「さかしま」6.#クロロレ #さかしま #完売本 #オメガバース
今節のクロードとヒルダはずっと疲労困憊だ。口を開けば疲れた、しか言わない。休みの日には担任であるベレトに呼び出されエーデルガルト、リンハルト、ディミトリ、アッシュと共に守秘義務のある課題に取り組んでいる。当然だが彼らは同級生たちにも何に取り組んでいるのか秘密にしていた。マリアンヌもヒルダから何も知らされていないが、ローレンツによるとヒューベルトやドゥドゥですら主君がベレトとどこで何をしているのか知らされていないらしい。
「ではヒルダさんから嫌われているわけではないのですね」
「良かった。マリアンヌさんがようやく明るい顔を見せてくれて安心したよ」
ヒルダがいないと極端に内向き思考なマリアンヌが誰かを苛立たせたり動揺させてしまうことが多い。そんなマリアンヌを庇うため、ローレンツは彼女と共に行動する機会が自然と増えた。今日もローレンツが掴んでいることだけでも伝えよう、と思って茶会に招いている。
マリアンヌが男性であるローレンツと安心して共に行動できるのはオメガ同士だからだ。オメガはベータやアルファに対して自分の第二性を明かさないが、オメガだけの場であれば事情は異なる。学生たちの健康管理を担う医師のマヌエラが秘密裏に主催したオメガ達の会合で、互いの姿を初めて見た時には驚いたものだが今は茶会に招き合う仲だ。
「エドマンド家の力があれば第二性に振り回されるのも最小限になるだろう、と実の両親が……」
「僕もグロスタール家に生まれていなければどうなっていたか分からない。僕の場合は天佑だが、マリアンヌさんは辺境伯のお眼鏡にかなったのだ。もっと自信を持っていい」
何度目かの会合でそんな会話を交わして以降、二人は親友になった。オメガの男女同士は結婚しても子供を授かることはない。だが悩みや恐れを共有し、生涯を通じた大切な友人になることは出来る。発情なのか恋愛なのか、お相手からの愛は肉欲なのか愛情なのか、区別をつけたいお年頃のオメガたちにとって同じ立場の者に話を聞いてもらう時間は精神の安定に必要不可欠なものだ。
マリアンヌは在学中にとにかくまずは有力者の友人を作れ、と養父であるエドマンド辺境伯から言われているらしい。だがヒルダとローレンツがいるのでこれで充分、とばかりに彼女は金鹿の学級に篭っていた。良港を抱えるエドマンド領の後継者としてファーガスやアドラステアに知己を作れ、ということなのだろうが第二性に加えて他にも何やら秘密があるマリアンヌにはまだ難しい。
一方で人見知りを全くしないローレンツは将来の伴侶を探すため、アルファであろうと思われる貴族の女性たちに声をかけている。しかし彼女たちからの評判はすごぶる悪い。いくつか理由はあるのだが、中庭で語らうローレンツとマリアンヌの二人が事情を知らぬものたちから見ればお似合いに見えるのもそのうちのひとつだ。既にマリアンヌがいるのに更に声をかけるなんて、と思われている。
「失礼、肩に虫が」
そう言うとローレンツは手巾を手に取り、マリアンヌの肩に止まっていた緑色に輝く甲虫をそっとつまんだ。季節が進み、山の中といえども気温が上がり虫も含めて動物たちの行動が活発になっている。
「ありがとうございます。ローレンツさん」
「いや、礼にはおよばない」
「鳥たちも何故かこの虫は食べないのです。不思議ですね」
ローレンツが白い手巾を軽く払うと甲虫は角度によっては金色に見える翅を広げて、木々の向こうへ飛んでいった。クロードと話している時にも紛れ込んで場を和ませた小さな来訪者はオグマ山脈の固有種なのだろうか。
「あーっ!マリアンヌちゃんたちいいなー!」
戦闘後なのか眉間に皺を寄せ、ぼろぼろの格好をしたベレトとヒルダとクロードの三人が中庭にやってきた。疲れているのか目を何度か瞬かせてクロードがため息をつく。ペラペラとよく口が回る、口から先に生まれてきたのか、となじられるクロードだが疲れのせいか言葉も出てこないらしい。
「他言無用だ」
ベレトがヒルダとクロードがローレンツとマリアンヌに秘密を話さないよう釘を刺した。彼らは一体、どこで何をやっているのだろう。二人の動きがベレトの言葉に拘束され、ヒルダとクロードが息を呑んだ。ただならぬ三人の雰囲気にローレンツとマリアンヌも黙っているしかない。気まずくなったその刹那、テーブルの上にまだ残っていた胡瓜のサンドイッチにベレトの手が伸び、あっという間に口の中に消えた。尊重されて育った長男と一人っ子という組み合わせでは遠慮の塊がよく発生する。茶会用に口を大きく開けずとも食べられるよう小さく切り分けてあったせいか、元傭兵のベレトはまさに一口で食べてしまった。
クロードが相手ならばローレンツはくどくどと行儀作法について注意しただろう。だが相手は傭兵団の中で育ったベレトだ。礼儀作法をどこからどう説けば良いのか全く分からない。いつも伏し目がちなマリアンヌも驚いて目を見開いている。
「だから他言無用と言っただろう。しかし美味いな、これは」
真顔で答える担任教師を見てヒルダとクロードが堪えきれないと言った調子で笑い出した。
「あっはっは!いや、先生それは!確かに他言無用だ!セテスさんに知られたら怒られるな!」
「腹が減ったな。食堂に何かないか聞きに行こう」
ベレトは表情が乏しく、いつも真顔で突拍子もないことをしでかすのでいつもローレンツもマリアンヌも呆然としてしまう。だが剣呑な雰囲気は完全に失せた。
守秘義務のある課題に誘われず、内心では失望していたローレンツはベレトの奇行のおかげでクロードたちを問い詰めるという不躾な行為に及ばず済んでいる。そこを見越しあえて不躾な行為に及んで自ら泥を被っているのだとしたらローレンツは一生、ベレトに敵わない。
「マリアンヌさん、先生に皿を空にされてしまったしそろそろお開きにしようか」
「ええ、ローレンツさん、ありがとうございました。近頃気が塞いでいたのでよい気分転換になりました」
オメガである二人は常に抑制剤を服用し発情期が来ないように調整しているため、ごく軽い生理が来るだけだ。血の匂いだけならば香水などでアルファを誤魔化せる。
だが嗅覚が鋭い他の生物は誤魔化せない。犬なども訓練すれば判別に使えるだろう。ただフォドラの社会がその必要を感じないからやっていないだけだ。そしてある種の匂いに反応する昆虫は多い。汗であれば蚊、腐肉であれば蝿、そしてこのガルグ=マクに生息する甲虫はオメガの分泌するフェロモンに反応する。前者二つは微量であっても激しい反応を見せるが、玉虫色の甲虫は個体によって反応の激しさに違いがある。
かつてそこに気付いたセイロス教の修道士がいた。名を忘れられた修道士は特性ごとに甲虫を選り分けて繁殖し、観察した。フォドラには虫を愛でる文化はない。その修道士はクロードのように、どこか別の土地からやってきたものだったから気付いたのかもしれない。その修道士個人の資料も先の大火の際に宝杯の儀にまつわる資料と共に焼失してしまった。男性なのか女性なのか第二性はなんであったのか。今も昔もフォドラ中のオメガたちが女神の次に感謝の祈りを捧げる名無しの誰かは列聖されていない。畳む
今節のクロードとヒルダはずっと疲労困憊だ。口を開けば疲れた、しか言わない。休みの日には担任であるベレトに呼び出されエーデルガルト、リンハルト、ディミトリ、アッシュと共に守秘義務のある課題に取り組んでいる。当然だが彼らは同級生たちにも何に取り組んでいるのか秘密にしていた。マリアンヌもヒルダから何も知らされていないが、ローレンツによるとヒューベルトやドゥドゥですら主君がベレトとどこで何をしているのか知らされていないらしい。
「ではヒルダさんから嫌われているわけではないのですね」
「良かった。マリアンヌさんがようやく明るい顔を見せてくれて安心したよ」
ヒルダがいないと極端に内向き思考なマリアンヌが誰かを苛立たせたり動揺させてしまうことが多い。そんなマリアンヌを庇うため、ローレンツは彼女と共に行動する機会が自然と増えた。今日もローレンツが掴んでいることだけでも伝えよう、と思って茶会に招いている。
マリアンヌが男性であるローレンツと安心して共に行動できるのはオメガ同士だからだ。オメガはベータやアルファに対して自分の第二性を明かさないが、オメガだけの場であれば事情は異なる。学生たちの健康管理を担う医師のマヌエラが秘密裏に主催したオメガ達の会合で、互いの姿を初めて見た時には驚いたものだが今は茶会に招き合う仲だ。
「エドマンド家の力があれば第二性に振り回されるのも最小限になるだろう、と実の両親が……」
「僕もグロスタール家に生まれていなければどうなっていたか分からない。僕の場合は天佑だが、マリアンヌさんは辺境伯のお眼鏡にかなったのだ。もっと自信を持っていい」
何度目かの会合でそんな会話を交わして以降、二人は親友になった。オメガの男女同士は結婚しても子供を授かることはない。だが悩みや恐れを共有し、生涯を通じた大切な友人になることは出来る。発情なのか恋愛なのか、お相手からの愛は肉欲なのか愛情なのか、区別をつけたいお年頃のオメガたちにとって同じ立場の者に話を聞いてもらう時間は精神の安定に必要不可欠なものだ。
マリアンヌは在学中にとにかくまずは有力者の友人を作れ、と養父であるエドマンド辺境伯から言われているらしい。だがヒルダとローレンツがいるのでこれで充分、とばかりに彼女は金鹿の学級に篭っていた。良港を抱えるエドマンド領の後継者としてファーガスやアドラステアに知己を作れ、ということなのだろうが第二性に加えて他にも何やら秘密があるマリアンヌにはまだ難しい。
一方で人見知りを全くしないローレンツは将来の伴侶を探すため、アルファであろうと思われる貴族の女性たちに声をかけている。しかし彼女たちからの評判はすごぶる悪い。いくつか理由はあるのだが、中庭で語らうローレンツとマリアンヌの二人が事情を知らぬものたちから見ればお似合いに見えるのもそのうちのひとつだ。既にマリアンヌがいるのに更に声をかけるなんて、と思われている。
「失礼、肩に虫が」
そう言うとローレンツは手巾を手に取り、マリアンヌの肩に止まっていた緑色に輝く甲虫をそっとつまんだ。季節が進み、山の中といえども気温が上がり虫も含めて動物たちの行動が活発になっている。
「ありがとうございます。ローレンツさん」
「いや、礼にはおよばない」
「鳥たちも何故かこの虫は食べないのです。不思議ですね」
ローレンツが白い手巾を軽く払うと甲虫は角度によっては金色に見える翅を広げて、木々の向こうへ飛んでいった。クロードと話している時にも紛れ込んで場を和ませた小さな来訪者はオグマ山脈の固有種なのだろうか。
「あーっ!マリアンヌちゃんたちいいなー!」
戦闘後なのか眉間に皺を寄せ、ぼろぼろの格好をしたベレトとヒルダとクロードの三人が中庭にやってきた。疲れているのか目を何度か瞬かせてクロードがため息をつく。ペラペラとよく口が回る、口から先に生まれてきたのか、となじられるクロードだが疲れのせいか言葉も出てこないらしい。
「他言無用だ」
ベレトがヒルダとクロードがローレンツとマリアンヌに秘密を話さないよう釘を刺した。彼らは一体、どこで何をやっているのだろう。二人の動きがベレトの言葉に拘束され、ヒルダとクロードが息を呑んだ。ただならぬ三人の雰囲気にローレンツとマリアンヌも黙っているしかない。気まずくなったその刹那、テーブルの上にまだ残っていた胡瓜のサンドイッチにベレトの手が伸び、あっという間に口の中に消えた。尊重されて育った長男と一人っ子という組み合わせでは遠慮の塊がよく発生する。茶会用に口を大きく開けずとも食べられるよう小さく切り分けてあったせいか、元傭兵のベレトはまさに一口で食べてしまった。
クロードが相手ならばローレンツはくどくどと行儀作法について注意しただろう。だが相手は傭兵団の中で育ったベレトだ。礼儀作法をどこからどう説けば良いのか全く分からない。いつも伏し目がちなマリアンヌも驚いて目を見開いている。
「だから他言無用と言っただろう。しかし美味いな、これは」
真顔で答える担任教師を見てヒルダとクロードが堪えきれないと言った調子で笑い出した。
「あっはっは!いや、先生それは!確かに他言無用だ!セテスさんに知られたら怒られるな!」
「腹が減ったな。食堂に何かないか聞きに行こう」
ベレトは表情が乏しく、いつも真顔で突拍子もないことをしでかすのでいつもローレンツもマリアンヌも呆然としてしまう。だが剣呑な雰囲気は完全に失せた。
守秘義務のある課題に誘われず、内心では失望していたローレンツはベレトの奇行のおかげでクロードたちを問い詰めるという不躾な行為に及ばず済んでいる。そこを見越しあえて不躾な行為に及んで自ら泥を被っているのだとしたらローレンツは一生、ベレトに敵わない。
「マリアンヌさん、先生に皿を空にされてしまったしそろそろお開きにしようか」
「ええ、ローレンツさん、ありがとうございました。近頃気が塞いでいたのでよい気分転換になりました」
オメガである二人は常に抑制剤を服用し発情期が来ないように調整しているため、ごく軽い生理が来るだけだ。血の匂いだけならば香水などでアルファを誤魔化せる。
だが嗅覚が鋭い他の生物は誤魔化せない。犬なども訓練すれば判別に使えるだろう。ただフォドラの社会がその必要を感じないからやっていないだけだ。そしてある種の匂いに反応する昆虫は多い。汗であれば蚊、腐肉であれば蝿、そしてこのガルグ=マクに生息する甲虫はオメガの分泌するフェロモンに反応する。前者二つは微量であっても激しい反応を見せるが、玉虫色の甲虫は個体によって反応の激しさに違いがある。
かつてそこに気付いたセイロス教の修道士がいた。名を忘れられた修道士は特性ごとに甲虫を選り分けて繁殖し、観察した。フォドラには虫を愛でる文化はない。その修道士はクロードのように、どこか別の土地からやってきたものだったから気付いたのかもしれない。その修道士個人の資料も先の大火の際に宝杯の儀にまつわる資料と共に焼失してしまった。男性なのか女性なのか第二性はなんであったのか。今も昔もフォドラ中のオメガたちが女神の次に感謝の祈りを捧げる名無しの誰かは列聖されていない。畳む
「さかしま」7.#クロロレ #さかしま #完売本 #オメガバース
アビスの件が完全に片付いていないのにそれでも時は過ぎ行き、事件は起きる。ゴーティエ家から廃嫡されたシルヴァンの兄、マイクランがコナン塔に立て篭っている件でセイロス教会からクロードたち金鹿の学級への協力要請があった。青獅子の学級は二節連続で身内から叛乱者を出している。今節の課題について話し合うためクロードはローレンツの部屋を訪れていた。もう慣れたものでクロードは自室のように寛いでいる。
「俺たちというより天帝の剣を持つ先生への協力要請だよな」
違いない、とでも言うようにローレンツは頷き、さらさらと真っ直ぐな紫の髪が揺れた。
「テュルソスの杖は父上の元にあるし、フェイルノートもデアドラに置いてあるのだろう?他の学級でもみな事情は変わらない筈だ」
アイギスの盾、アイムール、アラドヴァル、打ち砕くもの、フライクーゲル、ルーンはそれぞれの領地に大切に保管されている。それだけにゴーティエ家の件は皆に衝撃を与えた。皆、スレンとの国境を守り続けたシルヴァンの父親が無能とは思っていない。厳重な警備を掻い潜ったマイクランの、悪い意味での有能さと紋章がないのに破裂の槍をその手に握った度胸に驚いたのだ。紋章さえその身に宿していれば身を持ち崩すこともなく立派な跡取りになれた可能性がある。そこまできちんと分かっているからこそ、気の毒なシルヴァンは気丈に振舞っていた。
「持ち出された破裂の槍に対抗するには英雄の遺産が必要だ。雷霆を持つカトリーヌさんがまた協力してくれるのかと思ったが、当てが外れたな」
クロードたちの担任教師は天帝の剣を操るが、まだ扱いに慣れていない。南方教会を失い、西方教会には反旗を翻されセイロス騎士団も余裕がないのだろう。そうでなければ単なる学生にこんな依頼が来る筈もない。
「カトリーヌさんは西方教会討伐に向かったそうだな。鉢合わせさせるわけにいかなかったのだろう。クロード、君はあの時近くに居たかね?」
ローレンツはそう言うとクロードのために選んだ東方の着香茶に口を付けた。彼の部屋はきちんと整理整頓されていて棚の上は紅茶の専門店のようになっている。以前はクロード好みの茶葉やお茶請けなどなかったが今はきちんと用意されていた。
「聞こえたよ」
この地で偽名を名乗るクロードはロナート卿の絶叫を当分忘れられそうにない。真の名を隠したことで得た力は、その名を明かされてしまえば春の雪のように溶けて消え失せる。ローレンツは立ち上がると本棚から貴族名鑑を手に取り、ファーガス王国の名家であるカロン家の項をクロードに見せてくれた。彼女の真の名を口に出すなと言わんばかりに白魚のような指が薄い唇の前に立てられる。クロードは黙ってカロン家の項を読み終えると名鑑を閉じて机の上に置いた。情報を整理したくて右手で目元を覆う。瞼に浮かぶ文字列にため息しか出せない。
彼女もマイクランと同じく家宝である英雄の遺産を実家から持ち出してファーガスの司直の手から逃亡している。民に危害を加えないカトリーヌを彼と並べるわけにはいかないが、紋章の有無で行動や結果に違いが生じてしまう。
「彼女が名前を変えて教会で生きていたからロナート卿がすがった嘘に真実味を与えてしまったのだろう」
ダスカーの悲劇によって司法制度が機能不全を起こしたファーガスでカトリーヌはセイロス教会を頼った。だが結果は芳しくない。関わった誰もが納得しない状態に陥った。しかし、あの場合彼女はどうすべきだったのだろう。何にしてもアッシュの義兄であるクリストフは処刑され、カサンドラは母国を追われ、数年の時をかけてロナート卿は破綻し───教会が直轄領を増やす形で幕は引かれた。ようやくその一件が収まったと思ったら今節も後味の悪い件に関われ、と教会から命じられている。
クロードは東方の着香茶に添えられた干し無花果を口にした。フォドラで手に入る干し無花果はパルミラのものと比べるとかなり小ぶりなので塊のまま食べられる。だがローレンツは必ず、食卓用の小刀で薄切りにして一枚ずつ指でつまんで口にしていた。薄い唇が濃い橙色の薄片を食むたびに白い喉が微かに動く様子が見える。お互いにあとは眠るだけ、という気楽な格好をしているからだ。
「ローレンツならどうする?俺相手だと容赦はしなさそうだからフェルディナントを告発するとしてさ…」
「僕なら告発はしない」
意外なことに即答だった。
「庇うのか?」
「違う。事情が許せば直接、決着をつけてその後は僕が裁きを受ける。ただし教会ではなく同盟の裁判所で、だ。何もかもが僕の責任になるから僕が恨むのは自分だけだし、他人が恨むのも僕だけだろう」
更に意外なことに、そう語るローレンツの表情はクロードが故郷に残してきた母ティアナが見せるものとよく似ていた。自分も母の血を受け継いでいるのにあの顔はできない。パルミラの王宮にいた頃は常に感じていた渇きが蘇り、クロードはローレンツが淹れてくれた着香茶を飲み干した。
母ティアナもローレンツも肌が白く平然と悲壮感が溢れることを言う。二人とも生まれた時からレスター諸侯同盟の名家の一員として育てられ、諦めれば諦める程褒められてきた。ローレンツのような個性の塊ですら個が集団にすり潰されてしまう。クロードの母はそれを嫌ってパルミラへ渡り二度とフォドラの地を踏むつもりはない、と断言している。なんとなく母の気持ちがわかったような気がした。
「すごい覚悟だ。ローレンツは思い切りがいいよな」
「君から褒められるためにそう考えていたわけではないぞ」
クロードに褒められたのが意外だったのか、ローレンツの視線は再びクロードの元に戻った。つい先ほどまで、瞳に映るものを全く見ていないような表情を浮かべていたことが信じられない。眉間に皺を寄せ口を一文字に結んでいるが、それでも今は生き生きとしている。そしてクロードの茶器が空になっていると気づいたローレンツはお代わりを淹れてくれた。
先日、彼と親しげに語るマリアンヌを見て沸き上がったのは負の感情だった、とクロードは認めねばならない。眉間にしわを寄せていたローレンツの白い手やくるくる変わる豊かな表情をずっと見ていたいのに、今晩はもうこれを飲み干したらおしまいだ。だが話し続けると喉が渇くし、美味しいので口をつけるとあっという間に器を空にしてしまう。
「なんでだよ。素直に褒められてくれよ、ローレンツ」
「思ってもいないことを言わないでくれたまえ。君もどうせカトリーヌさんのように僕が囚われている、と言いたいのだろう?自由ではない、と」
先ほどの無遠慮な表情とは打って変わって白い頬を染め、綺麗な紫色の瞳を伏せて自身を恥じるローレンツを見たクロードは今までカトリーヌと似たような揶揄い方をしていたにも関わらず、彼女の発言に対して憤りを感じていた───意外なことに。
それは違う、真の名を名乗れない根無し草の妬みだからお前はそのままで良いのだ、と言ってやりたい。だが、クロードもカトリーヌと同じだ。フォドラでは真の名を名乗っていないので、クロードはローレンツにそう言ってやる資格がない。
「俺の言ってないことで勝手に傷つくのはやめてくれないか?」
代わりに口から出たのはこんなどうしようもない言葉だった。一度、口から出た言葉は撤回も出来ないというのに。畳む
アビスの件が完全に片付いていないのにそれでも時は過ぎ行き、事件は起きる。ゴーティエ家から廃嫡されたシルヴァンの兄、マイクランがコナン塔に立て篭っている件でセイロス教会からクロードたち金鹿の学級への協力要請があった。青獅子の学級は二節連続で身内から叛乱者を出している。今節の課題について話し合うためクロードはローレンツの部屋を訪れていた。もう慣れたものでクロードは自室のように寛いでいる。
「俺たちというより天帝の剣を持つ先生への協力要請だよな」
違いない、とでも言うようにローレンツは頷き、さらさらと真っ直ぐな紫の髪が揺れた。
「テュルソスの杖は父上の元にあるし、フェイルノートもデアドラに置いてあるのだろう?他の学級でもみな事情は変わらない筈だ」
アイギスの盾、アイムール、アラドヴァル、打ち砕くもの、フライクーゲル、ルーンはそれぞれの領地に大切に保管されている。それだけにゴーティエ家の件は皆に衝撃を与えた。皆、スレンとの国境を守り続けたシルヴァンの父親が無能とは思っていない。厳重な警備を掻い潜ったマイクランの、悪い意味での有能さと紋章がないのに破裂の槍をその手に握った度胸に驚いたのだ。紋章さえその身に宿していれば身を持ち崩すこともなく立派な跡取りになれた可能性がある。そこまできちんと分かっているからこそ、気の毒なシルヴァンは気丈に振舞っていた。
「持ち出された破裂の槍に対抗するには英雄の遺産が必要だ。雷霆を持つカトリーヌさんがまた協力してくれるのかと思ったが、当てが外れたな」
クロードたちの担任教師は天帝の剣を操るが、まだ扱いに慣れていない。南方教会を失い、西方教会には反旗を翻されセイロス騎士団も余裕がないのだろう。そうでなければ単なる学生にこんな依頼が来る筈もない。
「カトリーヌさんは西方教会討伐に向かったそうだな。鉢合わせさせるわけにいかなかったのだろう。クロード、君はあの時近くに居たかね?」
ローレンツはそう言うとクロードのために選んだ東方の着香茶に口を付けた。彼の部屋はきちんと整理整頓されていて棚の上は紅茶の専門店のようになっている。以前はクロード好みの茶葉やお茶請けなどなかったが今はきちんと用意されていた。
「聞こえたよ」
この地で偽名を名乗るクロードはロナート卿の絶叫を当分忘れられそうにない。真の名を隠したことで得た力は、その名を明かされてしまえば春の雪のように溶けて消え失せる。ローレンツは立ち上がると本棚から貴族名鑑を手に取り、ファーガス王国の名家であるカロン家の項をクロードに見せてくれた。彼女の真の名を口に出すなと言わんばかりに白魚のような指が薄い唇の前に立てられる。クロードは黙ってカロン家の項を読み終えると名鑑を閉じて机の上に置いた。情報を整理したくて右手で目元を覆う。瞼に浮かぶ文字列にため息しか出せない。
彼女もマイクランと同じく家宝である英雄の遺産を実家から持ち出してファーガスの司直の手から逃亡している。民に危害を加えないカトリーヌを彼と並べるわけにはいかないが、紋章の有無で行動や結果に違いが生じてしまう。
「彼女が名前を変えて教会で生きていたからロナート卿がすがった嘘に真実味を与えてしまったのだろう」
ダスカーの悲劇によって司法制度が機能不全を起こしたファーガスでカトリーヌはセイロス教会を頼った。だが結果は芳しくない。関わった誰もが納得しない状態に陥った。しかし、あの場合彼女はどうすべきだったのだろう。何にしてもアッシュの義兄であるクリストフは処刑され、カサンドラは母国を追われ、数年の時をかけてロナート卿は破綻し───教会が直轄領を増やす形で幕は引かれた。ようやくその一件が収まったと思ったら今節も後味の悪い件に関われ、と教会から命じられている。
クロードは東方の着香茶に添えられた干し無花果を口にした。フォドラで手に入る干し無花果はパルミラのものと比べるとかなり小ぶりなので塊のまま食べられる。だがローレンツは必ず、食卓用の小刀で薄切りにして一枚ずつ指でつまんで口にしていた。薄い唇が濃い橙色の薄片を食むたびに白い喉が微かに動く様子が見える。お互いにあとは眠るだけ、という気楽な格好をしているからだ。
「ローレンツならどうする?俺相手だと容赦はしなさそうだからフェルディナントを告発するとしてさ…」
「僕なら告発はしない」
意外なことに即答だった。
「庇うのか?」
「違う。事情が許せば直接、決着をつけてその後は僕が裁きを受ける。ただし教会ではなく同盟の裁判所で、だ。何もかもが僕の責任になるから僕が恨むのは自分だけだし、他人が恨むのも僕だけだろう」
更に意外なことに、そう語るローレンツの表情はクロードが故郷に残してきた母ティアナが見せるものとよく似ていた。自分も母の血を受け継いでいるのにあの顔はできない。パルミラの王宮にいた頃は常に感じていた渇きが蘇り、クロードはローレンツが淹れてくれた着香茶を飲み干した。
母ティアナもローレンツも肌が白く平然と悲壮感が溢れることを言う。二人とも生まれた時からレスター諸侯同盟の名家の一員として育てられ、諦めれば諦める程褒められてきた。ローレンツのような個性の塊ですら個が集団にすり潰されてしまう。クロードの母はそれを嫌ってパルミラへ渡り二度とフォドラの地を踏むつもりはない、と断言している。なんとなく母の気持ちがわかったような気がした。
「すごい覚悟だ。ローレンツは思い切りがいいよな」
「君から褒められるためにそう考えていたわけではないぞ」
クロードに褒められたのが意外だったのか、ローレンツの視線は再びクロードの元に戻った。つい先ほどまで、瞳に映るものを全く見ていないような表情を浮かべていたことが信じられない。眉間に皺を寄せ口を一文字に結んでいるが、それでも今は生き生きとしている。そしてクロードの茶器が空になっていると気づいたローレンツはお代わりを淹れてくれた。
先日、彼と親しげに語るマリアンヌを見て沸き上がったのは負の感情だった、とクロードは認めねばならない。眉間にしわを寄せていたローレンツの白い手やくるくる変わる豊かな表情をずっと見ていたいのに、今晩はもうこれを飲み干したらおしまいだ。だが話し続けると喉が渇くし、美味しいので口をつけるとあっという間に器を空にしてしまう。
「なんでだよ。素直に褒められてくれよ、ローレンツ」
「思ってもいないことを言わないでくれたまえ。君もどうせカトリーヌさんのように僕が囚われている、と言いたいのだろう?自由ではない、と」
先ほどの無遠慮な表情とは打って変わって白い頬を染め、綺麗な紫色の瞳を伏せて自身を恥じるローレンツを見たクロードは今までカトリーヌと似たような揶揄い方をしていたにも関わらず、彼女の発言に対して憤りを感じていた───意外なことに。
それは違う、真の名を名乗れない根無し草の妬みだからお前はそのままで良いのだ、と言ってやりたい。だが、クロードもカトリーヌと同じだ。フォドラでは真の名を名乗っていないので、クロードはローレンツにそう言ってやる資格がない。
「俺の言ってないことで勝手に傷つくのはやめてくれないか?」
代わりに口から出たのはこんなどうしようもない言葉だった。一度、口から出た言葉は撤回も出来ないというのに。畳む
「さかしま」8.#クロロレ #さかしま #完売本 #オメガバース
大司教補佐セテスの妹フレンは不思議な少女だ。浮世離れしているだけなら育ちが良いだけだが、時々老婆めいたこともいう。ローレンツが見るにどうやらクロードは彼女に惹かれているようだ。血を狙われた彼女は安全のため、金鹿の学級に編入してきたからちょうど良いのだろう。クロードはいつも彼女を熱心に見つめている。
前節、ローレンツはクロードの言葉を曲解して言いがかりをつけてしまった。せっかく褒めてくれたのに素直に受け取れなかったのは見下されたような気がしたからだ。あの時まで全く気付かなかったが、クロードは常に必死で顔面に笑顔を貼り付けていたらしい。しかしローレンツの物言いのせいでその笑顔が剥がれ落ち、内側にいる常に不機嫌な子供が見えてしまっていた。
これまで通りなら炎帝や死神騎士、それに突然現れたモニカと言う昨年度の学生について考えをまとめたい、と言ってクロードがローレンツの部屋を何度も訪れていただろう。ところが今節はまだ一度も来ないので茶葉がたくさん余っている。
だが今晩は抑制剤のおかげでいつもは軽い生理がやたらと重く、早く休みたいから丁度良い。山中にあるガルグ=マクは秋の訪れが平地よりも早く、夜はかなり冷える。今までは薄がけで眠っていたが毛布も出すべきかもしれない。ローレンツは将来、子を産むのだから腰回りを冷やしてはならないと周りから言い聞かせられている。
次節には鷲獅子戦があるため、父エルヴィンからも勝利を期待する手紙が来ていた。クロードと自分がぎくしゃくしたままでは上手くいくものも上手くいかないだろう。早く謝らなくてはならないが、意中の少女を同じ教室で熱心に見つめるクロードに無礼を詫びるのは何故か癪に触った。いや、何故なのかは分かっている。ただこの哀れな感情に名前をつけたところで死産になると確定している。だから絶対に名前はつけない。ローレンツが探しているのはグロスタールの紋章を継ぐ嫡子を共に作り、共に育ててくれるアルファの女性だ。
「若様、具合が悪い時に考えごとをしても上手くいきませんよ」
幼い頃のローレンツには身体が弱い実母の代わりに面倒を見てくれたねえやがいた。美しく優しい娘で色々と断りきれず、悩んだ末に自ら命を絶ってしまった。具合が悪い時に出した結論通りの行動をしたのだろう。皮肉な話だがその数年後、ローレンツもねえやと同じオメガであると判明した。検査後、すぐに両親が男性オメガの教育係をさがしてきたのは幼い息子が失ったねえやのことを思い出したから、かもしれない。
出産させられる側は基本、心や体の調子がうつろいやすく当てにならない、と男性たちから詰られる。だが彼らの気まぐれで聖母だ、と祀り上げられる時もある。社会からの扱いが不安定な者には宝石のように輝き固く、揺らがぬ何かが必要になるのだ。
棚から毛布を取り出そうと手を伸ばした時、血の巡りに異常をきたしているのがわかった。寒気を感じていた筈なのに痛みのせいで身体は汗だくで指先が痺れている。拙い、とローレンツが思った時にはもう床に倒れていた。
次にローレンツが瞼を上げた時には床に横たわっていて、寝巻きの上に外套を羽織ったマリアンヌがレストとライブをかけてくれていた。隣にはやはり同じく寝巻きの上に外套を羽織ったヒルダがいる。看病のためとは言えマリアンヌだけで深夜、男子学生の部屋に入る訳にはいかないからヒルダが親切についてきてくれたのだろう。第二性を明かさない限りは身なりでの性別が行動の基準となる。
「どうしてここに…?」
「クロードくんが来てくれって」
「クロードさんは私たちを呼んだ後でマヌエラ先生を呼びに行きました。元気になったらお礼をしないといけませんね」
クロードに言いがかりをつけてしまって以来、ローレンツが落ち込んでいたのを知っているマリアンヌがそっと囁いた。足音がふたつ聞こえてきたのでどうやらクロードがマヌエラを連れて到着したらしい。
「先生が酒を飲んでなかったのは奇跡だぞローレンツ!」
「ちょっとクロード!あたくしのこと、そんな風に思っていたの?!まあ良いわ。ローレンツ、寝台に自力で戻れる?もし無理ならクロードと二人で上に乗せるわよ」
ローレンツがのろのろと寝台に身体を乗せて長い手足を投げ出したのを見て皆、安堵のため息をついた。
「皆、部屋に戻ってちょうだい。診察するから患者と二人きりにして!」
マヌエラが手を叩いてそう言ったのをきっかけにクロードもヒルダもマリアンヌもお大事に、と言いながら自分の部屋へ帰っていった。明朝には三人にお礼を言えたら良いのだがどうなるだろうか。マヌエラは触診する、と声をかけ聴診器で身体のあちこちを触って回った。
「回復魔法がよく効いていることから言っても抑制剤への拒否反応ではないわ」
マヌエラは真っ先にローレンツが知りたかったことについて教えてくれた。ローレンツが安堵してため息をつく姿を見てにっこりと微笑む。部屋を物色し水差しに残っていた水を杯に注いだ。
「ただし緊張や心労が祟って体に影響が出ているわ。完璧に体調を管理してもオメガがこんな風に集団生活を送っているとどうしても、ね」
「先生、僕は第二性がオメガだと分かってからアルファが怖いのです。アルファを狂わせるのも怖いしアルファに狂わされるのも怖い」
そう語るローレンツは毛布をかぶって胎児のように体を丸めている。患者の言葉を聞いたマヌエラはローレンツの手が届くところに水を置くと傍に座り腕を組んだ。深酒さえしなければ彼女は本当に当てになる大人なのだ。
「そうね、自分の行動を制御出来ないのは怖いことよ。認めるわ。でもそれはまだ起きていないの」
「でも僕は気付かぬうちに失敗してしまうかもしれない。苦情を言われたこともある」
「子供のうちに大人が見守っている場で失敗なさい。いくらでも元通りになるよう手伝ってあげるから。さあこれ以上おしゃべりして眠らない気ならサイレスをかけるわよ」
マヌエラは冗談めかしていたが本当に休んでおいた方が良さそうだった。瞼がやたらと重く感じる。ローレンツは身体を少し起こし、無言で診察鞄に聴診器をしまうマヌエラを眺めながら水を飲んだ。もう会えないねえやにも、マヌエラや教育係のような人がいてくれたら、と思う。
ローレンツが無言のまま横たわって瞼を閉じ、再び瞼を開けた時にはもう翌朝になっていた。枕元には立ち上がらずとも飲めるように汲まれたおかわり用の水、そしてマヌエラからの伝言が記された蝋引きの書字板が置いてあっる。室温で冷え切ったお代わり用の水を口にしながら読んでみるとまず、今日は講義を休んで安静にせよ、と書いてある。次に刺激物にあたるもの一覧があり、目眩や立ちくらみが治るまではそれを摂取するなと書いてあった。ローレンツの所有する殆どの茶葉が該当する。
今日は水と白湯とカミツレ茶しか飲めない。飲み干した水の冷たさに季節の移り変わりを感じた。節をまたいでわだかまりを持ち越すなど馬鹿らしい。もう少し具合が良くなったら、クロードを自分から招いてカミツレの花茶を淹れてやろう。ローレンツがそう決めたと同時に扉の外から朝食を持ってきたぞ、というクロードの声がして───礼を言うより先にローレンツの腹の虫の方が先に鳴いた。畳む
大司教補佐セテスの妹フレンは不思議な少女だ。浮世離れしているだけなら育ちが良いだけだが、時々老婆めいたこともいう。ローレンツが見るにどうやらクロードは彼女に惹かれているようだ。血を狙われた彼女は安全のため、金鹿の学級に編入してきたからちょうど良いのだろう。クロードはいつも彼女を熱心に見つめている。
前節、ローレンツはクロードの言葉を曲解して言いがかりをつけてしまった。せっかく褒めてくれたのに素直に受け取れなかったのは見下されたような気がしたからだ。あの時まで全く気付かなかったが、クロードは常に必死で顔面に笑顔を貼り付けていたらしい。しかしローレンツの物言いのせいでその笑顔が剥がれ落ち、内側にいる常に不機嫌な子供が見えてしまっていた。
これまで通りなら炎帝や死神騎士、それに突然現れたモニカと言う昨年度の学生について考えをまとめたい、と言ってクロードがローレンツの部屋を何度も訪れていただろう。ところが今節はまだ一度も来ないので茶葉がたくさん余っている。
だが今晩は抑制剤のおかげでいつもは軽い生理がやたらと重く、早く休みたいから丁度良い。山中にあるガルグ=マクは秋の訪れが平地よりも早く、夜はかなり冷える。今までは薄がけで眠っていたが毛布も出すべきかもしれない。ローレンツは将来、子を産むのだから腰回りを冷やしてはならないと周りから言い聞かせられている。
次節には鷲獅子戦があるため、父エルヴィンからも勝利を期待する手紙が来ていた。クロードと自分がぎくしゃくしたままでは上手くいくものも上手くいかないだろう。早く謝らなくてはならないが、意中の少女を同じ教室で熱心に見つめるクロードに無礼を詫びるのは何故か癪に触った。いや、何故なのかは分かっている。ただこの哀れな感情に名前をつけたところで死産になると確定している。だから絶対に名前はつけない。ローレンツが探しているのはグロスタールの紋章を継ぐ嫡子を共に作り、共に育ててくれるアルファの女性だ。
「若様、具合が悪い時に考えごとをしても上手くいきませんよ」
幼い頃のローレンツには身体が弱い実母の代わりに面倒を見てくれたねえやがいた。美しく優しい娘で色々と断りきれず、悩んだ末に自ら命を絶ってしまった。具合が悪い時に出した結論通りの行動をしたのだろう。皮肉な話だがその数年後、ローレンツもねえやと同じオメガであると判明した。検査後、すぐに両親が男性オメガの教育係をさがしてきたのは幼い息子が失ったねえやのことを思い出したから、かもしれない。
出産させられる側は基本、心や体の調子がうつろいやすく当てにならない、と男性たちから詰られる。だが彼らの気まぐれで聖母だ、と祀り上げられる時もある。社会からの扱いが不安定な者には宝石のように輝き固く、揺らがぬ何かが必要になるのだ。
棚から毛布を取り出そうと手を伸ばした時、血の巡りに異常をきたしているのがわかった。寒気を感じていた筈なのに痛みのせいで身体は汗だくで指先が痺れている。拙い、とローレンツが思った時にはもう床に倒れていた。
次にローレンツが瞼を上げた時には床に横たわっていて、寝巻きの上に外套を羽織ったマリアンヌがレストとライブをかけてくれていた。隣にはやはり同じく寝巻きの上に外套を羽織ったヒルダがいる。看病のためとは言えマリアンヌだけで深夜、男子学生の部屋に入る訳にはいかないからヒルダが親切についてきてくれたのだろう。第二性を明かさない限りは身なりでの性別が行動の基準となる。
「どうしてここに…?」
「クロードくんが来てくれって」
「クロードさんは私たちを呼んだ後でマヌエラ先生を呼びに行きました。元気になったらお礼をしないといけませんね」
クロードに言いがかりをつけてしまって以来、ローレンツが落ち込んでいたのを知っているマリアンヌがそっと囁いた。足音がふたつ聞こえてきたのでどうやらクロードがマヌエラを連れて到着したらしい。
「先生が酒を飲んでなかったのは奇跡だぞローレンツ!」
「ちょっとクロード!あたくしのこと、そんな風に思っていたの?!まあ良いわ。ローレンツ、寝台に自力で戻れる?もし無理ならクロードと二人で上に乗せるわよ」
ローレンツがのろのろと寝台に身体を乗せて長い手足を投げ出したのを見て皆、安堵のため息をついた。
「皆、部屋に戻ってちょうだい。診察するから患者と二人きりにして!」
マヌエラが手を叩いてそう言ったのをきっかけにクロードもヒルダもマリアンヌもお大事に、と言いながら自分の部屋へ帰っていった。明朝には三人にお礼を言えたら良いのだがどうなるだろうか。マヌエラは触診する、と声をかけ聴診器で身体のあちこちを触って回った。
「回復魔法がよく効いていることから言っても抑制剤への拒否反応ではないわ」
マヌエラは真っ先にローレンツが知りたかったことについて教えてくれた。ローレンツが安堵してため息をつく姿を見てにっこりと微笑む。部屋を物色し水差しに残っていた水を杯に注いだ。
「ただし緊張や心労が祟って体に影響が出ているわ。完璧に体調を管理してもオメガがこんな風に集団生活を送っているとどうしても、ね」
「先生、僕は第二性がオメガだと分かってからアルファが怖いのです。アルファを狂わせるのも怖いしアルファに狂わされるのも怖い」
そう語るローレンツは毛布をかぶって胎児のように体を丸めている。患者の言葉を聞いたマヌエラはローレンツの手が届くところに水を置くと傍に座り腕を組んだ。深酒さえしなければ彼女は本当に当てになる大人なのだ。
「そうね、自分の行動を制御出来ないのは怖いことよ。認めるわ。でもそれはまだ起きていないの」
「でも僕は気付かぬうちに失敗してしまうかもしれない。苦情を言われたこともある」
「子供のうちに大人が見守っている場で失敗なさい。いくらでも元通りになるよう手伝ってあげるから。さあこれ以上おしゃべりして眠らない気ならサイレスをかけるわよ」
マヌエラは冗談めかしていたが本当に休んでおいた方が良さそうだった。瞼がやたらと重く感じる。ローレンツは身体を少し起こし、無言で診察鞄に聴診器をしまうマヌエラを眺めながら水を飲んだ。もう会えないねえやにも、マヌエラや教育係のような人がいてくれたら、と思う。
ローレンツが無言のまま横たわって瞼を閉じ、再び瞼を開けた時にはもう翌朝になっていた。枕元には立ち上がらずとも飲めるように汲まれたおかわり用の水、そしてマヌエラからの伝言が記された蝋引きの書字板が置いてあっる。室温で冷え切ったお代わり用の水を口にしながら読んでみるとまず、今日は講義を休んで安静にせよ、と書いてある。次に刺激物にあたるもの一覧があり、目眩や立ちくらみが治るまではそれを摂取するなと書いてあった。ローレンツの所有する殆どの茶葉が該当する。
今日は水と白湯とカミツレ茶しか飲めない。飲み干した水の冷たさに季節の移り変わりを感じた。節をまたいでわだかまりを持ち越すなど馬鹿らしい。もう少し具合が良くなったら、クロードを自分から招いてカミツレの花茶を淹れてやろう。ローレンツがそう決めたと同時に扉の外から朝食を持ってきたぞ、というクロードの声がして───礼を言うより先にローレンツの腹の虫の方が先に鳴いた。畳む
「さかしま」9.#クロロレ #さかしま #完売本 #オメガバース
鷲獅子戦前にローレンツが体調を崩したが、それをきっかけにクロードは彼と和解することが出来た。あの晩の判断は大当たりで当時の自分を褒めてやりたい。真っ先にマヌエラを呼ばねばと思ったが、酒に酔った彼女が寮に来られない可能性に気づいて回復魔法が使えるマリアンヌへ先に声をかけたのは大正解だった。
彼女はあの時、自分一人ではローレンツの部屋に入れないからヒルダも呼んで欲しいと言ったのだ。婚約を内定させようとしているならば、後付けでそれ以前の振る舞いは修正される。だが彼女は他人からの誤解を恐れた。おかげでクロードは二人の仲を見誤っていたと分かり、それ以来何となく気分が上向いている。だが何故なのかは絶対言語化しなかった。それを言葉で明確にしてしまったら、クロードは野望どころではなくなってしまう。
クロードの目の前ではすっかり元気になったローレンツが先程自分で淹れたお茶を飲んでいる。体調が戻るまでの間カミツレの花茶以外飲めなかった彼にクロードは今夜は自分の好みではなく、彼好みの物を淹れてほしいと頼んでいた。クロードはパルミラ出身でフォドラは比較的温暖なデアドラのことしか知らない。ローレンツが飲みたがる物、の方が冷えた身体が温まめてくれる筈だ。
「秋の山中は熱いお茶なしには過ごせないな」
「そうだな。だが今晩出したものは完全に僕好みだから君の口に合うかどうかは知らないぞ」
趣味に走ってしまったことをローレンツが詫びた。選んだ物と照れのせいか頬が少し赤く染まっている。今晩、彼が淹れた、というか作ったのは紅茶に蒸留酒と牛乳を入れて作るスピリッツティーと呼ばれるものだ。一口含むと鼻腔に紅茶と蒸留酒の香りが広がる。少し牛乳が入れてあるので胃が荒れることもない。寒い晩にはありがたい飲み物だった。
「いや美味いなこれ。俺が作ったら欲望に負けて蒸留酒を沢山入れて紅茶の匂いは完全に飛ばすだろうな。流石だよ」
「クロード……僕は紅茶を淹れると言っただろう?」
呆れ顔のローレンツが自分で淹れたスピリッツティーに口をつけた。薄い唇が茶器に触れ白い喉が微かに動く。本人も味に納得したようで小さく頷いた。
「はは、そうだったな。ところでこれを見てくれるか?」
クロードはグロンダーズ平原の地図を広げた。セイロス教会が発行している地図には、意図したものかどうかは置いておくとして───とにかく抜けがある。クロードは戦記や戦術書に出てくる地形描写を参考にして彼なりの地図を作ってみた。
「責任重大だな。この地図が間違っていたら僕たちは総崩れだぞ」
「カスパルが協力してくれたら良かったんだが、流石に口止めされてたよ。まあ黒鷲の学級が有利なのは毎年変わらんか」
グロンダーズ平原はアドラステア帝国内のベルグリーズ領にある。カスパルの父は軍務卿である前にベルグリーズ領の領主なので、領内の古戦場であり、帝国を支える穀倉地帯でもあるグロンダーズ平原へ息子を連れていったこともあるだろう。クロードはカスパルを捕まえて地図を見てもらい、答え合わせをしようとしたがヒューベルトに見つかってしまった。正確な地図は軍事情報でもある。ヒューベルトは本当にうんざりした顔でカスパルに主君へ勝利を捧げるつもりはないのか、と問うていた。
「だが何もしないよりずっとましだ。この線はなんだ?」
クロードの描いた地図の上で、視線を忙しく右へ左へと走らせていたローレンツが問うた。
「平原といっても真っ平らじゃあない。小高い丘の描写が出てくるんだ。少しでも高いところに陣をはった方が有利だから目印をつけておいた」
駆け降りるより駆け上がる方が大変なので上を取られると不利になってしまう。なるほど、とつぶやいてローレンツは再び地図に視線を落とした。白い指がクロードの描いた線に沿って滑っていく。いつかは誰かの肌の上を滑っていくのであろう指先で光る爪はきちんとやすりで整えられていた。彼は色が白いのでクロードの故郷の人々のように指甲花で、指先や手の甲に模様を描いたらさぞ映えるだろう。成人した彼が気軽にパルミラに来られるような、そんな世の中にするのがクロードの野望だ。そのためには完璧な学生生活など必要ないのだが、ヒューベルトはエーデルガルトに完璧な学生生活を送ってもらいたいらしい。
「確かに高地は有利だから速やかに奪取したいな。この地図は悪天候の際に最も効果を発揮するだろう。天気が良ければどこが丘なのかは見ればわかってしまう」
紫水晶のような瞳がクロードが地図上に描いた線を丹念に追っている。
「敢えて奪取させてやるっていうのはどうだ?俺たちを出し抜けたと思わせてそこに火矢を放ったり、な……」
クロードは自分たちの掘った落とし穴の上で敵がしてやったり、と思うように仕向けたい。だが鷲獅子戦は学生同士の模擬戦、演習にすぎない。学生たちに怪我をさせないで帰すのが士官学校の職員たちの務めだ。
「やりすぎだぞ。クロード」
ローレンツはいつも表情が豊かなのでクロードの物騒な意見に対して、眉間に皺を寄せて眉を吊り上げているかと思った。しかし草木も揺るがぬような穏やかな顔をしている。いつもそんな顔をしていたらいいのに滅多に見せてくれない。
「傭兵上がりの先生ならどう返すかな」
「試してみたらどうだ。人を選ばず露悪的なことを言ってまわると皆から警戒されて上手くいくものもいかなくなる」
逆に穏やかでないのはクロードの方だった。これならローレンツが感情の赴くまま眉間に皺を寄せて怒ってくれた方がいい。それなら彼を揶揄って上の立場になれたのに、こんな風に穏やかにたしなめられてはそれも出来ない。酒にはそこそこ強い方なのにクロードは頬が熱くなった。
「失言、かな…?」
「いや、本当に興味があるなら先生に意見を聞いてみると良い。ただ、そんな悪辣なことをやるなら二度と反抗出来ないくらいに相手をへし折らないと恨みを買うだけだ」
ローレンツはその覚悟はあるのか?とクロードに問うとお代わり用のお湯を取りに席を立った。その所作は幼少期から厳しく躾けられてきたもの特有な所作で、殆ど音がしない。あの晩、ローレンツがこの部屋で倒れたとクロードが気付いたのは僥倖だった。そして彼は彼らしさゆえに助かった、とも言える。
「お前、声は大きいのに全然物音は立てないな」
「急にどうした」
「いや、物音に紛れて酒の栓を開けて勝手に飲みたくても静かだから無理だな、って」
お代わりを注ぎながらローレンツが呆れたように笑った。
「君と言う男は本当に馬鹿だな。勝手に飲もうとする前に頼んでみたら良いではないか」
「はは、じゃあ指二本分くれよ」
「後日、指一本分だけ飲ませてやろう」
そう言いながらも先程は小匙に一杯しか入れなかった蒸留酒を今度は二杯入れてくれた。拒絶されずに育ってきたローレンツが本当に眩しく感じる。
「俺もお返しにとっておきの酒を近々飲ませてやるよ」
「デアドラから届くのか?」
「いや、勝利の美酒だよ。鷲獅子戦の、な」
それは楽しみだと言って微笑むローレンツの顔を見て、クロードは自分の進む道がより険しくなったことを自覚した。リーガン家に入るにあたって母ティアナから祖父へ出された条件がある。いずれパルミラに戻る子なのだから絶対にフォドラで結婚させないで欲しい、と言われていた。畳む
鷲獅子戦前にローレンツが体調を崩したが、それをきっかけにクロードは彼と和解することが出来た。あの晩の判断は大当たりで当時の自分を褒めてやりたい。真っ先にマヌエラを呼ばねばと思ったが、酒に酔った彼女が寮に来られない可能性に気づいて回復魔法が使えるマリアンヌへ先に声をかけたのは大正解だった。
彼女はあの時、自分一人ではローレンツの部屋に入れないからヒルダも呼んで欲しいと言ったのだ。婚約を内定させようとしているならば、後付けでそれ以前の振る舞いは修正される。だが彼女は他人からの誤解を恐れた。おかげでクロードは二人の仲を見誤っていたと分かり、それ以来何となく気分が上向いている。だが何故なのかは絶対言語化しなかった。それを言葉で明確にしてしまったら、クロードは野望どころではなくなってしまう。
クロードの目の前ではすっかり元気になったローレンツが先程自分で淹れたお茶を飲んでいる。体調が戻るまでの間カミツレの花茶以外飲めなかった彼にクロードは今夜は自分の好みではなく、彼好みの物を淹れてほしいと頼んでいた。クロードはパルミラ出身でフォドラは比較的温暖なデアドラのことしか知らない。ローレンツが飲みたがる物、の方が冷えた身体が温まめてくれる筈だ。
「秋の山中は熱いお茶なしには過ごせないな」
「そうだな。だが今晩出したものは完全に僕好みだから君の口に合うかどうかは知らないぞ」
趣味に走ってしまったことをローレンツが詫びた。選んだ物と照れのせいか頬が少し赤く染まっている。今晩、彼が淹れた、というか作ったのは紅茶に蒸留酒と牛乳を入れて作るスピリッツティーと呼ばれるものだ。一口含むと鼻腔に紅茶と蒸留酒の香りが広がる。少し牛乳が入れてあるので胃が荒れることもない。寒い晩にはありがたい飲み物だった。
「いや美味いなこれ。俺が作ったら欲望に負けて蒸留酒を沢山入れて紅茶の匂いは完全に飛ばすだろうな。流石だよ」
「クロード……僕は紅茶を淹れると言っただろう?」
呆れ顔のローレンツが自分で淹れたスピリッツティーに口をつけた。薄い唇が茶器に触れ白い喉が微かに動く。本人も味に納得したようで小さく頷いた。
「はは、そうだったな。ところでこれを見てくれるか?」
クロードはグロンダーズ平原の地図を広げた。セイロス教会が発行している地図には、意図したものかどうかは置いておくとして───とにかく抜けがある。クロードは戦記や戦術書に出てくる地形描写を参考にして彼なりの地図を作ってみた。
「責任重大だな。この地図が間違っていたら僕たちは総崩れだぞ」
「カスパルが協力してくれたら良かったんだが、流石に口止めされてたよ。まあ黒鷲の学級が有利なのは毎年変わらんか」
グロンダーズ平原はアドラステア帝国内のベルグリーズ領にある。カスパルの父は軍務卿である前にベルグリーズ領の領主なので、領内の古戦場であり、帝国を支える穀倉地帯でもあるグロンダーズ平原へ息子を連れていったこともあるだろう。クロードはカスパルを捕まえて地図を見てもらい、答え合わせをしようとしたがヒューベルトに見つかってしまった。正確な地図は軍事情報でもある。ヒューベルトは本当にうんざりした顔でカスパルに主君へ勝利を捧げるつもりはないのか、と問うていた。
「だが何もしないよりずっとましだ。この線はなんだ?」
クロードの描いた地図の上で、視線を忙しく右へ左へと走らせていたローレンツが問うた。
「平原といっても真っ平らじゃあない。小高い丘の描写が出てくるんだ。少しでも高いところに陣をはった方が有利だから目印をつけておいた」
駆け降りるより駆け上がる方が大変なので上を取られると不利になってしまう。なるほど、とつぶやいてローレンツは再び地図に視線を落とした。白い指がクロードの描いた線に沿って滑っていく。いつかは誰かの肌の上を滑っていくのであろう指先で光る爪はきちんとやすりで整えられていた。彼は色が白いのでクロードの故郷の人々のように指甲花で、指先や手の甲に模様を描いたらさぞ映えるだろう。成人した彼が気軽にパルミラに来られるような、そんな世の中にするのがクロードの野望だ。そのためには完璧な学生生活など必要ないのだが、ヒューベルトはエーデルガルトに完璧な学生生活を送ってもらいたいらしい。
「確かに高地は有利だから速やかに奪取したいな。この地図は悪天候の際に最も効果を発揮するだろう。天気が良ければどこが丘なのかは見ればわかってしまう」
紫水晶のような瞳がクロードが地図上に描いた線を丹念に追っている。
「敢えて奪取させてやるっていうのはどうだ?俺たちを出し抜けたと思わせてそこに火矢を放ったり、な……」
クロードは自分たちの掘った落とし穴の上で敵がしてやったり、と思うように仕向けたい。だが鷲獅子戦は学生同士の模擬戦、演習にすぎない。学生たちに怪我をさせないで帰すのが士官学校の職員たちの務めだ。
「やりすぎだぞ。クロード」
ローレンツはいつも表情が豊かなのでクロードの物騒な意見に対して、眉間に皺を寄せて眉を吊り上げているかと思った。しかし草木も揺るがぬような穏やかな顔をしている。いつもそんな顔をしていたらいいのに滅多に見せてくれない。
「傭兵上がりの先生ならどう返すかな」
「試してみたらどうだ。人を選ばず露悪的なことを言ってまわると皆から警戒されて上手くいくものもいかなくなる」
逆に穏やかでないのはクロードの方だった。これならローレンツが感情の赴くまま眉間に皺を寄せて怒ってくれた方がいい。それなら彼を揶揄って上の立場になれたのに、こんな風に穏やかにたしなめられてはそれも出来ない。酒にはそこそこ強い方なのにクロードは頬が熱くなった。
「失言、かな…?」
「いや、本当に興味があるなら先生に意見を聞いてみると良い。ただ、そんな悪辣なことをやるなら二度と反抗出来ないくらいに相手をへし折らないと恨みを買うだけだ」
ローレンツはその覚悟はあるのか?とクロードに問うとお代わり用のお湯を取りに席を立った。その所作は幼少期から厳しく躾けられてきたもの特有な所作で、殆ど音がしない。あの晩、ローレンツがこの部屋で倒れたとクロードが気付いたのは僥倖だった。そして彼は彼らしさゆえに助かった、とも言える。
「お前、声は大きいのに全然物音は立てないな」
「急にどうした」
「いや、物音に紛れて酒の栓を開けて勝手に飲みたくても静かだから無理だな、って」
お代わりを注ぎながらローレンツが呆れたように笑った。
「君と言う男は本当に馬鹿だな。勝手に飲もうとする前に頼んでみたら良いではないか」
「はは、じゃあ指二本分くれよ」
「後日、指一本分だけ飲ませてやろう」
そう言いながらも先程は小匙に一杯しか入れなかった蒸留酒を今度は二杯入れてくれた。拒絶されずに育ってきたローレンツが本当に眩しく感じる。
「俺もお返しにとっておきの酒を近々飲ませてやるよ」
「デアドラから届くのか?」
「いや、勝利の美酒だよ。鷲獅子戦の、な」
それは楽しみだと言って微笑むローレンツの顔を見て、クロードは自分の進む道がより険しくなったことを自覚した。リーガン家に入るにあたって母ティアナから祖父へ出された条件がある。いずれパルミラに戻る子なのだから絶対にフォドラで結婚させないで欲しい、と言われていた。畳む
「さかしま」10.#クロロレ #さかしま #完売本 #オメガバース
抑制された集団生活は魔道学院で体験済みのローレンツだが、士官学校での生活は波乱尽くしで調子が狂ってしまう。前節、鷲獅子戦の勝利後に頭から麦酒をかけられた。宴の後に皆でふざけながら風呂場で髪や身体を濯いだことが今や、昔見た夢のようにぼやけている。ローレンツの瞳に映る現実は地獄としか言いようがない。長閑な村だったのだ、と担任のベレトは言うが現在のルミール村は炎と呪いと恐怖と死に包まれていた。
呪いのせいで正気を失った村人が見境なく親しい隣人や家族を襲い、傷つけ殺そうとしている。学生たちはジェラルドから正気の村人の安全を確保せよ、と命じられた。魔獣も恐ろしかったが呪いで狂わされた人々も恐ろしい。介入がなければまともだったからだ。
目ざといクロードが見つけた怪しげな連中の排除と村人の救出を同時に行うため二手に分かれた。ヒルダがベレトの副官を務めている間、延焼を避けるためイグナーツが消火のためブリザーを放ち、正気を失って家族や隣人を殺そうとする村人をラファエルが死なない程度に殴って行動不能にする。その隙に襲われていた村人をレオニーが確保し、安全なところへ避難させていた。マリアンヌは村中を移動して弱っている村人や兵士に回復魔法をかけている。ローレンツは馬を駆り無事な村人がいないか辺りをくまなく探している最中、クロードからリシテアを連れてくるように頼まれた。
馬で彼女の元に駆けつけるとリシテアはちょうど得意の黒魔法で敵を仕留め終えたところだった。これほど巧みに魔法を操れるのは何故なのか、彼女が説明してくれたことはない。ローレンツが民家の柵に馬を横付けし、身体をずらして鞍の前に空間を作ると察したリシテアが柵によじ登りなんとか鞍に腰を下ろした。ローレンツは落馬しないように左腕で彼女を抱えて右手で手綱を取った。実家でこんな風に弟妹たちを乗せてやったことを思い出す。
「クロードがリシテアさんに確かめて欲しいことがあるそうなので奴の元までお送りしよう」
煙と血の匂いが充満する中で馬を駆り、物陰から様子を伺うクロードの元に戻ると悪いな、と言ってリシテアの手を取り馬から下ろした。
「あのトマシュさんらしき男と話している連中に見覚えはあるか?」
「あの装束は……コーデリア領をめちゃくちゃにした連中が身につけていたものとよく似て……います。本人達かどうかはこの距離では分かりませんが……」
「そうか。俺とローレンツがついてるから大丈夫だ」
ルミール村で何が行われたのか、金鹿の学級に所属する他の誰よりも深く把握出来たリシテアは顔を手で覆っている。クロードは感情を持て余し、震えているリシテアの肩を軽く叩いた。その拍子に涙の粒が感情を持て余した彼女の頬を伝っていく。
緑色の瞳が気がつかなかったことにしよう、と無言で提案してきたのでローレンツも無言で頷いた。リシテアはクロードから年下扱いされると揶揄うな、と言っていつもかなり激しく怒る。しかし今日ばかりは素直に礼を言った。
「ローレンツ、村人たちはどうなった?」
「助けられる限りは」
ただし落ち着いてから村を見回れば更に亡骸の数は増えるだろう。自らを万能で無謬と信じる者たちの所業は深く、皆の心の内に刻みつけられた。裕福さや才の有無、老若男女を問わず人間は誰でも侵されてはならない光り輝く宝石のような何か、を手にして生まれてくる。統治する者や武器を振るう者は決して、それを蔑ろにしてはならない。
「そうか。じゃあ答え合わせをしに行こうか。リシテアは援護を、ローレンツは前衛を頼む」
そして書庫でクロードとよく行きあったという修道士は彼の問いかけに最悪の形で答えた。
いつもなら疲れや興奮や嫌悪感を紛らわすため、多弁になりがちな金鹿の学級の面々も今日は口数が少ない。皆、何かを言おうとするのだが無意味な指示語しか口から出てこなかったので、諦めて黙り込んでいる。ベレトですら落ち込んでいたので仕方ないのかもしれない。
その晩は珍しくローレンツがクロードの部屋を訪れた。
「クロード、指二本までだぞ」
クロードは大きなため息をつくとお言葉に甘えることにするよ、と言って手にしていた本を閉じた。本の上下が逆さまで、彼の受けた衝撃の強さが窺い知れる。あえてそこは指摘せず、ローレンツは自室に戻り硝子の杯をふたつ棚から出した。卓の上には炒って砂糖がけにした胡桃とマリアンヌにブリザーで作ってもらった氷がある。扉を叩く音がしたので入るように言うとクロードがやってきた。
「ご招待どうも。流石に先生もしょげてたよ」
「水で割るか?」
「いや、せっかくだから氷だけで良い」
ローレンツが硝子の杯に氷を入れ、実家から持ってきた蒸留酒を指二本分だけ注ぐ。形だけの、気が乗らない乾杯をすると二人とも杯を煽った。気落ちしている時に呑んでも良い香りがして、それが分かるならまだ自分たちは大丈夫だと思った。
「実験だとさ。正直言ってお前はここまでやれないだろう、と煽られた気分だ」
「君は自分を奴等の同類だ、 とでも思っているのか?」
これは本当に深刻だと思いながらローレンツは胡桃を摘んだ。室温で少し砂糖が溶け、べたついたせいで塊になってしまっている。
「俺もフレンに興味があるから」
クロードの言葉を聞いたローレンツは何故か動悸がおかしくなった。日頃あまり呑まない強い酒と昼間の惨劇に酔っているせいかもしれない。黙っているとクロードは更に言葉を続けた。
「正確に言うとフレンの血だな。俺は伝承から探っていた。俺たちは十傑の子孫だがフレンは多分……確証があるわけでなし、これは口に出して良いものか迷うな」
「では言うべきではないし僕も聞かない。風説の出元になるのはごめんだ」
杯の中の氷が音を立てて割れた。
「そうだな。確実なことだけ話す。どんな人間でも血になんらかの情報が刻まれている。だから第二性の検査には血を使う」
嫡子の血がオメガの血と混ざり合った日にローレンツの両親は安堵のため息を吐いた。これでグロスタールの紋章は自分たちの目が黒いうちには絶えずに済む、と。紋章を持つ子がアルファかオメガであれば孫にもグロスタールの紋章が発現する。十傑の血を継ぐ家で最も重要視されるのは子供に紋章が発現することだ。平民の家庭であれば男性のオメガなど良くて悩みの種、蔑みの対象だが名家においては価値観が逆転する。
「そしてその辺の人間はフレンの血に耐えられない。そこを悪用したのが昼間の連中だ。もし村の生き残りの中に耐えた奴がいればそいつの血こそ修道院が調べなきゃならない」
「君はそのことを先生やセテス殿に伝えたのか?」
「マヌエラ先生あたりがとっくに気付いてる筈さ。実は優秀だし躊躇しないんだぜ、薬の原料になる怪しげな茸や蛇、虫も平気で扱う。そうか、原料にするとして……だが……」
クロードは氷が溶け、少し薄まった蒸留酒を流し込むと小首を傾げた。何か建設的なことでも思いついたのか、それまでどろりと濁っていた緑色の瞳に光が戻っている。
「酒、ご馳走様。ありがたいことに少し気が紛れたよ」
今すぐにでも自室に戻って何かを確かめたそうにしているクロードの姿を見られて、ローレンツの気も少し紛れたような気がした。畳む
抑制された集団生活は魔道学院で体験済みのローレンツだが、士官学校での生活は波乱尽くしで調子が狂ってしまう。前節、鷲獅子戦の勝利後に頭から麦酒をかけられた。宴の後に皆でふざけながら風呂場で髪や身体を濯いだことが今や、昔見た夢のようにぼやけている。ローレンツの瞳に映る現実は地獄としか言いようがない。長閑な村だったのだ、と担任のベレトは言うが現在のルミール村は炎と呪いと恐怖と死に包まれていた。
呪いのせいで正気を失った村人が見境なく親しい隣人や家族を襲い、傷つけ殺そうとしている。学生たちはジェラルドから正気の村人の安全を確保せよ、と命じられた。魔獣も恐ろしかったが呪いで狂わされた人々も恐ろしい。介入がなければまともだったからだ。
目ざといクロードが見つけた怪しげな連中の排除と村人の救出を同時に行うため二手に分かれた。ヒルダがベレトの副官を務めている間、延焼を避けるためイグナーツが消火のためブリザーを放ち、正気を失って家族や隣人を殺そうとする村人をラファエルが死なない程度に殴って行動不能にする。その隙に襲われていた村人をレオニーが確保し、安全なところへ避難させていた。マリアンヌは村中を移動して弱っている村人や兵士に回復魔法をかけている。ローレンツは馬を駆り無事な村人がいないか辺りをくまなく探している最中、クロードからリシテアを連れてくるように頼まれた。
馬で彼女の元に駆けつけるとリシテアはちょうど得意の黒魔法で敵を仕留め終えたところだった。これほど巧みに魔法を操れるのは何故なのか、彼女が説明してくれたことはない。ローレンツが民家の柵に馬を横付けし、身体をずらして鞍の前に空間を作ると察したリシテアが柵によじ登りなんとか鞍に腰を下ろした。ローレンツは落馬しないように左腕で彼女を抱えて右手で手綱を取った。実家でこんな風に弟妹たちを乗せてやったことを思い出す。
「クロードがリシテアさんに確かめて欲しいことがあるそうなので奴の元までお送りしよう」
煙と血の匂いが充満する中で馬を駆り、物陰から様子を伺うクロードの元に戻ると悪いな、と言ってリシテアの手を取り馬から下ろした。
「あのトマシュさんらしき男と話している連中に見覚えはあるか?」
「あの装束は……コーデリア領をめちゃくちゃにした連中が身につけていたものとよく似て……います。本人達かどうかはこの距離では分かりませんが……」
「そうか。俺とローレンツがついてるから大丈夫だ」
ルミール村で何が行われたのか、金鹿の学級に所属する他の誰よりも深く把握出来たリシテアは顔を手で覆っている。クロードは感情を持て余し、震えているリシテアの肩を軽く叩いた。その拍子に涙の粒が感情を持て余した彼女の頬を伝っていく。
緑色の瞳が気がつかなかったことにしよう、と無言で提案してきたのでローレンツも無言で頷いた。リシテアはクロードから年下扱いされると揶揄うな、と言っていつもかなり激しく怒る。しかし今日ばかりは素直に礼を言った。
「ローレンツ、村人たちはどうなった?」
「助けられる限りは」
ただし落ち着いてから村を見回れば更に亡骸の数は増えるだろう。自らを万能で無謬と信じる者たちの所業は深く、皆の心の内に刻みつけられた。裕福さや才の有無、老若男女を問わず人間は誰でも侵されてはならない光り輝く宝石のような何か、を手にして生まれてくる。統治する者や武器を振るう者は決して、それを蔑ろにしてはならない。
「そうか。じゃあ答え合わせをしに行こうか。リシテアは援護を、ローレンツは前衛を頼む」
そして書庫でクロードとよく行きあったという修道士は彼の問いかけに最悪の形で答えた。
いつもなら疲れや興奮や嫌悪感を紛らわすため、多弁になりがちな金鹿の学級の面々も今日は口数が少ない。皆、何かを言おうとするのだが無意味な指示語しか口から出てこなかったので、諦めて黙り込んでいる。ベレトですら落ち込んでいたので仕方ないのかもしれない。
その晩は珍しくローレンツがクロードの部屋を訪れた。
「クロード、指二本までだぞ」
クロードは大きなため息をつくとお言葉に甘えることにするよ、と言って手にしていた本を閉じた。本の上下が逆さまで、彼の受けた衝撃の強さが窺い知れる。あえてそこは指摘せず、ローレンツは自室に戻り硝子の杯をふたつ棚から出した。卓の上には炒って砂糖がけにした胡桃とマリアンヌにブリザーで作ってもらった氷がある。扉を叩く音がしたので入るように言うとクロードがやってきた。
「ご招待どうも。流石に先生もしょげてたよ」
「水で割るか?」
「いや、せっかくだから氷だけで良い」
ローレンツが硝子の杯に氷を入れ、実家から持ってきた蒸留酒を指二本分だけ注ぐ。形だけの、気が乗らない乾杯をすると二人とも杯を煽った。気落ちしている時に呑んでも良い香りがして、それが分かるならまだ自分たちは大丈夫だと思った。
「実験だとさ。正直言ってお前はここまでやれないだろう、と煽られた気分だ」
「君は自分を奴等の同類だ、 とでも思っているのか?」
これは本当に深刻だと思いながらローレンツは胡桃を摘んだ。室温で少し砂糖が溶け、べたついたせいで塊になってしまっている。
「俺もフレンに興味があるから」
クロードの言葉を聞いたローレンツは何故か動悸がおかしくなった。日頃あまり呑まない強い酒と昼間の惨劇に酔っているせいかもしれない。黙っているとクロードは更に言葉を続けた。
「正確に言うとフレンの血だな。俺は伝承から探っていた。俺たちは十傑の子孫だがフレンは多分……確証があるわけでなし、これは口に出して良いものか迷うな」
「では言うべきではないし僕も聞かない。風説の出元になるのはごめんだ」
杯の中の氷が音を立てて割れた。
「そうだな。確実なことだけ話す。どんな人間でも血になんらかの情報が刻まれている。だから第二性の検査には血を使う」
嫡子の血がオメガの血と混ざり合った日にローレンツの両親は安堵のため息を吐いた。これでグロスタールの紋章は自分たちの目が黒いうちには絶えずに済む、と。紋章を持つ子がアルファかオメガであれば孫にもグロスタールの紋章が発現する。十傑の血を継ぐ家で最も重要視されるのは子供に紋章が発現することだ。平民の家庭であれば男性のオメガなど良くて悩みの種、蔑みの対象だが名家においては価値観が逆転する。
「そしてその辺の人間はフレンの血に耐えられない。そこを悪用したのが昼間の連中だ。もし村の生き残りの中に耐えた奴がいればそいつの血こそ修道院が調べなきゃならない」
「君はそのことを先生やセテス殿に伝えたのか?」
「マヌエラ先生あたりがとっくに気付いてる筈さ。実は優秀だし躊躇しないんだぜ、薬の原料になる怪しげな茸や蛇、虫も平気で扱う。そうか、原料にするとして……だが……」
クロードは氷が溶け、少し薄まった蒸留酒を流し込むと小首を傾げた。何か建設的なことでも思いついたのか、それまでどろりと濁っていた緑色の瞳に光が戻っている。
「酒、ご馳走様。ありがたいことに少し気が紛れたよ」
今すぐにでも自室に戻って何かを確かめたそうにしているクロードの姿を見られて、ローレンツの気も少し紛れたような気がした。畳む
「さかしま」11.#クロロレ #さかしま #完売本 #オメガバース
フレンが木の虚に置いた干し林檎の薄切りに、夜の茶会の乱入者たちが集っている。山の冬は過酷だから地上の虫は皆死に絶えて地中にいる幼虫や卵くらいしか生き延びないだろう、と思っていたクロードにとって意外な光景だった。幼気な少女が可愛らしい小鳥を越冬させるために木の実や果物を用意するなら分かる。しかし彼女が慈悲の心から差し入れをしていた相手は甲虫だ。虫の群れは正体が分からないまま眺めているとただひたすら気持ち悪い。だが餌を与えるのが蚕ならば糸が取れるし蜘蛛や蠍ならば毒が取れるから、と言う理由がある。理由があるならばクロードにも理解できる。
金鹿の学級は今節の課題として使われなくなった古い礼拝堂の調査を命じられていた。なんでも何者かが侵入した形跡があるのだと言う。級長としてベレトの許可を取り、下調べに訪れたクロードはフレンが木に何かしているのを見た。詳細を知るべく近寄って目にした異様な光景に一瞬、言葉を失う。
「クロードさん、何をしておいでですの?」
「課題の下調べだよ。あの古い礼拝堂を調査せよ、だとさ。フレンこそ何を?」
「この子たちが身を粉にして社会の均衡を守ってくれるのでそのささやかなお礼をしに」
「均衡?」
「私の秘密を守ると誓うならこの子たちに関する事実を教えて差し上げますわ」
調べるな、考えるな、と言わないのはクロードに禁じても無駄だ、とフレンが判断したからだろう。元より胸の内に収めるつもりだったクロードは彼女が出した条件を飲んだ。
「この子たちはこのガルグ=マク近辺で発見されました。オメガの皆さんの発情期を抑制する抑制剤の原料になりますの」
「フェロモンを阻害する分泌液でも出すのかな」
「今ここでこうしてリンゴを食べている子たちには無理ですわ。オメガの方のフェロモンを感じ取って近寄る子がたまに現れる程度でしょうね」
フォドラの抑制剤は出来が良すぎる。リーガン家でフォドラ社会に馴染むための教育を受けた時、クロードは真っ先にそう思った。パルミラにも抑制剤はあるがお粗末なもので発情期にオメガたちは小屋、と呼ばれる建物に隔離される。アルファたちを加害者にしないためだ。しかし激しい熱発作に耐えかねたオメガの中にはアルファからの情けをもらい、望まれぬ子が生まれぬように鬼灯に頼る。鬼灯は鎮咳薬になるがお産を控えた妊婦は絶対に摂取してはならない薬草だ。三ヶ月に一度のことなので計算もしやすく社会制度やイエ制度に体系的に組み込まれているためより一層、オメガたちが置かれる状況の悲惨さが増す。
平民同士であれば隔離中のことはなかったものとされて普通の結婚が出来る。だが王族や貴族に見初められた場合がより一層悲惨だ。確実に嫡子を作らねばならない王族や貴族は妊娠しやすいオメガを複数人囲うのでオメガたちは激しい競争をすることになる。
その極みがクロードが生まれ育ったパルミラの後宮だ。ぽっと出のアルファ女性である母ティアナとそんな母から生まれたクロード、ことカリードは父王の後宮に元からいたオメガたちからとにかく憎まれた。そんな訳でクロードはオメガに苦手意識があったのだが、それもフォドラでの生活で薄れつつある。後宮で子を作ることしか社会から求められていない彼らを哀れに思う。
それは皮肉なことにオメガたちが散々腐してきた母の血筋ゆえにフォドラへ一時退避が出来たからだ。そして、フォドラで子を産む以外の役目をきちんと果たすオメガたちを目の当たりにしたからだ。
「ここガルグ=マクで薬草を与えられ、交配を管理されながら育てられた子たちが各地のセイロス教会へ運ばれましたの。セイロス教がこのフォドラに広く深く根付いた理由のひとつですわね」
そして彼らが他国との交流に消極的な理由のひとつだろう。クロードはフレンの言葉を聞きながら、緑色の甲虫を指でそっと摘んで匂いを嗅いでみた。薬の原料であるならば忌避感はない。今、手元に小さな瓶があれば捕まえて自室で自分なりに調べることが出来るが、残念ながら持っていなかったのでそっと仲間の元へ返してやった。
「ためになる話をありがとう。お礼に何か俺にできることはあるか?」
先日、ローレンツはクロードにソロンと自分が同類だと思っているのか、と問うた。あの時は明言しなかったが答えは是、だ。クロードは目の前にいる少女の血には四聖人の力が宿っており、与えられた側の情報を書き換える力がある、という仮説を立てている。仮説を立てたらそれが合っているのか確かめたい、と思ってしまう。ただしクロードにはソロンやその一味ならば手枷足枷扱いするであろう、責任感や想像力がある。だがそれは同時にクロードの精神を守る防具や護符なのだ。
「ではお耳を拝借いたしますわ」
「こんな人気のないところで、か??」
「レア様が調査を命じられたのなら根拠があります。油断するべきではありませんわ」
クロードが身をかがめるとフレンは背伸びをしてそっと耳打ちをした。
「承った。しかし過保護な兄上だな…」
フレンは謎多き少女だ。クロードは彼女を幼女のように感じる時もあれば老女のように感じる時もある。
全員制服姿で出席する質素なものだが、それでも舞踏会を控えて学生たちはそれなりに浮かれていた。踊らないと決めて初志貫徹しているのはラファエルとマリアンヌくらいで、恥をかかないため恥をかかせないために皆それなりに踊りの練習をしている。そんな中、意外な人気者がいた。
ローレンツは男性の踊りも女性の踊りも出来るので色んな学生の練習台になっている。クロードは練習に付き合い、踊り続けて汗だくのローレンツに無言で水を差し出した。やはり彼は蓋に注いでから飲んでいる。
「おや、無言で寄越すとは珍しい。〝俺から差し出された物を素直に飲むなんて警戒心が足りない〟とでも言ってくるかと思ったが」
「新作の被験体になってもらってもよかったが、それをやると迷える子羊に恨まれそうなんでやめておいた」
「舞踏会前日までは僕の身は安全ということか」
とローレンツが混ぜっ返す。
「俺に教えようとしなければ、な」
フォドラとパルミラでは踊りの種類が違う。パルミラの踊りは二人で踊る時も向かい合うだけで身体を密着させない。抑制剤の質が踊りの種類に影響しているのだろう。医療体制が文化に影響を及ぼしていた。あちらの粗悪な抑制剤しかない状態で身体を密着させたら、あちこちでアルファとオメガの接触事故が起きてしまうかもしれない。そしてそもそも拍の刻み方が違うのでクロードはフォドラの踊りが苦手だ。
華やかに飾り付けられた会場の雰囲気に呑まれて皆が浮ついていた舞踏会の夜、クロードはフレンの願い通りにベレトを引っ張り出して騒ぎを起こした。どさくさに紛れてフレンをベレトや男子学生たちと踊らせるためだった。
クロードに苦情を言ってきたエーデルガルトを級長として場を盛り上げてみたらどうだ、と煽ったら何故かヒューベルトがペトラとみごとな踊りを披露したり踊りよりもご馳走、と言っていた筈のレオニーがシルヴァンをはじめとする青獅子の男子学生相手に特訓の成果を披露したり、イグナーツがメルセデスと踊ったりと意外なことだらけの夜だった。どさくさに紛れてフレンがディミトリと踊ったことを覚えている者はいないだろう。
クロードはベレトの手を取って踊って騒ぎを起こした後はずっとセテスに話しかけたり、イングリットやレオニーをセテスと踊るようにけしかけていた。男性と踊るフレンが彼の目に入らないように調整するのが忙しく、クロードは殆ど誰とも踊っていない。踊らずに済む理由を与えてくれたフレンには感謝しかなかった。何曲か踊り終えると学生たちが人目につかない物陰や女神の塔へ向けて、三々五々に散っていくのが見えた。皆、特別な行事の勢いを借りて関係性を変化させたいのだろう。人が減ったせいでクロードは会場にローレンツが居ないことに気づいた。
外へ探しにいくと舞踏会に向けて練習に付き合った学友たちと答え合わせのように散々踊って疲れたのか、ローレンツは女神の塔にもいかず夜風にあたって杯を片手に一人休んでいた。汗で貼り付いた髪の毛を手櫛で直したのかいつもは前髪で隠れている白い額が晒されている。いつぞやの浴室の時と同じく、視線だけクロードに寄越してきた。
「僕と違って殆ど踊っていなかったのだから涼む必要もないだろう」
「誰が女神の塔に行くのか見てやろうかと」
「出歯亀か、つまらん冗談だな。フレンさんは君と踊らなくてよかったのだろうか?」
「手を取り合う類の踊りは踊れないんだ」
「何なら踊れるのかね」
クロードの故郷、パルミラの踊りを母であるティアナは林檎もぎと胡椒挽き、と評していた。刻まれる拍子に合わせて身体を揺らしながら林檎をもぐ時のように片手を頭の上にやって手首を捻り、顔の横で胡椒を引く時のように両手首を捻る。大人数で動作を合わせて上手に踊ろうとすれば大変だが一人で勝手に踊る分には気軽だ。
「胡椒挽きと林檎もぎの踊りなら踊れる」
会場から少し漏れる音楽に合わせて手を動かすが拍子と動作がどんどんずれてくる。杯を空にしたローレンツがクロードの動きに合わせて、手拍子を打ってくれた。会場から漏れる音楽に合わせてではない。目の前で踊るクロードのために、クロードの動きに合わせて手拍子を打ってくれている。気がつくとクロードは汗だくになっていた。
「宮廷式の踊りが出来ない訳だ。拍子の取り方からして違う。君の動きが早すぎるから合わせているこちらの手が痛くなってしまった」
「はー、久しぶりに全力で踊ったぜ。酒が欲しい。中に戻ろうぜ」
二人が会場に戻るとローレンツは彼のために杯を持ってきたフェルディナントに連れて行かれてしまい、クロードはぽつんと一人その場に残された。フェルディナントは完全にローレンツの対象外だとなんとなく分かるので、クロードは心穏やかに彼らの交流を見ていられる。一方で彼がシルヴァンと話していると落ち着きを失ってしまう。人の減った会場内をぼんやり見回しているとクロードはセテスの監視から逃れたフレンに話しかけられた。
「クロードさんのおかげでとっても楽しく過ごしておりますわ。ありがとうございます。お姿が見えなかったからどなたかと女神の塔に行かれたのかと思いましたわ」
「いや、誰と誰が塔に行くのか見物には行きたいが俺個人がどうこうってのはないな」
「あら、自分から檻にとらわれるなんてつまらないですわ」
もしかしたらフレンは士官学校の職員用資料などを見なくても、誰がアルファで誰がオメガなのかは察しているのかもしれない。
「いや、良いんだ。楽しそうに踊っている所も見られたし俺の踊りも見てもらえたからな」
「満ち足りた気持ちですのね?」
「そうだな、偽りなくそう言えるよ」
楽しそうにフェルディナントと語らうローレンツを見つめてクロードはそう答えた。本心だった。
舞踏会の夜があまりに良い夜だったせいでクロードは油断していたのかもしれない。アビスに出入りしている身でありながら古い礼拝堂を調査したところで大したものは出てこないだろう、と思いたがっていた。実際はああいった所にこそ秘密や恐怖が隠されているものなのに。
現実は都合の良い幻想を砕き、先日フレンと話した時の静かな景色はもうそこには残っていない。礼拝堂は崩壊し、暴れる魔獣たちは越冬する甲虫たちが身を寄せあっている木を薙ぎ倒した。今朝もフレンは虫たちに差し入れをしたのだろうか。管理されている虫たちは修道院のどこにいるのだろうか。
クロードたちがジェラルドの指示に従い、逃げ遅れた学生を救助するとそのために撃破した魔獣の中から別の学生が現れた。他学級はどうだか知らないがクロードたちはコナン塔でシルヴァンの兄マイクランが魔獣へと変化したところを見ている。マイクランのように不可逆ではなかったが、彼らも何かによって肉体の情報を書き換えられて魔獣になっていた。詰めが甘かったせいなのか、わざと人の形を取り戻せるようにしたのかは判らない。だが元の姿を取り戻せたのは僥倖だった、と後にマヌエラが話していた。アビスの資料とも照らし合わせて予後を把握する必要があるだろう。
そして生徒の皮を被った者の仕業で悲劇は起き、クロードたちは常に無表情で基本、眉ひとつ動かさないベレトが父の亡骸の傍で大粒の涙をこぼして泣く姿を見ることとなった。黒い雲が空一面を埋め、堪えきれなかった冷たい雨粒が落ちてくる。空までベレトの父であるジェラルドの死を悼んでいるかのようだった。畳む
フレンが木の虚に置いた干し林檎の薄切りに、夜の茶会の乱入者たちが集っている。山の冬は過酷だから地上の虫は皆死に絶えて地中にいる幼虫や卵くらいしか生き延びないだろう、と思っていたクロードにとって意外な光景だった。幼気な少女が可愛らしい小鳥を越冬させるために木の実や果物を用意するなら分かる。しかし彼女が慈悲の心から差し入れをしていた相手は甲虫だ。虫の群れは正体が分からないまま眺めているとただひたすら気持ち悪い。だが餌を与えるのが蚕ならば糸が取れるし蜘蛛や蠍ならば毒が取れるから、と言う理由がある。理由があるならばクロードにも理解できる。
金鹿の学級は今節の課題として使われなくなった古い礼拝堂の調査を命じられていた。なんでも何者かが侵入した形跡があるのだと言う。級長としてベレトの許可を取り、下調べに訪れたクロードはフレンが木に何かしているのを見た。詳細を知るべく近寄って目にした異様な光景に一瞬、言葉を失う。
「クロードさん、何をしておいでですの?」
「課題の下調べだよ。あの古い礼拝堂を調査せよ、だとさ。フレンこそ何を?」
「この子たちが身を粉にして社会の均衡を守ってくれるのでそのささやかなお礼をしに」
「均衡?」
「私の秘密を守ると誓うならこの子たちに関する事実を教えて差し上げますわ」
調べるな、考えるな、と言わないのはクロードに禁じても無駄だ、とフレンが判断したからだろう。元より胸の内に収めるつもりだったクロードは彼女が出した条件を飲んだ。
「この子たちはこのガルグ=マク近辺で発見されました。オメガの皆さんの発情期を抑制する抑制剤の原料になりますの」
「フェロモンを阻害する分泌液でも出すのかな」
「今ここでこうしてリンゴを食べている子たちには無理ですわ。オメガの方のフェロモンを感じ取って近寄る子がたまに現れる程度でしょうね」
フォドラの抑制剤は出来が良すぎる。リーガン家でフォドラ社会に馴染むための教育を受けた時、クロードは真っ先にそう思った。パルミラにも抑制剤はあるがお粗末なもので発情期にオメガたちは小屋、と呼ばれる建物に隔離される。アルファたちを加害者にしないためだ。しかし激しい熱発作に耐えかねたオメガの中にはアルファからの情けをもらい、望まれぬ子が生まれぬように鬼灯に頼る。鬼灯は鎮咳薬になるがお産を控えた妊婦は絶対に摂取してはならない薬草だ。三ヶ月に一度のことなので計算もしやすく社会制度やイエ制度に体系的に組み込まれているためより一層、オメガたちが置かれる状況の悲惨さが増す。
平民同士であれば隔離中のことはなかったものとされて普通の結婚が出来る。だが王族や貴族に見初められた場合がより一層悲惨だ。確実に嫡子を作らねばならない王族や貴族は妊娠しやすいオメガを複数人囲うのでオメガたちは激しい競争をすることになる。
その極みがクロードが生まれ育ったパルミラの後宮だ。ぽっと出のアルファ女性である母ティアナとそんな母から生まれたクロード、ことカリードは父王の後宮に元からいたオメガたちからとにかく憎まれた。そんな訳でクロードはオメガに苦手意識があったのだが、それもフォドラでの生活で薄れつつある。後宮で子を作ることしか社会から求められていない彼らを哀れに思う。
それは皮肉なことにオメガたちが散々腐してきた母の血筋ゆえにフォドラへ一時退避が出来たからだ。そして、フォドラで子を産む以外の役目をきちんと果たすオメガたちを目の当たりにしたからだ。
「ここガルグ=マクで薬草を与えられ、交配を管理されながら育てられた子たちが各地のセイロス教会へ運ばれましたの。セイロス教がこのフォドラに広く深く根付いた理由のひとつですわね」
そして彼らが他国との交流に消極的な理由のひとつだろう。クロードはフレンの言葉を聞きながら、緑色の甲虫を指でそっと摘んで匂いを嗅いでみた。薬の原料であるならば忌避感はない。今、手元に小さな瓶があれば捕まえて自室で自分なりに調べることが出来るが、残念ながら持っていなかったのでそっと仲間の元へ返してやった。
「ためになる話をありがとう。お礼に何か俺にできることはあるか?」
先日、ローレンツはクロードにソロンと自分が同類だと思っているのか、と問うた。あの時は明言しなかったが答えは是、だ。クロードは目の前にいる少女の血には四聖人の力が宿っており、与えられた側の情報を書き換える力がある、という仮説を立てている。仮説を立てたらそれが合っているのか確かめたい、と思ってしまう。ただしクロードにはソロンやその一味ならば手枷足枷扱いするであろう、責任感や想像力がある。だがそれは同時にクロードの精神を守る防具や護符なのだ。
「ではお耳を拝借いたしますわ」
「こんな人気のないところで、か??」
「レア様が調査を命じられたのなら根拠があります。油断するべきではありませんわ」
クロードが身をかがめるとフレンは背伸びをしてそっと耳打ちをした。
「承った。しかし過保護な兄上だな…」
フレンは謎多き少女だ。クロードは彼女を幼女のように感じる時もあれば老女のように感じる時もある。
全員制服姿で出席する質素なものだが、それでも舞踏会を控えて学生たちはそれなりに浮かれていた。踊らないと決めて初志貫徹しているのはラファエルとマリアンヌくらいで、恥をかかないため恥をかかせないために皆それなりに踊りの練習をしている。そんな中、意外な人気者がいた。
ローレンツは男性の踊りも女性の踊りも出来るので色んな学生の練習台になっている。クロードは練習に付き合い、踊り続けて汗だくのローレンツに無言で水を差し出した。やはり彼は蓋に注いでから飲んでいる。
「おや、無言で寄越すとは珍しい。〝俺から差し出された物を素直に飲むなんて警戒心が足りない〟とでも言ってくるかと思ったが」
「新作の被験体になってもらってもよかったが、それをやると迷える子羊に恨まれそうなんでやめておいた」
「舞踏会前日までは僕の身は安全ということか」
とローレンツが混ぜっ返す。
「俺に教えようとしなければ、な」
フォドラとパルミラでは踊りの種類が違う。パルミラの踊りは二人で踊る時も向かい合うだけで身体を密着させない。抑制剤の質が踊りの種類に影響しているのだろう。医療体制が文化に影響を及ぼしていた。あちらの粗悪な抑制剤しかない状態で身体を密着させたら、あちこちでアルファとオメガの接触事故が起きてしまうかもしれない。そしてそもそも拍の刻み方が違うのでクロードはフォドラの踊りが苦手だ。
華やかに飾り付けられた会場の雰囲気に呑まれて皆が浮ついていた舞踏会の夜、クロードはフレンの願い通りにベレトを引っ張り出して騒ぎを起こした。どさくさに紛れてフレンをベレトや男子学生たちと踊らせるためだった。
クロードに苦情を言ってきたエーデルガルトを級長として場を盛り上げてみたらどうだ、と煽ったら何故かヒューベルトがペトラとみごとな踊りを披露したり踊りよりもご馳走、と言っていた筈のレオニーがシルヴァンをはじめとする青獅子の男子学生相手に特訓の成果を披露したり、イグナーツがメルセデスと踊ったりと意外なことだらけの夜だった。どさくさに紛れてフレンがディミトリと踊ったことを覚えている者はいないだろう。
クロードはベレトの手を取って踊って騒ぎを起こした後はずっとセテスに話しかけたり、イングリットやレオニーをセテスと踊るようにけしかけていた。男性と踊るフレンが彼の目に入らないように調整するのが忙しく、クロードは殆ど誰とも踊っていない。踊らずに済む理由を与えてくれたフレンには感謝しかなかった。何曲か踊り終えると学生たちが人目につかない物陰や女神の塔へ向けて、三々五々に散っていくのが見えた。皆、特別な行事の勢いを借りて関係性を変化させたいのだろう。人が減ったせいでクロードは会場にローレンツが居ないことに気づいた。
外へ探しにいくと舞踏会に向けて練習に付き合った学友たちと答え合わせのように散々踊って疲れたのか、ローレンツは女神の塔にもいかず夜風にあたって杯を片手に一人休んでいた。汗で貼り付いた髪の毛を手櫛で直したのかいつもは前髪で隠れている白い額が晒されている。いつぞやの浴室の時と同じく、視線だけクロードに寄越してきた。
「僕と違って殆ど踊っていなかったのだから涼む必要もないだろう」
「誰が女神の塔に行くのか見てやろうかと」
「出歯亀か、つまらん冗談だな。フレンさんは君と踊らなくてよかったのだろうか?」
「手を取り合う類の踊りは踊れないんだ」
「何なら踊れるのかね」
クロードの故郷、パルミラの踊りを母であるティアナは林檎もぎと胡椒挽き、と評していた。刻まれる拍子に合わせて身体を揺らしながら林檎をもぐ時のように片手を頭の上にやって手首を捻り、顔の横で胡椒を引く時のように両手首を捻る。大人数で動作を合わせて上手に踊ろうとすれば大変だが一人で勝手に踊る分には気軽だ。
「胡椒挽きと林檎もぎの踊りなら踊れる」
会場から少し漏れる音楽に合わせて手を動かすが拍子と動作がどんどんずれてくる。杯を空にしたローレンツがクロードの動きに合わせて、手拍子を打ってくれた。会場から漏れる音楽に合わせてではない。目の前で踊るクロードのために、クロードの動きに合わせて手拍子を打ってくれている。気がつくとクロードは汗だくになっていた。
「宮廷式の踊りが出来ない訳だ。拍子の取り方からして違う。君の動きが早すぎるから合わせているこちらの手が痛くなってしまった」
「はー、久しぶりに全力で踊ったぜ。酒が欲しい。中に戻ろうぜ」
二人が会場に戻るとローレンツは彼のために杯を持ってきたフェルディナントに連れて行かれてしまい、クロードはぽつんと一人その場に残された。フェルディナントは完全にローレンツの対象外だとなんとなく分かるので、クロードは心穏やかに彼らの交流を見ていられる。一方で彼がシルヴァンと話していると落ち着きを失ってしまう。人の減った会場内をぼんやり見回しているとクロードはセテスの監視から逃れたフレンに話しかけられた。
「クロードさんのおかげでとっても楽しく過ごしておりますわ。ありがとうございます。お姿が見えなかったからどなたかと女神の塔に行かれたのかと思いましたわ」
「いや、誰と誰が塔に行くのか見物には行きたいが俺個人がどうこうってのはないな」
「あら、自分から檻にとらわれるなんてつまらないですわ」
もしかしたらフレンは士官学校の職員用資料などを見なくても、誰がアルファで誰がオメガなのかは察しているのかもしれない。
「いや、良いんだ。楽しそうに踊っている所も見られたし俺の踊りも見てもらえたからな」
「満ち足りた気持ちですのね?」
「そうだな、偽りなくそう言えるよ」
楽しそうにフェルディナントと語らうローレンツを見つめてクロードはそう答えた。本心だった。
舞踏会の夜があまりに良い夜だったせいでクロードは油断していたのかもしれない。アビスに出入りしている身でありながら古い礼拝堂を調査したところで大したものは出てこないだろう、と思いたがっていた。実際はああいった所にこそ秘密や恐怖が隠されているものなのに。
現実は都合の良い幻想を砕き、先日フレンと話した時の静かな景色はもうそこには残っていない。礼拝堂は崩壊し、暴れる魔獣たちは越冬する甲虫たちが身を寄せあっている木を薙ぎ倒した。今朝もフレンは虫たちに差し入れをしたのだろうか。管理されている虫たちは修道院のどこにいるのだろうか。
クロードたちがジェラルドの指示に従い、逃げ遅れた学生を救助するとそのために撃破した魔獣の中から別の学生が現れた。他学級はどうだか知らないがクロードたちはコナン塔でシルヴァンの兄マイクランが魔獣へと変化したところを見ている。マイクランのように不可逆ではなかったが、彼らも何かによって肉体の情報を書き換えられて魔獣になっていた。詰めが甘かったせいなのか、わざと人の形を取り戻せるようにしたのかは判らない。だが元の姿を取り戻せたのは僥倖だった、と後にマヌエラが話していた。アビスの資料とも照らし合わせて予後を把握する必要があるだろう。
そして生徒の皮を被った者の仕業で悲劇は起き、クロードたちは常に無表情で基本、眉ひとつ動かさないベレトが父の亡骸の傍で大粒の涙をこぼして泣く姿を見ることとなった。黒い雲が空一面を埋め、堪えきれなかった冷たい雨粒が落ちてくる。空までベレトの父であるジェラルドの死を悼んでいるかのようだった。畳む
クロードは薬学に興味がある。自分の命を守るために身につけざるを得なかった。しかしそのおかげで自然の中で目に入るありとあらゆるものが、クロードにとっては利用できる可能性を秘めた素材となった。クロードにとって雑草という名の草はない。修道院の中も同じだ。全てが謎を解くための鍵に見える。
一方でローレンツは「美術品ならともかく、壁を眺めて何が楽しいのか分からない」と言っていた。彼には少しでも自分が有利になるよう、目につくもの全てを利用してやろうと考えた経験がない。周囲を飢えた目で見る必要がなかったのだ。それはローレンツの育ちの良さの表れだ。
修道院を狙う賊の目的を探るためクロードは担任であるベレト、それにセイロス騎士団の許可を得て堂々と敷地内を探って回った。あまり良い顔はされなかったがそこは気にしていない。日頃入れない聖廟に実際に換金出来る宝物があるかどうか、はクロードにとって関係なかった。情報という宝が詰まった宝物庫も同然の立入禁止区域に堂々と入れることが素晴らしい。
換気されていない埃だらけの空間で探索をするのでクロードは久しぶりに髪や顔に布を巻いていた。顔を隠していると故郷にいた頃、こっそり街中に行った時のような気持ちになる。あの時より背は伸び、口は回るようになったが。
葬られている人々の棺や墓石の文字は書体が違いすぎて、崩し字の字典がなければクロードには読めない。だが意匠を丹念に見ていくと故人がどのような功績を立てたのかがわかってくる。書記の棺には文房具や書物が彫られていたし、天秤が彫られているものはおそらく法学で功績があったのだろう。そんな中、とある棺がクロードの興味を引いた。場違いなまでに様々な草花や果物それに蟹や蜥蜴、甲虫の姿が彫られている。セイロス教の施設で自然を称えるような物が見つかるのは珍しい。この棺は彩色が微かに残っていて、先日ローレンツの部屋で見かけた美しい甲虫らしきものが色付きで描かれていた。可能ならば木炭と大きな紙を使って原寸大で写し取りたいところだが、そんな都合が良い物を持っているわけもなく時間も限られている。仕方ないのでクロードは手持ちの書字板にわかったことを急いで記した。興味は尽きないがこの棺ばかりに関わってはいられない。階段の上から俯瞰で聖廟を眺め異質な、目を引く物がないか確かめた。
この聖廟はセイロス教に尽くした故人を偲び讃えるために作られている。その証拠にほとんどの棺には様々な意匠が凝らされていた。だがただひとつ、誰にも何も伝えようとしない棺がある。ひた隠しにせねばならない何かがあの棺にはあるらしい。賊の狙いが聖廟であるならばあの棺が目当てだとクロードは思った。無銘の棺に近寄り触ろうとするとぐにゃりと空間が歪む。結界を張ってまで見せたくない何かがあるのだろう。
聖廟から出るとクロードは埃から守ってくれた布を頭から取り去った。埃を叩いて畳んでしまえば単なる一枚布に戻り、持っていても怪しまれはしない。自室に置いてある植物図鑑で、棺に彫られていた植物がなんであったか調べようと扉に手をかけた時にくしゃみの音がクロードの鼓膜を刺激した。反射的に音がした方を見ると訓練着姿のローレンツが手巾を顔にあてていた。隣室の住人のくしゃみは体格の割に音が高く、こう言っては何だが可愛らしい。
「クロード、君はいったい何処でそんな埃まみれになったのだ?」
「先生の手伝いだ」
ローレンツは着替えと身体を拭く布や香油、それに櫛を手に持って自室から出てきたところだった。直接訓練場に一式を持っていく者もいるが、土埃で汚れてしまうことを気にする者は自室まで取りに戻る。ローレンツは後者だった。汗だくだから早く身体を清めたいだろうにわざわざ取りに戻るその姿を見て、クロードの身体の手綱を握っていた知的好奇心が鞍から降りてしまう。植物図鑑は後で読むことにした。
「そうか。僕は見ての通りだよ。君も早く入浴した方がいいな。ではお先に」
クロードが手早く支度を終えて自室の扉を開けると当然だがローレンツの姿は見る影もなかった。彼は足が長いので歩くのが早い。先ほどのくしゃみはクロードにまとわりついていた埃のせいかもしれないが、汗をかいた体が冷えれば同じように可愛らしい音を立ててくしゃみをするのだろう。
───可愛らしい?何故そんなことを考えた?
最近ローレンツとは互いに歩み寄っているとは言え、彼はどう小さく見積もっても自分より握り拳二つ分は背が高く、うなじの毛を刈り上げているような男性だ。だがもし仮に彼の第二性がオメガであってくれたなら。
独身のオメガは男性であれ女性であれ親しくならない限り、アルファやベータ相手には絶対に第二性を隠してしまう。過去の歴史がそうさせるし質の良い抑制剤があるここフォドラではそれが可能なのだ。そして社会の多数派を占めるベータたちは第二性を表明する必要がない。そんな社会に属するアルファは発情期のせいで社会との関わりに障害を持ち、蔑まれていたオメガとは対称的な理由で自身がアルファであると表明できない。都合よく、加害者にさせられてしまう危険がある。
ローレンツと仲が良いと言えばフェルディナントやシルヴァンだ。彼らはローレンツから第二性を告げられているのだろうか。クロードが自分はアルファである、とローレンツにきちんと告げる日は来るのだろうか。そんな益体もないことを考えていると何故か寂寥感に心を支配された。
脱衣所の籠は空のままになっているものが多く、浴室内はあまり人がいないらしい。クロードは前髪の三つ編みを解き、脱衣所で湯浴み着に着替えた。これもフォドラ独特の風習で、なんと裸ではないという理由で浴室が男女別になっていない───流石に洗い場は男女別だが。
浴室への通り道である洗い場には何人か学生がいた。適当に挨拶をして浴室内に備え付けられている大きな鉢のお湯を何杯か身体にかける。浴室に入るとやはり中は空いていて、ローレンツが独り充満する蒸気の中、目を閉じたまま白く長い手足を台の上に投げ出して寛いでいた。汗で湯浴み着が貼り付き鍛練でついた筋肉の線が透けて見える。ローレンツは汗を含んだ紫の髪の毛を白い手でかきあげた際に反対側に座ったクロードに気づいて目線だけ寄越してきた。温まって血行がよくなったせいか頬が赤い。彼は元の顔色が磁器のように白いので赤みが目立つ。日頃はよく回る舌が動いてくれず、なんと声をかけるべきかクロードが迷っていると向こうから話しかけてきた。
「さっきから黙ってこちらを見ているが僕の顔に何かついているのか?」
「何もついていないから黙って見てたのさ」
「今晩はどうする」
「そうだな、課題について先生に報告する前に少し話したい」
ローレンツは頷いてお先に、と言うと洗い場へ向かった。汗で湯浴み着が貼り付いているせいで背中や腰の線がクロードからよく見えた。後を追う気にもなれず、空いているのを良いことにクロードも手足を台の上に投げ出す。聖廟から出てきた時は早く植物図鑑で自分が見たものの裏を取りたいと思っていたのに何故のんびりと入浴しているのだろうか。
今、クロードの身体の手綱を握っているものの正体は何なのだろうか。畳む