「さかしま」32.#クロロレ #さかしま #完売本 #オメガバース 続きを読む フォドラ最大の都市はアンヴァルのままだが、旧レスター諸侯同盟の首都デアドラがフォドラ統一国家の首都となった。しばらくの間はベレトが大司教と王を兼ねる。大司教座がデアドラへ移るのか、ガルグ=マクに残っているセテスが大司教となるのかは決めかねているようだ。 統一王ベレトの部下は旧アドラステア帝国出身者とレスター諸侯同盟出身者が多い。その二国については問題にならなかったが、今や空白地帯となった旧ファーガス神聖王国における人材不足が深刻だ。皮肉なことにファーガス公国へ鞍替えした諸侯だけが生き残り、ブレーダッド家への忠誠を誓っていた名家達は後継者を失っている。旧ファーガス公国に与した諸侯にブレーダッド家への忠誠を誓った名家の所領は与えない、というのが統一王ベレトの方針だった。彼らが裏切らなければまだディミトリも彼の幼馴染たちも生きていたかもしれない、と思うとそこは譲れないのだろう。 カリードは棗椰子の種を指で摘んで雑紙の上にそっと置いた。行儀作法にうるさい誰かの顔が浮かばなければごみ箱に吐き捨てていただろう。庭に生える棗椰子が気に入って住み始めた屋敷で、優雅にフォドラ中に放った密偵たちが寄越した分厚い報告書をめくっている。父が住む宮殿に引っ越す日が迫っていた。 生存本能が高いのは悪いことではない。しかしその結果、風見鶏のようになった諸侯たちの相手はアッシュには荷が重いだろう。戦費を確保する必要がなくなった諸侯たちは経済力をつけ始める。それ自体は民草にとっては良いことだ。しかし豊かになれば彼らはアッシュの機嫌など取る必要がなくなる。理詰めで相手を服従させられるマリアンヌか、実は有無を言わせぬ迫力があるメルセデスあたりがアッシュを手伝ってやってくれていると良いのだが。 アッシュは爵位も紋章も持たず手元にあるのは武勲と誠実な人柄だけだ。しかしベレトにそこを見込まれ英雄の遺産の探索とファーガス地方の改革を託されている。彼は出身地こそファーガスだが旧体制の色が全くついておらず純粋なベレト派と言えるだろう。 朴訥としたベレトの人柄で覆い隠されているがフォドラの外から見ればベレトの側近はローレンツ、マリアンヌ、ヒルダをはじめとする旧レスター諸侯同盟派とフェルディナント、リンハルト、カスパルをはじめとする旧アドラステア帝国派に分けられる。本人たちに全くその意思がなくとも、名家出身の彼らの血筋に付随するものがそのような構図を浮かび上がらせる。彼らが細心の注意を払って過ごさねばそれぞれ、旧同盟、旧帝国の権益を担っていた者たちに担ぎ出される危険があるのだ。 カリードがきょうだい、と呼ぶベレトは人が良いので、何か問い合わせれば全て正直に答えてくれるだろう。だが他人の目を通さねば判らないことが沢山あるのだ。フォドラに関する報告書は毎週カリードの元に届くようにしてある。 「喉が渇いた」 きりの良いところまで報告書を読み終えたカリードが鈴を鳴らしてそう告げると隣室に控えていた召使がすぐにお茶を淹れてくれた。いつも地獄のように熱いお茶を淹れて寄越す彼はカリードが信頼している数少ない召使いだ。 「カリード様、僕は明日からしばらく小屋に行きますので代わりの者を早く見つけませんと」 そしてオメガだ。フォドラ帰りでなかったら彼を身近に置くことはなかっただろう。 発情期の彼らが寝泊まりする厳重に警備された施設を〝小屋〟と呼ぶ。未婚のオメガたちは熱発作に苦しみながら、アルファがフェロモンにあてられないよう隔離される。 パルミラの抑制剤は激しい副作用と引き換えに、服用していれば妊娠の確率がかなり低くなる。しかしアルファを誘引するフェロモンの放出は止まらないので、不本意な性行為を避けるには物理的に隔離するしかない。激しい副作用に耐えかねて縋るオメガたちの相手をして嗜虐心を満足させるたちの悪いアルファもいる。 だから小屋に寝泊まりする者たちは番に関する事故を防ぐため黒く、幅が広い皮製の首輪をしていた。一方で当主の血を継ぐ子を確実に産むことを期待され、貴族や王族の家に迎え入れられるオメガもいる。パルミラのオメガたちはアルファたちの都合に合わせて踏みつけられたり拝まれたり、と実に不安定な立場にあった。 だがフォドラの抑制剤は発情期自体が来ないのだ。あれこそが本物の抑制剤だ、とカリードは思う。抑制剤はフォドラの社会制度にきちんと組み込まれていてオメガの兵士たちによる共済もある。 共済がきちんと機能しているので、あれほど出来の良い抑制剤の評判が国外には広がっていかない。オメガの兵士たちが首飾り付近の戦闘で捕虜になった場合は共済を利用して身代金を支払い、さっさとフォドラへ戻ってしまうのだ。戦争以外の交流をもっと早く持っていれば抑制剤のことに気づけたかもしれない。 「いや、俺の身の回りの世話はお前にしかさせない。フォドラにいた頃は身の回りのことはなんでも自分でしていたから、十日くらいなんてことはないさ。それにお前の母は俺の恩人だ」 カリードはパルミラに戻り、母にグロスタール家の嫡子に手を出したことを正直に話した。その時、ティアナの手元にあった花瓶をそっと取り上げてくれた側女が彼の母だ。あの花瓶が頭に当たっていたらカリードは死んでいたかもしれない。 「あれはお方様との約束を破ったカリード様が悪いと母も申しておりました」 カリードの母ティアナはデアドラまで潜入したカリードの父に見初められて後宮に入った。最初は側室だったが王子を産んだので部屋と側女を与えられている。 「なんだ、お前まで母上の味方か!これは困ったな。とにかくお前以外に俺の身の回りの世話をさせる気はないんだ。辛いとは思うが堪えて王宮への引っ越しを手伝ってくれよ。お前のために予定を十日遅らせるから」 そう言うとカリードはふざけて忠実な小柄で線の細い少年の頭を撫でた。何度目の発情期なのかは知らないが、まだ自分の身体の変化に怯えている頃だろう。その上失職の恐怖まで味わうことはない。パルミラ人の少年らしい、あちこちへ飛び跳ねたようなふわふわした癖っ毛にカリードの指が沈んだ。 ───何もかもが違う。 召使が隣室に下がるとカリードはようやくフォドラのものと違ってかなり小ぶりな硝子製の茶器に口をつけた。彼の淹れるお茶は冷ましてからでないと飲めやしない。そしてフォドラの食べ物に慣れた身からすると信じられないほど甘い。ローレンツが淹れてくれた繊細な味と香りの紅茶が懐かしかった。カリードは視線を再び報告書に落としたが、褐色の指はさらさらと流れる紫色の髪を思い出していた。 ───密偵たちは当然、デアドラにもいる。 大乱が終わり二年過ぎたがローレンツは父であるグロスタール伯エルヴィンが健在であることを理由に、まだグロスタール領へ戻っていない。勿論、両親を安心させるために何度か実家へ顔を出してはいる。 だが父の政務の手伝いを弟妹に任せてすぐにガルグ=マクへ戻り、デアドラへの遷都の手伝いをした。デアドラにいてもクロードと会えるわけではないのだが、ぽっかりとあいた心の穴が埋まるような気がした。 時代は移り変わっていく。新しく基準が作られていく時期に自領に籠るより、政治の中心にいた方が結果として有利になるという判断が働いたのだろう。ローレンツが父であるエルヴィンから叱られるようなことはなかった。 グロスタール家がデアドラに構えた上屋敷はすっかりローレンツの自宅兼デアドラに上屋敷がないかつての学友たちの宿泊所と化している。ローレンツが居なくても泊まれるように取り計らってあった。今日もあの大乱で最も荒廃したフリュム復興を担当しているカスパルとフェルディア視察に行ってガラテア領から船で戻ったフェルディナントが共に泊まりに来ている。 「すまないな、また世話になる」 「もう勝手知ったるって感じだな!」 旅装を解いた二人がローレンツと共に夕食を取るため客室から食堂へとやってきた。デアドラ湾はまだ埋め立てる余地があり、陸上側にもまだ余っている土地はある。しかしベレトが住む王宮や政府の建物ですら建築中だ。ベレトの仮住まいとしてクロードが去り、空き家となったリーガン家の邸宅が使用されているような現状では資材や人手が個人所有の邸宅建築に回ってくるのは当分先だろう。 「君たちにも早く上屋敷を構えて欲しいが泊まりに来なくなったら来なくなったで寂しいだろうな」 「ローレンツの家の料理人は腕がいい。私の上屋敷では彼の弟子を雇いたい」 アンヴァルも港を抱え魚介類が有名なのだが、デアドラとは水揚げされる魚の種類が違う。水温が冷たい土地の魚は脂がのっていて格別だった。 「今日は白身魚の蒸し焼きだそうだ」 料理を持ってきた召使が三人の杯に白葡萄酒を注いでいく。硝子の工芸品もデアドラの名物だ。三人の会話は外に持ち出せないことも多いため、察した召使は最低限の給仕をするとすぐに下がっていく。ローレンツが満足気に口の端を上げて杯を手に取った。 「誰に乾杯する?」 「アッシュに!」 カスパルが杯を掲げた。勢いが良かったので中身がこぼれ落ちそうになってしまう。次にフェルディナントが杯を掲げた。 「ローレンツに!」 アッシュはローレンツの協力を得て行方不明になっていた破裂の槍を回収し、ベレトの代理としてスレン族との和平条約を結んだ。和平交渉でアッシュを主体としたのは爵位のない彼に権威を持たせ、ファーガス公国に与した諸侯たちに対抗出来る存在にするためだ。彼はまだゴーティエ領に留まっているが、破裂の槍の輸送を担当したローレンツはベレトにいち早く事の仔細を報告するため、そのまま船でデアドラに戻っている。入れ替わりにマリアンヌがゴーティエ領に向かった。 「では僕はシルヴァンに」 三人で杯を合わせると硝子のぶつかる軽やかな音がした。 「スレン族との交渉が有利に運べて本当に良かったな、ローレンツ。先方はこちらの事情を知らない」 「そうだな、痩せ我慢して彼らの前で破裂の槍を使った甲斐があったよ」 それはマリアンヌの提案だった。ローレンツがやらなければ槍の技能が著しく低かった彼女が代わりにやりかねない。紋章が適合せずとも破裂の槍は利用可能であること、それにもかかわらず封印するのだ、と示すためスレン族関係者の前でローレンツは破裂の槍を振るって見せた。 「俺は触れもしないから想像するしかねえけどやっぱり変な気分になるのか?」 紋章を持たないカスパルが皿に散らされた赤い胡椒を白身魚に乗せて口に入れた。パルミラから輸入している赤い胡椒はレスターからアンヴァルへ運ぶだけで値段が倍に跳ね上がる。赤はアドラステア帝国にとって国を象徴する色であったので、宮廷料理ではよく使われていたと聞く。今日泊まる客人がアドラステア地方出身であると知った料理人の気遣いだが、それを知ってか知らずかカスパルは満足そうに食べていた。 「正直言って気持ちが悪かった。だが家系にもよる筈だ」 その時のことを思い出しただけでローレンツの表情が暗くなる。ローレンツの先祖にゴーティエの紋章を持つものがいれば違和感はかなり薄らいだ筈だが、伝えられてきた家系図の通りどうやら存在しなかったらしい。 「私も受け継いでいるがキッホルの紋章を持つ者は多いな。どの名家にもキッホルかセスリーンの紋章を持つものが嫁いで来ているのではないか?」 「じゃあ、俺の子供や孫に紋章が出たりするのかな。リンハルトに会えたら計算してもらうか」 カスパルはアンヴァルでハンネマンと共に宮城の調査にあたっている親友の名を出した。運べる書類は暖炉の中の燃えさしも含め、全てガルグ=マクへ運ばせたベレトだが動かせないものもある。真相究明には当分時間がかかりそうだった。 ベレトの教え子たちは皆何らかの理由でフォドラ中を駆け回っている。エーデルガルトに持たせる計画でもあったのかアウロラの盾はアンヴァルで発見され、ルーンはドロテアとベルナデッタが発見したが、アラドヴァルがまだ見つかっていない。アンヴァルから持ち帰った資料によってディミトリの身に何が起きていたのかも明らかになりつつある。ベレトから知らされた一同は彼の身に起きた不運に深く同情した。グロンダーズに慰霊碑を建てる話も出ている。 「手紙の方がまだ早そうだ。我々も次はいつ会えるのか見当がつかないな。ローレンツはどこへ行くのだ?」 「ゴネリル領だ。フォドラの首飾りまで王の露払いに行く」 ローレンツの言葉を受けてフェルディナントとカスパルが同時に大きく息を吐いた。畳む 小説,BL 2024/11/14(Thu)
フォドラ最大の都市はアンヴァルのままだが、旧レスター諸侯同盟の首都デアドラがフォドラ統一国家の首都となった。しばらくの間はベレトが大司教と王を兼ねる。大司教座がデアドラへ移るのか、ガルグ=マクに残っているセテスが大司教となるのかは決めかねているようだ。
統一王ベレトの部下は旧アドラステア帝国出身者とレスター諸侯同盟出身者が多い。その二国については問題にならなかったが、今や空白地帯となった旧ファーガス神聖王国における人材不足が深刻だ。皮肉なことにファーガス公国へ鞍替えした諸侯だけが生き残り、ブレーダッド家への忠誠を誓っていた名家達は後継者を失っている。旧ファーガス公国に与した諸侯にブレーダッド家への忠誠を誓った名家の所領は与えない、というのが統一王ベレトの方針だった。彼らが裏切らなければまだディミトリも彼の幼馴染たちも生きていたかもしれない、と思うとそこは譲れないのだろう。
カリードは棗椰子の種を指で摘んで雑紙の上にそっと置いた。行儀作法にうるさい誰かの顔が浮かばなければごみ箱に吐き捨てていただろう。庭に生える棗椰子が気に入って住み始めた屋敷で、優雅にフォドラ中に放った密偵たちが寄越した分厚い報告書をめくっている。父が住む宮殿に引っ越す日が迫っていた。
生存本能が高いのは悪いことではない。しかしその結果、風見鶏のようになった諸侯たちの相手はアッシュには荷が重いだろう。戦費を確保する必要がなくなった諸侯たちは経済力をつけ始める。それ自体は民草にとっては良いことだ。しかし豊かになれば彼らはアッシュの機嫌など取る必要がなくなる。理詰めで相手を服従させられるマリアンヌか、実は有無を言わせぬ迫力があるメルセデスあたりがアッシュを手伝ってやってくれていると良いのだが。
アッシュは爵位も紋章も持たず手元にあるのは武勲と誠実な人柄だけだ。しかしベレトにそこを見込まれ英雄の遺産の探索とファーガス地方の改革を託されている。彼は出身地こそファーガスだが旧体制の色が全くついておらず純粋なベレト派と言えるだろう。
朴訥としたベレトの人柄で覆い隠されているがフォドラの外から見ればベレトの側近はローレンツ、マリアンヌ、ヒルダをはじめとする旧レスター諸侯同盟派とフェルディナント、リンハルト、カスパルをはじめとする旧アドラステア帝国派に分けられる。本人たちに全くその意思がなくとも、名家出身の彼らの血筋に付随するものがそのような構図を浮かび上がらせる。彼らが細心の注意を払って過ごさねばそれぞれ、旧同盟、旧帝国の権益を担っていた者たちに担ぎ出される危険があるのだ。
カリードがきょうだい、と呼ぶベレトは人が良いので、何か問い合わせれば全て正直に答えてくれるだろう。だが他人の目を通さねば判らないことが沢山あるのだ。フォドラに関する報告書は毎週カリードの元に届くようにしてある。
「喉が渇いた」
きりの良いところまで報告書を読み終えたカリードが鈴を鳴らしてそう告げると隣室に控えていた召使がすぐにお茶を淹れてくれた。いつも地獄のように熱いお茶を淹れて寄越す彼はカリードが信頼している数少ない召使いだ。
「カリード様、僕は明日からしばらく小屋に行きますので代わりの者を早く見つけませんと」
そしてオメガだ。フォドラ帰りでなかったら彼を身近に置くことはなかっただろう。
発情期の彼らが寝泊まりする厳重に警備された施設を〝小屋〟と呼ぶ。未婚のオメガたちは熱発作に苦しみながら、アルファがフェロモンにあてられないよう隔離される。
パルミラの抑制剤は激しい副作用と引き換えに、服用していれば妊娠の確率がかなり低くなる。しかしアルファを誘引するフェロモンの放出は止まらないので、不本意な性行為を避けるには物理的に隔離するしかない。激しい副作用に耐えかねて縋るオメガたちの相手をして嗜虐心を満足させるたちの悪いアルファもいる。
だから小屋に寝泊まりする者たちは番に関する事故を防ぐため黒く、幅が広い皮製の首輪をしていた。一方で当主の血を継ぐ子を確実に産むことを期待され、貴族や王族の家に迎え入れられるオメガもいる。パルミラのオメガたちはアルファたちの都合に合わせて踏みつけられたり拝まれたり、と実に不安定な立場にあった。
だがフォドラの抑制剤は発情期自体が来ないのだ。あれこそが本物の抑制剤だ、とカリードは思う。抑制剤はフォドラの社会制度にきちんと組み込まれていてオメガの兵士たちによる共済もある。
共済がきちんと機能しているので、あれほど出来の良い抑制剤の評判が国外には広がっていかない。オメガの兵士たちが首飾り付近の戦闘で捕虜になった場合は共済を利用して身代金を支払い、さっさとフォドラへ戻ってしまうのだ。戦争以外の交流をもっと早く持っていれば抑制剤のことに気づけたかもしれない。
「いや、俺の身の回りの世話はお前にしかさせない。フォドラにいた頃は身の回りのことはなんでも自分でしていたから、十日くらいなんてことはないさ。それにお前の母は俺の恩人だ」
カリードはパルミラに戻り、母にグロスタール家の嫡子に手を出したことを正直に話した。その時、ティアナの手元にあった花瓶をそっと取り上げてくれた側女が彼の母だ。あの花瓶が頭に当たっていたらカリードは死んでいたかもしれない。
「あれはお方様との約束を破ったカリード様が悪いと母も申しておりました」
カリードの母ティアナはデアドラまで潜入したカリードの父に見初められて後宮に入った。最初は側室だったが王子を産んだので部屋と側女を与えられている。
「なんだ、お前まで母上の味方か!これは困ったな。とにかくお前以外に俺の身の回りの世話をさせる気はないんだ。辛いとは思うが堪えて王宮への引っ越しを手伝ってくれよ。お前のために予定を十日遅らせるから」
そう言うとカリードはふざけて忠実な小柄で線の細い少年の頭を撫でた。何度目の発情期なのかは知らないが、まだ自分の身体の変化に怯えている頃だろう。その上失職の恐怖まで味わうことはない。パルミラ人の少年らしい、あちこちへ飛び跳ねたようなふわふわした癖っ毛にカリードの指が沈んだ。
───何もかもが違う。
召使が隣室に下がるとカリードはようやくフォドラのものと違ってかなり小ぶりな硝子製の茶器に口をつけた。彼の淹れるお茶は冷ましてからでないと飲めやしない。そしてフォドラの食べ物に慣れた身からすると信じられないほど甘い。ローレンツが淹れてくれた繊細な味と香りの紅茶が懐かしかった。カリードは視線を再び報告書に落としたが、褐色の指はさらさらと流れる紫色の髪を思い出していた。
───密偵たちは当然、デアドラにもいる。
大乱が終わり二年過ぎたがローレンツは父であるグロスタール伯エルヴィンが健在であることを理由に、まだグロスタール領へ戻っていない。勿論、両親を安心させるために何度か実家へ顔を出してはいる。
だが父の政務の手伝いを弟妹に任せてすぐにガルグ=マクへ戻り、デアドラへの遷都の手伝いをした。デアドラにいてもクロードと会えるわけではないのだが、ぽっかりとあいた心の穴が埋まるような気がした。
時代は移り変わっていく。新しく基準が作られていく時期に自領に籠るより、政治の中心にいた方が結果として有利になるという判断が働いたのだろう。ローレンツが父であるエルヴィンから叱られるようなことはなかった。
グロスタール家がデアドラに構えた上屋敷はすっかりローレンツの自宅兼デアドラに上屋敷がないかつての学友たちの宿泊所と化している。ローレンツが居なくても泊まれるように取り計らってあった。今日もあの大乱で最も荒廃したフリュム復興を担当しているカスパルとフェルディア視察に行ってガラテア領から船で戻ったフェルディナントが共に泊まりに来ている。
「すまないな、また世話になる」
「もう勝手知ったるって感じだな!」
旅装を解いた二人がローレンツと共に夕食を取るため客室から食堂へとやってきた。デアドラ湾はまだ埋め立てる余地があり、陸上側にもまだ余っている土地はある。しかしベレトが住む王宮や政府の建物ですら建築中だ。ベレトの仮住まいとしてクロードが去り、空き家となったリーガン家の邸宅が使用されているような現状では資材や人手が個人所有の邸宅建築に回ってくるのは当分先だろう。
「君たちにも早く上屋敷を構えて欲しいが泊まりに来なくなったら来なくなったで寂しいだろうな」
「ローレンツの家の料理人は腕がいい。私の上屋敷では彼の弟子を雇いたい」
アンヴァルも港を抱え魚介類が有名なのだが、デアドラとは水揚げされる魚の種類が違う。水温が冷たい土地の魚は脂がのっていて格別だった。
「今日は白身魚の蒸し焼きだそうだ」
料理を持ってきた召使が三人の杯に白葡萄酒を注いでいく。硝子の工芸品もデアドラの名物だ。三人の会話は外に持ち出せないことも多いため、察した召使は最低限の給仕をするとすぐに下がっていく。ローレンツが満足気に口の端を上げて杯を手に取った。
「誰に乾杯する?」
「アッシュに!」
カスパルが杯を掲げた。勢いが良かったので中身がこぼれ落ちそうになってしまう。次にフェルディナントが杯を掲げた。
「ローレンツに!」
アッシュはローレンツの協力を得て行方不明になっていた破裂の槍を回収し、ベレトの代理としてスレン族との和平条約を結んだ。和平交渉でアッシュを主体としたのは爵位のない彼に権威を持たせ、ファーガス公国に与した諸侯たちに対抗出来る存在にするためだ。彼はまだゴーティエ領に留まっているが、破裂の槍の輸送を担当したローレンツはベレトにいち早く事の仔細を報告するため、そのまま船でデアドラに戻っている。入れ替わりにマリアンヌがゴーティエ領に向かった。
「では僕はシルヴァンに」
三人で杯を合わせると硝子のぶつかる軽やかな音がした。
「スレン族との交渉が有利に運べて本当に良かったな、ローレンツ。先方はこちらの事情を知らない」
「そうだな、痩せ我慢して彼らの前で破裂の槍を使った甲斐があったよ」
それはマリアンヌの提案だった。ローレンツがやらなければ槍の技能が著しく低かった彼女が代わりにやりかねない。紋章が適合せずとも破裂の槍は利用可能であること、それにもかかわらず封印するのだ、と示すためスレン族関係者の前でローレンツは破裂の槍を振るって見せた。
「俺は触れもしないから想像するしかねえけどやっぱり変な気分になるのか?」
紋章を持たないカスパルが皿に散らされた赤い胡椒を白身魚に乗せて口に入れた。パルミラから輸入している赤い胡椒はレスターからアンヴァルへ運ぶだけで値段が倍に跳ね上がる。赤はアドラステア帝国にとって国を象徴する色であったので、宮廷料理ではよく使われていたと聞く。今日泊まる客人がアドラステア地方出身であると知った料理人の気遣いだが、それを知ってか知らずかカスパルは満足そうに食べていた。
「正直言って気持ちが悪かった。だが家系にもよる筈だ」
その時のことを思い出しただけでローレンツの表情が暗くなる。ローレンツの先祖にゴーティエの紋章を持つものがいれば違和感はかなり薄らいだ筈だが、伝えられてきた家系図の通りどうやら存在しなかったらしい。
「私も受け継いでいるがキッホルの紋章を持つ者は多いな。どの名家にもキッホルかセスリーンの紋章を持つものが嫁いで来ているのではないか?」
「じゃあ、俺の子供や孫に紋章が出たりするのかな。リンハルトに会えたら計算してもらうか」
カスパルはアンヴァルでハンネマンと共に宮城の調査にあたっている親友の名を出した。運べる書類は暖炉の中の燃えさしも含め、全てガルグ=マクへ運ばせたベレトだが動かせないものもある。真相究明には当分時間がかかりそうだった。
ベレトの教え子たちは皆何らかの理由でフォドラ中を駆け回っている。エーデルガルトに持たせる計画でもあったのかアウロラの盾はアンヴァルで発見され、ルーンはドロテアとベルナデッタが発見したが、アラドヴァルがまだ見つかっていない。アンヴァルから持ち帰った資料によってディミトリの身に何が起きていたのかも明らかになりつつある。ベレトから知らされた一同は彼の身に起きた不運に深く同情した。グロンダーズに慰霊碑を建てる話も出ている。
「手紙の方がまだ早そうだ。我々も次はいつ会えるのか見当がつかないな。ローレンツはどこへ行くのだ?」
「ゴネリル領だ。フォドラの首飾りまで王の露払いに行く」
ローレンツの言葉を受けてフェルディナントとカスパルが同時に大きく息を吐いた。畳む