「flow」番外編"Bargain.2"
#完売本 #クロロレ #年齢操作 #flow #イグナーツ #リシテア
※イグナーツとリシテアが結婚しています
リシテアとイグナーツがデアドラからコーデリア領に戻る途中、グロスタールの屋敷で一泊するのは留守居をしているストームに会うためだった。だが傷心旅行を早めに切り上げたのか父親であるローレンツも戻っているという。ストームは嵐の日に生まれたローレンツの一人息子のあだ名で、彼の本名はエドガー=ローレンツ=グロスタールだ。
ストームの母は家同士の付き合いでグロスタール家に嫁いでいる。だがリシテアの婿としてコーデリア家に入った騎士上がりのイグナーツにも丁寧に接してくれる人だった。五歳年下のローレンツとはどこへ行くのも一緒な仲睦まじい夫婦でその頃の思い出話はたえることがない。彼女の死は皆に衝撃を与え、ローレンツは一年間祝事には一切参加しなかったし、その後もどこへ行くにも喪服しか着なかった。
それまでは伊達男と名高く、しょっちゅう服を仕立てていたというのに。長い間本当に酷い有りさまだったので気分を変えさせるため、彼の両親はローレンツに無理やり平服を着せた。
これまで縁のなかったパルミラへ一人で旅行へ行かせた、とローレンツの父エルヴィンから聞いた時にリシテアもイグナーツも良い機会だと思った。それなのに三ヶ月の予定を一ヶ月で切り上げて帰ってきている。執事からそう告げられたリシテアもイグナーツも不安しか感じなかった。旅行も続けられなかったのだろうか。
不安は募ったが、再会したローレンツは喪服ではなく旅先で気に入って買い求めた青い光沢のある生地で仕立てさせた上着を着ていた。しかも家中の人々を心配させた、本人に全く自覚がないのに涙を流す現象もどうやら治ったらしい。
見事な腕前で淹れてくれた紅茶はパルミラ風でいつもより少し味が濃かったが、向こうで買ってきたと言う変わった食感の茶菓子によく合っている。
「二人にも随分と心配をかけたね」
「いえ、気にしないでください。少なくとも私はこの珍しいお菓子で許してさしあげます」
「気に入ったので現物も料理本もたくさん買い込んでしまってね」
リシテアとの会話から察するにローレンツは物欲が戻ったらしい。日々の暮らしを楽しんでいた彼が生きている己を罰するかのように、内側にに篭る姿は見る者全ての涙を誘ったし、イグナーツも胸が締め付けられるように辛かった。人生は本当にままならない。
だが、もうすぐ一歳半になるよちよち歩きのストームを連れて、薔薇園を散歩する彼の姿は隣に亡くなった奥方がいないのが不思議なくらい元のローレンツそのものだった。
皆、ひとまずは安心した。そうなると次は詮索が身をもたげてくる。一体旅先のパルミラで何があったのか。久しぶりになんの憂いもなく、グロスタールの屋敷で過ごしたリシテアは幼い頃から何度も泊まっている馴染みの客室で夫のイグナーツに推理を披露していた。
「イグナーツ。私が思うにローレンツ兄様には新しく好い人が出来たのかもしれません」
「朗らかになってましたよね、確かに。ストームのためにも本当に良かった」
豊かな黒髪をブラシで梳かしていたリシテアが目元を押さえた。
「あら……いやだ、今度は私が泣いてしまうなんて。でも胸元に薔薇も付けていたし元のローレンツ兄様に戻ってくれたみたいで嬉しくて」
「紹介してもらえたら、僕たちからもその方にお礼を言いましょう」
イグナーツから濡れた手巾を渡されたリシテアは、それが絞って冷やしたものであることに気付いた。気を利かせてブリザーで冷やしてくれたのだろう。目が腫れないよう、目元にあててしまったのでイグナーツの顔は見えない。寝室で夜眠る前に話を聞いてくれる相手が失われてしまったら、と考えるだけで恐ろしい。楽しそうに相槌を打ってくれるイグナーツを失ってしまったら、リシテアだってどうなってしまうのかわからないのだ。
一方でカリードはフォドラに関する本を読み漁るため、図書館へ通い詰める日々を送っていた。カリードの住む港町はフォドラと近いこともあり、パルミラ語で書かれた本だけでなくフォドラ語の本もおいてある。どちらも読んだ。
カリードはフォドラの言葉は話せるが読み書きは得意ではない。口に出して音を聞かねば上手く意味が理解出来ず、フォドラ語の本を読むのにはかなり手間取った。その上、手当たり次第に読んだせいで調べ物としての効率も悪かった。しかしそのおかげでカリードのフォドラの文化への理解は深まっている。
彼は数週間かけついに知るべきだったこと、に自力で辿り着いた。カリードは彼をグロスタールのローレンツ=ヘルマンだと思っていたが違うらしい。ようやく何が書いてあるのか理解できるようになった貴族名鑑によると、彼はグロスタール伯爵家の一員だった。グロスタール家は十傑の遺産テュルソスの杖を受け継ぐ名門で、グロスタール領という土地の名前が彼の家名に因んで付けられている。彼は貴族の中の貴族だった。
カリードはフォドラの貴族というのはもっと冷酷で情がないものだと思っていた。だが実際に出会った彼は妻を亡くしたことが悲しくて悲しくて仕方ない人だったし、カリードが汚した服を洗ってくれて母譲りの緑色の瞳をきれいだと褒めてくれて───それ以上のこともあったし、別れ際の涙はもう不随意ではなかった、と思う。あんなに情の深い人をカリードは他に知らない。もう一度ローレンツに会いたい。ただ、彼から再会するにあたって条件を出されていた。それは別れ際の態度から察するに、ローレンツ自身の誓いでもあったのだ。
十六世紀のパルミラはダグザと海の覇権を争っており、海軍の主力はほぼダグザ方面へ割いていた。海軍の名においてフォドラの通商航路の妨害をする余裕はない。そこでパルミラ国王は民間船に対し、私掠免許を発行した。私掠免許を持つ船は敵国及び中立国の船を攻撃し、船や積荷を奪う許可を得たことになる。略奪や拿捕で得た利益は一割が国王個人、一割が船長、二割が出資者、残りの六割が乗組員達に分配された。乗組員達は受け取った六割を更に人数で割って分かち合う。その際に操舵手と船医は少しだけ取り分を多くしてもらえるのが常だった。
大型船は拿捕や略奪に備えて武装している。海賊行為は命がけだが一攫千金を狙うものたちからも投資家たちからも人気があった。私掠船は利益率の良い投資先で、それに絡んだ詐欺行為や私掠免許の強奪や偽造も横行している。
特に私掠免許の強奪や偽造は発覚すれば許可のない海賊行為を行った罪で海事裁判所に訴えられ、死刑になる。だがそれでもなお利益目当てに手を染める者が跡を絶たない。
命がけと言えば私掠船に入り込み、パルミラ国王が発行した私掠免許の真贋や正確な名義を確かめる密偵たちもそうだ。密偵は私掠船の数を正確に把握し統制したいパルミラの王府が雇うこともあれば、敵対国や中立国の政府や民間人が雇うこともある。旧レスター諸侯同盟の名家たちも海事に限らずパルミラに多数の密偵を放っていた。
少しでもフォドラと縁があり、大金を稼げる仕事がしたかったカリードは旧レスター諸侯同盟の名家ゴネリル家の密偵となった。彼を現地採用した密偵がグロスタール領出身だったこともかなり大きい。実際、上司の故郷の話を聞くだけで心が躍った。特に若様がまだ再婚なさらない、という話を聞けた晩は興奮して寝付けなかったほどだ。
カリードは様々な船に乗り込み、パルミラ人の外見と流暢なフォドラ語を利用しありとあらゆるものを煙に巻いて船長たちの秘密を暴いた。秘密を暴かれた私掠船の船長たちはそのまま海事裁判所に訴えられ、裁かれるものと脅迫されフォドラに協力させられるものに分かれる。
その判断を下すのが密偵頭の〝クロード〟だった。レスターからパルミラへ送り込まれた密偵たちはそれぞれ協力するように言われている。彼らの頭の名はそれがどこの誰であろうといつも〝クロード〟だ。〝クロード〟になれたら出自がなんであろうと、名家の人々からは一目置かれるようになる。船上で野蛮な行為のあった晩、カリードはいつもローレンツのことを思い出して正気を保った。
「本当に明日フォドラに帰っちゃうのか?」
「帰るよ。君のおかげで落ち込んでいる自分のことも許せたし、幼い息子には父親が必要だから」
フォドラへ連れて行って欲しいとせがむか格好をつけて自分もすぐに行くから待っていて欲しい、と言うべきか。迷ったカリードは眉尻を下げ、黙ってローレンツの顔を見つめた。頼まれごとが嬉しくて頑張ってしまったが、乗れる船なんか見つけてやらなければよかった気がする。でもローレンツから無能だと見做されるのはもっと嫌だった。
「僕のように心を病んだ男が何を言っても説得力はないかもしれないが、君は善良で頭が良いのだから優れた何か、になるべきだ」
カリードが黙って身体を強張らせているとローレンツが手を握ってきた。長くて白い指と褐色の指が組み合わさり白い顔が上から近づいてくる。
「それに君の未来が僕の性欲で定まるのはいやだな」
ローレンツは冗談めかしていたが、カリードは自分の耳元で囁かれたその言葉に雷に打たれたような衝撃を受けた。その時は分かっていなかったがグロスタール家の力があれば、あの時点の野良犬のようなカリードをフォドラへ連れて帰ってしまうのは簡単だった。だがローレンツは本当に誠実な人物で、それが搾取であると考えた。カリードには自力で優れた人間になる可能性があり、自力で自分と対等な人間になれると信じてくれた。
愛する人に信頼されたからには全力で応えるしかない。こうして優れた何か、になろうとしてもがき苦しむカリードの姿が女神の御心を動かしたのかもしれない。もしくさたった半月しか共に過ごさなかったのにカリードの可能性を信じて、突き放したローレンツの真面目さが女神の御心を動かしたのかもしれない。
正確なところは分からないがとにかく事態は動いた。近々デアドラ港の港長が代替わりする、という噂はカリードの耳にも入っている。それにまつわる人事異動の噂で持ちきりだ。港長が代替わりするなら今の〝クロード〟も引退する可能性がある。聞くところによると二人とも隠居してもおかしくない老人だ。次の〝クロード〟になったカリードがデアドラで暮らすようになれば、ローレンツは再び連絡を取ってくれるかもしれない。グロスタール領からローレンツが会いに来てくれるかもしれない。
そのためには今までと同じく、今回の航海でもしくじることは出来かった。甲板では船員たちが食糧不足を解消するために釣った鮫が大暴れしている。その様子をマストの上から眺めながらカリードは不敵に笑った。畳む
#完売本 #クロロレ #年齢操作 #flow #イグナーツ #リシテア
※イグナーツとリシテアが結婚しています
リシテアとイグナーツがデアドラからコーデリア領に戻る途中、グロスタールの屋敷で一泊するのは留守居をしているストームに会うためだった。だが傷心旅行を早めに切り上げたのか父親であるローレンツも戻っているという。ストームは嵐の日に生まれたローレンツの一人息子のあだ名で、彼の本名はエドガー=ローレンツ=グロスタールだ。
ストームの母は家同士の付き合いでグロスタール家に嫁いでいる。だがリシテアの婿としてコーデリア家に入った騎士上がりのイグナーツにも丁寧に接してくれる人だった。五歳年下のローレンツとはどこへ行くのも一緒な仲睦まじい夫婦でその頃の思い出話はたえることがない。彼女の死は皆に衝撃を与え、ローレンツは一年間祝事には一切参加しなかったし、その後もどこへ行くにも喪服しか着なかった。
それまでは伊達男と名高く、しょっちゅう服を仕立てていたというのに。長い間本当に酷い有りさまだったので気分を変えさせるため、彼の両親はローレンツに無理やり平服を着せた。
これまで縁のなかったパルミラへ一人で旅行へ行かせた、とローレンツの父エルヴィンから聞いた時にリシテアもイグナーツも良い機会だと思った。それなのに三ヶ月の予定を一ヶ月で切り上げて帰ってきている。執事からそう告げられたリシテアもイグナーツも不安しか感じなかった。旅行も続けられなかったのだろうか。
不安は募ったが、再会したローレンツは喪服ではなく旅先で気に入って買い求めた青い光沢のある生地で仕立てさせた上着を着ていた。しかも家中の人々を心配させた、本人に全く自覚がないのに涙を流す現象もどうやら治ったらしい。
見事な腕前で淹れてくれた紅茶はパルミラ風でいつもより少し味が濃かったが、向こうで買ってきたと言う変わった食感の茶菓子によく合っている。
「二人にも随分と心配をかけたね」
「いえ、気にしないでください。少なくとも私はこの珍しいお菓子で許してさしあげます」
「気に入ったので現物も料理本もたくさん買い込んでしまってね」
リシテアとの会話から察するにローレンツは物欲が戻ったらしい。日々の暮らしを楽しんでいた彼が生きている己を罰するかのように、内側にに篭る姿は見る者全ての涙を誘ったし、イグナーツも胸が締め付けられるように辛かった。人生は本当にままならない。
だが、もうすぐ一歳半になるよちよち歩きのストームを連れて、薔薇園を散歩する彼の姿は隣に亡くなった奥方がいないのが不思議なくらい元のローレンツそのものだった。
皆、ひとまずは安心した。そうなると次は詮索が身をもたげてくる。一体旅先のパルミラで何があったのか。久しぶりになんの憂いもなく、グロスタールの屋敷で過ごしたリシテアは幼い頃から何度も泊まっている馴染みの客室で夫のイグナーツに推理を披露していた。
「イグナーツ。私が思うにローレンツ兄様には新しく好い人が出来たのかもしれません」
「朗らかになってましたよね、確かに。ストームのためにも本当に良かった」
豊かな黒髪をブラシで梳かしていたリシテアが目元を押さえた。
「あら……いやだ、今度は私が泣いてしまうなんて。でも胸元に薔薇も付けていたし元のローレンツ兄様に戻ってくれたみたいで嬉しくて」
「紹介してもらえたら、僕たちからもその方にお礼を言いましょう」
イグナーツから濡れた手巾を渡されたリシテアは、それが絞って冷やしたものであることに気付いた。気を利かせてブリザーで冷やしてくれたのだろう。目が腫れないよう、目元にあててしまったのでイグナーツの顔は見えない。寝室で夜眠る前に話を聞いてくれる相手が失われてしまったら、と考えるだけで恐ろしい。楽しそうに相槌を打ってくれるイグナーツを失ってしまったら、リシテアだってどうなってしまうのかわからないのだ。
一方でカリードはフォドラに関する本を読み漁るため、図書館へ通い詰める日々を送っていた。カリードの住む港町はフォドラと近いこともあり、パルミラ語で書かれた本だけでなくフォドラ語の本もおいてある。どちらも読んだ。
カリードはフォドラの言葉は話せるが読み書きは得意ではない。口に出して音を聞かねば上手く意味が理解出来ず、フォドラ語の本を読むのにはかなり手間取った。その上、手当たり次第に読んだせいで調べ物としての効率も悪かった。しかしそのおかげでカリードのフォドラの文化への理解は深まっている。
彼は数週間かけついに知るべきだったこと、に自力で辿り着いた。カリードは彼をグロスタールのローレンツ=ヘルマンだと思っていたが違うらしい。ようやく何が書いてあるのか理解できるようになった貴族名鑑によると、彼はグロスタール伯爵家の一員だった。グロスタール家は十傑の遺産テュルソスの杖を受け継ぐ名門で、グロスタール領という土地の名前が彼の家名に因んで付けられている。彼は貴族の中の貴族だった。
カリードはフォドラの貴族というのはもっと冷酷で情がないものだと思っていた。だが実際に出会った彼は妻を亡くしたことが悲しくて悲しくて仕方ない人だったし、カリードが汚した服を洗ってくれて母譲りの緑色の瞳をきれいだと褒めてくれて───それ以上のこともあったし、別れ際の涙はもう不随意ではなかった、と思う。あんなに情の深い人をカリードは他に知らない。もう一度ローレンツに会いたい。ただ、彼から再会するにあたって条件を出されていた。それは別れ際の態度から察するに、ローレンツ自身の誓いでもあったのだ。
十六世紀のパルミラはダグザと海の覇権を争っており、海軍の主力はほぼダグザ方面へ割いていた。海軍の名においてフォドラの通商航路の妨害をする余裕はない。そこでパルミラ国王は民間船に対し、私掠免許を発行した。私掠免許を持つ船は敵国及び中立国の船を攻撃し、船や積荷を奪う許可を得たことになる。略奪や拿捕で得た利益は一割が国王個人、一割が船長、二割が出資者、残りの六割が乗組員達に分配された。乗組員達は受け取った六割を更に人数で割って分かち合う。その際に操舵手と船医は少しだけ取り分を多くしてもらえるのが常だった。
大型船は拿捕や略奪に備えて武装している。海賊行為は命がけだが一攫千金を狙うものたちからも投資家たちからも人気があった。私掠船は利益率の良い投資先で、それに絡んだ詐欺行為や私掠免許の強奪や偽造も横行している。
特に私掠免許の強奪や偽造は発覚すれば許可のない海賊行為を行った罪で海事裁判所に訴えられ、死刑になる。だがそれでもなお利益目当てに手を染める者が跡を絶たない。
命がけと言えば私掠船に入り込み、パルミラ国王が発行した私掠免許の真贋や正確な名義を確かめる密偵たちもそうだ。密偵は私掠船の数を正確に把握し統制したいパルミラの王府が雇うこともあれば、敵対国や中立国の政府や民間人が雇うこともある。旧レスター諸侯同盟の名家たちも海事に限らずパルミラに多数の密偵を放っていた。
少しでもフォドラと縁があり、大金を稼げる仕事がしたかったカリードは旧レスター諸侯同盟の名家ゴネリル家の密偵となった。彼を現地採用した密偵がグロスタール領出身だったこともかなり大きい。実際、上司の故郷の話を聞くだけで心が躍った。特に若様がまだ再婚なさらない、という話を聞けた晩は興奮して寝付けなかったほどだ。
カリードは様々な船に乗り込み、パルミラ人の外見と流暢なフォドラ語を利用しありとあらゆるものを煙に巻いて船長たちの秘密を暴いた。秘密を暴かれた私掠船の船長たちはそのまま海事裁判所に訴えられ、裁かれるものと脅迫されフォドラに協力させられるものに分かれる。
その判断を下すのが密偵頭の〝クロード〟だった。レスターからパルミラへ送り込まれた密偵たちはそれぞれ協力するように言われている。彼らの頭の名はそれがどこの誰であろうといつも〝クロード〟だ。〝クロード〟になれたら出自がなんであろうと、名家の人々からは一目置かれるようになる。船上で野蛮な行為のあった晩、カリードはいつもローレンツのことを思い出して正気を保った。
「本当に明日フォドラに帰っちゃうのか?」
「帰るよ。君のおかげで落ち込んでいる自分のことも許せたし、幼い息子には父親が必要だから」
フォドラへ連れて行って欲しいとせがむか格好をつけて自分もすぐに行くから待っていて欲しい、と言うべきか。迷ったカリードは眉尻を下げ、黙ってローレンツの顔を見つめた。頼まれごとが嬉しくて頑張ってしまったが、乗れる船なんか見つけてやらなければよかった気がする。でもローレンツから無能だと見做されるのはもっと嫌だった。
「僕のように心を病んだ男が何を言っても説得力はないかもしれないが、君は善良で頭が良いのだから優れた何か、になるべきだ」
カリードが黙って身体を強張らせているとローレンツが手を握ってきた。長くて白い指と褐色の指が組み合わさり白い顔が上から近づいてくる。
「それに君の未来が僕の性欲で定まるのはいやだな」
ローレンツは冗談めかしていたが、カリードは自分の耳元で囁かれたその言葉に雷に打たれたような衝撃を受けた。その時は分かっていなかったがグロスタール家の力があれば、あの時点の野良犬のようなカリードをフォドラへ連れて帰ってしまうのは簡単だった。だがローレンツは本当に誠実な人物で、それが搾取であると考えた。カリードには自力で優れた人間になる可能性があり、自力で自分と対等な人間になれると信じてくれた。
愛する人に信頼されたからには全力で応えるしかない。こうして優れた何か、になろうとしてもがき苦しむカリードの姿が女神の御心を動かしたのかもしれない。もしくさたった半月しか共に過ごさなかったのにカリードの可能性を信じて、突き放したローレンツの真面目さが女神の御心を動かしたのかもしれない。
正確なところは分からないがとにかく事態は動いた。近々デアドラ港の港長が代替わりする、という噂はカリードの耳にも入っている。それにまつわる人事異動の噂で持ちきりだ。港長が代替わりするなら今の〝クロード〟も引退する可能性がある。聞くところによると二人とも隠居してもおかしくない老人だ。次の〝クロード〟になったカリードがデアドラで暮らすようになれば、ローレンツは再び連絡を取ってくれるかもしれない。グロスタール領からローレンツが会いに来てくれるかもしれない。
そのためには今までと同じく、今回の航海でもしくじることは出来かった。甲板では船員たちが食糧不足を解消するために釣った鮫が大暴れしている。その様子をマストの上から眺めながらカリードは不敵に笑った。畳む
「flow」番外編"Bargain.3"
#完売本 #クロロレ #flow #年齢操作 #ヒルダ
ベレトは巡警の詰所で捕縛用の縄を一本ずつ手に取り強化魔法をかけていた。引きちぎるものは滅多にいないが念には念を入れている。檻の中に入っている大柄な沖仲仕(おきなかし)がベレトに声をかけてきた。
「センセイ、もう大人しくするからこれ外してくれよ」
昨晩、待機中に酒に酔って大暴れした男の手首足首には縄が巻かれている。指を鳴らせば勝手に結び目が解けてくれるような世の中ならば楽なのだが、そんなことはない。ベレトは腰から下げた鍵で扉を開け、中に入ると男の手首足首の結び目に触った。重ねがけした強化魔法を解除してから縄を解いてやる。
「手枷の方が楽なんじゃねえか?」
「牡蠣が美味い時期に手首足首を冷やすのは良くない。沖仲仕は身体が資本だ」
ベレトから若草色の瞳でじっと見つめられた沖仲仕は決まり悪そうに目を逸らした。筋骨隆々な身体つきも鮮やかな刺青も彼は恐れない。
「何があったのか話してくれ。言葉で伝えてもらわなくては何も分からない。このまま嫌なことがあるたびに酒を飲んで暴れるのか?」
彼は変わった巡警で沖仲仕たちに読み書きを教えたり、暴れん坊の手首足首が冷えないように気にかけたりする。酒が抜けて落ち着いたらベレトは改めて何故暴れたのか、について供述をとるつもりだった。同僚からは酒に酔って暴れた、で充分だと言われるが性分は変えられない。
「それで嫁がな……俺のいない時にもしかしたら……」
「確かめるのが怖くて飲んだのか。怖いよな、でも留置所に手首足首縛られた状態で一晩ぶち込まれて、仕事に穴を開けるのと奥さんと話し合うのはどちらがマシだと思う?」
筋骨隆々の男たちは怖いものなど何一つないような顔をしている。だが、単に自分が何を恐れているのか自覚していないだけだ。それに加えて怒りと恐れと悲しみの区別がついていないものが多い。ベレトは彼らにその区別をつけてほしいと考え、いつも可能な限り詳しく供述を取っていた。怒りと恐れと悲しみの区別に無自覚な状態を放置するとひどい、としか表現しようのないことが起きてしまう。それはかつて、ダスカーでも起きたことだ。
「ベレト、港長がお呼びだ。なんだ、また供述を取り直してるのか?」
昨日の彼はムカついたから酒を飲んで目についた弱虫を殴ってやった、としか言わなかった。どんなものにも語るべき何かがある。
「そうだ。また似たようなことがあった時は絶対に、酒に逃避させない」
「効き目があるのかねえ。まあ続きは引き受けた」
「また魔獣の目撃情報でもあったのか?」
「さてね。とにかく来い、とさ」
デアドラ港の全てを取り仕切る港長のヒルダは老いてなお、十傑の遺産であるフライクーゲルを振り回す。通商航路の安全を脅かす魔獣を一刀両断するが、得物を持っていなければ小柄な愛らしい老婦人だ。
ベレトが執務室の扉を叩くと中から入りなさい、と言う声がした。机の上には所狭しと書類が広げられており、珍しく書類から顔もあげない。この時期になると彼女は体が冷えるから、と言って暖炉の火を絶やさないようにしている。
だが火が消えていることに気づかないほど集中して書類を読んでいたらしい。ベレトは黙って火かき棒で暖炉の灰を探り、まだ使えそうな薪の欠片を見つけるとファイアーの呪文を唱えて火をつけた。
「何の用だろうか?」
「次の〝クロード〟を誰にしようかしら」
そういうと机に広げてある身上書を指さした。
「読んでいいのだろうか?」
「一緒に考えて貰いたくて呼んだのだから当然よ。次の港長は私のお気に入りの子がやるからいい"クロード"を選んであげたいの」
ヒルダが引退する、と言う噂はどうやら本当だったらしい。
「グロスタール家のローレンツ=ヘルマン=グロスタール。グロスタールの小紋章を受け継いでいるから、テュルソスの杖も使える。嫡子もいるから丁度いいわね」
不満げな顔をしてベレトが自分を見つめていることに気がついたヒルダは口を思いっきり曲げた。ベレトは何故か、十傑の遺産の使用者がすり減らされることを極端に嫌う。独身のうちに壊れてしまうと後継者が作れない。もう嫡子がいるなら遺産の使いすぎで本人が壊れても別に構わない、という意図を含んだ物言いが引っ掛かったのだろう。だがヒルダも同じような状態で任に就いた。
「他に知るべきことは?」
「身上書はローレンツの物もあるから読んでちょうだい。彼のために良い〝クロード〟を選ぶんだから彼のことも知らなくてはね」
ヒルダから渡されたローレンツの身上書を読んだベレトの顔がみるみるうちに曇っていった。転地療養を経て父親の補佐に復帰、と書いてある。彼の脳裏にフェルディアで読んだローレンツの資料の内容が浮かんだ。気を付けてやらねばテュルソスの杖に侵食されてしまう可能性がある。
「少し精神的に危ういようだが本当に良いのか」
「地上ならともかく海上で魔獣の相手をするのに遺産や紋章の力なしでは厳しいわ」
ヒルダがいうことはもっともだった。紋章も遺産も持たないものだけで対処しようとすると、魔獣を気絶させた時に攻撃の当たらない海底まで沈んでしまう。すると追撃が出来ない。確実に仕留めるためには陸に近い水深が浅いところで戦闘せねばならないが、敗北して上陸を許せば大惨事が起きる。名家に生まれ強い力を持ったものが責務を果たさねば、助かるはずの人々が大勢死ぬ。選択の余地はなかった。
「では決定なんだな」
「そうよ。ローレンツに多少の瑕疵はあっても変わらない。だからセンセイお願いよ。どうかローレンツを助けてやって」
「微力を尽くすよ。まずはこの人選が最初のお手伝いだな」
ベレトはヒルダに軽口を返すと今度は〝クロード〟候補たちの身上書を読み始めた。密偵たちは皆それぞれに優秀だった。その中に一人若さが際立つものがいる。
「せめて一度でも直接、会ったことがあればねえ。皆、任務や依頼があるから迂闊に呼び出すわけにも行かないのよ。書類だけで選ぶのは本当に難しいわ。皆実績が素晴らしいから決め手に欠ける」
「俺なら彼にする」
ベレトから差し出された身上書に目を通したヒルダは首を傾げた。パルミラ出身で二十歳に満たない。ヒルダが真っ先にない、と判断した候補者だった。
「理由は?」
「目が緑だから」
「意味が分からないわ」
確かに身体的特徴欄には焦茶の髪、緑の瞳、褐色の肌、中肉中背、と書いてある。だからなんだというのだろうか。ヒルダは目線で続きを促した。
「パルミラ人は瞳の色が黒いんだ。髪はいくらでも染められるし、海の仕事をすれば皆日焼けはするものだから、肌もまあ……港から街に出なければなんとなく互いに都合が良い誤解をして貰える。だが瞳の色だけは変えられない。どんなにパルミラを自分の故郷と思っていても瞳の色のせいで否定される。だから自分の中のフォドラの血に賭けたんだ」
密偵たちの中には他にもパルミラの血を引く者がいるが、皆フォドラ育ちだった。育った土地に対して芽生える自然な愛着心と利用できる己の見た目故にヒルダたちに雇われている。
ベレトの選んだ彼だけがどこに在ろうとも異物だった。
「彼だけがずっと背水の陣で戦っていた」
「なるほどね。参考になったわ。助言通りにするかどうかは分からないけれど」
「 ヒルダ、引き継ぎが終わったらフォドラ中に散らばった孫の顔を見て回るのはどうだろうか。きっとおもしろいぞ」
「そうね、それに孫にフライクーゲルの使い方を教えてやらなくちゃね」
ゴネリルの紋章を持つ孫が次のフライクーゲルの持ち主だ。自分はフライクーゲルとうまく距離を保つことが出来たが、孫はどうだろうか。ベレトが先ほどローレンツのことを心配していたが、同じようにヒルダの孫も細心の注意を払って慎重に導かなばならない。
ヒルダには考えるべきことがいくらでもあり、どんな案件だろうといつまでも囚われている訳にいかなかった。しばらく未定の振りをするがこの人事のせいで問題が生じたらベレトに解決させれば良い。そのために彼を呼んだのだから。
いつもと違って真の意味で、乗客としてデアドラ行きの客船に乗ったカリードは客室の小さな寝台に寝転がった。船員用の部屋と比べれば小さな窓までついているここは天国だと思う。窓から微かに入る月の光でデアドラ港湾公社から来た文書を読み返した。何度読んでもデアドラヘ出頭せよ、と書いてあるので顔が綻んでしまう。国境を越えてデアドラに呼ばれる程度には有能と見做されたのだ。
仮に〝クロード〟絡みでなかったとしても、デアドラ港での用事が終わって休みが取れたらグロスタール領に行ってみようと思っていた。一度行ってみれば今後、自分がどうすべきか考えも浮かぶだろう。
船の帆は風を受けて陸地沿いに目的地へ進み、カリードが瞼を開けた頃にはエドマンドを通過していた。このまま何もなければもうすぐデアドラに着く。
船内では水を無駄に出来ないので蒸留酒と香料を混ぜたものが身体の手入れによく使われる。甘い香りの混ぜ物を手に取って手や顔を拭いていると甲板から大砲用意!というかけ声が聞こえてきた。
フォドラ沿岸に出る魔獣は鎖国状態の頃は守り神として讃えられたらしい。だが今は単なる厄介者でどの地点で出没したのか報告する義務がある。どうやらカリードの乗る船は出現に備えて警戒すべき海域に入ったらしい。もし魔獣に遭遇してしまったら───こんな小さな船の場合、やれることはひとつだけだ。砲撃して怯んだ隙にさっさと逃げてしまうしかない。
どうか海が穏やかなまま航海が終わりますように、と船上にいる全ての人が女神やご先祖に祈りを捧げている。誰かの願いが天まで届いたのか、何事もないまま警戒海域を抜けることが出来た。
フォドラの行政区分は統一前の三国に準拠している。ファーガス、アドラステア、そしてレスターだ。デアドラは依然としてレスター地方で一番の大都会で人も物も集まる。遅れて始まった乗客たちの朝食は水より日持ちするビールに虫が沸かないよう何度も焼いて固くした麺麭を浸してふやかしたもの、壊血病予防で食べることが推奨されているキャベツの酢漬け、という質素極まりない物だ。しかしデアドラが近いとなればもう文句も出ない。皆の頭に浮かぶのは今、実際口にしている物ではなく、近いうちにデアドラで食べられるはずの豪華な料理だ。カリードもデアドラに着いたら宿で身支度を整え、この時期のデアドラ名物である牡蠣を食べるつもりでいる。
朝食を終え乗客のほとんどが下船の準備をしに客室へ戻っていた。だがカリードは大した荷物を持っていない。余らせた時間を潰すため甲板に出て、沿岸の風景を眺めていた。パルミラとは全く違う様式の、カリードからすれば見慣れない建物は母にとっては見慣れたものだったのだろうか。
船がデアドラ港の沖合に停泊すると艀(はしけ)がわらわらと寄ってきた。港に直接接岸できない大きさの船に乗った場合、または接岸する順番が待てない場合に乗客は艀に乗り換えて上陸する。カリードは荷物を背負って梯子を降りていたが途中で面倒臭くなり、手を離して艀に向かって飛び降りた。水飛沫が上着にかかったのが何故か面白くて笑ってしまう。危険行為だ、転覆したらどうしてくれる、と艀の漕ぎ手に怒られたので降りる時に多めに心付けを払った。
デアドラ港の船着き場には既に屋台があるのだが、そこには寄らず税関へ向かう。入国審査の順番を待つ行列が既にできていたが、並んでいるのはフォドラ人ばかりだった。外国人用の列は空いている。カリードがパルミラの王府が発行した旅券を見せると職員は無言で旅券に港湾公社からの命令書を挟んでから上陸許可印を押した。申し送りがあったのかもしれないが、それでも一瞥もしないのは保安上、問題があるのではないだろうか。
デアドラ港を出ればもうデアドラ市街だ。デアドラはフォドラで唯一無二の水の都で、港の前には巨大な広場がありその脇にはもう水路が広がっている。狭い歩道しか存在しないこの街では馬車ではなく、船が人と荷物を乗せて水路を行き交う。カリードは橋を渡って渡し船の乗り場へ向かった。
パルミラの港町ならば巨大な馬車の乗降場があるはずの場所に宿屋の客引きたちが大勢いる。彼らは皆、宿の名と場所、それに一泊いくらなのかを書いた看板を掲げていた。口々に今なら宿までのゴンドラ代を半分持つとか食事にワインを一杯つける等自分たちの宿がいかに優れているか口上を述べている。
その中にうちの宿には風呂がついている、というものがいた。公衆浴場へ行く場合は新しい外出着を持参して、汚れた服を持ち帰らねばならない。敷地内に風呂があるならば軽装で風呂場へ行って入浴し、そのまま部屋に戻って休める。
だが看板を見てみるとかなり遠い。手漕ぎの渡し船では一時間近くかかるだろう。命令書に書いてあった出頭時間に間に合わせるためには当日、ゴンドラを自分のためだけに一艘、呼ばねばならない。金はなくはないが贅沢すぎる気もする。カリードが黙って看板の内容と遠さを天秤にかけて考え込んでいると視線に気づいた客引きから声をかけられた。
「悩んでるみたいだな。泊まってくれたら服を洗ってやるよ。宿持ちでな。デアドラで服を仕立てるのに薄汚れた格好で行ったら仕立て屋に舐められるぜ?」
確かに下船する時にはしゃいだせいでカリードの上着は海水で濡れている。洗わねば匂うだろう。だが長旅で疲れている身で上着のような大物を洗うのは面倒くさい。
「今からそんな辺鄙なところに行って昼飯はどこで食えばいいんだ?」
「食堂もあるぜ。うちの島は牡蠣が取れるから今の時期はそればっかりだけどな」
「朝早くに出なきゃならないんだが」
「それなら仕入れの船の帰りに乗ればいいさ。帰りが空にならずに済んだって漕ぎ手も喜ぶぜ」
こうして説得されたカリードは一時間手漕ぎのゴンドラに揺られることにした。益体のない話でもしていればあっという間に過ぎるだろう。デアドラの中心部には港とセイロス教会と商工会がある。基本、宿屋の値段はこれらにどれだけ近いかで決まっていくのだが、カリードの選んだ宿屋は距離だけで見れば強気な値段設定をしていた。利便性ではなく設備と宿泊客への気配りで勝負に出ているらしい。
「静かでいい宿だぜ。騒々しいのが嫌いなお偉いさんの別荘も同じ島にあるから見えたら案内してやるよ」
「上屋敷を構えるには遠すぎないか?」
「貴族や豪商ってのはさ、デアドラで使う船も持ってる。滞在中は俺みたいな漕ぎ手を雇って、ずっと別荘で寝泊まりさせるから本人たちは早起きだけすればいいんだよ。すげえ身分だよな」
客引きとの会話に船の漕ぎ手も加わり、ああだこうだと話しているうちに客引きが瀟洒な屋敷を指差した。
「あのグロスタール屋敷の裏側がうちの宿の船着き場だよ。背中合わせになってるんだ」
カリードはその後のことをよく覚えていない。だが、滞在中ずっと客引きと漕ぎ手が異常に愛想良くしてきたので、無意識のうちに桁違いに高額な心付けを二人に払っていたらしい。畳む
#完売本 #クロロレ #flow #年齢操作 #ヒルダ
ベレトは巡警の詰所で捕縛用の縄を一本ずつ手に取り強化魔法をかけていた。引きちぎるものは滅多にいないが念には念を入れている。檻の中に入っている大柄な沖仲仕(おきなかし)がベレトに声をかけてきた。
「センセイ、もう大人しくするからこれ外してくれよ」
昨晩、待機中に酒に酔って大暴れした男の手首足首には縄が巻かれている。指を鳴らせば勝手に結び目が解けてくれるような世の中ならば楽なのだが、そんなことはない。ベレトは腰から下げた鍵で扉を開け、中に入ると男の手首足首の結び目に触った。重ねがけした強化魔法を解除してから縄を解いてやる。
「手枷の方が楽なんじゃねえか?」
「牡蠣が美味い時期に手首足首を冷やすのは良くない。沖仲仕は身体が資本だ」
ベレトから若草色の瞳でじっと見つめられた沖仲仕は決まり悪そうに目を逸らした。筋骨隆々な身体つきも鮮やかな刺青も彼は恐れない。
「何があったのか話してくれ。言葉で伝えてもらわなくては何も分からない。このまま嫌なことがあるたびに酒を飲んで暴れるのか?」
彼は変わった巡警で沖仲仕たちに読み書きを教えたり、暴れん坊の手首足首が冷えないように気にかけたりする。酒が抜けて落ち着いたらベレトは改めて何故暴れたのか、について供述をとるつもりだった。同僚からは酒に酔って暴れた、で充分だと言われるが性分は変えられない。
「それで嫁がな……俺のいない時にもしかしたら……」
「確かめるのが怖くて飲んだのか。怖いよな、でも留置所に手首足首縛られた状態で一晩ぶち込まれて、仕事に穴を開けるのと奥さんと話し合うのはどちらがマシだと思う?」
筋骨隆々の男たちは怖いものなど何一つないような顔をしている。だが、単に自分が何を恐れているのか自覚していないだけだ。それに加えて怒りと恐れと悲しみの区別がついていないものが多い。ベレトは彼らにその区別をつけてほしいと考え、いつも可能な限り詳しく供述を取っていた。怒りと恐れと悲しみの区別に無自覚な状態を放置するとひどい、としか表現しようのないことが起きてしまう。それはかつて、ダスカーでも起きたことだ。
「ベレト、港長がお呼びだ。なんだ、また供述を取り直してるのか?」
昨日の彼はムカついたから酒を飲んで目についた弱虫を殴ってやった、としか言わなかった。どんなものにも語るべき何かがある。
「そうだ。また似たようなことがあった時は絶対に、酒に逃避させない」
「効き目があるのかねえ。まあ続きは引き受けた」
「また魔獣の目撃情報でもあったのか?」
「さてね。とにかく来い、とさ」
デアドラ港の全てを取り仕切る港長のヒルダは老いてなお、十傑の遺産であるフライクーゲルを振り回す。通商航路の安全を脅かす魔獣を一刀両断するが、得物を持っていなければ小柄な愛らしい老婦人だ。
ベレトが執務室の扉を叩くと中から入りなさい、と言う声がした。机の上には所狭しと書類が広げられており、珍しく書類から顔もあげない。この時期になると彼女は体が冷えるから、と言って暖炉の火を絶やさないようにしている。
だが火が消えていることに気づかないほど集中して書類を読んでいたらしい。ベレトは黙って火かき棒で暖炉の灰を探り、まだ使えそうな薪の欠片を見つけるとファイアーの呪文を唱えて火をつけた。
「何の用だろうか?」
「次の〝クロード〟を誰にしようかしら」
そういうと机に広げてある身上書を指さした。
「読んでいいのだろうか?」
「一緒に考えて貰いたくて呼んだのだから当然よ。次の港長は私のお気に入りの子がやるからいい"クロード"を選んであげたいの」
ヒルダが引退する、と言う噂はどうやら本当だったらしい。
「グロスタール家のローレンツ=ヘルマン=グロスタール。グロスタールの小紋章を受け継いでいるから、テュルソスの杖も使える。嫡子もいるから丁度いいわね」
不満げな顔をしてベレトが自分を見つめていることに気がついたヒルダは口を思いっきり曲げた。ベレトは何故か、十傑の遺産の使用者がすり減らされることを極端に嫌う。独身のうちに壊れてしまうと後継者が作れない。もう嫡子がいるなら遺産の使いすぎで本人が壊れても別に構わない、という意図を含んだ物言いが引っ掛かったのだろう。だがヒルダも同じような状態で任に就いた。
「他に知るべきことは?」
「身上書はローレンツの物もあるから読んでちょうだい。彼のために良い〝クロード〟を選ぶんだから彼のことも知らなくてはね」
ヒルダから渡されたローレンツの身上書を読んだベレトの顔がみるみるうちに曇っていった。転地療養を経て父親の補佐に復帰、と書いてある。彼の脳裏にフェルディアで読んだローレンツの資料の内容が浮かんだ。気を付けてやらねばテュルソスの杖に侵食されてしまう可能性がある。
「少し精神的に危ういようだが本当に良いのか」
「地上ならともかく海上で魔獣の相手をするのに遺産や紋章の力なしでは厳しいわ」
ヒルダがいうことはもっともだった。紋章も遺産も持たないものだけで対処しようとすると、魔獣を気絶させた時に攻撃の当たらない海底まで沈んでしまう。すると追撃が出来ない。確実に仕留めるためには陸に近い水深が浅いところで戦闘せねばならないが、敗北して上陸を許せば大惨事が起きる。名家に生まれ強い力を持ったものが責務を果たさねば、助かるはずの人々が大勢死ぬ。選択の余地はなかった。
「では決定なんだな」
「そうよ。ローレンツに多少の瑕疵はあっても変わらない。だからセンセイお願いよ。どうかローレンツを助けてやって」
「微力を尽くすよ。まずはこの人選が最初のお手伝いだな」
ベレトはヒルダに軽口を返すと今度は〝クロード〟候補たちの身上書を読み始めた。密偵たちは皆それぞれに優秀だった。その中に一人若さが際立つものがいる。
「せめて一度でも直接、会ったことがあればねえ。皆、任務や依頼があるから迂闊に呼び出すわけにも行かないのよ。書類だけで選ぶのは本当に難しいわ。皆実績が素晴らしいから決め手に欠ける」
「俺なら彼にする」
ベレトから差し出された身上書に目を通したヒルダは首を傾げた。パルミラ出身で二十歳に満たない。ヒルダが真っ先にない、と判断した候補者だった。
「理由は?」
「目が緑だから」
「意味が分からないわ」
確かに身体的特徴欄には焦茶の髪、緑の瞳、褐色の肌、中肉中背、と書いてある。だからなんだというのだろうか。ヒルダは目線で続きを促した。
「パルミラ人は瞳の色が黒いんだ。髪はいくらでも染められるし、海の仕事をすれば皆日焼けはするものだから、肌もまあ……港から街に出なければなんとなく互いに都合が良い誤解をして貰える。だが瞳の色だけは変えられない。どんなにパルミラを自分の故郷と思っていても瞳の色のせいで否定される。だから自分の中のフォドラの血に賭けたんだ」
密偵たちの中には他にもパルミラの血を引く者がいるが、皆フォドラ育ちだった。育った土地に対して芽生える自然な愛着心と利用できる己の見た目故にヒルダたちに雇われている。
ベレトの選んだ彼だけがどこに在ろうとも異物だった。
「彼だけがずっと背水の陣で戦っていた」
「なるほどね。参考になったわ。助言通りにするかどうかは分からないけれど」
「 ヒルダ、引き継ぎが終わったらフォドラ中に散らばった孫の顔を見て回るのはどうだろうか。きっとおもしろいぞ」
「そうね、それに孫にフライクーゲルの使い方を教えてやらなくちゃね」
ゴネリルの紋章を持つ孫が次のフライクーゲルの持ち主だ。自分はフライクーゲルとうまく距離を保つことが出来たが、孫はどうだろうか。ベレトが先ほどローレンツのことを心配していたが、同じようにヒルダの孫も細心の注意を払って慎重に導かなばならない。
ヒルダには考えるべきことがいくらでもあり、どんな案件だろうといつまでも囚われている訳にいかなかった。しばらく未定の振りをするがこの人事のせいで問題が生じたらベレトに解決させれば良い。そのために彼を呼んだのだから。
いつもと違って真の意味で、乗客としてデアドラ行きの客船に乗ったカリードは客室の小さな寝台に寝転がった。船員用の部屋と比べれば小さな窓までついているここは天国だと思う。窓から微かに入る月の光でデアドラ港湾公社から来た文書を読み返した。何度読んでもデアドラヘ出頭せよ、と書いてあるので顔が綻んでしまう。国境を越えてデアドラに呼ばれる程度には有能と見做されたのだ。
仮に〝クロード〟絡みでなかったとしても、デアドラ港での用事が終わって休みが取れたらグロスタール領に行ってみようと思っていた。一度行ってみれば今後、自分がどうすべきか考えも浮かぶだろう。
船の帆は風を受けて陸地沿いに目的地へ進み、カリードが瞼を開けた頃にはエドマンドを通過していた。このまま何もなければもうすぐデアドラに着く。
船内では水を無駄に出来ないので蒸留酒と香料を混ぜたものが身体の手入れによく使われる。甘い香りの混ぜ物を手に取って手や顔を拭いていると甲板から大砲用意!というかけ声が聞こえてきた。
フォドラ沿岸に出る魔獣は鎖国状態の頃は守り神として讃えられたらしい。だが今は単なる厄介者でどの地点で出没したのか報告する義務がある。どうやらカリードの乗る船は出現に備えて警戒すべき海域に入ったらしい。もし魔獣に遭遇してしまったら───こんな小さな船の場合、やれることはひとつだけだ。砲撃して怯んだ隙にさっさと逃げてしまうしかない。
どうか海が穏やかなまま航海が終わりますように、と船上にいる全ての人が女神やご先祖に祈りを捧げている。誰かの願いが天まで届いたのか、何事もないまま警戒海域を抜けることが出来た。
フォドラの行政区分は統一前の三国に準拠している。ファーガス、アドラステア、そしてレスターだ。デアドラは依然としてレスター地方で一番の大都会で人も物も集まる。遅れて始まった乗客たちの朝食は水より日持ちするビールに虫が沸かないよう何度も焼いて固くした麺麭を浸してふやかしたもの、壊血病予防で食べることが推奨されているキャベツの酢漬け、という質素極まりない物だ。しかしデアドラが近いとなればもう文句も出ない。皆の頭に浮かぶのは今、実際口にしている物ではなく、近いうちにデアドラで食べられるはずの豪華な料理だ。カリードもデアドラに着いたら宿で身支度を整え、この時期のデアドラ名物である牡蠣を食べるつもりでいる。
朝食を終え乗客のほとんどが下船の準備をしに客室へ戻っていた。だがカリードは大した荷物を持っていない。余らせた時間を潰すため甲板に出て、沿岸の風景を眺めていた。パルミラとは全く違う様式の、カリードからすれば見慣れない建物は母にとっては見慣れたものだったのだろうか。
船がデアドラ港の沖合に停泊すると艀(はしけ)がわらわらと寄ってきた。港に直接接岸できない大きさの船に乗った場合、または接岸する順番が待てない場合に乗客は艀に乗り換えて上陸する。カリードは荷物を背負って梯子を降りていたが途中で面倒臭くなり、手を離して艀に向かって飛び降りた。水飛沫が上着にかかったのが何故か面白くて笑ってしまう。危険行為だ、転覆したらどうしてくれる、と艀の漕ぎ手に怒られたので降りる時に多めに心付けを払った。
デアドラ港の船着き場には既に屋台があるのだが、そこには寄らず税関へ向かう。入国審査の順番を待つ行列が既にできていたが、並んでいるのはフォドラ人ばかりだった。外国人用の列は空いている。カリードがパルミラの王府が発行した旅券を見せると職員は無言で旅券に港湾公社からの命令書を挟んでから上陸許可印を押した。申し送りがあったのかもしれないが、それでも一瞥もしないのは保安上、問題があるのではないだろうか。
デアドラ港を出ればもうデアドラ市街だ。デアドラはフォドラで唯一無二の水の都で、港の前には巨大な広場がありその脇にはもう水路が広がっている。狭い歩道しか存在しないこの街では馬車ではなく、船が人と荷物を乗せて水路を行き交う。カリードは橋を渡って渡し船の乗り場へ向かった。
パルミラの港町ならば巨大な馬車の乗降場があるはずの場所に宿屋の客引きたちが大勢いる。彼らは皆、宿の名と場所、それに一泊いくらなのかを書いた看板を掲げていた。口々に今なら宿までのゴンドラ代を半分持つとか食事にワインを一杯つける等自分たちの宿がいかに優れているか口上を述べている。
その中にうちの宿には風呂がついている、というものがいた。公衆浴場へ行く場合は新しい外出着を持参して、汚れた服を持ち帰らねばならない。敷地内に風呂があるならば軽装で風呂場へ行って入浴し、そのまま部屋に戻って休める。
だが看板を見てみるとかなり遠い。手漕ぎの渡し船では一時間近くかかるだろう。命令書に書いてあった出頭時間に間に合わせるためには当日、ゴンドラを自分のためだけに一艘、呼ばねばならない。金はなくはないが贅沢すぎる気もする。カリードが黙って看板の内容と遠さを天秤にかけて考え込んでいると視線に気づいた客引きから声をかけられた。
「悩んでるみたいだな。泊まってくれたら服を洗ってやるよ。宿持ちでな。デアドラで服を仕立てるのに薄汚れた格好で行ったら仕立て屋に舐められるぜ?」
確かに下船する時にはしゃいだせいでカリードの上着は海水で濡れている。洗わねば匂うだろう。だが長旅で疲れている身で上着のような大物を洗うのは面倒くさい。
「今からそんな辺鄙なところに行って昼飯はどこで食えばいいんだ?」
「食堂もあるぜ。うちの島は牡蠣が取れるから今の時期はそればっかりだけどな」
「朝早くに出なきゃならないんだが」
「それなら仕入れの船の帰りに乗ればいいさ。帰りが空にならずに済んだって漕ぎ手も喜ぶぜ」
こうして説得されたカリードは一時間手漕ぎのゴンドラに揺られることにした。益体のない話でもしていればあっという間に過ぎるだろう。デアドラの中心部には港とセイロス教会と商工会がある。基本、宿屋の値段はこれらにどれだけ近いかで決まっていくのだが、カリードの選んだ宿屋は距離だけで見れば強気な値段設定をしていた。利便性ではなく設備と宿泊客への気配りで勝負に出ているらしい。
「静かでいい宿だぜ。騒々しいのが嫌いなお偉いさんの別荘も同じ島にあるから見えたら案内してやるよ」
「上屋敷を構えるには遠すぎないか?」
「貴族や豪商ってのはさ、デアドラで使う船も持ってる。滞在中は俺みたいな漕ぎ手を雇って、ずっと別荘で寝泊まりさせるから本人たちは早起きだけすればいいんだよ。すげえ身分だよな」
客引きとの会話に船の漕ぎ手も加わり、ああだこうだと話しているうちに客引きが瀟洒な屋敷を指差した。
「あのグロスタール屋敷の裏側がうちの宿の船着き場だよ。背中合わせになってるんだ」
カリードはその後のことをよく覚えていない。だが、滞在中ずっと客引きと漕ぎ手が異常に愛想良くしてきたので、無意識のうちに桁違いに高額な心付けを二人に払っていたらしい。畳む
「flow」番外編"Bargain.5"
#完売本 #クロロレ #flow #年齢操作
翌日、デアドラのグロスタール屋敷の使用人たちの間で嵐が発生していた。発生源である若様は幸せそうに黙って頬を染めているだけで埒が開かない。嵐はあの、いつも完璧であろうとする若様が朝食の時間になっても降りてこない、という事態から始まった。
グロスタール家の使用人のうち半数はグロスタール領の本家、ガルグ=マクそれとデアドラの上屋敷の間を定期的に移動している。どの屋敷でも支障なく働けるようにするためだ。だからデアドラの上屋敷で働いている者のうち、半数は妻を亡くし完全に病んでいたローレンツの姿を覚えている。あの痛ましい姿はなかなか忘れられるものではない。
その時の記憶が新しい召使が、朝食の時間になっても食堂に現れない若様を心配してローレンツを起こしにいった。扉を数度叩いて入室しても、まだすうすうと寝息をたてて眠っている。寝坊はしているがあの時期の眠れず起き上がれず、と言った不健康さは影を潜めていた。幸せそうな寝顔であることにまずは安心したが、それでも起こさねばならない。
「おはようございます。ローレンツ様、朝食の支度が整いました」
直接の声かけには流石に反応し、ローレンツの白く薄い瞼が上がった。菫青石のような若様の瞳が現れる。数度の瞬きの後、使用人の姿を認めたローレンツは寝坊に対しての照れ隠しなのか眉尻を下げ少し微笑んだ。
「ああ、おはよう。そうか、僕は寝坊してしまったのだな。急な予定変更ですまないが今朝はここで朝食を取りたい」
かすれた声でローレンツがそう命じると使用人は直ちに用意させていただきます、と言って部屋から下がった。一人きりになった部屋で重い身体をなんとか動かす。寝巻きの上からバスローブを羽織るのも一苦労だった。きちんと前を合わせないと鎖骨周りの鬱血痕が見えてしまう。クロードが宿に戻ったのは夜が明ける前だった。ほんの数時間前まで数年ぶりの、人には言えない行為に二人で没頭していたせいでひどく腰が痛む。ヒルダの元へ出向くまでに少しでも体力を回復させねばならない。
厨房では朝食は自室で、との変更を聞いた料理人が寝台用の小さな皿を出しながら、直接ローレンツと話した使用人を尋問していた。暗い雰囲気ではなかったが頬が赤く声が少しかすれていたと言う。皿を手にした彼女はグロスタール家に仕える古株で、かつてはローレンツの離乳食も作っていた。
「確か今回もどこかの偉い方々とお会いになるんだろう?喉に良いものをお出ししなくては」
「せっかくのお美しいお声があれでは……」
「胃と喉に優しいものにしないとね。牛乳で煮た粥に蜂蜜で甘味をつけてお出ししようか。この時期は干した檸檬しかないのが残念だよ。檸檬の蜂蜜煮を作って差し上げたかった」
「では次善の策としてジンジャーティーをおつけしよう」
結論が出た二人は顔を見合わせると大麦と生姜を探しに食糧貯蔵庫へと走った。
寝室で体調に配慮された朝食を終えたローレンツは軋む腰を庇いながら身支度を整えた。立襟の襯衣を着て念のために喉に襟巻きを巻く。喉はまだ引き攣れたような感覚が残っていた。これからは少し控えめにせねばならない。
カリードはローレンツより十才近く若いので歯止めが効かないのは当たり前だ。しかし昨日は久しぶりだったから、という言い訳があったせいで自分の箍も外れてしまった。
ローレンツの憔悴ぶりを心配した両親は息子のために様々なことを試している。全ての屋敷からローレンツの亡き妻が使っていた鏡台や寝台を運び出し、屋敷の構造を独身男性が住むものに作り替えた。他にも後添えを探そうとしたり彼らに思いついたこと、出来ることは全てやった。それでも好転しなかったため、苦し紛れに提案したのがパルミラへの旅行だった。かなり遠回りしたが結果は成功で、もうローレンツの目から勝手に涙がこぼれることもない。
当時のローレンツにとって後添え探しは言語道断だったし、模様替えも無害だが無意味と感じていた。両親の心遣いを昨日、カリードと再会するまでは本当に余計なお世話だと思っていた。しかし両親が模様替えをしていなければ、ローレンツはカリードを屋敷に呼ばなかっただろう。使う寝室も使うベッドも妻が生きていた頃とは全く異なっている。
約束の時間ぎりぎりまで横になっていたらなんとか、革の長靴で歩ける程度には腰や股関節の痛みが和らいだ。一安心したローレンツだが船着き場にもうひとつ大きな山があふ。水上で揺れる船の縁に足を踏み出すのが怖い。転倒してしまうかもしれない。
見送りに来てくれた使用人に手を貸してもらい、なんとか乗り込んだ。しかし踏みしめた一歩目で痛めている所に衝撃が走り、呻き声が出てしまう。なんとかやり過ごし席に着いたが、気が利く使用人は心配そうにローレンツを見つめている。
お気をつけて、と手を振って見送る使用人に応えてローレンツは小さく手を振った。漕ぎ手たちはそんな二人のやりとりに気をかけない。ようやく仕事だ、とばかりに力強く櫂を動かしはじめたので、見る見るうちにグロスタール屋敷は小さくなっていった。
パルミラで共に過ごした時と比べて、ローレンツの身体の負担が大きいのはカリードの背が伸びたからだ。その事に気づき、かっと熱くなった頬に潮風が心地よい。あの頃はつむじの位置も分かるほど彼は小さかった。そんな子供に依存するわけにいかない、と分かっていても離れるのが惜しくて半月も一緒に過ごしてしまった。
思いもよらぬ土地で再会出来たが、立派な青年になった彼と自分は今後どんな関係を築いていけば良いのだろう。本来ならヒルダからなぜデアドラに呼び出されたのかについて考えねばならない。だがローレンツの脳裏には全く関係ない私生活のことばかりが浮かんでいる。
その頃、グロスタール屋敷ではローレンツを見送った使用人が慌てて倉庫の中を漁っていた。旦那様が使う杖が一本くらい残されているか、と思ったが見つからない。同僚たちは湯沸かし釜の修理がらみで色々と忙しくしているので、昼食の際に皆に聞くしかなさそうだった。
昼食の時間は屋敷の使用人たちにとって、休憩時間であると同時に報告と打ち合わせの時間でもある。使用人たちは一切に今日の若様は様子がおかしい、という話を口々にし始めた。昨日まではおかしな所など何もなかった。お体の具合も良さそうだったし一体、何があったのだろう。
使用人たちがそれぞれ自分が何をみたのか語り合う中、洗濯係が遅れてやってきた。彼女が顔を真っ赤にして自分がどんな状態の敷布を洗ったのか、を告げるとデアドラのグロスタール屋敷に吹き荒れる嵐はその勢力を増した。昨晩の人払いはそういうことだったらしい。
夕食後に訪れた客の姿を見た唯一の使用人は周囲から詰問された。男だった、と告げると皆は息を呑んだ。肌が褐色で前髪を編んでいたのでパルミラ人のように見えたが、言葉が流暢で瞳が緑だったから本当にどこの者か全くわからないのだという。港町は日焼けしたものが多いし、パルミラ暮らしが長いだけかもしれない。小間使いたちは新たな恋の予感にはしゃぐものと若様が再び誰かの物になってしまう寂しさに気が塞ぐものの真っ二つに分かれた。
デアドラ港に到着しローレンツは漕ぎ手の手を借りながら下船した。港湾公社へと向かうにはいくつか橋を渡らねばならない。決死の覚悟で橋の階段を上った。橋の上からは港湾公社の建物全体を見ることができる。レスター地方はとにかく奢侈で軽薄と言われがちだが、ヒルダの執務室は最上階にあった。上に立つものは頑健であるべしという理想が間取りで体現されている。手摺りのありがたみを実感しているローレンツが今、そこまで上るのはかなり時間がかかるだろう。
約束の刻限を守るために己の身体を奮い立たせて階段の手摺りを掴んだローレンツはどうにか橋を降り始めた。元より道ゆく人とぶつかったりしないよう、視線を前の方にやりながら歩いていたからかもしれない。港湾公社から出てくるカリードの姿がローレンツの目に入った。彼もすぐにローレンツに気づいたらしく駆け寄ってくる。
「奇遇だな」
「昨日と比べれば必然にしか思わないけどな!」
確かに信じられないことに彼とローレンツは同じ街にいる。直立しているのが辛くて、階段の踊り場で手すりに腰を預けているローレンツには難なく階段を駆け上がってきたカリードの若さが眩しい。
「君の用事は終わったのか?」
「まあね。数年間の頑張りが報われたよ。あれ?具合悪いのか?」
褐色の手がローレンツの額に伸びてくる。美しく整えられた紫の髪の毛をかき分け温かい手が額に触れた。下の段にいるせいかカリードは爪先立ちになっていてローレンツからだとつむじが見える。まるで初めて会った頃のような身長差になった。
「風邪ではない。もし風邪を引いていたら翌日仕事だという君とその……ああいったことはしなかった。うつしてしまうだろう?そうではなくて腰が痛いのだ」
頬を染めてローレンツは白状した。思い当たる節しかないカリードは顔も真っ赤にして両手で顔を覆って何かを呟いている。
「………る」
「聞こえないぞ」
「責任取る。部屋まで送っていくから」
「部屋?何を言っている?」
「まだ守秘義務があるから言えないんだよ!」
カリードはローレンツの左側に寄り添って左脇に右腕を差し込み、左手で彼の左手を手に取った。共に前を向き階段を一歩ずつ下りていく。楽に移動が出来るようになったが段差に気を付けろ、だのなんだのといちいちカリードからの掛け声が入るのが少し恥ずかしい。だがこうなると予想できたのに我慢できなかった昨晩の自分がもっと恥ずかしい。結局カリードの言葉に甘えた状態で、ローレンツはヒルダの執務室がある最上階まで階段を上りきった。
「降りる時も手伝うからここで待ってる」
「時間がかかるかもしれないぞ」
執務室の扉のすぐ前に謎の男が立っているのは邪魔にならないのだろうか。ローレンツは執務室の扉を叩いた。内側から扉を開けてくれたのはレオニーではなくローレンツよりも背が高い男の秘書だった。今日ヒルダの執務室を訪れる男共はがっかりするだろう。
「久しぶりね、さあ座って」
本当に幸いなことに椅子を勧められ、業務とは一切関わりのなさそうな筋肉を蓄えた黒髪の秘書が淹れてくれた紅茶にありがたく口をつける。茶器から漂う薔薇の香りが昂っていた神経を落ち着かせてくれた
「調子はどうなの?」
ローレンツの紅茶の好みも調子を崩していた頃の様子も知るヒルダの飾り気がない言葉には重みがあった。ローレンツは周りを心配させた、という事実と付き合う日々をまだ過ごさねばならない。
「調子は良いつもりです」
「そう、それならその状態を保ってちょうだい。私は近々ゴネリル領に帰るから色々と根回しが必要なのよ」
何故ヒルダが自分に教えてくれるのかは分からないが、長くデアドラ港の港長を務めたヒルダの後任は大変だろう、と他人事ながらローレンツは同情した。
「次はあなただから。だってあなたテュルソスの杖が使えるでしょう?」
ローレンツの茶器が派手に音を立てた。動揺したせいで、立ち振る舞いに影響が出るなどあってはならないことなのに。
「僕ですか?!しかし僕はその……よろしいのでしょうか?」
ひどく調子を崩していた頃の自分を知るヒルダが、後継者として自分を選ぶと考えていなかったローレンツは口籠った。
「もう貴方のための〝クロード〟も用意したわ。それにエドマンド伯やコーデリア伯に改めてお伝えする場で、私が最も信頼する部下を紹介する」
「なんだか……ありがたくはあるのですが外堀を埋められたような……」
名誉ある職に就くことになった、と扉の前で待つカリードやグロスタール領で待っている家族たちに伝えたらきっと喜んでくれるだろう。そう考えるだけでローレンツの顔は綻んだ。
「良い知らせは先に伝えたわ。悪い知らせは後ほどエドマンド伯やコーデリア伯と一緒に聞いてちょうだい。それとこの話はまだお父上以外にはしないで。良いわね?」
頃合いを見計らって茶器を下げにきた秘書がヒルダに耳打ちをした。
「あらバルタザール、もうそんな時間なの?予定が詰まっているのでとりあえずこの話はこれでおしまい。しばらくデアドラで楽しんでからグロスタール領に戻ると良いわ。ご両親とストームへのお土産を忘れず買いなさい」
ローレンツが退出しようとすると何も言わずに大柄なバルタザールが、椅子から立ち上がるのに手を貸してくれた。嫌な予感がする。
「この部屋の窓からは橋の上がよく見えるのよ。〝クロード〟とは節度をもって仲良くなさい。お大事にね」畳む
#完売本 #クロロレ #flow #年齢操作
翌日、デアドラのグロスタール屋敷の使用人たちの間で嵐が発生していた。発生源である若様は幸せそうに黙って頬を染めているだけで埒が開かない。嵐はあの、いつも完璧であろうとする若様が朝食の時間になっても降りてこない、という事態から始まった。
グロスタール家の使用人のうち半数はグロスタール領の本家、ガルグ=マクそれとデアドラの上屋敷の間を定期的に移動している。どの屋敷でも支障なく働けるようにするためだ。だからデアドラの上屋敷で働いている者のうち、半数は妻を亡くし完全に病んでいたローレンツの姿を覚えている。あの痛ましい姿はなかなか忘れられるものではない。
その時の記憶が新しい召使が、朝食の時間になっても食堂に現れない若様を心配してローレンツを起こしにいった。扉を数度叩いて入室しても、まだすうすうと寝息をたてて眠っている。寝坊はしているがあの時期の眠れず起き上がれず、と言った不健康さは影を潜めていた。幸せそうな寝顔であることにまずは安心したが、それでも起こさねばならない。
「おはようございます。ローレンツ様、朝食の支度が整いました」
直接の声かけには流石に反応し、ローレンツの白く薄い瞼が上がった。菫青石のような若様の瞳が現れる。数度の瞬きの後、使用人の姿を認めたローレンツは寝坊に対しての照れ隠しなのか眉尻を下げ少し微笑んだ。
「ああ、おはよう。そうか、僕は寝坊してしまったのだな。急な予定変更ですまないが今朝はここで朝食を取りたい」
かすれた声でローレンツがそう命じると使用人は直ちに用意させていただきます、と言って部屋から下がった。一人きりになった部屋で重い身体をなんとか動かす。寝巻きの上からバスローブを羽織るのも一苦労だった。きちんと前を合わせないと鎖骨周りの鬱血痕が見えてしまう。クロードが宿に戻ったのは夜が明ける前だった。ほんの数時間前まで数年ぶりの、人には言えない行為に二人で没頭していたせいでひどく腰が痛む。ヒルダの元へ出向くまでに少しでも体力を回復させねばならない。
厨房では朝食は自室で、との変更を聞いた料理人が寝台用の小さな皿を出しながら、直接ローレンツと話した使用人を尋問していた。暗い雰囲気ではなかったが頬が赤く声が少しかすれていたと言う。皿を手にした彼女はグロスタール家に仕える古株で、かつてはローレンツの離乳食も作っていた。
「確か今回もどこかの偉い方々とお会いになるんだろう?喉に良いものをお出ししなくては」
「せっかくのお美しいお声があれでは……」
「胃と喉に優しいものにしないとね。牛乳で煮た粥に蜂蜜で甘味をつけてお出ししようか。この時期は干した檸檬しかないのが残念だよ。檸檬の蜂蜜煮を作って差し上げたかった」
「では次善の策としてジンジャーティーをおつけしよう」
結論が出た二人は顔を見合わせると大麦と生姜を探しに食糧貯蔵庫へと走った。
寝室で体調に配慮された朝食を終えたローレンツは軋む腰を庇いながら身支度を整えた。立襟の襯衣を着て念のために喉に襟巻きを巻く。喉はまだ引き攣れたような感覚が残っていた。これからは少し控えめにせねばならない。
カリードはローレンツより十才近く若いので歯止めが効かないのは当たり前だ。しかし昨日は久しぶりだったから、という言い訳があったせいで自分の箍も外れてしまった。
ローレンツの憔悴ぶりを心配した両親は息子のために様々なことを試している。全ての屋敷からローレンツの亡き妻が使っていた鏡台や寝台を運び出し、屋敷の構造を独身男性が住むものに作り替えた。他にも後添えを探そうとしたり彼らに思いついたこと、出来ることは全てやった。それでも好転しなかったため、苦し紛れに提案したのがパルミラへの旅行だった。かなり遠回りしたが結果は成功で、もうローレンツの目から勝手に涙がこぼれることもない。
当時のローレンツにとって後添え探しは言語道断だったし、模様替えも無害だが無意味と感じていた。両親の心遣いを昨日、カリードと再会するまでは本当に余計なお世話だと思っていた。しかし両親が模様替えをしていなければ、ローレンツはカリードを屋敷に呼ばなかっただろう。使う寝室も使うベッドも妻が生きていた頃とは全く異なっている。
約束の時間ぎりぎりまで横になっていたらなんとか、革の長靴で歩ける程度には腰や股関節の痛みが和らいだ。一安心したローレンツだが船着き場にもうひとつ大きな山があふ。水上で揺れる船の縁に足を踏み出すのが怖い。転倒してしまうかもしれない。
見送りに来てくれた使用人に手を貸してもらい、なんとか乗り込んだ。しかし踏みしめた一歩目で痛めている所に衝撃が走り、呻き声が出てしまう。なんとかやり過ごし席に着いたが、気が利く使用人は心配そうにローレンツを見つめている。
お気をつけて、と手を振って見送る使用人に応えてローレンツは小さく手を振った。漕ぎ手たちはそんな二人のやりとりに気をかけない。ようやく仕事だ、とばかりに力強く櫂を動かしはじめたので、見る見るうちにグロスタール屋敷は小さくなっていった。
パルミラで共に過ごした時と比べて、ローレンツの身体の負担が大きいのはカリードの背が伸びたからだ。その事に気づき、かっと熱くなった頬に潮風が心地よい。あの頃はつむじの位置も分かるほど彼は小さかった。そんな子供に依存するわけにいかない、と分かっていても離れるのが惜しくて半月も一緒に過ごしてしまった。
思いもよらぬ土地で再会出来たが、立派な青年になった彼と自分は今後どんな関係を築いていけば良いのだろう。本来ならヒルダからなぜデアドラに呼び出されたのかについて考えねばならない。だがローレンツの脳裏には全く関係ない私生活のことばかりが浮かんでいる。
その頃、グロスタール屋敷ではローレンツを見送った使用人が慌てて倉庫の中を漁っていた。旦那様が使う杖が一本くらい残されているか、と思ったが見つからない。同僚たちは湯沸かし釜の修理がらみで色々と忙しくしているので、昼食の際に皆に聞くしかなさそうだった。
昼食の時間は屋敷の使用人たちにとって、休憩時間であると同時に報告と打ち合わせの時間でもある。使用人たちは一切に今日の若様は様子がおかしい、という話を口々にし始めた。昨日まではおかしな所など何もなかった。お体の具合も良さそうだったし一体、何があったのだろう。
使用人たちがそれぞれ自分が何をみたのか語り合う中、洗濯係が遅れてやってきた。彼女が顔を真っ赤にして自分がどんな状態の敷布を洗ったのか、を告げるとデアドラのグロスタール屋敷に吹き荒れる嵐はその勢力を増した。昨晩の人払いはそういうことだったらしい。
夕食後に訪れた客の姿を見た唯一の使用人は周囲から詰問された。男だった、と告げると皆は息を呑んだ。肌が褐色で前髪を編んでいたのでパルミラ人のように見えたが、言葉が流暢で瞳が緑だったから本当にどこの者か全くわからないのだという。港町は日焼けしたものが多いし、パルミラ暮らしが長いだけかもしれない。小間使いたちは新たな恋の予感にはしゃぐものと若様が再び誰かの物になってしまう寂しさに気が塞ぐものの真っ二つに分かれた。
デアドラ港に到着しローレンツは漕ぎ手の手を借りながら下船した。港湾公社へと向かうにはいくつか橋を渡らねばならない。決死の覚悟で橋の階段を上った。橋の上からは港湾公社の建物全体を見ることができる。レスター地方はとにかく奢侈で軽薄と言われがちだが、ヒルダの執務室は最上階にあった。上に立つものは頑健であるべしという理想が間取りで体現されている。手摺りのありがたみを実感しているローレンツが今、そこまで上るのはかなり時間がかかるだろう。
約束の刻限を守るために己の身体を奮い立たせて階段の手摺りを掴んだローレンツはどうにか橋を降り始めた。元より道ゆく人とぶつかったりしないよう、視線を前の方にやりながら歩いていたからかもしれない。港湾公社から出てくるカリードの姿がローレンツの目に入った。彼もすぐにローレンツに気づいたらしく駆け寄ってくる。
「奇遇だな」
「昨日と比べれば必然にしか思わないけどな!」
確かに信じられないことに彼とローレンツは同じ街にいる。直立しているのが辛くて、階段の踊り場で手すりに腰を預けているローレンツには難なく階段を駆け上がってきたカリードの若さが眩しい。
「君の用事は終わったのか?」
「まあね。数年間の頑張りが報われたよ。あれ?具合悪いのか?」
褐色の手がローレンツの額に伸びてくる。美しく整えられた紫の髪の毛をかき分け温かい手が額に触れた。下の段にいるせいかカリードは爪先立ちになっていてローレンツからだとつむじが見える。まるで初めて会った頃のような身長差になった。
「風邪ではない。もし風邪を引いていたら翌日仕事だという君とその……ああいったことはしなかった。うつしてしまうだろう?そうではなくて腰が痛いのだ」
頬を染めてローレンツは白状した。思い当たる節しかないカリードは顔も真っ赤にして両手で顔を覆って何かを呟いている。
「………る」
「聞こえないぞ」
「責任取る。部屋まで送っていくから」
「部屋?何を言っている?」
「まだ守秘義務があるから言えないんだよ!」
カリードはローレンツの左側に寄り添って左脇に右腕を差し込み、左手で彼の左手を手に取った。共に前を向き階段を一歩ずつ下りていく。楽に移動が出来るようになったが段差に気を付けろ、だのなんだのといちいちカリードからの掛け声が入るのが少し恥ずかしい。だがこうなると予想できたのに我慢できなかった昨晩の自分がもっと恥ずかしい。結局カリードの言葉に甘えた状態で、ローレンツはヒルダの執務室がある最上階まで階段を上りきった。
「降りる時も手伝うからここで待ってる」
「時間がかかるかもしれないぞ」
執務室の扉のすぐ前に謎の男が立っているのは邪魔にならないのだろうか。ローレンツは執務室の扉を叩いた。内側から扉を開けてくれたのはレオニーではなくローレンツよりも背が高い男の秘書だった。今日ヒルダの執務室を訪れる男共はがっかりするだろう。
「久しぶりね、さあ座って」
本当に幸いなことに椅子を勧められ、業務とは一切関わりのなさそうな筋肉を蓄えた黒髪の秘書が淹れてくれた紅茶にありがたく口をつける。茶器から漂う薔薇の香りが昂っていた神経を落ち着かせてくれた
「調子はどうなの?」
ローレンツの紅茶の好みも調子を崩していた頃の様子も知るヒルダの飾り気がない言葉には重みがあった。ローレンツは周りを心配させた、という事実と付き合う日々をまだ過ごさねばならない。
「調子は良いつもりです」
「そう、それならその状態を保ってちょうだい。私は近々ゴネリル領に帰るから色々と根回しが必要なのよ」
何故ヒルダが自分に教えてくれるのかは分からないが、長くデアドラ港の港長を務めたヒルダの後任は大変だろう、と他人事ながらローレンツは同情した。
「次はあなただから。だってあなたテュルソスの杖が使えるでしょう?」
ローレンツの茶器が派手に音を立てた。動揺したせいで、立ち振る舞いに影響が出るなどあってはならないことなのに。
「僕ですか?!しかし僕はその……よろしいのでしょうか?」
ひどく調子を崩していた頃の自分を知るヒルダが、後継者として自分を選ぶと考えていなかったローレンツは口籠った。
「もう貴方のための〝クロード〟も用意したわ。それにエドマンド伯やコーデリア伯に改めてお伝えする場で、私が最も信頼する部下を紹介する」
「なんだか……ありがたくはあるのですが外堀を埋められたような……」
名誉ある職に就くことになった、と扉の前で待つカリードやグロスタール領で待っている家族たちに伝えたらきっと喜んでくれるだろう。そう考えるだけでローレンツの顔は綻んだ。
「良い知らせは先に伝えたわ。悪い知らせは後ほどエドマンド伯やコーデリア伯と一緒に聞いてちょうだい。それとこの話はまだお父上以外にはしないで。良いわね?」
頃合いを見計らって茶器を下げにきた秘書がヒルダに耳打ちをした。
「あらバルタザール、もうそんな時間なの?予定が詰まっているのでとりあえずこの話はこれでおしまい。しばらくデアドラで楽しんでからグロスタール領に戻ると良いわ。ご両親とストームへのお土産を忘れず買いなさい」
ローレンツが退出しようとすると何も言わずに大柄なバルタザールが、椅子から立ち上がるのに手を貸してくれた。嫌な予感がする。
「この部屋の窓からは橋の上がよく見えるのよ。〝クロード〟とは節度をもって仲良くなさい。お大事にね」畳む
「flow」第2部 ※ここから現パロです1.嘘しかつけないクロード
#完売本 #クロロレ #flow #台詞まとめ #ペトラ#現パロ
たった一年で済むはずのクロードの留学は家庭の事情が拗れた影響で伸びに伸びた。帰国が叶わず翌年、そのまま首都ガルグ=マクにある国立ガルグ=マク大学に進学している。帰国後にややこしいことにならぬよう、通常の就職ではなく研究職に就いた。
黒い瞳に黒い髪、それに褐色の肌をしたものしかいないパルミラからフォドラへやってきた当初、クロードはは人々の髪や瞳の多彩さに驚いた。だが今は全く驚いていない。山の湿った空気や朝靄に最初は戸惑っていたが、今は逆に乾燥したパルミラの空気で喉を痛めてしまうだろう。
高校生の頃は未成年という立場が、大学生の頃は国立ガルグ=マク大学の名がフォドラ社会の視線からクロードを守ってくれた。街中で大学のロゴ入りパーカーを着ているとフォドラ有数の名門校なだけあって好意的に見られる。
学生さん勉強頑張ってね、とかフォドラ語が上手いね等の優しい言葉をかけられた。クロードのパーカーを見た若い母親がお勉強を頑張ってあのお兄ちゃんみたいに良い大学に行ってね、と我が子に語りかけるというこそばゆいエピソードも多々あったが、今は一切ない。
クロードの見た目が緑色の瞳以外は完全にパルミラ人の成人男性になったからだ。人間は本当に容赦がない。緑の瞳はパルミラにいた頃は異物、混ざりものといじめられる原因になったが、フォドラの人々はクロードの中のフォドラに気づかない。肌の色で判断し、フォドラでの研究成果を盗み出す余所者と見做す。
そんな冷たい目で見られるたびに自分に緑の瞳を与えてくれたフォドラ出身の母が、故郷の人々から無視されていることを実感する。きっとパルミラの男と子供を作った女など爪弾きにするつもりだろう。
しかし悲しいことにクロードはそんな視線にも慣れてしまった。きっと研究所の同僚たちはクロードが見ていることなど全く気にせず今日もSNSに自分の職場にパルミラ人がいるという愚痴を書き、排外的な記事をシェアすることだろう。
クロードは自分からSNSアカウントをあまり動かしていない。しかしガルグ=マクからアンヴァルにある先端医療研究所へ出向中のリンハルトがダイレクトメッセージを面倒くさがって、クロードとタイムラインでやりとりしたがるのだ。
だからクロードのアカウントはどうしても同僚たにの目についてしまう。彼らはきっとその件でも苛ついている筈だ。以前、クロードはリンハルトに高校時代のように先輩後輩としてパルミラ人の自分とやりとりしている件で、周囲から何か嫌味を言われていないのか聞いたことがある。
彼の答えは「他人から注目されなかったことがないから特に気にしない」だった。確かにアドラステア帝国時代から続く名家、六大貴族ヘヴリング家の者は常に注目されるだろう。研究所の同僚たち、というかフォドラの人々はフォドラ屈指の名家であるヘヴリング家のリンハルト、それにブリギットからこの研究所へやってきたペトラとパルミラ人が親しいのが気に食わない。
フォドラ統一戦争の際にまだ姫君だったブリギットの女王は統一王ベレトと共に最前線で戦い、戦後は真っ先に不可侵条約を結んでいる。その条約を八百年の長きに渡って忠実に守り続けるブリギットはフォドラの人々にとっては特別な相思相愛の外国だ。そのブリギットと比べるとパルミラはかなり分が悪い。大陸統一前から何度となくレスター地方へ攻め込み、統一後はフォドラの船を狙い撃ちにする私掠船で財を築いた。掠奪を止める条件として九十九年間デアドラ近郊に租界を作らせたのだから良い感情を持たれないのは当たり前だった。
だがそんな国際情勢や歴史はペトラとクロードの友情に関係ない。二人は共にアーチェリーが好きで.母国ではない土地に異邦人として暮らしているから気が合う。ただそれだけだ。
だからクロードを連行するため宗教警察が研究所へやって来た時、心の底から心配してくれたのはペトラだけだった。
若草色の髪に若草色の瞳、女神への純粋な信仰心を表す白い制服に身を包む彼ら宗教警察は司法警察と同じく捜査・逮捕・勾留の権限を持ち、司法警察ならば検察に任せる起訴に関しても権限を持っている。そして裁判所は絶対に彼らに逆らわない。そんな宗教警察の前で白衣姿のペトラは妹のようにクロードを抱きしめた。
「クロード、出たら連絡すぐ!私、クロードの連絡、怖れません!」
ペトラの勇気と親愛の情に感動したクロードは細かく美しく編まれたペトラの柔らかいブレイズヘアを兄のようにそっと撫でた。異母兄弟とこんな風に打ち解けたことはないので、こんな仲の友人が出来ただけでもフォドラに来た甲斐はあったのかもしれない。アンヴァルにいるリンハルトや彼女に迷惑をかけないため、クロードは宗教警察の車中でずっと口を閉じていた。
こうして全く身に覚えのないままクロードはパルミラ大使館と連絡を取ることも許されず、宗教警察に連行された。ポケットに入れっぱなしになっていたスマートフォンを取り上げられた状態なので取調室に放置されているのも退屈で辛い。壁の染み全てにフォドラ語とパルミラ語の名前をつけ終えた頃、ようやく捜査官がやってきた。乱暴に腕を掴まれ別の部屋に連れて行かれる。
次に通された部屋は先ほどの薄汚れた取調室と違い、殺風景なことに変わりはないが改装したての室内の匂いがした。おそらくマジックミラーになっているのであろう、黒く鈍く光る横長の不自然に大きな鏡や天井に埋め込まれた空調が真新しく清潔に保たれている。何故かその新しさと快適さがクロードの恐怖を掻き立てた。
捜査官が壁のパネルを操作するとマジックミラーが透明に変化していく。こっそり観察するためのものなのに向こう側をクロードに見せて何の意味があるのだろうか。意図が読めず戸惑いながらミラーを眺めているとそこには信じられない光景が広がっていた。
ガラスの向こうにはフォドラに来た最初の年に面倒を見てくれた高校時代の恩師、ベレトらしき男が座っている。クロードが判断を保留したのは彼の髪の色と瞳の色がクロードの知るベレトと異なっているからだ。宗教警察の捜査官達と同じ若草色の髪に若草色の瞳。クロードの知るベレトは黒髪に黒い瞳だった。
「答えてくれ。あれは本当に俺の知る先生なのか?」
「そうですよ」
捜査官の言葉に驚いたクロードはガラスの向こうがどんなことになっているのか改めて観察した。ベレトは囚人服ではなく、襟元が少し伸びてしまった白の長袖のTシャツに少し色が落ちた紺色のデニムを身につけていた。空調次第では寒さを感じるだろう。そして靴を取り上げられたようで裸足の右足首と右手首が鎖で繋がれ、もう片方の足首には発信器が取り付けられていた。彼が今いる部屋の真っ白な内装と共に異様な雰囲気を放っている。
「先生、先生!一体何があったんだ!」
クロードは拘束されていなかったのでベレトの足元がどうなっているのか気づいた瞬間にマジックミラーに近寄り、必死になって特殊ガラスを叩いた。ベッドの上に体育座りをしている恩師に話しかけてみたが反応がない。向こうからはクロードの姿が見えず声も聞こえないのかもしれない。特殊ガラスにすがるクロードをこの部屋に連れてきた捜査官が無理矢理引き剥がした。
「〝協力〟して欲しいのですよ。彼はザナドなど複数の聖地に不法侵入しました。大罪です。どうしてその様なことに及んだのか調べねばなりません」
「たったそれだけで靴も取りあげたのか!パルミラならともかくフォドラは家の中でも靴を履くのに!」
捜査官はクロードのたったそれだけ、という表現を聞いて不愉快そうに舌打ちをした。
「彼とは今ちょっとした行き違いがあって、意思の疎通が少し難しい状態です。しかし取り調べが終わらねば保釈も出来ません。彼を早く自由の身にしたいですよね?」
こうしてクロードから尋問に協力する、以外の選択肢が失われてしまった。再び捜査官がパネルを操作するとようやく双方向通話が可能になった。ベレトはクロードを認識した様で微かに笑みを浮かべている。
「狂った竜の話をしようか」
「竜?パルミラの飛竜のことか?」
「白くて大きくて光の柱をあやつるんだ」
防弾ガラス越しにクロードに語りかけてきたベレトは目の前の教え子ではなく、その場にいない別の誰かに話しかけているような遠い目をしていた。
家庭の事情で留学することが決まった時、フォドラ育ちの母からかなりきつくセイロス教の禁忌に触れない様に、と注意された。しかし当時のクロードは大袈裟だという印象を受けたし、どうせ罰金刑くらいだろうと考えていた。ところがどうだろう。ベレトは秘密裏に捕われ、正気を保っているのかどうかすら怪しい。
「多少の誤差はあるがこの機会を逃す訳にいかない」
「先生、俺は先生が何を言ってるのか全く分からない」
特殊ガラス越しに交わされるクロードとベレトの会話を監視している捜査官にとって期待外れだろうがなんだろうがそう言うしかない。
「また近々話そう」
「今のは流石にわかったぞ。だがこんな環境で何を話すんだ?」
「クロードは今月誕生日だろ?カードと薔薇の花を送りたいから住所を教えてくれ」
教えて良いものか迷ったクロードは自分の傍に立つ捜査官をちらりと眺めた。捜査官が微かにうなづいたので茶番だと思いつつ、手持ちのレシートの裏に住所を書いてベレトがきちんと読めるようにガラスに押し付けた。
「割と便利なところに住んでるな」
クロードたちを見張る捜査官が、出来るだけ多く聞き取って解析したいのはこういうきちんと成立した会話ではなく先ほどの様な独り言なのかもしれない。何の根拠もなく、ふとそう思ったがクロードにベレトの発言をコントロールなど出来るはずがない。その後は面談を終えて良い、と捜査官から言われるまでベレトが口を開くことはなかった。
ベレトとの不可解な面会終了後、スマートフォンは返却されたがおそらく中によろしくないものが仕込まれているだろう。ペトラに電話するか迷ったがクロードからの連絡を怖れない、と言い切ってくれた彼女に敬意を表して無事を伝えた。
期待外れだったのかその後、クロードが宗教警察から呼び出されベレトと面談をする頻度は時を経る毎に減っていった。
研究所の上司も同僚も宗教警察に目をつけられたクロードをはっきりと避けるようになった。しかしクロードは彼らを責める気にはなれない。ペトラだけはクロードの手助けをしようとしてくれたが、周囲によって巧妙に遠ざけられている。後輩のリンハルトがガルグ=マクにいてくれればまた違ったかもしれない。
だが全て自力でやれ、と言わんばかりに周囲から人がいなくなり、クロードは自分の誕生日も思い出せなかったほど忙しくしていた。それなのにある問い合わせについて対応しろ、と上司から言われた。本人がもう来ているのに誰も手が空いていないという。
この研究所の事務処理は一体どうなってるんだ、と苛立ちながらクロードが応接室のドアを開けた。黒いレザージャケットにワインレッドのシャツ、という研究機関を訪れるには少し派手な身なりの男性が来客用のカップの中でも最も値がはるティーカップを手に座っている。アシンメトリーに伸ばされた紫の髪は美しく整えられ、肌は磁器のように白い。整った鼻筋と紫水晶のような瞳が見る人にシャープな印象を与える。手足が細長い典型的なフォドラの美丈夫だ。
クロードの客にも関わらず、お高い茶器を出してもらっているのは来客を確認するモニターで女子の皆さんによる顔面の審査に合格し、玄関から応接室までの数メートルで案内役を〝落とした〟からだろう。
「ローレンツ=ヘルマン=グロスタールだ。国立ガルグ=マク大学で認知考古学を研究している。研究に協力してくれる神経科学の専門家を紹介して欲しい、と相談したらここを紹介された」
ローレンツがカップを置き、立ち上がって握手を求めてきたのでクロードも名乗って手を差し出した。手首に香水でもつけているのか彼からは薔薇の香りがする。手を握られた際に白く長い指でそっと白衣の袖口に畳んだ紙を差し込まれた。突然のことに驚愕したクロードだが、ここで過剰に反応するのも未熟さを晒すだけような気がして必死で無反応を装った。
袖口の感触に思考の一部をとらわれながら彼の研究にクロードがどう協力できるのか、について二人で話していたらあっという間に時間が経ってしまった。とりあえず今日のところはこの辺で、と玄関まで見送った時に彼の方が足が長く歩幅が大きいことが分かり、それが少し悔しい。解散してすぐにクロードはトイレの個室に駆け込んだ。
袖口から紙を取り出すとそこには「誕生日おめでとう」とだけ書いてある。握手した時のひんやりとした手の感触を思い出したクロードはバツが悪そうな顔をして、ベレトからの祝いの言葉が書かれた紙を破いてトイレに流した。帳尻を合わせるためにも改めて彼の私的な連絡先を聞き出さなくてはならない。畳む
「flow」第2部 2.神様の足跡
#完売本 #クロロレ #flow #現パロ
フォドラの殆どの地域において野生の飛竜は十八世紀頃に絶滅している。現在使役動物としてフォドラで使用されている飛竜はダグザ原産の品種で、牧場で繁殖させたものだ。パルミラとの国境近くにあるクパーラ居留地にはまだ野生の群れが残っているが、数が減り中世のように気軽な使役動物には出来ない。
絶滅させないように全ての個体に認識番号が与えられ、保護区で政府と学者たちに守られている。死因がなんであれ亡骸が見つかれば解剖され剥製にされる状態だ。それが現代の弔いだとしたら、遠い未来の人々は現代人の精神の営みをどう感じるのだろうか。
埋葬の仕方やその時に施された装飾などは当時の人々の精神を分かりやすく教えてくれる。ローレンツは学部生たちに向けて認知考古学の説明をする際、フォドラ各地に残っている軍馬の慰霊碑を例に出す。
羽をつけてしまうと天馬と見分けがつかなくなるのだが、戦闘で命を落とした軍馬たちを悼んだ中世フォドラの人々は彼らが天国へ直接飛んで行くことを望んだらしい。軍馬たちをレリーフに刻む時、彼らの背中に羽を彫った。一方で天馬は埋葬する際にオーナーが角を折って角だけを手元に残して美しい箱に入れる。そのようにして生前の姿を偲ぶ風習があったせいか、天馬たちは角のない姿でレリーフに刻まれていた。とにかく慰霊碑のレリーフだけを見ると馬なのか天馬なのか判別出来ない。
では何故軍馬も天馬も慰霊碑に残したのが、死後の姿であったのか。このように残された遺物から当時の人々の精神や身体の営みを考察するのが認知考古学だ、というと分かってもらいやすいからだ。
ローレンツは碑文が傷んで読めなくなっている慰霊碑に狙いを定め、ガルグ=マク公文書館で取り寄せ可能な全ての軍馬と軍用天馬の登録書類と傷んだ慰霊碑を管理している修道院や教会に納められた台帳を照らし合わせた。どの慰霊碑が軍馬のものでどの慰霊碑が軍用天馬のものであったのかを丹念に調べ、その結果を論文にまとめて博士号を取得している。
社会科を教えていたベレトはローレンツの学位取得をとても喜んで論文の感想をメールで寄越した。それをきっかけにゆるやかなやりとりが2人の間で交わされるようになっている。ただし、なかなか直接会うことは叶わなかった。ローレンツはそれが自分が多忙であるからだ、と思い込んでいた。
ザナドにはセイロス教の主神である女神ソティスとその娘である大司教レアが眠っている。戦後レアが体調を崩して亡くなった時、彼女が寂しくないようにベレトは天帝の剣をレアの胸に抱かせて葬った。本当に君はそれでいいのか、と戸惑いながらも問うたセテスの顔を今でも覚えている。
ベレトがレアの弔いのためだけにフォドラ最強の武器を手放したからだ。ナバテアの民のものをナバテアの民へ返した件について今でも悔いはない。ただローレンツの論文を読んであること思い出した。
レアの亡骸を納めた棺は二重になっている。外側の棺は当時の典型的なフォドラの装飾が施されていたが内側の棺は全く違う。セテスの指示で、幾何学的な模様と当時のベレトが絶対に見たことがない物のレリーフが彫られていた。だが、現代人ならひと目見て理解する。
何百年か前に眷族の亡骸を悪用されない埋葬方法について調べた時は結局答えが出なかった。
───だがあれなら。
クロードの学年を担当した後、ベレトは更に強烈な眠気を感じるようになった。これではもう教師を続けられない。そう考えて職を辞している。
ソティスが教えてくれた寿命が近づきつつあるだけ、と分かっていたのでクパーラには行かなかった。ありがたいことに、かつてシルヴァンが贈与してくれたブレーダッドオイル株のおかげで生活費には困らない。うたた寝の合間に自分が作った街を彷徨って砂山が風に撒き散らされて消えるように独り、この世を去るのだろう。そう思っていたベレトだがローレンツのおかげで最後に答えを見つけられた。
ならば起きている間は悔いがないように動かねばならない。
ベレトが再び動き始めた頃、英雄の遺産が当時の人々からどのように認知されていたのか、を研究テーマに定めたローレンツはどうしても神経科学の専門家───特に物の見え方について詳しい専門家に協力してもらう必要があるのに見つからず、困っていた。当たり前だが彼はベレトが抱える事情など知る由もない。ローレンツが呑気に自分の研究に協力してくれそうな神経科学の専門家を知らないか、と恩師に問い合わせてきた。
教え子たちとゆるく交流しつつフォドラ各地にあるナバテアの民の痕跡を探るくらいなら、在野の研究者の行動として見逃されただろう。だがベレトはセイロス教会が聖地として封印していた墓所に入り込んでは、フォドラの民からは隠されていた内棺のレリーフがどんなものであったか確かめて回っていた。宗教警察からすれば度し難い行為だろう。
宗教警察のベレトに対する態度は事情がわからないものからすれば矛盾していた。聖地に入り込んで墓暴きをした時点で射殺されてもおかしくないのに何故か勾留している。ベレトは行動だけ見れば許し難い大罪人ではあるがそれと同時に逮捕時の抵抗ぶりから、彼が眷族である可能性が排除できないからだ。
加えて彼の唐突な眠りや深い眠り、それに半覚醒状態がナルコレプシーのようなヒトの病気なのか、弱った眷族や弱った白きものが陥る状態異常なのか宗教警察には分からない。墓暴きを阻止するためにも、衰弱死される前に保護して調べるためにも宗教警察はベレトを勾留する必要があった。
後に変わり果てたベレトを見たクロードが発した「どうして」は宗教警察に向けられていたが、ローレンツが発した「どうして」は恩師ベレトに向けられていた。フォドラ育ちかどうかの違いだろう。
「先生、どうしてそんな危険なことをしたんだ」
「天啓があった」
その天啓はローレンツの論文からもたらされた、と伝えると更に揉めそうなのでベレトは必要最低限のことしか言わなかった。
「手続きを蔑ろにするなと僕に教えてくれたのは先生ではないか!!」
「そうだな、現代社会で手続きを蔑ろにした結果がこれだ」
そう言ってベレトはガラス越しに右腕の鎖をじゃらじゃらと振った。ローレンツが苛立ちと心配のあまり震えながらとにかく何か言い返そうとしたその時、ベレトは意識を失い床に崩れ落ちた。その光景を見た捜査官がため息を吐いてタッチパネルを操作し始める。
医者らしきスタッフが現れ、ガラス越しの会話は不可能になった。老けない人だと思っていたがそんな単純化、合理化は良くなかったのかもしれない。ベレトのいる部屋から視線を外さず、ローレンツは捜査官に話しかけた。答えが得られずとも問うことが止められない。
「あなた方は僕に何をさせたい。変わった人だが世話になったんだ」
「いつもはとても無口なのです。何をしようと話さない」
「被告人の不利になるのなら僕は絶対に協力しない」
ガラスの向こうの部屋ではローレンツが医師だと思った男がベレトのバイタルを確認し、レストを掛けている。どうやら修道士のようだった。そしてレストは効き目がないらしい。あの急激な意識の喪失は状態異常ではない可能性がある。
「これは私個人の考察に過ぎませんが彼は死につつある。アポトーシス状態です」
その言葉を聞いたローレンツは捜査官を殴らず、その代わりに睨みつけた。声を荒げないでいられるだろうか。
「では治癒専門の修道士がいる施療院か病院か医療刑務所に移送すべきだ」
「その前に一体彼が何を知っているのか、何をしようとしたのか把握せねばなりません。それが把握出来なければ移送は不可能です」
このままこの部屋で誰にも会わせず死なせたいですか?と捜査官から問われ、ローレンツから尋問に協力する以外の選択肢が失われてしまった。きっとローレンツ自身も痛くもない腹を探られるだろう。
ベレトが逮捕された時、ローレンツはパルミラにおいてゴネリル家に伝わる十傑の遺産、フライクーゲルがどの様に記録されていたのかを調査していた。国を跨ぐとネット回線には色々と不具合が起きるものらしい。逮捕前の恩師から送信されていた謎の圧縮ファイルは上手く開けず、ローレンツがパルミラにいる間だけ使っていた現地のフリーメールサービスのサーバー上にずっと残っている。あれの正体も彼らは暴くのだろうか。
週に二時間程度で構わない、と提案されたのはローレンツの生活に影響が出ないように配慮したわけではない。宗教警察がローレンツに大して期待していないからだ。ガラス越しではなくベレトの入る独房に入っての会話が許されたのも、ローレンツが危害を加えられても構わない程度の存在だからだ。
「そうだ、ローレンツ。この部屋は魔法が封じられているらしいぞ。まあこんな室内でメテオを撃つ気にはならないが」
ローレンツはその身にグロスタールの小紋章を宿すので当然、魔法が使える。しかし科学の発展したこのご時世において魔法など、使えずとも生活には困らない。キャンプやBBQの時に便利な火種扱いされて終わる。
試しに燃やしてみるか、とベレトから渡されたメモ用紙に向け、ローレンツは初歩の初歩であるファイアーの呪文を唱えてみたが全く発動しない。おそらく床と天井に術式を妨害する魔法陣が書いてあるのだろう。
ベレトは鎖の音をさせながらローレンツから彼が燃やせなかったメモ用紙を受け取ると、掌の上でなんなく燃やした。黒く焦げた残り滓をふっと吹いてあたりに散らかしている。残り滓が空調の風に乗って、若草色の髪に引っ掛かったのでローレンツが摘んでゴミ箱に捨ててやった。指に煤がついてしまったので後で洗わねばならない。
「先生さすがだな」
ベレトの持つ圧倒的な力にローレンツは呆れてしまった。この様子からすると鎖もいつでも壊せるし、メテオやアグネアの矢を撃って建物を壊すことなど簡単なのだろう。出来るのに脱走しないのはローレンツが思うに、ベレトがここに居てやってもいいと考えたからだ。
「クロードとは上手くいっているか。照れ屋だが親切だろう。建物の構造と視線誘導はいいテーマだな。論文を読むのが楽しみだ」
そしてベレトがここに居てやってもいい、と思っているのは眠りにつく時間が段々と伸びているからだ。
「あれは照れ屋という表現を使って良いものか僕には分からない。ちょっとしたことですぐのぼせる。のぼせが症状の病気だってあるのだから病院で検査を受けるべきだ」
ローレンツが少し頬を染め伏し目がちにそうこぼすのを聞いて、ベレトは目の前の泡が弾け飛んだような気持ちになった。ベレトは自分にまとわりつく眠気を泡のようだと感じている。泡が弾け飛んでくれれば頭が動く。ローレンツやクロードの言葉を聞くと泡が弾け飛ぶことが多い。
一方で宗教警察の捜査官たちの言葉は泡となってベレトにまとわり続け、意識を深く───深く沈めていく。おそらく親近感の違いなのだろう。ベレトは不貞寝するくらい設立がショックだった宗教警察に捕らえられ、疑似的な死である眠りにどうしようもなく包まれ、確認したいことやりたいことは全て中途半端というやるせない状況にある。それでもベレトはずれた、としか言いようのない相手に恋をしたクロードに同情してしまった。畳む
#完売本 #クロロレ #flow #現パロ
フォドラの殆どの地域において野生の飛竜は十八世紀頃に絶滅している。現在使役動物としてフォドラで使用されている飛竜はダグザ原産の品種で、牧場で繁殖させたものだ。パルミラとの国境近くにあるクパーラ居留地にはまだ野生の群れが残っているが、数が減り中世のように気軽な使役動物には出来ない。
絶滅させないように全ての個体に認識番号が与えられ、保護区で政府と学者たちに守られている。死因がなんであれ亡骸が見つかれば解剖され剥製にされる状態だ。それが現代の弔いだとしたら、遠い未来の人々は現代人の精神の営みをどう感じるのだろうか。
埋葬の仕方やその時に施された装飾などは当時の人々の精神を分かりやすく教えてくれる。ローレンツは学部生たちに向けて認知考古学の説明をする際、フォドラ各地に残っている軍馬の慰霊碑を例に出す。
羽をつけてしまうと天馬と見分けがつかなくなるのだが、戦闘で命を落とした軍馬たちを悼んだ中世フォドラの人々は彼らが天国へ直接飛んで行くことを望んだらしい。軍馬たちをレリーフに刻む時、彼らの背中に羽を彫った。一方で天馬は埋葬する際にオーナーが角を折って角だけを手元に残して美しい箱に入れる。そのようにして生前の姿を偲ぶ風習があったせいか、天馬たちは角のない姿でレリーフに刻まれていた。とにかく慰霊碑のレリーフだけを見ると馬なのか天馬なのか判別出来ない。
では何故軍馬も天馬も慰霊碑に残したのが、死後の姿であったのか。このように残された遺物から当時の人々の精神や身体の営みを考察するのが認知考古学だ、というと分かってもらいやすいからだ。
ローレンツは碑文が傷んで読めなくなっている慰霊碑に狙いを定め、ガルグ=マク公文書館で取り寄せ可能な全ての軍馬と軍用天馬の登録書類と傷んだ慰霊碑を管理している修道院や教会に納められた台帳を照らし合わせた。どの慰霊碑が軍馬のものでどの慰霊碑が軍用天馬のものであったのかを丹念に調べ、その結果を論文にまとめて博士号を取得している。
社会科を教えていたベレトはローレンツの学位取得をとても喜んで論文の感想をメールで寄越した。それをきっかけにゆるやかなやりとりが2人の間で交わされるようになっている。ただし、なかなか直接会うことは叶わなかった。ローレンツはそれが自分が多忙であるからだ、と思い込んでいた。
ザナドにはセイロス教の主神である女神ソティスとその娘である大司教レアが眠っている。戦後レアが体調を崩して亡くなった時、彼女が寂しくないようにベレトは天帝の剣をレアの胸に抱かせて葬った。本当に君はそれでいいのか、と戸惑いながらも問うたセテスの顔を今でも覚えている。
ベレトがレアの弔いのためだけにフォドラ最強の武器を手放したからだ。ナバテアの民のものをナバテアの民へ返した件について今でも悔いはない。ただローレンツの論文を読んであること思い出した。
レアの亡骸を納めた棺は二重になっている。外側の棺は当時の典型的なフォドラの装飾が施されていたが内側の棺は全く違う。セテスの指示で、幾何学的な模様と当時のベレトが絶対に見たことがない物のレリーフが彫られていた。だが、現代人ならひと目見て理解する。
何百年か前に眷族の亡骸を悪用されない埋葬方法について調べた時は結局答えが出なかった。
───だがあれなら。
クロードの学年を担当した後、ベレトは更に強烈な眠気を感じるようになった。これではもう教師を続けられない。そう考えて職を辞している。
ソティスが教えてくれた寿命が近づきつつあるだけ、と分かっていたのでクパーラには行かなかった。ありがたいことに、かつてシルヴァンが贈与してくれたブレーダッドオイル株のおかげで生活費には困らない。うたた寝の合間に自分が作った街を彷徨って砂山が風に撒き散らされて消えるように独り、この世を去るのだろう。そう思っていたベレトだがローレンツのおかげで最後に答えを見つけられた。
ならば起きている間は悔いがないように動かねばならない。
ベレトが再び動き始めた頃、英雄の遺産が当時の人々からどのように認知されていたのか、を研究テーマに定めたローレンツはどうしても神経科学の専門家───特に物の見え方について詳しい専門家に協力してもらう必要があるのに見つからず、困っていた。当たり前だが彼はベレトが抱える事情など知る由もない。ローレンツが呑気に自分の研究に協力してくれそうな神経科学の専門家を知らないか、と恩師に問い合わせてきた。
教え子たちとゆるく交流しつつフォドラ各地にあるナバテアの民の痕跡を探るくらいなら、在野の研究者の行動として見逃されただろう。だがベレトはセイロス教会が聖地として封印していた墓所に入り込んでは、フォドラの民からは隠されていた内棺のレリーフがどんなものであったか確かめて回っていた。宗教警察からすれば度し難い行為だろう。
宗教警察のベレトに対する態度は事情がわからないものからすれば矛盾していた。聖地に入り込んで墓暴きをした時点で射殺されてもおかしくないのに何故か勾留している。ベレトは行動だけ見れば許し難い大罪人ではあるがそれと同時に逮捕時の抵抗ぶりから、彼が眷族である可能性が排除できないからだ。
加えて彼の唐突な眠りや深い眠り、それに半覚醒状態がナルコレプシーのようなヒトの病気なのか、弱った眷族や弱った白きものが陥る状態異常なのか宗教警察には分からない。墓暴きを阻止するためにも、衰弱死される前に保護して調べるためにも宗教警察はベレトを勾留する必要があった。
後に変わり果てたベレトを見たクロードが発した「どうして」は宗教警察に向けられていたが、ローレンツが発した「どうして」は恩師ベレトに向けられていた。フォドラ育ちかどうかの違いだろう。
「先生、どうしてそんな危険なことをしたんだ」
「天啓があった」
その天啓はローレンツの論文からもたらされた、と伝えると更に揉めそうなのでベレトは必要最低限のことしか言わなかった。
「手続きを蔑ろにするなと僕に教えてくれたのは先生ではないか!!」
「そうだな、現代社会で手続きを蔑ろにした結果がこれだ」
そう言ってベレトはガラス越しに右腕の鎖をじゃらじゃらと振った。ローレンツが苛立ちと心配のあまり震えながらとにかく何か言い返そうとしたその時、ベレトは意識を失い床に崩れ落ちた。その光景を見た捜査官がため息を吐いてタッチパネルを操作し始める。
医者らしきスタッフが現れ、ガラス越しの会話は不可能になった。老けない人だと思っていたがそんな単純化、合理化は良くなかったのかもしれない。ベレトのいる部屋から視線を外さず、ローレンツは捜査官に話しかけた。答えが得られずとも問うことが止められない。
「あなた方は僕に何をさせたい。変わった人だが世話になったんだ」
「いつもはとても無口なのです。何をしようと話さない」
「被告人の不利になるのなら僕は絶対に協力しない」
ガラスの向こうの部屋ではローレンツが医師だと思った男がベレトのバイタルを確認し、レストを掛けている。どうやら修道士のようだった。そしてレストは効き目がないらしい。あの急激な意識の喪失は状態異常ではない可能性がある。
「これは私個人の考察に過ぎませんが彼は死につつある。アポトーシス状態です」
その言葉を聞いたローレンツは捜査官を殴らず、その代わりに睨みつけた。声を荒げないでいられるだろうか。
「では治癒専門の修道士がいる施療院か病院か医療刑務所に移送すべきだ」
「その前に一体彼が何を知っているのか、何をしようとしたのか把握せねばなりません。それが把握出来なければ移送は不可能です」
このままこの部屋で誰にも会わせず死なせたいですか?と捜査官から問われ、ローレンツから尋問に協力する以外の選択肢が失われてしまった。きっとローレンツ自身も痛くもない腹を探られるだろう。
ベレトが逮捕された時、ローレンツはパルミラにおいてゴネリル家に伝わる十傑の遺産、フライクーゲルがどの様に記録されていたのかを調査していた。国を跨ぐとネット回線には色々と不具合が起きるものらしい。逮捕前の恩師から送信されていた謎の圧縮ファイルは上手く開けず、ローレンツがパルミラにいる間だけ使っていた現地のフリーメールサービスのサーバー上にずっと残っている。あれの正体も彼らは暴くのだろうか。
週に二時間程度で構わない、と提案されたのはローレンツの生活に影響が出ないように配慮したわけではない。宗教警察がローレンツに大して期待していないからだ。ガラス越しではなくベレトの入る独房に入っての会話が許されたのも、ローレンツが危害を加えられても構わない程度の存在だからだ。
「そうだ、ローレンツ。この部屋は魔法が封じられているらしいぞ。まあこんな室内でメテオを撃つ気にはならないが」
ローレンツはその身にグロスタールの小紋章を宿すので当然、魔法が使える。しかし科学の発展したこのご時世において魔法など、使えずとも生活には困らない。キャンプやBBQの時に便利な火種扱いされて終わる。
試しに燃やしてみるか、とベレトから渡されたメモ用紙に向け、ローレンツは初歩の初歩であるファイアーの呪文を唱えてみたが全く発動しない。おそらく床と天井に術式を妨害する魔法陣が書いてあるのだろう。
ベレトは鎖の音をさせながらローレンツから彼が燃やせなかったメモ用紙を受け取ると、掌の上でなんなく燃やした。黒く焦げた残り滓をふっと吹いてあたりに散らかしている。残り滓が空調の風に乗って、若草色の髪に引っ掛かったのでローレンツが摘んでゴミ箱に捨ててやった。指に煤がついてしまったので後で洗わねばならない。
「先生さすがだな」
ベレトの持つ圧倒的な力にローレンツは呆れてしまった。この様子からすると鎖もいつでも壊せるし、メテオやアグネアの矢を撃って建物を壊すことなど簡単なのだろう。出来るのに脱走しないのはローレンツが思うに、ベレトがここに居てやってもいいと考えたからだ。
「クロードとは上手くいっているか。照れ屋だが親切だろう。建物の構造と視線誘導はいいテーマだな。論文を読むのが楽しみだ」
そしてベレトがここに居てやってもいい、と思っているのは眠りにつく時間が段々と伸びているからだ。
「あれは照れ屋という表現を使って良いものか僕には分からない。ちょっとしたことですぐのぼせる。のぼせが症状の病気だってあるのだから病院で検査を受けるべきだ」
ローレンツが少し頬を染め伏し目がちにそうこぼすのを聞いて、ベレトは目の前の泡が弾け飛んだような気持ちになった。ベレトは自分にまとわりつく眠気を泡のようだと感じている。泡が弾け飛んでくれれば頭が動く。ローレンツやクロードの言葉を聞くと泡が弾け飛ぶことが多い。
一方で宗教警察の捜査官たちの言葉は泡となってベレトにまとわり続け、意識を深く───深く沈めていく。おそらく親近感の違いなのだろう。ベレトは不貞寝するくらい設立がショックだった宗教警察に捕らえられ、疑似的な死である眠りにどうしようもなく包まれ、確認したいことやりたいことは全て中途半端というやるせない状況にある。それでもベレトはずれた、としか言いようのない相手に恋をしたクロードに同情してしまった。畳む
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