「また会えようが、会えまいが」13.越境
#クロロレ #完売本 #R18 #現パロ #また会えようが、会えまいが
クロードは年が明けてから髭を剃っていない。最初は肌に触れるとちくちくと違和感があったが、体質なのか今はローレンツが柔らかく感じるほど髭は伸びていた。帰国すればすぐに公安関係の取り調べが待っている。多少は遭難した感じを出さないと、と言うことらしい。
「こら、くすぐったい」
「気持ちいい、の間違いだろ?」
ベッドの上で何も身につけず二人で過ごすのもこれが最後だ。ローレンツはもうシャワーを浴びて軍服に着替えねばならない。昨晩もそこそこ遅くまでやることをやっていたにも関わらず緊張していたクロードが明け方に目を覚まし───今に至る。
「今朝は絶対に一人でシャワーを浴びるからな」
クロードの耳元でそう宣言するとローレンツは寝室を後にした。シャワーを浴びる前にサモワールとストーブに火を入れておく。朝食の献立はもう決まっていた。
シャワーを浴び髭を剃り壁付けのドライヤーで髪を乾かす。もう軍務に就くのでクロードに褒められた髪を後ろに一つで束ねた。寝室で大人しく順番を待っていたクロードに扉の向こうから声をかける。
「食事を作っている間にシャワーを浴びたまえ」
「分かった。すぐ行く」
朝食の献立は決まっていた。昨日の残りの塩漬け肉と乾燥キノコの煮込みとブリヌイだ。皆がお裾分けしてくれたヴァレーニエもクロードと二人がかりで食べたせいかもう殆ど残っていない。フライパンでブリヌイを焼いているとジャンプスーツを身につけたクロードが台所にやってきた。
「そちらにしたのか」
ジャンプスーツかローレンツが買い与えた服か。クロードは何故かどちらの服を着て帰るのかずっと決めかねていた。
「頑丈だし上空の寒さに耐えられるように作ってあるからな」
国境地帯は標高が高いので寒い。山の中を歩き回るのだから当然の選択だろう。
「それに取り調べで取り上げられても惜しくない。お前に買ってもらったものを置いていくのは仕方ないが、他人に取り上げられるのは嫌なんだ」
そういうとローレンツが食べ始めるのを待つこともなくクロードは朝食に口をつけた。急いで食べて皿や瓶を洗っておかねばならない。そろそろイグナーツとレオニーがローレンツたちを軍用車で迎えに来る頃だ。
「そうか、分かった。ところでクロード、皆に踏まれる覚悟は出来たか?」
クロードは軍用車の後部座席の足元に隠れて国境地帯に侵入する。軍用車の運転手はイグナーツで助手はレオニーだ。一番身分が高いローレンツは後部座席に座る。
「マリアンヌさんは僕の隣に」
マリアンヌの方がヒルダより背が高い。クロードはローレンツに足を踏まれ腰をマリアンヌに踏まれ頭をヒルダに踏まれながらフォドラ側の第一出入り口、続いて第二出入り口を突破した。年末年始に国境を守っていた部隊との引き継ぎを終えれば詰所はローレンツたち以外無人となる。
「グロスタール中尉、ではあとは任せた」
「承知いたしました。早くご家族に顔を見せてあげてください」
撤収する軍用車のエンジン音が聞こえなくなるとローレンツは手を叩いた。これでもう明日の朝には日常に戻れる。
「もう大丈夫だ。クロード降りてくれ」
「道が悪すぎる……」
「山奥はそんなものだ」
「遠慮なしに踏んだな!」
「道が悪いからな」
後部座席の足元から這い出てきたクロードはげっそりしている。彼とローレンツが軽口を叩くのも今日で終わりだ。物資や装備を確認し徒歩で国境地帯へ向かう。クロードはジャンプスーツにブーツと腕時計と無線機だけで身軽だが、ローレンツたちは武器や背嚢があるので背負う荷物は三十キロ近くになる。
「ああ、見えてきた!」
レオニーが指差したのは祖国防衛戦争の際に放棄された民家だ。現在では国境警備隊の者たちが拠点として利用している。
「今日は日が暮れるまで皆はここで待機だ。日が暮れたら僕が一人でクロードを国境まで連れて行く」
そうと決まればやることはひとつだ。焚き火を起こしお喋りしながら飲み食いをして時間を潰すしかない。皆手早く枯木と枯れ葉を集め火を起こした。持参したじゃがいもにアルミホイルを巻いて焚き火に突っ込む。
「今日は天気がいいからパルミラがよく見えるよ!」
フォドラの首飾りは連峰で南北を繋ぐ稜線がフォドラ連邦とパルミラ王国の国境線になっているが東西にも山が連なっている。
「え、ここってまだフォドラだろ?」
「国境線は真っ直ぐではありません。東に見えるあの小さな山はパルミラの山です」
「案外近いんだな……なあ、和平条約が結ばれたらまた皆で会おうぜ」
クロードの脳天気な発言に皆、苦笑して首を横に振った。停戦して既に半世紀以上が経過し歪な形で安定している。残念ながらこの状態が両国の強硬派にとって一番都合が良いのだ。
「そんな夢みたいなこと言ってないで元気でね」
「おう、ヒルダも皆も元気でな。そうだ。イグナーツとレオニーは国の代表になったら外国にも行けるんだろ?良いこと教えてやるよ」
そう言うとクロードが腕を伸ばし親指と人差し指を小さく交差させたので、ブリギットで暮らしていたことのあるローレンツはその下らなさにため息をついた。
「何それ、虫みたいに捻り潰してやるって意味か?」
「ハートだよ!お前らどうせ愛想良くすんなとか政治将校に指導されるんだろ?これならあいつらにバレずに外国で人気者になれるぜ!」
「本当に役に立たない餞別だな……一応感謝しとくよ……」
レオニーもイグナーツも呆れ顔だったがマリアンヌがこっそり親指と人差し指を小さく交差させていたのをクロードは見逃さなかった。これこそがローレンツが必死になってクロード、いや、カリードをパルミラに帰そうとする理由だ。フォドラの大地に生きる人々はこんなにも愛おしい。クロードたちが離れ離れになるのは勿論、納得いかないがそれでも彼女たちが不当に損なわれてはならないのだ。呆れ声の二人から背を向けたクロードの目に荒れ果てた庭が映る。
「あれ、この皿って……」
東側に置かれた苔むした甕に視線をやるとその上に白く小さな皿が載せられている。管理されていない人家は荒れ果て何もかもが壊れていくが、不思議とその皿は割れていない。クロードの視線は自然とその皿に引き寄せられた。
「家の中に息子さんらしき写真があるんです。出征したんでしょうね。僕たちこの家に残されたものはなんでも使わせてもらってるんですが……」
「あの白い皿だけは絶対に触らない。私たちの母親も毎日皿の水を取り替えてるだろうからな」
クロードも知っている子供の無事を願う願掛けの一種だ。イグナーツとレオニーの言葉を聞いたクロードは黙って頷いた。母親は二人いるがどちらもクロードのために皿の水を取り替えないだろう。
「でも、クロードさんは明日の夜にはお母様と連絡が取れますね」
マリアンヌの言葉が素朴だったせいかクロードは珍しく言葉に詰まってしまった。身元引き受け人をするのはおそらく父だろう。ローレンツの部下たちと過ごす愉快で穏やかな時間は驚くほど早く過ぎ去り、カリードとして現実へ戻る時が刻一刻と近づいてくる。夕陽がまず雲を赤く照らし、辺り一面を上から赤く染めていった。見事な色彩の変化に思わず息を呑んでしまう。先程までクロードはフォドラで過ごした時間の美しさを表す言葉を持っていなかった。しかし今後は簡単に伝えることができる。山の夕暮れのように美しい時間だった。
「行こうか、クロード。申し訳ないが皆は僕がここに戻るまで引き続き待機だ」
ローレンツの言葉を聞いた皆は涙を拭って焚き火から離れ、一人ずつクロードと抱き合って別れを惜しんだ。辺りを赤く美しく染めた太陽の代わりに満月が白い光で辺りを照らしている。
「街灯もないのに明るいもんだ」
「その代わり新月の時は何も見えないぞ」
本当に明るいのでローレンツが微笑んでいるのも見えた。直線距離で言えば国境までたった二キロだが山の中なのでそう単純にはいかない。曲がりくねった道を手を取り合って二人で歩いていると川が見えてきた。
「どうやって渡るんだ?」
「水かさが増した時に釣りをするために隠してある小舟がある。糧食だけでは足りない日が多くてね」
二人がかりで川まで小舟を押していく。ふわりと浮かんだところでローレンツが小舟を捕まえクロードを先に乗せてくれた。
「はい、漕いでくれ。そちらに座ったから仕方ないな!」
「何だよそれ!」
クロードにも意図は伝わっている。漕ぎ慣れているローレンツが漕いだら対岸にすぐ着いてしまうからだ。フォドラにいる間きちんと食べていたせいか力強く櫂を動かせてしまったが、思った方向に向かってくれない。小舟と櫂が流されないようにきちんと陸にあげてしまうともう道草を食う理由は何ひとつ存在しなかった。砂利だらけの河岸から山道が見える。きっとあそこからパルミラへ戻れるのだろう。
「ああ、クロード、待ってくれ。渡したいものがある。新年の贈り物だよ」
そう言うとローレンツはクロードにハンカチを差し出した。中に小さくて固いものが挟んである。
「俺のピアス質屋から買い戻したのか?!気にしなくてよかったのに!」
「君がつつがなくパルミラに持ち込める贈り物がこれしかなかったのでね。今ここで付けて欲しい」
こうして長年の相棒が再びクロードの左耳に戻ってきた。
「でも俺があげようとした時計は……」
証拠物件として裁判所に提出されていてローレンツの手元に戻るのかどうかわからない。あれで現金が尽きてしまい、クロードは結局ローレンツに何も渡せなかった。
「いや、良いんだ。君からは血を貰った。では国境まで行こうか」
山道には等間隔に高さ四十センチくらいの石標が立ててある。地雷が除去されている目印だと言う。ローレンツと二人で並んで歩いていると殆ど有刺鉄線が残っていない鉄条網が現れた。
「あれが国境なのか?」
「そうだ。フォドラもパルミラもこの鉄条網は大規模な整備が出来ない。国境侵犯と疑われるからな」
この鉄条網を半世紀以上前に張ったのは停戦協定の仲介をしたブリギット軍だ。当初は足元から見上げる高さまでびっしりと張られていたのだろう。だがいまや一番下の段、高さ十センチ程度の一本しか残っていない。
「あそこを越えたらもう無線機が使える。パルミラ軍もレーダーで監視しているから僕の姿が見えなくなったら電源を入れて助けを求めろ」
クロードは黙って軽くローレンツを抱きしめてから鉄条網を越え、彼の背中が遠ざかっていくのを見守った。無線機の電源を入れたくない。電源を入れれば二度とローレンツとは会えなくなる。
「待って!待ってくれ!」
クロードの声がしたので反射的にローレンツは後ろを振り向いた。八週間なんとか匿ってようやく国境線を越えさせたのにクロードが再び国境線を越えてフォドラに入り、ローレンツの元に駆け寄ってくる。抱きつかれ首の後ろに手を回された。彼の手が勝手に髪を束ねているゴムを引き抜く。下ろしている方が好みだ、と言っていたから最後にその姿を見たかったのかもしれない。
「ローレンツ、心の底から愛してるよ。頼むから元気でいてくれ。自己採血をしておくんだ。俺のこと忘れても構わないからそれだけは約束してくれよ」
「自己採血はともかく君のことを忘れられるわけないだろう。愛してるよクロード、いや……」
ローレンツは病室で教えられた本名で彼を呼ぼうとしたが、その前にクロードに唇を塞がれた。それで良いのかもしれない。二人とも頬が濡れたがどちらの涙のせいで濡れたのかはわからなかった。
フォドラ連邦において個人の事情はほぼ考慮されない。ローレンツが国境地帯で立哨をしている間にもメモリーカードを発見したのはローレンツである、と言う前提で裁判は進んでいった。兵舎村の市場で暇を潰していたクロードのことを思い出し、突然現れて消えていった彼を訝しむ関係者もいたが何と言っても病院がローレンツの診断書にcrest+の献血者あり、と記録している。
紋章を持っているならば彼が外国人であるはずがないし、紋章保持者に激しい偏見を持っているという白フォドラ人であるはずもない。国境地帯の修道院で盗掘をしていたグループはローレンツが想像していたよりも遥かに規模が大きく、ガルグ=マクはおろか首都のアンヴァルでも逮捕者が出た───と言うことをローレンツが知ったのはクロードがフォドラを去って二ヶ月後、次の部隊との引き継ぎをしている時だった。
「中尉が気にしているだろうから真っ先に伝えろ、と妻に言われてな。真っ先に伝えた、と言う証人になってくれよ」
立哨の任を引き継ぐ部隊の長である人民委員の夫は妻の手料理で少し太っていた。彼はそれまでローレンツのことを細面の少し気に入らないやつ扱いしていたのだが、クロードの事を知って以来とてもよくしてくれる。絶対にローレンツが間男にならない、と分かったからだろう。
イグナーツの運転する軍用車の後部座席でヒルダが大きく伸びをした。これから二ヶ月間休暇だと思えば気も身体も緩む。
「足元が広くて静かだねえローレンツくん」
カーブを曲がるたびに皆に踏まれ、その度にクロードは呻いていた。
「遠慮せずに足が組めるのはいいことだ」
帰宅したら何が届いているだろうか。今回は奥方たちからの心尽しの品だけにとどまらず、裁判関係の資料や処理すべき書類も沢山届いているだろう。しばらくはクロードのことを考えずに済みそうだった。
「クロードさんはご無事でしょうか……」
「僕たちはやれるだけのことはやった。無事に過ごしていると信じるしかない。皆にも苦労させてしまって本当に申し訳なかった」
あの時ローレンツがクロードを憲兵隊に突き出せなかったのは無意識のうちに彼らを疑っていたからなのだろう。都合が悪い存在として従弟のようにこっそり殺されてしまったら嫌だと思ったのだ。
「私たちもたまに思い出してあげようよ。向こうもずーっと遠くで私たちのことを思い出してるかもしれないし」
「ヒルダ、その物言いだと本当に死んでるみたいだから流石にそれはやめてあげようぜ」
レオニーが言いたいことを手短に、しかも完璧に伝えてくれたのでローレンツはそのまま黙っていた。正直言って寂しくて堪らない。だがこうしてローレンツにとって我が子も同然の隊員たちの生活をなんとか守ることができた。ローレンツは周りに頭を下げながらとはいえ、クロードの命も隊員たちの生活も守り切ったのだ。そこに悔いはない。
いつものように市場で下ろしてもらい配給品の受け取りと買い物を済ませてからローレンツは帰宅した。賑やかな詰所での暮らしが終わり、二ヶ月の一人暮らしが再開される。庭の食糧貯蔵庫にはいつものように心尽しの品が沢山入っていた。やかんとサモワールに水を汲んでストーブとサモワール双方に火を入れる。冷えた室内は荷物を全て片付ける頃にはほどよく温まっていた。いつものローレンツならそのまま続けて食事の支度をする。しかし今日はその前に少し、横になって休みたかった。
寝室でベッドの上に横たわってうとうとしていると不思議なことにクロードが居間や庭にいるような気がしてくる。ローレンツは眠気と疲労で頭がふわふわとしたまま何の気なしに本棚に視線をやった。著者順に並べておいたのに本の並びが違う。ローレンツは身体を起こし、順番がぐちゃぐちゃになっている本の背表紙の一文字目を指でなぞっていった。やはりブリギット語の文章になっている。お互いの安全のためフォドラを去る際には何も書き残してくれるな、とかなりきつくクロードに言ったので彼はこうするしかなかったのだろう。ローレンツはクロードの残した言葉を何度もなぞった。
何度確認してもその言葉は「ローレンツ、愛してる」だった。
カリードの失踪は様々な憶測を呼び───中でも不名誉なものを過去のものとするため異母兄弟が選んだ方法がさっさと彼の葬式を出してしまうこと、だった。彼らは家族が葬儀をあげると言う形式すら取りたくなかったらしく、社葬という形式にされている。カリードが社長を務める会社の正面玄関を入ってすぐのところに弔問客の受付が設置されていた。玄関ホールには遺影らしき大きな白黒写真が飾られている。白黒写真にすれば白フォドラ人の血を引く証である緑の瞳が誤魔化せるからだろう。
ローレンツたちと過ごす前なら異母兄弟たちの選択に何も感じなかったに違いない。だが今は違う。セイロス正教の洗礼名がカリードを助け、白フォドラ人の嫌う紋章がローレンツを助けた。フォドラでローレンツと共に二ヶ月過ごしたおかげで自己肯定感に満ちている。恥じるようなことは何もない。
サングラスをしたままカリードは受付に置いてある芳名帳を手に取った。受付をさせられている社員は返すように、と声を荒げたが無視してページをめくる。誰が敵で誰が味方なのかよく分かるリストは実に興味深い。一悶着あったので緊張も高まり、玄関付近にいる社員や弔問客の視線がカリードに一気に集まる。今までの生き様を考えれば完全なる八つ当たりなのは分かっていたが、それでも言わずにはいられなかった。
「遺影がダサすぎる!誰が選んだのか後で俺に報告しろ!」
叫び声で社員たちは玄関ホールで騒ぎを起こした男の正体を察し始めた。どんどんざわめきが大きくなっていく。カリードは警備員に取り押さえられる前にサングラスを外した。白フォドラ人の血を引く証である緑の瞳が現れる。
「久しぶりだな。心配かけてすまなかった。葬式の会場だが皆スマホの電源を入れるんだ」
社員たちが電源を入れると一斉に通知音が鳴り出した。わあ、とかうそ!という小さな悲鳴がそこら中で上がる。カリードは手持ちの株をそこそこ処分して全社員にそれぞれ給料の二ヶ月分に該当する金額を振り込んだ。
「皆!今すぐネットバンクの口座を確認してくれ。なに、これからも俺にこき使われることを思えば大した金額じゃないさ。社長が世間を騒がせたお詫びとして我が社は明日から一週間、創業以来初めて大規模なセールを行う。全品五十パーセントオフだ。さあ皆!今すぐ職場に戻って売って売って売りまくれ!」
ローレンツと離れ離れになった寂しさを誤魔化すためにもカリードは今まで以上に派手に激しく働いていくしかない。
帰宅してみれば家主がいるいないに関わらず契約通り家政婦が家の中を磨き上げ言われた通りの品を補充していた。冷蔵庫にはミネラルウォーターと栄養補助食品が、ワインクーラーにはワインが、パントリーにはコーヒーのポーションと好きな缶詰と個包装のクラッカーとプロテインバーが入っている。
「これでは何も作れないではないか」
ローレンツの声が聞こえたような気がして胸が痛む。カリードはこの家を建てるときに料理はしないから台所は狭くていいと設計事務所に言った。だがそれでも兵舎村一番の権力者である大隊長の自宅の台所よりはるかに広い。コンロが何口なのかすら知らず、帰宅してなんとなく数えてみたら四口もあって驚いた。
とりあえずだらしなくソファーに座りワインを開けてクラッカーをかじりながらスマートフォンを弄っていると、フォドラにいた二ヶ月間スマートフォンなしで暮らしていたことが夢のように思えてくる。果たしてあれは現実だったのか。思い出は脳裏に刻まれているがそれでも全てを記録しておきたかった。きっとカメラロールの九割がローレンツかローレンツとのツーショットになっていたと思うがそれでもレトロ、以外には褒めようがない、古臭い全てと愛すべき人々の暮らしぶりだって手元に留めておきたかった。
───いや、自分で自分を誤魔化すのは良くない。
カリードは今までどんな女優やモデルと付き合ってもそんなことをしようと思ったことはなかった。彼女たちが執着の対象になり得なかったからだ。だがフォドラにいた時にもしスマートフォンが手元にあったら、動画撮影は無理でもあの上擦った甘い声が録音出来たのにと思うと悔しい。
「いや、それは俺が忘れなきゃいいだけだ」
独り言がフォドラ語になっている。頭を切り替える必要があった。ワインを持参して広い浴室に移動しジャグジーに浸かる。
『停電も検閲もない!これが正しい社会だ!』
そう浴室の鏡に向かって嘯いた顔はやはり少しやつれていた。カリードが帰国して実は二週間が経過している。対外的にこの二週間は入院したことになっているが、病室で行われたのは治療ではなく取り調べだ。出された食事に殆ど口をつけられないかと思ったが、フォドラでの荒療治が効いたらしく全て飲み込むことが出来た。しかし基本的には療養食で低カロリーだったせいで痩せてしまったのだろう。今日のところはプロテインバーで済ませるが、明日はじゃがいもを茹でてみるのも良いかもしれない。この家に鍋があるかどうかもカリードは知らないが、仮になかったとしても必要な物は明日全て買えばいいだけだ。畳む
#クロロレ #完売本 #R18 #現パロ #また会えようが、会えまいが
クロードは年が明けてから髭を剃っていない。最初は肌に触れるとちくちくと違和感があったが、体質なのか今はローレンツが柔らかく感じるほど髭は伸びていた。帰国すればすぐに公安関係の取り調べが待っている。多少は遭難した感じを出さないと、と言うことらしい。
「こら、くすぐったい」
「気持ちいい、の間違いだろ?」
ベッドの上で何も身につけず二人で過ごすのもこれが最後だ。ローレンツはもうシャワーを浴びて軍服に着替えねばならない。昨晩もそこそこ遅くまでやることをやっていたにも関わらず緊張していたクロードが明け方に目を覚まし───今に至る。
「今朝は絶対に一人でシャワーを浴びるからな」
クロードの耳元でそう宣言するとローレンツは寝室を後にした。シャワーを浴びる前にサモワールとストーブに火を入れておく。朝食の献立はもう決まっていた。
シャワーを浴び髭を剃り壁付けのドライヤーで髪を乾かす。もう軍務に就くのでクロードに褒められた髪を後ろに一つで束ねた。寝室で大人しく順番を待っていたクロードに扉の向こうから声をかける。
「食事を作っている間にシャワーを浴びたまえ」
「分かった。すぐ行く」
朝食の献立は決まっていた。昨日の残りの塩漬け肉と乾燥キノコの煮込みとブリヌイだ。皆がお裾分けしてくれたヴァレーニエもクロードと二人がかりで食べたせいかもう殆ど残っていない。フライパンでブリヌイを焼いているとジャンプスーツを身につけたクロードが台所にやってきた。
「そちらにしたのか」
ジャンプスーツかローレンツが買い与えた服か。クロードは何故かどちらの服を着て帰るのかずっと決めかねていた。
「頑丈だし上空の寒さに耐えられるように作ってあるからな」
国境地帯は標高が高いので寒い。山の中を歩き回るのだから当然の選択だろう。
「それに取り調べで取り上げられても惜しくない。お前に買ってもらったものを置いていくのは仕方ないが、他人に取り上げられるのは嫌なんだ」
そういうとローレンツが食べ始めるのを待つこともなくクロードは朝食に口をつけた。急いで食べて皿や瓶を洗っておかねばならない。そろそろイグナーツとレオニーがローレンツたちを軍用車で迎えに来る頃だ。
「そうか、分かった。ところでクロード、皆に踏まれる覚悟は出来たか?」
クロードは軍用車の後部座席の足元に隠れて国境地帯に侵入する。軍用車の運転手はイグナーツで助手はレオニーだ。一番身分が高いローレンツは後部座席に座る。
「マリアンヌさんは僕の隣に」
マリアンヌの方がヒルダより背が高い。クロードはローレンツに足を踏まれ腰をマリアンヌに踏まれ頭をヒルダに踏まれながらフォドラ側の第一出入り口、続いて第二出入り口を突破した。年末年始に国境を守っていた部隊との引き継ぎを終えれば詰所はローレンツたち以外無人となる。
「グロスタール中尉、ではあとは任せた」
「承知いたしました。早くご家族に顔を見せてあげてください」
撤収する軍用車のエンジン音が聞こえなくなるとローレンツは手を叩いた。これでもう明日の朝には日常に戻れる。
「もう大丈夫だ。クロード降りてくれ」
「道が悪すぎる……」
「山奥はそんなものだ」
「遠慮なしに踏んだな!」
「道が悪いからな」
後部座席の足元から這い出てきたクロードはげっそりしている。彼とローレンツが軽口を叩くのも今日で終わりだ。物資や装備を確認し徒歩で国境地帯へ向かう。クロードはジャンプスーツにブーツと腕時計と無線機だけで身軽だが、ローレンツたちは武器や背嚢があるので背負う荷物は三十キロ近くになる。
「ああ、見えてきた!」
レオニーが指差したのは祖国防衛戦争の際に放棄された民家だ。現在では国境警備隊の者たちが拠点として利用している。
「今日は日が暮れるまで皆はここで待機だ。日が暮れたら僕が一人でクロードを国境まで連れて行く」
そうと決まればやることはひとつだ。焚き火を起こしお喋りしながら飲み食いをして時間を潰すしかない。皆手早く枯木と枯れ葉を集め火を起こした。持参したじゃがいもにアルミホイルを巻いて焚き火に突っ込む。
「今日は天気がいいからパルミラがよく見えるよ!」
フォドラの首飾りは連峰で南北を繋ぐ稜線がフォドラ連邦とパルミラ王国の国境線になっているが東西にも山が連なっている。
「え、ここってまだフォドラだろ?」
「国境線は真っ直ぐではありません。東に見えるあの小さな山はパルミラの山です」
「案外近いんだな……なあ、和平条約が結ばれたらまた皆で会おうぜ」
クロードの脳天気な発言に皆、苦笑して首を横に振った。停戦して既に半世紀以上が経過し歪な形で安定している。残念ながらこの状態が両国の強硬派にとって一番都合が良いのだ。
「そんな夢みたいなこと言ってないで元気でね」
「おう、ヒルダも皆も元気でな。そうだ。イグナーツとレオニーは国の代表になったら外国にも行けるんだろ?良いこと教えてやるよ」
そう言うとクロードが腕を伸ばし親指と人差し指を小さく交差させたので、ブリギットで暮らしていたことのあるローレンツはその下らなさにため息をついた。
「何それ、虫みたいに捻り潰してやるって意味か?」
「ハートだよ!お前らどうせ愛想良くすんなとか政治将校に指導されるんだろ?これならあいつらにバレずに外国で人気者になれるぜ!」
「本当に役に立たない餞別だな……一応感謝しとくよ……」
レオニーもイグナーツも呆れ顔だったがマリアンヌがこっそり親指と人差し指を小さく交差させていたのをクロードは見逃さなかった。これこそがローレンツが必死になってクロード、いや、カリードをパルミラに帰そうとする理由だ。フォドラの大地に生きる人々はこんなにも愛おしい。クロードたちが離れ離れになるのは勿論、納得いかないがそれでも彼女たちが不当に損なわれてはならないのだ。呆れ声の二人から背を向けたクロードの目に荒れ果てた庭が映る。
「あれ、この皿って……」
東側に置かれた苔むした甕に視線をやるとその上に白く小さな皿が載せられている。管理されていない人家は荒れ果て何もかもが壊れていくが、不思議とその皿は割れていない。クロードの視線は自然とその皿に引き寄せられた。
「家の中に息子さんらしき写真があるんです。出征したんでしょうね。僕たちこの家に残されたものはなんでも使わせてもらってるんですが……」
「あの白い皿だけは絶対に触らない。私たちの母親も毎日皿の水を取り替えてるだろうからな」
クロードも知っている子供の無事を願う願掛けの一種だ。イグナーツとレオニーの言葉を聞いたクロードは黙って頷いた。母親は二人いるがどちらもクロードのために皿の水を取り替えないだろう。
「でも、クロードさんは明日の夜にはお母様と連絡が取れますね」
マリアンヌの言葉が素朴だったせいかクロードは珍しく言葉に詰まってしまった。身元引き受け人をするのはおそらく父だろう。ローレンツの部下たちと過ごす愉快で穏やかな時間は驚くほど早く過ぎ去り、カリードとして現実へ戻る時が刻一刻と近づいてくる。夕陽がまず雲を赤く照らし、辺り一面を上から赤く染めていった。見事な色彩の変化に思わず息を呑んでしまう。先程までクロードはフォドラで過ごした時間の美しさを表す言葉を持っていなかった。しかし今後は簡単に伝えることができる。山の夕暮れのように美しい時間だった。
「行こうか、クロード。申し訳ないが皆は僕がここに戻るまで引き続き待機だ」
ローレンツの言葉を聞いた皆は涙を拭って焚き火から離れ、一人ずつクロードと抱き合って別れを惜しんだ。辺りを赤く美しく染めた太陽の代わりに満月が白い光で辺りを照らしている。
「街灯もないのに明るいもんだ」
「その代わり新月の時は何も見えないぞ」
本当に明るいのでローレンツが微笑んでいるのも見えた。直線距離で言えば国境までたった二キロだが山の中なのでそう単純にはいかない。曲がりくねった道を手を取り合って二人で歩いていると川が見えてきた。
「どうやって渡るんだ?」
「水かさが増した時に釣りをするために隠してある小舟がある。糧食だけでは足りない日が多くてね」
二人がかりで川まで小舟を押していく。ふわりと浮かんだところでローレンツが小舟を捕まえクロードを先に乗せてくれた。
「はい、漕いでくれ。そちらに座ったから仕方ないな!」
「何だよそれ!」
クロードにも意図は伝わっている。漕ぎ慣れているローレンツが漕いだら対岸にすぐ着いてしまうからだ。フォドラにいる間きちんと食べていたせいか力強く櫂を動かせてしまったが、思った方向に向かってくれない。小舟と櫂が流されないようにきちんと陸にあげてしまうともう道草を食う理由は何ひとつ存在しなかった。砂利だらけの河岸から山道が見える。きっとあそこからパルミラへ戻れるのだろう。
「ああ、クロード、待ってくれ。渡したいものがある。新年の贈り物だよ」
そう言うとローレンツはクロードにハンカチを差し出した。中に小さくて固いものが挟んである。
「俺のピアス質屋から買い戻したのか?!気にしなくてよかったのに!」
「君がつつがなくパルミラに持ち込める贈り物がこれしかなかったのでね。今ここで付けて欲しい」
こうして長年の相棒が再びクロードの左耳に戻ってきた。
「でも俺があげようとした時計は……」
証拠物件として裁判所に提出されていてローレンツの手元に戻るのかどうかわからない。あれで現金が尽きてしまい、クロードは結局ローレンツに何も渡せなかった。
「いや、良いんだ。君からは血を貰った。では国境まで行こうか」
山道には等間隔に高さ四十センチくらいの石標が立ててある。地雷が除去されている目印だと言う。ローレンツと二人で並んで歩いていると殆ど有刺鉄線が残っていない鉄条網が現れた。
「あれが国境なのか?」
「そうだ。フォドラもパルミラもこの鉄条網は大規模な整備が出来ない。国境侵犯と疑われるからな」
この鉄条網を半世紀以上前に張ったのは停戦協定の仲介をしたブリギット軍だ。当初は足元から見上げる高さまでびっしりと張られていたのだろう。だがいまや一番下の段、高さ十センチ程度の一本しか残っていない。
「あそこを越えたらもう無線機が使える。パルミラ軍もレーダーで監視しているから僕の姿が見えなくなったら電源を入れて助けを求めろ」
クロードは黙って軽くローレンツを抱きしめてから鉄条網を越え、彼の背中が遠ざかっていくのを見守った。無線機の電源を入れたくない。電源を入れれば二度とローレンツとは会えなくなる。
「待って!待ってくれ!」
クロードの声がしたので反射的にローレンツは後ろを振り向いた。八週間なんとか匿ってようやく国境線を越えさせたのにクロードが再び国境線を越えてフォドラに入り、ローレンツの元に駆け寄ってくる。抱きつかれ首の後ろに手を回された。彼の手が勝手に髪を束ねているゴムを引き抜く。下ろしている方が好みだ、と言っていたから最後にその姿を見たかったのかもしれない。
「ローレンツ、心の底から愛してるよ。頼むから元気でいてくれ。自己採血をしておくんだ。俺のこと忘れても構わないからそれだけは約束してくれよ」
「自己採血はともかく君のことを忘れられるわけないだろう。愛してるよクロード、いや……」
ローレンツは病室で教えられた本名で彼を呼ぼうとしたが、その前にクロードに唇を塞がれた。それで良いのかもしれない。二人とも頬が濡れたがどちらの涙のせいで濡れたのかはわからなかった。
フォドラ連邦において個人の事情はほぼ考慮されない。ローレンツが国境地帯で立哨をしている間にもメモリーカードを発見したのはローレンツである、と言う前提で裁判は進んでいった。兵舎村の市場で暇を潰していたクロードのことを思い出し、突然現れて消えていった彼を訝しむ関係者もいたが何と言っても病院がローレンツの診断書にcrest+の献血者あり、と記録している。
紋章を持っているならば彼が外国人であるはずがないし、紋章保持者に激しい偏見を持っているという白フォドラ人であるはずもない。国境地帯の修道院で盗掘をしていたグループはローレンツが想像していたよりも遥かに規模が大きく、ガルグ=マクはおろか首都のアンヴァルでも逮捕者が出た───と言うことをローレンツが知ったのはクロードがフォドラを去って二ヶ月後、次の部隊との引き継ぎをしている時だった。
「中尉が気にしているだろうから真っ先に伝えろ、と妻に言われてな。真っ先に伝えた、と言う証人になってくれよ」
立哨の任を引き継ぐ部隊の長である人民委員の夫は妻の手料理で少し太っていた。彼はそれまでローレンツのことを細面の少し気に入らないやつ扱いしていたのだが、クロードの事を知って以来とてもよくしてくれる。絶対にローレンツが間男にならない、と分かったからだろう。
イグナーツの運転する軍用車の後部座席でヒルダが大きく伸びをした。これから二ヶ月間休暇だと思えば気も身体も緩む。
「足元が広くて静かだねえローレンツくん」
カーブを曲がるたびに皆に踏まれ、その度にクロードは呻いていた。
「遠慮せずに足が組めるのはいいことだ」
帰宅したら何が届いているだろうか。今回は奥方たちからの心尽しの品だけにとどまらず、裁判関係の資料や処理すべき書類も沢山届いているだろう。しばらくはクロードのことを考えずに済みそうだった。
「クロードさんはご無事でしょうか……」
「僕たちはやれるだけのことはやった。無事に過ごしていると信じるしかない。皆にも苦労させてしまって本当に申し訳なかった」
あの時ローレンツがクロードを憲兵隊に突き出せなかったのは無意識のうちに彼らを疑っていたからなのだろう。都合が悪い存在として従弟のようにこっそり殺されてしまったら嫌だと思ったのだ。
「私たちもたまに思い出してあげようよ。向こうもずーっと遠くで私たちのことを思い出してるかもしれないし」
「ヒルダ、その物言いだと本当に死んでるみたいだから流石にそれはやめてあげようぜ」
レオニーが言いたいことを手短に、しかも完璧に伝えてくれたのでローレンツはそのまま黙っていた。正直言って寂しくて堪らない。だがこうしてローレンツにとって我が子も同然の隊員たちの生活をなんとか守ることができた。ローレンツは周りに頭を下げながらとはいえ、クロードの命も隊員たちの生活も守り切ったのだ。そこに悔いはない。
いつものように市場で下ろしてもらい配給品の受け取りと買い物を済ませてからローレンツは帰宅した。賑やかな詰所での暮らしが終わり、二ヶ月の一人暮らしが再開される。庭の食糧貯蔵庫にはいつものように心尽しの品が沢山入っていた。やかんとサモワールに水を汲んでストーブとサモワール双方に火を入れる。冷えた室内は荷物を全て片付ける頃にはほどよく温まっていた。いつものローレンツならそのまま続けて食事の支度をする。しかし今日はその前に少し、横になって休みたかった。
寝室でベッドの上に横たわってうとうとしていると不思議なことにクロードが居間や庭にいるような気がしてくる。ローレンツは眠気と疲労で頭がふわふわとしたまま何の気なしに本棚に視線をやった。著者順に並べておいたのに本の並びが違う。ローレンツは身体を起こし、順番がぐちゃぐちゃになっている本の背表紙の一文字目を指でなぞっていった。やはりブリギット語の文章になっている。お互いの安全のためフォドラを去る際には何も書き残してくれるな、とかなりきつくクロードに言ったので彼はこうするしかなかったのだろう。ローレンツはクロードの残した言葉を何度もなぞった。
何度確認してもその言葉は「ローレンツ、愛してる」だった。
カリードの失踪は様々な憶測を呼び───中でも不名誉なものを過去のものとするため異母兄弟が選んだ方法がさっさと彼の葬式を出してしまうこと、だった。彼らは家族が葬儀をあげると言う形式すら取りたくなかったらしく、社葬という形式にされている。カリードが社長を務める会社の正面玄関を入ってすぐのところに弔問客の受付が設置されていた。玄関ホールには遺影らしき大きな白黒写真が飾られている。白黒写真にすれば白フォドラ人の血を引く証である緑の瞳が誤魔化せるからだろう。
ローレンツたちと過ごす前なら異母兄弟たちの選択に何も感じなかったに違いない。だが今は違う。セイロス正教の洗礼名がカリードを助け、白フォドラ人の嫌う紋章がローレンツを助けた。フォドラでローレンツと共に二ヶ月過ごしたおかげで自己肯定感に満ちている。恥じるようなことは何もない。
サングラスをしたままカリードは受付に置いてある芳名帳を手に取った。受付をさせられている社員は返すように、と声を荒げたが無視してページをめくる。誰が敵で誰が味方なのかよく分かるリストは実に興味深い。一悶着あったので緊張も高まり、玄関付近にいる社員や弔問客の視線がカリードに一気に集まる。今までの生き様を考えれば完全なる八つ当たりなのは分かっていたが、それでも言わずにはいられなかった。
「遺影がダサすぎる!誰が選んだのか後で俺に報告しろ!」
叫び声で社員たちは玄関ホールで騒ぎを起こした男の正体を察し始めた。どんどんざわめきが大きくなっていく。カリードは警備員に取り押さえられる前にサングラスを外した。白フォドラ人の血を引く証である緑の瞳が現れる。
「久しぶりだな。心配かけてすまなかった。葬式の会場だが皆スマホの電源を入れるんだ」
社員たちが電源を入れると一斉に通知音が鳴り出した。わあ、とかうそ!という小さな悲鳴がそこら中で上がる。カリードは手持ちの株をそこそこ処分して全社員にそれぞれ給料の二ヶ月分に該当する金額を振り込んだ。
「皆!今すぐネットバンクの口座を確認してくれ。なに、これからも俺にこき使われることを思えば大した金額じゃないさ。社長が世間を騒がせたお詫びとして我が社は明日から一週間、創業以来初めて大規模なセールを行う。全品五十パーセントオフだ。さあ皆!今すぐ職場に戻って売って売って売りまくれ!」
ローレンツと離れ離れになった寂しさを誤魔化すためにもカリードは今まで以上に派手に激しく働いていくしかない。
帰宅してみれば家主がいるいないに関わらず契約通り家政婦が家の中を磨き上げ言われた通りの品を補充していた。冷蔵庫にはミネラルウォーターと栄養補助食品が、ワインクーラーにはワインが、パントリーにはコーヒーのポーションと好きな缶詰と個包装のクラッカーとプロテインバーが入っている。
「これでは何も作れないではないか」
ローレンツの声が聞こえたような気がして胸が痛む。カリードはこの家を建てるときに料理はしないから台所は狭くていいと設計事務所に言った。だがそれでも兵舎村一番の権力者である大隊長の自宅の台所よりはるかに広い。コンロが何口なのかすら知らず、帰宅してなんとなく数えてみたら四口もあって驚いた。
とりあえずだらしなくソファーに座りワインを開けてクラッカーをかじりながらスマートフォンを弄っていると、フォドラにいた二ヶ月間スマートフォンなしで暮らしていたことが夢のように思えてくる。果たしてあれは現実だったのか。思い出は脳裏に刻まれているがそれでも全てを記録しておきたかった。きっとカメラロールの九割がローレンツかローレンツとのツーショットになっていたと思うがそれでもレトロ、以外には褒めようがない、古臭い全てと愛すべき人々の暮らしぶりだって手元に留めておきたかった。
───いや、自分で自分を誤魔化すのは良くない。
カリードは今までどんな女優やモデルと付き合ってもそんなことをしようと思ったことはなかった。彼女たちが執着の対象になり得なかったからだ。だがフォドラにいた時にもしスマートフォンが手元にあったら、動画撮影は無理でもあの上擦った甘い声が録音出来たのにと思うと悔しい。
「いや、それは俺が忘れなきゃいいだけだ」
独り言がフォドラ語になっている。頭を切り替える必要があった。ワインを持参して広い浴室に移動しジャグジーに浸かる。
『停電も検閲もない!これが正しい社会だ!』
そう浴室の鏡に向かって嘯いた顔はやはり少しやつれていた。カリードが帰国して実は二週間が経過している。対外的にこの二週間は入院したことになっているが、病室で行われたのは治療ではなく取り調べだ。出された食事に殆ど口をつけられないかと思ったが、フォドラでの荒療治が効いたらしく全て飲み込むことが出来た。しかし基本的には療養食で低カロリーだったせいで痩せてしまったのだろう。今日のところはプロテインバーで済ませるが、明日はじゃがいもを茹でてみるのも良いかもしれない。この家に鍋があるかどうかもカリードは知らないが、仮になかったとしても必要な物は明日全て買えばいいだけだ。畳む
「また会えようが、会えまいが」14.土産
#クロロレ #完売本 #また会えようが、会えまいが #現パロ
ローレンツたちは村で一番大きなアンテナを立て、テレビを買った大隊長の自宅に集まってイグナーツとレオニーの勇姿を見守っていた。フォドラ連邦にはプロスポーツというものが存在しない。様々な競技のリーグは存在するがそれらにはその地域の警察・軍・大学が持っているクラブが参加している。激しく厳しい国内予選を勝ち抜き、バイアスロン世界選手権のフォドラ連邦代表に選ばれた二人は今モルフィスに行っている。
イグナーツがライフルで五十メートル先の標的を全て撃ち抜き、レオニーがスキーで他国の選手を追い越す度に室内は歓声で溢れ、酒瓶が空になっていった。彼らは金メダルこそとれなかったが初めてフォドラ連邦に銅メダルをもたらした。珍しく大隊長と休暇が重なったローレンツは大隊長のグラスにウォッカを注いでいる。
「あの二人の闘志あふれる仕草を見たかグロスタール中尉!」
大隊長は彼らの指ハートをひねり潰してやる、と言う意味だと誤解しているが訂正すればもっと面倒くさいことになるのでローレンツは黙って頷いた。二人はアンカリング、と呼ばれる手法にクロードから教わった指ハートのジェスチャーを取り入れている。ローレンツの身にも覚えがあるが、本番の大舞台で緊張しきってしまうと実力が発揮できない。最高のパフォーマンスを発揮出来た状態と指定した動作を脳内で強く関連付けておく。ローレンツの場合は結んでおいた髪を左手で解くことだった。
「あなた、黙って!レオニー同志とイグナーツ同志の会見よ!」
緊張に押し潰されそうになりながらも必死で戦った二人の首には銅メダルが輝いている。これで二人は軍の英雄だ。二人は長々と祖国と軍と両親に感謝を述べ他の選手を讃えている。随行している政治将校も瑕疵が見つけられないだろう。
「おめでとうございます!報奨金は何に使いますか?」
現地テレビ局のレポーターが村の英雄にマイクを差し出している。その言葉はすぐ通訳によってフォドラ語に訳されていく。イグナーツとレオニーはカメラの前でお互いに顔を見合わせてから無言で頷いた。どうやら二人にはずっと前から温めていた考えがあるらしい。酔っ払いたちは皆、口々にテレビが欲しい、いやバイクが良いなどと盛り上がっている。
「それぞれの故郷の村と今住んでいる兵舎村の小学校に楽器を寄付しようと思います」
二人はそう言い切り、通訳がその内容をモルフィス語に訳した。大隊長夫人は二人の言葉に感動して涙ぐんでいる。
何度も部下たちのために乾杯していたローレンツは酔いが回っていたせいか他人事のように良い金の使い方だ、自分がこの村の音楽教師なら何を買うだろうか、とあくまでも他人事として考えていた。この時、大隊長夫人と同じく二人のインタビューに感動した大会ホスト国モルフィスの楽器メーカーが学校用に電子ピアノを提供したことによってローレンツの人生は再び変化を迎えていく。
代表選手の特権は空港の免税店で買い物ができることだ。既に酒と煙草とチョコレートは確保してある。物資不足に悩むフォドラでは紙幣の次に使い勝手が良い。それに加えて年頃の娘らしく化粧品を物色していたレオニーはとんでもない代物を見つけた。手に取った高級スキンケアセットには化粧水などが入ったボトルが数本、入っている。そしてそれぞれのボトルには女性のシンプルなイラストが入っているのだが───これがどう見てもレオニーの知る人々なのだ。疑問と驚きで頭がいっぱいになる。慌てて商品を棚に戻し、イグナーツを探した。話を聞いてもらわないと平静を保てない。
イグナーツも高級時計コーナーのディスプレイを凝視し、呆然としていた。声をかけても全く反応しないので、仕方なく近寄るとイグナーツが見つけたとんでもない物、がレオニーの目にも入った。これなら声が彼の耳に届かないのも納得だった。
ディスプレイの中には高級時計と写真が飾られている。その写真の中では高級そうな背広と腕時計を身につけてクロードが微笑んでいた。どうやらあの後、彼も上手くやっていたらしい。レオニーは声をひそめてイグナーツに話しかけた。政治将校に聞かれたら問題になる。
「あいつ俳優だったのか?」
イグナーツはポケットから取り出したモルフィス語の辞書を捲った。ここはモルフィスなので商品の説明も含め、何もかもがモルフィス語で書いてある。
「いいえ、この時計を作っている会社の社長らしいです」
だからクロードはレオニーたちと初対面の時に腕時計について聞いてきたのだろう。ようやく合点がいった。
「時計を買えばこの写真が付いてくるのかな」
「そもそも高くて手が出せませんが残念なことにそういう仕組みではなさそうです」
ローレンツがこの写真を見たらどれほど喜ぶだろうか。彼はイグナーツとヒルダの失態を隠蔽するためにクロードを八週間も匿ったのだが、彼に情がうつっていることなど皆お見通しだった。
「中尉にあげたかったな。イグナーツ、私も見てもらいたいもんがあるからちょっとこっちに来てくれ!」
今度は化粧品コーナーでレオニーが見つけた高級スキンケアセットのパッケージを手に取ったイグナーツが驚く番だった。人民委員のスカーフの柄まで合っている。どうやらクロードは物覚えがいいらしい。化粧品に入っているロゴとカウンターに置いてあった高級時計のロゴが全く同じなので、きっとこの化粧品を作っている会社もクロードの持ち物なのだろう。
「僕もお金出しますからこれ皆さんの分を買いましょう」
「きっと期待されてるよな」
レオニーはパッケージに刷られているキャッチフレーズを指でなぞった。彼女は国境警備隊の隊員だがそれでも時々は自由な往来を夢見る時がある。───そこにはフォドラ語でたった一言「恋しさ」と書かれていた。
もう少しであれから二年経つ。
カリードは先日買収したモルフィスの某企業への国際電話を掛け終え、一人きりで広々とした台所に立っていた。電話中にちょうど茹で上がった小ぶりのじゃがいもをざるにあける。串はすんなり通り、きちんと奥まで柔らかくなっていた。
カリードはパルミラへの帰国を果たして早々に節税対策だ、と嘯いて慈善団体を設立している。ホームレスの人々に洗濯や入浴の機会を定期的に提供する団体と才能はあるが、環境に恵まれない若者の音楽活動をサポートする団体だ。どちらもまだ活動範囲はパルミラ国内にとどまっている。しかし後者は近いうちにモルフィスかブリギットへ活動の場を広げ拠点をそちらへ移す予定だ。フォドラの子どもたちが安心して参加出来るようにする為にも、徐々にパルミラの色を薄めていく必要がある。
続けてカリードは社員たちから無意味だ、と反対されたがオーナー社長の権限で押し切って化粧品部門を新たに設立した。他にも国内外の他業種の企業をいくつか投資目的だと言い張って買収している。どれかは、何かはフォドラへ、国境沿いのあの村へ届くだろう。化粧品やヘルスケア用品ならフォドラにもパルミラ製の商品が流入することは身をもって知っている。化粧品部門でもっとも評判が良く、白フォドラ人たちの郷愁を誘うようなパッケージデザインの商品は敢えてパルミラ本国では販売させていない。フォドランレディという非公式の通称までついているが、敢えてモルフィスの免税店限定にしていた。若い女性向けの観光ガイドブックにはモルフィスに行った際のマストバイアイテムと書かれている。
カリードは湯気の立つじゃがいもを皿に乗せて塩を振った。こんな風に直接働きかけられれば良いのだが、国同士が敵対しあっているとそう言うわけにもいかない。
「あいつらどんな顔するかな」
茹でたてのじゃがいもは熱過ぎて素手では持てないのでフォークを突き刺して少しずつかじっていく。ほくほくしていて柔らかい。バターを落とすとさらに美味しいのだが胃もたれがするまで食べてしまうので節制している。
もう片方の手には相変わらず行儀悪くスマホを持っていた。敵対している国家で八週間生き延びたことを理由に、未だにカリードを訝しむ者がパルミラの公安関係者にも多数存在する。生きていることこそが魔女の証、と言って罪なき女性を焼き殺した異端審問官と同じ発想をする者が経済的に恵まれた母国に存在するという事実にカリードは衝撃を受けた。
彼らから足元を掬われないように慎重に事を進めていく必要がある。
スポーツニュースでバイアスロンの世界選手権について知った時、カリードは祈るような気持ちで参加選手一覧をチェックした。そこにイグナーツとレオニーの名を見つけた時の喜びは未だに筆舌に尽くし難い。今カリードがスマホで眺めている大会のウェブサイトには参加選手のオフショット写真や競技中の動画が沢山載っている。しかしとにかく扱いの難しいフォドラ連邦の選手である二人の写真は残念なことに出場選手一覧にしか載っていない。証明写真のような小さな写真に写るイグナーツとレオニーは口を真一文字に結んでいた。兵舎村では見たことのない表情だ。しかしカリードはイグナーツが本気で怒った時の顔もレオニーが笑った時の顔も知っている。確かにあの八週間で彼らと親しくなれたのだ。三位に入賞したイグナーツとレオニーは今後、体育競技専門の部隊へ転属となるだろう。ヒルダとマリアンヌはまだローレンツの部下のままなのだろうか。兵舎村の奥方連中もいずれは夫の人事異動で去っていく。こちらの様子を知らせる事ができても首飾りの向こう側で何が起きているのかカリードには知ることができない。
愛おしく思う人々と連絡を取りたいだけなのに国際情勢が自分たちの邪魔をする。空になった皿とフォークをシンクの洗い桶に沈めるとカリードはスマホをテーブルに置き、ソファに横たわって目を閉じた。華やかに遊んでいた頃はこのソファに何人もの客が座っていたが帰国してからはずっとカリード専用だ。内なる心の声に耳を傾ける。子供の頃に聞こえてきた内なる心の声は緑の瞳や血に宿るリーガンの紋章を呪う金切り声で、しかもそれを自分の声だと思い込んでいた。今は違う。
「生活環境が変わって恋人と別れるなんてありふれたことなのに何故僕に執着するのだ?」
その声は淡々としていてこちらを責めることもなくとても優しい。あの八週間でローレンツから与えられた愛と信頼をどう扱うべきだろうか。奪われないように何重にも包み、土を掘って地中の奥深くに隠してしまうべきなのだろうか。だがそれは信頼に応えたことにならないのだ。全てが徒労に終わろうと出来ることはなんでもやっておきたい。内なる心の声への返答はいつも決まっていて揺らぐことがなかった。
「運命に逆らえないなら突っ走りたいんだ」
兵舎村にモルフィスから楽器が届いたので村の小学校で贈呈式を行う事となった。軍の好感度を上げる微笑ましいニュースなので軍の広報紙や地方紙、それに地元の放送局もイグナーツとレオニーに取材を申し込んでいる。二人はいつも身につけている深緑色の戦闘服ではなく茶色の軍服を着用していた。
「あんなに取材に来るなんて!」
「大丈夫よレオニーちゃん!この日に備えてみんなでお手入れしたからカメラ写りはばっちりよ!」
「それだけのことを成し遂げたのだから誇りに思うと良い」
競技用のウェアーやゼッケンを身につけている時ならイグナーツもレオニーも取材陣など歯牙にも掛けないのだろうが、正装しているとどうやら勝手が違うらしい。ローレンツたちは深緑色の戦闘服という気軽ないつもの姿で、小学校のささやかなホールに部下の晴れ姿を見届けに来ただけだ。微笑ましい右往左往を他人事として楽しんでいる。二人はこの贈呈式を最後に体育競技専門部隊への移動が決まっているので良い記念になる。寂しくも嬉しい門出だった。
「ピアノがおまけについてくるとはなあ……」
「でも得をしましたよ!」
いつもなら素直に得をしたことを喜ぶレオニーが若干怯えている。二人が三つの村の子供たちに買ったのは鼓笛隊でも使える打楽器のセットだけで、電子ピアノは大会のホスト国モルフィスの楽器メーカーが寄付してくれたものだ。ローレンツが見たところモルフィスやブリギットであれば習いたての子供に親が気楽に与えるような、ありふれたグレードの電子ピアノなので提供した楽器メーカーもここまで二人が恐縮しているとは夢にも思わないだろう。だが物資不足に悩むフォドラではそのありがたみが違うのだ。
「イグナーツくんの言う通り厚意は素直に受け取るべきだ。ああ、レオニーさん、軍帽の角度が曲がっている。直したまえ」
緊張のあまりいつもなら簡単にこなせること、が全く出来なくなっているのは去年この村に赴任してきた小学校教師も同じらしい。子供たちは既に贈呈された打楽器を手にしており、取材に来た軍の広報紙や放送局のカメラマンから撮影用のポーズ指導が入っている。ここで彼女が伴奏すれば完璧な絵面の写真が撮影できるはずだ。しかしなかなか始まらない。
同梱されていた取扱説明書がモルフィス語で中身が読めないからだろうか。載っている図を見ながらあれこれ弄っても贈呈された電子ピアノが何の反応も示さないので彼女は涙目になっている。だがそれもそのはずだ。そもそもプラグが刺さっていない。緊張ぶりを見ていられなくなったローレンツはついに口を開いた。
「先生、少しよろしいだろうか?」
ローレンツはステージに上り床に膝をついた。腕を伸ばしてプラグを手に持って見せると彼女は礼を言い、その場でへなへなと座り込んでしまった。贈呈品が不良品だったらと思うと怖くて仕方なかったのだろう。皆この後の予定もあるのでローレンツがそのまま動作確認したほうがよさそうだった。腕を伸ばして手近なコンセントにプラグを差し込み電源を入れる。主電源のランプが光ったのでローレンツは椅子を引いて座った。白鍵と黒鍵をその角度から見た瞬間、反射的に左手は髪を解き十指は全て吸い付くように白鍵と黒鍵の上で踊り出す。
三日練習しなければ技術は失われていくと言われている。もう何年もピアノに触れていないローレンツの奏でる音は音大の学友たちからすれば落ちぶれ果てた、聞くに耐えないものだろう。だが指が鍵盤に触れるたびにかつて音楽へ抱いていた愛や喜びが寸分違わず胸の内に蘇る。失ったと思っていたものは今もきちんとローレンツのものだった。
自分が我を忘れグリッサンドを多用した曲を一曲丸ごと弾き終えたことに気付いたローレンツは思わず右手で口を押さえた。鍵盤から指が離れた途端に困惑が意識を支配する。何故視界がフラッシュで白く光り、子供たちも含めて皆が拍手しているのかローレンツには分からなかった。今日たたえられるべきは自分ではない。
「先生、申し訳ない。出過ぎた真似をしました」
「いいえ!そんな中尉!ありがとうございました。一体どちらでピアノを学ばれたのですか?」
「子供の頃に少々……」
正直に応えるべきか迷ったローレンツが誤魔化すとそれまで壁際で皆の様子を見ていたマリアンヌが挙手した。
「中尉、本当のことを言うべきです。私共は我が子のように可愛がっていただいておりますが、私は朝起きてオフィスや詰所で中尉のお姿を見かける度に今日も中尉宛てに召喚除隊の辞令が来なかったのか、と失望しておりました」
「マリアンヌさん、少し落ち着こうか」
「いいえ、私は冷静です……。中尉、中尉が復讐を果たされてからもう二年も経っています」
いつもならとぼけたマリアンヌが揉めごとを起こさないように立ち回る三人が今回に限っては何故か全く彼女を止めようとしない。
「ブリギットの王立音楽アカデミーにいた方は紋章の有無に関わらず国境警備隊ではなく軍楽隊かアンヴァルの交響楽団に所属すべきです。才能を土に埋めて隠しておくなんてこと、あってはならないのです……!」
カリードは自分が作った慈善団体がブリギットでワークショップを兼ねたコンサートを開く時は必ず休暇を取ってブリギットを訪問することにしている。二週間の骨休めだ。彼らの宿舎にもなっているホテルを訪れるとロビーでスタッフたちが歓談していた。
「社長、継続的なご支援本当にありがとうございます。今年もフォドラからの参加者がいますよ」
ブリギット側のスタッフたちはカリードがフォドラ人参加者の有無を気にかけているのは白フォドラ人の血を引くからだ、と思い込んでいる。
「そうか。良いことだ。彼らの才能を貧困に埋もれさせてしまうのは勿体ない」
ブリギットに活動拠点を移動して一年目はフォドラからの参加者はいなかった。三年目になってようやくフォドラから一名参加してくれた。たった一人で参加した若き同胞をアテンドしてあげてほしい、ということでブリギットの王立音楽アカデミーにいるフォドラ人留学生へ実に自然に繋がりが出来た。参加者にとって留学生たちは夢を諦めなかった未来の自分だし留学生にとって参加者たちは可愛い後輩だ。互いにとって良い刺激になる。
「今日はやけに静かだな」
いつもならホテル中どこもかしこも若者たちの話し声や歌声、楽器の音で騒々しい。
「今日はコンサートホールの下見日です。皆大喜びで社長から貰った小遣いを持って行きましたよ。今年のノベルティTシャツの色はネオンブルーです」
「そりゃド派手で分かりやすいな。俺もショッピングモールに行ってみるかな」
ブリギットは自然豊かな国だ。海も山も森もあり、世界中から美しい景観や大自然の中でアクティビティを楽しむ為に観光客が訪れる。まず、その観光客の財布目当てに巨大なショッピングモールが作られた。デパートや遊園地それにコンサートホールも内包しているような巨大なもので、もはやショッピングモール自体が観光名所となっている。参加者たちは下見のついでにショッピングモールで遊ぶのを楽しみにしていた。
そんな巨大なショッピングモールでワークショップ参加者たちを探すのは結構簡単だ。コンサートホールがある関係でこのショッピングモール内にはストリートピアノがいくつか設置されている。カリードが作った慈善団体のワークショップ参加者たちは皆、外国語は達者ではないが、音楽という非言語コミュニケーションには長けていて彼らが設置されているストリートピアノを弾けば拍手喝采だ。
モール内のストリートピアノを巡ってスポンサーロゴ入りのノベルティTシャツを着ている者を探せば良い。今年も派手な色なのできっとすぐに見つかるだろう。カリードはショッピングモールの入り口付近のカフェで買ったドリンクを片手に、モール内をふらふらと歩き始めた。昨年の記憶と微かな音を頼りに大荷物を抱えた買い物客が行き交う広い通路を歩いているといくつかの通路が合流して出来た広場があった。辺りは黒山の人だかりで響き渡る見事な演奏から言ってもワークショップの参加者に違いない。
カリードは微笑みながら人だかりを割って自分の予想が合っているか確かめに行った。カリードの予想は半分正解で半分外れていた。グランドピアノの椅子にはネオンブルーのTシャツを着た少女と白い半袖シャツを身につけた蜘蛛のように手足の長い男性が並んで座っている。二人はフォドラ出身のようで少女は髪が若草色で男性は髪が紫色だった。
兵舎村の棚の下、段ボールの奥深くにしまいこまれていた姿がようやく陽の光を浴びている。この姿だ。誰にも憚られることなく直接、この姿が見たかった。だからこそクロードは気が遠くなるような遠回りをしたし、何年も連続で空振りだったにもかかわらず今年もこうしてブリギットにやって来たのだ。
アテンドしているのであろう参加者との連弾を終え観客に礼を言うため、拍手の中で立ち上がったローレンツは驚きのあまり大きな右手で口元を押さえた。その手には緑色のフェースの腕時計が着けられている。アウトドアスポーツ用の腕時計は演奏の場ではどうにも武骨で仕方なかった。演奏会用の瀟洒な腕時計を見繕ってやるのも良いかもしれない。そんなことを考えながらクロードはローレンツに駆け寄り彼の頬に手を当て唇に長い長いキスをした。
「ローレンツ!いつブリギットに戻ってきたんだよ!こっちに来てるなら知らせてくれれば良かったのに!」
「クロード、長いこと待たせてしまってすまなかった」
くっつけた互いの頬が濡れているが二人とも泣いているのでどちらの涙のせいなのかはよく分からない。
「いや、良いんだ……。こうして来てくれたんだからそんなことは本当にどうでも良いさ……」
先程までは拍手喝采で満たされていた空間が、クロードたちを囃し立てる歓声や指笛で満たされていく。二人の関係は今後も国際情勢に大きく左右されるだろう。今はこうして第三国で会えているが今後、不可能になるかもしれない。だが互いへの思いを土の中に埋めて隠すようなことは絶対にしたくなかった。畳む
#クロロレ #完売本 #また会えようが、会えまいが #現パロ
ローレンツたちは村で一番大きなアンテナを立て、テレビを買った大隊長の自宅に集まってイグナーツとレオニーの勇姿を見守っていた。フォドラ連邦にはプロスポーツというものが存在しない。様々な競技のリーグは存在するがそれらにはその地域の警察・軍・大学が持っているクラブが参加している。激しく厳しい国内予選を勝ち抜き、バイアスロン世界選手権のフォドラ連邦代表に選ばれた二人は今モルフィスに行っている。
イグナーツがライフルで五十メートル先の標的を全て撃ち抜き、レオニーがスキーで他国の選手を追い越す度に室内は歓声で溢れ、酒瓶が空になっていった。彼らは金メダルこそとれなかったが初めてフォドラ連邦に銅メダルをもたらした。珍しく大隊長と休暇が重なったローレンツは大隊長のグラスにウォッカを注いでいる。
「あの二人の闘志あふれる仕草を見たかグロスタール中尉!」
大隊長は彼らの指ハートをひねり潰してやる、と言う意味だと誤解しているが訂正すればもっと面倒くさいことになるのでローレンツは黙って頷いた。二人はアンカリング、と呼ばれる手法にクロードから教わった指ハートのジェスチャーを取り入れている。ローレンツの身にも覚えがあるが、本番の大舞台で緊張しきってしまうと実力が発揮できない。最高のパフォーマンスを発揮出来た状態と指定した動作を脳内で強く関連付けておく。ローレンツの場合は結んでおいた髪を左手で解くことだった。
「あなた、黙って!レオニー同志とイグナーツ同志の会見よ!」
緊張に押し潰されそうになりながらも必死で戦った二人の首には銅メダルが輝いている。これで二人は軍の英雄だ。二人は長々と祖国と軍と両親に感謝を述べ他の選手を讃えている。随行している政治将校も瑕疵が見つけられないだろう。
「おめでとうございます!報奨金は何に使いますか?」
現地テレビ局のレポーターが村の英雄にマイクを差し出している。その言葉はすぐ通訳によってフォドラ語に訳されていく。イグナーツとレオニーはカメラの前でお互いに顔を見合わせてから無言で頷いた。どうやら二人にはずっと前から温めていた考えがあるらしい。酔っ払いたちは皆、口々にテレビが欲しい、いやバイクが良いなどと盛り上がっている。
「それぞれの故郷の村と今住んでいる兵舎村の小学校に楽器を寄付しようと思います」
二人はそう言い切り、通訳がその内容をモルフィス語に訳した。大隊長夫人は二人の言葉に感動して涙ぐんでいる。
何度も部下たちのために乾杯していたローレンツは酔いが回っていたせいか他人事のように良い金の使い方だ、自分がこの村の音楽教師なら何を買うだろうか、とあくまでも他人事として考えていた。この時、大隊長夫人と同じく二人のインタビューに感動した大会ホスト国モルフィスの楽器メーカーが学校用に電子ピアノを提供したことによってローレンツの人生は再び変化を迎えていく。
代表選手の特権は空港の免税店で買い物ができることだ。既に酒と煙草とチョコレートは確保してある。物資不足に悩むフォドラでは紙幣の次に使い勝手が良い。それに加えて年頃の娘らしく化粧品を物色していたレオニーはとんでもない代物を見つけた。手に取った高級スキンケアセットには化粧水などが入ったボトルが数本、入っている。そしてそれぞれのボトルには女性のシンプルなイラストが入っているのだが───これがどう見てもレオニーの知る人々なのだ。疑問と驚きで頭がいっぱいになる。慌てて商品を棚に戻し、イグナーツを探した。話を聞いてもらわないと平静を保てない。
イグナーツも高級時計コーナーのディスプレイを凝視し、呆然としていた。声をかけても全く反応しないので、仕方なく近寄るとイグナーツが見つけたとんでもない物、がレオニーの目にも入った。これなら声が彼の耳に届かないのも納得だった。
ディスプレイの中には高級時計と写真が飾られている。その写真の中では高級そうな背広と腕時計を身につけてクロードが微笑んでいた。どうやらあの後、彼も上手くやっていたらしい。レオニーは声をひそめてイグナーツに話しかけた。政治将校に聞かれたら問題になる。
「あいつ俳優だったのか?」
イグナーツはポケットから取り出したモルフィス語の辞書を捲った。ここはモルフィスなので商品の説明も含め、何もかもがモルフィス語で書いてある。
「いいえ、この時計を作っている会社の社長らしいです」
だからクロードはレオニーたちと初対面の時に腕時計について聞いてきたのだろう。ようやく合点がいった。
「時計を買えばこの写真が付いてくるのかな」
「そもそも高くて手が出せませんが残念なことにそういう仕組みではなさそうです」
ローレンツがこの写真を見たらどれほど喜ぶだろうか。彼はイグナーツとヒルダの失態を隠蔽するためにクロードを八週間も匿ったのだが、彼に情がうつっていることなど皆お見通しだった。
「中尉にあげたかったな。イグナーツ、私も見てもらいたいもんがあるからちょっとこっちに来てくれ!」
今度は化粧品コーナーでレオニーが見つけた高級スキンケアセットのパッケージを手に取ったイグナーツが驚く番だった。人民委員のスカーフの柄まで合っている。どうやらクロードは物覚えがいいらしい。化粧品に入っているロゴとカウンターに置いてあった高級時計のロゴが全く同じなので、きっとこの化粧品を作っている会社もクロードの持ち物なのだろう。
「僕もお金出しますからこれ皆さんの分を買いましょう」
「きっと期待されてるよな」
レオニーはパッケージに刷られているキャッチフレーズを指でなぞった。彼女は国境警備隊の隊員だがそれでも時々は自由な往来を夢見る時がある。───そこにはフォドラ語でたった一言「恋しさ」と書かれていた。
もう少しであれから二年経つ。
カリードは先日買収したモルフィスの某企業への国際電話を掛け終え、一人きりで広々とした台所に立っていた。電話中にちょうど茹で上がった小ぶりのじゃがいもをざるにあける。串はすんなり通り、きちんと奥まで柔らかくなっていた。
カリードはパルミラへの帰国を果たして早々に節税対策だ、と嘯いて慈善団体を設立している。ホームレスの人々に洗濯や入浴の機会を定期的に提供する団体と才能はあるが、環境に恵まれない若者の音楽活動をサポートする団体だ。どちらもまだ活動範囲はパルミラ国内にとどまっている。しかし後者は近いうちにモルフィスかブリギットへ活動の場を広げ拠点をそちらへ移す予定だ。フォドラの子どもたちが安心して参加出来るようにする為にも、徐々にパルミラの色を薄めていく必要がある。
続けてカリードは社員たちから無意味だ、と反対されたがオーナー社長の権限で押し切って化粧品部門を新たに設立した。他にも国内外の他業種の企業をいくつか投資目的だと言い張って買収している。どれかは、何かはフォドラへ、国境沿いのあの村へ届くだろう。化粧品やヘルスケア用品ならフォドラにもパルミラ製の商品が流入することは身をもって知っている。化粧品部門でもっとも評判が良く、白フォドラ人たちの郷愁を誘うようなパッケージデザインの商品は敢えてパルミラ本国では販売させていない。フォドランレディという非公式の通称までついているが、敢えてモルフィスの免税店限定にしていた。若い女性向けの観光ガイドブックにはモルフィスに行った際のマストバイアイテムと書かれている。
カリードは湯気の立つじゃがいもを皿に乗せて塩を振った。こんな風に直接働きかけられれば良いのだが、国同士が敵対しあっているとそう言うわけにもいかない。
「あいつらどんな顔するかな」
茹でたてのじゃがいもは熱過ぎて素手では持てないのでフォークを突き刺して少しずつかじっていく。ほくほくしていて柔らかい。バターを落とすとさらに美味しいのだが胃もたれがするまで食べてしまうので節制している。
もう片方の手には相変わらず行儀悪くスマホを持っていた。敵対している国家で八週間生き延びたことを理由に、未だにカリードを訝しむ者がパルミラの公安関係者にも多数存在する。生きていることこそが魔女の証、と言って罪なき女性を焼き殺した異端審問官と同じ発想をする者が経済的に恵まれた母国に存在するという事実にカリードは衝撃を受けた。
彼らから足元を掬われないように慎重に事を進めていく必要がある。
スポーツニュースでバイアスロンの世界選手権について知った時、カリードは祈るような気持ちで参加選手一覧をチェックした。そこにイグナーツとレオニーの名を見つけた時の喜びは未だに筆舌に尽くし難い。今カリードがスマホで眺めている大会のウェブサイトには参加選手のオフショット写真や競技中の動画が沢山載っている。しかしとにかく扱いの難しいフォドラ連邦の選手である二人の写真は残念なことに出場選手一覧にしか載っていない。証明写真のような小さな写真に写るイグナーツとレオニーは口を真一文字に結んでいた。兵舎村では見たことのない表情だ。しかしカリードはイグナーツが本気で怒った時の顔もレオニーが笑った時の顔も知っている。確かにあの八週間で彼らと親しくなれたのだ。三位に入賞したイグナーツとレオニーは今後、体育競技専門の部隊へ転属となるだろう。ヒルダとマリアンヌはまだローレンツの部下のままなのだろうか。兵舎村の奥方連中もいずれは夫の人事異動で去っていく。こちらの様子を知らせる事ができても首飾りの向こう側で何が起きているのかカリードには知ることができない。
愛おしく思う人々と連絡を取りたいだけなのに国際情勢が自分たちの邪魔をする。空になった皿とフォークをシンクの洗い桶に沈めるとカリードはスマホをテーブルに置き、ソファに横たわって目を閉じた。華やかに遊んでいた頃はこのソファに何人もの客が座っていたが帰国してからはずっとカリード専用だ。内なる心の声に耳を傾ける。子供の頃に聞こえてきた内なる心の声は緑の瞳や血に宿るリーガンの紋章を呪う金切り声で、しかもそれを自分の声だと思い込んでいた。今は違う。
「生活環境が変わって恋人と別れるなんてありふれたことなのに何故僕に執着するのだ?」
その声は淡々としていてこちらを責めることもなくとても優しい。あの八週間でローレンツから与えられた愛と信頼をどう扱うべきだろうか。奪われないように何重にも包み、土を掘って地中の奥深くに隠してしまうべきなのだろうか。だがそれは信頼に応えたことにならないのだ。全てが徒労に終わろうと出来ることはなんでもやっておきたい。内なる心の声への返答はいつも決まっていて揺らぐことがなかった。
「運命に逆らえないなら突っ走りたいんだ」
兵舎村にモルフィスから楽器が届いたので村の小学校で贈呈式を行う事となった。軍の好感度を上げる微笑ましいニュースなので軍の広報紙や地方紙、それに地元の放送局もイグナーツとレオニーに取材を申し込んでいる。二人はいつも身につけている深緑色の戦闘服ではなく茶色の軍服を着用していた。
「あんなに取材に来るなんて!」
「大丈夫よレオニーちゃん!この日に備えてみんなでお手入れしたからカメラ写りはばっちりよ!」
「それだけのことを成し遂げたのだから誇りに思うと良い」
競技用のウェアーやゼッケンを身につけている時ならイグナーツもレオニーも取材陣など歯牙にも掛けないのだろうが、正装しているとどうやら勝手が違うらしい。ローレンツたちは深緑色の戦闘服という気軽ないつもの姿で、小学校のささやかなホールに部下の晴れ姿を見届けに来ただけだ。微笑ましい右往左往を他人事として楽しんでいる。二人はこの贈呈式を最後に体育競技専門部隊への移動が決まっているので良い記念になる。寂しくも嬉しい門出だった。
「ピアノがおまけについてくるとはなあ……」
「でも得をしましたよ!」
いつもなら素直に得をしたことを喜ぶレオニーが若干怯えている。二人が三つの村の子供たちに買ったのは鼓笛隊でも使える打楽器のセットだけで、電子ピアノは大会のホスト国モルフィスの楽器メーカーが寄付してくれたものだ。ローレンツが見たところモルフィスやブリギットであれば習いたての子供に親が気楽に与えるような、ありふれたグレードの電子ピアノなので提供した楽器メーカーもここまで二人が恐縮しているとは夢にも思わないだろう。だが物資不足に悩むフォドラではそのありがたみが違うのだ。
「イグナーツくんの言う通り厚意は素直に受け取るべきだ。ああ、レオニーさん、軍帽の角度が曲がっている。直したまえ」
緊張のあまりいつもなら簡単にこなせること、が全く出来なくなっているのは去年この村に赴任してきた小学校教師も同じらしい。子供たちは既に贈呈された打楽器を手にしており、取材に来た軍の広報紙や放送局のカメラマンから撮影用のポーズ指導が入っている。ここで彼女が伴奏すれば完璧な絵面の写真が撮影できるはずだ。しかしなかなか始まらない。
同梱されていた取扱説明書がモルフィス語で中身が読めないからだろうか。載っている図を見ながらあれこれ弄っても贈呈された電子ピアノが何の反応も示さないので彼女は涙目になっている。だがそれもそのはずだ。そもそもプラグが刺さっていない。緊張ぶりを見ていられなくなったローレンツはついに口を開いた。
「先生、少しよろしいだろうか?」
ローレンツはステージに上り床に膝をついた。腕を伸ばしてプラグを手に持って見せると彼女は礼を言い、その場でへなへなと座り込んでしまった。贈呈品が不良品だったらと思うと怖くて仕方なかったのだろう。皆この後の予定もあるのでローレンツがそのまま動作確認したほうがよさそうだった。腕を伸ばして手近なコンセントにプラグを差し込み電源を入れる。主電源のランプが光ったのでローレンツは椅子を引いて座った。白鍵と黒鍵をその角度から見た瞬間、反射的に左手は髪を解き十指は全て吸い付くように白鍵と黒鍵の上で踊り出す。
三日練習しなければ技術は失われていくと言われている。もう何年もピアノに触れていないローレンツの奏でる音は音大の学友たちからすれば落ちぶれ果てた、聞くに耐えないものだろう。だが指が鍵盤に触れるたびにかつて音楽へ抱いていた愛や喜びが寸分違わず胸の内に蘇る。失ったと思っていたものは今もきちんとローレンツのものだった。
自分が我を忘れグリッサンドを多用した曲を一曲丸ごと弾き終えたことに気付いたローレンツは思わず右手で口を押さえた。鍵盤から指が離れた途端に困惑が意識を支配する。何故視界がフラッシュで白く光り、子供たちも含めて皆が拍手しているのかローレンツには分からなかった。今日たたえられるべきは自分ではない。
「先生、申し訳ない。出過ぎた真似をしました」
「いいえ!そんな中尉!ありがとうございました。一体どちらでピアノを学ばれたのですか?」
「子供の頃に少々……」
正直に応えるべきか迷ったローレンツが誤魔化すとそれまで壁際で皆の様子を見ていたマリアンヌが挙手した。
「中尉、本当のことを言うべきです。私共は我が子のように可愛がっていただいておりますが、私は朝起きてオフィスや詰所で中尉のお姿を見かける度に今日も中尉宛てに召喚除隊の辞令が来なかったのか、と失望しておりました」
「マリアンヌさん、少し落ち着こうか」
「いいえ、私は冷静です……。中尉、中尉が復讐を果たされてからもう二年も経っています」
いつもならとぼけたマリアンヌが揉めごとを起こさないように立ち回る三人が今回に限っては何故か全く彼女を止めようとしない。
「ブリギットの王立音楽アカデミーにいた方は紋章の有無に関わらず国境警備隊ではなく軍楽隊かアンヴァルの交響楽団に所属すべきです。才能を土に埋めて隠しておくなんてこと、あってはならないのです……!」
カリードは自分が作った慈善団体がブリギットでワークショップを兼ねたコンサートを開く時は必ず休暇を取ってブリギットを訪問することにしている。二週間の骨休めだ。彼らの宿舎にもなっているホテルを訪れるとロビーでスタッフたちが歓談していた。
「社長、継続的なご支援本当にありがとうございます。今年もフォドラからの参加者がいますよ」
ブリギット側のスタッフたちはカリードがフォドラ人参加者の有無を気にかけているのは白フォドラ人の血を引くからだ、と思い込んでいる。
「そうか。良いことだ。彼らの才能を貧困に埋もれさせてしまうのは勿体ない」
ブリギットに活動拠点を移動して一年目はフォドラからの参加者はいなかった。三年目になってようやくフォドラから一名参加してくれた。たった一人で参加した若き同胞をアテンドしてあげてほしい、ということでブリギットの王立音楽アカデミーにいるフォドラ人留学生へ実に自然に繋がりが出来た。参加者にとって留学生たちは夢を諦めなかった未来の自分だし留学生にとって参加者たちは可愛い後輩だ。互いにとって良い刺激になる。
「今日はやけに静かだな」
いつもならホテル中どこもかしこも若者たちの話し声や歌声、楽器の音で騒々しい。
「今日はコンサートホールの下見日です。皆大喜びで社長から貰った小遣いを持って行きましたよ。今年のノベルティTシャツの色はネオンブルーです」
「そりゃド派手で分かりやすいな。俺もショッピングモールに行ってみるかな」
ブリギットは自然豊かな国だ。海も山も森もあり、世界中から美しい景観や大自然の中でアクティビティを楽しむ為に観光客が訪れる。まず、その観光客の財布目当てに巨大なショッピングモールが作られた。デパートや遊園地それにコンサートホールも内包しているような巨大なもので、もはやショッピングモール自体が観光名所となっている。参加者たちは下見のついでにショッピングモールで遊ぶのを楽しみにしていた。
そんな巨大なショッピングモールでワークショップ参加者たちを探すのは結構簡単だ。コンサートホールがある関係でこのショッピングモール内にはストリートピアノがいくつか設置されている。カリードが作った慈善団体のワークショップ参加者たちは皆、外国語は達者ではないが、音楽という非言語コミュニケーションには長けていて彼らが設置されているストリートピアノを弾けば拍手喝采だ。
モール内のストリートピアノを巡ってスポンサーロゴ入りのノベルティTシャツを着ている者を探せば良い。今年も派手な色なのできっとすぐに見つかるだろう。カリードはショッピングモールの入り口付近のカフェで買ったドリンクを片手に、モール内をふらふらと歩き始めた。昨年の記憶と微かな音を頼りに大荷物を抱えた買い物客が行き交う広い通路を歩いているといくつかの通路が合流して出来た広場があった。辺りは黒山の人だかりで響き渡る見事な演奏から言ってもワークショップの参加者に違いない。
カリードは微笑みながら人だかりを割って自分の予想が合っているか確かめに行った。カリードの予想は半分正解で半分外れていた。グランドピアノの椅子にはネオンブルーのTシャツを着た少女と白い半袖シャツを身につけた蜘蛛のように手足の長い男性が並んで座っている。二人はフォドラ出身のようで少女は髪が若草色で男性は髪が紫色だった。
兵舎村の棚の下、段ボールの奥深くにしまいこまれていた姿がようやく陽の光を浴びている。この姿だ。誰にも憚られることなく直接、この姿が見たかった。だからこそクロードは気が遠くなるような遠回りをしたし、何年も連続で空振りだったにもかかわらず今年もこうしてブリギットにやって来たのだ。
アテンドしているのであろう参加者との連弾を終え観客に礼を言うため、拍手の中で立ち上がったローレンツは驚きのあまり大きな右手で口元を押さえた。その手には緑色のフェースの腕時計が着けられている。アウトドアスポーツ用の腕時計は演奏の場ではどうにも武骨で仕方なかった。演奏会用の瀟洒な腕時計を見繕ってやるのも良いかもしれない。そんなことを考えながらクロードはローレンツに駆け寄り彼の頬に手を当て唇に長い長いキスをした。
「ローレンツ!いつブリギットに戻ってきたんだよ!こっちに来てるなら知らせてくれれば良かったのに!」
「クロード、長いこと待たせてしまってすまなかった」
くっつけた互いの頬が濡れているが二人とも泣いているのでどちらの涙のせいなのかはよく分からない。
「いや、良いんだ……。こうして来てくれたんだからそんなことは本当にどうでも良いさ……」
先程までは拍手喝采で満たされていた空間が、クロードたちを囃し立てる歓声や指笛で満たされていく。二人の関係は今後も国際情勢に大きく左右されるだろう。今はこうして第三国で会えているが今後、不可能になるかもしれない。だが互いへの思いを土の中に埋めて隠すようなことは絶対にしたくなかった。畳む
「説明できない」
初版の表紙

台詞抜粋

紅花ルートで戦死した記憶のあるクロードと蒼月ルートで戦死した記憶のあるローレンツが翠風ルートで出会ってなんとか2人揃って生き残ることはできないか?と協力していく話です。
1.振り出し
#説明できない #クロロレ #完売本 #表紙 #台詞まとめ
クロードが最後に見たのは天帝の剣を構える元傭兵の女教師だった。五年間行方不明だった彼女が見つかって膠着していた戦況が動き始め───それがクロードにとって望ましいものではなかったのは言うまでもない。
生かしておく限り揉めごとの種になる、と判断されたのは故郷でもフォドラでも同じだった。人生はなんと馬鹿馬鹿しいのだろうか。だが自分の人生の幕が降りる時、目の前にいるのがシャハドやその取り巻きではなくベレス、エーデルガルト、ヒューベルトであることに気づいたクロードは笑った。
もう重たくて二度と上がらない筈の瞼が上がり緑の瞳が現れる。その瞬間は何も捉えていなかったが部屋の窓から差す一条の光に照準が合った瞬間、クロードの動悸は激しく乱れた。戦場で意識を取り戻した際は呼吸が出来るかどうか、視野は失われていないか、音は聞こえるのか、それと体が動くかどうか、を周りの者に悟られぬように確かめねばならない。クロードは目に映ったものを今すぐにでも確認したかったが、行動を観察されている可能性があるので再び目を瞑った。
山鳥の囀りが聞こえ火薬や血の匂いを感じない。手足双方の指も動く。どうやら靴は履いていないらしい。関節も痛みなく動かすことができた。再び一度耳を澄ませたが物が燃える音もクロードの他に人がいる気配も感じない。もう体を動かしてあたりを確かめても良いだろう。そう考えたクロードが身を起こすと寝台に乗せてあった本が大きな音を立てて床に落ちた。
ガルグ=マクで寮生活を送る者は皆、朝日の光に眠りを遮られないように寝る前に雨戸を閉める。しかしクロードの部屋の雨戸は少し合わせが悪く隙間から光が差し込む。その形は忘れようがない。クロードが子供でいられた最後の一年間、毎朝見ていたものなのだ。室内履きなどは履かず裸足のまま窓に近寄り雨戸を開ける。クロードの目の前に広がったのは士官学校の敷地だった。エーデルガルト達が捕虜を捕らえるにしても、クロードにとって庭のようなこの場所に留め置いて何の利があるのだろうか。明るくなった室内を眺めると身嗜みを整える為、壁に掛けておいた鏡が目に入る。鏡の中の自分はまだ頬髭もなく三つ編みが編めるほど前髪が長かった。当たり前だが頬を触ってみても髭の感触はない。椅子には士官学校の制服と級長の証である黄色い外套が掛けられていた。手に取って見てみればまだ子供の頃の細い身体に合わせて仕立ててある。
「嘘だろ……」
クロードは一人虚空に向かって呟いた。
───
ローレンツが最後に見たものは破裂の槍を構えるシルヴァンだった。五年間行方不明だったベレトが姿を表し、ガルグ=マクがファーガスの拠点となってから膠着していた戦況が動き始め───それが帝国にとって望ましいものでなかったのは言うまでもない。
フェルディナントがキッホルの紋章を、ローレンツがグロスタールの紋章を持っているからと言う理由でミルディン大橋の防衛を任された。何も不自然なところはない。だがその命令には恐ろしいほどの悪意が込められていた。それでもシルヴァンがいるなら後を任せられる。最後に感じたのは頬に落ちる彼の涙だった。
遠くで何かが崩れる音がしてローレンツは意識を取り戻した。戦場で意識を取り戻した際はまず呼吸が出来るか確かめるように言われている。肺から喉に逆流した血が溜まっていた筈だが咽せることなく呼吸が出来た。山鳥の囀りが聞こえ頬には冷えた空気を感じる。五感のうち聴覚と触覚は無事であるらしい。付近に人の気配が感じられなかったのでローレンツは思い切って瞼を微かに上げてみた。
部屋の中は薄暗く何がどこにあるのかよく分からない。寝返りを打ってもどこも体に痛みを感じなかった。手足の指は全て揃っており腕も足も動く。身体を起こした時、部屋の外からシルヴァンとフェリクスの話し声が聞こえた。自分は捕虜になったのだろうか。身代金はいくらなのだろう。頭を振って起き上がると伸ばした筈の髪の毛の感触がない。触ってみれば士官学校時代と同じ長さになっていた。
治療の際に切られたのかもしれないと思い、頭を触ってみたが特に怪我もない。大怪我を白魔法で一気に治すと帳尻合わせのように拒否反応が出る。人によってまちまちで、吐く者もいれば体温や気温に関係なく寒気に襲われ毛布が手放せなくなる者もいた。ローレンツの場合は目眩なのだが目が回っている感覚はない。ローレンツは光源にして部屋の様子を伺う為ファイアーの呪文を唱えて魔法陣を出現させた。丸い緑の光がうっすらと室内を照らしていく。見覚えがあるものばかりが目に入りローレンツは絶句した。もう光源など必要ない。起き上がり寝台の脇が定位置の室内履きに足を突っ込んで暗い室内の中、窓に向かって直進する。手を伸ばして雨戸を開け、陽の光の元で振り返ってみればそこには魔道学院にいた頃、買い求めた三段重ねの給茶器があった。
「何が起きたのだ……?」
ローレンツは一人虚空に向かって呟いた。
士官学校の朝は早い。日の出と同時に起きて身支度を整え、訓練をする者たちがいるからだ。金鹿の学級ではラファエル、青獅子の学級ではフェリクス、黒鷲の学級ではカスパルが皆勤賞だろうか。ローレンツも朝食前に身体を動かすようにしているがその三人のように日の出と同時には起きない。
ローレンツは桶に汲んでおいた水で顔を洗い口を濯いだ。早く他の学生たちに紛れて外の様子を見にいかねばならない。前日の自分がきちんと用意していたのであろう制服を身につけ、ローレンツは扉を開けた。私服の外套に身を包んだシルヴァンが訓練服姿のフェリクスに必死で取り繕っている所に出くわす。
「おはよう、フェリクスくん。朝から何を揉めているのだ?」
「煩くしてすまなかった。単にこいつに呆れていただけだ」
そう言うと親指で赤毛の幼馴染を指差しながらフェリクスは舌打ちをした。シルヴァンは朝帰りをディミトリや先生に言わないで欲しいと頼んでいたのだろう。
「情熱的な夜を過ごしたのかね」
呆れたようにローレンツが言うとシルヴァンは照れ臭そうに笑った。
「愚かすぎる。今日は初めての野営訓練だろう」
フェリクスの発言を受けてローレンツは頭の中で暦をめくった。どうやらガルグ=マクに来たばかりの時期らしい。今思えばあの時、行方不明となってその後ずっと姿を表さなかった教師には帝国の息がかかっていたのだろう。本当ならそこに後任としてイエリッツァが潜り込むはずだったのだ。信頼を得て油断したところでディミトリ本人は無理でも、シルヴァンかフェリクスを暗殺できれば五年後の蜂起自体が不可能になる。
「だから山小屋の娘さんとだな……」
「こちらはまだ雪がないんだ。それならどうとでもなるのを知っているくせに白々しいな、お前は」
まだフェルディアで政変は起きていない。辛うじて体裁を保てているファーガスの若者たちは傷ついていたが、五年後を知るローレンツから見ればまだ子犬のような幼気盛りだった。
「初めての合同演習なのだから瑕疵がないようにしたいものだ」
そしてそこでディミトリが彼に選ばれるのだろう。あの時は我が身を引き換えにしてもグロスタール家とグロスタール領しか救えなかった。だがエーデルガルトの悪意を知る今、この時期からやり直せるならば今度こそ、あの戦争が終わるまで自分の足で立っていられるかもしれない。ローレンツは朝食をとり周囲を確かめるため、まだ言い争う二人を置いて食堂へと向かった。
───
クロードは数年ぶりに前髪を編んだ。中途半端に荷解きをしたらしく、混沌としていた部屋は見なかったことにして制服を身につけ扉を開ける。そこにはちょうど世間話が終わったらしいローレンツ、シルヴァン、フェリクスがいた。五年後のローレンツは対帝国の防衛戦に出陣できない。グロスタール伯とクロードの方針が合致したからだ。シルヴァンとフェリクスは即位したディミトリによく従い、王国西部での戦いで武名を上げていた。だが今は三人ともそんな未来が待っているとは知らない。
「おはよう、クロード。今日は合同演習だな」
野盗に襲われ命からがら逃げ出した先で、ジェラルドとベレスに助けられたクロードは五年後ベレスに殺されるのだ。
「そうだな、つつがなく終えたいもんだ」
「僕も尽力しよう」
クロードの記憶によればこの時期のローレンツはもっと食ってかかってきた印象がある。食堂に向かって歩きながら白い横顔を観察したが、まだそこに悪意や苛立ちはない。新しい環境への期待や素直な好奇心がある。母国の王宮に巣食う者たちに比べればフォドラの人々はまだ素朴だ。しかし、望む姿さえ見せればどうとでも操れる、と言う思いあがりのせいでクロードは命を失っている。
ローレンツは言葉通り野営の準備に尽力した。背嚢の数、中身を全て確認してくれたのでクロードは安心して地図を眺めることが出来た。歴史と伝統を誇る士官学校が長年使い続けている経路と野営地だが近年では油断できない、とパルミラの密偵たちはいう。ダスカーの悲劇以降、統治能力を失いつつあるファーガスでは野盗にまで落ちぶれる者も多く治安が悪化していた。三国の国境地帯でもあるガルグ=マクは当然ファーガスとも国境を接している。そこから野盗が入り込むことは当然予想出来た。
事前に密偵からの警告があったのでクロードはあの時も万が一に備えて地図を眺めていた。今回もまた野盗の襲撃があるなら別の村に助けを求めた方が良いのかもしれない。そう考え、改めて地図を眺めてみたが期待外れだった。かなり詳細なはずのこの地図ですら徒歩で行けそうな村があのルミール村しか載っていない。丹念に探せば集落があるのだろうが、その規模の集落に助けを求めたところで自分を信じてくれた同級生は命を落としてしまうだろう。
「クロード、全員準備が整ったぞ」
「ローレンツくんが殆どやってくれたから助かっちゃった!」
そう言ってにこやかに笑うヒルダに真の名すら教えなかったと言うのに、彼女はクロードの命を救うため、デアドラで命を落とした。皆の命を救うために自分に出来ることはなんだろうか。畳む
初版の表紙

台詞抜粋

紅花ルートで戦死した記憶のあるクロードと蒼月ルートで戦死した記憶のあるローレンツが翠風ルートで出会ってなんとか2人揃って生き残ることはできないか?と協力していく話です。
1.振り出し
#説明できない #クロロレ #完売本 #表紙 #台詞まとめ
クロードが最後に見たのは天帝の剣を構える元傭兵の女教師だった。五年間行方不明だった彼女が見つかって膠着していた戦況が動き始め───それがクロードにとって望ましいものではなかったのは言うまでもない。
生かしておく限り揉めごとの種になる、と判断されたのは故郷でもフォドラでも同じだった。人生はなんと馬鹿馬鹿しいのだろうか。だが自分の人生の幕が降りる時、目の前にいるのがシャハドやその取り巻きではなくベレス、エーデルガルト、ヒューベルトであることに気づいたクロードは笑った。
もう重たくて二度と上がらない筈の瞼が上がり緑の瞳が現れる。その瞬間は何も捉えていなかったが部屋の窓から差す一条の光に照準が合った瞬間、クロードの動悸は激しく乱れた。戦場で意識を取り戻した際は呼吸が出来るかどうか、視野は失われていないか、音は聞こえるのか、それと体が動くかどうか、を周りの者に悟られぬように確かめねばならない。クロードは目に映ったものを今すぐにでも確認したかったが、行動を観察されている可能性があるので再び目を瞑った。
山鳥の囀りが聞こえ火薬や血の匂いを感じない。手足双方の指も動く。どうやら靴は履いていないらしい。関節も痛みなく動かすことができた。再び一度耳を澄ませたが物が燃える音もクロードの他に人がいる気配も感じない。もう体を動かしてあたりを確かめても良いだろう。そう考えたクロードが身を起こすと寝台に乗せてあった本が大きな音を立てて床に落ちた。
ガルグ=マクで寮生活を送る者は皆、朝日の光に眠りを遮られないように寝る前に雨戸を閉める。しかしクロードの部屋の雨戸は少し合わせが悪く隙間から光が差し込む。その形は忘れようがない。クロードが子供でいられた最後の一年間、毎朝見ていたものなのだ。室内履きなどは履かず裸足のまま窓に近寄り雨戸を開ける。クロードの目の前に広がったのは士官学校の敷地だった。エーデルガルト達が捕虜を捕らえるにしても、クロードにとって庭のようなこの場所に留め置いて何の利があるのだろうか。明るくなった室内を眺めると身嗜みを整える為、壁に掛けておいた鏡が目に入る。鏡の中の自分はまだ頬髭もなく三つ編みが編めるほど前髪が長かった。当たり前だが頬を触ってみても髭の感触はない。椅子には士官学校の制服と級長の証である黄色い外套が掛けられていた。手に取って見てみればまだ子供の頃の細い身体に合わせて仕立ててある。
「嘘だろ……」
クロードは一人虚空に向かって呟いた。
───
ローレンツが最後に見たものは破裂の槍を構えるシルヴァンだった。五年間行方不明だったベレトが姿を表し、ガルグ=マクがファーガスの拠点となってから膠着していた戦況が動き始め───それが帝国にとって望ましいものでなかったのは言うまでもない。
フェルディナントがキッホルの紋章を、ローレンツがグロスタールの紋章を持っているからと言う理由でミルディン大橋の防衛を任された。何も不自然なところはない。だがその命令には恐ろしいほどの悪意が込められていた。それでもシルヴァンがいるなら後を任せられる。最後に感じたのは頬に落ちる彼の涙だった。
遠くで何かが崩れる音がしてローレンツは意識を取り戻した。戦場で意識を取り戻した際はまず呼吸が出来るか確かめるように言われている。肺から喉に逆流した血が溜まっていた筈だが咽せることなく呼吸が出来た。山鳥の囀りが聞こえ頬には冷えた空気を感じる。五感のうち聴覚と触覚は無事であるらしい。付近に人の気配が感じられなかったのでローレンツは思い切って瞼を微かに上げてみた。
部屋の中は薄暗く何がどこにあるのかよく分からない。寝返りを打ってもどこも体に痛みを感じなかった。手足の指は全て揃っており腕も足も動く。身体を起こした時、部屋の外からシルヴァンとフェリクスの話し声が聞こえた。自分は捕虜になったのだろうか。身代金はいくらなのだろう。頭を振って起き上がると伸ばした筈の髪の毛の感触がない。触ってみれば士官学校時代と同じ長さになっていた。
治療の際に切られたのかもしれないと思い、頭を触ってみたが特に怪我もない。大怪我を白魔法で一気に治すと帳尻合わせのように拒否反応が出る。人によってまちまちで、吐く者もいれば体温や気温に関係なく寒気に襲われ毛布が手放せなくなる者もいた。ローレンツの場合は目眩なのだが目が回っている感覚はない。ローレンツは光源にして部屋の様子を伺う為ファイアーの呪文を唱えて魔法陣を出現させた。丸い緑の光がうっすらと室内を照らしていく。見覚えがあるものばかりが目に入りローレンツは絶句した。もう光源など必要ない。起き上がり寝台の脇が定位置の室内履きに足を突っ込んで暗い室内の中、窓に向かって直進する。手を伸ばして雨戸を開け、陽の光の元で振り返ってみればそこには魔道学院にいた頃、買い求めた三段重ねの給茶器があった。
「何が起きたのだ……?」
ローレンツは一人虚空に向かって呟いた。
士官学校の朝は早い。日の出と同時に起きて身支度を整え、訓練をする者たちがいるからだ。金鹿の学級ではラファエル、青獅子の学級ではフェリクス、黒鷲の学級ではカスパルが皆勤賞だろうか。ローレンツも朝食前に身体を動かすようにしているがその三人のように日の出と同時には起きない。
ローレンツは桶に汲んでおいた水で顔を洗い口を濯いだ。早く他の学生たちに紛れて外の様子を見にいかねばならない。前日の自分がきちんと用意していたのであろう制服を身につけ、ローレンツは扉を開けた。私服の外套に身を包んだシルヴァンが訓練服姿のフェリクスに必死で取り繕っている所に出くわす。
「おはよう、フェリクスくん。朝から何を揉めているのだ?」
「煩くしてすまなかった。単にこいつに呆れていただけだ」
そう言うと親指で赤毛の幼馴染を指差しながらフェリクスは舌打ちをした。シルヴァンは朝帰りをディミトリや先生に言わないで欲しいと頼んでいたのだろう。
「情熱的な夜を過ごしたのかね」
呆れたようにローレンツが言うとシルヴァンは照れ臭そうに笑った。
「愚かすぎる。今日は初めての野営訓練だろう」
フェリクスの発言を受けてローレンツは頭の中で暦をめくった。どうやらガルグ=マクに来たばかりの時期らしい。今思えばあの時、行方不明となってその後ずっと姿を表さなかった教師には帝国の息がかかっていたのだろう。本当ならそこに後任としてイエリッツァが潜り込むはずだったのだ。信頼を得て油断したところでディミトリ本人は無理でも、シルヴァンかフェリクスを暗殺できれば五年後の蜂起自体が不可能になる。
「だから山小屋の娘さんとだな……」
「こちらはまだ雪がないんだ。それならどうとでもなるのを知っているくせに白々しいな、お前は」
まだフェルディアで政変は起きていない。辛うじて体裁を保てているファーガスの若者たちは傷ついていたが、五年後を知るローレンツから見ればまだ子犬のような幼気盛りだった。
「初めての合同演習なのだから瑕疵がないようにしたいものだ」
そしてそこでディミトリが彼に選ばれるのだろう。あの時は我が身を引き換えにしてもグロスタール家とグロスタール領しか救えなかった。だがエーデルガルトの悪意を知る今、この時期からやり直せるならば今度こそ、あの戦争が終わるまで自分の足で立っていられるかもしれない。ローレンツは朝食をとり周囲を確かめるため、まだ言い争う二人を置いて食堂へと向かった。
───
クロードは数年ぶりに前髪を編んだ。中途半端に荷解きをしたらしく、混沌としていた部屋は見なかったことにして制服を身につけ扉を開ける。そこにはちょうど世間話が終わったらしいローレンツ、シルヴァン、フェリクスがいた。五年後のローレンツは対帝国の防衛戦に出陣できない。グロスタール伯とクロードの方針が合致したからだ。シルヴァンとフェリクスは即位したディミトリによく従い、王国西部での戦いで武名を上げていた。だが今は三人ともそんな未来が待っているとは知らない。
「おはよう、クロード。今日は合同演習だな」
野盗に襲われ命からがら逃げ出した先で、ジェラルドとベレスに助けられたクロードは五年後ベレスに殺されるのだ。
「そうだな、つつがなく終えたいもんだ」
「僕も尽力しよう」
クロードの記憶によればこの時期のローレンツはもっと食ってかかってきた印象がある。食堂に向かって歩きながら白い横顔を観察したが、まだそこに悪意や苛立ちはない。新しい環境への期待や素直な好奇心がある。母国の王宮に巣食う者たちに比べればフォドラの人々はまだ素朴だ。しかし、望む姿さえ見せればどうとでも操れる、と言う思いあがりのせいでクロードは命を失っている。
ローレンツは言葉通り野営の準備に尽力した。背嚢の数、中身を全て確認してくれたのでクロードは安心して地図を眺めることが出来た。歴史と伝統を誇る士官学校が長年使い続けている経路と野営地だが近年では油断できない、とパルミラの密偵たちはいう。ダスカーの悲劇以降、統治能力を失いつつあるファーガスでは野盗にまで落ちぶれる者も多く治安が悪化していた。三国の国境地帯でもあるガルグ=マクは当然ファーガスとも国境を接している。そこから野盗が入り込むことは当然予想出来た。
事前に密偵からの警告があったのでクロードはあの時も万が一に備えて地図を眺めていた。今回もまた野盗の襲撃があるなら別の村に助けを求めた方が良いのかもしれない。そう考え、改めて地図を眺めてみたが期待外れだった。かなり詳細なはずのこの地図ですら徒歩で行けそうな村があのルミール村しか載っていない。丹念に探せば集落があるのだろうが、その規模の集落に助けを求めたところで自分を信じてくれた同級生は命を落としてしまうだろう。
「クロード、全員準備が整ったぞ」
「ローレンツくんが殆どやってくれたから助かっちゃった!」
そう言ってにこやかに笑うヒルダに真の名すら教えなかったと言うのに、彼女はクロードの命を救うため、デアドラで命を落とした。皆の命を救うために自分に出来ることはなんだろうか。畳む
「説明できない」2.遭遇
#説明できない #クロロレ #完売本
三学級合同の野営訓練が始まった。全ての学生は必ず野営に使う天幕や毛布など資材を運ぶ班、食糧や武器等を運ぶ班、歩兵の班のどれかに入る。まずは一人も脱落することなく全員が目的地まで指定された時間帯に到達することが目標だ。担当する荷の種類によって進軍速度が変わっていくので編成次第では取り残される班が出てくる。
「隊列が前後に伸びすぎないように注意しないといけないのか……」
「レオニーさん、僕たちのこと置いていかないでくださいね」
ラファエルと共に天幕を運ぶイグナーツ、ローレンツと共に武器を運ぶレオニーはクロードの見立てが甘かったせいでミルディンで戦死している。まだ髪を伸ばしていないレオニー、まだ髪が少し長めなイグナーツの幼気な姿を見てクロードの心は勝手に傷んだ。
「もう一度皆に言っておくが一番乗りを競う訓練じゃあないからな」
出発前にクロードは念を押したがやはり持ち運ばねばならない荷の大きさが理由で、記憶通りに進軍速度の違いが生じている。身軽な歩兵がかなり先の地点まで到達し、大荷物を抱える資材班との距離が開き出した。
「ヒルダさん、早すぎる!」
「えー、でも早く着いて休みたくない?」
クロードは伝令のようにそれぞれの班を走って行き来したがそれも限界がある。歩兵の班の最後尾にいたヒルダに武器の班の責任者を務めていたローレンツが駆け寄って行ったのを見た時は正直助かった、と思った。新兵ほど扱いにくいものはない。
前方でローレンツと彼に呼び出された食糧班の責任者であるリシテアが何やら話し込んでいる。その間、歩兵班は待つように言われたらしく引き離されていた資材班がじりじりと追いついてきた。
「クロード、食糧を一食分と訓練用の剣を今ここで全員に配布してはどうだろうか。そうすればこちらの空いた荷車に資材を積める」
「足の遅い資材班を置き去りにせずに済みます」
ローレンツは進軍速度を均一にする為に提案したようだがクロードはこの後、自分たちが盗賊団から襲撃される事を知っている。
「荷が増えた歩兵の足も鈍るかもな。よし、そうしよう」
クロードはローレンツたちの提案を快諾したが理由が違った。この後、盗賊に襲われるのだから手持ちの武器は少しでも多い方がいい。訓練用の剣は刃が潰してあるがそれでも打撃用の武器にはなる。あの時は備えがない状態で襲撃されても皆、生き残っていた。きっと女神のご加護という奴だろう。それでも全力を尽くすのが将来、自分のせいで死ぬ彼らへの手向けだとクロードは思った。
事態はクロードの記憶通りに進み、野営地は星空の下で盗賊に襲われている。槍と剣を使える学生が最前線に立ち、魔法や弓に長けた学生が援護していた。あの時は気づかなかったが、盗賊たちは最初から外套を身に付けたガキはどこだ、と叫んでいる。外套は級長の証だ。エーデルガルトは自分を囮にしてまでクロードやディミトリを殺したかったのだろう。クロードのせいで五年間対同盟の戦端すら開けなかったのは確かだから、気持ちは分からないでもない。あの時は撹乱する為に闇雲に走ったが今のクロードには目指す場所が分かっていた。
帝国領のルミール村まで辿り着けば壊刃、とあだ名されたジェラルドが率いる傭兵団がいる。こっそり抜け出しても気づいたエーデルガルトと二人きりになると殺害されてしまう可能性が高い。だからクロードはディミトリに気付かれるようわざと物音を立てて逃げ出した。一目散に修道院とは全く違う方へ走っていくクロードに気付いたディミトリとエーデルガルトが追いかけてくる。これでエーデルガルトと二人きりになることはない。
盗賊たちは目当ての学生がいないことに気が付き、皆クロードたちの方へ向かってきた。空がぼんやりと白み始め、村の入り口を見張っている傭兵の姿が見えてきたら後はジェラルドが出てくるのを待てばいい。ディミトリとエーデルガルトが必死に窮状を訴えてくれたので、その間にクロードは息を整えることが出来た。
「上手いこと仲間と分断されて多勢に無勢、金どころか命まで盗られるところでしたよ」
「その割には随分とのん気な……。ん? その制服……」
しかし記憶と違う現実を目の当たりにしたクロードの心臓は早鐘のように脈打ち、その場にいる皆の言葉がよく聞こえない。ジェラルドの側に立っているのはベレスではなくベレトと言う名の息子だった。彼もまたエーデルガルトの手を取るならば強く警戒せねばならない。
ジェラルドとベレトは村に攻め入る盗賊たちをあっという間に倒し、その後の展開はクロードの記憶から外れることはなかった。野営地の様子を見に行ってくれた騎兵から残してきた他の学生たちが無事である、との知らせを受けディミトリが微笑む。クロードにとっても初対面であるベレトにディミトリもエーデルガルトも興味津々で、二人はまとわりついて離れない。牽制半分、からかい半分で彼の好みを問うてみるとパルミラ出身のクロードよりも世間知らずなベレトはベレスとは違いレスター諸侯同盟を選んだ。
犠牲者を一人も出すことなく野営訓練を終えて修道院に戻ることが出来た。ほぼ、ローレンツの記憶通りだが異なる点もある。ベレトが金鹿の学級の担任になったのだ。正式に採用された彼は既に士官学校から学生の資料を貰っている。だがグロンダーズで行われる模擬戦を控えたベレトはここ数日、放課後になると学級の皆に話を聞くため修道院の敷地内を走り回っていた。
ローレンツはあの時、模造剣を配ろうとしたのは何故なのかとベレトに問われている。予め野盗たちに襲われているのを知っていたから、とは言えない。言えば狂人扱いされるだろう。
「歩兵の足が早すぎたからだ。補給部隊が本体と分断されたら敵に襲われやすくなる」
食糧がなければ兵たちは戦えない。敵軍を撤退させるため、戦端を開く前に物資の集積所を襲って物資を奪ったり焼き払ってしまうのもよくある話だ。戦わずに済むならそれがいい。ローレンツの言葉を聞いたベレトは首を縦に振った。
「それで足止めして予備の武器を渡したのか。装備をどうするかは本当に難しいんだ。あの場合は結果として合っていたな。良い判断をした」
「ありがとう先生。そう言ってもらえると霧が晴れたような気分になるよ」
戦場の霧という言葉がある。どの将も斥候などを出して可能な限り下調べはするが、それでも敵軍や戦場の正確な現状を正確に知ることはできない。霧に辺りを覆い隠された状態で指揮官は決定を下し、その責任をとる。ローレンツが命を落としたミルディン大橋にもその霧がたちこめていて、霧の中にはベレトがいた。
ベレトは無表情かつとても静かに話す。声を荒げるところを聞いた者はいない。夜の闇のような瞳で彼からじっと見つめられるとローレンツは秘密を見透かされたような気分になる。だが話題は得意とする武器へと切り替わっていった。彼は剣が最も得意だという。
「シルヴァンと同じく槍だ」
口に出した言葉は取り消せない。ローレンツは反射的にベレトが青獅子の学級の担任であるかのように扱ってしまった。例えとして出すにしても唐突すぎる。レオニーと同じく、と言うべきだった。
「シルヴァンとローレンツは槍が得意なのか。覚えておこう。そうか、フェルディアにいたからファーガスの者に詳しいのか」
今日は天気が良くベレトとローレンツ以外にも中庭で、沢山の学生が暖かい日差しと世間話を楽しんでいる。こうした時間を共有することで学級の垣根、すなわち出身地の違いを超えて同じ体験をした者同士が親しくなっていく。後の戦乱を知る身からすれば涙が出そうなほど平和な光景だ。学級の垣根を超えて結んだ友情は五年の時を経て不本意な結果に終わっている。少なくともローレンツとシルヴァンに関してはそうだった。
「そうだな、確かにメルセデスさん、アネットさんとは魔道学院にいた時からの顔見知りだ」
「ありがとう、参考になった」
そういうとベレトはリシテアを探して立ち去った。うまくやり過ごそうと緊張していたのか汗が白い背中を伝っていく。ふとした拍子に過去の記憶が言動に現れてしまわぬよう、今後は更に気をつけねばならない。
「よう、ローレンツ。そんなにファーガスの連中に詳しいなら俺にも聞かせてくれよ」
クロードはいつから話を聞いていたのだろうか。ローレンツはベレトが違和感を感じていないかどうか気にかけるあまり、クロードが耳をそばだてていることが分からなかった。
「君は人より建物の方が好みだろう?」
クロードの言動は今のところローレンツの記憶と大きく異なる点がない。先日も夜中に勝手に出歩いているところに出くわした。あの時は彼の資質を疑ったが後にエーデルガルト相手に五年間ものらりくらりと誤魔化し続けたことを今のローレンツは知っている。あの時、彼が見誤ったのはディミトリの立ち直る力だけだった。
「先生には興味があるぜ。あの人には何か秘密があるはずだ」
目の前に誰にも言えない秘密を抱えた者がいると知らず、クロードは好奇心に目を輝かせている。表面上では彼とローレンツは一歳しか歳は離れていないが、精神的には五歳の開きがある。
「暴くのではなく打ち明けさせてこそ、だろう。信頼を得たかったら闇雲に腹を探ろうとするのはやめることだ」
「そっちこそ闇雲に女子に声かけるのやめろよ。言い寄られるようになってこそ、だろ?」
だが円卓会議で海千山千の大人たちと立派に張り合っていた片鱗はもう見え始めていた。つまり痛いところを正確に突くのだ。
「なっ!僕はシルヴァンとは違う!本気で共に領地を治めてくれる配偶者を探しているのだからな!」
戦争が終わってから配偶者探しを再開しようと考えていたローレンツは結局、独身のまま生涯を終えている。愛する人がいたら降伏や敵前逃亡をしていたかもしれないが、それでも今度は生涯を共に過ごす相手が欲しい。
「資質を磨かなくても良い立場な奴は気軽で良いねえ」
「言っておくがあくまでも勉学のついでだし君に対する監視の目を緩める気はないからな」
そうすればローレンツはクロードのうちに立ちこめる霧が晴れる時を見逃さずに済むのかもしれない。畳む
#説明できない #クロロレ #完売本
三学級合同の野営訓練が始まった。全ての学生は必ず野営に使う天幕や毛布など資材を運ぶ班、食糧や武器等を運ぶ班、歩兵の班のどれかに入る。まずは一人も脱落することなく全員が目的地まで指定された時間帯に到達することが目標だ。担当する荷の種類によって進軍速度が変わっていくので編成次第では取り残される班が出てくる。
「隊列が前後に伸びすぎないように注意しないといけないのか……」
「レオニーさん、僕たちのこと置いていかないでくださいね」
ラファエルと共に天幕を運ぶイグナーツ、ローレンツと共に武器を運ぶレオニーはクロードの見立てが甘かったせいでミルディンで戦死している。まだ髪を伸ばしていないレオニー、まだ髪が少し長めなイグナーツの幼気な姿を見てクロードの心は勝手に傷んだ。
「もう一度皆に言っておくが一番乗りを競う訓練じゃあないからな」
出発前にクロードは念を押したがやはり持ち運ばねばならない荷の大きさが理由で、記憶通りに進軍速度の違いが生じている。身軽な歩兵がかなり先の地点まで到達し、大荷物を抱える資材班との距離が開き出した。
「ヒルダさん、早すぎる!」
「えー、でも早く着いて休みたくない?」
クロードは伝令のようにそれぞれの班を走って行き来したがそれも限界がある。歩兵の班の最後尾にいたヒルダに武器の班の責任者を務めていたローレンツが駆け寄って行ったのを見た時は正直助かった、と思った。新兵ほど扱いにくいものはない。
前方でローレンツと彼に呼び出された食糧班の責任者であるリシテアが何やら話し込んでいる。その間、歩兵班は待つように言われたらしく引き離されていた資材班がじりじりと追いついてきた。
「クロード、食糧を一食分と訓練用の剣を今ここで全員に配布してはどうだろうか。そうすればこちらの空いた荷車に資材を積める」
「足の遅い資材班を置き去りにせずに済みます」
ローレンツは進軍速度を均一にする為に提案したようだがクロードはこの後、自分たちが盗賊団から襲撃される事を知っている。
「荷が増えた歩兵の足も鈍るかもな。よし、そうしよう」
クロードはローレンツたちの提案を快諾したが理由が違った。この後、盗賊に襲われるのだから手持ちの武器は少しでも多い方がいい。訓練用の剣は刃が潰してあるがそれでも打撃用の武器にはなる。あの時は備えがない状態で襲撃されても皆、生き残っていた。きっと女神のご加護という奴だろう。それでも全力を尽くすのが将来、自分のせいで死ぬ彼らへの手向けだとクロードは思った。
事態はクロードの記憶通りに進み、野営地は星空の下で盗賊に襲われている。槍と剣を使える学生が最前線に立ち、魔法や弓に長けた学生が援護していた。あの時は気づかなかったが、盗賊たちは最初から外套を身に付けたガキはどこだ、と叫んでいる。外套は級長の証だ。エーデルガルトは自分を囮にしてまでクロードやディミトリを殺したかったのだろう。クロードのせいで五年間対同盟の戦端すら開けなかったのは確かだから、気持ちは分からないでもない。あの時は撹乱する為に闇雲に走ったが今のクロードには目指す場所が分かっていた。
帝国領のルミール村まで辿り着けば壊刃、とあだ名されたジェラルドが率いる傭兵団がいる。こっそり抜け出しても気づいたエーデルガルトと二人きりになると殺害されてしまう可能性が高い。だからクロードはディミトリに気付かれるようわざと物音を立てて逃げ出した。一目散に修道院とは全く違う方へ走っていくクロードに気付いたディミトリとエーデルガルトが追いかけてくる。これでエーデルガルトと二人きりになることはない。
盗賊たちは目当ての学生がいないことに気が付き、皆クロードたちの方へ向かってきた。空がぼんやりと白み始め、村の入り口を見張っている傭兵の姿が見えてきたら後はジェラルドが出てくるのを待てばいい。ディミトリとエーデルガルトが必死に窮状を訴えてくれたので、その間にクロードは息を整えることが出来た。
「上手いこと仲間と分断されて多勢に無勢、金どころか命まで盗られるところでしたよ」
「その割には随分とのん気な……。ん? その制服……」
しかし記憶と違う現実を目の当たりにしたクロードの心臓は早鐘のように脈打ち、その場にいる皆の言葉がよく聞こえない。ジェラルドの側に立っているのはベレスではなくベレトと言う名の息子だった。彼もまたエーデルガルトの手を取るならば強く警戒せねばならない。
ジェラルドとベレトは村に攻め入る盗賊たちをあっという間に倒し、その後の展開はクロードの記憶から外れることはなかった。野営地の様子を見に行ってくれた騎兵から残してきた他の学生たちが無事である、との知らせを受けディミトリが微笑む。クロードにとっても初対面であるベレトにディミトリもエーデルガルトも興味津々で、二人はまとわりついて離れない。牽制半分、からかい半分で彼の好みを問うてみるとパルミラ出身のクロードよりも世間知らずなベレトはベレスとは違いレスター諸侯同盟を選んだ。
犠牲者を一人も出すことなく野営訓練を終えて修道院に戻ることが出来た。ほぼ、ローレンツの記憶通りだが異なる点もある。ベレトが金鹿の学級の担任になったのだ。正式に採用された彼は既に士官学校から学生の資料を貰っている。だがグロンダーズで行われる模擬戦を控えたベレトはここ数日、放課後になると学級の皆に話を聞くため修道院の敷地内を走り回っていた。
ローレンツはあの時、模造剣を配ろうとしたのは何故なのかとベレトに問われている。予め野盗たちに襲われているのを知っていたから、とは言えない。言えば狂人扱いされるだろう。
「歩兵の足が早すぎたからだ。補給部隊が本体と分断されたら敵に襲われやすくなる」
食糧がなければ兵たちは戦えない。敵軍を撤退させるため、戦端を開く前に物資の集積所を襲って物資を奪ったり焼き払ってしまうのもよくある話だ。戦わずに済むならそれがいい。ローレンツの言葉を聞いたベレトは首を縦に振った。
「それで足止めして予備の武器を渡したのか。装備をどうするかは本当に難しいんだ。あの場合は結果として合っていたな。良い判断をした」
「ありがとう先生。そう言ってもらえると霧が晴れたような気分になるよ」
戦場の霧という言葉がある。どの将も斥候などを出して可能な限り下調べはするが、それでも敵軍や戦場の正確な現状を正確に知ることはできない。霧に辺りを覆い隠された状態で指揮官は決定を下し、その責任をとる。ローレンツが命を落としたミルディン大橋にもその霧がたちこめていて、霧の中にはベレトがいた。
ベレトは無表情かつとても静かに話す。声を荒げるところを聞いた者はいない。夜の闇のような瞳で彼からじっと見つめられるとローレンツは秘密を見透かされたような気分になる。だが話題は得意とする武器へと切り替わっていった。彼は剣が最も得意だという。
「シルヴァンと同じく槍だ」
口に出した言葉は取り消せない。ローレンツは反射的にベレトが青獅子の学級の担任であるかのように扱ってしまった。例えとして出すにしても唐突すぎる。レオニーと同じく、と言うべきだった。
「シルヴァンとローレンツは槍が得意なのか。覚えておこう。そうか、フェルディアにいたからファーガスの者に詳しいのか」
今日は天気が良くベレトとローレンツ以外にも中庭で、沢山の学生が暖かい日差しと世間話を楽しんでいる。こうした時間を共有することで学級の垣根、すなわち出身地の違いを超えて同じ体験をした者同士が親しくなっていく。後の戦乱を知る身からすれば涙が出そうなほど平和な光景だ。学級の垣根を超えて結んだ友情は五年の時を経て不本意な結果に終わっている。少なくともローレンツとシルヴァンに関してはそうだった。
「そうだな、確かにメルセデスさん、アネットさんとは魔道学院にいた時からの顔見知りだ」
「ありがとう、参考になった」
そういうとベレトはリシテアを探して立ち去った。うまくやり過ごそうと緊張していたのか汗が白い背中を伝っていく。ふとした拍子に過去の記憶が言動に現れてしまわぬよう、今後は更に気をつけねばならない。
「よう、ローレンツ。そんなにファーガスの連中に詳しいなら俺にも聞かせてくれよ」
クロードはいつから話を聞いていたのだろうか。ローレンツはベレトが違和感を感じていないかどうか気にかけるあまり、クロードが耳をそばだてていることが分からなかった。
「君は人より建物の方が好みだろう?」
クロードの言動は今のところローレンツの記憶と大きく異なる点がない。先日も夜中に勝手に出歩いているところに出くわした。あの時は彼の資質を疑ったが後にエーデルガルト相手に五年間ものらりくらりと誤魔化し続けたことを今のローレンツは知っている。あの時、彼が見誤ったのはディミトリの立ち直る力だけだった。
「先生には興味があるぜ。あの人には何か秘密があるはずだ」
目の前に誰にも言えない秘密を抱えた者がいると知らず、クロードは好奇心に目を輝かせている。表面上では彼とローレンツは一歳しか歳は離れていないが、精神的には五歳の開きがある。
「暴くのではなく打ち明けさせてこそ、だろう。信頼を得たかったら闇雲に腹を探ろうとするのはやめることだ」
「そっちこそ闇雲に女子に声かけるのやめろよ。言い寄られるようになってこそ、だろ?」
だが円卓会議で海千山千の大人たちと立派に張り合っていた片鱗はもう見え始めていた。つまり痛いところを正確に突くのだ。
「なっ!僕はシルヴァンとは違う!本気で共に領地を治めてくれる配偶者を探しているのだからな!」
戦争が終わってから配偶者探しを再開しようと考えていたローレンツは結局、独身のまま生涯を終えている。愛する人がいたら降伏や敵前逃亡をしていたかもしれないが、それでも今度は生涯を共に過ごす相手が欲しい。
「資質を磨かなくても良い立場な奴は気軽で良いねえ」
「言っておくがあくまでも勉学のついでだし君に対する監視の目を緩める気はないからな」
そうすればローレンツはクロードのうちに立ちこめる霧が晴れる時を見逃さずに済むのかもしれない。畳む
「説明できない」3.初戦
#説明できない #クロロレ #完売本
三学級対抗の模擬戦はクロードたちの勝利に終わった。これもクロードの記憶とは異なっている。容赦がなかったベレスの記憶があるクロードは事前に何か工作するか、ベレトに探りを入れてみたが拒否された。こんな下らないことに全力を尽くすな、という意味なのか気高い倫理観の持ち主なのか、まだクロードには分からない。腹下しの薬は冗談だったが賛同してもらえたら、武器庫に忍び込んで他学級の使う武器の持ち手にひびを入れてしまうつもりだった。
母国やデアドラと比べるとガルグ=マクは肌寒い。気に食わない異母兄たちが王宮で働く女官を寝室に引っ張り込むような寒さだ。それでも来たばかりの頃と比べればかなり暖かくなっている。過酷な太陽の光に慣れたクロードの瞳にも山の緑は眩しく映った。長時間、薄暗い書庫で本を物色していたからだろうか。廊下に差す光に緑の瞳を細めながら歩いていると大司教レアの補佐を務めるセテスに声をかけられた。クロードは規則違反に目を光らせている彼のことがあまり得意ではない。
「ちょうど良かった。クロード、後でベレトと共にこちらに顔を出しなさい」
「分かりました。セテスさんは先生が今どの辺りにいるかご存知ですか?」
ベレトは神出鬼没で授業と食事時以外は何処にいるのか全く見当がつかない。
「忙しくて探していられないから君に頼んだのだ」
セテスにも面倒事を誰かに押し付けるような人間らしさがあったということだ。クロードは記憶力が良い方だと自負している。故にここ一節ほどは記憶と現実の食い違いに驚いていた。最も大きいのは担任教師の性別と模擬戦の勝敗で、細かな違いを挙げればきりがない。その度に過去の自分は何を見ていたのだろうかと思う。
士官学校は修道院の中にあるので、学生寮や校舎以外の施設には修道士やセイロス騎士団の者たちが闊歩している。とりあえず目についた顔見知り全てに片っ端から声をかけていく。食堂にいた、市場にいた、訓練場にいた、と言った具合に皆言うことが異なる。
訓練場に行くとエーデルガルトが斧を、ディミトリが槍を振り回していた。それぞれの従者であるヒューベルト、ドゥドゥが着替えや水を用意して傍に控えている。ディミトリとドゥドゥがこの場に居てくれるお陰で身構えずに済む。クロードは内心でファーガスの大男たちに感謝した。
「クロードも混ざるか?」
「あら珍しい。クロードじゃない」
報告書には明記されていなかったが彼女の振るうアイムールがジュディッド、イグナーツ、レオニーの命を奪ったのかもしれない。
「皆、精が出るな。セテスさんに頼まれてベレト先生を探してるんだが」
「先程までこちらにいらっしゃったのだが、昼食用の魚を釣りたいと言って出ていってしまった」
ダスカー出身であるドゥドゥの話し方はクロードにとって分かりやすい。歴史を誇る古都アンヴァルの名家出身であるヒューベルトの言葉は丁寧すぎて分かりにくいのだ。自領とアンヴァルを行き来して育っているリンハルト、カスパル、フェルディナント、ベルナデッタの言葉は普通なのでそれが彼の個性なのだろう。
「釣果に恵まれなければ長居なさっていることでしょう」
つまりヒューベルトはさっさと行かねばまたすれ違う、と言いたいのだ。いちいち意図を読まねばならないので彼と話していると甘いものが欲しくなる。クロードは四人に礼を言い、走って釣り堀に向かうとベレトがしゃがみ込んで犬の腹をなでていた。動物が好きで釣りが上手いのはベレスと同じらしい。魚籠の中にはそこそこの大物が入っている。
「先生、セテスさんが呼んでいた。俺と一緒に来いと言っている」
ベレトは執務室に行く前に食堂に魚を預けた。確かに魚籠を持ったままでは中の魚が傷んでしまうだろう。
執務室で告げられたのは奉仕活動についてだった。あくまでもセイロス騎士団の補佐だが盗賊討伐に当たれという。
「先生は新兵をたっぷり引き連れて戦場へ行ったことがあるか?」
クロードの質問に普通ならうんざりした表情を浮かべる筈だが、首を横に振るベレトの顔からはなんの表情も読み取れなかった。
「ジェラルドは腕が立つ者以外傭兵団に入れなかった」
傭兵団は訓練機関ではないので当たり前と言えば当たり前の話だった。だが士官学校は違う。そもそも入学前に出来なかったことを出来るようになりにいくのが学校だ。
「そりゃそうだよな、俺たちまずは騎士団の足を引っ張らないようにしないと。ちょっと装備を確かめてくる」
武器庫へ行こうとしたクロードは急にベレトから首根っこを掴まれた。
「食べられるのに食事を抜くのは良くない」
クロードは食への拘りをあまり表に出していない。詳しく語りすぎれば国外で育っていることが明るみに出てしまう。だが食事を抜くのもまた悪目立ちするのも事実だ。さっそくベレトに嗜められているし、ラファエルやローレンツに気付かれればもっと大きな騒ぎになるかもしれない。
クロードはベレトに勧められるがまま彼が釣った魚で作られたパイクの贅沢グリルを平らげた。
クロードから自分たちを襲った盗賊の討伐が今節の課題である、と告げられた皆は初陣だと言って沸き立っていた。金鹿の学級は騎士を目指す平民が目立つ学級で、入学以前に領主の嫡子として盗賊討伐を体験している者はクロードとローレンツしかいないらしい。クロードはローレンツの印象よりはるかに慎重だった。毎日先行したセイロス騎士団がどの方面へ展開していったのか細かく記録をつけて皆に知らせている。セイロス騎士団に追い込んでもらえるとはいえ、どこで戦うのかが気になっていたらしい。
出撃当日、支度を整え大広間で待つ皆の元にベレトがやってきた時にはローレンツたちはどこで戦うのか既に分かっていた。
「騎士団が敵を追い詰めたそうだね。場所はザナド……赤き谷と呼ばれている」
そう言えばクロードはザナドが候補に上がって以来、やたら彼の地についた異名の由来を気にしていた。赤土の土地なのか赤い花でも咲き乱れているのか。土地の異名や古名にはかつてそこで何があったのかが表されていることが多い。土地の環境によっては毒消しが必要になる場合もある。だが先行した騎士団によると特殊な条件は何もない、とのことだった。初陣の者たちにとっては本当にありがたい。
修道院の敷地を出るまでは皆、はしゃいでいたがザナドが近づくにつれて口数が少なくなってきた。静かになったところを見計らったベレトが学生たちの間を縫って声をかけて回っている。一度戦闘が開始されたら終わるまでまともに会話などできない。
「ローレンツ、ラファエルと一緒に前衛を担当してくれ」
「引き受けた」
「だが最初は攻め込まなくていい。二人とも大きくて目立つからな。ぎりぎりまで敵を引き寄せてイグナーツとクロードの一射目を待ってから攻撃するんだ」
ローレンツにはベレトの意図が読めなかった。何故こちらから攻撃しないのだろうか。
「囮になれと?」
「囮というか脅迫の種だな。一射目を当てなければ前衛の二人が攻撃されるのだから当てなくては〝ならない〟」
ベレトは顔の横に両手をあげて人差し指と中指をくいくいと折り曲げている。引用符のつもりらしい。しかし顔は真顔のままなので凄まじい違和感だ。
「そんなことは自明の理ではないか」
「誰かが遠方から射られてそこから戦端が開く。だが自分の手で戦端が開かれることに耐えられる者の方が少ない」
だから一射目は無意識に外してしまう者が多いのだという。しかし前衛を守るためにイグナーツもクロードも必ず敵に当てなくては〝ならない〟。弓での援護を受けながら前進すれば相手は怯む。ローレンツはベレトのあだ名が何故、灰色の悪魔であるのかわかったような気がした。彼なりに新兵の教育と生存率向上を考えた結果なのだろうが、とにかくえげつない。これが危険な現場を渡り歩いてきた者の感覚なのだろう。
「なるほど、だが僕はクロードと親しくないぞ」
だがイグナーツとラファエルは元より友人同士なので有効だ。よく考えられている。
「一緒に戦っていくうちに親しくなる。というか親しくならざるを得ない。小規模な戦闘には参加したことがあるのだろう?ラファエルを頼んだぞ」
そう言うとベレトは剣帯を鳴らしながら駆け足でイグナーツの方へ向かっていった。ローレンツには五年間の記憶があるので素直に受け入れることが出来たが、いきなりこんな事を言われた他の者は何を思うのだろうか。
ザナドに到着してみればまず橋を渡らねばならなかった。ベレトの読みは見事に当たり、猛り狂う盗賊たちは突出したローレンツとラファエルに突進してくる。谷に籠っていては勝ち目のない盗賊たちはほんの少しであろうとセイロス騎士団側の戦力を削れるのではないか、と言う期待に縋っていた。だがまだ堪えねばならない。ローレンツたちの後方から矢羽が風を切る音がして前方からは人が倒れ込む音や呻き声がした。
「前回は不意を突かれちまったが……ま、盗賊なんてこんなもんか」
そう呟いたクロードの放った矢は倒れ込んだ盗賊の口の中に刺さっている。リーガンの紋章の力が成し遂げたのか、仲間への愛着が成し遂げたのかローレンツには分からない。イグナーツは一撃必殺といかなかったようだが、それでもこちらの矢は全て敵に損害を与えている。見事だ、と思いながらローレンツは矢傷に苦しむ盗賊に槍で引導を渡してやった。
「民の暮らしを守るのが貴族の責務……。恨まないでくれたまえよ」
ベレトの指示通り偽りの希望を与えて誘い出し、敵の戦力を削っていくと盗賊の首領コスタスが最後にただ一人取り残された。ここまで上手くいくならこの場ではやり方を変えることはない。叫びながら斧を振り回しているコスタスにクロードが矢を番えた。敵を油断させるために後ろを向いていたのでローレンツは初めて戦場で彼の顔を眺めている。
「貴族には貴族の苦労があるんだよ。俺もつい最近知ったんだがな」
いつも彼の周りに漂い、正体を隠そうとする靄がない。真のクロードの姿がそこにある、ローレンツはそう感じた。畳む
#説明できない #クロロレ #完売本
三学級対抗の模擬戦はクロードたちの勝利に終わった。これもクロードの記憶とは異なっている。容赦がなかったベレスの記憶があるクロードは事前に何か工作するか、ベレトに探りを入れてみたが拒否された。こんな下らないことに全力を尽くすな、という意味なのか気高い倫理観の持ち主なのか、まだクロードには分からない。腹下しの薬は冗談だったが賛同してもらえたら、武器庫に忍び込んで他学級の使う武器の持ち手にひびを入れてしまうつもりだった。
母国やデアドラと比べるとガルグ=マクは肌寒い。気に食わない異母兄たちが王宮で働く女官を寝室に引っ張り込むような寒さだ。それでも来たばかりの頃と比べればかなり暖かくなっている。過酷な太陽の光に慣れたクロードの瞳にも山の緑は眩しく映った。長時間、薄暗い書庫で本を物色していたからだろうか。廊下に差す光に緑の瞳を細めながら歩いていると大司教レアの補佐を務めるセテスに声をかけられた。クロードは規則違反に目を光らせている彼のことがあまり得意ではない。
「ちょうど良かった。クロード、後でベレトと共にこちらに顔を出しなさい」
「分かりました。セテスさんは先生が今どの辺りにいるかご存知ですか?」
ベレトは神出鬼没で授業と食事時以外は何処にいるのか全く見当がつかない。
「忙しくて探していられないから君に頼んだのだ」
セテスにも面倒事を誰かに押し付けるような人間らしさがあったということだ。クロードは記憶力が良い方だと自負している。故にここ一節ほどは記憶と現実の食い違いに驚いていた。最も大きいのは担任教師の性別と模擬戦の勝敗で、細かな違いを挙げればきりがない。その度に過去の自分は何を見ていたのだろうかと思う。
士官学校は修道院の中にあるので、学生寮や校舎以外の施設には修道士やセイロス騎士団の者たちが闊歩している。とりあえず目についた顔見知り全てに片っ端から声をかけていく。食堂にいた、市場にいた、訓練場にいた、と言った具合に皆言うことが異なる。
訓練場に行くとエーデルガルトが斧を、ディミトリが槍を振り回していた。それぞれの従者であるヒューベルト、ドゥドゥが着替えや水を用意して傍に控えている。ディミトリとドゥドゥがこの場に居てくれるお陰で身構えずに済む。クロードは内心でファーガスの大男たちに感謝した。
「クロードも混ざるか?」
「あら珍しい。クロードじゃない」
報告書には明記されていなかったが彼女の振るうアイムールがジュディッド、イグナーツ、レオニーの命を奪ったのかもしれない。
「皆、精が出るな。セテスさんに頼まれてベレト先生を探してるんだが」
「先程までこちらにいらっしゃったのだが、昼食用の魚を釣りたいと言って出ていってしまった」
ダスカー出身であるドゥドゥの話し方はクロードにとって分かりやすい。歴史を誇る古都アンヴァルの名家出身であるヒューベルトの言葉は丁寧すぎて分かりにくいのだ。自領とアンヴァルを行き来して育っているリンハルト、カスパル、フェルディナント、ベルナデッタの言葉は普通なのでそれが彼の個性なのだろう。
「釣果に恵まれなければ長居なさっていることでしょう」
つまりヒューベルトはさっさと行かねばまたすれ違う、と言いたいのだ。いちいち意図を読まねばならないので彼と話していると甘いものが欲しくなる。クロードは四人に礼を言い、走って釣り堀に向かうとベレトがしゃがみ込んで犬の腹をなでていた。動物が好きで釣りが上手いのはベレスと同じらしい。魚籠の中にはそこそこの大物が入っている。
「先生、セテスさんが呼んでいた。俺と一緒に来いと言っている」
ベレトは執務室に行く前に食堂に魚を預けた。確かに魚籠を持ったままでは中の魚が傷んでしまうだろう。
執務室で告げられたのは奉仕活動についてだった。あくまでもセイロス騎士団の補佐だが盗賊討伐に当たれという。
「先生は新兵をたっぷり引き連れて戦場へ行ったことがあるか?」
クロードの質問に普通ならうんざりした表情を浮かべる筈だが、首を横に振るベレトの顔からはなんの表情も読み取れなかった。
「ジェラルドは腕が立つ者以外傭兵団に入れなかった」
傭兵団は訓練機関ではないので当たり前と言えば当たり前の話だった。だが士官学校は違う。そもそも入学前に出来なかったことを出来るようになりにいくのが学校だ。
「そりゃそうだよな、俺たちまずは騎士団の足を引っ張らないようにしないと。ちょっと装備を確かめてくる」
武器庫へ行こうとしたクロードは急にベレトから首根っこを掴まれた。
「食べられるのに食事を抜くのは良くない」
クロードは食への拘りをあまり表に出していない。詳しく語りすぎれば国外で育っていることが明るみに出てしまう。だが食事を抜くのもまた悪目立ちするのも事実だ。さっそくベレトに嗜められているし、ラファエルやローレンツに気付かれればもっと大きな騒ぎになるかもしれない。
クロードはベレトに勧められるがまま彼が釣った魚で作られたパイクの贅沢グリルを平らげた。
クロードから自分たちを襲った盗賊の討伐が今節の課題である、と告げられた皆は初陣だと言って沸き立っていた。金鹿の学級は騎士を目指す平民が目立つ学級で、入学以前に領主の嫡子として盗賊討伐を体験している者はクロードとローレンツしかいないらしい。クロードはローレンツの印象よりはるかに慎重だった。毎日先行したセイロス騎士団がどの方面へ展開していったのか細かく記録をつけて皆に知らせている。セイロス騎士団に追い込んでもらえるとはいえ、どこで戦うのかが気になっていたらしい。
出撃当日、支度を整え大広間で待つ皆の元にベレトがやってきた時にはローレンツたちはどこで戦うのか既に分かっていた。
「騎士団が敵を追い詰めたそうだね。場所はザナド……赤き谷と呼ばれている」
そう言えばクロードはザナドが候補に上がって以来、やたら彼の地についた異名の由来を気にしていた。赤土の土地なのか赤い花でも咲き乱れているのか。土地の異名や古名にはかつてそこで何があったのかが表されていることが多い。土地の環境によっては毒消しが必要になる場合もある。だが先行した騎士団によると特殊な条件は何もない、とのことだった。初陣の者たちにとっては本当にありがたい。
修道院の敷地を出るまでは皆、はしゃいでいたがザナドが近づくにつれて口数が少なくなってきた。静かになったところを見計らったベレトが学生たちの間を縫って声をかけて回っている。一度戦闘が開始されたら終わるまでまともに会話などできない。
「ローレンツ、ラファエルと一緒に前衛を担当してくれ」
「引き受けた」
「だが最初は攻め込まなくていい。二人とも大きくて目立つからな。ぎりぎりまで敵を引き寄せてイグナーツとクロードの一射目を待ってから攻撃するんだ」
ローレンツにはベレトの意図が読めなかった。何故こちらから攻撃しないのだろうか。
「囮になれと?」
「囮というか脅迫の種だな。一射目を当てなければ前衛の二人が攻撃されるのだから当てなくては〝ならない〟」
ベレトは顔の横に両手をあげて人差し指と中指をくいくいと折り曲げている。引用符のつもりらしい。しかし顔は真顔のままなので凄まじい違和感だ。
「そんなことは自明の理ではないか」
「誰かが遠方から射られてそこから戦端が開く。だが自分の手で戦端が開かれることに耐えられる者の方が少ない」
だから一射目は無意識に外してしまう者が多いのだという。しかし前衛を守るためにイグナーツもクロードも必ず敵に当てなくては〝ならない〟。弓での援護を受けながら前進すれば相手は怯む。ローレンツはベレトのあだ名が何故、灰色の悪魔であるのかわかったような気がした。彼なりに新兵の教育と生存率向上を考えた結果なのだろうが、とにかくえげつない。これが危険な現場を渡り歩いてきた者の感覚なのだろう。
「なるほど、だが僕はクロードと親しくないぞ」
だがイグナーツとラファエルは元より友人同士なので有効だ。よく考えられている。
「一緒に戦っていくうちに親しくなる。というか親しくならざるを得ない。小規模な戦闘には参加したことがあるのだろう?ラファエルを頼んだぞ」
そう言うとベレトは剣帯を鳴らしながら駆け足でイグナーツの方へ向かっていった。ローレンツには五年間の記憶があるので素直に受け入れることが出来たが、いきなりこんな事を言われた他の者は何を思うのだろうか。
ザナドに到着してみればまず橋を渡らねばならなかった。ベレトの読みは見事に当たり、猛り狂う盗賊たちは突出したローレンツとラファエルに突進してくる。谷に籠っていては勝ち目のない盗賊たちはほんの少しであろうとセイロス騎士団側の戦力を削れるのではないか、と言う期待に縋っていた。だがまだ堪えねばならない。ローレンツたちの後方から矢羽が風を切る音がして前方からは人が倒れ込む音や呻き声がした。
「前回は不意を突かれちまったが……ま、盗賊なんてこんなもんか」
そう呟いたクロードの放った矢は倒れ込んだ盗賊の口の中に刺さっている。リーガンの紋章の力が成し遂げたのか、仲間への愛着が成し遂げたのかローレンツには分からない。イグナーツは一撃必殺といかなかったようだが、それでもこちらの矢は全て敵に損害を与えている。見事だ、と思いながらローレンツは矢傷に苦しむ盗賊に槍で引導を渡してやった。
「民の暮らしを守るのが貴族の責務……。恨まないでくれたまえよ」
ベレトの指示通り偽りの希望を与えて誘い出し、敵の戦力を削っていくと盗賊の首領コスタスが最後にただ一人取り残された。ここまで上手くいくならこの場ではやり方を変えることはない。叫びながら斧を振り回しているコスタスにクロードが矢を番えた。敵を油断させるために後ろを向いていたのでローレンツは初めて戦場で彼の顔を眺めている。
「貴族には貴族の苦労があるんだよ。俺もつい最近知ったんだがな」
いつも彼の周りに漂い、正体を隠そうとする靄がない。真のクロードの姿がそこにある、ローレンツはそう感じた。畳む
#クロロレ #完売本 #現パロ #また会えようが、会えまいが
クロードの温もりが全身に伝わってくる。従弟を失って凍りついていたローレンツの心は彼が首飾りを越えなければ溶けなかった。皆ローレンツのことを気にかけてくれたのに誰も愛さず、あんなに愛したピアノすらも遠ざけて暮らした。どれだけ自分を罰してもローレンツの気が晴れることはなかったのに今は違う。何の鮮やかさもない世界にクロードが文字通り落っこちてきた。
些細なことにいちいち驚く彼のおかげでローレンツは自分がどれほど恵まれているのか実感出来た。自分はまだ生きている。両耳は音をとらえ譜面を読む目があり、軍務について数年経つのに十指は無事でフットペダルを踏む足もある。それにクロードとセックスだって出来てしまった。
「メモリーカードの原本はどうする気だ?」
クロードがローレンツを抱きしめながら問うた。原本は接着剤の跡が生々しく、命を落とした一人目の告発者がどれほど追い詰められていたのかを雄弁に語る。捜査関係者の心にも検事や裁判官の心にも強く訴えかけるだろう。
まるで子供をあやしているような低く優しい声だったがクロードの問い自体は重要だった。慎重に行動せねばならない。
「原本は憲兵隊に提出するがその前に何枚かメモリーカードを買ってオフィスでコピーしてからアンヴァルの紋章管理局にも渡す」
紋章管理局は貴重な紋章保持者が殺害されたと知ったら怒り狂って憲兵隊に圧力を掛けるだろう。ローレンツは無神経な彼らから酷い扱いを受けたが、彼らの持つ力を利用しないという選択肢はなかった。
「市場で売ってるのか?」
「流石にガルグ=マクに行かないと無理だ」
年が明けたらクロードは東側に帰ってしまい二度とフォドラに来ることはない。ローレンツは身体を起こしクロードの耳元に口を寄せた。うちあけ話でもするかのような小さな声で囁く。
「君にガルグ=マクやアンヴァルを見せてやりたい」
ローレンツだってパルミラで白フォドラ人がどういう立場なのかは知っているのだ。壮麗なガルグ=マク中央駅やローレンツがコンクールに参加する為しょっちゅう行っていたアンヴァルの劇場を見せて、クロードにルーツの偉大さを実感させてやりたい。残念ながらそんなことはできないので、クロードはフォドラを巨大な田舎だと誤解したままパルミラに帰るだろう。
「行くならローレンツの故郷が良いな。それと俺も砂漠に沈む夕陽を見せてやりたい」
予想外のことを言われたローレンツは驚いてクロードを見つめた。従弟と共に子供時代を過ごした家にも軍務を理由にあまり顔を出していない。ローレンツの故郷は畜産が盛んな土地で、故郷にいた頃は週に一度は牛肉を食べていた。そんなことも久しぶりに思い出した。緑色の瞳が細められ口の端は上がっている。褐色の手が再びローレンツの頭を抱え込んだのでまたクロードがどんな顔をしているのか見えなくなってしまった。
「なあ、頼むから一人きりにならないでくれ」
事故を装って従弟を殺したような連中が相手なのだから慎重に行動すべきと言うクロードの意見は正しい。ローレンツの真っ直ぐな紫の髪をかき分け、褐色の手が緊張で凝り固まった首の後ろをやさしくさすった。クロードの手の形に首が温まっていく。もう意地を張るのには疲れてしまった。瞼を閉じたまま素直にクロードの提案を受け入れる。
「ん、そうだな。皆と手分けして提出するつもりだが皆にも単独行動は控えるように言わねば」
ガルグ=マクでの度重なる陳情でローレンツは従弟を殺した何者かに目をつけられている。紋章保持者であるヒルダとマリアンヌにアンヴァルの紋章管理局へ出向いてもらい、ローレンツが憲兵隊に出向く際はイグナーツかレオニーに同伴して貰うべきなのかもしれない。
「素直でよろしい。俺、お前の部下たちにもずっと幸せでいて欲しいんだよ」
その為には身を切られるような思いをしても必ず確実にクロードをパルミラへ帰してやらねばならない。不法入国者がどんな扱いを受けるのか分かっているローレンツはクロードを思わず抱きしめた。このままこの村で二人慎ましやかに暮らせたらどんなに幸せだろうかと思う。その為ならピアノを手放したままでも一向に構わない。
だがクロードの母国であるパルミラ王国とフォドラ連邦は休戦中でしかないのだ。国交もなくアンヴァルの革命政府に彼の事を知られたら、きっとスパイとして扱われ殺されてしまう。匿っていたローレンツたちもただでは済まない。クロードが自分の国に殺されてしまうより手放す方がずっとましだ。
頭では分かっていても身を切られるように辛い。自由で華やかな世界を知るクロードはどうだろうか。国境を越えて再びパルミラに戻るまで生き残る為にローレンツを籠絡したのだ、とパルミラの口さがない者たちは言うだろう。それでも口を閉ざすしかない。
「クロードは優しいな」
悲しい考えを断ち切る為、わざとローレンツはつぶやいた。
「ローレンツはやらしい」
「はあっ?!なんだそれは!」
間髪入れずにクロードがまぜっ返してくる。油断しきっていたせいか、ローレンツは身体の位置をあっさりクロードにひっくり返された。緑色の瞳に見つめられるとそれだけで冷え切っていた身体が熱くなる。だがクロードを受け入れるともっと熱くなることをローレンツはもう知っている。
人間は未来を知ることができない。半年前の自分に今年の年末年始はフォドラだ、と言っても絶対に信じなかったはずだ。それはあまりに荒唐無稽だからであって半年前のクロードに落ち度はない。だが一週間前の自分には落ち度がある。パルミラにいた頃フォドラ連邦の恐怖政治に関する記事を他人事として面白おかしく読んでいたし、先日泣いていたローレンツを慰めたばかりだと言うのに考えもしなかった。
「中尉が撃たれた!イグナーツと市立病院にいる!」
バイクのエンジン音がしてレオニーが庭で洗濯物を取り込んでいたクロードのところへ駆け込んできた。腕を引っ張られる。
「お前らが付いてたのに撃ってきたのか?」
「ああもう、いいから!寝巻きとタオルをありったけ持ってこい!しっかり掴まって!!」
クロードはヘルメットも被らずにレオニーに言われるがまま、袋に寝巻きとタオルなど必要そうなものを詰めバイクの後ろに乗り込んだ。ローレンツの容態が心配だからなのか悪路を猛スピードで駆け抜けたからなのか分からない。とにかく内臓がひっくり返ったような心地のまま病院に駆け込む。入り口には血まみれのイグナーツが待っていて険しい表情をしたままレオニーに話しかけてきた。
「応急処置は済みました。ヒルダさんとマリアンヌさんが乗った特急はまだアンヴァルに着いていない筈です。行けますか?」
「分かった。迎えに行ってくる。中尉がそれまで堪えてくれたらいいんだが……」
クロードは踵を返し外へ行こうとしたレオニーの肩を掴んだ。
「待て待て待て何のことだ?!」
イグナーツとレオニーが何を言っているのか全く分からない。いや、理解したくなかった。
「身体に入った弾丸の摘出手術をするのに血が要るんです。基本こちらでは血も薬も患者が用意します」
処置をせず、治癒魔法で銃創をいきなり治すと身体に銃の弾が残ってしまう。近頃の銃弾は致傷率を上げるため有毒物質を含んでいることも多く、治癒魔法をかけるにしても摘出した後でなければならない。
「軍人は軍病院が麻酔も何もかも一揃え、まとめて優先的に売ってくれるから助かりやすいんだよ。これでも」
「僕はとりあえずこちらにはない、と医師に言われた薬を軍病院で買ってきます。ヒルダさんたちが来るまで中尉が頑張ってくれたら摘出手術が出来て、すぐに回復魔法が使えるのですが……」
「血って……軍病院にないのか?」
イグナーツがため息をついた。小さく首を横に振りクロードと目を合わせようとしない。
「中尉は紋章保持者なので輸血に制限があります」
クロードが言いたかったのはそう言うことではない。クロードも本家に引き取られてから半年に一度は自己採血をしている。そうやって事故や災害、病気に備えているのだ。フォドラの社会基盤は貧弱すぎる。紋章保持者が貴重な社会に欠かせない戦力だと言うならばもっと丁重に扱うべきだ。
「だからヒルダかマリアンヌを早く連れてこないといけないんだよ!もう良いか?急がないと助けられない!」
「なんだ、あいつら輸血用に同じ部隊にされてるのか?レオニーそれなら行かなくていい!俺はO型のcrest+だ」
「はあ?!だってクロードは」
イグナーツが慌ててレオニーの口を押さえた。五十メートル先の標的を撃ち抜く白い掌にパルミラ人なんだろ?と言う言葉が吸い込まれていく。
crest+は紋章保持者特有の血液型だ。医学書にもフォドラ特有、と書かれている。眼鏡の青年が気を利かせなければ衆人環視の場でクロードの正体がばれるところだった。洗礼名以外知りたくない、と言ったローレンツに感謝せねばならない。
褐色の腕に針が刺さる。血が管を通っていく光景は幼いクロードにとってあまり好ましくないものだったし、大人になってからも嬉しい行事とは言えなかった。いくつになっても実母から遠ざけられた理由を見せつけられるのは気分が良くない。だが来年以降、クロードにとって自己採血は全く違う意味を持つだろう。管を通る自分の血はローレンツを助けた血なのだ。
「多少なら具合が悪くなっても構わない。必要なだけ採血してほしい」
パルミラでは六百ミリリットルが成人男性の採血の限界だがフォドラではもう少し多く採られるのかもしれない。循環する赤血球の量が減ったからか頭痛がし始める。クロードは思わず痛みに顔をしかめ目元を拭ったが痛みや不安が理由ではない。実母の元を離れて以来、初めて自分で自分を許すことが出来たからだ。
「こちらの先生方は腕が良いんです。薬と血があれば大丈夫ですよ」
古風な制服に身を包んだ看護師がローレンツの幸運を讃えている。彼が気にしていた交通事故の被害者たちも医療環境が整っていたら何人かは助かったのかもしれない。すぐにイグナーツたちも転がり込むかのような勢いで薬を持ってやってきた。物資不足の影響は社会のありとあらゆるところに出ている。
「物資さえあれば何とかなるんだよ」
レオニーが処置を終え、まだ麻酔の覚めないローレンツの姿を見て呟く。イグナーツも無言で首肯していた。意識を失ったままのローレンツはクロードが持参した寝巻きを着ている。彼はきっとこの姿を他人に晒すことがあるなど考えもしなかった筈だ。
ローレンツは懐かしい夢を見ていた。ブリギットで行われたピアノコンクールで入賞し、結構な金額の賞金を手に入れた時の夢だ。大会の広報が撮ってくれた演奏中の写真は実家にまだ飾ってある。フォドラで待っている従弟に何か買ってやりたかった。ブリギットにしか売っていないもので、例え遠い首飾りにいても従弟がローレンツのことを身近に感じられるような品がいい。
『何かお探しですか?』
『腕時計を探しています。男物』
あの頃はブリギット語もまだそんなに理解出来なかった筈なのに何故、あんな細かい注文が出来たのだろうか。ローレンツはダイビングをしている男性の煌びやかな広告写真に吸い込まれるようにして高級腕時計の店に入っていった。片言のブリギット語と指さしで候補を絞り込んでいったがなんだかピンとこない。
店員たちは胸元にどの国の言葉が話せるのか示すため国旗柄のピンバッジを刺しているが、フォドラ語が話せる者はいなかった。いなかったのに時計の説明が理解できたのはなぜなのか。
店内にはフライトスケジュールを知らせるモニターがあって、たまたまローレンツが目をやった瞬間に画面が切り替わった。フォドラ航空アンヴァル行きは機材トラブルのため三時間遅延、と表示されている。本当に三時間で済むだろうか。アンヴァルからグロスタールへ行く特急に乗れなかった場合チケットをうまく払い戻せるだろうか。思わず舌打ちしてしまったローレンツが画面から目を離さず、眉間に皺を寄せていると別の店員がこっそりフォドラ語で話しかけてきた。
「ゆっくり選べる時間が増えたと思えばいい」
どうしてあんな重要なことを忘れていたのか。彼は胸元にどの国のピンバッジも付けていなかった。だから店員ではない。
「アウトドア用だから暗がりでも時刻が見える。軍務にも耐えるブリギット限定品だ」
「従弟は山奥の基地に配属されるのだ」
「鬱蒼とした森の中でもこれなら大丈夫じゃないかな?文字盤と長針短針の先に夜光塗料が塗ってある」
彼が指差した時計のカラー展開は白紺緑の三つでローレンツはその中から緑のものを選んだ。選んでくれた彼の瞳の色が緑だったからだ。ローレンツとクロードは国境地帯で出会ったわけではない。国境地帯で再会したのだ。目覚めることができたらクロードにも教えてやらねばならない。
「ローレンツ、辛かったらまだ寝てて良いからな」
イグナーツかレオニーが連れてきてくれたのだろうか。ローレンツの傍には具合の悪そうなクロードがいた。目は真っ赤で酷い顔をしている。心配させたせいなのだろう。まだ身体が怠くて首も動かせない。頑張って瞼を上げ、視線を動かすと点滴が繋がる腕と腕を包む見慣れた寝巻きの柄が目に入る。きっとクロードが自宅から持ってきてくれたのだ。
「クロード、何がどうなって……」
普通の声で話したつもりだが囁き声しか出せなかったし瞼が再び下りてしまう。
「手術は成功した。メモリーカードの入った書類鞄はレオニーが回収してくれてイグナーツと二人で憲兵隊に提出したよ。ヒルダとマリアンヌもそろそろアンヴァルから帰ってくる。だから後はローレンツが裁判に備えて怪我を治すだけだ」
「裁判……」
クロードの説明は、何やら前後がおかしなことになっている。ヒルダかマリアンヌが居なかったなら誰がローレンツに血を分け与えてくれたのだろうか。crest+という特別な血だ。
「早く治したかったらもう一度眠るんだ」
火にかけた鍋の水面に泡が浮かぶように様々な疑問がふつふつとローレンツの脳裏に浮かんだが、褐色の手で頬を撫でられてしまうともう駄目だった。意識は再び思い出の中をたゆたい始めていく。
失意のどん底で入った士官学校でヒルダと友人になれたこと、兵舎村の人々がとても親切にしてくれたこと、部下になったイグナーツとレオニーがバイアスロンの大会を勝ち進んだ時のこと。だが圧倒的に情報量が多いのはクロードと共に過ごすようになってからのこと、だ。彼とは三週間くらいしか共に過ごしていない。だが山奥で気絶している彼を発見してからの三週間はコマ送りのようにゆっくりと再生されていく。些細なことに驚くクロード、ローレンツの手料理を食べるクロード。基本、右も左も分からない外国にいるので子供のような状態なのにベッドの上では立場が逆転する。
それにクロードは従弟の腕時計も見つけてくれた。オフィスでメモリーカードのコピーをした時に盗掘をしていたグループは今までのように軍用トラックが使えなくなった、と判断したのだろう。盗聴や監視のやり方は憲兵隊方式なので彼らの一味は憲兵隊の内部にも国境警備隊の内部にもいる。そして彼らは銃撃という言い逃れ出来ない方法でローレンツの口を塞ごうとした。ローレンツは今日、ヒルダたちと別行動をしていたから向こうの勝率は高く、ローレンツは助かるはずがなかった。でも探しても探しても見つからなかった従弟の腕時計を見つけてくれた時のようにきっとクロードがなんとかしてくれたのだ。話せるようになったら絶対にお礼を言いたい。クロードのおかげでローレンツが何を取り戻せたのかを伝えたい。
クロードは村の奥方連中が差し入れてくれた硬めの焼き菓子をボリボリと音を立てながら食べていた。自己採血の時もそうなのだが、一気に血を失うと身体が欠けたものを取り返そうとするらしい。中に入っているいちごジャムが効いていて、実に美味しいのだが喉が乾く。イグナーツがダグザ製の大きな水筒にお茶を淹れて置いていってくれたのだが、もう飲み干してしまいそうだ。あれから何度かローレンツの瞼が上がり何事かを語ろうとしていたが、麻酔の影響か一言二言で黙ってしまう。覚醒すれば傷跡が痛むだろうと思うと続きを促す気にはなれない。聞こえているかどうかは分からないがクロードは青ざめているローレンツに声をかけた。
「俺ちょっと買い物してくる。帰ったらまた声かけるからそれまで無理するなよ」
点滴のボトルから一滴ずつ薬液が落ちてローレンツの身体に吸収されていく。パルミラならスリルなど全く感じない単なる弾丸摘出手術だがフォドラでは全てが奇跡のようだ。奇跡に頼らねばやっていけない。
病院の前にも小さな屋台村があって着替えや食べ物や飲み物が売っている。クロードが今晩の食事や飲み物を買っていると空から白いものがちらついてきた。自宅があるパルミラの首都ではお目にかかれないので驚いて雪の結晶がくっ付いた袖口を眺める。
「ああ、今年は遅かったな……お兄さん病院から出てきただろ。誰の付き添いなんだい?」
「恋人だ」
「それなら早く戻ってやらんと。初雪は愛しい人と見るもんだよ。ずっと二人で幸せに過ごせるって言うからな」
鏡を見る度に瞳の色がフォドラの血を引く事を思い知らせてきたせいもあり、クロードはフォドラの文化から自分を遠ざけていた。だからそんなロマンチックなジンクスがある、とクロードは知らなかった。初雪に気づいた見舞客は一斉に病室に戻っている。ローレンツの目が覚めて雪が降っている、と彼が気づいた時に傍にいてやりたい。水や軽食になりそうなもの、が沢山詰まった袋を手にクロードは病院の玄関をくぐった。
院内で働く人々は医師も看護師も忙しそうで外の雪には気づいていない。クロードは階段を上り窓越しに他の病室を眺めながらローレンツの病室に戻った。看護の手が回らないのか大荷物を抱えた付き添いの者が泊まっても構わないらしく、椅子に座ってうとうとしている者もいた。クロードは白い瞼を下ろしたままのローレンツの耳元に口を寄せる。
「戻ったぜ。なあ目を開けられるか?」
薄い唇が微かに動いた。
「君が戻るのを待っていた。クロード、ありがとう」
「……今まで受けた恩と比べたら些細なもんだ。なあ、窓の外わかるか?」
「初雪だ……」
ローレンツは真っ白な顔に微笑みを浮かべている。術後でなければいつものように頬を赤く染めていたのかもしれない。クロードは点滴が繋がっていない方の手を握った。まだ少し冷たい手がそっとクロードの手を握り返してくる。
「一緒に見られて嬉しいよ」
ずっと二人で幸せに過ごせるというフォドラのジンクスを今くらいは信じてみたかった。
「僕も嬉しいよ。幸先がいい」
「そうだな。絶対にきちんと捜査される。裁判所で証言台に立つところが見たかったな」
「軍関係だから基本、非公開だぞ」
クロードが裁判を見られないのは非公開だからではなく、その頃にはパルミラに戻っているからだ。告発者であるローレンツの足を引っ張らない為にも年が明けたら絶対にクロードはフォドラを去らねばならない。
「そっか。なあ椅子で寝るから今晩ここに泊まっていいか?一人にしたくないんだよ」
「そんなことはしなくていい」
ローレンツからは断られてしまったが、今晩はクロードが一人になりたくなかった。彼のいないあの寒い家で眠りたくない。
「おいでクロード。行儀の悪いことをしたら蹴り落とすから覚悟したまえ」
毛布の左側をめくってローレンツが手招きした。かなり狭いが点滴の管がついたままの彼と抱き合うにはそこに潜り込むしかない。靴と上着を脱いだクロードが向かい合ってベッドにそっと横たわると点滴の管が繋がれたままの白い右腕が、背中の方に伸ばされた。ローレンツが楽な姿勢を見つけるまで動かない方がいいだろう。冷えた身体はクロードの熱を堪能するかのようにしばらくもぞもぞと動いていたが、少し乗り上げるような形で落ち着いた。
「あったかい」
薄い寝巻き越しに背中をさすってやる。少しでも温まればいい。
「そうだな、今晩は湯たんぽに徹するよ」
当然、傷が塞がったらその限りではない。今晩はもう遅いからマリアンヌたちは来ないのだろうが、明日か明後日には彼女たちが来て回復魔法をローレンツにかけてくれる筈だ。すぐに退院させて二人であの家に戻りたい。
「何があったのか説明してくれるか?」
ローレンツの指先はクロードの腕に貼られっぱなしの脱脂綿を探っている。そう言えばまだ彼はクロードの本名すら知らない。何があったのか説明するにはまず、八世紀前から一族に現れる王の血について理解してもらう必要がある。どう説明すればローレンツの血圧や脈拍に影響が出ないのだろうか。クロードは慎重に、言葉をひとつずつ選んで説明を始めた。畳む