「さかしま」18.#クロロレ #さかしま #完売本 #オメガバース
ローレンツが帰郷して何ヶ月か経った頃、ファーガスで政変が起きたという一報がグロスタール領に入った。アドラステア帝国は王国と同盟で二正面作戦をせずに済むように以前から計画していたのだろう。アドラステア帝国は高らかに友好国であるファーガス公国を支持する、と宣言したがファーガス公国は帝国から派遣された者が作った傀儡であるのは火を見るより明らかだった。ガルグ=マクでもフェルディアまでの道中でも殺せなかったディミトリをやっと仕留めたエーデルガルトが今後はいよいよ同盟領に本格的に介入してくる。
父エルヴィンからディミトリの死を知らされたローレンツは先ほどからため息をつくことしかできなかった。学生時代のディミトリは真面目で心が広く、きっと良い王になると思っていたので残念でならない。それに青獅子の学級にいた同期生たちのことを思うと心が痛む。国境を守るゴーティエ家の嫡子であるシルヴァンはフェルディアに居られなかっただろう。ローレンツの目には少々馴れ馴れしく映ったが、青獅子の学級の学生たちは皆ディミトリを心の底から好いていた。そのことを知っているだけに辛さや悔しさしか感じない。
「帝国からすれば大きな戦果だから隠す必要がない。おそらく直近の出来事だろう。もう少しすれば大々的に宣伝される筈だ。今はもっとも都合が良い台本を選んでいる段階だろうな」
「命をかけて冬のオグマ山脈を登り皆、自領へ戻りました。それは僕も同じです。その結果がこれとは…」
「帝国が一枚上手だったと言うことだ」
当事者であるディミトリたちからすればそんな一言で切って捨てられる筋合いはない筈だ。
「帝国は一体、何年前から準備をしていたのでしょうか?」
「相当昔からの筈だ」
「ですが宮内卿は僕と殆ど歳は変わりません」
「ローレンツ、ファーガスだけではないぞ。エーギル家の嫡子と親しくなったそうだな」
エルヴィンは露骨に話題を変えた。ガルグ=マクが帝国軍に攻め込まれる中、金鹿の学級担任であったベレトがエーデルガルトに置いていかれた帝国出身の学生達を転籍させ、彼らの面倒を見ていた。それでも念のため脱出行については隠していたせいで、彼らとはなんとなく精神的な距離が出来てしまっている。しかしフェルディナントならば話は別だ。
「エーギル家はその領地が全て皇帝預かりとなった」
フェルディナントの父は七貴族の変でエーデルガルトの父イオニアス九世から権力を奪った側なので報復されたのだろう、とローレンツにもわかった。
「直轄領になる日も近そうですね。父上、フェルディナントくんは無事なのでしょうか?」
「今のところは無事だと聞いている。ローレンツ、これから忙しくなるぞ」
父が言うのならば間違いない。ローレンツは小さく安堵のため息をついた。
「何なりとお申し付け下さい」
「お前には私の名代を勤めてもらう。まずはリーガン公の元へ親書を届けてほしい。この同盟が王国やエーギル領のように介入されないためにもな」
リーガン公オズワルドの元へ顔を出すならクロードと再会することになる。ダフネル家の屋敷でしでかしたことを不意に思い出すたびにローレンツは冷や汗をかいてしまう。近頃のローレンツはクロードと再会し二人きりになった時にどんな態度を取れば良いのか悩んでいて、いっそその答えが出るまでは会わずに済みますようにと女神に祈って過ごしている。父の名代としてデアドラに赴くまでに答えが出せるかどうかは分からなかった。
デアドラにあるグロスタール家の上屋敷は橋が三方向に渡され商工会議所にも劇場にも港にも繁華街にも行きやすいデアドラのど真ん中にあるため、とにかく屋敷を囲む道に人通りが絶えない。植栽で敷地を覆っているのだが音は伝わって来るし目の前の水路も朝から晩まで渡し船が行き来していている。
レスター諸侯同盟成立に関わったローレンツの先祖が利便性だけを考えて建てたため、いつか静かなところへ上屋敷を建て替えたいとエルヴィンも息子に話している。だが買い物にはとにかく便利だ。今回、ローレンツはデアドラを訪れる前にグロスタール領で帽子から靴まで新しく仕立てている。デアドラの商人たちは遠方から来た客の装いや振る舞いをつぶさに見ていて、上客になり得ると認めなければ最上の品を出してこない。デアドラで服を仕立てるための服を仕立てる、という言葉もあるくらいだ。今回は服を仕立てる時間はないが絵画か骨董品で良いものがあれば買って帰りたい、と考えている。そんな時間があるかどうか全く分からないが。
リーガン公オズワルドへ父エルヴィンからの親書を手渡す日の朝、ローレンツは上屋敷の姿見でてっぺんからつま先まで、何も瑕疵がないか何度も確かめた。髪はデアドラの床屋でで毛先を整えており、羽飾り付きの帽子と上着は共に紺色で縁取りの赤も合わせてある。採寸して作った上着も白いズボンも身体の線にきちんと沿っていた。牛革で出来た膝までの黒い長靴はよく磨かれ輝いている。
そもそもローレンツは父親であるグロスタール伯エルヴィンなしでリーガン家の中に入るのは初めてだった。緊張して他の客と共に待合室で待っていると召使がローレンツを呼びに来た。緊張していると気取られぬよう、優雅に微笑んで礼を言いレスター諸侯同盟盟主の執務室へ足を踏み入れた。帽子を取って脇に持ち最敬礼をする。
「父、グロスタール伯エルヴィンの名代として公爵閣下へ親書を持って参りました」
本来の後継者であった息子ゴドフロアとその一家を亡くして一気に弱った、と聞く。だが痩せ細ってしまったとはいえリーガン公オズワルドの眼光はまだ鋭い。クロードと同じ緑の瞳でローレンツをてっぺんからつま先まで観察していた。クロードは気軽にじいさん、と呼んでいたが彼にグロスタール家の嫡子がオメガであることや関係を持ったことを話したのだろうか。ローレンツはクロードと関係を持ったことをまだ教育係にすら話していない。マリアンヌになら相談できたかもしれないが彼女は実家があるエドマンド領に戻ってしまった。
「生まれたと知らせを貰ったのがついこの間のような気がするがいくつかね?」
「今年で二十歳になります。公爵閣下」
あとふた月ほどで誕生日を迎えるので敢えて十九歳だとは言わなかった。
「クロードと士官学校で同級だったとか。クロードより大きいな」
「年上でもありますので。クロードもこの先まだ背が伸びるでしょう」
「そうだな、あれもまだあたりを彷徨いているような子供だ。縁があれば会えるだろう。返事は今すぐに書くので待合室で受け取りなさい」
そういうとゴドフロアは無言で手をひらひらと振った。ローレンツに退出せよ、と仕草で伝えている。名代とはいえ自分はまだその程度の立場だと思い知らされた。しかし焦らずに力を示す機会を待って、大人たちに実力を認めさせるしかない。待合室で返信を待っている間、ローレンツは召使いにクロードがどこにいるのか質問してみた。帰郷して以来、ますますデアドラ中をうろついていることが多く今日は誰も彼がどこにいるのかは知らない、とのことだった。今日は結論を出さずに済む。
ローレンツがクロードの祖父オズワルドと直接、二人きりで話したのはそれが最初で最後だった。畳む
ローレンツが帰郷して何ヶ月か経った頃、ファーガスで政変が起きたという一報がグロスタール領に入った。アドラステア帝国は王国と同盟で二正面作戦をせずに済むように以前から計画していたのだろう。アドラステア帝国は高らかに友好国であるファーガス公国を支持する、と宣言したがファーガス公国は帝国から派遣された者が作った傀儡であるのは火を見るより明らかだった。ガルグ=マクでもフェルディアまでの道中でも殺せなかったディミトリをやっと仕留めたエーデルガルトが今後はいよいよ同盟領に本格的に介入してくる。
父エルヴィンからディミトリの死を知らされたローレンツは先ほどからため息をつくことしかできなかった。学生時代のディミトリは真面目で心が広く、きっと良い王になると思っていたので残念でならない。それに青獅子の学級にいた同期生たちのことを思うと心が痛む。国境を守るゴーティエ家の嫡子であるシルヴァンはフェルディアに居られなかっただろう。ローレンツの目には少々馴れ馴れしく映ったが、青獅子の学級の学生たちは皆ディミトリを心の底から好いていた。そのことを知っているだけに辛さや悔しさしか感じない。
「帝国からすれば大きな戦果だから隠す必要がない。おそらく直近の出来事だろう。もう少しすれば大々的に宣伝される筈だ。今はもっとも都合が良い台本を選んでいる段階だろうな」
「命をかけて冬のオグマ山脈を登り皆、自領へ戻りました。それは僕も同じです。その結果がこれとは…」
「帝国が一枚上手だったと言うことだ」
当事者であるディミトリたちからすればそんな一言で切って捨てられる筋合いはない筈だ。
「帝国は一体、何年前から準備をしていたのでしょうか?」
「相当昔からの筈だ」
「ですが宮内卿は僕と殆ど歳は変わりません」
「ローレンツ、ファーガスだけではないぞ。エーギル家の嫡子と親しくなったそうだな」
エルヴィンは露骨に話題を変えた。ガルグ=マクが帝国軍に攻め込まれる中、金鹿の学級担任であったベレトがエーデルガルトに置いていかれた帝国出身の学生達を転籍させ、彼らの面倒を見ていた。それでも念のため脱出行については隠していたせいで、彼らとはなんとなく精神的な距離が出来てしまっている。しかしフェルディナントならば話は別だ。
「エーギル家はその領地が全て皇帝預かりとなった」
フェルディナントの父は七貴族の変でエーデルガルトの父イオニアス九世から権力を奪った側なので報復されたのだろう、とローレンツにもわかった。
「直轄領になる日も近そうですね。父上、フェルディナントくんは無事なのでしょうか?」
「今のところは無事だと聞いている。ローレンツ、これから忙しくなるぞ」
父が言うのならば間違いない。ローレンツは小さく安堵のため息をついた。
「何なりとお申し付け下さい」
「お前には私の名代を勤めてもらう。まずはリーガン公の元へ親書を届けてほしい。この同盟が王国やエーギル領のように介入されないためにもな」
リーガン公オズワルドの元へ顔を出すならクロードと再会することになる。ダフネル家の屋敷でしでかしたことを不意に思い出すたびにローレンツは冷や汗をかいてしまう。近頃のローレンツはクロードと再会し二人きりになった時にどんな態度を取れば良いのか悩んでいて、いっそその答えが出るまでは会わずに済みますようにと女神に祈って過ごしている。父の名代としてデアドラに赴くまでに答えが出せるかどうかは分からなかった。
デアドラにあるグロスタール家の上屋敷は橋が三方向に渡され商工会議所にも劇場にも港にも繁華街にも行きやすいデアドラのど真ん中にあるため、とにかく屋敷を囲む道に人通りが絶えない。植栽で敷地を覆っているのだが音は伝わって来るし目の前の水路も朝から晩まで渡し船が行き来していている。
レスター諸侯同盟成立に関わったローレンツの先祖が利便性だけを考えて建てたため、いつか静かなところへ上屋敷を建て替えたいとエルヴィンも息子に話している。だが買い物にはとにかく便利だ。今回、ローレンツはデアドラを訪れる前にグロスタール領で帽子から靴まで新しく仕立てている。デアドラの商人たちは遠方から来た客の装いや振る舞いをつぶさに見ていて、上客になり得ると認めなければ最上の品を出してこない。デアドラで服を仕立てるための服を仕立てる、という言葉もあるくらいだ。今回は服を仕立てる時間はないが絵画か骨董品で良いものがあれば買って帰りたい、と考えている。そんな時間があるかどうか全く分からないが。
リーガン公オズワルドへ父エルヴィンからの親書を手渡す日の朝、ローレンツは上屋敷の姿見でてっぺんからつま先まで、何も瑕疵がないか何度も確かめた。髪はデアドラの床屋でで毛先を整えており、羽飾り付きの帽子と上着は共に紺色で縁取りの赤も合わせてある。採寸して作った上着も白いズボンも身体の線にきちんと沿っていた。牛革で出来た膝までの黒い長靴はよく磨かれ輝いている。
そもそもローレンツは父親であるグロスタール伯エルヴィンなしでリーガン家の中に入るのは初めてだった。緊張して他の客と共に待合室で待っていると召使がローレンツを呼びに来た。緊張していると気取られぬよう、優雅に微笑んで礼を言いレスター諸侯同盟盟主の執務室へ足を踏み入れた。帽子を取って脇に持ち最敬礼をする。
「父、グロスタール伯エルヴィンの名代として公爵閣下へ親書を持って参りました」
本来の後継者であった息子ゴドフロアとその一家を亡くして一気に弱った、と聞く。だが痩せ細ってしまったとはいえリーガン公オズワルドの眼光はまだ鋭い。クロードと同じ緑の瞳でローレンツをてっぺんからつま先まで観察していた。クロードは気軽にじいさん、と呼んでいたが彼にグロスタール家の嫡子がオメガであることや関係を持ったことを話したのだろうか。ローレンツはクロードと関係を持ったことをまだ教育係にすら話していない。マリアンヌになら相談できたかもしれないが彼女は実家があるエドマンド領に戻ってしまった。
「生まれたと知らせを貰ったのがついこの間のような気がするがいくつかね?」
「今年で二十歳になります。公爵閣下」
あとふた月ほどで誕生日を迎えるので敢えて十九歳だとは言わなかった。
「クロードと士官学校で同級だったとか。クロードより大きいな」
「年上でもありますので。クロードもこの先まだ背が伸びるでしょう」
「そうだな、あれもまだあたりを彷徨いているような子供だ。縁があれば会えるだろう。返事は今すぐに書くので待合室で受け取りなさい」
そういうとゴドフロアは無言で手をひらひらと振った。ローレンツに退出せよ、と仕草で伝えている。名代とはいえ自分はまだその程度の立場だと思い知らされた。しかし焦らずに力を示す機会を待って、大人たちに実力を認めさせるしかない。待合室で返信を待っている間、ローレンツは召使いにクロードがどこにいるのか質問してみた。帰郷して以来、ますますデアドラ中をうろついていることが多く今日は誰も彼がどこにいるのかは知らない、とのことだった。今日は結論を出さずに済む。
ローレンツがクロードの祖父オズワルドと直接、二人きりで話したのはそれが最初で最後だった。畳む
「さかしま」20.#クロロレ #さかしま #完売本 #オメガバース
レスター諸侯同盟はアミッド大河を挟んでアドラステア帝国と国境を接している。ミルディン大橋があるのはかなり河幅が狭いところだ。最も河幅が広い河口付近では対岸が見えない。そんなフォドラ一の大河と言えるアミッド大河の源流はオグマ山脈にあり、脱出行で北上した時にローレンツたちはその源流の水で生き長らえた。当時、この小さな川が遥か下流ではアミッド大河となり、ヒルダやリシテアたちはそこを目指しているのか、と不思議な気持ちになったのを覚えている。
ローレンツが必死の思いで実家に帰り着いて三年が経過した。父エルヴィンの代わりにレスター中を飛び回り、今はグロスタール領の端、アミッド大河沿いの漁村に来ている。身軽な単騎だったが遠方であったせいか着いたのはもう少しで日が暮れる、という頃だった。
今年に入ってから漁師たちの網に歓迎できぬものが定期的に掛かるのだという。それでも彼らはそこで採れる魚を売るしかないし食べるしかない。なんとかして欲しいと言う陳情があった。陳情書にも記された歓迎できぬもの、は白い布をかけられ小さな村の教会の祭壇に安置されていた。小さな礼拝堂の窓には漁村らしく魚を愛したという逸話の残る聖セスリーンの姿を象った色硝子が窓に嵌められている。そこから夕焼けの光がさしこみ、白い布を若草色に染めていた。弔うために捧げられた蝋燭を倒さないよう、慎重に顔の部分をめくってローレンツは中味を確認した。思わずため息が出てしまう。
ローレンツが学生の頃、ガルグ=マク修道院にいた修道士だった。見覚えはあったが残念ながら話したことがないので名を知らない。彼はきっと行方不明になった大司教レアを探すため帝国へ潜入したのだろう。今は冬で河の水が冷たいせいか顔立ちが保たれていた。
「ここの対岸から流れ着いたのだろうか?」
ローレンツはアミッド大河がある方を指さした。対岸はセイロス教会に宣戦布告したアドラステア帝国の領土だ。
「こちら側にこんな恐ろしいことをする輩はおりません」
村の司祭はそう言うと苛立ちと恐れに苛まれている己を守るように強く目を瞑った。宣戦布告前には異様な特徴を持つ亡骸が流れ着くことは一切なかったのだと言う。ローレンツは彼とこの村のため、何か出来ることはないかこの場で改めて考えてみた。しかし同盟領内の親帝国派であるグロスタール家として対岸を統治する帝国の領主に対し出来ることなど殆どない。それを不満に思わせないため、わざわざ嫡子であるローレンツが現場までやってきたのだ。誠意は尽くしているつもりだが結局は目眩しでしかないことが歯痒い。
「聞き方が悪くて申し訳ない。上流から流れて来たのかを知りたかった」
「そういうことでしたら真正面から、はあり得ません。ご覧の通りかなり流れが早いので確実に上流からです。こちらより更に下流のフリュムには怪しげな建物が多いのでコーデリア領も似たようなことで困っているかもしれません」
リシテアの顔を見にいくのも良いかもしれない。リーガン公の葬儀以来、彼女とは会っていないからだ。
「そうだな、明日コーデリア領へ足を伸ばしてみよう。ところで司祭どの、彼で七人目か?」
陳情書には六人と書いてあったがローレンツの目の前の亡骸は新しい。司祭が黙って頷いた。
「これまでのものも含めて亡骸がセイロス教関係者だと分かったのは何故だ?」
「亡骸が流れ着くたびに弔うため名前がわかるものを身につけていないか探すのですが、いつも背中に同じ焼き印が入っているのです」
その言葉を受けてローレンツが彼の背中を見ると確かにセイロス教の徽章が焼き印で刻まれている。治った痕があり、一定期間は囚われていたと簡単に想像出来た。一連の問題は単に亡骸の処置が面倒くさい、というところから始まっているのだろう。帝国はセイロス教関係者の尊厳を認めないから亡骸の処置が只ひたすら面倒くさいのだ。これが王国や同盟であれば信仰に人生を捧げた名も知らぬ彼を丁重に弔うだろう。
これはグロスタール領ひいてはレスター諸侯同盟への警告も兼ねている。セイロス教に肩入れしてエーデルガルトの覇道を邪魔だてすれば、似たような目に遭わせてやると言うことだ。エーデルガルトたちが抱えるセイロス教会への拒否反応がどれほど強いのか思い知らされる。
きっと彼女はベータかアルファなのだろう。このフォドラに生きるオメガで抑制剤を開発し、無料で分け与えてくれるセイロス教に愛着を持たない者は殆どいない。ローレンツはアドラステア帝国にいるオメガたちが今後、どうなるのか心配になった。アドラステア帝国には大量の抑制剤を生産し、オメガたちを相手に決して儲けようとせず配って回る組織があるのだろうか?
「この件は父上にもクロードにも僕の名で報告しておく。これからコーデリア領へ向かうので葬儀には出られないが、せめて灯りだけでも捧げさせてくれ」
そういうとローレンツは指を鳴らし、ファイアーの呪文を唱えて蝋燭に火を灯した。聖職者の場合は弔い方が一般人とはかなり異なる。弔い酒の代わりに蝋燭の灯りを絶やさず捧げ、火葬ではなく土葬にする。
父エルヴィンの名代として弔事に出ることは多いが、ローレンツが個人的に生前の姿を覚えている者の弔事は久しぶりだった。それこそリーガン公の葬儀以来かもしれない。暗闇の中で浮かび上がる灯りをじっと眺めていると後悔の念がローレンツを支配した。すれ違った者たち全ての名を聞く機会など訪れるものではない、と頭では分かっている。だが不本意な死を遂げた修道士の墓に名を彫ってやることすらできないのは辛かった。密偵を務められるような有能な者であったからアロイスかセテスであれば彼の名を知っていたかもしれない。
「若様、交代しましょう。二階の客室をお使いください。徹夜はよろしくありませんよ」
「だが司祭どの、あなたも明日は納棺式があるのでは?」
「叙階前の修練期間で徹夜の祈りには慣れています」
年長者の有無を言わさぬ圧に負けたローレンツは客室の寝台に横たわって目を閉じた。馬が乗れるような船はこんな小さな村にはないし、馬でコーデリア領へ行くなら確かに眠った方がいい。初めて教会に泊まったときにクロードや迎えの者たちと共に床に寝たことを思えば充分に恵まれている。あの雪山の脱出行の前と後でローレンツの人生は不可逆な変化を遂げた。クロードの人生は何か変化を遂げたのだろうか。そんな益体もないことを考えながら眠ったせいかローレンツは不思議な夢を見た。
夢の中でローレンツはオグマ山脈の山中でクロードと共に不寝番をしていた。他の者は皆、寒さから睡眠に逃避している。実際には二人の不寝番が重なったことはない。だが夢の中ではクロードと二人、星空と自分を遮るものが何一つない山中で星座の話をしていた。クロードの突飛な発想や出鱈目な話が楽しくて、異議も唱えずに聞いていたのは夢だったからかもしれない。実際にあんなにはしゃいだらきっと追っ手に見つかったはずだ。夢というのは実に都合が良い。
ローレンツは日頃、本当に深く眠る方で夢は殆ど見ない。夢の内容も起きた瞬間に忘れてしまう。ただ夢の中で見た満天の空があまりに美しかったせいか、珍しく朝食の時間になっても昨晩見た夢を覚えていた。畳む
レスター諸侯同盟はアミッド大河を挟んでアドラステア帝国と国境を接している。ミルディン大橋があるのはかなり河幅が狭いところだ。最も河幅が広い河口付近では対岸が見えない。そんなフォドラ一の大河と言えるアミッド大河の源流はオグマ山脈にあり、脱出行で北上した時にローレンツたちはその源流の水で生き長らえた。当時、この小さな川が遥か下流ではアミッド大河となり、ヒルダやリシテアたちはそこを目指しているのか、と不思議な気持ちになったのを覚えている。
ローレンツが必死の思いで実家に帰り着いて三年が経過した。父エルヴィンの代わりにレスター中を飛び回り、今はグロスタール領の端、アミッド大河沿いの漁村に来ている。身軽な単騎だったが遠方であったせいか着いたのはもう少しで日が暮れる、という頃だった。
今年に入ってから漁師たちの網に歓迎できぬものが定期的に掛かるのだという。それでも彼らはそこで採れる魚を売るしかないし食べるしかない。なんとかして欲しいと言う陳情があった。陳情書にも記された歓迎できぬもの、は白い布をかけられ小さな村の教会の祭壇に安置されていた。小さな礼拝堂の窓には漁村らしく魚を愛したという逸話の残る聖セスリーンの姿を象った色硝子が窓に嵌められている。そこから夕焼けの光がさしこみ、白い布を若草色に染めていた。弔うために捧げられた蝋燭を倒さないよう、慎重に顔の部分をめくってローレンツは中味を確認した。思わずため息が出てしまう。
ローレンツが学生の頃、ガルグ=マク修道院にいた修道士だった。見覚えはあったが残念ながら話したことがないので名を知らない。彼はきっと行方不明になった大司教レアを探すため帝国へ潜入したのだろう。今は冬で河の水が冷たいせいか顔立ちが保たれていた。
「ここの対岸から流れ着いたのだろうか?」
ローレンツはアミッド大河がある方を指さした。対岸はセイロス教会に宣戦布告したアドラステア帝国の領土だ。
「こちら側にこんな恐ろしいことをする輩はおりません」
村の司祭はそう言うと苛立ちと恐れに苛まれている己を守るように強く目を瞑った。宣戦布告前には異様な特徴を持つ亡骸が流れ着くことは一切なかったのだと言う。ローレンツは彼とこの村のため、何か出来ることはないかこの場で改めて考えてみた。しかし同盟領内の親帝国派であるグロスタール家として対岸を統治する帝国の領主に対し出来ることなど殆どない。それを不満に思わせないため、わざわざ嫡子であるローレンツが現場までやってきたのだ。誠意は尽くしているつもりだが結局は目眩しでしかないことが歯痒い。
「聞き方が悪くて申し訳ない。上流から流れて来たのかを知りたかった」
「そういうことでしたら真正面から、はあり得ません。ご覧の通りかなり流れが早いので確実に上流からです。こちらより更に下流のフリュムには怪しげな建物が多いのでコーデリア領も似たようなことで困っているかもしれません」
リシテアの顔を見にいくのも良いかもしれない。リーガン公の葬儀以来、彼女とは会っていないからだ。
「そうだな、明日コーデリア領へ足を伸ばしてみよう。ところで司祭どの、彼で七人目か?」
陳情書には六人と書いてあったがローレンツの目の前の亡骸は新しい。司祭が黙って頷いた。
「これまでのものも含めて亡骸がセイロス教関係者だと分かったのは何故だ?」
「亡骸が流れ着くたびに弔うため名前がわかるものを身につけていないか探すのですが、いつも背中に同じ焼き印が入っているのです」
その言葉を受けてローレンツが彼の背中を見ると確かにセイロス教の徽章が焼き印で刻まれている。治った痕があり、一定期間は囚われていたと簡単に想像出来た。一連の問題は単に亡骸の処置が面倒くさい、というところから始まっているのだろう。帝国はセイロス教関係者の尊厳を認めないから亡骸の処置が只ひたすら面倒くさいのだ。これが王国や同盟であれば信仰に人生を捧げた名も知らぬ彼を丁重に弔うだろう。
これはグロスタール領ひいてはレスター諸侯同盟への警告も兼ねている。セイロス教に肩入れしてエーデルガルトの覇道を邪魔だてすれば、似たような目に遭わせてやると言うことだ。エーデルガルトたちが抱えるセイロス教会への拒否反応がどれほど強いのか思い知らされる。
きっと彼女はベータかアルファなのだろう。このフォドラに生きるオメガで抑制剤を開発し、無料で分け与えてくれるセイロス教に愛着を持たない者は殆どいない。ローレンツはアドラステア帝国にいるオメガたちが今後、どうなるのか心配になった。アドラステア帝国には大量の抑制剤を生産し、オメガたちを相手に決して儲けようとせず配って回る組織があるのだろうか?
「この件は父上にもクロードにも僕の名で報告しておく。これからコーデリア領へ向かうので葬儀には出られないが、せめて灯りだけでも捧げさせてくれ」
そういうとローレンツは指を鳴らし、ファイアーの呪文を唱えて蝋燭に火を灯した。聖職者の場合は弔い方が一般人とはかなり異なる。弔い酒の代わりに蝋燭の灯りを絶やさず捧げ、火葬ではなく土葬にする。
父エルヴィンの名代として弔事に出ることは多いが、ローレンツが個人的に生前の姿を覚えている者の弔事は久しぶりだった。それこそリーガン公の葬儀以来かもしれない。暗闇の中で浮かび上がる灯りをじっと眺めていると後悔の念がローレンツを支配した。すれ違った者たち全ての名を聞く機会など訪れるものではない、と頭では分かっている。だが不本意な死を遂げた修道士の墓に名を彫ってやることすらできないのは辛かった。密偵を務められるような有能な者であったからアロイスかセテスであれば彼の名を知っていたかもしれない。
「若様、交代しましょう。二階の客室をお使いください。徹夜はよろしくありませんよ」
「だが司祭どの、あなたも明日は納棺式があるのでは?」
「叙階前の修練期間で徹夜の祈りには慣れています」
年長者の有無を言わさぬ圧に負けたローレンツは客室の寝台に横たわって目を閉じた。馬が乗れるような船はこんな小さな村にはないし、馬でコーデリア領へ行くなら確かに眠った方がいい。初めて教会に泊まったときにクロードや迎えの者たちと共に床に寝たことを思えば充分に恵まれている。あの雪山の脱出行の前と後でローレンツの人生は不可逆な変化を遂げた。クロードの人生は何か変化を遂げたのだろうか。そんな益体もないことを考えながら眠ったせいかローレンツは不思議な夢を見た。
夢の中でローレンツはオグマ山脈の山中でクロードと共に不寝番をしていた。他の者は皆、寒さから睡眠に逃避している。実際には二人の不寝番が重なったことはない。だが夢の中ではクロードと二人、星空と自分を遮るものが何一つない山中で星座の話をしていた。クロードの突飛な発想や出鱈目な話が楽しくて、異議も唱えずに聞いていたのは夢だったからかもしれない。実際にあんなにはしゃいだらきっと追っ手に見つかったはずだ。夢というのは実に都合が良い。
ローレンツは日頃、本当に深く眠る方で夢は殆ど見ない。夢の内容も起きた瞬間に忘れてしまう。ただ夢の中で見た満天の空があまりに美しかったせいか、珍しく朝食の時間になっても昨晩見た夢を覚えていた。畳む
「さかしま」21.#クロロレ #さかしま #完売本 #オメガバース
リシテアが珍しくデアドラのリーガン家を訪れている。コーデリア家の爵位返上に関して、盟主であるクロードに書いてもらわねばならない書類があるからだ。クロードがリシテアと会うのは祖父である先代リーガン公の葬儀以来だった。
「リシテア、調子はどうだ?」
「大した変化はありません。ありがたいことですね」
リシテアはそういうが学生時代と比べると少し背が伸びたようだ。前に会った時は白い襟締に黒い喪服だったが今は私服を着ている。寮生活を共にしていた時は制服を着ていたのでクロードにとって彼女の私服は物珍しかった。
「そうだな。安定しているのが一番だ」
リーガン家の応接間の窓からはデアドラの美しい街並みや港が見える。昨年手放したというコーデリア家の上屋敷はどれだっただろうか、とクロードの視線が彷徨った。幸いなことに裕福な商人が召使ごと買い上げてくれたと聞いている。リシテアの生活は今後、激しく変化していくのだろう。
「気になってたんだが上屋敷は高く売れたか?あの時期に俺がデアドラに居たら後押ししてやれたんだがなあ。あ、そうだ。こちらに用がある時は遠慮なくうちに泊まってくれ」
「仕事なら手伝いませんよ」
そういうとリシテアはまだデアドラがファーガス神聖王国の一部だった頃から続く、老舗菓子店の焼き菓子を頬張った。ガルグ=マク修道院附属の士官学校で同期だった、と言えば家臣たちも待合室で待っている客たちも皆、一歩譲ってくれる。本来ならクロードはこんな風に来客と優雅に茶を楽しんでいられないのだが、リシテアを気分転換に利用させて貰った。きっと彼女もそれを分かっていることだろう。
「相変わらず手厳しいな!ところでうちの祖父さんの葬儀以来、誰かと会ったか?」
「去年、ローレンツとは会いましたよ。密偵の亡骸が定期的に流れ着いた件で」
あいつは元気だったか、とクロードが問うとリシテアが無言で頷き、紅茶に口をつけた。二人が再会したきっかけは今、思い出してもあまり気分が良い話ではない。
セイロス騎士団からアドラステア帝国へ送り出されていた密偵の亡骸が、これ見よがしにアミッド大河に投げ込まれていたのは昨年のことだ。だが、クロードがアドラステア帝国への対立姿勢を明らかにして以来、牽制しても無駄だと思ったのかぱったりと止んだ。元々大して効果があると先方も考えていなかったのかもしれない。だがルミール村の事件を見れば明らかな通り、相容れない倫理観を持っている彼らのことだ。もしかしたら亡骸の用途を他に思いついた可能性もある。ローレンツの報告書にはそこまできちんと言及されていたが答え合わせをする機会がない。
「亡骸を河に放り込めばグロスタール家の連中が言うことを聞くかもしれない、と思う時点で俺から言わせれば見当違いだ」
あの親子は二人揃って彼らに対してひたすら嫌悪感を募らせていた。エルヴィンの第二性は知らないがオメガの子を持つ親は皆セイロス教会に恩義を感じている。抑制剤がなければ子供たちの人生は苦難に満ちたものになってしまうからだ。
フォドラの人々が第二性を隠すおかげでクロードはエーデルガルトよる優位に立っている。パルミラからフォドラへやってきた当初は強く違和感を持った慣習のひとつだが、有事の際に身を守るためにも敵対勢力に失敗させるためにも皆、自分の第二性についてみだりに話さないのだと分かった。
エーデルガルトやヒューベルトがグロスタール家の嫡子ローレンツがオメガである、と分かっていれば同盟内の親帝国派であるグロスタール家へ圧力をかけるとしてもあんな方法は取らないだろう。拡張した広大な領土を治めるには彼らの手を借りねばならない。
「七人目だけガルグ=マクで見たことがある、とローレンツが言っていました。もしかしたら私もクロードも話したことがある人だったのかもしれませんよ」
コーデリア領でも背中に焼印を押された亡骸が流れついていたという。だが既にコーデリア家は爵位を返上する手続きを開始していたため、セイロス教会に全て任せていた。だからリシテアはローレンツと会えた時にも彼の役には立てていない。せいぜい報告書に花を添えただけだ。
「だが実際に顔を見られないなら確かめようがないな。フォドラ中にイグナーツみたいな絵の上手い奴がいたらいいんだがなあ」
「なんですかその都合が良い話は。ところでクロード、前から気になってたんですがエーデルガルトはガルグ=マクにいた時、周り全てを敵だと思ってたんでしょうか?」
「俺たち入学早々盗賊に襲われたよな」
あの時はまずディミトリとクロードが盗賊を二分するため、皆から離れた。勝手な行動をするな、とエーデルガルトが追いかけてきたのは今思えば連れ戻して一網打尽にしたかったからなのだろう。
「ええ、それで偶然出会ったベレト先生に助けられましたね」
「あの時に俺かディミトリを殺す予定だったんだろう。ついでにフェリクスかヒルダあたりを殺せたらこの先が楽になると思って士官学校に入ったんだろうな」
ヒューベルトがエーデルガルトの同期生が誰になるのか調べていないはずがない。そしてヒューベルトが本気で調べてもセイロス教会の調剤部門が握る信徒たちの第二性に関する情報は掴めなかったのだ。オメガたちは皆、自分の社会的地位を守ってくれる抑制剤を開発し、身分の分け隔てなく普及させたセイロス教会に深く感謝している。
クロード、いやカリードとしてはフォドラの高品質な抑制剤をパルミラでも普及させたい。きっとパルミラの社会は激烈な変化を遂げるだろう。フォドラと同じように人々が第二性を隠す、いや、隠せるようになるかもしれない。そのためにはセイロス教会が独占する抑制剤の製法や原料を持ち帰らねばならない。あの緑の甲虫はパルミラでも飼育できるのだろうか。
ローレンツの父エルヴィンの第二性がなんであるのかクロードは知らない。だがグロスタール伯が恐怖を感じ、帝国軍のグロスタール領通過を許そうとしても嫡子であるローレンツを説得する、という一手間がかかる。その一手間分だけでも時間が稼げればクロードもいくつか手は打てるだろう。
「ふむ……私個人はやたらエーデルガルトから親切にされたんです。それについて心当たりはありますが、あまりに荒唐無稽で今も確証が得られないのでクロードに教えてあげられません」
エーデルガルトに関する情報はどんなものでもありがたいよ、というとクロードはテーブルに残っていた最後の焼き菓子を口に放り込んだ。交易だけでなく、酪農も盛んなレスターの焼き菓子は高品質の牛酪をたっぷり使っているので食べ終えると唇に油がつく。クロードは少し厚めの唇を指で拭った。
「あっひどい!普通、年下の私に譲るのでは!!」
「お土産に包んであるから持って帰れよ」
そういうことなら許してあげます、といってリシテアは焼き菓子をふた箱持ってコーデリア領へと帰っていった。多分ふた箱ともコーデリア領に着く頃には空になっているだろう。クロードが次に彼女と会えるのはいつなのか分からない。久しぶりに学生時代の話をしたがあの時、集まろうと約束した千年祭まであと二年くらいだ。皆来てくれるだろうか。───行方不明のベレトはそれまでに見つかるのだろうか。畳む
リシテアが珍しくデアドラのリーガン家を訪れている。コーデリア家の爵位返上に関して、盟主であるクロードに書いてもらわねばならない書類があるからだ。クロードがリシテアと会うのは祖父である先代リーガン公の葬儀以来だった。
「リシテア、調子はどうだ?」
「大した変化はありません。ありがたいことですね」
リシテアはそういうが学生時代と比べると少し背が伸びたようだ。前に会った時は白い襟締に黒い喪服だったが今は私服を着ている。寮生活を共にしていた時は制服を着ていたのでクロードにとって彼女の私服は物珍しかった。
「そうだな。安定しているのが一番だ」
リーガン家の応接間の窓からはデアドラの美しい街並みや港が見える。昨年手放したというコーデリア家の上屋敷はどれだっただろうか、とクロードの視線が彷徨った。幸いなことに裕福な商人が召使ごと買い上げてくれたと聞いている。リシテアの生活は今後、激しく変化していくのだろう。
「気になってたんだが上屋敷は高く売れたか?あの時期に俺がデアドラに居たら後押ししてやれたんだがなあ。あ、そうだ。こちらに用がある時は遠慮なくうちに泊まってくれ」
「仕事なら手伝いませんよ」
そういうとリシテアはまだデアドラがファーガス神聖王国の一部だった頃から続く、老舗菓子店の焼き菓子を頬張った。ガルグ=マク修道院附属の士官学校で同期だった、と言えば家臣たちも待合室で待っている客たちも皆、一歩譲ってくれる。本来ならクロードはこんな風に来客と優雅に茶を楽しんでいられないのだが、リシテアを気分転換に利用させて貰った。きっと彼女もそれを分かっていることだろう。
「相変わらず手厳しいな!ところでうちの祖父さんの葬儀以来、誰かと会ったか?」
「去年、ローレンツとは会いましたよ。密偵の亡骸が定期的に流れ着いた件で」
あいつは元気だったか、とクロードが問うとリシテアが無言で頷き、紅茶に口をつけた。二人が再会したきっかけは今、思い出してもあまり気分が良い話ではない。
セイロス騎士団からアドラステア帝国へ送り出されていた密偵の亡骸が、これ見よがしにアミッド大河に投げ込まれていたのは昨年のことだ。だが、クロードがアドラステア帝国への対立姿勢を明らかにして以来、牽制しても無駄だと思ったのかぱったりと止んだ。元々大して効果があると先方も考えていなかったのかもしれない。だがルミール村の事件を見れば明らかな通り、相容れない倫理観を持っている彼らのことだ。もしかしたら亡骸の用途を他に思いついた可能性もある。ローレンツの報告書にはそこまできちんと言及されていたが答え合わせをする機会がない。
「亡骸を河に放り込めばグロスタール家の連中が言うことを聞くかもしれない、と思う時点で俺から言わせれば見当違いだ」
あの親子は二人揃って彼らに対してひたすら嫌悪感を募らせていた。エルヴィンの第二性は知らないがオメガの子を持つ親は皆セイロス教会に恩義を感じている。抑制剤がなければ子供たちの人生は苦難に満ちたものになってしまうからだ。
フォドラの人々が第二性を隠すおかげでクロードはエーデルガルトよる優位に立っている。パルミラからフォドラへやってきた当初は強く違和感を持った慣習のひとつだが、有事の際に身を守るためにも敵対勢力に失敗させるためにも皆、自分の第二性についてみだりに話さないのだと分かった。
エーデルガルトやヒューベルトがグロスタール家の嫡子ローレンツがオメガである、と分かっていれば同盟内の親帝国派であるグロスタール家へ圧力をかけるとしてもあんな方法は取らないだろう。拡張した広大な領土を治めるには彼らの手を借りねばならない。
「七人目だけガルグ=マクで見たことがある、とローレンツが言っていました。もしかしたら私もクロードも話したことがある人だったのかもしれませんよ」
コーデリア領でも背中に焼印を押された亡骸が流れついていたという。だが既にコーデリア家は爵位を返上する手続きを開始していたため、セイロス教会に全て任せていた。だからリシテアはローレンツと会えた時にも彼の役には立てていない。せいぜい報告書に花を添えただけだ。
「だが実際に顔を見られないなら確かめようがないな。フォドラ中にイグナーツみたいな絵の上手い奴がいたらいいんだがなあ」
「なんですかその都合が良い話は。ところでクロード、前から気になってたんですがエーデルガルトはガルグ=マクにいた時、周り全てを敵だと思ってたんでしょうか?」
「俺たち入学早々盗賊に襲われたよな」
あの時はまずディミトリとクロードが盗賊を二分するため、皆から離れた。勝手な行動をするな、とエーデルガルトが追いかけてきたのは今思えば連れ戻して一網打尽にしたかったからなのだろう。
「ええ、それで偶然出会ったベレト先生に助けられましたね」
「あの時に俺かディミトリを殺す予定だったんだろう。ついでにフェリクスかヒルダあたりを殺せたらこの先が楽になると思って士官学校に入ったんだろうな」
ヒューベルトがエーデルガルトの同期生が誰になるのか調べていないはずがない。そしてヒューベルトが本気で調べてもセイロス教会の調剤部門が握る信徒たちの第二性に関する情報は掴めなかったのだ。オメガたちは皆、自分の社会的地位を守ってくれる抑制剤を開発し、身分の分け隔てなく普及させたセイロス教会に深く感謝している。
クロード、いやカリードとしてはフォドラの高品質な抑制剤をパルミラでも普及させたい。きっとパルミラの社会は激烈な変化を遂げるだろう。フォドラと同じように人々が第二性を隠す、いや、隠せるようになるかもしれない。そのためにはセイロス教会が独占する抑制剤の製法や原料を持ち帰らねばならない。あの緑の甲虫はパルミラでも飼育できるのだろうか。
ローレンツの父エルヴィンの第二性がなんであるのかクロードは知らない。だがグロスタール伯が恐怖を感じ、帝国軍のグロスタール領通過を許そうとしても嫡子であるローレンツを説得する、という一手間がかかる。その一手間分だけでも時間が稼げればクロードもいくつか手は打てるだろう。
「ふむ……私個人はやたらエーデルガルトから親切にされたんです。それについて心当たりはありますが、あまりに荒唐無稽で今も確証が得られないのでクロードに教えてあげられません」
エーデルガルトに関する情報はどんなものでもありがたいよ、というとクロードはテーブルに残っていた最後の焼き菓子を口に放り込んだ。交易だけでなく、酪農も盛んなレスターの焼き菓子は高品質の牛酪をたっぷり使っているので食べ終えると唇に油がつく。クロードは少し厚めの唇を指で拭った。
「あっひどい!普通、年下の私に譲るのでは!!」
「お土産に包んであるから持って帰れよ」
そういうことなら許してあげます、といってリシテアは焼き菓子をふた箱持ってコーデリア領へと帰っていった。多分ふた箱ともコーデリア領に着く頃には空になっているだろう。クロードが次に彼女と会えるのはいつなのか分からない。久しぶりに学生時代の話をしたがあの時、集まろうと約束した千年祭まであと二年くらいだ。皆来てくれるだろうか。───行方不明のベレトはそれまでに見つかるのだろうか。畳む
「さかしま」23.#クロロレ #さかしま #完売本 #オメガバース
一一八五年、星辰の節がやってくる。クロードは盟主の仕事を一旦休止するにあたって、現況を事前に調べさせた。半壊したガルグ=マク修道院とその周辺はアビスのように混沌としているらしい。帝国軍は何故かあれだけ苦労して陥落させたガルグ=マク一帯を放棄していた。エーデルガルトはクロード、ディミトリと共にアビスで戦ったが彼女はクロードと違いアビスに興味がないらしい。クロードなら絶対に大規模な調査をさせる。
エーデルガルトは檄文でセイロス教会が偽りの歴史を語っている、と述べていた。確かにセイロス教会は何かを隠しているし胡散臭い。しかしエーデルガルトに、彼女が主張するところの真の歴史を教えた何ものかはそれ以上に胡散臭い。セイロス教会を否定したいならアビスこそ調べねばならないのに捨て置いているのは、帝国にとっても都合が悪い何かがあるからではないか。クロードはそう予想している。
今節、行方不明になったベレトと再会出来なかったらクロードは学生時代の友人たちと修道院の跡地とアビスの調査をする予定だ。おそらく十日間くらいで解散し、再びデアドラへ戻ることになるだろう。
アビスの資料を漁りたいし、フレンから教えてもらった抑制剤の原料になるという甲虫を捕まえて自分でも繁殖させてみたい。あの甲虫はデアドラのセイロス教会でも繁殖させている筈だが、状況が逼迫している今、彼らが神聖だと考えているものを迂闊に探って怒らせたくなかった。それに教会相手に悪さをしたのが信心深い諸侯に知られたら、内紛の規模を操れなくなってしまう。
だが仮にベレトと再会出来たならば話は別だ。もっと規模の大きなことが出来る。彼に拘っていたレアの威光を利用してセイロス騎士団を巻き込み、ガルグ=マクをレスター諸侯同盟の拠点のひとつとする。ガルグ=マクはフォドラの中心にあり帝国へも王国へも同盟へも行きやすい。自分がエーデルガルトならば絶対にガルグ=マクに拠点を作るが、こうして放置されているのは罠の可能性も高かった。それでもガルグ=マクに詳しいセイロス騎士団なら罠に気づくだろう。
クロードは飛竜の鎧に足をかけ手綱をひいた。真っ白な相棒は任せてくれ、と言わんばかりに大きな羽根をゆっくり動かし上昇していく。足の下からナルデール、ことナデルが苦虫を噛み潰したような顔でクロードを見上げていた。上昇するにつれてナデルの傷だらけの顔も小さくなっていく。パルミラにはここ五年帰っていないし両親への便りも殆ど出していない。報告はナデルに任せきりだ。フォドラにいればいるだけクロード、いやカリードのパルミラでの存在感が薄まり王位継承争いで不利になる。長居しすぎだと思っているのだろう。
だが、クロードの祖父も御目付役のナデルも勿論クロード本人も帝国が教会へ宣戦布告するなど予想できなかった。今後の情勢がどうであれパルミラの王宮は対フォドラ政策を根本的に変えることになる。アドラステア帝国がフォドラを統一したら祖国パルミラに攻め込んでくるかもしれない。それを考えるとクロード、いやカリードはまだフォドラを離れることなど出来なかった。シャハドを始めとする異母兄弟たちが嫌いでもパルミラの民草のことは愛している。
更に上昇し眼下に青い海とデアドラの港、それに市街地を望んだ。母方の一族が代々守り続け、父方の一族が狙い続けるレスター諸侯同盟の首都は今日も美しい。白い飛竜に乗るクロードは青い空と青い海に挟まれて何ものにも紛れることは出来ない。だが目に入る空と海と街を美しく思える今、他人からどう見られようとそんなことはどうでも良かった。クロードの相棒は体力があるし、休憩を最低限にして飛んでいけば約束の刻限には到着するだろう。
五年前の撤退戦の時にはあれほど苦労したのに飛竜に乗って空を横断してしまえばあっという間だった。ダフネル領を越えオグマ山脈に沿って飛び続け、ガルグ=マクに到着したクロードは使えるような設備がないか探すため、ゆっくりと修道院の上を旋回した。廃墟と化した修道院を見れば、五年前の攻防戦がいかに苛烈だったか改めてよくわかる。それでも五年前に破壊し尽くせなかった建物が残っていた。事前に受けた報告通り周囲に盗賊が住み着いているのだろう。確かに一から拠点を築く必要がなく効率が良い。上空から彼らが煮炊きをしているであろう煙を確認し、クロードは思わず舌打ちをしてしまった。
なるべく早く排除せねばならないが単騎の今は無理なので見逃すしかない。クロードは盗賊たちに見つからないよう、少し距離を取って静かに飛竜から降りた。舞踏会の晩、皆で会おうと誓った部屋に一人で立ち壁の穴から外を眺める。約束の刻限にはまだ時間はあるがまさか自分が一番乗りとは思わなかった。他の皆の兵種からして時間がかかるのは分かっている。だが釣果なしでデアドラに戻ろうものなら今後ナデルからどんな目で見られることか。それを考えただけでもうんざりする。自分の人徳のなさに思いを馳せていると、瓦礫を蹴散らしながらこちらに近づいてくる足音が聞こえてきた。
自分は五年前と比べてすっかり変わってしまったがクロードの目の前に現れたベレトは時の流れを全く感じさせない。ベレトはクロードが押しても引いても訳のわからないことを話し続け、行方不明になっていた五年間に一体、どうしていたのか具体的には教えてくれなかった。
埒があかないので強引に誘ったが、久しぶりの恩師との食事の時間は五年の空白があるとは思えないほど和やかに過ぎた。食後の腹ごなしと言わんばかりにベレトの指揮に従い、盗賊たちを一人ずつ倒していく。クロードとベレトは盗賊たちに囲まれていた。四方八方全てから逃すな、ぶっ殺してやる、といった類の叫び声が聞こえていたのに北西側だけ叫び声の種類が変化している。
盗賊たちは口々に悲鳴をあげて何かから逃げ惑っていた。新たに別の盗賊が現れて縄張り争いでもしているのだろうか。
「クロード、降りて隠れろ」
ベレトの指示通り飛竜から降りてクロードは物陰に身を潜めた。聞き耳を立てていると北西から矢羽が飛んできて、空気を切り裂く音がする。流れ矢が飛竜に当たってしまったら墜落していただろう。ベレトの指示は以前と変わらず正しい。五年という空白期間があろうと、状況を瞬時に把握する目や耳それに指揮の腕は全く落ちていなかった。北西方向から盗賊たちを排除した者たちがどんどん距離をつめてくる。足音だけでなく話し声も聞こえてきた。
「相変わらず見事だな、イグナーツくん」
「ありがとうございます。声がする方に向かいましょう!」
「多分、騒ぎの中心にクロードがいる。全く、どうしようもない」
来てくれた。友人たちの声を聞き、物陰に隠れたままのクロードは目が熱くなるのを感じた。行方不明になっていたベレトだけでなく、クロードが良しとするものを同じく良しとする、そんな友人が万難を排して───あんな良い加減な口約束を守る為に来てくれた。彼らと合流出来たらナデルに更にフォドラ滞在が伸びると告げねばならない。パルミラでの自分の立場は更に脆弱性を増すだろう。だがそれでもナデルや両親からどんなに呆れられても、友人たちが安心して彼らの国で暮らせるようにせねばならない。畳む
一一八五年、星辰の節がやってくる。クロードは盟主の仕事を一旦休止するにあたって、現況を事前に調べさせた。半壊したガルグ=マク修道院とその周辺はアビスのように混沌としているらしい。帝国軍は何故かあれだけ苦労して陥落させたガルグ=マク一帯を放棄していた。エーデルガルトはクロード、ディミトリと共にアビスで戦ったが彼女はクロードと違いアビスに興味がないらしい。クロードなら絶対に大規模な調査をさせる。
エーデルガルトは檄文でセイロス教会が偽りの歴史を語っている、と述べていた。確かにセイロス教会は何かを隠しているし胡散臭い。しかしエーデルガルトに、彼女が主張するところの真の歴史を教えた何ものかはそれ以上に胡散臭い。セイロス教会を否定したいならアビスこそ調べねばならないのに捨て置いているのは、帝国にとっても都合が悪い何かがあるからではないか。クロードはそう予想している。
今節、行方不明になったベレトと再会出来なかったらクロードは学生時代の友人たちと修道院の跡地とアビスの調査をする予定だ。おそらく十日間くらいで解散し、再びデアドラへ戻ることになるだろう。
アビスの資料を漁りたいし、フレンから教えてもらった抑制剤の原料になるという甲虫を捕まえて自分でも繁殖させてみたい。あの甲虫はデアドラのセイロス教会でも繁殖させている筈だが、状況が逼迫している今、彼らが神聖だと考えているものを迂闊に探って怒らせたくなかった。それに教会相手に悪さをしたのが信心深い諸侯に知られたら、内紛の規模を操れなくなってしまう。
だが仮にベレトと再会出来たならば話は別だ。もっと規模の大きなことが出来る。彼に拘っていたレアの威光を利用してセイロス騎士団を巻き込み、ガルグ=マクをレスター諸侯同盟の拠点のひとつとする。ガルグ=マクはフォドラの中心にあり帝国へも王国へも同盟へも行きやすい。自分がエーデルガルトならば絶対にガルグ=マクに拠点を作るが、こうして放置されているのは罠の可能性も高かった。それでもガルグ=マクに詳しいセイロス騎士団なら罠に気づくだろう。
クロードは飛竜の鎧に足をかけ手綱をひいた。真っ白な相棒は任せてくれ、と言わんばかりに大きな羽根をゆっくり動かし上昇していく。足の下からナルデール、ことナデルが苦虫を噛み潰したような顔でクロードを見上げていた。上昇するにつれてナデルの傷だらけの顔も小さくなっていく。パルミラにはここ五年帰っていないし両親への便りも殆ど出していない。報告はナデルに任せきりだ。フォドラにいればいるだけクロード、いやカリードのパルミラでの存在感が薄まり王位継承争いで不利になる。長居しすぎだと思っているのだろう。
だが、クロードの祖父も御目付役のナデルも勿論クロード本人も帝国が教会へ宣戦布告するなど予想できなかった。今後の情勢がどうであれパルミラの王宮は対フォドラ政策を根本的に変えることになる。アドラステア帝国がフォドラを統一したら祖国パルミラに攻め込んでくるかもしれない。それを考えるとクロード、いやカリードはまだフォドラを離れることなど出来なかった。シャハドを始めとする異母兄弟たちが嫌いでもパルミラの民草のことは愛している。
更に上昇し眼下に青い海とデアドラの港、それに市街地を望んだ。母方の一族が代々守り続け、父方の一族が狙い続けるレスター諸侯同盟の首都は今日も美しい。白い飛竜に乗るクロードは青い空と青い海に挟まれて何ものにも紛れることは出来ない。だが目に入る空と海と街を美しく思える今、他人からどう見られようとそんなことはどうでも良かった。クロードの相棒は体力があるし、休憩を最低限にして飛んでいけば約束の刻限には到着するだろう。
五年前の撤退戦の時にはあれほど苦労したのに飛竜に乗って空を横断してしまえばあっという間だった。ダフネル領を越えオグマ山脈に沿って飛び続け、ガルグ=マクに到着したクロードは使えるような設備がないか探すため、ゆっくりと修道院の上を旋回した。廃墟と化した修道院を見れば、五年前の攻防戦がいかに苛烈だったか改めてよくわかる。それでも五年前に破壊し尽くせなかった建物が残っていた。事前に受けた報告通り周囲に盗賊が住み着いているのだろう。確かに一から拠点を築く必要がなく効率が良い。上空から彼らが煮炊きをしているであろう煙を確認し、クロードは思わず舌打ちをしてしまった。
なるべく早く排除せねばならないが単騎の今は無理なので見逃すしかない。クロードは盗賊たちに見つからないよう、少し距離を取って静かに飛竜から降りた。舞踏会の晩、皆で会おうと誓った部屋に一人で立ち壁の穴から外を眺める。約束の刻限にはまだ時間はあるがまさか自分が一番乗りとは思わなかった。他の皆の兵種からして時間がかかるのは分かっている。だが釣果なしでデアドラに戻ろうものなら今後ナデルからどんな目で見られることか。それを考えただけでもうんざりする。自分の人徳のなさに思いを馳せていると、瓦礫を蹴散らしながらこちらに近づいてくる足音が聞こえてきた。
自分は五年前と比べてすっかり変わってしまったがクロードの目の前に現れたベレトは時の流れを全く感じさせない。ベレトはクロードが押しても引いても訳のわからないことを話し続け、行方不明になっていた五年間に一体、どうしていたのか具体的には教えてくれなかった。
埒があかないので強引に誘ったが、久しぶりの恩師との食事の時間は五年の空白があるとは思えないほど和やかに過ぎた。食後の腹ごなしと言わんばかりにベレトの指揮に従い、盗賊たちを一人ずつ倒していく。クロードとベレトは盗賊たちに囲まれていた。四方八方全てから逃すな、ぶっ殺してやる、といった類の叫び声が聞こえていたのに北西側だけ叫び声の種類が変化している。
盗賊たちは口々に悲鳴をあげて何かから逃げ惑っていた。新たに別の盗賊が現れて縄張り争いでもしているのだろうか。
「クロード、降りて隠れろ」
ベレトの指示通り飛竜から降りてクロードは物陰に身を潜めた。聞き耳を立てていると北西から矢羽が飛んできて、空気を切り裂く音がする。流れ矢が飛竜に当たってしまったら墜落していただろう。ベレトの指示は以前と変わらず正しい。五年という空白期間があろうと、状況を瞬時に把握する目や耳それに指揮の腕は全く落ちていなかった。北西方向から盗賊たちを排除した者たちがどんどん距離をつめてくる。足音だけでなく話し声も聞こえてきた。
「相変わらず見事だな、イグナーツくん」
「ありがとうございます。声がする方に向かいましょう!」
「多分、騒ぎの中心にクロードがいる。全く、どうしようもない」
来てくれた。友人たちの声を聞き、物陰に隠れたままのクロードは目が熱くなるのを感じた。行方不明になっていたベレトだけでなく、クロードが良しとするものを同じく良しとする、そんな友人が万難を排して───あんな良い加減な口約束を守る為に来てくれた。彼らと合流出来たらナデルに更にフォドラ滞在が伸びると告げねばならない。パルミラでの自分の立場は更に脆弱性を増すだろう。だがそれでもナデルや両親からどんなに呆れられても、友人たちが安心して彼らの国で暮らせるようにせねばならない。畳む
ダフネル領の領主ジュディッドの厚意で身支度を整えたクロードとローレンツは用意してもらった馬車で、デアドラ郊外にある馬場までは共に行動した。水の都デアドラの市街地には水路と歩道しかないのでデアドラに滞在するものは皆、自分たちが乗ってきた馬や天馬、それに飛竜をそこに預ける。建物が密集しているので〝落し物〟の懸念がある天馬や飛竜も原則として飛行が許可されていない。
知らせが来ていたのかリーガン家からもグロスタール家の上屋敷からも迎えのものが来ていた。両家は家臣同士も仲が悪いので飛竜を連れたリーガン家の召使をグロスタール家の召使が睨んでいる。飛行がらみの特権を見せつけられたのが悔しいのだ。
消火隊と産婆、それにリーガン家の者だけが、デアドラの市街地で自由に飛竜や天馬で飛ぶことが出来る。
二人はここまで送り届けてくれたダフネル家の家臣に礼を言いながら馬車を降りた。互いの顔を一瞥したがその後は一切、振り返ることもなくクロードは飛竜に跨り、ローレンツは渡し船に乗った。二人が個人でいられた時間はこれでおしまいだ。
クロードのまたがる飛竜の鞍には三日月の紋章が、ローレンツの乗ったグロスタール家の船には長衣をまとった洋灯の紋章があしらわれている。ゴネリル家、ダフネル家の家紋と共にレスター諸侯同盟の紋章を構成しているものだ。クロードはこれから祖父オズワルドに会わねばならない。
今後のフォドラの情勢について考えるとクロードは実家で異母兄たちから真っ暗な物置に閉じ込められた時のような気持ちになる。クロードはあの時、あれだけ欲しかった暖かな光を放つ洋灯を手放してしまった。しかし自分はフォドラの情勢を落ち着かせたら故郷に帰るのだから仕方ない。
母ティアナが育ったリーガン家の本宅に着くとクロードは外套姿のまま、祖父がいる書斎へ向かった。定期的に執事によって片付けられているが、クロードの祖父なだけあって混沌としていることも多い。今日はどうだろうか。
「祖父さん、戻ったぜ。両手両足の指も全部無事だ」
そう言って扉をいきなり開けたクロードを出迎えたのは書斎の椅子に腰掛け、うたた寝をしている祖父オズワルドの姿だった。自分の後継者と決めた息子のゴドフロア一家を事故で失い、憔悴しきって眠ることも忘れていた時期なら有り得ないだろう。唯一この世に残された孫の声を聞き、年を経て垂れてきた瞼が上がるとクロードと同じ緑の瞳が現れた。
「お帰りクロード」
「あまりによく寝てるから呼吸してるかどうか確認するところだった」
クロードの故郷パルミラでは人を虜にして殺す怪物の瞳の色が緑だと信じられている。母ティアナも同じ瞳の色をしていてとにかく不吉だと言われていた。パルミラの者たちがフレンやセテス、それにレアが女神に仕える者たちだ、と知ったらどんな顔をするだろうか。
「お前のための椅子を温められればそれで構わない。よく無事に戻って来た。近寄ってよく顔を見せておくれ」
痩せて皮が骨に張り付いているような手が雪で焼けたクロードの顔を挟む。
「男っぷりが上がってると良いんだがな」
「ああ、若い頃の儂にそっくりだ。これならどんな娘でもなびくさ」
クロードがなびいて欲しいのはグロスタール家の嫡子だ。それを知ったら祖父はなんというのだろう。叔父一家やラファエルの両親の死に関わっている噂があるグロスタール家の嫡子、ということでクロードは最初、ローレンツを警戒していた。しかし今思えば彼は最初から誠実だったのだ。クロードにもきちんと警告を発し、宣言してから監視を始めている。危ういが生真面目だ。
「今はそんなこと言ってる場合じゃないだろ……」
「儂がお前くらいの頃にそんなことばかり考えていたよ。平和だった証拠だろう。年長者として情けなく思う」
「爺さんのせいじゃないだろ、宣戦布告した帝国のせいだ」
クロードはセイロス教や英雄の遺産や修道院の謎という浪漫より現実に関心を持つべきだったのかもしれない、と思っていた。修道院の壁を見るよりローレンツのように人を見るべきだったのかもしれない。エーデルガルトもヒューベルトも全力で隠していたが、今思えばとても怪しかったのだ。
「儂は先に逝く。それは順番だから当たり前のことだ。だがクロード、お前は山に物資を隠しておいた時のように凡ゆる手を打って、どんなことがあっても生き延びるのだ」
「もう知ってるのか?」
「エドマンド辺境伯の娘から、な。あの娘を最初に帰して正解だったな。旅装姿のまま直接、儂宛の手紙とお前宛の手紙を持ってきた」
クロードたちを保護して教会やダフネル家まで連れて行ってくれた迎えの者がデアドラで余計なことに気づく前に、ダフネル領からエドマンド領へ陸路で直帰させたのも中々に気が利いている。オズワルドは書類の山からマリアンヌからの手紙を引っぱり出した。
「祖父さん宛?」
「脱出行に関してお前の判断と手腕を褒めていたよ。自分が辺境伯になったらクロードを支持するがそれはオズワルド公の孫だからではない、とも書いてあった。実に惜しい。美人か?」
「そうだな、ゴネリル家のご令嬢と並んでも引けは取らないね」
オズワルドが自分宛の手紙をクロードに見せてくれた。馬車に乗りながら書いたのか字はところどころ乱れているが、マリアンヌからの手紙はすぐに口ごもる本人が書いたものとは思えないほど表現が豊かで理路整然としている。素早い行動といい手紙だけ読めば領主の妻にぴったりだろう。
「養女だそうだな。多分後継者になれるだろう。数年後には引く手数多だな」
カリードがクロードになるにあたって、母ティアナから祖父のオズワルドに出された条件がいくつかある。そのうちのひとつが息子はパルミラの王子でもあるのだからティアナの許可なくリーガン家のために婚約や結婚をさせないこと、だった。オズワルドは今のところ娘との約束を守るつもりらしい。
自分宛の手紙が本当に未開封かどうかは判らない。だが、祖父から盗み読みをされなかったという体でクロードは封を開けた。祖父宛のものと同じく移動中に急いで書いたのか字がところどころ乱れている。
真っ先に戻してもらったお礼に独断で迎えを出したこと、そして迎えの者が自分が誰を探しているのか分からない方が裏切られることなく、安全だと思ったので迎えの者に敢えて嘘を教えた件について詫びていた。
マリアンヌはクロードがアルファだとは知らない。本当にクロードたちを偽装させたと思っている。ローレンツと本当に深い仲になった、と彼女に告げたらどんな顔をするだろうか。信心深い彼女なら自分は嘘をついていなかった、と女神に感謝の祈りを捧げるかもしれない。
「何にしても無事に帰せて良かったよ。マリアンヌが一番家が遠いんだ」
マリアンヌはやたらクロードに宛てた手紙の中でローレンツが無事かどうか気にしていた。天候が不順な中でローレンツを放置するのも、彼を発情させたまま連れて歩くのも嫌で肉体関係を持ってしまった。無事に帰すための手段だったが、ローレンツがもし女性だったなら純潔を失ったことになる。無事に帰してやれたとは言えないだろう。
「向こうもお前に感謝しとるだろう。今日はゆっくり休みなさい。食事も自分の部屋で取って構わない」
祖父がそう言ってくれたのでクロードは自分宛の手紙をそのまま懐に入れて書斎から退出した。流石に疲れ果てていて、祖父相手に自分宛の手紙を読んだか読んでいないのか腹の探り合いをする気力が湧かなかった。畳む