-horreum-倉庫

雑多です。
「また会えようが、会えまいが」10.真相
#クロロレ #完売本 #現パロ #また会えようが、会えまいが

 ある日、いつもは飄々としているクロードが些か強張った顔で家主を出迎えた。目は泳ぎ本当に落ち着きを欠いている。ローレンツは脱いだ軍服の上着をハンガーにかけ、まずは目つきで問い詰めた。
「何をやらかした」
 次に言葉でも問いただす。
「こんなもんを見つけてな……」
 きっとパルミラで見かけたならば彼は歯牙にも掛けなかっただろう。褐色の指がメモリーカードを摘んでいる。くしゃみをすればどこかに飛んでいってしまいそうな大きさで、敢えて言うなら女性の小指の爪くらいだろうか。よくデジカメや携帯ゲーム機に入っているものだ。だがフォドラではどちらも持っている者は限定される。ローレンツもブリギットにいる時しか触った事がない。今この村には個人的にデジカメや携帯ゲーム機を持っている者は居ないだろう。ノートパソコンやデジカメは軍の備品で、それに付随するメモリーカードも軍の備品だ。
「どこで見つけた」
「市場で買ったもんの中に混ざってたんだよ。なあローレンツ、中身見られるもん持ってるか?」
 せめてデジカメがあれば中に入っているもの、が画像や動画なのかそれ以外であるかくらいは確認が出来る。ローレンツはあらぬ誤解を避ける為、ブリギットで使っていたデジカメを実家に置きっぱなしにしている。それがこんな風に兵舎村での暮らしに影響するとは思わなかった。
「買ったもの、とはどう言うことだ?」
「いやそんなことに拘ってどうするんだ?果物より中身の種の方がこの場合は問題だろ」
「ここはフォドラの辺境だぞ。個人宅にあるわけがない。中身はオフィスで確認するしかないだろうな」
 軍のオフィスにあるノートパソコンならスロットが付いている。軍専用ネットワークへの接続を切った状態にしてメモリーカードを読み込ませれば良い。
「軍のパソコンもすげえ古そう。読み込めるのかな」
「馬鹿にしないでくれたまえ。これは僕が預かる」
 クロードは摘んでいたメモリーカードを白いハンカチに包んで寄越してきた。一番温和な中身は誰かのデジカメデータだが、それにしても何故クロードが買った物の中に紛れ込んでいたのか分からない。だがローレンツはクロードのおかげで従弟の遺品にまつわる謎を久々に思い出せた。叔父の家には息子の遺品としてブリギットでローレンツが買ってやったデジカメが飾ってある。
 従弟の死後、ローレンツは彼を偲ぶ為に中の写真を現像しようとしたのだがメモリーカードが入っていなかった。あの機種は本体にハードディスクが搭載されていない。機械に疎い親族たちには壊れているとかなんとかいって誤魔化したが、思えばあの時からローレンツは従弟の死を訝しむようになったのだ。
 翌日、ローレンツはイグナーツの助言通り、ノートパソコンがネットワークに繋がらなくなった体でルーターの電源を落とすことにした。レオニーもさりげなく配線の点検をするために色々とどかした風に装ってドアの近くにバリケードもどきを作ってくれている。
「皆、申し訳ないがルーターを再起動させて貰うよ」
「あの……プリンターは使えますか?」
「どうだろうか、イグナーツくん」
「ケーブルで繋げてあるのでそれは大丈夫です」
「分かりました。ではこちらは気にせずに作業を続けさせていただきます……」
 前後に会話がないと不自然なのでマリアンヌやイグナーツに茶番に付き合って貰った。イグナーツが画面に映し出された接続なし、という表示を確認し親指を立てたのでローレンツはノートパソコンのスロットにクロードから渡されたメモリーカードを差し込んだ。物理的に壊れていなければ中を確認できるだろう。微かな駆動音を聞きながらローレンツがマウスを何度かクリックしフォルダの中身をざっと確認する。
 中からは軍用トラックの写真と整備用パーツの在庫管理データ、整備記録それに何かの帳簿が現れた。軍用トラックの写真はフロント部分に見慣れない装甲パーツが付いている。新しく開発中のものなのかもしれない。メモリーカードの中身はどう見ても個人の持ち物ではなさそうだった。整備部の備品が流出したのだろうか。急いで印刷し再びルーターの電源を入れ直す。再び画面に接続あり、と言う表示が映し出された。
「どうやら再起動だけで何とかなったようだ。面倒をかけてすまなかったねイグナーツくん」
 プリンターのデータが上書きされるようにマリアンヌが先週作った報告書をプリントアウトした。メモリーカードを紛失したと言うことで整備部内部では騒ぎが起きているかもしれない。ローレンツもクロードを匿っている身だ。内々に渡して穏便に済ませてやるのはやぶさかではないが精査する必要がある。このメモリーカードが従弟の事故に関する情報を引き出す材料となったらクロードを誉めてやらねばならない。
 ローレンツはクリップでプリントアウトした紙を束ねてデスクの引き出しに隠した。以前、何者かに盗み見されたであろうメモ帳も含めて自宅に持ち帰るつもりだ。
「本当に何ともなくてよかったね、ローレンツくん!さあ皆で年越し前に書類ぜーんぶ片付けちゃお!」
 そう言ってヒルダが手を叩くとどこか異様だったオフィス内の雰囲気がいつもの和気藹々としたものに戻っていった。配線の点検を装ったおかげで溜まった埃も掃除することができたのは予想外の成果と言えるだろう。

 ローレンツが持っていても不自然ではないもの、を新年の贈り物として渡してから去ろう、クロードは元からそう思っていた。そんな訳でピアスを質入れした金で、質流れしていた自社製品を買ったのだが放置されていたことがどうしても気になる。
 試しに腕に嵌めてみるとやはり違和感を覚えた。以来、ずっと渡す前にオーバーホールしようと思っていたが、なかなか精密作業用の工具が手に入らない。密かに焦っていたが今日、クロードはようやく精密作業用の工具を手に入れることができた。左右の順もあやふやだが、感謝の十字を切るべきかもしれない。
 そして違和感の正体はクロードが本体であるムーブメントをケースから外した瞬間に判明した。中に何故かメモリーカードが入っている。ピンセットで慎重につまんで剥がしたが、当然メモリーカードの中身は分からない。こんな隠し方をするのだから秘密にせねばならないもの、に決まっている。
 ローレンツは中身を確かめる、と言ってメモリーカードを軍のオフィスに持っていってしまった。あのお人好しの彼がどうやって周囲を誤魔化しながら中身を確認するのだろう。
 余計なものを外した結果、手首に感じた微かな違和感はなくなった。こんな曰く付きのものをローレンツの元に戻していくのは良くない。良くないのだがクロードはこれでもパルミラに戻ればセレブの一員で、周りから混血だ遊び人だ、と様々な陰口を叩かれてきたが吝嗇家とだけは言われたことがない。そんなクロードにとってこの兵舎村の市場で売っているものはこの時計以外、全て記念の贈り物にならないほど安っぽいのだ。ローレンツの身の安全を守るため愛の言葉を書き残していくことも叶わない。
 生涯でただ一度の贈り物だ。
 やはりダグザ製の安物などで済ませることなど出来なかった。
 クロードは想像の中でローレンツの手首を握った。男としては悔しいが本当に彼はいい体をしているので、ベルトをもう少し伸ばした方がいいだろう。ピンを抜き金属のベルトを引っ張って長さを確保する。家事以外の細かい作業はクロードにとって全く苦ではなかった。作業を終えたクロードを落日が赤く照らす。年末が近いせいか随分と日が短くなってきた。また停電になるかもしれないがそれでも居間の電気を付けておく。
 実母はそのうち迎えに来ると言って本家にクロードを置いていった。クロードは最初の一年間は毎日実母が来るのを待っていて、自分の居場所が分かりやすいように暗くなればすぐに部屋の灯りをつけ、寝る時も自室のカーテンを閉めなかった。結局、願いは叶わずに育っているのでクロードは待たされるのが好きではない。
 防寒対策を兼ねているやたら分厚いカーテンを閉めていると買い物袋の音を立てながらローレンツが帰ってきた。カーテンの隙間から彼が庭の食料貯蔵庫を漁っているのが見える。
「今日はひき肉とトマトの缶詰を買ってきた。炒めてブリヌイに包んで食べよう」
「包むのやってみたい」
「……自分の分だけにしたまえ」
 手際よく玉ねぎと人参をみじん切りにしたローレンツはひき肉をバターで炒めるとそこにトマトの缶詰を開けて煮始めた。その間にブリヌイの生地を作って焼くのだろう。
「いつも思うんだけど面倒臭くないのか?俺、市場で食い物売ってるのたくさん見たぞ」
 食べ物の屋台も出ているのだ。クロードなら絶対に屋台で食べてから帰宅する。買って帰らないのは洗い物が面倒だからだ。そしてどうしても、という場合に備えて缶詰をストックしておく。
「面倒だと言って家の中でも靴を履いたまま暮らす国があるが、僕は出入りのたびに靴を脱ぐのが面倒だと思ったことはない」
 靴を履いたまま過ごすのはローレンツが留学していたブリギットの習慣だ。そしてきっとブリギットの食事が口に合わなかったのだろう。温暖な気候で果物が美味しいのだがソースがとにかく甘い。現在の彼は手際よく焼けたブリヌイを皿の上に重ねていくが学生時代にはブリヌイを焦がしたことがあるのかもしれない。深皿いっぱいの炒めたひき肉と別皿によそったスメタナ、それと山のように焼いたブリヌイが今日の夕食だ。
「俺も料理に慣れる日が来るのかねえ……」
 クロードはスプーンでブリヌイにトマト味のひき肉を乗せて包んでみたが分量を間違えたのか生地が破けてしまった。やはり経験値が足りていない。
「僕だって大学で親元を出るまでは何も出来なかった。必要に迫られれば人間どうとでもなるものだ」
「必要に迫られれば、ねえ……それでメモリーカードの件はどうにかなったのか?」
 ローレンツはトマト味のひき肉にスメタナを少し乗せて包んだが、慣れているのか生地は破けず綺麗な筒状になっている。
「個人の持ち物ではなさそうだった。中身は印刷してきたから今晩精査する」
 きっと必要に迫られどうにかして軍のネットワークから自分の端末とプリンターを切り離しその隙に中身を見て印刷したのだ。
「俺も見たい」
「駄目だ。どうやら軍関係の物のようでね。無くした部署に穏便な形で戻してやりたい」
「親切心からか?」
 クロードがにやにや笑いながら聞くとローレンツはすました顔で口を拭いた。
「もちろん見返りが目当てに決まっているだろう」

 クロードをさっさと寝室に追いやったローレンツは今晩は停電がありませんように、と女神に祈り右手で十字を描くと居間で印刷してきた紙の束をじっくりと眺め始めた。異様な装甲の軍用トラックはどうやら数台あるらしい。実戦配備前のテスト車両なのだろうかと思いながらローレンツは整備記録を眺めた。日付を見るにローレンツがブリギットにいた頃の物らしい。しかし従弟の死後、兵舎村や前線基地付近での交通事故について調べてまわったローレンツにとって見覚えのある日付ばかりだった。
 巻き付けてあるゴムバンドを慌てて外し、メモ帳を捲っていけばローレンツが怪しいと感じた死亡事故の翌日に必ずこの装甲をつけたトラックが整備されていることがわかった。残念ながら従弟が亡くなる直前で記録は途切れている。どうやらあの装甲はダグザ製らしい。そして事は整備部だけではおさまらない、と分かってきた。不審な事故はどれも憲兵隊が関係している。皆、憲兵隊へ行こうとする途中で亡くなっていた。口封じのためだろうか。
 これはどこかの部隊の備品などではない。告発するための資料だ。憲兵隊へ知られては困るから起きた事故なのか、それとも憲兵隊が起こした事故なのか。その答えを知るためにローレンツは帳簿を必死になって読み始めた。
 非武装地帯には今もなお放棄された修道院や民家が点在している。現在の目線で見れば不便で辺鄙な土地だがコンクリートの舗装道路も電気もガスも水道もなかった時代の人々からすれば訳が違う。山の恵みは豊かで燃料も食材も水も手に入れやすい。都市部の貧困層などより遥かに豊かに暮らしていたのだ。ローレンツたちもフォドラ側に残っているいくつかの建屋を立哨の際は休憩場所として使わせてもらっている。帳簿に記されていた建屋は全て心当たりがあった。点在するいくつかの修道院にレスター諸侯同盟時代の軍資金が蓄えられている、という与太話はローレンツも聞いたことがある。実際にゴネリルでは貴石が採れることもあり、その与太話を信じて盗掘にくる者が確かに存在するのだ。
 だが二キロ東に行けば敵国パルミラ、という土地にそんな大事なものを隠しておくだろうかと思ったのでローレンツは軍資金に関しては話半分にしか聞いていない。まともな大人ならそう判断する。ところが事実は小説よりも奇なり、だ。どうやら換金できる価値があるもの、は出土したらしい。本来なら首都アンヴァルの科学アカデミーに報告し考古学者たちが発掘するべきだ。人類の宝として博物館に収められるべき貴重な品が闇から闇へと流れている。
 ローレンツはすっかり冷めてしまった紅茶に口をつけた。どこへこの資料を提出し盗掘者のグループを告発するにしても、このメモリーカードをどこで手に入れたのかクロードから聞き出さねばならない。元の持ち主はそのグループの一員なのか、告発しようとして丹念に情報をまとめたのかを見極める必要がある。首筋を少し揉み肩を軽く回してからローレンツは寝室に向かった。
「クロード、起きているか?」
 何が出てくるのか気になってクロードも寝付けなかったらしい。部屋は暗くしてあったが小玉電球が付いていた。
「起きてるよ。中身はなんだった?」
「かなり厄介な代物だ。僕はこれから重大な告発をすることになるのかもしれない。あれはどこに紛れ込んでいたのだ?」
 横たわったままのクロードがローレンツの言葉を聞いて身体を起こした。
「出所が確かでなかったら怪文書だもんな。電気つけてくれるか?」
 褐色の手が自分の洋服を入れてある袋をベッドの上に置いた。クロードはがさごそと中を漁り始めローレンツの買ってやった服とローレンツの買ってやった服の間から小さな箱を取り出した。メモリーカードはあの箱に入っていたのだろうか。クロードがその箱を開けると中から腕時計が出てきた。緑のフェースに逆回転防止ベゼルがついていて文字盤と長針短針の先に夜光塗料が塗ってある。ローレンツがブリギットの免税店で軍務に就く従弟のために買ったものだ。ブリギット以外では買えない記念になるような、アウトドア用で暗がりでも時刻が見えるものが良いと言って店員に見繕ってもらった覚えがある。
「それを……どこで?」
「質屋だよ」
「嘘だ。この家ではないのか?」
「そんなの新年の贈り物にならないだろうが!市場の質屋で見つけたんだよ。質流れ品だ」
 クロードは混乱し、立ち尽くしているローレンツを隣に座らせ右手に時計をはめた。
「ああ、やっぱりベルトを伸ばして正解だったな。渡す前にオーバーホールしたんだよ。その時に中に入ってたメモリーカードを見つけたんだ」
「どうしてそんなことを!僕は君に何も書き残すなと言ったんだぞ……」
 ローレンツはどう感情を処理すれば良いのかもう分からなくなってしまった。メモリーカードが従弟の物ならば彼はやはり交通事故を装って殺されたのだ。腕時計と同じくローレンツがあげたデジタルカメラの中にメモリーカードを入れていたが、軍務中の家探しを恐れて腕時計の中に隠し持っていたのだろう。そしてその腕時計を守るために質入れした。ローレンツは従弟が搬送先の病院で盗難にあったから腕時計をつけていないのだと思い込んでいて、誰にも確かめなかった。
「俺はまだ何が何だかちっともわからないよ。話せるか?」

 ローレンツは泣きながらクロードに色んな話をしてくれた。五歳下の従弟もグロスタールの紋章を持ち、共にピアノを習っていたから兄弟のように仲が良かったこと、ローレンツがブリギットの王立音楽アカデミーに留学できるように従弟が軍に入ったこと、従弟がリシテアと婚約したこと、その最愛の従弟が軍務中に交通事故で死んでしまったこと。
 ヒルダはローレンツが留学を切り上げて入った士官学校の同期で彼女もゴネリルの紋章を持っている。それもあって意気投合した。従弟の代わりに国境警備隊に配属されてしばらく過ごすうちにローレンツはこの国境付近の基地近辺でおかしな交通事故が頻発していることに気づいたがヒルダも含めて皆よくあること、と言って取り合ってくれなかったらしい。
「従弟もこの家に住んでいた。小隊長の宿舎はここ、と決まっているから」
 クロードは大きなため息をついた。洋服や本はともかく家具や皿は従弟が使っていた物をそのまま使っているのかもしれない。だからローレンツは真っ先に時計がこの家にあったのではないか、とクロードに問うたのだ。これがフォドラ連邦が抱える問題点の原点だ。個人を大切にしない。勿論パルミラ王国も人のことは言えるほど立派ではない。皆の自我が肥大しすぎているせいで揉めごとばかり起きる。それでも個人の意志というものが尊重される分だけパルミラの方がずっと人道的だ。
 従弟が死んで、代わりになれと言われたローレンツは従弟の婚約者と住んでいた家を宛てがわれ、軍に空いた穴を埋めるように命じられた。なんと無神経なのだろうか。
「俺ならそれだけで落ち込みそう。あの奥方連中はローレンツの従弟のこと知らないのか?」
「兵士はともかく士官は人事異動が激しいからな。彼女たちはまだ三年くらいしかこの村に住んでいない。僕もまだ二年目だ」
 三代前から住んでいてなんでも知り尽くしているような顔をした人民委員や大隊長夫人がこの兵舎村に三年くらいしか住んでいない、というのはクロードにとって驚きだった。
「いやでも皆お互いにすげえ細かい昔のことまで知ってるぜ?!遠い親戚のこととか!」
「クロード、彼女たちは生まれながらの情報分析官だぞ」
 クロードはローレンツの言葉を聞いて、リシテアの件を哀れだと思った彼女たちから昼酒に誘われた時にうまく逃げ切れていたのかどうか自信がなくなってきた。寒さのせいか皆信じられないほど強く濃い酒が好きで割らずに飲む。現在国境を守っている夫たちに対して忌憚のない意見を述べている様は聞いているだけで男として心臓が凍りそうになる。それでも年が明けたら帰ってくる夫を喜ばせる為に新しい男物の服や酒や煙草を買っていたのだから話半分で聞いておくべきなのだろう。
「広報官でもあるな?なあ、握りつぶされないように噂を流すべきだ。あり得ないくらいベタな奴だよ。殺された従弟の復讐をするために国境警備隊に入った、とかな」
 ローレンツは大きな音を立てて鼻をかんでからクロードの顔を真っ直ぐに見つめた。鼻の頭だけでなく頬も目も赤くなっている。ハンカチを掴みっぱなしの白い手に緑のフェースとホワイトゴールドのメタルバンドがよく映えていた。
「それは事実ではない……単なる従弟の穴埋め要員だぞ僕は」
 クロードはフォドラの歴史に疎い。しかしエーデルガルト大帝が兄弟姉妹を害したアガルタ人も、その時に手を差し伸べてくれなかったセイロス旧教も許さなかったことによってフォドラ文化が大きな変容を遂げたことを知っている。フォドラにおいて復讐は正義なのだ。
「でもこれで犯人が逮捕されたら結果としてはそうなるじゃないか。それに無視されるよりずっとマシだろ」
 クロードは実母からあなたのためを思ってと言う体で縁を切られ、本家の者たちとも上手くいかなかったがローレンツは違う。家族関係が良好な彼は絶対に復讐を求めている。
「まずは地元の憲兵隊に従弟が持っていた資料を提出して捜査を依頼するさ」
 よほど不満げな表情を浮かべていたのか、ローレンツがクロードの肩に寄りかかりながら抱きついてきた。
「騒乱罪に問われたら無罪にならない限り死刑だし本気で取り調べを受けるのだぞ。噂の出元になるのは止めてくれ。君にお礼を言うこともできなくなる」
 クロードはローレンツの手をとって彼を自分の上に引き倒した。顔を見られたくないのはもうお見通しだ。見えなくても彼がどんな顔をしているのかクロードには分かる。自分のことは棚に上げてクロードのことを心配している顔だ。広い背中に腕を回し、そっと撫で上げてから首の後ろを軽く叩いた。これまでずっと子供扱い、被保護者扱いをされていたがようやくローレンツの役に立てた気がする。
 ローレンツには否定されたが彼の従弟は誰にも言わなかったから口封じのために殺されたのだ。クロードはレオニーとイグナーツに頭を下げてローレンツの付き添いをしてもらうことに決めた。二人は強化選手で地元の有名人だからだ。畳む
「また会えようが、会えまいが」11.輸血
#クロロレ #完売本 #現パロ #また会えようが、会えまいが

 クロードの温もりが全身に伝わってくる。従弟を失って凍りついていたローレンツの心は彼が首飾りを越えなければ溶けなかった。皆ローレンツのことを気にかけてくれたのに誰も愛さず、あんなに愛したピアノすらも遠ざけて暮らした。どれだけ自分を罰してもローレンツの気が晴れることはなかったのに今は違う。何の鮮やかさもない世界にクロードが文字通り落っこちてきた。
 些細なことにいちいち驚く彼のおかげでローレンツは自分がどれほど恵まれているのか実感出来た。自分はまだ生きている。両耳は音をとらえ譜面を読む目があり、軍務について数年経つのに十指は無事でフットペダルを踏む足もある。それにクロードとセックスだって出来てしまった。
「メモリーカードの原本はどうする気だ?」
 クロードがローレンツを抱きしめながら問うた。原本は接着剤の跡が生々しく、命を落とした一人目の告発者がどれほど追い詰められていたのかを雄弁に語る。捜査関係者の心にも検事や裁判官の心にも強く訴えかけるだろう。
 まるで子供をあやしているような低く優しい声だったがクロードの問い自体は重要だった。慎重に行動せねばならない。
「原本は憲兵隊に提出するがその前に何枚かメモリーカードを買ってオフィスでコピーしてからアンヴァルの紋章管理局にも渡す」
 紋章管理局は貴重な紋章保持者が殺害されたと知ったら怒り狂って憲兵隊に圧力を掛けるだろう。ローレンツは無神経な彼らから酷い扱いを受けたが、彼らの持つ力を利用しないという選択肢はなかった。
「市場で売ってるのか?」
「流石にガルグ=マクに行かないと無理だ」
 年が明けたらクロードは東側に帰ってしまい二度とフォドラに来ることはない。ローレンツは身体を起こしクロードの耳元に口を寄せた。うちあけ話でもするかのような小さな声で囁く。
「君にガルグ=マクやアンヴァルを見せてやりたい」
 ローレンツだってパルミラで白フォドラ人がどういう立場なのかは知っているのだ。壮麗なガルグ=マク中央駅やローレンツがコンクールに参加する為しょっちゅう行っていたアンヴァルの劇場を見せて、クロードにルーツの偉大さを実感させてやりたい。残念ながらそんなことはできないので、クロードはフォドラを巨大な田舎だと誤解したままパルミラに帰るだろう。
「行くならローレンツの故郷が良いな。それと俺も砂漠に沈む夕陽を見せてやりたい」
 予想外のことを言われたローレンツは驚いてクロードを見つめた。従弟と共に子供時代を過ごした家にも軍務を理由にあまり顔を出していない。ローレンツの故郷は畜産が盛んな土地で、故郷にいた頃は週に一度は牛肉を食べていた。そんなことも久しぶりに思い出した。緑色の瞳が細められ口の端は上がっている。褐色の手が再びローレンツの頭を抱え込んだのでまたクロードがどんな顔をしているのか見えなくなってしまった。
「なあ、頼むから一人きりにならないでくれ」
 事故を装って従弟を殺したような連中が相手なのだから慎重に行動すべきと言うクロードの意見は正しい。ローレンツの真っ直ぐな紫の髪をかき分け、褐色の手が緊張で凝り固まった首の後ろをやさしくさすった。クロードの手の形に首が温まっていく。もう意地を張るのには疲れてしまった。瞼を閉じたまま素直にクロードの提案を受け入れる。
「ん、そうだな。皆と手分けして提出するつもりだが皆にも単独行動は控えるように言わねば」
 ガルグ=マクでの度重なる陳情でローレンツは従弟を殺した何者かに目をつけられている。紋章保持者であるヒルダとマリアンヌにアンヴァルの紋章管理局へ出向いてもらい、ローレンツが憲兵隊に出向く際はイグナーツかレオニーに同伴して貰うべきなのかもしれない。
「素直でよろしい。俺、お前の部下たちにもずっと幸せでいて欲しいんだよ」
 その為には身を切られるような思いをしても必ず確実にクロードをパルミラへ帰してやらねばならない。不法入国者がどんな扱いを受けるのか分かっているローレンツはクロードを思わず抱きしめた。このままこの村で二人慎ましやかに暮らせたらどんなに幸せだろうかと思う。その為ならピアノを手放したままでも一向に構わない。
 だがクロードの母国であるパルミラ王国とフォドラ連邦は休戦中でしかないのだ。国交もなくアンヴァルの革命政府に彼の事を知られたら、きっとスパイとして扱われ殺されてしまう。匿っていたローレンツたちもただでは済まない。クロードが自分の国に殺されてしまうより手放す方がずっとましだ。
 頭では分かっていても身を切られるように辛い。自由で華やかな世界を知るクロードはどうだろうか。国境を越えて再びパルミラに戻るまで生き残る為にローレンツを籠絡したのだ、とパルミラの口さがない者たちは言うだろう。それでも口を閉ざすしかない。
「クロードは優しいな」
 悲しい考えを断ち切る為、わざとローレンツはつぶやいた。
「ローレンツはやらしい」
「はあっ?!なんだそれは!」
 間髪入れずにクロードがまぜっ返してくる。油断しきっていたせいか、ローレンツは身体の位置をあっさりクロードにひっくり返された。緑色の瞳に見つめられるとそれだけで冷え切っていた身体が熱くなる。だがクロードを受け入れるともっと熱くなることをローレンツはもう知っている。

 人間は未来を知ることができない。半年前の自分に今年の年末年始はフォドラだ、と言っても絶対に信じなかったはずだ。それはあまりに荒唐無稽だからであって半年前のクロードに落ち度はない。だが一週間前の自分には落ち度がある。パルミラにいた頃フォドラ連邦の恐怖政治に関する記事を他人事として面白おかしく読んでいたし、先日泣いていたローレンツを慰めたばかりだと言うのに考えもしなかった。
「中尉が撃たれた!イグナーツと市立病院にいる!」
 バイクのエンジン音がしてレオニーが庭で洗濯物を取り込んでいたクロードのところへ駆け込んできた。腕を引っ張られる。
「お前らが付いてたのに撃ってきたのか?」
「ああもう、いいから!寝巻きとタオルをありったけ持ってこい!しっかり掴まって!!」
 クロードはヘルメットも被らずにレオニーに言われるがまま、袋に寝巻きとタオルなど必要そうなものを詰めバイクの後ろに乗り込んだ。ローレンツの容態が心配だからなのか悪路を猛スピードで駆け抜けたからなのか分からない。とにかく内臓がひっくり返ったような心地のまま病院に駆け込む。入り口には血まみれのイグナーツが待っていて険しい表情をしたままレオニーに話しかけてきた。
「応急処置は済みました。ヒルダさんとマリアンヌさんが乗った特急はまだアンヴァルに着いていない筈です。行けますか?」
「分かった。迎えに行ってくる。中尉がそれまで堪えてくれたらいいんだが……」
 クロードは踵を返し外へ行こうとしたレオニーの肩を掴んだ。
「待て待て待て何のことだ?!」
 イグナーツとレオニーが何を言っているのか全く分からない。いや、理解したくなかった。
「身体に入った弾丸の摘出手術をするのに血が要るんです。基本こちらでは血も薬も患者が用意します」
 処置をせず、治癒魔法で銃創をいきなり治すと身体に銃の弾が残ってしまう。近頃の銃弾は致傷率を上げるため有毒物質を含んでいることも多く、治癒魔法をかけるにしても摘出した後でなければならない。
「軍人は軍病院が麻酔も何もかも一揃え、まとめて優先的に売ってくれるから助かりやすいんだよ。これでも」
「僕はとりあえずこちらにはない、と医師に言われた薬を軍病院で買ってきます。ヒルダさんたちが来るまで中尉が頑張ってくれたら摘出手術が出来て、すぐに回復魔法が使えるのですが……」
「血って……軍病院にないのか?」
 イグナーツがため息をついた。小さく首を横に振りクロードと目を合わせようとしない。
「中尉は紋章保持者なので輸血に制限があります」
 クロードが言いたかったのはそう言うことではない。クロードも本家に引き取られてから半年に一度は自己採血をしている。そうやって事故や災害、病気に備えているのだ。フォドラの社会基盤は貧弱すぎる。紋章保持者が貴重な社会に欠かせない戦力だと言うならばもっと丁重に扱うべきだ。
「だからヒルダかマリアンヌを早く連れてこないといけないんだよ!もう良いか?急がないと助けられない!」
「なんだ、あいつら輸血用に同じ部隊にされてるのか?レオニーそれなら行かなくていい!俺はO型のcrest+だ」
「はあ?!だってクロードは」
 イグナーツが慌ててレオニーの口を押さえた。五十メートル先の標的を撃ち抜く白い掌にパルミラ人なんだろ?と言う言葉が吸い込まれていく。
 crest+は紋章保持者特有の血液型だ。医学書にもフォドラ特有、と書かれている。眼鏡の青年が気を利かせなければ衆人環視の場でクロードの正体がばれるところだった。洗礼名以外知りたくない、と言ったローレンツに感謝せねばならない。
 褐色の腕に針が刺さる。血が管を通っていく光景は幼いクロードにとってあまり好ましくないものだったし、大人になってからも嬉しい行事とは言えなかった。いくつになっても実母から遠ざけられた理由を見せつけられるのは気分が良くない。だが来年以降、クロードにとって自己採血は全く違う意味を持つだろう。管を通る自分の血はローレンツを助けた血なのだ。
「多少なら具合が悪くなっても構わない。必要なだけ採血してほしい」
 パルミラでは六百ミリリットルが成人男性の採血の限界だがフォドラではもう少し多く採られるのかもしれない。循環する赤血球の量が減ったからか頭痛がし始める。クロードは思わず痛みに顔をしかめ目元を拭ったが痛みや不安が理由ではない。実母の元を離れて以来、初めて自分で自分を許すことが出来たからだ。
「こちらの先生方は腕が良いんです。薬と血があれば大丈夫ですよ」
 古風な制服に身を包んだ看護師がローレンツの幸運を讃えている。彼が気にしていた交通事故の被害者たちも医療環境が整っていたら何人かは助かったのかもしれない。すぐにイグナーツたちも転がり込むかのような勢いで薬を持ってやってきた。物資不足の影響は社会のありとあらゆるところに出ている。
「物資さえあれば何とかなるんだよ」
 レオニーが処置を終え、まだ麻酔の覚めないローレンツの姿を見て呟く。イグナーツも無言で首肯していた。意識を失ったままのローレンツはクロードが持参した寝巻きを着ている。彼はきっとこの姿を他人に晒すことがあるなど考えもしなかった筈だ。

 ローレンツは懐かしい夢を見ていた。ブリギットで行われたピアノコンクールで入賞し、結構な金額の賞金を手に入れた時の夢だ。大会の広報が撮ってくれた演奏中の写真は実家にまだ飾ってある。フォドラで待っている従弟に何か買ってやりたかった。ブリギットにしか売っていないもので、例え遠い首飾りにいても従弟がローレンツのことを身近に感じられるような品がいい。
『何かお探しですか?』
『腕時計を探しています。男物』
 あの頃はブリギット語もまだそんなに理解出来なかった筈なのに何故、あんな細かい注文が出来たのだろうか。ローレンツはダイビングをしている男性の煌びやかな広告写真に吸い込まれるようにして高級腕時計の店に入っていった。片言のブリギット語と指さしで候補を絞り込んでいったがなんだかピンとこない。
 店員たちは胸元にどの国の言葉が話せるのか示すため国旗柄のピンバッジを刺しているが、フォドラ語が話せる者はいなかった。いなかったのに時計の説明が理解できたのはなぜなのか。
 店内にはフライトスケジュールを知らせるモニターがあって、たまたまローレンツが目をやった瞬間に画面が切り替わった。フォドラ航空アンヴァル行きは機材トラブルのため三時間遅延、と表示されている。本当に三時間で済むだろうか。アンヴァルからグロスタールへ行く特急に乗れなかった場合チケットをうまく払い戻せるだろうか。思わず舌打ちしてしまったローレンツが画面から目を離さず、眉間に皺を寄せていると別の店員がこっそりフォドラ語で話しかけてきた。
「ゆっくり選べる時間が増えたと思えばいい」
 どうしてあんな重要なことを忘れていたのか。彼は胸元にどの国のピンバッジも付けていなかった。だから店員ではない。
「アウトドア用だから暗がりでも時刻が見える。軍務にも耐えるブリギット限定品だ」
「従弟は山奥の基地に配属されるのだ」
「鬱蒼とした森の中でもこれなら大丈夫じゃないかな?文字盤と長針短針の先に夜光塗料が塗ってある」
 彼が指差した時計のカラー展開は白紺緑の三つでローレンツはその中から緑のものを選んだ。選んでくれた彼の瞳の色が緑だったからだ。ローレンツとクロードは国境地帯で出会ったわけではない。国境地帯で再会したのだ。目覚めることができたらクロードにも教えてやらねばならない。
「ローレンツ、辛かったらまだ寝てて良いからな」
 イグナーツかレオニーが連れてきてくれたのだろうか。ローレンツの傍には具合の悪そうなクロードがいた。目は真っ赤で酷い顔をしている。心配させたせいなのだろう。まだ身体が怠くて首も動かせない。頑張って瞼を上げ、視線を動かすと点滴が繋がる腕と腕を包む見慣れた寝巻きの柄が目に入る。きっとクロードが自宅から持ってきてくれたのだ。
「クロード、何がどうなって……」
 普通の声で話したつもりだが囁き声しか出せなかったし瞼が再び下りてしまう。
「手術は成功した。メモリーカードの入った書類鞄はレオニーが回収してくれてイグナーツと二人で憲兵隊に提出したよ。ヒルダとマリアンヌもそろそろアンヴァルから帰ってくる。だから後はローレンツが裁判に備えて怪我を治すだけだ」
「裁判……」
 クロードの説明は、何やら前後がおかしなことになっている。ヒルダかマリアンヌが居なかったなら誰がローレンツに血を分け与えてくれたのだろうか。crest+という特別な血だ。
「早く治したかったらもう一度眠るんだ」
 火にかけた鍋の水面に泡が浮かぶように様々な疑問がふつふつとローレンツの脳裏に浮かんだが、褐色の手で頬を撫でられてしまうともう駄目だった。意識は再び思い出の中をたゆたい始めていく。
 失意のどん底で入った士官学校でヒルダと友人になれたこと、兵舎村の人々がとても親切にしてくれたこと、部下になったイグナーツとレオニーがバイアスロンの大会を勝ち進んだ時のこと。だが圧倒的に情報量が多いのはクロードと共に過ごすようになってからのこと、だ。彼とは三週間くらいしか共に過ごしていない。だが山奥で気絶している彼を発見してからの三週間はコマ送りのようにゆっくりと再生されていく。些細なことに驚くクロード、ローレンツの手料理を食べるクロード。基本、右も左も分からない外国にいるので子供のような状態なのにベッドの上では立場が逆転する。
 それにクロードは従弟の腕時計も見つけてくれた。オフィスでメモリーカードのコピーをした時に盗掘をしていたグループは今までのように軍用トラックが使えなくなった、と判断したのだろう。盗聴や監視のやり方は憲兵隊方式なので彼らの一味は憲兵隊の内部にも国境警備隊の内部にもいる。そして彼らは銃撃という言い逃れ出来ない方法でローレンツの口を塞ごうとした。ローレンツは今日、ヒルダたちと別行動をしていたから向こうの勝率は高く、ローレンツは助かるはずがなかった。でも探しても探しても見つからなかった従弟の腕時計を見つけてくれた時のようにきっとクロードがなんとかしてくれたのだ。話せるようになったら絶対にお礼を言いたい。クロードのおかげでローレンツが何を取り戻せたのかを伝えたい。

 クロードは村の奥方連中が差し入れてくれた硬めの焼き菓子をボリボリと音を立てながら食べていた。自己採血の時もそうなのだが、一気に血を失うと身体が欠けたものを取り返そうとするらしい。中に入っているいちごジャムが効いていて、実に美味しいのだが喉が乾く。イグナーツがダグザ製の大きな水筒にお茶を淹れて置いていってくれたのだが、もう飲み干してしまいそうだ。あれから何度かローレンツの瞼が上がり何事かを語ろうとしていたが、麻酔の影響か一言二言で黙ってしまう。覚醒すれば傷跡が痛むだろうと思うと続きを促す気にはなれない。聞こえているかどうかは分からないがクロードは青ざめているローレンツに声をかけた。
「俺ちょっと買い物してくる。帰ったらまた声かけるからそれまで無理するなよ」
 点滴のボトルから一滴ずつ薬液が落ちてローレンツの身体に吸収されていく。パルミラならスリルなど全く感じない単なる弾丸摘出手術だがフォドラでは全てが奇跡のようだ。奇跡に頼らねばやっていけない。
 病院の前にも小さな屋台村があって着替えや食べ物や飲み物が売っている。クロードが今晩の食事や飲み物を買っていると空から白いものがちらついてきた。自宅があるパルミラの首都ではお目にかかれないので驚いて雪の結晶がくっ付いた袖口を眺める。
「ああ、今年は遅かったな……お兄さん病院から出てきただろ。誰の付き添いなんだい?」
「恋人だ」
「それなら早く戻ってやらんと。初雪は愛しい人と見るもんだよ。ずっと二人で幸せに過ごせるって言うからな」
 鏡を見る度に瞳の色がフォドラの血を引く事を思い知らせてきたせいもあり、クロードはフォドラの文化から自分を遠ざけていた。だからそんなロマンチックなジンクスがある、とクロードは知らなかった。初雪に気づいた見舞客は一斉に病室に戻っている。ローレンツの目が覚めて雪が降っている、と彼が気づいた時に傍にいてやりたい。水や軽食になりそうなもの、が沢山詰まった袋を手にクロードは病院の玄関をくぐった。
 院内で働く人々は医師も看護師も忙しそうで外の雪には気づいていない。クロードは階段を上り窓越しに他の病室を眺めながらローレンツの病室に戻った。看護の手が回らないのか大荷物を抱えた付き添いの者が泊まっても構わないらしく、椅子に座ってうとうとしている者もいた。クロードは白い瞼を下ろしたままのローレンツの耳元に口を寄せる。
「戻ったぜ。なあ目を開けられるか?」
 薄い唇が微かに動いた。
「君が戻るのを待っていた。クロード、ありがとう」
「……今まで受けた恩と比べたら些細なもんだ。なあ、窓の外わかるか?」
「初雪だ……」
 ローレンツは真っ白な顔に微笑みを浮かべている。術後でなければいつものように頬を赤く染めていたのかもしれない。クロードは点滴が繋がっていない方の手を握った。まだ少し冷たい手がそっとクロードの手を握り返してくる。
「一緒に見られて嬉しいよ」
 ずっと二人で幸せに過ごせるというフォドラのジンクスを今くらいは信じてみたかった。
「僕も嬉しいよ。幸先がいい」
「そうだな。絶対にきちんと捜査される。裁判所で証言台に立つところが見たかったな」
「軍関係だから基本、非公開だぞ」
 クロードが裁判を見られないのは非公開だからではなく、その頃にはパルミラに戻っているからだ。告発者であるローレンツの足を引っ張らない為にも年が明けたら絶対にクロードはフォドラを去らねばならない。
「そっか。なあ椅子で寝るから今晩ここに泊まっていいか?一人にしたくないんだよ」
「そんなことはしなくていい」
 ローレンツからは断られてしまったが、今晩はクロードが一人になりたくなかった。彼のいないあの寒い家で眠りたくない。
「おいでクロード。行儀の悪いことをしたら蹴り落とすから覚悟したまえ」
 毛布の左側をめくってローレンツが手招きした。かなり狭いが点滴の管がついたままの彼と抱き合うにはそこに潜り込むしかない。靴と上着を脱いだクロードが向かい合ってベッドにそっと横たわると点滴の管が繋がれたままの白い右腕が、背中の方に伸ばされた。ローレンツが楽な姿勢を見つけるまで動かない方がいいだろう。冷えた身体はクロードの熱を堪能するかのようにしばらくもぞもぞと動いていたが、少し乗り上げるような形で落ち着いた。
「あったかい」
 薄い寝巻き越しに背中をさすってやる。少しでも温まればいい。
「そうだな、今晩は湯たんぽに徹するよ」
 当然、傷が塞がったらその限りではない。今晩はもう遅いからマリアンヌたちは来ないのだろうが、明日か明後日には彼女たちが来て回復魔法をローレンツにかけてくれる筈だ。すぐに退院させて二人であの家に戻りたい。
「何があったのか説明してくれるか?」
 ローレンツの指先はクロードの腕に貼られっぱなしの脱脂綿を探っている。そう言えばまだ彼はクロードの本名すら知らない。何があったのか説明するにはまず、八世紀前から一族に現れる王の血について理解してもらう必要がある。どう説明すればローレンツの血圧や脈拍に影響が出ないのだろうか。クロードは慎重に、言葉をひとつずつ選んで説明を始めた。畳む
「また会えようが、会えまいが」13.越境
#クロロレ #完売本 #R18  #現パロ #また会えようが、会えまいが

 クロードは年が明けてから髭を剃っていない。最初は肌に触れるとちくちくと違和感があったが、体質なのか今はローレンツが柔らかく感じるほど髭は伸びていた。帰国すればすぐに公安関係の取り調べが待っている。多少は遭難した感じを出さないと、と言うことらしい。
「こら、くすぐったい」
「気持ちいい、の間違いだろ?」
 ベッドの上で何も身につけず二人で過ごすのもこれが最後だ。ローレンツはもうシャワーを浴びて軍服に着替えねばならない。昨晩もそこそこ遅くまでやることをやっていたにも関わらず緊張していたクロードが明け方に目を覚まし───今に至る。
「今朝は絶対に一人でシャワーを浴びるからな」
 クロードの耳元でそう宣言するとローレンツは寝室を後にした。シャワーを浴びる前にサモワールとストーブに火を入れておく。朝食の献立はもう決まっていた。
 シャワーを浴び髭を剃り壁付けのドライヤーで髪を乾かす。もう軍務に就くのでクロードに褒められた髪を後ろに一つで束ねた。寝室で大人しく順番を待っていたクロードに扉の向こうから声をかける。
「食事を作っている間にシャワーを浴びたまえ」
「分かった。すぐ行く」
 朝食の献立は決まっていた。昨日の残りの塩漬け肉と乾燥キノコの煮込みとブリヌイだ。皆がお裾分けしてくれたヴァレーニエもクロードと二人がかりで食べたせいかもう殆ど残っていない。フライパンでブリヌイを焼いているとジャンプスーツを身につけたクロードが台所にやってきた。
「そちらにしたのか」
 ジャンプスーツかローレンツが買い与えた服か。クロードは何故かどちらの服を着て帰るのかずっと決めかねていた。
「頑丈だし上空の寒さに耐えられるように作ってあるからな」
 国境地帯は標高が高いので寒い。山の中を歩き回るのだから当然の選択だろう。
「それに取り調べで取り上げられても惜しくない。お前に買ってもらったものを置いていくのは仕方ないが、他人に取り上げられるのは嫌なんだ」
 そういうとローレンツが食べ始めるのを待つこともなくクロードは朝食に口をつけた。急いで食べて皿や瓶を洗っておかねばならない。そろそろイグナーツとレオニーがローレンツたちを軍用車で迎えに来る頃だ。
「そうか、分かった。ところでクロード、皆に踏まれる覚悟は出来たか?」
 クロードは軍用車の後部座席の足元に隠れて国境地帯に侵入する。軍用車の運転手はイグナーツで助手はレオニーだ。一番身分が高いローレンツは後部座席に座る。
「マリアンヌさんは僕の隣に」
 マリアンヌの方がヒルダより背が高い。クロードはローレンツに足を踏まれ腰をマリアンヌに踏まれ頭をヒルダに踏まれながらフォドラ側の第一出入り口、続いて第二出入り口を突破した。年末年始に国境を守っていた部隊との引き継ぎを終えれば詰所はローレンツたち以外無人となる。
「グロスタール中尉、ではあとは任せた」
「承知いたしました。早くご家族に顔を見せてあげてください」
 撤収する軍用車のエンジン音が聞こえなくなるとローレンツは手を叩いた。これでもう明日の朝には日常に戻れる。
「もう大丈夫だ。クロード降りてくれ」
「道が悪すぎる……」
「山奥はそんなものだ」
「遠慮なしに踏んだな!」
「道が悪いからな」
 後部座席の足元から這い出てきたクロードはげっそりしている。彼とローレンツが軽口を叩くのも今日で終わりだ。物資や装備を確認し徒歩で国境地帯へ向かう。クロードはジャンプスーツにブーツと腕時計と無線機だけで身軽だが、ローレンツたちは武器や背嚢があるので背負う荷物は三十キロ近くになる。
「ああ、見えてきた!」
 レオニーが指差したのは祖国防衛戦争の際に放棄された民家だ。現在では国境警備隊の者たちが拠点として利用している。
「今日は日が暮れるまで皆はここで待機だ。日が暮れたら僕が一人でクロードを国境まで連れて行く」
 そうと決まればやることはひとつだ。焚き火を起こしお喋りしながら飲み食いをして時間を潰すしかない。皆手早く枯木と枯れ葉を集め火を起こした。持参したじゃがいもにアルミホイルを巻いて焚き火に突っ込む。
「今日は天気がいいからパルミラがよく見えるよ!」
 フォドラの首飾りは連峰で南北を繋ぐ稜線がフォドラ連邦とパルミラ王国の国境線になっているが東西にも山が連なっている。
「え、ここってまだフォドラだろ?」
「国境線は真っ直ぐではありません。東に見えるあの小さな山はパルミラの山です」
「案外近いんだな……なあ、和平条約が結ばれたらまた皆で会おうぜ」
 クロードの脳天気な発言に皆、苦笑して首を横に振った。停戦して既に半世紀以上が経過し歪な形で安定している。残念ながらこの状態が両国の強硬派にとって一番都合が良いのだ。
「そんな夢みたいなこと言ってないで元気でね」
「おう、ヒルダも皆も元気でな。そうだ。イグナーツとレオニーは国の代表になったら外国にも行けるんだろ?良いこと教えてやるよ」
 そう言うとクロードが腕を伸ばし親指と人差し指を小さく交差させたので、ブリギットで暮らしていたことのあるローレンツはその下らなさにため息をついた。
「何それ、虫みたいに捻り潰してやるって意味か?」
「ハートだよ!お前らどうせ愛想良くすんなとか政治将校に指導されるんだろ?これならあいつらにバレずに外国で人気者になれるぜ!」
「本当に役に立たない餞別だな……一応感謝しとくよ……」
 レオニーもイグナーツも呆れ顔だったがマリアンヌがこっそり親指と人差し指を小さく交差させていたのをクロードは見逃さなかった。これこそがローレンツが必死になってクロード、いや、カリードをパルミラに帰そうとする理由だ。フォドラの大地に生きる人々はこんなにも愛おしい。クロードたちが離れ離れになるのは勿論、納得いかないがそれでも彼女たちが不当に損なわれてはならないのだ。呆れ声の二人から背を向けたクロードの目に荒れ果てた庭が映る。
「あれ、この皿って……」
 東側に置かれた苔むした甕に視線をやるとその上に白く小さな皿が載せられている。管理されていない人家は荒れ果て何もかもが壊れていくが、不思議とその皿は割れていない。クロードの視線は自然とその皿に引き寄せられた。
「家の中に息子さんらしき写真があるんです。出征したんでしょうね。僕たちこの家に残されたものはなんでも使わせてもらってるんですが……」
「あの白い皿だけは絶対に触らない。私たちの母親も毎日皿の水を取り替えてるだろうからな」
 クロードも知っている子供の無事を願う願掛けの一種だ。イグナーツとレオニーの言葉を聞いたクロードは黙って頷いた。母親は二人いるがどちらもクロードのために皿の水を取り替えないだろう。
「でも、クロードさんは明日の夜にはお母様と連絡が取れますね」
 マリアンヌの言葉が素朴だったせいかクロードは珍しく言葉に詰まってしまった。身元引き受け人をするのはおそらく父だろう。ローレンツの部下たちと過ごす愉快で穏やかな時間は驚くほど早く過ぎ去り、カリードとして現実へ戻る時が刻一刻と近づいてくる。夕陽がまず雲を赤く照らし、辺り一面を上から赤く染めていった。見事な色彩の変化に思わず息を呑んでしまう。先程までクロードはフォドラで過ごした時間の美しさを表す言葉を持っていなかった。しかし今後は簡単に伝えることができる。山の夕暮れのように美しい時間だった。
「行こうか、クロード。申し訳ないが皆は僕がここに戻るまで引き続き待機だ」
 ローレンツの言葉を聞いた皆は涙を拭って焚き火から離れ、一人ずつクロードと抱き合って別れを惜しんだ。辺りを赤く美しく染めた太陽の代わりに満月が白い光で辺りを照らしている。
「街灯もないのに明るいもんだ」
「その代わり新月の時は何も見えないぞ」
 本当に明るいのでローレンツが微笑んでいるのも見えた。直線距離で言えば国境までたった二キロだが山の中なのでそう単純にはいかない。曲がりくねった道を手を取り合って二人で歩いていると川が見えてきた。
「どうやって渡るんだ?」
「水かさが増した時に釣りをするために隠してある小舟がある。糧食だけでは足りない日が多くてね」
 二人がかりで川まで小舟を押していく。ふわりと浮かんだところでローレンツが小舟を捕まえクロードを先に乗せてくれた。
「はい、漕いでくれ。そちらに座ったから仕方ないな!」
「何だよそれ!」
 クロードにも意図は伝わっている。漕ぎ慣れているローレンツが漕いだら対岸にすぐ着いてしまうからだ。フォドラにいる間きちんと食べていたせいか力強く櫂を動かせてしまったが、思った方向に向かってくれない。小舟と櫂が流されないようにきちんと陸にあげてしまうともう道草を食う理由は何ひとつ存在しなかった。砂利だらけの河岸から山道が見える。きっとあそこからパルミラへ戻れるのだろう。
「ああ、クロード、待ってくれ。渡したいものがある。新年の贈り物だよ」
 そう言うとローレンツはクロードにハンカチを差し出した。中に小さくて固いものが挟んである。
「俺のピアス質屋から買い戻したのか?!気にしなくてよかったのに!」
「君がつつがなくパルミラに持ち込める贈り物がこれしかなかったのでね。今ここで付けて欲しい」
 こうして長年の相棒が再びクロードの左耳に戻ってきた。
「でも俺があげようとした時計は……」
 証拠物件として裁判所に提出されていてローレンツの手元に戻るのかどうかわからない。あれで現金が尽きてしまい、クロードは結局ローレンツに何も渡せなかった。
「いや、良いんだ。君からは血を貰った。では国境まで行こうか」
 山道には等間隔に高さ四十センチくらいの石標が立ててある。地雷が除去されている目印だと言う。ローレンツと二人で並んで歩いていると殆ど有刺鉄線が残っていない鉄条網が現れた。
「あれが国境なのか?」
「そうだ。フォドラもパルミラもこの鉄条網は大規模な整備が出来ない。国境侵犯と疑われるからな」
 この鉄条網を半世紀以上前に張ったのは停戦協定の仲介をしたブリギット軍だ。当初は足元から見上げる高さまでびっしりと張られていたのだろう。だがいまや一番下の段、高さ十センチ程度の一本しか残っていない。
「あそこを越えたらもう無線機が使える。パルミラ軍もレーダーで監視しているから僕の姿が見えなくなったら電源を入れて助けを求めろ」
 クロードは黙って軽くローレンツを抱きしめてから鉄条網を越え、彼の背中が遠ざかっていくのを見守った。無線機の電源を入れたくない。電源を入れれば二度とローレンツとは会えなくなる。
「待って!待ってくれ!」
 クロードの声がしたので反射的にローレンツは後ろを振り向いた。八週間なんとか匿ってようやく国境線を越えさせたのにクロードが再び国境線を越えてフォドラに入り、ローレンツの元に駆け寄ってくる。抱きつかれ首の後ろに手を回された。彼の手が勝手に髪を束ねているゴムを引き抜く。下ろしている方が好みだ、と言っていたから最後にその姿を見たかったのかもしれない。 
「ローレンツ、心の底から愛してるよ。頼むから元気でいてくれ。自己採血をしておくんだ。俺のこと忘れても構わないからそれだけは約束してくれよ」
「自己採血はともかく君のことを忘れられるわけないだろう。愛してるよクロード、いや……」
 ローレンツは病室で教えられた本名で彼を呼ぼうとしたが、その前にクロードに唇を塞がれた。それで良いのかもしれない。二人とも頬が濡れたがどちらの涙のせいで濡れたのかはわからなかった。

 フォドラ連邦において個人の事情はほぼ考慮されない。ローレンツが国境地帯で立哨をしている間にもメモリーカードを発見したのはローレンツである、と言う前提で裁判は進んでいった。兵舎村の市場で暇を潰していたクロードのことを思い出し、突然現れて消えていった彼を訝しむ関係者もいたが何と言っても病院がローレンツの診断書にcrest+の献血者あり、と記録している。
 紋章を持っているならば彼が外国人であるはずがないし、紋章保持者に激しい偏見を持っているという白フォドラ人であるはずもない。国境地帯の修道院で盗掘をしていたグループはローレンツが想像していたよりも遥かに規模が大きく、ガルグ=マクはおろか首都のアンヴァルでも逮捕者が出た───と言うことをローレンツが知ったのはクロードがフォドラを去って二ヶ月後、次の部隊との引き継ぎをしている時だった。
「中尉が気にしているだろうから真っ先に伝えろ、と妻に言われてな。真っ先に伝えた、と言う証人になってくれよ」
 立哨の任を引き継ぐ部隊の長である人民委員の夫は妻の手料理で少し太っていた。彼はそれまでローレンツのことを細面の少し気に入らないやつ扱いしていたのだが、クロードの事を知って以来とてもよくしてくれる。絶対にローレンツが間男にならない、と分かったからだろう。
 イグナーツの運転する軍用車の後部座席でヒルダが大きく伸びをした。これから二ヶ月間休暇だと思えば気も身体も緩む。
「足元が広くて静かだねえローレンツくん」
 カーブを曲がるたびに皆に踏まれ、その度にクロードは呻いていた。
「遠慮せずに足が組めるのはいいことだ」
 帰宅したら何が届いているだろうか。今回は奥方たちからの心尽しの品だけにとどまらず、裁判関係の資料や処理すべき書類も沢山届いているだろう。しばらくはクロードのことを考えずに済みそうだった。
「クロードさんはご無事でしょうか……」
「僕たちはやれるだけのことはやった。無事に過ごしていると信じるしかない。皆にも苦労させてしまって本当に申し訳なかった」
 あの時ローレンツがクロードを憲兵隊に突き出せなかったのは無意識のうちに彼らを疑っていたからなのだろう。都合が悪い存在として従弟のようにこっそり殺されてしまったら嫌だと思ったのだ。
「私たちもたまに思い出してあげようよ。向こうもずーっと遠くで私たちのことを思い出してるかもしれないし」
「ヒルダ、その物言いだと本当に死んでるみたいだから流石にそれはやめてあげようぜ」
 レオニーが言いたいことを手短に、しかも完璧に伝えてくれたのでローレンツはそのまま黙っていた。正直言って寂しくて堪らない。だがこうしてローレンツにとって我が子も同然の隊員たちの生活をなんとか守ることができた。ローレンツは周りに頭を下げながらとはいえ、クロードの命も隊員たちの生活も守り切ったのだ。そこに悔いはない。
 いつものように市場で下ろしてもらい配給品の受け取りと買い物を済ませてからローレンツは帰宅した。賑やかな詰所での暮らしが終わり、二ヶ月の一人暮らしが再開される。庭の食糧貯蔵庫にはいつものように心尽しの品が沢山入っていた。やかんとサモワールに水を汲んでストーブとサモワール双方に火を入れる。冷えた室内は荷物を全て片付ける頃にはほどよく温まっていた。いつものローレンツならそのまま続けて食事の支度をする。しかし今日はその前に少し、横になって休みたかった。
 寝室でベッドの上に横たわってうとうとしていると不思議なことにクロードが居間や庭にいるような気がしてくる。ローレンツは眠気と疲労で頭がふわふわとしたまま何の気なしに本棚に視線をやった。著者順に並べておいたのに本の並びが違う。ローレンツは身体を起こし、順番がぐちゃぐちゃになっている本の背表紙の一文字目を指でなぞっていった。やはりブリギット語の文章になっている。お互いの安全のためフォドラを去る際には何も書き残してくれるな、とかなりきつくクロードに言ったので彼はこうするしかなかったのだろう。ローレンツはクロードの残した言葉を何度もなぞった。
 何度確認してもその言葉は「ローレンツ、愛してる」だった。

 カリードの失踪は様々な憶測を呼び───中でも不名誉なものを過去のものとするため異母兄弟が選んだ方法がさっさと彼の葬式を出してしまうこと、だった。彼らは家族が葬儀をあげると言う形式すら取りたくなかったらしく、社葬という形式にされている。カリードが社長を務める会社の正面玄関を入ってすぐのところに弔問客の受付が設置されていた。玄関ホールには遺影らしき大きな白黒写真が飾られている。白黒写真にすれば白フォドラ人の血を引く証である緑の瞳が誤魔化せるからだろう。
 ローレンツたちと過ごす前なら異母兄弟たちの選択に何も感じなかったに違いない。だが今は違う。セイロス正教の洗礼名がカリードを助け、白フォドラ人の嫌う紋章がローレンツを助けた。フォドラでローレンツと共に二ヶ月過ごしたおかげで自己肯定感に満ちている。恥じるようなことは何もない。
 サングラスをしたままカリードは受付に置いてある芳名帳を手に取った。受付をさせられている社員は返すように、と声を荒げたが無視してページをめくる。誰が敵で誰が味方なのかよく分かるリストは実に興味深い。一悶着あったので緊張も高まり、玄関付近にいる社員や弔問客の視線がカリードに一気に集まる。今までの生き様を考えれば完全なる八つ当たりなのは分かっていたが、それでも言わずにはいられなかった。
「遺影がダサすぎる!誰が選んだのか後で俺に報告しろ!」
 叫び声で社員たちは玄関ホールで騒ぎを起こした男の正体を察し始めた。どんどんざわめきが大きくなっていく。カリードは警備員に取り押さえられる前にサングラスを外した。白フォドラ人の血を引く証である緑の瞳が現れる。
「久しぶりだな。心配かけてすまなかった。葬式の会場だが皆スマホの電源を入れるんだ」
 社員たちが電源を入れると一斉に通知音が鳴り出した。わあ、とかうそ!という小さな悲鳴がそこら中で上がる。カリードは手持ちの株をそこそこ処分して全社員にそれぞれ給料の二ヶ月分に該当する金額を振り込んだ。
「皆!今すぐネットバンクの口座を確認してくれ。なに、これからも俺にこき使われることを思えば大した金額じゃないさ。社長が世間を騒がせたお詫びとして我が社は明日から一週間、創業以来初めて大規模なセールを行う。全品五十パーセントオフだ。さあ皆!今すぐ職場に戻って売って売って売りまくれ!」
 ローレンツと離れ離れになった寂しさを誤魔化すためにもカリードは今まで以上に派手に激しく働いていくしかない。

 帰宅してみれば家主がいるいないに関わらず契約通り家政婦が家の中を磨き上げ言われた通りの品を補充していた。冷蔵庫にはミネラルウォーターと栄養補助食品が、ワインクーラーにはワインが、パントリーにはコーヒーのポーションと好きな缶詰と個包装のクラッカーとプロテインバーが入っている。
「これでは何も作れないではないか」
 ローレンツの声が聞こえたような気がして胸が痛む。カリードはこの家を建てるときに料理はしないから台所は狭くていいと設計事務所に言った。だがそれでも兵舎村一番の権力者である大隊長の自宅の台所よりはるかに広い。コンロが何口なのかすら知らず、帰宅してなんとなく数えてみたら四口もあって驚いた。
 とりあえずだらしなくソファーに座りワインを開けてクラッカーをかじりながらスマートフォンを弄っていると、フォドラにいた二ヶ月間スマートフォンなしで暮らしていたことが夢のように思えてくる。果たしてあれは現実だったのか。思い出は脳裏に刻まれているがそれでも全てを記録しておきたかった。きっとカメラロールの九割がローレンツかローレンツとのツーショットになっていたと思うがそれでもレトロ、以外には褒めようがない、古臭い全てと愛すべき人々の暮らしぶりだって手元に留めておきたかった。
───いや、自分で自分を誤魔化すのは良くない。
 カリードは今までどんな女優やモデルと付き合ってもそんなことをしようと思ったことはなかった。彼女たちが執着の対象になり得なかったからだ。だがフォドラにいた時にもしスマートフォンが手元にあったら、動画撮影は無理でもあの上擦った甘い声が録音出来たのにと思うと悔しい。
「いや、それは俺が忘れなきゃいいだけだ」
 独り言がフォドラ語になっている。頭を切り替える必要があった。ワインを持参して広い浴室に移動しジャグジーに浸かる。
『停電も検閲もない!これが正しい社会だ!』
 そう浴室の鏡に向かって嘯いた顔はやはり少しやつれていた。カリードが帰国して実は二週間が経過している。対外的にこの二週間は入院したことになっているが、病室で行われたのは治療ではなく取り調べだ。出された食事に殆ど口をつけられないかと思ったが、フォドラでの荒療治が効いたらしく全て飲み込むことが出来た。しかし基本的には療養食で低カロリーだったせいで痩せてしまったのだろう。今日のところはプロテインバーで済ませるが、明日はじゃがいもを茹でてみるのも良いかもしれない。この家に鍋があるかどうかもカリードは知らないが、仮になかったとしても必要な物は明日全て買えばいいだけだ。畳む
「また会えようが、会えまいが」14.土産
#クロロレ #完売本 #また会えようが、会えまいが #現パロ

 ローレンツたちは村で一番大きなアンテナを立て、テレビを買った大隊長の自宅に集まってイグナーツとレオニーの勇姿を見守っていた。フォドラ連邦にはプロスポーツというものが存在しない。様々な競技のリーグは存在するがそれらにはその地域の警察・軍・大学が持っているクラブが参加している。激しく厳しい国内予選を勝ち抜き、バイアスロン世界選手権のフォドラ連邦代表に選ばれた二人は今モルフィスに行っている。
 イグナーツがライフルで五十メートル先の標的を全て撃ち抜き、レオニーがスキーで他国の選手を追い越す度に室内は歓声で溢れ、酒瓶が空になっていった。彼らは金メダルこそとれなかったが初めてフォドラ連邦に銅メダルをもたらした。珍しく大隊長と休暇が重なったローレンツは大隊長のグラスにウォッカを注いでいる。
「あの二人の闘志あふれる仕草を見たかグロスタール中尉!」
 大隊長は彼らの指ハートをひねり潰してやる、と言う意味だと誤解しているが訂正すればもっと面倒くさいことになるのでローレンツは黙って頷いた。二人はアンカリング、と呼ばれる手法にクロードから教わった指ハートのジェスチャーを取り入れている。ローレンツの身にも覚えがあるが、本番の大舞台で緊張しきってしまうと実力が発揮できない。最高のパフォーマンスを発揮出来た状態と指定した動作を脳内で強く関連付けておく。ローレンツの場合は結んでおいた髪を左手で解くことだった。
「あなた、黙って!レオニー同志とイグナーツ同志の会見よ!」
 緊張に押し潰されそうになりながらも必死で戦った二人の首には銅メダルが輝いている。これで二人は軍の英雄だ。二人は長々と祖国と軍と両親に感謝を述べ他の選手を讃えている。随行している政治将校も瑕疵が見つけられないだろう。
「おめでとうございます!報奨金は何に使いますか?」
 現地テレビ局のレポーターが村の英雄にマイクを差し出している。その言葉はすぐ通訳によってフォドラ語に訳されていく。イグナーツとレオニーはカメラの前でお互いに顔を見合わせてから無言で頷いた。どうやら二人にはずっと前から温めていた考えがあるらしい。酔っ払いたちは皆、口々にテレビが欲しい、いやバイクが良いなどと盛り上がっている。
「それぞれの故郷の村と今住んでいる兵舎村の小学校に楽器を寄付しようと思います」
 二人はそう言い切り、通訳がその内容をモルフィス語に訳した。大隊長夫人は二人の言葉に感動して涙ぐんでいる。
 何度も部下たちのために乾杯していたローレンツは酔いが回っていたせいか他人事のように良い金の使い方だ、自分がこの村の音楽教師なら何を買うだろうか、とあくまでも他人事として考えていた。この時、大隊長夫人と同じく二人のインタビューに感動した大会ホスト国モルフィスの楽器メーカーが学校用に電子ピアノを提供したことによってローレンツの人生は再び変化を迎えていく。

 代表選手の特権は空港の免税店で買い物ができることだ。既に酒と煙草とチョコレートは確保してある。物資不足に悩むフォドラでは紙幣の次に使い勝手が良い。それに加えて年頃の娘らしく化粧品を物色していたレオニーはとんでもない代物を見つけた。手に取った高級スキンケアセットには化粧水などが入ったボトルが数本、入っている。そしてそれぞれのボトルには女性のシンプルなイラストが入っているのだが───これがどう見てもレオニーの知る人々なのだ。疑問と驚きで頭がいっぱいになる。慌てて商品を棚に戻し、イグナーツを探した。話を聞いてもらわないと平静を保てない。
 イグナーツも高級時計コーナーのディスプレイを凝視し、呆然としていた。声をかけても全く反応しないので、仕方なく近寄るとイグナーツが見つけたとんでもない物、がレオニーの目にも入った。これなら声が彼の耳に届かないのも納得だった。
 ディスプレイの中には高級時計と写真が飾られている。その写真の中では高級そうな背広と腕時計を身につけてクロードが微笑んでいた。どうやらあの後、彼も上手くやっていたらしい。レオニーは声をひそめてイグナーツに話しかけた。政治将校に聞かれたら問題になる。
「あいつ俳優だったのか?」
 イグナーツはポケットから取り出したモルフィス語の辞書を捲った。ここはモルフィスなので商品の説明も含め、何もかもがモルフィス語で書いてある。
「いいえ、この時計を作っている会社の社長らしいです」
 だからクロードはレオニーたちと初対面の時に腕時計について聞いてきたのだろう。ようやく合点がいった。
「時計を買えばこの写真が付いてくるのかな」
「そもそも高くて手が出せませんが残念なことにそういう仕組みではなさそうです」
 ローレンツがこの写真を見たらどれほど喜ぶだろうか。彼はイグナーツとヒルダの失態を隠蔽するためにクロードを八週間も匿ったのだが、彼に情がうつっていることなど皆お見通しだった。
「中尉にあげたかったな。イグナーツ、私も見てもらいたいもんがあるからちょっとこっちに来てくれ!」
 今度は化粧品コーナーでレオニーが見つけた高級スキンケアセットのパッケージを手に取ったイグナーツが驚く番だった。人民委員のスカーフの柄まで合っている。どうやらクロードは物覚えがいいらしい。化粧品に入っているロゴとカウンターに置いてあった高級時計のロゴが全く同じなので、きっとこの化粧品を作っている会社もクロードの持ち物なのだろう。
「僕もお金出しますからこれ皆さんの分を買いましょう」
「きっと期待されてるよな」
 レオニーはパッケージに刷られているキャッチフレーズを指でなぞった。彼女は国境警備隊の隊員だがそれでも時々は自由な往来を夢見る時がある。───そこにはフォドラ語でたった一言「恋しさ」と書かれていた。

 もう少しであれから二年経つ。
 カリードは先日買収したモルフィスの某企業への国際電話を掛け終え、一人きりで広々とした台所に立っていた。電話中にちょうど茹で上がった小ぶりのじゃがいもをざるにあける。串はすんなり通り、きちんと奥まで柔らかくなっていた。
 カリードはパルミラへの帰国を果たして早々に節税対策だ、と嘯いて慈善団体を設立している。ホームレスの人々に洗濯や入浴の機会を定期的に提供する団体と才能はあるが、環境に恵まれない若者の音楽活動をサポートする団体だ。どちらもまだ活動範囲はパルミラ国内にとどまっている。しかし後者は近いうちにモルフィスかブリギットへ活動の場を広げ拠点をそちらへ移す予定だ。フォドラの子どもたちが安心して参加出来るようにする為にも、徐々にパルミラの色を薄めていく必要がある。
 続けてカリードは社員たちから無意味だ、と反対されたがオーナー社長の権限で押し切って化粧品部門を新たに設立した。他にも国内外の他業種の企業をいくつか投資目的だと言い張って買収している。どれかは、何かはフォドラへ、国境沿いのあの村へ届くだろう。化粧品やヘルスケア用品ならフォドラにもパルミラ製の商品が流入することは身をもって知っている。化粧品部門でもっとも評判が良く、白フォドラ人たちの郷愁を誘うようなパッケージデザインの商品は敢えてパルミラ本国では販売させていない。フォドランレディという非公式の通称までついているが、敢えてモルフィスの免税店限定にしていた。若い女性向けの観光ガイドブックにはモルフィスに行った際のマストバイアイテムと書かれている。
 カリードは湯気の立つじゃがいもを皿に乗せて塩を振った。こんな風に直接働きかけられれば良いのだが、国同士が敵対しあっているとそう言うわけにもいかない。
「あいつらどんな顔するかな」
 茹でたてのじゃがいもは熱過ぎて素手では持てないのでフォークを突き刺して少しずつかじっていく。ほくほくしていて柔らかい。バターを落とすとさらに美味しいのだが胃もたれがするまで食べてしまうので節制している。
 もう片方の手には相変わらず行儀悪くスマホを持っていた。敵対している国家で八週間生き延びたことを理由に、未だにカリードを訝しむ者がパルミラの公安関係者にも多数存在する。生きていることこそが魔女の証、と言って罪なき女性を焼き殺した異端審問官と同じ発想をする者が経済的に恵まれた母国に存在するという事実にカリードは衝撃を受けた。
 彼らから足元を掬われないように慎重に事を進めていく必要がある。
 スポーツニュースでバイアスロンの世界選手権について知った時、カリードは祈るような気持ちで参加選手一覧をチェックした。そこにイグナーツとレオニーの名を見つけた時の喜びは未だに筆舌に尽くし難い。今カリードがスマホで眺めている大会のウェブサイトには参加選手のオフショット写真や競技中の動画が沢山載っている。しかしとにかく扱いの難しいフォドラ連邦の選手である二人の写真は残念なことに出場選手一覧にしか載っていない。証明写真のような小さな写真に写るイグナーツとレオニーは口を真一文字に結んでいた。兵舎村では見たことのない表情だ。しかしカリードはイグナーツが本気で怒った時の顔もレオニーが笑った時の顔も知っている。確かにあの八週間で彼らと親しくなれたのだ。三位に入賞したイグナーツとレオニーは今後、体育競技専門の部隊へ転属となるだろう。ヒルダとマリアンヌはまだローレンツの部下のままなのだろうか。兵舎村の奥方連中もいずれは夫の人事異動で去っていく。こちらの様子を知らせる事ができても首飾りの向こう側で何が起きているのかカリードには知ることができない。
 愛おしく思う人々と連絡を取りたいだけなのに国際情勢が自分たちの邪魔をする。空になった皿とフォークをシンクの洗い桶に沈めるとカリードはスマホをテーブルに置き、ソファに横たわって目を閉じた。華やかに遊んでいた頃はこのソファに何人もの客が座っていたが帰国してからはずっとカリード専用だ。内なる心の声に耳を傾ける。子供の頃に聞こえてきた内なる心の声は緑の瞳や血に宿るリーガンの紋章を呪う金切り声で、しかもそれを自分の声だと思い込んでいた。今は違う。
「生活環境が変わって恋人と別れるなんてありふれたことなのに何故僕に執着するのだ?」
 その声は淡々としていてこちらを責めることもなくとても優しい。あの八週間でローレンツから与えられた愛と信頼をどう扱うべきだろうか。奪われないように何重にも包み、土を掘って地中の奥深くに隠してしまうべきなのだろうか。だがそれは信頼に応えたことにならないのだ。全てが徒労に終わろうと出来ることはなんでもやっておきたい。内なる心の声への返答はいつも決まっていて揺らぐことがなかった。
「運命に逆らえないなら突っ走りたいんだ」

 兵舎村にモルフィスから楽器が届いたので村の小学校で贈呈式を行う事となった。軍の好感度を上げる微笑ましいニュースなので軍の広報紙や地方紙、それに地元の放送局もイグナーツとレオニーに取材を申し込んでいる。二人はいつも身につけている深緑色の戦闘服ではなく茶色の軍服を着用していた。
「あんなに取材に来るなんて!」
「大丈夫よレオニーちゃん!この日に備えてみんなでお手入れしたからカメラ写りはばっちりよ!」
「それだけのことを成し遂げたのだから誇りに思うと良い」
 競技用のウェアーやゼッケンを身につけている時ならイグナーツもレオニーも取材陣など歯牙にも掛けないのだろうが、正装しているとどうやら勝手が違うらしい。ローレンツたちは深緑色の戦闘服という気軽ないつもの姿で、小学校のささやかなホールに部下の晴れ姿を見届けに来ただけだ。微笑ましい右往左往を他人事として楽しんでいる。二人はこの贈呈式を最後に体育競技専門部隊への移動が決まっているので良い記念になる。寂しくも嬉しい門出だった。
「ピアノがおまけについてくるとはなあ……」
「でも得をしましたよ!」
 いつもなら素直に得をしたことを喜ぶレオニーが若干怯えている。二人が三つの村の子供たちに買ったのは鼓笛隊でも使える打楽器のセットだけで、電子ピアノは大会のホスト国モルフィスの楽器メーカーが寄付してくれたものだ。ローレンツが見たところモルフィスやブリギットであれば習いたての子供に親が気楽に与えるような、ありふれたグレードの電子ピアノなので提供した楽器メーカーもここまで二人が恐縮しているとは夢にも思わないだろう。だが物資不足に悩むフォドラではそのありがたみが違うのだ。
「イグナーツくんの言う通り厚意は素直に受け取るべきだ。ああ、レオニーさん、軍帽の角度が曲がっている。直したまえ」
 緊張のあまりいつもなら簡単にこなせること、が全く出来なくなっているのは去年この村に赴任してきた小学校教師も同じらしい。子供たちは既に贈呈された打楽器を手にしており、取材に来た軍の広報紙や放送局のカメラマンから撮影用のポーズ指導が入っている。ここで彼女が伴奏すれば完璧な絵面の写真が撮影できるはずだ。しかしなかなか始まらない。
 同梱されていた取扱説明書がモルフィス語で中身が読めないからだろうか。載っている図を見ながらあれこれ弄っても贈呈された電子ピアノが何の反応も示さないので彼女は涙目になっている。だがそれもそのはずだ。そもそもプラグが刺さっていない。緊張ぶりを見ていられなくなったローレンツはついに口を開いた。
「先生、少しよろしいだろうか?」
 ローレンツはステージに上り床に膝をついた。腕を伸ばしてプラグを手に持って見せると彼女は礼を言い、その場でへなへなと座り込んでしまった。贈呈品が不良品だったらと思うと怖くて仕方なかったのだろう。皆この後の予定もあるのでローレンツがそのまま動作確認したほうがよさそうだった。腕を伸ばして手近なコンセントにプラグを差し込み電源を入れる。主電源のランプが光ったのでローレンツは椅子を引いて座った。白鍵と黒鍵をその角度から見た瞬間、反射的に左手は髪を解き十指は全て吸い付くように白鍵と黒鍵の上で踊り出す。
 三日練習しなければ技術は失われていくと言われている。もう何年もピアノに触れていないローレンツの奏でる音は音大の学友たちからすれば落ちぶれ果てた、聞くに耐えないものだろう。だが指が鍵盤に触れるたびにかつて音楽へ抱いていた愛や喜びが寸分違わず胸の内に蘇る。失ったと思っていたものは今もきちんとローレンツのものだった。
 自分が我を忘れグリッサンドを多用した曲を一曲丸ごと弾き終えたことに気付いたローレンツは思わず右手で口を押さえた。鍵盤から指が離れた途端に困惑が意識を支配する。何故視界がフラッシュで白く光り、子供たちも含めて皆が拍手しているのかローレンツには分からなかった。今日たたえられるべきは自分ではない。
「先生、申し訳ない。出過ぎた真似をしました」
「いいえ!そんな中尉!ありがとうございました。一体どちらでピアノを学ばれたのですか?」
「子供の頃に少々……」
 正直に応えるべきか迷ったローレンツが誤魔化すとそれまで壁際で皆の様子を見ていたマリアンヌが挙手した。
「中尉、本当のことを言うべきです。私共は我が子のように可愛がっていただいておりますが、私は朝起きてオフィスや詰所で中尉のお姿を見かける度に今日も中尉宛てに召喚除隊の辞令が来なかったのか、と失望しておりました」
「マリアンヌさん、少し落ち着こうか」
「いいえ、私は冷静です……。中尉、中尉が復讐を果たされてからもう二年も経っています」
 いつもならとぼけたマリアンヌが揉めごとを起こさないように立ち回る三人が今回に限っては何故か全く彼女を止めようとしない。
「ブリギットの王立音楽アカデミーにいた方は紋章の有無に関わらず国境警備隊ではなく軍楽隊かアンヴァルの交響楽団に所属すべきです。才能を土に埋めて隠しておくなんてこと、あってはならないのです……!」

 カリードは自分が作った慈善団体がブリギットでワークショップを兼ねたコンサートを開く時は必ず休暇を取ってブリギットを訪問することにしている。二週間の骨休めだ。彼らの宿舎にもなっているホテルを訪れるとロビーでスタッフたちが歓談していた。
「社長、継続的なご支援本当にありがとうございます。今年もフォドラからの参加者がいますよ」
 ブリギット側のスタッフたちはカリードがフォドラ人参加者の有無を気にかけているのは白フォドラ人の血を引くからだ、と思い込んでいる。
「そうか。良いことだ。彼らの才能を貧困に埋もれさせてしまうのは勿体ない」
 ブリギットに活動拠点を移動して一年目はフォドラからの参加者はいなかった。三年目になってようやくフォドラから一名参加してくれた。たった一人で参加した若き同胞をアテンドしてあげてほしい、ということでブリギットの王立音楽アカデミーにいるフォドラ人留学生へ実に自然に繋がりが出来た。参加者にとって留学生たちは夢を諦めなかった未来の自分だし留学生にとって参加者たちは可愛い後輩だ。互いにとって良い刺激になる。
「今日はやけに静かだな」
 いつもならホテル中どこもかしこも若者たちの話し声や歌声、楽器の音で騒々しい。
「今日はコンサートホールの下見日です。皆大喜びで社長から貰った小遣いを持って行きましたよ。今年のノベルティTシャツの色はネオンブルーです」
「そりゃド派手で分かりやすいな。俺もショッピングモールに行ってみるかな」
 ブリギットは自然豊かな国だ。海も山も森もあり、世界中から美しい景観や大自然の中でアクティビティを楽しむ為に観光客が訪れる。まず、その観光客の財布目当てに巨大なショッピングモールが作られた。デパートや遊園地それにコンサートホールも内包しているような巨大なもので、もはやショッピングモール自体が観光名所となっている。参加者たちは下見のついでにショッピングモールで遊ぶのを楽しみにしていた。
 そんな巨大なショッピングモールでワークショップ参加者たちを探すのは結構簡単だ。コンサートホールがある関係でこのショッピングモール内にはストリートピアノがいくつか設置されている。カリードが作った慈善団体のワークショップ参加者たちは皆、外国語は達者ではないが、音楽という非言語コミュニケーションには長けていて彼らが設置されているストリートピアノを弾けば拍手喝采だ。
 モール内のストリートピアノを巡ってスポンサーロゴ入りのノベルティTシャツを着ている者を探せば良い。今年も派手な色なのできっとすぐに見つかるだろう。カリードはショッピングモールの入り口付近のカフェで買ったドリンクを片手に、モール内をふらふらと歩き始めた。昨年の記憶と微かな音を頼りに大荷物を抱えた買い物客が行き交う広い通路を歩いているといくつかの通路が合流して出来た広場があった。辺りは黒山の人だかりで響き渡る見事な演奏から言ってもワークショップの参加者に違いない。
 カリードは微笑みながら人だかりを割って自分の予想が合っているか確かめに行った。カリードの予想は半分正解で半分外れていた。グランドピアノの椅子にはネオンブルーのTシャツを着た少女と白い半袖シャツを身につけた蜘蛛のように手足の長い男性が並んで座っている。二人はフォドラ出身のようで少女は髪が若草色で男性は髪が紫色だった。

 兵舎村の棚の下、段ボールの奥深くにしまいこまれていた姿がようやく陽の光を浴びている。この姿だ。誰にも憚られることなく直接、この姿が見たかった。だからこそクロードは気が遠くなるような遠回りをしたし、何年も連続で空振りだったにもかかわらず今年もこうしてブリギットにやって来たのだ。
 アテンドしているのであろう参加者との連弾を終え観客に礼を言うため、拍手の中で立ち上がったローレンツは驚きのあまり大きな右手で口元を押さえた。その手には緑色のフェースの腕時計が着けられている。アウトドアスポーツ用の腕時計は演奏の場ではどうにも武骨で仕方なかった。演奏会用の瀟洒な腕時計を見繕ってやるのも良いかもしれない。そんなことを考えながらクロードはローレンツに駆け寄り彼の頬に手を当て唇に長い長いキスをした。
「ローレンツ!いつブリギットに戻ってきたんだよ!こっちに来てるなら知らせてくれれば良かったのに!」
「クロード、長いこと待たせてしまってすまなかった」
 くっつけた互いの頬が濡れているが二人とも泣いているのでどちらの涙のせいなのかはよく分からない。
「いや、良いんだ……。こうして来てくれたんだからそんなことは本当にどうでも良いさ……」
 先程までは拍手喝采で満たされていた空間が、クロードたちを囃し立てる歓声や指笛で満たされていく。二人の関係は今後も国際情勢に大きく左右されるだろう。今はこうして第三国で会えているが今後、不可能になるかもしれない。だが互いへの思いを土の中に埋めて隠すようなことは絶対にしたくなかった。畳む