「flow」第1部12.「化石燃料」 #完売本 #flow #シルヴァン #アッシュ #フェリクス #ディミトリ #ヒューベルト #リンハルト 続きを読む 12. ─── 一八五〇年 隕石や彗星などに付着して微生物が宇宙空間を移動したと主張するのが隕石パンスペルミア説だ。 光パンスペルミア説と同じく、隕石パンスペルミア説も微生物は宇宙空間の超低温と大気圏突入時の熱に耐えなくてはならないが隕石深部の温度は上がらないのではないかと予想されている。 ─── ファーガス地方では昔から燃える黒水が採れた。北の隣国スレンやパルミラでは薬品や灯り油として使う事もあるらしい。だがセイロス教会はこの黒水の使用を禁止していた。そもそもファーガス地方では灯りは昔から魚の油で灯しているので使い道もない。黒水が滲み出ている場所では勝手に火事が起きることも多く、ファーガスの人々は危険を感じて近寄らないようにしていた。 アドラステア地方にはフォドラ有数の穀倉地帯と良質な炭鉱がある。レスター地方では酪農や大国であるパルミラとの交易、それとレンズや時計をはじめとする精密機械工業が盛んだ。しかしファーガス地方は工業化に乗り遅れてしまい、ガルグ=マク司教座附属大学と並んでフォドラの最高峰と言われるフェルディア総合大学の学生たちも皆、就職の際にはファーガス地方から外へと出て行ってしまう。 暖炉にかけた鍋で一日かけて茹でたくず野菜と芋で腹が満たされればそれで幸せという素朴な時代は去り、ファーガス地方は強烈に外部へ訴えかける何かを欲していた。 ゴーティエ領にある森の中で狩りに来た若者たちが円座を組んで何やら話し込んでいる。鴨が何羽かと野兎数匹は既に夕食にするための処理を終えていた。今晩の食卓は肉づくしになるだろう。互いに誤射を避けるためか、フェルディア総合大学の象徴であるファーガスブルーのローブを身につけている。彼らは皆そこの学生だった。 「シルヴァン、今回はお招きいただきありがとうございます!」 「いや、聞かれたくない話は自然の中でするのが一番だからな」 そういうとシルヴァンは辺りに生えている木の枝を手持ちの鉈で落とし、焚き火用に積み上げ始めた。乾燥した枝でなければ火がつかないのは子供でも知っている。アッシュが怪訝な顔をしているとシルヴァンは取り出した瓶から生木に向けて黒水を注ぎ、ファイアーで点火した。彼等は今時珍しく魔法適性を持っているが魔道専攻ではない。シルヴァンは地理学、フェリクスは法学、アッシュは商学が専攻だった。黒水の匂いを嗅いだフェリクスはシルヴァンを睨み付け、なんと言葉をかけるべきか考え込んでいる。 「教会に見つかったらまずいですよ!」 「そうだなアッシュ。でも冷静になって考えて欲しいんだ。今のを見ただろう?石炭が出来ることはこいつにも出来る。石炭の役割って結局は物を燃やして熱くすることだろ?それに炎の色を見てくれ。すごく明るいんだ。ランプに使える」 「だが液体は運びにくい。樽が何万個もいるな」 フェリクスは幼馴染を怒鳴りつけず冷静に反論することにした。 「でも隧道を掘ったりしなくていいんだぜ?汲み取るだけで済む」 「井戸水とは訳が違う。こんな危険なもの、汲み取るには専用の機械が必要だろう」 「それは石炭も変わらないだろ?だから一旗挙げようと思ってな」 お前らも手伝って、というとシルヴァンは右手でフェリクスを、左手でアッシュを捕まえた。アッシュは固まってしまったがフェリクスは鬱陶しそうに肩にかけられたシルヴァンの手を外した。 「シルヴァン、まさか大学が休みの時に闇雲に掘り起こすつもりか?そんな博打に俺たちを巻き込まないでくれ」 「手伝うってのはそういうことじゃなくてディミトリの説得だ」 「えっ?!ディミトリに掘ってもらうんですか?確かに彼は怪力ですけど…」 「違う!業者はもう見つけてある!ブレーダッドの名前が欲しいんだ」 シルヴァンは本気で黒い水を武器に戦うつもりだった。黒水を石炭のように使ってもらえれば子供が寒い冬、遠くまで薪を拾いに行って風邪をひく必要もない。その辺の生木で充分だ。そして石炭と違い屋内が煤で汚れることもない。生活はがらりと変わるだろう。だがファーガスの人々は保守的だ。全く新しいことを始めるにあたって、唯一無二であるブレーダッド家の名がどうしても欲しい。ブレーダッド家の威光があれば人々もシルヴァンの言うことに耳を傾けてくれる。 「なるほど。それならアッシュが適任だ」 「フェリクスが説得して下さいよ!僕には無理です!」 「いや、アッシュの言葉ならディミトリも耳を傾けるだろう。シルヴァンの癖によく考えたな。ところで俺は何故この場に呼ばれたんだ」 「だって教えなかったら後で拗ねるだろう?」 ぬけぬけと語るシルヴァンの顎に一発決めてやろうと顔を赤くしたフェリクスが無言で拳を握った瞬間、鳥が一斉に飛び立った。何かが高速で回転して耳に響く。これまで聞いたことのない不愉快な音がして、まだシルヴァンに捕まえられているままのアッシュが両耳を塞ぐ。 「ああ、始まったな。掘削を請負ってくれる業者を紹介するよ。連れてくるからここで待っててくれ。元から待ち合わせをしてたんだ」 シルヴァンが騒音がする方へ向かっていったので、フェリクスとアッシュは焚き火の前に取り残されてしまった。 「統一前は教会に禁じられていた品で商売を始めるなんて、とシルヴァンが周りから怒られないか心配ですね」 「それを言ったら統一前は活版印刷も望遠鏡も禁じられていたんだぞ」 シルヴァンの夢は叶うのだろうか。フェリクスは瓶を手に取り底に溜まった黒い水をじっと見つめた。確かに生木なのによく燃えている。薪を集める生活は変えられないとしても、いざと言う時に便利なのは悪いことではない。 現在のフォドラに王はいない。フォドラ最後の王であるベレト統一王は統一後の混乱が収まるまでのわずかな期間だけだが、セイロス教会の大司教も兼ねていた。その数年の間に大司教の名の下に行動の自由を世俗に取り戻している。大司教位はすぐに他のものに譲ってしまったが。 彼が規制を撤廃してフォドラが得たものは印刷技術、医学、科学だ。女神の恩寵を受け百五十年の長きに渡り、若々しい姿のままフォドラを治めた彼は魔法や神秘の申し子と言える。だが現代から見てみれば魔法が失われることを予測していた、としか思えない。もしそうだとしたら、何故十二世紀生まれの人物にそんな未来が予測できたのだろう。 「ただ馬鹿どもを黙らせるために小手先の工夫は必要だろうな。蒸留して色を変えるとか。それには設備も金も必要になるな」 そう言うとフェリクスは鼻を鳴らして焚き火に手をかざした。ファーガス地方のゴーティエ領は気候区分で言えば寒帯で、夏でも寒さを感じる日が多い。 「シルヴァンは融資を受けるためにディミトリが必要なんでしょうけど、上手くいくんでしょうか?」 「アッシュまで巻き込んだのにディミトリすら説得できないなら、シルヴァンに勝ち目はない」 派手に枝を踏む音とシルヴァンが誰かと話す声が聞こえた。最短距離で移動したいのか鉈で道を作りながらやってきたのは、短く切った黒髪に若草色の目をした同年代の男だった。シルヴァンから何か聞かされたのか、フェリクスとアッシュを見て笑顔を浮かべている。 「黒髪の方がフェリクス、雀斑がある方がアッシュだ」 「シルヴァンの思いつきに付き合わされて気の毒なことだ」 「いや、興味深い試みなので声をかけてもらって光栄に思っている。ガルグ=マクから来たベレトだ」 フェリクスもアッシュも黒い長手袋を取って差し出された白い手の感触をずっと昔から知っているような気がした。 ─── 一八五五年 「たったひとつの種」を高度に進化した知的生命体が「生命の種子」として送り込んだ、と主張するのが意図的パンスペルミア説だ。 殆どの惑星はニッケルやクロムだらけでモリブデンは希少であるにもかかわらず、生物は必須微量元素としてモリブデンを必要とする。 これはモリブデンが豊富な惑星で生命が誕生した名残であり、そこから「生命の種子」が送り出された為あらゆる生物の遺伝暗号の仕組みが驚くほど似ているのではないか、と言われている。 ─── ファーガス地方の農家は昔から染み出る黒い水のせいで、収穫間際の作物が汚染されることに悩んでいた。フォドラの地図記号には黒い水に汚染され、農地に適さない土地を表すものがある。この地図記号はほぼファーガス地方でしか使われない。 他の地方に塩水の湧泉があれば塩が作れる。しかしファーガスの場合、湧泉が黒い水に汚染されていて塩は作れない。塩水と黒水の割合によっては薬用になることも多く、パルミラなどでは肌に塗る薬用油として使う。だがセイロス教会に黒い水の利用を禁じられていたため、フォドラではこうした湧泉も長らく放置されていた。 このファーガス地方にとって悩みの種でしかない黒い水を灯り油や燃料にする───初めてシルヴァンから聞かされたディミトリは混乱して、三回も同じ話をさせてしまった。その時、その場にいたアッシュもシルヴァンもこれは拙いな、という顔をしていた。 地表に染み出る黒い水の大元は地下にある。そこから安定して抽出するための井戸と黒い水を蒸留し、灯り油や燃料にするための製油所を作るには資金が無限に必要だ。シルヴァンはファーガス一の名家ブレーダッドの名さえあればあとは自分が探す、と言っていた。しかしディミトリはどうしても、誰からなんと言われようと彼の役に立ちたくて、自分の自由になる分だけではあったが資金を提供した。 五年たった今、思い返してみればあれは混乱していたわけではない。ディミトリはシルヴァンの豊かな発想に深く、とても深く感動しただけなのだ。 ゴーティエ領で採取、蒸留された灯り油と燃料は今のところ、ファーガス地方で忌避感なく使用されている。ブレーダッドオイルは創業5周年を迎えフェルディアに支社を作りそこを足場に、今後は首都ガルグ=マクやレスター、アドラステアへも売り込む予定だ。将来はもしかしたらパルミラやダグザなど海外へ販路を広げる日が来るかもしれない。 出来たばかりのフェルディア支社で、創業五周年を祝う祝賀会が行われた。関係者だけのささやかなものだったが皆、これまでにないほど満ち足りている。ディミトリ、ベレト、シルヴァン、フェリクス、アッシュの五人はなんだか離れ難く、残った酒で飲み直しをすることにしたのが数時間前の話だ。 明け方になりシルヴァン、フェリクス、アッシュの三人は酔い潰れて床に転がっている。結局フェリクスもアッシュもシルヴァンの起業に巻き込まれ、法務だ会計だと毎日忙しい日々を過ごしていた。ディミトリだけがブレーダッド家当主としてイーハをはじめとする領地を経営せねばならないため、ブレーダッドオイルを本業としていないことを少し寂しく感じている。彼らと職場が同じなら、うんざりするようなことがあってもきっと耐えられるだろう。 ディミトリも深酒が過ぎて着席したまま眠っていたのだが、物音で目が覚めてしまった。目覚めたことを後悔したくなるほど頭が痛い。 迎え酒になるものが欲しい。夜が白んでいく中で室内を見回すと立役者の一人であるベレトがブレーダッドオイルの商号を膝の上に乗せて静かに一人泣いている姿が目に入った。先ほどの物音は会場に飾った商号が落ちたか、それを彼が受け止めた音なのだろう。 「どうした、悲しいことでもあったのか?」 酔いが顔色に現れやすいディミトリは頬を赤く染めたままベレトに話しかけた。ベレトのそばにはいつもシルヴァンたちがいるので、ディミトリが彼とゆっくり二人きりで話すのはこれが初めてかもしれない。 「感動しているんだ。俺はこの商号を見るといつも感動して涙が出そうになる。酒が入ったからもう我慢できない」 ベレトは酔いがあまり顔色に出ないらしく、白い顔をしたまま若草色の瞳に涙をためて嵌めたままの黒手袋で目を擦っていた。 「何を言っているのかわからない」 横を向いた青い獅子が赤い炎を吐いているブレーダッドオイルの商号は確か、シルヴァンが金策でデアドラへ赴いた際に出会った画家に考えてもらったものだ。ファーガス地方の象徴である青獅子と灯り油に灯る炎を組み合わせている。ブレーダッドオイルがどの土地の企業で、何を扱っているのか見た瞬間にわかるよう工夫されていた。 頭の中で鐘が鳴り響くような頭痛のせいで、ディミトリはベレトの話がうまく聞き取れない。迎え酒にテーブルに残っていた誰かの飲み残しのワインを煽ったディミトリは酔っ払って泣いているベレトの言葉に再び耳を傾けた。 「ファーガスにしかないものがようやく見つかった。俺には見つけられなかったのに」 「何を言っているのかわからない。黒い水を見つけて井戸を掘ったのはお前だろう」 「シルヴァンに言われなければ掘らなかった」 「依頼がなければ掘らないのでは?」 「ではやはりシルヴァンはすごい」 ディミトリはアルコールに支配された頭で必死にベレトの言葉を理解しようとしたが上手くいかない。以前シルヴァンから聞いた、実際には目にしたことのない光景ばかりが脳裏に浮かぶ。 フェルディアにはないのだが、そしてそれがフェルディアが旧ファーガス神聖王国の首都に選ばれた理由のひとつだと今なら分かるのだが───ファーガス地方には昔から黒い水の浸み出し口がいくつもある。シルヴァンとベレトは丹念に自作の地図に浸み出し口を描き込み、周辺の土を調べて掘削する場所を決めた。 浸み出し口に現地で雇った人足たちにある程度の深さの穴を掘らせると、ベレトは先に溝が彫ってある杭を何本か差し込むのだという。手袋を外し、それらの杭に彼が指で術式を描いてウインドを発動すると螺旋状に動く風が発生する。 勝手に杭が回転し耳の奥に響くような轟音を立て、地中深くまで掘り進んでいくのだ。魔法の発動中はその場を離れられないので、効率が悪いものの蒸気機関を利用した掘削機と同じ量の作業を身ひとつでやってのけるベレトにシルヴァンは深く感謝した。 この祝賀会で彼はベレトにブレーダッドオイルの株を五株贈呈している。まだ配当金は少額だがいずれ指一本動かさずとも生活に困らない程度にはしてみせる、とシルヴァンはそう宣言していた。 ディミトリは魔道研究の本場フェルディア生まれのフェルディア育ちだ。シルヴァン、フェリクス、アッシュも魔法適性があり、フェルディア総合大学の学生である以上魔法は身近で慣れている。 だがベレトは格が違うのだ、といつだったかシルヴァンが興奮して話してくれた。フォドラの人々から魔法の力が失われる前の大魔道士のようだと言う。ベレトは身体から発する魔力の扱いに気を使っているらしい。彼の白い手を見たのは初対面の握手をした時だけで、それ以外ではいつも黒い手袋をしていた。 「いつか採掘作業を見に行ってもいいか?」 「いつでも歓迎する。試掘の手伝いができるように汚れても構わない服で来てくれ」 「鍬を壊さないように気をつけないとな。ブレーダッドの小紋章持ちなんだ」 日の出の暖かい光に照らされながら、ベレトと冗談を交わしたことをディミトリは何故かシルヴァンに話せなかった。いつもベレトを独占していたシルヴァンへの細やかな対抗心だったのかもしれない。 ─── 一九〇〇年 神祖は知恵をつけたという理由で最初の人々を冥界に追いやった。聖人たちは次の人々の目を霞ませて獣にした。 ヒトに知恵も永遠の命も与えるつもりがなく罰してばかりの神祖は聖人たちは聖なる存在として本当に崇めるべきなのだろうか。彼らの作った教会は伽藍堂に過ぎないのではないだろうか。 ─── 石炭が多く使われると燃やした時に発生するガスで空気が汚染される。ガルグ=マク、アンヴァル、フェルディア、それにデアドラ等の大都市では大気汚染が深刻だ。この件に関してセイロス教会ガルグ=マク司教座がこのまま石炭を使い続ければ、健康被害が理由で死ぬ者が更に増加するのだから便利さに耽溺せず禁欲的に生活せよ、との声明を発表した。 何にでも代替品は出てくるもので今後は燃やしても煤が出ないファーガス産の黒い水が石炭の代わりに使われるのだろう、と皆なんとなく考えている。それなら皆少し面倒に感じるだけで何とも思わないのだ。政府が法律で煤の出る燃料を規制すれば、煤が出ない燃料に需要が生まれる。そこに経済効果が生まれるのならば商人たちは全力を出す。 だがガルグ=マク旧市街の宗教家たちが出した要求には裏がある。それを感じ取った者たちは密かに強く警戒した。彼らは産業の時代から魔法の時代に立ち帰れと言っている。人々や社会から魔法の力が失われて久しい。 燃料を魔法に戻したら食い扶持が稼げず死ぬものが出てくるのにそれについては言及しない。皆聞き流し、この場では黒い水に切り替えるだけだろう。しかしこの手の手続きを考えない、考えさせない司教座の無責任さには問題がある。それともわざとなのか。 リンハルトは老眼鏡をかけ、何度読んだかわからない声明文をまた読み返した。ため息も何度吐いたかわからない。概要だけならば普通のことしか主張していない。そんな見かけが彼に更なる憂いを抱かせる ヘヴリング領の経済は炭鉱にそこまで依存していない。だが生活は石炭に依存している。医療も信仰魔法ではなく殆ど医学によって提供されており、生活を改変しろと言われても困ることばかりだ。 ヘヴリング家の上屋敷があるハイストリートと司教座のある旧市街は大して離れていない。だがリンハルトには別の国のように感じられる。これからやってくる年若い客人も旧市街とは別の国の住人だ。リンハルトは客人のため、テフを用意するように執事に命じた。 黒衣に身を包んだ医師が召使に連れられ、リンハルトが待つ応接間に現れた。テーブルにバックギャモンのボードが開いてあるのを見た客人が微かに笑う。パルミラから輸入されたもので、近頃は老若男女を問わず流行っている。 「お招きいただきましてありがとうございます」 「僕と勝負できるのはヒューベルトくらいだからね。たまには赤でやってみない?」 ヒューベルトとリンハルトは対外的には診察のついでにバックギャモンで遊ぶ仲間、ということになっている。含みを持たせた仲であると理解しているのは同じく旧市街の干渉を嫌う極少数のものたちだけだ。 「いつも通り黒でお願いします」 互いにダイスを振って先手を決める。今日はリンハルトの方が大きい目が出たので先手となった。これはそのまま先手の出目としても使われる。執事が持ってきたテフを飲みながら遊ぶ、歳の離れた二人の姿は意外に穏やかだ。 「頼んでいたこと、調べてくれたかな」 「ある程度は。ガルグ=マク司教座で働く彼の地出身者のほとんどがキッホルとセスリーンの紋章を持っていました」 ヒューベルトの報告を受け、リンハルトはため息をついた。あの土地の領主が十傑の子孫ではないことは既に判明している。 「あの土地で血を与えたキッホルとセスリーンゆかりの聖人がいるんだろうなあ」 次にヒューベルトがダイスを振り、リンハルトの駒に邪魔される前に駒を進めた。 「確かに古代から中世にかけて、聖人たちが人の命を助けるために血を分け与えた例は枚挙にいとまがありません」 「だが集落丸ごとなんて、いくら頑丈な聖人でも血を失いすぎて死んでしまう」 「貴殿はいつ為されたとお考えですか?」 「古代や中世なら自慢して回るはずさ」 リンハルトの言葉に首肯したヒューベルトはすっかり冷めてしまったテフに口をつけた。当時の基準からしても、紋章が発現するほど沢山の血を与えられるのは特別なことだ。 「でも当時は他の土地から妬まれるような幸運だったから隠したんだ」 人間社会から魔力が失われた病禍の時期に、自らの命と引き換えにしてでも集落の命を救ってくれるような聖人と出会う幸運など滅多にあることではない。ベレト統一王の治世から三世紀ほどで制度は疲弊し、セイロス教原理主義派による異端者狩りがフォドラ全土を席巻した。病禍は互いに互いを疑う地獄のような状況で発生している。 「当時あの地域で起きたことは私も奇跡だと思います。うかつに言って回れば貴殿のおっしゃる通り、異端者狩りの対象になった可能性は高いですな」 病禍に苦しむ片田舎に偶然、血を分けてくれる聖人が現れる確率は限りなく低い。そもそも統一戦争の時点ですら、明確にナバテアの民であったと言えるのは三名だけだ。当時の大司教レアとその部下セテス、それに彼の妹でアガルタの民から血を狙われていたフレンしかいない。争いに巻き込まれることを避けて出自を隠しているものがいた可能性は否定できないが。 リンハルトの振ったダイスがゾロ目を出したのでヒューベルトの駒は弾き出され、バーに置かれることとなった。 「異端者狩りの理由も嫉妬だからね。生存戦略としては正しいし、それが強烈な成功体験になったんだろう」 だが正体を明かさず、真の目的を隠して目標を達成しようとする態度は誠実ではないとリンハルトは思う。 「聖人の血で強化された人々は当時の疲弊したフォドラにおいては珍しい、活力に溢れる有能な存在です。自然と推挙されてガルグ=マクで学んだり働いたりすることになったのでしょう」 「司教座附属の学校はキッホルとセスリーンが守護聖人だしね。彼らからしてみれば天啓だ。中々説得されない僕のことも女神から与えられた試練だと思っているね、きっと」 彼らは同じセスリーンの紋章を受け継ぎ、信仰魔法を得意とするリンハルトに親近感を持っている。だから彼らは自分たちが考える正しき道へリンハルトを誘導しようとするのだ。しかしリンハルトは彼らと正しさが共有出来ない。 「ヘヴリング家が加われば彼らにとって千人力なのは確かです。名門ですし、貴殿のような筋金入りの合理主義者が説得されたとなれば他のものにも揺さぶりをかけられる」 ダイスを振ったヒューベルトは素早く、バーの上にある自分の駒を元に戻した。互いの駒は行ったり来たりを繰り返していて、なかなかゴールしない。 「今も秘密にするのは呪術的な理由があるのかな?」 「それは私の専門外です」 ヒューベルトの駒はリンハルトの陣の中で逆転勝ちを狙い、乗るかそるかの勝負に出ていた。妻も小さな子供もいるような若者がこんなことをするのはゲームの中だけにしなくてはならない。 「君のご先祖は詳しそうだけどね。ヒューベルト、今後は僕が調べ物をするよ。君はご家族のためにも長生きしないと」 そう宣言したリンハルトは年老いて髪は白くなり、杖なしに歩けない。それでも知性の宿った瞳の色は失われていなかった。尊敬する年長者に言われて引き下がるしかなかったヒューベルトがリンハルトの葬儀に出席したのはこの翌年のことだった。彼の葬儀の場でヒューベルトだけが、リンハルトの死が不自然に早められたものであると分かっていた。畳む 小説 2024/11/15(Fri)
#完売本 #flow #シルヴァン #アッシュ #フェリクス #ディミトリ #ヒューベルト #リンハルト
12.
───
一八五〇年
隕石や彗星などに付着して微生物が宇宙空間を移動したと主張するのが隕石パンスペルミア説だ。
光パンスペルミア説と同じく、隕石パンスペルミア説も微生物は宇宙空間の超低温と大気圏突入時の熱に耐えなくてはならないが隕石深部の温度は上がらないのではないかと予想されている。
───
ファーガス地方では昔から燃える黒水が採れた。北の隣国スレンやパルミラでは薬品や灯り油として使う事もあるらしい。だがセイロス教会はこの黒水の使用を禁止していた。そもそもファーガス地方では灯りは昔から魚の油で灯しているので使い道もない。黒水が滲み出ている場所では勝手に火事が起きることも多く、ファーガスの人々は危険を感じて近寄らないようにしていた。
アドラステア地方にはフォドラ有数の穀倉地帯と良質な炭鉱がある。レスター地方では酪農や大国であるパルミラとの交易、それとレンズや時計をはじめとする精密機械工業が盛んだ。しかしファーガス地方は工業化に乗り遅れてしまい、ガルグ=マク司教座附属大学と並んでフォドラの最高峰と言われるフェルディア総合大学の学生たちも皆、就職の際にはファーガス地方から外へと出て行ってしまう。
暖炉にかけた鍋で一日かけて茹でたくず野菜と芋で腹が満たされればそれで幸せという素朴な時代は去り、ファーガス地方は強烈に外部へ訴えかける何かを欲していた。
ゴーティエ領にある森の中で狩りに来た若者たちが円座を組んで何やら話し込んでいる。鴨が何羽かと野兎数匹は既に夕食にするための処理を終えていた。今晩の食卓は肉づくしになるだろう。互いに誤射を避けるためか、フェルディア総合大学の象徴であるファーガスブルーのローブを身につけている。彼らは皆そこの学生だった。
「シルヴァン、今回はお招きいただきありがとうございます!」
「いや、聞かれたくない話は自然の中でするのが一番だからな」
そういうとシルヴァンは辺りに生えている木の枝を手持ちの鉈で落とし、焚き火用に積み上げ始めた。乾燥した枝でなければ火がつかないのは子供でも知っている。アッシュが怪訝な顔をしているとシルヴァンは取り出した瓶から生木に向けて黒水を注ぎ、ファイアーで点火した。彼等は今時珍しく魔法適性を持っているが魔道専攻ではない。シルヴァンは地理学、フェリクスは法学、アッシュは商学が専攻だった。黒水の匂いを嗅いだフェリクスはシルヴァンを睨み付け、なんと言葉をかけるべきか考え込んでいる。
「教会に見つかったらまずいですよ!」
「そうだなアッシュ。でも冷静になって考えて欲しいんだ。今のを見ただろう?石炭が出来ることはこいつにも出来る。石炭の役割って結局は物を燃やして熱くすることだろ?それに炎の色を見てくれ。すごく明るいんだ。ランプに使える」
「だが液体は運びにくい。樽が何万個もいるな」
フェリクスは幼馴染を怒鳴りつけず冷静に反論することにした。
「でも隧道を掘ったりしなくていいんだぜ?汲み取るだけで済む」
「井戸水とは訳が違う。こんな危険なもの、汲み取るには専用の機械が必要だろう」
「それは石炭も変わらないだろ?だから一旗挙げようと思ってな」
お前らも手伝って、というとシルヴァンは右手でフェリクスを、左手でアッシュを捕まえた。アッシュは固まってしまったがフェリクスは鬱陶しそうに肩にかけられたシルヴァンの手を外した。
「シルヴァン、まさか大学が休みの時に闇雲に掘り起こすつもりか?そんな博打に俺たちを巻き込まないでくれ」
「手伝うってのはそういうことじゃなくてディミトリの説得だ」
「えっ?!ディミトリに掘ってもらうんですか?確かに彼は怪力ですけど…」
「違う!業者はもう見つけてある!ブレーダッドの名前が欲しいんだ」
シルヴァンは本気で黒い水を武器に戦うつもりだった。黒水を石炭のように使ってもらえれば子供が寒い冬、遠くまで薪を拾いに行って風邪をひく必要もない。その辺の生木で充分だ。そして石炭と違い屋内が煤で汚れることもない。生活はがらりと変わるだろう。だがファーガスの人々は保守的だ。全く新しいことを始めるにあたって、唯一無二であるブレーダッド家の名がどうしても欲しい。ブレーダッド家の威光があれば人々もシルヴァンの言うことに耳を傾けてくれる。
「なるほど。それならアッシュが適任だ」
「フェリクスが説得して下さいよ!僕には無理です!」
「いや、アッシュの言葉ならディミトリも耳を傾けるだろう。シルヴァンの癖によく考えたな。ところで俺は何故この場に呼ばれたんだ」
「だって教えなかったら後で拗ねるだろう?」
ぬけぬけと語るシルヴァンの顎に一発決めてやろうと顔を赤くしたフェリクスが無言で拳を握った瞬間、鳥が一斉に飛び立った。何かが高速で回転して耳に響く。これまで聞いたことのない不愉快な音がして、まだシルヴァンに捕まえられているままのアッシュが両耳を塞ぐ。
「ああ、始まったな。掘削を請負ってくれる業者を紹介するよ。連れてくるからここで待っててくれ。元から待ち合わせをしてたんだ」
シルヴァンが騒音がする方へ向かっていったので、フェリクスとアッシュは焚き火の前に取り残されてしまった。
「統一前は教会に禁じられていた品で商売を始めるなんて、とシルヴァンが周りから怒られないか心配ですね」
「それを言ったら統一前は活版印刷も望遠鏡も禁じられていたんだぞ」
シルヴァンの夢は叶うのだろうか。フェリクスは瓶を手に取り底に溜まった黒い水をじっと見つめた。確かに生木なのによく燃えている。薪を集める生活は変えられないとしても、いざと言う時に便利なのは悪いことではない。
現在のフォドラに王はいない。フォドラ最後の王であるベレト統一王は統一後の混乱が収まるまでのわずかな期間だけだが、セイロス教会の大司教も兼ねていた。その数年の間に大司教の名の下に行動の自由を世俗に取り戻している。大司教位はすぐに他のものに譲ってしまったが。
彼が規制を撤廃してフォドラが得たものは印刷技術、医学、科学だ。女神の恩寵を受け百五十年の長きに渡り、若々しい姿のままフォドラを治めた彼は魔法や神秘の申し子と言える。だが現代から見てみれば魔法が失われることを予測していた、としか思えない。もしそうだとしたら、何故十二世紀生まれの人物にそんな未来が予測できたのだろう。
「ただ馬鹿どもを黙らせるために小手先の工夫は必要だろうな。蒸留して色を変えるとか。それには設備も金も必要になるな」
そう言うとフェリクスは鼻を鳴らして焚き火に手をかざした。ファーガス地方のゴーティエ領は気候区分で言えば寒帯で、夏でも寒さを感じる日が多い。
「シルヴァンは融資を受けるためにディミトリが必要なんでしょうけど、上手くいくんでしょうか?」
「アッシュまで巻き込んだのにディミトリすら説得できないなら、シルヴァンに勝ち目はない」
派手に枝を踏む音とシルヴァンが誰かと話す声が聞こえた。最短距離で移動したいのか鉈で道を作りながらやってきたのは、短く切った黒髪に若草色の目をした同年代の男だった。シルヴァンから何か聞かされたのか、フェリクスとアッシュを見て笑顔を浮かべている。
「黒髪の方がフェリクス、雀斑がある方がアッシュだ」
「シルヴァンの思いつきに付き合わされて気の毒なことだ」
「いや、興味深い試みなので声をかけてもらって光栄に思っている。ガルグ=マクから来たベレトだ」
フェリクスもアッシュも黒い長手袋を取って差し出された白い手の感触をずっと昔から知っているような気がした。
───
一八五五年
「たったひとつの種」を高度に進化した知的生命体が「生命の種子」として送り込んだ、と主張するのが意図的パンスペルミア説だ。
殆どの惑星はニッケルやクロムだらけでモリブデンは希少であるにもかかわらず、生物は必須微量元素としてモリブデンを必要とする。
これはモリブデンが豊富な惑星で生命が誕生した名残であり、そこから「生命の種子」が送り出された為あらゆる生物の遺伝暗号の仕組みが驚くほど似ているのではないか、と言われている。
───
ファーガス地方の農家は昔から染み出る黒い水のせいで、収穫間際の作物が汚染されることに悩んでいた。フォドラの地図記号には黒い水に汚染され、農地に適さない土地を表すものがある。この地図記号はほぼファーガス地方でしか使われない。
他の地方に塩水の湧泉があれば塩が作れる。しかしファーガスの場合、湧泉が黒い水に汚染されていて塩は作れない。塩水と黒水の割合によっては薬用になることも多く、パルミラなどでは肌に塗る薬用油として使う。だがセイロス教会に黒い水の利用を禁じられていたため、フォドラではこうした湧泉も長らく放置されていた。
このファーガス地方にとって悩みの種でしかない黒い水を灯り油や燃料にする───初めてシルヴァンから聞かされたディミトリは混乱して、三回も同じ話をさせてしまった。その時、その場にいたアッシュもシルヴァンもこれは拙いな、という顔をしていた。
地表に染み出る黒い水の大元は地下にある。そこから安定して抽出するための井戸と黒い水を蒸留し、灯り油や燃料にするための製油所を作るには資金が無限に必要だ。シルヴァンはファーガス一の名家ブレーダッドの名さえあればあとは自分が探す、と言っていた。しかしディミトリはどうしても、誰からなんと言われようと彼の役に立ちたくて、自分の自由になる分だけではあったが資金を提供した。
五年たった今、思い返してみればあれは混乱していたわけではない。ディミトリはシルヴァンの豊かな発想に深く、とても深く感動しただけなのだ。
ゴーティエ領で採取、蒸留された灯り油と燃料は今のところ、ファーガス地方で忌避感なく使用されている。ブレーダッドオイルは創業5周年を迎えフェルディアに支社を作りそこを足場に、今後は首都ガルグ=マクやレスター、アドラステアへも売り込む予定だ。将来はもしかしたらパルミラやダグザなど海外へ販路を広げる日が来るかもしれない。
出来たばかりのフェルディア支社で、創業五周年を祝う祝賀会が行われた。関係者だけのささやかなものだったが皆、これまでにないほど満ち足りている。ディミトリ、ベレト、シルヴァン、フェリクス、アッシュの五人はなんだか離れ難く、残った酒で飲み直しをすることにしたのが数時間前の話だ。
明け方になりシルヴァン、フェリクス、アッシュの三人は酔い潰れて床に転がっている。結局フェリクスもアッシュもシルヴァンの起業に巻き込まれ、法務だ会計だと毎日忙しい日々を過ごしていた。ディミトリだけがブレーダッド家当主としてイーハをはじめとする領地を経営せねばならないため、ブレーダッドオイルを本業としていないことを少し寂しく感じている。彼らと職場が同じなら、うんざりするようなことがあってもきっと耐えられるだろう。
ディミトリも深酒が過ぎて着席したまま眠っていたのだが、物音で目が覚めてしまった。目覚めたことを後悔したくなるほど頭が痛い。
迎え酒になるものが欲しい。夜が白んでいく中で室内を見回すと立役者の一人であるベレトがブレーダッドオイルの商号を膝の上に乗せて静かに一人泣いている姿が目に入った。先ほどの物音は会場に飾った商号が落ちたか、それを彼が受け止めた音なのだろう。
「どうした、悲しいことでもあったのか?」
酔いが顔色に現れやすいディミトリは頬を赤く染めたままベレトに話しかけた。ベレトのそばにはいつもシルヴァンたちがいるので、ディミトリが彼とゆっくり二人きりで話すのはこれが初めてかもしれない。
「感動しているんだ。俺はこの商号を見るといつも感動して涙が出そうになる。酒が入ったからもう我慢できない」
ベレトは酔いがあまり顔色に出ないらしく、白い顔をしたまま若草色の瞳に涙をためて嵌めたままの黒手袋で目を擦っていた。
「何を言っているのかわからない」
横を向いた青い獅子が赤い炎を吐いているブレーダッドオイルの商号は確か、シルヴァンが金策でデアドラへ赴いた際に出会った画家に考えてもらったものだ。ファーガス地方の象徴である青獅子と灯り油に灯る炎を組み合わせている。ブレーダッドオイルがどの土地の企業で、何を扱っているのか見た瞬間にわかるよう工夫されていた。
頭の中で鐘が鳴り響くような頭痛のせいで、ディミトリはベレトの話がうまく聞き取れない。迎え酒にテーブルに残っていた誰かの飲み残しのワインを煽ったディミトリは酔っ払って泣いているベレトの言葉に再び耳を傾けた。
「ファーガスにしかないものがようやく見つかった。俺には見つけられなかったのに」
「何を言っているのかわからない。黒い水を見つけて井戸を掘ったのはお前だろう」
「シルヴァンに言われなければ掘らなかった」
「依頼がなければ掘らないのでは?」
「ではやはりシルヴァンはすごい」
ディミトリはアルコールに支配された頭で必死にベレトの言葉を理解しようとしたが上手くいかない。以前シルヴァンから聞いた、実際には目にしたことのない光景ばかりが脳裏に浮かぶ。
フェルディアにはないのだが、そしてそれがフェルディアが旧ファーガス神聖王国の首都に選ばれた理由のひとつだと今なら分かるのだが───ファーガス地方には昔から黒い水の浸み出し口がいくつもある。シルヴァンとベレトは丹念に自作の地図に浸み出し口を描き込み、周辺の土を調べて掘削する場所を決めた。
浸み出し口に現地で雇った人足たちにある程度の深さの穴を掘らせると、ベレトは先に溝が彫ってある杭を何本か差し込むのだという。手袋を外し、それらの杭に彼が指で術式を描いてウインドを発動すると螺旋状に動く風が発生する。
勝手に杭が回転し耳の奥に響くような轟音を立て、地中深くまで掘り進んでいくのだ。魔法の発動中はその場を離れられないので、効率が悪いものの蒸気機関を利用した掘削機と同じ量の作業を身ひとつでやってのけるベレトにシルヴァンは深く感謝した。
この祝賀会で彼はベレトにブレーダッドオイルの株を五株贈呈している。まだ配当金は少額だがいずれ指一本動かさずとも生活に困らない程度にはしてみせる、とシルヴァンはそう宣言していた。
ディミトリは魔道研究の本場フェルディア生まれのフェルディア育ちだ。シルヴァン、フェリクス、アッシュも魔法適性があり、フェルディア総合大学の学生である以上魔法は身近で慣れている。
だがベレトは格が違うのだ、といつだったかシルヴァンが興奮して話してくれた。フォドラの人々から魔法の力が失われる前の大魔道士のようだと言う。ベレトは身体から発する魔力の扱いに気を使っているらしい。彼の白い手を見たのは初対面の握手をした時だけで、それ以外ではいつも黒い手袋をしていた。
「いつか採掘作業を見に行ってもいいか?」
「いつでも歓迎する。試掘の手伝いができるように汚れても構わない服で来てくれ」
「鍬を壊さないように気をつけないとな。ブレーダッドの小紋章持ちなんだ」
日の出の暖かい光に照らされながら、ベレトと冗談を交わしたことをディミトリは何故かシルヴァンに話せなかった。いつもベレトを独占していたシルヴァンへの細やかな対抗心だったのかもしれない。
───
一九〇〇年
神祖は知恵をつけたという理由で最初の人々を冥界に追いやった。聖人たちは次の人々の目を霞ませて獣にした。
ヒトに知恵も永遠の命も与えるつもりがなく罰してばかりの神祖は聖人たちは聖なる存在として本当に崇めるべきなのだろうか。彼らの作った教会は伽藍堂に過ぎないのではないだろうか。
───
石炭が多く使われると燃やした時に発生するガスで空気が汚染される。ガルグ=マク、アンヴァル、フェルディア、それにデアドラ等の大都市では大気汚染が深刻だ。この件に関してセイロス教会ガルグ=マク司教座がこのまま石炭を使い続ければ、健康被害が理由で死ぬ者が更に増加するのだから便利さに耽溺せず禁欲的に生活せよ、との声明を発表した。
何にでも代替品は出てくるもので今後は燃やしても煤が出ないファーガス産の黒い水が石炭の代わりに使われるのだろう、と皆なんとなく考えている。それなら皆少し面倒に感じるだけで何とも思わないのだ。政府が法律で煤の出る燃料を規制すれば、煤が出ない燃料に需要が生まれる。そこに経済効果が生まれるのならば商人たちは全力を出す。
だがガルグ=マク旧市街の宗教家たちが出した要求には裏がある。それを感じ取った者たちは密かに強く警戒した。彼らは産業の時代から魔法の時代に立ち帰れと言っている。人々や社会から魔法の力が失われて久しい。
燃料を魔法に戻したら食い扶持が稼げず死ぬものが出てくるのにそれについては言及しない。皆聞き流し、この場では黒い水に切り替えるだけだろう。しかしこの手の手続きを考えない、考えさせない司教座の無責任さには問題がある。それともわざとなのか。
リンハルトは老眼鏡をかけ、何度読んだかわからない声明文をまた読み返した。ため息も何度吐いたかわからない。概要だけならば普通のことしか主張していない。そんな見かけが彼に更なる憂いを抱かせる
ヘヴリング領の経済は炭鉱にそこまで依存していない。だが生活は石炭に依存している。医療も信仰魔法ではなく殆ど医学によって提供されており、生活を改変しろと言われても困ることばかりだ。
ヘヴリング家の上屋敷があるハイストリートと司教座のある旧市街は大して離れていない。だがリンハルトには別の国のように感じられる。これからやってくる年若い客人も旧市街とは別の国の住人だ。リンハルトは客人のため、テフを用意するように執事に命じた。
黒衣に身を包んだ医師が召使に連れられ、リンハルトが待つ応接間に現れた。テーブルにバックギャモンのボードが開いてあるのを見た客人が微かに笑う。パルミラから輸入されたもので、近頃は老若男女を問わず流行っている。
「お招きいただきましてありがとうございます」
「僕と勝負できるのはヒューベルトくらいだからね。たまには赤でやってみない?」
ヒューベルトとリンハルトは対外的には診察のついでにバックギャモンで遊ぶ仲間、ということになっている。含みを持たせた仲であると理解しているのは同じく旧市街の干渉を嫌う極少数のものたちだけだ。
「いつも通り黒でお願いします」
互いにダイスを振って先手を決める。今日はリンハルトの方が大きい目が出たので先手となった。これはそのまま先手の出目としても使われる。執事が持ってきたテフを飲みながら遊ぶ、歳の離れた二人の姿は意外に穏やかだ。
「頼んでいたこと、調べてくれたかな」
「ある程度は。ガルグ=マク司教座で働く彼の地出身者のほとんどがキッホルとセスリーンの紋章を持っていました」
ヒューベルトの報告を受け、リンハルトはため息をついた。あの土地の領主が十傑の子孫ではないことは既に判明している。
「あの土地で血を与えたキッホルとセスリーンゆかりの聖人がいるんだろうなあ」
次にヒューベルトがダイスを振り、リンハルトの駒に邪魔される前に駒を進めた。
「確かに古代から中世にかけて、聖人たちが人の命を助けるために血を分け与えた例は枚挙にいとまがありません」
「だが集落丸ごとなんて、いくら頑丈な聖人でも血を失いすぎて死んでしまう」
「貴殿はいつ為されたとお考えですか?」
「古代や中世なら自慢して回るはずさ」
リンハルトの言葉に首肯したヒューベルトはすっかり冷めてしまったテフに口をつけた。当時の基準からしても、紋章が発現するほど沢山の血を与えられるのは特別なことだ。
「でも当時は他の土地から妬まれるような幸運だったから隠したんだ」
人間社会から魔力が失われた病禍の時期に、自らの命と引き換えにしてでも集落の命を救ってくれるような聖人と出会う幸運など滅多にあることではない。ベレト統一王の治世から三世紀ほどで制度は疲弊し、セイロス教原理主義派による異端者狩りがフォドラ全土を席巻した。病禍は互いに互いを疑う地獄のような状況で発生している。
「当時あの地域で起きたことは私も奇跡だと思います。うかつに言って回れば貴殿のおっしゃる通り、異端者狩りの対象になった可能性は高いですな」
病禍に苦しむ片田舎に偶然、血を分けてくれる聖人が現れる確率は限りなく低い。そもそも統一戦争の時点ですら、明確にナバテアの民であったと言えるのは三名だけだ。当時の大司教レアとその部下セテス、それに彼の妹でアガルタの民から血を狙われていたフレンしかいない。争いに巻き込まれることを避けて出自を隠しているものがいた可能性は否定できないが。
リンハルトの振ったダイスがゾロ目を出したのでヒューベルトの駒は弾き出され、バーに置かれることとなった。
「異端者狩りの理由も嫉妬だからね。生存戦略としては正しいし、それが強烈な成功体験になったんだろう」
だが正体を明かさず、真の目的を隠して目標を達成しようとする態度は誠実ではないとリンハルトは思う。
「聖人の血で強化された人々は当時の疲弊したフォドラにおいては珍しい、活力に溢れる有能な存在です。自然と推挙されてガルグ=マクで学んだり働いたりすることになったのでしょう」
「司教座附属の学校はキッホルとセスリーンが守護聖人だしね。彼らからしてみれば天啓だ。中々説得されない僕のことも女神から与えられた試練だと思っているね、きっと」
彼らは同じセスリーンの紋章を受け継ぎ、信仰魔法を得意とするリンハルトに親近感を持っている。だから彼らは自分たちが考える正しき道へリンハルトを誘導しようとするのだ。しかしリンハルトは彼らと正しさが共有出来ない。
「ヘヴリング家が加われば彼らにとって千人力なのは確かです。名門ですし、貴殿のような筋金入りの合理主義者が説得されたとなれば他のものにも揺さぶりをかけられる」
ダイスを振ったヒューベルトは素早く、バーの上にある自分の駒を元に戻した。互いの駒は行ったり来たりを繰り返していて、なかなかゴールしない。
「今も秘密にするのは呪術的な理由があるのかな?」
「それは私の専門外です」
ヒューベルトの駒はリンハルトの陣の中で逆転勝ちを狙い、乗るかそるかの勝負に出ていた。妻も小さな子供もいるような若者がこんなことをするのはゲームの中だけにしなくてはならない。
「君のご先祖は詳しそうだけどね。ヒューベルト、今後は僕が調べ物をするよ。君はご家族のためにも長生きしないと」
そう宣言したリンハルトは年老いて髪は白くなり、杖なしに歩けない。それでも知性の宿った瞳の色は失われていなかった。尊敬する年長者に言われて引き下がるしかなかったヒューベルトがリンハルトの葬儀に出席したのはこの翌年のことだった。彼の葬儀の場でヒューベルトだけが、リンハルトの死が不自然に早められたものであると分かっていた。畳む