリシテアは新しい〝クロード〟の顔を拝んでやろう、ローレンツを不幸にしたらアプラクサスで殺すと直接言ってやろうと思って父の代わりにこの会食に参加した。
だがベレトの方が緊急度が高い───反射的にそう思った。リシテアの目の前ではまだ不審な二人がセイロス教について軽口を叩いている。際どい二人の会話を聞いて堪えきれない、といった風情でくすくす笑うヒルダはリシテアにとって憧れの人だ。美しい年の取り方と胆力に本当に憧れている。
「ローレンツ、前に話した通り発表はまだだけれど私の次のデアドラ港の港長は貴方よ。これから貴方は港湾公社を率いて沿岸に出る魔獣や海賊、パルミラからの干渉だけでなく……ガルグ=マクからの干渉とも戦ってデアドラ港を通る積荷も人も全て守らなくてはならない。だから一番頼りになる部下を貴方に直接紹介したかった」
ローレンツは優雅に微笑んでお任せください、とだけ言った。百年前ならば海賊や魔獣それに密輸の対策だけで済んだが、今は身内からも足を引っ張られる状況だ。領民のためにミルディン大橋に行け、と父から命じられた時のローレンツもこんな微笑みを浮かべていたのかもしれない。
「センセイ、この子は私のお気に入りなの。守ってやってちょうだい。(剣でね)」
ヒルダはベレトに穏やかにそう言ったが、声に出さず口の形だけで剣でね、と伝えた瞬間は目が笑っていなかった。ベレトはデアドラ港湾公社には魔法職として採用されている。腰から下げているのも小ぶりな鉄の剣だけで、港湾公社には彼が剣を本格的に使えることを知るものは殆どいない。横目で周りを伺うと口の動きに注視しているものはいなかった。リシテアとエドマンド辺境伯はマリアンヌと話していたし〝クロード〟は年長者たちの会話を聞くふりをして、ローレンツを見つめている。
〝クロード〟はベレトが気づいた通り、三十歳を過ぎたのだから子供扱いは止めて欲しい、と頬を赤く染めてヒルダに言い返すローレンツを見ていた。肌の色が薄いと感情の機微が顔色に表れやすい。今日はその白い顔が映える水色の襯衣と体の線にきちんと沿った黒の上着を着ていた。襟元や袖口から見えるフリルの形が完璧で、肩まで伸ばした紫色の髪を美しい刺繍の入った白いリボンでひとまとめにしている。なんと暴き甲斐のある包み紙だろう、と思う。
昨日の寝室では君のお披露目だな、リシテアは君に言いたいことがあるらしいぞ、とローレンツから言われていたのに蓋を開けてみれば自分より遥かに胡散臭い人物がいてクロードは調子が狂ってしまった。
皆、ヒルダにしてやられたと言える。ヒルダの鳴らしたベルを合図に使用人たちが次々と料理や飲み物を持ってきた。彼らに聞かれれても構わない話題は料理と天気くらいしかない。
給仕を終えた使用人たちが下がり、それまでヒルダたちの会話を邪魔しないように娘と小声で話すだけだったエドマンド辺境伯が本題について発言した。
「しかし国内に閉じこもることを是とするこの有り様では海軍の常設は遠のきましたね。望遠鏡を使って索敵出来ないのならば海軍の意味がありませんし、全ての方針を無視して新しく軍港など作ったらガルグ=マクから睨まれてしまう」
作戦の度に結成され、終了すると解散するのがこの時代の海軍の在り方だった。沿岸警備は武装した船とそれぞれ契約して委託しているが、行き交う船舶が増加した今それだけでは心許ない。
「その件についてはアンヴァル港やヌーヴェル港とも連携する必要があるでしょうね。この場の私達だけで動いたらレスターはまた独立するつもりかと言われてしまうわ。そこはそんな面倒なことは避けたい、が皆の本音だろうけれど」
そう言いながらヒルダは器用にフォークとナイフで白身魚の骨を外して切り分けた。医師から食べられるうちは大丈夫と言われたが、元気なうちに完璧な状態でローレンツに役目を継がせたいと思っている。今日の会食はその最初の一歩だ。
「実際は逃げられる側に余裕や甲斐性がないんだ。だから縛りつけようとする。それは旧市街にとってとても残念なことだ」
旧市街にはセイロス教の総本山がある。ベレトの過激な発言に一同は押し黙った。この言葉も彼の本心だろう。〝クロード〟はそう見立てた。先ほどあれだけ鋭く教会の方針を批判していたにも関わらず、彼は本当に残念そうな顔をしている。
「これは望遠鏡や外航船だけの問題ではありません。リシテアの主治医もパルミラから輸入した薬剤を扱っていたせいで、嫌がらせを受けた。陸路の規制はまだ話に上がってもいないというのに」
付け合わせの野菜まできれいに食べて皿を空にしたローレンツが玉ねぎを残しているリシテアを見つめながら言った。リシテアはローレンツの視線を無視して皿の右下にフォークとナイフを並べて置いている。
「夫のイグナーツが医師を守ってくれなかったら、私は治療を受けられなかったでしょう」
今のリシテアは野菜嫌いは持ち越しているようだが前の彼女が想定していたより長生きをして、なんとイグナーツと結婚したという。だが闘病中の彼女はどんな状態だったのだろうか。ディミトリの目にベレトの記憶が影響した可能性があるようにリシテアにもベレトの記憶が影響していたのかもしれない。もしそうだとしたら───教え子たちの次の人生でもまた、こうしてすれ違えるとしたら、ベレトはその時の為に健康で結婚して幸せに過ごしているリシテアを覚えておかねばならない。それに敵対せず同じ陣営で共に過ごしているローレンツとクロードの姿も覚えておかねばならない。
「何か新しいことを始めようとするたびに旧市街の許可が必要になるとしたら新しいことは何もできない。許可を求めている間に古くなる。それが分かっていても旧市街はフォドラの全てをにぎる誘惑に耐えられない。精神を縛ろうとするはずだ」
「悪い子は地獄に堕ちて良い子は天国に行けるかもしれないけれど、悪い子は世界中どこにでも行けるのよ」
ベレトとヒルダの会話を聞いたエドマンド辺境伯が教育に悪いですな、と言いながらヒルダのために杯を掲げた。先ほどから続く際どい会話に若者たちは緊張しきっているかと思いきや〝クロード〟だけは口の中に残った魚の骨を一本ずつ指で摘んで皿の上に載せている。彼はご褒美の飴玉が割れないように勤めを果たすだろう。
7.
───
一六一〇年
大水で神祖に滅ぼされた〝最初の人々〟は陽の光の元で生きていかれぬ身となり地の底の冥界へ追いやられた。
冥界に追いやられた〝最初の人々〟は地上に戻ろうとして手足を地中から地上へと延ばすが〝今の人々〟は目が霞んでいるためそのことに気付かない。
───
ロディ海岸にある、使われていない教会に身なりの良い不思議な親子が住んでいた。村に教会の建物はあるのだが司祭が長い間何故か全く派遣されずにいる。村に信仰魔法の使い手も絶えて久しかったので村人は親子を受け入れていた。村人たちは紋章のことなど知る由もない。娘が回復魔法を使う際たまに浮かび上がる紋章を見ても〝セッちゃん〟の紋章は綺麗だなと思うだけだった。父親の〝キッさん〟は海と共に育った村人たちが呆れるほど釣りが下手だ。哀れに思った漁師が帰宅するついでにその日にとれた魚を二、三匹渡していく。村の老人や病人、怪我人の様子を見て回り、親子は静かに暮らしていた。
〝セッちゃん〟はどうやら身体が弱いらしい。最近はよく寝込むようになった。たまに手紙などが届くことだし、こんな田舎にいるより都会の大きな教会や施療院で診てもらった方が良いのではないか。村人たちは口々にそう言ったが、手は尽くしたので娘の身体が動くうちは亡くなった妻の思い出が残るこの土地で過ごしたい、と言う。〝キッさん〟の笑顔があまりに寂しそうだったので村人たちは何も言えなくなってしまった。
自分かフレン宛の手紙か何かが届いたのだろう。そう考えたセテスこと〝キッさん〟は村人の声を聞いて勝手口の扉を開けた。目の前には道案内をした村人と再会を諦めていた古い友人が立っている。ますます色が濃くなっているセテスの髪の毛を一瞥し〝キッさん〟と小さな声で言って笑いを堪えていた。
「笑うな。大したもてなしもできないが入ってくれ」
ガルグ=マクにいた頃にセテスたちが住んでいた部屋と比べると質素で狭いが、ベレトには彼らが穏やかな暮らしを送っているように感じられる。
「フレン、いやセスリーンの具合は?」
「あまり良くない。今も眠っているし次に目覚めたら急いで前の眠りで世話になった女子修道院へ連れていかねば」
レアの最期も眠ってばかりだったので、嫌でもその姿と今のフレンがベレトの中で重なってしまう。重い空気を変えるため、その修道院へ自分が見舞いに行けるのかを聞いて茶化すとセテスも力が抜けたのか小さく口の端を上げた。
「男子禁制なのが女子修道院だ。聖職者であれば入れるが今の姿では無理だろうな」
勧められて席についたベレトは世俗そのものの格好をしている。最近流行の縦縞模様の外套を着て伸ばした若草色の髪を後ろでひとつに束ねていた。かぶって三角帽子はデアドラ風に羽飾り付きで両脇と後を折り返してある。
「最近の流行はわからないな、何故鍔を折り返すのだろう」
「水が勝手に流れ落ちてくれて便利なんだ。長いこと港で働いていたから、帆や帆柱から水が落ちてきてくることがしょっちゅうあった」
セテスはファイアーで湯を沸かし紅茶を淹れた。茶器はガルグ=マクから持ってきたものだろう。ベレトにも見覚えがある。ベレトが手土産に持参したデアドラ名物の焼き菓子を紅茶に浸したのでセテスの眉間に少し皺が寄った。だがこの焼き菓子は非常に硬い。飲み物に浸して食べるのが前提の物なのでベレトはセテスを無視した。
「こちらは大丈夫なのか?」
硬い焼き菓子をぼりぼりと音を立てて囓るセテスとは対照的にベレトは柔らかくなった焼き菓子を静かに食べている。
「西部と比べれば、火炙りになるものはかなり少ない」
異端者狩りは貧しい土地で苛烈になる。社会不安に耐えられないのだ。温和な領主が穏便に済ませたい、と思っていても素早く異端者を火炙りにしないと激しい暴動が起きてしまう。乱暴な話だが現状ではそれが最も被害が少ない解決法だった。
「でも俺はファーガスに行くよ」
「パルミラの租界があるレスターとは違うのだ。危険すぎる。炎の紋章を見せても偽物と言われ、暴徒たちに殺されかねない」
「そうだな。今生の別れになるかもしれない。だから悔いがないように二人の顔を見に来たし、いくつか質問したかった。水葬された眷族はいるのか?」
海に出る魔獣は一体、どこで紋章石を体内に取り入れたのか。それを調べようと提案したのはクロードだった。闇に蠢くものたちは地下と地上を縄張りとしていて、残された資料を見るにどうやら海は眼中になかったらしい。
「ネメシスとの戦いの際に海で戦死して、亡骸が回収されなかったものは沢山いる」
海洋生物がその亡骸を食べれば眷族の骨を取り込んだことになってしまう。海の魔獣の出来上がりだ。
「本来はどう埋葬するのが正しかった?」
「紋章石を含む亡骸と言えども、利用するものがいないならばヒトと変わらない」
利用したのは闇に蠢くものたちと彼らのせいで精神を病んだレアだ。
「俺は彷徨い始めてから継承というものについて考え始めた。位階や立場、体質、外見それに紋章。何故これらは血が繋がっていると受け継がれるのだろう?」
「社会的な立場に関しては相続しているだけだろうに。肉体的なものに関しては遺伝、と言う」
ベレトが聞いたこともなければ目にしたこともない単語をセテスは口にした。
「セイロス教が抹消した単語はいったい何語あるんだ?特に彼らが世界を表すために使っていた独特の思考様式を一言で言えるならそれも知りたい」
「科学、だ。観察や調査をして分類する所まではフォドラの民と変わらないが、アガルタの民はそこから仮説を立て正しいか否かを試す。試した上で再現性があるかどうかを確認し、証明する。その成れの果てが墓荒らしと遺体損壊だ」
故に抹消もやむなし、と言うのが眷族の主張だった。しかし作物や家畜は人の手でより良い実りが得られるように交配されるし、漁師たちは空を見て明日の天気を知る。科学はどこからが有害でどこからが無害なのか。科学を止められるものは宗教以外にないのだろうか。
「数学でやるようなことを他の全てに当てはめるのか。なるほど」
「ベレト、何を考えている」
セテスの淹れた何杯目かの紅茶を飲み干したベレトは目を伏せ、古い友人の顔を見ずに口を開いた。
「俺は自分の人生で試すことができなかった、と思っただけだ。障害を負ったフレ……セスリーンと心臓の代わりに紋章石が埋め込んである俺の組み合わせで健康な子供は生まれたのだろうか?眷族であれヒトであれ」
レアの血を受け入れたヒトである父とレアに作り出され、紋章石で生かされていた母シトリーの間に生まれたベレトの心臓は動かなかった。ベレトが俯いていたので、セテスは手を伸ばし軽く肩を叩いた。
「愛故に突っ走る若者たちを見てみたかった気もするが、そこで踏みとどまるのは善良さだ。善良さは貴重だ。君が娘に無茶をさせなかったおかげであの子は最期まで自由に体を動かし、修道女の友人を山ほど作って生活を楽しみ学校を設立した。未婚だったが無為な生だったというものはいないだろう」
「そうだな、それはその通りだ」
「それに近頃は……我々は増えるために存在した訳ではない、と思うのだ。滅びかけの一族の負け惜しみに聞こえるかもしれないが、これは私の本音だ。さあ、セスリーンの、いや、フレンの顔を見てやってくれ」
セテスはベレトを娘の寝室に案内し、扉を背に立ったまま目頭を押さえた。扉の向こう側から勇気を出せなかったことをフレンに詫びながら嗚咽するベレトの声が聞こえる。だが、悔いはない。畳む