#ラジオ・デアドラ
#完売本
#ヒルマリ
書き下ろし「焼け跡」
アパートが半焼した。火元は隣室だったが隣人に瑕疵があったとも思えない。構成作家の安い給料で住める程度のぼろアパートだったのでいつ何があってもおかしくなかった。とは言え仕事を終えアパートの周りに消防士が見張り役として立っているところを見てしまったマリアンヌが受けた衝撃は大きい。住民です、と言って住所入りの身分証明書を見せて中に入った。
消火活動で水浸しになった廊下を歩くとわずか数歩だというのに喉の奥に鉛のような何かが溜まっていく。わざと何度か瞬きしてから思い切って自室の玄関を開けるとやはり惨憺たる有様だった。焦がしてはならないものが焦げた匂いが室内に充満している。軍に何年もいたのに整理整頓が苦手なので元から部屋は酷い有様だったがそれでも火事だけは出していなかったのに。
室内に置いてあったものは消火用の水で濡れているか焦げたか焦げ臭い匂いがついているか、に二分されている。床に膝と手をつきたかったがそうしたら今履いているなけなしのスカートすら駄目になってしまうだろう。幸い、通帳は防火加工がしてある貴重品入れに入っていたので無事だった。貴重品入れを探し出すついでに部屋の中を漁ってみたが、愛用していた帽子も仕事道具である辞書も読み返していた詩集も焦げている。天日干しでもすれば匂いは取れるのだろうか。目に入る何もかもが煙か水で傷んでいた。取り敢えず今晩の夜露をしのがねばならない。壁と天井はあるが安全のため今晩はここで寝泊まりするな、と消防士から指導されたからだ。
マリアンヌは貴重品入れから銀行の通帳ともう帰れない実家の鍵を取り出し、ハンドバッグに突っ込んでからとぼとぼと職場に向けて歩き始めた。あそこなら二十四時間必ず誰かいるが市電はそうではない。
火災現場にいると焦げ臭さに関して鼻が麻痺してしまう。しかし同じ車両に乗り合わせた他の者たちは違った。皆、違和感を覚え眉間に皺を寄せている。マリアンヌは学生時代や軍にいた頃に己が意図していないところで周りを困惑させていたことを思い出してしまった。
嫌なことというのは立て続けに起こるものなのか職場の玄関先で履いていた靴のつま先が石畳のわずかな隙間に引っかかる。何故何もないところで転ぶのかとよく不思議がられたが転ばずに歩ける人たちには分かるまい。慌てて地面に手と膝をつくとかぶっていた帽子が転げ落ちた。今日は何から何までうまくいかない。
「あれ?どうしたの?帰ったはずだよね?」
頭のてっぺんから爪先までいつも完璧なヒルダがマリアンヌの帽子を手渡してくれた。帽子は机の下に置いてあった貴重品入れを引っ張り出す時に煤がべっとりとてっぺんや縁についていたらしい。マリアンヌは自分と同じ車両に乗り合わせていた人々の彷徨う視線や困惑の理由を今更になって知った。
「その……と、隣の部屋から火が出て……」
「え!やだ!大変じゃない!」
流石に予想外だったのかヒルダは薄紅色の瞳を大きく見開いて驚いている。
「はい、鎮火はしたので」
マリアンヌは自分の部屋への延焼は免れたが煤や煙、消火活動で撒かれた水で持ち物の殆どが駄目になったことをヒルダに伝えた。とりあえず明日店が開いたら着替えを買わねばならない。
「うわ、これから片付けとか手続きで忙しくなるね。明日は休みをとらないと!」
「とりあえず夜露はしのげると思ってここに戻りました」
マリアンヌはきっと全く軍人に見えない軍人だった筈だ。だがこういう時に士官学校上がりだという彼女の素地が透けて見える。本当に夜露をしのぐことしか考えていないのだ。ヒルダからすれば歯痒いことに明日以降は物件を見つけるまで安宿に泊まるつもりでいるのだろう。
「夜露って……局の仮眠室で寝るつもりだったの?」
「いいえ、デスクに突っ伏して寝ようと思っていました。仮眠室は他の方が使うかもしれませんし」
「とりあえずダイナーで何か食べようよ」
マリアンヌは実家も遠いし友人も殆どいない。誰かに頼るとしたら自分しかいないという確信があったヒルダは手を差し伸べた。
「ゴネリル少佐のご実家に、わ、私が……?」
ヒルダと付き合っているにも関わらずマリアンヌはホルストを理由にヒルダの自宅に近寄ろうとはしなかった。ホルストのことは大好きだが来たくない理由、を聞いてその時ばかりは彼が兄であることをヒルダは悔しく感じた。
「どうしていつも兄さんのことが出てくるのよ!付き合ってるのは私よ!それと私も明日片付け手伝うね」
ダイナーで軽めの夕食をとりながらヒルダはひとまずしばらく自分の家に泊まるように、とマリアンヌに提案した。ホルストもヒルダが放送業界へ引き摺り込んだマリアンヌの窮状を知れば泊めるように言うだろう。ヒルダは兄のそういうところが好きだ。ゴネリル邸は無駄に広く部屋も余っている。マリアンヌは逡巡していたがヒルダの目論見通り段々とゴールがずれ始めた。最初は今晩泊まることすら拒否していたが今は次の物件が見つかるまでというのは甘え過ぎではないか、という話になっている。
「……ではお言葉に甘えてお世話になります」
帰宅後にヒルダがかいつまんでマリアンヌの窮状を説明すると当然だがホルストも両親も気の毒に思ったらしい。念のためマリアンヌが軍にいたことはホルストに話さなかった。軍でうまくやっている者と軍で人間関係に躓いた者の話が噛み合うとは思えない。
とりあえずヒルダは煤だらけで酷い有様のマリアンヌを風呂に放り込んでいる。その間にヒルダはソファーを引っ張り座面をベッドに変形させシーツを掛けた。あとは自分のベッドの下に入れてある毛布と枕を出せばいい。
「ありがとうございました」
「私のお古でごめんね」
客用の掛け布団や枕を取りに行く前にマリアンヌがヒルダの部屋に戻ってきた。着替えなど持っていないのでマリアンヌのためヒルダは寝巻きを上から下まで貸してやっている。
「これからは着替え一式をロッカーに入れておくことにします……」
「そんなこと誰もしてないと思うな……。明日頑張って片付けちゃおうね!」
「申し訳ないのですが片付けより先に服を買いに行きたいんです……」
ヒルダとマリアンヌは体格が違うから着心地が悪いのだろうか。今彼女が身につけている寝巻きは丈はともかく細身なマリアンヌにはきつくなさそうに見える。
「うん、別にいいけどまず何が買いに行きたいの?」
「肌着です……流石にお借りしっぱなしなのは申し訳ないので……」
確かにそうだろう。翌朝、店が開く時間に合わせて起床しヒルダはまずマリアンヌの買い物に付き合った。買い物の仕方にも個性がある。マリアンヌはヒルダと違って熟考した結果買わないことが多かった。通帳の残高は減っていったが誰からも責められずにたくさん買い物ができる機会を堪能する。どの店でも焼け出されたと話すと店員たちは同情してくれた。
片付けをする前にヒルダの家に買ったものを置いてから二人はマリアンヌのアパートに向かった。エプロンと軍手それに頭にバンダナを巻いてもう使い道がなくなったものをひたすら片付けていく。ヒルダの見たところ全て捨てるしかなさそうだった。だがマリアンヌは濡れたものと焦げたものに分け何故か濡れたものから容赦なくゴミ袋に詰めている。焦げたものは何故か手付かずだった。
「ねえそれだとゴミ袋の重さが偏っちゃわない?」
「焦げたものの中からレオニーさんの番組に提供できそうなものを探します」
「きっと聞いたリスナーの中では語り草になるわ」
その前に考えなくても進められる作業を進めてしまいたい、というわけらしい。だがどういうことだかヒルダにはよく分からなかった。マリアンヌは沈黙をヒルダからの答えと受け取ったらしい。
「使い物にならない上に番組パーソナリティの私物ですらないと言う事実とレオニーさんの真っ当さが正面からぶつかった時に笑いが生まれる、と思いまして」
そう言って番組に提供するため焦げた私物を漁るマリアンヌはまるで焼け跡から生える芽のようだ。この新芽をヒルダは守らねばならない。貯金を崩したり安月給をやりくりしながら家具や日用品を再び買い揃えていくうちにこの感性が失われたら大きな損失になる。きっかけが火事であったのは残念だがずっと兄に気兼ねしてヒルダの家に来てくれなかったマリアンヌが昨日は泊まってくれたことも含めてこれは千載一遇の機会を迎えたのだ。言うべきことはもう決まっている。
───ねえ、昨日泊まったから分かるでしょ?うちは今、部屋が余ってるの。だから───畳む
#完売本
#ヒルマリ
書き下ろし「焼け跡」
アパートが半焼した。火元は隣室だったが隣人に瑕疵があったとも思えない。構成作家の安い給料で住める程度のぼろアパートだったのでいつ何があってもおかしくなかった。とは言え仕事を終えアパートの周りに消防士が見張り役として立っているところを見てしまったマリアンヌが受けた衝撃は大きい。住民です、と言って住所入りの身分証明書を見せて中に入った。
消火活動で水浸しになった廊下を歩くとわずか数歩だというのに喉の奥に鉛のような何かが溜まっていく。わざと何度か瞬きしてから思い切って自室の玄関を開けるとやはり惨憺たる有様だった。焦がしてはならないものが焦げた匂いが室内に充満している。軍に何年もいたのに整理整頓が苦手なので元から部屋は酷い有様だったがそれでも火事だけは出していなかったのに。
室内に置いてあったものは消火用の水で濡れているか焦げたか焦げ臭い匂いがついているか、に二分されている。床に膝と手をつきたかったがそうしたら今履いているなけなしのスカートすら駄目になってしまうだろう。幸い、通帳は防火加工がしてある貴重品入れに入っていたので無事だった。貴重品入れを探し出すついでに部屋の中を漁ってみたが、愛用していた帽子も仕事道具である辞書も読み返していた詩集も焦げている。天日干しでもすれば匂いは取れるのだろうか。目に入る何もかもが煙か水で傷んでいた。取り敢えず今晩の夜露をしのがねばならない。壁と天井はあるが安全のため今晩はここで寝泊まりするな、と消防士から指導されたからだ。
マリアンヌは貴重品入れから銀行の通帳ともう帰れない実家の鍵を取り出し、ハンドバッグに突っ込んでからとぼとぼと職場に向けて歩き始めた。あそこなら二十四時間必ず誰かいるが市電はそうではない。
火災現場にいると焦げ臭さに関して鼻が麻痺してしまう。しかし同じ車両に乗り合わせた他の者たちは違った。皆、違和感を覚え眉間に皺を寄せている。マリアンヌは学生時代や軍にいた頃に己が意図していないところで周りを困惑させていたことを思い出してしまった。
嫌なことというのは立て続けに起こるものなのか職場の玄関先で履いていた靴のつま先が石畳のわずかな隙間に引っかかる。何故何もないところで転ぶのかとよく不思議がられたが転ばずに歩ける人たちには分かるまい。慌てて地面に手と膝をつくとかぶっていた帽子が転げ落ちた。今日は何から何までうまくいかない。
「あれ?どうしたの?帰ったはずだよね?」
頭のてっぺんから爪先までいつも完璧なヒルダがマリアンヌの帽子を手渡してくれた。帽子は机の下に置いてあった貴重品入れを引っ張り出す時に煤がべっとりとてっぺんや縁についていたらしい。マリアンヌは自分と同じ車両に乗り合わせていた人々の彷徨う視線や困惑の理由を今更になって知った。
「その……と、隣の部屋から火が出て……」
「え!やだ!大変じゃない!」
流石に予想外だったのかヒルダは薄紅色の瞳を大きく見開いて驚いている。
「はい、鎮火はしたので」
マリアンヌは自分の部屋への延焼は免れたが煤や煙、消火活動で撒かれた水で持ち物の殆どが駄目になったことをヒルダに伝えた。とりあえず明日店が開いたら着替えを買わねばならない。
「うわ、これから片付けとか手続きで忙しくなるね。明日は休みをとらないと!」
「とりあえず夜露はしのげると思ってここに戻りました」
マリアンヌはきっと全く軍人に見えない軍人だった筈だ。だがこういう時に士官学校上がりだという彼女の素地が透けて見える。本当に夜露をしのぐことしか考えていないのだ。ヒルダからすれば歯痒いことに明日以降は物件を見つけるまで安宿に泊まるつもりでいるのだろう。
「夜露って……局の仮眠室で寝るつもりだったの?」
「いいえ、デスクに突っ伏して寝ようと思っていました。仮眠室は他の方が使うかもしれませんし」
「とりあえずダイナーで何か食べようよ」
マリアンヌは実家も遠いし友人も殆どいない。誰かに頼るとしたら自分しかいないという確信があったヒルダは手を差し伸べた。
「ゴネリル少佐のご実家に、わ、私が……?」
ヒルダと付き合っているにも関わらずマリアンヌはホルストを理由にヒルダの自宅に近寄ろうとはしなかった。ホルストのことは大好きだが来たくない理由、を聞いてその時ばかりは彼が兄であることをヒルダは悔しく感じた。
「どうしていつも兄さんのことが出てくるのよ!付き合ってるのは私よ!それと私も明日片付け手伝うね」
ダイナーで軽めの夕食をとりながらヒルダはひとまずしばらく自分の家に泊まるように、とマリアンヌに提案した。ホルストもヒルダが放送業界へ引き摺り込んだマリアンヌの窮状を知れば泊めるように言うだろう。ヒルダは兄のそういうところが好きだ。ゴネリル邸は無駄に広く部屋も余っている。マリアンヌは逡巡していたがヒルダの目論見通り段々とゴールがずれ始めた。最初は今晩泊まることすら拒否していたが今は次の物件が見つかるまでというのは甘え過ぎではないか、という話になっている。
「……ではお言葉に甘えてお世話になります」
帰宅後にヒルダがかいつまんでマリアンヌの窮状を説明すると当然だがホルストも両親も気の毒に思ったらしい。念のためマリアンヌが軍にいたことはホルストに話さなかった。軍でうまくやっている者と軍で人間関係に躓いた者の話が噛み合うとは思えない。
とりあえずヒルダは煤だらけで酷い有様のマリアンヌを風呂に放り込んでいる。その間にヒルダはソファーを引っ張り座面をベッドに変形させシーツを掛けた。あとは自分のベッドの下に入れてある毛布と枕を出せばいい。
「ありがとうございました」
「私のお古でごめんね」
客用の掛け布団や枕を取りに行く前にマリアンヌがヒルダの部屋に戻ってきた。着替えなど持っていないのでマリアンヌのためヒルダは寝巻きを上から下まで貸してやっている。
「これからは着替え一式をロッカーに入れておくことにします……」
「そんなこと誰もしてないと思うな……。明日頑張って片付けちゃおうね!」
「申し訳ないのですが片付けより先に服を買いに行きたいんです……」
ヒルダとマリアンヌは体格が違うから着心地が悪いのだろうか。今彼女が身につけている寝巻きは丈はともかく細身なマリアンヌにはきつくなさそうに見える。
「うん、別にいいけどまず何が買いに行きたいの?」
「肌着です……流石にお借りしっぱなしなのは申し訳ないので……」
確かにそうだろう。翌朝、店が開く時間に合わせて起床しヒルダはまずマリアンヌの買い物に付き合った。買い物の仕方にも個性がある。マリアンヌはヒルダと違って熟考した結果買わないことが多かった。通帳の残高は減っていったが誰からも責められずにたくさん買い物ができる機会を堪能する。どの店でも焼け出されたと話すと店員たちは同情してくれた。
片付けをする前にヒルダの家に買ったものを置いてから二人はマリアンヌのアパートに向かった。エプロンと軍手それに頭にバンダナを巻いてもう使い道がなくなったものをひたすら片付けていく。ヒルダの見たところ全て捨てるしかなさそうだった。だがマリアンヌは濡れたものと焦げたものに分け何故か濡れたものから容赦なくゴミ袋に詰めている。焦げたものは何故か手付かずだった。
「ねえそれだとゴミ袋の重さが偏っちゃわない?」
「焦げたものの中からレオニーさんの番組に提供できそうなものを探します」
「きっと聞いたリスナーの中では語り草になるわ」
その前に考えなくても進められる作業を進めてしまいたい、というわけらしい。だがどういうことだかヒルダにはよく分からなかった。マリアンヌは沈黙をヒルダからの答えと受け取ったらしい。
「使い物にならない上に番組パーソナリティの私物ですらないと言う事実とレオニーさんの真っ当さが正面からぶつかった時に笑いが生まれる、と思いまして」
そう言って番組に提供するため焦げた私物を漁るマリアンヌはまるで焼け跡から生える芽のようだ。この新芽をヒルダは守らねばならない。貯金を崩したり安月給をやりくりしながら家具や日用品を再び買い揃えていくうちにこの感性が失われたら大きな損失になる。きっかけが火事であったのは残念だがずっと兄に気兼ねしてヒルダの家に来てくれなかったマリアンヌが昨日は泊まってくれたことも含めてこれは千載一遇の機会を迎えたのだ。言うべきことはもう決まっている。
───ねえ、昨日泊まったから分かるでしょ?うちは今、部屋が余ってるの。だから───畳む
#かのひとはうつくしく番外編
#クロヒル
#ロレマリ
「フォドラの卵」
1.デアドラ
クロード=フォン=リーガンがリーガン家の嫡子として公表されたのは一一七九年のことだった。しかしエドマンド辺境伯は一一七六年にマリアンヌを養女としていたおかげで、公表される前からリーガン家に引き取られた行儀見習いの少年について把握していた。
ガスパール領のロナート卿のように見ず知らずの子供を養子にする場合と血縁者を養子にする場合は心構えが違ってくる。その微妙な機微を感じ取ることができたのも愛する娘を託してくれた妹夫妻の導きだろう。マリアンヌは出奔したエドマンド辺境伯の妹にもその夫にもよく似ている。
あの頃は女神の恩寵と言われていた血が薄まっていたことにどの国の者も焦りを見せていた。エドマンド家の本家もここ三代ほど紋章保持者は生まれていない。夫の家に伝わるモーリスの血が薄まっていることに期待したエドマンド辺境伯の妹は賭けに出て───負けた。
だが五年に渡った大乱の末、勝ち負けを決定していた盤面も砕け散っている。呪いは解けグロスタール家へ嫁いだマリアンヌはデアドラの上屋敷に顔を出していた。上屋敷と言ってもグロスタール家の上屋敷ではない。エドマンド家の上屋敷だ。昼食までに帰る、と言う約束で実家に顔を出している。
「婿殿の顔も見たかったのだが」
「ローレンツさんにも休息は必要です」
一般論を盾にマリアンヌは夫を守った。ローレンツは認めようとしないが彼は気直なたちなので舅に苦手意識を持っている。そんな彼を庇う養女の姿が微笑ましいのでエドマンド辺境伯はどうしてもローレンツに構ってしまう。
「そういうことにしたいのであれば構わないが」
マリアンヌとローレンツの付き合いは長い。ガルグ=マクで出会った二人は五年間の大乱とその後の後始末を経てようやく結ばれた。かつては希死念慮に囚われ、何の意見も持たなかったマリアンヌが他家に嫁ぎ、次から次に湧き出る言いたいことを我慢している。そんな心の動きが育ての親に見透かされていることを察した養女は大きくため息をついた。
「火事の件もありましたし、ヒルダさんのことが心配で、私、ローレンツさんにその話ばかりしてしまって……」
ゴネリル家のご令嬢ヒルダはマリアンヌの大親友だ。マリアンヌもゴネリルへ足を運んだことがあるし、彼女もエドマンドに遊びにきたこともある。ずっと塞いでいたマリアンヌを華やかさで照らし、世間へと連れ出してくれた。そんな彼女は学生時代からクロード=フォン=リーガンと親しかったと聞く。
「だが、元盟主殿が地元で他のご令嬢を娶るのも気に入らないのだろう?」
仮の話を聞いただけでマリアンヌはひどく顔を顰めた。ヒルダには早くクロードと幸せになって欲しいが遠くにいってほしくない───子どものような我儘をローレンツに聞かれるのは恥ずかしいがエドマンド辺境伯に聞かれるのは構わないらしい。
「それは勿論です!ヒルダさんのことを……そんな……!」
クロード=フォン=リーガンがクロード=フォン=リーガンであることをやめなければヒルダは今頃デアドラに居を構えていただろう。そしてクロード=フォン=リーガンがその立場と名を捨てなければマリアンヌとローレンツの結婚も二年は早かったのではなかろうか。二人とも彼の後始末に奔走していた。
それはともかく、大切な存在が想定外の相手と恋をして心が激しく揺れる───エドマンド辺境伯にも覚えがあった。
妹が愛した親友は忌まわしい紋章をその身に宿していた、親友が愛した男はパルミラの王子だった、そんなところは似なくていいのに見事な相似形をとっている。
「だが、険しい道をいく彼女のことを尊敬しているのだろう?」
「はい、自分の気持ちに正直で我慢強いヒルダさんを尊敬しています」
彼女たちの友情が末長く続くようエドマンド辺境伯は女神に願った。友人がいれば自分の死後もマリアンヌは孤独にならない。
数度の往来を経て現実と理想の齟齬を引き受ける覚悟が決まったのか、マリアンヌによるとヒルダはパルミラへ居を移すのだという。王族である先方の事情で正式な結婚はまだ先だ。代々国境を守ってきたゴネリル家の娘がパルミラの者からは愛姫扱いをされる。
マリアンヌはヒルダが敵対勢力から何らかの危害を加えられるのではないか、と心配していた。しかし彼女とティアナが意気投合したらおそらく殆どの問題は解決できるだろう。王の寵愛があったとはいえティアナは単身、敵国の王宮で生き残り、出産にもこぎつけた。息子が十五になるまで育て上げている。
旧円卓会議に出席していた諸侯たちは何故我らが盟主殿は全く地に足がついていないことばかり考えつくのか、という疑問をずっと抱えていた。彼の真の名と彼の母の名を聞いてようやく長年の胸のつかえが取れたのだ。
だがティアナを直接知らない若者に言っても理解しないだろう。
「マリアンヌ……まだ起きていないことを漠然と憂うより先に考えねばならないことがある」
あの怠惰なお嬢様が実に慎重に事を運んでいる。周りに頭を下げ周知し、目標へと進んでいく姿はどこか彼女の兄ホルストに似ていた。手続きの時間はかかるかもしれないがヒルダはいずれクロード、いやカリード王子の正妃となるだろう。
「王都で叛乱が起きた場合の逃走経路でしょうか?お義父さま、私……」
エドマンド辺境伯は大袈裟にため息をついた。マリアンヌはまだ起きていないこと、に囚われている。
「それもまだ起きていないこと、だ。祝いの品を贈ってやらねば。形式はどうあれ二人は同居するのだから」
「そ、そうでした!お義父さまならヒルダさんとクロードさんに何を贈りますか?」
ここでローレンツさんと相談しなくては、と言わないのがマリアンヌの個性だ。それを受け入れる度量のある男でなければマリアンヌのことは渡せない。君の名は出てこなかったよ───後日、ローレンツと会った時に必ず伝えなくては。エドマンド辺境伯はそう脳裏に刻んだ。
「そうだな、午後に街を散策しながら考えてみよう。さあ、もう帰りなさい。昼食は彼と取る予定なのだろう?」
他国の王子とその愛姫への贈り物、となると生半可な物は贈れない。まずは誰にも邪魔されず、集中する必要があった。
一人の昼食をゆったりと楽しんだエドマンド辺境伯の頭上を飛竜が飛んでいった。足首には産婆が騎乗していることを示す、黄色い飾りがついている。何か思いついたような気がしたがどうにもぼんやりとしている。
「念のために幌を出しますか?」
船着場で商業地区に向かう主人を待っていた渡し船の漕ぎ手がそう、提案してきた。髪や服が汚れてしまったら引き返して汚れを落とさねばならない。
「いや、渋滞がない飛竜のほうが足が早いはずだ。ゆっくり漕いで距離を取ればいい」
人口が密集する平時のデアドラにおいて、天馬や飛竜での飛行が許されているのは産婆と消火隊と領主の一族であるリーガン家の者だけだ。だが"落とし物"のことを考えたオズワルド公やゴドフロア卿は決して特権を行使しなかった。
クロードだけが無邪気に特権を楽しんでいたのは彼の生まれのせいだろう。エドマンド辺境伯は飛び去る飛竜の後ろ姿を見つめた。先ほどの漠然とした思いつきを早く言語化してしまいたい。───無邪気な二人の喜ぶ顔はマリアンヌと婿殿が見れば良いのだ。畳む
#クロヒル
#ロレマリ
「フォドラの卵」
1.デアドラ
クロード=フォン=リーガンがリーガン家の嫡子として公表されたのは一一七九年のことだった。しかしエドマンド辺境伯は一一七六年にマリアンヌを養女としていたおかげで、公表される前からリーガン家に引き取られた行儀見習いの少年について把握していた。
ガスパール領のロナート卿のように見ず知らずの子供を養子にする場合と血縁者を養子にする場合は心構えが違ってくる。その微妙な機微を感じ取ることができたのも愛する娘を託してくれた妹夫妻の導きだろう。マリアンヌは出奔したエドマンド辺境伯の妹にもその夫にもよく似ている。
あの頃は女神の恩寵と言われていた血が薄まっていたことにどの国の者も焦りを見せていた。エドマンド家の本家もここ三代ほど紋章保持者は生まれていない。夫の家に伝わるモーリスの血が薄まっていることに期待したエドマンド辺境伯の妹は賭けに出て───負けた。
だが五年に渡った大乱の末、勝ち負けを決定していた盤面も砕け散っている。呪いは解けグロスタール家へ嫁いだマリアンヌはデアドラの上屋敷に顔を出していた。上屋敷と言ってもグロスタール家の上屋敷ではない。エドマンド家の上屋敷だ。昼食までに帰る、と言う約束で実家に顔を出している。
「婿殿の顔も見たかったのだが」
「ローレンツさんにも休息は必要です」
一般論を盾にマリアンヌは夫を守った。ローレンツは認めようとしないが彼は気直なたちなので舅に苦手意識を持っている。そんな彼を庇う養女の姿が微笑ましいのでエドマンド辺境伯はどうしてもローレンツに構ってしまう。
「そういうことにしたいのであれば構わないが」
マリアンヌとローレンツの付き合いは長い。ガルグ=マクで出会った二人は五年間の大乱とその後の後始末を経てようやく結ばれた。かつては希死念慮に囚われ、何の意見も持たなかったマリアンヌが他家に嫁ぎ、次から次に湧き出る言いたいことを我慢している。そんな心の動きが育ての親に見透かされていることを察した養女は大きくため息をついた。
「火事の件もありましたし、ヒルダさんのことが心配で、私、ローレンツさんにその話ばかりしてしまって……」
ゴネリル家のご令嬢ヒルダはマリアンヌの大親友だ。マリアンヌもゴネリルへ足を運んだことがあるし、彼女もエドマンドに遊びにきたこともある。ずっと塞いでいたマリアンヌを華やかさで照らし、世間へと連れ出してくれた。そんな彼女は学生時代からクロード=フォン=リーガンと親しかったと聞く。
「だが、元盟主殿が地元で他のご令嬢を娶るのも気に入らないのだろう?」
仮の話を聞いただけでマリアンヌはひどく顔を顰めた。ヒルダには早くクロードと幸せになって欲しいが遠くにいってほしくない───子どものような我儘をローレンツに聞かれるのは恥ずかしいがエドマンド辺境伯に聞かれるのは構わないらしい。
「それは勿論です!ヒルダさんのことを……そんな……!」
クロード=フォン=リーガンがクロード=フォン=リーガンであることをやめなければヒルダは今頃デアドラに居を構えていただろう。そしてクロード=フォン=リーガンがその立場と名を捨てなければマリアンヌとローレンツの結婚も二年は早かったのではなかろうか。二人とも彼の後始末に奔走していた。
それはともかく、大切な存在が想定外の相手と恋をして心が激しく揺れる───エドマンド辺境伯にも覚えがあった。
妹が愛した親友は忌まわしい紋章をその身に宿していた、親友が愛した男はパルミラの王子だった、そんなところは似なくていいのに見事な相似形をとっている。
「だが、険しい道をいく彼女のことを尊敬しているのだろう?」
「はい、自分の気持ちに正直で我慢強いヒルダさんを尊敬しています」
彼女たちの友情が末長く続くようエドマンド辺境伯は女神に願った。友人がいれば自分の死後もマリアンヌは孤独にならない。
数度の往来を経て現実と理想の齟齬を引き受ける覚悟が決まったのか、マリアンヌによるとヒルダはパルミラへ居を移すのだという。王族である先方の事情で正式な結婚はまだ先だ。代々国境を守ってきたゴネリル家の娘がパルミラの者からは愛姫扱いをされる。
マリアンヌはヒルダが敵対勢力から何らかの危害を加えられるのではないか、と心配していた。しかし彼女とティアナが意気投合したらおそらく殆どの問題は解決できるだろう。王の寵愛があったとはいえティアナは単身、敵国の王宮で生き残り、出産にもこぎつけた。息子が十五になるまで育て上げている。
旧円卓会議に出席していた諸侯たちは何故我らが盟主殿は全く地に足がついていないことばかり考えつくのか、という疑問をずっと抱えていた。彼の真の名と彼の母の名を聞いてようやく長年の胸のつかえが取れたのだ。
だがティアナを直接知らない若者に言っても理解しないだろう。
「マリアンヌ……まだ起きていないことを漠然と憂うより先に考えねばならないことがある」
あの怠惰なお嬢様が実に慎重に事を運んでいる。周りに頭を下げ周知し、目標へと進んでいく姿はどこか彼女の兄ホルストに似ていた。手続きの時間はかかるかもしれないがヒルダはいずれクロード、いやカリード王子の正妃となるだろう。
「王都で叛乱が起きた場合の逃走経路でしょうか?お義父さま、私……」
エドマンド辺境伯は大袈裟にため息をついた。マリアンヌはまだ起きていないこと、に囚われている。
「それもまだ起きていないこと、だ。祝いの品を贈ってやらねば。形式はどうあれ二人は同居するのだから」
「そ、そうでした!お義父さまならヒルダさんとクロードさんに何を贈りますか?」
ここでローレンツさんと相談しなくては、と言わないのがマリアンヌの個性だ。それを受け入れる度量のある男でなければマリアンヌのことは渡せない。君の名は出てこなかったよ───後日、ローレンツと会った時に必ず伝えなくては。エドマンド辺境伯はそう脳裏に刻んだ。
「そうだな、午後に街を散策しながら考えてみよう。さあ、もう帰りなさい。昼食は彼と取る予定なのだろう?」
他国の王子とその愛姫への贈り物、となると生半可な物は贈れない。まずは誰にも邪魔されず、集中する必要があった。
一人の昼食をゆったりと楽しんだエドマンド辺境伯の頭上を飛竜が飛んでいった。足首には産婆が騎乗していることを示す、黄色い飾りがついている。何か思いついたような気がしたがどうにもぼんやりとしている。
「念のために幌を出しますか?」
船着場で商業地区に向かう主人を待っていた渡し船の漕ぎ手がそう、提案してきた。髪や服が汚れてしまったら引き返して汚れを落とさねばならない。
「いや、渋滞がない飛竜のほうが足が早いはずだ。ゆっくり漕いで距離を取ればいい」
人口が密集する平時のデアドラにおいて、天馬や飛竜での飛行が許されているのは産婆と消火隊と領主の一族であるリーガン家の者だけだ。だが"落とし物"のことを考えたオズワルド公やゴドフロア卿は決して特権を行使しなかった。
クロードだけが無邪気に特権を楽しんでいたのは彼の生まれのせいだろう。エドマンド辺境伯は飛び去る飛竜の後ろ姿を見つめた。先ほどの漠然とした思いつきを早く言語化してしまいたい。───無邪気な二人の喜ぶ顔はマリアンヌと婿殿が見れば良いのだ。畳む
#かのひとはうつくしく番外編
#クロヒル
#ロレマリ
「フォドラの卵」
2.首飾り
ホルストの前には妹の親友マリアンヌとその夫ローレンツがいる。国境を越えパルミラに入国する彼らのため、ホルストは関所の長として執務室に二人を迎え彼らの査証に署名した。将来的にはマリアンヌがエドマンド辺境伯となるため、彼らの姓は複合姓となっている。こうしておくことで二人の間に生まれた子供は将来、親と全く同じ姓を名乗ったまま自然とどちらの爵位も継げるようになるのだ。
「二人とも爵位を継ぐ前の自由を満喫しているようだ」
領主になってしまえば気軽にフォドラの外へ出ることはむずかしくなる。まず健在であることが領主の務めだからだ。ヒルダはローレンツの父を責めたと聞くがネメシスの軍勢が攻めてきた際の振る舞いはあれが正しい。
「両国の友好関係が強固なものになればホルスト卿もヒルダさんとクロ……、失礼いたしました。カリード王子から王都に招かれるかと思います」
ローレンツはクロード=フォン=リーガンの失踪の後始末に奔走し、パルミラに彼がいるという事実に真っ先に辿り着いた。互いの旅券は受け入れることとなったが未だにパルミラとの停戦協定や友好条約は締結されていない。クロード、いや、カリード王子が即位すればローレンツとパルミラの官吏たちの努力が実る日が早まるだろう。
「はは、私たちゴネリル家の者もいまだに彼のことは昔の名で呼んでしまうのだ」
円卓会議に出るのは父であるゴネリル公でホルストはほとんど国境から動かない。だがリーガン家がリーガンの紋章を宿した少年を嫡子に据える、という話が円卓会議に出席する諸侯にだけ伝えられた時は例外だった。生涯にわたる付き合いになる───そう考えたホルストは内々のお披露目の際にデアドラまで足を運んだ。
あの時、遠くから姿を見た少し不満げな面持ちで矢を放っていた少年が義理の弟になるのだと言う。背に浮かんだリーガンの紋章を見た時にはその紋章を繋いだのがティアナ=フォン=リーガンである、と分からなかった。このまま上手くいけばバルタザールと共に幼い頃、憧れた人と姻戚になることがホルストは少し照れくさい。
「僕の失言をお許しいただきありがとうございます。ヒルダさんのパルミラでの暮らしが少しでも安定したものになるよう、力を尽くします」
「ホルストさんが王都にいらしたら、きっとヒルダさんとナデルさんは大喜びしますね」
この先の展望と夢を語る二人は長身だが細身で、とてもではないが護衛を付けずにパルミラ国内を移動できるような見た目をしていない。だが互いを頼りに旅ができるのは彼らが二人とも紋章を宿す歴戦の勇者だからだ。
「それにしても君たちであれば海路の方が早いように思えるのだが何故、陸路を?」
マリアンヌがすっと歩み出て指を三本立てた。理由は三つあるらしい。
「ヒルダさんへお渡しするために運んでいる物がとても繊細で海上輸送に耐えない、こちらで買いつけをしたかった、ゴネリル家の皆さまから直接ヒルダさんへの言伝を聞くため、以上の三つが今回、陸路を選んだ理由となります」
後ろで妻が話す様子を見守っているローレンツの顔は本当に幸せそうだ。妻が優秀であることに嫉妬せず頑丈に梱包された小ぶりな箱を小脇に抱えている。
実際、適材適所なのだ。ヒルダがまだゴネリル家にいた頃、マリアンヌは何度か首飾りまで顔を出しに来たことがある。馬や天馬は巧みに乗りこなすのに自分の足で歩くと驚くほど人や家具にぶつかっていた。確かに壊れやすいものは持たせられない。
「ゴネリル公ご夫妻からの手紙と品は既に預かっております。明朝の出発までに用意していただければホルスト卿からの手紙と品も確実に王都のヒルダさんへ届けることが可能です。帰りは海路の予定なのでヒルダさんからいただいた返信はエドマンドから使者に持たせるつもりです」
最後にローレンツがそう付け足した。二人はそのままエドギアに戻るのだろう。
「なるほど、ところで海上輸送に耐えないもの、とは何だろうか?」
藁をふんだんに使えば大抵の割れ物は運ぶことができる。伯爵夫妻が自ら運ばねばならない品とは何だろうか。マリアンヌがローレンツを見つめた。彼でなければ梱包を解けないのだろう。そして梱包し直すのも彼でなければ出来ない。
愛する奥方に滅法甘い、と評判なローレンツはホルストの許可を得ると抱えていた箱を執務用の机に置き、慎重に紐を解き始めた。どんな祝いの品より遠路はるばる親友とその夫が訪ねてくれたことをヒルダは喜ぶだろう。鍛錬の証である胼胝だらけの手でローレンツが天鵞絨ばりの小さな箱を開いた。
───中には卵の殻とそれを乗せるであろう小さな台座が入っている。
ただしホルストはこんなに美しく飾り立てられた卵を見たことがない。殻はゴネリル一族の髪と瞳の色を模した薄紅色に塗られている。その上にはリーガンの紋章とゴネリルの紋章の金細工が貼られていた。二つの紋章の周りには貴石が散りばめられている。下から卵を覆う鈴蘭の花は真珠で茎は紋章と同じく金細工、葉は金緑石で出来ている。真珠はおそらくエドマンドから入ってきたものだ。そして美しく飾り立てられた殻の上にはこれまた小さな金鹿が立っている。レスターを守る聖獣の角や卵に散りばめられた貴石がこちらで買いつけたかったもの、だろう。
「卵の殻、だろうか?」
ホルストは思わず卵を指さし、解説を求めてローレンツを見つめた。変わった舅との付き合いに苦労していることだろう。
「はい、針で穴をあけて中身を取り出した後に細工を施してあります」
「これは確かに海路には耐えなさそうだ。大きさから言って鶏だろうか?」
「はい、義父が考案したものです。意匠には私とローレンツさんの意見が反映されていますが……」
彼の妻が解説を続けた。ホルストは正直言ってエドマンド辺境伯があまり得意ではない。控えめなマリアンヌが彼の養女だと知って驚愕したほどだ。この卵を目にする前に言葉だけで説明されたら馬鹿馬鹿しい、と思っただろう。だがこれは素晴らしい。努力せねば脆く崩れ去ってしまうが価値のあるもの、が永遠であって欲しい───そんな願いが込められている。
「画布や紙に描く絵なら級友のイグナーツくんに助力を仰げたのですが素材が素材なので金細工師に依頼しました」
ローレンツはそっと台座の上に飾り立てられた卵を乗せた。小さな卵を乗せる台にも小さな小さな真珠が散りばめられている。エドマンド辺境伯の価値のないものに価値を付け、高価にする実験は成功していた。貼り付けてある真珠や金緑石も儚い土台の上で輝きを増している。これが流行れば今までは売り物にならなかった小粒の真珠も価値が出るだろう。
「これには我が妹ヒルダも大喜びするに違いない。品も素晴らしいが、君たちが彼の地まで持参することが同じくらい重要なのだ」
せめてフォドラの中であったなら、というホルストの思いは消えない。何かあった時に駆けつけられないからだ。
「ありがとうございます。ゴネリル公ご夫妻からも過分な褒め言葉をいただきました。ヒルダさんたちにお見せするのが楽しみです」
妻の言葉を聞いてもう良かろう、と判断したローレンツが再び卵と台座をそっと天鵞絨張りの箱にしまった。───友人たちと再会し、卵を見たヒルダたちが大喜びする様を直接見られないことがホルストは少し寂しい。畳む
#クロヒル
#ロレマリ
「フォドラの卵」
2.首飾り
ホルストの前には妹の親友マリアンヌとその夫ローレンツがいる。国境を越えパルミラに入国する彼らのため、ホルストは関所の長として執務室に二人を迎え彼らの査証に署名した。将来的にはマリアンヌがエドマンド辺境伯となるため、彼らの姓は複合姓となっている。こうしておくことで二人の間に生まれた子供は将来、親と全く同じ姓を名乗ったまま自然とどちらの爵位も継げるようになるのだ。
「二人とも爵位を継ぐ前の自由を満喫しているようだ」
領主になってしまえば気軽にフォドラの外へ出ることはむずかしくなる。まず健在であることが領主の務めだからだ。ヒルダはローレンツの父を責めたと聞くがネメシスの軍勢が攻めてきた際の振る舞いはあれが正しい。
「両国の友好関係が強固なものになればホルスト卿もヒルダさんとクロ……、失礼いたしました。カリード王子から王都に招かれるかと思います」
ローレンツはクロード=フォン=リーガンの失踪の後始末に奔走し、パルミラに彼がいるという事実に真っ先に辿り着いた。互いの旅券は受け入れることとなったが未だにパルミラとの停戦協定や友好条約は締結されていない。クロード、いや、カリード王子が即位すればローレンツとパルミラの官吏たちの努力が実る日が早まるだろう。
「はは、私たちゴネリル家の者もいまだに彼のことは昔の名で呼んでしまうのだ」
円卓会議に出るのは父であるゴネリル公でホルストはほとんど国境から動かない。だがリーガン家がリーガンの紋章を宿した少年を嫡子に据える、という話が円卓会議に出席する諸侯にだけ伝えられた時は例外だった。生涯にわたる付き合いになる───そう考えたホルストは内々のお披露目の際にデアドラまで足を運んだ。
あの時、遠くから姿を見た少し不満げな面持ちで矢を放っていた少年が義理の弟になるのだと言う。背に浮かんだリーガンの紋章を見た時にはその紋章を繋いだのがティアナ=フォン=リーガンである、と分からなかった。このまま上手くいけばバルタザールと共に幼い頃、憧れた人と姻戚になることがホルストは少し照れくさい。
「僕の失言をお許しいただきありがとうございます。ヒルダさんのパルミラでの暮らしが少しでも安定したものになるよう、力を尽くします」
「ホルストさんが王都にいらしたら、きっとヒルダさんとナデルさんは大喜びしますね」
この先の展望と夢を語る二人は長身だが細身で、とてもではないが護衛を付けずにパルミラ国内を移動できるような見た目をしていない。だが互いを頼りに旅ができるのは彼らが二人とも紋章を宿す歴戦の勇者だからだ。
「それにしても君たちであれば海路の方が早いように思えるのだが何故、陸路を?」
マリアンヌがすっと歩み出て指を三本立てた。理由は三つあるらしい。
「ヒルダさんへお渡しするために運んでいる物がとても繊細で海上輸送に耐えない、こちらで買いつけをしたかった、ゴネリル家の皆さまから直接ヒルダさんへの言伝を聞くため、以上の三つが今回、陸路を選んだ理由となります」
後ろで妻が話す様子を見守っているローレンツの顔は本当に幸せそうだ。妻が優秀であることに嫉妬せず頑丈に梱包された小ぶりな箱を小脇に抱えている。
実際、適材適所なのだ。ヒルダがまだゴネリル家にいた頃、マリアンヌは何度か首飾りまで顔を出しに来たことがある。馬や天馬は巧みに乗りこなすのに自分の足で歩くと驚くほど人や家具にぶつかっていた。確かに壊れやすいものは持たせられない。
「ゴネリル公ご夫妻からの手紙と品は既に預かっております。明朝の出発までに用意していただければホルスト卿からの手紙と品も確実に王都のヒルダさんへ届けることが可能です。帰りは海路の予定なのでヒルダさんからいただいた返信はエドマンドから使者に持たせるつもりです」
最後にローレンツがそう付け足した。二人はそのままエドギアに戻るのだろう。
「なるほど、ところで海上輸送に耐えないもの、とは何だろうか?」
藁をふんだんに使えば大抵の割れ物は運ぶことができる。伯爵夫妻が自ら運ばねばならない品とは何だろうか。マリアンヌがローレンツを見つめた。彼でなければ梱包を解けないのだろう。そして梱包し直すのも彼でなければ出来ない。
愛する奥方に滅法甘い、と評判なローレンツはホルストの許可を得ると抱えていた箱を執務用の机に置き、慎重に紐を解き始めた。どんな祝いの品より遠路はるばる親友とその夫が訪ねてくれたことをヒルダは喜ぶだろう。鍛錬の証である胼胝だらけの手でローレンツが天鵞絨ばりの小さな箱を開いた。
───中には卵の殻とそれを乗せるであろう小さな台座が入っている。
ただしホルストはこんなに美しく飾り立てられた卵を見たことがない。殻はゴネリル一族の髪と瞳の色を模した薄紅色に塗られている。その上にはリーガンの紋章とゴネリルの紋章の金細工が貼られていた。二つの紋章の周りには貴石が散りばめられている。下から卵を覆う鈴蘭の花は真珠で茎は紋章と同じく金細工、葉は金緑石で出来ている。真珠はおそらくエドマンドから入ってきたものだ。そして美しく飾り立てられた殻の上にはこれまた小さな金鹿が立っている。レスターを守る聖獣の角や卵に散りばめられた貴石がこちらで買いつけたかったもの、だろう。
「卵の殻、だろうか?」
ホルストは思わず卵を指さし、解説を求めてローレンツを見つめた。変わった舅との付き合いに苦労していることだろう。
「はい、針で穴をあけて中身を取り出した後に細工を施してあります」
「これは確かに海路には耐えなさそうだ。大きさから言って鶏だろうか?」
「はい、義父が考案したものです。意匠には私とローレンツさんの意見が反映されていますが……」
彼の妻が解説を続けた。ホルストは正直言ってエドマンド辺境伯があまり得意ではない。控えめなマリアンヌが彼の養女だと知って驚愕したほどだ。この卵を目にする前に言葉だけで説明されたら馬鹿馬鹿しい、と思っただろう。だがこれは素晴らしい。努力せねば脆く崩れ去ってしまうが価値のあるもの、が永遠であって欲しい───そんな願いが込められている。
「画布や紙に描く絵なら級友のイグナーツくんに助力を仰げたのですが素材が素材なので金細工師に依頼しました」
ローレンツはそっと台座の上に飾り立てられた卵を乗せた。小さな卵を乗せる台にも小さな小さな真珠が散りばめられている。エドマンド辺境伯の価値のないものに価値を付け、高価にする実験は成功していた。貼り付けてある真珠や金緑石も儚い土台の上で輝きを増している。これが流行れば今までは売り物にならなかった小粒の真珠も価値が出るだろう。
「これには我が妹ヒルダも大喜びするに違いない。品も素晴らしいが、君たちが彼の地まで持参することが同じくらい重要なのだ」
せめてフォドラの中であったなら、というホルストの思いは消えない。何かあった時に駆けつけられないからだ。
「ありがとうございます。ゴネリル公ご夫妻からも過分な褒め言葉をいただきました。ヒルダさんたちにお見せするのが楽しみです」
妻の言葉を聞いてもう良かろう、と判断したローレンツが再び卵と台座をそっと天鵞絨張りの箱にしまった。───友人たちと再会し、卵を見たヒルダたちが大喜びする様を直接見られないことがホルストは少し寂しい。畳む
#かのひとはうつくしく番外編
#クロヒル
#ロレマリ
「フォドラの卵」
3.王都
カリード王子はフォドラから呼び寄せた愛姫ヒルダと共に王宮の一角に居を構えている。客人は何日も前から申請を出し持ち込むものは全て事前に申告し、身に付けているものと持ち物を全て検めた後でなければ中に入ることはできない。それでも王宮は彼らにとって危険な場所だった。
表敬訪問と陳情が殆どだがとにかく王宮には来客が多い。誰が誰と会うのか、を知るためカリード王子は来客記録を取る文官たちに賄賂を払っている。今日も文官たちは何故か、不思議なことに長めの昼休みをとっていた。
「今のうちに確認するからヒルダは廊下を見張ってくれ」
文官は滅多に文字を書き間違えない。王宮勤めともなれば滅多に特に優秀だ。それなのに今日は珍しく紙を削った跡がある。そこには懐かしい名前と似つかわしくない物の名前が書かれていた。ローレンツの発想なのか、それともマリアンヌの発想なのか。困惑した文官が書き間違えても不思議ではない。
「クロードくん、戻ってきたよ!」
カリード王子の愛姫ヒルダは他人の目や耳のない場所では彼をクロード、と呼ぶ。
クロードは急いでヒルダと共に備品が置いてある隣の部屋に隠れた。表敬訪問を申請している者の一覧にローレンツとマリアンヌの名がある。早く教えてやりたいがここでは声を上げられない。
───クロードはヒルダが声を上げて喜ぶ姿が好きなのだ。
ヒルダと共に気配を消す時には必ず手を握ることにしている。見咎められた時に彼女と抱き合っていれば相応しくないところで愛姫にちょっかいを出す馬鹿な王子、と言う扱いで見逃してもらえるからだ。だが即位してしまえばこんな誤魔化しにヒルダの美貌を利用しなくて済む。
その日を迎えるためにもまず御前会議が終わるまで二人で生き延びねばならない。文官たちが仕事を再開し、机の上だけに集中しはじめたのを見計らった二人は気付かれぬように去った。あと一人、大臣を失脚させればこんな暮らしともおさらばだが最後まで油断は出来ない。
ヒルダはいつものように蝋引きの書字板と鉄筆を渡してくれたがクロードはどちらもそっと書物机に置いた。
「いや、今日はそんなことをしてる場合じゃないんだ」
いつもならクロードは盗み読んだ来客簿の中身を忘れてしまう前に急いで書き記す。だが今日はクロードの様子がいつもと違うことに困惑しているヒルダを抱き寄せ、耳元で見たものについて囁いた。
「え!本当に!やだ、ちょっとどうしよう……すっごく嬉しい!早くマリアンヌちゃんたちに会いたい!」
クロードの背中に回された腕に力が入る。ゴネリルの紋章を宿しているせいかヒルダは怪力だ。クロードが宴会で歩けないほど泥酔した時は彼女が抱き抱えて部屋に戻る。召使たちが目を丸くして驚くのだがそれで良い。
王都には西側の戦線に参加していた者も沢山存在する。彼らは皆、遠目に見たホルストの髪と瞳の色を覚えていた。クロードは人を食い殺す化け物と同じ色だ、ということで緑の瞳を厭われて育ったが、それと同じくらい西から戻った者たちは薄紅色の髪と瞳を嫌う。
彼らはいざヒルダを目にするとこれまで培ってきた漠然とした恐怖と実際の彼女から受ける印象が噛み合わず混乱する。だがどちらも正しいのだ。クロードにとってヒルダは地に足をつけている限り最も頼りになり、小柄でいい匂いがして共にいると笑顔になれる存在だ。どこにも矛盾はない。
「あとあいつら今回、変なものをフォドラから持ってきてるんだよ」
変なもの、と聞いたヒルダはクロードを解放し、長椅子に座ると首を傾げた。薄紅色の真っ直ぐでさらさらな髪が動きに合わせて揺れている。初めて父に引き合わせた時、父がヒルダの髪型を格闘の際に髪を掴まれない自信がある者にしかできない、と評していたが本気でうんざりされそうなので本人には伝えていない。
「クロードくんが庭で育ててる茸より変なものってあるの?」
「うん、普通の土産もあるにはあるんだが申告書類に卵の殻、と書いてあった」
「卵の殻?どういうこと?」
もしかしたら意味が分かるかもしれない、と期待していたのにヒルダも困惑している。
「フォドラ育ちのヒルダに分からないなら俺に分かるわけないだろ?」
申告内容を見た文官も驚いたのか筆が乱れ、紙を削って間違えた箇所を訂正していた。クロードとヒルダはともかく、クロードとヒルダと文官の心がひとつなることなど滅多にない。時機はずれたが三人とも何故、という疑問詞で頭がいっぱいになっていた。文官は客の相手をする機会がない。クロードは後日、筆を乱してしまった者に答えを教えてやろうと決めた。
クロードが生まれた時に与えられた名はクロードではない。クロードは十代半ばで故郷を出て本名を名乗るなと強いられた結果、適当に選んだ名だ。だが、今ではその名で呼ばれることが心地よくて毎朝二回名前を呼ばれるまでは寝たふりをする。
「クロードくん、クロードくん、朝だよ。今日はマリアンヌちゃんたちが来る日でしょ?」
つまり大して長く寝たふりはできない。クロードは寝返りを打つと寝台に肘をついて身体を起こした。筋金入りのおしゃれということもあるが、フォドラからの客人を迎える時のヒルダは念入りに身支度をする。一方でクロードは顔を洗って適当に櫛を入れておしまいだ。櫛を入れても寝癖が取れない時は頭に布を巻く。
あれやこれやと忙しそうにしているヒルダを尻目にクロードはベレト宛の手紙を書き終えた。だがヒルダはローレンツたちに託す手紙を前日に書き終えているので比べてはならない。
山積していた些細な用事を終え、二人で王子が客を歓待するのに使う応接間に向かうと既に懐かしい友人夫妻がクロードたちを待っていた。足元にはいつもローレンツが土産を運ぶのに使っている行李が、卓の上には小さな箱がのせてある。
「お久しぶりです!」
実際に顔を合わせると疑問の解消より喜びの発露の方が優先される。
「結婚式いきたかったなあ……出られなくってごめんね」
「エドマンドにいらしてくれただけで充分です」
ローレンツとマリアンヌの結婚式はエドギアで行われた。エドギアは遠すぎて流石にヒルダは参列できなかったがエドマンドで開かれた輿入れ前、最後の女性だけの集まりには参加している。パルミラとエドマンド領は海路ならば結構近いのだ。
瞳を潤ませヒルダと手を取り合って再会を喜ぶ妻を見たローレンツが微笑んでいる。学生時代から彼はあんな風に柔らかな顔でマリアンヌを見つめていた。そのことを知っているとこちらまで釣られて笑顔になってしまう。
だがクロードから見られていることに気づいたローレンツは鼻を鳴らした。学生時代から行儀よくしろ、と周囲に言って回っていた彼はクロードにだけひどく乱暴な態度を取る。
「ところでお前ら何持ってきたんだ?申告書を見てひたすら困惑してるんだが……」
「卵の殻だ」
そんな男同士の会話が耳に入ったのかヒルダとマリアンヌがようやくクロードの方を向いた。ヒルダも中身を気にしている。
「お見せした方が早いかと……ローレンツさん、お願いします」
妻の言葉に頷いたローレンツは慎重に梱包を解いていった。確かにマリアンヌには任せられない。中から現れた台座と鈴蘭に覆われた薄紅色の卵を見たヒルダは歓声を上げた。ご丁寧に金鹿まで載せてある。
「うそ、これどうなってるの?本当にこれ、土台が卵の殻なの?」
「はい、鶏の卵です。だから私は怖くて触れなくて……ずっとローレンツさんが運んでいました」
道中ずっと舅のかけた圧に耐えてきたローレンツは実に晴れやかな顔をしていた。今度はクロードたちがこの見事な卵の殻を壊さないよう気をつけねばならない。
「舅が普通のものではつまらないと言って君たちの祝いの品として職人に作らせたものだ」
「いや、さすがエドマンド辺境伯だよ!パルミラにこんなものはない!」
「フォドラにも存在しない。こうして僕たちが持ってきてしまったからな」
ローレンツさんたら、といってマリアンヌが笑っている。将来、パルミラにいる友人の元へ祝いの品を届けに行くようになるのだ、と入学したばかりの引っ込み思案な彼女に言っても信じないだろう。
「僕とマリアンヌさんの意見が意匠に取り入れられている」
「指輪とか耳飾りとか首飾りばっかり作ってきたけど私もこういうの作ってみようかな?」
「きっと素晴らしい物が出来上がるに違いありません」
クロードの耳を実際にくすぐるのは親しい者たちの会話だ。だが、大切なものは柔く脆い。日々、努力して維持し価値を高めよ───というエドマンド辺境伯の声が聞こえたような気がした。畳む
#クロヒル
#ロレマリ
「フォドラの卵」
3.王都
カリード王子はフォドラから呼び寄せた愛姫ヒルダと共に王宮の一角に居を構えている。客人は何日も前から申請を出し持ち込むものは全て事前に申告し、身に付けているものと持ち物を全て検めた後でなければ中に入ることはできない。それでも王宮は彼らにとって危険な場所だった。
表敬訪問と陳情が殆どだがとにかく王宮には来客が多い。誰が誰と会うのか、を知るためカリード王子は来客記録を取る文官たちに賄賂を払っている。今日も文官たちは何故か、不思議なことに長めの昼休みをとっていた。
「今のうちに確認するからヒルダは廊下を見張ってくれ」
文官は滅多に文字を書き間違えない。王宮勤めともなれば滅多に特に優秀だ。それなのに今日は珍しく紙を削った跡がある。そこには懐かしい名前と似つかわしくない物の名前が書かれていた。ローレンツの発想なのか、それともマリアンヌの発想なのか。困惑した文官が書き間違えても不思議ではない。
「クロードくん、戻ってきたよ!」
カリード王子の愛姫ヒルダは他人の目や耳のない場所では彼をクロード、と呼ぶ。
クロードは急いでヒルダと共に備品が置いてある隣の部屋に隠れた。表敬訪問を申請している者の一覧にローレンツとマリアンヌの名がある。早く教えてやりたいがここでは声を上げられない。
───クロードはヒルダが声を上げて喜ぶ姿が好きなのだ。
ヒルダと共に気配を消す時には必ず手を握ることにしている。見咎められた時に彼女と抱き合っていれば相応しくないところで愛姫にちょっかいを出す馬鹿な王子、と言う扱いで見逃してもらえるからだ。だが即位してしまえばこんな誤魔化しにヒルダの美貌を利用しなくて済む。
その日を迎えるためにもまず御前会議が終わるまで二人で生き延びねばならない。文官たちが仕事を再開し、机の上だけに集中しはじめたのを見計らった二人は気付かれぬように去った。あと一人、大臣を失脚させればこんな暮らしともおさらばだが最後まで油断は出来ない。
ヒルダはいつものように蝋引きの書字板と鉄筆を渡してくれたがクロードはどちらもそっと書物机に置いた。
「いや、今日はそんなことをしてる場合じゃないんだ」
いつもならクロードは盗み読んだ来客簿の中身を忘れてしまう前に急いで書き記す。だが今日はクロードの様子がいつもと違うことに困惑しているヒルダを抱き寄せ、耳元で見たものについて囁いた。
「え!本当に!やだ、ちょっとどうしよう……すっごく嬉しい!早くマリアンヌちゃんたちに会いたい!」
クロードの背中に回された腕に力が入る。ゴネリルの紋章を宿しているせいかヒルダは怪力だ。クロードが宴会で歩けないほど泥酔した時は彼女が抱き抱えて部屋に戻る。召使たちが目を丸くして驚くのだがそれで良い。
王都には西側の戦線に参加していた者も沢山存在する。彼らは皆、遠目に見たホルストの髪と瞳の色を覚えていた。クロードは人を食い殺す化け物と同じ色だ、ということで緑の瞳を厭われて育ったが、それと同じくらい西から戻った者たちは薄紅色の髪と瞳を嫌う。
彼らはいざヒルダを目にするとこれまで培ってきた漠然とした恐怖と実際の彼女から受ける印象が噛み合わず混乱する。だがどちらも正しいのだ。クロードにとってヒルダは地に足をつけている限り最も頼りになり、小柄でいい匂いがして共にいると笑顔になれる存在だ。どこにも矛盾はない。
「あとあいつら今回、変なものをフォドラから持ってきてるんだよ」
変なもの、と聞いたヒルダはクロードを解放し、長椅子に座ると首を傾げた。薄紅色の真っ直ぐでさらさらな髪が動きに合わせて揺れている。初めて父に引き合わせた時、父がヒルダの髪型を格闘の際に髪を掴まれない自信がある者にしかできない、と評していたが本気でうんざりされそうなので本人には伝えていない。
「クロードくんが庭で育ててる茸より変なものってあるの?」
「うん、普通の土産もあるにはあるんだが申告書類に卵の殻、と書いてあった」
「卵の殻?どういうこと?」
もしかしたら意味が分かるかもしれない、と期待していたのにヒルダも困惑している。
「フォドラ育ちのヒルダに分からないなら俺に分かるわけないだろ?」
申告内容を見た文官も驚いたのか筆が乱れ、紙を削って間違えた箇所を訂正していた。クロードとヒルダはともかく、クロードとヒルダと文官の心がひとつなることなど滅多にない。時機はずれたが三人とも何故、という疑問詞で頭がいっぱいになっていた。文官は客の相手をする機会がない。クロードは後日、筆を乱してしまった者に答えを教えてやろうと決めた。
クロードが生まれた時に与えられた名はクロードではない。クロードは十代半ばで故郷を出て本名を名乗るなと強いられた結果、適当に選んだ名だ。だが、今ではその名で呼ばれることが心地よくて毎朝二回名前を呼ばれるまでは寝たふりをする。
「クロードくん、クロードくん、朝だよ。今日はマリアンヌちゃんたちが来る日でしょ?」
つまり大して長く寝たふりはできない。クロードは寝返りを打つと寝台に肘をついて身体を起こした。筋金入りのおしゃれということもあるが、フォドラからの客人を迎える時のヒルダは念入りに身支度をする。一方でクロードは顔を洗って適当に櫛を入れておしまいだ。櫛を入れても寝癖が取れない時は頭に布を巻く。
あれやこれやと忙しそうにしているヒルダを尻目にクロードはベレト宛の手紙を書き終えた。だがヒルダはローレンツたちに託す手紙を前日に書き終えているので比べてはならない。
山積していた些細な用事を終え、二人で王子が客を歓待するのに使う応接間に向かうと既に懐かしい友人夫妻がクロードたちを待っていた。足元にはいつもローレンツが土産を運ぶのに使っている行李が、卓の上には小さな箱がのせてある。
「お久しぶりです!」
実際に顔を合わせると疑問の解消より喜びの発露の方が優先される。
「結婚式いきたかったなあ……出られなくってごめんね」
「エドマンドにいらしてくれただけで充分です」
ローレンツとマリアンヌの結婚式はエドギアで行われた。エドギアは遠すぎて流石にヒルダは参列できなかったがエドマンドで開かれた輿入れ前、最後の女性だけの集まりには参加している。パルミラとエドマンド領は海路ならば結構近いのだ。
瞳を潤ませヒルダと手を取り合って再会を喜ぶ妻を見たローレンツが微笑んでいる。学生時代から彼はあんな風に柔らかな顔でマリアンヌを見つめていた。そのことを知っているとこちらまで釣られて笑顔になってしまう。
だがクロードから見られていることに気づいたローレンツは鼻を鳴らした。学生時代から行儀よくしろ、と周囲に言って回っていた彼はクロードにだけひどく乱暴な態度を取る。
「ところでお前ら何持ってきたんだ?申告書を見てひたすら困惑してるんだが……」
「卵の殻だ」
そんな男同士の会話が耳に入ったのかヒルダとマリアンヌがようやくクロードの方を向いた。ヒルダも中身を気にしている。
「お見せした方が早いかと……ローレンツさん、お願いします」
妻の言葉に頷いたローレンツは慎重に梱包を解いていった。確かにマリアンヌには任せられない。中から現れた台座と鈴蘭に覆われた薄紅色の卵を見たヒルダは歓声を上げた。ご丁寧に金鹿まで載せてある。
「うそ、これどうなってるの?本当にこれ、土台が卵の殻なの?」
「はい、鶏の卵です。だから私は怖くて触れなくて……ずっとローレンツさんが運んでいました」
道中ずっと舅のかけた圧に耐えてきたローレンツは実に晴れやかな顔をしていた。今度はクロードたちがこの見事な卵の殻を壊さないよう気をつけねばならない。
「舅が普通のものではつまらないと言って君たちの祝いの品として職人に作らせたものだ」
「いや、さすがエドマンド辺境伯だよ!パルミラにこんなものはない!」
「フォドラにも存在しない。こうして僕たちが持ってきてしまったからな」
ローレンツさんたら、といってマリアンヌが笑っている。将来、パルミラにいる友人の元へ祝いの品を届けに行くようになるのだ、と入学したばかりの引っ込み思案な彼女に言っても信じないだろう。
「僕とマリアンヌさんの意見が意匠に取り入れられている」
「指輪とか耳飾りとか首飾りばっかり作ってきたけど私もこういうの作ってみようかな?」
「きっと素晴らしい物が出来上がるに違いありません」
クロードの耳を実際にくすぐるのは親しい者たちの会話だ。だが、大切なものは柔く脆い。日々、努力して維持し価値を高めよ───というエドマンド辺境伯の声が聞こえたような気がした。畳む
#かのひとはうつくしく番外編
#クロヒル
#ロレマリ
#ガルグ=マクちっちゃいものクラブ
ガルグ=マクちっちゃいものクラブ参加作品
2.クロードとヒルダ編
いつか見た光景がクロードの眼前で再現されていた。ヒルダさん!と叫ぶマリアンヌは隣にいるはずなのに、彼女の声が遠くから聞こえたような気がする。今回は敵将の前へワープした際に起きた事故だ。ヒルダより先に前衛としてワープで放り出されていたローレンツが慌てて空中にいた彼女を受け止める。手足の長い彼だから幼女の姿になったヒルダに手が届いたのかもしれない。桃色の髪は頭の後ろでひとつに結い上げてあるが少し乱れている。
すでに転送魔法の魔法陣に囲まれていたクロードは何一つなす術がなく、ただ、その光景を見ているしかなかった。咄嗟にヒルダを受け止めてくれたローレンツには感謝の言葉しかない。
ヒルダと違って頭身はそのままで敵将の射程範囲内に移動できたクロードはフェイルノートを引き絞った。ローレンツが小さなヒルダを守りながら長時間戦うことは難しい。増援を呼ばれる前にクロードが一撃で敵将を倒す必要がある。
クロードがこの一矢に集中できるのは皆のおかげだ。ヒルダのこともローレンツのことも脳裏から追い出し、標的となる敵将を睨み付ける。そもそも一騎打ちで勝てるほど腕力に優れていなかったクロードは弓を覚えるしかなかった。だがこちらは才能があったようで放たれた矢の描く弧が金色に見える時がある。ホルストのような剣の達人は太刀筋が光って見えると聞くので似たような境地に達した、と言えるだろう。
「恨めばいいさ!」
そう叫んでフェイルノートから放った矢は敵将の喉を貫いた。装飾品を手作りしたり美容に熱中したり、と愛らしい面が目立つがヒルダは前線で育っている。それでもあの年頃の小さな娘にこんな光景は見せたくない───クロードのそんな思いを察したのかローレンツが大きな手で目隠しをしていた。紫の籠手は目どころか顔のほとんどを覆い隠している。素直に瞼を下ろしているかどうかはクロードにもローレンツにも分からない。
将を倒し敵の抵抗が止んだのでクロードは黄色い外套を肩から外しながらローレンツに近寄った。先ほどは何よりも安全を優先していたが五年前と同じく服の寸法が合っていない。そのことに気付いたローレンツが真っ青になっている。
「助かった!クロード、靴と手袋も拾ってあげてくれたまえ」
クロードの黄色い外套に包まれた小さなヒルダは二人の会話を聞いて声を出してもいい、と判断したようだ。
「エルヴィンさま、よろいをあたらしくなさったのですか?」
父親と間違われ動揺したローレンツの頬が赤く染まる。彼はクロードと違って色白なので動揺が顔色に現れやすい。あんなことで領主が務まるのだろうか。
「違う、僕はローレンツだよ。ヒルダさん」
「ちがうわ、ローレンツくんはわたしよりちいさいもの」
クロードの脳裏に五年前抱えて運んでやった、家中の全てから愛されて育った子供の姿が浮かぶ。ヒルダもローレンツも五大諸侯の子女かつ紋章保持者なので円卓会議や"フォドラの首飾り"視察の際に親に連れ回されていたらしい。幼い頃からの顔見知りであったようだ。
「ああ、確かにそうだ。ローレンツはもっと小さかったよ。俺はクロードだ。よろしくな、ヒルダ」
「でしょ!ちっちゃかったよね!ねえ、エルヴィンさまでもクロードくんでもいいけどホルストにいさんかおとうさまのところへつれていってくれる?」
古い顔見知りであったせいで生じた誤解をどう解いたものか、ローレンツは困り果てている。
「笑うなクロード!」
思わず吹き出してしまったのは動揺を誤魔化すためだ。滑稽でもあるのだが彼らが小さな頃から顔見知りであったことが羨ましい。そんなことを悟られないようクロードはヒルダの靴と手袋を手に二人の後ろをついて行った。とにかくベレトや魔法に詳しい者たちに相談せねばならない。
「エルヴィンさま、そこでいちどおろしてもらっていいですか?」
ぶかぶかになった服は着心地が悪いのだろう。小さいながらもおしゃれなヒルダはクロードの外套も利用して何とか見た目を整えようとしている。その間にクロードはローレンツから耳打ちされた。
「小さなヒルダさんは羽根のように軽いが父と間違われるのが居た堪れないので代わってくれ」
「いいぜ、エルヴィンさま」
「揶揄うのをやめたまえ、クロード!!」
交代だ、というと素直にヒルダはクロードに身体を預けてくれた。ヒルダはゴネリル家のご令嬢らしく、共に地上に足をつけている限り最も頼りがいのある存在だがそれだけではない。装飾品作りや香油作りでも才能を発揮している。
つまり彼女を抱き上げて運んでいると身体にお手製の香油の匂いがつくのだ。ローレンツが代わってくれ、というのはおかしな話ではない。好きな人の前に別の女性がつけた香油の匂いをさせて現れたくないのだろう。マリアンヌはおそらくそんなことを気にしないが、ローレンツはそう言うことを気にするのだ。
ベレトは無表情なので内心が読めない。だが敵兵を倒して鍵を探し出し、扉を開けてヒルダの元に真っ先に走ってきたのは彼が心配している証拠だ。だからクロードは彼を信頼している。
そして彼の後を追って主だった将たちがクロードたちの元にやってきた。面倒見の良いレオニーや親切なイグナーツ、それに小さなヒルダの視線から見て兄ホルストに似ているであろうラファエルは相好を崩しているし、年上ぶりたいリシテアは自分より小さくなったヒルダの方が背も足も小さいことを噛み締めている。
そんな中でマリアンヌはただひたすら慈しみに満ちた顔をして、クロードに抱きかかえられたヒルダの姿を眺めていた。クロードはまだヒルダに自身の秘密を明かしていない。だからこの姿に何を思ったのか言って欲しくなかった。
「原因が解明されるまでワープは使えないな……」
そういうと作戦を立てたベレトは唸った。何故こんな事故が起きたのか。かつてローレンツも似たような事故に遭ったことがある。クロードはヒルダを膝の上に乗せたままローレンツに問うた。皆、当事者の話を改めて聞きたがっている。
「お前の時は魔道書の誤植だったよな?」
そのせいで五年前、子供の姿になってしまったローレンツは頷いた。真っ直ぐでさらさらとした紫色の髪が彼の仕草に合わせて揺れている。戦争が始まってからローレンツは髪を伸ばし始めた。魔力は髪に宿るからだ。
「そうだ。幸いなことに一晩で元に戻ったがな」
「エルヴィンさま、いつおうちにもどれるの?」
クロードの膝に乗ったままのヒルダが問うた。グロスタール伯の顔を知るマリアンヌが堪らず吹き出している。ヒルダがこれくらい幼かった頃のグロスタール伯は本当にローレンツと瓜二つだったのかもしれない。
「いや、参ったな……」
小さなヒルダはどうしてしらばっくれるのか、と思っているようだ。ローレンツは頬を膨らませた小さなヒルダの機嫌をどう取ったものか考えあぐねている。だから気づいていないらしいが彼はこれからしばらくの間、友人たちから"エルヴィンさま"と呼ばれるだろう。望外の楽しいこと、は機会を逃さず楽しむべきだ。皆その機会を狙っている。
「あの時と同じ方法で元に戻るならレストが使える修道士の手配しましょう」
こう言う時にマリアンヌはとことん空気が読めないが五年前と比べてはるかに堂々と発言するようになった。もしかしたら彼女はローレンツに秘密を告げられるようになるかもしれない。
「教え子の幼い頃の姿が見られるのは楽しいが……またこんなことが起きては何もかもが滞ってしまうな」
ベレトがぽつりと呟いた。戦闘は先ほど終わったばかりで皆疲れている。もう少しの間だけ、解決法から目を背けていたい。だが彼はきっと言ってしまうだろう。クロードにはベレトが次に何を言うか、もう分かっていた。
「全て買い直す資金がないなら知識のある者が総出で手持ちの魔道書の綴りが間違っていないかどうか確かめる必要がある」
リシテアが顔を覆って呻いたがこれは全く大袈裟ではない。クロードに騙されるようにして新生軍の立ち上げに参加させられ皆、身が粉になるような日々を送っている。そこにそんな作業が加わったのだ。マリアンヌもローレンツもこめかみを抑えている。だが強大な帝国軍を相手に乏しい物資をなんとかやりくりして戦っている現状では、魔道書を全て新しいものに買い直せない。
マリアンヌも先ほどローレンツと同じ光景を目にしていた。ただし格子の向こう側から、リブローでも魔法が届かない位置から、だった。あれが五年前と同じく、戦場でなかったならばちょっと楽しい騒動で済んだかもしれない。だがガルグ=マクで再会したクロードに巻き込まれる形でマリアンヌたちは最前線に立っている。
ローレンツが遠目にもわかるほど血相を変えて走り出し、地面に叩きつけられるはずのヒルダを必死で抱きとめてくれた。彼はいつも誰かを守ろうとする。その後クロードが一撃で敵将を倒してくれた。彼はいつも狙いを外さないが、今回ばかりは外さなかった理由に個人的な思いが含まれていて欲しい。
「ローレンツさん、事故当時の記憶は今もないのでしょうか?魔道書の誤りを見つけるのに役立つかもしれません」
ローレンツは残念そうに首を横に振った。学生時代と比べて髪が伸びたので確かに彼の父と雰囲気がそっくりになっている。ヒルダがあれくらい幼かった頃、グロスタール伯は今のローレンツと同じくらい若々しかったのかもしれない。
「残念ながらないのだ……今後のためにも魔道書の頭から中身を確かめるしかなさそうだよ」
マリアンヌはため息をついた。先ほどのリシテアのため息とは理由が違う。五年前の事故の際、マリアンヌは自分が求めてはいけないものを目の当たりにした。
「はぁ……だが、僕もマリアンヌさんも協力しないわけにいかないな」
ローレンツはため息の理由を誤解している。マリアンヌのため息は安堵のため息だ。もしマリアンヌが獣の紋章を継いでいなかったら、あんな子を腕に抱いてローレンツの隣を歩く未来があったのかもしれない。だからこそあの時、未来に怯える小さな彼にグロスタールの紋章を持つ妻を娶ればいい、とどうしても言えなかった。あの頃からそう言えなかったほど彼のことが好きだった、と気づいたのは最近だが。
その後、小さなヒルダをガルグ=マクまで抱えていく役目はラファエルが指名された。筋骨隆々な身体つきがホルストと似ているからだろう。お役御免となったクロードが大きく肩を回している。
「血の気が引きましたね……大丈夫ですか?クロードさん」
貫禄が出るよう頬髭を生やしているが大袈裟に嘆く表情は学生時代とあまり変わらない。遠くからそっとヒルダを見ている時の嬉しそうな顔も含めて、だ。
「いや小さくて細くて折れそうだった。あれなら気絶したローレンツの足首を持って地面を引きずる方がずっと気楽だ」
小鳥を手の中におさめるとしたら、と考えればいい。持続することを考えず、完全に脱力するか力を込めるなら簡単だ。だが不快な思いや怖い思いをすることがないように小さくて柔らかいものを守るのは本当に難しい。
「ご経験が?」
「残念ながらないね。いつもマリアンヌがあいつを回復してやるからだろうな」
そう言ってニヤリと笑うクロードの視線は何を見てもすぐにラファエルの肩に乗った小さなヒルダに戻っていく。小さなヒルダの要望に応えたのかラファエルがふざけて身体を揺らすので、危ないと言ってローレンツが怒っている。
「エルヴィンさま、そんなにしんぱいしなくてもだいじょうぶ!」
「そうだぞ!そんなに心配しなくても大丈夫だぁ!ヒルダさんはマーヤみてえに、羽根みてえに軽いからな!」
ああもう、と荒げた声が少し後ろにいるマリアンヌにまで聞こえてきた。
「随分と楽しそうだな。マリアンヌ」
将来、ローレンツが我が子を可愛がる姿を見る時、彼の隣にはマリアンヌではない女性が立っているに違いない。本来なら心にいくばくかの痛みを伴う光景のはずだった。
「クロードさんこそ楽しそうですよ」
「望外のものが見られるのは楽しいことだろう?」
マリアンヌの脳裏に彼との会話が蘇る。生まれが明かせず、どこへ行っても疎まれる子供。クロードはヒルダを眺めているだけでこんなに幸せそうにしているのに、マリアンヌと同じく本当の自分をさらけ出していないのかもしれない。
クロードがガルグ=マクを乗っ取った、と周知されてからは四方に散っていた教会関係者たちが再び集まり、様々な部門を再開させた。悲しいことに五年前より孤児院はその規模を拡大している。先にガルグ=マクへ戻ったベレトが小さなヒルダ用の服と靴を用意し今後の手筈の説明もしてくれた。少し変わったワープだから、という説明で納得してくれたらしい。
「わかりました。おようふくとくつをありがとうございます。ようやくじぶんでどこにでもいけるわ!」
「ヒルダさん、どこに行きますか?ご案内しますよ」
髪の毛を後ろでひとまとめにした髪型がとても愛らしい彼女は真っ先にクロードのところへ行く、と言った。
「あらエルヴィン様のところでなくてよいのですか?」
マリアンヌまで彼のことをエルヴィンと呼んだことを知ったらローレンツはどんな顔をするだろうか。
「だってこれ、クロードくんにかえしてあげなくちゃ!あのかっこうにはこのきいろのがいとうがぴったりよ」
ヒルダは幼いころからおしゃれが大好きだったのだろう。幼い彼女なりに畳んだクロードの外套を手にしている。
「分かりました。ご案内しましょう。でもその前に洋服選びのお手伝いをしていただけませんか?」
洋服選び、と聞いて小さなヒルダの顔が輝いた。本来のヒルダが身につけるべき服を一揃い医務室まで持っていかねばならない。本人が選んだとなれば彼女も不満はないだろう。マリアンヌはまず、小さなヒルダを連れて本人の部屋を訪れた。
やはりヒルダは小さかろうと完璧だ、とマリアンヌは思う。小さなヒルダは行李や棚の中を開けて物色しているがマリアンヌと違って無意識に物を置いたりしない。寝台の上に洋服を広げて考え込んでいる。
「おおきくなったらこんなおようふくがきたいなとおもってたの」
「素敵な組み合わせです。では畳んでからクロードさんのお部屋に参りましょう」
その他にも目覚めた時に必要そうな物、をマリアンヌは大きめの籠に詰めた。この部屋に元からあった大きな物で、両手で抱えるしかない。
仕方ないので小さなヒルダに前を歩かせクロードの部屋の扉を叩いてもらった。どうぞ、と言う声と同時に中から何かの崩れる音がする。扉が外開きでなければ開け閉めにも苦労するかもしれない。勿論、寮の扉の開き方はそんな理由で決まっているわけではないが。
「ああ、ヒルダとマリアンヌか。歓待してやりたいがこの有様でね」
クロードの背中越しに見える室内は床に紙が散乱している。彼がわざわざ廊下まで出てきたのはそのせいだろう。
「クロードくん、がいとうをかしてくれてありがとう」
小さなヒルダが自分の外套を手にしていることに気づいたクロードは膝をついた。
「小さなお嬢さんのお役に立てて幸いだ」
クロードは外套を恭しく受け取ったが、ヒルダからは見えないようにマリアンヌが持っている籠の上にそっと広げて被せた。一連の流れはまるで手品のようだった。
「マリアンヌ、それだと籠の中身が丸見えだ」
クロードにそっと耳打ちされる。確かにすぐに身につけられるよう肌着を一番上に置いていた。上から広げた手巾を被せたので大丈夫だ、とマリアンヌは判断していたが言われてみれば薄い小さな布だ。やはりどうしても冷静ではいられないらしい。
「どうしたの?はやくいこうよ!」
「動揺してるのはお互い様だから仕方ないさ。後は頼んだぞ」
マリアンヌはその晩とりあえずあれ以上の失態はないはずだ、と信じて床についた。しかしこの件には後日談がある。魔道書の誤植由来で事故が起きた際の教本には何度も翌朝の揉めごとを避けるために大人用の寝衣を着せてから眠らせてレストをかけよ、と書かれることになった。
あの時、クロードの言う通り動揺していたマリアンヌはヒルダの寝衣を入れ忘れている。医務室の修道士もまだ解呪作業に慣れていなかったのでその場にある物を流用したらしい。クロードの外套だけを身に纏って医務室で目覚めたヒルダのことを思うとマリアンヌは申し訳なさで消えてしまいたくなる。
後にマリアンヌは深酒をするたびに夫となったローレンツにこの件について話すようになるのだが、その度に彼は口籠もり何とも言えない表情を浮かべるのだった。畳む
#クロヒル
#ロレマリ
#ガルグ=マクちっちゃいものクラブ
ガルグ=マクちっちゃいものクラブ参加作品
2.クロードとヒルダ編
いつか見た光景がクロードの眼前で再現されていた。ヒルダさん!と叫ぶマリアンヌは隣にいるはずなのに、彼女の声が遠くから聞こえたような気がする。今回は敵将の前へワープした際に起きた事故だ。ヒルダより先に前衛としてワープで放り出されていたローレンツが慌てて空中にいた彼女を受け止める。手足の長い彼だから幼女の姿になったヒルダに手が届いたのかもしれない。桃色の髪は頭の後ろでひとつに結い上げてあるが少し乱れている。
すでに転送魔法の魔法陣に囲まれていたクロードは何一つなす術がなく、ただ、その光景を見ているしかなかった。咄嗟にヒルダを受け止めてくれたローレンツには感謝の言葉しかない。
ヒルダと違って頭身はそのままで敵将の射程範囲内に移動できたクロードはフェイルノートを引き絞った。ローレンツが小さなヒルダを守りながら長時間戦うことは難しい。増援を呼ばれる前にクロードが一撃で敵将を倒す必要がある。
クロードがこの一矢に集中できるのは皆のおかげだ。ヒルダのこともローレンツのことも脳裏から追い出し、標的となる敵将を睨み付ける。そもそも一騎打ちで勝てるほど腕力に優れていなかったクロードは弓を覚えるしかなかった。だがこちらは才能があったようで放たれた矢の描く弧が金色に見える時がある。ホルストのような剣の達人は太刀筋が光って見えると聞くので似たような境地に達した、と言えるだろう。
「恨めばいいさ!」
そう叫んでフェイルノートから放った矢は敵将の喉を貫いた。装飾品を手作りしたり美容に熱中したり、と愛らしい面が目立つがヒルダは前線で育っている。それでもあの年頃の小さな娘にこんな光景は見せたくない───クロードのそんな思いを察したのかローレンツが大きな手で目隠しをしていた。紫の籠手は目どころか顔のほとんどを覆い隠している。素直に瞼を下ろしているかどうかはクロードにもローレンツにも分からない。
将を倒し敵の抵抗が止んだのでクロードは黄色い外套を肩から外しながらローレンツに近寄った。先ほどは何よりも安全を優先していたが五年前と同じく服の寸法が合っていない。そのことに気付いたローレンツが真っ青になっている。
「助かった!クロード、靴と手袋も拾ってあげてくれたまえ」
クロードの黄色い外套に包まれた小さなヒルダは二人の会話を聞いて声を出してもいい、と判断したようだ。
「エルヴィンさま、よろいをあたらしくなさったのですか?」
父親と間違われ動揺したローレンツの頬が赤く染まる。彼はクロードと違って色白なので動揺が顔色に現れやすい。あんなことで領主が務まるのだろうか。
「違う、僕はローレンツだよ。ヒルダさん」
「ちがうわ、ローレンツくんはわたしよりちいさいもの」
クロードの脳裏に五年前抱えて運んでやった、家中の全てから愛されて育った子供の姿が浮かぶ。ヒルダもローレンツも五大諸侯の子女かつ紋章保持者なので円卓会議や"フォドラの首飾り"視察の際に親に連れ回されていたらしい。幼い頃からの顔見知りであったようだ。
「ああ、確かにそうだ。ローレンツはもっと小さかったよ。俺はクロードだ。よろしくな、ヒルダ」
「でしょ!ちっちゃかったよね!ねえ、エルヴィンさまでもクロードくんでもいいけどホルストにいさんかおとうさまのところへつれていってくれる?」
古い顔見知りであったせいで生じた誤解をどう解いたものか、ローレンツは困り果てている。
「笑うなクロード!」
思わず吹き出してしまったのは動揺を誤魔化すためだ。滑稽でもあるのだが彼らが小さな頃から顔見知りであったことが羨ましい。そんなことを悟られないようクロードはヒルダの靴と手袋を手に二人の後ろをついて行った。とにかくベレトや魔法に詳しい者たちに相談せねばならない。
「エルヴィンさま、そこでいちどおろしてもらっていいですか?」
ぶかぶかになった服は着心地が悪いのだろう。小さいながらもおしゃれなヒルダはクロードの外套も利用して何とか見た目を整えようとしている。その間にクロードはローレンツから耳打ちされた。
「小さなヒルダさんは羽根のように軽いが父と間違われるのが居た堪れないので代わってくれ」
「いいぜ、エルヴィンさま」
「揶揄うのをやめたまえ、クロード!!」
交代だ、というと素直にヒルダはクロードに身体を預けてくれた。ヒルダはゴネリル家のご令嬢らしく、共に地上に足をつけている限り最も頼りがいのある存在だがそれだけではない。装飾品作りや香油作りでも才能を発揮している。
つまり彼女を抱き上げて運んでいると身体にお手製の香油の匂いがつくのだ。ローレンツが代わってくれ、というのはおかしな話ではない。好きな人の前に別の女性がつけた香油の匂いをさせて現れたくないのだろう。マリアンヌはおそらくそんなことを気にしないが、ローレンツはそう言うことを気にするのだ。
ベレトは無表情なので内心が読めない。だが敵兵を倒して鍵を探し出し、扉を開けてヒルダの元に真っ先に走ってきたのは彼が心配している証拠だ。だからクロードは彼を信頼している。
そして彼の後を追って主だった将たちがクロードたちの元にやってきた。面倒見の良いレオニーや親切なイグナーツ、それに小さなヒルダの視線から見て兄ホルストに似ているであろうラファエルは相好を崩しているし、年上ぶりたいリシテアは自分より小さくなったヒルダの方が背も足も小さいことを噛み締めている。
そんな中でマリアンヌはただひたすら慈しみに満ちた顔をして、クロードに抱きかかえられたヒルダの姿を眺めていた。クロードはまだヒルダに自身の秘密を明かしていない。だからこの姿に何を思ったのか言って欲しくなかった。
「原因が解明されるまでワープは使えないな……」
そういうと作戦を立てたベレトは唸った。何故こんな事故が起きたのか。かつてローレンツも似たような事故に遭ったことがある。クロードはヒルダを膝の上に乗せたままローレンツに問うた。皆、当事者の話を改めて聞きたがっている。
「お前の時は魔道書の誤植だったよな?」
そのせいで五年前、子供の姿になってしまったローレンツは頷いた。真っ直ぐでさらさらとした紫色の髪が彼の仕草に合わせて揺れている。戦争が始まってからローレンツは髪を伸ばし始めた。魔力は髪に宿るからだ。
「そうだ。幸いなことに一晩で元に戻ったがな」
「エルヴィンさま、いつおうちにもどれるの?」
クロードの膝に乗ったままのヒルダが問うた。グロスタール伯の顔を知るマリアンヌが堪らず吹き出している。ヒルダがこれくらい幼かった頃のグロスタール伯は本当にローレンツと瓜二つだったのかもしれない。
「いや、参ったな……」
小さなヒルダはどうしてしらばっくれるのか、と思っているようだ。ローレンツは頬を膨らませた小さなヒルダの機嫌をどう取ったものか考えあぐねている。だから気づいていないらしいが彼はこれからしばらくの間、友人たちから"エルヴィンさま"と呼ばれるだろう。望外の楽しいこと、は機会を逃さず楽しむべきだ。皆その機会を狙っている。
「あの時と同じ方法で元に戻るならレストが使える修道士の手配しましょう」
こう言う時にマリアンヌはとことん空気が読めないが五年前と比べてはるかに堂々と発言するようになった。もしかしたら彼女はローレンツに秘密を告げられるようになるかもしれない。
「教え子の幼い頃の姿が見られるのは楽しいが……またこんなことが起きては何もかもが滞ってしまうな」
ベレトがぽつりと呟いた。戦闘は先ほど終わったばかりで皆疲れている。もう少しの間だけ、解決法から目を背けていたい。だが彼はきっと言ってしまうだろう。クロードにはベレトが次に何を言うか、もう分かっていた。
「全て買い直す資金がないなら知識のある者が総出で手持ちの魔道書の綴りが間違っていないかどうか確かめる必要がある」
リシテアが顔を覆って呻いたがこれは全く大袈裟ではない。クロードに騙されるようにして新生軍の立ち上げに参加させられ皆、身が粉になるような日々を送っている。そこにそんな作業が加わったのだ。マリアンヌもローレンツもこめかみを抑えている。だが強大な帝国軍を相手に乏しい物資をなんとかやりくりして戦っている現状では、魔道書を全て新しいものに買い直せない。
マリアンヌも先ほどローレンツと同じ光景を目にしていた。ただし格子の向こう側から、リブローでも魔法が届かない位置から、だった。あれが五年前と同じく、戦場でなかったならばちょっと楽しい騒動で済んだかもしれない。だがガルグ=マクで再会したクロードに巻き込まれる形でマリアンヌたちは最前線に立っている。
ローレンツが遠目にもわかるほど血相を変えて走り出し、地面に叩きつけられるはずのヒルダを必死で抱きとめてくれた。彼はいつも誰かを守ろうとする。その後クロードが一撃で敵将を倒してくれた。彼はいつも狙いを外さないが、今回ばかりは外さなかった理由に個人的な思いが含まれていて欲しい。
「ローレンツさん、事故当時の記憶は今もないのでしょうか?魔道書の誤りを見つけるのに役立つかもしれません」
ローレンツは残念そうに首を横に振った。学生時代と比べて髪が伸びたので確かに彼の父と雰囲気がそっくりになっている。ヒルダがあれくらい幼かった頃、グロスタール伯は今のローレンツと同じくらい若々しかったのかもしれない。
「残念ながらないのだ……今後のためにも魔道書の頭から中身を確かめるしかなさそうだよ」
マリアンヌはため息をついた。先ほどのリシテアのため息とは理由が違う。五年前の事故の際、マリアンヌは自分が求めてはいけないものを目の当たりにした。
「はぁ……だが、僕もマリアンヌさんも協力しないわけにいかないな」
ローレンツはため息の理由を誤解している。マリアンヌのため息は安堵のため息だ。もしマリアンヌが獣の紋章を継いでいなかったら、あんな子を腕に抱いてローレンツの隣を歩く未来があったのかもしれない。だからこそあの時、未来に怯える小さな彼にグロスタールの紋章を持つ妻を娶ればいい、とどうしても言えなかった。あの頃からそう言えなかったほど彼のことが好きだった、と気づいたのは最近だが。
その後、小さなヒルダをガルグ=マクまで抱えていく役目はラファエルが指名された。筋骨隆々な身体つきがホルストと似ているからだろう。お役御免となったクロードが大きく肩を回している。
「血の気が引きましたね……大丈夫ですか?クロードさん」
貫禄が出るよう頬髭を生やしているが大袈裟に嘆く表情は学生時代とあまり変わらない。遠くからそっとヒルダを見ている時の嬉しそうな顔も含めて、だ。
「いや小さくて細くて折れそうだった。あれなら気絶したローレンツの足首を持って地面を引きずる方がずっと気楽だ」
小鳥を手の中におさめるとしたら、と考えればいい。持続することを考えず、完全に脱力するか力を込めるなら簡単だ。だが不快な思いや怖い思いをすることがないように小さくて柔らかいものを守るのは本当に難しい。
「ご経験が?」
「残念ながらないね。いつもマリアンヌがあいつを回復してやるからだろうな」
そう言ってニヤリと笑うクロードの視線は何を見てもすぐにラファエルの肩に乗った小さなヒルダに戻っていく。小さなヒルダの要望に応えたのかラファエルがふざけて身体を揺らすので、危ないと言ってローレンツが怒っている。
「エルヴィンさま、そんなにしんぱいしなくてもだいじょうぶ!」
「そうだぞ!そんなに心配しなくても大丈夫だぁ!ヒルダさんはマーヤみてえに、羽根みてえに軽いからな!」
ああもう、と荒げた声が少し後ろにいるマリアンヌにまで聞こえてきた。
「随分と楽しそうだな。マリアンヌ」
将来、ローレンツが我が子を可愛がる姿を見る時、彼の隣にはマリアンヌではない女性が立っているに違いない。本来なら心にいくばくかの痛みを伴う光景のはずだった。
「クロードさんこそ楽しそうですよ」
「望外のものが見られるのは楽しいことだろう?」
マリアンヌの脳裏に彼との会話が蘇る。生まれが明かせず、どこへ行っても疎まれる子供。クロードはヒルダを眺めているだけでこんなに幸せそうにしているのに、マリアンヌと同じく本当の自分をさらけ出していないのかもしれない。
クロードがガルグ=マクを乗っ取った、と周知されてからは四方に散っていた教会関係者たちが再び集まり、様々な部門を再開させた。悲しいことに五年前より孤児院はその規模を拡大している。先にガルグ=マクへ戻ったベレトが小さなヒルダ用の服と靴を用意し今後の手筈の説明もしてくれた。少し変わったワープだから、という説明で納得してくれたらしい。
「わかりました。おようふくとくつをありがとうございます。ようやくじぶんでどこにでもいけるわ!」
「ヒルダさん、どこに行きますか?ご案内しますよ」
髪の毛を後ろでひとまとめにした髪型がとても愛らしい彼女は真っ先にクロードのところへ行く、と言った。
「あらエルヴィン様のところでなくてよいのですか?」
マリアンヌまで彼のことをエルヴィンと呼んだことを知ったらローレンツはどんな顔をするだろうか。
「だってこれ、クロードくんにかえしてあげなくちゃ!あのかっこうにはこのきいろのがいとうがぴったりよ」
ヒルダは幼いころからおしゃれが大好きだったのだろう。幼い彼女なりに畳んだクロードの外套を手にしている。
「分かりました。ご案内しましょう。でもその前に洋服選びのお手伝いをしていただけませんか?」
洋服選び、と聞いて小さなヒルダの顔が輝いた。本来のヒルダが身につけるべき服を一揃い医務室まで持っていかねばならない。本人が選んだとなれば彼女も不満はないだろう。マリアンヌはまず、小さなヒルダを連れて本人の部屋を訪れた。
やはりヒルダは小さかろうと完璧だ、とマリアンヌは思う。小さなヒルダは行李や棚の中を開けて物色しているがマリアンヌと違って無意識に物を置いたりしない。寝台の上に洋服を広げて考え込んでいる。
「おおきくなったらこんなおようふくがきたいなとおもってたの」
「素敵な組み合わせです。では畳んでからクロードさんのお部屋に参りましょう」
その他にも目覚めた時に必要そうな物、をマリアンヌは大きめの籠に詰めた。この部屋に元からあった大きな物で、両手で抱えるしかない。
仕方ないので小さなヒルダに前を歩かせクロードの部屋の扉を叩いてもらった。どうぞ、と言う声と同時に中から何かの崩れる音がする。扉が外開きでなければ開け閉めにも苦労するかもしれない。勿論、寮の扉の開き方はそんな理由で決まっているわけではないが。
「ああ、ヒルダとマリアンヌか。歓待してやりたいがこの有様でね」
クロードの背中越しに見える室内は床に紙が散乱している。彼がわざわざ廊下まで出てきたのはそのせいだろう。
「クロードくん、がいとうをかしてくれてありがとう」
小さなヒルダが自分の外套を手にしていることに気づいたクロードは膝をついた。
「小さなお嬢さんのお役に立てて幸いだ」
クロードは外套を恭しく受け取ったが、ヒルダからは見えないようにマリアンヌが持っている籠の上にそっと広げて被せた。一連の流れはまるで手品のようだった。
「マリアンヌ、それだと籠の中身が丸見えだ」
クロードにそっと耳打ちされる。確かにすぐに身につけられるよう肌着を一番上に置いていた。上から広げた手巾を被せたので大丈夫だ、とマリアンヌは判断していたが言われてみれば薄い小さな布だ。やはりどうしても冷静ではいられないらしい。
「どうしたの?はやくいこうよ!」
「動揺してるのはお互い様だから仕方ないさ。後は頼んだぞ」
マリアンヌはその晩とりあえずあれ以上の失態はないはずだ、と信じて床についた。しかしこの件には後日談がある。魔道書の誤植由来で事故が起きた際の教本には何度も翌朝の揉めごとを避けるために大人用の寝衣を着せてから眠らせてレストをかけよ、と書かれることになった。
あの時、クロードの言う通り動揺していたマリアンヌはヒルダの寝衣を入れ忘れている。医務室の修道士もまだ解呪作業に慣れていなかったのでその場にある物を流用したらしい。クロードの外套だけを身に纏って医務室で目覚めたヒルダのことを思うとマリアンヌは申し訳なさで消えてしまいたくなる。
後にマリアンヌは深酒をするたびに夫となったローレンツにこの件について話すようになるのだが、その度に彼は口籠もり何とも言えない表情を浮かべるのだった。畳む
#かのひとはうつくしく番外編
#クロヒル
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#ガルグ=マクちっちゃいものクラブ
ガルグ=マクちっちゃいものクラブ参加作品
1.ローレンツとマリアンヌ編
朝起きたらまず身支度を整える。エドマンドの家にいた時は侍女が髪をまとめて結い上げてくれた。自力でやろうとすると水色の髪は全くいうことをきいてくれない。鏡の前で先日、シルヴァンから忠告されたように笑顔を作ってみたが頬が引き攣りそうになるだけだった。
義父は士官学校へ行けば必ず良いことがある、と言って送り出してくれたが何もかもがうまくいかない。今日もきっと義父に興味のある学生や教会関係者が自分に話しかけてくることだろう。そんな中マリアンヌはローレンツから義父と全く似ていない、とはっきり指摘された。彼は五大諸侯の嫡子なのでマリアンヌが養女になる前から義父であるエドマンド辺境伯を知っていた可能性がある。
義父は引き取った養女を気にかけて色々と世話を焼き、話しかけてくれたのだが当時のマリアンヌは自分の側から話しかけることがほとんどなかった。今はほんの少し、そのことを後悔している。マリアンヌはあまり上手く話せないのだが、それは生来の口下手さだけが理由ではない。
本当に義父のことを知らないからだ。適当なことを言って義父に迷惑をかけるわけにはいかない。
士官学校の寮は扉が外開きだ。だから開ける前に人の声や足音に注意してから開けねばならない。義父は在学中、不用意に扉を開けたせいでマリアンヌの実父を思い切り小突いてしまったのだという。その話を思い出したのはどん、という鈍い音がした後だった。時刻は明け方で、いつもなら天馬の面倒を見るイングリットくらいしか起きていない。
「すみません、大丈夫ですか?!」
顔を押さえてうずくまっているのは真っ直ぐな紫色の髪を肩の辺りまで伸ばした子供だった。一目で寸法違いと分かるくるぶし丈の寝巻きに身を包んでいる。士官学校は修道院の附属施設だ。修道院は寄る辺のない子供たちの面倒も見ている。だが、そこから紛れ込んだ子供にしては身につけている寝巻きが上等だった。白い指の間から血が出ていたのでおそらく取っ手が鼻を直撃したのだろう。マリアンヌは義父が買い求めローレンツが褒めてくれた手巾を渡した。
「まさかこの時間に人が歩いているとは思わなくて……申し訳ありません……」
「ぼくも、ふちゅういでした……」
怪我の責任を取るためマリアンヌがライブの呪文を唱えると鼻血を出していた痕跡は手巾に残るのみ、となった。僕、と言っているのでどうやら男の子らしい。よく見ると袖もずいぶん余っているようで何重にも捲っている。
「ここは……寮なので……おうちはどこですか?」
「わかりません……じぶんのおへやでねていたはずなのに」
「まあ、なんてこと……」
自分の身には余ることが起きたのでマリアンヌは素直にヒルダの名を呼びながら隣室の扉を叩いた。
「もー!こんな時間に何?」
朝寝坊好きなヒルダが大あくびをしながら扉を開けてくれた。寝巻き姿で髪は下ろしたままの素顔だがそれでもこんなに美しい。
「小さな子供が寮の中に入り込んでいて……」
訳がわからない、という顔をしたヒルダのためマリアンヌは扉を大きく開き、戸惑っている子供の姿を見せた。途端にヒルダの眠気は飛び去ったらしい。下りてこようとする瞼に隠れがちだった薄紅色の瞳が、しっかりと不安そうにしている子供の姿を捉えている。
「え、うそ!その子ローレンツくん、だよね?」
ヒルダにそう耳元で囁かれ、マリアンヌは初めて彼と目の前の子供がローレンツそっくりなことに気づいた。言われてしまうと彼としか思えない。一体、何が起きたのか。確かに髪の色も瞼の形もローレンツそのものだった。ヒルダが部屋に手招きしてくれたので今は二人で彼女の部屋に入り込んでいる。
「どうしましょう……」
「勿論、先生に相談だよ!でもその前に確かめたいことがあるからちょっとクロードくんを起こしてくるね」
そこで待ってて、と言われたのでマリアンヌはローレンツらしき少年とヒルダの部屋で二人きりになった。何かの事故で姿形が変わった場合、精神だけは元のままなことが多い。だがローレンツの性格から言ってもし精神が元のままならば、クロードの部屋に怒鳴り込むか階下にいるベレトの元へ直行するだろう。
「きっとなんとかなります」
自分の口下手さが本当に嫌になる。なんの意味もない慰めの言葉を口にしてみたがクロードは果たして部屋にいるだろうか。馬や天馬の面倒を見るため早起きしているマリアンヌやイングリットは時々、埃まみれで朝帰りをしているクロードの姿を見かけるのだ。
「はやくもどらないとねえやも、おとうさまもおかあさまもきっとぼくをしんぱいしています」
真っ先にねえや、が出てくるところが微笑ましい。マリアンヌの前で嘆く少年時代のローレンツは髪が長かった。魔力は髪に宿ると言われる。英雄の遺産、テュルソスの杖を受け継ぐグロスタール家の者らしい髪型と言えるだろう。
「そうですか」
どうにもぎこちない相槌しか返せない。だが小さなローレンツはマリアンヌにあれやこれやと話しかけてくれる。気を使われているのかもしれない。
「ぼくはきのう、けんさをうけました」
マリアンヌは思わず、息を呑んだ。十傑の子孫が受ける検査と言えば紋章の検査に決まっている。
獣の紋章を持っている、と判明した時の両親の顔は未だに忘れられない。だからこそ自分を養女として迎え入れた伯父、いや、義父がマリアンヌが獣の紋章を宿していると知った時の反応に未だに戸惑っている。義父の頬を伝う涙には喜びや親しみが含まれていた。愛を人質に取られた彼の人生やマリアンヌの人生に意味などあるのだろうか。
「結果は聞きましたか?」
「まだです。もしぼくがもんしょうをやどしていなかったら……」
ハンネマンの研究によって、今ではすぐ分かるようになったがローレンツやマリアンヌが幼い頃は試薬の反応が出るのに一晩かかった。きっとグロスタール家の人々は眠れぬ夜を過ごしたことだろう。小さなローレンツは色々と思い出したせいか流石に不安そうな顔をしていた。
人生を左右する検査を受けたばかりな上に、目覚めたら知らない場所にいたのだから仕方がない。ローレンツが積み重ねてきたものが取り払われた結果が現状だとしたら、マリアンヌは絶対に目に出来ないはずの貴重なものを目にしていることになる。
「大丈夫ですよ。きっと受け継いでいます。それにもし紋章を受け継いでいないとしても……」
ローレンツの子供には発現するかもしれない。だがそれでは問題を先送りにしているだけで同じ心配がつきまとう。それにそのためにはあること、が必要だった。
「紋章を宿す者を探して雇えばいいのです」
想像すらしていなかった答えだったらしく小さなローレンツは目を丸くしている。マリアンヌが取り繕わねば、と強く感じた瞬間に扉を叩く音が聞こえた。
「なんだよローレンツ!随分可愛くなったな!」
寝巻き姿のクロードの視線はしばらくヒルダの部屋の中を縦横無尽に彷徨い、最後にじっと見つめても失礼には当たらないローレンツの姿に注がれた。どうやら既にローレンツの姿形が変わった件について説明を受けていたらしい。
「クロードくん、まだアビスに出入りしてるなら心当たり、あるんじゃない?」
「いや、流石にそんな作用があるものは扱ってないよ」
その後もヒルダが思いつく限りのおどろおどろしい単語を出し、重ねて尋ねたせいだろうか。小さなローレンツは何度かどなたですか、と問おうとしたが結局、口を結んでいる。眉根を寄せて不安や恐怖を堪えていた。
「じゃあクロードくん、マリアンヌちゃんと一緒に先生のところへ連れて行ってあげて」
マリアンヌはすでに制服に身を包んでいるが口下手だしヒルダも寝巻き姿で出歩くわけにいかない。クロードなら寝巻き姿につっかけ履きでも先生の前に顔を出せるだろう、と言うことらしい。
「ま、そうなるよな。不安だろうがついてきてくれ。信頼出来る大人のところへ連れて行くから」
クロードが小さなローレンツを手招きした。その褐色の手は弓使いらしく胼胝だらけで、彼が決して語らない日頃の努力が偲ばれる。
「大丈夫ですよ。私もついていきますから」
「ありがとうございます」
マリアンヌの知る十九才のローレンツならきっとご婦人に負担をかけるわけにいかない、と言って提案を断っただろう。将来、長槍を振り回し重い茶器を軽々と持ち上げることになる手はまだ小さく柔らかい。何故そんなことをマリアンヌが知っているかというと反射的に小さな白い手を握ってしまったからだ。
背中に目がついていないのが実に惜しい。小さなローレンツの手を握っているのがマリアンヌでなければクロードは遠慮なく凝視した筈だ。引っ込み思案なマリアンヌがローレンツの手を取った、その瞬間をヒルダと共有できたこともクロードは嬉しい。クロードは口は上手い方だ。しかし見てきたように語っても伝わらないことがある、とも知っている。この件はクロードとヒルダの間で語り草になるだろう。マリアンヌ自身は自分には度胸がない、と思い込んでいるが実際はかなり大胆なことをするのだ。
クロードは円卓会議に参加するためデアドラへやってきたエドマンド辺境伯と会ったことがある。見た目は洒脱だが物言いは鋭く大胆だった。マリアンヌは養女だがエドマンド辺境伯の大胆さを色濃く受け継いでいるのかもしれない。
とにかくマリアンヌはローレンツのことを何とかしてやりたい、と強く思ったのだ。彼女はいつも何かに怯えていて枠から出ようとしない。でも今朝はそこを越えて小さな彼の手を取った。ローレンツの肉体と精神が元通りになった時にこの記憶はどうなるのだろうか。
「私たちの先生のところへお連れします」
「階段を下りたらすぐだ」
クロードが廊下の先を指さすとローレンツは神妙な顔をして丈の長い寝巻きの裾をそっとめくった。これでは外を歩かせるわけにいかない。靴をどうしたのか聞くと目が覚めた部屋に巨大な靴しかなかったのだという。確かにローレンツは長身に相応しい大きな足をしている。
「まあ……なんてこと……ずっと裸足だったのですね?気がつきませんでした」
二階の廊下は絨毯が敷いてあるが階段と一階の廊下は違う。小さなローレンツはそのことを察したらしい。マリアンヌがしゃがんだので小さなローレンツは救いを求めるように紫の瞳でクロードを見上げた。この小さなローレンツは怪我人を背負って戦場を駆け抜けるマリアンヌを知らない。細身の身体のどこにそんな力が、とクロードは毎度感心してしまう。
「はじめておあいしたごふじんに、そんなことをさせるわけには……」
故郷にいた頃クロードはよく靴を隠された。だから裸足で外を歩くと碌なことが起きない、とよく分かっている。
「足に布を巻く時間がもったいない。ほら、背負ってやるから俺んとこに来い。それともご婦人の背中の方が好みかな?」
クロードはあんな育ち方をしたというのに他人に、しかもローレンツに親切にしてやれることが自分でも不思議だった。嫌な記憶は鮮明なままだが、仕上げに振り掛けられる粉砂糖のような暮らしをここガルグ=マクで送っているからだろうか。
小さなローレンツは弾けるような早さでクロードの背中に身体を預けた。よろしくお願いします、といって乗せられた身体は悔しいかな、背中越しでも白い手足が長いとわかる。
ベレトの部屋はさして遠くない。両腕と背中の塞がっているクロードの代わりにマリアンヌが扉を叩いてくれた。
「朝早くに申し訳ありません。先生、ご相談したいことが……」
謎多き担任教師は講義の支度をしていたらしい。早朝にも関わらずすぐに三人とも部屋へ招き入れてくれた。こういう時はベレトの無表情さが救いになる。
「……という訳なんだ。どうしたらこの子が元に戻れると思う?」
クロードが説明する間、マリアンヌは当然のように寝台の上で所在なさげに座っているローレンツと目の高さを合わせるためしゃがみ込んでいた。
「先週皆に渡した黒魔法の教科書に誤植があったんだ。その知らせが来たのが昨日だった。今日の講義で伝えようと思ったが……どうやら遅かったらしい」
フォドラの印刷技術は貧弱だ。活字を組み合わせるのではなく、木の板にその頁の文章を丸ごと彫りつけて紙や布に転写している。だから内容を訂正した冊子が刷り終わるのに時間がかかったようだ。
「そうか、ローレンツは昨日、黒魔法の自主訓練をしていたから……」
金鹿の学級の者たちは皆、得意な武器や戦い方が全く違う。だから黒魔法の得意なローレンツだけが被害に遭ったらしい。
「ここにいるのは、ぼくのおちどではないのですね?」
「そうだ。だから安心して欲しい」
ベレトがそう語りかけると小さなローレンツは安堵のため息を吐いてから手で顔を覆った。先ほどマリアンヌに握られていた手は将来、槍の鍛錬で胼胝だらけになる。
「その新しい教科書を真っ先に使ったのはローレンツさんですね。先生、それで対処法は?」
ベレトは冊子をクロードとマリアンヌに寄越した。かなり革新的なことが書いてある。自然を捉え直し逐一命令を下して、求める現象を発生させるのが魔道だ。しかしその術式が自然な人間の認識からかけ離れている。
魔道が得意でないクロードなら項目と数値がずれないように項目の直後に数値を持ってくるだろう。だが、これまで読んだ魔道書は項目を先に全て述べた後で数値を一気に言うものばかりだった。この時に数値を言い間違えてしまうと発動しない。
だが今ベレトが見せてくれた黒魔法の教科書は設計が全く違う。要素ごとに項目と数値がまとめられていた。
「いや、これはすごい。魔道が苦手なやつでもこれなら何とかなるんじゃないのか?」
「確かにとても興味深いですが……話題がずれています」
ベレトも頷いている。思考があちこちへ飛んでしまうのはクロードの悪い癖だ。冊子の後ろの方には起こりうる状態異常とその回復方法について記されている。意識と肉体が乖離した際にレストをかけるとこの状態異常は回復するらしい。
「マリアンヌ、マヌエラを起こしてきてもらえないだろうか?俺は必要なものを医務室に運んでおくから」
先ほどはクロードだけで構わないだろうと思っていたがこうなるとマリアンヌがいてくれてありがたい。マヌエラの部屋はおそらく男子学生には見られたくない状態になっているはずだ。
パルミラ人はナデルのように大柄な者が多い。だからクロードはフォドラへ行けば、背が伸びれば自分がかなり大きな方になるのではないかと期待していた。しかし実際は見ての通りで、皆が皆ラファエルやヒルダの兄ホルストのような筋肉質というわけではないが背は高い。そんな訳でクロードはローレンツからもディミトリからも見下ろされている。
「俺からも頼むわ。ちびすけのことは任せてくれ」
クロードはそう言って小さなローレンツと共にマリアンヌとベレトを見送った。将来、クロードがローレンツの子供の頭を撫でる日が来るかもしれない。だが本人の頭をこんな風に撫でる日は二度と来ないだろう。クロードは寝台の端で大人しく座っているローレンツの頭に触れた。彼の父と同じく肩のあたりまで伸びている紫の髪をくしゃくしゃにする。
「やめてください。せっかくねえやがねるまえにくしをいれてくれたのに」
「すまんな、でもこうしておけばマリアンヌが───さっきの水色の髪をしたお姉さんが整えてくれるかもしれないぞ?」
クロードに乱された紫の髪を整える小さなローレンツの手が一瞬止まった。子供の頃から好みは一貫しているらしい。
「これいじょう、あのかたにごめんどうをおかけするわけには……」
だが幼い彼は思い直した。フォドラでは力なき幼子でも美しい振る舞いを追求することが出来る。パルミラの者からするとフォドラは痩せ我慢の国に過ぎない。だがクロードはフォドラで過ごすうちにこれはこれで美しい、と思えるようになった。
それでもパルミラ育ちのクロードは先ほど、咄嗟に小さなローレンツの手を取ったマリアンヌの内心に渦巻く衝動を高く評価しているし、彼女の抱える不満が解消されることを願っている。
マリアンヌとベレトの忙しない往来を何度か経て、クロードは小さなローレンツを医務室まで背負っていくことになった。クロードの隣を歩き、小さなローレンツに治療法を説明するマリアンヌは常日頃と違って加害強迫の症状が現れていない。穏やかな彼女の姿がどんな様子だったかヒルダに話してやりたくてクロードは黙っていた。きっと喜ぶに違いない。
翌朝、いつもの姿に戻ったローレンツが昨日の自分がどんな様子だったのか、必死にクロードから聞き出そうとしてきたので───もちろん思わせぶりなことだけ言って肝心なことは何ひとつ教えてやらなかった。畳む
#クロヒル
#ロレマリ
#ガルグ=マクちっちゃいものクラブ
ガルグ=マクちっちゃいものクラブ参加作品
1.ローレンツとマリアンヌ編
朝起きたらまず身支度を整える。エドマンドの家にいた時は侍女が髪をまとめて結い上げてくれた。自力でやろうとすると水色の髪は全くいうことをきいてくれない。鏡の前で先日、シルヴァンから忠告されたように笑顔を作ってみたが頬が引き攣りそうになるだけだった。
義父は士官学校へ行けば必ず良いことがある、と言って送り出してくれたが何もかもがうまくいかない。今日もきっと義父に興味のある学生や教会関係者が自分に話しかけてくることだろう。そんな中マリアンヌはローレンツから義父と全く似ていない、とはっきり指摘された。彼は五大諸侯の嫡子なのでマリアンヌが養女になる前から義父であるエドマンド辺境伯を知っていた可能性がある。
義父は引き取った養女を気にかけて色々と世話を焼き、話しかけてくれたのだが当時のマリアンヌは自分の側から話しかけることがほとんどなかった。今はほんの少し、そのことを後悔している。マリアンヌはあまり上手く話せないのだが、それは生来の口下手さだけが理由ではない。
本当に義父のことを知らないからだ。適当なことを言って義父に迷惑をかけるわけにはいかない。
士官学校の寮は扉が外開きだ。だから開ける前に人の声や足音に注意してから開けねばならない。義父は在学中、不用意に扉を開けたせいでマリアンヌの実父を思い切り小突いてしまったのだという。その話を思い出したのはどん、という鈍い音がした後だった。時刻は明け方で、いつもなら天馬の面倒を見るイングリットくらいしか起きていない。
「すみません、大丈夫ですか?!」
顔を押さえてうずくまっているのは真っ直ぐな紫色の髪を肩の辺りまで伸ばした子供だった。一目で寸法違いと分かるくるぶし丈の寝巻きに身を包んでいる。士官学校は修道院の附属施設だ。修道院は寄る辺のない子供たちの面倒も見ている。だが、そこから紛れ込んだ子供にしては身につけている寝巻きが上等だった。白い指の間から血が出ていたのでおそらく取っ手が鼻を直撃したのだろう。マリアンヌは義父が買い求めローレンツが褒めてくれた手巾を渡した。
「まさかこの時間に人が歩いているとは思わなくて……申し訳ありません……」
「ぼくも、ふちゅういでした……」
怪我の責任を取るためマリアンヌがライブの呪文を唱えると鼻血を出していた痕跡は手巾に残るのみ、となった。僕、と言っているのでどうやら男の子らしい。よく見ると袖もずいぶん余っているようで何重にも捲っている。
「ここは……寮なので……おうちはどこですか?」
「わかりません……じぶんのおへやでねていたはずなのに」
「まあ、なんてこと……」
自分の身には余ることが起きたのでマリアンヌは素直にヒルダの名を呼びながら隣室の扉を叩いた。
「もー!こんな時間に何?」
朝寝坊好きなヒルダが大あくびをしながら扉を開けてくれた。寝巻き姿で髪は下ろしたままの素顔だがそれでもこんなに美しい。
「小さな子供が寮の中に入り込んでいて……」
訳がわからない、という顔をしたヒルダのためマリアンヌは扉を大きく開き、戸惑っている子供の姿を見せた。途端にヒルダの眠気は飛び去ったらしい。下りてこようとする瞼に隠れがちだった薄紅色の瞳が、しっかりと不安そうにしている子供の姿を捉えている。
「え、うそ!その子ローレンツくん、だよね?」
ヒルダにそう耳元で囁かれ、マリアンヌは初めて彼と目の前の子供がローレンツそっくりなことに気づいた。言われてしまうと彼としか思えない。一体、何が起きたのか。確かに髪の色も瞼の形もローレンツそのものだった。ヒルダが部屋に手招きしてくれたので今は二人で彼女の部屋に入り込んでいる。
「どうしましょう……」
「勿論、先生に相談だよ!でもその前に確かめたいことがあるからちょっとクロードくんを起こしてくるね」
そこで待ってて、と言われたのでマリアンヌはローレンツらしき少年とヒルダの部屋で二人きりになった。何かの事故で姿形が変わった場合、精神だけは元のままなことが多い。だがローレンツの性格から言ってもし精神が元のままならば、クロードの部屋に怒鳴り込むか階下にいるベレトの元へ直行するだろう。
「きっとなんとかなります」
自分の口下手さが本当に嫌になる。なんの意味もない慰めの言葉を口にしてみたがクロードは果たして部屋にいるだろうか。馬や天馬の面倒を見るため早起きしているマリアンヌやイングリットは時々、埃まみれで朝帰りをしているクロードの姿を見かけるのだ。
「はやくもどらないとねえやも、おとうさまもおかあさまもきっとぼくをしんぱいしています」
真っ先にねえや、が出てくるところが微笑ましい。マリアンヌの前で嘆く少年時代のローレンツは髪が長かった。魔力は髪に宿ると言われる。英雄の遺産、テュルソスの杖を受け継ぐグロスタール家の者らしい髪型と言えるだろう。
「そうですか」
どうにもぎこちない相槌しか返せない。だが小さなローレンツはマリアンヌにあれやこれやと話しかけてくれる。気を使われているのかもしれない。
「ぼくはきのう、けんさをうけました」
マリアンヌは思わず、息を呑んだ。十傑の子孫が受ける検査と言えば紋章の検査に決まっている。
獣の紋章を持っている、と判明した時の両親の顔は未だに忘れられない。だからこそ自分を養女として迎え入れた伯父、いや、義父がマリアンヌが獣の紋章を宿していると知った時の反応に未だに戸惑っている。義父の頬を伝う涙には喜びや親しみが含まれていた。愛を人質に取られた彼の人生やマリアンヌの人生に意味などあるのだろうか。
「結果は聞きましたか?」
「まだです。もしぼくがもんしょうをやどしていなかったら……」
ハンネマンの研究によって、今ではすぐ分かるようになったがローレンツやマリアンヌが幼い頃は試薬の反応が出るのに一晩かかった。きっとグロスタール家の人々は眠れぬ夜を過ごしたことだろう。小さなローレンツは色々と思い出したせいか流石に不安そうな顔をしていた。
人生を左右する検査を受けたばかりな上に、目覚めたら知らない場所にいたのだから仕方がない。ローレンツが積み重ねてきたものが取り払われた結果が現状だとしたら、マリアンヌは絶対に目に出来ないはずの貴重なものを目にしていることになる。
「大丈夫ですよ。きっと受け継いでいます。それにもし紋章を受け継いでいないとしても……」
ローレンツの子供には発現するかもしれない。だがそれでは問題を先送りにしているだけで同じ心配がつきまとう。それにそのためにはあること、が必要だった。
「紋章を宿す者を探して雇えばいいのです」
想像すらしていなかった答えだったらしく小さなローレンツは目を丸くしている。マリアンヌが取り繕わねば、と強く感じた瞬間に扉を叩く音が聞こえた。
「なんだよローレンツ!随分可愛くなったな!」
寝巻き姿のクロードの視線はしばらくヒルダの部屋の中を縦横無尽に彷徨い、最後にじっと見つめても失礼には当たらないローレンツの姿に注がれた。どうやら既にローレンツの姿形が変わった件について説明を受けていたらしい。
「クロードくん、まだアビスに出入りしてるなら心当たり、あるんじゃない?」
「いや、流石にそんな作用があるものは扱ってないよ」
その後もヒルダが思いつく限りのおどろおどろしい単語を出し、重ねて尋ねたせいだろうか。小さなローレンツは何度かどなたですか、と問おうとしたが結局、口を結んでいる。眉根を寄せて不安や恐怖を堪えていた。
「じゃあクロードくん、マリアンヌちゃんと一緒に先生のところへ連れて行ってあげて」
マリアンヌはすでに制服に身を包んでいるが口下手だしヒルダも寝巻き姿で出歩くわけにいかない。クロードなら寝巻き姿につっかけ履きでも先生の前に顔を出せるだろう、と言うことらしい。
「ま、そうなるよな。不安だろうがついてきてくれ。信頼出来る大人のところへ連れて行くから」
クロードが小さなローレンツを手招きした。その褐色の手は弓使いらしく胼胝だらけで、彼が決して語らない日頃の努力が偲ばれる。
「大丈夫ですよ。私もついていきますから」
「ありがとうございます」
マリアンヌの知る十九才のローレンツならきっとご婦人に負担をかけるわけにいかない、と言って提案を断っただろう。将来、長槍を振り回し重い茶器を軽々と持ち上げることになる手はまだ小さく柔らかい。何故そんなことをマリアンヌが知っているかというと反射的に小さな白い手を握ってしまったからだ。
背中に目がついていないのが実に惜しい。小さなローレンツの手を握っているのがマリアンヌでなければクロードは遠慮なく凝視した筈だ。引っ込み思案なマリアンヌがローレンツの手を取った、その瞬間をヒルダと共有できたこともクロードは嬉しい。クロードは口は上手い方だ。しかし見てきたように語っても伝わらないことがある、とも知っている。この件はクロードとヒルダの間で語り草になるだろう。マリアンヌ自身は自分には度胸がない、と思い込んでいるが実際はかなり大胆なことをするのだ。
クロードは円卓会議に参加するためデアドラへやってきたエドマンド辺境伯と会ったことがある。見た目は洒脱だが物言いは鋭く大胆だった。マリアンヌは養女だがエドマンド辺境伯の大胆さを色濃く受け継いでいるのかもしれない。
とにかくマリアンヌはローレンツのことを何とかしてやりたい、と強く思ったのだ。彼女はいつも何かに怯えていて枠から出ようとしない。でも今朝はそこを越えて小さな彼の手を取った。ローレンツの肉体と精神が元通りになった時にこの記憶はどうなるのだろうか。
「私たちの先生のところへお連れします」
「階段を下りたらすぐだ」
クロードが廊下の先を指さすとローレンツは神妙な顔をして丈の長い寝巻きの裾をそっとめくった。これでは外を歩かせるわけにいかない。靴をどうしたのか聞くと目が覚めた部屋に巨大な靴しかなかったのだという。確かにローレンツは長身に相応しい大きな足をしている。
「まあ……なんてこと……ずっと裸足だったのですね?気がつきませんでした」
二階の廊下は絨毯が敷いてあるが階段と一階の廊下は違う。小さなローレンツはそのことを察したらしい。マリアンヌがしゃがんだので小さなローレンツは救いを求めるように紫の瞳でクロードを見上げた。この小さなローレンツは怪我人を背負って戦場を駆け抜けるマリアンヌを知らない。細身の身体のどこにそんな力が、とクロードは毎度感心してしまう。
「はじめておあいしたごふじんに、そんなことをさせるわけには……」
故郷にいた頃クロードはよく靴を隠された。だから裸足で外を歩くと碌なことが起きない、とよく分かっている。
「足に布を巻く時間がもったいない。ほら、背負ってやるから俺んとこに来い。それともご婦人の背中の方が好みかな?」
クロードはあんな育ち方をしたというのに他人に、しかもローレンツに親切にしてやれることが自分でも不思議だった。嫌な記憶は鮮明なままだが、仕上げに振り掛けられる粉砂糖のような暮らしをここガルグ=マクで送っているからだろうか。
小さなローレンツは弾けるような早さでクロードの背中に身体を預けた。よろしくお願いします、といって乗せられた身体は悔しいかな、背中越しでも白い手足が長いとわかる。
ベレトの部屋はさして遠くない。両腕と背中の塞がっているクロードの代わりにマリアンヌが扉を叩いてくれた。
「朝早くに申し訳ありません。先生、ご相談したいことが……」
謎多き担任教師は講義の支度をしていたらしい。早朝にも関わらずすぐに三人とも部屋へ招き入れてくれた。こういう時はベレトの無表情さが救いになる。
「……という訳なんだ。どうしたらこの子が元に戻れると思う?」
クロードが説明する間、マリアンヌは当然のように寝台の上で所在なさげに座っているローレンツと目の高さを合わせるためしゃがみ込んでいた。
「先週皆に渡した黒魔法の教科書に誤植があったんだ。その知らせが来たのが昨日だった。今日の講義で伝えようと思ったが……どうやら遅かったらしい」
フォドラの印刷技術は貧弱だ。活字を組み合わせるのではなく、木の板にその頁の文章を丸ごと彫りつけて紙や布に転写している。だから内容を訂正した冊子が刷り終わるのに時間がかかったようだ。
「そうか、ローレンツは昨日、黒魔法の自主訓練をしていたから……」
金鹿の学級の者たちは皆、得意な武器や戦い方が全く違う。だから黒魔法の得意なローレンツだけが被害に遭ったらしい。
「ここにいるのは、ぼくのおちどではないのですね?」
「そうだ。だから安心して欲しい」
ベレトがそう語りかけると小さなローレンツは安堵のため息を吐いてから手で顔を覆った。先ほどマリアンヌに握られていた手は将来、槍の鍛錬で胼胝だらけになる。
「その新しい教科書を真っ先に使ったのはローレンツさんですね。先生、それで対処法は?」
ベレトは冊子をクロードとマリアンヌに寄越した。かなり革新的なことが書いてある。自然を捉え直し逐一命令を下して、求める現象を発生させるのが魔道だ。しかしその術式が自然な人間の認識からかけ離れている。
魔道が得意でないクロードなら項目と数値がずれないように項目の直後に数値を持ってくるだろう。だが、これまで読んだ魔道書は項目を先に全て述べた後で数値を一気に言うものばかりだった。この時に数値を言い間違えてしまうと発動しない。
だが今ベレトが見せてくれた黒魔法の教科書は設計が全く違う。要素ごとに項目と数値がまとめられていた。
「いや、これはすごい。魔道が苦手なやつでもこれなら何とかなるんじゃないのか?」
「確かにとても興味深いですが……話題がずれています」
ベレトも頷いている。思考があちこちへ飛んでしまうのはクロードの悪い癖だ。冊子の後ろの方には起こりうる状態異常とその回復方法について記されている。意識と肉体が乖離した際にレストをかけるとこの状態異常は回復するらしい。
「マリアンヌ、マヌエラを起こしてきてもらえないだろうか?俺は必要なものを医務室に運んでおくから」
先ほどはクロードだけで構わないだろうと思っていたがこうなるとマリアンヌがいてくれてありがたい。マヌエラの部屋はおそらく男子学生には見られたくない状態になっているはずだ。
パルミラ人はナデルのように大柄な者が多い。だからクロードはフォドラへ行けば、背が伸びれば自分がかなり大きな方になるのではないかと期待していた。しかし実際は見ての通りで、皆が皆ラファエルやヒルダの兄ホルストのような筋肉質というわけではないが背は高い。そんな訳でクロードはローレンツからもディミトリからも見下ろされている。
「俺からも頼むわ。ちびすけのことは任せてくれ」
クロードはそう言って小さなローレンツと共にマリアンヌとベレトを見送った。将来、クロードがローレンツの子供の頭を撫でる日が来るかもしれない。だが本人の頭をこんな風に撫でる日は二度と来ないだろう。クロードは寝台の端で大人しく座っているローレンツの頭に触れた。彼の父と同じく肩のあたりまで伸びている紫の髪をくしゃくしゃにする。
「やめてください。せっかくねえやがねるまえにくしをいれてくれたのに」
「すまんな、でもこうしておけばマリアンヌが───さっきの水色の髪をしたお姉さんが整えてくれるかもしれないぞ?」
クロードに乱された紫の髪を整える小さなローレンツの手が一瞬止まった。子供の頃から好みは一貫しているらしい。
「これいじょう、あのかたにごめんどうをおかけするわけには……」
だが幼い彼は思い直した。フォドラでは力なき幼子でも美しい振る舞いを追求することが出来る。パルミラの者からするとフォドラは痩せ我慢の国に過ぎない。だがクロードはフォドラで過ごすうちにこれはこれで美しい、と思えるようになった。
それでもパルミラ育ちのクロードは先ほど、咄嗟に小さなローレンツの手を取ったマリアンヌの内心に渦巻く衝動を高く評価しているし、彼女の抱える不満が解消されることを願っている。
マリアンヌとベレトの忙しない往来を何度か経て、クロードは小さなローレンツを医務室まで背負っていくことになった。クロードの隣を歩き、小さなローレンツに治療法を説明するマリアンヌは常日頃と違って加害強迫の症状が現れていない。穏やかな彼女の姿がどんな様子だったかヒルダに話してやりたくてクロードは黙っていた。きっと喜ぶに違いない。
翌朝、いつもの姿に戻ったローレンツが昨日の自分がどんな様子だったのか、必死にクロードから聞き出そうとしてきたので───もちろん思わせぶりなことだけ言って肝心なことは何ひとつ教えてやらなかった。畳む
#完売本
#ヒルマリ
8.
マリアンヌのアパートや机を燃やした男はラファエルに羽交い締めにされながらも炎で浄化しなかったら世界が滅ぼされてしまう、と熱弁していた。緑の瞳は熱に浮かされていて激怒するレオニーとヒルダの姿が脳内で像を結んでいるかどうかは怪しい。
ベレトに依頼された通り録音機材を回していたので一部始終の音声が録れている。最新型のマイクは机を漁る音や呪文を詠唱する声、それを阻止するため殴りかかるラファエルの叫び声を拾った筈だ。
日頃はこの時間帯に見かけない他の階で働く者たちも騒ぎを聞きつけてやってきたので本番一時間前だというのに人だかりが出来ている。残念ながらテープを一本使い切ってしまったのでこの先のやり取りは音声に残せない。ベレトが取り上げた社員証はマリアンヌが確認したところ残念ながら本物だった。営業部門で働いていたらしい。
通報を受けやってきた警察に男を引き渡す際ベレトは火事を起こせば世界が救われるなんて有り得ないだろう、と語りかけていた。いつもは表情に乏しい彼が珍しくうんざりとした表情を浮かべていたので強くマリアンヌの印象に残っている。
男が狙っていたのは皆で調べた嫌がらせの小火や火事の記録をまとめて作った資料だ。公的機関へ訴えられる前に手を打とうとしたらしいが独断専行なのか命じられてのことなのかは分からない。
餌にしたので仕方ないことだがマリアンヌの机が焦げている。煙や臭いを取るため大きく窓が開けられ入ってきた風のせいで水色の髪が乱れていた。
「イメージの問題だろうな……取り敢えずお高い録音機材が燃えなくて良かったと思おう」
内密の話をするため野次馬たちを追い払ったレオニーが呆然としているマリアンヌの肩を軽く叩いた。レオニーは番組を続けていくうちに混沌とした場面に慣れたらしい。
もしかしたら局内にいる危険人物を誘き出せるかもしれないとヒルダがベレトに提案した時マリアンヌは一連の放火事件の被害者として賛成できないと反対した。ヒルダの机や私物が燃えてしまうなど耐え難い。調査結果を集計し綺麗にまとめたのはヒルダでそれは彼女の机に入っていたのだが隙をついて資料を隠滅しようとした男は何故かマリアンヌの机を燃やした。
「なあマリアンヌさん、その机もう使い物にならないだろうからオデが下に運んでやるよ!」
「調書を取られるだろうから俺が下書きしておこうか」
「マリアンヌちゃん、下の方の引き出しに入ってるものなら無事なんじゃない?」
黙っていればしっかり者に見えるマリアンヌが呆然としている姿はヒルダにもレオニーにも見慣れた光景だ。脳内だけが猛烈に動いている時もあれば本当に何も考えていない時もある。裏方として番組を支える構成作家の生活を支えるディレクターと本来支えられるだけの筈だった番組パーソナリティは無事だった引き出しの中から大量の書き付けと糊のチューブを七本、消しゴムを八個そして半年ほど前に失くしたと言って再発行してもらっていた黒魔法使用許可証を見つけ出した。士官学校を卒業し何年か軍務に就いていれば普通なら整理整頓の達人になる。厳しい訓練を経ても尚矯正されなかった散らかし癖はマリアンヌの強烈な個性なのだ。
「犯人、私とヒルダさんのことを何重にも間違えたんですね……」
放送中、レオニーはヒルダにもよく言及する。かなり際どい企画の度に私が責任取るからやってみようの一言で押し切られた、とこぼすので知名度自体は高い。それとこれまでの番組でつけられた怠け者のヒルダ、という二つ名が印象に残っていたせいで混沌としたマリアンヌの机をヒルダの机だと思ったのだ。レオニーのせいでマリアンヌは再び被害に遭った、と言えなくもない。
「ああ、なんてことでしょう……ヒルダさん!恐ろしくありませんでしたか?」
マリアンヌは片付けのため軍手をしていたヒルダの手を煤がつくことも気にせず白い手で取り握りしめている。レオニーは初めてマリアンヌが正面から誰かの顔を見つめている姿を目にした。彼女は常に伏し目がちに過ごし正面から誰かの顔を見るとしてもそれはヒルダだけだ。
「大丈夫だよ、資料も録音機材も燃えなかったし後で偉い人たちからたーくさん叱られるだろうけど今は大丈夫!」
「それにしてもヒルダさんと私を間違えるなんて……耐えがたいです……!」
問題はそこではないのだがヒルダが何故マリアンヌを見つけ出さねばと思ったのかレオニーにも分かるような気がした。他の者が彼女の美徳に気付く前に唾をつけておかねば掻っ攫われてしまう。もたもたしているうちに小鳥の雛のようなマリアンヌの前に自分以外の誰かが現れてしまったら。彼女がそいつの顔を真っ直ぐに見ることがヒルダには耐え難かったのだ。畳む