-horreum-倉庫

雑多です。
「また会えようが、会えまいが」13.越境
#クロロレ #完売本 #R18  #現パロ #また会えようが、会えまいが

 クロードは年が明けてから髭を剃っていない。最初は肌に触れるとちくちくと違和感があったが、体質なのか今はローレンツが柔らかく感じるほど髭は伸びていた。帰国すればすぐに公安関係の取り調べが待っている。多少は遭難した感じを出さないと、と言うことらしい。
「こら、くすぐったい」
「気持ちいい、の間違いだろ?」
 ベッドの上で何も身につけず二人で過ごすのもこれが最後だ。ローレンツはもうシャワーを浴びて軍服に着替えねばならない。昨晩もそこそこ遅くまでやることをやっていたにも関わらず緊張していたクロードが明け方に目を覚まし───今に至る。
「今朝は絶対に一人でシャワーを浴びるからな」
 クロードの耳元でそう宣言するとローレンツは寝室を後にした。シャワーを浴びる前にサモワールとストーブに火を入れておく。朝食の献立はもう決まっていた。
 シャワーを浴び髭を剃り壁付けのドライヤーで髪を乾かす。もう軍務に就くのでクロードに褒められた髪を後ろに一つで束ねた。寝室で大人しく順番を待っていたクロードに扉の向こうから声をかける。
「食事を作っている間にシャワーを浴びたまえ」
「分かった。すぐ行く」
 朝食の献立は決まっていた。昨日の残りの塩漬け肉と乾燥キノコの煮込みとブリヌイだ。皆がお裾分けしてくれたヴァレーニエもクロードと二人がかりで食べたせいかもう殆ど残っていない。フライパンでブリヌイを焼いているとジャンプスーツを身につけたクロードが台所にやってきた。
「そちらにしたのか」
 ジャンプスーツかローレンツが買い与えた服か。クロードは何故かどちらの服を着て帰るのかずっと決めかねていた。
「頑丈だし上空の寒さに耐えられるように作ってあるからな」
 国境地帯は標高が高いので寒い。山の中を歩き回るのだから当然の選択だろう。
「それに取り調べで取り上げられても惜しくない。お前に買ってもらったものを置いていくのは仕方ないが、他人に取り上げられるのは嫌なんだ」
 そういうとローレンツが食べ始めるのを待つこともなくクロードは朝食に口をつけた。急いで食べて皿や瓶を洗っておかねばならない。そろそろイグナーツとレオニーがローレンツたちを軍用車で迎えに来る頃だ。
「そうか、分かった。ところでクロード、皆に踏まれる覚悟は出来たか?」
 クロードは軍用車の後部座席の足元に隠れて国境地帯に侵入する。軍用車の運転手はイグナーツで助手はレオニーだ。一番身分が高いローレンツは後部座席に座る。
「マリアンヌさんは僕の隣に」
 マリアンヌの方がヒルダより背が高い。クロードはローレンツに足を踏まれ腰をマリアンヌに踏まれ頭をヒルダに踏まれながらフォドラ側の第一出入り口、続いて第二出入り口を突破した。年末年始に国境を守っていた部隊との引き継ぎを終えれば詰所はローレンツたち以外無人となる。
「グロスタール中尉、ではあとは任せた」
「承知いたしました。早くご家族に顔を見せてあげてください」
 撤収する軍用車のエンジン音が聞こえなくなるとローレンツは手を叩いた。これでもう明日の朝には日常に戻れる。
「もう大丈夫だ。クロード降りてくれ」
「道が悪すぎる……」
「山奥はそんなものだ」
「遠慮なしに踏んだな!」
「道が悪いからな」
 後部座席の足元から這い出てきたクロードはげっそりしている。彼とローレンツが軽口を叩くのも今日で終わりだ。物資や装備を確認し徒歩で国境地帯へ向かう。クロードはジャンプスーツにブーツと腕時計と無線機だけで身軽だが、ローレンツたちは武器や背嚢があるので背負う荷物は三十キロ近くになる。
「ああ、見えてきた!」
 レオニーが指差したのは祖国防衛戦争の際に放棄された民家だ。現在では国境警備隊の者たちが拠点として利用している。
「今日は日が暮れるまで皆はここで待機だ。日が暮れたら僕が一人でクロードを国境まで連れて行く」
 そうと決まればやることはひとつだ。焚き火を起こしお喋りしながら飲み食いをして時間を潰すしかない。皆手早く枯木と枯れ葉を集め火を起こした。持参したじゃがいもにアルミホイルを巻いて焚き火に突っ込む。
「今日は天気がいいからパルミラがよく見えるよ!」
 フォドラの首飾りは連峰で南北を繋ぐ稜線がフォドラ連邦とパルミラ王国の国境線になっているが東西にも山が連なっている。
「え、ここってまだフォドラだろ?」
「国境線は真っ直ぐではありません。東に見えるあの小さな山はパルミラの山です」
「案外近いんだな……なあ、和平条約が結ばれたらまた皆で会おうぜ」
 クロードの脳天気な発言に皆、苦笑して首を横に振った。停戦して既に半世紀以上が経過し歪な形で安定している。残念ながらこの状態が両国の強硬派にとって一番都合が良いのだ。
「そんな夢みたいなこと言ってないで元気でね」
「おう、ヒルダも皆も元気でな。そうだ。イグナーツとレオニーは国の代表になったら外国にも行けるんだろ?良いこと教えてやるよ」
 そう言うとクロードが腕を伸ばし親指と人差し指を小さく交差させたので、ブリギットで暮らしていたことのあるローレンツはその下らなさにため息をついた。
「何それ、虫みたいに捻り潰してやるって意味か?」
「ハートだよ!お前らどうせ愛想良くすんなとか政治将校に指導されるんだろ?これならあいつらにバレずに外国で人気者になれるぜ!」
「本当に役に立たない餞別だな……一応感謝しとくよ……」
 レオニーもイグナーツも呆れ顔だったがマリアンヌがこっそり親指と人差し指を小さく交差させていたのをクロードは見逃さなかった。これこそがローレンツが必死になってクロード、いや、カリードをパルミラに帰そうとする理由だ。フォドラの大地に生きる人々はこんなにも愛おしい。クロードたちが離れ離れになるのは勿論、納得いかないがそれでも彼女たちが不当に損なわれてはならないのだ。呆れ声の二人から背を向けたクロードの目に荒れ果てた庭が映る。
「あれ、この皿って……」
 東側に置かれた苔むした甕に視線をやるとその上に白く小さな皿が載せられている。管理されていない人家は荒れ果て何もかもが壊れていくが、不思議とその皿は割れていない。クロードの視線は自然とその皿に引き寄せられた。
「家の中に息子さんらしき写真があるんです。出征したんでしょうね。僕たちこの家に残されたものはなんでも使わせてもらってるんですが……」
「あの白い皿だけは絶対に触らない。私たちの母親も毎日皿の水を取り替えてるだろうからな」
 クロードも知っている子供の無事を願う願掛けの一種だ。イグナーツとレオニーの言葉を聞いたクロードは黙って頷いた。母親は二人いるがどちらもクロードのために皿の水を取り替えないだろう。
「でも、クロードさんは明日の夜にはお母様と連絡が取れますね」
 マリアンヌの言葉が素朴だったせいかクロードは珍しく言葉に詰まってしまった。身元引き受け人をするのはおそらく父だろう。ローレンツの部下たちと過ごす愉快で穏やかな時間は驚くほど早く過ぎ去り、カリードとして現実へ戻る時が刻一刻と近づいてくる。夕陽がまず雲を赤く照らし、辺り一面を上から赤く染めていった。見事な色彩の変化に思わず息を呑んでしまう。先程までクロードはフォドラで過ごした時間の美しさを表す言葉を持っていなかった。しかし今後は簡単に伝えることができる。山の夕暮れのように美しい時間だった。
「行こうか、クロード。申し訳ないが皆は僕がここに戻るまで引き続き待機だ」
 ローレンツの言葉を聞いた皆は涙を拭って焚き火から離れ、一人ずつクロードと抱き合って別れを惜しんだ。辺りを赤く美しく染めた太陽の代わりに満月が白い光で辺りを照らしている。
「街灯もないのに明るいもんだ」
「その代わり新月の時は何も見えないぞ」
 本当に明るいのでローレンツが微笑んでいるのも見えた。直線距離で言えば国境までたった二キロだが山の中なのでそう単純にはいかない。曲がりくねった道を手を取り合って二人で歩いていると川が見えてきた。
「どうやって渡るんだ?」
「水かさが増した時に釣りをするために隠してある小舟がある。糧食だけでは足りない日が多くてね」
 二人がかりで川まで小舟を押していく。ふわりと浮かんだところでローレンツが小舟を捕まえクロードを先に乗せてくれた。
「はい、漕いでくれ。そちらに座ったから仕方ないな!」
「何だよそれ!」
 クロードにも意図は伝わっている。漕ぎ慣れているローレンツが漕いだら対岸にすぐ着いてしまうからだ。フォドラにいる間きちんと食べていたせいか力強く櫂を動かせてしまったが、思った方向に向かってくれない。小舟と櫂が流されないようにきちんと陸にあげてしまうともう道草を食う理由は何ひとつ存在しなかった。砂利だらけの河岸から山道が見える。きっとあそこからパルミラへ戻れるのだろう。
「ああ、クロード、待ってくれ。渡したいものがある。新年の贈り物だよ」
 そう言うとローレンツはクロードにハンカチを差し出した。中に小さくて固いものが挟んである。
「俺のピアス質屋から買い戻したのか?!気にしなくてよかったのに!」
「君がつつがなくパルミラに持ち込める贈り物がこれしかなかったのでね。今ここで付けて欲しい」
 こうして長年の相棒が再びクロードの左耳に戻ってきた。
「でも俺があげようとした時計は……」
 証拠物件として裁判所に提出されていてローレンツの手元に戻るのかどうかわからない。あれで現金が尽きてしまい、クロードは結局ローレンツに何も渡せなかった。
「いや、良いんだ。君からは血を貰った。では国境まで行こうか」
 山道には等間隔に高さ四十センチくらいの石標が立ててある。地雷が除去されている目印だと言う。ローレンツと二人で並んで歩いていると殆ど有刺鉄線が残っていない鉄条網が現れた。
「あれが国境なのか?」
「そうだ。フォドラもパルミラもこの鉄条網は大規模な整備が出来ない。国境侵犯と疑われるからな」
 この鉄条網を半世紀以上前に張ったのは停戦協定の仲介をしたブリギット軍だ。当初は足元から見上げる高さまでびっしりと張られていたのだろう。だがいまや一番下の段、高さ十センチ程度の一本しか残っていない。
「あそこを越えたらもう無線機が使える。パルミラ軍もレーダーで監視しているから僕の姿が見えなくなったら電源を入れて助けを求めろ」
 クロードは黙って軽くローレンツを抱きしめてから鉄条網を越え、彼の背中が遠ざかっていくのを見守った。無線機の電源を入れたくない。電源を入れれば二度とローレンツとは会えなくなる。
「待って!待ってくれ!」
 クロードの声がしたので反射的にローレンツは後ろを振り向いた。八週間なんとか匿ってようやく国境線を越えさせたのにクロードが再び国境線を越えてフォドラに入り、ローレンツの元に駆け寄ってくる。抱きつかれ首の後ろに手を回された。彼の手が勝手に髪を束ねているゴムを引き抜く。下ろしている方が好みだ、と言っていたから最後にその姿を見たかったのかもしれない。 
「ローレンツ、心の底から愛してるよ。頼むから元気でいてくれ。自己採血をしておくんだ。俺のこと忘れても構わないからそれだけは約束してくれよ」
「自己採血はともかく君のことを忘れられるわけないだろう。愛してるよクロード、いや……」
 ローレンツは病室で教えられた本名で彼を呼ぼうとしたが、その前にクロードに唇を塞がれた。それで良いのかもしれない。二人とも頬が濡れたがどちらの涙のせいで濡れたのかはわからなかった。

 フォドラ連邦において個人の事情はほぼ考慮されない。ローレンツが国境地帯で立哨をしている間にもメモリーカードを発見したのはローレンツである、と言う前提で裁判は進んでいった。兵舎村の市場で暇を潰していたクロードのことを思い出し、突然現れて消えていった彼を訝しむ関係者もいたが何と言っても病院がローレンツの診断書にcrest+の献血者あり、と記録している。
 紋章を持っているならば彼が外国人であるはずがないし、紋章保持者に激しい偏見を持っているという白フォドラ人であるはずもない。国境地帯の修道院で盗掘をしていたグループはローレンツが想像していたよりも遥かに規模が大きく、ガルグ=マクはおろか首都のアンヴァルでも逮捕者が出た───と言うことをローレンツが知ったのはクロードがフォドラを去って二ヶ月後、次の部隊との引き継ぎをしている時だった。
「中尉が気にしているだろうから真っ先に伝えろ、と妻に言われてな。真っ先に伝えた、と言う証人になってくれよ」
 立哨の任を引き継ぐ部隊の長である人民委員の夫は妻の手料理で少し太っていた。彼はそれまでローレンツのことを細面の少し気に入らないやつ扱いしていたのだが、クロードの事を知って以来とてもよくしてくれる。絶対にローレンツが間男にならない、と分かったからだろう。
 イグナーツの運転する軍用車の後部座席でヒルダが大きく伸びをした。これから二ヶ月間休暇だと思えば気も身体も緩む。
「足元が広くて静かだねえローレンツくん」
 カーブを曲がるたびに皆に踏まれ、その度にクロードは呻いていた。
「遠慮せずに足が組めるのはいいことだ」
 帰宅したら何が届いているだろうか。今回は奥方たちからの心尽しの品だけにとどまらず、裁判関係の資料や処理すべき書類も沢山届いているだろう。しばらくはクロードのことを考えずに済みそうだった。
「クロードさんはご無事でしょうか……」
「僕たちはやれるだけのことはやった。無事に過ごしていると信じるしかない。皆にも苦労させてしまって本当に申し訳なかった」
 あの時ローレンツがクロードを憲兵隊に突き出せなかったのは無意識のうちに彼らを疑っていたからなのだろう。都合が悪い存在として従弟のようにこっそり殺されてしまったら嫌だと思ったのだ。
「私たちもたまに思い出してあげようよ。向こうもずーっと遠くで私たちのことを思い出してるかもしれないし」
「ヒルダ、その物言いだと本当に死んでるみたいだから流石にそれはやめてあげようぜ」
 レオニーが言いたいことを手短に、しかも完璧に伝えてくれたのでローレンツはそのまま黙っていた。正直言って寂しくて堪らない。だがこうしてローレンツにとって我が子も同然の隊員たちの生活をなんとか守ることができた。ローレンツは周りに頭を下げながらとはいえ、クロードの命も隊員たちの生活も守り切ったのだ。そこに悔いはない。
 いつものように市場で下ろしてもらい配給品の受け取りと買い物を済ませてからローレンツは帰宅した。賑やかな詰所での暮らしが終わり、二ヶ月の一人暮らしが再開される。庭の食糧貯蔵庫にはいつものように心尽しの品が沢山入っていた。やかんとサモワールに水を汲んでストーブとサモワール双方に火を入れる。冷えた室内は荷物を全て片付ける頃にはほどよく温まっていた。いつものローレンツならそのまま続けて食事の支度をする。しかし今日はその前に少し、横になって休みたかった。
 寝室でベッドの上に横たわってうとうとしていると不思議なことにクロードが居間や庭にいるような気がしてくる。ローレンツは眠気と疲労で頭がふわふわとしたまま何の気なしに本棚に視線をやった。著者順に並べておいたのに本の並びが違う。ローレンツは身体を起こし、順番がぐちゃぐちゃになっている本の背表紙の一文字目を指でなぞっていった。やはりブリギット語の文章になっている。お互いの安全のためフォドラを去る際には何も書き残してくれるな、とかなりきつくクロードに言ったので彼はこうするしかなかったのだろう。ローレンツはクロードの残した言葉を何度もなぞった。
 何度確認してもその言葉は「ローレンツ、愛してる」だった。

 カリードの失踪は様々な憶測を呼び───中でも不名誉なものを過去のものとするため異母兄弟が選んだ方法がさっさと彼の葬式を出してしまうこと、だった。彼らは家族が葬儀をあげると言う形式すら取りたくなかったらしく、社葬という形式にされている。カリードが社長を務める会社の正面玄関を入ってすぐのところに弔問客の受付が設置されていた。玄関ホールには遺影らしき大きな白黒写真が飾られている。白黒写真にすれば白フォドラ人の血を引く証である緑の瞳が誤魔化せるからだろう。
 ローレンツたちと過ごす前なら異母兄弟たちの選択に何も感じなかったに違いない。だが今は違う。セイロス正教の洗礼名がカリードを助け、白フォドラ人の嫌う紋章がローレンツを助けた。フォドラでローレンツと共に二ヶ月過ごしたおかげで自己肯定感に満ちている。恥じるようなことは何もない。
 サングラスをしたままカリードは受付に置いてある芳名帳を手に取った。受付をさせられている社員は返すように、と声を荒げたが無視してページをめくる。誰が敵で誰が味方なのかよく分かるリストは実に興味深い。一悶着あったので緊張も高まり、玄関付近にいる社員や弔問客の視線がカリードに一気に集まる。今までの生き様を考えれば完全なる八つ当たりなのは分かっていたが、それでも言わずにはいられなかった。
「遺影がダサすぎる!誰が選んだのか後で俺に報告しろ!」
 叫び声で社員たちは玄関ホールで騒ぎを起こした男の正体を察し始めた。どんどんざわめきが大きくなっていく。カリードは警備員に取り押さえられる前にサングラスを外した。白フォドラ人の血を引く証である緑の瞳が現れる。
「久しぶりだな。心配かけてすまなかった。葬式の会場だが皆スマホの電源を入れるんだ」
 社員たちが電源を入れると一斉に通知音が鳴り出した。わあ、とかうそ!という小さな悲鳴がそこら中で上がる。カリードは手持ちの株をそこそこ処分して全社員にそれぞれ給料の二ヶ月分に該当する金額を振り込んだ。
「皆!今すぐネットバンクの口座を確認してくれ。なに、これからも俺にこき使われることを思えば大した金額じゃないさ。社長が世間を騒がせたお詫びとして我が社は明日から一週間、創業以来初めて大規模なセールを行う。全品五十パーセントオフだ。さあ皆!今すぐ職場に戻って売って売って売りまくれ!」
 ローレンツと離れ離れになった寂しさを誤魔化すためにもカリードは今まで以上に派手に激しく働いていくしかない。

 帰宅してみれば家主がいるいないに関わらず契約通り家政婦が家の中を磨き上げ言われた通りの品を補充していた。冷蔵庫にはミネラルウォーターと栄養補助食品が、ワインクーラーにはワインが、パントリーにはコーヒーのポーションと好きな缶詰と個包装のクラッカーとプロテインバーが入っている。
「これでは何も作れないではないか」
 ローレンツの声が聞こえたような気がして胸が痛む。カリードはこの家を建てるときに料理はしないから台所は狭くていいと設計事務所に言った。だがそれでも兵舎村一番の権力者である大隊長の自宅の台所よりはるかに広い。コンロが何口なのかすら知らず、帰宅してなんとなく数えてみたら四口もあって驚いた。
 とりあえずだらしなくソファーに座りワインを開けてクラッカーをかじりながらスマートフォンを弄っていると、フォドラにいた二ヶ月間スマートフォンなしで暮らしていたことが夢のように思えてくる。果たしてあれは現実だったのか。思い出は脳裏に刻まれているがそれでも全てを記録しておきたかった。きっとカメラロールの九割がローレンツかローレンツとのツーショットになっていたと思うがそれでもレトロ、以外には褒めようがない、古臭い全てと愛すべき人々の暮らしぶりだって手元に留めておきたかった。
───いや、自分で自分を誤魔化すのは良くない。
 カリードは今までどんな女優やモデルと付き合ってもそんなことをしようと思ったことはなかった。彼女たちが執着の対象になり得なかったからだ。だがフォドラにいた時にもしスマートフォンが手元にあったら、動画撮影は無理でもあの上擦った甘い声が録音出来たのにと思うと悔しい。
「いや、それは俺が忘れなきゃいいだけだ」
 独り言がフォドラ語になっている。頭を切り替える必要があった。ワインを持参して広い浴室に移動しジャグジーに浸かる。
『停電も検閲もない!これが正しい社会だ!』
 そう浴室の鏡に向かって嘯いた顔はやはり少しやつれていた。カリードが帰国して実は二週間が経過している。対外的にこの二週間は入院したことになっているが、病室で行われたのは治療ではなく取り調べだ。出された食事に殆ど口をつけられないかと思ったが、フォドラでの荒療治が効いたらしく全て飲み込むことが出来た。しかし基本的には療養食で低カロリーだったせいで痩せてしまったのだろう。今日のところはプロテインバーで済ませるが、明日はじゃがいもを茹でてみるのも良いかもしれない。この家に鍋があるかどうかもカリードは知らないが、仮になかったとしても必要な物は明日全て買えばいいだけだ。畳む