「また会えようが、会えまいが」11.輸血 #クロロレ #完売本 #現パロ #また会えようが、会えまいが 続きを読む クロードの温もりが全身に伝わってくる。従弟を失って凍りついていたローレンツの心は彼が首飾りを越えなければ溶けなかった。皆ローレンツのことを気にかけてくれたのに誰も愛さず、あんなに愛したピアノすらも遠ざけて暮らした。どれだけ自分を罰してもローレンツの気が晴れることはなかったのに今は違う。何の鮮やかさもない世界にクロードが文字通り落っこちてきた。 些細なことにいちいち驚く彼のおかげでローレンツは自分がどれほど恵まれているのか実感出来た。自分はまだ生きている。両耳は音をとらえ譜面を読む目があり、軍務について数年経つのに十指は無事でフットペダルを踏む足もある。それにクロードとセックスだって出来てしまった。 「メモリーカードの原本はどうする気だ?」 クロードがローレンツを抱きしめながら問うた。原本は接着剤の跡が生々しく、命を落とした一人目の告発者がどれほど追い詰められていたのかを雄弁に語る。捜査関係者の心にも検事や裁判官の心にも強く訴えかけるだろう。 まるで子供をあやしているような低く優しい声だったがクロードの問い自体は重要だった。慎重に行動せねばならない。 「原本は憲兵隊に提出するがその前に何枚かメモリーカードを買ってオフィスでコピーしてからアンヴァルの紋章管理局にも渡す」 紋章管理局は貴重な紋章保持者が殺害されたと知ったら怒り狂って憲兵隊に圧力を掛けるだろう。ローレンツは無神経な彼らから酷い扱いを受けたが、彼らの持つ力を利用しないという選択肢はなかった。 「市場で売ってるのか?」 「流石にガルグ=マクに行かないと無理だ」 年が明けたらクロードは東側に帰ってしまい二度とフォドラに来ることはない。ローレンツは身体を起こしクロードの耳元に口を寄せた。うちあけ話でもするかのような小さな声で囁く。 「君にガルグ=マクやアンヴァルを見せてやりたい」 ローレンツだってパルミラで白フォドラ人がどういう立場なのかは知っているのだ。壮麗なガルグ=マク中央駅やローレンツがコンクールに参加する為しょっちゅう行っていたアンヴァルの劇場を見せて、クロードにルーツの偉大さを実感させてやりたい。残念ながらそんなことはできないので、クロードはフォドラを巨大な田舎だと誤解したままパルミラに帰るだろう。 「行くならローレンツの故郷が良いな。それと俺も砂漠に沈む夕陽を見せてやりたい」 予想外のことを言われたローレンツは驚いてクロードを見つめた。従弟と共に子供時代を過ごした家にも軍務を理由にあまり顔を出していない。ローレンツの故郷は畜産が盛んな土地で、故郷にいた頃は週に一度は牛肉を食べていた。そんなことも久しぶりに思い出した。緑色の瞳が細められ口の端は上がっている。褐色の手が再びローレンツの頭を抱え込んだのでまたクロードがどんな顔をしているのか見えなくなってしまった。 「なあ、頼むから一人きりにならないでくれ」 事故を装って従弟を殺したような連中が相手なのだから慎重に行動すべきと言うクロードの意見は正しい。ローレンツの真っ直ぐな紫の髪をかき分け、褐色の手が緊張で凝り固まった首の後ろをやさしくさすった。クロードの手の形に首が温まっていく。もう意地を張るのには疲れてしまった。瞼を閉じたまま素直にクロードの提案を受け入れる。 「ん、そうだな。皆と手分けして提出するつもりだが皆にも単独行動は控えるように言わねば」 ガルグ=マクでの度重なる陳情でローレンツは従弟を殺した何者かに目をつけられている。紋章保持者であるヒルダとマリアンヌにアンヴァルの紋章管理局へ出向いてもらい、ローレンツが憲兵隊に出向く際はイグナーツかレオニーに同伴して貰うべきなのかもしれない。 「素直でよろしい。俺、お前の部下たちにもずっと幸せでいて欲しいんだよ」 その為には身を切られるような思いをしても必ず確実にクロードをパルミラへ帰してやらねばならない。不法入国者がどんな扱いを受けるのか分かっているローレンツはクロードを思わず抱きしめた。このままこの村で二人慎ましやかに暮らせたらどんなに幸せだろうかと思う。その為ならピアノを手放したままでも一向に構わない。 だがクロードの母国であるパルミラ王国とフォドラ連邦は休戦中でしかないのだ。国交もなくアンヴァルの革命政府に彼の事を知られたら、きっとスパイとして扱われ殺されてしまう。匿っていたローレンツたちもただでは済まない。クロードが自分の国に殺されてしまうより手放す方がずっとましだ。 頭では分かっていても身を切られるように辛い。自由で華やかな世界を知るクロードはどうだろうか。国境を越えて再びパルミラに戻るまで生き残る為にローレンツを籠絡したのだ、とパルミラの口さがない者たちは言うだろう。それでも口を閉ざすしかない。 「クロードは優しいな」 悲しい考えを断ち切る為、わざとローレンツはつぶやいた。 「ローレンツはやらしい」 「はあっ?!なんだそれは!」 間髪入れずにクロードがまぜっ返してくる。油断しきっていたせいか、ローレンツは身体の位置をあっさりクロードにひっくり返された。緑色の瞳に見つめられるとそれだけで冷え切っていた身体が熱くなる。だがクロードを受け入れるともっと熱くなることをローレンツはもう知っている。 人間は未来を知ることができない。半年前の自分に今年の年末年始はフォドラだ、と言っても絶対に信じなかったはずだ。それはあまりに荒唐無稽だからであって半年前のクロードに落ち度はない。だが一週間前の自分には落ち度がある。パルミラにいた頃フォドラ連邦の恐怖政治に関する記事を他人事として面白おかしく読んでいたし、先日泣いていたローレンツを慰めたばかりだと言うのに考えもしなかった。 「中尉が撃たれた!イグナーツと市立病院にいる!」 バイクのエンジン音がしてレオニーが庭で洗濯物を取り込んでいたクロードのところへ駆け込んできた。腕を引っ張られる。 「お前らが付いてたのに撃ってきたのか?」 「ああもう、いいから!寝巻きとタオルをありったけ持ってこい!しっかり掴まって!!」 クロードはヘルメットも被らずにレオニーに言われるがまま、袋に寝巻きとタオルなど必要そうなものを詰めバイクの後ろに乗り込んだ。ローレンツの容態が心配だからなのか悪路を猛スピードで駆け抜けたからなのか分からない。とにかく内臓がひっくり返ったような心地のまま病院に駆け込む。入り口には血まみれのイグナーツが待っていて険しい表情をしたままレオニーに話しかけてきた。 「応急処置は済みました。ヒルダさんとマリアンヌさんが乗った特急はまだアンヴァルに着いていない筈です。行けますか?」 「分かった。迎えに行ってくる。中尉がそれまで堪えてくれたらいいんだが……」 クロードは踵を返し外へ行こうとしたレオニーの肩を掴んだ。 「待て待て待て何のことだ?!」 イグナーツとレオニーが何を言っているのか全く分からない。いや、理解したくなかった。 「身体に入った弾丸の摘出手術をするのに血が要るんです。基本こちらでは血も薬も患者が用意します」 処置をせず、治癒魔法で銃創をいきなり治すと身体に銃の弾が残ってしまう。近頃の銃弾は致傷率を上げるため有毒物質を含んでいることも多く、治癒魔法をかけるにしても摘出した後でなければならない。 「軍人は軍病院が麻酔も何もかも一揃え、まとめて優先的に売ってくれるから助かりやすいんだよ。これでも」 「僕はとりあえずこちらにはない、と医師に言われた薬を軍病院で買ってきます。ヒルダさんたちが来るまで中尉が頑張ってくれたら摘出手術が出来て、すぐに回復魔法が使えるのですが……」 「血って……軍病院にないのか?」 イグナーツがため息をついた。小さく首を横に振りクロードと目を合わせようとしない。 「中尉は紋章保持者なので輸血に制限があります」 クロードが言いたかったのはそう言うことではない。クロードも本家に引き取られてから半年に一度は自己採血をしている。そうやって事故や災害、病気に備えているのだ。フォドラの社会基盤は貧弱すぎる。紋章保持者が貴重な社会に欠かせない戦力だと言うならばもっと丁重に扱うべきだ。 「だからヒルダかマリアンヌを早く連れてこないといけないんだよ!もう良いか?急がないと助けられない!」 「なんだ、あいつら輸血用に同じ部隊にされてるのか?レオニーそれなら行かなくていい!俺はO型のcrest+だ」 「はあ?!だってクロードは」 イグナーツが慌ててレオニーの口を押さえた。五十メートル先の標的を撃ち抜く白い掌にパルミラ人なんだろ?と言う言葉が吸い込まれていく。 crest+は紋章保持者特有の血液型だ。医学書にもフォドラ特有、と書かれている。眼鏡の青年が気を利かせなければ衆人環視の場でクロードの正体がばれるところだった。洗礼名以外知りたくない、と言ったローレンツに感謝せねばならない。 褐色の腕に針が刺さる。血が管を通っていく光景は幼いクロードにとってあまり好ましくないものだったし、大人になってからも嬉しい行事とは言えなかった。いくつになっても実母から遠ざけられた理由を見せつけられるのは気分が良くない。だが来年以降、クロードにとって自己採血は全く違う意味を持つだろう。管を通る自分の血はローレンツを助けた血なのだ。 「多少なら具合が悪くなっても構わない。必要なだけ採血してほしい」 パルミラでは六百ミリリットルが成人男性の採血の限界だがフォドラではもう少し多く採られるのかもしれない。循環する赤血球の量が減ったからか頭痛がし始める。クロードは思わず痛みに顔をしかめ目元を拭ったが痛みや不安が理由ではない。実母の元を離れて以来、初めて自分で自分を許すことが出来たからだ。 「こちらの先生方は腕が良いんです。薬と血があれば大丈夫ですよ」 古風な制服に身を包んだ看護師がローレンツの幸運を讃えている。彼が気にしていた交通事故の被害者たちも医療環境が整っていたら何人かは助かったのかもしれない。すぐにイグナーツたちも転がり込むかのような勢いで薬を持ってやってきた。物資不足の影響は社会のありとあらゆるところに出ている。 「物資さえあれば何とかなるんだよ」 レオニーが処置を終え、まだ麻酔の覚めないローレンツの姿を見て呟く。イグナーツも無言で首肯していた。意識を失ったままのローレンツはクロードが持参した寝巻きを着ている。彼はきっとこの姿を他人に晒すことがあるなど考えもしなかった筈だ。 ローレンツは懐かしい夢を見ていた。ブリギットで行われたピアノコンクールで入賞し、結構な金額の賞金を手に入れた時の夢だ。大会の広報が撮ってくれた演奏中の写真は実家にまだ飾ってある。フォドラで待っている従弟に何か買ってやりたかった。ブリギットにしか売っていないもので、例え遠い首飾りにいても従弟がローレンツのことを身近に感じられるような品がいい。 『何かお探しですか?』 『腕時計を探しています。男物』 あの頃はブリギット語もまだそんなに理解出来なかった筈なのに何故、あんな細かい注文が出来たのだろうか。ローレンツはダイビングをしている男性の煌びやかな広告写真に吸い込まれるようにして高級腕時計の店に入っていった。片言のブリギット語と指さしで候補を絞り込んでいったがなんだかピンとこない。 店員たちは胸元にどの国の言葉が話せるのか示すため国旗柄のピンバッジを刺しているが、フォドラ語が話せる者はいなかった。いなかったのに時計の説明が理解できたのはなぜなのか。 店内にはフライトスケジュールを知らせるモニターがあって、たまたまローレンツが目をやった瞬間に画面が切り替わった。フォドラ航空アンヴァル行きは機材トラブルのため三時間遅延、と表示されている。本当に三時間で済むだろうか。アンヴァルからグロスタールへ行く特急に乗れなかった場合チケットをうまく払い戻せるだろうか。思わず舌打ちしてしまったローレンツが画面から目を離さず、眉間に皺を寄せていると別の店員がこっそりフォドラ語で話しかけてきた。 「ゆっくり選べる時間が増えたと思えばいい」 どうしてあんな重要なことを忘れていたのか。彼は胸元にどの国のピンバッジも付けていなかった。だから店員ではない。 「アウトドア用だから暗がりでも時刻が見える。軍務にも耐えるブリギット限定品だ」 「従弟は山奥の基地に配属されるのだ」 「鬱蒼とした森の中でもこれなら大丈夫じゃないかな?文字盤と長針短針の先に夜光塗料が塗ってある」 彼が指差した時計のカラー展開は白紺緑の三つでローレンツはその中から緑のものを選んだ。選んでくれた彼の瞳の色が緑だったからだ。ローレンツとクロードは国境地帯で出会ったわけではない。国境地帯で再会したのだ。目覚めることができたらクロードにも教えてやらねばならない。 「ローレンツ、辛かったらまだ寝てて良いからな」 イグナーツかレオニーが連れてきてくれたのだろうか。ローレンツの傍には具合の悪そうなクロードがいた。目は真っ赤で酷い顔をしている。心配させたせいなのだろう。まだ身体が怠くて首も動かせない。頑張って瞼を上げ、視線を動かすと点滴が繋がる腕と腕を包む見慣れた寝巻きの柄が目に入る。きっとクロードが自宅から持ってきてくれたのだ。 「クロード、何がどうなって……」 普通の声で話したつもりだが囁き声しか出せなかったし瞼が再び下りてしまう。 「手術は成功した。メモリーカードの入った書類鞄はレオニーが回収してくれてイグナーツと二人で憲兵隊に提出したよ。ヒルダとマリアンヌもそろそろアンヴァルから帰ってくる。だから後はローレンツが裁判に備えて怪我を治すだけだ」 「裁判……」 クロードの説明は、何やら前後がおかしなことになっている。ヒルダかマリアンヌが居なかったなら誰がローレンツに血を分け与えてくれたのだろうか。crest+という特別な血だ。 「早く治したかったらもう一度眠るんだ」 火にかけた鍋の水面に泡が浮かぶように様々な疑問がふつふつとローレンツの脳裏に浮かんだが、褐色の手で頬を撫でられてしまうともう駄目だった。意識は再び思い出の中をたゆたい始めていく。 失意のどん底で入った士官学校でヒルダと友人になれたこと、兵舎村の人々がとても親切にしてくれたこと、部下になったイグナーツとレオニーがバイアスロンの大会を勝ち進んだ時のこと。だが圧倒的に情報量が多いのはクロードと共に過ごすようになってからのこと、だ。彼とは三週間くらいしか共に過ごしていない。だが山奥で気絶している彼を発見してからの三週間はコマ送りのようにゆっくりと再生されていく。些細なことに驚くクロード、ローレンツの手料理を食べるクロード。基本、右も左も分からない外国にいるので子供のような状態なのにベッドの上では立場が逆転する。 それにクロードは従弟の腕時計も見つけてくれた。オフィスでメモリーカードのコピーをした時に盗掘をしていたグループは今までのように軍用トラックが使えなくなった、と判断したのだろう。盗聴や監視のやり方は憲兵隊方式なので彼らの一味は憲兵隊の内部にも国境警備隊の内部にもいる。そして彼らは銃撃という言い逃れ出来ない方法でローレンツの口を塞ごうとした。ローレンツは今日、ヒルダたちと別行動をしていたから向こうの勝率は高く、ローレンツは助かるはずがなかった。でも探しても探しても見つからなかった従弟の腕時計を見つけてくれた時のようにきっとクロードがなんとかしてくれたのだ。話せるようになったら絶対にお礼を言いたい。クロードのおかげでローレンツが何を取り戻せたのかを伝えたい。 クロードは村の奥方連中が差し入れてくれた硬めの焼き菓子をボリボリと音を立てながら食べていた。自己採血の時もそうなのだが、一気に血を失うと身体が欠けたものを取り返そうとするらしい。中に入っているいちごジャムが効いていて、実に美味しいのだが喉が乾く。イグナーツがダグザ製の大きな水筒にお茶を淹れて置いていってくれたのだが、もう飲み干してしまいそうだ。あれから何度かローレンツの瞼が上がり何事かを語ろうとしていたが、麻酔の影響か一言二言で黙ってしまう。覚醒すれば傷跡が痛むだろうと思うと続きを促す気にはなれない。聞こえているかどうかは分からないがクロードは青ざめているローレンツに声をかけた。 「俺ちょっと買い物してくる。帰ったらまた声かけるからそれまで無理するなよ」 点滴のボトルから一滴ずつ薬液が落ちてローレンツの身体に吸収されていく。パルミラならスリルなど全く感じない単なる弾丸摘出手術だがフォドラでは全てが奇跡のようだ。奇跡に頼らねばやっていけない。 病院の前にも小さな屋台村があって着替えや食べ物や飲み物が売っている。クロードが今晩の食事や飲み物を買っていると空から白いものがちらついてきた。自宅があるパルミラの首都ではお目にかかれないので驚いて雪の結晶がくっ付いた袖口を眺める。 「ああ、今年は遅かったな……お兄さん病院から出てきただろ。誰の付き添いなんだい?」 「恋人だ」 「それなら早く戻ってやらんと。初雪は愛しい人と見るもんだよ。ずっと二人で幸せに過ごせるって言うからな」 鏡を見る度に瞳の色がフォドラの血を引く事を思い知らせてきたせいもあり、クロードはフォドラの文化から自分を遠ざけていた。だからそんなロマンチックなジンクスがある、とクロードは知らなかった。初雪に気づいた見舞客は一斉に病室に戻っている。ローレンツの目が覚めて雪が降っている、と彼が気づいた時に傍にいてやりたい。水や軽食になりそうなもの、が沢山詰まった袋を手にクロードは病院の玄関をくぐった。 院内で働く人々は医師も看護師も忙しそうで外の雪には気づいていない。クロードは階段を上り窓越しに他の病室を眺めながらローレンツの病室に戻った。看護の手が回らないのか大荷物を抱えた付き添いの者が泊まっても構わないらしく、椅子に座ってうとうとしている者もいた。クロードは白い瞼を下ろしたままのローレンツの耳元に口を寄せる。 「戻ったぜ。なあ目を開けられるか?」 薄い唇が微かに動いた。 「君が戻るのを待っていた。クロード、ありがとう」 「……今まで受けた恩と比べたら些細なもんだ。なあ、窓の外わかるか?」 「初雪だ……」 ローレンツは真っ白な顔に微笑みを浮かべている。術後でなければいつものように頬を赤く染めていたのかもしれない。クロードは点滴が繋がっていない方の手を握った。まだ少し冷たい手がそっとクロードの手を握り返してくる。 「一緒に見られて嬉しいよ」 ずっと二人で幸せに過ごせるというフォドラのジンクスを今くらいは信じてみたかった。 「僕も嬉しいよ。幸先がいい」 「そうだな。絶対にきちんと捜査される。裁判所で証言台に立つところが見たかったな」 「軍関係だから基本、非公開だぞ」 クロードが裁判を見られないのは非公開だからではなく、その頃にはパルミラに戻っているからだ。告発者であるローレンツの足を引っ張らない為にも年が明けたら絶対にクロードはフォドラを去らねばならない。 「そっか。なあ椅子で寝るから今晩ここに泊まっていいか?一人にしたくないんだよ」 「そんなことはしなくていい」 ローレンツからは断られてしまったが、今晩はクロードが一人になりたくなかった。彼のいないあの寒い家で眠りたくない。 「おいでクロード。行儀の悪いことをしたら蹴り落とすから覚悟したまえ」 毛布の左側をめくってローレンツが手招きした。かなり狭いが点滴の管がついたままの彼と抱き合うにはそこに潜り込むしかない。靴と上着を脱いだクロードが向かい合ってベッドにそっと横たわると点滴の管が繋がれたままの白い右腕が、背中の方に伸ばされた。ローレンツが楽な姿勢を見つけるまで動かない方がいいだろう。冷えた身体はクロードの熱を堪能するかのようにしばらくもぞもぞと動いていたが、少し乗り上げるような形で落ち着いた。 「あったかい」 薄い寝巻き越しに背中をさすってやる。少しでも温まればいい。 「そうだな、今晩は湯たんぽに徹するよ」 当然、傷が塞がったらその限りではない。今晩はもう遅いからマリアンヌたちは来ないのだろうが、明日か明後日には彼女たちが来て回復魔法をローレンツにかけてくれる筈だ。すぐに退院させて二人であの家に戻りたい。 「何があったのか説明してくれるか?」 ローレンツの指先はクロードの腕に貼られっぱなしの脱脂綿を探っている。そう言えばまだ彼はクロードの本名すら知らない。何があったのか説明するにはまず、八世紀前から一族に現れる王の血について理解してもらう必要がある。どう説明すればローレンツの血圧や脈拍に影響が出ないのだろうか。クロードは慎重に、言葉をひとつずつ選んで説明を始めた。畳む 小説,BL 2024/11/17(Sun)
#クロロレ #完売本 #現パロ #また会えようが、会えまいが
クロードの温もりが全身に伝わってくる。従弟を失って凍りついていたローレンツの心は彼が首飾りを越えなければ溶けなかった。皆ローレンツのことを気にかけてくれたのに誰も愛さず、あんなに愛したピアノすらも遠ざけて暮らした。どれだけ自分を罰してもローレンツの気が晴れることはなかったのに今は違う。何の鮮やかさもない世界にクロードが文字通り落っこちてきた。
些細なことにいちいち驚く彼のおかげでローレンツは自分がどれほど恵まれているのか実感出来た。自分はまだ生きている。両耳は音をとらえ譜面を読む目があり、軍務について数年経つのに十指は無事でフットペダルを踏む足もある。それにクロードとセックスだって出来てしまった。
「メモリーカードの原本はどうする気だ?」
クロードがローレンツを抱きしめながら問うた。原本は接着剤の跡が生々しく、命を落とした一人目の告発者がどれほど追い詰められていたのかを雄弁に語る。捜査関係者の心にも検事や裁判官の心にも強く訴えかけるだろう。
まるで子供をあやしているような低く優しい声だったがクロードの問い自体は重要だった。慎重に行動せねばならない。
「原本は憲兵隊に提出するがその前に何枚かメモリーカードを買ってオフィスでコピーしてからアンヴァルの紋章管理局にも渡す」
紋章管理局は貴重な紋章保持者が殺害されたと知ったら怒り狂って憲兵隊に圧力を掛けるだろう。ローレンツは無神経な彼らから酷い扱いを受けたが、彼らの持つ力を利用しないという選択肢はなかった。
「市場で売ってるのか?」
「流石にガルグ=マクに行かないと無理だ」
年が明けたらクロードは東側に帰ってしまい二度とフォドラに来ることはない。ローレンツは身体を起こしクロードの耳元に口を寄せた。うちあけ話でもするかのような小さな声で囁く。
「君にガルグ=マクやアンヴァルを見せてやりたい」
ローレンツだってパルミラで白フォドラ人がどういう立場なのかは知っているのだ。壮麗なガルグ=マク中央駅やローレンツがコンクールに参加する為しょっちゅう行っていたアンヴァルの劇場を見せて、クロードにルーツの偉大さを実感させてやりたい。残念ながらそんなことはできないので、クロードはフォドラを巨大な田舎だと誤解したままパルミラに帰るだろう。
「行くならローレンツの故郷が良いな。それと俺も砂漠に沈む夕陽を見せてやりたい」
予想外のことを言われたローレンツは驚いてクロードを見つめた。従弟と共に子供時代を過ごした家にも軍務を理由にあまり顔を出していない。ローレンツの故郷は畜産が盛んな土地で、故郷にいた頃は週に一度は牛肉を食べていた。そんなことも久しぶりに思い出した。緑色の瞳が細められ口の端は上がっている。褐色の手が再びローレンツの頭を抱え込んだのでまたクロードがどんな顔をしているのか見えなくなってしまった。
「なあ、頼むから一人きりにならないでくれ」
事故を装って従弟を殺したような連中が相手なのだから慎重に行動すべきと言うクロードの意見は正しい。ローレンツの真っ直ぐな紫の髪をかき分け、褐色の手が緊張で凝り固まった首の後ろをやさしくさすった。クロードの手の形に首が温まっていく。もう意地を張るのには疲れてしまった。瞼を閉じたまま素直にクロードの提案を受け入れる。
「ん、そうだな。皆と手分けして提出するつもりだが皆にも単独行動は控えるように言わねば」
ガルグ=マクでの度重なる陳情でローレンツは従弟を殺した何者かに目をつけられている。紋章保持者であるヒルダとマリアンヌにアンヴァルの紋章管理局へ出向いてもらい、ローレンツが憲兵隊に出向く際はイグナーツかレオニーに同伴して貰うべきなのかもしれない。
「素直でよろしい。俺、お前の部下たちにもずっと幸せでいて欲しいんだよ」
その為には身を切られるような思いをしても必ず確実にクロードをパルミラへ帰してやらねばならない。不法入国者がどんな扱いを受けるのか分かっているローレンツはクロードを思わず抱きしめた。このままこの村で二人慎ましやかに暮らせたらどんなに幸せだろうかと思う。その為ならピアノを手放したままでも一向に構わない。
だがクロードの母国であるパルミラ王国とフォドラ連邦は休戦中でしかないのだ。国交もなくアンヴァルの革命政府に彼の事を知られたら、きっとスパイとして扱われ殺されてしまう。匿っていたローレンツたちもただでは済まない。クロードが自分の国に殺されてしまうより手放す方がずっとましだ。
頭では分かっていても身を切られるように辛い。自由で華やかな世界を知るクロードはどうだろうか。国境を越えて再びパルミラに戻るまで生き残る為にローレンツを籠絡したのだ、とパルミラの口さがない者たちは言うだろう。それでも口を閉ざすしかない。
「クロードは優しいな」
悲しい考えを断ち切る為、わざとローレンツはつぶやいた。
「ローレンツはやらしい」
「はあっ?!なんだそれは!」
間髪入れずにクロードがまぜっ返してくる。油断しきっていたせいか、ローレンツは身体の位置をあっさりクロードにひっくり返された。緑色の瞳に見つめられるとそれだけで冷え切っていた身体が熱くなる。だがクロードを受け入れるともっと熱くなることをローレンツはもう知っている。
人間は未来を知ることができない。半年前の自分に今年の年末年始はフォドラだ、と言っても絶対に信じなかったはずだ。それはあまりに荒唐無稽だからであって半年前のクロードに落ち度はない。だが一週間前の自分には落ち度がある。パルミラにいた頃フォドラ連邦の恐怖政治に関する記事を他人事として面白おかしく読んでいたし、先日泣いていたローレンツを慰めたばかりだと言うのに考えもしなかった。
「中尉が撃たれた!イグナーツと市立病院にいる!」
バイクのエンジン音がしてレオニーが庭で洗濯物を取り込んでいたクロードのところへ駆け込んできた。腕を引っ張られる。
「お前らが付いてたのに撃ってきたのか?」
「ああもう、いいから!寝巻きとタオルをありったけ持ってこい!しっかり掴まって!!」
クロードはヘルメットも被らずにレオニーに言われるがまま、袋に寝巻きとタオルなど必要そうなものを詰めバイクの後ろに乗り込んだ。ローレンツの容態が心配だからなのか悪路を猛スピードで駆け抜けたからなのか分からない。とにかく内臓がひっくり返ったような心地のまま病院に駆け込む。入り口には血まみれのイグナーツが待っていて険しい表情をしたままレオニーに話しかけてきた。
「応急処置は済みました。ヒルダさんとマリアンヌさんが乗った特急はまだアンヴァルに着いていない筈です。行けますか?」
「分かった。迎えに行ってくる。中尉がそれまで堪えてくれたらいいんだが……」
クロードは踵を返し外へ行こうとしたレオニーの肩を掴んだ。
「待て待て待て何のことだ?!」
イグナーツとレオニーが何を言っているのか全く分からない。いや、理解したくなかった。
「身体に入った弾丸の摘出手術をするのに血が要るんです。基本こちらでは血も薬も患者が用意します」
処置をせず、治癒魔法で銃創をいきなり治すと身体に銃の弾が残ってしまう。近頃の銃弾は致傷率を上げるため有毒物質を含んでいることも多く、治癒魔法をかけるにしても摘出した後でなければならない。
「軍人は軍病院が麻酔も何もかも一揃え、まとめて優先的に売ってくれるから助かりやすいんだよ。これでも」
「僕はとりあえずこちらにはない、と医師に言われた薬を軍病院で買ってきます。ヒルダさんたちが来るまで中尉が頑張ってくれたら摘出手術が出来て、すぐに回復魔法が使えるのですが……」
「血って……軍病院にないのか?」
イグナーツがため息をついた。小さく首を横に振りクロードと目を合わせようとしない。
「中尉は紋章保持者なので輸血に制限があります」
クロードが言いたかったのはそう言うことではない。クロードも本家に引き取られてから半年に一度は自己採血をしている。そうやって事故や災害、病気に備えているのだ。フォドラの社会基盤は貧弱すぎる。紋章保持者が貴重な社会に欠かせない戦力だと言うならばもっと丁重に扱うべきだ。
「だからヒルダかマリアンヌを早く連れてこないといけないんだよ!もう良いか?急がないと助けられない!」
「なんだ、あいつら輸血用に同じ部隊にされてるのか?レオニーそれなら行かなくていい!俺はO型のcrest+だ」
「はあ?!だってクロードは」
イグナーツが慌ててレオニーの口を押さえた。五十メートル先の標的を撃ち抜く白い掌にパルミラ人なんだろ?と言う言葉が吸い込まれていく。
crest+は紋章保持者特有の血液型だ。医学書にもフォドラ特有、と書かれている。眼鏡の青年が気を利かせなければ衆人環視の場でクロードの正体がばれるところだった。洗礼名以外知りたくない、と言ったローレンツに感謝せねばならない。
褐色の腕に針が刺さる。血が管を通っていく光景は幼いクロードにとってあまり好ましくないものだったし、大人になってからも嬉しい行事とは言えなかった。いくつになっても実母から遠ざけられた理由を見せつけられるのは気分が良くない。だが来年以降、クロードにとって自己採血は全く違う意味を持つだろう。管を通る自分の血はローレンツを助けた血なのだ。
「多少なら具合が悪くなっても構わない。必要なだけ採血してほしい」
パルミラでは六百ミリリットルが成人男性の採血の限界だがフォドラではもう少し多く採られるのかもしれない。循環する赤血球の量が減ったからか頭痛がし始める。クロードは思わず痛みに顔をしかめ目元を拭ったが痛みや不安が理由ではない。実母の元を離れて以来、初めて自分で自分を許すことが出来たからだ。
「こちらの先生方は腕が良いんです。薬と血があれば大丈夫ですよ」
古風な制服に身を包んだ看護師がローレンツの幸運を讃えている。彼が気にしていた交通事故の被害者たちも医療環境が整っていたら何人かは助かったのかもしれない。すぐにイグナーツたちも転がり込むかのような勢いで薬を持ってやってきた。物資不足の影響は社会のありとあらゆるところに出ている。
「物資さえあれば何とかなるんだよ」
レオニーが処置を終え、まだ麻酔の覚めないローレンツの姿を見て呟く。イグナーツも無言で首肯していた。意識を失ったままのローレンツはクロードが持参した寝巻きを着ている。彼はきっとこの姿を他人に晒すことがあるなど考えもしなかった筈だ。
ローレンツは懐かしい夢を見ていた。ブリギットで行われたピアノコンクールで入賞し、結構な金額の賞金を手に入れた時の夢だ。大会の広報が撮ってくれた演奏中の写真は実家にまだ飾ってある。フォドラで待っている従弟に何か買ってやりたかった。ブリギットにしか売っていないもので、例え遠い首飾りにいても従弟がローレンツのことを身近に感じられるような品がいい。
『何かお探しですか?』
『腕時計を探しています。男物』
あの頃はブリギット語もまだそんなに理解出来なかった筈なのに何故、あんな細かい注文が出来たのだろうか。ローレンツはダイビングをしている男性の煌びやかな広告写真に吸い込まれるようにして高級腕時計の店に入っていった。片言のブリギット語と指さしで候補を絞り込んでいったがなんだかピンとこない。
店員たちは胸元にどの国の言葉が話せるのか示すため国旗柄のピンバッジを刺しているが、フォドラ語が話せる者はいなかった。いなかったのに時計の説明が理解できたのはなぜなのか。
店内にはフライトスケジュールを知らせるモニターがあって、たまたまローレンツが目をやった瞬間に画面が切り替わった。フォドラ航空アンヴァル行きは機材トラブルのため三時間遅延、と表示されている。本当に三時間で済むだろうか。アンヴァルからグロスタールへ行く特急に乗れなかった場合チケットをうまく払い戻せるだろうか。思わず舌打ちしてしまったローレンツが画面から目を離さず、眉間に皺を寄せていると別の店員がこっそりフォドラ語で話しかけてきた。
「ゆっくり選べる時間が増えたと思えばいい」
どうしてあんな重要なことを忘れていたのか。彼は胸元にどの国のピンバッジも付けていなかった。だから店員ではない。
「アウトドア用だから暗がりでも時刻が見える。軍務にも耐えるブリギット限定品だ」
「従弟は山奥の基地に配属されるのだ」
「鬱蒼とした森の中でもこれなら大丈夫じゃないかな?文字盤と長針短針の先に夜光塗料が塗ってある」
彼が指差した時計のカラー展開は白紺緑の三つでローレンツはその中から緑のものを選んだ。選んでくれた彼の瞳の色が緑だったからだ。ローレンツとクロードは国境地帯で出会ったわけではない。国境地帯で再会したのだ。目覚めることができたらクロードにも教えてやらねばならない。
「ローレンツ、辛かったらまだ寝てて良いからな」
イグナーツかレオニーが連れてきてくれたのだろうか。ローレンツの傍には具合の悪そうなクロードがいた。目は真っ赤で酷い顔をしている。心配させたせいなのだろう。まだ身体が怠くて首も動かせない。頑張って瞼を上げ、視線を動かすと点滴が繋がる腕と腕を包む見慣れた寝巻きの柄が目に入る。きっとクロードが自宅から持ってきてくれたのだ。
「クロード、何がどうなって……」
普通の声で話したつもりだが囁き声しか出せなかったし瞼が再び下りてしまう。
「手術は成功した。メモリーカードの入った書類鞄はレオニーが回収してくれてイグナーツと二人で憲兵隊に提出したよ。ヒルダとマリアンヌもそろそろアンヴァルから帰ってくる。だから後はローレンツが裁判に備えて怪我を治すだけだ」
「裁判……」
クロードの説明は、何やら前後がおかしなことになっている。ヒルダかマリアンヌが居なかったなら誰がローレンツに血を分け与えてくれたのだろうか。crest+という特別な血だ。
「早く治したかったらもう一度眠るんだ」
火にかけた鍋の水面に泡が浮かぶように様々な疑問がふつふつとローレンツの脳裏に浮かんだが、褐色の手で頬を撫でられてしまうともう駄目だった。意識は再び思い出の中をたゆたい始めていく。
失意のどん底で入った士官学校でヒルダと友人になれたこと、兵舎村の人々がとても親切にしてくれたこと、部下になったイグナーツとレオニーがバイアスロンの大会を勝ち進んだ時のこと。だが圧倒的に情報量が多いのはクロードと共に過ごすようになってからのこと、だ。彼とは三週間くらいしか共に過ごしていない。だが山奥で気絶している彼を発見してからの三週間はコマ送りのようにゆっくりと再生されていく。些細なことに驚くクロード、ローレンツの手料理を食べるクロード。基本、右も左も分からない外国にいるので子供のような状態なのにベッドの上では立場が逆転する。
それにクロードは従弟の腕時計も見つけてくれた。オフィスでメモリーカードのコピーをした時に盗掘をしていたグループは今までのように軍用トラックが使えなくなった、と判断したのだろう。盗聴や監視のやり方は憲兵隊方式なので彼らの一味は憲兵隊の内部にも国境警備隊の内部にもいる。そして彼らは銃撃という言い逃れ出来ない方法でローレンツの口を塞ごうとした。ローレンツは今日、ヒルダたちと別行動をしていたから向こうの勝率は高く、ローレンツは助かるはずがなかった。でも探しても探しても見つからなかった従弟の腕時計を見つけてくれた時のようにきっとクロードがなんとかしてくれたのだ。話せるようになったら絶対にお礼を言いたい。クロードのおかげでローレンツが何を取り戻せたのかを伝えたい。
クロードは村の奥方連中が差し入れてくれた硬めの焼き菓子をボリボリと音を立てながら食べていた。自己採血の時もそうなのだが、一気に血を失うと身体が欠けたものを取り返そうとするらしい。中に入っているいちごジャムが効いていて、実に美味しいのだが喉が乾く。イグナーツがダグザ製の大きな水筒にお茶を淹れて置いていってくれたのだが、もう飲み干してしまいそうだ。あれから何度かローレンツの瞼が上がり何事かを語ろうとしていたが、麻酔の影響か一言二言で黙ってしまう。覚醒すれば傷跡が痛むだろうと思うと続きを促す気にはなれない。聞こえているかどうかは分からないがクロードは青ざめているローレンツに声をかけた。
「俺ちょっと買い物してくる。帰ったらまた声かけるからそれまで無理するなよ」
点滴のボトルから一滴ずつ薬液が落ちてローレンツの身体に吸収されていく。パルミラならスリルなど全く感じない単なる弾丸摘出手術だがフォドラでは全てが奇跡のようだ。奇跡に頼らねばやっていけない。
病院の前にも小さな屋台村があって着替えや食べ物や飲み物が売っている。クロードが今晩の食事や飲み物を買っていると空から白いものがちらついてきた。自宅があるパルミラの首都ではお目にかかれないので驚いて雪の結晶がくっ付いた袖口を眺める。
「ああ、今年は遅かったな……お兄さん病院から出てきただろ。誰の付き添いなんだい?」
「恋人だ」
「それなら早く戻ってやらんと。初雪は愛しい人と見るもんだよ。ずっと二人で幸せに過ごせるって言うからな」
鏡を見る度に瞳の色がフォドラの血を引く事を思い知らせてきたせいもあり、クロードはフォドラの文化から自分を遠ざけていた。だからそんなロマンチックなジンクスがある、とクロードは知らなかった。初雪に気づいた見舞客は一斉に病室に戻っている。ローレンツの目が覚めて雪が降っている、と彼が気づいた時に傍にいてやりたい。水や軽食になりそうなもの、が沢山詰まった袋を手にクロードは病院の玄関をくぐった。
院内で働く人々は医師も看護師も忙しそうで外の雪には気づいていない。クロードは階段を上り窓越しに他の病室を眺めながらローレンツの病室に戻った。看護の手が回らないのか大荷物を抱えた付き添いの者が泊まっても構わないらしく、椅子に座ってうとうとしている者もいた。クロードは白い瞼を下ろしたままのローレンツの耳元に口を寄せる。
「戻ったぜ。なあ目を開けられるか?」
薄い唇が微かに動いた。
「君が戻るのを待っていた。クロード、ありがとう」
「……今まで受けた恩と比べたら些細なもんだ。なあ、窓の外わかるか?」
「初雪だ……」
ローレンツは真っ白な顔に微笑みを浮かべている。術後でなければいつものように頬を赤く染めていたのかもしれない。クロードは点滴が繋がっていない方の手を握った。まだ少し冷たい手がそっとクロードの手を握り返してくる。
「一緒に見られて嬉しいよ」
ずっと二人で幸せに過ごせるというフォドラのジンクスを今くらいは信じてみたかった。
「僕も嬉しいよ。幸先がいい」
「そうだな。絶対にきちんと捜査される。裁判所で証言台に立つところが見たかったな」
「軍関係だから基本、非公開だぞ」
クロードが裁判を見られないのは非公開だからではなく、その頃にはパルミラに戻っているからだ。告発者であるローレンツの足を引っ張らない為にも年が明けたら絶対にクロードはフォドラを去らねばならない。
「そっか。なあ椅子で寝るから今晩ここに泊まっていいか?一人にしたくないんだよ」
「そんなことはしなくていい」
ローレンツからは断られてしまったが、今晩はクロードが一人になりたくなかった。彼のいないあの寒い家で眠りたくない。
「おいでクロード。行儀の悪いことをしたら蹴り落とすから覚悟したまえ」
毛布の左側をめくってローレンツが手招きした。かなり狭いが点滴の管がついたままの彼と抱き合うにはそこに潜り込むしかない。靴と上着を脱いだクロードが向かい合ってベッドにそっと横たわると点滴の管が繋がれたままの白い右腕が、背中の方に伸ばされた。ローレンツが楽な姿勢を見つけるまで動かない方がいいだろう。冷えた身体はクロードの熱を堪能するかのようにしばらくもぞもぞと動いていたが、少し乗り上げるような形で落ち着いた。
「あったかい」
薄い寝巻き越しに背中をさすってやる。少しでも温まればいい。
「そうだな、今晩は湯たんぽに徹するよ」
当然、傷が塞がったらその限りではない。今晩はもう遅いからマリアンヌたちは来ないのだろうが、明日か明後日には彼女たちが来て回復魔法をローレンツにかけてくれる筈だ。すぐに退院させて二人であの家に戻りたい。
「何があったのか説明してくれるか?」
ローレンツの指先はクロードの腕に貼られっぱなしの脱脂綿を探っている。そう言えばまだ彼はクロードの本名すら知らない。何があったのか説明するにはまず、八世紀前から一族に現れる王の血について理解してもらう必要がある。どう説明すればローレンツの血圧や脈拍に影響が出ないのだろうか。クロードは慎重に、言葉をひとつずつ選んで説明を始めた。畳む