「また会えようが、会えまいが」7.失敗 #クロロレ #完売本 #現パロ #また会えようが、会えまいが 続きを読む ヒルダの兄ホルストは海軍の軍人だ。兄の地位が高く有名人なので、彼女は兵舎村で士官学校時代と同じく天衣無縫に過ごしている。 彼女の故郷に行くのは初めてなマリアンヌとそもそもこちらで電車に乗るのが初めてなクロードが進行方向を向いて並んで座り、それぞれの向かいにヒルダとローレンツが座っていた。四人で座れるコンパートメントが取れたので少しは寛げる。深緑の軍服に囲まれ、一人私服を身につけて窓際に座るクロードは流れていく外の景色を眺めていた。よく磨かれたガラスに彼の顔が写り込んでいる。どこの何者なのか見る者に判断を委ねるしかない彼の瞳は溢れ出す好奇心のせいか、若草を濡らす露のように輝いていた。 フォドラの喉元に沿ってアミッド大河の河口へ向かうので景色も起伏に富んでいる。クロードはパルミラに戻れば二度とフォドラへ戻ることが出来ない。自分のいる土地が、母方の一族の故郷がどれほど美しいのか知って欲しいし覚えておいて欲しい。ローレンツはそう思っている。 「卵を茹でてきました……」 フォドラの人々が長距離列車に乗る際は必ず食べ物と飲み物を持ち込むし、停車駅でも買い足しておく。余ったら着いた先で食べるだけだ。電力事情が悪いのでいつ列車がいつ停車するか分からないし、自分たちもいつ空腹を覚えるのか分からない。乗客は列車の中でお湯が使えるようになっているがローレンツも念のため水筒に紅茶を淹れてきた。 「ありがとうマリアンヌさん。ヒルダさん、大佐はいらっしゃるのだろうか?」 「残念だけどまだ航海中なの。でも皆で帆立やムール貝たべたりしようね!」 軍を除隊したホルストの友人が漁師をしていて船を出してくれると言う。勿論そんな危うい話はコンパートメントに座っているとはいえ、いつ車掌が来るか分からない車内で出来るはずもなく当たり障りのない話をするしかなかった。 「イグナーツたちが一緒じゃないのは残念だな」 クロードがはっきりと彼の質問に否と答えてからは特に剣呑な雰囲気になっていない。合宿が終わって戻る頃にはクロードがこの村にいないかと思うと少し残念な気がする、と言ってイグナーツとレオニーはファーガス地方で行われる強化合宿へ向かった。合宿はとにかくきついがファーガスは雪質が良く、出される食事も豪華なので悪くないらしい。 「あと少し戦績が上がれば体育競技専門の部隊に転属出来る筈だが、二人ともその手前だから今が一番忙しい」 ローレンツは軍楽隊を避けている。従弟が事故死してからピアノの演奏自体辞めてしまった。だからこそイグナーツにもレオニーにも競技で成功して欲しい、と心の底から願っている。血管が震えて太陽とひとつになったような、そんな気持ちになるほど没頭できる何かがあるのは人生が祝福されている証拠だ。彼らからその熱が奪われてはならない。 「お二人には本当に成功して欲しいです」 クロードの向かいに座っているマリアンヌはそう言うと弁当や飲み物を置くための机でゆで卵を転がした。パリパリと殻にひびが入る音がする。力の加減を間違えてマリアンヌが卵を潰してしまうのではないか、とローレンツは冷や冷やしたがそんなことはなく薄茶色の殻に全体的にひびが入っていた。 「クロードさんもどうぞ」 ひびだらけの卵を剥くとマリアンヌは白く輝く茹で卵をクロードに手渡した。茶会の日にバターを塗る手つきが余程おぼつかなかったのか、彼女は完全にクロードを子供扱いすることにしたらしい。 「せめて塩が欲しい。何にも付けないで食べるのか?」 「もう味は付いています」 クロードはマリアンヌから受け取ったゆで卵を目の前でくるくると回し、塩の粒などがついていないことを確認すると一口かじった。驚いたのか目を見開いている。 「本当だ、塩味がついてる!どうやって?」 「茹で終わったら殻付きのまますぐに冷たい塩水につけて一晩置くと黄身にも味が付きます。私の一番の得意料理です」 「ああ!浸透圧を使うのか!懐かしいな。中学の理科で実験をやったよ!」 クロードは料理が全く出来ないせいかマリアンヌの得意料理、という発言をそのまま受け流していた。 「透明卵と塩水の実験か?」 「そう!それそれ!明かりで照らしながら揺らすと黄身が動くのが見えるんだよ」 食用の酢に卵を漬けておくとクエン酸が炭酸カルシウムで出来ている殻を溶かして薄い膜だけになり、中身が透けて見えるようになる。そうやって作った透明な卵を今度は塩水や真水に漬けて重さを測り、変化を記録していく。野生動物と同じく物理法則も国境線など関係ない。人間の思惑に左右されないのだ。 ローレンツも卵を軽く小さなテーブルの角で叩いて殻を剥いた。車内で食べる場合、半熟にすると黄身が垂れて面倒なことになる。固く茹でられているせいさ卵の黄身は色が薄い。得意料理というだけあって塩加減が丁度よかった。きちんと黄身にも塩味がついている。紙袋に殻をまとめローレンツが持参した紅茶を飲み終えてしまうともう、次の停車駅までやることがない。それぞれにうとうとし始めた時に車内放送が流れた。 「停電の為ここで十時間停車いたします」 クロードはローレンツに寄りかかって微睡んでいたが、眠気が一気に吹き飛んだ。窓の外には野原が広がるだけで見渡す限り何の建物もない。せめてどこかの駅に停車中ならそこから降りて、何か買えたかもしれないのにこんな中途半端なところで閉じ込められてしまうとは。 「うわあ、冗談は勘弁してって感じ」 「全くだ」 マリアンヌはまだヒルダに寄りかかって眠っているがローレンツとヒルダは目が覚めたらしい。不愉快そうにこめかみを押さえていた指を離し、ヒルダがマリアンヌの白い頬をつつく。 「こんなところで十時間も立ち往生だと?!」 「クロード、十時間で済むわけないだろう。明日の朝まで待たされるに決まっている」 「えっ早く見積もって十時間なのか?それなら今すぐ食堂車に食い物買いにいこうぜ!」 ローレンツやヒルダ、それに起こされたマリアンヌはうんざりしているようだが全く驚いていない。大あくびをしたマリアンヌがすみません、と言ってから窓の外を眺めた。 「ああ、来ましたね」 「来るって何がだ?」 クロードが窓に手をついて外を眺めると野原一面に何かを抱えた人がいて、一斉に車両に向かって走ってくる。 「物売りです……。外に出て薪と毛布を買いましょう」 「えっ?なんでだ?俺は乗ったままの方がいいと思うんだが」 こんなところで迂闊に降車して停電から復旧した時に電車に乗りそびれたらそれこそ詰んでしまう。 「クロード、君は気づいていないようだが暖房も止まっている」 ローレンツが足元を指差した。確かに先程まで足元に感じていた熱がない。クロードは手首を見て時間を確認し右手で顔を覆った。確かに日が暮れたらもっと寒くなる。外なら焚き火で暖を取れるのだ。通路は既に同じことを考えた者で溢れている。車掌なのか乗客なのか判らないがドアを開けた者がいるらしい。 皆、ホームでもないところから降りるのに慣れているのか車両からどんどん人が減っていく。フォドラへ迷い込んでしまってから信じられないこと続きだ。レディファーストということなのか、先に降りたヒルダとマリアンヌは一直線に物売り目指して駆け出している。 「梯子を下りるのと変わらない」 先に降りたローレンツがどう地面まで下りたものかと戸惑っているクロードに声をかけてきた。だが足で探ってみてもつま先を下ろす先がわからない。 「分かった、飛び降りてこい。受け止めてやるから」 痺れを切らしたローレンツはクロードのために両腕を広げた。まるで初めて会った時のようだ。クロードは向きを変えるために一度、車両内に戻りローレンツの方を向いてから躊躇せずに床を蹴った。あの時のように二人揃って地面に倒れ込む。ただあの時と違って衆人環視の場であるため流石にキスは出来ない。しかしローレンツの喉がひくりと動いたのをクロードは見てしまった。あの時の身勝手な自分なら気付かなかっただろう。 「下りろ、ヒルダさんたちを探すぞ」 ローレンツは起き上がると腰や背中についた雑草を叩いて落とした。辺りを歩き回っている物売りから食べ物や飲み物を買いながらヒルダたちを探して歩くが中々見つからない。遂に日が暮れ始めオレンジ色の光が辺りを照らしていく。焚き火をひとつひとつ回って、ようやく彼女たちと合流する頃には食べ物も飲み物も両手一杯になっていた。 「二人ともおそーい!」 「申し訳ない。まずはとうもろこしをどうぞ」 既に二人は火を起こし毛布を膝に掛けている。クロードも買っておいてもらった毛布を膝に掛けローレンツの隣に座った。どこの誰が茹でたのかわからないとうもろこしの皮を剥いてかぶりつく。甘くて美味しかった。クロードはそう感じる自分が信じられなかった。 「食べ終わったら皮と芯を燃やしてやろう」 「やっぱりファイアーが使える人が一緒だと便利よねえ」 それまで黙ってとうもろこしにかぶりついていたヒルダが二人分の芯と皮を足元にまとめた。 「僕をライターやマッチ扱いしないでくれたまえ」 「ヒルダとマリアンヌは何の魔法が使えるんだ?」 「私はブリザーでヒルダさんがサンダーです」 物売りから買った蒸留酒を呑んでいるせいか今晩はマリアンヌの口が軽い。 「髪型が軍人っぽくないもんな。何かは使えるんだろうと思ってたよ」 「とは言っても敵兵相手に使ったことはありません。盗掘者や密猟者を相手にすることがほとんどです」 「盗掘?」 クロードは国境地帯に大きな遺跡がある、という話を聞いたことがない。銃で武装した兵士がうろつく辺りで犯罪に手を染めるのは危険な上に大した利益も上がらないのではないだろうか。 「険しい土地こそ修行に相応しいと考えたセイロス旧教の聖職者たちが作った修道院がたくさんあるのだ。九世紀以上経てば全てに価値がある。外国の研究者や好事家が高い値を出すらしい」 「ローレンツたちって大変なんだな」 焚き火に照らされながらクロードがそう呟くと隣に座るローレンツが毛布の下で、ヒルダたちにはわからないようにそっと手を握ってきた。 「無事に戻れたら今聞いた話もきちんと忘れるんだぞ。いいな?」 冷たい空気を吸い込んでしまったせいか息が詰まる。クロードは物覚えが良い方だがそれでも記憶は褪せていく。スマートフォンが使えないことがこれほど悔しかったことはない。見たものの全てを、感じたことの全てを記録しておきたい。例え失ったもの実感するだけだとしても。 翌朝、無事に電車は復旧した。焚き火にあたって夜は過ごせたもののクロードはやはり外で眠る気にはならなかったらしい。彼は席に着いた途端に眠ってしまった。長い睫毛が褐色の肌に影を落としている。 「ちょっと寂しいね。そうでしょ?ローレンツくん」 「厄介払いが出来るならそれでいい」 ああいう野宿に慣れているローレンツたちはきちんと睡眠を取ったのでもう眠る気になれず、彼が起きない程度の声でゴネリルに着くまでずっと話していた。 十九時間遅れで到着したゴネリルは昼時だった。暗くなるまで時間を潰さねばならない。 「お昼は皆で一緒に食べようよ。すっごく美味しい店に連れてくからさ!」 それなら最後の夕食はクロードと二人きりで食べられる、ローレンツは反射的にそう思ってしまった。自分が今晩、何を失うのか全力で目を逸らさねばならない。 アミッド大河の河口にあるゴネリルは昔から漁業が盛んで海鮮料理が有名だ。大ぶりで新鮮な帆立やムール貝がこれでもかと出てくる店はヒルダの兄ホルストもお気に入りなのだという。魚市場のすぐ近くにあり清潔で味も良く値段も手頃だ。 「あーあ、やっぱり兄さんがいたら良かったなー!皆と会わせたかったよ」 レモンを搾って帆立にかけながらヒルダはそうぼやいたが、ホルストがいたらおそらくクロードは出国出来ない。 「そう言えばどこへ行けば良いのだろうか?」 「あっそうだね!もう教えておかなきゃ」 ローレンツはヒルダに耳打ちされた内容を一言一句間違うことのないように脳裏に刻み込んだ。埠頭、船の名前、船長の名前。夜の闇に紛れながら探さなくてはならない。海上で船から船へと渡って勝手に出国することを船渡りという。協力してくれる漁船の船長の為にも尻尾を掴まれるわけにいかない。ローレンツはクロードにも覚えてもらうため、一言一句間違いなく彼の耳元に薄い唇を寄せて囁いた。 「船の上では絶対にバル兄の言う通りにしてね」 ヒルダの視線がクロードが着ている黒いパーカーのポケットに刺さっている。クロードがフォドラに入り込んでしまって以来、ずっと電源をオフにしたままの無線機が入っているのだ。フォドラの領海内で電源を入れたら海軍の探索網に引っ掛かってしまう。確実に公海で電源を入れねばならない。クロードはひどく真面目な顔をして頷いてからこの店の人気メニューだという牡蠣を丸呑みにした。 「分かってる。協力してくれた皆には迷惑かけたくないんだ。失敗しなかった時のために今、皆に礼とお別れを言わせてくれ」 「ああ、クロードさん!そんな……寂しくなります 。女神のご加護があなたにありますように」 「元気でね。私も久しぶりに教会に行こうかな。クロードくん、無事に戻れるように祈ってるね」 ヒルダとマリアンヌはクロードのために右手で十字を描いた。セイロス正教の教えでは頭は知性、胸は感情、右肩は意志、左肩は希望を表す。フォドラに残るローレンツたちにはクロードの無事を確かめる術がない。きっとクロードは無事だ、という希望を持って日々を送るしかないのだ。テーブルの上を貝殻だらけにして楽しい食事は終わった。 クロードがいた痕跡は出来るだけ少ない方がいい。別れ際にローレンツはヒルダからあまり人がいない公園を教えてもらった。一応ゴネリルの街が見下ろせる景観が良いところ、ということになっているのだが電力事情の悪いフォドラでは夜景はまず見えないし、遊具がないので親子連れもいない。クロードとベンチに座ってくだらないことを話しながらぼんやりと時間を潰すのにちょうど良かった。寒がりなクロードに軍服を上着を貸してやったのに、それでも彼はローレンツにべたべたとくっついてくる。時の流れが早いのか遅いのかもう分からない。密かにローレンツが混乱し始めた頃に漁港の隣にある軍港から空砲が撃たれた。 「なんだ?!演習?」 「いや、単に時間を知らせているだけだ。漁港の近くで温かいものを食べて、完全に日が暮れるのを待ってから埠頭に行こう」 空砲のおかげで混乱がおさまったローレンツは着せてやった自分の軍服をクロードから取り上げた。ローレンツの方が肩幅もあり腕も長いので、クロードはパーカーの上から着込むことが出来る。クロードの体温が移った軍服はとても温かかった。今から数刻後にローレンツはこの温かさを永遠に失う。 フォドラでの最後の食事はローレンツの手料理ではなかった。ヒルダの提案内容からすれば当たり前の話だがなんとなく気に食わない。漁港のそばにある大衆食堂はローレンツが言うには値段の割に味が良いらしいが、パルミラにいた時と同じくうまく飲み込めなかった。 「どうした、緊張するのは分かるが僕はともかく君はこれから先長丁場になるのだぞ。食べられる時に食べておかねば」 「そうだな、心配かけてすまない」 公海に出たら漁船に積んであるボートに乗り換えて無線機の電源を入れる。ローレンツとはこの漁港でお別れだ。 「ボートに乗るところまでは着いていってやるから早く食べるのだ」 口に含んだスープが喉を通って胃まで下りていく。 「でもどうして」 「君が我が国にいる間は君を監視しないわけにいかないだろう」 普通なら照れて視線を外すところだがローレンツは真っ直ぐにこちらを見てくる。クロードの方が視線を外すしかなかった。暗くなった埠頭でヒルダの教えてくれた漁船を探す。 「なあこれも電力節約ってやつか?不便すぎないか?」 「そうだな、だが初めて感謝したかもしれない」 暗がりが警察や憲兵隊に見つかるわけにいかないクロードとローレンツを隠してくれる。瞬いて今にも消えそうな灯りをたった一つだけつけた漁船にようやく辿り着く。 「ヒルダに教えてもらいました。バルタザールさんですか?」 中からは筋骨隆々な黒髪の男が現れ無言で手のひらを差し出した。ローレンツが丸めてゴムで束ねたブリギットの紙幣と国際電話が出来る未使用のテレホンカードを渡すと男は顎をしゃくった。どうやら乗船しても構わないらしい。船は暗闇の中、音もなく発進し港の外に出た。 「ヒルダは元気か?」 「明日まではゴネリルにいますよ。会いに行くといい」 「海上統制をされて暇になったら顔を出すかな」 「よくあるのですか?」 「巡視長が変わったばっかりで法則が掴めねえんだ。念のために船倉に居てくれ。ああ、兄ちゃんは髪が長いのか……ちょっと待った」 そういうとバルタザールは小さなランタンと昔、自分が被っていたのであろう海軍のキャップをローレンツの頭に後前になるようにかぶせた。 「髪を上げて隠せ。分かるな?失敗した時のためだ。俺がこうやって把手を五回鳴らしたら失敗の合図だから憶えておけ」 ローレンツは合点が入ったのか、ため息をついてゴムで髪を束ねキャップに真っ直ぐな紫の髪を押し込んでいる。まるで初めて会った時のようで髪が長いとは分からない。梯子で船倉に降りるとクロードは小声で何故か顔が赤いローレンツに解説を求めた。 「これ何の意味があるんだよ」 「こら、大人しくするんだクロード!」 キャップをつつこうとすると本気で止められる。質屋の腕時計に加えて新たな謎がまた発生してしまった。 「そんなことより僕は君に言うべきことがある。もう残り時間が少ないからな。無事に帰宅出来たら家事を習え。こんなに何にも出来ない大人は生まれて初めて見た」 帰宅すれば使用人たちがなんでもやってくれることをどう説明したものか。口から生まれたような、と言われてきたクロードだがうまく言葉が出てこない。 「この先、君が一人になることが心配でたまらない」 心の底からクロードのことを心配してくれているからだ。 「だからせめて君がボートに乗り込むところまでは自分の目で確認したいのだ。そうすればこの先一生会えなくても後悔だけはしないで済む」 クロードがボートに乗ってしまえばフォドラに残るローレンツにはクロードの無事を確認する術がない。ローレンツは無意識に左肩をさすっていた。左肩の希望にすがって生きていくしかない。 「ありがとうローレンツ、俺のこと心配してくれて」 もう残り時間がない。死ぬまで直接告げる機会はないのかもしれない。言葉を続けようとしたその時、船倉の把手がかちかちと五回鳴らされた。細長い光が入り込み、扉の向こうで何があったのか知らせてくる。 「ぼろ船なもんで開けるのにコツが必要でしてね!お待ちください。海上統制があったなんて知りませんでした」 「近頃は船渡しで外国へ向かう者が増えたからな。船倉を検めさせてもらう」 「いや船渡しなんて大それたこと俺には出来ませんよ」 大袈裟に哀れみを乞うているのは顧客に情報を知らせるためでもあるのだろう。どうやらこの船はパルミラで言うところの沿岸警備隊かそれに類するもの、の巡回に引っかかってしまったらしい。クロードの正体が知れたら船を出してくれたバルタザールにも、一緒に乗船しているローレンツにも迷惑がかかってしまう。どうしたものかと必死で考え込んでいるとそれまで向かい合っていたローレンツが急にクロードに覆いかぶさってきた。白い手が頬を掴み薄い唇がクロードの下唇を挟んでくちゅくちゅと音を立てる。細長かった光が四角形になると見せつけるようなローレンツの動きが止まった。止まったが唇は離してくれないのでクロードは質問も異議申し立ても出来ない。 「俺に出来るのはせいぜい情熱的な恋人たちの逢瀬の場を提供するくらいでしてね。皆さんも若い頃、俺みたいな子悪党に小銭を恵んでやったでしょう?」 バルタザールが船に乗り込んだ男たちに堂々と嘘をつく。 「全く悪質な!さっさと岸に戻れ!最後までさせるな!」 だから海軍のキャップを被せたのか、とクロードにも合点が入った。そしてローレンツの考えるやりたい盛りの若い兵士、はあんな感じらしい。 バルタザールが自己申告した悪事は外国との物のやりとりも人の移動も伴わない些細な悪事なので取り締まる側も賄賂をたくさんは受け取れない。さっさと解放して別の船を探した方が賄賂で儲けることが出来る。 うまいことを考えたものだ。漁船に乗り込んできた男たちはもう自分たちの船に戻っている。バルタザールが危機を回避する知恵に感心したし謎は解けたが、これでクロードはどんなに早くてもあと一ヶ月半はパルミラに戻れないことが確定してしまった。畳む 小説,BL 2024/11/17(Sun)
#クロロレ #完売本 #現パロ #また会えようが、会えまいが
ヒルダの兄ホルストは海軍の軍人だ。兄の地位が高く有名人なので、彼女は兵舎村で士官学校時代と同じく天衣無縫に過ごしている。
彼女の故郷に行くのは初めてなマリアンヌとそもそもこちらで電車に乗るのが初めてなクロードが進行方向を向いて並んで座り、それぞれの向かいにヒルダとローレンツが座っていた。四人で座れるコンパートメントが取れたので少しは寛げる。深緑の軍服に囲まれ、一人私服を身につけて窓際に座るクロードは流れていく外の景色を眺めていた。よく磨かれたガラスに彼の顔が写り込んでいる。どこの何者なのか見る者に判断を委ねるしかない彼の瞳は溢れ出す好奇心のせいか、若草を濡らす露のように輝いていた。
フォドラの喉元に沿ってアミッド大河の河口へ向かうので景色も起伏に富んでいる。クロードはパルミラに戻れば二度とフォドラへ戻ることが出来ない。自分のいる土地が、母方の一族の故郷がどれほど美しいのか知って欲しいし覚えておいて欲しい。ローレンツはそう思っている。
「卵を茹でてきました……」
フォドラの人々が長距離列車に乗る際は必ず食べ物と飲み物を持ち込むし、停車駅でも買い足しておく。余ったら着いた先で食べるだけだ。電力事情が悪いのでいつ列車がいつ停車するか分からないし、自分たちもいつ空腹を覚えるのか分からない。乗客は列車の中でお湯が使えるようになっているがローレンツも念のため水筒に紅茶を淹れてきた。
「ありがとうマリアンヌさん。ヒルダさん、大佐はいらっしゃるのだろうか?」
「残念だけどまだ航海中なの。でも皆で帆立やムール貝たべたりしようね!」
軍を除隊したホルストの友人が漁師をしていて船を出してくれると言う。勿論そんな危うい話はコンパートメントに座っているとはいえ、いつ車掌が来るか分からない車内で出来るはずもなく当たり障りのない話をするしかなかった。
「イグナーツたちが一緒じゃないのは残念だな」
クロードがはっきりと彼の質問に否と答えてからは特に剣呑な雰囲気になっていない。合宿が終わって戻る頃にはクロードがこの村にいないかと思うと少し残念な気がする、と言ってイグナーツとレオニーはファーガス地方で行われる強化合宿へ向かった。合宿はとにかくきついがファーガスは雪質が良く、出される食事も豪華なので悪くないらしい。
「あと少し戦績が上がれば体育競技専門の部隊に転属出来る筈だが、二人ともその手前だから今が一番忙しい」
ローレンツは軍楽隊を避けている。従弟が事故死してからピアノの演奏自体辞めてしまった。だからこそイグナーツにもレオニーにも競技で成功して欲しい、と心の底から願っている。血管が震えて太陽とひとつになったような、そんな気持ちになるほど没頭できる何かがあるのは人生が祝福されている証拠だ。彼らからその熱が奪われてはならない。
「お二人には本当に成功して欲しいです」
クロードの向かいに座っているマリアンヌはそう言うと弁当や飲み物を置くための机でゆで卵を転がした。パリパリと殻にひびが入る音がする。力の加減を間違えてマリアンヌが卵を潰してしまうのではないか、とローレンツは冷や冷やしたがそんなことはなく薄茶色の殻に全体的にひびが入っていた。
「クロードさんもどうぞ」
ひびだらけの卵を剥くとマリアンヌは白く輝く茹で卵をクロードに手渡した。茶会の日にバターを塗る手つきが余程おぼつかなかったのか、彼女は完全にクロードを子供扱いすることにしたらしい。
「せめて塩が欲しい。何にも付けないで食べるのか?」
「もう味は付いています」
クロードはマリアンヌから受け取ったゆで卵を目の前でくるくると回し、塩の粒などがついていないことを確認すると一口かじった。驚いたのか目を見開いている。
「本当だ、塩味がついてる!どうやって?」
「茹で終わったら殻付きのまますぐに冷たい塩水につけて一晩置くと黄身にも味が付きます。私の一番の得意料理です」
「ああ!浸透圧を使うのか!懐かしいな。中学の理科で実験をやったよ!」
クロードは料理が全く出来ないせいかマリアンヌの得意料理、という発言をそのまま受け流していた。
「透明卵と塩水の実験か?」
「そう!それそれ!明かりで照らしながら揺らすと黄身が動くのが見えるんだよ」
食用の酢に卵を漬けておくとクエン酸が炭酸カルシウムで出来ている殻を溶かして薄い膜だけになり、中身が透けて見えるようになる。そうやって作った透明な卵を今度は塩水や真水に漬けて重さを測り、変化を記録していく。野生動物と同じく物理法則も国境線など関係ない。人間の思惑に左右されないのだ。
ローレンツも卵を軽く小さなテーブルの角で叩いて殻を剥いた。車内で食べる場合、半熟にすると黄身が垂れて面倒なことになる。固く茹でられているせいさ卵の黄身は色が薄い。得意料理というだけあって塩加減が丁度よかった。きちんと黄身にも塩味がついている。紙袋に殻をまとめローレンツが持参した紅茶を飲み終えてしまうともう、次の停車駅までやることがない。それぞれにうとうとし始めた時に車内放送が流れた。
「停電の為ここで十時間停車いたします」
クロードはローレンツに寄りかかって微睡んでいたが、眠気が一気に吹き飛んだ。窓の外には野原が広がるだけで見渡す限り何の建物もない。せめてどこかの駅に停車中ならそこから降りて、何か買えたかもしれないのにこんな中途半端なところで閉じ込められてしまうとは。
「うわあ、冗談は勘弁してって感じ」
「全くだ」
マリアンヌはまだヒルダに寄りかかって眠っているがローレンツとヒルダは目が覚めたらしい。不愉快そうにこめかみを押さえていた指を離し、ヒルダがマリアンヌの白い頬をつつく。
「こんなところで十時間も立ち往生だと?!」
「クロード、十時間で済むわけないだろう。明日の朝まで待たされるに決まっている」
「えっ早く見積もって十時間なのか?それなら今すぐ食堂車に食い物買いにいこうぜ!」
ローレンツやヒルダ、それに起こされたマリアンヌはうんざりしているようだが全く驚いていない。大あくびをしたマリアンヌがすみません、と言ってから窓の外を眺めた。
「ああ、来ましたね」
「来るって何がだ?」
クロードが窓に手をついて外を眺めると野原一面に何かを抱えた人がいて、一斉に車両に向かって走ってくる。
「物売りです……。外に出て薪と毛布を買いましょう」
「えっ?なんでだ?俺は乗ったままの方がいいと思うんだが」
こんなところで迂闊に降車して停電から復旧した時に電車に乗りそびれたらそれこそ詰んでしまう。
「クロード、君は気づいていないようだが暖房も止まっている」
ローレンツが足元を指差した。確かに先程まで足元に感じていた熱がない。クロードは手首を見て時間を確認し右手で顔を覆った。確かに日が暮れたらもっと寒くなる。外なら焚き火で暖を取れるのだ。通路は既に同じことを考えた者で溢れている。車掌なのか乗客なのか判らないがドアを開けた者がいるらしい。
皆、ホームでもないところから降りるのに慣れているのか車両からどんどん人が減っていく。フォドラへ迷い込んでしまってから信じられないこと続きだ。レディファーストということなのか、先に降りたヒルダとマリアンヌは一直線に物売り目指して駆け出している。
「梯子を下りるのと変わらない」
先に降りたローレンツがどう地面まで下りたものかと戸惑っているクロードに声をかけてきた。だが足で探ってみてもつま先を下ろす先がわからない。
「分かった、飛び降りてこい。受け止めてやるから」
痺れを切らしたローレンツはクロードのために両腕を広げた。まるで初めて会った時のようだ。クロードは向きを変えるために一度、車両内に戻りローレンツの方を向いてから躊躇せずに床を蹴った。あの時のように二人揃って地面に倒れ込む。ただあの時と違って衆人環視の場であるため流石にキスは出来ない。しかしローレンツの喉がひくりと動いたのをクロードは見てしまった。あの時の身勝手な自分なら気付かなかっただろう。
「下りろ、ヒルダさんたちを探すぞ」
ローレンツは起き上がると腰や背中についた雑草を叩いて落とした。辺りを歩き回っている物売りから食べ物や飲み物を買いながらヒルダたちを探して歩くが中々見つからない。遂に日が暮れ始めオレンジ色の光が辺りを照らしていく。焚き火をひとつひとつ回って、ようやく彼女たちと合流する頃には食べ物も飲み物も両手一杯になっていた。
「二人ともおそーい!」
「申し訳ない。まずはとうもろこしをどうぞ」
既に二人は火を起こし毛布を膝に掛けている。クロードも買っておいてもらった毛布を膝に掛けローレンツの隣に座った。どこの誰が茹でたのかわからないとうもろこしの皮を剥いてかぶりつく。甘くて美味しかった。クロードはそう感じる自分が信じられなかった。
「食べ終わったら皮と芯を燃やしてやろう」
「やっぱりファイアーが使える人が一緒だと便利よねえ」
それまで黙ってとうもろこしにかぶりついていたヒルダが二人分の芯と皮を足元にまとめた。
「僕をライターやマッチ扱いしないでくれたまえ」
「ヒルダとマリアンヌは何の魔法が使えるんだ?」
「私はブリザーでヒルダさんがサンダーです」
物売りから買った蒸留酒を呑んでいるせいか今晩はマリアンヌの口が軽い。
「髪型が軍人っぽくないもんな。何かは使えるんだろうと思ってたよ」
「とは言っても敵兵相手に使ったことはありません。盗掘者や密猟者を相手にすることがほとんどです」
「盗掘?」
クロードは国境地帯に大きな遺跡がある、という話を聞いたことがない。銃で武装した兵士がうろつく辺りで犯罪に手を染めるのは危険な上に大した利益も上がらないのではないだろうか。
「険しい土地こそ修行に相応しいと考えたセイロス旧教の聖職者たちが作った修道院がたくさんあるのだ。九世紀以上経てば全てに価値がある。外国の研究者や好事家が高い値を出すらしい」
「ローレンツたちって大変なんだな」
焚き火に照らされながらクロードがそう呟くと隣に座るローレンツが毛布の下で、ヒルダたちにはわからないようにそっと手を握ってきた。
「無事に戻れたら今聞いた話もきちんと忘れるんだぞ。いいな?」
冷たい空気を吸い込んでしまったせいか息が詰まる。クロードは物覚えが良い方だがそれでも記憶は褪せていく。スマートフォンが使えないことがこれほど悔しかったことはない。見たものの全てを、感じたことの全てを記録しておきたい。例え失ったもの実感するだけだとしても。
翌朝、無事に電車は復旧した。焚き火にあたって夜は過ごせたもののクロードはやはり外で眠る気にはならなかったらしい。彼は席に着いた途端に眠ってしまった。長い睫毛が褐色の肌に影を落としている。
「ちょっと寂しいね。そうでしょ?ローレンツくん」
「厄介払いが出来るならそれでいい」
ああいう野宿に慣れているローレンツたちはきちんと睡眠を取ったのでもう眠る気になれず、彼が起きない程度の声でゴネリルに着くまでずっと話していた。
十九時間遅れで到着したゴネリルは昼時だった。暗くなるまで時間を潰さねばならない。
「お昼は皆で一緒に食べようよ。すっごく美味しい店に連れてくからさ!」
それなら最後の夕食はクロードと二人きりで食べられる、ローレンツは反射的にそう思ってしまった。自分が今晩、何を失うのか全力で目を逸らさねばならない。
アミッド大河の河口にあるゴネリルは昔から漁業が盛んで海鮮料理が有名だ。大ぶりで新鮮な帆立やムール貝がこれでもかと出てくる店はヒルダの兄ホルストもお気に入りなのだという。魚市場のすぐ近くにあり清潔で味も良く値段も手頃だ。
「あーあ、やっぱり兄さんがいたら良かったなー!皆と会わせたかったよ」
レモンを搾って帆立にかけながらヒルダはそうぼやいたが、ホルストがいたらおそらくクロードは出国出来ない。
「そう言えばどこへ行けば良いのだろうか?」
「あっそうだね!もう教えておかなきゃ」
ローレンツはヒルダに耳打ちされた内容を一言一句間違うことのないように脳裏に刻み込んだ。埠頭、船の名前、船長の名前。夜の闇に紛れながら探さなくてはならない。海上で船から船へと渡って勝手に出国することを船渡りという。協力してくれる漁船の船長の為にも尻尾を掴まれるわけにいかない。ローレンツはクロードにも覚えてもらうため、一言一句間違いなく彼の耳元に薄い唇を寄せて囁いた。
「船の上では絶対にバル兄の言う通りにしてね」
ヒルダの視線がクロードが着ている黒いパーカーのポケットに刺さっている。クロードがフォドラに入り込んでしまって以来、ずっと電源をオフにしたままの無線機が入っているのだ。フォドラの領海内で電源を入れたら海軍の探索網に引っ掛かってしまう。確実に公海で電源を入れねばならない。クロードはひどく真面目な顔をして頷いてからこの店の人気メニューだという牡蠣を丸呑みにした。
「分かってる。協力してくれた皆には迷惑かけたくないんだ。失敗しなかった時のために今、皆に礼とお別れを言わせてくれ」
「ああ、クロードさん!そんな……寂しくなります
。女神のご加護があなたにありますように」
「元気でね。私も久しぶりに教会に行こうかな。クロードくん、無事に戻れるように祈ってるね」
ヒルダとマリアンヌはクロードのために右手で十字を描いた。セイロス正教の教えでは頭は知性、胸は感情、右肩は意志、左肩は希望を表す。フォドラに残るローレンツたちにはクロードの無事を確かめる術がない。きっとクロードは無事だ、という希望を持って日々を送るしかないのだ。テーブルの上を貝殻だらけにして楽しい食事は終わった。
クロードがいた痕跡は出来るだけ少ない方がいい。別れ際にローレンツはヒルダからあまり人がいない公園を教えてもらった。一応ゴネリルの街が見下ろせる景観が良いところ、ということになっているのだが電力事情の悪いフォドラでは夜景はまず見えないし、遊具がないので親子連れもいない。クロードとベンチに座ってくだらないことを話しながらぼんやりと時間を潰すのにちょうど良かった。寒がりなクロードに軍服を上着を貸してやったのに、それでも彼はローレンツにべたべたとくっついてくる。時の流れが早いのか遅いのかもう分からない。密かにローレンツが混乱し始めた頃に漁港の隣にある軍港から空砲が撃たれた。
「なんだ?!演習?」
「いや、単に時間を知らせているだけだ。漁港の近くで温かいものを食べて、完全に日が暮れるのを待ってから埠頭に行こう」
空砲のおかげで混乱がおさまったローレンツは着せてやった自分の軍服をクロードから取り上げた。ローレンツの方が肩幅もあり腕も長いので、クロードはパーカーの上から着込むことが出来る。クロードの体温が移った軍服はとても温かかった。今から数刻後にローレンツはこの温かさを永遠に失う。
フォドラでの最後の食事はローレンツの手料理ではなかった。ヒルダの提案内容からすれば当たり前の話だがなんとなく気に食わない。漁港のそばにある大衆食堂はローレンツが言うには値段の割に味が良いらしいが、パルミラにいた時と同じくうまく飲み込めなかった。
「どうした、緊張するのは分かるが僕はともかく君はこれから先長丁場になるのだぞ。食べられる時に食べておかねば」
「そうだな、心配かけてすまない」
公海に出たら漁船に積んであるボートに乗り換えて無線機の電源を入れる。ローレンツとはこの漁港でお別れだ。
「ボートに乗るところまでは着いていってやるから早く食べるのだ」
口に含んだスープが喉を通って胃まで下りていく。
「でもどうして」
「君が我が国にいる間は君を監視しないわけにいかないだろう」
普通なら照れて視線を外すところだがローレンツは真っ直ぐにこちらを見てくる。クロードの方が視線を外すしかなかった。暗くなった埠頭でヒルダの教えてくれた漁船を探す。
「なあこれも電力節約ってやつか?不便すぎないか?」
「そうだな、だが初めて感謝したかもしれない」
暗がりが警察や憲兵隊に見つかるわけにいかないクロードとローレンツを隠してくれる。瞬いて今にも消えそうな灯りをたった一つだけつけた漁船にようやく辿り着く。
「ヒルダに教えてもらいました。バルタザールさんですか?」
中からは筋骨隆々な黒髪の男が現れ無言で手のひらを差し出した。ローレンツが丸めてゴムで束ねたブリギットの紙幣と国際電話が出来る未使用のテレホンカードを渡すと男は顎をしゃくった。どうやら乗船しても構わないらしい。船は暗闇の中、音もなく発進し港の外に出た。
「ヒルダは元気か?」
「明日まではゴネリルにいますよ。会いに行くといい」
「海上統制をされて暇になったら顔を出すかな」
「よくあるのですか?」
「巡視長が変わったばっかりで法則が掴めねえんだ。念のために船倉に居てくれ。ああ、兄ちゃんは髪が長いのか……ちょっと待った」
そういうとバルタザールは小さなランタンと昔、自分が被っていたのであろう海軍のキャップをローレンツの頭に後前になるようにかぶせた。
「髪を上げて隠せ。分かるな?失敗した時のためだ。俺がこうやって把手を五回鳴らしたら失敗の合図だから憶えておけ」
ローレンツは合点が入ったのか、ため息をついてゴムで髪を束ねキャップに真っ直ぐな紫の髪を押し込んでいる。まるで初めて会った時のようで髪が長いとは分からない。梯子で船倉に降りるとクロードは小声で何故か顔が赤いローレンツに解説を求めた。
「これ何の意味があるんだよ」
「こら、大人しくするんだクロード!」
キャップをつつこうとすると本気で止められる。質屋の腕時計に加えて新たな謎がまた発生してしまった。
「そんなことより僕は君に言うべきことがある。もう残り時間が少ないからな。無事に帰宅出来たら家事を習え。こんなに何にも出来ない大人は生まれて初めて見た」
帰宅すれば使用人たちがなんでもやってくれることをどう説明したものか。口から生まれたような、と言われてきたクロードだがうまく言葉が出てこない。
「この先、君が一人になることが心配でたまらない」
心の底からクロードのことを心配してくれているからだ。
「だからせめて君がボートに乗り込むところまでは自分の目で確認したいのだ。そうすればこの先一生会えなくても後悔だけはしないで済む」
クロードがボートに乗ってしまえばフォドラに残るローレンツにはクロードの無事を確認する術がない。ローレンツは無意識に左肩をさすっていた。左肩の希望にすがって生きていくしかない。
「ありがとうローレンツ、俺のこと心配してくれて」
もう残り時間がない。死ぬまで直接告げる機会はないのかもしれない。言葉を続けようとしたその時、船倉の把手がかちかちと五回鳴らされた。細長い光が入り込み、扉の向こうで何があったのか知らせてくる。
「ぼろ船なもんで開けるのにコツが必要でしてね!お待ちください。海上統制があったなんて知りませんでした」
「近頃は船渡しで外国へ向かう者が増えたからな。船倉を検めさせてもらう」
「いや船渡しなんて大それたこと俺には出来ませんよ」
大袈裟に哀れみを乞うているのは顧客に情報を知らせるためでもあるのだろう。どうやらこの船はパルミラで言うところの沿岸警備隊かそれに類するもの、の巡回に引っかかってしまったらしい。クロードの正体が知れたら船を出してくれたバルタザールにも、一緒に乗船しているローレンツにも迷惑がかかってしまう。どうしたものかと必死で考え込んでいるとそれまで向かい合っていたローレンツが急にクロードに覆いかぶさってきた。白い手が頬を掴み薄い唇がクロードの下唇を挟んでくちゅくちゅと音を立てる。細長かった光が四角形になると見せつけるようなローレンツの動きが止まった。止まったが唇は離してくれないのでクロードは質問も異議申し立ても出来ない。
「俺に出来るのはせいぜい情熱的な恋人たちの逢瀬の場を提供するくらいでしてね。皆さんも若い頃、俺みたいな子悪党に小銭を恵んでやったでしょう?」
バルタザールが船に乗り込んだ男たちに堂々と嘘をつく。
「全く悪質な!さっさと岸に戻れ!最後までさせるな!」
だから海軍のキャップを被せたのか、とクロードにも合点が入った。そしてローレンツの考えるやりたい盛りの若い兵士、はあんな感じらしい。
バルタザールが自己申告した悪事は外国との物のやりとりも人の移動も伴わない些細な悪事なので取り締まる側も賄賂をたくさんは受け取れない。さっさと解放して別の船を探した方が賄賂で儲けることが出来る。
うまいことを考えたものだ。漁船に乗り込んできた男たちはもう自分たちの船に戻っている。バルタザールが危機を回避する知恵に感心したし謎は解けたが、これでクロードはどんなに早くてもあと一ヶ月半はパルミラに戻れないことが確定してしまった。畳む