「また会えようが、会えまいが」14.土産 #クロロレ #完売本 #また会えようが、会えまいが #現パロ 続きを読む ローレンツたちは村で一番大きなアンテナを立て、テレビを買った大隊長の自宅に集まってイグナーツとレオニーの勇姿を見守っていた。フォドラ連邦にはプロスポーツというものが存在しない。様々な競技のリーグは存在するがそれらにはその地域の警察・軍・大学が持っているクラブが参加している。激しく厳しい国内予選を勝ち抜き、バイアスロン世界選手権のフォドラ連邦代表に選ばれた二人は今モルフィスに行っている。 イグナーツがライフルで五十メートル先の標的を全て撃ち抜き、レオニーがスキーで他国の選手を追い越す度に室内は歓声で溢れ、酒瓶が空になっていった。彼らは金メダルこそとれなかったが初めてフォドラ連邦に銅メダルをもたらした。珍しく大隊長と休暇が重なったローレンツは大隊長のグラスにウォッカを注いでいる。 「あの二人の闘志あふれる仕草を見たかグロスタール中尉!」 大隊長は彼らの指ハートをひねり潰してやる、と言う意味だと誤解しているが訂正すればもっと面倒くさいことになるのでローレンツは黙って頷いた。二人はアンカリング、と呼ばれる手法にクロードから教わった指ハートのジェスチャーを取り入れている。ローレンツの身にも覚えがあるが、本番の大舞台で緊張しきってしまうと実力が発揮できない。最高のパフォーマンスを発揮出来た状態と指定した動作を脳内で強く関連付けておく。ローレンツの場合は結んでおいた髪を左手で解くことだった。 「あなた、黙って!レオニー同志とイグナーツ同志の会見よ!」 緊張に押し潰されそうになりながらも必死で戦った二人の首には銅メダルが輝いている。これで二人は軍の英雄だ。二人は長々と祖国と軍と両親に感謝を述べ他の選手を讃えている。随行している政治将校も瑕疵が見つけられないだろう。 「おめでとうございます!報奨金は何に使いますか?」 現地テレビ局のレポーターが村の英雄にマイクを差し出している。その言葉はすぐ通訳によってフォドラ語に訳されていく。イグナーツとレオニーはカメラの前でお互いに顔を見合わせてから無言で頷いた。どうやら二人にはずっと前から温めていた考えがあるらしい。酔っ払いたちは皆、口々にテレビが欲しい、いやバイクが良いなどと盛り上がっている。 「それぞれの故郷の村と今住んでいる兵舎村の小学校に楽器を寄付しようと思います」 二人はそう言い切り、通訳がその内容をモルフィス語に訳した。大隊長夫人は二人の言葉に感動して涙ぐんでいる。 何度も部下たちのために乾杯していたローレンツは酔いが回っていたせいか他人事のように良い金の使い方だ、自分がこの村の音楽教師なら何を買うだろうか、とあくまでも他人事として考えていた。この時、大隊長夫人と同じく二人のインタビューに感動した大会ホスト国モルフィスの楽器メーカーが学校用に電子ピアノを提供したことによってローレンツの人生は再び変化を迎えていく。 代表選手の特権は空港の免税店で買い物ができることだ。既に酒と煙草とチョコレートは確保してある。物資不足に悩むフォドラでは紙幣の次に使い勝手が良い。それに加えて年頃の娘らしく化粧品を物色していたレオニーはとんでもない代物を見つけた。手に取った高級スキンケアセットには化粧水などが入ったボトルが数本、入っている。そしてそれぞれのボトルには女性のシンプルなイラストが入っているのだが───これがどう見てもレオニーの知る人々なのだ。疑問と驚きで頭がいっぱいになる。慌てて商品を棚に戻し、イグナーツを探した。話を聞いてもらわないと平静を保てない。 イグナーツも高級時計コーナーのディスプレイを凝視し、呆然としていた。声をかけても全く反応しないので、仕方なく近寄るとイグナーツが見つけたとんでもない物、がレオニーの目にも入った。これなら声が彼の耳に届かないのも納得だった。 ディスプレイの中には高級時計と写真が飾られている。その写真の中では高級そうな背広と腕時計を身につけてクロードが微笑んでいた。どうやらあの後、彼も上手くやっていたらしい。レオニーは声をひそめてイグナーツに話しかけた。政治将校に聞かれたら問題になる。 「あいつ俳優だったのか?」 イグナーツはポケットから取り出したモルフィス語の辞書を捲った。ここはモルフィスなので商品の説明も含め、何もかもがモルフィス語で書いてある。 「いいえ、この時計を作っている会社の社長らしいです」 だからクロードはレオニーたちと初対面の時に腕時計について聞いてきたのだろう。ようやく合点がいった。 「時計を買えばこの写真が付いてくるのかな」 「そもそも高くて手が出せませんが残念なことにそういう仕組みではなさそうです」 ローレンツがこの写真を見たらどれほど喜ぶだろうか。彼はイグナーツとヒルダの失態を隠蔽するためにクロードを八週間も匿ったのだが、彼に情がうつっていることなど皆お見通しだった。 「中尉にあげたかったな。イグナーツ、私も見てもらいたいもんがあるからちょっとこっちに来てくれ!」 今度は化粧品コーナーでレオニーが見つけた高級スキンケアセットのパッケージを手に取ったイグナーツが驚く番だった。人民委員のスカーフの柄まで合っている。どうやらクロードは物覚えがいいらしい。化粧品に入っているロゴとカウンターに置いてあった高級時計のロゴが全く同じなので、きっとこの化粧品を作っている会社もクロードの持ち物なのだろう。 「僕もお金出しますからこれ皆さんの分を買いましょう」 「きっと期待されてるよな」 レオニーはパッケージに刷られているキャッチフレーズを指でなぞった。彼女は国境警備隊の隊員だがそれでも時々は自由な往来を夢見る時がある。───そこにはフォドラ語でたった一言「恋しさ」と書かれていた。 もう少しであれから二年経つ。 カリードは先日買収したモルフィスの某企業への国際電話を掛け終え、一人きりで広々とした台所に立っていた。電話中にちょうど茹で上がった小ぶりのじゃがいもをざるにあける。串はすんなり通り、きちんと奥まで柔らかくなっていた。 カリードはパルミラへの帰国を果たして早々に節税対策だ、と嘯いて慈善団体を設立している。ホームレスの人々に洗濯や入浴の機会を定期的に提供する団体と才能はあるが、環境に恵まれない若者の音楽活動をサポートする団体だ。どちらもまだ活動範囲はパルミラ国内にとどまっている。しかし後者は近いうちにモルフィスかブリギットへ活動の場を広げ拠点をそちらへ移す予定だ。フォドラの子どもたちが安心して参加出来るようにする為にも、徐々にパルミラの色を薄めていく必要がある。 続けてカリードは社員たちから無意味だ、と反対されたがオーナー社長の権限で押し切って化粧品部門を新たに設立した。他にも国内外の他業種の企業をいくつか投資目的だと言い張って買収している。どれかは、何かはフォドラへ、国境沿いのあの村へ届くだろう。化粧品やヘルスケア用品ならフォドラにもパルミラ製の商品が流入することは身をもって知っている。化粧品部門でもっとも評判が良く、白フォドラ人たちの郷愁を誘うようなパッケージデザインの商品は敢えてパルミラ本国では販売させていない。フォドランレディという非公式の通称までついているが、敢えてモルフィスの免税店限定にしていた。若い女性向けの観光ガイドブックにはモルフィスに行った際のマストバイアイテムと書かれている。 カリードは湯気の立つじゃがいもを皿に乗せて塩を振った。こんな風に直接働きかけられれば良いのだが、国同士が敵対しあっているとそう言うわけにもいかない。 「あいつらどんな顔するかな」 茹でたてのじゃがいもは熱過ぎて素手では持てないのでフォークを突き刺して少しずつかじっていく。ほくほくしていて柔らかい。バターを落とすとさらに美味しいのだが胃もたれがするまで食べてしまうので節制している。 もう片方の手には相変わらず行儀悪くスマホを持っていた。敵対している国家で八週間生き延びたことを理由に、未だにカリードを訝しむ者がパルミラの公安関係者にも多数存在する。生きていることこそが魔女の証、と言って罪なき女性を焼き殺した異端審問官と同じ発想をする者が経済的に恵まれた母国に存在するという事実にカリードは衝撃を受けた。 彼らから足元を掬われないように慎重に事を進めていく必要がある。 スポーツニュースでバイアスロンの世界選手権について知った時、カリードは祈るような気持ちで参加選手一覧をチェックした。そこにイグナーツとレオニーの名を見つけた時の喜びは未だに筆舌に尽くし難い。今カリードがスマホで眺めている大会のウェブサイトには参加選手のオフショット写真や競技中の動画が沢山載っている。しかしとにかく扱いの難しいフォドラ連邦の選手である二人の写真は残念なことに出場選手一覧にしか載っていない。証明写真のような小さな写真に写るイグナーツとレオニーは口を真一文字に結んでいた。兵舎村では見たことのない表情だ。しかしカリードはイグナーツが本気で怒った時の顔もレオニーが笑った時の顔も知っている。確かにあの八週間で彼らと親しくなれたのだ。三位に入賞したイグナーツとレオニーは今後、体育競技専門の部隊へ転属となるだろう。ヒルダとマリアンヌはまだローレンツの部下のままなのだろうか。兵舎村の奥方連中もいずれは夫の人事異動で去っていく。こちらの様子を知らせる事ができても首飾りの向こう側で何が起きているのかカリードには知ることができない。 愛おしく思う人々と連絡を取りたいだけなのに国際情勢が自分たちの邪魔をする。空になった皿とフォークをシンクの洗い桶に沈めるとカリードはスマホをテーブルに置き、ソファに横たわって目を閉じた。華やかに遊んでいた頃はこのソファに何人もの客が座っていたが帰国してからはずっとカリード専用だ。内なる心の声に耳を傾ける。子供の頃に聞こえてきた内なる心の声は緑の瞳や血に宿るリーガンの紋章を呪う金切り声で、しかもそれを自分の声だと思い込んでいた。今は違う。 「生活環境が変わって恋人と別れるなんてありふれたことなのに何故僕に執着するのだ?」 その声は淡々としていてこちらを責めることもなくとても優しい。あの八週間でローレンツから与えられた愛と信頼をどう扱うべきだろうか。奪われないように何重にも包み、土を掘って地中の奥深くに隠してしまうべきなのだろうか。だがそれは信頼に応えたことにならないのだ。全てが徒労に終わろうと出来ることはなんでもやっておきたい。内なる心の声への返答はいつも決まっていて揺らぐことがなかった。 「運命に逆らえないなら突っ走りたいんだ」 兵舎村にモルフィスから楽器が届いたので村の小学校で贈呈式を行う事となった。軍の好感度を上げる微笑ましいニュースなので軍の広報紙や地方紙、それに地元の放送局もイグナーツとレオニーに取材を申し込んでいる。二人はいつも身につけている深緑色の戦闘服ではなく茶色の軍服を着用していた。 「あんなに取材に来るなんて!」 「大丈夫よレオニーちゃん!この日に備えてみんなでお手入れしたからカメラ写りはばっちりよ!」 「それだけのことを成し遂げたのだから誇りに思うと良い」 競技用のウェアーやゼッケンを身につけている時ならイグナーツもレオニーも取材陣など歯牙にも掛けないのだろうが、正装しているとどうやら勝手が違うらしい。ローレンツたちは深緑色の戦闘服という気軽ないつもの姿で、小学校のささやかなホールに部下の晴れ姿を見届けに来ただけだ。微笑ましい右往左往を他人事として楽しんでいる。二人はこの贈呈式を最後に体育競技専門部隊への移動が決まっているので良い記念になる。寂しくも嬉しい門出だった。 「ピアノがおまけについてくるとはなあ……」 「でも得をしましたよ!」 いつもなら素直に得をしたことを喜ぶレオニーが若干怯えている。二人が三つの村の子供たちに買ったのは鼓笛隊でも使える打楽器のセットだけで、電子ピアノは大会のホスト国モルフィスの楽器メーカーが寄付してくれたものだ。ローレンツが見たところモルフィスやブリギットであれば習いたての子供に親が気楽に与えるような、ありふれたグレードの電子ピアノなので提供した楽器メーカーもここまで二人が恐縮しているとは夢にも思わないだろう。だが物資不足に悩むフォドラではそのありがたみが違うのだ。 「イグナーツくんの言う通り厚意は素直に受け取るべきだ。ああ、レオニーさん、軍帽の角度が曲がっている。直したまえ」 緊張のあまりいつもなら簡単にこなせること、が全く出来なくなっているのは去年この村に赴任してきた小学校教師も同じらしい。子供たちは既に贈呈された打楽器を手にしており、取材に来た軍の広報紙や放送局のカメラマンから撮影用のポーズ指導が入っている。ここで彼女が伴奏すれば完璧な絵面の写真が撮影できるはずだ。しかしなかなか始まらない。 同梱されていた取扱説明書がモルフィス語で中身が読めないからだろうか。載っている図を見ながらあれこれ弄っても贈呈された電子ピアノが何の反応も示さないので彼女は涙目になっている。だがそれもそのはずだ。そもそもプラグが刺さっていない。緊張ぶりを見ていられなくなったローレンツはついに口を開いた。 「先生、少しよろしいだろうか?」 ローレンツはステージに上り床に膝をついた。腕を伸ばしてプラグを手に持って見せると彼女は礼を言い、その場でへなへなと座り込んでしまった。贈呈品が不良品だったらと思うと怖くて仕方なかったのだろう。皆この後の予定もあるのでローレンツがそのまま動作確認したほうがよさそうだった。腕を伸ばして手近なコンセントにプラグを差し込み電源を入れる。主電源のランプが光ったのでローレンツは椅子を引いて座った。白鍵と黒鍵をその角度から見た瞬間、反射的に左手は髪を解き十指は全て吸い付くように白鍵と黒鍵の上で踊り出す。 三日練習しなければ技術は失われていくと言われている。もう何年もピアノに触れていないローレンツの奏でる音は音大の学友たちからすれば落ちぶれ果てた、聞くに耐えないものだろう。だが指が鍵盤に触れるたびにかつて音楽へ抱いていた愛や喜びが寸分違わず胸の内に蘇る。失ったと思っていたものは今もきちんとローレンツのものだった。 自分が我を忘れグリッサンドを多用した曲を一曲丸ごと弾き終えたことに気付いたローレンツは思わず右手で口を押さえた。鍵盤から指が離れた途端に困惑が意識を支配する。何故視界がフラッシュで白く光り、子供たちも含めて皆が拍手しているのかローレンツには分からなかった。今日たたえられるべきは自分ではない。 「先生、申し訳ない。出過ぎた真似をしました」 「いいえ!そんな中尉!ありがとうございました。一体どちらでピアノを学ばれたのですか?」 「子供の頃に少々……」 正直に応えるべきか迷ったローレンツが誤魔化すとそれまで壁際で皆の様子を見ていたマリアンヌが挙手した。 「中尉、本当のことを言うべきです。私共は我が子のように可愛がっていただいておりますが、私は朝起きてオフィスや詰所で中尉のお姿を見かける度に今日も中尉宛てに召喚除隊の辞令が来なかったのか、と失望しておりました」 「マリアンヌさん、少し落ち着こうか」 「いいえ、私は冷静です……。中尉、中尉が復讐を果たされてからもう二年も経っています」 いつもならとぼけたマリアンヌが揉めごとを起こさないように立ち回る三人が今回に限っては何故か全く彼女を止めようとしない。 「ブリギットの王立音楽アカデミーにいた方は紋章の有無に関わらず国境警備隊ではなく軍楽隊かアンヴァルの交響楽団に所属すべきです。才能を土に埋めて隠しておくなんてこと、あってはならないのです……!」 カリードは自分が作った慈善団体がブリギットでワークショップを兼ねたコンサートを開く時は必ず休暇を取ってブリギットを訪問することにしている。二週間の骨休めだ。彼らの宿舎にもなっているホテルを訪れるとロビーでスタッフたちが歓談していた。 「社長、継続的なご支援本当にありがとうございます。今年もフォドラからの参加者がいますよ」 ブリギット側のスタッフたちはカリードがフォドラ人参加者の有無を気にかけているのは白フォドラ人の血を引くからだ、と思い込んでいる。 「そうか。良いことだ。彼らの才能を貧困に埋もれさせてしまうのは勿体ない」 ブリギットに活動拠点を移動して一年目はフォドラからの参加者はいなかった。三年目になってようやくフォドラから一名参加してくれた。たった一人で参加した若き同胞をアテンドしてあげてほしい、ということでブリギットの王立音楽アカデミーにいるフォドラ人留学生へ実に自然に繋がりが出来た。参加者にとって留学生たちは夢を諦めなかった未来の自分だし留学生にとって参加者たちは可愛い後輩だ。互いにとって良い刺激になる。 「今日はやけに静かだな」 いつもならホテル中どこもかしこも若者たちの話し声や歌声、楽器の音で騒々しい。 「今日はコンサートホールの下見日です。皆大喜びで社長から貰った小遣いを持って行きましたよ。今年のノベルティTシャツの色はネオンブルーです」 「そりゃド派手で分かりやすいな。俺もショッピングモールに行ってみるかな」 ブリギットは自然豊かな国だ。海も山も森もあり、世界中から美しい景観や大自然の中でアクティビティを楽しむ為に観光客が訪れる。まず、その観光客の財布目当てに巨大なショッピングモールが作られた。デパートや遊園地それにコンサートホールも内包しているような巨大なもので、もはやショッピングモール自体が観光名所となっている。参加者たちは下見のついでにショッピングモールで遊ぶのを楽しみにしていた。 そんな巨大なショッピングモールでワークショップ参加者たちを探すのは結構簡単だ。コンサートホールがある関係でこのショッピングモール内にはストリートピアノがいくつか設置されている。カリードが作った慈善団体のワークショップ参加者たちは皆、外国語は達者ではないが、音楽という非言語コミュニケーションには長けていて彼らが設置されているストリートピアノを弾けば拍手喝采だ。 モール内のストリートピアノを巡ってスポンサーロゴ入りのノベルティTシャツを着ている者を探せば良い。今年も派手な色なのできっとすぐに見つかるだろう。カリードはショッピングモールの入り口付近のカフェで買ったドリンクを片手に、モール内をふらふらと歩き始めた。昨年の記憶と微かな音を頼りに大荷物を抱えた買い物客が行き交う広い通路を歩いているといくつかの通路が合流して出来た広場があった。辺りは黒山の人だかりで響き渡る見事な演奏から言ってもワークショップの参加者に違いない。 カリードは微笑みながら人だかりを割って自分の予想が合っているか確かめに行った。カリードの予想は半分正解で半分外れていた。グランドピアノの椅子にはネオンブルーのTシャツを着た少女と白い半袖シャツを身につけた蜘蛛のように手足の長い男性が並んで座っている。二人はフォドラ出身のようで少女は髪が若草色で男性は髪が紫色だった。 兵舎村の棚の下、段ボールの奥深くにしまいこまれていた姿がようやく陽の光を浴びている。この姿だ。誰にも憚られることなく直接、この姿が見たかった。だからこそクロードは気が遠くなるような遠回りをしたし、何年も連続で空振りだったにもかかわらず今年もこうしてブリギットにやって来たのだ。 アテンドしているのであろう参加者との連弾を終え観客に礼を言うため、拍手の中で立ち上がったローレンツは驚きのあまり大きな右手で口元を押さえた。その手には緑色のフェースの腕時計が着けられている。アウトドアスポーツ用の腕時計は演奏の場ではどうにも武骨で仕方なかった。演奏会用の瀟洒な腕時計を見繕ってやるのも良いかもしれない。そんなことを考えながらクロードはローレンツに駆け寄り彼の頬に手を当て唇に長い長いキスをした。 「ローレンツ!いつブリギットに戻ってきたんだよ!こっちに来てるなら知らせてくれれば良かったのに!」 「クロード、長いこと待たせてしまってすまなかった」 くっつけた互いの頬が濡れているが二人とも泣いているのでどちらの涙のせいなのかはよく分からない。 「いや、良いんだ……。こうして来てくれたんだからそんなことは本当にどうでも良いさ……」 先程までは拍手喝采で満たされていた空間が、クロードたちを囃し立てる歓声や指笛で満たされていく。二人の関係は今後も国際情勢に大きく左右されるだろう。今はこうして第三国で会えているが今後、不可能になるかもしれない。だが互いへの思いを土の中に埋めて隠すようなことは絶対にしたくなかった。畳む 小説,BL 2024/11/17(Sun)
#クロロレ #完売本 #また会えようが、会えまいが #現パロ
ローレンツたちは村で一番大きなアンテナを立て、テレビを買った大隊長の自宅に集まってイグナーツとレオニーの勇姿を見守っていた。フォドラ連邦にはプロスポーツというものが存在しない。様々な競技のリーグは存在するがそれらにはその地域の警察・軍・大学が持っているクラブが参加している。激しく厳しい国内予選を勝ち抜き、バイアスロン世界選手権のフォドラ連邦代表に選ばれた二人は今モルフィスに行っている。
イグナーツがライフルで五十メートル先の標的を全て撃ち抜き、レオニーがスキーで他国の選手を追い越す度に室内は歓声で溢れ、酒瓶が空になっていった。彼らは金メダルこそとれなかったが初めてフォドラ連邦に銅メダルをもたらした。珍しく大隊長と休暇が重なったローレンツは大隊長のグラスにウォッカを注いでいる。
「あの二人の闘志あふれる仕草を見たかグロスタール中尉!」
大隊長は彼らの指ハートをひねり潰してやる、と言う意味だと誤解しているが訂正すればもっと面倒くさいことになるのでローレンツは黙って頷いた。二人はアンカリング、と呼ばれる手法にクロードから教わった指ハートのジェスチャーを取り入れている。ローレンツの身にも覚えがあるが、本番の大舞台で緊張しきってしまうと実力が発揮できない。最高のパフォーマンスを発揮出来た状態と指定した動作を脳内で強く関連付けておく。ローレンツの場合は結んでおいた髪を左手で解くことだった。
「あなた、黙って!レオニー同志とイグナーツ同志の会見よ!」
緊張に押し潰されそうになりながらも必死で戦った二人の首には銅メダルが輝いている。これで二人は軍の英雄だ。二人は長々と祖国と軍と両親に感謝を述べ他の選手を讃えている。随行している政治将校も瑕疵が見つけられないだろう。
「おめでとうございます!報奨金は何に使いますか?」
現地テレビ局のレポーターが村の英雄にマイクを差し出している。その言葉はすぐ通訳によってフォドラ語に訳されていく。イグナーツとレオニーはカメラの前でお互いに顔を見合わせてから無言で頷いた。どうやら二人にはずっと前から温めていた考えがあるらしい。酔っ払いたちは皆、口々にテレビが欲しい、いやバイクが良いなどと盛り上がっている。
「それぞれの故郷の村と今住んでいる兵舎村の小学校に楽器を寄付しようと思います」
二人はそう言い切り、通訳がその内容をモルフィス語に訳した。大隊長夫人は二人の言葉に感動して涙ぐんでいる。
何度も部下たちのために乾杯していたローレンツは酔いが回っていたせいか他人事のように良い金の使い方だ、自分がこの村の音楽教師なら何を買うだろうか、とあくまでも他人事として考えていた。この時、大隊長夫人と同じく二人のインタビューに感動した大会ホスト国モルフィスの楽器メーカーが学校用に電子ピアノを提供したことによってローレンツの人生は再び変化を迎えていく。
代表選手の特権は空港の免税店で買い物ができることだ。既に酒と煙草とチョコレートは確保してある。物資不足に悩むフォドラでは紙幣の次に使い勝手が良い。それに加えて年頃の娘らしく化粧品を物色していたレオニーはとんでもない代物を見つけた。手に取った高級スキンケアセットには化粧水などが入ったボトルが数本、入っている。そしてそれぞれのボトルには女性のシンプルなイラストが入っているのだが───これがどう見てもレオニーの知る人々なのだ。疑問と驚きで頭がいっぱいになる。慌てて商品を棚に戻し、イグナーツを探した。話を聞いてもらわないと平静を保てない。
イグナーツも高級時計コーナーのディスプレイを凝視し、呆然としていた。声をかけても全く反応しないので、仕方なく近寄るとイグナーツが見つけたとんでもない物、がレオニーの目にも入った。これなら声が彼の耳に届かないのも納得だった。
ディスプレイの中には高級時計と写真が飾られている。その写真の中では高級そうな背広と腕時計を身につけてクロードが微笑んでいた。どうやらあの後、彼も上手くやっていたらしい。レオニーは声をひそめてイグナーツに話しかけた。政治将校に聞かれたら問題になる。
「あいつ俳優だったのか?」
イグナーツはポケットから取り出したモルフィス語の辞書を捲った。ここはモルフィスなので商品の説明も含め、何もかもがモルフィス語で書いてある。
「いいえ、この時計を作っている会社の社長らしいです」
だからクロードはレオニーたちと初対面の時に腕時計について聞いてきたのだろう。ようやく合点がいった。
「時計を買えばこの写真が付いてくるのかな」
「そもそも高くて手が出せませんが残念なことにそういう仕組みではなさそうです」
ローレンツがこの写真を見たらどれほど喜ぶだろうか。彼はイグナーツとヒルダの失態を隠蔽するためにクロードを八週間も匿ったのだが、彼に情がうつっていることなど皆お見通しだった。
「中尉にあげたかったな。イグナーツ、私も見てもらいたいもんがあるからちょっとこっちに来てくれ!」
今度は化粧品コーナーでレオニーが見つけた高級スキンケアセットのパッケージを手に取ったイグナーツが驚く番だった。人民委員のスカーフの柄まで合っている。どうやらクロードは物覚えがいいらしい。化粧品に入っているロゴとカウンターに置いてあった高級時計のロゴが全く同じなので、きっとこの化粧品を作っている会社もクロードの持ち物なのだろう。
「僕もお金出しますからこれ皆さんの分を買いましょう」
「きっと期待されてるよな」
レオニーはパッケージに刷られているキャッチフレーズを指でなぞった。彼女は国境警備隊の隊員だがそれでも時々は自由な往来を夢見る時がある。───そこにはフォドラ語でたった一言「恋しさ」と書かれていた。
もう少しであれから二年経つ。
カリードは先日買収したモルフィスの某企業への国際電話を掛け終え、一人きりで広々とした台所に立っていた。電話中にちょうど茹で上がった小ぶりのじゃがいもをざるにあける。串はすんなり通り、きちんと奥まで柔らかくなっていた。
カリードはパルミラへの帰国を果たして早々に節税対策だ、と嘯いて慈善団体を設立している。ホームレスの人々に洗濯や入浴の機会を定期的に提供する団体と才能はあるが、環境に恵まれない若者の音楽活動をサポートする団体だ。どちらもまだ活動範囲はパルミラ国内にとどまっている。しかし後者は近いうちにモルフィスかブリギットへ活動の場を広げ拠点をそちらへ移す予定だ。フォドラの子どもたちが安心して参加出来るようにする為にも、徐々にパルミラの色を薄めていく必要がある。
続けてカリードは社員たちから無意味だ、と反対されたがオーナー社長の権限で押し切って化粧品部門を新たに設立した。他にも国内外の他業種の企業をいくつか投資目的だと言い張って買収している。どれかは、何かはフォドラへ、国境沿いのあの村へ届くだろう。化粧品やヘルスケア用品ならフォドラにもパルミラ製の商品が流入することは身をもって知っている。化粧品部門でもっとも評判が良く、白フォドラ人たちの郷愁を誘うようなパッケージデザインの商品は敢えてパルミラ本国では販売させていない。フォドランレディという非公式の通称までついているが、敢えてモルフィスの免税店限定にしていた。若い女性向けの観光ガイドブックにはモルフィスに行った際のマストバイアイテムと書かれている。
カリードは湯気の立つじゃがいもを皿に乗せて塩を振った。こんな風に直接働きかけられれば良いのだが、国同士が敵対しあっているとそう言うわけにもいかない。
「あいつらどんな顔するかな」
茹でたてのじゃがいもは熱過ぎて素手では持てないのでフォークを突き刺して少しずつかじっていく。ほくほくしていて柔らかい。バターを落とすとさらに美味しいのだが胃もたれがするまで食べてしまうので節制している。
もう片方の手には相変わらず行儀悪くスマホを持っていた。敵対している国家で八週間生き延びたことを理由に、未だにカリードを訝しむ者がパルミラの公安関係者にも多数存在する。生きていることこそが魔女の証、と言って罪なき女性を焼き殺した異端審問官と同じ発想をする者が経済的に恵まれた母国に存在するという事実にカリードは衝撃を受けた。
彼らから足元を掬われないように慎重に事を進めていく必要がある。
スポーツニュースでバイアスロンの世界選手権について知った時、カリードは祈るような気持ちで参加選手一覧をチェックした。そこにイグナーツとレオニーの名を見つけた時の喜びは未だに筆舌に尽くし難い。今カリードがスマホで眺めている大会のウェブサイトには参加選手のオフショット写真や競技中の動画が沢山載っている。しかしとにかく扱いの難しいフォドラ連邦の選手である二人の写真は残念なことに出場選手一覧にしか載っていない。証明写真のような小さな写真に写るイグナーツとレオニーは口を真一文字に結んでいた。兵舎村では見たことのない表情だ。しかしカリードはイグナーツが本気で怒った時の顔もレオニーが笑った時の顔も知っている。確かにあの八週間で彼らと親しくなれたのだ。三位に入賞したイグナーツとレオニーは今後、体育競技専門の部隊へ転属となるだろう。ヒルダとマリアンヌはまだローレンツの部下のままなのだろうか。兵舎村の奥方連中もいずれは夫の人事異動で去っていく。こちらの様子を知らせる事ができても首飾りの向こう側で何が起きているのかカリードには知ることができない。
愛おしく思う人々と連絡を取りたいだけなのに国際情勢が自分たちの邪魔をする。空になった皿とフォークをシンクの洗い桶に沈めるとカリードはスマホをテーブルに置き、ソファに横たわって目を閉じた。華やかに遊んでいた頃はこのソファに何人もの客が座っていたが帰国してからはずっとカリード専用だ。内なる心の声に耳を傾ける。子供の頃に聞こえてきた内なる心の声は緑の瞳や血に宿るリーガンの紋章を呪う金切り声で、しかもそれを自分の声だと思い込んでいた。今は違う。
「生活環境が変わって恋人と別れるなんてありふれたことなのに何故僕に執着するのだ?」
その声は淡々としていてこちらを責めることもなくとても優しい。あの八週間でローレンツから与えられた愛と信頼をどう扱うべきだろうか。奪われないように何重にも包み、土を掘って地中の奥深くに隠してしまうべきなのだろうか。だがそれは信頼に応えたことにならないのだ。全てが徒労に終わろうと出来ることはなんでもやっておきたい。内なる心の声への返答はいつも決まっていて揺らぐことがなかった。
「運命に逆らえないなら突っ走りたいんだ」
兵舎村にモルフィスから楽器が届いたので村の小学校で贈呈式を行う事となった。軍の好感度を上げる微笑ましいニュースなので軍の広報紙や地方紙、それに地元の放送局もイグナーツとレオニーに取材を申し込んでいる。二人はいつも身につけている深緑色の戦闘服ではなく茶色の軍服を着用していた。
「あんなに取材に来るなんて!」
「大丈夫よレオニーちゃん!この日に備えてみんなでお手入れしたからカメラ写りはばっちりよ!」
「それだけのことを成し遂げたのだから誇りに思うと良い」
競技用のウェアーやゼッケンを身につけている時ならイグナーツもレオニーも取材陣など歯牙にも掛けないのだろうが、正装しているとどうやら勝手が違うらしい。ローレンツたちは深緑色の戦闘服という気軽ないつもの姿で、小学校のささやかなホールに部下の晴れ姿を見届けに来ただけだ。微笑ましい右往左往を他人事として楽しんでいる。二人はこの贈呈式を最後に体育競技専門部隊への移動が決まっているので良い記念になる。寂しくも嬉しい門出だった。
「ピアノがおまけについてくるとはなあ……」
「でも得をしましたよ!」
いつもなら素直に得をしたことを喜ぶレオニーが若干怯えている。二人が三つの村の子供たちに買ったのは鼓笛隊でも使える打楽器のセットだけで、電子ピアノは大会のホスト国モルフィスの楽器メーカーが寄付してくれたものだ。ローレンツが見たところモルフィスやブリギットであれば習いたての子供に親が気楽に与えるような、ありふれたグレードの電子ピアノなので提供した楽器メーカーもここまで二人が恐縮しているとは夢にも思わないだろう。だが物資不足に悩むフォドラではそのありがたみが違うのだ。
「イグナーツくんの言う通り厚意は素直に受け取るべきだ。ああ、レオニーさん、軍帽の角度が曲がっている。直したまえ」
緊張のあまりいつもなら簡単にこなせること、が全く出来なくなっているのは去年この村に赴任してきた小学校教師も同じらしい。子供たちは既に贈呈された打楽器を手にしており、取材に来た軍の広報紙や放送局のカメラマンから撮影用のポーズ指導が入っている。ここで彼女が伴奏すれば完璧な絵面の写真が撮影できるはずだ。しかしなかなか始まらない。
同梱されていた取扱説明書がモルフィス語で中身が読めないからだろうか。載っている図を見ながらあれこれ弄っても贈呈された電子ピアノが何の反応も示さないので彼女は涙目になっている。だがそれもそのはずだ。そもそもプラグが刺さっていない。緊張ぶりを見ていられなくなったローレンツはついに口を開いた。
「先生、少しよろしいだろうか?」
ローレンツはステージに上り床に膝をついた。腕を伸ばしてプラグを手に持って見せると彼女は礼を言い、その場でへなへなと座り込んでしまった。贈呈品が不良品だったらと思うと怖くて仕方なかったのだろう。皆この後の予定もあるのでローレンツがそのまま動作確認したほうがよさそうだった。腕を伸ばして手近なコンセントにプラグを差し込み電源を入れる。主電源のランプが光ったのでローレンツは椅子を引いて座った。白鍵と黒鍵をその角度から見た瞬間、反射的に左手は髪を解き十指は全て吸い付くように白鍵と黒鍵の上で踊り出す。
三日練習しなければ技術は失われていくと言われている。もう何年もピアノに触れていないローレンツの奏でる音は音大の学友たちからすれば落ちぶれ果てた、聞くに耐えないものだろう。だが指が鍵盤に触れるたびにかつて音楽へ抱いていた愛や喜びが寸分違わず胸の内に蘇る。失ったと思っていたものは今もきちんとローレンツのものだった。
自分が我を忘れグリッサンドを多用した曲を一曲丸ごと弾き終えたことに気付いたローレンツは思わず右手で口を押さえた。鍵盤から指が離れた途端に困惑が意識を支配する。何故視界がフラッシュで白く光り、子供たちも含めて皆が拍手しているのかローレンツには分からなかった。今日たたえられるべきは自分ではない。
「先生、申し訳ない。出過ぎた真似をしました」
「いいえ!そんな中尉!ありがとうございました。一体どちらでピアノを学ばれたのですか?」
「子供の頃に少々……」
正直に応えるべきか迷ったローレンツが誤魔化すとそれまで壁際で皆の様子を見ていたマリアンヌが挙手した。
「中尉、本当のことを言うべきです。私共は我が子のように可愛がっていただいておりますが、私は朝起きてオフィスや詰所で中尉のお姿を見かける度に今日も中尉宛てに召喚除隊の辞令が来なかったのか、と失望しておりました」
「マリアンヌさん、少し落ち着こうか」
「いいえ、私は冷静です……。中尉、中尉が復讐を果たされてからもう二年も経っています」
いつもならとぼけたマリアンヌが揉めごとを起こさないように立ち回る三人が今回に限っては何故か全く彼女を止めようとしない。
「ブリギットの王立音楽アカデミーにいた方は紋章の有無に関わらず国境警備隊ではなく軍楽隊かアンヴァルの交響楽団に所属すべきです。才能を土に埋めて隠しておくなんてこと、あってはならないのです……!」
カリードは自分が作った慈善団体がブリギットでワークショップを兼ねたコンサートを開く時は必ず休暇を取ってブリギットを訪問することにしている。二週間の骨休めだ。彼らの宿舎にもなっているホテルを訪れるとロビーでスタッフたちが歓談していた。
「社長、継続的なご支援本当にありがとうございます。今年もフォドラからの参加者がいますよ」
ブリギット側のスタッフたちはカリードがフォドラ人参加者の有無を気にかけているのは白フォドラ人の血を引くからだ、と思い込んでいる。
「そうか。良いことだ。彼らの才能を貧困に埋もれさせてしまうのは勿体ない」
ブリギットに活動拠点を移動して一年目はフォドラからの参加者はいなかった。三年目になってようやくフォドラから一名参加してくれた。たった一人で参加した若き同胞をアテンドしてあげてほしい、ということでブリギットの王立音楽アカデミーにいるフォドラ人留学生へ実に自然に繋がりが出来た。参加者にとって留学生たちは夢を諦めなかった未来の自分だし留学生にとって参加者たちは可愛い後輩だ。互いにとって良い刺激になる。
「今日はやけに静かだな」
いつもならホテル中どこもかしこも若者たちの話し声や歌声、楽器の音で騒々しい。
「今日はコンサートホールの下見日です。皆大喜びで社長から貰った小遣いを持って行きましたよ。今年のノベルティTシャツの色はネオンブルーです」
「そりゃド派手で分かりやすいな。俺もショッピングモールに行ってみるかな」
ブリギットは自然豊かな国だ。海も山も森もあり、世界中から美しい景観や大自然の中でアクティビティを楽しむ為に観光客が訪れる。まず、その観光客の財布目当てに巨大なショッピングモールが作られた。デパートや遊園地それにコンサートホールも内包しているような巨大なもので、もはやショッピングモール自体が観光名所となっている。参加者たちは下見のついでにショッピングモールで遊ぶのを楽しみにしていた。
そんな巨大なショッピングモールでワークショップ参加者たちを探すのは結構簡単だ。コンサートホールがある関係でこのショッピングモール内にはストリートピアノがいくつか設置されている。カリードが作った慈善団体のワークショップ参加者たちは皆、外国語は達者ではないが、音楽という非言語コミュニケーションには長けていて彼らが設置されているストリートピアノを弾けば拍手喝采だ。
モール内のストリートピアノを巡ってスポンサーロゴ入りのノベルティTシャツを着ている者を探せば良い。今年も派手な色なのできっとすぐに見つかるだろう。カリードはショッピングモールの入り口付近のカフェで買ったドリンクを片手に、モール内をふらふらと歩き始めた。昨年の記憶と微かな音を頼りに大荷物を抱えた買い物客が行き交う広い通路を歩いているといくつかの通路が合流して出来た広場があった。辺りは黒山の人だかりで響き渡る見事な演奏から言ってもワークショップの参加者に違いない。
カリードは微笑みながら人だかりを割って自分の予想が合っているか確かめに行った。カリードの予想は半分正解で半分外れていた。グランドピアノの椅子にはネオンブルーのTシャツを着た少女と白い半袖シャツを身につけた蜘蛛のように手足の長い男性が並んで座っている。二人はフォドラ出身のようで少女は髪が若草色で男性は髪が紫色だった。
兵舎村の棚の下、段ボールの奥深くにしまいこまれていた姿がようやく陽の光を浴びている。この姿だ。誰にも憚られることなく直接、この姿が見たかった。だからこそクロードは気が遠くなるような遠回りをしたし、何年も連続で空振りだったにもかかわらず今年もこうしてブリギットにやって来たのだ。
アテンドしているのであろう参加者との連弾を終え観客に礼を言うため、拍手の中で立ち上がったローレンツは驚きのあまり大きな右手で口元を押さえた。その手には緑色のフェースの腕時計が着けられている。アウトドアスポーツ用の腕時計は演奏の場ではどうにも武骨で仕方なかった。演奏会用の瀟洒な腕時計を見繕ってやるのも良いかもしれない。そんなことを考えながらクロードはローレンツに駆け寄り彼の頬に手を当て唇に長い長いキスをした。
「ローレンツ!いつブリギットに戻ってきたんだよ!こっちに来てるなら知らせてくれれば良かったのに!」
「クロード、長いこと待たせてしまってすまなかった」
くっつけた互いの頬が濡れているが二人とも泣いているのでどちらの涙のせいなのかはよく分からない。
「いや、良いんだ……。こうして来てくれたんだからそんなことは本当にどうでも良いさ……」
先程までは拍手喝采で満たされていた空間が、クロードたちを囃し立てる歓声や指笛で満たされていく。二人の関係は今後も国際情勢に大きく左右されるだろう。今はこうして第三国で会えているが今後、不可能になるかもしれない。だが互いへの思いを土の中に埋めて隠すようなことは絶対にしたくなかった。畳む