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雑多です。
「flow」第1部12.「化石燃料」
#完売本 #flow #シルヴァン #アッシュ #フェリクス #ディミトリ #ヒューベルト #リンハルト

12.
───
一八五〇年
 隕石や彗星などに付着して微生物が宇宙空間を移動したと主張するのが隕石パンスペルミア説だ。

 光パンスペルミア説と同じく、隕石パンスペルミア説も微生物は宇宙空間の超低温と大気圏突入時の熱に耐えなくてはならないが隕石深部の温度は上がらないのではないかと予想されている。
───
 ファーガス地方では昔から燃える黒水が採れた。北の隣国スレンやパルミラでは薬品や灯り油として使う事もあるらしい。だがセイロス教会はこの黒水の使用を禁止していた。そもそもファーガス地方では灯りは昔から魚の油で灯しているので使い道もない。黒水が滲み出ている場所では勝手に火事が起きることも多く、ファーガスの人々は危険を感じて近寄らないようにしていた。
 アドラステア地方にはフォドラ有数の穀倉地帯と良質な炭鉱がある。レスター地方では酪農や大国であるパルミラとの交易、それとレンズや時計をはじめとする精密機械工業が盛んだ。しかしファーガス地方は工業化に乗り遅れてしまい、ガルグ=マク司教座附属大学と並んでフォドラの最高峰と言われるフェルディア総合大学の学生たちも皆、就職の際にはファーガス地方から外へと出て行ってしまう。
 暖炉にかけた鍋で一日かけて茹でたくず野菜と芋で腹が満たされればそれで幸せという素朴な時代は去り、ファーガス地方は強烈に外部へ訴えかける何かを欲していた。
 ゴーティエ領にある森の中で狩りに来た若者たちが円座を組んで何やら話し込んでいる。鴨が何羽かと野兎数匹は既に夕食にするための処理を終えていた。今晩の食卓は肉づくしになるだろう。互いに誤射を避けるためか、フェルディア総合大学の象徴であるファーガスブルーのローブを身につけている。彼らは皆そこの学生だった。
「シルヴァン、今回はお招きいただきありがとうございます!」
「いや、聞かれたくない話は自然の中でするのが一番だからな」
 そういうとシルヴァンは辺りに生えている木の枝を手持ちの鉈で落とし、焚き火用に積み上げ始めた。乾燥した枝でなければ火がつかないのは子供でも知っている。アッシュが怪訝な顔をしているとシルヴァンは取り出した瓶から生木に向けて黒水を注ぎ、ファイアーで点火した。彼等は今時珍しく魔法適性を持っているが魔道専攻ではない。シルヴァンは地理学、フェリクスは法学、アッシュは商学が専攻だった。黒水の匂いを嗅いだフェリクスはシルヴァンを睨み付け、なんと言葉をかけるべきか考え込んでいる。
「教会に見つかったらまずいですよ!」
「そうだなアッシュ。でも冷静になって考えて欲しいんだ。今のを見ただろう?石炭が出来ることはこいつにも出来る。石炭の役割って結局は物を燃やして熱くすることだろ?それに炎の色を見てくれ。すごく明るいんだ。ランプに使える」
「だが液体は運びにくい。樽が何万個もいるな」
 フェリクスは幼馴染を怒鳴りつけず冷静に反論することにした。
「でも隧道を掘ったりしなくていいんだぜ?汲み取るだけで済む」
「井戸水とは訳が違う。こんな危険なもの、汲み取るには専用の機械が必要だろう」
「それは石炭も変わらないだろ?だから一旗挙げようと思ってな」
 お前らも手伝って、というとシルヴァンは右手でフェリクスを、左手でアッシュを捕まえた。アッシュは固まってしまったがフェリクスは鬱陶しそうに肩にかけられたシルヴァンの手を外した。
「シルヴァン、まさか大学が休みの時に闇雲に掘り起こすつもりか?そんな博打に俺たちを巻き込まないでくれ」
「手伝うってのはそういうことじゃなくてディミトリの説得だ」
「えっ?!ディミトリに掘ってもらうんですか?確かに彼は怪力ですけど…」
「違う!業者はもう見つけてある!ブレーダッドの名前が欲しいんだ」
 シルヴァンは本気で黒い水を武器に戦うつもりだった。黒水を石炭のように使ってもらえれば子供が寒い冬、遠くまで薪を拾いに行って風邪をひく必要もない。その辺の生木で充分だ。そして石炭と違い屋内が煤で汚れることもない。生活はがらりと変わるだろう。だがファーガスの人々は保守的だ。全く新しいことを始めるにあたって、唯一無二であるブレーダッド家の名がどうしても欲しい。ブレーダッド家の威光があれば人々もシルヴァンの言うことに耳を傾けてくれる。
「なるほど。それならアッシュが適任だ」
「フェリクスが説得して下さいよ!僕には無理です!」
「いや、アッシュの言葉ならディミトリも耳を傾けるだろう。シルヴァンの癖によく考えたな。ところで俺は何故この場に呼ばれたんだ」
「だって教えなかったら後で拗ねるだろう?」
 ぬけぬけと語るシルヴァンの顎に一発決めてやろうと顔を赤くしたフェリクスが無言で拳を握った瞬間、鳥が一斉に飛び立った。何かが高速で回転して耳に響く。これまで聞いたことのない不愉快な音がして、まだシルヴァンに捕まえられているままのアッシュが両耳を塞ぐ。
「ああ、始まったな。掘削を請負ってくれる業者を紹介するよ。連れてくるからここで待っててくれ。元から待ち合わせをしてたんだ」
 シルヴァンが騒音がする方へ向かっていったので、フェリクスとアッシュは焚き火の前に取り残されてしまった。
「統一前は教会に禁じられていた品で商売を始めるなんて、とシルヴァンが周りから怒られないか心配ですね」
「それを言ったら統一前は活版印刷も望遠鏡も禁じられていたんだぞ」
 シルヴァンの夢は叶うのだろうか。フェリクスは瓶を手に取り底に溜まった黒い水をじっと見つめた。確かに生木なのによく燃えている。薪を集める生活は変えられないとしても、いざと言う時に便利なのは悪いことではない。
 現在のフォドラに王はいない。フォドラ最後の王であるベレト統一王は統一後の混乱が収まるまでのわずかな期間だけだが、セイロス教会の大司教も兼ねていた。その数年の間に大司教の名の下に行動の自由を世俗に取り戻している。大司教位はすぐに他のものに譲ってしまったが。
 彼が規制を撤廃してフォドラが得たものは印刷技術、医学、科学だ。女神の恩寵を受け百五十年の長きに渡り、若々しい姿のままフォドラを治めた彼は魔法や神秘の申し子と言える。だが現代から見てみれば魔法が失われることを予測していた、としか思えない。もしそうだとしたら、何故十二世紀生まれの人物にそんな未来が予測できたのだろう。
「ただ馬鹿どもを黙らせるために小手先の工夫は必要だろうな。蒸留して色を変えるとか。それには設備も金も必要になるな」
 そう言うとフェリクスは鼻を鳴らして焚き火に手をかざした。ファーガス地方のゴーティエ領は気候区分で言えば寒帯で、夏でも寒さを感じる日が多い。
「シルヴァンは融資を受けるためにディミトリが必要なんでしょうけど、上手くいくんでしょうか?」
「アッシュまで巻き込んだのにディミトリすら説得できないなら、シルヴァンに勝ち目はない」
 派手に枝を踏む音とシルヴァンが誰かと話す声が聞こえた。最短距離で移動したいのか鉈で道を作りながらやってきたのは、短く切った黒髪に若草色の目をした同年代の男だった。シルヴァンから何か聞かされたのか、フェリクスとアッシュを見て笑顔を浮かべている。
「黒髪の方がフェリクス、雀斑がある方がアッシュだ」
「シルヴァンの思いつきに付き合わされて気の毒なことだ」
「いや、興味深い試みなので声をかけてもらって光栄に思っている。ガルグ=マクから来たベレトだ」
 フェリクスもアッシュも黒い長手袋を取って差し出された白い手の感触をずっと昔から知っているような気がした。
───
一八五五年
 「たったひとつの種」を高度に進化した知的生命体が「生命の種子」として送り込んだ、と主張するのが意図的パンスペルミア説だ。

 殆どの惑星はニッケルやクロムだらけでモリブデンは希少であるにもかかわらず、生物は必須微量元素としてモリブデンを必要とする。

 これはモリブデンが豊富な惑星で生命が誕生した名残であり、そこから「生命の種子」が送り出された為あらゆる生物の遺伝暗号の仕組みが驚くほど似ているのではないか、と言われている。
───
 ファーガス地方の農家は昔から染み出る黒い水のせいで、収穫間際の作物が汚染されることに悩んでいた。フォドラの地図記号には黒い水に汚染され、農地に適さない土地を表すものがある。この地図記号はほぼファーガス地方でしか使われない。
 他の地方に塩水の湧泉があれば塩が作れる。しかしファーガスの場合、湧泉が黒い水に汚染されていて塩は作れない。塩水と黒水の割合によっては薬用になることも多く、パルミラなどでは肌に塗る薬用油として使う。だがセイロス教会に黒い水の利用を禁じられていたため、フォドラではこうした湧泉も長らく放置されていた。
 このファーガス地方にとって悩みの種でしかない黒い水を灯り油や燃料にする───初めてシルヴァンから聞かされたディミトリは混乱して、三回も同じ話をさせてしまった。その時、その場にいたアッシュもシルヴァンもこれは拙いな、という顔をしていた。

 地表に染み出る黒い水の大元は地下にある。そこから安定して抽出するための井戸と黒い水を蒸留し、灯り油や燃料にするための製油所を作るには資金が無限に必要だ。シルヴァンはファーガス一の名家ブレーダッドの名さえあればあとは自分が探す、と言っていた。しかしディミトリはどうしても、誰からなんと言われようと彼の役に立ちたくて、自分の自由になる分だけではあったが資金を提供した。 
 五年たった今、思い返してみればあれは混乱していたわけではない。ディミトリはシルヴァンの豊かな発想に深く、とても深く感動しただけなのだ。
 ゴーティエ領で採取、蒸留された灯り油と燃料は今のところ、ファーガス地方で忌避感なく使用されている。ブレーダッドオイルは創業5周年を迎えフェルディアに支社を作りそこを足場に、今後は首都ガルグ=マクやレスター、アドラステアへも売り込む予定だ。将来はもしかしたらパルミラやダグザなど海外へ販路を広げる日が来るかもしれない。

 出来たばかりのフェルディア支社で、創業五周年を祝う祝賀会が行われた。関係者だけのささやかなものだったが皆、これまでにないほど満ち足りている。ディミトリ、ベレト、シルヴァン、フェリクス、アッシュの五人はなんだか離れ難く、残った酒で飲み直しをすることにしたのが数時間前の話だ。
 明け方になりシルヴァン、フェリクス、アッシュの三人は酔い潰れて床に転がっている。結局フェリクスもアッシュもシルヴァンの起業に巻き込まれ、法務だ会計だと毎日忙しい日々を過ごしていた。ディミトリだけがブレーダッド家当主としてイーハをはじめとする領地を経営せねばならないため、ブレーダッドオイルを本業としていないことを少し寂しく感じている。彼らと職場が同じなら、うんざりするようなことがあってもきっと耐えられるだろう。
 ディミトリも深酒が過ぎて着席したまま眠っていたのだが、物音で目が覚めてしまった。目覚めたことを後悔したくなるほど頭が痛い。
 迎え酒になるものが欲しい。夜が白んでいく中で室内を見回すと立役者の一人であるベレトがブレーダッドオイルの商号を膝の上に乗せて静かに一人泣いている姿が目に入った。先ほどの物音は会場に飾った商号が落ちたか、それを彼が受け止めた音なのだろう。
「どうした、悲しいことでもあったのか?」
 酔いが顔色に現れやすいディミトリは頬を赤く染めたままベレトに話しかけた。ベレトのそばにはいつもシルヴァンたちがいるので、ディミトリが彼とゆっくり二人きりで話すのはこれが初めてかもしれない。
「感動しているんだ。俺はこの商号を見るといつも感動して涙が出そうになる。酒が入ったからもう我慢できない」
 ベレトは酔いがあまり顔色に出ないらしく、白い顔をしたまま若草色の瞳に涙をためて嵌めたままの黒手袋で目を擦っていた。
「何を言っているのかわからない」
 横を向いた青い獅子が赤い炎を吐いているブレーダッドオイルの商号は確か、シルヴァンが金策でデアドラへ赴いた際に出会った画家に考えてもらったものだ。ファーガス地方の象徴である青獅子と灯り油に灯る炎を組み合わせている。ブレーダッドオイルがどの土地の企業で、何を扱っているのか見た瞬間にわかるよう工夫されていた。
 頭の中で鐘が鳴り響くような頭痛のせいで、ディミトリはベレトの話がうまく聞き取れない。迎え酒にテーブルに残っていた誰かの飲み残しのワインを煽ったディミトリは酔っ払って泣いているベレトの言葉に再び耳を傾けた。
「ファーガスにしかないものがようやく見つかった。俺には見つけられなかったのに」
「何を言っているのかわからない。黒い水を見つけて井戸を掘ったのはお前だろう」
「シルヴァンに言われなければ掘らなかった」
「依頼がなければ掘らないのでは?」
「ではやはりシルヴァンはすごい」
 ディミトリはアルコールに支配された頭で必死にベレトの言葉を理解しようとしたが上手くいかない。以前シルヴァンから聞いた、実際には目にしたことのない光景ばかりが脳裏に浮かぶ。
 フェルディアにはないのだが、そしてそれがフェルディアが旧ファーガス神聖王国の首都に選ばれた理由のひとつだと今なら分かるのだが───ファーガス地方には昔から黒い水の浸み出し口がいくつもある。シルヴァンとベレトは丹念に自作の地図に浸み出し口を描き込み、周辺の土を調べて掘削する場所を決めた。
 浸み出し口に現地で雇った人足たちにある程度の深さの穴を掘らせると、ベレトは先に溝が彫ってある杭を何本か差し込むのだという。手袋を外し、それらの杭に彼が指で術式を描いてウインドを発動すると螺旋状に動く風が発生する。
 勝手に杭が回転し耳の奥に響くような轟音を立て、地中深くまで掘り進んでいくのだ。魔法の発動中はその場を離れられないので、効率が悪いものの蒸気機関を利用した掘削機と同じ量の作業を身ひとつでやってのけるベレトにシルヴァンは深く感謝した。
 この祝賀会で彼はベレトにブレーダッドオイルの株を五株贈呈している。まだ配当金は少額だがいずれ指一本動かさずとも生活に困らない程度にはしてみせる、とシルヴァンはそう宣言していた。

 ディミトリは魔道研究の本場フェルディア生まれのフェルディア育ちだ。シルヴァン、フェリクス、アッシュも魔法適性があり、フェルディア総合大学の学生である以上魔法は身近で慣れている。
 だがベレトは格が違うのだ、といつだったかシルヴァンが興奮して話してくれた。フォドラの人々から魔法の力が失われる前の大魔道士のようだと言う。ベレトは身体から発する魔力の扱いに気を使っているらしい。彼の白い手を見たのは初対面の握手をした時だけで、それ以外ではいつも黒い手袋をしていた。
「いつか採掘作業を見に行ってもいいか?」
「いつでも歓迎する。試掘の手伝いができるように汚れても構わない服で来てくれ」
「鍬を壊さないように気をつけないとな。ブレーダッドの小紋章持ちなんだ」
 日の出の暖かい光に照らされながら、ベレトと冗談を交わしたことをディミトリは何故かシルヴァンに話せなかった。いつもベレトを独占していたシルヴァンへの細やかな対抗心だったのかもしれない。


───
一九〇〇年
 神祖は知恵をつけたという理由で最初の人々を冥界に追いやった。聖人たちは次の人々の目を霞ませて獣にした。

 ヒトに知恵も永遠の命も与えるつもりがなく罰してばかりの神祖は聖人たちは聖なる存在として本当に崇めるべきなのだろうか。彼らの作った教会は伽藍堂に過ぎないのではないだろうか。
───
 石炭が多く使われると燃やした時に発生するガスで空気が汚染される。ガルグ=マク、アンヴァル、フェルディア、それにデアドラ等の大都市では大気汚染が深刻だ。この件に関してセイロス教会ガルグ=マク司教座がこのまま石炭を使い続ければ、健康被害が理由で死ぬ者が更に増加するのだから便利さに耽溺せず禁欲的に生活せよ、との声明を発表した。
 何にでも代替品は出てくるもので今後は燃やしても煤が出ないファーガス産の黒い水が石炭の代わりに使われるのだろう、と皆なんとなく考えている。それなら皆少し面倒に感じるだけで何とも思わないのだ。政府が法律で煤の出る燃料を規制すれば、煤が出ない燃料に需要が生まれる。そこに経済効果が生まれるのならば商人たちは全力を出す。
 だがガルグ=マク旧市街の宗教家たちが出した要求には裏がある。それを感じ取った者たちは密かに強く警戒した。彼らは産業の時代から魔法の時代に立ち帰れと言っている。人々や社会から魔法の力が失われて久しい。
 燃料を魔法に戻したら食い扶持が稼げず死ぬものが出てくるのにそれについては言及しない。皆聞き流し、この場では黒い水に切り替えるだけだろう。しかしこの手の手続きを考えない、考えさせない司教座の無責任さには問題がある。それともわざとなのか。
 リンハルトは老眼鏡をかけ、何度読んだかわからない声明文をまた読み返した。ため息も何度吐いたかわからない。概要だけならば普通のことしか主張していない。そんな見かけが彼に更なる憂いを抱かせる
 ヘヴリング領の経済は炭鉱にそこまで依存していない。だが生活は石炭に依存している。医療も信仰魔法ではなく殆ど医学によって提供されており、生活を改変しろと言われても困ることばかりだ。
 ヘヴリング家の上屋敷があるハイストリートと司教座のある旧市街は大して離れていない。だがリンハルトには別の国のように感じられる。これからやってくる年若い客人も旧市街とは別の国の住人だ。リンハルトは客人のため、テフを用意するように執事に命じた。
 黒衣に身を包んだ医師が召使に連れられ、リンハルトが待つ応接間に現れた。テーブルにバックギャモンのボードが開いてあるのを見た客人が微かに笑う。パルミラから輸入されたもので、近頃は老若男女を問わず流行っている。
「お招きいただきましてありがとうございます」
「僕と勝負できるのはヒューベルトくらいだからね。たまには赤でやってみない?」
 ヒューベルトとリンハルトは対外的には診察のついでにバックギャモンで遊ぶ仲間、ということになっている。含みを持たせた仲であると理解しているのは同じく旧市街の干渉を嫌う極少数のものたちだけだ。
「いつも通り黒でお願いします」
 互いにダイスを振って先手を決める。今日はリンハルトの方が大きい目が出たので先手となった。これはそのまま先手の出目としても使われる。執事が持ってきたテフを飲みながら遊ぶ、歳の離れた二人の姿は意外に穏やかだ。
「頼んでいたこと、調べてくれたかな」
「ある程度は。ガルグ=マク司教座で働く彼の地出身者のほとんどがキッホルとセスリーンの紋章を持っていました」
 ヒューベルトの報告を受け、リンハルトはため息をついた。あの土地の領主が十傑の子孫ではないことは既に判明している。
「あの土地で血を与えたキッホルとセスリーンゆかりの聖人がいるんだろうなあ」
 次にヒューベルトがダイスを振り、リンハルトの駒に邪魔される前に駒を進めた。
「確かに古代から中世にかけて、聖人たちが人の命を助けるために血を分け与えた例は枚挙にいとまがありません」
「だが集落丸ごとなんて、いくら頑丈な聖人でも血を失いすぎて死んでしまう」
「貴殿はいつ為されたとお考えですか?」
「古代や中世なら自慢して回るはずさ」
 リンハルトの言葉に首肯したヒューベルトはすっかり冷めてしまったテフに口をつけた。当時の基準からしても、紋章が発現するほど沢山の血を与えられるのは特別なことだ。
「でも当時は他の土地から妬まれるような幸運だったから隠したんだ」
 人間社会から魔力が失われた病禍の時期に、自らの命と引き換えにしてでも集落の命を救ってくれるような聖人と出会う幸運など滅多にあることではない。ベレト統一王の治世から三世紀ほどで制度は疲弊し、セイロス教原理主義派による異端者狩りがフォドラ全土を席巻した。病禍は互いに互いを疑う地獄のような状況で発生している。
「当時あの地域で起きたことは私も奇跡だと思います。うかつに言って回れば貴殿のおっしゃる通り、異端者狩りの対象になった可能性は高いですな」
 病禍に苦しむ片田舎に偶然、血を分けてくれる聖人が現れる確率は限りなく低い。そもそも統一戦争の時点ですら、明確にナバテアの民であったと言えるのは三名だけだ。当時の大司教レアとその部下セテス、それに彼の妹でアガルタの民から血を狙われていたフレンしかいない。争いに巻き込まれることを避けて出自を隠しているものがいた可能性は否定できないが。
 リンハルトの振ったダイスがゾロ目を出したのでヒューベルトの駒は弾き出され、バーに置かれることとなった。
「異端者狩りの理由も嫉妬だからね。生存戦略としては正しいし、それが強烈な成功体験になったんだろう」
 だが正体を明かさず、真の目的を隠して目標を達成しようとする態度は誠実ではないとリンハルトは思う。
「聖人の血で強化された人々は当時の疲弊したフォドラにおいては珍しい、活力に溢れる有能な存在です。自然と推挙されてガルグ=マクで学んだり働いたりすることになったのでしょう」
「司教座附属の学校はキッホルとセスリーンが守護聖人だしね。彼らからしてみれば天啓だ。中々説得されない僕のことも女神から与えられた試練だと思っているね、きっと」
 彼らは同じセスリーンの紋章を受け継ぎ、信仰魔法を得意とするリンハルトに親近感を持っている。だから彼らは自分たちが考える正しき道へリンハルトを誘導しようとするのだ。しかしリンハルトは彼らと正しさが共有出来ない。
「ヘヴリング家が加われば彼らにとって千人力なのは確かです。名門ですし、貴殿のような筋金入りの合理主義者が説得されたとなれば他のものにも揺さぶりをかけられる」
 ダイスを振ったヒューベルトは素早く、バーの上にある自分の駒を元に戻した。互いの駒は行ったり来たりを繰り返していて、なかなかゴールしない。
「今も秘密にするのは呪術的な理由があるのかな?」
「それは私の専門外です」
 ヒューベルトの駒はリンハルトの陣の中で逆転勝ちを狙い、乗るかそるかの勝負に出ていた。妻も小さな子供もいるような若者がこんなことをするのはゲームの中だけにしなくてはならない。
「君のご先祖は詳しそうだけどね。ヒューベルト、今後は僕が調べ物をするよ。君はご家族のためにも長生きしないと」
 そう宣言したリンハルトは年老いて髪は白くなり、杖なしに歩けない。それでも知性の宿った瞳の色は失われていなかった。尊敬する年長者に言われて引き下がるしかなかったヒューベルトがリンハルトの葬儀に出席したのはこの翌年のことだった。彼の葬儀の場でヒューベルトだけが、リンハルトの死が不自然に早められたものであると分かっていた。畳む
「flow」第1部13.「ラジオ・デアドラ」
#完売本 #ヒルマリ #flow #レオニー #ラファエル

13.
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一九二五年
 そのように考えた最初の人々は神祖と聖人たちの至らなさを理由として欲のままに地上で生き、冥界へと追放された。

 彼らは欲のままに真善美のすべてに反したので満たされぬ欲に苦しむ生と冥界以外の世界を持たない。
───
 フォドラにおける無線通信の歴史はデアドラ港から始まっている。パルミラの電気技術者による無線音声送受信実験成功を受けてデアドラ港と船舶が連絡を取るための船舶無線が導入された。安全情報などの業務用でこの時点ではまだ電波を利用した航行用レーダーは開発されていない。音質が悪かったので通話には使えず船舶無線用の信号、次に電報のコードが決められ電報局が開局しフォドラの人々は新たな双方向通信手段を手に入れた。
 数年後、首都であるガルグ=マク新市街に放送塔が建てられ試験放送が開始されると各地で開局申請が出された。しかしガルグ=マクの逓信省が許可を出したのは首都のガルグ=マク、アンヴァル、フェルディア、デアドラの四局だけだった。

 ラジオデアドラは他局と違い日曜夜以外は二十四時間放送をし続けている。深夜帯のラジオパーソナリティとして雇用されたレオニーは元々は百貨店のエレベーターガールとして働いていたのだが買い物に訪れたラジオ局の構成作家が彼女の声の美しさと客の話し声に埋没しないその通りの良さに目を、いや耳を付けてスカウトしたのだった。
 深夜帯一時から五時のうち三時から五時が彼女の担当で番組を終える時はおはようございます、という。早寝早起き派だったレオニーの生活は一変してしまった。
 百貨店のエレベーターガールは街の小さな女の子なら誰もが憧れる花形職業だ。それだけで済んだらまだレオニーは動きやすく華やかな黄色と黒のチェック柄のジャケットに黒のスカートに身を包みエレベーターガールを続けていただろう。そんな素敵な制服に身を包みにこやかに客と接する姿が誘蛾灯の様におかしな男性を惹きつけることがある。
 それは休日にレオニーが客として職場に買い物に来たときのことだった。あの時あのエレベーターにマリアンヌが乗っていなかったらレオニーは今でも百貨店で働いていたかもしれない。縁や運は本当に不思議なものだ。

 その日、レオニーとマリアンヌが乗り合わせたエレベーターの中でレオニーは同僚が男性客から触られている事に気づいた。前からたちの悪い客がいるという話がエレベーターガール達の間で共有されていた。
 モスグリーンのスカートが捲れ上がりストッキング用のガーターベルト着けた太ももが露わになる事もストッキングが傷む事もいとわずレオニーは不埒な振る舞いに及んだ男性客の腰に膝蹴りをくらわせ怯んだところで腕を捻じ上げて確保した。体が咄嗟に動いたのだという。レオニーは自分が男を確保している隙に早く非常ボタンを押す様に言ったのだが恐怖で竦んでいる同僚は手が震えて何も出来ずその場にいたマリアンヌが隙間から腕を伸ばして非常ボタンを押した。通信回線が開き何事か問う声に対して痴漢が出た、エレベーター内で既に確保したから警備員を呼んで欲しい、とレオニーが報告した。
「今日はもう仕事って気分じゃないだろうから許可が出たら私が代わってやるよ」
 警察での手続きの都合上結局代わりに入る事は出来なかったようですが被害にあわれた方にそう提案したレオニーさんには後光がさして見えました、とマリアンヌは警察で証言している。
 緊急停止したエレベーターの前には買い物客に犯人を見せない為か被害者が誰なのかを隠す為か警備員によって従業員用の出入り口まで衝立が並べられていた。人目につかぬよう搬入口に警察車両も到着していたがそれが地味な紺色だったのはどうやら百貨店側が配慮を、と警察に頼んだかららしい。
 警察の事情聴取まで受けたマリアンヌは警察署前にある二十四時間営業のダイナーでレオニーに温かいココアを奢ってもらっていた。そこそこ消耗していたのでありがたくいただく。マリアンヌにとって久しぶりのココアだった。朝の情報番組担当のリシテアが死にたくなった時には大体脳に甘味が足りていないからまずココアを飲め、としつこく言っていたせいで一時期店頭からココアは姿を消していたが再び街中で見かけるようになった。リシテアは迂闊に自分の好きなものを番組内で挙げるせいで好物をなかなか食べられなくなる飲めなくなると言う事を繰り返している。
「マリアンヌだっけ?さっきはありがとな!」
 ハキハキと喋るレオニーはエレベーターガールという機械的なイメージのある職についているせいか私服も女性の曲線美を目立たせる保守的ものではなく直線的なシルエットをつくるツーピースの体が動かしやすそうな服を身に付けていた。
「警察は第三者の証言があると動きやすいそうです」
「慣れてるんで驚いた!私なんか時間がかかりすぎてびっくりしたのに。予定とか合ったんじゃないか?大丈夫?」
 レオニーは改めて物好きにも警察で証言してくれたマリアンヌを見つめた。流行りの釣鐘型をした帽子に収まっている水色の髪は短くしているようにも見えたがどうやら編み上げているらしい。書き物をする仕事なのか所作に問題があるのかその両方なのか短めにまくった上着から見えたブラウスの袖にインクの染みがついていた。
「私はラジオデアドラの構成作家で取材の手伝いもします。警察の方からお話を伺ったこともあります。だから慣れていると言ってもいい、のかもしれません」
 遅れましたがと言ってマリアンヌが差し出した名刺には確かにラジオデアドラの物で表面に名前と部署とラジオ局の住所、裏には彼女が担当する番組名と放送時間が書いてある。レオニーが聞いたことのない深夜から早朝にかけて放送される番組ばかりだった。
「うちには受信機がないから職場の社員食堂で聞いてる。昼のドラマにみんな夢中だよ!作家って事はあれの脚本書いたりしてるのか?」
 マリアンヌは構成作家なので台本は書くが脚本は書かない。口で説明するのは面倒なのでこの誤解についてはいつも言葉を濁してしまう。書き言葉ならばどんな面倒なことでもすらすらと説明が出来るのに話すとなると途端に口が動かなくなる。
「部署が違うので…」
「そっか。警察沙汰をきっかけにして営業をかけるのも変な話だけどさ、良かったらまた買い物に来てくれよな!私はエレベーターに乗りっぱなしだから値引きはできないけどさ」
「買い物もですがラジオデアドラの社員として百貨店に取材に伺う事もあるかもしれません。その時にもよろしくお願いします」
「分かった。上司にもそれとなく話しておくさ。とりあえず疲れたから今日は素直に帰るよ」
 そう言うとレオニーは残りのココアを飲み干し伝票を手に取った。彼女がきびきびと動くので幅広の帽子についた大ぶりな羽飾りが楽しげに揺れる。躍動感と自信に満ち溢れる都会の働く女性そのものだった。
 レオニーが去った後マリアンヌはココアのおかわりを頼み鞄から手帳を取り出した。忘れないうちに警察で逆に何を聞き出せたのか必死で書き留める。レオニーの溌剌さはこれで伝わるだろう。そう思ってメモを満足気に読み返していたマリアンヌだったがこの時、彼女はレオニーの個人的な連絡先を聞き忘れていた。その為思ったより早くラジオデアドラの社員として百貨店へ訪れることになる。

───
 神祖に、聖人に、教会に至らぬ所があったとしても教会は聖なるものを、真善美を求めて生きる人々の為にそれらを示し続け理想と人々を繋ぐ架け橋でなくてはならない。

 示された聖なるものを見た人々が自らの悪しき行いを恥じ良き行いをする様に心がけるからだ。
───
 レオニーがガラス越しに出されたディレクターであるヒルダの合図に合わせてマイクロホンのスイッチを切った。目の前には構成作家のマリアンヌが座っていて清々しい日の出の光が放送を終えたばかりのレオニーたちを照らす。
「今日もなんてひどい台本なんだ!」
「ええ〜そうかなあ〜?マリアンヌちゃんの台本すっごく良かったと思うけど!」
「なんなんだよ!この焦げた私物プレゼントって!」
「レオニーさんなら絶対に面白く出来ると思いまして」
 先週新市街にあるマリアンヌの住むアパートが火事で半焼した。半分残っている、とだけ聞くと暮らせそうな気もするが実際の現場は酷いものでとても生活など出来ない。幸いな事にその時、彼女は不在で焼けずに残った物もあった。余談だがその話を聞いたラジオデアドラの関係者たちは皆、一瞬はマリアンヌの不注意を疑ったという。
 彼女は顔見知りからいきなり静謐の美を称えられるほど美しい女性なのだが構成作家として書く台本はレオニーに言わせればネジが飛んだ物ばかりだ。レオニーとマリアンヌの間にある机には番組で使った焦げた帽子それに焦げた辞書や焦げた詩集が数冊積み上げられている。
「使い物にならない上に番組パーソナリティの私物ですらないと言う事実とレオニーさんの真っ当さが正面からぶつかった時に笑いが生まれる、と思いまして」
「私マリアンヌちゃんの嫌なことがあってもタダで起きないところ大好き〜!」
「ありがとうございます。私も親切なヒルダさんがとても……好きです」
 今はディレクターのヒルダが焼け出されたマリアンヌを「うちは部屋が余ってるから」という理由で自宅に住まわせてやっている。今日マリアンヌが着ている洋服も彼女の借り物だ。きっと一人暮らしをしていた数日前よりまともな生活を送っている筈だ。ヒルダはマリアンヌと違って化粧品を腐らせない。
「レオニーちゃんも一緒に朝ご飯食べよ!」
 レオニーはこの二人に言い返してやろう、と番組放送中はいつも思っているのだが終わる頃には疲れと空腹で言い返す気力が残っていない。三人がやって来たラジオ局の目の前にあるダイナーは関係者御用達で二十四時間営業をしている。当然、この店の店内放送はラジオデアドラだ。早朝のニュース番組でアナウンサーが読み上げるニュースを聞きながら番組スタッフ達と朝食をとっているとまた火事が起きたようだった。火事のニュースを耳にしたマリアンヌが焼けたアパートのことを思い出して伏し目がちになる。
「なんか最近火事が多くない?取材に行ったら怒られるかなあ?」
 目玉焼きの黄身を潰しながら何か思い付いたらしいヒルダがメモをし始めた。レオニーが担当している2時間はこんな時間はどうせ誰も聞いていない、と言う理由でやりたい放題の枠だ。こんな時間帯でも聞いているのは荷揚げや荷下ろしの為に待機しているデアドラ港の沖仲仕達が多く彼らに向けてボートレースや競馬中継の予告が入る。しかし朝5時を過ぎて嘘のように内容が真面目になった。今は解説員が最近の天候不順について語っている。
「焼け出された直後は忙しいので…」
 マリアンヌがスクランブルエッグをケチャップとかき混ぜながら応じた。この口ぶりだと先方の都合がつきそうな頃に取材に行っても不思議ではない。相手を怒らせても泣かせても放送ではレオニーならなんとかしてくれるだろうと思っているので2人ともやりたい放題だ。
「そっかあ、それもそうだよね!あ、レオニーちゃんにまた手紙が来てるよ。食べ終わったら読んであげて」
 ヒルダから渡される手紙の束はいつも開封済みだ。あんな時間に聞いていてわざわざレオニー宛の手紙を出すような聴取者は基本、好意があって好かれようとして手紙を出すが中にはきっと見るに耐えないようなものもあるだろう。しかし ヒルダはそういった類の手紙がレオニーの目に触れないようにしてくれている。
「あんた達がパーソナリティに見せられなかった手紙特集を出来ないんだからきっとすごいのをみてるんだろうな」
 レオニーは塩で味付けしてある豆の煮物をトーストに乗せふたつ折りにして頬張った。朝食についての葉書やお便りを募集した際に書いてあった食べ方で試してみたら美味しかったのでよく真似している。豆が溢れないように器用に食べるとレオニーは手についたパン屑を払って手紙の束を手に取った。
「さあ、路面電車も動き始めたしレオニーちゃんは帰って一眠りして!」
「ヒルダ達は水上バスの始発待ちか。歴史地区は素敵だけど住むには少し不便だな」
 ヒルダの自宅がある一帯は十五年前に歴史地区に指定されてから手押しの台車と乳母車と車椅子以外の車輪は使用が禁止されている。移動には足と船しか使えない。デアドラの新市街にあるマリーナに自家用船を係留するには莫大な費用がかかり空きがなかなか出ない為どうしても水上バスと水上タクシーを利用する様になる。
 ヒルダはレスター地方屈指の名家であるゴネリル家の娘だ。ゴネリル家のルーツはパルミラの首飾り建設時までは確実に遡ることが可能で、それ以前になるとお伽話や神話の領域になる。ヒルダ言うところの由緒正しいご先祖サマ、がまだデアドラがレスター諸侯同盟の首都だった頃に建てた上屋敷は現在の新市街にあったのでまだその上屋敷を所有していればヒルダもレオニーの様に路面電車で帰宅できただろう。しかし彼女の曽祖父がその上屋敷をデアドラ市に売却し改めて網の様に水路が張り巡らされている旧市街へ家を建て直した。船着場がある立派な屋敷で ヒルダの曽祖父は毎朝、自宅からボートで釣りに出てその日に食べる魚を釣っていたらしい。ヒルダは釣りに興味がないが同居している父や兄は釣りが好きなので活用している。
「それじゃ遠慮なくお先に失礼するよ、二人ともおやすみ!」
 レオニーが去るとヒルダはハンドバッグから彼女に渡さなかった開封済みの封筒を取り出した。マリアンヌに中身を確認させる。
「分かりにくいですがファイアーの術式です。レオニーさんに魔法適性があった場合、読み上げさせたらスタジオが火事になります」
 マリアンヌは意外性の宝庫だ。口下手なのに文章を書かせれば誰よりも奇抜なものを書くし、引っ込み思案で人付き合いが苦手なのに全寮制の士官学校で理学魔法の訓練を受けていたのでメイジとプリースト双方の資格を持っている。寮でのあだ名はその無口さからサイレスだったらしい。
「あーあ、女だけで番組を作ってるからかしら?また警察に行かないと。その前に上に相談か」
「そうですね、誰かに読み上げられる前に加筆して術式を無効にしますから証言してください」
 マリアンヌが万年筆で悪意の塊の様な便箋に記号や文字列を書き込むとそれらは一瞬だけ青く光り、すぐに輝きを失っていった。もしかしたら彼女のアパートの住人にもこんな手紙が来て知らずに読み上げた結果、火事になったのかもしれない。ヒルダもマリアンヌと同じことを考えたのか無言で頷いた。

 ───
 隕石の衝突エネルギーで高温となった地表はどろどろに溶けて鉄などの重いものが沈み高い圧力の下で固まっていく。固形の内核と液状の外核が生まれ自転により液状の外核は回転し電気が発生した。その電気により生じた地磁気は惑星全体を覆い宇宙線や太陽風を遮る防御壁となる。

 磁気微生物の中にあるマグネトソームは地磁気によって守られた惑星に引き寄せられていった。
───
   ヒルダとマリアンヌから報告を受けた上司が悪意のある攻撃をされたと判断し局の法務部にこの案件は委ねられた。ラジオデアドラは警備体制の強化が必要と判断し警備員を新たに二名雇い入れた。大柄な金髪で、玄関に立っているだけで抑止力になるであろうラファエルと魔法を使った嫌がらせに対処出来るベレトだ。
 ラファエルは休憩中、筋肉をいじめると称して背中に誰かを座らせながら腕立て伏せをしている姿が評判を呼び、たまにギャラなしで番組に出演させられている。もう1人のベレトは誰かの過去を思い起こさせる静かさなので番組でパーソナリティがたまに話題に出すものの出演した事はない。ただ、マリアンヌとは通じ合うものがあったのかすぐに打ち解けた為その姿を見た局内の男性陣は衝撃を受けた。今日もまた2人で立ち話をしている。
「ヒルダさん、一瞬だけ便箋に環が見えたんだそうです」
「魔法適性検査は」
「本家筋の方々は十傑の遺産絡みで受けていると聞いたことはありますが、ヒルダさん本人はどうなのか分かりません」
「今時はそんなものか……。自分のことだと捉えないと皆、ますます魔法とは縁遠くなるな」
 ファイアーの術式が仕込んである新たな手紙をマリアンヌに見せられた際ベレトは線をたった一本書き足すだけで無効にした。マリアンヌはガルグ=マクの士官学校で正式な訓練を受けた身なので、目の前のベレトの腕が本物であることがそれだけで分かる。彼なら警察や軍の魔法部門で上級職にだってつける筈だが、地方で警備員をやっていると言うことはきっと訳ありなのだろう。
「でも私がプリーストの資格を持っていると知ると皆さんレストやライブをかけてもらいたがるんです。訳のわからない医薬品より自然で良い、と」
 ふふ、と静かに笑うマリアンヌが内心で何を考えているのかベレトには手に取るようにわかる。レストやライブの術式だって訳がわからない癖に、と思っているのだ。今のマリアンヌはそこで笑えるから構成作家が出来る。ベレトが最初に出会ったマリアンヌなら無理だった筈だ。改めて良い時代になったと思う。豊かさで紋章も魔法も存在意義を薄められ、最初のマリアンヌが背負っていた重荷は今やないに等しい。
「人間は身勝手なものだ。だがそれも今や飯の種だね?今後は番組宛の手紙の開封は警備部がするべきだ。それと局員全ての魔法適性検査が必要だ」
「このおかしな嫌がらせがデアドラで横行しているなら皆自分の状態を知るべきですね、確かに」
 ベレトはマリアンヌの言葉を首肯しながら大欠伸をした。もう交代要員も来たので帰る前に男性用仮眠室で寝るのだという。ラジオデアドラの男性用仮眠室はいつシーツを交換したのか誰も知らない。殆どの局員はここで寝るなら廊下の床に、という代物だ。一体どんな生き方をしてきたのだろう。マリアンヌだって紆余曲折あったがベレトのそれはなんだか途方もないような気がした。

 一方その頃、ヒルダは損害保険代理店で一連の火事に火災保険の詐欺の可能性があるかどうか意見を聞き終え、市立図書館で新聞の縮刷版を読んでいた。不審な火事が起きたのはどこの誰の家なのかを調べている。まるで科学から魔法に立ち返れ、と言わんばかりに先端技術に関わる人の家ばかりが火事を起こしていた。放送局が狙われてもおかしくない。それに確かマリアンヌの隣人はレスター光学の研究所勤務だった。
 続けてヒルダは警察白書にも手を伸ばした。犯罪被害者の分析が載っている筈だ。だが警察白書には年齢・性別・年収・居住地別の被害者分析は載っていても職業での分析はなかった。では加害者はどうだろうか。単独犯なのか組織なのか。脅迫の為に放火するのは犯罪組織の手口だと書いてあるが技術者を脅迫する犯罪組織とは一体どんな組織なのだろう。ヒルダには見当がつかなかった。一人で考え込んでいてもこれ以上いい考えは浮かびそうにない。今日のところはこれで時間切れのようだった。

 ラジオ局に戻るとちょうど休憩室で放送終了後のリシテアが1人でココアを飲んでいた。ヒルダも自動販売機でソーダを買って向かいに座る。
「マリアンヌなら打ち合わせで会議室に行きましたよ」
「あーいいのいいの。リシテアちゃんにも考えてもらいたいんだけど、これ見てくれる?」
 ヒルダのメモを見たリシテアが口に手を当ててうーん、と唸りながら考え込んでいる。年上のヒルダに頼られたからには気の利いた事を言いたいと思っていた。
「えっ、これはマリアンヌのアパートも関係あるんですか……?」
「それにレオニーちゃん宛にも変な手紙が来たの。おかしいって気がついてマリアンヌちゃんが無効にしてくれた」
「レオニーにもですか……。私にも来るかもしれませんね。その変な手紙」
 リシテアはカップの底に残っていたココアを飲み干すと彼女なりの答えを出した。
「宗教関係とか?」
「えーっ!うちの局、司祭様の人生相談番組もあるのに?」
 デアドラのセイロス教会聖職者は番組を持っているだけでなく、大規模な記念礼拝を行う際にラジオデアドラに広告も出すしラジオで説法もする。ラジオという新しい場と積極的に関わっていた。
「いや、デアドラのセイロス教会がどうのって話ではないです。今って二十世紀ですよ?ラジオもガス灯もある今、そんな主張をするならよっぽど強い後ろ盾がある、と確信していないと無理です。言えません。だから女神様が自分達の味方だと信じ込んでいる人達、それで宗教関係と言いました」
 リシテアの説明はヒルダの腑に落ちたので大げさに礼を言った。彼女は手短に宗教関係、とは言ったが町中の小さな聖堂を守り、託児所を開いている修道女や神父の様な地に足がついた人々ではなく暗黒時代の異端審問官のような集団を指している。己の身に宿る魔力を蔑ろにしていた技術者たちを彼ら自身が持つ魔力で罰する、という残酷な発想はなかなか出てくるものではない。
 リシテアが気がついたようなことを警察や保険会社の保険調査員が見逃すとも思えないが、警備部には伝えておくべきだろう。ヒルダが自分の机でベレト宛にメモを書きおえた時に近所の教会の鐘が鳴った。ヒルダにとっては放送準備の時間を知らせる鐘の音なのでスタジオにいかねばならない。放送終了後にベレトにすぐ渡せるようわかりやすい場所にメモを置いた。

 放送中、誰もいなくなった部屋に緑の髪をした社員がそっと入り込みヒルダがベレトに渡す筈だったメモはその社員の手の中で燃やされた。最新の火災報知器も感知できないくらい小さな魔法の炎だった。
 翌日、デイリーレスターの一面を宗教警察設立が検討されているという記事が飾った。写真は白黒なので読者は全く気がつかなかったがガルグ=マクでその準備にあたる人々は皆全て緑の髪に緑の目をしていた。

※細かい顛末が気になる場合はこちらもお読みください
https://horreum.sub.jp/teg/?tag=%e3%83%a...
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「flow」第1部 最終話「クロード」
#flow #完売本 #現パロ

───
 教会は伽藍堂である。真善美はその壁に刻まれているだけに過ぎない。

 だがそれ故に聖なるものを、真善美を求める人々の全てを受け入れ、人々の悪しき部分を赦し、人々に良き行いを促すことができる。

 教会は伽藍堂である。だが教会は伽藍堂でなければならない。
───
 ベレトはこのままヒトが発展するところを眺めつつ、穏やかに長い生を閉じられると思っていた。科学の恩恵を受け、これだけ豊かに自由に暮らせるようになったのに何故ヒトは他人の行動を縛ろうとする動きを支持できるのだろうか。宗教警察は異端審問官という古い葡萄酒を入れた新しい皮袋にすぎない。
 十七世紀にイングリットやユーリスに手伝ってもらったようなことも監視カメラがあると難しく、どうすべきか分からなかった。ソティスに叱られるのもまた良し、という気持ちでヒルダたちの安全が確保されたのを見届けたベレトはデアドラを去り、再びクパーラで眠ることにした。
 以前と変わらず野生の飛竜もまだ健在で群をなして飛ぶ姿が見られるし、羽音を聞きながら眠ることができる。もしかしたら夢の中では自分も白きものになって空を飛んだり炎を吐きたり出来るかもしれない、と思って眠りについたがそれは叶わなかった。
 今回、クパーラでベレトが見た夢にソティスや白きものは登場せず、ヒトとして過ごした最後の一年間、士官学校で教師をしていたあの一年間の夢しか見なかった。
 フォドラ統一戦争の夢すら見なかった。
 教師に戻るのが自分の運命なのかもしれない。そう考えたベレトは勝手知ったるフェルディア総合大学で高校教師の資格を取った。ガルグ=マクも庭のようなものだったが、石油化学産業で食べている土地なだけあって宗教警察から学生を守ってくれる、シルヴァン=ジョゼ=ゴーティエ記念奨学金で学費の支払いが出来る、という点でフェルディアに軍配があがった。二十世紀になってもまだ入学時にフェルディアブルーのローブを渡す伝統は続いている。
 石油産業で豊かになったファーガスは十二世紀末の貧しい姿が嘘のようだった。レアはセイロス教の禁忌に石油の利用を入れていたが、古代にしても十二世紀末にしても当時は精製する技術がなかった。わざわざ禁忌にせずとも魔法を推奨するだけで充分だったろう。
 フレスベルグ製作所の蒸気機関なくしてファーガスの発展は見込めなかった。結局、全ては絡み合っている。こんな風に技術が進歩していくことを直接知っているせいか、ベレトの授業は臨場感があって分かりやすいと評判が良かった。
 社会科全ての資格があり、剣術と魔道も指導できる教師としてベレトはフォドラ中の高校で教えて回った。ガルグ=マクにこだわるつもりはなかったので場所は何処でも構わなかったが、オグマ山脈が見える土地にいる時にはベレト先生は気がつくと山を見ている、と生徒や同僚皆から言われた。
 当時はまだ全てが紙の書類で管理されていたし、コンタクトレンズで瞳の色が変えられるようになったので各地で沢山名義を作り、別人を装って教師をするのは簡単だった。アンヴァルの教え子はフレスベルグ製作所に就職が決まったと言って喜び、ヌーヴェルの教え子は地元の大学へ進学した後ブリギットでフォドラ語を教える教師になった。ガラテアやゴーティエの高校はブレーダッドオイルから全生徒へ教科書の提供があり、フェルディアの教え子たちはやはり地元フェルディア総合大学へ進学したがった。エドマンドの教え子は地元の農学校で酪農を学び、デアドラの教え子は外航船の船員になった。
 サウィン村にある分校の教師をしていた時の校長がガルグ=マクへ移動し、彼女から国立ガルグ=マク大学附属高校で教師をやらないか、と打診されたベレトは二つ返事で引き受けた。少し怖かったが例え士官学校ではないとしても何者かに呼ばれたのだろう。
 国立ガルグ=マク大学附属高校は全寮制のためフォドラ中から優秀な学生が集まり、交換留学生も多数受け入れている。交換留学生はパルミラとブリギット出身の学生が多い。ベレトはレンズ研磨の修行をした際にパルミラ語を覚えたことを今の職場では明かしていなかった。
 しかしうっかり同僚の前で生徒のパルミラ土産の説明文をすらすらと読んだことが災いし、新年度から地理と倫理と剣術クラブの顧問の他に留学生の受け入れ担当もするはめになってしまった。基本的にはフォドラ語でやりとりをするとはいえ、いざという時のためにパルミラ語のおさらいもしなくてはならない。
 剣術クラブの指導後、誰も残っていない職員室でようやくベレトは来年度受け入れる予定の留学生たちに関する資料を開いた。とあるページで資料を捲る手が止まる。彼と再会するのは五世紀ぶりだった。二年早かったら金鹿の学級の名物コンビが再結成されていただろう。だが、ローレンツは二年前に卒業していた。彼はこのご時世には珍しい紋章持ちで、大学の紋章研究科から身体を調べられたりしてそれなりに面倒な高校生活を送っていたが、数世紀前に再会できた時のように守ってやれたと思う。

───親族同士で揉めている様子を多感な年頃の息子に見せたくない、という両親の意向でクロードは母親の故郷であるフォドラへ一年間留学することになった。特に興味もないのだが、母に言わせるとパルミラ訛りだという自分のフォドラ語が矯正できればそれで充分だと思っている。国立ガルグ=マク大学附属高校への留学生受け入れ試験に合格し、地元でお別れパーティをやったと思ったらもうフォドラの学校に到着していた、そんな状態だった。
 どうやらクロードの到着は早過ぎたらしく構内は人影がまばらだ。事前に送られていた名札を胸元につけ大きなトランクを引っ張りながら歩いていく。乾燥したパルミラとは全く違う、春先の山の湿った空気を吸い込むと何故か肺の中まで冷えるような気がする。
 クロードから見て広場の向こうに〝留学生はこちら〟という表示が見えた。その真下には黒髪に黒い瞳をしたスーツ姿の男性教師が立っている。学生の顔と名前でも確認しているのか書類を懸命に見ていたが、クロードに気がつくと近寄って手を差し出してきた。
『初めまして、クロード。留学生受け入れ担当のベレト=アイスナーです。君の学年に教える科目は倫理。フォドラでの一年間を有意義に楽しく過ごして下さい』
 クロードは一瞬だけ何故名乗る前に名前を知られているのかと不思議に思ったが、胸元の名札に思い当たった。何度か瞬きをして、ベレトから差し出された手を握り返す。
『驚いた、ガルグ=マクにパルミラ語が話せる教師がいるなんて知らなかった!』
『少し話せるのがバレたせいで君ら留学生担当になった。ちなみに明日からはジャージしか着ないしフォドラ語しか話さないよ』
 軽口を叩いてにこやかに笑うベレトを見ているとパルミラ出国前には母親から、フォドラ入国後にはガルグ=マクのパルミラ大使館から、きつく注意された宗教警察がらみのことが疑わしくなってくる。クロードはガルグ=マクでは誰がセイロス教宗教警察の協力者か分からないから言動に注意せよ、セイロス教の禁忌に触れるな、と言う助言を受けていた。
『じゃあベレト先生、俺も明日からフォドラ語しか話さないことにします。訛ってるけど』
 ベレトは無言でクロードに向かって親指を立てた。ベレトの最初の教え子はベレトの最後の教え子でもあった。畳む
「flow」番外編"Bargain.2"
#完売本 #クロロレ #年齢操作 #flow #イグナーツ #リシテア
※イグナーツとリシテアが結婚しています

 リシテアとイグナーツがデアドラからコーデリア領に戻る途中、グロスタールの屋敷で一泊するのは留守居をしているストームに会うためだった。だが傷心旅行を早めに切り上げたのか父親であるローレンツも戻っているという。ストームは嵐の日に生まれたローレンツの一人息子のあだ名で、彼の本名はエドガー=ローレンツ=グロスタールだ。
 ストームの母は家同士の付き合いでグロスタール家に嫁いでいる。だがリシテアの婿としてコーデリア家に入った騎士上がりのイグナーツにも丁寧に接してくれる人だった。五歳年下のローレンツとはどこへ行くのも一緒な仲睦まじい夫婦でその頃の思い出話はたえることがない。彼女の死は皆に衝撃を与え、ローレンツは一年間祝事には一切参加しなかったし、その後もどこへ行くにも喪服しか着なかった。
 それまでは伊達男と名高く、しょっちゅう服を仕立てていたというのに。長い間本当に酷い有りさまだったので気分を変えさせるため、彼の両親はローレンツに無理やり平服を着せた。
 これまで縁のなかったパルミラへ一人で旅行へ行かせた、とローレンツの父エルヴィンから聞いた時にリシテアもイグナーツも良い機会だと思った。それなのに三ヶ月の予定を一ヶ月で切り上げて帰ってきている。執事からそう告げられたリシテアもイグナーツも不安しか感じなかった。旅行も続けられなかったのだろうか。
 不安は募ったが、再会したローレンツは喪服ではなく旅先で気に入って買い求めた青い光沢のある生地で仕立てさせた上着を着ていた。しかも家中の人々を心配させた、本人に全く自覚がないのに涙を流す現象もどうやら治ったらしい。
 見事な腕前で淹れてくれた紅茶はパルミラ風でいつもより少し味が濃かったが、向こうで買ってきたと言う変わった食感の茶菓子によく合っている。
「二人にも随分と心配をかけたね」
「いえ、気にしないでください。少なくとも私はこの珍しいお菓子で許してさしあげます」
「気に入ったので現物も料理本もたくさん買い込んでしまってね」
 リシテアとの会話から察するにローレンツは物欲が戻ったらしい。日々の暮らしを楽しんでいた彼が生きている己を罰するかのように、内側にに篭る姿は見る者全ての涙を誘ったし、イグナーツも胸が締め付けられるように辛かった。人生は本当にままならない。
 だが、もうすぐ一歳半になるよちよち歩きのストームを連れて、薔薇園を散歩する彼の姿は隣に亡くなった奥方がいないのが不思議なくらい元のローレンツそのものだった。
 皆、ひとまずは安心した。そうなると次は詮索が身をもたげてくる。一体旅先のパルミラで何があったのか。久しぶりになんの憂いもなく、グロスタールの屋敷で過ごしたリシテアは幼い頃から何度も泊まっている馴染みの客室で夫のイグナーツに推理を披露していた。
「イグナーツ。私が思うにローレンツ兄様には新しく好い人が出来たのかもしれません」
「朗らかになってましたよね、確かに。ストームのためにも本当に良かった」
 豊かな黒髪をブラシで梳かしていたリシテアが目元を押さえた。
「あら……いやだ、今度は私が泣いてしまうなんて。でも胸元に薔薇も付けていたし元のローレンツ兄様に戻ってくれたみたいで嬉しくて」
「紹介してもらえたら、僕たちからもその方にお礼を言いましょう」
 イグナーツから濡れた手巾を渡されたリシテアは、それが絞って冷やしたものであることに気付いた。気を利かせてブリザーで冷やしてくれたのだろう。目が腫れないよう、目元にあててしまったのでイグナーツの顔は見えない。寝室で夜眠る前に話を聞いてくれる相手が失われてしまったら、と考えるだけで恐ろしい。楽しそうに相槌を打ってくれるイグナーツを失ってしまったら、リシテアだってどうなってしまうのかわからないのだ。

 一方でカリードはフォドラに関する本を読み漁るため、図書館へ通い詰める日々を送っていた。カリードの住む港町はフォドラと近いこともあり、パルミラ語で書かれた本だけでなくフォドラ語の本もおいてある。どちらも読んだ。
 カリードはフォドラの言葉は話せるが読み書きは得意ではない。口に出して音を聞かねば上手く意味が理解出来ず、フォドラ語の本を読むのにはかなり手間取った。その上、手当たり次第に読んだせいで調べ物としての効率も悪かった。しかしそのおかげでカリードのフォドラの文化への理解は深まっている。
 彼は数週間かけついに知るべきだったこと、に自力で辿り着いた。カリードは彼をグロスタールのローレンツ=ヘルマンだと思っていたが違うらしい。ようやく何が書いてあるのか理解できるようになった貴族名鑑によると、彼はグロスタール伯爵家の一員だった。グロスタール家は十傑の遺産テュルソスの杖を受け継ぐ名門で、グロスタール領という土地の名前が彼の家名に因んで付けられている。彼は貴族の中の貴族だった。
 カリードはフォドラの貴族というのはもっと冷酷で情がないものだと思っていた。だが実際に出会った彼は妻を亡くしたことが悲しくて悲しくて仕方ない人だったし、カリードが汚した服を洗ってくれて母譲りの緑色の瞳をきれいだと褒めてくれて───それ以上のこともあったし、別れ際の涙はもう不随意ではなかった、と思う。あんなに情の深い人をカリードは他に知らない。もう一度ローレンツに会いたい。ただ、彼から再会するにあたって条件を出されていた。それは別れ際の態度から察するに、ローレンツ自身の誓いでもあったのだ。
 十六世紀のパルミラはダグザと海の覇権を争っており、海軍の主力はほぼダグザ方面へ割いていた。海軍の名においてフォドラの通商航路の妨害をする余裕はない。そこでパルミラ国王は民間船に対し、私掠免許を発行した。私掠免許を持つ船は敵国及び中立国の船を攻撃し、船や積荷を奪う許可を得たことになる。略奪や拿捕で得た利益は一割が国王個人、一割が船長、二割が出資者、残りの六割が乗組員達に分配された。乗組員達は受け取った六割を更に人数で割って分かち合う。その際に操舵手と船医は少しだけ取り分を多くしてもらえるのが常だった。
 大型船は拿捕や略奪に備えて武装している。海賊行為は命がけだが一攫千金を狙うものたちからも投資家たちからも人気があった。私掠船は利益率の良い投資先で、それに絡んだ詐欺行為や私掠免許の強奪や偽造も横行している。
 特に私掠免許の強奪や偽造は発覚すれば許可のない海賊行為を行った罪で海事裁判所に訴えられ、死刑になる。だがそれでもなお利益目当てに手を染める者が跡を絶たない。
 命がけと言えば私掠船に入り込み、パルミラ国王が発行した私掠免許の真贋や正確な名義を確かめる密偵たちもそうだ。密偵は私掠船の数を正確に把握し統制したいパルミラの王府が雇うこともあれば、敵対国や中立国の政府や民間人が雇うこともある。旧レスター諸侯同盟の名家たちも海事に限らずパルミラに多数の密偵を放っていた。
 少しでもフォドラと縁があり、大金を稼げる仕事がしたかったカリードは旧レスター諸侯同盟の名家ゴネリル家の密偵となった。彼を現地採用した密偵がグロスタール領出身だったこともかなり大きい。実際、上司の故郷の話を聞くだけで心が躍った。特に若様がまだ再婚なさらない、という話を聞けた晩は興奮して寝付けなかったほどだ。
 カリードは様々な船に乗り込み、パルミラ人の外見と流暢なフォドラ語を利用しありとあらゆるものを煙に巻いて船長たちの秘密を暴いた。秘密を暴かれた私掠船の船長たちはそのまま海事裁判所に訴えられ、裁かれるものと脅迫されフォドラに協力させられるものに分かれる。
 その判断を下すのが密偵頭の〝クロード〟だった。レスターからパルミラへ送り込まれた密偵たちはそれぞれ協力するように言われている。彼らの頭の名はそれがどこの誰であろうといつも〝クロード〟だ。〝クロード〟になれたら出自がなんであろうと、名家の人々からは一目置かれるようになる。船上で野蛮な行為のあった晩、カリードはいつもローレンツのことを思い出して正気を保った。

「本当に明日フォドラに帰っちゃうのか?」
「帰るよ。君のおかげで落ち込んでいる自分のことも許せたし、幼い息子には父親が必要だから」
 フォドラへ連れて行って欲しいとせがむか格好をつけて自分もすぐに行くから待っていて欲しい、と言うべきか。迷ったカリードは眉尻を下げ、黙ってローレンツの顔を見つめた。頼まれごとが嬉しくて頑張ってしまったが、乗れる船なんか見つけてやらなければよかった気がする。でもローレンツから無能だと見做されるのはもっと嫌だった。
「僕のように心を病んだ男が何を言っても説得力はないかもしれないが、君は善良で頭が良いのだから優れた何か、になるべきだ」
 カリードが黙って身体を強張らせているとローレンツが手を握ってきた。長くて白い指と褐色の指が組み合わさり白い顔が上から近づいてくる。
「それに君の未来が僕の性欲で定まるのはいやだな」
 ローレンツは冗談めかしていたが、カリードは自分の耳元で囁かれたその言葉に雷に打たれたような衝撃を受けた。その時は分かっていなかったがグロスタール家の力があれば、あの時点の野良犬のようなカリードをフォドラへ連れて帰ってしまうのは簡単だった。だがローレンツは本当に誠実な人物で、それが搾取であると考えた。カリードには自力で優れた人間になる可能性があり、自力で自分と対等な人間になれると信じてくれた。
 愛する人に信頼されたからには全力で応えるしかない。こうして優れた何か、になろうとしてもがき苦しむカリードの姿が女神の御心を動かしたのかもしれない。もしくさたった半月しか共に過ごさなかったのにカリードの可能性を信じて、突き放したローレンツの真面目さが女神の御心を動かしたのかもしれない。 
 正確なところは分からないがとにかく事態は動いた。近々デアドラ港の港長が代替わりする、という噂はカリードの耳にも入っている。それにまつわる人事異動の噂で持ちきりだ。港長が代替わりするなら今の〝クロード〟も引退する可能性がある。聞くところによると二人とも隠居してもおかしくない老人だ。次の〝クロード〟になったカリードがデアドラで暮らすようになれば、ローレンツは再び連絡を取ってくれるかもしれない。グロスタール領からローレンツが会いに来てくれるかもしれない。
 そのためには今までと同じく、今回の航海でもしくじることは出来かった。甲板では船員たちが食糧不足を解消するために釣った鮫が大暴れしている。その様子をマストの上から眺めながらカリードは不敵に笑った。畳む
「flow」番外編"Bargain.3"
#完売本 #クロロレ #flow #年齢操作 #ヒルダ

 ベレトは巡警の詰所で捕縛用の縄を一本ずつ手に取り強化魔法をかけていた。引きちぎるものは滅多にいないが念には念を入れている。檻の中に入っている大柄な沖仲仕(おきなかし)がベレトに声をかけてきた。
「センセイ、もう大人しくするからこれ外してくれよ」
 昨晩、待機中に酒に酔って大暴れした男の手首足首には縄が巻かれている。指を鳴らせば勝手に結び目が解けてくれるような世の中ならば楽なのだが、そんなことはない。ベレトは腰から下げた鍵で扉を開け、中に入ると男の手首足首の結び目に触った。重ねがけした強化魔法を解除してから縄を解いてやる。
「手枷の方が楽なんじゃねえか?」
「牡蠣が美味い時期に手首足首を冷やすのは良くない。沖仲仕は身体が資本だ」
 ベレトから若草色の瞳でじっと見つめられた沖仲仕は決まり悪そうに目を逸らした。筋骨隆々な身体つきも鮮やかな刺青も彼は恐れない。
「何があったのか話してくれ。言葉で伝えてもらわなくては何も分からない。このまま嫌なことがあるたびに酒を飲んで暴れるのか?」
 彼は変わった巡警で沖仲仕たちに読み書きを教えたり、暴れん坊の手首足首が冷えないように気にかけたりする。酒が抜けて落ち着いたらベレトは改めて何故暴れたのか、について供述をとるつもりだった。同僚からは酒に酔って暴れた、で充分だと言われるが性分は変えられない。
「それで嫁がな……俺のいない時にもしかしたら……」
「確かめるのが怖くて飲んだのか。怖いよな、でも留置所に手首足首縛られた状態で一晩ぶち込まれて、仕事に穴を開けるのと奥さんと話し合うのはどちらがマシだと思う?」
 筋骨隆々の男たちは怖いものなど何一つないような顔をしている。だが、単に自分が何を恐れているのか自覚していないだけだ。それに加えて怒りと恐れと悲しみの区別がついていないものが多い。ベレトは彼らにその区別をつけてほしいと考え、いつも可能な限り詳しく供述を取っていた。怒りと恐れと悲しみの区別に無自覚な状態を放置するとひどい、としか表現しようのないことが起きてしまう。それはかつて、ダスカーでも起きたことだ。
「ベレト、港長がお呼びだ。なんだ、また供述を取り直してるのか?」
 昨日の彼はムカついたから酒を飲んで目についた弱虫を殴ってやった、としか言わなかった。どんなものにも語るべき何かがある。
「そうだ。また似たようなことがあった時は絶対に、酒に逃避させない」
「効き目があるのかねえ。まあ続きは引き受けた」
「また魔獣の目撃情報でもあったのか?」
「さてね。とにかく来い、とさ」
 デアドラ港の全てを取り仕切る港長のヒルダは老いてなお、十傑の遺産であるフライクーゲルを振り回す。通商航路の安全を脅かす魔獣を一刀両断するが、得物を持っていなければ小柄な愛らしい老婦人だ。
 ベレトが執務室の扉を叩くと中から入りなさい、と言う声がした。机の上には所狭しと書類が広げられており、珍しく書類から顔もあげない。この時期になると彼女は体が冷えるから、と言って暖炉の火を絶やさないようにしている。
 だが火が消えていることに気づかないほど集中して書類を読んでいたらしい。ベレトは黙って火かき棒で暖炉の灰を探り、まだ使えそうな薪の欠片を見つけるとファイアーの呪文を唱えて火をつけた。
「何の用だろうか?」
「次の〝クロード〟を誰にしようかしら」
 そういうと机に広げてある身上書を指さした。
「読んでいいのだろうか?」
「一緒に考えて貰いたくて呼んだのだから当然よ。次の港長は私のお気に入りの子がやるからいい"クロード"を選んであげたいの」
 ヒルダが引退する、と言う噂はどうやら本当だったらしい。
「グロスタール家のローレンツ=ヘルマン=グロスタール。グロスタールの小紋章を受け継いでいるから、テュルソスの杖も使える。嫡子もいるから丁度いいわね」
 不満げな顔をしてベレトが自分を見つめていることに気がついたヒルダは口を思いっきり曲げた。ベレトは何故か、十傑の遺産の使用者がすり減らされることを極端に嫌う。独身のうちに壊れてしまうと後継者が作れない。もう嫡子がいるなら遺産の使いすぎで本人が壊れても別に構わない、という意図を含んだ物言いが引っ掛かったのだろう。だがヒルダも同じような状態で任に就いた。
「他に知るべきことは?」
「身上書はローレンツの物もあるから読んでちょうだい。彼のために良い〝クロード〟を選ぶんだから彼のことも知らなくてはね」
 ヒルダから渡されたローレンツの身上書を読んだベレトの顔がみるみるうちに曇っていった。転地療養を経て父親の補佐に復帰、と書いてある。彼の脳裏にフェルディアで読んだローレンツの資料の内容が浮かんだ。気を付けてやらねばテュルソスの杖に侵食されてしまう可能性がある。
「少し精神的に危ういようだが本当に良いのか」
「地上ならともかく海上で魔獣の相手をするのに遺産や紋章の力なしでは厳しいわ」
 ヒルダがいうことはもっともだった。紋章も遺産も持たないものだけで対処しようとすると、魔獣を気絶させた時に攻撃の当たらない海底まで沈んでしまう。すると追撃が出来ない。確実に仕留めるためには陸に近い水深が浅いところで戦闘せねばならないが、敗北して上陸を許せば大惨事が起きる。名家に生まれ強い力を持ったものが責務を果たさねば、助かるはずの人々が大勢死ぬ。選択の余地はなかった。
「では決定なんだな」
「そうよ。ローレンツに多少の瑕疵はあっても変わらない。だからセンセイお願いよ。どうかローレンツを助けてやって」
「微力を尽くすよ。まずはこの人選が最初のお手伝いだな」
 ベレトはヒルダに軽口を返すと今度は〝クロード〟候補たちの身上書を読み始めた。密偵たちは皆それぞれに優秀だった。その中に一人若さが際立つものがいる。
「せめて一度でも直接、会ったことがあればねえ。皆、任務や依頼があるから迂闊に呼び出すわけにも行かないのよ。書類だけで選ぶのは本当に難しいわ。皆実績が素晴らしいから決め手に欠ける」
「俺なら彼にする」
 ベレトから差し出された身上書に目を通したヒルダは首を傾げた。パルミラ出身で二十歳に満たない。ヒルダが真っ先にない、と判断した候補者だった。
「理由は?」
「目が緑だから」
「意味が分からないわ」
 確かに身体的特徴欄には焦茶の髪、緑の瞳、褐色の肌、中肉中背、と書いてある。だからなんだというのだろうか。ヒルダは目線で続きを促した。
「パルミラ人は瞳の色が黒いんだ。髪はいくらでも染められるし、海の仕事をすれば皆日焼けはするものだから、肌もまあ……港から街に出なければなんとなく互いに都合が良い誤解をして貰える。だが瞳の色だけは変えられない。どんなにパルミラを自分の故郷と思っていても瞳の色のせいで否定される。だから自分の中のフォドラの血に賭けたんだ」
 密偵たちの中には他にもパルミラの血を引く者がいるが、皆フォドラ育ちだった。育った土地に対して芽生える自然な愛着心と利用できる己の見た目故にヒルダたちに雇われている。
 ベレトの選んだ彼だけがどこに在ろうとも異物だった。
「彼だけがずっと背水の陣で戦っていた」
「なるほどね。参考になったわ。助言通りにするかどうかは分からないけれど」
「 ヒルダ、引き継ぎが終わったらフォドラ中に散らばった孫の顔を見て回るのはどうだろうか。きっとおもしろいぞ」
「そうね、それに孫にフライクーゲルの使い方を教えてやらなくちゃね」
 ゴネリルの紋章を持つ孫が次のフライクーゲルの持ち主だ。自分はフライクーゲルとうまく距離を保つことが出来たが、孫はどうだろうか。ベレトが先ほどローレンツのことを心配していたが、同じようにヒルダの孫も細心の注意を払って慎重に導かなばならない。
 ヒルダには考えるべきことがいくらでもあり、どんな案件だろうといつまでも囚われている訳にいかなかった。しばらく未定の振りをするがこの人事のせいで問題が生じたらベレトに解決させれば良い。そのために彼を呼んだのだから。



 いつもと違って真の意味で、乗客としてデアドラ行きの客船に乗ったカリードは客室の小さな寝台に寝転がった。船員用の部屋と比べれば小さな窓までついているここは天国だと思う。窓から微かに入る月の光でデアドラ港湾公社から来た文書を読み返した。何度読んでもデアドラヘ出頭せよ、と書いてあるので顔が綻んでしまう。国境を越えてデアドラに呼ばれる程度には有能と見做されたのだ。
 仮に〝クロード〟絡みでなかったとしても、デアドラ港での用事が終わって休みが取れたらグロスタール領に行ってみようと思っていた。一度行ってみれば今後、自分がどうすべきか考えも浮かぶだろう。
 船の帆は風を受けて陸地沿いに目的地へ進み、カリードが瞼を開けた頃にはエドマンドを通過していた。このまま何もなければもうすぐデアドラに着く。
 船内では水を無駄に出来ないので蒸留酒と香料を混ぜたものが身体の手入れによく使われる。甘い香りの混ぜ物を手に取って手や顔を拭いていると甲板から大砲用意!というかけ声が聞こえてきた。
 フォドラ沿岸に出る魔獣は鎖国状態の頃は守り神として讃えられたらしい。だが今は単なる厄介者でどの地点で出没したのか報告する義務がある。どうやらカリードの乗る船は出現に備えて警戒すべき海域に入ったらしい。もし魔獣に遭遇してしまったら───こんな小さな船の場合、やれることはひとつだけだ。砲撃して怯んだ隙にさっさと逃げてしまうしかない。
 どうか海が穏やかなまま航海が終わりますように、と船上にいる全ての人が女神やご先祖に祈りを捧げている。誰かの願いが天まで届いたのか、何事もないまま警戒海域を抜けることが出来た。
 フォドラの行政区分は統一前の三国に準拠している。ファーガス、アドラステア、そしてレスターだ。デアドラは依然としてレスター地方で一番の大都会で人も物も集まる。遅れて始まった乗客たちの朝食は水より日持ちするビールに虫が沸かないよう何度も焼いて固くした麺麭を浸してふやかしたもの、壊血病予防で食べることが推奨されているキャベツの酢漬け、という質素極まりない物だ。しかしデアドラが近いとなればもう文句も出ない。皆の頭に浮かぶのは今、実際口にしている物ではなく、近いうちにデアドラで食べられるはずの豪華な料理だ。カリードもデアドラに着いたら宿で身支度を整え、この時期のデアドラ名物である牡蠣を食べるつもりでいる。
 朝食を終え乗客のほとんどが下船の準備をしに客室へ戻っていた。だがカリードは大した荷物を持っていない。余らせた時間を潰すため甲板に出て、沿岸の風景を眺めていた。パルミラとは全く違う様式の、カリードからすれば見慣れない建物は母にとっては見慣れたものだったのだろうか。
 船がデアドラ港の沖合に停泊すると艀(はしけ)がわらわらと寄ってきた。港に直接接岸できない大きさの船に乗った場合、または接岸する順番が待てない場合に乗客は艀に乗り換えて上陸する。カリードは荷物を背負って梯子を降りていたが途中で面倒臭くなり、手を離して艀に向かって飛び降りた。水飛沫が上着にかかったのが何故か面白くて笑ってしまう。危険行為だ、転覆したらどうしてくれる、と艀の漕ぎ手に怒られたので降りる時に多めに心付けを払った。
 デアドラ港の船着き場には既に屋台があるのだが、そこには寄らず税関へ向かう。入国審査の順番を待つ行列が既にできていたが、並んでいるのはフォドラ人ばかりだった。外国人用の列は空いている。カリードがパルミラの王府が発行した旅券を見せると職員は無言で旅券に港湾公社からの命令書を挟んでから上陸許可印を押した。申し送りがあったのかもしれないが、それでも一瞥もしないのは保安上、問題があるのではないだろうか。
 デアドラ港を出ればもうデアドラ市街だ。デアドラはフォドラで唯一無二の水の都で、港の前には巨大な広場がありその脇にはもう水路が広がっている。狭い歩道しか存在しないこの街では馬車ではなく、船が人と荷物を乗せて水路を行き交う。カリードは橋を渡って渡し船の乗り場へ向かった。
 パルミラの港町ならば巨大な馬車の乗降場があるはずの場所に宿屋の客引きたちが大勢いる。彼らは皆、宿の名と場所、それに一泊いくらなのかを書いた看板を掲げていた。口々に今なら宿までのゴンドラ代を半分持つとか食事にワインを一杯つける等自分たちの宿がいかに優れているか口上を述べている。
 その中にうちの宿には風呂がついている、というものがいた。公衆浴場へ行く場合は新しい外出着を持参して、汚れた服を持ち帰らねばならない。敷地内に風呂があるならば軽装で風呂場へ行って入浴し、そのまま部屋に戻って休める。
 だが看板を見てみるとかなり遠い。手漕ぎの渡し船では一時間近くかかるだろう。命令書に書いてあった出頭時間に間に合わせるためには当日、ゴンドラを自分のためだけに一艘、呼ばねばならない。金はなくはないが贅沢すぎる気もする。カリードが黙って看板の内容と遠さを天秤にかけて考え込んでいると視線に気づいた客引きから声をかけられた。
「悩んでるみたいだな。泊まってくれたら服を洗ってやるよ。宿持ちでな。デアドラで服を仕立てるのに薄汚れた格好で行ったら仕立て屋に舐められるぜ?」
 確かに下船する時にはしゃいだせいでカリードの上着は海水で濡れている。洗わねば匂うだろう。だが長旅で疲れている身で上着のような大物を洗うのは面倒くさい。
「今からそんな辺鄙なところに行って昼飯はどこで食えばいいんだ?」
「食堂もあるぜ。うちの島は牡蠣が取れるから今の時期はそればっかりだけどな」
「朝早くに出なきゃならないんだが」
「それなら仕入れの船の帰りに乗ればいいさ。帰りが空にならずに済んだって漕ぎ手も喜ぶぜ」
 こうして説得されたカリードは一時間手漕ぎのゴンドラに揺られることにした。益体のない話でもしていればあっという間に過ぎるだろう。デアドラの中心部には港とセイロス教会と商工会がある。基本、宿屋の値段はこれらにどれだけ近いかで決まっていくのだが、カリードの選んだ宿屋は距離だけで見れば強気な値段設定をしていた。利便性ではなく設備と宿泊客への気配りで勝負に出ているらしい。
「静かでいい宿だぜ。騒々しいのが嫌いなお偉いさんの別荘も同じ島にあるから見えたら案内してやるよ」
「上屋敷を構えるには遠すぎないか?」
「貴族や豪商ってのはさ、デアドラで使う船も持ってる。滞在中は俺みたいな漕ぎ手を雇って、ずっと別荘で寝泊まりさせるから本人たちは早起きだけすればいいんだよ。すげえ身分だよな」
 客引きとの会話に船の漕ぎ手も加わり、ああだこうだと話しているうちに客引きが瀟洒な屋敷を指差した。
「あのグロスタール屋敷の裏側がうちの宿の船着き場だよ。背中合わせになってるんだ」
 カリードはその後のことをよく覚えていない。だが、滞在中ずっと客引きと漕ぎ手が異常に愛想良くしてきたので、無意識のうちに桁違いに高額な心付けを二人に払っていたらしい。畳む