「返答」#クロロレ #クロロレワンドロワンライ参加作品
クロードの隣でローレンツがすうすうと寝息を立てている。ローレンツ自身は起きた時に殆ど夢の内容を覚えていないが、たまに寝言を言う。眠りが浅く、寝つきの悪いクロードの密かな楽しみだった。
深く眠っている時のローレンツは良い意味で力の抜けた顔をしているが、寝言を言う時は眉間に皺が寄る。ローレンツの寝返りで目が覚めてしまったクロードは消えかけた蝋燭の明かりを頼りにローレンツの様子を伺った。首を小刻みに振っているし、眉間に皺が寄っている。
「クロード!君は一体、何を考えているのだ!」
フォドラにいた頃の夢なのか、それとも外交官としてパルミラに赴任してからの夢なのか。
「お前のことだよ、ローレンツ」
クロードは寝汗で額に張り付いた紫の髪をそっと整えてやりながら返事をした。夢の中にいる自分はどんな言葉をローレンツに返したのだろう。知り合ったばかりの頃は彼のつんとした態度のせいで誤解していたが、あの頃から悪意はなかった。まだ短髪だった頃の彼を思い出すと自然とクロードの口元は緩んでしまう。
「何故そんな夢のようなことを……君、まさか寝ぼけているのではあるまいな?」
珍しく夢ではなく現実で会話が成立した。これも七月二十四日、誕生日のささやかな奇跡だと思いたい。
「すぐに返答が欲しい」
クロードはあの時と一言一句、同じことを言ってから滑らかな頬に口付けをした。この先は会話が成立せずともかまわない。彼が今、自分の隣で眠りについていること自体が返答だからだ。畳む
クロードの隣でローレンツがすうすうと寝息を立てている。ローレンツ自身は起きた時に殆ど夢の内容を覚えていないが、たまに寝言を言う。眠りが浅く、寝つきの悪いクロードの密かな楽しみだった。
深く眠っている時のローレンツは良い意味で力の抜けた顔をしているが、寝言を言う時は眉間に皺が寄る。ローレンツの寝返りで目が覚めてしまったクロードは消えかけた蝋燭の明かりを頼りにローレンツの様子を伺った。首を小刻みに振っているし、眉間に皺が寄っている。
「クロード!君は一体、何を考えているのだ!」
フォドラにいた頃の夢なのか、それとも外交官としてパルミラに赴任してからの夢なのか。
「お前のことだよ、ローレンツ」
クロードは寝汗で額に張り付いた紫の髪をそっと整えてやりながら返事をした。夢の中にいる自分はどんな言葉をローレンツに返したのだろう。知り合ったばかりの頃は彼のつんとした態度のせいで誤解していたが、あの頃から悪意はなかった。まだ短髪だった頃の彼を思い出すと自然とクロードの口元は緩んでしまう。
「何故そんな夢のようなことを……君、まさか寝ぼけているのではあるまいな?」
珍しく夢ではなく現実で会話が成立した。これも七月二十四日、誕生日のささやかな奇跡だと思いたい。
「すぐに返答が欲しい」
クロードはあの時と一言一句、同じことを言ってから滑らかな頬に口付けをした。この先は会話が成立せずともかまわない。彼が今、自分の隣で眠りについていること自体が返答だからだ。畳む
「向日葵」 #クロロレ #クロロレワンドロワンライ参加作品
基本、クロードはベレトに誘われない限り厨房に立たない。ところが珍しく麵麭焼き釜の前に陣取っていた。あたりには香ばしい匂いが漂っているが麺包の匂いではない。彼が将来の盟主として相応しい言動をとっているのか常に監視しているローレンツは当然、そのことに気がついた。
「一体、何をやっているのかね」
「試したいことがあって、な」
質問の答えになっているのかなっていないのか、微妙な言葉をよこしてきたクロードが分厚い手袋を嵌め、熱い熱いと言いながら中から鉄板を取り出した。鉄板の上には所狭しと種が並べられている。クロードが予め用意しておいた皿に向け、鉄板を傾けるとさらさらと何かの種が落ちていった。火を通したのであればこれらの種はもう芽吹かない。薬の素材にするのか食べ物なのかローレンツには使途が全く分からなかった。
クロードは種を一粒つまみ出すと口に含みカリカリと音を立て、あっという間に種の殻を口からつまみ出した。あまりに早かったので何が起きているのかローレンツにはよく分からなかった。そもそも殻とはいえ他人の前で一度口に含んだものを出すなどローレンツにはあり得ない。
「な、なんと不作法な!」
「向日葵の種はこうやって食うもんだろ、ローレンツは食ったことないのか?」
ない、と答えるとクロードから種を一粒差し出された。
「栄養があって戦場で携行食にすることもあるんだから食べ慣れておいた方がいいぜ」
言い返す言葉がなかったのでローレンツは不承不承クロードから向日葵の種を受け取り口に含んだ。せめてもの抵抗で口元に手巾をあてたが無意味な上に余計な手間が増えている。齧って殻を割り、口から種を出し指で殻を剥いて中身を食べてみると塩味が効いていて香ばしく癖になる味をしていた。
「見た目より遥かに美味だな」
「だろう?」
「殻をあらかじめ剥いてあるものが欲しいな」
「でも殻がついてるから長持ちするんだぜ?」
厨房で珍しい組み合わせの二人が変わったことをしていたせいか、他の者まで集まってきた。種を食べる者と食べない者の割合は半々で、食べる者の話を聞いてみるとそれでもクロードの食べ方は独特らしい。食べる、と言っていたレオニーやアッシュはローレンツと同じく種を齧って割った後、両手を使って殻を剥いてから食べていた。
「いや、そんな風に両手で剥く必要ないだろ」
クロードは種を指で持ったまま二回齧ると口の中に入れたままの指で殻を捻り、剥き出しにした中身を直接食べている。あまりに早く食べてしまうのでアッシュやレオニーが真似をしはじめた。コツを掴むのに暫くかかっていたが理屈が分かったらしく、あっという間に机の上が種の殻だらけになっていく。
「それにしてもクロードが厨房にいるなんて珍しいじゃないか」
「釜の余熱で火が通せる気がしてな」
節約好きな二人が薪を余計に使わずに済む、という理由でクロードを称えた。
───数節後───
修道院近郊にある葡萄園から葡萄が献上され、全ての食卓の上には葡萄が山のように積まれている。通常なら全て葡萄酒にするか干し葡萄にしてしまう。だが、今回は食欲旺盛な若者たちに新鮮な果物を食べさせようと大司教レアが取り計らってくれた。紫の葡萄は冷たい井戸水で冷やされているため訓練終了後の疲れた身体に染み入ることだろう。
学生たちは皆自分が頼んだ料理が出来上がるまでの間、葡萄を食べておとなしく待っていた。手先に集中せねばならない食べ物が出ると皆、無言になる。クロードは褐色の指で紫の葡萄を一房つまみあげた。皮ごと食べられる種類ではない。クロードは皮を剥いて食べねばならない果物が嫌いだ。皮ごと食べられる葡萄や皮が剥いてある茘枝は好きだ。食べずにおこうかとも思ったが、先に食べ始めている学友たちが口を揃えて今年の葡萄の出来映えを絶賛している。
手間暇と食欲を天秤にかけクロードが手を葡萄の汁でべたべたにしながら皮を剥いていると槍の鍛錬を終えたローレンツがクロードがいる卓へやってきた。紫色の艶々と輝く葡萄を手に取る。
「これは見事な葡萄だな……。そしてなんだその無様な皮の剥き方は」
「だから皮ごと食える奴の方が好きなんだよ」
「素手で剥こうとするからだ。フォークを使いたまえ」
ローレンツは葡萄を一粒手に取り茎側ではなく反対側にフォークを軽く刺し、実に沿ってぐるりと回した。これだけで皮が半分めくれている。茎側は房から外す際に緩んでいるので軽く押すだけで身が綺麗に皮から離れた。
「葡萄は指で摘んでも良いのだよ」
そういうと紫の皮に隠れていた瑞々しい緑の塊を白く長い指で口に運ぶと手巾を押し当てた。多分中に種を捨てている。ローレンツの所作を見ていると何故、彼が向日葵の種の食べ方について散々なことを言ったのか、なんとなく分かるような気がした。皿の片隅に種と剥いた皮をきっちり分けて置いている。クロードの故郷では男は誰もそんなことをしない。剥きにくいと文句を言いながら手を葡萄の汁でべたべたにして皮も種も一緒くたに置くだろう。
「ローレンツ先生はさすがだねえ」
「ふん、貴族なら当然のことだ」
儀式めいた礼儀作法にも意味がある。だからローレンツは礼儀正しさを尊重しているのかもしれない。
───五年後───
クロードは半分こな、と言うと上着の隠しから取り出した小さな袋を自分の前衛を勤めるローレンツに向かって放った。ローレンツはクロードの奇をてらった動きにもう慣れたのか、籠手をつけたままでも取り落とすこともなく袋を掴んだ。握って感触を確かめると袋の中には炒った向日葵の種が入っていた。
今は森の中にいて敵を待ち伏せしているため槍は手放せないしそもそも籠手を着けたままだ。槍を振るう者の中には革手袋だけしか着けない者もいる。しかし近接戦闘の際には素手で殴るより金属製の籠手を付けたまま殴った方が相手に深傷を負わせることが可能だ。故に万が一のことを考えてローレンツはいつも籠手を着けている。そのことは知っているはずのクロードに聞こえるようローレンツは大きなため息をついた。この茶番に付き合ってやらねばならない。
「食べさせてくれ」
褐色の指がローレンツの口の中に向日葵の種をそっと捩じ込む。クロードの指を齧らないように種を二回齧るのにも慣れてしまった。慣れていくうちにローレンツに向日葵の種を食べさせたがる時はクロードが酷く疲れている時だと言うことも分かってしまった。
褐色の指に息を吹きかけ唾液で彼の指にへばりついた種の殻を地面に落とす。ローレンツからすれば無作法の極みと言えるだろう。クロードが何が楽しくて森の中、静かに向かい合いながら自分の口に指を突っ込んでいるのかローレンツには全く分からない。
「慣れたもんだなあ」
だがローレンツは耳元で嬉しそうに囁かれるのが嫌いではなかった。
───?年後───
仕事を溜め込むとローレンツから雷を落とされてしまう、と分かっているが今日も暑くて書類の決裁が全く捗らない。クロード、いや、カリード王は少し気分を変えたくて部屋に用意されていた果物籠から紫の葡萄をつまみあげた。暑気払いとなるようブリザーで作った氷の上で冷やされている。
フォドラにいた頃、彼から教えてもらった通りフォークを葡萄の粒に軽く刺しぐるりと回した。細かい作業に夢中になっているうちに同じく用意されていた白い皿の上に紫の皮と小さな種が積み重なっていく。
扉を叩く音がしてナデルが書類の束を抱えて入ってきた。幼い頃から仕えていた王の机を一瞥し笑いを堪える。
「飼い慣らされたな……」
「うるさい。こうするとすぐに皮が剥けるんだよ」
ナデルがナルデールと名乗ってリーガン家の家宰をしていた頃、初めてローレンツを見た。青白く細長く口煩い、と言うのが第一印象でこれが覆ることはないだろうとも思っていた。ところが未来はどうなるか全く分からないもので、捻くれ者の王がとても素直に言うことを聞いて待っている。捻くれ者の王にとってこの王宮は嫌な思い出が溢れている場所だった。あの階段で突き飛ばされこの卓では毒を盛られ───今、彼が玉座に座っていることは奇跡と言えるだろう。
あの時、階段から突き落とされた小さな王子に欠けていたものが満ちていく様を見るのはナデルにとって結構愉快なことだった。畳む
基本、クロードはベレトに誘われない限り厨房に立たない。ところが珍しく麵麭焼き釜の前に陣取っていた。あたりには香ばしい匂いが漂っているが麺包の匂いではない。彼が将来の盟主として相応しい言動をとっているのか常に監視しているローレンツは当然、そのことに気がついた。
「一体、何をやっているのかね」
「試したいことがあって、な」
質問の答えになっているのかなっていないのか、微妙な言葉をよこしてきたクロードが分厚い手袋を嵌め、熱い熱いと言いながら中から鉄板を取り出した。鉄板の上には所狭しと種が並べられている。クロードが予め用意しておいた皿に向け、鉄板を傾けるとさらさらと何かの種が落ちていった。火を通したのであればこれらの種はもう芽吹かない。薬の素材にするのか食べ物なのかローレンツには使途が全く分からなかった。
クロードは種を一粒つまみ出すと口に含みカリカリと音を立て、あっという間に種の殻を口からつまみ出した。あまりに早かったので何が起きているのかローレンツにはよく分からなかった。そもそも殻とはいえ他人の前で一度口に含んだものを出すなどローレンツにはあり得ない。
「な、なんと不作法な!」
「向日葵の種はこうやって食うもんだろ、ローレンツは食ったことないのか?」
ない、と答えるとクロードから種を一粒差し出された。
「栄養があって戦場で携行食にすることもあるんだから食べ慣れておいた方がいいぜ」
言い返す言葉がなかったのでローレンツは不承不承クロードから向日葵の種を受け取り口に含んだ。せめてもの抵抗で口元に手巾をあてたが無意味な上に余計な手間が増えている。齧って殻を割り、口から種を出し指で殻を剥いて中身を食べてみると塩味が効いていて香ばしく癖になる味をしていた。
「見た目より遥かに美味だな」
「だろう?」
「殻をあらかじめ剥いてあるものが欲しいな」
「でも殻がついてるから長持ちするんだぜ?」
厨房で珍しい組み合わせの二人が変わったことをしていたせいか、他の者まで集まってきた。種を食べる者と食べない者の割合は半々で、食べる者の話を聞いてみるとそれでもクロードの食べ方は独特らしい。食べる、と言っていたレオニーやアッシュはローレンツと同じく種を齧って割った後、両手を使って殻を剥いてから食べていた。
「いや、そんな風に両手で剥く必要ないだろ」
クロードは種を指で持ったまま二回齧ると口の中に入れたままの指で殻を捻り、剥き出しにした中身を直接食べている。あまりに早く食べてしまうのでアッシュやレオニーが真似をしはじめた。コツを掴むのに暫くかかっていたが理屈が分かったらしく、あっという間に机の上が種の殻だらけになっていく。
「それにしてもクロードが厨房にいるなんて珍しいじゃないか」
「釜の余熱で火が通せる気がしてな」
節約好きな二人が薪を余計に使わずに済む、という理由でクロードを称えた。
───数節後───
修道院近郊にある葡萄園から葡萄が献上され、全ての食卓の上には葡萄が山のように積まれている。通常なら全て葡萄酒にするか干し葡萄にしてしまう。だが、今回は食欲旺盛な若者たちに新鮮な果物を食べさせようと大司教レアが取り計らってくれた。紫の葡萄は冷たい井戸水で冷やされているため訓練終了後の疲れた身体に染み入ることだろう。
学生たちは皆自分が頼んだ料理が出来上がるまでの間、葡萄を食べておとなしく待っていた。手先に集中せねばならない食べ物が出ると皆、無言になる。クロードは褐色の指で紫の葡萄を一房つまみあげた。皮ごと食べられる種類ではない。クロードは皮を剥いて食べねばならない果物が嫌いだ。皮ごと食べられる葡萄や皮が剥いてある茘枝は好きだ。食べずにおこうかとも思ったが、先に食べ始めている学友たちが口を揃えて今年の葡萄の出来映えを絶賛している。
手間暇と食欲を天秤にかけクロードが手を葡萄の汁でべたべたにしながら皮を剥いていると槍の鍛錬を終えたローレンツがクロードがいる卓へやってきた。紫色の艶々と輝く葡萄を手に取る。
「これは見事な葡萄だな……。そしてなんだその無様な皮の剥き方は」
「だから皮ごと食える奴の方が好きなんだよ」
「素手で剥こうとするからだ。フォークを使いたまえ」
ローレンツは葡萄を一粒手に取り茎側ではなく反対側にフォークを軽く刺し、実に沿ってぐるりと回した。これだけで皮が半分めくれている。茎側は房から外す際に緩んでいるので軽く押すだけで身が綺麗に皮から離れた。
「葡萄は指で摘んでも良いのだよ」
そういうと紫の皮に隠れていた瑞々しい緑の塊を白く長い指で口に運ぶと手巾を押し当てた。多分中に種を捨てている。ローレンツの所作を見ていると何故、彼が向日葵の種の食べ方について散々なことを言ったのか、なんとなく分かるような気がした。皿の片隅に種と剥いた皮をきっちり分けて置いている。クロードの故郷では男は誰もそんなことをしない。剥きにくいと文句を言いながら手を葡萄の汁でべたべたにして皮も種も一緒くたに置くだろう。
「ローレンツ先生はさすがだねえ」
「ふん、貴族なら当然のことだ」
儀式めいた礼儀作法にも意味がある。だからローレンツは礼儀正しさを尊重しているのかもしれない。
───五年後───
クロードは半分こな、と言うと上着の隠しから取り出した小さな袋を自分の前衛を勤めるローレンツに向かって放った。ローレンツはクロードの奇をてらった動きにもう慣れたのか、籠手をつけたままでも取り落とすこともなく袋を掴んだ。握って感触を確かめると袋の中には炒った向日葵の種が入っていた。
今は森の中にいて敵を待ち伏せしているため槍は手放せないしそもそも籠手を着けたままだ。槍を振るう者の中には革手袋だけしか着けない者もいる。しかし近接戦闘の際には素手で殴るより金属製の籠手を付けたまま殴った方が相手に深傷を負わせることが可能だ。故に万が一のことを考えてローレンツはいつも籠手を着けている。そのことは知っているはずのクロードに聞こえるようローレンツは大きなため息をついた。この茶番に付き合ってやらねばならない。
「食べさせてくれ」
褐色の指がローレンツの口の中に向日葵の種をそっと捩じ込む。クロードの指を齧らないように種を二回齧るのにも慣れてしまった。慣れていくうちにローレンツに向日葵の種を食べさせたがる時はクロードが酷く疲れている時だと言うことも分かってしまった。
褐色の指に息を吹きかけ唾液で彼の指にへばりついた種の殻を地面に落とす。ローレンツからすれば無作法の極みと言えるだろう。クロードが何が楽しくて森の中、静かに向かい合いながら自分の口に指を突っ込んでいるのかローレンツには全く分からない。
「慣れたもんだなあ」
だがローレンツは耳元で嬉しそうに囁かれるのが嫌いではなかった。
───?年後───
仕事を溜め込むとローレンツから雷を落とされてしまう、と分かっているが今日も暑くて書類の決裁が全く捗らない。クロード、いや、カリード王は少し気分を変えたくて部屋に用意されていた果物籠から紫の葡萄をつまみあげた。暑気払いとなるようブリザーで作った氷の上で冷やされている。
フォドラにいた頃、彼から教えてもらった通りフォークを葡萄の粒に軽く刺しぐるりと回した。細かい作業に夢中になっているうちに同じく用意されていた白い皿の上に紫の皮と小さな種が積み重なっていく。
扉を叩く音がしてナデルが書類の束を抱えて入ってきた。幼い頃から仕えていた王の机を一瞥し笑いを堪える。
「飼い慣らされたな……」
「うるさい。こうするとすぐに皮が剥けるんだよ」
ナデルがナルデールと名乗ってリーガン家の家宰をしていた頃、初めてローレンツを見た。青白く細長く口煩い、と言うのが第一印象でこれが覆ることはないだろうとも思っていた。ところが未来はどうなるか全く分からないもので、捻くれ者の王がとても素直に言うことを聞いて待っている。捻くれ者の王にとってこの王宮は嫌な思い出が溢れている場所だった。あの階段で突き飛ばされこの卓では毒を盛られ───今、彼が玉座に座っていることは奇跡と言えるだろう。
あの時、階段から突き落とされた小さな王子に欠けていたものが満ちていく様を見るのはナデルにとって結構愉快なことだった。畳む
「贈り物」 #クロロレ #クロロレワンドロワンライ参加作品
クロードは盤面遊戯が好きだ。しかしフォドラとパルミラでは微妙に遊び方が違う。駒自体の形も駒の進め方も奪った駒をどう扱うのかも異なる。だが彼はすぐに馴染み、ガルグ=マクにいた頃はかなり強い打ち手になっていた。
ローレンツは外交官としてパルミラにやってきて初めてパルミラ式の盤面遊戯に触ったが、やはり故郷での癖が出てしまい殆ど勝てたことがない。元からフォドラ式の盤面遊戯であってもあまり強くはなかった。だがパルミラで唯一勝てたのが盤面遊戯の遊び方を学んでいる最中の子供であった、というのはかなり情けない。
初めて勝ってしまった時は通詞や王宮の召使からも感慨深げに様々な祝いの言葉をもらってしまい、これなら負け続けの方が良かったような気すらしたものだ。
「ローレンツ先生は本当にめげないな」
「自分でも何をやっているのだろう、と思う時もある」
盤面遊戯の駒は通常であれば軽い木で作られ着色される。だが彼らの間に置いてある駒の素材は通常のものと全く異なる。ローレンツが面白いことをしていると通詞から聞いたので彼に頼んで王宮まで持参してもらったのだ。
「いやこれはすごい手間だ」
褐色の手がローレンツからの贈り物となる予定のもの、を摘んで目の前にかざした。ローレンツは体格に相応しく大きな手をしているので、持っているものが小さく見える時が多い。彼が作らせた駒は彼の体格に合わせてあるので大ぶりだ。そして翡翠を削り出して作られている。つまり大ぶりな翡翠を駒の数だけ用意して職人に削らせたのだ。贈り物からは贈り主の人格や感情が伝わる。
「全ての駒が完成したら君に贈ろうかと思っているのだが加工するにふさわしい翡翠を入手するのはなかなか難しくてね」
「良かったらもう半分は俺に用意させてもらえないか?」
パルミラを視察する際の楽しみとして素材を探そうと思っていたローレンツだがクロードの提案に乗ることにした。
ローレンツはおそらくパルミラ産の濃い緑が特徴である翡翠を買い求め、その濃淡をもって黒と白の代わりとして使う予定だったのだろう。だがクロードはもっと良い素材がパルミラにあることを知っていた。その石の産地の太守に献上しろ、と言えば首都まで届けられるだろう。
月明かりが眩いある夜のこと、ローレンツはクロードから呼び出されていた。何でも見せたいものがあるらしい。庭に敷いた絨毯で寛ぐクロードの背には大きな座布団、傍にはいつものように酒や肴を載せた大きな丸い銀色の盆がある。ただ今晩はそれだけでなく、こんな明るい晩であるというのに火のついていない蝋燭と預からせてほしいと言われた盤面遊戯の駒が一揃え置いてあった。ローレンツが用意した駒は翡翠で出来ているので影は黒いがクロードが用意した駒の影は緑色だ。
「硝子じゃないぜ。それなら普通すぎてつまらないだろ。まあ座ってよく見てくれよ」
ローレンツは靴を脱ぎ彼のために用意された大きな座布団の上に座り込むとクロードが用意したという駒を手に取った。
「緑色の水晶か?」
「いや、違うんだ。ちょっと蝋燭に火をつけてくれ」
こんな明るい晩に何故と思いつつクロードに言われるがままローレンツはファイアーの魔法で蝋燭に火を灯した。
「駒を蝋燭の炎に近づけてくれ」
再び言われるがままに駒を炎に近づけると駒の色が何と紫色に変化した。
「おお……すごいな!これは!何かの魔法なのか?」
確かにローレンツの言う通り、コンスタンツェが飲み物の色を変える魔法を開発している。
「魔法でも何でもないから不思議なんだ。当たる光の種類によって色が変わる」
「これは何と言う石なんだ?」
「そうだな、無理矢理フォドラ語に訳すなら飛散石かな。加熱すると砕けるんだ」
クロードの言葉を聞いたローレンツは慌てて紫色に輝く駒を盤の上に戻した。こんな珍しい宝石が発見された、という報告があったのも今年のことでこれから国外に向けて売り出していくのだと言う。透明な緑の影を作る不思議な石の群れを菫青石のような瞳でローレンツがじっと見つめている。久しぶりに純粋に彼を驚かすことに成功したクロードはその姿を眺めて手元の杯を空けた。
「完成した記念に一局打とうぜ。負けた方は勝った方のいうことを何でもきくっていうのはどうだ?」
「嫌だ、僕は君に勝てたことがないのだぞ!」
その後、何があったのかは彼らを照らしていた満月しか知らない。
パルミラの首都にある国立博物館にはカリード王が愛用していた、という盤面遊戯の盤面と駒が散逸することなく一揃え展示されている。細面だったが大柄であった、と伝えられるカリード王の夫ローレンツに合わせて作られた大ぶりな翡翠の駒に準じて飛散石の駒が作られた。これほど大きな飛散石の結晶は現在では採取することが出来ない。市場に出回る五カラット以上の飛散石は全て人造だ。贈り物には贈り主の感情や人格が伝わる。
現在でもパルミラの人々は人造飛散石を白熱灯の光にかざす時カリード王の内に秘められた感情に思いを馳せるのだという。生涯愛したと伝えられる夫の瞳の色を内に秘めた宝石で盤面遊戯の駒を作らせた王の思いは深く、一言では表しにくいせいか詩の題材として人気がある。
当時、鉱脈が発見されたばかりの飛散石を使用したこの盤面遊戯のセットはパルミラの栄華を象徴する国宝として国外にも広く知られている。畳む
クロードは盤面遊戯が好きだ。しかしフォドラとパルミラでは微妙に遊び方が違う。駒自体の形も駒の進め方も奪った駒をどう扱うのかも異なる。だが彼はすぐに馴染み、ガルグ=マクにいた頃はかなり強い打ち手になっていた。
ローレンツは外交官としてパルミラにやってきて初めてパルミラ式の盤面遊戯に触ったが、やはり故郷での癖が出てしまい殆ど勝てたことがない。元からフォドラ式の盤面遊戯であってもあまり強くはなかった。だがパルミラで唯一勝てたのが盤面遊戯の遊び方を学んでいる最中の子供であった、というのはかなり情けない。
初めて勝ってしまった時は通詞や王宮の召使からも感慨深げに様々な祝いの言葉をもらってしまい、これなら負け続けの方が良かったような気すらしたものだ。
「ローレンツ先生は本当にめげないな」
「自分でも何をやっているのだろう、と思う時もある」
盤面遊戯の駒は通常であれば軽い木で作られ着色される。だが彼らの間に置いてある駒の素材は通常のものと全く異なる。ローレンツが面白いことをしていると通詞から聞いたので彼に頼んで王宮まで持参してもらったのだ。
「いやこれはすごい手間だ」
褐色の手がローレンツからの贈り物となる予定のもの、を摘んで目の前にかざした。ローレンツは体格に相応しく大きな手をしているので、持っているものが小さく見える時が多い。彼が作らせた駒は彼の体格に合わせてあるので大ぶりだ。そして翡翠を削り出して作られている。つまり大ぶりな翡翠を駒の数だけ用意して職人に削らせたのだ。贈り物からは贈り主の人格や感情が伝わる。
「全ての駒が完成したら君に贈ろうかと思っているのだが加工するにふさわしい翡翠を入手するのはなかなか難しくてね」
「良かったらもう半分は俺に用意させてもらえないか?」
パルミラを視察する際の楽しみとして素材を探そうと思っていたローレンツだがクロードの提案に乗ることにした。
ローレンツはおそらくパルミラ産の濃い緑が特徴である翡翠を買い求め、その濃淡をもって黒と白の代わりとして使う予定だったのだろう。だがクロードはもっと良い素材がパルミラにあることを知っていた。その石の産地の太守に献上しろ、と言えば首都まで届けられるだろう。
月明かりが眩いある夜のこと、ローレンツはクロードから呼び出されていた。何でも見せたいものがあるらしい。庭に敷いた絨毯で寛ぐクロードの背には大きな座布団、傍にはいつものように酒や肴を載せた大きな丸い銀色の盆がある。ただ今晩はそれだけでなく、こんな明るい晩であるというのに火のついていない蝋燭と預からせてほしいと言われた盤面遊戯の駒が一揃え置いてあった。ローレンツが用意した駒は翡翠で出来ているので影は黒いがクロードが用意した駒の影は緑色だ。
「硝子じゃないぜ。それなら普通すぎてつまらないだろ。まあ座ってよく見てくれよ」
ローレンツは靴を脱ぎ彼のために用意された大きな座布団の上に座り込むとクロードが用意したという駒を手に取った。
「緑色の水晶か?」
「いや、違うんだ。ちょっと蝋燭に火をつけてくれ」
こんな明るい晩に何故と思いつつクロードに言われるがままローレンツはファイアーの魔法で蝋燭に火を灯した。
「駒を蝋燭の炎に近づけてくれ」
再び言われるがままに駒を炎に近づけると駒の色が何と紫色に変化した。
「おお……すごいな!これは!何かの魔法なのか?」
確かにローレンツの言う通り、コンスタンツェが飲み物の色を変える魔法を開発している。
「魔法でも何でもないから不思議なんだ。当たる光の種類によって色が変わる」
「これは何と言う石なんだ?」
「そうだな、無理矢理フォドラ語に訳すなら飛散石かな。加熱すると砕けるんだ」
クロードの言葉を聞いたローレンツは慌てて紫色に輝く駒を盤の上に戻した。こんな珍しい宝石が発見された、という報告があったのも今年のことでこれから国外に向けて売り出していくのだと言う。透明な緑の影を作る不思議な石の群れを菫青石のような瞳でローレンツがじっと見つめている。久しぶりに純粋に彼を驚かすことに成功したクロードはその姿を眺めて手元の杯を空けた。
「完成した記念に一局打とうぜ。負けた方は勝った方のいうことを何でもきくっていうのはどうだ?」
「嫌だ、僕は君に勝てたことがないのだぞ!」
その後、何があったのかは彼らを照らしていた満月しか知らない。
パルミラの首都にある国立博物館にはカリード王が愛用していた、という盤面遊戯の盤面と駒が散逸することなく一揃え展示されている。細面だったが大柄であった、と伝えられるカリード王の夫ローレンツに合わせて作られた大ぶりな翡翠の駒に準じて飛散石の駒が作られた。これほど大きな飛散石の結晶は現在では採取することが出来ない。市場に出回る五カラット以上の飛散石は全て人造だ。贈り物には贈り主の感情や人格が伝わる。
現在でもパルミラの人々は人造飛散石を白熱灯の光にかざす時カリード王の内に秘められた感情に思いを馳せるのだという。生涯愛したと伝えられる夫の瞳の色を内に秘めた宝石で盤面遊戯の駒を作らせた王の思いは深く、一言では表しにくいせいか詩の題材として人気がある。
当時、鉱脈が発見されたばかりの飛散石を使用したこの盤面遊戯のセットはパルミラの栄華を象徴する国宝として国外にも広く知られている。畳む
2025クロード誕生日
パルミラから祖父を頼ってデアドラにやってきたクロードはいまだに一人での外出を許可されていない。
「こっちにくればもうちょっと好きにやれると思ったのに」
クロードが頬を膨らませて苦情を言うと母方の祖父であるオズワルドは苦労が刻まれた手を伸ばし、髪がくしゃくしゃになるまで頭を撫でた。幼児のように扱われることで互いに何かを取り戻している。だから祖父と自分は共犯なのだ。
「もう少し上手く振る舞えるようになったら、な」
そう言って笑う祖父の顔が好きなのでクロードは未だにリーガン家の本宅から抜け出したことがない。限られた召使と教師に囲まれて静かに時を待っている。デアドラでは数年ぶりに安心して眠ることができた。安心して食事を摂ることができた。母はなぜここから逃げ出したかったのだろう。今はまだ把握したくない。
数日後、祖父から中庭に呼び出されたクロードは目を見開いて驚いた。目の前には立派な飛竜がいて、すぐに飛び立てるようきちんと装備が整えられている。
「えっ?!なんで?!」
人口が密集しているデアドラの市街地では糞害を出さないため市街地では消火隊と産婆以外は飛行が禁じられている、とクロードは習った。理屈としては完全に正しい。
「来なさい。物事には例外がある、と教えてやろう」
鞍が二人乗り用であることは少し気になったが、クロードは祖父に言われるがまま、飛行用の外套を着て鞍に腰を下ろした。手綱は後ろに座る祖父が握っている。装備にリーガンの紋章をあしらった飛竜は祖父の指示通り上昇しはじめた。波の煌めく青い海には船がたくさん浮かんでいて、煉瓦造りの街は水路と橋で出来た網に捕えられている。
「誕生日おめでとうクロード!これがリーガン家の特権だ!」
パルミラでは同じ月に生まれたものたちをまとめて祝う。そこで不愉快な何度も嫌な思いをさせられた。だがフォドラでは誕生日に対するこだわりが強く、個別に祝う。
「もっと早く教えてくれたらよかったのに!」
「飛べるのは十六才以上のものだけだからな!」
上空なので声を張り上げないと会話が成立しない。クロードを驚かせるため、今日まで皆わざと秘密にしていたのだろう。自力で特権に気が付けなかったのは少し悔しいが───気分は悪くなかった。畳む
パルミラから祖父を頼ってデアドラにやってきたクロードはいまだに一人での外出を許可されていない。
「こっちにくればもうちょっと好きにやれると思ったのに」
クロードが頬を膨らませて苦情を言うと母方の祖父であるオズワルドは苦労が刻まれた手を伸ばし、髪がくしゃくしゃになるまで頭を撫でた。幼児のように扱われることで互いに何かを取り戻している。だから祖父と自分は共犯なのだ。
「もう少し上手く振る舞えるようになったら、な」
そう言って笑う祖父の顔が好きなのでクロードは未だにリーガン家の本宅から抜け出したことがない。限られた召使と教師に囲まれて静かに時を待っている。デアドラでは数年ぶりに安心して眠ることができた。安心して食事を摂ることができた。母はなぜここから逃げ出したかったのだろう。今はまだ把握したくない。
数日後、祖父から中庭に呼び出されたクロードは目を見開いて驚いた。目の前には立派な飛竜がいて、すぐに飛び立てるようきちんと装備が整えられている。
「えっ?!なんで?!」
人口が密集しているデアドラの市街地では糞害を出さないため市街地では消火隊と産婆以外は飛行が禁じられている、とクロードは習った。理屈としては完全に正しい。
「来なさい。物事には例外がある、と教えてやろう」
鞍が二人乗り用であることは少し気になったが、クロードは祖父に言われるがまま、飛行用の外套を着て鞍に腰を下ろした。手綱は後ろに座る祖父が握っている。装備にリーガンの紋章をあしらった飛竜は祖父の指示通り上昇しはじめた。波の煌めく青い海には船がたくさん浮かんでいて、煉瓦造りの街は水路と橋で出来た網に捕えられている。
「誕生日おめでとうクロード!これがリーガン家の特権だ!」
パルミラでは同じ月に生まれたものたちをまとめて祝う。そこで不愉快な何度も嫌な思いをさせられた。だがフォドラでは誕生日に対するこだわりが強く、個別に祝う。
「もっと早く教えてくれたらよかったのに!」
「飛べるのは十六才以上のものだけだからな!」
上空なので声を張り上げないと会話が成立しない。クロードを驚かせるため、今日まで皆わざと秘密にしていたのだろう。自力で特権に気が付けなかったのは少し悔しいが───気分は悪くなかった。畳む


#クロロレ #アンソロ参加作品
1
クロードは祖父に言われるがまま士官学校に入ったが、これがなかなか面白い。立地条件も非常に良かった。ガルグ=マクは三国のちょうど中間地点にあるのでどの国の本も満遍なく書庫に入っている。それに何と言っても地下に謎の空間があるのが最高だ。
最初はそんな大きな謎にばかり目を奪われていたが身近なところにも謎は満ちている。ディミトリは夜な夜な何を調べているのか、ヒューベルトは修道院にいない時にどこで何をしているのか。マリアンヌは何を隠しているのか、リシテアの身に何が起きたのか。
一方で歴史の古い名家に名を連ねていても何の秘密も抱えていない者たちもいる。ヒルダとローレンツだ。ヒルダの兄ホルストはパルミラにもその名が知れ渡っているのでパルミラにいた頃から、クロードは彼のことを知っていた。当然そんなことを言えるはずもないが彼女とはとにかく気が合う。
問題はローレンツだ。彼もヒルダと同じく謎は一切ないのにクロードには彼が全く理解できない。よくいる親の写しのような子、と言う枠に彼は収まらなかった。
清廉そうな見た目をしている割に女学生の殆ど全てに声をかけている。それに加えてローレンツはガルグ=マクでクロードと和やかに挨拶を交わした次の瞬間、いきなり「盟主の座に相応しい人物かどうか見極めさせてもらう」と宣言したのだ。
「水面を観察する時にどうして石を放り込むんだ?」
「君は騙し討ちが好みか。だがな、グロスタール家の嫡子である僕とリーガン家の嫡子である君は死ぬまで縁が切れないのだぞ。それなら堂々としていた方がいいだろう」
何にしても入学したその日から紫色の瞳は共に自領を治めるに相応しいご令嬢、を探していない時に限ってクロードを見つめている。当初は聞き流していたが叱りつけられて助かった件もあった。個別に誕生日を祝う風習がないパルミラ出身のクロードは皆の誕生日を覚えていない。だがガルグ=マクに進学した平民の学生たちは王族や皇族、それに爵位を持つ貴族の級長から誕生祝いをもらったことを生涯誇るのだと言う。
ローレンツの叱言のおかげで春生まれの学生はクロードから誕生日を無事に祝ってもらえた。誠意を表すためクロードは蒸留酒の酒瓶を手に隣室を訪れている。
「助かったよ、今後は気をつける」
「リーガン家に入ってそんなに経っていないのだから仕方がない。今後は気をつけることだ」
二日前から当日にかけての罵声からは想像がつかないほどローレンツの反応はあっさりしていた。後は寝るばかりといった格好で酒を楽しむ彼を一言で表すなら〝柔らかい〟だろうか。クロードはローレンツの配偶者探しが難航している理由をいくらでも思いつく。だが、彼の美点もいくらでも思いつくようになった。
セイロス騎士団の者たちも教員たちも中央教会の者たちも皆、口を揃えて今年度はおかしい、と言う。魔道学院の時と同じく、帰国を促されるかもしれないと思いつつローレンツは父に宛てて毎節手紙を書いていた。クロードの為人について報告する時は筆が滑りがちになる。
春頃は名家の者として危ういことが多かった。ローレンツのように物心がついた時から嫡子として育てられた者とほんの数年前にリーガン家に引き取られ、付け焼き刃で嫡子としての教育を施された者は違う。だが奉仕活動、の名目で毎節必ず戦場へ赴くようになってからは見違えるほど頼もしくなった。
それにクロードの言を借りるなら、彼が〝異物〟であることはそんなに悪いことではない。感性が違ったおかげで二人揃って恐怖に潰れるようなことがなかったのだ、とローレンツは痛感している。
クロードは英雄の遺産がシルヴァンの兄マイクランをおぞましい魔獣に変えた晩、動揺したローレンツを優しく受け入れてくれた。今晩のローレンツは嵐の海に浮かぶ板切れに過ぎない。
毎日しつこく注意しているのに寝台に本が積み上げられていたが、クロードは気にせず寝台に座るローレンツに縋りついている。貴重な本が崩れ落ちて傷んだら、と思うが最終的に仰向けになってしまったため今は片付けられない。クロードをきつく抱きしめて頭や肩が本にぶつからないようにしてやるしかなかった。
「俺もあいつらと同じなんだ。俺も知りたいと思ったら止まれない」
「確かに君は何でもかんでも暴きたがる」
先ほどから会話は成立しないしローレンツの寝巻きは涙で温かく濡れている。だが、偉そうなことは絶対に言えない。ルミール村で目撃したものの詳細を言葉にしてしまったらきっとローレンツも今のクロードと同じような状態になるだろう。
「あいつら、出来るからやってみただけ、って……」
「だが君は相手の意思を尊重するだろう?」
だからローレンツたちは真夏のあの晩に最後の一線を越えていない。引き返そうと思えば奇妙な友情ということにしてまだ引き返せるだろう。己の冷徹さに怯えて自問自答を繰り返すクロードは混乱し、彼が持つ美徳について忘れている。
それを思い出させてやりたくてローレンツはクロードの耳飾りに舌を這わせた。言葉をかけても耳に届かないなら行為で伝えてやるしかない。
「えっ、あっ……今のって……」
「クロード、君がおかしなことを始めたら絶対にどんなことをしてでも僕が止めてやる。秘密にしても無駄だぞ。僕が気づかない筈がないだろう?」
ローレンツはそう言ってあの晩の続きをするか否かをクロードに委ねた。
2
季節は巡り、一年制の士官学校での暮らしが終わりつつあった。つまりクロードの子供時代はこれで終わってしまう。学生たちは波乱含みの時を過ごしたせいか皆、入学前と今とでは大違いだ。そうでなければ士官学校にいた意味がないと言うのは大前提として───クロードはローレンツに関して実に身勝手で理不尽な思いを抱いている。
入学当初、女子学生たちは皆、ローレンツを嫌がっていた。だがベレトの助言を受け入れた今は評価が真逆になりつつある。クロードは彼を身勝手な視線から守りたいと思っているが、皮肉なことに彼を最も邪な目で見ているのは自分だった。己の欲望を理解すればするほどおかしなことになっていく。
自己の矛盾に疲れていたクロードは懐かしい故郷の品を扱う東の商人が、荷車に小さな邪視よけのお守りをくくりつけていることに気づいた。人間は己の無力さを直視したくない時、信心に走ってしまうらしい。
気がつけばクロードは邪視よけのお守りを入手していた。フォドラのお守りとは設計思想が異なり、そっと揺らすと鈴の音がする。実に効き目がありそうな見た目をしていた。
気を使った商人が小さな布の袋に入れてくれたので、クロードもなんとなくお守りを袋に戻す。実はローレンツもクロードと同じくこの手のものを信じない。だが、クロードは夜の寒さを言い訳にして毎晩のようにローレンツを呼んだり、彼の部屋に入ったり、を繰り返しているからそっと置いてくればいい。児戯にも等しい行為だった。
昼に買った邪視よけのお守りと人には言えない行為に必要な軟膏を懐中に忍ばせてクロードは隣室の扉を叩いた。今日、黒鷲の者たちは泊まりがけで演習に出ている。
ローレンツもクロードと過ごす機会を逃したくない、と思っていたようで有意義な時を共に過ごした。手持ちの軟膏は使い切ってしまったので速やかに調合せねばならない。
今はローレンツが淹れてくれたお茶で乾いた喉を潤している。少し前の彼は万が一に備え、事後にはすぐに服装を整えていたが今は雑に寝巻きを羽織っているだけだ。軽くて触り心地の良い絹で出来ているせいか引き締まった身体の線がむき出しになっている。下履きすら身につけていないことが丸わかりだった。
「これからもこんな感じに穏やかに過ごしたいよな」
「それは僕たちの手腕次第だろう」
口には出さないがローレンツはファーガスのことを念頭に置いている。ダスカーの悲劇以来ファーガス神聖王国は統治機能を失いつつあり、その歪みはクロードたちの学生生活にも影響を及ぼしていた。
「そうだな。俺たちは良き領主として民の暮らしを守ってやらないと」
「それが選良の義務というものだ」
きっとその営為が糸をたぐるようにクロードの野望実現にも繋がっていくのだろう。
クロードが去った後、部屋を片付けていたローレンツは小さな白い袋を見つけた。ちょうどクロードが座っていたあたりなのでおそらく彼の忘れ物だろう。
手にとった際、微かに鈴のような音がした。鈴なら音がわかりやすいように袋から出して使う。不思議に思って袋の紐を解いたことをローレンツは後悔した。生まれてこの方こんな酷い造形物は見たことがない。一点物なのか、それとも金型があるのか。
これ、が大量に並べられている光景を想像したローレンツは自分が本当に、微かに震えていることに気がついた。仮にこれがクロードの所有物だとして、何に使うのかローレンツには全く分からない。とりあえず、落ち着きを取り戻すため再び小さな白い袋の中に戻した。
中身を見なかったことにできるか、はローレンツの精神力にかかっている。単純に忘れ物を届ける体でクロードに返そう、そんな風に無理やり自分を説得しローレンツは無理やり目を閉じた。目を閉じても先ほど目にしてしまった造形物の形が脳裏に浮かぶ。
先ほどローレンツの身体を暴いたもの、を参考に作られたのだろう。まるで腰を下ろして座っている犬のようだが、本来なら愛らしい顔のある筈の部分に信じられない部位がある。そして、その脚の間にも同じ形のものがついている。職人が本体と見做したものと同じく興奮しきっていた。
一体、どんな暮らしをしていればあんな形のものを思いつくのか。なんとか考えを逸らすため仕方なく、ローレンツは眠りにつくまで延々とセイロス教の聖句を繰り返し呟いた。後日、改めて女神に懺悔の祈りを捧げねばならない。
翌朝、あまり良く眠れなかったローレンツは急いで身仕度を整えると隣室の扉を強めに叩いた。
「起きろ、クロード!用事がある」
迫力に恐れをなしたのか内側から扉が開いたので無理やり室内に一歩踏み込む。クロードはまだ寝巻き姿のまま眠そうにしていた。ローレンツは後ろ手で扉を閉めるとクロードの手に小さな袋を押し付けた。褐色の手が袋を握って昨晩のローレンツと同じく、中身の形状を確かめている。
「忘れ物だ。その品のことは秘密にしてやるから」
「お前にあげようと思って市場で買ったんだよ。これ、俺の故郷の邪視よけなんだ」
嫉妬は古来数多くの人々を破滅に導いた。そして確かにローレンツは才気煥発かつ眉目秀麗なので嫉妬の対象になってもおかしくない。だが、こんな代物を持っていると知れたら嫉妬もされなくなるだろう。
「厚意だけもらっておこう。品は君が持っているといい」
「効き目があるはずなんだがなあ……」
誕生日祝いの品はまともだったのに何故、邪視よけのお守りに関しては美的感覚が壊れているのか。
「それなら将来の盟主たる君の手元にあった方が良い。僕はこれで失礼する」
勢いで返却に成功したローレンツは急いでクロードの部屋を後にした。
3
良き領主として民の暮らしを守らねば、と語り合っていたローレンツとの別れは唐突に訪れた。彼との生涯にわたる付き合い、が途切れたわけではない。帝国軍のガルグ=マク大修道院侵攻により当時の学生たちは皆、散り散りになっている。平民の学生たちとクロードはあれっきり会えていない。定期的に会えるのは嫡子にするためにエドマンド家に引き取られたマリアンヌ、爵位返上がらみで事務処理をせねばならないリシテア、そしてグロスタール家の嫡子であるローレンツくらいだろうか。
あの邪視よけはガルグ=マクにいた頃、ローレンツと離れ離れになる寸前までお互いに押し付けあった。彼がクロードの祖父オズワルドの葬儀に出席してくれた際に返してきたので今はクロードの懐にしまわれ、出番を待っている。
今やレスター諸侯同盟の盟主は羨望の対象ではない。円卓会議は今まで以上に紛糾し国の舵取りを担うクロードの負担は日々増していくばかりだ。楽しいことといえば春先の謝肉祭で開催宣言をするくらいだろうか。
オズワルドが亡くなって一年経っていないので喪に服すべきという意見もあった。だがクロードと気が合った祖父は賑やかな行事が好きだったし、謝肉祭を中止にしていたらクロードは喧しい劇伴を背に桟敷席でローレンツと口付けしていないだろう。一度演奏が始まると小休止を迎えるまで会話ができないから仕方がない。
それに目に映るものの中で嘘をついていないのは太陽の光だけ、というこの時期のデアドラでは正体を探らないのが嗜みだ。貴婦人でも道化師でもないどこかの何者かが睦み合っているに過ぎない。
クロードはそっとローレンツの背中に手を回しドレスの紐を引っ張った。金糸で見事な薔薇の刺繍が施してあるドレスは他人に身体を触らせなければ着ることも脱ぐことも出来ない。クロードはグロスタール家の上屋敷にいる召使たちがほんの少しだけ妬ましかった。やはり邪視よけは彼の近くにあることが望ましい。きっと彼の周囲にいる者たちのことも守ってくれるだろう。
ローレンツが仕返しのようにクロードの耳飾りを引っ張るのでクロードは背中で悪さをするのを中断し、唇を離さざるを得なかった。何のつもりか問いたかったが、まだ会話は出来ない。そっと顔に手巾を押し当てられた。そのまま、子供のように顔を拭かれているとようやく劇伴が止まり、舞台上にいる役者の声がクロードたちの座る桟敷席にも聞こえてきた。これでようやく会話が出来る。
「すまない、顔に紅がついてしまった」
「そのままでよかったのに」
そう言ってクロードはローレンツに笑いかけた。顔に紅が残っていても街中の人々からはそれもまた仮装の一環、と思われただろう。本当に恋人と熱烈な口付けをしたかどうかなど分かりはしない。
きっと桟敷席で互いに服を緩めた時に仕込まれたのだ。きっとあのおぞましい邪視避けがドレスの隠しに入っている。ドレスは裾を膨らませるため何枚も下着を身につけるし、骨組みも入っている。その上で護身用の短剣を仕込むため隠しを大きくしておいたから分からなかったのだろう。ローレンツは上屋敷で召使に仮装をまさに解いてもらっている時にようやく、クロードに仕返しされたことに気づいた。
「ああ、ちょっと待ちたまえ。短剣が入っているのでね」
隠しに手を突っ込むと、やはりあの布に包まれたおぞましい邪視よけの感触がする。短剣と一緒にそっと卓の上に置いた。来年はこの仮装に相応しい瀟洒な飾りがついた剣帯をつけ、隠しは縫い付けてしまおう。買い食い用の銅貨や銀貨は腕輪にして持ち歩けばいい。
「若様、こちらの袋は……?」
「いや、それも短剣も僕が片付けておくので先にこちらを緩めてくれたまえ」
今年もお美しかったですよ、と言って紐を解いてくれる古株の召使はまだ肌寒いというのにグラップラーの格好をしている。彼も謝肉祭の時期だけ日頃は仕事にふさわしい格好の内に秘めている真実を晒す。
召使が部屋から去ってすぐ、ローレンツはクロードに押し付けられた邪視よけを人目につかないところに隠した。次に円卓会議に随行できる日まで何とかして隠し通さねばならない。
そろそろ夏が近づこうという頃、帝国への対応を決定するためデアドラで円卓会議が開かれることとなった。近頃のエルヴィンはローレンツに留守を任せることが多い。あのおぞましい邪視避けがクロードの元にあるなら、父の留守を預かることは名誉なことだ。だが今は一刻も早く彼にあの邪視避けを押し付けにいきたい。まったく、名誉あるグロスタール家の嫡子に何ということをさせるのだろう。
父に随行出来たローレンツは議場に隣接する待合室で、他の家臣と共に円卓会議の終わりを待っていた。懐にはあの邪視避けを忍ばせている。会議はいつも通り紛糾しているらしい。議場に通じる扉が内側から勢いよく開き、中からクロードや諸侯たちが現れた。
「一旦休憩だ!二時間後に再開する。お、ローレンツも来てたのか。ちょっと顔貸せよ」
視線だけで父に行ってくる、と伝えるとローレンツはクロードと共に待合室から退室した。どこに通されたとしても二人きりになれた部屋に邪視避けをこっそり置いていけばよい。
通されたのはおそらくクロードの私室で、大袈裟な身振り手振りで何があるのか説明している。
「君の部屋とは思えないほど片付いているな」
「雇うなら勤勉な召使に限る」
ローレンツは勧められるままに長椅子に座り、後ろ手で背もたれと座面の隙間にこっそり邪視よけのお守りを押し込めた。
4
星辰の節の約束を守るためクロードが今からガルグ=マクに行くことを知る者は少ない。竜舎で飛竜の装備を確認していると少数派であるナデルがやってきた。
「坊主、どうしたんだ?珍しいな、邪視よけのお守りなんか首にかけて」
わざわざクロードを見送りに来てくれた彼はこのお守りを見てもローレンツのように苛烈な反応を示さない。何となくだよ、と言って服の中にお守りをしまい込むとクロードは飛竜に飛び乗った。
五年ぶりに訪れたガルグ=マクは密偵の報告と同じく荒れ果てている。クロードはフォドラの中央でどこへ行くにも便利な場所をエーデルガルトが放置していたことが信じられなかった。ベレトも含め、盗賊たちの巣窟と化したかつての母校に駆けつけてくれた皆の姿が頼もしい。ベレトの周りに人の輪が出来ている。彼はいつも質問攻めにされていて、それは学生時代と変わらない。懐かしい光景を目にしたクロードが少し離れた場所で微笑んでいるとローレンツに肩を叩かれた。彼もクロードと同じく平民の学生にベレトと話す機会を譲ってやっていた。
「クロード、君この先どうするつもりなのだ?」
いつも大きな声で朗々と語る彼に耳打ちされる。顔と顔が近づいたので彼が嗜みでつけている薔薇の香りが漂ってくる。
「ローレンツならどうする?」
クロードは大きく鼻で息を吸ってから質問に質問で返した。ローレンツは口を曲げ、眉間に皺を寄せている。笑顔のクロードが敢えて言わなかったこと、を口にさせられるからだ。
「僕たちは可能な限り長く、先生と共にあるべきだ」
彼の答えには迷いがない。ここ五年、彼なりにずっと考えていたのだろう。そして下品なものが嫌い、と公言するだけあってローレンツの物言いは実に上品だった。
大司教レアは帝国軍を迎撃する前、自分に何かあればベレトに後事を全て委ねると明言していた。セテスですら戸惑っていたのでクロードたちは今もその理由を知らない。とにかくどこへ行くのも便利なガルグ=マクを占有する根拠となる彼を王国に奪われるわけにはいかない。成り行き次第ではベレトという餌でセイロス騎士団を釣り上げられる。
「流石はローレンツ先生だな」
クロードが軽く揶揄うとローレンツは露骨に嫌な顔をした。くるくると表情が変わる様を見ると再会できたのだと言う実感が湧く。ローレンツはデアドラに来る機会を逃さなかった。だから謝肉祭の度に、円卓会議の度にクロードは彼とこんな軽口を叩いている。しかし肌を重ねられたとしてもその翌週には離れ離れになっていた。
だが今やガルグ=マク大修道院はクロードの掌中にある。勝ち続ける限りはローレンツと共にいられるだろう。
ガルグ=マク大修道院には貴賓室もあるのにローレンツも含めて皆、そちらを使おうとしなかった。中断してしまった学生生活のやり直しという気持ちがあるのだろう。皆、私物をかつて自分が使っていた学生寮の部屋に運び込んでいた。毎朝、空気を入れ替えるため窓や扉を開けていると懐かしい声がローレンツの耳に届く。隣室にはクロードがいて、何の理由もなく夕食も朝食も共にしている。
それでも今は戦時下で、現在は王国の攻略にかかりきりな帝国も、いつ同盟へ牙を剥くか分からない。だから先んじてミルディン大橋に蓋を、と言う状況だ。だからこんなことをしている場合ではないのだが───埃が入らないように伏せておいた白磁の茶器を手に取るとそこに小さな白い袋があったので再会し、共にあることを強く実感する
昨晩クロードがローレンツの部屋で過ごしたついでに置いていったのだ。きっと先日、ローレンツがクロードが薬を作るのに使う摺鉢の中に邪視よけを置いていった仕返しに違いない。離れ離れだった頃は隠し方が慎重だったが、近頃は押し付け方が二人とも雑になっていた。
この信じられない形をした邪視よけのお守りは今や数日ごとに持ち主を変えている。ローレンツはベレトや仲間たちと手合わせをすると槍の振るい方に凄みが出てきた、と褒められるようになった。きっと、こんな物を遺品にするわけにいかないという思いが気迫となって表れているのだろう。
ローレンツは小さな袋を取り出し、白磁の茶器を再び伏せると書庫から借りた本を手に隣室の扉を叩いた。いてもいなくてもどちらでも構わない。彼と共に過ごしていると細かい用事なら毎日いくらでも湧いてでてくる。
「クロード、いるのか?」
「ちょっと今は手が離せないから勝手に入ってくれ」
言われた通り勝手に扉を開けるとクロードが硝子の棒で液体をかき混ぜていた。机上に砂時計があるので砂が落ち切るまで他のことができないのだろう。
「書庫に行くついでに君が勝手に持ち出した禁帯出の本を戻してくる」
禁帯出の本は背表紙に印がつけてあるのですぐにわかる。ローレンツは手も目も離せないクロードに聞こえるように、本を一冊ずつ書名を読み上げてやることにした。甘やかしすぎかもしれない。
「上巻は読み終わったけどまだ下巻は読み終わってない」
「借りたがっている者がいるのだから、どちらも一度返せ。次は一冊ずつ借りるのだ」
クロードの目は砂時計と手元に、耳は話しかける声に集中している。ローレンツはその隙に本棚の整理をしてやりながら、クロードが本立てにしている小物入れの中に小さな袋を押し込んだ。
5
神話のような出来事を経て、ついに大乱は終結したが、これでもクロードの野望にはまだ足りない。道半ばといった所だ。
これから皆、故郷がまだ健在であることに感謝してそれぞれの暮らしに戻る。五年前のような慌ただしい別れではないことが救いといえば救いだろうか。近々、ベレトを王とした統一王国が発足する。首都がデアドラになる理由を皆、誤解していた。クロードがいるからデアドラになるわけではない。クロードがいなくなるからデアドラになるのだ。
その誤解を悪用して姿を消すクロードに言えたことではないのだが、とにかく名残惜しい。今はこの身体に流れるパルミラの血に従うが東に戻ればきっとフォドラを懐かしむ。特に隣で眠るローレンツの滑らかで温かな肌を恋しく思うだろう。
喉の渇きで目を覚ましたクロードは油が切れ、消えかけている明かりを頼りに水差しに汲んでおいた水を飲んだ。静かに寝息を立てているローレンツはまだ起きる気配がない。汗で額に張り付いている真っ直ぐな紫の髪をそっと耳にかけてやった。人間の贅沢は際限がない。毎日共に過ごせるだけで満足していたのに、数節後には同じ部屋で朝を迎えられないことを残念に思うようになった。
ローレンツは今日、グロスタール領に戻る。真面目な彼はそのための荷造りをほぼ終えていて、その前に隠し持っていた帳面の中身を全て写し終えられたのは僥倖と言えるだろう。彼の書いた詩は会えない間の慰めになる。鍵付きの箱の中に帳面をそっと戻す際、クロードは邪気よけのお守りも一緒に入れておいた。ネメシスの軍勢と戦って負傷した父エルヴィンの傷が癒えるまで、彼は自領で政務に邁進することになる。当分、詩を書く時間は取れないだろう。
寝台の脇に用意しておいた水差しがほぼ空になっていたことに気づいたクロードはそっとローレンツに口付けをした。きっと自分たちはお互いに相手のことを夢に見るだろう。夢で会えたとしてもこの先、何日も何日も瞼が上がった瞬間には一人にしてしまうのだから今日くらいは一緒にいてやりたい。
「ごめんな、まだ眠いよな。ちょっと水を汲んでくる。雨戸開けていいか?」
再会した頃より随分と日の出が早くなっている。空はもう白み始めていた。瞼が上がり美しい紫の瞳が現れたが、明け方の光が眩しいのかすぐにまた下りてしまう。
「ん……分かった……」
窓を開ける音、寝巻きを羽織る音、足音、甕から水差しに柄杓で水を汲む音。微睡んでいるローレンツはクロードの立てる物音を楽しんでいた。
彼をパルミラの王宮に呼び寄せることに成功したら、微睡みながら庭で放し飼いにしている孔雀が嘴を研ぐ音を楽しんでくれるだろうか。その前に何時間も謝る羽目になるだろうがクロードはその日が楽しみだった。
重傷を負って治療に専念する父エルヴィンに代わって必死で領内の被害回復に努めているローレンツの下に、デアドラからの使いとしてツィリルがやって来た。デアドラで何かあったとして───何故クロードからの使い、ではないのだろう。ベレトはガルグ=マクでの戦後処理を終え、デアドラに移ったばかりだ。何故、ナルデールではないのだろう。
「ツィリルくん、何があったのだろうか?」
「ねぇ、ローレンツ。クロードがどこにいるか知らない?あの人、居なくなっちゃったんだよ」
ローレンツはエドギア中に聞こえるような大声で、ただひたすら叫びたかった。しかしそう言うわけにはいかない。手にした茶器の持ち手をきつく持ち、何とか受け皿に戻すことに成功した。
「何故、僕に聞くのだろうか?」
「ボクたち、誘拐なのかどうかも分かんないんだよね。ローレンツは心当たりとか……ないの?仲良かったでしょ」
「仲が良かったと言うならツィリルくんこそ……」
クロードと違い、ツィリルは最初からパルミラ出身であることを皆に明かしている。彼は当てが外れて失望していることを隠しもしない。
「心当たりがないならいいや。ボクはヒルダのところに行くから何か思いついたら急いで先生に教えてあげてよ」
「待ちたまえ。ナルデールはデアドラにいるのだろうか?」
ツィリルは首を横に振った。
「ゴネリルでホルスト卿にナルデールの行方を知らないか、併せて聞いてみるといい。そこからたぐれるかもしれない」
「ありがと、さすがローレンツだ。じゃ、ボクは行くね」
ローレンツは何とか一日を終わらせ、軽い夕食を取ると自室に戻った。もし、誘拐や暗殺だったら───明日以降の政務に差し障りを出すわけにはいかない。久しぶりにローレンツは詩を書き連ねていたあの帳面を必要としていた。クロードは無事なのだろうか。
洋灯の油とインク壺の残量を確かめたローレンツは念のため、内鍵をしめてから箱を隠し場所から取り出した。腰につけていた鍵束から鍵を選び、箱を開けた瞬間の感情をどう表現すべきか。怒り、喜び、屈辱、懐かしさ、困惑、安堵───箱の中には詩を書き連ねていた帳面とあのおぞましい造形をした邪視よけのお守りが入っていた。
クロードは最初から、終戦後には姿を消すつもりだったらしい。絶対にこの邪視よけをローレンツの手元に、という強い意志を感じる。
「クロードめ……地の果てにいようとこの僕が必ず探し出してみせるからな……」
ローレンツは自らを奮い立たせるため帳面を開き、インク壺に硬筆の先を浸した。
6
クロードの予想はあたった。やはりローレンツはクロードの置き土産にしばらくの間、気が付かなかったらしい。そんな彼の生き様を見ているとクロードは善因善果、という言葉を思い出す。エルヴィンが治療に専念できるよう全力で政務に取り組んだから最速で領地を父に預けられるようになった。
エドマンド辺境伯に出し抜かれるわけにいかない、と言う思惑も確実にあっただろう。だが父の望み通りベレトの政務を助け、首飾りで二度目の再会を果たしている。
国交樹立と通商および和平条約の締結に向け、デアドラとパルミラの王都にひとまずフォドラ-パルミラ交流協会が設置されることとなった。ベレトの〝クロードといえばローレンツだから〟という言葉により、引き続き彼は両国を忙しく行き来している。まずはパルミラのことを知りたい、という彼をクロードは快く案内していた。
その一環で遊牧民たちが羊や馬、それに飛竜や天馬を放牧する草原に来ている。今でこそクロードの一族、つまり王族は定住しているが遠い祖先はこんな風に草原を移動しながら暮らしていた。クロードにとっても原風景にあたる草原を見たローレンツはその広大さに感心している。
「あぁ、皆なんて愛らしいのだろう」
春なので仔羊や仔馬の時期でもあった。彼らの価値は愛らしさだけではない。牧畜が盛んなグロスタール領出身のローレンツはそれも分かっているだろう。
「仔羊に触っても構わない、とさ」
逃げ出さないように囲った柵の中には愛らしい仔羊たちが沢山いる。これだけ羊がいれば食べさせるためにかなり移動するはずだ。広大な土地がなければ遊牧民である彼らは生きていけない。そしてクロード、いや、カリード王の祖先もかつてはこんな風に暮らしていたらしい。文化の違いはそう言った地理的なところから生まれるのだろう。だがこればかりは実際にどこまでも煌めく緑が続くこの地を見なければ理解できないかもしれない。
王の言葉に甘えたローレンツは遠慮なく、柵に入った。仔羊を撫でると温かくて柔らかな命そのものに触れたような気分になる。あまりの可愛らしさに中でも小柄な仔羊を抱き上げた時、ローレンツはあることに気付いた。首輪に見覚えのあるものが付けてある。よく見ると全ての仔羊にあの信じられない形をした、正視に耐えない邪視よけが着けてあった。
ローレンツが悲鳴を堪えてカリード王、いや、クロードを横目で見ると彼は必死に笑いを堪えている。
「大事な大事な宝物だぞ。取って食おうとする奴の視線から守りたいと思うのは当たり前だろ?」
そう言ってローレンツを見つめる緑の瞳は煌めく草原のように美しかった。畳む