「crossing」7.
#クロロレ #完売本 #年齢操作 #crossing
流石にクロードも思うところがあったらしい。旧礼拝堂の魔法陣の中心に二人並んで白い光に包まれた時、黒い手袋越しにローレンツがそっと手を握ると彼が微かに震えているのがわかった。大聖堂の方へ顔を背けたまま、ローレンツの手を軽く握り返してきたのできっと怖かったのだろう。クロードはローレンツを見栄っ張りだと言って揶揄うがクロードも充分見栄っ張りだ。五年前、赤狼の節に互いの肉体に縋り付いた者同士、いまさら何の遠慮があると言うのだろうか。あの夜を境にローレンツはクロードをより深く理解出来た気がしたしクロードもローレンツを深く理解するようになった。
枢機卿の間に二人だけで残って打ち合わせを終え、廊下へ出た時に五年前戦死した筈の修道士が目の前を通り過ぎたのでローレンツもクロードもこの異変に気付いた。お互いに幽霊を見たような顔をしていたが何のことはない。自分たちの方が異物である、と気づかせてくれたのは荘厳な姿を保つ大聖堂だった。慌てて二人揃ってセテスの部屋に駆け込み、奇妙な数日間を経て───ローレンツとクロードは元の時代へ戻ることができた。
今、二人の目の前には帝国軍の攻撃で破壊されたままの大聖堂がある。二人が真っ先にこの目で見たかったものだ。
「崩壊した大聖堂を見て心が安らぐ日が来るとは思わなかったよ」
ローレンツがそう呟くとクロードも珍しく素直に同意した。星辰の節にガルグ=マクで皆と再会し打ち捨てられた大聖堂を見て、心が締め付けられるような心地がしたものだがこれこそが一一八五年である証だ。クロードと共に過ごした五年間は消え失せてなどいない。過去に紛れ込んで数日経過した筈が殆どずれることなく、元の時間軸の自分たちが過ごしていた直後の時刻に戻れたことは鳴り響く晩鐘が教えてくれた。星辰の節に合流し、修道院敷地内の被害を確認した際にクロードが真っ先に鐘を修復させたので無生物なりに恩返しをしているのかもしれない。
食堂の明かりを確認できたので二人で慌てて駆け込むと幸運なことにダフネルシチューだけは残っていた。五年前の世界では麺麭もワインも干し肉も提供してもらえたがやはり温かい食べ物が食べたかったので注文する。
湯気と温かさを感じながら食事をしている間ローレンツもクロードも無言だった。話している間も惜しんで食事を終えてしまった。
「はぁー流石に風呂に入りたいな」
手巾で口を拭いたクロードが伸びをしながら呟いた。食欲が満たされれば他のことに関しても欲が出てくる。それぞれ学生時代の自分がいない時に室内で水差しの水を使って身体を拭いたが、入浴と比べてしまえば当然だが入浴の方に軍配が上がる。
「同感だ。火が落とされる前に支度して入ろう」
それぞれ今の自室に戻り入浴の支度を整えた。最後の最後、滑り込むように入ったせいか浴場は貸切状態になっている。湯気の中で足を投げ出していると若いクロードから受け取った熱も含めて奇妙な数日がまるで夢のようにローレンツには思えた。あんなこと果たして現実に起きたのだろうか。
天井から落ちる水滴の音がやけに耳に響くのは時間が遅く、クロードと二人きりで入っているからだろう。隣り合って寛いではいるが二人とも疲れ果てて話す気にもなれなかった。汗で濡れた湯浴み着が身体に張り付きクロードの身体の線が顕になる。彼は祖父から盟主の座を継いでから少しでも威厳を出したい、とのことで体が少し大きく見えるような服を好んで着るようになった。だから浴場から寝室くらいでしか彼の身体の線を目にする機会がない。つまりローレンツが最も彼の身体の線を見る機会に恵まれている、と言える。学生時代の彼よりも随分と逞しい身体つきになっていた。クロードも同じようにローレンツの身体つきを舐めるように見ている。きっと記憶の中のかつての姿を見比べているのだ。クロードは昔と比べて随分素直になった。
「いや、お互い細かったな!身長差が縮まらないと悟った時の自分の顔は見ものだった」
おどけて笑うクロードは頬髭を生やしていても五年前の彼のように可愛い顔立ちをしていたが、ローレンツは本人にそう言ってやったことがない。
「今でも悔しいのかね?」
ローレンツは紫の瞳だけ動かしてクロードを眺めた。彼が小さく横に首を振ると褐色の肌の上を玉のような汗が筋肉に沿って流れていく。
「いいや、男の価値はそんなとこでは決まらんからな」
クロードは軽く腰を上げ首を伸ばしローレンツに頬ずりすると薄い唇に触れるだけの軽い口づけをした。クロードに体を開かれる前のローレンツならこれだけで顔を真っ赤にしていただろう。彼に茶を供し頭巾を着せてやっていた頃のローレンツなら。だが今のローレンツは微かに触れた粘膜がひんやりとして心地よいと感じるだけだ。これは浴室内の気温の問題だけではない。
「先に部屋に戻りたまえ。僕はもう少し時間がかかる」
「いや、たまには俺が手伝うよ」
学生時代のクロードとローレンツがすぐに身体を繋げることが出来たのはあの現象に巻き込まれる前の晩も今、浴場にいる二人で身体を重ねていたからだ。この後、褐色の指でローレンツの奥が探られれば過去のクロードに対してローレンツが何をくれてやったのか、すぐに判明するだろう。
「君の指は悪戯ばかりする」
ローレンツはそういうと褐色の手を取り中指と人差し指を第一関節まで自らの咥内に迎え入れた。舌の裏で爪を舐め舌の表面で指の脇にできている胼胝の形を確かめる。クロードは爪の背で上顎の溝を撫でようとしたがローレンツが強く指を吸うので出来なかった。
「こんな浅いところじゃ満足できないだろ」
確かに指を奥まで入れて欲しいし当然指だけでは足りない。ローレンツを見つめるクロードの緑の瞳が欲望でぎらぎらと輝いている。五年前の彼が同じ瞳で自分を見つめたのでつい口づけ以上のものをくれてやってしまった。まだ道具を使うことなど考えつきもしない幼いクロードのことを思い出すと口の端が上がってしまう。本当に初心だったし、ローレンツはクロードの身体だけで充分気持ち良くなれると再確認させてくれた。きっと今晩も羽根だの目隠しだのを使いたがるだろうがそこは粘り強く訴えていくしかない。
「爪の手入れは怠っていないようだね」
「弓使いの嗜みってやつだよ」
二人は汗を流すため共に立ち上がった。畳む
#クロロレ #完売本 #年齢操作 #crossing
流石にクロードも思うところがあったらしい。旧礼拝堂の魔法陣の中心に二人並んで白い光に包まれた時、黒い手袋越しにローレンツがそっと手を握ると彼が微かに震えているのがわかった。大聖堂の方へ顔を背けたまま、ローレンツの手を軽く握り返してきたのできっと怖かったのだろう。クロードはローレンツを見栄っ張りだと言って揶揄うがクロードも充分見栄っ張りだ。五年前、赤狼の節に互いの肉体に縋り付いた者同士、いまさら何の遠慮があると言うのだろうか。あの夜を境にローレンツはクロードをより深く理解出来た気がしたしクロードもローレンツを深く理解するようになった。
枢機卿の間に二人だけで残って打ち合わせを終え、廊下へ出た時に五年前戦死した筈の修道士が目の前を通り過ぎたのでローレンツもクロードもこの異変に気付いた。お互いに幽霊を見たような顔をしていたが何のことはない。自分たちの方が異物である、と気づかせてくれたのは荘厳な姿を保つ大聖堂だった。慌てて二人揃ってセテスの部屋に駆け込み、奇妙な数日間を経て───ローレンツとクロードは元の時代へ戻ることができた。
今、二人の目の前には帝国軍の攻撃で破壊されたままの大聖堂がある。二人が真っ先にこの目で見たかったものだ。
「崩壊した大聖堂を見て心が安らぐ日が来るとは思わなかったよ」
ローレンツがそう呟くとクロードも珍しく素直に同意した。星辰の節にガルグ=マクで皆と再会し打ち捨てられた大聖堂を見て、心が締め付けられるような心地がしたものだがこれこそが一一八五年である証だ。クロードと共に過ごした五年間は消え失せてなどいない。過去に紛れ込んで数日経過した筈が殆どずれることなく、元の時間軸の自分たちが過ごしていた直後の時刻に戻れたことは鳴り響く晩鐘が教えてくれた。星辰の節に合流し、修道院敷地内の被害を確認した際にクロードが真っ先に鐘を修復させたので無生物なりに恩返しをしているのかもしれない。
食堂の明かりを確認できたので二人で慌てて駆け込むと幸運なことにダフネルシチューだけは残っていた。五年前の世界では麺麭もワインも干し肉も提供してもらえたがやはり温かい食べ物が食べたかったので注文する。
湯気と温かさを感じながら食事をしている間ローレンツもクロードも無言だった。話している間も惜しんで食事を終えてしまった。
「はぁー流石に風呂に入りたいな」
手巾で口を拭いたクロードが伸びをしながら呟いた。食欲が満たされれば他のことに関しても欲が出てくる。それぞれ学生時代の自分がいない時に室内で水差しの水を使って身体を拭いたが、入浴と比べてしまえば当然だが入浴の方に軍配が上がる。
「同感だ。火が落とされる前に支度して入ろう」
それぞれ今の自室に戻り入浴の支度を整えた。最後の最後、滑り込むように入ったせいか浴場は貸切状態になっている。湯気の中で足を投げ出していると若いクロードから受け取った熱も含めて奇妙な数日がまるで夢のようにローレンツには思えた。あんなこと果たして現実に起きたのだろうか。
天井から落ちる水滴の音がやけに耳に響くのは時間が遅く、クロードと二人きりで入っているからだろう。隣り合って寛いではいるが二人とも疲れ果てて話す気にもなれなかった。汗で濡れた湯浴み着が身体に張り付きクロードの身体の線が顕になる。彼は祖父から盟主の座を継いでから少しでも威厳を出したい、とのことで体が少し大きく見えるような服を好んで着るようになった。だから浴場から寝室くらいでしか彼の身体の線を目にする機会がない。つまりローレンツが最も彼の身体の線を見る機会に恵まれている、と言える。学生時代の彼よりも随分と逞しい身体つきになっていた。クロードも同じようにローレンツの身体つきを舐めるように見ている。きっと記憶の中のかつての姿を見比べているのだ。クロードは昔と比べて随分素直になった。
「いや、お互い細かったな!身長差が縮まらないと悟った時の自分の顔は見ものだった」
おどけて笑うクロードは頬髭を生やしていても五年前の彼のように可愛い顔立ちをしていたが、ローレンツは本人にそう言ってやったことがない。
「今でも悔しいのかね?」
ローレンツは紫の瞳だけ動かしてクロードを眺めた。彼が小さく横に首を振ると褐色の肌の上を玉のような汗が筋肉に沿って流れていく。
「いいや、男の価値はそんなとこでは決まらんからな」
クロードは軽く腰を上げ首を伸ばしローレンツに頬ずりすると薄い唇に触れるだけの軽い口づけをした。クロードに体を開かれる前のローレンツならこれだけで顔を真っ赤にしていただろう。彼に茶を供し頭巾を着せてやっていた頃のローレンツなら。だが今のローレンツは微かに触れた粘膜がひんやりとして心地よいと感じるだけだ。これは浴室内の気温の問題だけではない。
「先に部屋に戻りたまえ。僕はもう少し時間がかかる」
「いや、たまには俺が手伝うよ」
学生時代のクロードとローレンツがすぐに身体を繋げることが出来たのはあの現象に巻き込まれる前の晩も今、浴場にいる二人で身体を重ねていたからだ。この後、褐色の指でローレンツの奥が探られれば過去のクロードに対してローレンツが何をくれてやったのか、すぐに判明するだろう。
「君の指は悪戯ばかりする」
ローレンツはそういうと褐色の手を取り中指と人差し指を第一関節まで自らの咥内に迎え入れた。舌の裏で爪を舐め舌の表面で指の脇にできている胼胝の形を確かめる。クロードは爪の背で上顎の溝を撫でようとしたがローレンツが強く指を吸うので出来なかった。
「こんな浅いところじゃ満足できないだろ」
確かに指を奥まで入れて欲しいし当然指だけでは足りない。ローレンツを見つめるクロードの緑の瞳が欲望でぎらぎらと輝いている。五年前の彼が同じ瞳で自分を見つめたのでつい口づけ以上のものをくれてやってしまった。まだ道具を使うことなど考えつきもしない幼いクロードのことを思い出すと口の端が上がってしまう。本当に初心だったし、ローレンツはクロードの身体だけで充分気持ち良くなれると再確認させてくれた。きっと今晩も羽根だの目隠しだのを使いたがるだろうがそこは粘り強く訴えていくしかない。
「爪の手入れは怠っていないようだね」
「弓使いの嗜みってやつだよ」
二人は汗を流すため共に立ち上がった。畳む

表紙

台詞まとめ
※Netflixで配信されている「愛の不時着」パロで、紅花ルートの21世紀という設定です。
「また会えようが、会えまいが」1.越境
#クロロレ #完売本 #現パロ #また会えようが、会えまいが #台詞まとめ
アドラステア帝国はフォドラを統一し、それまでの紋章主義に基づく貴族制度は解体された。聖人や十傑の血を引く者たちは身分を失ったが、その空白は埋めねばならない。
身分を問わず幅広く人材を確保する為、官僚の採用試験が実施された。合格した者たちは自らが勝ち取った権限や資産を子供に継がせたがる。こうして新たな階級制度が固定され、新しい葡萄酒に相応しい新しい皮袋は用意されることがなかった。
皇族と官僚と農奴しか存在しない歪な国家は数世紀の時を経て、革命の種を芽吹かせることになる。七十年ほど前に革命が起きようやく皮袋は新しくなったが、この革命は王制を敷いている周囲の国々、とりわけパルミラの王族や貴族たちを強く刺激した。自国で同じことが起きたらたまったものではない。
パルミラは租界地であるデアドラに住むパルミラ人の保護を名目としてフォドラ連邦に攻めこんだ。大規模な侵攻と小規模な小競り合いを経て三十年ほど前に休戦協定が結ばれ、両国を隔てる山脈、通称フォドラの喉元が軍事境界線、事実上の国境線となっている。
七十年前の革命を嫌い、隣国パルミラや永遠の友好国ブリギットへと亡命したフォドラ人とその子孫は何十万人と存在する。赤い革命を嫌った彼らはそれぞれの国において白フォドラ人と名乗って生活していた。七十年も経てば祖国を知らない子供たちの方が多くなる。白フォドラ人の間では辛うじて言語が保たれているものの、八世紀の歴史を誇るセイロス正教への信仰と伝統は失われつつあった。
カリードもその一人だ。カリードの母ティアナは白フォドラ人だが王家に近しい財閥総帥の子を産んだ。だが第一夫人でもパルミラ人でもなかったので、そもそもカリード自身は後継者争いに興味を持っていなかった。しかし自分たちが後継者である、と信じて疑わない異母兄弟たちは感情的でしょっちゅう部下を怒鳴りつけて殴り、無茶な投資で損ばかりしている。
そんな彼らに任せていては社員たちが幸福になれない。カリードが金銭的には豊かな子供時代を送ることができたのは社員たちが真面目に働いてくれたおかげだ。そんな社員たちに恩返しをするためカリードは後継者レースに加わった。宝飾品及び高級時計メーカーの社長、というのが現在のカリードの立場だが近年ではグループ内での存在感を増している。母の身分は低いもののカリードはよく働き、派手に遊び新聞のゴシップ欄を騒がせた。遊び相手の女優やモデルには自社の商品を贈ることにしているので、左手首や耳元、首を必ず写すようにとゴシップ紙のカメラマンに裏で金を払っている。
そんな遊び人のカリードが一番愛しているレジャーは飛竜の騎乗で、これだけは華やかな遊び相手と共に行うことはない。カリードは厄介な案件を片付けた自分へのご褒美にフォドラとの国境地帯へとやってきた。政治情勢はきな臭いがここは自然に恵まれており素晴らしい景色が楽しめる。
だが、山の麓で飛竜の管理をしているインストラクターが眉間に皺を寄せながら、飛竜の鞍に腰を下ろしているカリードに話しかけてきた。
「社長、今日は風が強いので出来れば飛行を控えていただきたいのですが……」
「予備日はこれで最後だ。必死になって時間を作ったから一度くらいは飛びたいな」
「では絶対に西に流されないように気をつけてください。少しでも国境線を越えればフォドラの国境警備隊から撃墜されます」
分かった、というとカリードは額に当てていたゴーグルを下ろした。ミラー加工がしてあるので白フォドラ人の血を引く証である緑の瞳が隠される。フォドラとの国境が近いこの地域では、革命を嫌い山越えをしてきた白フォドラ人やその子孫が特に多い。この地方ではカリードの瞳の色も珍しいものではない、という事情もあって国境沿いで遊ぶのがカリードは好きだった。飛竜に乗る資格もこちらで取得している。
「危ないと思ったらすぐに着陸するよ、着陸地点からは無線で連絡する。」
背中のパラシュートを後ろ手で叩き、反対の手で胸ポケットに入れた無線機を指さしたがカリードはインストラクターを安心させられなかったようだ。
「社長、パルミラである、と確信できない場所でその無線機を使ったらフォドラ側の国境警備隊に捕まります」
「なんだ、経済封鎖されてる癖にレーダーなんか使ってるのか?落下しちまった用のパラシュートだって背負ってるし、トータルの飛行時間も短くない。だからそんなに心配しないでくれよ」
どうしてこんなに意地になっているのかカリード自身にも全く分からない。しかし鎧に足を乗せ離陸するよう合図を出すと、おかしなテンションになっている人間の思惑を理解していない飛竜は嬉しそうに翼を広げた。
飛竜の足が地面から離れる時はバランスを崩しやすいと言われる。先程のカリードは謙遜していたが、忙しい身の上でありながら単独飛行時間は実際かなり長い。百時間は軽く超えている。
手綱と鎧でさらに上昇するよう、飛竜に命じるとお調子者な個体らしく勢いよく高度を上げる。動物は人間の外見や身分を気にしない。他人からすれば孤独な時間かもしれないが、カリードは空の上で自由を満喫していた。
山頂すら足元になるほど高度を上げると西側にあるフォドラもよく見える。山頂付近は人の手が入らないせいか見事な森が広がっていた。きっと鹿や兎や狐が住んでいることだろう。しかし人間が豊かな自然の中に勝手に国境線を引いたせいで、山頂付近を飛び回る野生の飛竜が誰かに騎乗されているものと誤解され撃墜される痛ましい事故もあった。インストラクターの言う通り国境地帯に入り込むのは避けた方がいい。東に旋回しようと手綱を引いたその瞬間、カリード、いやクロードの運命を変える竜巻が山に襲いかかったのだった。
フォドラ連邦とパルミラの国境線は自然物を基準としている。山の稜線が国境線だ。隣国の兵士や民間人が国境を越えることがないようにフォドラ連邦もパルミラもその手前二キロ地点に拠点と柵を作り、そこには高圧電流を流していた。しかし野生動物が勝手に国境線を越えるように、悪天候も双方に平等に影響を及ぼす。パルミラとの国境線であるフォドラの首飾り近辺で強風が数日間に渡って発生した。強風は人間の都合を嘲笑うかのように、両国が作った柵をそれぞれ何キロにも渡って壊している。
国境地帯の立哨は骨が折れる任務だ。パルミラの兵士と遭遇し、運が悪ければ自分が戦端を開くことになる。ローレンツが肩に固定している無線機から雑音混じりの通信が入った。詰所の通信機器の調子が悪く近々修理用の部品が来ることになっている。
「こちらカッコー。フクロウ応答せよ」
「こちらフクロウ。電気柵の破損を現時点で四ヶ所確認。麓から工兵を派遣してもらう必要がある」
ひどい雑音混じりであっても詰所に残っているヒルダがため息をつくのがわかった。悪天候で柵が破損するとそこから豊かな自然の恵みを狙って猟師たちが入り込む。フォドラ連邦は革命の波及を恐れられ、正式に国交を結んでいるのは友好国であるブリギットと永世中立国であるダグザそれとモルフィスだけだ。輸入に頼ることはできず自給自足せねばならない。
そんなわけで一攫千金を狙った猟師たちが国境を越えてしまうのだが、パルミラ側の国境警備隊に捕まれば工作員扱いをされる。聴取は厳しく手荒いものとなるだろう。そこから自国民を守るのもローレンツたちの任務のひとつだ。
「こちらカッコー。了解した。先程気象部隊より本日は竜巻が発生するとの報告を受けた。迅速に帰還せよ」
「こちらフクロウ。了解した」
この竜巻も近年の異常気象の影響だろうか。全ての破損箇所の確認は最終日である明日に持ち越すしかなさそうだった。
「マリアンヌさん、何か聞こえなかったか?」
ローレンツが耳を澄ませたのでマリアンヌも息を止めあたりを伺う。木の枝が折れる音と複数の足音を聞いたマリアンヌの顔に一瞬迷いが生じた。
「詠唱する暇はない!」
ローレンツの一喝でマリアンヌがローレンツと共に短銃を構えた瞬間、ボロボロの服を身につけ、弓矢を持ったフォドラの猟師が駆け込んできた。銃声が聞こえると密猟しているのが明白になってしまうし、その銃声をきっかけに戦闘が開始されかねない。だから密猟者たちは猟銃ではなく弓矢を使う。ローレンツとマリアンヌが身に纏っているフォドラ連邦国境警備隊の軍服を見て、彼らの瞳が潤んだ。
「助けてください!鹿を追ってただけなんです!!」
彼らの背後にはローレンツたちと同じく短銃を構えたパルミラ軍国境警備隊の兵士たちがいる。彼らが肩につけている無線機にも拠点からの通信が入った。国境警備の任に就く士官は隣国の言葉を習得していることが望ましい。ローレンツの階級章を確認したパルミラの兵士たちは拠点からの通信が傍受されることを一瞬躊躇した。
『こちらハト。オンドリ応答せよ』
『こちらオンドリ。西側からの侵入者を追跡中フォドラの兵士に見つかった』
『彼らは狩りをしていただけだ!密猟者はこちらで処罰する!』
「兵隊さん!助けてください!!お願いします!!」
『パルミラの密猟に対する罰などたかが知れている!強制収容所の悪名はパルミラにも知れ渡っているだろう?彼らをこちらに渡せ!』
『こちらハト。オンドリ、深追いせず帰還せよ。気象部隊からの報告によると竜巻が発生するらしい。繰り返す。深追いせず直ちに帰還せよ』
目の前のパルミラ軍兵士及びパルミラ軍の拠点、そしてローレンツによるパルミラ語の短く激しい言い争いは天気予報とローレンツの勝利に終わった。ここ数年は命がけで密猟をする者が増えている。三人の密猟者は涙を流してローレンツに感謝の言葉を述べたが、ローレンツは容赦せず拠点に彼らを連れ帰ると憲兵隊に彼らを引き渡した。
「お疲れ様でーす!」
拠点に戻ると通信手をしていたヒルダが出迎えてくれた。マリアンヌの手を取りあと一日で村に戻れるよ!とはしゃいでいる。立哨の任務は二ヶ月交代で終わるまで山から降りられない。年頃の娘である二人はあれが欲しいこれが買いたい、と盛り上がっていた。今回の任務があと一日早く始まり、昨日終わっていたらローレンツの人生には何の変化も訪れなかっただろう。
国が望み家が望み軍が望む人生を歩む。その身に紋章を宿す者たちに職業選択の自由はない。紋章の力は戦争の役にしか立たないからだ。七十年前の革命でローレンツたち紋章保持者の名誉が回復されたのも、当初は戦力に乏しかった革命軍が貴重な戦力として迎え入れたからだ。戦功を立て、ささやかな恩賞を得た祖父母たちのおかげで幼い頃のローレンツは幸せに過ごしている。
最終日の朝、いつものように立哨の任についたローレンツは昨日と同じくマリアンヌと共に電気柵の破損箇所を見て回った。今は何の変哲もない山道に見える。だが、かつての戦闘の際に両軍共に地雷を大量に設置しているので目印がつけてあるところ以外はまともに歩けない───そんな区域をチェックしている。
数度の危機を乗り越え、ようやく安全な区域にたどり着いた時に呻き声が聞こえたような気がして、ローレンツは辺りを見回した。口の前に人差し指を当てハンドサインでマリアンヌに指示を出し、左右に分かれて走り出す。単独行動をとって数分後、ローレンツは小さな小川沿いに生えているやたら大きな木に、破れたパラシュートと怪我人が引っかかっているのを見つけた。近頃の悪天候を受け、パラシュート部隊も飛竜の部隊も訓練を実施していない。どうしてよりによって最終日にこんな揉めごとが起きるのか。村に戻れば取っておきの茶葉が自分を待っていると言うのに。
『降りろ!』
肌が少し浅黒いのでパルミラ語で話しかけてみるとローレンツの声に反応し、瞼が上がった。パルミラ人ならば工作員の可能性がある。しかし瞼の下から現れた瞳は美しい緑色だった。彼は一体、どこの何者なのだろうか。我に返った怪我人は辺りを見回し息を呑んだ。ロープで辛うじてぶら下がっていることとローレンツが銃を構えていることが分かったからだろう。
『おいおい、俺は目が緑だけどフォドラ人じゃあないぜ』
ローレンツは今、深緑色をベースとした迷彩柄の戦闘服に身を包んでいる。軍装の色合いはフォドラ軍もパルミラ軍も変わりがない。緑深い山の中で任務にあたるとどうしてもデザインが似通ってくる。興味のない者からは見分けがつかないだろう。
『誤解しているようだがここはフォドラだ』
「何を言ってるんだ?俺の飛竜はきちんと東に旋回した!!そっちこそパルミラ側に入り込んでるんじゃないだろうなあ?」
「む……フォドラ語が話せるのか?」
「ああ、お袋が白フォドラ人でね。一応、セイロス正教の洗礼も受けてるぜ。堅信礼以来教会には行ってないがな」
男はローレンツに言い聞かせるためなのかフォドラ語で話しかけてきた。セイロス正教は長いフォドラの歴史の中で唯一、大帝と称されるエーデルガルト一世を開祖とする。七十年前に国を捨てた者の子孫と七十年前に名誉を回復された者の子孫が実に奇妙な形で再会していた。
「そうか。君は飛竜に乗っていたらしいがその飛竜はどこにいる?」
「分からない。ひどい竜巻だった。俺なしでも無事に竜舎まで飛べていると良いんだが」
強風に煽られ飛竜から吹き飛ばされた男は木からぶら下がり、銃を突きつけられているというのに飛竜の心配をしている。
「逃げるにしても僕に捕まえられるにしても降りねばならないのはわかるだろう!」
大きな枝に引っかかっているカリードに銃口を向けたフォドラ兵の言うことを聞くのは癪だったが、彼のいうことは正しい。そして彼の前で迂闊に無線を使ったら本国からの救助隊が迎撃される可能性がある。額から流れた血を黒いグローブ越しに拭うとカリードはバックルに手を掛けた。かなり高さがある。せっかく骨折していないのにこれで骨を折ってしまうかもしれない。
覚悟を決めてバックルを外した時は全身が地面に叩きつけられるか、と思ったが予想は裏切られた。カリードは自分に向けて銃を構えていたはずの兵士の上に乗っかっていて、まるで彼を押し倒しているような状態になっている。飛び降りたカリードを受け止めた衝撃で、ヘルメットの中に押し込めていたのであろう彼の真っ直ぐな紫の髪がはみ出ていた。彼は魔法職採用なのだろう。魔法の力は髪に宿ることが多いので伸ばしている者が多い。
「忌々しい……!頭を打つところだった!」
「助けてくれたのか?!」
「死体は尋問出来ないからな!」
反射的に憎まれ口を叩く唇は薄く肌は真っ白で、睨みつけてくるアメジストのような瞳が美しい。肌が白く瞳と鮮やかな髪の色がお揃い、という典型的なフォドラの美丈夫だ。来年の新作にアメジストやバイオレットサファイア、それにタンザナイトを使うのはどうだろうか?カリードは一瞬そんなことを考えた。
フォドラでは昔から全く同性愛が禁忌ではない。エーデルガルト大帝も師であり戦友であった女性と結婚している。同性愛は禁忌ではないが名前も知らない相手の唇を同意もなく奪うのは禁忌だ。カリードは大袈裟な音を立てて組み敷いた軍人の唇を奪い、彼が呆気に取られて固まっている隙にマジックテープで肩に固定されている軍用の無線機を外した。すぐに当てずっぽうに放り投げてやったので拾いに行かねばならない。
「いや、本当に残念だ。顔はものすごく好みなのに」
無線機は軍からの支給品であり、何かあった時の生命線なので絶対に拾いにいかねばならない。自分の唇を奪ったパルミラの男がローレンツの頭をヘルメット越しにぐいっと掴んで無線機の方に向けた。今自分が放り投げた無線機を拾いに行け、ということなのだろう。唇を奪われたことも無線機を奪われたことも悔しいが、行動を操られることこそが最も屈辱に感じる。ローレンツは身体を捩ってなんとか起きあがろうと努力したが、パルミラからの侵入者は体運びが上手いらしい。頭突きでもしてやろうかと腹筋と首に力を入れた瞬間、押さえつけられ通しだった身体が急に軽くなった。慌てて無線機を拾い、先程ローレンツがやってきた方角とは真逆の方へ走り去ろうとしていた緑の瞳の色男に後ろから飛びかかり羽交締めにする。
「そっちは地雷だらけだぞ!」
「どうせ逃さないための嘘だろ?国交が正常化したら続きしようぜ!」
男がそう言うとローレンツの天地がひっくり返った。背負い投げをされたのだ。ローレンツには自分が大男だという自覚があるので、内心では驚愕したが慌てて立ち上がる。だが侵入者を追いかけようと足を踏み出した瞬間、足元からカチッという今は一番聞きたくない音が聞こえた。少しでも動けば地雷に吹き飛ばされてしまう。
「あぁもう忌々しい!!いいか!分かれ道についたら看板通りに進め!二度とこちらに来るな!そしてこちらで見たものについて一言も話すな!」
ローレンツの言葉が聞こえているのかいないのか、一目散に逃げていく緑の瞳の男はよほど運がいいのか、強風に背を押されながら地雷原を駆け抜けて行った。運が良ければ東側に到達するだろう。風は男の命を助けたパラシュートを巻き上げ、ローレンツの管轄外へ運んでいく。自然は人間の思惑など全く考慮しない筈だがこの風は都合が良い。ローレンツがなかったことにすればおしまいだ。それに今日を逃せば工兵が破損箇所を修理してしまうだろう。
ローレンツが必死で足元から意識を逸らし棒立ちになっているとマリアンヌからの通信が入った。急いでローレンツの元にやってきたマリアンヌは大きくため息をついた。爆発物処理を一度始めたらため息をつくこともできない。
「大丈夫ですか……?!ブリザーにしますか?」
「いや、フィンブルだ。迷惑をかけて申し訳ない」
マリアンヌが呪文を詠唱し彼女の右手に魔法陣が浮かんだのを確認すると、ローレンツはポケットから小さなタオルを出して噛んだ。ローレンツが踏んだ古い地雷に向けて凝縮した氷魔法が放たれるが、当然それだけでは済まない。地雷を踏んでいたローレンツの左足に激痛が走り地面に倒れ込んだ。我慢してもしきれない呻き声がでて涙がこぼれ落ちる。マリアンヌは氷に封じられ、無力化された地雷を蹴って遠ざけると次にライブの呪文を唱え始めた。今度は白い光がローレンツの左足を包んでいく。
「ご無事でよかったです。詰所に帰りましょう」
ローレンツはマリアンヌに礼を言い、彼女に肩を借りながら軍用車両まで戻った。
一方カリードは重大な選択を迫られていた。確かあの紫の瞳が美しいフォドラ兵は吐き捨てるように看板通りに進め、と言っていた。しかしその看板はこの強風で飛ばされてしまったらしい。パルミラに戻るには左右どちらの道を行けばいいのか。心細さと緊張で一歩も動けなくなる。闇雲に走ったせいかここがフォドラなのかパルミラなのか全く分からない。パルミラならば話は簡単だ。今すぐ無線機の電源を入れれば良い。きっとすぐに救助隊が駆けつけてくれる。だがここがもしフォドラなら敵国への違法な通信を試みた工作員として逮捕され、強制収容所に送られてしまう。カリードはこれまでずっとビジネスにおいて自分の勘に従ってきた。失敗しても自分のせいで誰も恨まずに済む。カリードは自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
「右に行こう」
この時、左の道を行けば彼の人生は変わることがなかっただろう。
詰所に入る門、詰所から麓の村へ至る門にはそれぞれイグナーツとヒルダがいた。しかし通信機器の修理用部品が届き、イグナーツが次に立哨を担当する部隊のため必死で修理していたこと、ヒルダが補給物資と共に届いた海軍にいる兄ホルストからの手紙を夢中になって読んでいたこともありカリードはフォドラ側に迷い込んでしまっている。
必死で山道を降りていくと日が暮れて集落の灯りがカリードの目に飛び込んできた。あの光を目指せば明日には帰宅できるだろう。そう考えたカリードの歩みは自然と早くなったが───集落に辿り着こうかという頃、急に灯りは消えた。たとえパルミラといえども山の中の寒村だからインフラが心許ないのだ、そう思いたかったが褐色の背中を冷や汗が辿っていく。
再び灯は点ったが照らしているのはフォドラ語の看板だった。強きフォドラ、革命万歳、などフォドラ連邦のスローガンがビビッドなカラーリングで書かれている。
とにかく今晩の夜露をしのぐところを見つけねばならない。この集落は留守にしている家が何軒かあるようだ。そのどれかに忍び込みとりあえず水だけでも確保したい。屋台が数軒並ぶだけのささやかなメインストリートから少し離れた家の門扉に手を掛けた時、カリードの背後から聞き覚えのある声がした。
『そこで何をしている』
振り向くと小川のそばで自分を抱き留めてくれたフォドラの美丈夫が買い物袋を持って立っていた。畳む
「また会えようが、会えまいが」4.検閲
#クロロレ #完売本 #現パロ #また会えようが、会えまいが
ヒルダがローレンツ宅に持参した箱は方針が決まるまで小さな台所に放置されていた。しかし今はヒルダの提案で袋小路から脱出できる見通しがついたので、この家の主人であるローレンツが中身に包丁を入れている。ココアスポンジとプレーンなスポンジの間に、ヨーグルトから作ったサワークリームであるスメタナを挟んだスメタンニクと言うケーキだ。フォドラ連邦の者なら老若男女好んで食べる。
「ああ、これは美味しそうなゼブラだ。召し上がれ」
「チョコレートは詰所でも食べる機会がありましたがトルトは本当に久しぶりです」
「本当にね!私トルトはスメタンニクが一番好きだから帰ってきてすぐ焼いてお土産にもしちゃった」
ローレンツが切り分けたスメタンニクを乗せた皿をマリアンヌが花の咲くような笑顔で受け取る。彼らがこの二ヶ月間、紅茶を飲みながらフォークで柔らかなケーキを食べられるような状態でなかったことは軍の事情に疎いクロードにも想像がついた。スメタンニクは茶色いスポンジと白いスポンジが層になっているので、その断面からゼブラとも呼ばれる。
どちらの呼び方もクロードは知っていた。フォークで切り分けて口に運ぶと懐かしい味がする。クロードは母が作ったトルトを食べられた頃は父親と一緒に住んでいない、と言う理由で周囲から色々言われた。本家に引き取られてからは母親が白フォドラ人である、と言う理由で父の正妻や異母兄弟たちから疎まれた。どちらも親たちの都合でしかない。だが周囲は幼いクロードに責任や結果をなすりつけた。
「パルミラだとトルトはケーキって言うんでしょ?私、実は外国のテレビドラマ大好きでソフトいっぱい持ってるから、聞くだけならパルミラ語が結構分かるの」
ローレンツとマリアンヌが舌鼓を打っている間に声をひそめてヒルダがクロードに話しかけてきた。彼女が見ているのはおそらく正規のソフトからデータを抜き出し、勝手にフォドラ語の字幕をつけてブランクメディアに焼いた違法コピー商品だろう。国交がないのでパルミラのテレビ局や制作会社はフォドラに販路を持っていない。どんなドラマが好きなのか問うてみるとやはりメロドラマが多かった。
「それ十年くらい前のやつだぞ。最後まで見られたのか?」
「ううん、だから私記憶を取り戻したヒロインがどうなったのか知らないの。後で教えてくれる?」
スメタンニクを食べ終えたマリアンヌが小さく手を挙げた。
「パルミラの風土病についてお伺いしたいのですが……」
「う、俺は医者じゃないから正確に答えられるかわからないぜ」
「私には記憶喪失を引き起こす風土病があるとしか思えないのです」
メロドラマに何を見出すのかは視聴者の自由ではある。クロードが部下の教育について問うかのように、緑の瞳でローレンツを見つめると視線に気づいた彼は大きな手で白い顔を隠した。
「あっはっは!!そうだな、確かにテレビドラマだけ見てればそうなるか!」
「マリアンヌさん、この男もパルミラに戻れば記憶喪失になるのだ。なってもらわねば困る」
「おう、記憶喪失になる予定だぜ」
マリアンヌはクロードとローレンツのやりとりを目を丸くして見ている。そんなマリアンヌを見たヒルダもこめかみの辺りを押さえているので、フォドラの基準で見ても特異な発想なのだろう。
「パルミラに戻れたらフォドラで見聞きしたことは全て警察や軍に伝えなきゃならない。そんなのローレンツを困らせるだけだから記憶喪失になるのさ」
「自由意志でそんなことが?!」
三人がかりでマリアンヌの誤解を解くのに三十分程かかった。市場へ行く、と言うヒルダとマリアンヌを門の外まで見送ったローレンツはテーブルに肘をついて思い出し笑いをしている。首飾りの向こうの人々は意志のない人形のように革命政府の命令に従って生きている、とパルミラに亡命した白フォドラ人の指導者たちは言う。だがクロードに言わせれば彼らは個性の塊だ。強い自我を持っているのに体制に従わざるを得ないところにフォドラの人々の悲劇がある。
ローレンツは皿を洗うようにクロードに命じ、壁に貼ってある時刻表と時計を何度も見比べた。パルミラ国鉄はもう旅客向けに紙の時刻表を配布していない。
「君を帰すため手続きをせねばならないのでガルグ=マクに行く。日帰りの予定だ」
クロードも脳内で地図を広げてみたが国境からガルグ=マクはかなり遠い。あと少しで昼食時だ。スメタンニクはまだ半分残っているので昼はそれを食べるとして夕食はどうすれば良いのだろう。
「その間どうすればいい?」
「この兵舎村で遠出をすればすぐに周り中にばれる。村人からすればこの家は無人なんだ。だから庭にも出るな。コンロも慣れていないようだから使うな。電車に乗る前に市場で黒パンと缶詰を買ってきてやるから昼と夜はトルトの残りと缶詰を食べろ」
そう言ってローレンツは家を後にした。玄関の外から鍵の回る音が聞こえる。周りに対して無人ということになっているので施錠せざるを得ないのだ。ローレンツはクロードが一人きりの間は缶詰を食べろと言う。確かに冷たい缶詰の方が安心して食べられるはずだった。
買い物袋を手にしたローレンツは軍服姿で市場に行った。帰宅してからもう一度着替えるのが面倒だからだ。兵舎村の市場は前線に近いだけあって内陸の他の田舎より随分と優遇されている。市場で蜂蜜を買ってからチーズを見繕っていると、ローレンツたちと入れ替わりで立哨についている兵士の奥方から声をかけられた。休暇初日にローレンツが食いっぱぐれないように差し入れをしてくれるありがたい奥方たちのひとりで、彼女の作るヴァレーニエは果物の形が完璧に残っている。
「あらグロスタール中尉!痩せたんじゃありませんか?」
「お久しぶりです。立哨の後はどうしても痩せてしまいますね」
「私ども中尉のお身体が心配で!休暇中だけでもきちんと食べてくださいね」
ローレンツは引っ越し初日に村の広場で保存食作りをしていた奥方たちにマダム、と呼びかけた。そもそも初対面のご婦人にそれ以外どんな言葉で呼びかければよいのかローレンツは未だに知らない。
とにかく人事異動でこの村に住むことになった、と軍帽を脱いで奥方たちに自己紹介をしたその瞬間、ローレンツの兵舎村での待遇が決まった。一般的に軍服姿の男性は軍帽で顔が隠れている瞬間が最も格好良いと言われている。
しかしローレンツの場合は軍帽を脱いだ後も彼女たちからの受けが良かった。紫の瞳と同じ真っ直ぐで艶やかな紫の髪、抜けるような白い肌と切れ長の目、それに高い鼻を今でも皆、うっとりと眺めている。彼女たちの生活にも癒しは必要だ。軍人の奥方なだけあって説明せずとも伸ばした真っ直ぐな紫の髪を後ろにまとめているローレンツが魔法職採用である、と直ぐに察した。
「今回も家の面倒と食料の差し入れ、本当にありがとうございました。そのうちお礼の茶会を開きますので皆さんでいらしてください」
「あら!いつ頃になるのかしら?」
ローレンツは顎に手を当てて数秒考え込んだ。奥方たちからその仕草をうっとりと見つめられているのだが意識していない。ガルグ=マクで用事を済ませてそれから数日かけて準備してと指折り数えていく。
「五日後のお昼頃はいかがでしょうか?お誘い合わせの上、皆さんで僕の家までいらしてください」
「楽しみだわ、スグリのヴァレーニエを持っていきますから楽しみにしていてね」
「はい、これからガルグ=マクへ行くのでそれに合う茶葉を見繕ってきます」
見事な刺繍が入ったスカーフを髪に巻いた奥方はローレンツの言葉を聞いて笑顔になった。確か二ヶ月前は同じ色の無地のスカーフを巻いていたのでローレンツが前線へ行っている間に仕上げたのだろう。茶会でそんな話をしていた覚えがある。
「泊まりなの?」
「いいえ、終電で戻る予定です。スカーフの刺繍、完成したのですね。お似合いですよ」
背が高く目立つせいか休暇中に兵舎村をうろついているとローレンツは必ず知り合いから話しかけられる。電車に乗るところもきっと目撃されるのでそれなら先に話しておいた方が良い。噂話は軍隊における一番の娯楽だ。ローレンツは隊長で地方司令部に行くのは不自然ではないが、やはり家に匿っている者のことを思うと慎重にせねばならない。できるだけ普段通りを心がける必要がある。
他にも細々とした買い物を済ませ、ガルグ=マクに向かう前に一度自宅に戻るとクロードが出迎えてくれた。
「おかえり」
「ただいま。そうは言っても荷物を置いたらすぐに出かけてしまうがね」
冷蔵庫に入れておくべきものをしまい、缶詰などが入ったままの袋をテーブルの上に置く。ニシンの缶詰はフォドラ製だがツナの缶詰はブリギット製で側面にはブリギット語の他にフォドラ語やパルミラ語でも缶詰の中身について表記されている。きっとクロードも安心して食べられるだろう。他のものは気にいるかどうかは分からないが。
クロードを置いて山を降り、ガルグ=マク行きの特急に乗ったローレンツは長い足をくんで大きなため息をついた。緊張がほぐれてくれないだろうかと白い指で眉間を揉んでみる。車内はそこそこ混んでいるが一等席の切符を買うことができたし今のところ電車は順調に北東へ進んでいた。この調子で行けば定刻通りに到着できることだろう。山を降りて山を登り、ガルグ=マクへ至る線路は祖国防衛戦争の際に敷かれた。アンヴァルは政治的な首都だがフォドラの真ん中にありどこへ行くのにも便利なガルグ=マクの方が経済的には発展しているし、軍の司令部もローレンツがヒルダと共に通った士官学校もガルグ=マクにある。
クロードにはああ言ったが部下たちの外出許可申請は地元で済ませた。ローレンツはガルグ=マクにある憲兵隊の司令部に行かねばならない。アンヴァルやフェルディア、それにガルグ=マクのような大都市に比べれば田舎は確かに運転は荒いものだ。建物と建物の距離が離れており飛ばさなくては時間通りに目的地に到着しないこと、それにヒルダが言っていた通り信号の数も都会と比べれば極端に少ない。軍隊に入って初めて車を運転する兵士も多いため田舎や基地の内外で交通事故が多発するのも分かる。
だが首飾り近辺での人身事故それも死亡事故の多さは異常だ。ローレンツは憲兵隊がきちんと死亡事故の調査をしているのか確認せねばならない。若くして命を落とした従弟に出来ることなどそれくらいしかないからだ。
クロードはローレンツを見送ると彼が置いていった買い物袋の中を漁った。ブリギット製のツナ缶は缶切りがなくても開けられるようになっているが、フォドラ製のニシンの缶詰は缶切りが必要だった。ビニール製の袋の中には他に大きな黒い紙袋が入っている。セロテープで留めてあるだけなので開けたら元に戻せないだろう。紙袋を開けて良いものか迷ったクロードはその紙袋を放置して部屋の中を漁ることにした。こちらの方がまだ原状回復がしやすい。二人で散々楽しんだ寝室の奥にはパルミラならウォークインクローゼットに該当する小さな部屋があった。そこには棚が置いてあり上から下まで手が届きやすいところには本が、上と下には何が入っているのか全く分からない箱がぎっしりと詰まっている。上の箱は取り落として中身が壊れたら言い訳が出来ないのでクロードはしゃがんで下の箱を引き摺り出した。
「重いな……」
思わず独り言が出てしまうくらい重い。幸いガムテープなどで封がされていなかったので中を見ることができる。そっと開けるとA4サイズの小冊子が沢山入っていた。綺麗に揃っている中で唯一サイズが少し大きく端が折れてしまった封筒が入っている。慎重に引っ張り出すと宛先などは書かれていなかったが下の方にロゴが見える。
ロゴはブリギット語だったがビジネスの場における国際共通語モルフィス語で、ブリギット王立音楽アカデミーとロゴの下に小さく書かれていた。そっと取り出して中の書類を見てみたがクロードはブリギット語が分からない。しかし幸いブリギット語はフォドラアルファベットが導入されている。八世紀前のアドラステア帝国によるフォドラ統一に協力したブリギットの女王、ペトラのおかげでクロードも音を拾うことが出来た。全く意味をなさない乱数のような文字列の中で唯一、クロードにも読める部分がある。
ローレンツ=ヘルマン=グロスタール、これが彼の本名なのだろう。先に本名を知っていたらベッドの上で何の紋章を持っているのか聞き出そうとはしなかった。フォドラにおいて紋章保持者は実に複雑な立場に置かれているのに彼の場合は名前を知れば聞かずとも分かってしまう。
クロードはそっとA4サイズの小冊子を何冊か取り出してみた。ブリギット語なので曲名は分からないし何の楽器なのかも分からなかったが中身は全て楽譜だった。紋章保持者は外国の音大に留学しても結局、軍人になるしかないらしい。彼が外国人慣れしているのは士官として敵国の言語を学んだからではない。実際に外国で暮らしていたことがあるからだ。母の両親が革命を嫌ってパルミラに亡命した気持ちがクロードにもよく分かる。多大な犠牲を払えと強要する側は相手のことを慮らない。
心をかき乱されたところで腹の虫が鳴ったクロードは箱の中身を元に戻し台所に戻った。ヒルダが持参したトルトは美味しかったがやはり食事をしたい。せっかくフォドラにいるのだから、という理由でニシンの缶詰を開けようとしたクロードだが缶切りがどこにあるのか分からなかった。台所の引き出しを開けてみたが見つからない。
もしかしたら、と思い買い物袋に入っていた黒い紙袋を開けると缶切りは入っていなかった。その代わりに新しい下着や靴下と寝巻き、歯ブラシや剃刀それにデニムのパンツとセーター、フード付きのパーカーが入っている。全てフォドラの友好国であるブリギット製で、数日後クロードが公海で救出される際に身につけていてもおかしくないデザインだ。身体に当ててみると袖も裾も丈がクロードに合っている。一体彼はどこまでお人好しなのだろうと真っ先に思ったが、クロードを外に連れ出す時に裾を折った軍からの支給品を着せていれば目立つからだろう。それでも彼の思いやりが嬉しい。
クロードはローレンツから言われた通り庭に出ず、コンロも使わなかった。缶切りは結局見つけられなかったのでツナ缶とパンとトルトの残りで昼も夜も食事を済ませている。だが、クロードは夜になってシャワーを使った。シャワーを使えば当然、浴室から外へ向けて湯気が出る。そしてこの家の住人であるローレンツが出かけていることは既に兵舎村の殆どの者が知っていた。
フォドラ連邦では各自治体に人民委員という役職に就く者がいる。人民委員は反革命的傾向の芽を摘むため、抜き打ちで各家庭を検閲し社会の秩序を保つのが務めだ。夜に実施されるものは宿泊検閲と呼ばれる。この兵舎村で人民委員を務めるのはスカーフに見事な刺繍を施した奥方とその部下で全員女性だが、昼間と違い制服に身を包んでいた。フォドラ連邦では革命時の人員不足に加えてアドラステア帝国の伝統も影響し、女性も男性と同じ職につくことが推奨されている。
帰還したグロスタール中尉と真っ先に話せて上機嫌な彼女は無人の筈の中尉の自宅から湯気が出てくるのを目撃し、警棒を握りしめた。中尉はガルグ=マクまで出かけているのだからこの時間に入浴しているはずがない。部下たちの表情も緊張で固くなる。おそらく孤児か浮浪者が留守宅に忍び込んだのだろうが、全力で抵抗されると危険なのだ。門の呼び鈴が壊れていることはもう知っているので直接玄関まで行き扉を激しく叩く。
「出てきなさい!」
風呂上がりに寝巻きを着るはずだったクロードは激しいノックの音を聞きながらローレンツが昼間置いていってくれた洋服に袖を通した。誤魔化しが効かずに逮捕されるなら寝巻き姿よりこちらの方がずっといい。
ローレンツがガルグ=マクにある憲兵隊の司令部での虚しい時間を終え、都会でなければ出来ない買い物を済ませ夜遅くに兵舎村に戻ると蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。しかも騒ぎの中心はどうやらローレンツの自宅らしい。門の前でクロードが人民委員から詰問されているが余裕を失わずいなしている。彼がローレンツに気づいてウインクしてきたので意図を察したローレンツは道端に荷物を下ろした。内心で舌打ちをしながら人だかりをかき分けて駆け寄りクロードに抱きつく。そして彼の頬に手を当て、唇に長い長いキスをした。昨晩それ以上のことをやったのだからもうどうでもいいのかもしれない。
「クロード!いつフォドラに戻ってきたのだ?こちらに来るなら知らせてくれれば良かったのに」
「ごめんな、こんな騒ぎになるなんて。ローレンツのことびっくりさせたかったんだよ」
慌ててクロードに抱きついたので軍帽が転げ落ち、後ろでひとまとめにされた艶やかな紫の髪が夜の冷えた空気にさらされる。褐色の手がローレンツの後頭部に回され髪を結んでいたゴムは取られてしまった。
「ああ、やっぱり下ろしてる方が格好いいな。みんなもそう思うだろう?」
クロードから頭の向きを固定され髪も下ろされてしまったので、ローレンツには村人たちがどんな顔をしているのか分からない。しかし耳は言葉を拾い続ける。確かに結ばない方が格好いい、とか結んだ方がキリッとしていて素敵だ、とか中尉に鍵を渡すような恋人がいたなんて、とか中尉ならそういう恋人がいて当たり前だ、と言った類なのでどうやらクロードの企みは成功したようだ。後日、人民委員に騒ぎを起こしたことを詫びる品を渡すべきだろう。不埒な褐色の手が軍服の上を這い回る。村人たちの前で尻を鷲掴みされそうになったのでクロードの耳元に口を寄せ白い手で軽く叩いた。これ以上は刺激的すぎる。
「続きは人民委員に詫びてからだ」
ローレンツは真っ直ぐな髪を耳にかけ足下に転がっていた軍帽を被り、クロードの頭を掴むと人民委員に深く深く頭を下げさせた。明日からは詮索が激しくなるだろう。噂話は軍隊の最大の娯楽だからだ。荷物を回収し村人たちが解散するまで眉を下げ、申し訳なさそうに謝っていたローレンツだが玄関の扉を締めるとその表情を一変させた。先ほどとは別の理由で顔が赤くなっている。
「他人の前でなんてことをさせるのだ!!」
軍服のジャケットを脱ぎながらローレンツは小声でクロードを叱りつけた。悪かったと思っているのかクロードがジャケットを受け取り、皺を伸ばして椅子の背にかける。
「すぐに察してくれてありがとな!あと大声で怒鳴られるかと思った……」
「あんな騒ぎを起こした後に怒鳴り声なんか聞かれてみろ!不審に思われるだろう!」
監視社会に育ったローレンツが言うことにクロードは異議を唱えられない。監視社会の下で生きる、ということがどういうことなのか全く知らないからだ。隣人たちは彼の言う通り、きっとこの家に面した窓を気にしている。少しでも不審な音が聞こえたら窓を開けるはずだ。
「とはいえまさか今日宿泊検閲があるとは思わなかった。僕の見込み違いを詫びさせてほしい」
クロードは黙って頷きローレンツの謝罪を受け入れた。ローレンツはテーブルの上で買ってきたものを広げている。どうやら都会で茶葉の缶や細々とした日用雑貨や医薬品を買ってきたらしい。あるものが目についたクロードはそのまま背後からローレンツに抱きついて深緑色の軍用セーターの中に右手を忍ばせた。無骨な軍用品に包まれた身体の温かさを知る者が他にいないといい。
「するべき音がしないのも不審に思われるんじゃないか?」
左手をテーブルの上に伸ばしワセリンの入った瓶をつかむ。ローレンツがクロードと同衾するまで指先の手入れ以外の用途を知らなかったものだ。
「これ買い足したんだな」
「……ッ!……君がほとんど使ってしまったから!僕は任務の都合上、指先の手入れには気を使わないといけないんだ!」
魔法職採用のあるある、だがクロードはそれだけではない、と既に知っている。ローレンツが指先の手入れに拘るのは、この閉鎖的なフォドラ連邦から外国の音大へ留学できるほど熱心に楽器を弾いていたからだ。音楽に関するものが目に付かないよう隠されていたので、何の楽器なのかクロードには分からないが。
「でもたくさん使った方が痛くないだろう?」
耳元に語りかけながら肌着越しに胸を触ると刺激に反応した部分が固くなっていく。指の腹でさすると息が乱れクロードの腕の中の身体は小さく痙攣した。姿勢を保つのが辛いのかそっと寄りかかってくる。
「シャワーの後にさせてくれ……」
その晩、この家の浴室から何度か湯気が出ていた。しかし彼がずっと秘密にしていた恋人と夜を共に過ごしている、と兵舎村の者たちは皆知っていたので目撃はされていない。畳む
#クロロレ #完売本 #現パロ #また会えようが、会えまいが
ヒルダがローレンツ宅に持参した箱は方針が決まるまで小さな台所に放置されていた。しかし今はヒルダの提案で袋小路から脱出できる見通しがついたので、この家の主人であるローレンツが中身に包丁を入れている。ココアスポンジとプレーンなスポンジの間に、ヨーグルトから作ったサワークリームであるスメタナを挟んだスメタンニクと言うケーキだ。フォドラ連邦の者なら老若男女好んで食べる。
「ああ、これは美味しそうなゼブラだ。召し上がれ」
「チョコレートは詰所でも食べる機会がありましたがトルトは本当に久しぶりです」
「本当にね!私トルトはスメタンニクが一番好きだから帰ってきてすぐ焼いてお土産にもしちゃった」
ローレンツが切り分けたスメタンニクを乗せた皿をマリアンヌが花の咲くような笑顔で受け取る。彼らがこの二ヶ月間、紅茶を飲みながらフォークで柔らかなケーキを食べられるような状態でなかったことは軍の事情に疎いクロードにも想像がついた。スメタンニクは茶色いスポンジと白いスポンジが層になっているので、その断面からゼブラとも呼ばれる。
どちらの呼び方もクロードは知っていた。フォークで切り分けて口に運ぶと懐かしい味がする。クロードは母が作ったトルトを食べられた頃は父親と一緒に住んでいない、と言う理由で周囲から色々言われた。本家に引き取られてからは母親が白フォドラ人である、と言う理由で父の正妻や異母兄弟たちから疎まれた。どちらも親たちの都合でしかない。だが周囲は幼いクロードに責任や結果をなすりつけた。
「パルミラだとトルトはケーキって言うんでしょ?私、実は外国のテレビドラマ大好きでソフトいっぱい持ってるから、聞くだけならパルミラ語が結構分かるの」
ローレンツとマリアンヌが舌鼓を打っている間に声をひそめてヒルダがクロードに話しかけてきた。彼女が見ているのはおそらく正規のソフトからデータを抜き出し、勝手にフォドラ語の字幕をつけてブランクメディアに焼いた違法コピー商品だろう。国交がないのでパルミラのテレビ局や制作会社はフォドラに販路を持っていない。どんなドラマが好きなのか問うてみるとやはりメロドラマが多かった。
「それ十年くらい前のやつだぞ。最後まで見られたのか?」
「ううん、だから私記憶を取り戻したヒロインがどうなったのか知らないの。後で教えてくれる?」
スメタンニクを食べ終えたマリアンヌが小さく手を挙げた。
「パルミラの風土病についてお伺いしたいのですが……」
「う、俺は医者じゃないから正確に答えられるかわからないぜ」
「私には記憶喪失を引き起こす風土病があるとしか思えないのです」
メロドラマに何を見出すのかは視聴者の自由ではある。クロードが部下の教育について問うかのように、緑の瞳でローレンツを見つめると視線に気づいた彼は大きな手で白い顔を隠した。
「あっはっは!!そうだな、確かにテレビドラマだけ見てればそうなるか!」
「マリアンヌさん、この男もパルミラに戻れば記憶喪失になるのだ。なってもらわねば困る」
「おう、記憶喪失になる予定だぜ」
マリアンヌはクロードとローレンツのやりとりを目を丸くして見ている。そんなマリアンヌを見たヒルダもこめかみの辺りを押さえているので、フォドラの基準で見ても特異な発想なのだろう。
「パルミラに戻れたらフォドラで見聞きしたことは全て警察や軍に伝えなきゃならない。そんなのローレンツを困らせるだけだから記憶喪失になるのさ」
「自由意志でそんなことが?!」
三人がかりでマリアンヌの誤解を解くのに三十分程かかった。市場へ行く、と言うヒルダとマリアンヌを門の外まで見送ったローレンツはテーブルに肘をついて思い出し笑いをしている。首飾りの向こうの人々は意志のない人形のように革命政府の命令に従って生きている、とパルミラに亡命した白フォドラ人の指導者たちは言う。だがクロードに言わせれば彼らは個性の塊だ。強い自我を持っているのに体制に従わざるを得ないところにフォドラの人々の悲劇がある。
ローレンツは皿を洗うようにクロードに命じ、壁に貼ってある時刻表と時計を何度も見比べた。パルミラ国鉄はもう旅客向けに紙の時刻表を配布していない。
「君を帰すため手続きをせねばならないのでガルグ=マクに行く。日帰りの予定だ」
クロードも脳内で地図を広げてみたが国境からガルグ=マクはかなり遠い。あと少しで昼食時だ。スメタンニクはまだ半分残っているので昼はそれを食べるとして夕食はどうすれば良いのだろう。
「その間どうすればいい?」
「この兵舎村で遠出をすればすぐに周り中にばれる。村人からすればこの家は無人なんだ。だから庭にも出るな。コンロも慣れていないようだから使うな。電車に乗る前に市場で黒パンと缶詰を買ってきてやるから昼と夜はトルトの残りと缶詰を食べろ」
そう言ってローレンツは家を後にした。玄関の外から鍵の回る音が聞こえる。周りに対して無人ということになっているので施錠せざるを得ないのだ。ローレンツはクロードが一人きりの間は缶詰を食べろと言う。確かに冷たい缶詰の方が安心して食べられるはずだった。
買い物袋を手にしたローレンツは軍服姿で市場に行った。帰宅してからもう一度着替えるのが面倒だからだ。兵舎村の市場は前線に近いだけあって内陸の他の田舎より随分と優遇されている。市場で蜂蜜を買ってからチーズを見繕っていると、ローレンツたちと入れ替わりで立哨についている兵士の奥方から声をかけられた。休暇初日にローレンツが食いっぱぐれないように差し入れをしてくれるありがたい奥方たちのひとりで、彼女の作るヴァレーニエは果物の形が完璧に残っている。
「あらグロスタール中尉!痩せたんじゃありませんか?」
「お久しぶりです。立哨の後はどうしても痩せてしまいますね」
「私ども中尉のお身体が心配で!休暇中だけでもきちんと食べてくださいね」
ローレンツは引っ越し初日に村の広場で保存食作りをしていた奥方たちにマダム、と呼びかけた。そもそも初対面のご婦人にそれ以外どんな言葉で呼びかければよいのかローレンツは未だに知らない。
とにかく人事異動でこの村に住むことになった、と軍帽を脱いで奥方たちに自己紹介をしたその瞬間、ローレンツの兵舎村での待遇が決まった。一般的に軍服姿の男性は軍帽で顔が隠れている瞬間が最も格好良いと言われている。
しかしローレンツの場合は軍帽を脱いだ後も彼女たちからの受けが良かった。紫の瞳と同じ真っ直ぐで艶やかな紫の髪、抜けるような白い肌と切れ長の目、それに高い鼻を今でも皆、うっとりと眺めている。彼女たちの生活にも癒しは必要だ。軍人の奥方なだけあって説明せずとも伸ばした真っ直ぐな紫の髪を後ろにまとめているローレンツが魔法職採用である、と直ぐに察した。
「今回も家の面倒と食料の差し入れ、本当にありがとうございました。そのうちお礼の茶会を開きますので皆さんでいらしてください」
「あら!いつ頃になるのかしら?」
ローレンツは顎に手を当てて数秒考え込んだ。奥方たちからその仕草をうっとりと見つめられているのだが意識していない。ガルグ=マクで用事を済ませてそれから数日かけて準備してと指折り数えていく。
「五日後のお昼頃はいかがでしょうか?お誘い合わせの上、皆さんで僕の家までいらしてください」
「楽しみだわ、スグリのヴァレーニエを持っていきますから楽しみにしていてね」
「はい、これからガルグ=マクへ行くのでそれに合う茶葉を見繕ってきます」
見事な刺繍が入ったスカーフを髪に巻いた奥方はローレンツの言葉を聞いて笑顔になった。確か二ヶ月前は同じ色の無地のスカーフを巻いていたのでローレンツが前線へ行っている間に仕上げたのだろう。茶会でそんな話をしていた覚えがある。
「泊まりなの?」
「いいえ、終電で戻る予定です。スカーフの刺繍、完成したのですね。お似合いですよ」
背が高く目立つせいか休暇中に兵舎村をうろついているとローレンツは必ず知り合いから話しかけられる。電車に乗るところもきっと目撃されるのでそれなら先に話しておいた方が良い。噂話は軍隊における一番の娯楽だ。ローレンツは隊長で地方司令部に行くのは不自然ではないが、やはり家に匿っている者のことを思うと慎重にせねばならない。できるだけ普段通りを心がける必要がある。
他にも細々とした買い物を済ませ、ガルグ=マクに向かう前に一度自宅に戻るとクロードが出迎えてくれた。
「おかえり」
「ただいま。そうは言っても荷物を置いたらすぐに出かけてしまうがね」
冷蔵庫に入れておくべきものをしまい、缶詰などが入ったままの袋をテーブルの上に置く。ニシンの缶詰はフォドラ製だがツナの缶詰はブリギット製で側面にはブリギット語の他にフォドラ語やパルミラ語でも缶詰の中身について表記されている。きっとクロードも安心して食べられるだろう。他のものは気にいるかどうかは分からないが。
クロードを置いて山を降り、ガルグ=マク行きの特急に乗ったローレンツは長い足をくんで大きなため息をついた。緊張がほぐれてくれないだろうかと白い指で眉間を揉んでみる。車内はそこそこ混んでいるが一等席の切符を買うことができたし今のところ電車は順調に北東へ進んでいた。この調子で行けば定刻通りに到着できることだろう。山を降りて山を登り、ガルグ=マクへ至る線路は祖国防衛戦争の際に敷かれた。アンヴァルは政治的な首都だがフォドラの真ん中にありどこへ行くのにも便利なガルグ=マクの方が経済的には発展しているし、軍の司令部もローレンツがヒルダと共に通った士官学校もガルグ=マクにある。
クロードにはああ言ったが部下たちの外出許可申請は地元で済ませた。ローレンツはガルグ=マクにある憲兵隊の司令部に行かねばならない。アンヴァルやフェルディア、それにガルグ=マクのような大都市に比べれば田舎は確かに運転は荒いものだ。建物と建物の距離が離れており飛ばさなくては時間通りに目的地に到着しないこと、それにヒルダが言っていた通り信号の数も都会と比べれば極端に少ない。軍隊に入って初めて車を運転する兵士も多いため田舎や基地の内外で交通事故が多発するのも分かる。
だが首飾り近辺での人身事故それも死亡事故の多さは異常だ。ローレンツは憲兵隊がきちんと死亡事故の調査をしているのか確認せねばならない。若くして命を落とした従弟に出来ることなどそれくらいしかないからだ。
クロードはローレンツを見送ると彼が置いていった買い物袋の中を漁った。ブリギット製のツナ缶は缶切りがなくても開けられるようになっているが、フォドラ製のニシンの缶詰は缶切りが必要だった。ビニール製の袋の中には他に大きな黒い紙袋が入っている。セロテープで留めてあるだけなので開けたら元に戻せないだろう。紙袋を開けて良いものか迷ったクロードはその紙袋を放置して部屋の中を漁ることにした。こちらの方がまだ原状回復がしやすい。二人で散々楽しんだ寝室の奥にはパルミラならウォークインクローゼットに該当する小さな部屋があった。そこには棚が置いてあり上から下まで手が届きやすいところには本が、上と下には何が入っているのか全く分からない箱がぎっしりと詰まっている。上の箱は取り落として中身が壊れたら言い訳が出来ないのでクロードはしゃがんで下の箱を引き摺り出した。
「重いな……」
思わず独り言が出てしまうくらい重い。幸いガムテープなどで封がされていなかったので中を見ることができる。そっと開けるとA4サイズの小冊子が沢山入っていた。綺麗に揃っている中で唯一サイズが少し大きく端が折れてしまった封筒が入っている。慎重に引っ張り出すと宛先などは書かれていなかったが下の方にロゴが見える。
ロゴはブリギット語だったがビジネスの場における国際共通語モルフィス語で、ブリギット王立音楽アカデミーとロゴの下に小さく書かれていた。そっと取り出して中の書類を見てみたがクロードはブリギット語が分からない。しかし幸いブリギット語はフォドラアルファベットが導入されている。八世紀前のアドラステア帝国によるフォドラ統一に協力したブリギットの女王、ペトラのおかげでクロードも音を拾うことが出来た。全く意味をなさない乱数のような文字列の中で唯一、クロードにも読める部分がある。
ローレンツ=ヘルマン=グロスタール、これが彼の本名なのだろう。先に本名を知っていたらベッドの上で何の紋章を持っているのか聞き出そうとはしなかった。フォドラにおいて紋章保持者は実に複雑な立場に置かれているのに彼の場合は名前を知れば聞かずとも分かってしまう。
クロードはそっとA4サイズの小冊子を何冊か取り出してみた。ブリギット語なので曲名は分からないし何の楽器なのかも分からなかったが中身は全て楽譜だった。紋章保持者は外国の音大に留学しても結局、軍人になるしかないらしい。彼が外国人慣れしているのは士官として敵国の言語を学んだからではない。実際に外国で暮らしていたことがあるからだ。母の両親が革命を嫌ってパルミラに亡命した気持ちがクロードにもよく分かる。多大な犠牲を払えと強要する側は相手のことを慮らない。
心をかき乱されたところで腹の虫が鳴ったクロードは箱の中身を元に戻し台所に戻った。ヒルダが持参したトルトは美味しかったがやはり食事をしたい。せっかくフォドラにいるのだから、という理由でニシンの缶詰を開けようとしたクロードだが缶切りがどこにあるのか分からなかった。台所の引き出しを開けてみたが見つからない。
もしかしたら、と思い買い物袋に入っていた黒い紙袋を開けると缶切りは入っていなかった。その代わりに新しい下着や靴下と寝巻き、歯ブラシや剃刀それにデニムのパンツとセーター、フード付きのパーカーが入っている。全てフォドラの友好国であるブリギット製で、数日後クロードが公海で救出される際に身につけていてもおかしくないデザインだ。身体に当ててみると袖も裾も丈がクロードに合っている。一体彼はどこまでお人好しなのだろうと真っ先に思ったが、クロードを外に連れ出す時に裾を折った軍からの支給品を着せていれば目立つからだろう。それでも彼の思いやりが嬉しい。
クロードはローレンツから言われた通り庭に出ず、コンロも使わなかった。缶切りは結局見つけられなかったのでツナ缶とパンとトルトの残りで昼も夜も食事を済ませている。だが、クロードは夜になってシャワーを使った。シャワーを使えば当然、浴室から外へ向けて湯気が出る。そしてこの家の住人であるローレンツが出かけていることは既に兵舎村の殆どの者が知っていた。
フォドラ連邦では各自治体に人民委員という役職に就く者がいる。人民委員は反革命的傾向の芽を摘むため、抜き打ちで各家庭を検閲し社会の秩序を保つのが務めだ。夜に実施されるものは宿泊検閲と呼ばれる。この兵舎村で人民委員を務めるのはスカーフに見事な刺繍を施した奥方とその部下で全員女性だが、昼間と違い制服に身を包んでいた。フォドラ連邦では革命時の人員不足に加えてアドラステア帝国の伝統も影響し、女性も男性と同じ職につくことが推奨されている。
帰還したグロスタール中尉と真っ先に話せて上機嫌な彼女は無人の筈の中尉の自宅から湯気が出てくるのを目撃し、警棒を握りしめた。中尉はガルグ=マクまで出かけているのだからこの時間に入浴しているはずがない。部下たちの表情も緊張で固くなる。おそらく孤児か浮浪者が留守宅に忍び込んだのだろうが、全力で抵抗されると危険なのだ。門の呼び鈴が壊れていることはもう知っているので直接玄関まで行き扉を激しく叩く。
「出てきなさい!」
風呂上がりに寝巻きを着るはずだったクロードは激しいノックの音を聞きながらローレンツが昼間置いていってくれた洋服に袖を通した。誤魔化しが効かずに逮捕されるなら寝巻き姿よりこちらの方がずっといい。
ローレンツがガルグ=マクにある憲兵隊の司令部での虚しい時間を終え、都会でなければ出来ない買い物を済ませ夜遅くに兵舎村に戻ると蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。しかも騒ぎの中心はどうやらローレンツの自宅らしい。門の前でクロードが人民委員から詰問されているが余裕を失わずいなしている。彼がローレンツに気づいてウインクしてきたので意図を察したローレンツは道端に荷物を下ろした。内心で舌打ちをしながら人だかりをかき分けて駆け寄りクロードに抱きつく。そして彼の頬に手を当て、唇に長い長いキスをした。昨晩それ以上のことをやったのだからもうどうでもいいのかもしれない。
「クロード!いつフォドラに戻ってきたのだ?こちらに来るなら知らせてくれれば良かったのに」
「ごめんな、こんな騒ぎになるなんて。ローレンツのことびっくりさせたかったんだよ」
慌ててクロードに抱きついたので軍帽が転げ落ち、後ろでひとまとめにされた艶やかな紫の髪が夜の冷えた空気にさらされる。褐色の手がローレンツの後頭部に回され髪を結んでいたゴムは取られてしまった。
「ああ、やっぱり下ろしてる方が格好いいな。みんなもそう思うだろう?」
クロードから頭の向きを固定され髪も下ろされてしまったので、ローレンツには村人たちがどんな顔をしているのか分からない。しかし耳は言葉を拾い続ける。確かに結ばない方が格好いい、とか結んだ方がキリッとしていて素敵だ、とか中尉に鍵を渡すような恋人がいたなんて、とか中尉ならそういう恋人がいて当たり前だ、と言った類なのでどうやらクロードの企みは成功したようだ。後日、人民委員に騒ぎを起こしたことを詫びる品を渡すべきだろう。不埒な褐色の手が軍服の上を這い回る。村人たちの前で尻を鷲掴みされそうになったのでクロードの耳元に口を寄せ白い手で軽く叩いた。これ以上は刺激的すぎる。
「続きは人民委員に詫びてからだ」
ローレンツは真っ直ぐな髪を耳にかけ足下に転がっていた軍帽を被り、クロードの頭を掴むと人民委員に深く深く頭を下げさせた。明日からは詮索が激しくなるだろう。噂話は軍隊の最大の娯楽だからだ。荷物を回収し村人たちが解散するまで眉を下げ、申し訳なさそうに謝っていたローレンツだが玄関の扉を締めるとその表情を一変させた。先ほどとは別の理由で顔が赤くなっている。
「他人の前でなんてことをさせるのだ!!」
軍服のジャケットを脱ぎながらローレンツは小声でクロードを叱りつけた。悪かったと思っているのかクロードがジャケットを受け取り、皺を伸ばして椅子の背にかける。
「すぐに察してくれてありがとな!あと大声で怒鳴られるかと思った……」
「あんな騒ぎを起こした後に怒鳴り声なんか聞かれてみろ!不審に思われるだろう!」
監視社会に育ったローレンツが言うことにクロードは異議を唱えられない。監視社会の下で生きる、ということがどういうことなのか全く知らないからだ。隣人たちは彼の言う通り、きっとこの家に面した窓を気にしている。少しでも不審な音が聞こえたら窓を開けるはずだ。
「とはいえまさか今日宿泊検閲があるとは思わなかった。僕の見込み違いを詫びさせてほしい」
クロードは黙って頷きローレンツの謝罪を受け入れた。ローレンツはテーブルの上で買ってきたものを広げている。どうやら都会で茶葉の缶や細々とした日用雑貨や医薬品を買ってきたらしい。あるものが目についたクロードはそのまま背後からローレンツに抱きついて深緑色の軍用セーターの中に右手を忍ばせた。無骨な軍用品に包まれた身体の温かさを知る者が他にいないといい。
「するべき音がしないのも不審に思われるんじゃないか?」
左手をテーブルの上に伸ばしワセリンの入った瓶をつかむ。ローレンツがクロードと同衾するまで指先の手入れ以外の用途を知らなかったものだ。
「これ買い足したんだな」
「……ッ!……君がほとんど使ってしまったから!僕は任務の都合上、指先の手入れには気を使わないといけないんだ!」
魔法職採用のあるある、だがクロードはそれだけではない、と既に知っている。ローレンツが指先の手入れに拘るのは、この閉鎖的なフォドラ連邦から外国の音大へ留学できるほど熱心に楽器を弾いていたからだ。音楽に関するものが目に付かないよう隠されていたので、何の楽器なのかクロードには分からないが。
「でもたくさん使った方が痛くないだろう?」
耳元に語りかけながら肌着越しに胸を触ると刺激に反応した部分が固くなっていく。指の腹でさすると息が乱れクロードの腕の中の身体は小さく痙攣した。姿勢を保つのが辛いのかそっと寄りかかってくる。
「シャワーの後にさせてくれ……」
その晩、この家の浴室から何度か湯気が出ていた。しかし彼がずっと秘密にしていた恋人と夜を共に過ごしている、と兵舎村の者たちは皆知っていたので目撃はされていない。畳む
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