「さかしま」10.#クロロレ #さかしま #完売本 #オメガバース
抑制された集団生活は魔道学院で体験済みのローレンツだが、士官学校での生活は波乱尽くしで調子が狂ってしまう。前節、鷲獅子戦の勝利後に頭から麦酒をかけられた。宴の後に皆でふざけながら風呂場で髪や身体を濯いだことが今や、昔見た夢のようにぼやけている。ローレンツの瞳に映る現実は地獄としか言いようがない。長閑な村だったのだ、と担任のベレトは言うが現在のルミール村は炎と呪いと恐怖と死に包まれていた。
呪いのせいで正気を失った村人が見境なく親しい隣人や家族を襲い、傷つけ殺そうとしている。学生たちはジェラルドから正気の村人の安全を確保せよ、と命じられた。魔獣も恐ろしかったが呪いで狂わされた人々も恐ろしい。介入がなければまともだったからだ。
目ざといクロードが見つけた怪しげな連中の排除と村人の救出を同時に行うため二手に分かれた。ヒルダがベレトの副官を務めている間、延焼を避けるためイグナーツが消火のためブリザーを放ち、正気を失って家族や隣人を殺そうとする村人をラファエルが死なない程度に殴って行動不能にする。その隙に襲われていた村人をレオニーが確保し、安全なところへ避難させていた。マリアンヌは村中を移動して弱っている村人や兵士に回復魔法をかけている。ローレンツは馬を駆り無事な村人がいないか辺りをくまなく探している最中、クロードからリシテアを連れてくるように頼まれた。
馬で彼女の元に駆けつけるとリシテアはちょうど得意の黒魔法で敵を仕留め終えたところだった。これほど巧みに魔法を操れるのは何故なのか、彼女が説明してくれたことはない。ローレンツが民家の柵に馬を横付けし、身体をずらして鞍の前に空間を作ると察したリシテアが柵によじ登りなんとか鞍に腰を下ろした。ローレンツは落馬しないように左腕で彼女を抱えて右手で手綱を取った。実家でこんな風に弟妹たちを乗せてやったことを思い出す。
「クロードがリシテアさんに確かめて欲しいことがあるそうなので奴の元までお送りしよう」
煙と血の匂いが充満する中で馬を駆り、物陰から様子を伺うクロードの元に戻ると悪いな、と言ってリシテアの手を取り馬から下ろした。
「あのトマシュさんらしき男と話している連中に見覚えはあるか?」
「あの装束は……コーデリア領をめちゃくちゃにした連中が身につけていたものとよく似て……います。本人達かどうかはこの距離では分かりませんが……」
「そうか。俺とローレンツがついてるから大丈夫だ」
ルミール村で何が行われたのか、金鹿の学級に所属する他の誰よりも深く把握出来たリシテアは顔を手で覆っている。クロードは感情を持て余し、震えているリシテアの肩を軽く叩いた。その拍子に涙の粒が感情を持て余した彼女の頬を伝っていく。
緑色の瞳が気がつかなかったことにしよう、と無言で提案してきたのでローレンツも無言で頷いた。リシテアはクロードから年下扱いされると揶揄うな、と言っていつもかなり激しく怒る。しかし今日ばかりは素直に礼を言った。
「ローレンツ、村人たちはどうなった?」
「助けられる限りは」
ただし落ち着いてから村を見回れば更に亡骸の数は増えるだろう。自らを万能で無謬と信じる者たちの所業は深く、皆の心の内に刻みつけられた。裕福さや才の有無、老若男女を問わず人間は誰でも侵されてはならない光り輝く宝石のような何か、を手にして生まれてくる。統治する者や武器を振るう者は決して、それを蔑ろにしてはならない。
「そうか。じゃあ答え合わせをしに行こうか。リシテアは援護を、ローレンツは前衛を頼む」
そして書庫でクロードとよく行きあったという修道士は彼の問いかけに最悪の形で答えた。
いつもなら疲れや興奮や嫌悪感を紛らわすため、多弁になりがちな金鹿の学級の面々も今日は口数が少ない。皆、何かを言おうとするのだが無意味な指示語しか口から出てこなかったので、諦めて黙り込んでいる。ベレトですら落ち込んでいたので仕方ないのかもしれない。
その晩は珍しくローレンツがクロードの部屋を訪れた。
「クロード、指二本までだぞ」
クロードは大きなため息をつくとお言葉に甘えることにするよ、と言って手にしていた本を閉じた。本の上下が逆さまで、彼の受けた衝撃の強さが窺い知れる。あえてそこは指摘せず、ローレンツは自室に戻り硝子の杯をふたつ棚から出した。卓の上には炒って砂糖がけにした胡桃とマリアンヌにブリザーで作ってもらった氷がある。扉を叩く音がしたので入るように言うとクロードがやってきた。
「ご招待どうも。流石に先生もしょげてたよ」
「水で割るか?」
「いや、せっかくだから氷だけで良い」
ローレンツが硝子の杯に氷を入れ、実家から持ってきた蒸留酒を指二本分だけ注ぐ。形だけの、気が乗らない乾杯をすると二人とも杯を煽った。気落ちしている時に呑んでも良い香りがして、それが分かるならまだ自分たちは大丈夫だと思った。
「実験だとさ。正直言ってお前はここまでやれないだろう、と煽られた気分だ」
「君は自分を奴等の同類だ、 とでも思っているのか?」
これは本当に深刻だと思いながらローレンツは胡桃を摘んだ。室温で少し砂糖が溶け、べたついたせいで塊になってしまっている。
「俺もフレンに興味があるから」
クロードの言葉を聞いたローレンツは何故か動悸がおかしくなった。日頃あまり呑まない強い酒と昼間の惨劇に酔っているせいかもしれない。黙っているとクロードは更に言葉を続けた。
「正確に言うとフレンの血だな。俺は伝承から探っていた。俺たちは十傑の子孫だがフレンは多分……確証があるわけでなし、これは口に出して良いものか迷うな」
「では言うべきではないし僕も聞かない。風説の出元になるのはごめんだ」
杯の中の氷が音を立てて割れた。
「そうだな。確実なことだけ話す。どんな人間でも血になんらかの情報が刻まれている。だから第二性の検査には血を使う」
嫡子の血がオメガの血と混ざり合った日にローレンツの両親は安堵のため息を吐いた。これでグロスタールの紋章は自分たちの目が黒いうちには絶えずに済む、と。紋章を持つ子がアルファかオメガであれば孫にもグロスタールの紋章が発現する。十傑の血を継ぐ家で最も重要視されるのは子供に紋章が発現することだ。平民の家庭であれば男性のオメガなど良くて悩みの種、蔑みの対象だが名家においては価値観が逆転する。
「そしてその辺の人間はフレンの血に耐えられない。そこを悪用したのが昼間の連中だ。もし村の生き残りの中に耐えた奴がいればそいつの血こそ修道院が調べなきゃならない」
「君はそのことを先生やセテス殿に伝えたのか?」
「マヌエラ先生あたりがとっくに気付いてる筈さ。実は優秀だし躊躇しないんだぜ、薬の原料になる怪しげな茸や蛇、虫も平気で扱う。そうか、原料にするとして……だが……」
クロードは氷が溶け、少し薄まった蒸留酒を流し込むと小首を傾げた。何か建設的なことでも思いついたのか、それまでどろりと濁っていた緑色の瞳に光が戻っている。
「酒、ご馳走様。ありがたいことに少し気が紛れたよ」
今すぐにでも自室に戻って何かを確かめたそうにしているクロードの姿を見られて、ローレンツの気も少し紛れたような気がした。畳む
抑制された集団生活は魔道学院で体験済みのローレンツだが、士官学校での生活は波乱尽くしで調子が狂ってしまう。前節、鷲獅子戦の勝利後に頭から麦酒をかけられた。宴の後に皆でふざけながら風呂場で髪や身体を濯いだことが今や、昔見た夢のようにぼやけている。ローレンツの瞳に映る現実は地獄としか言いようがない。長閑な村だったのだ、と担任のベレトは言うが現在のルミール村は炎と呪いと恐怖と死に包まれていた。
呪いのせいで正気を失った村人が見境なく親しい隣人や家族を襲い、傷つけ殺そうとしている。学生たちはジェラルドから正気の村人の安全を確保せよ、と命じられた。魔獣も恐ろしかったが呪いで狂わされた人々も恐ろしい。介入がなければまともだったからだ。
目ざといクロードが見つけた怪しげな連中の排除と村人の救出を同時に行うため二手に分かれた。ヒルダがベレトの副官を務めている間、延焼を避けるためイグナーツが消火のためブリザーを放ち、正気を失って家族や隣人を殺そうとする村人をラファエルが死なない程度に殴って行動不能にする。その隙に襲われていた村人をレオニーが確保し、安全なところへ避難させていた。マリアンヌは村中を移動して弱っている村人や兵士に回復魔法をかけている。ローレンツは馬を駆り無事な村人がいないか辺りをくまなく探している最中、クロードからリシテアを連れてくるように頼まれた。
馬で彼女の元に駆けつけるとリシテアはちょうど得意の黒魔法で敵を仕留め終えたところだった。これほど巧みに魔法を操れるのは何故なのか、彼女が説明してくれたことはない。ローレンツが民家の柵に馬を横付けし、身体をずらして鞍の前に空間を作ると察したリシテアが柵によじ登りなんとか鞍に腰を下ろした。ローレンツは落馬しないように左腕で彼女を抱えて右手で手綱を取った。実家でこんな風に弟妹たちを乗せてやったことを思い出す。
「クロードがリシテアさんに確かめて欲しいことがあるそうなので奴の元までお送りしよう」
煙と血の匂いが充満する中で馬を駆り、物陰から様子を伺うクロードの元に戻ると悪いな、と言ってリシテアの手を取り馬から下ろした。
「あのトマシュさんらしき男と話している連中に見覚えはあるか?」
「あの装束は……コーデリア領をめちゃくちゃにした連中が身につけていたものとよく似て……います。本人達かどうかはこの距離では分かりませんが……」
「そうか。俺とローレンツがついてるから大丈夫だ」
ルミール村で何が行われたのか、金鹿の学級に所属する他の誰よりも深く把握出来たリシテアは顔を手で覆っている。クロードは感情を持て余し、震えているリシテアの肩を軽く叩いた。その拍子に涙の粒が感情を持て余した彼女の頬を伝っていく。
緑色の瞳が気がつかなかったことにしよう、と無言で提案してきたのでローレンツも無言で頷いた。リシテアはクロードから年下扱いされると揶揄うな、と言っていつもかなり激しく怒る。しかし今日ばかりは素直に礼を言った。
「ローレンツ、村人たちはどうなった?」
「助けられる限りは」
ただし落ち着いてから村を見回れば更に亡骸の数は増えるだろう。自らを万能で無謬と信じる者たちの所業は深く、皆の心の内に刻みつけられた。裕福さや才の有無、老若男女を問わず人間は誰でも侵されてはならない光り輝く宝石のような何か、を手にして生まれてくる。統治する者や武器を振るう者は決して、それを蔑ろにしてはならない。
「そうか。じゃあ答え合わせをしに行こうか。リシテアは援護を、ローレンツは前衛を頼む」
そして書庫でクロードとよく行きあったという修道士は彼の問いかけに最悪の形で答えた。
いつもなら疲れや興奮や嫌悪感を紛らわすため、多弁になりがちな金鹿の学級の面々も今日は口数が少ない。皆、何かを言おうとするのだが無意味な指示語しか口から出てこなかったので、諦めて黙り込んでいる。ベレトですら落ち込んでいたので仕方ないのかもしれない。
その晩は珍しくローレンツがクロードの部屋を訪れた。
「クロード、指二本までだぞ」
クロードは大きなため息をつくとお言葉に甘えることにするよ、と言って手にしていた本を閉じた。本の上下が逆さまで、彼の受けた衝撃の強さが窺い知れる。あえてそこは指摘せず、ローレンツは自室に戻り硝子の杯をふたつ棚から出した。卓の上には炒って砂糖がけにした胡桃とマリアンヌにブリザーで作ってもらった氷がある。扉を叩く音がしたので入るように言うとクロードがやってきた。
「ご招待どうも。流石に先生もしょげてたよ」
「水で割るか?」
「いや、せっかくだから氷だけで良い」
ローレンツが硝子の杯に氷を入れ、実家から持ってきた蒸留酒を指二本分だけ注ぐ。形だけの、気が乗らない乾杯をすると二人とも杯を煽った。気落ちしている時に呑んでも良い香りがして、それが分かるならまだ自分たちは大丈夫だと思った。
「実験だとさ。正直言ってお前はここまでやれないだろう、と煽られた気分だ」
「君は自分を奴等の同類だ、 とでも思っているのか?」
これは本当に深刻だと思いながらローレンツは胡桃を摘んだ。室温で少し砂糖が溶け、べたついたせいで塊になってしまっている。
「俺もフレンに興味があるから」
クロードの言葉を聞いたローレンツは何故か動悸がおかしくなった。日頃あまり呑まない強い酒と昼間の惨劇に酔っているせいかもしれない。黙っているとクロードは更に言葉を続けた。
「正確に言うとフレンの血だな。俺は伝承から探っていた。俺たちは十傑の子孫だがフレンは多分……確証があるわけでなし、これは口に出して良いものか迷うな」
「では言うべきではないし僕も聞かない。風説の出元になるのはごめんだ」
杯の中の氷が音を立てて割れた。
「そうだな。確実なことだけ話す。どんな人間でも血になんらかの情報が刻まれている。だから第二性の検査には血を使う」
嫡子の血がオメガの血と混ざり合った日にローレンツの両親は安堵のため息を吐いた。これでグロスタールの紋章は自分たちの目が黒いうちには絶えずに済む、と。紋章を持つ子がアルファかオメガであれば孫にもグロスタールの紋章が発現する。十傑の血を継ぐ家で最も重要視されるのは子供に紋章が発現することだ。平民の家庭であれば男性のオメガなど良くて悩みの種、蔑みの対象だが名家においては価値観が逆転する。
「そしてその辺の人間はフレンの血に耐えられない。そこを悪用したのが昼間の連中だ。もし村の生き残りの中に耐えた奴がいればそいつの血こそ修道院が調べなきゃならない」
「君はそのことを先生やセテス殿に伝えたのか?」
「マヌエラ先生あたりがとっくに気付いてる筈さ。実は優秀だし躊躇しないんだぜ、薬の原料になる怪しげな茸や蛇、虫も平気で扱う。そうか、原料にするとして……だが……」
クロードは氷が溶け、少し薄まった蒸留酒を流し込むと小首を傾げた。何か建設的なことでも思いついたのか、それまでどろりと濁っていた緑色の瞳に光が戻っている。
「酒、ご馳走様。ありがたいことに少し気が紛れたよ」
今すぐにでも自室に戻って何かを確かめたそうにしているクロードの姿を見られて、ローレンツの気も少し紛れたような気がした。畳む
「さかしま」11.#クロロレ #さかしま #完売本 #オメガバース
フレンが木の虚に置いた干し林檎の薄切りに、夜の茶会の乱入者たちが集っている。山の冬は過酷だから地上の虫は皆死に絶えて地中にいる幼虫や卵くらいしか生き延びないだろう、と思っていたクロードにとって意外な光景だった。幼気な少女が可愛らしい小鳥を越冬させるために木の実や果物を用意するなら分かる。しかし彼女が慈悲の心から差し入れをしていた相手は甲虫だ。虫の群れは正体が分からないまま眺めているとただひたすら気持ち悪い。だが餌を与えるのが蚕ならば糸が取れるし蜘蛛や蠍ならば毒が取れるから、と言う理由がある。理由があるならばクロードにも理解できる。
金鹿の学級は今節の課題として使われなくなった古い礼拝堂の調査を命じられていた。なんでも何者かが侵入した形跡があるのだと言う。級長としてベレトの許可を取り、下調べに訪れたクロードはフレンが木に何かしているのを見た。詳細を知るべく近寄って目にした異様な光景に一瞬、言葉を失う。
「クロードさん、何をしておいでですの?」
「課題の下調べだよ。あの古い礼拝堂を調査せよ、だとさ。フレンこそ何を?」
「この子たちが身を粉にして社会の均衡を守ってくれるのでそのささやかなお礼をしに」
「均衡?」
「私の秘密を守ると誓うならこの子たちに関する事実を教えて差し上げますわ」
調べるな、考えるな、と言わないのはクロードに禁じても無駄だ、とフレンが判断したからだろう。元より胸の内に収めるつもりだったクロードは彼女が出した条件を飲んだ。
「この子たちはこのガルグ=マク近辺で発見されました。オメガの皆さんの発情期を抑制する抑制剤の原料になりますの」
「フェロモンを阻害する分泌液でも出すのかな」
「今ここでこうしてリンゴを食べている子たちには無理ですわ。オメガの方のフェロモンを感じ取って近寄る子がたまに現れる程度でしょうね」
フォドラの抑制剤は出来が良すぎる。リーガン家でフォドラ社会に馴染むための教育を受けた時、クロードは真っ先にそう思った。パルミラにも抑制剤はあるがお粗末なもので発情期にオメガたちは小屋、と呼ばれる建物に隔離される。アルファたちを加害者にしないためだ。しかし激しい熱発作に耐えかねたオメガの中にはアルファからの情けをもらい、望まれぬ子が生まれぬように鬼灯に頼る。鬼灯は鎮咳薬になるがお産を控えた妊婦は絶対に摂取してはならない薬草だ。三ヶ月に一度のことなので計算もしやすく社会制度やイエ制度に体系的に組み込まれているためより一層、オメガたちが置かれる状況の悲惨さが増す。
平民同士であれば隔離中のことはなかったものとされて普通の結婚が出来る。だが王族や貴族に見初められた場合がより一層悲惨だ。確実に嫡子を作らねばならない王族や貴族は妊娠しやすいオメガを複数人囲うのでオメガたちは激しい競争をすることになる。
その極みがクロードが生まれ育ったパルミラの後宮だ。ぽっと出のアルファ女性である母ティアナとそんな母から生まれたクロード、ことカリードは父王の後宮に元からいたオメガたちからとにかく憎まれた。そんな訳でクロードはオメガに苦手意識があったのだが、それもフォドラでの生活で薄れつつある。後宮で子を作ることしか社会から求められていない彼らを哀れに思う。
それは皮肉なことにオメガたちが散々腐してきた母の血筋ゆえにフォドラへ一時退避が出来たからだ。そして、フォドラで子を産む以外の役目をきちんと果たすオメガたちを目の当たりにしたからだ。
「ここガルグ=マクで薬草を与えられ、交配を管理されながら育てられた子たちが各地のセイロス教会へ運ばれましたの。セイロス教がこのフォドラに広く深く根付いた理由のひとつですわね」
そして彼らが他国との交流に消極的な理由のひとつだろう。クロードはフレンの言葉を聞きながら、緑色の甲虫を指でそっと摘んで匂いを嗅いでみた。薬の原料であるならば忌避感はない。今、手元に小さな瓶があれば捕まえて自室で自分なりに調べることが出来るが、残念ながら持っていなかったのでそっと仲間の元へ返してやった。
「ためになる話をありがとう。お礼に何か俺にできることはあるか?」
先日、ローレンツはクロードにソロンと自分が同類だと思っているのか、と問うた。あの時は明言しなかったが答えは是、だ。クロードは目の前にいる少女の血には四聖人の力が宿っており、与えられた側の情報を書き換える力がある、という仮説を立てている。仮説を立てたらそれが合っているのか確かめたい、と思ってしまう。ただしクロードにはソロンやその一味ならば手枷足枷扱いするであろう、責任感や想像力がある。だがそれは同時にクロードの精神を守る防具や護符なのだ。
「ではお耳を拝借いたしますわ」
「こんな人気のないところで、か??」
「レア様が調査を命じられたのなら根拠があります。油断するべきではありませんわ」
クロードが身をかがめるとフレンは背伸びをしてそっと耳打ちをした。
「承った。しかし過保護な兄上だな…」
フレンは謎多き少女だ。クロードは彼女を幼女のように感じる時もあれば老女のように感じる時もある。
全員制服姿で出席する質素なものだが、それでも舞踏会を控えて学生たちはそれなりに浮かれていた。踊らないと決めて初志貫徹しているのはラファエルとマリアンヌくらいで、恥をかかないため恥をかかせないために皆それなりに踊りの練習をしている。そんな中、意外な人気者がいた。
ローレンツは男性の踊りも女性の踊りも出来るので色んな学生の練習台になっている。クロードは練習に付き合い、踊り続けて汗だくのローレンツに無言で水を差し出した。やはり彼は蓋に注いでから飲んでいる。
「おや、無言で寄越すとは珍しい。〝俺から差し出された物を素直に飲むなんて警戒心が足りない〟とでも言ってくるかと思ったが」
「新作の被験体になってもらってもよかったが、それをやると迷える子羊に恨まれそうなんでやめておいた」
「舞踏会前日までは僕の身は安全ということか」
とローレンツが混ぜっ返す。
「俺に教えようとしなければ、な」
フォドラとパルミラでは踊りの種類が違う。パルミラの踊りは二人で踊る時も向かい合うだけで身体を密着させない。抑制剤の質が踊りの種類に影響しているのだろう。医療体制が文化に影響を及ぼしていた。あちらの粗悪な抑制剤しかない状態で身体を密着させたら、あちこちでアルファとオメガの接触事故が起きてしまうかもしれない。そしてそもそも拍の刻み方が違うのでクロードはフォドラの踊りが苦手だ。
華やかに飾り付けられた会場の雰囲気に呑まれて皆が浮ついていた舞踏会の夜、クロードはフレンの願い通りにベレトを引っ張り出して騒ぎを起こした。どさくさに紛れてフレンをベレトや男子学生たちと踊らせるためだった。
クロードに苦情を言ってきたエーデルガルトを級長として場を盛り上げてみたらどうだ、と煽ったら何故かヒューベルトがペトラとみごとな踊りを披露したり踊りよりもご馳走、と言っていた筈のレオニーがシルヴァンをはじめとする青獅子の男子学生相手に特訓の成果を披露したり、イグナーツがメルセデスと踊ったりと意外なことだらけの夜だった。どさくさに紛れてフレンがディミトリと踊ったことを覚えている者はいないだろう。
クロードはベレトの手を取って踊って騒ぎを起こした後はずっとセテスに話しかけたり、イングリットやレオニーをセテスと踊るようにけしかけていた。男性と踊るフレンが彼の目に入らないように調整するのが忙しく、クロードは殆ど誰とも踊っていない。踊らずに済む理由を与えてくれたフレンには感謝しかなかった。何曲か踊り終えると学生たちが人目につかない物陰や女神の塔へ向けて、三々五々に散っていくのが見えた。皆、特別な行事の勢いを借りて関係性を変化させたいのだろう。人が減ったせいでクロードは会場にローレンツが居ないことに気づいた。
外へ探しにいくと舞踏会に向けて練習に付き合った学友たちと答え合わせのように散々踊って疲れたのか、ローレンツは女神の塔にもいかず夜風にあたって杯を片手に一人休んでいた。汗で貼り付いた髪の毛を手櫛で直したのかいつもは前髪で隠れている白い額が晒されている。いつぞやの浴室の時と同じく、視線だけクロードに寄越してきた。
「僕と違って殆ど踊っていなかったのだから涼む必要もないだろう」
「誰が女神の塔に行くのか見てやろうかと」
「出歯亀か、つまらん冗談だな。フレンさんは君と踊らなくてよかったのだろうか?」
「手を取り合う類の踊りは踊れないんだ」
「何なら踊れるのかね」
クロードの故郷、パルミラの踊りを母であるティアナは林檎もぎと胡椒挽き、と評していた。刻まれる拍子に合わせて身体を揺らしながら林檎をもぐ時のように片手を頭の上にやって手首を捻り、顔の横で胡椒を引く時のように両手首を捻る。大人数で動作を合わせて上手に踊ろうとすれば大変だが一人で勝手に踊る分には気軽だ。
「胡椒挽きと林檎もぎの踊りなら踊れる」
会場から少し漏れる音楽に合わせて手を動かすが拍子と動作がどんどんずれてくる。杯を空にしたローレンツがクロードの動きに合わせて、手拍子を打ってくれた。会場から漏れる音楽に合わせてではない。目の前で踊るクロードのために、クロードの動きに合わせて手拍子を打ってくれている。気がつくとクロードは汗だくになっていた。
「宮廷式の踊りが出来ない訳だ。拍子の取り方からして違う。君の動きが早すぎるから合わせているこちらの手が痛くなってしまった」
「はー、久しぶりに全力で踊ったぜ。酒が欲しい。中に戻ろうぜ」
二人が会場に戻るとローレンツは彼のために杯を持ってきたフェルディナントに連れて行かれてしまい、クロードはぽつんと一人その場に残された。フェルディナントは完全にローレンツの対象外だとなんとなく分かるので、クロードは心穏やかに彼らの交流を見ていられる。一方で彼がシルヴァンと話していると落ち着きを失ってしまう。人の減った会場内をぼんやり見回しているとクロードはセテスの監視から逃れたフレンに話しかけられた。
「クロードさんのおかげでとっても楽しく過ごしておりますわ。ありがとうございます。お姿が見えなかったからどなたかと女神の塔に行かれたのかと思いましたわ」
「いや、誰と誰が塔に行くのか見物には行きたいが俺個人がどうこうってのはないな」
「あら、自分から檻にとらわれるなんてつまらないですわ」
もしかしたらフレンは士官学校の職員用資料などを見なくても、誰がアルファで誰がオメガなのかは察しているのかもしれない。
「いや、良いんだ。楽しそうに踊っている所も見られたし俺の踊りも見てもらえたからな」
「満ち足りた気持ちですのね?」
「そうだな、偽りなくそう言えるよ」
楽しそうにフェルディナントと語らうローレンツを見つめてクロードはそう答えた。本心だった。
舞踏会の夜があまりに良い夜だったせいでクロードは油断していたのかもしれない。アビスに出入りしている身でありながら古い礼拝堂を調査したところで大したものは出てこないだろう、と思いたがっていた。実際はああいった所にこそ秘密や恐怖が隠されているものなのに。
現実は都合の良い幻想を砕き、先日フレンと話した時の静かな景色はもうそこには残っていない。礼拝堂は崩壊し、暴れる魔獣たちは越冬する甲虫たちが身を寄せあっている木を薙ぎ倒した。今朝もフレンは虫たちに差し入れをしたのだろうか。管理されている虫たちは修道院のどこにいるのだろうか。
クロードたちがジェラルドの指示に従い、逃げ遅れた学生を救助するとそのために撃破した魔獣の中から別の学生が現れた。他学級はどうだか知らないがクロードたちはコナン塔でシルヴァンの兄マイクランが魔獣へと変化したところを見ている。マイクランのように不可逆ではなかったが、彼らも何かによって肉体の情報を書き換えられて魔獣になっていた。詰めが甘かったせいなのか、わざと人の形を取り戻せるようにしたのかは判らない。だが元の姿を取り戻せたのは僥倖だった、と後にマヌエラが話していた。アビスの資料とも照らし合わせて予後を把握する必要があるだろう。
そして生徒の皮を被った者の仕業で悲劇は起き、クロードたちは常に無表情で基本、眉ひとつ動かさないベレトが父の亡骸の傍で大粒の涙をこぼして泣く姿を見ることとなった。黒い雲が空一面を埋め、堪えきれなかった冷たい雨粒が落ちてくる。空までベレトの父であるジェラルドの死を悼んでいるかのようだった。畳む
フレンが木の虚に置いた干し林檎の薄切りに、夜の茶会の乱入者たちが集っている。山の冬は過酷だから地上の虫は皆死に絶えて地中にいる幼虫や卵くらいしか生き延びないだろう、と思っていたクロードにとって意外な光景だった。幼気な少女が可愛らしい小鳥を越冬させるために木の実や果物を用意するなら分かる。しかし彼女が慈悲の心から差し入れをしていた相手は甲虫だ。虫の群れは正体が分からないまま眺めているとただひたすら気持ち悪い。だが餌を与えるのが蚕ならば糸が取れるし蜘蛛や蠍ならば毒が取れるから、と言う理由がある。理由があるならばクロードにも理解できる。
金鹿の学級は今節の課題として使われなくなった古い礼拝堂の調査を命じられていた。なんでも何者かが侵入した形跡があるのだと言う。級長としてベレトの許可を取り、下調べに訪れたクロードはフレンが木に何かしているのを見た。詳細を知るべく近寄って目にした異様な光景に一瞬、言葉を失う。
「クロードさん、何をしておいでですの?」
「課題の下調べだよ。あの古い礼拝堂を調査せよ、だとさ。フレンこそ何を?」
「この子たちが身を粉にして社会の均衡を守ってくれるのでそのささやかなお礼をしに」
「均衡?」
「私の秘密を守ると誓うならこの子たちに関する事実を教えて差し上げますわ」
調べるな、考えるな、と言わないのはクロードに禁じても無駄だ、とフレンが判断したからだろう。元より胸の内に収めるつもりだったクロードは彼女が出した条件を飲んだ。
「この子たちはこのガルグ=マク近辺で発見されました。オメガの皆さんの発情期を抑制する抑制剤の原料になりますの」
「フェロモンを阻害する分泌液でも出すのかな」
「今ここでこうしてリンゴを食べている子たちには無理ですわ。オメガの方のフェロモンを感じ取って近寄る子がたまに現れる程度でしょうね」
フォドラの抑制剤は出来が良すぎる。リーガン家でフォドラ社会に馴染むための教育を受けた時、クロードは真っ先にそう思った。パルミラにも抑制剤はあるがお粗末なもので発情期にオメガたちは小屋、と呼ばれる建物に隔離される。アルファたちを加害者にしないためだ。しかし激しい熱発作に耐えかねたオメガの中にはアルファからの情けをもらい、望まれぬ子が生まれぬように鬼灯に頼る。鬼灯は鎮咳薬になるがお産を控えた妊婦は絶対に摂取してはならない薬草だ。三ヶ月に一度のことなので計算もしやすく社会制度やイエ制度に体系的に組み込まれているためより一層、オメガたちが置かれる状況の悲惨さが増す。
平民同士であれば隔離中のことはなかったものとされて普通の結婚が出来る。だが王族や貴族に見初められた場合がより一層悲惨だ。確実に嫡子を作らねばならない王族や貴族は妊娠しやすいオメガを複数人囲うのでオメガたちは激しい競争をすることになる。
その極みがクロードが生まれ育ったパルミラの後宮だ。ぽっと出のアルファ女性である母ティアナとそんな母から生まれたクロード、ことカリードは父王の後宮に元からいたオメガたちからとにかく憎まれた。そんな訳でクロードはオメガに苦手意識があったのだが、それもフォドラでの生活で薄れつつある。後宮で子を作ることしか社会から求められていない彼らを哀れに思う。
それは皮肉なことにオメガたちが散々腐してきた母の血筋ゆえにフォドラへ一時退避が出来たからだ。そして、フォドラで子を産む以外の役目をきちんと果たすオメガたちを目の当たりにしたからだ。
「ここガルグ=マクで薬草を与えられ、交配を管理されながら育てられた子たちが各地のセイロス教会へ運ばれましたの。セイロス教がこのフォドラに広く深く根付いた理由のひとつですわね」
そして彼らが他国との交流に消極的な理由のひとつだろう。クロードはフレンの言葉を聞きながら、緑色の甲虫を指でそっと摘んで匂いを嗅いでみた。薬の原料であるならば忌避感はない。今、手元に小さな瓶があれば捕まえて自室で自分なりに調べることが出来るが、残念ながら持っていなかったのでそっと仲間の元へ返してやった。
「ためになる話をありがとう。お礼に何か俺にできることはあるか?」
先日、ローレンツはクロードにソロンと自分が同類だと思っているのか、と問うた。あの時は明言しなかったが答えは是、だ。クロードは目の前にいる少女の血には四聖人の力が宿っており、与えられた側の情報を書き換える力がある、という仮説を立てている。仮説を立てたらそれが合っているのか確かめたい、と思ってしまう。ただしクロードにはソロンやその一味ならば手枷足枷扱いするであろう、責任感や想像力がある。だがそれは同時にクロードの精神を守る防具や護符なのだ。
「ではお耳を拝借いたしますわ」
「こんな人気のないところで、か??」
「レア様が調査を命じられたのなら根拠があります。油断するべきではありませんわ」
クロードが身をかがめるとフレンは背伸びをしてそっと耳打ちをした。
「承った。しかし過保護な兄上だな…」
フレンは謎多き少女だ。クロードは彼女を幼女のように感じる時もあれば老女のように感じる時もある。
全員制服姿で出席する質素なものだが、それでも舞踏会を控えて学生たちはそれなりに浮かれていた。踊らないと決めて初志貫徹しているのはラファエルとマリアンヌくらいで、恥をかかないため恥をかかせないために皆それなりに踊りの練習をしている。そんな中、意外な人気者がいた。
ローレンツは男性の踊りも女性の踊りも出来るので色んな学生の練習台になっている。クロードは練習に付き合い、踊り続けて汗だくのローレンツに無言で水を差し出した。やはり彼は蓋に注いでから飲んでいる。
「おや、無言で寄越すとは珍しい。〝俺から差し出された物を素直に飲むなんて警戒心が足りない〟とでも言ってくるかと思ったが」
「新作の被験体になってもらってもよかったが、それをやると迷える子羊に恨まれそうなんでやめておいた」
「舞踏会前日までは僕の身は安全ということか」
とローレンツが混ぜっ返す。
「俺に教えようとしなければ、な」
フォドラとパルミラでは踊りの種類が違う。パルミラの踊りは二人で踊る時も向かい合うだけで身体を密着させない。抑制剤の質が踊りの種類に影響しているのだろう。医療体制が文化に影響を及ぼしていた。あちらの粗悪な抑制剤しかない状態で身体を密着させたら、あちこちでアルファとオメガの接触事故が起きてしまうかもしれない。そしてそもそも拍の刻み方が違うのでクロードはフォドラの踊りが苦手だ。
華やかに飾り付けられた会場の雰囲気に呑まれて皆が浮ついていた舞踏会の夜、クロードはフレンの願い通りにベレトを引っ張り出して騒ぎを起こした。どさくさに紛れてフレンをベレトや男子学生たちと踊らせるためだった。
クロードに苦情を言ってきたエーデルガルトを級長として場を盛り上げてみたらどうだ、と煽ったら何故かヒューベルトがペトラとみごとな踊りを披露したり踊りよりもご馳走、と言っていた筈のレオニーがシルヴァンをはじめとする青獅子の男子学生相手に特訓の成果を披露したり、イグナーツがメルセデスと踊ったりと意外なことだらけの夜だった。どさくさに紛れてフレンがディミトリと踊ったことを覚えている者はいないだろう。
クロードはベレトの手を取って踊って騒ぎを起こした後はずっとセテスに話しかけたり、イングリットやレオニーをセテスと踊るようにけしかけていた。男性と踊るフレンが彼の目に入らないように調整するのが忙しく、クロードは殆ど誰とも踊っていない。踊らずに済む理由を与えてくれたフレンには感謝しかなかった。何曲か踊り終えると学生たちが人目につかない物陰や女神の塔へ向けて、三々五々に散っていくのが見えた。皆、特別な行事の勢いを借りて関係性を変化させたいのだろう。人が減ったせいでクロードは会場にローレンツが居ないことに気づいた。
外へ探しにいくと舞踏会に向けて練習に付き合った学友たちと答え合わせのように散々踊って疲れたのか、ローレンツは女神の塔にもいかず夜風にあたって杯を片手に一人休んでいた。汗で貼り付いた髪の毛を手櫛で直したのかいつもは前髪で隠れている白い額が晒されている。いつぞやの浴室の時と同じく、視線だけクロードに寄越してきた。
「僕と違って殆ど踊っていなかったのだから涼む必要もないだろう」
「誰が女神の塔に行くのか見てやろうかと」
「出歯亀か、つまらん冗談だな。フレンさんは君と踊らなくてよかったのだろうか?」
「手を取り合う類の踊りは踊れないんだ」
「何なら踊れるのかね」
クロードの故郷、パルミラの踊りを母であるティアナは林檎もぎと胡椒挽き、と評していた。刻まれる拍子に合わせて身体を揺らしながら林檎をもぐ時のように片手を頭の上にやって手首を捻り、顔の横で胡椒を引く時のように両手首を捻る。大人数で動作を合わせて上手に踊ろうとすれば大変だが一人で勝手に踊る分には気軽だ。
「胡椒挽きと林檎もぎの踊りなら踊れる」
会場から少し漏れる音楽に合わせて手を動かすが拍子と動作がどんどんずれてくる。杯を空にしたローレンツがクロードの動きに合わせて、手拍子を打ってくれた。会場から漏れる音楽に合わせてではない。目の前で踊るクロードのために、クロードの動きに合わせて手拍子を打ってくれている。気がつくとクロードは汗だくになっていた。
「宮廷式の踊りが出来ない訳だ。拍子の取り方からして違う。君の動きが早すぎるから合わせているこちらの手が痛くなってしまった」
「はー、久しぶりに全力で踊ったぜ。酒が欲しい。中に戻ろうぜ」
二人が会場に戻るとローレンツは彼のために杯を持ってきたフェルディナントに連れて行かれてしまい、クロードはぽつんと一人その場に残された。フェルディナントは完全にローレンツの対象外だとなんとなく分かるので、クロードは心穏やかに彼らの交流を見ていられる。一方で彼がシルヴァンと話していると落ち着きを失ってしまう。人の減った会場内をぼんやり見回しているとクロードはセテスの監視から逃れたフレンに話しかけられた。
「クロードさんのおかげでとっても楽しく過ごしておりますわ。ありがとうございます。お姿が見えなかったからどなたかと女神の塔に行かれたのかと思いましたわ」
「いや、誰と誰が塔に行くのか見物には行きたいが俺個人がどうこうってのはないな」
「あら、自分から檻にとらわれるなんてつまらないですわ」
もしかしたらフレンは士官学校の職員用資料などを見なくても、誰がアルファで誰がオメガなのかは察しているのかもしれない。
「いや、良いんだ。楽しそうに踊っている所も見られたし俺の踊りも見てもらえたからな」
「満ち足りた気持ちですのね?」
「そうだな、偽りなくそう言えるよ」
楽しそうにフェルディナントと語らうローレンツを見つめてクロードはそう答えた。本心だった。
舞踏会の夜があまりに良い夜だったせいでクロードは油断していたのかもしれない。アビスに出入りしている身でありながら古い礼拝堂を調査したところで大したものは出てこないだろう、と思いたがっていた。実際はああいった所にこそ秘密や恐怖が隠されているものなのに。
現実は都合の良い幻想を砕き、先日フレンと話した時の静かな景色はもうそこには残っていない。礼拝堂は崩壊し、暴れる魔獣たちは越冬する甲虫たちが身を寄せあっている木を薙ぎ倒した。今朝もフレンは虫たちに差し入れをしたのだろうか。管理されている虫たちは修道院のどこにいるのだろうか。
クロードたちがジェラルドの指示に従い、逃げ遅れた学生を救助するとそのために撃破した魔獣の中から別の学生が現れた。他学級はどうだか知らないがクロードたちはコナン塔でシルヴァンの兄マイクランが魔獣へと変化したところを見ている。マイクランのように不可逆ではなかったが、彼らも何かによって肉体の情報を書き換えられて魔獣になっていた。詰めが甘かったせいなのか、わざと人の形を取り戻せるようにしたのかは判らない。だが元の姿を取り戻せたのは僥倖だった、と後にマヌエラが話していた。アビスの資料とも照らし合わせて予後を把握する必要があるだろう。
そして生徒の皮を被った者の仕業で悲劇は起き、クロードたちは常に無表情で基本、眉ひとつ動かさないベレトが父の亡骸の傍で大粒の涙をこぼして泣く姿を見ることとなった。黒い雲が空一面を埋め、堪えきれなかった冷たい雨粒が落ちてくる。空までベレトの父であるジェラルドの死を悼んでいるかのようだった。畳む
「さかしま」12.#クロロレ #さかしま #完売本 #オメガバース
ジェラルドは忙しい合間を縫って学生たちに剣の指導をしていたらしい。彼から剣の稽古をつけて貰っていた者たちは皆、彼の死に衝撃を受けていた。彼ほど強くても脇腹を小刀で刺されて死んでしまう。肉体の儚さを思えば舞踏会で踊るべきだし、女神の塔にも行くべきだ。騎士団の宴はいつでも馬鹿騒ぎだがそれには理由がある。やりたいことを我慢出来るほど人生は長くない。人生は儚く短すぎる。
ベレトは健啖家でローレンツをよく昼食に誘ってくれたがここ数日は食堂で彼を見かけることがない。クロードやフレン、それにセイロス騎士団のアロイスがたまに食事を届けに行っているが、中身が残ったままの籠が戻ってくることも多いと聞く。だが今日はクロードが空の籠を持っていた。
「食べてくれたようだな」
「二日ぶりだ。あの大食漢の先生が食べないなんてよっぽどだ。まあひどいことが起きたから当たり前だが……」
「そうだな。ところでクロード、今晩僕の部屋に来てくれ。先生や皆に伝えるべきか迷っている話があるから相談したい」
「分かった。時間を作る」
生徒たちは皆、表立って口にださないがジェラルドの仇討ちを望んでいる。ガルグ=マクから各地方へ部隊が派遣されクロニエたちの行方を探しているが捕縛したという報告はまだない。
士官学校の生徒たちは追跡する部隊には加えられずにいるが皆、同郷のセイロス騎士団所属の騎士たちから話を聞き、彼らの動向だけは掴んでいた。そしてローレンツはグロスタール領出身の騎士から気になる話を聞いている。
その晩、ローレンツは給茶器に火を入れてから地図を広げた。頭の中を整理するため盤上遊戯の駒を印代わりに置いていく。クロードにどう説明すべきかローレンツが考え込んでいると扉を叩く音がした。
近頃クロードはローレンツの部屋を訪れるときに小さなお土産を持ってくる。今日は干し葡萄を持ってきたので礼を言い、皿に開けているとクロードはもう地図を凝視していた。
「ソロンとクロニエが目撃された場所がてんでばらばら過ぎるな。あいつらは外見を操れるだろう?遠方の仲間に化けさせただけかもしれない」
ソロンたちの人相は早馬などで各地に伝えられたが遠方に行けば行くほど不正確になっていく。ソロンたちの協力者が彼を装うのは簡単だろう。
「こちらの戦線が伸び切って簡単には戻ってこれなくなったところで姿を表し、先生を誘き出そうとしていると僕は思う。だが見過ごせない話がある」
クロードがローレンツの淹れた紅茶に口をつけた。
「この辺りで連中が目撃されたらしい。グロスタール領出身のセイロス騎士団団員が僕に教えてくれた」
「あの時、礼拝堂にもいた奴か?」
ローレンツが頷くとクロードは持参した干し葡萄を何粒が口に放り込んで唸った。多分ローレンツと同じことを考えている。一度対決している者たちを適当な変装で誤魔化すのは難しい。
「それなら本物だろう。自分の身を囮にしてるんだ」
「わざわざ罠に嵌りに行くのか」
「先生と俺たちなら勝てる」
はったりなのか本気なのか、クロードの顔を見ているだけでは分からない。
「何を賭けているのか分かっているのか?勝てなかったらどうするつもりなのだ?」
紋章の力を持ってしても勝てるかどうか不明な相手に騎士団の加勢なしで戦いを挑もう、とクロードは言っている。
「頭を掻いて誤魔化すさ。もし負けても生きていられたらな」
「では僕はもし生き残れたらその頭を引っ叩いてやるから覚悟しておけ」
だが自分たち単独で出撃など出来るはずもない。クロードは教会を説得する必要がある。きっと無理だろうと思っていたが、ローレンツたちに大司教レアから正式な出撃許可が下りた。
クロードは使命を果たす、といって大司教レアとその補佐セテスを説得したようだ。騎士物語では使命を題材として取り上げることが多い。子供っぽい話だがローレンツはまるで自分が騎士物語の登場人物になったような気持ちがした。しかしその後の展開は著者がいる物語を超え、伝説や神話のようになっていった。ザラスの闇に呑まれ、女神の力によって教え子たちの元に戻ってきたベレトはその髪の色も瞳の色も若草色に変化している。あまりの展開にローレンツはクロードの頭を引っ叩き忘れた。
大司教レアはベレトが女神の啓示を受けるに相応しい状態になったので女神再臨の儀式を執り行う、と告げた。聖域の内部で目につく機構にいちいちはしゃぐクロードを皆で寄ってたかってうるさいから黙れ、と注意するだけでこの日が終わってくれたなら、どれほど良かっただろうか。儀式の成否は人智を超えているので身の安全が保障される限りは正直言ってどちらでも構わなかった。結果として儀式は失敗に終わり───しかも帝国軍が攻め込んできた。なんとか撃退できたもののこれまでの叛乱とは訳が違う。
ローレンツは士官学校で過ごす一年間をとても楽しみにしていた。各地から集まる優秀な若者たちと友人となり、共に武術や学問を修め運が良ければ名家出身で紋章を持つアルファのご令嬢と出会えるかもしれない───そう考えていた。オメガの仲間たちが出来てシルヴァンやフェルディナントと友人になり、ベレトから武術を学べたので最後の目標以外は達成出来ている。
最後の目標は士官学校で達成出来なければ両親が探してくるのは決定済みだ。それだけに運命の出会いのようなものがあれば良かったのに、と思っていたがこんな事態では伴侶探しも中断せざるをえない。
クロードが炎帝の仮面を落とし、その正体がエーデルガルトであると知らしめたその日から皆どうやって故郷に帰るのか、を最優先に過ごしている。セテスから今はまだ安全のために寮に留まれ、と言われているが水面下では皆、荷物をまとめていた。金鹿の学級の学生たちはヒルダやリシテアのように東へ向かってアミッド大河を目指すものたちとローレンツ、クロード、マリアンヌのように北上するものたちに別れる。
連日連夜、ローレンツとクロードはローレンツの部屋で地図を見て誰をどのように帰すべきか考えていた。おそらくきちんと引き上げるのは不可能なので、持ち帰ることができないであろう良い茶葉を使い切ってしまいたくて紅茶を毎晩、何杯も何杯も飲んでいる。
「全土の諸侯へ檄文が送られている筈だから息子や娘が心配な諸侯は迎えを出しているだろう。グロスタール家はどんな感じだ?」
「うちはデアドラに上屋敷があるからグロスタール領に戻れない場合は僕がそこへ行くだけだ。デアドラまで行く必要のない学生も多い。解散するとしたらもっと手前であるべきだ」
帝国軍は斥候も兼ねて逃げた学生たちを追いながら北上してくるはずだ。帝国の動きを警戒し、領内に大部隊を展開させているダフネルに入ってしまえば逃げ切れるだろう。
「そうするとひとまずダフネル領を目指すことになるかな?ジュディッドがいるから帝国軍も介入し難いだろう」
「そうだな。ディミトリくんたちともそこまでは行動を共に出来るだろう」
ファーガス出身の学生たちはそこからガラテア領に向けてさらに北上していく。
「俺たちは雪山に紛れられるがヒルダたちは大変だな」
「ヒルダさんたちは船に乗れるか乗れないかで大違いだな。彼女たちの幸運を祈ろう」
この時点のローレンツは自分が最も自領に戻るのに苦労する羽目になるとは考えていなかった。畳む
ジェラルドは忙しい合間を縫って学生たちに剣の指導をしていたらしい。彼から剣の稽古をつけて貰っていた者たちは皆、彼の死に衝撃を受けていた。彼ほど強くても脇腹を小刀で刺されて死んでしまう。肉体の儚さを思えば舞踏会で踊るべきだし、女神の塔にも行くべきだ。騎士団の宴はいつでも馬鹿騒ぎだがそれには理由がある。やりたいことを我慢出来るほど人生は長くない。人生は儚く短すぎる。
ベレトは健啖家でローレンツをよく昼食に誘ってくれたがここ数日は食堂で彼を見かけることがない。クロードやフレン、それにセイロス騎士団のアロイスがたまに食事を届けに行っているが、中身が残ったままの籠が戻ってくることも多いと聞く。だが今日はクロードが空の籠を持っていた。
「食べてくれたようだな」
「二日ぶりだ。あの大食漢の先生が食べないなんてよっぽどだ。まあひどいことが起きたから当たり前だが……」
「そうだな。ところでクロード、今晩僕の部屋に来てくれ。先生や皆に伝えるべきか迷っている話があるから相談したい」
「分かった。時間を作る」
生徒たちは皆、表立って口にださないがジェラルドの仇討ちを望んでいる。ガルグ=マクから各地方へ部隊が派遣されクロニエたちの行方を探しているが捕縛したという報告はまだない。
士官学校の生徒たちは追跡する部隊には加えられずにいるが皆、同郷のセイロス騎士団所属の騎士たちから話を聞き、彼らの動向だけは掴んでいた。そしてローレンツはグロスタール領出身の騎士から気になる話を聞いている。
その晩、ローレンツは給茶器に火を入れてから地図を広げた。頭の中を整理するため盤上遊戯の駒を印代わりに置いていく。クロードにどう説明すべきかローレンツが考え込んでいると扉を叩く音がした。
近頃クロードはローレンツの部屋を訪れるときに小さなお土産を持ってくる。今日は干し葡萄を持ってきたので礼を言い、皿に開けているとクロードはもう地図を凝視していた。
「ソロンとクロニエが目撃された場所がてんでばらばら過ぎるな。あいつらは外見を操れるだろう?遠方の仲間に化けさせただけかもしれない」
ソロンたちの人相は早馬などで各地に伝えられたが遠方に行けば行くほど不正確になっていく。ソロンたちの協力者が彼を装うのは簡単だろう。
「こちらの戦線が伸び切って簡単には戻ってこれなくなったところで姿を表し、先生を誘き出そうとしていると僕は思う。だが見過ごせない話がある」
クロードがローレンツの淹れた紅茶に口をつけた。
「この辺りで連中が目撃されたらしい。グロスタール領出身のセイロス騎士団団員が僕に教えてくれた」
「あの時、礼拝堂にもいた奴か?」
ローレンツが頷くとクロードは持参した干し葡萄を何粒が口に放り込んで唸った。多分ローレンツと同じことを考えている。一度対決している者たちを適当な変装で誤魔化すのは難しい。
「それなら本物だろう。自分の身を囮にしてるんだ」
「わざわざ罠に嵌りに行くのか」
「先生と俺たちなら勝てる」
はったりなのか本気なのか、クロードの顔を見ているだけでは分からない。
「何を賭けているのか分かっているのか?勝てなかったらどうするつもりなのだ?」
紋章の力を持ってしても勝てるかどうか不明な相手に騎士団の加勢なしで戦いを挑もう、とクロードは言っている。
「頭を掻いて誤魔化すさ。もし負けても生きていられたらな」
「では僕はもし生き残れたらその頭を引っ叩いてやるから覚悟しておけ」
だが自分たち単独で出撃など出来るはずもない。クロードは教会を説得する必要がある。きっと無理だろうと思っていたが、ローレンツたちに大司教レアから正式な出撃許可が下りた。
クロードは使命を果たす、といって大司教レアとその補佐セテスを説得したようだ。騎士物語では使命を題材として取り上げることが多い。子供っぽい話だがローレンツはまるで自分が騎士物語の登場人物になったような気持ちがした。しかしその後の展開は著者がいる物語を超え、伝説や神話のようになっていった。ザラスの闇に呑まれ、女神の力によって教え子たちの元に戻ってきたベレトはその髪の色も瞳の色も若草色に変化している。あまりの展開にローレンツはクロードの頭を引っ叩き忘れた。
大司教レアはベレトが女神の啓示を受けるに相応しい状態になったので女神再臨の儀式を執り行う、と告げた。聖域の内部で目につく機構にいちいちはしゃぐクロードを皆で寄ってたかってうるさいから黙れ、と注意するだけでこの日が終わってくれたなら、どれほど良かっただろうか。儀式の成否は人智を超えているので身の安全が保障される限りは正直言ってどちらでも構わなかった。結果として儀式は失敗に終わり───しかも帝国軍が攻め込んできた。なんとか撃退できたもののこれまでの叛乱とは訳が違う。
ローレンツは士官学校で過ごす一年間をとても楽しみにしていた。各地から集まる優秀な若者たちと友人となり、共に武術や学問を修め運が良ければ名家出身で紋章を持つアルファのご令嬢と出会えるかもしれない───そう考えていた。オメガの仲間たちが出来てシルヴァンやフェルディナントと友人になり、ベレトから武術を学べたので最後の目標以外は達成出来ている。
最後の目標は士官学校で達成出来なければ両親が探してくるのは決定済みだ。それだけに運命の出会いのようなものがあれば良かったのに、と思っていたがこんな事態では伴侶探しも中断せざるをえない。
クロードが炎帝の仮面を落とし、その正体がエーデルガルトであると知らしめたその日から皆どうやって故郷に帰るのか、を最優先に過ごしている。セテスから今はまだ安全のために寮に留まれ、と言われているが水面下では皆、荷物をまとめていた。金鹿の学級の学生たちはヒルダやリシテアのように東へ向かってアミッド大河を目指すものたちとローレンツ、クロード、マリアンヌのように北上するものたちに別れる。
連日連夜、ローレンツとクロードはローレンツの部屋で地図を見て誰をどのように帰すべきか考えていた。おそらくきちんと引き上げるのは不可能なので、持ち帰ることができないであろう良い茶葉を使い切ってしまいたくて紅茶を毎晩、何杯も何杯も飲んでいる。
「全土の諸侯へ檄文が送られている筈だから息子や娘が心配な諸侯は迎えを出しているだろう。グロスタール家はどんな感じだ?」
「うちはデアドラに上屋敷があるからグロスタール領に戻れない場合は僕がそこへ行くだけだ。デアドラまで行く必要のない学生も多い。解散するとしたらもっと手前であるべきだ」
帝国軍は斥候も兼ねて逃げた学生たちを追いながら北上してくるはずだ。帝国の動きを警戒し、領内に大部隊を展開させているダフネルに入ってしまえば逃げ切れるだろう。
「そうするとひとまずダフネル領を目指すことになるかな?ジュディッドがいるから帝国軍も介入し難いだろう」
「そうだな。ディミトリくんたちともそこまでは行動を共に出来るだろう」
ファーガス出身の学生たちはそこからガラテア領に向けてさらに北上していく。
「俺たちは雪山に紛れられるがヒルダたちは大変だな」
「ヒルダさんたちは船に乗れるか乗れないかで大違いだな。彼女たちの幸運を祈ろう」
この時点のローレンツは自分が最も自領に戻るのに苦労する羽目になるとは考えていなかった。畳む
「さかしま」14.#クロロレ #さかしま #完売本 #オメガバース
こうならないようにローレンツの身を案じた両親が教育係を付けてくれたのに全てを無駄にしてしまった、と絶望するグロスタール家嫡子である自分と生まれて初めて欲求不満が解消されて晴れやかなオメガの自分がいて、どんな顔をすればいいのか分からない。アルファとの性行為がなければ治まるまで十日ほど必要となる熱発作、こと発情期だがクロードの協力もあり二日ほどで治った。
どれほど時間が経ったのかは不明だが、まだ微かに暖炉には温もりが残っている。我に返って横たわったまま、体を検分してみれば酷い状態だった。喉が内も外も引きつれるように痛む。だが頸や喉元を触った指に血は付かなかった。正式な番になるとアルファから血が出るような強さで深く、頸や喉元を噛まれる。血がついた枕覆いを証拠として掲げる地方もあるらしい。気恥ずかしくはないのだろうか。
アルファの唾液がフェロモンを分泌する部分へ直接流し込まれると発情期のアルファを無差別に誘うフェロモンの分泌が減少するらしい。アルファの唾液によりオメガの肉体は書き換えられる、ということだ。フレンの血には人間の身体を書き換えて魔獣にする力があるのではないか、というクロードの仮説と少し似ている。
隣で眠るクロードは責任を取れ、と言い募るのも馬鹿らしいほど幸せそうな顔をして褐色の瞼を閉じている。ローレンツだって発情期に本能の赴くままに過ごすのは初めてだったが、クロードも初めて本能の赴くままにオメガの肉体を貪ったのだろう。アルファの男性はどの階級の女性とも行為が可能だが、俗説では男女問わずオメガが一番好いのだと聞く。この幸せそうな顔は自分の具合が良かったからなのだろうか。そんなことを考えてしまったせいでローレンツの頬に熱が集まる。寒い冬の山中で傍の温もりは心地よく、出来れば離れたくはないのだが水を飲むためには色んな箇所が痛む身体を起こす必要があった。
服を脱ぎ散らかしたせいで手の届くところに服がない。ローレンツは裸のまま痛む腰をさすりながら立ち上がって水を飲んだ。窓の外へ視線をやれば外は相変わらず雪が降っている。声を出せるようになったので薪を足し、ファイアーの呪文を唱えて暖炉に再び火を入れた。
クロードと自分の服を拾い集めているうちに股間から太ももをつたって白濁が垂れて来たので慌てて布で拭う。着替えにも乏しいので全て外に掻き出してからでなければ服が着られない。
身体が冷えたローレンツは再び毛布にくるまって眠るクロードの脇に潜り込んで暖をとった。肌と肌が触れ合うと吸い付くような気がして、抱き合ったまま再び眠りたくなるが残念ながらそうはいかない。目の前にあるクロードの頬を軽く叩いた。
「起きろ、クロード。当事者として君が知っておくべきことがある」
「おはよう、ローレンツ」
多幸感に溢れた状態で目を覚ましたのかクロードはうっすらと微笑みを浮かべている。だが、ローレンツの発言ですぐに現実に引き戻されるだろう。
「四分の一だ」
「何が」
「僕が妊娠している確率だ」
クロードは寝返りを打ってため息を吐いた。褐色の背中にはローレンツが付けたであろう引っ掻き傷が生々しく残っている。入浴する際には汗やお湯が沁みるだろう。
「うっ……それはかなり高いな」
仮に妊娠しているとして、の話だがリーガンの紋章を持つ可能性がある子供だ。たとえその子の持つ紋章がグロスタールの紋章であったとしても紋章学の理論上ではクロードとローレンツの子供の子供、つまり孫にはリーガンの紋章が継承される可能性が高い。よりによって敵対しているグロスタール家のオメガと作ってしまった、とはいえクロードの祖父オズワルドにとっては喉から手が出るほど欲しい存在だろう。
「結婚して抑制剤の服用を中止しても最初の発情期で妊娠する者はあまりいない、とも聞く。それでも四分の一の確率で妊娠する可能性がある」
「俺の祖父さんや家臣たちは産んで欲しいと言うだろうな」
では今、ローレンツに背を向けるクロード本人はどうなのだろうか。昨晩、自分を頼れとローレンツを抱いたクロード個人はどう考えているのだろうか。
「数は力だ。人がいなくては何もできない」
ローレンツがそう返すとクロードは再び寝返りを打ち、白い喉元の歯型を褐色の指でそっとなぞった。彼も同じことを考えていたようで、指先に血が付かず安堵のため息を吐く。もしあの晩に勢いで番になってしまっていたら両家共に将来、生まれるであろう紋章を受け継ぐ子供を人質に取られたも同然だ。
「リーガン家は家族と縁が薄い家らしい。祖父さんと俺の親はこじれにこじれた。俺も祖父さんみたいに自分の家族とこじれるのかもしれない。でもそんなこと腹の中の子供には関係ないだろう」
クロードの指が白い喉をたどってローレンツの頬に触れた。彼の指が熱いので自分の顔が冷えているのだ、とローレンツは分からされてしまう。
「産んでも産まなくても俺はお前の味方をするよ。どのみちお産ってのは大変だそうだから、一人で産むことなんか出来ないだろう。お前もご両親と相談しなきゃならない。その結果どんな判断をしても尊重する」
緑の瞳でローレンツを見つめて淡々と考えを述べるクロードが稀代の大嘘つきなのか、それとも正直者なのかローレンツには分からない。ただローレンツが求めていた言葉なのは確かだ。
「抑制剤を飲んでいた時の周期通り二日後に生理が来ればこの会話は全て笑い話になる」
「笑い話になんかしない」
毛布の中で自分の腹を撫でたローレンツは何故、クロードが少し怒った様な口調で言い返したのか分からなかった。
「君なら笑い話にしそうなものだが。あぁ、またか…失礼」
ローレンツは立ち上がって先程使った布でまた太股を拭った。目の前で何が起きているのか理解したクロードは頰が熱いのか掌で顔を仰いでいる。
「そんな風に出てくるなんて知らなかった」
「僕だって初めて知ったよ。流石にこれで全部かな。ようやく服が着られる。下履きに垂れたら次に洗濯できるまで服に君の匂いが染みついたままになってしまう」
ローレンツは呆然とするクロードを放置して拾い集めた服を身につけた。先程白濁を拭った布を暖炉に放り込み、次に余っていた敷布を縦に割き始める。こんなにゆったりと身支度できる機会がいつ来るのか分からないし、ダフネル領の街中で買い物ができるようになるまで粗相をして貴重なズボンを駄目にするわけにいかない。こうした些細な工夫も教育係から学んだ。
「何してるんだ?」
「生理が始まったら畳んで挟む。出血したまま行軍したらズボンに垂れた血でズボンが駄目になるし、へばりついた血が固まると足の付け根の皮膚を切ってしまう」
男性アルファからすれば煩わしいことだらけの生活だろうが慣れてしまえば特に問題はない。クロードはオメガとアルファの生態の違いに改めて衝撃を受けたようだ。一向に身支度をしようとしないのでローレンツはクロードの顔に向けて拾い集めた彼の服を一枚ずつ放り投げた。中々、命中率が高く癖っ毛の上に布が山のように重なっていく。
「普通こう言うのって脱ぐ時に一枚ずつ投げつけてくれるんじゃないのかよ!」
布の塊の中からようやく本来の調子を取り戻したような声がした。ローレンツはクロードの理屈が先行して実践が伴っていないところが嫌いではない。
「なんだ君、昨日僕にそうして欲しかったのか?」
いつの間にか雪は止み日が射していた。畳む
こうならないようにローレンツの身を案じた両親が教育係を付けてくれたのに全てを無駄にしてしまった、と絶望するグロスタール家嫡子である自分と生まれて初めて欲求不満が解消されて晴れやかなオメガの自分がいて、どんな顔をすればいいのか分からない。アルファとの性行為がなければ治まるまで十日ほど必要となる熱発作、こと発情期だがクロードの協力もあり二日ほどで治った。
どれほど時間が経ったのかは不明だが、まだ微かに暖炉には温もりが残っている。我に返って横たわったまま、体を検分してみれば酷い状態だった。喉が内も外も引きつれるように痛む。だが頸や喉元を触った指に血は付かなかった。正式な番になるとアルファから血が出るような強さで深く、頸や喉元を噛まれる。血がついた枕覆いを証拠として掲げる地方もあるらしい。気恥ずかしくはないのだろうか。
アルファの唾液がフェロモンを分泌する部分へ直接流し込まれると発情期のアルファを無差別に誘うフェロモンの分泌が減少するらしい。アルファの唾液によりオメガの肉体は書き換えられる、ということだ。フレンの血には人間の身体を書き換えて魔獣にする力があるのではないか、というクロードの仮説と少し似ている。
隣で眠るクロードは責任を取れ、と言い募るのも馬鹿らしいほど幸せそうな顔をして褐色の瞼を閉じている。ローレンツだって発情期に本能の赴くままに過ごすのは初めてだったが、クロードも初めて本能の赴くままにオメガの肉体を貪ったのだろう。アルファの男性はどの階級の女性とも行為が可能だが、俗説では男女問わずオメガが一番好いのだと聞く。この幸せそうな顔は自分の具合が良かったからなのだろうか。そんなことを考えてしまったせいでローレンツの頬に熱が集まる。寒い冬の山中で傍の温もりは心地よく、出来れば離れたくはないのだが水を飲むためには色んな箇所が痛む身体を起こす必要があった。
服を脱ぎ散らかしたせいで手の届くところに服がない。ローレンツは裸のまま痛む腰をさすりながら立ち上がって水を飲んだ。窓の外へ視線をやれば外は相変わらず雪が降っている。声を出せるようになったので薪を足し、ファイアーの呪文を唱えて暖炉に再び火を入れた。
クロードと自分の服を拾い集めているうちに股間から太ももをつたって白濁が垂れて来たので慌てて布で拭う。着替えにも乏しいので全て外に掻き出してからでなければ服が着られない。
身体が冷えたローレンツは再び毛布にくるまって眠るクロードの脇に潜り込んで暖をとった。肌と肌が触れ合うと吸い付くような気がして、抱き合ったまま再び眠りたくなるが残念ながらそうはいかない。目の前にあるクロードの頬を軽く叩いた。
「起きろ、クロード。当事者として君が知っておくべきことがある」
「おはよう、ローレンツ」
多幸感に溢れた状態で目を覚ましたのかクロードはうっすらと微笑みを浮かべている。だが、ローレンツの発言ですぐに現実に引き戻されるだろう。
「四分の一だ」
「何が」
「僕が妊娠している確率だ」
クロードは寝返りを打ってため息を吐いた。褐色の背中にはローレンツが付けたであろう引っ掻き傷が生々しく残っている。入浴する際には汗やお湯が沁みるだろう。
「うっ……それはかなり高いな」
仮に妊娠しているとして、の話だがリーガンの紋章を持つ可能性がある子供だ。たとえその子の持つ紋章がグロスタールの紋章であったとしても紋章学の理論上ではクロードとローレンツの子供の子供、つまり孫にはリーガンの紋章が継承される可能性が高い。よりによって敵対しているグロスタール家のオメガと作ってしまった、とはいえクロードの祖父オズワルドにとっては喉から手が出るほど欲しい存在だろう。
「結婚して抑制剤の服用を中止しても最初の発情期で妊娠する者はあまりいない、とも聞く。それでも四分の一の確率で妊娠する可能性がある」
「俺の祖父さんや家臣たちは産んで欲しいと言うだろうな」
では今、ローレンツに背を向けるクロード本人はどうなのだろうか。昨晩、自分を頼れとローレンツを抱いたクロード個人はどう考えているのだろうか。
「数は力だ。人がいなくては何もできない」
ローレンツがそう返すとクロードは再び寝返りを打ち、白い喉元の歯型を褐色の指でそっとなぞった。彼も同じことを考えていたようで、指先に血が付かず安堵のため息を吐く。もしあの晩に勢いで番になってしまっていたら両家共に将来、生まれるであろう紋章を受け継ぐ子供を人質に取られたも同然だ。
「リーガン家は家族と縁が薄い家らしい。祖父さんと俺の親はこじれにこじれた。俺も祖父さんみたいに自分の家族とこじれるのかもしれない。でもそんなこと腹の中の子供には関係ないだろう」
クロードの指が白い喉をたどってローレンツの頬に触れた。彼の指が熱いので自分の顔が冷えているのだ、とローレンツは分からされてしまう。
「産んでも産まなくても俺はお前の味方をするよ。どのみちお産ってのは大変だそうだから、一人で産むことなんか出来ないだろう。お前もご両親と相談しなきゃならない。その結果どんな判断をしても尊重する」
緑の瞳でローレンツを見つめて淡々と考えを述べるクロードが稀代の大嘘つきなのか、それとも正直者なのかローレンツには分からない。ただローレンツが求めていた言葉なのは確かだ。
「抑制剤を飲んでいた時の周期通り二日後に生理が来ればこの会話は全て笑い話になる」
「笑い話になんかしない」
毛布の中で自分の腹を撫でたローレンツは何故、クロードが少し怒った様な口調で言い返したのか分からなかった。
「君なら笑い話にしそうなものだが。あぁ、またか…失礼」
ローレンツは立ち上がって先程使った布でまた太股を拭った。目の前で何が起きているのか理解したクロードは頰が熱いのか掌で顔を仰いでいる。
「そんな風に出てくるなんて知らなかった」
「僕だって初めて知ったよ。流石にこれで全部かな。ようやく服が着られる。下履きに垂れたら次に洗濯できるまで服に君の匂いが染みついたままになってしまう」
ローレンツは呆然とするクロードを放置して拾い集めた服を身につけた。先程白濁を拭った布を暖炉に放り込み、次に余っていた敷布を縦に割き始める。こんなにゆったりと身支度できる機会がいつ来るのか分からないし、ダフネル領の街中で買い物ができるようになるまで粗相をして貴重なズボンを駄目にするわけにいかない。こうした些細な工夫も教育係から学んだ。
「何してるんだ?」
「生理が始まったら畳んで挟む。出血したまま行軍したらズボンに垂れた血でズボンが駄目になるし、へばりついた血が固まると足の付け根の皮膚を切ってしまう」
男性アルファからすれば煩わしいことだらけの生活だろうが慣れてしまえば特に問題はない。クロードはオメガとアルファの生態の違いに改めて衝撃を受けたようだ。一向に身支度をしようとしないのでローレンツはクロードの顔に向けて拾い集めた彼の服を一枚ずつ放り投げた。中々、命中率が高く癖っ毛の上に布が山のように重なっていく。
「普通こう言うのって脱ぐ時に一枚ずつ投げつけてくれるんじゃないのかよ!」
布の塊の中からようやく本来の調子を取り戻したような声がした。ローレンツはクロードの理屈が先行して実践が伴っていないところが嫌いではない。
「なんだ君、昨日僕にそうして欲しかったのか?」
いつの間にか雪は止み日が射していた。畳む
「さかしま」15.#クロロレ #さかしま #完売本 #オメガバース
話し合いは杞憂に終わった。
あまり大股で歩けないローレンツに合わせて歩くしかなかったため、日が暮れても人里に辿り着けていない。天幕を張るのにちょうどいい場所を探しているときに一言あ、と言ってローレンツが背嚢を持ったまま、木陰に身を隠した。用でも足すのかとクロードが少し離れた場所で待っていると中々戻ってこない。心配になって何が起きたのか見に行くと彼は身を丸くして蹲っていた。
「どうやら君の矢は的を外したようだ。そして今日はもう歩けそうにない」
抑制剤を服用していない状態での生理は重いと聞くのに、貧血気味で青ざめたローレンツがそんな冗談を言うのでクロードは思わず笑ってしまった。彼は自分の体調が悪く、足を引っ張ってしまっていることを気にしている。ここで笑わない方がもっと失礼な気がした。
「いいさ、背負ってやるよ。借りを返すなんて思わないでくれ」
大柄なローレンツを背負って休み休み歩きながらようやく小さな集落に辿り着いた。開戦の知らせはこんなところにも伝わっていて村人たちは不安がっている。金貨を差し出し、ローレンツを暖かい場所で休ませてもらうことにした。
屋内に入れて安心したのかローレンツは毛布に包まって暖炉の前から動かない。彼の代わりにクロードがこの先の足の手配をしていた。街道まではおそらく馬か橇になるだろう。そして案の定、橇は余っていてもそれを引く馬や犬が余っていなかった。
時間の経過とともにローレンツの体調は戻るが追っ手も距離を詰めてくる可能性が高い。ダフネル家が完全に支配している街道まで早く移動しなければならなかった。少し遠くまで狩りにでている男衆が戻ったら改めて相談するしかない。
クロードが脳内で地図を広げ、黙りこくって考えごとに耽っているとクロードたちを招き入れてくれた家の奥方が、背中に赤ん坊をおぶったまま煎じ薬と身体を拭く布や水桶を持ってきてくれた。微動だにしないローレンツを見てため息をつく。
「ちょっと旦那さんあなたね、早く子供を産ませてあげないからいつまでも月のものが重いのよ。可哀想に、私も覚えがあるわ。でも子供を産んで本当に軽くなったの」
そりゃあね、すごく綺麗な男オメガだし二人きりの時間を長く楽しみたいってのは分かるけど───から始まった怒涛の小言が終わるまでクロードは押し黙っていた。傾聴を終えご忠告感謝します、というと満足したのか働き者の彼女は再び外へと戻っていった。確かにクロードとローレンツは発情期に行為に及んでいる。だが、無関係な他者から連れ合いに見られるとは考えていなかった。
「血の匂いかな……いつもなら香水で誤魔化すのだがこんな状況では仕方がない。クロード、君は不本意だろうが僕の体調が戻るまではそう思わせておいた方がいい。僕はまだ君に肩を貸してもらわねば歩けないし、これで追手への証言内容も変わるだろう」
毛布の塊から声がした。彼はずっとうずくまっていたがきちんと会話は耳にしていたらしい。クロードはそっとローレンツの隣に座って労るように身体を撫でた。
「明日になったところで身動きが取れるかどうか分からないんだ。今はゆっくり休むといい」
追手が探しているのはリーガン家の嫡子とグロスタール家の嫡子だ。だが集落の住民たちはクロードとローレンツをアルファとオメガの若い連れ合いだと思っている。誤解が深まれば深まるほどローレンツの言うとおり追手の聞き込みを否定してくれるだろう。
深くため息をついたローレンツは意を決して身を起こし、奥方が煎じてくれた薬を口にした。山で摘んだ薬草をただ煎じただけの素朴なものなので見るからに苦い。クロードは苦さに溜まりかねて眉間に皺を寄せているローレンツの眉間に唇を落として真っ直ぐな紫の髪を褐色の手で梳いた。
「なっ……何をするんだ?!」
驚いたローレンツが取り落とす前にクロードは煎じ薬の入った水呑みを取り上げ、倒さないように机の上に置いた。
「誤解させといた方が良いんだろ?しかしローレンツも髪の毛伸びたな」
ガルグ=マクにいた頃は耳の辺りで切り揃えられて髪が顎のあたりまで伸びている。手入れも満足に出来なかったので少し不揃いになっていた。だが、悪くない。
「フェルディアにいた頃はもっと長かった。魔力は髪の毛にも宿るからな」
ローレンツは白い指で肩のあたりを叩いた。この辺まで伸ばしていた、ということなのだろう。そして彼のいう通り、確かに各学級で魔法の専門職を目指していた生徒は皆髪の毛を伸ばしていた。
「そういやマリアンヌやアネットも髪の毛が長かったな」
「メルセデスさんやリンハルトくん、それにドロテアさんも伸ばしていただろう?ハンネマン先生やマヌエラ先生の域に達すれば関係ないが」
「また伸ばせよ」
クロードがそういうとローレンツは自分の頭を手櫛で梳いた。
「ああ、毛先が跳ねていて苛々する。手入れにも手間が掛かるし馬術や槍術の邪魔になると思ってあの長さにしていた」
「剃刀だけじゃあの髪型は無理だよな」
フォドラの歩兵は基本、髭を生やさない。格闘中に敵の戦士に髭を掴まれてしまうと不利になるからだ。士官学校では騎兵を目指す者達も基本、髭を伸ばさないようにこまめに手入れせよ、と指導される。セテスの顎髭やハンネマンやアロイスの口髭は実力の証なのだ。
「そういう君は狩猟小屋で剃るまでは随分と髭が伸びていたな」
ローレンツがクロードの頬にそっと触れた。ここ数日は髭剃りを怠けているので無精髭が生えている。一方でローレンツは体毛が薄い。あんな仲になる前は単に身嗜みに気をつけていると思っていたが、彼の体毛が薄いのは男オメガだからだ。
「歩兵っぽくなくて良いだろ?」
「君も頬髭なら似合うのではないだろうか」
「考えておく。そうだ、水と布をもらったから身体拭いてやろうか?」
オメガにまつわる艶やかな噂話は他にもいくつかある。しかしクロードが実際に確かめるに至ったのは手入れをせずとも体毛が薄い、ということだけだ。他のことはフェロモンにあてられていたのでよく覚えていない。細い腰に回した手は軽くつねられてしまった。
「自分で出来るからいい。好奇心を満たしたいだけなら外に出て行け」
図星だったのでクロードは外に追い出された。薪割りでもするか、と家の裏に回ってみれば余所者であることが明らかな武装した何者かが奥方に話しかけている。エーデルガルトが同盟領に潜伏させていた密偵の可能性も、先に戻したマリアンヌが帰りがてらエドマンド家の名でクロードたちの救助を手配してくれた可能性もある。どちらなのか判るまで迂闊なことはできない。騒ぎを起こしてしまったらまだ具合の悪いローレンツを抱えてどう姿を眩ますべきか。クロードは奥方と余所者の様子を物陰に潜んで窺った。
「若夫婦を探している。……の方が無精髭で……の方は髪の長さが顎くらいまでの……」
「その二人なら今うちで休んでるわ!男オメガの方は随分と辛そうだから迎えがきてくれて安心したよ」
エーデルガルトが放った密偵ならばクロードとローレンツをそれぞれ探すはずだが、正確なことを伝えられないまま二人まとめて探しているならばマリアンヌが手配したものだろう。こうして安全と移動手段は確保できたが、クロードとローレンツの二人旅は突然終わった。畳む
話し合いは杞憂に終わった。
あまり大股で歩けないローレンツに合わせて歩くしかなかったため、日が暮れても人里に辿り着けていない。天幕を張るのにちょうどいい場所を探しているときに一言あ、と言ってローレンツが背嚢を持ったまま、木陰に身を隠した。用でも足すのかとクロードが少し離れた場所で待っていると中々戻ってこない。心配になって何が起きたのか見に行くと彼は身を丸くして蹲っていた。
「どうやら君の矢は的を外したようだ。そして今日はもう歩けそうにない」
抑制剤を服用していない状態での生理は重いと聞くのに、貧血気味で青ざめたローレンツがそんな冗談を言うのでクロードは思わず笑ってしまった。彼は自分の体調が悪く、足を引っ張ってしまっていることを気にしている。ここで笑わない方がもっと失礼な気がした。
「いいさ、背負ってやるよ。借りを返すなんて思わないでくれ」
大柄なローレンツを背負って休み休み歩きながらようやく小さな集落に辿り着いた。開戦の知らせはこんなところにも伝わっていて村人たちは不安がっている。金貨を差し出し、ローレンツを暖かい場所で休ませてもらうことにした。
屋内に入れて安心したのかローレンツは毛布に包まって暖炉の前から動かない。彼の代わりにクロードがこの先の足の手配をしていた。街道まではおそらく馬か橇になるだろう。そして案の定、橇は余っていてもそれを引く馬や犬が余っていなかった。
時間の経過とともにローレンツの体調は戻るが追っ手も距離を詰めてくる可能性が高い。ダフネル家が完全に支配している街道まで早く移動しなければならなかった。少し遠くまで狩りにでている男衆が戻ったら改めて相談するしかない。
クロードが脳内で地図を広げ、黙りこくって考えごとに耽っているとクロードたちを招き入れてくれた家の奥方が、背中に赤ん坊をおぶったまま煎じ薬と身体を拭く布や水桶を持ってきてくれた。微動だにしないローレンツを見てため息をつく。
「ちょっと旦那さんあなたね、早く子供を産ませてあげないからいつまでも月のものが重いのよ。可哀想に、私も覚えがあるわ。でも子供を産んで本当に軽くなったの」
そりゃあね、すごく綺麗な男オメガだし二人きりの時間を長く楽しみたいってのは分かるけど───から始まった怒涛の小言が終わるまでクロードは押し黙っていた。傾聴を終えご忠告感謝します、というと満足したのか働き者の彼女は再び外へと戻っていった。確かにクロードとローレンツは発情期に行為に及んでいる。だが、無関係な他者から連れ合いに見られるとは考えていなかった。
「血の匂いかな……いつもなら香水で誤魔化すのだがこんな状況では仕方がない。クロード、君は不本意だろうが僕の体調が戻るまではそう思わせておいた方がいい。僕はまだ君に肩を貸してもらわねば歩けないし、これで追手への証言内容も変わるだろう」
毛布の塊から声がした。彼はずっとうずくまっていたがきちんと会話は耳にしていたらしい。クロードはそっとローレンツの隣に座って労るように身体を撫でた。
「明日になったところで身動きが取れるかどうか分からないんだ。今はゆっくり休むといい」
追手が探しているのはリーガン家の嫡子とグロスタール家の嫡子だ。だが集落の住民たちはクロードとローレンツをアルファとオメガの若い連れ合いだと思っている。誤解が深まれば深まるほどローレンツの言うとおり追手の聞き込みを否定してくれるだろう。
深くため息をついたローレンツは意を決して身を起こし、奥方が煎じてくれた薬を口にした。山で摘んだ薬草をただ煎じただけの素朴なものなので見るからに苦い。クロードは苦さに溜まりかねて眉間に皺を寄せているローレンツの眉間に唇を落として真っ直ぐな紫の髪を褐色の手で梳いた。
「なっ……何をするんだ?!」
驚いたローレンツが取り落とす前にクロードは煎じ薬の入った水呑みを取り上げ、倒さないように机の上に置いた。
「誤解させといた方が良いんだろ?しかしローレンツも髪の毛伸びたな」
ガルグ=マクにいた頃は耳の辺りで切り揃えられて髪が顎のあたりまで伸びている。手入れも満足に出来なかったので少し不揃いになっていた。だが、悪くない。
「フェルディアにいた頃はもっと長かった。魔力は髪の毛にも宿るからな」
ローレンツは白い指で肩のあたりを叩いた。この辺まで伸ばしていた、ということなのだろう。そして彼のいう通り、確かに各学級で魔法の専門職を目指していた生徒は皆髪の毛を伸ばしていた。
「そういやマリアンヌやアネットも髪の毛が長かったな」
「メルセデスさんやリンハルトくん、それにドロテアさんも伸ばしていただろう?ハンネマン先生やマヌエラ先生の域に達すれば関係ないが」
「また伸ばせよ」
クロードがそういうとローレンツは自分の頭を手櫛で梳いた。
「ああ、毛先が跳ねていて苛々する。手入れにも手間が掛かるし馬術や槍術の邪魔になると思ってあの長さにしていた」
「剃刀だけじゃあの髪型は無理だよな」
フォドラの歩兵は基本、髭を生やさない。格闘中に敵の戦士に髭を掴まれてしまうと不利になるからだ。士官学校では騎兵を目指す者達も基本、髭を伸ばさないようにこまめに手入れせよ、と指導される。セテスの顎髭やハンネマンやアロイスの口髭は実力の証なのだ。
「そういう君は狩猟小屋で剃るまでは随分と髭が伸びていたな」
ローレンツがクロードの頬にそっと触れた。ここ数日は髭剃りを怠けているので無精髭が生えている。一方でローレンツは体毛が薄い。あんな仲になる前は単に身嗜みに気をつけていると思っていたが、彼の体毛が薄いのは男オメガだからだ。
「歩兵っぽくなくて良いだろ?」
「君も頬髭なら似合うのではないだろうか」
「考えておく。そうだ、水と布をもらったから身体拭いてやろうか?」
オメガにまつわる艶やかな噂話は他にもいくつかある。しかしクロードが実際に確かめるに至ったのは手入れをせずとも体毛が薄い、ということだけだ。他のことはフェロモンにあてられていたのでよく覚えていない。細い腰に回した手は軽くつねられてしまった。
「自分で出来るからいい。好奇心を満たしたいだけなら外に出て行け」
図星だったのでクロードは外に追い出された。薪割りでもするか、と家の裏に回ってみれば余所者であることが明らかな武装した何者かが奥方に話しかけている。エーデルガルトが同盟領に潜伏させていた密偵の可能性も、先に戻したマリアンヌが帰りがてらエドマンド家の名でクロードたちの救助を手配してくれた可能性もある。どちらなのか判るまで迂闊なことはできない。騒ぎを起こしてしまったらまだ具合の悪いローレンツを抱えてどう姿を眩ますべきか。クロードは奥方と余所者の様子を物陰に潜んで窺った。
「若夫婦を探している。……の方が無精髭で……の方は髪の長さが顎くらいまでの……」
「その二人なら今うちで休んでるわ!男オメガの方は随分と辛そうだから迎えがきてくれて安心したよ」
エーデルガルトが放った密偵ならばクロードとローレンツをそれぞれ探すはずだが、正確なことを伝えられないまま二人まとめて探しているならばマリアンヌが手配したものだろう。こうして安全と移動手段は確保できたが、クロードとローレンツの二人旅は突然終わった。畳む
鷲獅子戦前にローレンツが体調を崩したが、それをきっかけにクロードは彼と和解することが出来た。あの晩の判断は大当たりで当時の自分を褒めてやりたい。真っ先にマヌエラを呼ばねばと思ったが、酒に酔った彼女が寮に来られない可能性に気づいて回復魔法が使えるマリアンヌへ先に声をかけたのは大正解だった。
彼女はあの時、自分一人ではローレンツの部屋に入れないからヒルダも呼んで欲しいと言ったのだ。婚約を内定させようとしているならば、後付けでそれ以前の振る舞いは修正される。だが彼女は他人からの誤解を恐れた。おかげでクロードは二人の仲を見誤っていたと分かり、それ以来何となく気分が上向いている。だが何故なのかは絶対言語化しなかった。それを言葉で明確にしてしまったら、クロードは野望どころではなくなってしまう。
クロードの目の前ではすっかり元気になったローレンツが先程自分で淹れたお茶を飲んでいる。体調が戻るまでの間カミツレの花茶以外飲めなかった彼にクロードは今夜は自分の好みではなく、彼好みの物を淹れてほしいと頼んでいた。クロードはパルミラ出身でフォドラは比較的温暖なデアドラのことしか知らない。ローレンツが飲みたがる物、の方が冷えた身体が温まめてくれる筈だ。
「秋の山中は熱いお茶なしには過ごせないな」
「そうだな。だが今晩出したものは完全に僕好みだから君の口に合うかどうかは知らないぞ」
趣味に走ってしまったことをローレンツが詫びた。選んだ物と照れのせいか頬が少し赤く染まっている。今晩、彼が淹れた、というか作ったのは紅茶に蒸留酒と牛乳を入れて作るスピリッツティーと呼ばれるものだ。一口含むと鼻腔に紅茶と蒸留酒の香りが広がる。少し牛乳が入れてあるので胃が荒れることもない。寒い晩にはありがたい飲み物だった。
「いや美味いなこれ。俺が作ったら欲望に負けて蒸留酒を沢山入れて紅茶の匂いは完全に飛ばすだろうな。流石だよ」
「クロード……僕は紅茶を淹れると言っただろう?」
呆れ顔のローレンツが自分で淹れたスピリッツティーに口をつけた。薄い唇が茶器に触れ白い喉が微かに動く。本人も味に納得したようで小さく頷いた。
「はは、そうだったな。ところでこれを見てくれるか?」
クロードはグロンダーズ平原の地図を広げた。セイロス教会が発行している地図には、意図したものかどうかは置いておくとして───とにかく抜けがある。クロードは戦記や戦術書に出てくる地形描写を参考にして彼なりの地図を作ってみた。
「責任重大だな。この地図が間違っていたら僕たちは総崩れだぞ」
「カスパルが協力してくれたら良かったんだが、流石に口止めされてたよ。まあ黒鷲の学級が有利なのは毎年変わらんか」
グロンダーズ平原はアドラステア帝国内のベルグリーズ領にある。カスパルの父は軍務卿である前にベルグリーズ領の領主なので、領内の古戦場であり、帝国を支える穀倉地帯でもあるグロンダーズ平原へ息子を連れていったこともあるだろう。クロードはカスパルを捕まえて地図を見てもらい、答え合わせをしようとしたがヒューベルトに見つかってしまった。正確な地図は軍事情報でもある。ヒューベルトは本当にうんざりした顔でカスパルに主君へ勝利を捧げるつもりはないのか、と問うていた。
「だが何もしないよりずっとましだ。この線はなんだ?」
クロードの描いた地図の上で、視線を忙しく右へ左へと走らせていたローレンツが問うた。
「平原といっても真っ平らじゃあない。小高い丘の描写が出てくるんだ。少しでも高いところに陣をはった方が有利だから目印をつけておいた」
駆け降りるより駆け上がる方が大変なので上を取られると不利になってしまう。なるほど、とつぶやいてローレンツは再び地図に視線を落とした。白い指がクロードの描いた線に沿って滑っていく。いつかは誰かの肌の上を滑っていくのであろう指先で光る爪はきちんとやすりで整えられていた。彼は色が白いのでクロードの故郷の人々のように指甲花で、指先や手の甲に模様を描いたらさぞ映えるだろう。成人した彼が気軽にパルミラに来られるような、そんな世の中にするのがクロードの野望だ。そのためには完璧な学生生活など必要ないのだが、ヒューベルトはエーデルガルトに完璧な学生生活を送ってもらいたいらしい。
「確かに高地は有利だから速やかに奪取したいな。この地図は悪天候の際に最も効果を発揮するだろう。天気が良ければどこが丘なのかは見ればわかってしまう」
紫水晶のような瞳がクロードが地図上に描いた線を丹念に追っている。
「敢えて奪取させてやるっていうのはどうだ?俺たちを出し抜けたと思わせてそこに火矢を放ったり、な……」
クロードは自分たちの掘った落とし穴の上で敵がしてやったり、と思うように仕向けたい。だが鷲獅子戦は学生同士の模擬戦、演習にすぎない。学生たちに怪我をさせないで帰すのが士官学校の職員たちの務めだ。
「やりすぎだぞ。クロード」
ローレンツはいつも表情が豊かなのでクロードの物騒な意見に対して、眉間に皺を寄せて眉を吊り上げているかと思った。しかし草木も揺るがぬような穏やかな顔をしている。いつもそんな顔をしていたらいいのに滅多に見せてくれない。
「傭兵上がりの先生ならどう返すかな」
「試してみたらどうだ。人を選ばず露悪的なことを言ってまわると皆から警戒されて上手くいくものもいかなくなる」
逆に穏やかでないのはクロードの方だった。これならローレンツが感情の赴くまま眉間に皺を寄せて怒ってくれた方がいい。それなら彼を揶揄って上の立場になれたのに、こんな風に穏やかにたしなめられてはそれも出来ない。酒にはそこそこ強い方なのにクロードは頬が熱くなった。
「失言、かな…?」
「いや、本当に興味があるなら先生に意見を聞いてみると良い。ただ、そんな悪辣なことをやるなら二度と反抗出来ないくらいに相手をへし折らないと恨みを買うだけだ」
ローレンツはその覚悟はあるのか?とクロードに問うとお代わり用のお湯を取りに席を立った。その所作は幼少期から厳しく躾けられてきたもの特有な所作で、殆ど音がしない。あの晩、ローレンツがこの部屋で倒れたとクロードが気付いたのは僥倖だった。そして彼は彼らしさゆえに助かった、とも言える。
「お前、声は大きいのに全然物音は立てないな」
「急にどうした」
「いや、物音に紛れて酒の栓を開けて勝手に飲みたくても静かだから無理だな、って」
お代わりを注ぎながらローレンツが呆れたように笑った。
「君と言う男は本当に馬鹿だな。勝手に飲もうとする前に頼んでみたら良いではないか」
「はは、じゃあ指二本分くれよ」
「後日、指一本分だけ飲ませてやろう」
そう言いながらも先程は小匙に一杯しか入れなかった蒸留酒を今度は二杯入れてくれた。拒絶されずに育ってきたローレンツが本当に眩しく感じる。
「俺もお返しにとっておきの酒を近々飲ませてやるよ」
「デアドラから届くのか?」
「いや、勝利の美酒だよ。鷲獅子戦の、な」
それは楽しみだと言って微笑むローレンツの顔を見て、クロードは自分の進む道がより険しくなったことを自覚した。リーガン家に入るにあたって母ティアナから祖父へ出された条件がある。いずれパルミラに戻る子なのだから絶対にフォドラで結婚させないで欲しい、と言われていた。畳む