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雑多です。
「flow」第1部10〜11「代替品」#完売本 #flow #ヒューベルト #ペトラ #コンスタンツェ #ハピ #エーデルガルト #フェルディナント #カスパル

10.
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一七一〇年
 僧侶の皮、王族の皮は誠に使い勝手が良く聖人たちをうまくごまかすことができた。

 目の霞んだ人々は中身が入れ替わっていることに気づかない。そのまま僧侶の皮を被って聖人たちに近づいてみると彼らの数が減っていることに気付いた。聖人たちさえ居なくなってしまえば目の霞んだ人々など敵ではない。
───
 パルミラやブリギットを始めとする周辺国と比べ、フォドラで医学が発展しなかった理由はいくつもある。信仰魔法への傾倒の他に大麻や阿片などが宗教上の禁忌に触れるため栽培すら出来ず、医療に利用出来なかったことも理由のひとつだ。
 部位の切断など不可逆で激しい痛みを伴う外科的処置を行う際だけは利用出来なくもなかったが、その際も禁忌に触れない強い酒を使う例が殆どだった。気休めでしかない。
 一世紀ほど前、病禍の時代にフォドラの社会は激しい変化を遂げた。それまでは大量の医薬品や設備を必要とし、完治させるまで時間がかかる医師より魔道書だけですぐに人を癒す修道士の方が必要経費が掛からず優れている、とされていた。
 しかし信仰魔法は使い手が同じ空間に居続けなければ発動しない。だが薬は予め渡しておけば患者が辛くなったその時に服用できる。手術も終えてしまえば後は別のものに看護させれば良い。圧倒的な人手不足に直面し、フォドラでようやく医療行為が見直され───その一環で大麻や阿片の医学利用と栽培が解禁された。
 麻酔に向く芥子は産地であるブリギットの中でも標高が高い乾燥した寒冷地で栽培され、温暖なアドラステア地方やレスター地方では中々根付かない。気候の条件から言えばファーガス地方では栽培可能だ。しかし信心深い人々が多いファーガスの農家は栽培したがらない。
 安定供給を目指すならブリギットやダグザから輸入するしかなかった。フォドラ統一戦争の後にブリギットの女王ペトラ一世とベレト王の間で交わされた通商条約により、少ないながらも鎮痛剤そして麻酔薬の原料となる阿片の供給は安定している。しかしいずれは自力で芥子栽培をすることが望ましいとされていた。
 調査の結果、フォドラの衛生局はオグマ山脈に連なる某高原ならば栽培可能ではないかと考え、ブリギットの農業勧業局から技術官を招き試験栽培を始めている。うまく運用できれば将来的には麻酔薬を全て国産品に切り替えられるだろう。
 禁止薬物の原材料を育てているので霧が試験農場の詳細を隠してくれるのはありがたい。しかし目の前に伸ばした自分の手も見えないような霧は問題だ。作物に影響が出るし、コンスタンツェがヌーヴェル家の持つ魔道の知識を注ぎ込んで作った防御結界に触れても、魔獣と遭遇しても命がなくなるだろう。
 早朝の吐く息も白く濁り己も消えてなくなりそうな天候の中、ヒューベルトはブリギットから派遣された技術官であるペトラを見つめた。正確に言えば彼女が持つランプの灯りを見つめている。
「果実、大きさ、ありません」
 霧の向こうから片言で話す彼女はいつも誠実で、教えを乞う側を下に見ることがない。そこが彼女の持つ確かな知識と同じくらい素晴らしい点だ、とヒューベルトは評価している。そんな彼女の声は落胆していた。
 つい先日まで目の前には赤い花が咲き乱れていた。芥子は花が枯れた後で結実し、その実を傷つけると白い乳液が滲み出す。その乳液はしばらく経つと粘性を示し色は黒く変化する。この黒くなった乳液を集めて乾かしたものが麻酔の原料となる生阿片だ。ひとつまみの生阿片を精製するのに花は百本近く必要になる。ブリギットでは一面の赤い芥子の花が季節の風物詩だ。世界中の痛みに苦しむ人々が赤い花にいくらでも金を払う。
「いいえ、結実しただけでも大したものです。ここは貴殿のお国の名産地と違って湿度が高い」
「ありがとう。しかし、種子、取れます。とても小さい、とても沢山、注意、必要です」
 ダグザでは小さな物を表す時に〝芥子粒のような〟という言い回しを使うのだ、とヒューベルトの上司であるコンスタンツェが言っていた。種子を採取する時には取りこぼしがないよう、細心の注意を払う必要がある。芥子も大麻も国家が完全管理して栽培する予定なので間違いは許されない。そういった細かいことならば、と言って上司であり六大貴族に連なる名家出身のコンスタンツェがヒューベルトをこの計画の責任者に推薦した。
 コンスタンツェに言わせれば医学と魔術は偉大なるヌーヴェル家の者によって融合を果たす筈だが、それには他人に任せねばならないことも多いらしい。
「ご安心ください。絶対にならずものたちの財源にはさせません」
 ヒューベルトの家系は代々医療に携わる、と運命づけられている。ベレト王からベストラ家再興の許可が出た日に運命は決まった。現在はともかく当時は殆ど受け継ぐ地位も領地もなく、あるのは貴族の称号と王と対立した過去だけと言う虚しい状態だった家名に何故、先祖がこだわったのかがヒューベルトには理解できない。だが王はとても喜び、自分が喜んだことを記録に記せと命じたと聞く。
 都合の良い逸話かと思いきや物好きな一族のものがガルグ=マク旧市街にある公文書館で確認したところ本当に事実として記されていた。王の心は広いにも程があるのではないだろうか。
「過去を気に病む必要はないが、どうしても気になるのならその分、他の誰かの命を救えば良い」
 ベレト王はもっと広い意味を込めて先祖を激励した筈だが、とにかくベストラ家においてはそう言うことになったのだ。だが血筋のせいなのか黒魔法は使えても信仰魔法の才能が全くない。当時の世の中では分が悪かったが、信仰魔法を専門とする修道士ではなく医師や薬師になるしかなかった。
 ベストラ家の人々は一族郎党で医学を志していくうちに、やがて医学研究における禁忌が少ない他国へ留学するようになった。他国で出版された医学書をフォドラ語に翻訳し、人体解剖実験に参加する。ヒューベルトも薬草について学ぶためにブリギットへ行ったことがあった。ベストラ家の人々は翻訳するだけでなく一族の者が他国で参加した様々な実験、特に解剖実験について本も書いた。
 これらの医学書は統一王と呼ばれたベレトが印刷と出版を自由化しなければ、セイロス教の禁忌に触れていたため発禁となっていただろう。人体解剖を忌避する感覚は未だにフォドラでは色濃く残っている。
 統一王に逆らった家系、というより現在では人の体を切り刻む家系という理由でヒューベルトの一族を嫌うものたちは多い。それでも彼の一族は効率良く人を救うことをまだ目指している。
「ならずもの、意味、何ですか?」
『ならずもの、です』
 ヒューベルトがブリギット語で話すとペトラがため息をついた。言葉遣いに気をつけねばならない。彼がブリギット語を多少は理解できることが計画の責任者になれた理由のひとつだった。
「ヒューベルトと私、ブリギットではブリギット話す、フォドラではフォドラ語話す、約束です」
「申し訳ない。フォドラ語で単語の説明をすべきでした」
 素直に謝るとヒューベルトも芥子の果実を検分し始めた。ペトラの指摘通り実が小さい。傷をつけてヘラを使い乳液を採取する方法では必要とする量を確保するために作付面積を倍にするか、新たな抽出方法を考える必要があった。頼りたくはないのだが、遠い祖先の残した恐ろしい記録に何か手掛かりがあるかもしれない。
───
 目の霞んだ人々のうち殆どのものが最初の人々が作った武器を持つことが出来ない。無理に持つと獣に成り果ててしまうからだ。

 獣に成り果てたものは討ち取られた。そうしなくてはその土地を滅ぼしてしまう。

 たまに人の姿を保ったまま武器を持てるものが現れるとその人々を尊い、と言って崇めた。
───
 今時は魔法職で募集をかける時に勤務先が地方では中々人が集まらない。石でも投げた方がまだ効き目のありそうな理学魔法しか使えない癖に自分が選ばれし二パーセントだと分かっているので皆、成功するために都会へ行ってしまう。
 ガルグ=マク新市街にある衛生局はフォドラの医療全てを統括している。信仰魔法との縦割り行政が長年の問題だったが、目標が治癒であるならば方法論の違いで管轄を分けるべきではない。
 医療行為は世俗のものだ、という主張にセイロス教会がついにおれて信仰魔法も衛生局の管轄となった。衛生局側がアドラステア帝国の頃より続き、一度はお取り潰しの目にあったものの不屈の闘志で再興を果たして六大貴族にその名を連ねる名家、ヌーヴェル家のものを局長にした時点でセイロス教会が譲歩するのは決まっていたのかもしれない。医学と魔道は互いに欠けたところを補いあって更に便利になるべきだ、と言うのが衛生局の局長コンスタンツェの主張だった。
 そういった高尚な議論はさておき、人口あたりの医療従事者数が足りていないと言う現状を解決するにはレストを使える修道士か鎮痛剤や麻酔を使える医師がいればいい。
 全人口のうち二パーセントしかいない魔法が使えるののうち、何割が修道士になってくれるのかを考えると医師の方がまだ人数を読みやすかった。修道士は軍に入ることも多いが医師は医師になるしかない。修道士による治療と比べた時に経費の高さは問題だが、それを解決するため衛生局は鎮痛剤と麻酔薬の国産化を目指している。
 勤務先がオグマ山脈の魔獣が出没する山奥、と言うこともあって試験農場の警備責任者は中々見つからなかった。コンスタンツェが張った防御結界を現地で保守点検をするものを早急に見つけねばならない。試験農場で栽培するのは依存性が極めて高い麻薬の原料でもある。関わるのは最少人数にしたいが衛生局としてもヒューベルトにそこまでさせるわけにいかなかった。試験農場の内側だけでも大変なのだから。
 今日もどうせ見つからないのだろう。結界に綻びが出てヒューベルトたちを困らせる前にフェルディア総合大学まで直接探しにいかねば、と思いながらコンスタンツェは最上階の窓から実技審査の様子を眺めた。局の中庭で黒手袋をして古びたフェルディア総合大学のマントを着た男が結界を張っている。男性の場合、髪を伸ばしておいた方が多少は魔力の足しになるのだが、鬱陶しさに負けて若草色の髪を短く切っている時点で見込みはないように思えた。
 しかし彼は杭も紙も使わず反閇だけで空間を閉じている。結界に向けて試験官がバケツの水をぶちまけても水が通過していくだけで何も起きなかったが、試験官が投げ込んだ木材は粉々になった。網状に結界を貼ることによって雨は通し、魔獣や人は通過させない仕組みになっているらしい。
 コンスタンツェは慌てて机に戻って採用通知を書くと窓を開けて改良したウインドの呪文を唱え、採用通知を試験官の胸元に送った。

 書類が風に乗って不自然な最短距離で試験官の胸元に飛び込んでくる。その様子を見たベレトは思わず口笛を吹いた。開いた窓の奥に金髪の巻き毛に囲まれた懐かしい顔を見つけ、思わず笑顔になってしまう。血筋もあるだろうが本人の努力が素晴らしい。
 身なりを整えたら局長室へ向かうよう試験官から言われたベレトがチラチラと横目で局内を窺うとどうやら手狭なようで、書類が溢れ出しそうになっている。レンズ研磨も良い仕事だったが久しぶりに田舎で体を動かしたい気分なのに書類仕事は嫌だった。
 ノッカーで扉を叩くと奥から入るように、と懐かしい声がベレトに話しかけてきた。久しぶりに出会うコンスタンツェは心もふたつに割れておらず安定している。一族郎党が捨て石にされ、領地も爵位も取り上げられた状態から這い上がった前のコンスタンツェが何の不安もなく育ったらこんな感じになるのだろう。第一印象だけでいえば愛されて育ったコンスタンツェの孫娘に雰囲気が似ていた。
「今時はまともに魔法が使えるものが中々いませんが貴方は違いました。安心して私の防御結界を任せられますわ!詳細は今から口頭で説明するのでこの場で覚えて帰って頂戴。何ひとつ書き残してはなりません」
 オグマ山脈の某高原にある試験農場で何を栽培し誰がいるのか。どのような防御結界を張っているのか。秘匿部署とはそうしたものなので、ベレトは淀みなくコンスタンツェの説明を全て復唱した。
「ではすぐに出発します」
「路銀なしには辛い距離よ。ある程度の経費は先に下で受け取っておきなさい。それと身辺調査はもう部下がしているでしょうから事細かには聞きません」
 そう言うとコンスタンツェは一度口を閉じてベレトの顔をじっと見つめた。白い肌に若草色の髪と瞳、ヌーヴェル領にある本宅に飾ってある王と六大貴族達の姿を描いた絵にどことなく雰囲気が似ているような気がする。
「貴方ガルグ=マクは初めてかしら?」
 ガルグ=マクで一世紀以上を過ごし新市街を作ったのは自分だが、こう言う時は真顔でごく一部だけを伝えるに限る。
「何度か来たことはあります」
 コンスタンツェは新しい部下の言葉を聞き、素直に引き下がった。彼が身につけていたフェルディア総合大学のマントは古すぎる。古着屋で買い物をしたと言われればそれ以上返す言葉はない。だが彼の姿を見るうちにコンスタンツェはヌーヴェル家に伝わる御伽噺を思い出してしまった。この御伽噺はノアの紋章を隠していた時と同じく、世間に対して隠された状態で伝えられている。

───フォドラ最後の王はまだ生きてフォドラ中を彷徨っている。正体を隠し、剣が使えることを隠して民の中に紛れ込んで様々な仕事に就いて生活を楽しんでいる。だからもし王と出くわしたとしても深く追求してはならない───

 ヌーヴェル家は昔から魔道学院、つまり現在のフェルディア総合大学と縁が深く、禁退出扱いの資料も読むことが出来る。コンスタンツェの祖母が言うには3世紀ほど前に魔道学院で働いていたアンヴァル出身のベレト=アイスナーと名乗る人物と二世紀前にデアドラ港で働いていたフェルディア出身のベレト=アイスナーと名乗る人物は限りなく王である可能性が高いらしい。では先ほどまで目の前にいた人物はどうだろうか?
 コンスタンツェは手を叩いて秘書を呼び、お茶の用意をするように言った。秘書が選んで淹れたベルガモットティーに口を付け、満足げに微笑むとコンスタンツェは窓の外を眺めた。
「あれっ?今日のコニーなんだかとっても嬉しそうじゃん」
「そうね、ハピ。あなたの秘書としては本当に酷い言葉遣いも全く気にならないほど機嫌が良いわ。試験農場の警備責任者も決まったし、久しぶりに大好きなお祖母様のことを思い出したからかしら」
「ふーんそうなんだ。思い出してあげるのも供養だって言うよ。じゃあこれはコニーのおばあちゃんにね」
 そう言うとハピはカップをもうひとつ出して紅茶を淹れた。

11.
───
一七九〇年
 武器を持っただけで獣に成り果てるならば目が霞んだ人々は獣も同然だ。

 獣たちは聖人たちという牧者に飼い慣らされる羊の様だった。自分たちは違う、最初の人々はその様に考えた。
───
 石炭は十七世紀初頭の病禍で魔法を産業に活かせなくなるまで、鍛冶屋の補助燃料や一般家庭の暖炉くらいにしか使い道がなかった。だが今や石炭は黒魔法の代替品となった。石炭はアドラステア地方、特にヘヴリング領の根幹をなす資源となっている。
 眷族たちは自然への影響を気にかけて化石燃料ではなく、魔法を社会が消費するエネルギーの根本に据えていたが、フォドラから魔法の力が失われてしまったためこの流れはもう止まらない。
 炭鉱には様々な技術が集約される。坑道から排出された地下水を汲み上げるため釣瓶や水上輪が利用され、軌道で石炭が運び出された。軌道は最初トロッコや馬車鉄道が走っていたが、のちに蒸気機関車が走るようになる。石炭を乾留したコークスを使った製鉄法が開発されると一気に安価で良質な鉄が提供されるようになった。黒いダイアモンドの力を借りたフォドラは工業化の時代を迎えている。
 フレスベルグ家はアドラステア帝国の帝位継承権と免税特権を放棄することと引き換えに伯爵家として再興をベレト統一王から許された。その代わりに納税の義務を負い、苦し紛れに様々なことを模索している。そのうちのひとつがフレスベルグ製作所だ。鉱山機械の修理点検製作を生業としている。
 継承権を返上し再興が許されたのはファーガス神聖王国の王位継承権を持っていたブレーダッド家も同じだ。だがブレーダッド家は民に親しまれていたので再興も民から望まれたものだろう。
 しかしフレスベルグ家はそうではない。何代か前の祖先は苦労した、とエーデルガルトは幼い頃から何度も聞かされている。それはそうだろう。そもそも何故再興を目指したのか全く分からない、と彼女は思っている。
 今では単に爵位を持っているだけで、やっていることは商家とほとんど変わらない。エーデルガルトは絵を描くのが好きだったのでせめて製図を引け、と言われた。その結果、流れ流れて親族が経営するフレスベルグ製作所で技術者として働いている。
 接待用に絵面を綺麗にしたいから、という訳で呼び出されたエーデルガルトは豊かな茶色の髪を結い上げ、作業着ではなくドレスを身につけている。ドレスと言っても補正下着を着る必要がない簡素なものだ。羽織る上着も腰までしかない。まるで男物のような丈が短いデザインだったが動きやすいので気に入っている。
 エーデルガルトはフェルディナントの作った〝火力で揚水する機械〟の実演が上手くいくかどうか、唇を真一文字にして紺色の瞳で見つめていた。執政官の案内役をしているので目線を機械だけに向けるのはよくないと分かっていたが、どうしてもそらすことが出来ない。
 フェルディナントはアミッド大河で行われた櫂を外側に付けた船の実演で失敗している。彼は錨用の水平回転巻き上げ装置を使って櫂が動くように改造した。装置は理論通りに動いたのだが、巻き上げ装置のバーを押して回る人々の姿が古代の船のようだと酷評されてしまったのだ。
 彼が考案した装置を帆船に導入すれば無風状態の際、船内に人手さえあれば風が受けられる地点まで到達出来る。満帆にしている帆船より速度も出た。実用性を疑われてしまったため導入する造船会社は今も存在しない。
 とにかく今度は失敗するわけにいかない。〝火力で揚水する機械〟試作機の不具合を修正するため、フェルディナントは髪を切る暇も髭を剃る暇もなかった。しかしガルグ=マクからやってくる執政官とその部下たちの前で身嗜みを整えないのは問題がある。周りからそう言われた彼は慌てて髭を剃り、真新しい白い襯衣を身につけた。伸びた橙色の髪は後ろで束ねて誤魔化している。
 執政官の視察先にフレスベルグ製作所が選ばれたのはフェルディナントが六大貴族エーギル家の出身だからだ。執政官から久しぶりに顔が見たい、と言われたら誰も断ることはできない。
 現在の執政官は久しぶりに六大貴族から選出された。ベルグリーズ家の出身で、偉大な先祖に肖るべくカスパルと名付けられた青年は紋章も魔法適性も持たないので科学技術に嫌悪感がない。彼が身びいきする人間ではないことは知れ渡っているので、彼が褒めればフェルディナントが特許を取得する予定の〝火力で揚水する機械〟を導入する鉱山が増えるだろう。フェルディナントはフレスベルグ製作所の期待を背負っていた。
 懐かしく思うもの同士、視線だけで挨拶すると補助ボイラーと主ボイラーの水量を確かめたフェルディナントはいささか緊張した面持ちで火を入れて視察団に向かって機械の説明を始めた。
「容器の中の水を蒸気で押し出し、蒸気の凝縮を利用して生まれた真空を利用してここの地下水を汲みあげます」
「フェルディナント、念のために凝縮について説明しておかないと」
 先に作った資料を執政官府へ提出できるような余裕があれば良かったが、それも無理だったのでぶっつけ本番だ。技術者同士では説明する必要のない単語でも、こういう場では置いていかれるものを出さないために噛み砕いておくべきだろう。そう考えたエーデルガルトはフェルディナントに助け舟を出した。
「ありがとう、エーデルガルト。その通りだ。凝縮とはこの場合、気体が液体になることを言います」
 理解したかどうかフェルディナントが目線で問うと少なくとも執政官は肯いた。興味津々と言った目つきで実演を見ている。賑やかな音を立て機械が地下水を吸い上げ始めた。
「そうか!体積が減るから真空になるんだな!」
「その通りだカスパ……いや、執政官。この機会は原理も操作も単純です。吐出し弁が音を立て、吐出し管が熱くなれば蒸気の凝縮によって真空が作り出せたと分かります。あとはレバーで切り替えるだけで地下水を汲み上げられるようになります」
 良いものを見せてもらった、勉強になったと喜ぶ執政官たちを見て失敗はなかったと確信し、関係者一同の頬が緩む。
「燃料は炭鉱ならその場で採れる訳だし効率がいいな。実際に運用するとまた不具合が出てくるのかもしれないがこれはすごい。なあ、フェルディナントこれは試作品なんだろ?」
「ああそうだ。君の前での動作確認に成功したから直ちに特許は申請するが、まだまだ改良の余地はたくさんあるのだ。さらに改良を加えてフォドラ中の鉱山にこの機械を売ってみせる」
 フェルディナントは拳を握りしめ高らかにカスパルの前で誓った。
「はは!その意気だぜ。法改正して安全のために設置を義務付ける日も近いな」
 そんな会話も交わされたが結論から言うといざ、使おうとするとフェルディナントが発明した装置は高い圧力が必要となった。そのままでは危険すぎて鉱山で使用することは出来ない。この機会はエーデルガルトによって跡形もないほど改良され、ようやく実用化された。しかし根本となった〝火力で揚水する〟というフェルディナントの発想がなければ、世界初の商業用蒸気機関は生まれなかっただろう。
 のちにエネルギー革命が起き、燃料の主役が石炭から石油に転換された。アドラステア地方の炭鉱は時の流れに逆らえず次々と閉鎖された。しかしその時すでにフォドラ有数の総合電機メーカーとして成長していたフレスベルグ製作所が閉鎖された炭鉱を離職した人々の新たな職場となり、彼らは慣れ親しんだアドラステア地方から離散することなく生活が出来た。

 こうしてフレスベルグ家は産業史にも名を残した。
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一八一〇年
 微生物が宇宙空間を移動する際にどのように移動したのかについてはいくつかの説がある。

 恒星からの放射圧、すなわち光圧で宇宙空間を移動した、とする光パンスペルミア説では微生物が隕石などに付着せず微生物それ自体が宇宙空間を移動したと主張している。
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 レスター地方の山岳地帯、通称フォドラの喉元に山の民と呼ばれるクパーラという少数民族が住んでいる。独自の文化とセイロス教とは異なる信仰を持ち、フォドラが統一されるまでは幻と言われるほど排他的だった。しかし信教の自由が保証された今は違う。
 工業化が一気に進んだフォドラだが、彼らの居留地だけは時が止まったかのような光景を見られる。そして彼らは流れ着いた異物であるベレトが一日につき二時間くらいしか起きていられない生活を何年か続けていても全く気にしない。親切なことに毎日誰かが食べ物と飲み物と着替えを用意してくれるので、無言のまま夢遊病患者の様に食べて身綺麗にしてまた眠る。
 クパーラの人々だけが魔法適性者の割合を五パーセントのまま保持しているし、フォドラの西側では珍しくなった大紋章を継ぐものもいた。野生の飛竜もクパーラの固有種だけは個体数が減少していない。
 ベレトはここで眠るとごく稀にだが、ソティスの夢を見ることが出来た。数世紀分の答え合わせをゆったりと夢の中でしている。ふわふわと宙を漂う緑色の髪の少女は眉間にしわを寄せて頬を膨らませた。
「おぬし!長いことわしを思い出しもせず薄情ではないか!」
「怒られるのが怖くて」
「怒らぬ!!」
 ソティスは声を思い切り荒げていたが気が付いていない。
「俺はレアを困惑させるようなことしかしなかった。今もそうだが言われないことを察するのは無理だったから」
「娘も知らないことだらけで、言えることの方が少なかったのであろう」
 これはソティスのいう通りで、確かにレアは母の若き日の姿を知らなかった。久しぶりに目にするソティスの姿は髪の色を除けばフレンよりも眷族としては幼く見える。当時、ベレトにまとわりついていたソティスの姿を正確に伝えてもレアが自分の母親だと分からなかったのは当たり前かもしれない。
「そうだな。俺もレアが大司教をしていたのと同じくらい長く王をやっていたら、わからないことだらけで言えないことばかりになっただろう」
 夢の中は自由な筈なのにベレトとソティスは懐かしい寮の自室にいた。自由だからどんな場所でも選べた筈なのに。
「ガルグ=マクにいた小童どもとその子孫はよくやっておる」
「きちんと俺の代わりのものも魔法の代わりになるものも見つけた」
 レアは長命である己自身を社会を安定させる礎にした。しかしベレトの教え子たちは家系や血筋ではなく執政官という役職を社会を安定させる礎にした。役職に就く者が存在すれば良いだけなので、代替わりしようと先代の執政官と血縁がなかろうと揺らがないのだ。魔法を失った時も白魔法の代わりに医学を発展させ、黒魔法の代わりに科学を発展させた。
「おぬしが人間どもを全く疑わず信じて手放せたからじゃ。わしらはどこか少しは疑っておったし手放せなかった。子離れができなかった」
「俺は人間だったからなあ。ところでソティス。俺はあと何年生きていられる?」
 フレンですらどんなに短く見積もっても千年以上は生きていた。レアやセテスは何千年も生きていた筈だ。だがベレトは心臓に嵌められた紋章石とそこに宿ったソティスの意識によって生かされているだけだ。
「数千年生きるのが本来の寿命だが、おぬしは千年もつかどうか分からない。わしらからすれば哀れなことに髪が若草色のまま童のうちに死ぬのじゃ」
 どうやら残り時間は二世紀くらいのようだった。その間、八時間睡眠で過ごせるなら充分な時間があると言える。
「そのうち何年を眠って過ごす?」
 しかし今のように二時間しか起きていられないならば、ベレトは死ぬまでこの居住区で微睡んでいるしかない。
「起きていたければ夢も含めて紋章の力を使わぬように心掛けよ。わしはおぬしと最後まで共にあろうぞ」
 寂しそうなソティスの言葉には心当たりがあった。クパーラの人々が暮らす居留地には魔獣が出る。その魔獣を駆除しようとして返り討ちにあっていたバルタザールを助けるため、ベレトは久しぶりに炎の紋章の力を使った。そして起きていられなくなった。
「おい、アンタ起きたいのか?」
 夢の中では目を開けていたのに現実では瞼が重く、バルタザールのたてた物音や声に反応して微かに動くだけだ。横たわったまま強張っている手を顔に乗せて指で眉間を揉む。
「起きたい」
「わっ!久しぶりに声を聞いたぞ。忘れかけてたぜ」
 バルタザールはクパーラの人々が暮らす居留地にあるカジノで警備員をしている。大した産業のないクパーラではカジノが大きな収入源で、少数民族の生活や文化を守る資金もそこから捻出されている。博打うちの財布がクパーラを守っていた。そしてバルタザール本人も博打うちなので、彼のささやかな薄い財布も居留地を守ることに貢献している。
「金がかかったろうにすまなかった」
「いや、長老たちからアンタの面倒を見てやれば借金の返済日を伸ばしてやると言われたんでな。それでどんな夢を見た」
 クパーラの人々は夢を重要視していた。彼らの考えでは夢だけが時と場所を超え、分からなくなってしまった真実に直接触れることができる。
 現に彼らの創世神話は今も書き加えられている。夢を見るたびに分からなくなってしまった真実に触れ、分からなかったことが明らかになるからだ。神話の謎に触れるような夢は強い夢、と呼ばれる。ガルグ=マクから来た学者たちは定期的にクパーラの神話を記録に残していた。
 バルタザールが起きていられなくなったベレトを今時珍しく治癒魔法が使える呪い師のところに担ぎ込んでいる。身体を信仰魔法で癒してもらった後も起きていられないベレトを見た呪い師は夢を見なければならない、と告げた。余っている部屋をベレトが夢を見るために使っても構わない、と言う。
 クパーラでは昔から、人生を問うような強い夢は呪い師の管理下で見る。呪い師に夢を勧められた、ということで居留地の人々は異常な眠り方をするベレトを自然に受け入れていた。
「夢の中で会いたかった人に長生きしたければもう夢を見るなと言われた」
 ため息をついたベレトの若草色の瞳から涙が一粒こぼれ落ち、頬を滑り下りていく。
 ソティスの夢はおそらく炎の紋章とベレトの心臓にはまっている紋章石が揃わなければ見られない夢だ。現在、ベレトの心臓はソティスの依代でもある紋章石によって動いている。
 ソティスの亡骸から作られた紋章石はまずアガルタの民から武器の動力源として利用され、次にレアが作り上げた何体もの〝お母さまの容れ物〟を生かすことにも使われた。力尽きつつある紋章石に炎の紋章の力は強すぎるのだろう。
「命を削るくらい強い夢なんだろう。たまにそういう話を聞くぜ」
「いつ頃死ぬのかも教えてもらえた」
「不思議でもなんでもないさ。夢だけが時と場所を超えられるんだから」
 クパーラ育ちのバルタザールはそういうと呪い師がベレトのために作った夢を呼ぶ呪符を壁から剥がした。捨てるのが面倒なのか、掌中にある丸めた紙をファイアーで燃やしている。今時、クパーラ以外の土地ではなかなか見られる光景ではない。畳む