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雑多です。
「また会えようが、会えまいが」7.失敗
#クロロレ #完売本 #現パロ #また会えようが、会えまいが

 ヒルダの兄ホルストは海軍の軍人だ。兄の地位が高く有名人なので、彼女は兵舎村で士官学校時代と同じく天衣無縫に過ごしている。
 彼女の故郷に行くのは初めてなマリアンヌとそもそもこちらで電車に乗るのが初めてなクロードが進行方向を向いて並んで座り、それぞれの向かいにヒルダとローレンツが座っていた。四人で座れるコンパートメントが取れたので少しは寛げる。深緑の軍服に囲まれ、一人私服を身につけて窓際に座るクロードは流れていく外の景色を眺めていた。よく磨かれたガラスに彼の顔が写り込んでいる。どこの何者なのか見る者に判断を委ねるしかない彼の瞳は溢れ出す好奇心のせいか、若草を濡らす露のように輝いていた。
 フォドラの喉元に沿ってアミッド大河の河口へ向かうので景色も起伏に富んでいる。クロードはパルミラに戻れば二度とフォドラへ戻ることが出来ない。自分のいる土地が、母方の一族の故郷がどれほど美しいのか知って欲しいし覚えておいて欲しい。ローレンツはそう思っている。
「卵を茹でてきました……」
 フォドラの人々が長距離列車に乗る際は必ず食べ物と飲み物を持ち込むし、停車駅でも買い足しておく。余ったら着いた先で食べるだけだ。電力事情が悪いのでいつ列車がいつ停車するか分からないし、自分たちもいつ空腹を覚えるのか分からない。乗客は列車の中でお湯が使えるようになっているがローレンツも念のため水筒に紅茶を淹れてきた。
「ありがとうマリアンヌさん。ヒルダさん、大佐はいらっしゃるのだろうか?」
「残念だけどまだ航海中なの。でも皆で帆立やムール貝たべたりしようね!」
 軍を除隊したホルストの友人が漁師をしていて船を出してくれると言う。勿論そんな危うい話はコンパートメントに座っているとはいえ、いつ車掌が来るか分からない車内で出来るはずもなく当たり障りのない話をするしかなかった。
「イグナーツたちが一緒じゃないのは残念だな」
 クロードがはっきりと彼の質問に否と答えてからは特に剣呑な雰囲気になっていない。合宿が終わって戻る頃にはクロードがこの村にいないかと思うと少し残念な気がする、と言ってイグナーツとレオニーはファーガス地方で行われる強化合宿へ向かった。合宿はとにかくきついがファーガスは雪質が良く、出される食事も豪華なので悪くないらしい。
「あと少し戦績が上がれば体育競技専門の部隊に転属出来る筈だが、二人ともその手前だから今が一番忙しい」
 ローレンツは軍楽隊を避けている。従弟が事故死してからピアノの演奏自体辞めてしまった。だからこそイグナーツにもレオニーにも競技で成功して欲しい、と心の底から願っている。血管が震えて太陽とひとつになったような、そんな気持ちになるほど没頭できる何かがあるのは人生が祝福されている証拠だ。彼らからその熱が奪われてはならない。
「お二人には本当に成功して欲しいです」
 クロードの向かいに座っているマリアンヌはそう言うと弁当や飲み物を置くための机でゆで卵を転がした。パリパリと殻にひびが入る音がする。力の加減を間違えてマリアンヌが卵を潰してしまうのではないか、とローレンツは冷や冷やしたがそんなことはなく薄茶色の殻に全体的にひびが入っていた。
「クロードさんもどうぞ」
 ひびだらけの卵を剥くとマリアンヌは白く輝く茹で卵をクロードに手渡した。茶会の日にバターを塗る手つきが余程おぼつかなかったのか、彼女は完全にクロードを子供扱いすることにしたらしい。
「せめて塩が欲しい。何にも付けないで食べるのか?」
「もう味は付いています」
 クロードはマリアンヌから受け取ったゆで卵を目の前でくるくると回し、塩の粒などがついていないことを確認すると一口かじった。驚いたのか目を見開いている。
「本当だ、塩味がついてる!どうやって?」
「茹で終わったら殻付きのまますぐに冷たい塩水につけて一晩置くと黄身にも味が付きます。私の一番の得意料理です」
「ああ!浸透圧を使うのか!懐かしいな。中学の理科で実験をやったよ!」
 クロードは料理が全く出来ないせいかマリアンヌの得意料理、という発言をそのまま受け流していた。
「透明卵と塩水の実験か?」
「そう!それそれ!明かりで照らしながら揺らすと黄身が動くのが見えるんだよ」
 食用の酢に卵を漬けておくとクエン酸が炭酸カルシウムで出来ている殻を溶かして薄い膜だけになり、中身が透けて見えるようになる。そうやって作った透明な卵を今度は塩水や真水に漬けて重さを測り、変化を記録していく。野生動物と同じく物理法則も国境線など関係ない。人間の思惑に左右されないのだ。
 ローレンツも卵を軽く小さなテーブルの角で叩いて殻を剥いた。車内で食べる場合、半熟にすると黄身が垂れて面倒なことになる。固く茹でられているせいさ卵の黄身は色が薄い。得意料理というだけあって塩加減が丁度よかった。きちんと黄身にも塩味がついている。紙袋に殻をまとめローレンツが持参した紅茶を飲み終えてしまうともう、次の停車駅までやることがない。それぞれにうとうとし始めた時に車内放送が流れた。
「停電の為ここで十時間停車いたします」
 クロードはローレンツに寄りかかって微睡んでいたが、眠気が一気に吹き飛んだ。窓の外には野原が広がるだけで見渡す限り何の建物もない。せめてどこかの駅に停車中ならそこから降りて、何か買えたかもしれないのにこんな中途半端なところで閉じ込められてしまうとは。
「うわあ、冗談は勘弁してって感じ」
「全くだ」
 マリアンヌはまだヒルダに寄りかかって眠っているがローレンツとヒルダは目が覚めたらしい。不愉快そうにこめかみを押さえていた指を離し、ヒルダがマリアンヌの白い頬をつつく。
「こんなところで十時間も立ち往生だと?!」
「クロード、十時間で済むわけないだろう。明日の朝まで待たされるに決まっている」
「えっ早く見積もって十時間なのか?それなら今すぐ食堂車に食い物買いにいこうぜ!」
 ローレンツやヒルダ、それに起こされたマリアンヌはうんざりしているようだが全く驚いていない。大あくびをしたマリアンヌがすみません、と言ってから窓の外を眺めた。
「ああ、来ましたね」
「来るって何がだ?」
 クロードが窓に手をついて外を眺めると野原一面に何かを抱えた人がいて、一斉に車両に向かって走ってくる。
「物売りです……。外に出て薪と毛布を買いましょう」
「えっ?なんでだ?俺は乗ったままの方がいいと思うんだが」
 こんなところで迂闊に降車して停電から復旧した時に電車に乗りそびれたらそれこそ詰んでしまう。
「クロード、君は気づいていないようだが暖房も止まっている」
 ローレンツが足元を指差した。確かに先程まで足元に感じていた熱がない。クロードは手首を見て時間を確認し右手で顔を覆った。確かに日が暮れたらもっと寒くなる。外なら焚き火で暖を取れるのだ。通路は既に同じことを考えた者で溢れている。車掌なのか乗客なのか判らないがドアを開けた者がいるらしい。
 皆、ホームでもないところから降りるのに慣れているのか車両からどんどん人が減っていく。フォドラへ迷い込んでしまってから信じられないこと続きだ。レディファーストということなのか、先に降りたヒルダとマリアンヌは一直線に物売り目指して駆け出している。
「梯子を下りるのと変わらない」
 先に降りたローレンツがどう地面まで下りたものかと戸惑っているクロードに声をかけてきた。だが足で探ってみてもつま先を下ろす先がわからない。
「分かった、飛び降りてこい。受け止めてやるから」
 痺れを切らしたローレンツはクロードのために両腕を広げた。まるで初めて会った時のようだ。クロードは向きを変えるために一度、車両内に戻りローレンツの方を向いてから躊躇せずに床を蹴った。あの時のように二人揃って地面に倒れ込む。ただあの時と違って衆人環視の場であるため流石にキスは出来ない。しかしローレンツの喉がひくりと動いたのをクロードは見てしまった。あの時の身勝手な自分なら気付かなかっただろう。
「下りろ、ヒルダさんたちを探すぞ」
 ローレンツは起き上がると腰や背中についた雑草を叩いて落とした。辺りを歩き回っている物売りから食べ物や飲み物を買いながらヒルダたちを探して歩くが中々見つからない。遂に日が暮れ始めオレンジ色の光が辺りを照らしていく。焚き火をひとつひとつ回って、ようやく彼女たちと合流する頃には食べ物も飲み物も両手一杯になっていた。
「二人ともおそーい!」
「申し訳ない。まずはとうもろこしをどうぞ」
 既に二人は火を起こし毛布を膝に掛けている。クロードも買っておいてもらった毛布を膝に掛けローレンツの隣に座った。どこの誰が茹でたのかわからないとうもろこしの皮を剥いてかぶりつく。甘くて美味しかった。クロードはそう感じる自分が信じられなかった。
「食べ終わったら皮と芯を燃やしてやろう」
「やっぱりファイアーが使える人が一緒だと便利よねえ」
 それまで黙ってとうもろこしにかぶりついていたヒルダが二人分の芯と皮を足元にまとめた。
「僕をライターやマッチ扱いしないでくれたまえ」
「ヒルダとマリアンヌは何の魔法が使えるんだ?」
「私はブリザーでヒルダさんがサンダーです」
 物売りから買った蒸留酒を呑んでいるせいか今晩はマリアンヌの口が軽い。
「髪型が軍人っぽくないもんな。何かは使えるんだろうと思ってたよ」
「とは言っても敵兵相手に使ったことはありません。盗掘者や密猟者を相手にすることがほとんどです」
「盗掘?」
 クロードは国境地帯に大きな遺跡がある、という話を聞いたことがない。銃で武装した兵士がうろつく辺りで犯罪に手を染めるのは危険な上に大した利益も上がらないのではないだろうか。
「険しい土地こそ修行に相応しいと考えたセイロス旧教の聖職者たちが作った修道院がたくさんあるのだ。九世紀以上経てば全てに価値がある。外国の研究者や好事家が高い値を出すらしい」
「ローレンツたちって大変なんだな」
 焚き火に照らされながらクロードがそう呟くと隣に座るローレンツが毛布の下で、ヒルダたちにはわからないようにそっと手を握ってきた。
「無事に戻れたら今聞いた話もきちんと忘れるんだぞ。いいな?」
 冷たい空気を吸い込んでしまったせいか息が詰まる。クロードは物覚えが良い方だがそれでも記憶は褪せていく。スマートフォンが使えないことがこれほど悔しかったことはない。見たものの全てを、感じたことの全てを記録しておきたい。例え失ったもの実感するだけだとしても。

 翌朝、無事に電車は復旧した。焚き火にあたって夜は過ごせたもののクロードはやはり外で眠る気にはならなかったらしい。彼は席に着いた途端に眠ってしまった。長い睫毛が褐色の肌に影を落としている。
「ちょっと寂しいね。そうでしょ?ローレンツくん」
「厄介払いが出来るならそれでいい」
 ああいう野宿に慣れているローレンツたちはきちんと睡眠を取ったのでもう眠る気になれず、彼が起きない程度の声でゴネリルに着くまでずっと話していた。
 十九時間遅れで到着したゴネリルは昼時だった。暗くなるまで時間を潰さねばならない。
「お昼は皆で一緒に食べようよ。すっごく美味しい店に連れてくからさ!」
 それなら最後の夕食はクロードと二人きりで食べられる、ローレンツは反射的にそう思ってしまった。自分が今晩、何を失うのか全力で目を逸らさねばならない。
 アミッド大河の河口にあるゴネリルは昔から漁業が盛んで海鮮料理が有名だ。大ぶりで新鮮な帆立やムール貝がこれでもかと出てくる店はヒルダの兄ホルストもお気に入りなのだという。魚市場のすぐ近くにあり清潔で味も良く値段も手頃だ。
「あーあ、やっぱり兄さんがいたら良かったなー!皆と会わせたかったよ」
 レモンを搾って帆立にかけながらヒルダはそうぼやいたが、ホルストがいたらおそらくクロードは出国出来ない。
「そう言えばどこへ行けば良いのだろうか?」
「あっそうだね!もう教えておかなきゃ」
 ローレンツはヒルダに耳打ちされた内容を一言一句間違うことのないように脳裏に刻み込んだ。埠頭、船の名前、船長の名前。夜の闇に紛れながら探さなくてはならない。海上で船から船へと渡って勝手に出国することを船渡りという。協力してくれる漁船の船長の為にも尻尾を掴まれるわけにいかない。ローレンツはクロードにも覚えてもらうため、一言一句間違いなく彼の耳元に薄い唇を寄せて囁いた。
「船の上では絶対にバル兄の言う通りにしてね」
 ヒルダの視線がクロードが着ている黒いパーカーのポケットに刺さっている。クロードがフォドラに入り込んでしまって以来、ずっと電源をオフにしたままの無線機が入っているのだ。フォドラの領海内で電源を入れたら海軍の探索網に引っ掛かってしまう。確実に公海で電源を入れねばならない。クロードはひどく真面目な顔をして頷いてからこの店の人気メニューだという牡蠣を丸呑みにした。
「分かってる。協力してくれた皆には迷惑かけたくないんだ。失敗しなかった時のために今、皆に礼とお別れを言わせてくれ」
「ああ、クロードさん!そんな……寂しくなります
。女神のご加護があなたにありますように」
「元気でね。私も久しぶりに教会に行こうかな。クロードくん、無事に戻れるように祈ってるね」
 ヒルダとマリアンヌはクロードのために右手で十字を描いた。セイロス正教の教えでは頭は知性、胸は感情、右肩は意志、左肩は希望を表す。フォドラに残るローレンツたちにはクロードの無事を確かめる術がない。きっとクロードは無事だ、という希望を持って日々を送るしかないのだ。テーブルの上を貝殻だらけにして楽しい食事は終わった。

 クロードがいた痕跡は出来るだけ少ない方がいい。別れ際にローレンツはヒルダからあまり人がいない公園を教えてもらった。一応ゴネリルの街が見下ろせる景観が良いところ、ということになっているのだが電力事情の悪いフォドラでは夜景はまず見えないし、遊具がないので親子連れもいない。クロードとベンチに座ってくだらないことを話しながらぼんやりと時間を潰すのにちょうど良かった。寒がりなクロードに軍服を上着を貸してやったのに、それでも彼はローレンツにべたべたとくっついてくる。時の流れが早いのか遅いのかもう分からない。密かにローレンツが混乱し始めた頃に漁港の隣にある軍港から空砲が撃たれた。
「なんだ?!演習?」
「いや、単に時間を知らせているだけだ。漁港の近くで温かいものを食べて、完全に日が暮れるのを待ってから埠頭に行こう」
 空砲のおかげで混乱がおさまったローレンツは着せてやった自分の軍服をクロードから取り上げた。ローレンツの方が肩幅もあり腕も長いので、クロードはパーカーの上から着込むことが出来る。クロードの体温が移った軍服はとても温かかった。今から数刻後にローレンツはこの温かさを永遠に失う。

 フォドラでの最後の食事はローレンツの手料理ではなかった。ヒルダの提案内容からすれば当たり前の話だがなんとなく気に食わない。漁港のそばにある大衆食堂はローレンツが言うには値段の割に味が良いらしいが、パルミラにいた時と同じくうまく飲み込めなかった。
「どうした、緊張するのは分かるが僕はともかく君はこれから先長丁場になるのだぞ。食べられる時に食べておかねば」
「そうだな、心配かけてすまない」
 公海に出たら漁船に積んであるボートに乗り換えて無線機の電源を入れる。ローレンツとはこの漁港でお別れだ。
「ボートに乗るところまでは着いていってやるから早く食べるのだ」
 口に含んだスープが喉を通って胃まで下りていく。
「でもどうして」
「君が我が国にいる間は君を監視しないわけにいかないだろう」
 普通なら照れて視線を外すところだがローレンツは真っ直ぐにこちらを見てくる。クロードの方が視線を外すしかなかった。暗くなった埠頭でヒルダの教えてくれた漁船を探す。
「なあこれも電力節約ってやつか?不便すぎないか?」
「そうだな、だが初めて感謝したかもしれない」
 暗がりが警察や憲兵隊に見つかるわけにいかないクロードとローレンツを隠してくれる。瞬いて今にも消えそうな灯りをたった一つだけつけた漁船にようやく辿り着く。
「ヒルダに教えてもらいました。バルタザールさんですか?」
 中からは筋骨隆々な黒髪の男が現れ無言で手のひらを差し出した。ローレンツが丸めてゴムで束ねたブリギットの紙幣と国際電話が出来る未使用のテレホンカードを渡すと男は顎をしゃくった。どうやら乗船しても構わないらしい。船は暗闇の中、音もなく発進し港の外に出た。
「ヒルダは元気か?」
「明日まではゴネリルにいますよ。会いに行くといい」
「海上統制をされて暇になったら顔を出すかな」
「よくあるのですか?」
「巡視長が変わったばっかりで法則が掴めねえんだ。念のために船倉に居てくれ。ああ、兄ちゃんは髪が長いのか……ちょっと待った」
 そういうとバルタザールは小さなランタンと昔、自分が被っていたのであろう海軍のキャップをローレンツの頭に後前になるようにかぶせた。
「髪を上げて隠せ。分かるな?失敗した時のためだ。俺がこうやって把手を五回鳴らしたら失敗の合図だから憶えておけ」
 ローレンツは合点が入ったのか、ため息をついてゴムで髪を束ねキャップに真っ直ぐな紫の髪を押し込んでいる。まるで初めて会った時のようで髪が長いとは分からない。梯子で船倉に降りるとクロードは小声で何故か顔が赤いローレンツに解説を求めた。
「これ何の意味があるんだよ」
「こら、大人しくするんだクロード!」
 キャップをつつこうとすると本気で止められる。質屋の腕時計に加えて新たな謎がまた発生してしまった。
「そんなことより僕は君に言うべきことがある。もう残り時間が少ないからな。無事に帰宅出来たら家事を習え。こんなに何にも出来ない大人は生まれて初めて見た」
 帰宅すれば使用人たちがなんでもやってくれることをどう説明したものか。口から生まれたような、と言われてきたクロードだがうまく言葉が出てこない。
「この先、君が一人になることが心配でたまらない」
 心の底からクロードのことを心配してくれているからだ。
「だからせめて君がボートに乗り込むところまでは自分の目で確認したいのだ。そうすればこの先一生会えなくても後悔だけはしないで済む」
 クロードがボートに乗ってしまえばフォドラに残るローレンツにはクロードの無事を確認する術がない。ローレンツは無意識に左肩をさすっていた。左肩の希望にすがって生きていくしかない。
「ありがとうローレンツ、俺のこと心配してくれて」
 もう残り時間がない。死ぬまで直接告げる機会はないのかもしれない。言葉を続けようとしたその時、船倉の把手がかちかちと五回鳴らされた。細長い光が入り込み、扉の向こうで何があったのか知らせてくる。
「ぼろ船なもんで開けるのにコツが必要でしてね!お待ちください。海上統制があったなんて知りませんでした」
「近頃は船渡しで外国へ向かう者が増えたからな。船倉を検めさせてもらう」
「いや船渡しなんて大それたこと俺には出来ませんよ」
 大袈裟に哀れみを乞うているのは顧客に情報を知らせるためでもあるのだろう。どうやらこの船はパルミラで言うところの沿岸警備隊かそれに類するもの、の巡回に引っかかってしまったらしい。クロードの正体が知れたら船を出してくれたバルタザールにも、一緒に乗船しているローレンツにも迷惑がかかってしまう。どうしたものかと必死で考え込んでいるとそれまで向かい合っていたローレンツが急にクロードに覆いかぶさってきた。白い手が頬を掴み薄い唇がクロードの下唇を挟んでくちゅくちゅと音を立てる。細長かった光が四角形になると見せつけるようなローレンツの動きが止まった。止まったが唇は離してくれないのでクロードは質問も異議申し立ても出来ない。
「俺に出来るのはせいぜい情熱的な恋人たちの逢瀬の場を提供するくらいでしてね。皆さんも若い頃、俺みたいな子悪党に小銭を恵んでやったでしょう?」
 バルタザールが船に乗り込んだ男たちに堂々と嘘をつく。
「全く悪質な!さっさと岸に戻れ!最後までさせるな!」
 だから海軍のキャップを被せたのか、とクロードにも合点が入った。そしてローレンツの考えるやりたい盛りの若い兵士、はあんな感じらしい。
 バルタザールが自己申告した悪事は外国との物のやりとりも人の移動も伴わない些細な悪事なので取り締まる側も賄賂をたくさんは受け取れない。さっさと解放して別の船を探した方が賄賂で儲けることが出来る。
 うまいことを考えたものだ。漁船に乗り込んできた男たちはもう自分たちの船に戻っている。バルタザールが危機を回避する知恵に感心したし謎は解けたが、これでクロードはどんなに早くてもあと一ヶ月半はパルミラに戻れないことが確定してしまった。畳む
「また会えようが、会えまいが」10.真相
#クロロレ #完売本 #現パロ #また会えようが、会えまいが

 ある日、いつもは飄々としているクロードが些か強張った顔で家主を出迎えた。目は泳ぎ本当に落ち着きを欠いている。ローレンツは脱いだ軍服の上着をハンガーにかけ、まずは目つきで問い詰めた。
「何をやらかした」
 次に言葉でも問いただす。
「こんなもんを見つけてな……」
 きっとパルミラで見かけたならば彼は歯牙にも掛けなかっただろう。褐色の指がメモリーカードを摘んでいる。くしゃみをすればどこかに飛んでいってしまいそうな大きさで、敢えて言うなら女性の小指の爪くらいだろうか。よくデジカメや携帯ゲーム機に入っているものだ。だがフォドラではどちらも持っている者は限定される。ローレンツもブリギットにいる時しか触った事がない。今この村には個人的にデジカメや携帯ゲーム機を持っている者は居ないだろう。ノートパソコンやデジカメは軍の備品で、それに付随するメモリーカードも軍の備品だ。
「どこで見つけた」
「市場で買ったもんの中に混ざってたんだよ。なあローレンツ、中身見られるもん持ってるか?」
 せめてデジカメがあれば中に入っているもの、が画像や動画なのかそれ以外であるかくらいは確認が出来る。ローレンツはあらぬ誤解を避ける為、ブリギットで使っていたデジカメを実家に置きっぱなしにしている。それがこんな風に兵舎村での暮らしに影響するとは思わなかった。
「買ったもの、とはどう言うことだ?」
「いやそんなことに拘ってどうするんだ?果物より中身の種の方がこの場合は問題だろ」
「ここはフォドラの辺境だぞ。個人宅にあるわけがない。中身はオフィスで確認するしかないだろうな」
 軍のオフィスにあるノートパソコンならスロットが付いている。軍専用ネットワークへの接続を切った状態にしてメモリーカードを読み込ませれば良い。
「軍のパソコンもすげえ古そう。読み込めるのかな」
「馬鹿にしないでくれたまえ。これは僕が預かる」
 クロードは摘んでいたメモリーカードを白いハンカチに包んで寄越してきた。一番温和な中身は誰かのデジカメデータだが、それにしても何故クロードが買った物の中に紛れ込んでいたのか分からない。だがローレンツはクロードのおかげで従弟の遺品にまつわる謎を久々に思い出せた。叔父の家には息子の遺品としてブリギットでローレンツが買ってやったデジカメが飾ってある。
 従弟の死後、ローレンツは彼を偲ぶ為に中の写真を現像しようとしたのだがメモリーカードが入っていなかった。あの機種は本体にハードディスクが搭載されていない。機械に疎い親族たちには壊れているとかなんとかいって誤魔化したが、思えばあの時からローレンツは従弟の死を訝しむようになったのだ。
 翌日、ローレンツはイグナーツの助言通り、ノートパソコンがネットワークに繋がらなくなった体でルーターの電源を落とすことにした。レオニーもさりげなく配線の点検をするために色々とどかした風に装ってドアの近くにバリケードもどきを作ってくれている。
「皆、申し訳ないがルーターを再起動させて貰うよ」
「あの……プリンターは使えますか?」
「どうだろうか、イグナーツくん」
「ケーブルで繋げてあるのでそれは大丈夫です」
「分かりました。ではこちらは気にせずに作業を続けさせていただきます……」
 前後に会話がないと不自然なのでマリアンヌやイグナーツに茶番に付き合って貰った。イグナーツが画面に映し出された接続なし、という表示を確認し親指を立てたのでローレンツはノートパソコンのスロットにクロードから渡されたメモリーカードを差し込んだ。物理的に壊れていなければ中を確認できるだろう。微かな駆動音を聞きながらローレンツがマウスを何度かクリックしフォルダの中身をざっと確認する。
 中からは軍用トラックの写真と整備用パーツの在庫管理データ、整備記録それに何かの帳簿が現れた。軍用トラックの写真はフロント部分に見慣れない装甲パーツが付いている。新しく開発中のものなのかもしれない。メモリーカードの中身はどう見ても個人の持ち物ではなさそうだった。整備部の備品が流出したのだろうか。急いで印刷し再びルーターの電源を入れ直す。再び画面に接続あり、と言う表示が映し出された。
「どうやら再起動だけで何とかなったようだ。面倒をかけてすまなかったねイグナーツくん」
 プリンターのデータが上書きされるようにマリアンヌが先週作った報告書をプリントアウトした。メモリーカードを紛失したと言うことで整備部内部では騒ぎが起きているかもしれない。ローレンツもクロードを匿っている身だ。内々に渡して穏便に済ませてやるのはやぶさかではないが精査する必要がある。このメモリーカードが従弟の事故に関する情報を引き出す材料となったらクロードを誉めてやらねばならない。
 ローレンツはクリップでプリントアウトした紙を束ねてデスクの引き出しに隠した。以前、何者かに盗み見されたであろうメモ帳も含めて自宅に持ち帰るつもりだ。
「本当に何ともなくてよかったね、ローレンツくん!さあ皆で年越し前に書類ぜーんぶ片付けちゃお!」
 そう言ってヒルダが手を叩くとどこか異様だったオフィス内の雰囲気がいつもの和気藹々としたものに戻っていった。配線の点検を装ったおかげで溜まった埃も掃除することができたのは予想外の成果と言えるだろう。

 ローレンツが持っていても不自然ではないもの、を新年の贈り物として渡してから去ろう、クロードは元からそう思っていた。そんな訳でピアスを質入れした金で、質流れしていた自社製品を買ったのだが放置されていたことがどうしても気になる。
 試しに腕に嵌めてみるとやはり違和感を覚えた。以来、ずっと渡す前にオーバーホールしようと思っていたが、なかなか精密作業用の工具が手に入らない。密かに焦っていたが今日、クロードはようやく精密作業用の工具を手に入れることができた。左右の順もあやふやだが、感謝の十字を切るべきかもしれない。
 そして違和感の正体はクロードが本体であるムーブメントをケースから外した瞬間に判明した。中に何故かメモリーカードが入っている。ピンセットで慎重につまんで剥がしたが、当然メモリーカードの中身は分からない。こんな隠し方をするのだから秘密にせねばならないもの、に決まっている。
 ローレンツは中身を確かめる、と言ってメモリーカードを軍のオフィスに持っていってしまった。あのお人好しの彼がどうやって周囲を誤魔化しながら中身を確認するのだろう。
 余計なものを外した結果、手首に感じた微かな違和感はなくなった。こんな曰く付きのものをローレンツの元に戻していくのは良くない。良くないのだがクロードはこれでもパルミラに戻ればセレブの一員で、周りから混血だ遊び人だ、と様々な陰口を叩かれてきたが吝嗇家とだけは言われたことがない。そんなクロードにとってこの兵舎村の市場で売っているものはこの時計以外、全て記念の贈り物にならないほど安っぽいのだ。ローレンツの身の安全を守るため愛の言葉を書き残していくことも叶わない。
 生涯でただ一度の贈り物だ。
 やはりダグザ製の安物などで済ませることなど出来なかった。
 クロードは想像の中でローレンツの手首を握った。男としては悔しいが本当に彼はいい体をしているので、ベルトをもう少し伸ばした方がいいだろう。ピンを抜き金属のベルトを引っ張って長さを確保する。家事以外の細かい作業はクロードにとって全く苦ではなかった。作業を終えたクロードを落日が赤く照らす。年末が近いせいか随分と日が短くなってきた。また停電になるかもしれないがそれでも居間の電気を付けておく。
 実母はそのうち迎えに来ると言って本家にクロードを置いていった。クロードは最初の一年間は毎日実母が来るのを待っていて、自分の居場所が分かりやすいように暗くなればすぐに部屋の灯りをつけ、寝る時も自室のカーテンを閉めなかった。結局、願いは叶わずに育っているのでクロードは待たされるのが好きではない。
 防寒対策を兼ねているやたら分厚いカーテンを閉めていると買い物袋の音を立てながらローレンツが帰ってきた。カーテンの隙間から彼が庭の食料貯蔵庫を漁っているのが見える。
「今日はひき肉とトマトの缶詰を買ってきた。炒めてブリヌイに包んで食べよう」
「包むのやってみたい」
「……自分の分だけにしたまえ」
 手際よく玉ねぎと人参をみじん切りにしたローレンツはひき肉をバターで炒めるとそこにトマトの缶詰を開けて煮始めた。その間にブリヌイの生地を作って焼くのだろう。
「いつも思うんだけど面倒臭くないのか?俺、市場で食い物売ってるのたくさん見たぞ」
 食べ物の屋台も出ているのだ。クロードなら絶対に屋台で食べてから帰宅する。買って帰らないのは洗い物が面倒だからだ。そしてどうしても、という場合に備えて缶詰をストックしておく。
「面倒だと言って家の中でも靴を履いたまま暮らす国があるが、僕は出入りのたびに靴を脱ぐのが面倒だと思ったことはない」
 靴を履いたまま過ごすのはローレンツが留学していたブリギットの習慣だ。そしてきっとブリギットの食事が口に合わなかったのだろう。温暖な気候で果物が美味しいのだがソースがとにかく甘い。現在の彼は手際よく焼けたブリヌイを皿の上に重ねていくが学生時代にはブリヌイを焦がしたことがあるのかもしれない。深皿いっぱいの炒めたひき肉と別皿によそったスメタナ、それと山のように焼いたブリヌイが今日の夕食だ。
「俺も料理に慣れる日が来るのかねえ……」
 クロードはスプーンでブリヌイにトマト味のひき肉を乗せて包んでみたが分量を間違えたのか生地が破けてしまった。やはり経験値が足りていない。
「僕だって大学で親元を出るまでは何も出来なかった。必要に迫られれば人間どうとでもなるものだ」
「必要に迫られれば、ねえ……それでメモリーカードの件はどうにかなったのか?」
 ローレンツはトマト味のひき肉にスメタナを少し乗せて包んだが、慣れているのか生地は破けず綺麗な筒状になっている。
「個人の持ち物ではなさそうだった。中身は印刷してきたから今晩精査する」
 きっと必要に迫られどうにかして軍のネットワークから自分の端末とプリンターを切り離しその隙に中身を見て印刷したのだ。
「俺も見たい」
「駄目だ。どうやら軍関係の物のようでね。無くした部署に穏便な形で戻してやりたい」
「親切心からか?」
 クロードがにやにや笑いながら聞くとローレンツはすました顔で口を拭いた。
「もちろん見返りが目当てに決まっているだろう」

 クロードをさっさと寝室に追いやったローレンツは今晩は停電がありませんように、と女神に祈り右手で十字を描くと居間で印刷してきた紙の束をじっくりと眺め始めた。異様な装甲の軍用トラックはどうやら数台あるらしい。実戦配備前のテスト車両なのだろうかと思いながらローレンツは整備記録を眺めた。日付を見るにローレンツがブリギットにいた頃の物らしい。しかし従弟の死後、兵舎村や前線基地付近での交通事故について調べてまわったローレンツにとって見覚えのある日付ばかりだった。
 巻き付けてあるゴムバンドを慌てて外し、メモ帳を捲っていけばローレンツが怪しいと感じた死亡事故の翌日に必ずこの装甲をつけたトラックが整備されていることがわかった。残念ながら従弟が亡くなる直前で記録は途切れている。どうやらあの装甲はダグザ製らしい。そして事は整備部だけではおさまらない、と分かってきた。不審な事故はどれも憲兵隊が関係している。皆、憲兵隊へ行こうとする途中で亡くなっていた。口封じのためだろうか。
 これはどこかの部隊の備品などではない。告発するための資料だ。憲兵隊へ知られては困るから起きた事故なのか、それとも憲兵隊が起こした事故なのか。その答えを知るためにローレンツは帳簿を必死になって読み始めた。
 非武装地帯には今もなお放棄された修道院や民家が点在している。現在の目線で見れば不便で辺鄙な土地だがコンクリートの舗装道路も電気もガスも水道もなかった時代の人々からすれば訳が違う。山の恵みは豊かで燃料も食材も水も手に入れやすい。都市部の貧困層などより遥かに豊かに暮らしていたのだ。ローレンツたちもフォドラ側に残っているいくつかの建屋を立哨の際は休憩場所として使わせてもらっている。帳簿に記されていた建屋は全て心当たりがあった。点在するいくつかの修道院にレスター諸侯同盟時代の軍資金が蓄えられている、という与太話はローレンツも聞いたことがある。実際にゴネリルでは貴石が採れることもあり、その与太話を信じて盗掘にくる者が確かに存在するのだ。
 だが二キロ東に行けば敵国パルミラ、という土地にそんな大事なものを隠しておくだろうかと思ったのでローレンツは軍資金に関しては話半分にしか聞いていない。まともな大人ならそう判断する。ところが事実は小説よりも奇なり、だ。どうやら換金できる価値があるもの、は出土したらしい。本来なら首都アンヴァルの科学アカデミーに報告し考古学者たちが発掘するべきだ。人類の宝として博物館に収められるべき貴重な品が闇から闇へと流れている。
 ローレンツはすっかり冷めてしまった紅茶に口をつけた。どこへこの資料を提出し盗掘者のグループを告発するにしても、このメモリーカードをどこで手に入れたのかクロードから聞き出さねばならない。元の持ち主はそのグループの一員なのか、告発しようとして丹念に情報をまとめたのかを見極める必要がある。首筋を少し揉み肩を軽く回してからローレンツは寝室に向かった。
「クロード、起きているか?」
 何が出てくるのか気になってクロードも寝付けなかったらしい。部屋は暗くしてあったが小玉電球が付いていた。
「起きてるよ。中身はなんだった?」
「かなり厄介な代物だ。僕はこれから重大な告発をすることになるのかもしれない。あれはどこに紛れ込んでいたのだ?」
 横たわったままのクロードがローレンツの言葉を聞いて身体を起こした。
「出所が確かでなかったら怪文書だもんな。電気つけてくれるか?」
 褐色の手が自分の洋服を入れてある袋をベッドの上に置いた。クロードはがさごそと中を漁り始めローレンツの買ってやった服とローレンツの買ってやった服の間から小さな箱を取り出した。メモリーカードはあの箱に入っていたのだろうか。クロードがその箱を開けると中から腕時計が出てきた。緑のフェースに逆回転防止ベゼルがついていて文字盤と長針短針の先に夜光塗料が塗ってある。ローレンツがブリギットの免税店で軍務に就く従弟のために買ったものだ。ブリギット以外では買えない記念になるような、アウトドア用で暗がりでも時刻が見えるものが良いと言って店員に見繕ってもらった覚えがある。
「それを……どこで?」
「質屋だよ」
「嘘だ。この家ではないのか?」
「そんなの新年の贈り物にならないだろうが!市場の質屋で見つけたんだよ。質流れ品だ」
 クロードは混乱し、立ち尽くしているローレンツを隣に座らせ右手に時計をはめた。
「ああ、やっぱりベルトを伸ばして正解だったな。渡す前にオーバーホールしたんだよ。その時に中に入ってたメモリーカードを見つけたんだ」
「どうしてそんなことを!僕は君に何も書き残すなと言ったんだぞ……」
 ローレンツはどう感情を処理すれば良いのかもう分からなくなってしまった。メモリーカードが従弟の物ならば彼はやはり交通事故を装って殺されたのだ。腕時計と同じくローレンツがあげたデジタルカメラの中にメモリーカードを入れていたが、軍務中の家探しを恐れて腕時計の中に隠し持っていたのだろう。そしてその腕時計を守るために質入れした。ローレンツは従弟が搬送先の病院で盗難にあったから腕時計をつけていないのだと思い込んでいて、誰にも確かめなかった。
「俺はまだ何が何だかちっともわからないよ。話せるか?」

 ローレンツは泣きながらクロードに色んな話をしてくれた。五歳下の従弟もグロスタールの紋章を持ち、共にピアノを習っていたから兄弟のように仲が良かったこと、ローレンツがブリギットの王立音楽アカデミーに留学できるように従弟が軍に入ったこと、従弟がリシテアと婚約したこと、その最愛の従弟が軍務中に交通事故で死んでしまったこと。
 ヒルダはローレンツが留学を切り上げて入った士官学校の同期で彼女もゴネリルの紋章を持っている。それもあって意気投合した。従弟の代わりに国境警備隊に配属されてしばらく過ごすうちにローレンツはこの国境付近の基地近辺でおかしな交通事故が頻発していることに気づいたがヒルダも含めて皆よくあること、と言って取り合ってくれなかったらしい。
「従弟もこの家に住んでいた。小隊長の宿舎はここ、と決まっているから」
 クロードは大きなため息をついた。洋服や本はともかく家具や皿は従弟が使っていた物をそのまま使っているのかもしれない。だからローレンツは真っ先に時計がこの家にあったのではないか、とクロードに問うたのだ。これがフォドラ連邦が抱える問題点の原点だ。個人を大切にしない。勿論パルミラ王国も人のことは言えるほど立派ではない。皆の自我が肥大しすぎているせいで揉めごとばかり起きる。それでも個人の意志というものが尊重される分だけパルミラの方がずっと人道的だ。
 従弟が死んで、代わりになれと言われたローレンツは従弟の婚約者と住んでいた家を宛てがわれ、軍に空いた穴を埋めるように命じられた。なんと無神経なのだろうか。
「俺ならそれだけで落ち込みそう。あの奥方連中はローレンツの従弟のこと知らないのか?」
「兵士はともかく士官は人事異動が激しいからな。彼女たちはまだ三年くらいしかこの村に住んでいない。僕もまだ二年目だ」
 三代前から住んでいてなんでも知り尽くしているような顔をした人民委員や大隊長夫人がこの兵舎村に三年くらいしか住んでいない、というのはクロードにとって驚きだった。
「いやでも皆お互いにすげえ細かい昔のことまで知ってるぜ?!遠い親戚のこととか!」
「クロード、彼女たちは生まれながらの情報分析官だぞ」
 クロードはローレンツの言葉を聞いて、リシテアの件を哀れだと思った彼女たちから昼酒に誘われた時にうまく逃げ切れていたのかどうか自信がなくなってきた。寒さのせいか皆信じられないほど強く濃い酒が好きで割らずに飲む。現在国境を守っている夫たちに対して忌憚のない意見を述べている様は聞いているだけで男として心臓が凍りそうになる。それでも年が明けたら帰ってくる夫を喜ばせる為に新しい男物の服や酒や煙草を買っていたのだから話半分で聞いておくべきなのだろう。
「広報官でもあるな?なあ、握りつぶされないように噂を流すべきだ。あり得ないくらいベタな奴だよ。殺された従弟の復讐をするために国境警備隊に入った、とかな」
 ローレンツは大きな音を立てて鼻をかんでからクロードの顔を真っ直ぐに見つめた。鼻の頭だけでなく頬も目も赤くなっている。ハンカチを掴みっぱなしの白い手に緑のフェースとホワイトゴールドのメタルバンドがよく映えていた。
「それは事実ではない……単なる従弟の穴埋め要員だぞ僕は」
 クロードはフォドラの歴史に疎い。しかしエーデルガルト大帝が兄弟姉妹を害したアガルタ人も、その時に手を差し伸べてくれなかったセイロス旧教も許さなかったことによってフォドラ文化が大きな変容を遂げたことを知っている。フォドラにおいて復讐は正義なのだ。
「でもこれで犯人が逮捕されたら結果としてはそうなるじゃないか。それに無視されるよりずっとマシだろ」
 クロードは実母からあなたのためを思ってと言う体で縁を切られ、本家の者たちとも上手くいかなかったがローレンツは違う。家族関係が良好な彼は絶対に復讐を求めている。
「まずは地元の憲兵隊に従弟が持っていた資料を提出して捜査を依頼するさ」
 よほど不満げな表情を浮かべていたのか、ローレンツがクロードの肩に寄りかかりながら抱きついてきた。
「騒乱罪に問われたら無罪にならない限り死刑だし本気で取り調べを受けるのだぞ。噂の出元になるのは止めてくれ。君にお礼を言うこともできなくなる」
 クロードはローレンツの手をとって彼を自分の上に引き倒した。顔を見られたくないのはもうお見通しだ。見えなくても彼がどんな顔をしているのかクロードには分かる。自分のことは棚に上げてクロードのことを心配している顔だ。広い背中に腕を回し、そっと撫で上げてから首の後ろを軽く叩いた。これまでずっと子供扱い、被保護者扱いをされていたがようやくローレンツの役に立てた気がする。
 ローレンツには否定されたが彼の従弟は誰にも言わなかったから口封じのために殺されたのだ。クロードはレオニーとイグナーツに頭を下げてローレンツの付き添いをしてもらうことに決めた。二人は強化選手で地元の有名人だからだ。畳む
「また会えようが、会えまいが」11.輸血
#クロロレ #完売本 #現パロ #また会えようが、会えまいが

 クロードの温もりが全身に伝わってくる。従弟を失って凍りついていたローレンツの心は彼が首飾りを越えなければ溶けなかった。皆ローレンツのことを気にかけてくれたのに誰も愛さず、あんなに愛したピアノすらも遠ざけて暮らした。どれだけ自分を罰してもローレンツの気が晴れることはなかったのに今は違う。何の鮮やかさもない世界にクロードが文字通り落っこちてきた。
 些細なことにいちいち驚く彼のおかげでローレンツは自分がどれほど恵まれているのか実感出来た。自分はまだ生きている。両耳は音をとらえ譜面を読む目があり、軍務について数年経つのに十指は無事でフットペダルを踏む足もある。それにクロードとセックスだって出来てしまった。
「メモリーカードの原本はどうする気だ?」
 クロードがローレンツを抱きしめながら問うた。原本は接着剤の跡が生々しく、命を落とした一人目の告発者がどれほど追い詰められていたのかを雄弁に語る。捜査関係者の心にも検事や裁判官の心にも強く訴えかけるだろう。
 まるで子供をあやしているような低く優しい声だったがクロードの問い自体は重要だった。慎重に行動せねばならない。
「原本は憲兵隊に提出するがその前に何枚かメモリーカードを買ってオフィスでコピーしてからアンヴァルの紋章管理局にも渡す」
 紋章管理局は貴重な紋章保持者が殺害されたと知ったら怒り狂って憲兵隊に圧力を掛けるだろう。ローレンツは無神経な彼らから酷い扱いを受けたが、彼らの持つ力を利用しないという選択肢はなかった。
「市場で売ってるのか?」
「流石にガルグ=マクに行かないと無理だ」
 年が明けたらクロードは東側に帰ってしまい二度とフォドラに来ることはない。ローレンツは身体を起こしクロードの耳元に口を寄せた。うちあけ話でもするかのような小さな声で囁く。
「君にガルグ=マクやアンヴァルを見せてやりたい」
 ローレンツだってパルミラで白フォドラ人がどういう立場なのかは知っているのだ。壮麗なガルグ=マク中央駅やローレンツがコンクールに参加する為しょっちゅう行っていたアンヴァルの劇場を見せて、クロードにルーツの偉大さを実感させてやりたい。残念ながらそんなことはできないので、クロードはフォドラを巨大な田舎だと誤解したままパルミラに帰るだろう。
「行くならローレンツの故郷が良いな。それと俺も砂漠に沈む夕陽を見せてやりたい」
 予想外のことを言われたローレンツは驚いてクロードを見つめた。従弟と共に子供時代を過ごした家にも軍務を理由にあまり顔を出していない。ローレンツの故郷は畜産が盛んな土地で、故郷にいた頃は週に一度は牛肉を食べていた。そんなことも久しぶりに思い出した。緑色の瞳が細められ口の端は上がっている。褐色の手が再びローレンツの頭を抱え込んだのでまたクロードがどんな顔をしているのか見えなくなってしまった。
「なあ、頼むから一人きりにならないでくれ」
 事故を装って従弟を殺したような連中が相手なのだから慎重に行動すべきと言うクロードの意見は正しい。ローレンツの真っ直ぐな紫の髪をかき分け、褐色の手が緊張で凝り固まった首の後ろをやさしくさすった。クロードの手の形に首が温まっていく。もう意地を張るのには疲れてしまった。瞼を閉じたまま素直にクロードの提案を受け入れる。
「ん、そうだな。皆と手分けして提出するつもりだが皆にも単独行動は控えるように言わねば」
 ガルグ=マクでの度重なる陳情でローレンツは従弟を殺した何者かに目をつけられている。紋章保持者であるヒルダとマリアンヌにアンヴァルの紋章管理局へ出向いてもらい、ローレンツが憲兵隊に出向く際はイグナーツかレオニーに同伴して貰うべきなのかもしれない。
「素直でよろしい。俺、お前の部下たちにもずっと幸せでいて欲しいんだよ」
 その為には身を切られるような思いをしても必ず確実にクロードをパルミラへ帰してやらねばならない。不法入国者がどんな扱いを受けるのか分かっているローレンツはクロードを思わず抱きしめた。このままこの村で二人慎ましやかに暮らせたらどんなに幸せだろうかと思う。その為ならピアノを手放したままでも一向に構わない。
 だがクロードの母国であるパルミラ王国とフォドラ連邦は休戦中でしかないのだ。国交もなくアンヴァルの革命政府に彼の事を知られたら、きっとスパイとして扱われ殺されてしまう。匿っていたローレンツたちもただでは済まない。クロードが自分の国に殺されてしまうより手放す方がずっとましだ。
 頭では分かっていても身を切られるように辛い。自由で華やかな世界を知るクロードはどうだろうか。国境を越えて再びパルミラに戻るまで生き残る為にローレンツを籠絡したのだ、とパルミラの口さがない者たちは言うだろう。それでも口を閉ざすしかない。
「クロードは優しいな」
 悲しい考えを断ち切る為、わざとローレンツはつぶやいた。
「ローレンツはやらしい」
「はあっ?!なんだそれは!」
 間髪入れずにクロードがまぜっ返してくる。油断しきっていたせいか、ローレンツは身体の位置をあっさりクロードにひっくり返された。緑色の瞳に見つめられるとそれだけで冷え切っていた身体が熱くなる。だがクロードを受け入れるともっと熱くなることをローレンツはもう知っている。

 人間は未来を知ることができない。半年前の自分に今年の年末年始はフォドラだ、と言っても絶対に信じなかったはずだ。それはあまりに荒唐無稽だからであって半年前のクロードに落ち度はない。だが一週間前の自分には落ち度がある。パルミラにいた頃フォドラ連邦の恐怖政治に関する記事を他人事として面白おかしく読んでいたし、先日泣いていたローレンツを慰めたばかりだと言うのに考えもしなかった。
「中尉が撃たれた!イグナーツと市立病院にいる!」
 バイクのエンジン音がしてレオニーが庭で洗濯物を取り込んでいたクロードのところへ駆け込んできた。腕を引っ張られる。
「お前らが付いてたのに撃ってきたのか?」
「ああもう、いいから!寝巻きとタオルをありったけ持ってこい!しっかり掴まって!!」
 クロードはヘルメットも被らずにレオニーに言われるがまま、袋に寝巻きとタオルなど必要そうなものを詰めバイクの後ろに乗り込んだ。ローレンツの容態が心配だからなのか悪路を猛スピードで駆け抜けたからなのか分からない。とにかく内臓がひっくり返ったような心地のまま病院に駆け込む。入り口には血まみれのイグナーツが待っていて険しい表情をしたままレオニーに話しかけてきた。
「応急処置は済みました。ヒルダさんとマリアンヌさんが乗った特急はまだアンヴァルに着いていない筈です。行けますか?」
「分かった。迎えに行ってくる。中尉がそれまで堪えてくれたらいいんだが……」
 クロードは踵を返し外へ行こうとしたレオニーの肩を掴んだ。
「待て待て待て何のことだ?!」
 イグナーツとレオニーが何を言っているのか全く分からない。いや、理解したくなかった。
「身体に入った弾丸の摘出手術をするのに血が要るんです。基本こちらでは血も薬も患者が用意します」
 処置をせず、治癒魔法で銃創をいきなり治すと身体に銃の弾が残ってしまう。近頃の銃弾は致傷率を上げるため有毒物質を含んでいることも多く、治癒魔法をかけるにしても摘出した後でなければならない。
「軍人は軍病院が麻酔も何もかも一揃え、まとめて優先的に売ってくれるから助かりやすいんだよ。これでも」
「僕はとりあえずこちらにはない、と医師に言われた薬を軍病院で買ってきます。ヒルダさんたちが来るまで中尉が頑張ってくれたら摘出手術が出来て、すぐに回復魔法が使えるのですが……」
「血って……軍病院にないのか?」
 イグナーツがため息をついた。小さく首を横に振りクロードと目を合わせようとしない。
「中尉は紋章保持者なので輸血に制限があります」
 クロードが言いたかったのはそう言うことではない。クロードも本家に引き取られてから半年に一度は自己採血をしている。そうやって事故や災害、病気に備えているのだ。フォドラの社会基盤は貧弱すぎる。紋章保持者が貴重な社会に欠かせない戦力だと言うならばもっと丁重に扱うべきだ。
「だからヒルダかマリアンヌを早く連れてこないといけないんだよ!もう良いか?急がないと助けられない!」
「なんだ、あいつら輸血用に同じ部隊にされてるのか?レオニーそれなら行かなくていい!俺はO型のcrest+だ」
「はあ?!だってクロードは」
 イグナーツが慌ててレオニーの口を押さえた。五十メートル先の標的を撃ち抜く白い掌にパルミラ人なんだろ?と言う言葉が吸い込まれていく。
 crest+は紋章保持者特有の血液型だ。医学書にもフォドラ特有、と書かれている。眼鏡の青年が気を利かせなければ衆人環視の場でクロードの正体がばれるところだった。洗礼名以外知りたくない、と言ったローレンツに感謝せねばならない。
 褐色の腕に針が刺さる。血が管を通っていく光景は幼いクロードにとってあまり好ましくないものだったし、大人になってからも嬉しい行事とは言えなかった。いくつになっても実母から遠ざけられた理由を見せつけられるのは気分が良くない。だが来年以降、クロードにとって自己採血は全く違う意味を持つだろう。管を通る自分の血はローレンツを助けた血なのだ。
「多少なら具合が悪くなっても構わない。必要なだけ採血してほしい」
 パルミラでは六百ミリリットルが成人男性の採血の限界だがフォドラではもう少し多く採られるのかもしれない。循環する赤血球の量が減ったからか頭痛がし始める。クロードは思わず痛みに顔をしかめ目元を拭ったが痛みや不安が理由ではない。実母の元を離れて以来、初めて自分で自分を許すことが出来たからだ。
「こちらの先生方は腕が良いんです。薬と血があれば大丈夫ですよ」
 古風な制服に身を包んだ看護師がローレンツの幸運を讃えている。彼が気にしていた交通事故の被害者たちも医療環境が整っていたら何人かは助かったのかもしれない。すぐにイグナーツたちも転がり込むかのような勢いで薬を持ってやってきた。物資不足の影響は社会のありとあらゆるところに出ている。
「物資さえあれば何とかなるんだよ」
 レオニーが処置を終え、まだ麻酔の覚めないローレンツの姿を見て呟く。イグナーツも無言で首肯していた。意識を失ったままのローレンツはクロードが持参した寝巻きを着ている。彼はきっとこの姿を他人に晒すことがあるなど考えもしなかった筈だ。

 ローレンツは懐かしい夢を見ていた。ブリギットで行われたピアノコンクールで入賞し、結構な金額の賞金を手に入れた時の夢だ。大会の広報が撮ってくれた演奏中の写真は実家にまだ飾ってある。フォドラで待っている従弟に何か買ってやりたかった。ブリギットにしか売っていないもので、例え遠い首飾りにいても従弟がローレンツのことを身近に感じられるような品がいい。
『何かお探しですか?』
『腕時計を探しています。男物』
 あの頃はブリギット語もまだそんなに理解出来なかった筈なのに何故、あんな細かい注文が出来たのだろうか。ローレンツはダイビングをしている男性の煌びやかな広告写真に吸い込まれるようにして高級腕時計の店に入っていった。片言のブリギット語と指さしで候補を絞り込んでいったがなんだかピンとこない。
 店員たちは胸元にどの国の言葉が話せるのか示すため国旗柄のピンバッジを刺しているが、フォドラ語が話せる者はいなかった。いなかったのに時計の説明が理解できたのはなぜなのか。
 店内にはフライトスケジュールを知らせるモニターがあって、たまたまローレンツが目をやった瞬間に画面が切り替わった。フォドラ航空アンヴァル行きは機材トラブルのため三時間遅延、と表示されている。本当に三時間で済むだろうか。アンヴァルからグロスタールへ行く特急に乗れなかった場合チケットをうまく払い戻せるだろうか。思わず舌打ちしてしまったローレンツが画面から目を離さず、眉間に皺を寄せていると別の店員がこっそりフォドラ語で話しかけてきた。
「ゆっくり選べる時間が増えたと思えばいい」
 どうしてあんな重要なことを忘れていたのか。彼は胸元にどの国のピンバッジも付けていなかった。だから店員ではない。
「アウトドア用だから暗がりでも時刻が見える。軍務にも耐えるブリギット限定品だ」
「従弟は山奥の基地に配属されるのだ」
「鬱蒼とした森の中でもこれなら大丈夫じゃないかな?文字盤と長針短針の先に夜光塗料が塗ってある」
 彼が指差した時計のカラー展開は白紺緑の三つでローレンツはその中から緑のものを選んだ。選んでくれた彼の瞳の色が緑だったからだ。ローレンツとクロードは国境地帯で出会ったわけではない。国境地帯で再会したのだ。目覚めることができたらクロードにも教えてやらねばならない。
「ローレンツ、辛かったらまだ寝てて良いからな」
 イグナーツかレオニーが連れてきてくれたのだろうか。ローレンツの傍には具合の悪そうなクロードがいた。目は真っ赤で酷い顔をしている。心配させたせいなのだろう。まだ身体が怠くて首も動かせない。頑張って瞼を上げ、視線を動かすと点滴が繋がる腕と腕を包む見慣れた寝巻きの柄が目に入る。きっとクロードが自宅から持ってきてくれたのだ。
「クロード、何がどうなって……」
 普通の声で話したつもりだが囁き声しか出せなかったし瞼が再び下りてしまう。
「手術は成功した。メモリーカードの入った書類鞄はレオニーが回収してくれてイグナーツと二人で憲兵隊に提出したよ。ヒルダとマリアンヌもそろそろアンヴァルから帰ってくる。だから後はローレンツが裁判に備えて怪我を治すだけだ」
「裁判……」
 クロードの説明は、何やら前後がおかしなことになっている。ヒルダかマリアンヌが居なかったなら誰がローレンツに血を分け与えてくれたのだろうか。crest+という特別な血だ。
「早く治したかったらもう一度眠るんだ」
 火にかけた鍋の水面に泡が浮かぶように様々な疑問がふつふつとローレンツの脳裏に浮かんだが、褐色の手で頬を撫でられてしまうともう駄目だった。意識は再び思い出の中をたゆたい始めていく。
 失意のどん底で入った士官学校でヒルダと友人になれたこと、兵舎村の人々がとても親切にしてくれたこと、部下になったイグナーツとレオニーがバイアスロンの大会を勝ち進んだ時のこと。だが圧倒的に情報量が多いのはクロードと共に過ごすようになってからのこと、だ。彼とは三週間くらいしか共に過ごしていない。だが山奥で気絶している彼を発見してからの三週間はコマ送りのようにゆっくりと再生されていく。些細なことに驚くクロード、ローレンツの手料理を食べるクロード。基本、右も左も分からない外国にいるので子供のような状態なのにベッドの上では立場が逆転する。
 それにクロードは従弟の腕時計も見つけてくれた。オフィスでメモリーカードのコピーをした時に盗掘をしていたグループは今までのように軍用トラックが使えなくなった、と判断したのだろう。盗聴や監視のやり方は憲兵隊方式なので彼らの一味は憲兵隊の内部にも国境警備隊の内部にもいる。そして彼らは銃撃という言い逃れ出来ない方法でローレンツの口を塞ごうとした。ローレンツは今日、ヒルダたちと別行動をしていたから向こうの勝率は高く、ローレンツは助かるはずがなかった。でも探しても探しても見つからなかった従弟の腕時計を見つけてくれた時のようにきっとクロードがなんとかしてくれたのだ。話せるようになったら絶対にお礼を言いたい。クロードのおかげでローレンツが何を取り戻せたのかを伝えたい。

 クロードは村の奥方連中が差し入れてくれた硬めの焼き菓子をボリボリと音を立てながら食べていた。自己採血の時もそうなのだが、一気に血を失うと身体が欠けたものを取り返そうとするらしい。中に入っているいちごジャムが効いていて、実に美味しいのだが喉が乾く。イグナーツがダグザ製の大きな水筒にお茶を淹れて置いていってくれたのだが、もう飲み干してしまいそうだ。あれから何度かローレンツの瞼が上がり何事かを語ろうとしていたが、麻酔の影響か一言二言で黙ってしまう。覚醒すれば傷跡が痛むだろうと思うと続きを促す気にはなれない。聞こえているかどうかは分からないがクロードは青ざめているローレンツに声をかけた。
「俺ちょっと買い物してくる。帰ったらまた声かけるからそれまで無理するなよ」
 点滴のボトルから一滴ずつ薬液が落ちてローレンツの身体に吸収されていく。パルミラならスリルなど全く感じない単なる弾丸摘出手術だがフォドラでは全てが奇跡のようだ。奇跡に頼らねばやっていけない。
 病院の前にも小さな屋台村があって着替えや食べ物や飲み物が売っている。クロードが今晩の食事や飲み物を買っていると空から白いものがちらついてきた。自宅があるパルミラの首都ではお目にかかれないので驚いて雪の結晶がくっ付いた袖口を眺める。
「ああ、今年は遅かったな……お兄さん病院から出てきただろ。誰の付き添いなんだい?」
「恋人だ」
「それなら早く戻ってやらんと。初雪は愛しい人と見るもんだよ。ずっと二人で幸せに過ごせるって言うからな」
 鏡を見る度に瞳の色がフォドラの血を引く事を思い知らせてきたせいもあり、クロードはフォドラの文化から自分を遠ざけていた。だからそんなロマンチックなジンクスがある、とクロードは知らなかった。初雪に気づいた見舞客は一斉に病室に戻っている。ローレンツの目が覚めて雪が降っている、と彼が気づいた時に傍にいてやりたい。水や軽食になりそうなもの、が沢山詰まった袋を手にクロードは病院の玄関をくぐった。
 院内で働く人々は医師も看護師も忙しそうで外の雪には気づいていない。クロードは階段を上り窓越しに他の病室を眺めながらローレンツの病室に戻った。看護の手が回らないのか大荷物を抱えた付き添いの者が泊まっても構わないらしく、椅子に座ってうとうとしている者もいた。クロードは白い瞼を下ろしたままのローレンツの耳元に口を寄せる。
「戻ったぜ。なあ目を開けられるか?」
 薄い唇が微かに動いた。
「君が戻るのを待っていた。クロード、ありがとう」
「……今まで受けた恩と比べたら些細なもんだ。なあ、窓の外わかるか?」
「初雪だ……」
 ローレンツは真っ白な顔に微笑みを浮かべている。術後でなければいつものように頬を赤く染めていたのかもしれない。クロードは点滴が繋がっていない方の手を握った。まだ少し冷たい手がそっとクロードの手を握り返してくる。
「一緒に見られて嬉しいよ」
 ずっと二人で幸せに過ごせるというフォドラのジンクスを今くらいは信じてみたかった。
「僕も嬉しいよ。幸先がいい」
「そうだな。絶対にきちんと捜査される。裁判所で証言台に立つところが見たかったな」
「軍関係だから基本、非公開だぞ」
 クロードが裁判を見られないのは非公開だからではなく、その頃にはパルミラに戻っているからだ。告発者であるローレンツの足を引っ張らない為にも年が明けたら絶対にクロードはフォドラを去らねばならない。
「そっか。なあ椅子で寝るから今晩ここに泊まっていいか?一人にしたくないんだよ」
「そんなことはしなくていい」
 ローレンツからは断られてしまったが、今晩はクロードが一人になりたくなかった。彼のいないあの寒い家で眠りたくない。
「おいでクロード。行儀の悪いことをしたら蹴り落とすから覚悟したまえ」
 毛布の左側をめくってローレンツが手招きした。かなり狭いが点滴の管がついたままの彼と抱き合うにはそこに潜り込むしかない。靴と上着を脱いだクロードが向かい合ってベッドにそっと横たわると点滴の管が繋がれたままの白い右腕が、背中の方に伸ばされた。ローレンツが楽な姿勢を見つけるまで動かない方がいいだろう。冷えた身体はクロードの熱を堪能するかのようにしばらくもぞもぞと動いていたが、少し乗り上げるような形で落ち着いた。
「あったかい」
 薄い寝巻き越しに背中をさすってやる。少しでも温まればいい。
「そうだな、今晩は湯たんぽに徹するよ」
 当然、傷が塞がったらその限りではない。今晩はもう遅いからマリアンヌたちは来ないのだろうが、明日か明後日には彼女たちが来て回復魔法をローレンツにかけてくれる筈だ。すぐに退院させて二人であの家に戻りたい。
「何があったのか説明してくれるか?」
 ローレンツの指先はクロードの腕に貼られっぱなしの脱脂綿を探っている。そう言えばまだ彼はクロードの本名すら知らない。何があったのか説明するにはまず、八世紀前から一族に現れる王の血について理解してもらう必要がある。どう説明すればローレンツの血圧や脈拍に影響が出ないのだろうか。クロードは慎重に、言葉をひとつずつ選んで説明を始めた。畳む