「また会えようが、会えまいが」4.検閲 #クロロレ #完売本 #現パロ #また会えようが、会えまいが 続きを読む ヒルダがローレンツ宅に持参した箱は方針が決まるまで小さな台所に放置されていた。しかし今はヒルダの提案で袋小路から脱出できる見通しがついたので、この家の主人であるローレンツが中身に包丁を入れている。ココアスポンジとプレーンなスポンジの間に、ヨーグルトから作ったサワークリームであるスメタナを挟んだスメタンニクと言うケーキだ。フォドラ連邦の者なら老若男女好んで食べる。 「ああ、これは美味しそうなゼブラだ。召し上がれ」 「チョコレートは詰所でも食べる機会がありましたがトルトは本当に久しぶりです」 「本当にね!私トルトはスメタンニクが一番好きだから帰ってきてすぐ焼いてお土産にもしちゃった」 ローレンツが切り分けたスメタンニクを乗せた皿をマリアンヌが花の咲くような笑顔で受け取る。彼らがこの二ヶ月間、紅茶を飲みながらフォークで柔らかなケーキを食べられるような状態でなかったことは軍の事情に疎いクロードにも想像がついた。スメタンニクは茶色いスポンジと白いスポンジが層になっているので、その断面からゼブラとも呼ばれる。 どちらの呼び方もクロードは知っていた。フォークで切り分けて口に運ぶと懐かしい味がする。クロードは母が作ったトルトを食べられた頃は父親と一緒に住んでいない、と言う理由で周囲から色々言われた。本家に引き取られてからは母親が白フォドラ人である、と言う理由で父の正妻や異母兄弟たちから疎まれた。どちらも親たちの都合でしかない。だが周囲は幼いクロードに責任や結果をなすりつけた。 「パルミラだとトルトはケーキって言うんでしょ?私、実は外国のテレビドラマ大好きでソフトいっぱい持ってるから、聞くだけならパルミラ語が結構分かるの」 ローレンツとマリアンヌが舌鼓を打っている間に声をひそめてヒルダがクロードに話しかけてきた。彼女が見ているのはおそらく正規のソフトからデータを抜き出し、勝手にフォドラ語の字幕をつけてブランクメディアに焼いた違法コピー商品だろう。国交がないのでパルミラのテレビ局や制作会社はフォドラに販路を持っていない。どんなドラマが好きなのか問うてみるとやはりメロドラマが多かった。 「それ十年くらい前のやつだぞ。最後まで見られたのか?」 「ううん、だから私記憶を取り戻したヒロインがどうなったのか知らないの。後で教えてくれる?」 スメタンニクを食べ終えたマリアンヌが小さく手を挙げた。 「パルミラの風土病についてお伺いしたいのですが……」 「う、俺は医者じゃないから正確に答えられるかわからないぜ」 「私には記憶喪失を引き起こす風土病があるとしか思えないのです」 メロドラマに何を見出すのかは視聴者の自由ではある。クロードが部下の教育について問うかのように、緑の瞳でローレンツを見つめると視線に気づいた彼は大きな手で白い顔を隠した。 「あっはっは!!そうだな、確かにテレビドラマだけ見てればそうなるか!」 「マリアンヌさん、この男もパルミラに戻れば記憶喪失になるのだ。なってもらわねば困る」 「おう、記憶喪失になる予定だぜ」 マリアンヌはクロードとローレンツのやりとりを目を丸くして見ている。そんなマリアンヌを見たヒルダもこめかみの辺りを押さえているので、フォドラの基準で見ても特異な発想なのだろう。 「パルミラに戻れたらフォドラで見聞きしたことは全て警察や軍に伝えなきゃならない。そんなのローレンツを困らせるだけだから記憶喪失になるのさ」 「自由意志でそんなことが?!」 三人がかりでマリアンヌの誤解を解くのに三十分程かかった。市場へ行く、と言うヒルダとマリアンヌを門の外まで見送ったローレンツはテーブルに肘をついて思い出し笑いをしている。首飾りの向こうの人々は意志のない人形のように革命政府の命令に従って生きている、とパルミラに亡命した白フォドラ人の指導者たちは言う。だがクロードに言わせれば彼らは個性の塊だ。強い自我を持っているのに体制に従わざるを得ないところにフォドラの人々の悲劇がある。 ローレンツは皿を洗うようにクロードに命じ、壁に貼ってある時刻表と時計を何度も見比べた。パルミラ国鉄はもう旅客向けに紙の時刻表を配布していない。 「君を帰すため手続きをせねばならないのでガルグ=マクに行く。日帰りの予定だ」 クロードも脳内で地図を広げてみたが国境からガルグ=マクはかなり遠い。あと少しで昼食時だ。スメタンニクはまだ半分残っているので昼はそれを食べるとして夕食はどうすれば良いのだろう。 「その間どうすればいい?」 「この兵舎村で遠出をすればすぐに周り中にばれる。村人からすればこの家は無人なんだ。だから庭にも出るな。コンロも慣れていないようだから使うな。電車に乗る前に市場で黒パンと缶詰を買ってきてやるから昼と夜はトルトの残りと缶詰を食べろ」 そう言ってローレンツは家を後にした。玄関の外から鍵の回る音が聞こえる。周りに対して無人ということになっているので施錠せざるを得ないのだ。ローレンツはクロードが一人きりの間は缶詰を食べろと言う。確かに冷たい缶詰の方が安心して食べられるはずだった。 買い物袋を手にしたローレンツは軍服姿で市場に行った。帰宅してからもう一度着替えるのが面倒だからだ。兵舎村の市場は前線に近いだけあって内陸の他の田舎より随分と優遇されている。市場で蜂蜜を買ってからチーズを見繕っていると、ローレンツたちと入れ替わりで立哨についている兵士の奥方から声をかけられた。休暇初日にローレンツが食いっぱぐれないように差し入れをしてくれるありがたい奥方たちのひとりで、彼女の作るヴァレーニエは果物の形が完璧に残っている。 「あらグロスタール中尉!痩せたんじゃありませんか?」 「お久しぶりです。立哨の後はどうしても痩せてしまいますね」 「私ども中尉のお身体が心配で!休暇中だけでもきちんと食べてくださいね」 ローレンツは引っ越し初日に村の広場で保存食作りをしていた奥方たちにマダム、と呼びかけた。そもそも初対面のご婦人にそれ以外どんな言葉で呼びかければよいのかローレンツは未だに知らない。 とにかく人事異動でこの村に住むことになった、と軍帽を脱いで奥方たちに自己紹介をしたその瞬間、ローレンツの兵舎村での待遇が決まった。一般的に軍服姿の男性は軍帽で顔が隠れている瞬間が最も格好良いと言われている。 しかしローレンツの場合は軍帽を脱いだ後も彼女たちからの受けが良かった。紫の瞳と同じ真っ直ぐで艶やかな紫の髪、抜けるような白い肌と切れ長の目、それに高い鼻を今でも皆、うっとりと眺めている。彼女たちの生活にも癒しは必要だ。軍人の奥方なだけあって説明せずとも伸ばした真っ直ぐな紫の髪を後ろにまとめているローレンツが魔法職採用である、と直ぐに察した。 「今回も家の面倒と食料の差し入れ、本当にありがとうございました。そのうちお礼の茶会を開きますので皆さんでいらしてください」 「あら!いつ頃になるのかしら?」 ローレンツは顎に手を当てて数秒考え込んだ。奥方たちからその仕草をうっとりと見つめられているのだが意識していない。ガルグ=マクで用事を済ませてそれから数日かけて準備してと指折り数えていく。 「五日後のお昼頃はいかがでしょうか?お誘い合わせの上、皆さんで僕の家までいらしてください」 「楽しみだわ、スグリのヴァレーニエを持っていきますから楽しみにしていてね」 「はい、これからガルグ=マクへ行くのでそれに合う茶葉を見繕ってきます」 見事な刺繍が入ったスカーフを髪に巻いた奥方はローレンツの言葉を聞いて笑顔になった。確か二ヶ月前は同じ色の無地のスカーフを巻いていたのでローレンツが前線へ行っている間に仕上げたのだろう。茶会でそんな話をしていた覚えがある。 「泊まりなの?」 「いいえ、終電で戻る予定です。スカーフの刺繍、完成したのですね。お似合いですよ」 背が高く目立つせいか休暇中に兵舎村をうろついているとローレンツは必ず知り合いから話しかけられる。電車に乗るところもきっと目撃されるのでそれなら先に話しておいた方が良い。噂話は軍隊における一番の娯楽だ。ローレンツは隊長で地方司令部に行くのは不自然ではないが、やはり家に匿っている者のことを思うと慎重にせねばならない。できるだけ普段通りを心がける必要がある。 他にも細々とした買い物を済ませ、ガルグ=マクに向かう前に一度自宅に戻るとクロードが出迎えてくれた。 「おかえり」 「ただいま。そうは言っても荷物を置いたらすぐに出かけてしまうがね」 冷蔵庫に入れておくべきものをしまい、缶詰などが入ったままの袋をテーブルの上に置く。ニシンの缶詰はフォドラ製だがツナの缶詰はブリギット製で側面にはブリギット語の他にフォドラ語やパルミラ語でも缶詰の中身について表記されている。きっとクロードも安心して食べられるだろう。他のものは気にいるかどうかは分からないが。 クロードを置いて山を降り、ガルグ=マク行きの特急に乗ったローレンツは長い足をくんで大きなため息をついた。緊張がほぐれてくれないだろうかと白い指で眉間を揉んでみる。車内はそこそこ混んでいるが一等席の切符を買うことができたし今のところ電車は順調に北東へ進んでいた。この調子で行けば定刻通りに到着できることだろう。山を降りて山を登り、ガルグ=マクへ至る線路は祖国防衛戦争の際に敷かれた。アンヴァルは政治的な首都だがフォドラの真ん中にありどこへ行くのにも便利なガルグ=マクの方が経済的には発展しているし、軍の司令部もローレンツがヒルダと共に通った士官学校もガルグ=マクにある。 クロードにはああ言ったが部下たちの外出許可申請は地元で済ませた。ローレンツはガルグ=マクにある憲兵隊の司令部に行かねばならない。アンヴァルやフェルディア、それにガルグ=マクのような大都市に比べれば田舎は確かに運転は荒いものだ。建物と建物の距離が離れており飛ばさなくては時間通りに目的地に到着しないこと、それにヒルダが言っていた通り信号の数も都会と比べれば極端に少ない。軍隊に入って初めて車を運転する兵士も多いため田舎や基地の内外で交通事故が多発するのも分かる。 だが首飾り近辺での人身事故それも死亡事故の多さは異常だ。ローレンツは憲兵隊がきちんと死亡事故の調査をしているのか確認せねばならない。若くして命を落とした従弟に出来ることなどそれくらいしかないからだ。 クロードはローレンツを見送ると彼が置いていった買い物袋の中を漁った。ブリギット製のツナ缶は缶切りがなくても開けられるようになっているが、フォドラ製のニシンの缶詰は缶切りが必要だった。ビニール製の袋の中には他に大きな黒い紙袋が入っている。セロテープで留めてあるだけなので開けたら元に戻せないだろう。紙袋を開けて良いものか迷ったクロードはその紙袋を放置して部屋の中を漁ることにした。こちらの方がまだ原状回復がしやすい。二人で散々楽しんだ寝室の奥にはパルミラならウォークインクローゼットに該当する小さな部屋があった。そこには棚が置いてあり上から下まで手が届きやすいところには本が、上と下には何が入っているのか全く分からない箱がぎっしりと詰まっている。上の箱は取り落として中身が壊れたら言い訳が出来ないのでクロードはしゃがんで下の箱を引き摺り出した。 「重いな……」 思わず独り言が出てしまうくらい重い。幸いガムテープなどで封がされていなかったので中を見ることができる。そっと開けるとA4サイズの小冊子が沢山入っていた。綺麗に揃っている中で唯一サイズが少し大きく端が折れてしまった封筒が入っている。慎重に引っ張り出すと宛先などは書かれていなかったが下の方にロゴが見える。 ロゴはブリギット語だったがビジネスの場における国際共通語モルフィス語で、ブリギット王立音楽アカデミーとロゴの下に小さく書かれていた。そっと取り出して中の書類を見てみたがクロードはブリギット語が分からない。しかし幸いブリギット語はフォドラアルファベットが導入されている。八世紀前のアドラステア帝国によるフォドラ統一に協力したブリギットの女王、ペトラのおかげでクロードも音を拾うことが出来た。全く意味をなさない乱数のような文字列の中で唯一、クロードにも読める部分がある。 ローレンツ=ヘルマン=グロスタール、これが彼の本名なのだろう。先に本名を知っていたらベッドの上で何の紋章を持っているのか聞き出そうとはしなかった。フォドラにおいて紋章保持者は実に複雑な立場に置かれているのに彼の場合は名前を知れば聞かずとも分かってしまう。 クロードはそっとA4サイズの小冊子を何冊か取り出してみた。ブリギット語なので曲名は分からないし何の楽器なのかも分からなかったが中身は全て楽譜だった。紋章保持者は外国の音大に留学しても結局、軍人になるしかないらしい。彼が外国人慣れしているのは士官として敵国の言語を学んだからではない。実際に外国で暮らしていたことがあるからだ。母の両親が革命を嫌ってパルミラに亡命した気持ちがクロードにもよく分かる。多大な犠牲を払えと強要する側は相手のことを慮らない。 心をかき乱されたところで腹の虫が鳴ったクロードは箱の中身を元に戻し台所に戻った。ヒルダが持参したトルトは美味しかったがやはり食事をしたい。せっかくフォドラにいるのだから、という理由でニシンの缶詰を開けようとしたクロードだが缶切りがどこにあるのか分からなかった。台所の引き出しを開けてみたが見つからない。 もしかしたら、と思い買い物袋に入っていた黒い紙袋を開けると缶切りは入っていなかった。その代わりに新しい下着や靴下と寝巻き、歯ブラシや剃刀それにデニムのパンツとセーター、フード付きのパーカーが入っている。全てフォドラの友好国であるブリギット製で、数日後クロードが公海で救出される際に身につけていてもおかしくないデザインだ。身体に当ててみると袖も裾も丈がクロードに合っている。一体彼はどこまでお人好しなのだろうと真っ先に思ったが、クロードを外に連れ出す時に裾を折った軍からの支給品を着せていれば目立つからだろう。それでも彼の思いやりが嬉しい。 クロードはローレンツから言われた通り庭に出ず、コンロも使わなかった。缶切りは結局見つけられなかったのでツナ缶とパンとトルトの残りで昼も夜も食事を済ませている。だが、クロードは夜になってシャワーを使った。シャワーを使えば当然、浴室から外へ向けて湯気が出る。そしてこの家の住人であるローレンツが出かけていることは既に兵舎村の殆どの者が知っていた。 フォドラ連邦では各自治体に人民委員という役職に就く者がいる。人民委員は反革命的傾向の芽を摘むため、抜き打ちで各家庭を検閲し社会の秩序を保つのが務めだ。夜に実施されるものは宿泊検閲と呼ばれる。この兵舎村で人民委員を務めるのはスカーフに見事な刺繍を施した奥方とその部下で全員女性だが、昼間と違い制服に身を包んでいた。フォドラ連邦では革命時の人員不足に加えてアドラステア帝国の伝統も影響し、女性も男性と同じ職につくことが推奨されている。 帰還したグロスタール中尉と真っ先に話せて上機嫌な彼女は無人の筈の中尉の自宅から湯気が出てくるのを目撃し、警棒を握りしめた。中尉はガルグ=マクまで出かけているのだからこの時間に入浴しているはずがない。部下たちの表情も緊張で固くなる。おそらく孤児か浮浪者が留守宅に忍び込んだのだろうが、全力で抵抗されると危険なのだ。門の呼び鈴が壊れていることはもう知っているので直接玄関まで行き扉を激しく叩く。 「出てきなさい!」 風呂上がりに寝巻きを着るはずだったクロードは激しいノックの音を聞きながらローレンツが昼間置いていってくれた洋服に袖を通した。誤魔化しが効かずに逮捕されるなら寝巻き姿よりこちらの方がずっといい。 ローレンツがガルグ=マクにある憲兵隊の司令部での虚しい時間を終え、都会でなければ出来ない買い物を済ませ夜遅くに兵舎村に戻ると蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。しかも騒ぎの中心はどうやらローレンツの自宅らしい。門の前でクロードが人民委員から詰問されているが余裕を失わずいなしている。彼がローレンツに気づいてウインクしてきたので意図を察したローレンツは道端に荷物を下ろした。内心で舌打ちをしながら人だかりをかき分けて駆け寄りクロードに抱きつく。そして彼の頬に手を当て、唇に長い長いキスをした。昨晩それ以上のことをやったのだからもうどうでもいいのかもしれない。 「クロード!いつフォドラに戻ってきたのだ?こちらに来るなら知らせてくれれば良かったのに」 「ごめんな、こんな騒ぎになるなんて。ローレンツのことびっくりさせたかったんだよ」 慌ててクロードに抱きついたので軍帽が転げ落ち、後ろでひとまとめにされた艶やかな紫の髪が夜の冷えた空気にさらされる。褐色の手がローレンツの後頭部に回され髪を結んでいたゴムは取られてしまった。 「ああ、やっぱり下ろしてる方が格好いいな。みんなもそう思うだろう?」 クロードから頭の向きを固定され髪も下ろされてしまったので、ローレンツには村人たちがどんな顔をしているのか分からない。しかし耳は言葉を拾い続ける。確かに結ばない方が格好いい、とか結んだ方がキリッとしていて素敵だ、とか中尉に鍵を渡すような恋人がいたなんて、とか中尉ならそういう恋人がいて当たり前だ、と言った類なのでどうやらクロードの企みは成功したようだ。後日、人民委員に騒ぎを起こしたことを詫びる品を渡すべきだろう。不埒な褐色の手が軍服の上を這い回る。村人たちの前で尻を鷲掴みされそうになったのでクロードの耳元に口を寄せ白い手で軽く叩いた。これ以上は刺激的すぎる。 「続きは人民委員に詫びてからだ」 ローレンツは真っ直ぐな髪を耳にかけ足下に転がっていた軍帽を被り、クロードの頭を掴むと人民委員に深く深く頭を下げさせた。明日からは詮索が激しくなるだろう。噂話は軍隊の最大の娯楽だからだ。荷物を回収し村人たちが解散するまで眉を下げ、申し訳なさそうに謝っていたローレンツだが玄関の扉を締めるとその表情を一変させた。先ほどとは別の理由で顔が赤くなっている。 「他人の前でなんてことをさせるのだ!!」 軍服のジャケットを脱ぎながらローレンツは小声でクロードを叱りつけた。悪かったと思っているのかクロードがジャケットを受け取り、皺を伸ばして椅子の背にかける。 「すぐに察してくれてありがとな!あと大声で怒鳴られるかと思った……」 「あんな騒ぎを起こした後に怒鳴り声なんか聞かれてみろ!不審に思われるだろう!」 監視社会に育ったローレンツが言うことにクロードは異議を唱えられない。監視社会の下で生きる、ということがどういうことなのか全く知らないからだ。隣人たちは彼の言う通り、きっとこの家に面した窓を気にしている。少しでも不審な音が聞こえたら窓を開けるはずだ。 「とはいえまさか今日宿泊検閲があるとは思わなかった。僕の見込み違いを詫びさせてほしい」 クロードは黙って頷きローレンツの謝罪を受け入れた。ローレンツはテーブルの上で買ってきたものを広げている。どうやら都会で茶葉の缶や細々とした日用雑貨や医薬品を買ってきたらしい。あるものが目についたクロードはそのまま背後からローレンツに抱きついて深緑色の軍用セーターの中に右手を忍ばせた。無骨な軍用品に包まれた身体の温かさを知る者が他にいないといい。 「するべき音がしないのも不審に思われるんじゃないか?」 左手をテーブルの上に伸ばしワセリンの入った瓶をつかむ。ローレンツがクロードと同衾するまで指先の手入れ以外の用途を知らなかったものだ。 「これ買い足したんだな」 「……ッ!……君がほとんど使ってしまったから!僕は任務の都合上、指先の手入れには気を使わないといけないんだ!」 魔法職採用のあるある、だがクロードはそれだけではない、と既に知っている。ローレンツが指先の手入れに拘るのは、この閉鎖的なフォドラ連邦から外国の音大へ留学できるほど熱心に楽器を弾いていたからだ。音楽に関するものが目に付かないよう隠されていたので、何の楽器なのかクロードには分からないが。 「でもたくさん使った方が痛くないだろう?」 耳元に語りかけながら肌着越しに胸を触ると刺激に反応した部分が固くなっていく。指の腹でさすると息が乱れクロードの腕の中の身体は小さく痙攣した。姿勢を保つのが辛いのかそっと寄りかかってくる。 「シャワーの後にさせてくれ……」 その晩、この家の浴室から何度か湯気が出ていた。しかし彼がずっと秘密にしていた恋人と夜を共に過ごしている、と兵舎村の者たちは皆知っていたので目撃はされていない。畳む 小説,BL 2024/11/17(Sun)
#クロロレ #完売本 #現パロ #また会えようが、会えまいが
ヒルダがローレンツ宅に持参した箱は方針が決まるまで小さな台所に放置されていた。しかし今はヒルダの提案で袋小路から脱出できる見通しがついたので、この家の主人であるローレンツが中身に包丁を入れている。ココアスポンジとプレーンなスポンジの間に、ヨーグルトから作ったサワークリームであるスメタナを挟んだスメタンニクと言うケーキだ。フォドラ連邦の者なら老若男女好んで食べる。
「ああ、これは美味しそうなゼブラだ。召し上がれ」
「チョコレートは詰所でも食べる機会がありましたがトルトは本当に久しぶりです」
「本当にね!私トルトはスメタンニクが一番好きだから帰ってきてすぐ焼いてお土産にもしちゃった」
ローレンツが切り分けたスメタンニクを乗せた皿をマリアンヌが花の咲くような笑顔で受け取る。彼らがこの二ヶ月間、紅茶を飲みながらフォークで柔らかなケーキを食べられるような状態でなかったことは軍の事情に疎いクロードにも想像がついた。スメタンニクは茶色いスポンジと白いスポンジが層になっているので、その断面からゼブラとも呼ばれる。
どちらの呼び方もクロードは知っていた。フォークで切り分けて口に運ぶと懐かしい味がする。クロードは母が作ったトルトを食べられた頃は父親と一緒に住んでいない、と言う理由で周囲から色々言われた。本家に引き取られてからは母親が白フォドラ人である、と言う理由で父の正妻や異母兄弟たちから疎まれた。どちらも親たちの都合でしかない。だが周囲は幼いクロードに責任や結果をなすりつけた。
「パルミラだとトルトはケーキって言うんでしょ?私、実は外国のテレビドラマ大好きでソフトいっぱい持ってるから、聞くだけならパルミラ語が結構分かるの」
ローレンツとマリアンヌが舌鼓を打っている間に声をひそめてヒルダがクロードに話しかけてきた。彼女が見ているのはおそらく正規のソフトからデータを抜き出し、勝手にフォドラ語の字幕をつけてブランクメディアに焼いた違法コピー商品だろう。国交がないのでパルミラのテレビ局や制作会社はフォドラに販路を持っていない。どんなドラマが好きなのか問うてみるとやはりメロドラマが多かった。
「それ十年くらい前のやつだぞ。最後まで見られたのか?」
「ううん、だから私記憶を取り戻したヒロインがどうなったのか知らないの。後で教えてくれる?」
スメタンニクを食べ終えたマリアンヌが小さく手を挙げた。
「パルミラの風土病についてお伺いしたいのですが……」
「う、俺は医者じゃないから正確に答えられるかわからないぜ」
「私には記憶喪失を引き起こす風土病があるとしか思えないのです」
メロドラマに何を見出すのかは視聴者の自由ではある。クロードが部下の教育について問うかのように、緑の瞳でローレンツを見つめると視線に気づいた彼は大きな手で白い顔を隠した。
「あっはっは!!そうだな、確かにテレビドラマだけ見てればそうなるか!」
「マリアンヌさん、この男もパルミラに戻れば記憶喪失になるのだ。なってもらわねば困る」
「おう、記憶喪失になる予定だぜ」
マリアンヌはクロードとローレンツのやりとりを目を丸くして見ている。そんなマリアンヌを見たヒルダもこめかみの辺りを押さえているので、フォドラの基準で見ても特異な発想なのだろう。
「パルミラに戻れたらフォドラで見聞きしたことは全て警察や軍に伝えなきゃならない。そんなのローレンツを困らせるだけだから記憶喪失になるのさ」
「自由意志でそんなことが?!」
三人がかりでマリアンヌの誤解を解くのに三十分程かかった。市場へ行く、と言うヒルダとマリアンヌを門の外まで見送ったローレンツはテーブルに肘をついて思い出し笑いをしている。首飾りの向こうの人々は意志のない人形のように革命政府の命令に従って生きている、とパルミラに亡命した白フォドラ人の指導者たちは言う。だがクロードに言わせれば彼らは個性の塊だ。強い自我を持っているのに体制に従わざるを得ないところにフォドラの人々の悲劇がある。
ローレンツは皿を洗うようにクロードに命じ、壁に貼ってある時刻表と時計を何度も見比べた。パルミラ国鉄はもう旅客向けに紙の時刻表を配布していない。
「君を帰すため手続きをせねばならないのでガルグ=マクに行く。日帰りの予定だ」
クロードも脳内で地図を広げてみたが国境からガルグ=マクはかなり遠い。あと少しで昼食時だ。スメタンニクはまだ半分残っているので昼はそれを食べるとして夕食はどうすれば良いのだろう。
「その間どうすればいい?」
「この兵舎村で遠出をすればすぐに周り中にばれる。村人からすればこの家は無人なんだ。だから庭にも出るな。コンロも慣れていないようだから使うな。電車に乗る前に市場で黒パンと缶詰を買ってきてやるから昼と夜はトルトの残りと缶詰を食べろ」
そう言ってローレンツは家を後にした。玄関の外から鍵の回る音が聞こえる。周りに対して無人ということになっているので施錠せざるを得ないのだ。ローレンツはクロードが一人きりの間は缶詰を食べろと言う。確かに冷たい缶詰の方が安心して食べられるはずだった。
買い物袋を手にしたローレンツは軍服姿で市場に行った。帰宅してからもう一度着替えるのが面倒だからだ。兵舎村の市場は前線に近いだけあって内陸の他の田舎より随分と優遇されている。市場で蜂蜜を買ってからチーズを見繕っていると、ローレンツたちと入れ替わりで立哨についている兵士の奥方から声をかけられた。休暇初日にローレンツが食いっぱぐれないように差し入れをしてくれるありがたい奥方たちのひとりで、彼女の作るヴァレーニエは果物の形が完璧に残っている。
「あらグロスタール中尉!痩せたんじゃありませんか?」
「お久しぶりです。立哨の後はどうしても痩せてしまいますね」
「私ども中尉のお身体が心配で!休暇中だけでもきちんと食べてくださいね」
ローレンツは引っ越し初日に村の広場で保存食作りをしていた奥方たちにマダム、と呼びかけた。そもそも初対面のご婦人にそれ以外どんな言葉で呼びかければよいのかローレンツは未だに知らない。
とにかく人事異動でこの村に住むことになった、と軍帽を脱いで奥方たちに自己紹介をしたその瞬間、ローレンツの兵舎村での待遇が決まった。一般的に軍服姿の男性は軍帽で顔が隠れている瞬間が最も格好良いと言われている。
しかしローレンツの場合は軍帽を脱いだ後も彼女たちからの受けが良かった。紫の瞳と同じ真っ直ぐで艶やかな紫の髪、抜けるような白い肌と切れ長の目、それに高い鼻を今でも皆、うっとりと眺めている。彼女たちの生活にも癒しは必要だ。軍人の奥方なだけあって説明せずとも伸ばした真っ直ぐな紫の髪を後ろにまとめているローレンツが魔法職採用である、と直ぐに察した。
「今回も家の面倒と食料の差し入れ、本当にありがとうございました。そのうちお礼の茶会を開きますので皆さんでいらしてください」
「あら!いつ頃になるのかしら?」
ローレンツは顎に手を当てて数秒考え込んだ。奥方たちからその仕草をうっとりと見つめられているのだが意識していない。ガルグ=マクで用事を済ませてそれから数日かけて準備してと指折り数えていく。
「五日後のお昼頃はいかがでしょうか?お誘い合わせの上、皆さんで僕の家までいらしてください」
「楽しみだわ、スグリのヴァレーニエを持っていきますから楽しみにしていてね」
「はい、これからガルグ=マクへ行くのでそれに合う茶葉を見繕ってきます」
見事な刺繍が入ったスカーフを髪に巻いた奥方はローレンツの言葉を聞いて笑顔になった。確か二ヶ月前は同じ色の無地のスカーフを巻いていたのでローレンツが前線へ行っている間に仕上げたのだろう。茶会でそんな話をしていた覚えがある。
「泊まりなの?」
「いいえ、終電で戻る予定です。スカーフの刺繍、完成したのですね。お似合いですよ」
背が高く目立つせいか休暇中に兵舎村をうろついているとローレンツは必ず知り合いから話しかけられる。電車に乗るところもきっと目撃されるのでそれなら先に話しておいた方が良い。噂話は軍隊における一番の娯楽だ。ローレンツは隊長で地方司令部に行くのは不自然ではないが、やはり家に匿っている者のことを思うと慎重にせねばならない。できるだけ普段通りを心がける必要がある。
他にも細々とした買い物を済ませ、ガルグ=マクに向かう前に一度自宅に戻るとクロードが出迎えてくれた。
「おかえり」
「ただいま。そうは言っても荷物を置いたらすぐに出かけてしまうがね」
冷蔵庫に入れておくべきものをしまい、缶詰などが入ったままの袋をテーブルの上に置く。ニシンの缶詰はフォドラ製だがツナの缶詰はブリギット製で側面にはブリギット語の他にフォドラ語やパルミラ語でも缶詰の中身について表記されている。きっとクロードも安心して食べられるだろう。他のものは気にいるかどうかは分からないが。
クロードを置いて山を降り、ガルグ=マク行きの特急に乗ったローレンツは長い足をくんで大きなため息をついた。緊張がほぐれてくれないだろうかと白い指で眉間を揉んでみる。車内はそこそこ混んでいるが一等席の切符を買うことができたし今のところ電車は順調に北東へ進んでいた。この調子で行けば定刻通りに到着できることだろう。山を降りて山を登り、ガルグ=マクへ至る線路は祖国防衛戦争の際に敷かれた。アンヴァルは政治的な首都だがフォドラの真ん中にありどこへ行くのにも便利なガルグ=マクの方が経済的には発展しているし、軍の司令部もローレンツがヒルダと共に通った士官学校もガルグ=マクにある。
クロードにはああ言ったが部下たちの外出許可申請は地元で済ませた。ローレンツはガルグ=マクにある憲兵隊の司令部に行かねばならない。アンヴァルやフェルディア、それにガルグ=マクのような大都市に比べれば田舎は確かに運転は荒いものだ。建物と建物の距離が離れており飛ばさなくては時間通りに目的地に到着しないこと、それにヒルダが言っていた通り信号の数も都会と比べれば極端に少ない。軍隊に入って初めて車を運転する兵士も多いため田舎や基地の内外で交通事故が多発するのも分かる。
だが首飾り近辺での人身事故それも死亡事故の多さは異常だ。ローレンツは憲兵隊がきちんと死亡事故の調査をしているのか確認せねばならない。若くして命を落とした従弟に出来ることなどそれくらいしかないからだ。
クロードはローレンツを見送ると彼が置いていった買い物袋の中を漁った。ブリギット製のツナ缶は缶切りがなくても開けられるようになっているが、フォドラ製のニシンの缶詰は缶切りが必要だった。ビニール製の袋の中には他に大きな黒い紙袋が入っている。セロテープで留めてあるだけなので開けたら元に戻せないだろう。紙袋を開けて良いものか迷ったクロードはその紙袋を放置して部屋の中を漁ることにした。こちらの方がまだ原状回復がしやすい。二人で散々楽しんだ寝室の奥にはパルミラならウォークインクローゼットに該当する小さな部屋があった。そこには棚が置いてあり上から下まで手が届きやすいところには本が、上と下には何が入っているのか全く分からない箱がぎっしりと詰まっている。上の箱は取り落として中身が壊れたら言い訳が出来ないのでクロードはしゃがんで下の箱を引き摺り出した。
「重いな……」
思わず独り言が出てしまうくらい重い。幸いガムテープなどで封がされていなかったので中を見ることができる。そっと開けるとA4サイズの小冊子が沢山入っていた。綺麗に揃っている中で唯一サイズが少し大きく端が折れてしまった封筒が入っている。慎重に引っ張り出すと宛先などは書かれていなかったが下の方にロゴが見える。
ロゴはブリギット語だったがビジネスの場における国際共通語モルフィス語で、ブリギット王立音楽アカデミーとロゴの下に小さく書かれていた。そっと取り出して中の書類を見てみたがクロードはブリギット語が分からない。しかし幸いブリギット語はフォドラアルファベットが導入されている。八世紀前のアドラステア帝国によるフォドラ統一に協力したブリギットの女王、ペトラのおかげでクロードも音を拾うことが出来た。全く意味をなさない乱数のような文字列の中で唯一、クロードにも読める部分がある。
ローレンツ=ヘルマン=グロスタール、これが彼の本名なのだろう。先に本名を知っていたらベッドの上で何の紋章を持っているのか聞き出そうとはしなかった。フォドラにおいて紋章保持者は実に複雑な立場に置かれているのに彼の場合は名前を知れば聞かずとも分かってしまう。
クロードはそっとA4サイズの小冊子を何冊か取り出してみた。ブリギット語なので曲名は分からないし何の楽器なのかも分からなかったが中身は全て楽譜だった。紋章保持者は外国の音大に留学しても結局、軍人になるしかないらしい。彼が外国人慣れしているのは士官として敵国の言語を学んだからではない。実際に外国で暮らしていたことがあるからだ。母の両親が革命を嫌ってパルミラに亡命した気持ちがクロードにもよく分かる。多大な犠牲を払えと強要する側は相手のことを慮らない。
心をかき乱されたところで腹の虫が鳴ったクロードは箱の中身を元に戻し台所に戻った。ヒルダが持参したトルトは美味しかったがやはり食事をしたい。せっかくフォドラにいるのだから、という理由でニシンの缶詰を開けようとしたクロードだが缶切りがどこにあるのか分からなかった。台所の引き出しを開けてみたが見つからない。
もしかしたら、と思い買い物袋に入っていた黒い紙袋を開けると缶切りは入っていなかった。その代わりに新しい下着や靴下と寝巻き、歯ブラシや剃刀それにデニムのパンツとセーター、フード付きのパーカーが入っている。全てフォドラの友好国であるブリギット製で、数日後クロードが公海で救出される際に身につけていてもおかしくないデザインだ。身体に当ててみると袖も裾も丈がクロードに合っている。一体彼はどこまでお人好しなのだろうと真っ先に思ったが、クロードを外に連れ出す時に裾を折った軍からの支給品を着せていれば目立つからだろう。それでも彼の思いやりが嬉しい。
クロードはローレンツから言われた通り庭に出ず、コンロも使わなかった。缶切りは結局見つけられなかったのでツナ缶とパンとトルトの残りで昼も夜も食事を済ませている。だが、クロードは夜になってシャワーを使った。シャワーを使えば当然、浴室から外へ向けて湯気が出る。そしてこの家の住人であるローレンツが出かけていることは既に兵舎村の殆どの者が知っていた。
フォドラ連邦では各自治体に人民委員という役職に就く者がいる。人民委員は反革命的傾向の芽を摘むため、抜き打ちで各家庭を検閲し社会の秩序を保つのが務めだ。夜に実施されるものは宿泊検閲と呼ばれる。この兵舎村で人民委員を務めるのはスカーフに見事な刺繍を施した奥方とその部下で全員女性だが、昼間と違い制服に身を包んでいた。フォドラ連邦では革命時の人員不足に加えてアドラステア帝国の伝統も影響し、女性も男性と同じ職につくことが推奨されている。
帰還したグロスタール中尉と真っ先に話せて上機嫌な彼女は無人の筈の中尉の自宅から湯気が出てくるのを目撃し、警棒を握りしめた。中尉はガルグ=マクまで出かけているのだからこの時間に入浴しているはずがない。部下たちの表情も緊張で固くなる。おそらく孤児か浮浪者が留守宅に忍び込んだのだろうが、全力で抵抗されると危険なのだ。門の呼び鈴が壊れていることはもう知っているので直接玄関まで行き扉を激しく叩く。
「出てきなさい!」
風呂上がりに寝巻きを着るはずだったクロードは激しいノックの音を聞きながらローレンツが昼間置いていってくれた洋服に袖を通した。誤魔化しが効かずに逮捕されるなら寝巻き姿よりこちらの方がずっといい。
ローレンツがガルグ=マクにある憲兵隊の司令部での虚しい時間を終え、都会でなければ出来ない買い物を済ませ夜遅くに兵舎村に戻ると蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。しかも騒ぎの中心はどうやらローレンツの自宅らしい。門の前でクロードが人民委員から詰問されているが余裕を失わずいなしている。彼がローレンツに気づいてウインクしてきたので意図を察したローレンツは道端に荷物を下ろした。内心で舌打ちをしながら人だかりをかき分けて駆け寄りクロードに抱きつく。そして彼の頬に手を当て、唇に長い長いキスをした。昨晩それ以上のことをやったのだからもうどうでもいいのかもしれない。
「クロード!いつフォドラに戻ってきたのだ?こちらに来るなら知らせてくれれば良かったのに」
「ごめんな、こんな騒ぎになるなんて。ローレンツのことびっくりさせたかったんだよ」
慌ててクロードに抱きついたので軍帽が転げ落ち、後ろでひとまとめにされた艶やかな紫の髪が夜の冷えた空気にさらされる。褐色の手がローレンツの後頭部に回され髪を結んでいたゴムは取られてしまった。
「ああ、やっぱり下ろしてる方が格好いいな。みんなもそう思うだろう?」
クロードから頭の向きを固定され髪も下ろされてしまったので、ローレンツには村人たちがどんな顔をしているのか分からない。しかし耳は言葉を拾い続ける。確かに結ばない方が格好いい、とか結んだ方がキリッとしていて素敵だ、とか中尉に鍵を渡すような恋人がいたなんて、とか中尉ならそういう恋人がいて当たり前だ、と言った類なのでどうやらクロードの企みは成功したようだ。後日、人民委員に騒ぎを起こしたことを詫びる品を渡すべきだろう。不埒な褐色の手が軍服の上を這い回る。村人たちの前で尻を鷲掴みされそうになったのでクロードの耳元に口を寄せ白い手で軽く叩いた。これ以上は刺激的すぎる。
「続きは人民委員に詫びてからだ」
ローレンツは真っ直ぐな髪を耳にかけ足下に転がっていた軍帽を被り、クロードの頭を掴むと人民委員に深く深く頭を下げさせた。明日からは詮索が激しくなるだろう。噂話は軍隊の最大の娯楽だからだ。荷物を回収し村人たちが解散するまで眉を下げ、申し訳なさそうに謝っていたローレンツだが玄関の扉を締めるとその表情を一変させた。先ほどとは別の理由で顔が赤くなっている。
「他人の前でなんてことをさせるのだ!!」
軍服のジャケットを脱ぎながらローレンツは小声でクロードを叱りつけた。悪かったと思っているのかクロードがジャケットを受け取り、皺を伸ばして椅子の背にかける。
「すぐに察してくれてありがとな!あと大声で怒鳴られるかと思った……」
「あんな騒ぎを起こした後に怒鳴り声なんか聞かれてみろ!不審に思われるだろう!」
監視社会に育ったローレンツが言うことにクロードは異議を唱えられない。監視社会の下で生きる、ということがどういうことなのか全く知らないからだ。隣人たちは彼の言う通り、きっとこの家に面した窓を気にしている。少しでも不審な音が聞こえたら窓を開けるはずだ。
「とはいえまさか今日宿泊検閲があるとは思わなかった。僕の見込み違いを詫びさせてほしい」
クロードは黙って頷きローレンツの謝罪を受け入れた。ローレンツはテーブルの上で買ってきたものを広げている。どうやら都会で茶葉の缶や細々とした日用雑貨や医薬品を買ってきたらしい。あるものが目についたクロードはそのまま背後からローレンツに抱きついて深緑色の軍用セーターの中に右手を忍ばせた。無骨な軍用品に包まれた身体の温かさを知る者が他にいないといい。
「するべき音がしないのも不審に思われるんじゃないか?」
左手をテーブルの上に伸ばしワセリンの入った瓶をつかむ。ローレンツがクロードと同衾するまで指先の手入れ以外の用途を知らなかったものだ。
「これ買い足したんだな」
「……ッ!……君がほとんど使ってしまったから!僕は任務の都合上、指先の手入れには気を使わないといけないんだ!」
魔法職採用のあるある、だがクロードはそれだけではない、と既に知っている。ローレンツが指先の手入れに拘るのは、この閉鎖的なフォドラ連邦から外国の音大へ留学できるほど熱心に楽器を弾いていたからだ。音楽に関するものが目に付かないよう隠されていたので、何の楽器なのかクロードには分からないが。
「でもたくさん使った方が痛くないだろう?」
耳元に語りかけながら肌着越しに胸を触ると刺激に反応した部分が固くなっていく。指の腹でさすると息が乱れクロードの腕の中の身体は小さく痙攣した。姿勢を保つのが辛いのかそっと寄りかかってくる。
「シャワーの後にさせてくれ……」
その晩、この家の浴室から何度か湯気が出ていた。しかし彼がずっと秘密にしていた恋人と夜を共に過ごしている、と兵舎村の者たちは皆知っていたので目撃はされていない。畳む