「説明できない」4.背叛 #説明できない #クロロレ #完売本 続きを読む 皆の初陣が終わるとクロードの記憶通りに事態が進み、ロナート卿の叛乱の知らせがガルグ=マクにもたらされた。セイロス教会はロナート卿の養子であるアッシュに何の沙汰も下そうとしていない。軟禁もされないのでアッシュの方が身の潔白を証明するべく自発的に修道院の敷地内に閉じこもっている。鎮圧に英雄の遺産である雷霆まで持ち出す割に対応が一貫していない。前節と同じく金鹿の学級がセイロス騎士団の補佐を任された。クロードの記憶通りならばエーデルガルトたちが鎮圧にあたっていた筈だが展開が違う。彼女はあの時、帝国に対して蜂起したロナート卿を内心では応援していたのだろうか。 アッシュは誰とも話したくない気分の時にドゥドゥが育てた花をよく眺めている。何故クロードがそのことを知っているか、と言うと温室の一角は学生に解放されていて、そこで薬草を育てているからだ。薬草は毒草でもある。他の区画に影響が出ないようクロードなりに気を使っていたが、それでもベレトはクロードが使用している一角をじっと見ていた。 「マヌエラ先生に何か言われたのか? 致死性のものは育ててないぜ」 「その小さな白い花には毒があるのか?」 ベレトが指さした白い花はクロードが根っこ目当てで育てているものだ。花に毒性はないのでそう告げると、花束に入れたいので分けて貰えないかという。そう言えばベレトは変なところで義理堅く、学生全員の誕生日に花束を贈っていた。 「今月はシルヴァンとローレンツとエーデルガルトの誕生日がある。他の二人はともかくローレンツには何か渡すべきだ。前節は世話になったのだから」 クロードは先月ラファエルに干し肉を渡した。士官学校に進学する平民の学生は級長を務める貴族や王族の学生から誕生日を祝われることを名誉としている。レオニーやイグナーツのことは気にかけていたが、ローレンツのことは五年前と変わらず失念していた。しかしベレトが言うことは正しい。 彼は思うところがある、とクロードに対してはっきり宣言した。だが初陣のイグナーツとクロードの実力を信頼し、ラファエルと共に前線で危険な囮役を引き受けている。確かにクロードはローレンツに何か贈るべきだ。 六月十三日当日を迎え七月二十四日までの五週間、クロードはローレンツの二歳年下になった。茶会はベレトに取られてしまったし、手頃な茶葉や茶菓子は他の者と被ってしまう可能性がある。背に腹はかえられぬ、という訳で皆がそろそろ寝ようかという頃、クロードはデアドラのリーガン家から黙って持ち出したそれなりに高い酒を手にローレンツの部屋を訪れた。 扉を開けたローレンツはクロードが持っている酒瓶に目をやると口の端を上げた。どうやら価値がわかっているらしい。 「君から何か貰えるとは嬉しい誤算だ。入りたまえ」 そしてクロードには全く期待していなかったらしい。ベレトに言われるまで不義理を極めていたのはクロード自身が誕生日にあまり思い入れがないからだ。パルミラには月に一度その月に生まれた者をまとめて祝う慣習があり、誕生日を個別に祝わない。 ローレンツの部屋は持ち主の気質がそのまま現れたような雰囲気だったが、神経質さや頑なさは感じられない。ベレト以外からも薔薇の花束をたくさん貰っていて花瓶が足りなかったのか、小物が入っていたはずの籠にまで活けてある。きっとその中には水を張った杯でも仕込んであるのだろう。花は瑞々しさを保っている。 「中々、他の奴と被らない品が思いつかなくてな」 クロードが瓶を渡すとローレンツは慣れた手つきで栓を開けた。下手くそが開けると栓を砕いてしまう。この手のことは従僕にやらせているかと思っていたが、どうやらそうではないらしい。 「いや、これは重畳だ。だがこれは本当にいい酒だから一本丸ごとは気がひける。そうだな、一杯だけいただこう」 そう言うとローレンツは棚から小さめの杯を二つ出した。琥珀色の液体が二つの杯を満たしていく。クロードはローレンツがこんな柔らかな発想をするとは思っていなかった。持参した蒸留酒は甘いものにも合うのでローレンツがリシテアたちから貰った焼き菓子がどんどん減っていく。昔のクロードなら警戒して食べなかっただろう。だが自分の采配が間違っていたせいで戦死したリシテアたちが作ったものを今のクロードは拒否することが出来ない。 「近頃ずっとロナート卿の件で機嫌が悪そうに見えたから気になってたんだ」 ロナート卿叛乱の報せを受けてからローレンツはずっと怒っていた。きっと彼は領民を巻き込んだことが許せないのだろう。そしてアッシュが処断されないことを不思議がっていた。クロードはセイロス教会がダスカーの戦後処理に失敗したせいで叛乱が起きたことを既に知っている。全てがお粗末すぎて怒る気にもなれない。 「皆から祝われたのだ。君までこうして一杯献じてくれたわけだし嬉しくならないわけがなかろう」 白い肌を酒精で染めながら、ローレンツは嬉しそうに今日皆がくれた祝いの品について細々と教えてくれた。彼がこんなに情が深いと五年前から知っていたら、自分は果たして敗戦処理を任せただろうか。五年前の自分は何を見逃したのだろうか。 雷霆を振るうカトリーヌの名を聞いた者に多少なりとも英雄の遺産や紋章の知識があったなら、それがとんだ茶番だと判るだろう。だが無謬であるセイロス教会が彼女をカサンドラではなくカトリーヌ、と呼ぶのならそれに従うしかない。カロン家当主としても令嬢カサンドラに死なれるよりはガルグ=マクで生きていてくれた方が良いのだろう。 ローレンツは霧深い街道をガスパール城に向けて黙々と進んでいた。前方ではクロードとベレトとカトリーヌが何やら話している。ローレンツは五年前に帝国軍が破竹の快進撃を見せた際、正直言ってファーガス神聖王国がほぼ崩壊したと思った。今の彼らの会話を耳にしても、ファーガスが凋落しているという印象が深まっていく。青獅子の学級に所属する学生たちは士官学校に入る前に初陣を済ませている者が多い。それはダスカーの悲劇以降、正常が不安定で小規模な騒乱が後を立たずにいるからだ。 だからあの時ローレンツはフェルディナントと共にミルディン大橋に立った。ファーガスは近々自壊するだろうし、パルミラとの国境を守りながら強大な帝国に抗う力が同盟にはない。ならばせめて領地と領民を守りたいと思った。霧の立ちこめる行路は人生にも似ている。いくら整備されていようと足元が見えなければ転倒してしまう。ローレンツは霧の中で先日激しく転倒し、そのまま人生を終えた筈なのに何故か立ち上がる機会を得た。この機会をどう活かすのか、は全て己の言動にかかっているので慎重に行動せねばならない。 敵襲を告げる声が聞こえ、あたりが俄に騒がしくなる。ローレンツは槍を握り直した。戦場は霧に覆われている。どこに何かあるのか、誰がいるのか全く分からない。だがカトリーヌ率いる教団兵たちは四方から囲まれることを全く恐れず、霧の中へ突っ込んでいく。どうすべきか一瞬躊躇したその時、後方から矢が飛んできてローレンツの目の前にいた敵に刺さった。 「あんなの今の俺たちには無理だから慎重に行こうぜ」 クロードの持つリーガンの紋章は英雄の遺産であるフェイルノートに適合する。現時点で将来フェイルノートを持つに相応しい弓の腕だった。 「ありがとうクロード。そうだな、若輩者にも相応しい振る舞いがある」 せっかく露払いをしてくれると言うのだから任せておくに限る。 「先生が言うにはこの時期、この辺りはここまで濃い霧が発生しないんだそうだ」 ベレトは人の意志で作り上げたものに興味を持たないが地形や天候には興味を持っている。戦闘に関わることだけはとても詳しい。 「ダークメイジか」 盗賊の中にダークメイジがいると厄介だ。霧や毒を発生させる。ローレンツはグロスタール領での盗賊討伐や土地の境界線をめぐる小競り合いの調停に赴いた時に幾度も嫌な思いをしていた。 「先生は副官のヒルダと二人で突っ込んで行ったよ。まあ、あの二人ならすぐに仕留めるだろう」 「ヒルダさんを引っ張っていくのも大変そうだが……さすが先生だな……」 前方からもうやだ! 本気で戦っちゃったじゃない! というヒルダの声が聞こえると同時に霧が晴れた。どこに誰がいるのか明確に分かってしまうので手加減はしてやれない。手槍を構えたローレンツの後ろで弓を引く音がした。クロードは右前方で孤立している教団兵の援護をするのだろう。 視野が回復すれば武器に慣れぬ民草などセイロス騎士団の敵ではない。ローレンツたちは街の人々による脆弱な包囲網を突破し、ロナート卿と対峙するカトリーヌ、ことカサンドラが雷霆を振るうところを見た。怪しい光を放つそれは紋章を持たぬ者が握ればそれだけで命を落とすこともあるのだと言う。クロードたちが弓矢や手槍、それに黒魔法で援護したからだろうか。外敵から民を守るため女神から与えられた英雄の遺産は領民に慕われるロナート卿の命を一撃で奪った。 ロナート卿の今際の際の絶叫はカトリーヌことカサンドラを守る建前を無効にした。実家から逃走する際に英雄の遺産を持ち出した時点で、もう彼女は越えてはならない線を越えている。レア以外の全ての者を自分の人生から切り離してしまったカトリーヌはセイロス騎士団の騎士としては正しい。だがカロン家の令嬢としては死刑になるような大罪を犯す男と親しくなり、家宝を盗み出したろくでなしとなる。 その逸脱や矛盾にローレンツは五年前と同じく恐怖を覚えた。五年前は又聞きでしかなかったが直接見聞きすると迫力が違う。些細な立ち回りの錯誤で彼女は恋人を失い、名誉を失い、家族を失い、名を失った。カトリーヌという新しい名を与えてくれたレア以外、彼女は何も持たない。ローレンツは今も昔も愛する人を持たないのでそこは想像するしかないのだが、他の三つは想像するだけで身を切られるような思いがした。英雄の遺産を受け継ぐ名家の者は失望させてはならない、と言われながら育つ。生まれてすぐに紋章の有無で振り分けられ、誰も彼もが必死で己の立場にしがみつくのだ。 無力感は人を狂わせる。悲惨な現実を目の当たりにして何か出来ないか、と闇雲に奔走した結果が何層にも重なり───ロナート卿の叛乱は世の中を少し乱しただけで終わった。畳む 小説,BL 2024/11/16(Sat)
#説明できない #クロロレ #完売本
皆の初陣が終わるとクロードの記憶通りに事態が進み、ロナート卿の叛乱の知らせがガルグ=マクにもたらされた。セイロス教会はロナート卿の養子であるアッシュに何の沙汰も下そうとしていない。軟禁もされないのでアッシュの方が身の潔白を証明するべく自発的に修道院の敷地内に閉じこもっている。鎮圧に英雄の遺産である雷霆まで持ち出す割に対応が一貫していない。前節と同じく金鹿の学級がセイロス騎士団の補佐を任された。クロードの記憶通りならばエーデルガルトたちが鎮圧にあたっていた筈だが展開が違う。彼女はあの時、帝国に対して蜂起したロナート卿を内心では応援していたのだろうか。
アッシュは誰とも話したくない気分の時にドゥドゥが育てた花をよく眺めている。何故クロードがそのことを知っているか、と言うと温室の一角は学生に解放されていて、そこで薬草を育てているからだ。薬草は毒草でもある。他の区画に影響が出ないようクロードなりに気を使っていたが、それでもベレトはクロードが使用している一角をじっと見ていた。
「マヌエラ先生に何か言われたのか? 致死性のものは育ててないぜ」
「その小さな白い花には毒があるのか?」
ベレトが指さした白い花はクロードが根っこ目当てで育てているものだ。花に毒性はないのでそう告げると、花束に入れたいので分けて貰えないかという。そう言えばベレトは変なところで義理堅く、学生全員の誕生日に花束を贈っていた。
「今月はシルヴァンとローレンツとエーデルガルトの誕生日がある。他の二人はともかくローレンツには何か渡すべきだ。前節は世話になったのだから」
クロードは先月ラファエルに干し肉を渡した。士官学校に進学する平民の学生は級長を務める貴族や王族の学生から誕生日を祝われることを名誉としている。レオニーやイグナーツのことは気にかけていたが、ローレンツのことは五年前と変わらず失念していた。しかしベレトが言うことは正しい。
彼は思うところがある、とクロードに対してはっきり宣言した。だが初陣のイグナーツとクロードの実力を信頼し、ラファエルと共に前線で危険な囮役を引き受けている。確かにクロードはローレンツに何か贈るべきだ。
六月十三日当日を迎え七月二十四日までの五週間、クロードはローレンツの二歳年下になった。茶会はベレトに取られてしまったし、手頃な茶葉や茶菓子は他の者と被ってしまう可能性がある。背に腹はかえられぬ、という訳で皆がそろそろ寝ようかという頃、クロードはデアドラのリーガン家から黙って持ち出したそれなりに高い酒を手にローレンツの部屋を訪れた。
扉を開けたローレンツはクロードが持っている酒瓶に目をやると口の端を上げた。どうやら価値がわかっているらしい。
「君から何か貰えるとは嬉しい誤算だ。入りたまえ」
そしてクロードには全く期待していなかったらしい。ベレトに言われるまで不義理を極めていたのはクロード自身が誕生日にあまり思い入れがないからだ。パルミラには月に一度その月に生まれた者をまとめて祝う慣習があり、誕生日を個別に祝わない。
ローレンツの部屋は持ち主の気質がそのまま現れたような雰囲気だったが、神経質さや頑なさは感じられない。ベレト以外からも薔薇の花束をたくさん貰っていて花瓶が足りなかったのか、小物が入っていたはずの籠にまで活けてある。きっとその中には水を張った杯でも仕込んであるのだろう。花は瑞々しさを保っている。
「中々、他の奴と被らない品が思いつかなくてな」
クロードが瓶を渡すとローレンツは慣れた手つきで栓を開けた。下手くそが開けると栓を砕いてしまう。この手のことは従僕にやらせているかと思っていたが、どうやらそうではないらしい。
「いや、これは重畳だ。だがこれは本当にいい酒だから一本丸ごとは気がひける。そうだな、一杯だけいただこう」
そう言うとローレンツは棚から小さめの杯を二つ出した。琥珀色の液体が二つの杯を満たしていく。クロードはローレンツがこんな柔らかな発想をするとは思っていなかった。持参した蒸留酒は甘いものにも合うのでローレンツがリシテアたちから貰った焼き菓子がどんどん減っていく。昔のクロードなら警戒して食べなかっただろう。だが自分の采配が間違っていたせいで戦死したリシテアたちが作ったものを今のクロードは拒否することが出来ない。
「近頃ずっとロナート卿の件で機嫌が悪そうに見えたから気になってたんだ」
ロナート卿叛乱の報せを受けてからローレンツはずっと怒っていた。きっと彼は領民を巻き込んだことが許せないのだろう。そしてアッシュが処断されないことを不思議がっていた。クロードはセイロス教会がダスカーの戦後処理に失敗したせいで叛乱が起きたことを既に知っている。全てがお粗末すぎて怒る気にもなれない。
「皆から祝われたのだ。君までこうして一杯献じてくれたわけだし嬉しくならないわけがなかろう」
白い肌を酒精で染めながら、ローレンツは嬉しそうに今日皆がくれた祝いの品について細々と教えてくれた。彼がこんなに情が深いと五年前から知っていたら、自分は果たして敗戦処理を任せただろうか。五年前の自分は何を見逃したのだろうか。
雷霆を振るうカトリーヌの名を聞いた者に多少なりとも英雄の遺産や紋章の知識があったなら、それがとんだ茶番だと判るだろう。だが無謬であるセイロス教会が彼女をカサンドラではなくカトリーヌ、と呼ぶのならそれに従うしかない。カロン家当主としても令嬢カサンドラに死なれるよりはガルグ=マクで生きていてくれた方が良いのだろう。
ローレンツは霧深い街道をガスパール城に向けて黙々と進んでいた。前方ではクロードとベレトとカトリーヌが何やら話している。ローレンツは五年前に帝国軍が破竹の快進撃を見せた際、正直言ってファーガス神聖王国がほぼ崩壊したと思った。今の彼らの会話を耳にしても、ファーガスが凋落しているという印象が深まっていく。青獅子の学級に所属する学生たちは士官学校に入る前に初陣を済ませている者が多い。それはダスカーの悲劇以降、正常が不安定で小規模な騒乱が後を立たずにいるからだ。
だからあの時ローレンツはフェルディナントと共にミルディン大橋に立った。ファーガスは近々自壊するだろうし、パルミラとの国境を守りながら強大な帝国に抗う力が同盟にはない。ならばせめて領地と領民を守りたいと思った。霧の立ちこめる行路は人生にも似ている。いくら整備されていようと足元が見えなければ転倒してしまう。ローレンツは霧の中で先日激しく転倒し、そのまま人生を終えた筈なのに何故か立ち上がる機会を得た。この機会をどう活かすのか、は全て己の言動にかかっているので慎重に行動せねばならない。
敵襲を告げる声が聞こえ、あたりが俄に騒がしくなる。ローレンツは槍を握り直した。戦場は霧に覆われている。どこに何かあるのか、誰がいるのか全く分からない。だがカトリーヌ率いる教団兵たちは四方から囲まれることを全く恐れず、霧の中へ突っ込んでいく。どうすべきか一瞬躊躇したその時、後方から矢が飛んできてローレンツの目の前にいた敵に刺さった。
「あんなの今の俺たちには無理だから慎重に行こうぜ」
クロードの持つリーガンの紋章は英雄の遺産であるフェイルノートに適合する。現時点で将来フェイルノートを持つに相応しい弓の腕だった。
「ありがとうクロード。そうだな、若輩者にも相応しい振る舞いがある」
せっかく露払いをしてくれると言うのだから任せておくに限る。
「先生が言うにはこの時期、この辺りはここまで濃い霧が発生しないんだそうだ」
ベレトは人の意志で作り上げたものに興味を持たないが地形や天候には興味を持っている。戦闘に関わることだけはとても詳しい。
「ダークメイジか」
盗賊の中にダークメイジがいると厄介だ。霧や毒を発生させる。ローレンツはグロスタール領での盗賊討伐や土地の境界線をめぐる小競り合いの調停に赴いた時に幾度も嫌な思いをしていた。
「先生は副官のヒルダと二人で突っ込んで行ったよ。まあ、あの二人ならすぐに仕留めるだろう」
「ヒルダさんを引っ張っていくのも大変そうだが……さすが先生だな……」
前方からもうやだ! 本気で戦っちゃったじゃない! というヒルダの声が聞こえると同時に霧が晴れた。どこに誰がいるのか明確に分かってしまうので手加減はしてやれない。手槍を構えたローレンツの後ろで弓を引く音がした。クロードは右前方で孤立している教団兵の援護をするのだろう。
視野が回復すれば武器に慣れぬ民草などセイロス騎士団の敵ではない。ローレンツたちは街の人々による脆弱な包囲網を突破し、ロナート卿と対峙するカトリーヌ、ことカサンドラが雷霆を振るうところを見た。怪しい光を放つそれは紋章を持たぬ者が握ればそれだけで命を落とすこともあるのだと言う。クロードたちが弓矢や手槍、それに黒魔法で援護したからだろうか。外敵から民を守るため女神から与えられた英雄の遺産は領民に慕われるロナート卿の命を一撃で奪った。
ロナート卿の今際の際の絶叫はカトリーヌことカサンドラを守る建前を無効にした。実家から逃走する際に英雄の遺産を持ち出した時点で、もう彼女は越えてはならない線を越えている。レア以外の全ての者を自分の人生から切り離してしまったカトリーヌはセイロス騎士団の騎士としては正しい。だがカロン家の令嬢としては死刑になるような大罪を犯す男と親しくなり、家宝を盗み出したろくでなしとなる。
その逸脱や矛盾にローレンツは五年前と同じく恐怖を覚えた。五年前は又聞きでしかなかったが直接見聞きすると迫力が違う。些細な立ち回りの錯誤で彼女は恋人を失い、名誉を失い、家族を失い、名を失った。カトリーヌという新しい名を与えてくれたレア以外、彼女は何も持たない。ローレンツは今も昔も愛する人を持たないのでそこは想像するしかないのだが、他の三つは想像するだけで身を切られるような思いがした。英雄の遺産を受け継ぐ名家の者は失望させてはならない、と言われながら育つ。生まれてすぐに紋章の有無で振り分けられ、誰も彼もが必死で己の立場にしがみつくのだ。
無力感は人を狂わせる。悲惨な現実を目の当たりにして何か出来ないか、と闇雲に奔走した結果が何層にも重なり───ロナート卿の叛乱は世の中を少し乱しただけで終わった。畳む