「また会えようが、会えまいが」4.検閲
#クロロレ #完売本 #現パロ #また会えようが、会えまいが
ヒルダがローレンツ宅に持参した箱は方針が決まるまで小さな台所に放置されていた。しかし今はヒルダの提案で袋小路から脱出できる見通しがついたので、この家の主人であるローレンツが中身に包丁を入れている。ココアスポンジとプレーンなスポンジの間に、ヨーグルトから作ったサワークリームであるスメタナを挟んだスメタンニクと言うケーキだ。フォドラ連邦の者なら老若男女好んで食べる。
「ああ、これは美味しそうなゼブラだ。召し上がれ」
「チョコレートは詰所でも食べる機会がありましたがトルトは本当に久しぶりです」
「本当にね!私トルトはスメタンニクが一番好きだから帰ってきてすぐ焼いてお土産にもしちゃった」
ローレンツが切り分けたスメタンニクを乗せた皿をマリアンヌが花の咲くような笑顔で受け取る。彼らがこの二ヶ月間、紅茶を飲みながらフォークで柔らかなケーキを食べられるような状態でなかったことは軍の事情に疎いクロードにも想像がついた。スメタンニクは茶色いスポンジと白いスポンジが層になっているので、その断面からゼブラとも呼ばれる。
どちらの呼び方もクロードは知っていた。フォークで切り分けて口に運ぶと懐かしい味がする。クロードは母が作ったトルトを食べられた頃は父親と一緒に住んでいない、と言う理由で周囲から色々言われた。本家に引き取られてからは母親が白フォドラ人である、と言う理由で父の正妻や異母兄弟たちから疎まれた。どちらも親たちの都合でしかない。だが周囲は幼いクロードに責任や結果をなすりつけた。
「パルミラだとトルトはケーキって言うんでしょ?私、実は外国のテレビドラマ大好きでソフトいっぱい持ってるから、聞くだけならパルミラ語が結構分かるの」
ローレンツとマリアンヌが舌鼓を打っている間に声をひそめてヒルダがクロードに話しかけてきた。彼女が見ているのはおそらく正規のソフトからデータを抜き出し、勝手にフォドラ語の字幕をつけてブランクメディアに焼いた違法コピー商品だろう。国交がないのでパルミラのテレビ局や制作会社はフォドラに販路を持っていない。どんなドラマが好きなのか問うてみるとやはりメロドラマが多かった。
「それ十年くらい前のやつだぞ。最後まで見られたのか?」
「ううん、だから私記憶を取り戻したヒロインがどうなったのか知らないの。後で教えてくれる?」
スメタンニクを食べ終えたマリアンヌが小さく手を挙げた。
「パルミラの風土病についてお伺いしたいのですが……」
「う、俺は医者じゃないから正確に答えられるかわからないぜ」
「私には記憶喪失を引き起こす風土病があるとしか思えないのです」
メロドラマに何を見出すのかは視聴者の自由ではある。クロードが部下の教育について問うかのように、緑の瞳でローレンツを見つめると視線に気づいた彼は大きな手で白い顔を隠した。
「あっはっは!!そうだな、確かにテレビドラマだけ見てればそうなるか!」
「マリアンヌさん、この男もパルミラに戻れば記憶喪失になるのだ。なってもらわねば困る」
「おう、記憶喪失になる予定だぜ」
マリアンヌはクロードとローレンツのやりとりを目を丸くして見ている。そんなマリアンヌを見たヒルダもこめかみの辺りを押さえているので、フォドラの基準で見ても特異な発想なのだろう。
「パルミラに戻れたらフォドラで見聞きしたことは全て警察や軍に伝えなきゃならない。そんなのローレンツを困らせるだけだから記憶喪失になるのさ」
「自由意志でそんなことが?!」
三人がかりでマリアンヌの誤解を解くのに三十分程かかった。市場へ行く、と言うヒルダとマリアンヌを門の外まで見送ったローレンツはテーブルに肘をついて思い出し笑いをしている。首飾りの向こうの人々は意志のない人形のように革命政府の命令に従って生きている、とパルミラに亡命した白フォドラ人の指導者たちは言う。だがクロードに言わせれば彼らは個性の塊だ。強い自我を持っているのに体制に従わざるを得ないところにフォドラの人々の悲劇がある。
ローレンツは皿を洗うようにクロードに命じ、壁に貼ってある時刻表と時計を何度も見比べた。パルミラ国鉄はもう旅客向けに紙の時刻表を配布していない。
「君を帰すため手続きをせねばならないのでガルグ=マクに行く。日帰りの予定だ」
クロードも脳内で地図を広げてみたが国境からガルグ=マクはかなり遠い。あと少しで昼食時だ。スメタンニクはまだ半分残っているので昼はそれを食べるとして夕食はどうすれば良いのだろう。
「その間どうすればいい?」
「この兵舎村で遠出をすればすぐに周り中にばれる。村人からすればこの家は無人なんだ。だから庭にも出るな。コンロも慣れていないようだから使うな。電車に乗る前に市場で黒パンと缶詰を買ってきてやるから昼と夜はトルトの残りと缶詰を食べろ」
そう言ってローレンツは家を後にした。玄関の外から鍵の回る音が聞こえる。周りに対して無人ということになっているので施錠せざるを得ないのだ。ローレンツはクロードが一人きりの間は缶詰を食べろと言う。確かに冷たい缶詰の方が安心して食べられるはずだった。
買い物袋を手にしたローレンツは軍服姿で市場に行った。帰宅してからもう一度着替えるのが面倒だからだ。兵舎村の市場は前線に近いだけあって内陸の他の田舎より随分と優遇されている。市場で蜂蜜を買ってからチーズを見繕っていると、ローレンツたちと入れ替わりで立哨についている兵士の奥方から声をかけられた。休暇初日にローレンツが食いっぱぐれないように差し入れをしてくれるありがたい奥方たちのひとりで、彼女の作るヴァレーニエは果物の形が完璧に残っている。
「あらグロスタール中尉!痩せたんじゃありませんか?」
「お久しぶりです。立哨の後はどうしても痩せてしまいますね」
「私ども中尉のお身体が心配で!休暇中だけでもきちんと食べてくださいね」
ローレンツは引っ越し初日に村の広場で保存食作りをしていた奥方たちにマダム、と呼びかけた。そもそも初対面のご婦人にそれ以外どんな言葉で呼びかければよいのかローレンツは未だに知らない。
とにかく人事異動でこの村に住むことになった、と軍帽を脱いで奥方たちに自己紹介をしたその瞬間、ローレンツの兵舎村での待遇が決まった。一般的に軍服姿の男性は軍帽で顔が隠れている瞬間が最も格好良いと言われている。
しかしローレンツの場合は軍帽を脱いだ後も彼女たちからの受けが良かった。紫の瞳と同じ真っ直ぐで艶やかな紫の髪、抜けるような白い肌と切れ長の目、それに高い鼻を今でも皆、うっとりと眺めている。彼女たちの生活にも癒しは必要だ。軍人の奥方なだけあって説明せずとも伸ばした真っ直ぐな紫の髪を後ろにまとめているローレンツが魔法職採用である、と直ぐに察した。
「今回も家の面倒と食料の差し入れ、本当にありがとうございました。そのうちお礼の茶会を開きますので皆さんでいらしてください」
「あら!いつ頃になるのかしら?」
ローレンツは顎に手を当てて数秒考え込んだ。奥方たちからその仕草をうっとりと見つめられているのだが意識していない。ガルグ=マクで用事を済ませてそれから数日かけて準備してと指折り数えていく。
「五日後のお昼頃はいかがでしょうか?お誘い合わせの上、皆さんで僕の家までいらしてください」
「楽しみだわ、スグリのヴァレーニエを持っていきますから楽しみにしていてね」
「はい、これからガルグ=マクへ行くのでそれに合う茶葉を見繕ってきます」
見事な刺繍が入ったスカーフを髪に巻いた奥方はローレンツの言葉を聞いて笑顔になった。確か二ヶ月前は同じ色の無地のスカーフを巻いていたのでローレンツが前線へ行っている間に仕上げたのだろう。茶会でそんな話をしていた覚えがある。
「泊まりなの?」
「いいえ、終電で戻る予定です。スカーフの刺繍、完成したのですね。お似合いですよ」
背が高く目立つせいか休暇中に兵舎村をうろついているとローレンツは必ず知り合いから話しかけられる。電車に乗るところもきっと目撃されるのでそれなら先に話しておいた方が良い。噂話は軍隊における一番の娯楽だ。ローレンツは隊長で地方司令部に行くのは不自然ではないが、やはり家に匿っている者のことを思うと慎重にせねばならない。できるだけ普段通りを心がける必要がある。
他にも細々とした買い物を済ませ、ガルグ=マクに向かう前に一度自宅に戻るとクロードが出迎えてくれた。
「おかえり」
「ただいま。そうは言っても荷物を置いたらすぐに出かけてしまうがね」
冷蔵庫に入れておくべきものをしまい、缶詰などが入ったままの袋をテーブルの上に置く。ニシンの缶詰はフォドラ製だがツナの缶詰はブリギット製で側面にはブリギット語の他にフォドラ語やパルミラ語でも缶詰の中身について表記されている。きっとクロードも安心して食べられるだろう。他のものは気にいるかどうかは分からないが。
クロードを置いて山を降り、ガルグ=マク行きの特急に乗ったローレンツは長い足をくんで大きなため息をついた。緊張がほぐれてくれないだろうかと白い指で眉間を揉んでみる。車内はそこそこ混んでいるが一等席の切符を買うことができたし今のところ電車は順調に北東へ進んでいた。この調子で行けば定刻通りに到着できることだろう。山を降りて山を登り、ガルグ=マクへ至る線路は祖国防衛戦争の際に敷かれた。アンヴァルは政治的な首都だがフォドラの真ん中にありどこへ行くのにも便利なガルグ=マクの方が経済的には発展しているし、軍の司令部もローレンツがヒルダと共に通った士官学校もガルグ=マクにある。
クロードにはああ言ったが部下たちの外出許可申請は地元で済ませた。ローレンツはガルグ=マクにある憲兵隊の司令部に行かねばならない。アンヴァルやフェルディア、それにガルグ=マクのような大都市に比べれば田舎は確かに運転は荒いものだ。建物と建物の距離が離れており飛ばさなくては時間通りに目的地に到着しないこと、それにヒルダが言っていた通り信号の数も都会と比べれば極端に少ない。軍隊に入って初めて車を運転する兵士も多いため田舎や基地の内外で交通事故が多発するのも分かる。
だが首飾り近辺での人身事故それも死亡事故の多さは異常だ。ローレンツは憲兵隊がきちんと死亡事故の調査をしているのか確認せねばならない。若くして命を落とした従弟に出来ることなどそれくらいしかないからだ。
クロードはローレンツを見送ると彼が置いていった買い物袋の中を漁った。ブリギット製のツナ缶は缶切りがなくても開けられるようになっているが、フォドラ製のニシンの缶詰は缶切りが必要だった。ビニール製の袋の中には他に大きな黒い紙袋が入っている。セロテープで留めてあるだけなので開けたら元に戻せないだろう。紙袋を開けて良いものか迷ったクロードはその紙袋を放置して部屋の中を漁ることにした。こちらの方がまだ原状回復がしやすい。二人で散々楽しんだ寝室の奥にはパルミラならウォークインクローゼットに該当する小さな部屋があった。そこには棚が置いてあり上から下まで手が届きやすいところには本が、上と下には何が入っているのか全く分からない箱がぎっしりと詰まっている。上の箱は取り落として中身が壊れたら言い訳が出来ないのでクロードはしゃがんで下の箱を引き摺り出した。
「重いな……」
思わず独り言が出てしまうくらい重い。幸いガムテープなどで封がされていなかったので中を見ることができる。そっと開けるとA4サイズの小冊子が沢山入っていた。綺麗に揃っている中で唯一サイズが少し大きく端が折れてしまった封筒が入っている。慎重に引っ張り出すと宛先などは書かれていなかったが下の方にロゴが見える。
ロゴはブリギット語だったがビジネスの場における国際共通語モルフィス語で、ブリギット王立音楽アカデミーとロゴの下に小さく書かれていた。そっと取り出して中の書類を見てみたがクロードはブリギット語が分からない。しかし幸いブリギット語はフォドラアルファベットが導入されている。八世紀前のアドラステア帝国によるフォドラ統一に協力したブリギットの女王、ペトラのおかげでクロードも音を拾うことが出来た。全く意味をなさない乱数のような文字列の中で唯一、クロードにも読める部分がある。
ローレンツ=ヘルマン=グロスタール、これが彼の本名なのだろう。先に本名を知っていたらベッドの上で何の紋章を持っているのか聞き出そうとはしなかった。フォドラにおいて紋章保持者は実に複雑な立場に置かれているのに彼の場合は名前を知れば聞かずとも分かってしまう。
クロードはそっとA4サイズの小冊子を何冊か取り出してみた。ブリギット語なので曲名は分からないし何の楽器なのかも分からなかったが中身は全て楽譜だった。紋章保持者は外国の音大に留学しても結局、軍人になるしかないらしい。彼が外国人慣れしているのは士官として敵国の言語を学んだからではない。実際に外国で暮らしていたことがあるからだ。母の両親が革命を嫌ってパルミラに亡命した気持ちがクロードにもよく分かる。多大な犠牲を払えと強要する側は相手のことを慮らない。
心をかき乱されたところで腹の虫が鳴ったクロードは箱の中身を元に戻し台所に戻った。ヒルダが持参したトルトは美味しかったがやはり食事をしたい。せっかくフォドラにいるのだから、という理由でニシンの缶詰を開けようとしたクロードだが缶切りがどこにあるのか分からなかった。台所の引き出しを開けてみたが見つからない。
もしかしたら、と思い買い物袋に入っていた黒い紙袋を開けると缶切りは入っていなかった。その代わりに新しい下着や靴下と寝巻き、歯ブラシや剃刀それにデニムのパンツとセーター、フード付きのパーカーが入っている。全てフォドラの友好国であるブリギット製で、数日後クロードが公海で救出される際に身につけていてもおかしくないデザインだ。身体に当ててみると袖も裾も丈がクロードに合っている。一体彼はどこまでお人好しなのだろうと真っ先に思ったが、クロードを外に連れ出す時に裾を折った軍からの支給品を着せていれば目立つからだろう。それでも彼の思いやりが嬉しい。
クロードはローレンツから言われた通り庭に出ず、コンロも使わなかった。缶切りは結局見つけられなかったのでツナ缶とパンとトルトの残りで昼も夜も食事を済ませている。だが、クロードは夜になってシャワーを使った。シャワーを使えば当然、浴室から外へ向けて湯気が出る。そしてこの家の住人であるローレンツが出かけていることは既に兵舎村の殆どの者が知っていた。
フォドラ連邦では各自治体に人民委員という役職に就く者がいる。人民委員は反革命的傾向の芽を摘むため、抜き打ちで各家庭を検閲し社会の秩序を保つのが務めだ。夜に実施されるものは宿泊検閲と呼ばれる。この兵舎村で人民委員を務めるのはスカーフに見事な刺繍を施した奥方とその部下で全員女性だが、昼間と違い制服に身を包んでいた。フォドラ連邦では革命時の人員不足に加えてアドラステア帝国の伝統も影響し、女性も男性と同じ職につくことが推奨されている。
帰還したグロスタール中尉と真っ先に話せて上機嫌な彼女は無人の筈の中尉の自宅から湯気が出てくるのを目撃し、警棒を握りしめた。中尉はガルグ=マクまで出かけているのだからこの時間に入浴しているはずがない。部下たちの表情も緊張で固くなる。おそらく孤児か浮浪者が留守宅に忍び込んだのだろうが、全力で抵抗されると危険なのだ。門の呼び鈴が壊れていることはもう知っているので直接玄関まで行き扉を激しく叩く。
「出てきなさい!」
風呂上がりに寝巻きを着るはずだったクロードは激しいノックの音を聞きながらローレンツが昼間置いていってくれた洋服に袖を通した。誤魔化しが効かずに逮捕されるなら寝巻き姿よりこちらの方がずっといい。
ローレンツがガルグ=マクにある憲兵隊の司令部での虚しい時間を終え、都会でなければ出来ない買い物を済ませ夜遅くに兵舎村に戻ると蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。しかも騒ぎの中心はどうやらローレンツの自宅らしい。門の前でクロードが人民委員から詰問されているが余裕を失わずいなしている。彼がローレンツに気づいてウインクしてきたので意図を察したローレンツは道端に荷物を下ろした。内心で舌打ちをしながら人だかりをかき分けて駆け寄りクロードに抱きつく。そして彼の頬に手を当て、唇に長い長いキスをした。昨晩それ以上のことをやったのだからもうどうでもいいのかもしれない。
「クロード!いつフォドラに戻ってきたのだ?こちらに来るなら知らせてくれれば良かったのに」
「ごめんな、こんな騒ぎになるなんて。ローレンツのことびっくりさせたかったんだよ」
慌ててクロードに抱きついたので軍帽が転げ落ち、後ろでひとまとめにされた艶やかな紫の髪が夜の冷えた空気にさらされる。褐色の手がローレンツの後頭部に回され髪を結んでいたゴムは取られてしまった。
「ああ、やっぱり下ろしてる方が格好いいな。みんなもそう思うだろう?」
クロードから頭の向きを固定され髪も下ろされてしまったので、ローレンツには村人たちがどんな顔をしているのか分からない。しかし耳は言葉を拾い続ける。確かに結ばない方が格好いい、とか結んだ方がキリッとしていて素敵だ、とか中尉に鍵を渡すような恋人がいたなんて、とか中尉ならそういう恋人がいて当たり前だ、と言った類なのでどうやらクロードの企みは成功したようだ。後日、人民委員に騒ぎを起こしたことを詫びる品を渡すべきだろう。不埒な褐色の手が軍服の上を這い回る。村人たちの前で尻を鷲掴みされそうになったのでクロードの耳元に口を寄せ白い手で軽く叩いた。これ以上は刺激的すぎる。
「続きは人民委員に詫びてからだ」
ローレンツは真っ直ぐな髪を耳にかけ足下に転がっていた軍帽を被り、クロードの頭を掴むと人民委員に深く深く頭を下げさせた。明日からは詮索が激しくなるだろう。噂話は軍隊の最大の娯楽だからだ。荷物を回収し村人たちが解散するまで眉を下げ、申し訳なさそうに謝っていたローレンツだが玄関の扉を締めるとその表情を一変させた。先ほどとは別の理由で顔が赤くなっている。
「他人の前でなんてことをさせるのだ!!」
軍服のジャケットを脱ぎながらローレンツは小声でクロードを叱りつけた。悪かったと思っているのかクロードがジャケットを受け取り、皺を伸ばして椅子の背にかける。
「すぐに察してくれてありがとな!あと大声で怒鳴られるかと思った……」
「あんな騒ぎを起こした後に怒鳴り声なんか聞かれてみろ!不審に思われるだろう!」
監視社会に育ったローレンツが言うことにクロードは異議を唱えられない。監視社会の下で生きる、ということがどういうことなのか全く知らないからだ。隣人たちは彼の言う通り、きっとこの家に面した窓を気にしている。少しでも不審な音が聞こえたら窓を開けるはずだ。
「とはいえまさか今日宿泊検閲があるとは思わなかった。僕の見込み違いを詫びさせてほしい」
クロードは黙って頷きローレンツの謝罪を受け入れた。ローレンツはテーブルの上で買ってきたものを広げている。どうやら都会で茶葉の缶や細々とした日用雑貨や医薬品を買ってきたらしい。あるものが目についたクロードはそのまま背後からローレンツに抱きついて深緑色の軍用セーターの中に右手を忍ばせた。無骨な軍用品に包まれた身体の温かさを知る者が他にいないといい。
「するべき音がしないのも不審に思われるんじゃないか?」
左手をテーブルの上に伸ばしワセリンの入った瓶をつかむ。ローレンツがクロードと同衾するまで指先の手入れ以外の用途を知らなかったものだ。
「これ買い足したんだな」
「……ッ!……君がほとんど使ってしまったから!僕は任務の都合上、指先の手入れには気を使わないといけないんだ!」
魔法職採用のあるある、だがクロードはそれだけではない、と既に知っている。ローレンツが指先の手入れに拘るのは、この閉鎖的なフォドラ連邦から外国の音大へ留学できるほど熱心に楽器を弾いていたからだ。音楽に関するものが目に付かないよう隠されていたので、何の楽器なのかクロードには分からないが。
「でもたくさん使った方が痛くないだろう?」
耳元に語りかけながら肌着越しに胸を触ると刺激に反応した部分が固くなっていく。指の腹でさすると息が乱れクロードの腕の中の身体は小さく痙攣した。姿勢を保つのが辛いのかそっと寄りかかってくる。
「シャワーの後にさせてくれ……」
その晩、この家の浴室から何度か湯気が出ていた。しかし彼がずっと秘密にしていた恋人と夜を共に過ごしている、と兵舎村の者たちは皆知っていたので目撃はされていない。畳む
#クロロレ #完売本 #現パロ #また会えようが、会えまいが
ヒルダがローレンツ宅に持参した箱は方針が決まるまで小さな台所に放置されていた。しかし今はヒルダの提案で袋小路から脱出できる見通しがついたので、この家の主人であるローレンツが中身に包丁を入れている。ココアスポンジとプレーンなスポンジの間に、ヨーグルトから作ったサワークリームであるスメタナを挟んだスメタンニクと言うケーキだ。フォドラ連邦の者なら老若男女好んで食べる。
「ああ、これは美味しそうなゼブラだ。召し上がれ」
「チョコレートは詰所でも食べる機会がありましたがトルトは本当に久しぶりです」
「本当にね!私トルトはスメタンニクが一番好きだから帰ってきてすぐ焼いてお土産にもしちゃった」
ローレンツが切り分けたスメタンニクを乗せた皿をマリアンヌが花の咲くような笑顔で受け取る。彼らがこの二ヶ月間、紅茶を飲みながらフォークで柔らかなケーキを食べられるような状態でなかったことは軍の事情に疎いクロードにも想像がついた。スメタンニクは茶色いスポンジと白いスポンジが層になっているので、その断面からゼブラとも呼ばれる。
どちらの呼び方もクロードは知っていた。フォークで切り分けて口に運ぶと懐かしい味がする。クロードは母が作ったトルトを食べられた頃は父親と一緒に住んでいない、と言う理由で周囲から色々言われた。本家に引き取られてからは母親が白フォドラ人である、と言う理由で父の正妻や異母兄弟たちから疎まれた。どちらも親たちの都合でしかない。だが周囲は幼いクロードに責任や結果をなすりつけた。
「パルミラだとトルトはケーキって言うんでしょ?私、実は外国のテレビドラマ大好きでソフトいっぱい持ってるから、聞くだけならパルミラ語が結構分かるの」
ローレンツとマリアンヌが舌鼓を打っている間に声をひそめてヒルダがクロードに話しかけてきた。彼女が見ているのはおそらく正規のソフトからデータを抜き出し、勝手にフォドラ語の字幕をつけてブランクメディアに焼いた違法コピー商品だろう。国交がないのでパルミラのテレビ局や制作会社はフォドラに販路を持っていない。どんなドラマが好きなのか問うてみるとやはりメロドラマが多かった。
「それ十年くらい前のやつだぞ。最後まで見られたのか?」
「ううん、だから私記憶を取り戻したヒロインがどうなったのか知らないの。後で教えてくれる?」
スメタンニクを食べ終えたマリアンヌが小さく手を挙げた。
「パルミラの風土病についてお伺いしたいのですが……」
「う、俺は医者じゃないから正確に答えられるかわからないぜ」
「私には記憶喪失を引き起こす風土病があるとしか思えないのです」
メロドラマに何を見出すのかは視聴者の自由ではある。クロードが部下の教育について問うかのように、緑の瞳でローレンツを見つめると視線に気づいた彼は大きな手で白い顔を隠した。
「あっはっは!!そうだな、確かにテレビドラマだけ見てればそうなるか!」
「マリアンヌさん、この男もパルミラに戻れば記憶喪失になるのだ。なってもらわねば困る」
「おう、記憶喪失になる予定だぜ」
マリアンヌはクロードとローレンツのやりとりを目を丸くして見ている。そんなマリアンヌを見たヒルダもこめかみの辺りを押さえているので、フォドラの基準で見ても特異な発想なのだろう。
「パルミラに戻れたらフォドラで見聞きしたことは全て警察や軍に伝えなきゃならない。そんなのローレンツを困らせるだけだから記憶喪失になるのさ」
「自由意志でそんなことが?!」
三人がかりでマリアンヌの誤解を解くのに三十分程かかった。市場へ行く、と言うヒルダとマリアンヌを門の外まで見送ったローレンツはテーブルに肘をついて思い出し笑いをしている。首飾りの向こうの人々は意志のない人形のように革命政府の命令に従って生きている、とパルミラに亡命した白フォドラ人の指導者たちは言う。だがクロードに言わせれば彼らは個性の塊だ。強い自我を持っているのに体制に従わざるを得ないところにフォドラの人々の悲劇がある。
ローレンツは皿を洗うようにクロードに命じ、壁に貼ってある時刻表と時計を何度も見比べた。パルミラ国鉄はもう旅客向けに紙の時刻表を配布していない。
「君を帰すため手続きをせねばならないのでガルグ=マクに行く。日帰りの予定だ」
クロードも脳内で地図を広げてみたが国境からガルグ=マクはかなり遠い。あと少しで昼食時だ。スメタンニクはまだ半分残っているので昼はそれを食べるとして夕食はどうすれば良いのだろう。
「その間どうすればいい?」
「この兵舎村で遠出をすればすぐに周り中にばれる。村人からすればこの家は無人なんだ。だから庭にも出るな。コンロも慣れていないようだから使うな。電車に乗る前に市場で黒パンと缶詰を買ってきてやるから昼と夜はトルトの残りと缶詰を食べろ」
そう言ってローレンツは家を後にした。玄関の外から鍵の回る音が聞こえる。周りに対して無人ということになっているので施錠せざるを得ないのだ。ローレンツはクロードが一人きりの間は缶詰を食べろと言う。確かに冷たい缶詰の方が安心して食べられるはずだった。
買い物袋を手にしたローレンツは軍服姿で市場に行った。帰宅してからもう一度着替えるのが面倒だからだ。兵舎村の市場は前線に近いだけあって内陸の他の田舎より随分と優遇されている。市場で蜂蜜を買ってからチーズを見繕っていると、ローレンツたちと入れ替わりで立哨についている兵士の奥方から声をかけられた。休暇初日にローレンツが食いっぱぐれないように差し入れをしてくれるありがたい奥方たちのひとりで、彼女の作るヴァレーニエは果物の形が完璧に残っている。
「あらグロスタール中尉!痩せたんじゃありませんか?」
「お久しぶりです。立哨の後はどうしても痩せてしまいますね」
「私ども中尉のお身体が心配で!休暇中だけでもきちんと食べてくださいね」
ローレンツは引っ越し初日に村の広場で保存食作りをしていた奥方たちにマダム、と呼びかけた。そもそも初対面のご婦人にそれ以外どんな言葉で呼びかければよいのかローレンツは未だに知らない。
とにかく人事異動でこの村に住むことになった、と軍帽を脱いで奥方たちに自己紹介をしたその瞬間、ローレンツの兵舎村での待遇が決まった。一般的に軍服姿の男性は軍帽で顔が隠れている瞬間が最も格好良いと言われている。
しかしローレンツの場合は軍帽を脱いだ後も彼女たちからの受けが良かった。紫の瞳と同じ真っ直ぐで艶やかな紫の髪、抜けるような白い肌と切れ長の目、それに高い鼻を今でも皆、うっとりと眺めている。彼女たちの生活にも癒しは必要だ。軍人の奥方なだけあって説明せずとも伸ばした真っ直ぐな紫の髪を後ろにまとめているローレンツが魔法職採用である、と直ぐに察した。
「今回も家の面倒と食料の差し入れ、本当にありがとうございました。そのうちお礼の茶会を開きますので皆さんでいらしてください」
「あら!いつ頃になるのかしら?」
ローレンツは顎に手を当てて数秒考え込んだ。奥方たちからその仕草をうっとりと見つめられているのだが意識していない。ガルグ=マクで用事を済ませてそれから数日かけて準備してと指折り数えていく。
「五日後のお昼頃はいかがでしょうか?お誘い合わせの上、皆さんで僕の家までいらしてください」
「楽しみだわ、スグリのヴァレーニエを持っていきますから楽しみにしていてね」
「はい、これからガルグ=マクへ行くのでそれに合う茶葉を見繕ってきます」
見事な刺繍が入ったスカーフを髪に巻いた奥方はローレンツの言葉を聞いて笑顔になった。確か二ヶ月前は同じ色の無地のスカーフを巻いていたのでローレンツが前線へ行っている間に仕上げたのだろう。茶会でそんな話をしていた覚えがある。
「泊まりなの?」
「いいえ、終電で戻る予定です。スカーフの刺繍、完成したのですね。お似合いですよ」
背が高く目立つせいか休暇中に兵舎村をうろついているとローレンツは必ず知り合いから話しかけられる。電車に乗るところもきっと目撃されるのでそれなら先に話しておいた方が良い。噂話は軍隊における一番の娯楽だ。ローレンツは隊長で地方司令部に行くのは不自然ではないが、やはり家に匿っている者のことを思うと慎重にせねばならない。できるだけ普段通りを心がける必要がある。
他にも細々とした買い物を済ませ、ガルグ=マクに向かう前に一度自宅に戻るとクロードが出迎えてくれた。
「おかえり」
「ただいま。そうは言っても荷物を置いたらすぐに出かけてしまうがね」
冷蔵庫に入れておくべきものをしまい、缶詰などが入ったままの袋をテーブルの上に置く。ニシンの缶詰はフォドラ製だがツナの缶詰はブリギット製で側面にはブリギット語の他にフォドラ語やパルミラ語でも缶詰の中身について表記されている。きっとクロードも安心して食べられるだろう。他のものは気にいるかどうかは分からないが。
クロードを置いて山を降り、ガルグ=マク行きの特急に乗ったローレンツは長い足をくんで大きなため息をついた。緊張がほぐれてくれないだろうかと白い指で眉間を揉んでみる。車内はそこそこ混んでいるが一等席の切符を買うことができたし今のところ電車は順調に北東へ進んでいた。この調子で行けば定刻通りに到着できることだろう。山を降りて山を登り、ガルグ=マクへ至る線路は祖国防衛戦争の際に敷かれた。アンヴァルは政治的な首都だがフォドラの真ん中にありどこへ行くのにも便利なガルグ=マクの方が経済的には発展しているし、軍の司令部もローレンツがヒルダと共に通った士官学校もガルグ=マクにある。
クロードにはああ言ったが部下たちの外出許可申請は地元で済ませた。ローレンツはガルグ=マクにある憲兵隊の司令部に行かねばならない。アンヴァルやフェルディア、それにガルグ=マクのような大都市に比べれば田舎は確かに運転は荒いものだ。建物と建物の距離が離れており飛ばさなくては時間通りに目的地に到着しないこと、それにヒルダが言っていた通り信号の数も都会と比べれば極端に少ない。軍隊に入って初めて車を運転する兵士も多いため田舎や基地の内外で交通事故が多発するのも分かる。
だが首飾り近辺での人身事故それも死亡事故の多さは異常だ。ローレンツは憲兵隊がきちんと死亡事故の調査をしているのか確認せねばならない。若くして命を落とした従弟に出来ることなどそれくらいしかないからだ。
クロードはローレンツを見送ると彼が置いていった買い物袋の中を漁った。ブリギット製のツナ缶は缶切りがなくても開けられるようになっているが、フォドラ製のニシンの缶詰は缶切りが必要だった。ビニール製の袋の中には他に大きな黒い紙袋が入っている。セロテープで留めてあるだけなので開けたら元に戻せないだろう。紙袋を開けて良いものか迷ったクロードはその紙袋を放置して部屋の中を漁ることにした。こちらの方がまだ原状回復がしやすい。二人で散々楽しんだ寝室の奥にはパルミラならウォークインクローゼットに該当する小さな部屋があった。そこには棚が置いてあり上から下まで手が届きやすいところには本が、上と下には何が入っているのか全く分からない箱がぎっしりと詰まっている。上の箱は取り落として中身が壊れたら言い訳が出来ないのでクロードはしゃがんで下の箱を引き摺り出した。
「重いな……」
思わず独り言が出てしまうくらい重い。幸いガムテープなどで封がされていなかったので中を見ることができる。そっと開けるとA4サイズの小冊子が沢山入っていた。綺麗に揃っている中で唯一サイズが少し大きく端が折れてしまった封筒が入っている。慎重に引っ張り出すと宛先などは書かれていなかったが下の方にロゴが見える。
ロゴはブリギット語だったがビジネスの場における国際共通語モルフィス語で、ブリギット王立音楽アカデミーとロゴの下に小さく書かれていた。そっと取り出して中の書類を見てみたがクロードはブリギット語が分からない。しかし幸いブリギット語はフォドラアルファベットが導入されている。八世紀前のアドラステア帝国によるフォドラ統一に協力したブリギットの女王、ペトラのおかげでクロードも音を拾うことが出来た。全く意味をなさない乱数のような文字列の中で唯一、クロードにも読める部分がある。
ローレンツ=ヘルマン=グロスタール、これが彼の本名なのだろう。先に本名を知っていたらベッドの上で何の紋章を持っているのか聞き出そうとはしなかった。フォドラにおいて紋章保持者は実に複雑な立場に置かれているのに彼の場合は名前を知れば聞かずとも分かってしまう。
クロードはそっとA4サイズの小冊子を何冊か取り出してみた。ブリギット語なので曲名は分からないし何の楽器なのかも分からなかったが中身は全て楽譜だった。紋章保持者は外国の音大に留学しても結局、軍人になるしかないらしい。彼が外国人慣れしているのは士官として敵国の言語を学んだからではない。実際に外国で暮らしていたことがあるからだ。母の両親が革命を嫌ってパルミラに亡命した気持ちがクロードにもよく分かる。多大な犠牲を払えと強要する側は相手のことを慮らない。
心をかき乱されたところで腹の虫が鳴ったクロードは箱の中身を元に戻し台所に戻った。ヒルダが持参したトルトは美味しかったがやはり食事をしたい。せっかくフォドラにいるのだから、という理由でニシンの缶詰を開けようとしたクロードだが缶切りがどこにあるのか分からなかった。台所の引き出しを開けてみたが見つからない。
もしかしたら、と思い買い物袋に入っていた黒い紙袋を開けると缶切りは入っていなかった。その代わりに新しい下着や靴下と寝巻き、歯ブラシや剃刀それにデニムのパンツとセーター、フード付きのパーカーが入っている。全てフォドラの友好国であるブリギット製で、数日後クロードが公海で救出される際に身につけていてもおかしくないデザインだ。身体に当ててみると袖も裾も丈がクロードに合っている。一体彼はどこまでお人好しなのだろうと真っ先に思ったが、クロードを外に連れ出す時に裾を折った軍からの支給品を着せていれば目立つからだろう。それでも彼の思いやりが嬉しい。
クロードはローレンツから言われた通り庭に出ず、コンロも使わなかった。缶切りは結局見つけられなかったのでツナ缶とパンとトルトの残りで昼も夜も食事を済ませている。だが、クロードは夜になってシャワーを使った。シャワーを使えば当然、浴室から外へ向けて湯気が出る。そしてこの家の住人であるローレンツが出かけていることは既に兵舎村の殆どの者が知っていた。
フォドラ連邦では各自治体に人民委員という役職に就く者がいる。人民委員は反革命的傾向の芽を摘むため、抜き打ちで各家庭を検閲し社会の秩序を保つのが務めだ。夜に実施されるものは宿泊検閲と呼ばれる。この兵舎村で人民委員を務めるのはスカーフに見事な刺繍を施した奥方とその部下で全員女性だが、昼間と違い制服に身を包んでいた。フォドラ連邦では革命時の人員不足に加えてアドラステア帝国の伝統も影響し、女性も男性と同じ職につくことが推奨されている。
帰還したグロスタール中尉と真っ先に話せて上機嫌な彼女は無人の筈の中尉の自宅から湯気が出てくるのを目撃し、警棒を握りしめた。中尉はガルグ=マクまで出かけているのだからこの時間に入浴しているはずがない。部下たちの表情も緊張で固くなる。おそらく孤児か浮浪者が留守宅に忍び込んだのだろうが、全力で抵抗されると危険なのだ。門の呼び鈴が壊れていることはもう知っているので直接玄関まで行き扉を激しく叩く。
「出てきなさい!」
風呂上がりに寝巻きを着るはずだったクロードは激しいノックの音を聞きながらローレンツが昼間置いていってくれた洋服に袖を通した。誤魔化しが効かずに逮捕されるなら寝巻き姿よりこちらの方がずっといい。
ローレンツがガルグ=マクにある憲兵隊の司令部での虚しい時間を終え、都会でなければ出来ない買い物を済ませ夜遅くに兵舎村に戻ると蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。しかも騒ぎの中心はどうやらローレンツの自宅らしい。門の前でクロードが人民委員から詰問されているが余裕を失わずいなしている。彼がローレンツに気づいてウインクしてきたので意図を察したローレンツは道端に荷物を下ろした。内心で舌打ちをしながら人だかりをかき分けて駆け寄りクロードに抱きつく。そして彼の頬に手を当て、唇に長い長いキスをした。昨晩それ以上のことをやったのだからもうどうでもいいのかもしれない。
「クロード!いつフォドラに戻ってきたのだ?こちらに来るなら知らせてくれれば良かったのに」
「ごめんな、こんな騒ぎになるなんて。ローレンツのことびっくりさせたかったんだよ」
慌ててクロードに抱きついたので軍帽が転げ落ち、後ろでひとまとめにされた艶やかな紫の髪が夜の冷えた空気にさらされる。褐色の手がローレンツの後頭部に回され髪を結んでいたゴムは取られてしまった。
「ああ、やっぱり下ろしてる方が格好いいな。みんなもそう思うだろう?」
クロードから頭の向きを固定され髪も下ろされてしまったので、ローレンツには村人たちがどんな顔をしているのか分からない。しかし耳は言葉を拾い続ける。確かに結ばない方が格好いい、とか結んだ方がキリッとしていて素敵だ、とか中尉に鍵を渡すような恋人がいたなんて、とか中尉ならそういう恋人がいて当たり前だ、と言った類なのでどうやらクロードの企みは成功したようだ。後日、人民委員に騒ぎを起こしたことを詫びる品を渡すべきだろう。不埒な褐色の手が軍服の上を這い回る。村人たちの前で尻を鷲掴みされそうになったのでクロードの耳元に口を寄せ白い手で軽く叩いた。これ以上は刺激的すぎる。
「続きは人民委員に詫びてからだ」
ローレンツは真っ直ぐな髪を耳にかけ足下に転がっていた軍帽を被り、クロードの頭を掴むと人民委員に深く深く頭を下げさせた。明日からは詮索が激しくなるだろう。噂話は軍隊の最大の娯楽だからだ。荷物を回収し村人たちが解散するまで眉を下げ、申し訳なさそうに謝っていたローレンツだが玄関の扉を締めるとその表情を一変させた。先ほどとは別の理由で顔が赤くなっている。
「他人の前でなんてことをさせるのだ!!」
軍服のジャケットを脱ぎながらローレンツは小声でクロードを叱りつけた。悪かったと思っているのかクロードがジャケットを受け取り、皺を伸ばして椅子の背にかける。
「すぐに察してくれてありがとな!あと大声で怒鳴られるかと思った……」
「あんな騒ぎを起こした後に怒鳴り声なんか聞かれてみろ!不審に思われるだろう!」
監視社会に育ったローレンツが言うことにクロードは異議を唱えられない。監視社会の下で生きる、ということがどういうことなのか全く知らないからだ。隣人たちは彼の言う通り、きっとこの家に面した窓を気にしている。少しでも不審な音が聞こえたら窓を開けるはずだ。
「とはいえまさか今日宿泊検閲があるとは思わなかった。僕の見込み違いを詫びさせてほしい」
クロードは黙って頷きローレンツの謝罪を受け入れた。ローレンツはテーブルの上で買ってきたものを広げている。どうやら都会で茶葉の缶や細々とした日用雑貨や医薬品を買ってきたらしい。あるものが目についたクロードはそのまま背後からローレンツに抱きついて深緑色の軍用セーターの中に右手を忍ばせた。無骨な軍用品に包まれた身体の温かさを知る者が他にいないといい。
「するべき音がしないのも不審に思われるんじゃないか?」
左手をテーブルの上に伸ばしワセリンの入った瓶をつかむ。ローレンツがクロードと同衾するまで指先の手入れ以外の用途を知らなかったものだ。
「これ買い足したんだな」
「……ッ!……君がほとんど使ってしまったから!僕は任務の都合上、指先の手入れには気を使わないといけないんだ!」
魔法職採用のあるある、だがクロードはそれだけではない、と既に知っている。ローレンツが指先の手入れに拘るのは、この閉鎖的なフォドラ連邦から外国の音大へ留学できるほど熱心に楽器を弾いていたからだ。音楽に関するものが目に付かないよう隠されていたので、何の楽器なのかクロードには分からないが。
「でもたくさん使った方が痛くないだろう?」
耳元に語りかけながら肌着越しに胸を触ると刺激に反応した部分が固くなっていく。指の腹でさすると息が乱れクロードの腕の中の身体は小さく痙攣した。姿勢を保つのが辛いのかそっと寄りかかってくる。
「シャワーの後にさせてくれ……」
その晩、この家の浴室から何度か湯気が出ていた。しかし彼がずっと秘密にしていた恋人と夜を共に過ごしている、と兵舎村の者たちは皆知っていたので目撃はされていない。畳む
「また会えようが、会えまいが」7.失敗
#クロロレ #完売本 #現パロ #また会えようが、会えまいが
ヒルダの兄ホルストは海軍の軍人だ。兄の地位が高く有名人なので、彼女は兵舎村で士官学校時代と同じく天衣無縫に過ごしている。
彼女の故郷に行くのは初めてなマリアンヌとそもそもこちらで電車に乗るのが初めてなクロードが進行方向を向いて並んで座り、それぞれの向かいにヒルダとローレンツが座っていた。四人で座れるコンパートメントが取れたので少しは寛げる。深緑の軍服に囲まれ、一人私服を身につけて窓際に座るクロードは流れていく外の景色を眺めていた。よく磨かれたガラスに彼の顔が写り込んでいる。どこの何者なのか見る者に判断を委ねるしかない彼の瞳は溢れ出す好奇心のせいか、若草を濡らす露のように輝いていた。
フォドラの喉元に沿ってアミッド大河の河口へ向かうので景色も起伏に富んでいる。クロードはパルミラに戻れば二度とフォドラへ戻ることが出来ない。自分のいる土地が、母方の一族の故郷がどれほど美しいのか知って欲しいし覚えておいて欲しい。ローレンツはそう思っている。
「卵を茹でてきました……」
フォドラの人々が長距離列車に乗る際は必ず食べ物と飲み物を持ち込むし、停車駅でも買い足しておく。余ったら着いた先で食べるだけだ。電力事情が悪いのでいつ列車がいつ停車するか分からないし、自分たちもいつ空腹を覚えるのか分からない。乗客は列車の中でお湯が使えるようになっているがローレンツも念のため水筒に紅茶を淹れてきた。
「ありがとうマリアンヌさん。ヒルダさん、大佐はいらっしゃるのだろうか?」
「残念だけどまだ航海中なの。でも皆で帆立やムール貝たべたりしようね!」
軍を除隊したホルストの友人が漁師をしていて船を出してくれると言う。勿論そんな危うい話はコンパートメントに座っているとはいえ、いつ車掌が来るか分からない車内で出来るはずもなく当たり障りのない話をするしかなかった。
「イグナーツたちが一緒じゃないのは残念だな」
クロードがはっきりと彼の質問に否と答えてからは特に剣呑な雰囲気になっていない。合宿が終わって戻る頃にはクロードがこの村にいないかと思うと少し残念な気がする、と言ってイグナーツとレオニーはファーガス地方で行われる強化合宿へ向かった。合宿はとにかくきついがファーガスは雪質が良く、出される食事も豪華なので悪くないらしい。
「あと少し戦績が上がれば体育競技専門の部隊に転属出来る筈だが、二人ともその手前だから今が一番忙しい」
ローレンツは軍楽隊を避けている。従弟が事故死してからピアノの演奏自体辞めてしまった。だからこそイグナーツにもレオニーにも競技で成功して欲しい、と心の底から願っている。血管が震えて太陽とひとつになったような、そんな気持ちになるほど没頭できる何かがあるのは人生が祝福されている証拠だ。彼らからその熱が奪われてはならない。
「お二人には本当に成功して欲しいです」
クロードの向かいに座っているマリアンヌはそう言うと弁当や飲み物を置くための机でゆで卵を転がした。パリパリと殻にひびが入る音がする。力の加減を間違えてマリアンヌが卵を潰してしまうのではないか、とローレンツは冷や冷やしたがそんなことはなく薄茶色の殻に全体的にひびが入っていた。
「クロードさんもどうぞ」
ひびだらけの卵を剥くとマリアンヌは白く輝く茹で卵をクロードに手渡した。茶会の日にバターを塗る手つきが余程おぼつかなかったのか、彼女は完全にクロードを子供扱いすることにしたらしい。
「せめて塩が欲しい。何にも付けないで食べるのか?」
「もう味は付いています」
クロードはマリアンヌから受け取ったゆで卵を目の前でくるくると回し、塩の粒などがついていないことを確認すると一口かじった。驚いたのか目を見開いている。
「本当だ、塩味がついてる!どうやって?」
「茹で終わったら殻付きのまますぐに冷たい塩水につけて一晩置くと黄身にも味が付きます。私の一番の得意料理です」
「ああ!浸透圧を使うのか!懐かしいな。中学の理科で実験をやったよ!」
クロードは料理が全く出来ないせいかマリアンヌの得意料理、という発言をそのまま受け流していた。
「透明卵と塩水の実験か?」
「そう!それそれ!明かりで照らしながら揺らすと黄身が動くのが見えるんだよ」
食用の酢に卵を漬けておくとクエン酸が炭酸カルシウムで出来ている殻を溶かして薄い膜だけになり、中身が透けて見えるようになる。そうやって作った透明な卵を今度は塩水や真水に漬けて重さを測り、変化を記録していく。野生動物と同じく物理法則も国境線など関係ない。人間の思惑に左右されないのだ。
ローレンツも卵を軽く小さなテーブルの角で叩いて殻を剥いた。車内で食べる場合、半熟にすると黄身が垂れて面倒なことになる。固く茹でられているせいさ卵の黄身は色が薄い。得意料理というだけあって塩加減が丁度よかった。きちんと黄身にも塩味がついている。紙袋に殻をまとめローレンツが持参した紅茶を飲み終えてしまうともう、次の停車駅までやることがない。それぞれにうとうとし始めた時に車内放送が流れた。
「停電の為ここで十時間停車いたします」
クロードはローレンツに寄りかかって微睡んでいたが、眠気が一気に吹き飛んだ。窓の外には野原が広がるだけで見渡す限り何の建物もない。せめてどこかの駅に停車中ならそこから降りて、何か買えたかもしれないのにこんな中途半端なところで閉じ込められてしまうとは。
「うわあ、冗談は勘弁してって感じ」
「全くだ」
マリアンヌはまだヒルダに寄りかかって眠っているがローレンツとヒルダは目が覚めたらしい。不愉快そうにこめかみを押さえていた指を離し、ヒルダがマリアンヌの白い頬をつつく。
「こんなところで十時間も立ち往生だと?!」
「クロード、十時間で済むわけないだろう。明日の朝まで待たされるに決まっている」
「えっ早く見積もって十時間なのか?それなら今すぐ食堂車に食い物買いにいこうぜ!」
ローレンツやヒルダ、それに起こされたマリアンヌはうんざりしているようだが全く驚いていない。大あくびをしたマリアンヌがすみません、と言ってから窓の外を眺めた。
「ああ、来ましたね」
「来るって何がだ?」
クロードが窓に手をついて外を眺めると野原一面に何かを抱えた人がいて、一斉に車両に向かって走ってくる。
「物売りです……。外に出て薪と毛布を買いましょう」
「えっ?なんでだ?俺は乗ったままの方がいいと思うんだが」
こんなところで迂闊に降車して停電から復旧した時に電車に乗りそびれたらそれこそ詰んでしまう。
「クロード、君は気づいていないようだが暖房も止まっている」
ローレンツが足元を指差した。確かに先程まで足元に感じていた熱がない。クロードは手首を見て時間を確認し右手で顔を覆った。確かに日が暮れたらもっと寒くなる。外なら焚き火で暖を取れるのだ。通路は既に同じことを考えた者で溢れている。車掌なのか乗客なのか判らないがドアを開けた者がいるらしい。
皆、ホームでもないところから降りるのに慣れているのか車両からどんどん人が減っていく。フォドラへ迷い込んでしまってから信じられないこと続きだ。レディファーストということなのか、先に降りたヒルダとマリアンヌは一直線に物売り目指して駆け出している。
「梯子を下りるのと変わらない」
先に降りたローレンツがどう地面まで下りたものかと戸惑っているクロードに声をかけてきた。だが足で探ってみてもつま先を下ろす先がわからない。
「分かった、飛び降りてこい。受け止めてやるから」
痺れを切らしたローレンツはクロードのために両腕を広げた。まるで初めて会った時のようだ。クロードは向きを変えるために一度、車両内に戻りローレンツの方を向いてから躊躇せずに床を蹴った。あの時のように二人揃って地面に倒れ込む。ただあの時と違って衆人環視の場であるため流石にキスは出来ない。しかしローレンツの喉がひくりと動いたのをクロードは見てしまった。あの時の身勝手な自分なら気付かなかっただろう。
「下りろ、ヒルダさんたちを探すぞ」
ローレンツは起き上がると腰や背中についた雑草を叩いて落とした。辺りを歩き回っている物売りから食べ物や飲み物を買いながらヒルダたちを探して歩くが中々見つからない。遂に日が暮れ始めオレンジ色の光が辺りを照らしていく。焚き火をひとつひとつ回って、ようやく彼女たちと合流する頃には食べ物も飲み物も両手一杯になっていた。
「二人ともおそーい!」
「申し訳ない。まずはとうもろこしをどうぞ」
既に二人は火を起こし毛布を膝に掛けている。クロードも買っておいてもらった毛布を膝に掛けローレンツの隣に座った。どこの誰が茹でたのかわからないとうもろこしの皮を剥いてかぶりつく。甘くて美味しかった。クロードはそう感じる自分が信じられなかった。
「食べ終わったら皮と芯を燃やしてやろう」
「やっぱりファイアーが使える人が一緒だと便利よねえ」
それまで黙ってとうもろこしにかぶりついていたヒルダが二人分の芯と皮を足元にまとめた。
「僕をライターやマッチ扱いしないでくれたまえ」
「ヒルダとマリアンヌは何の魔法が使えるんだ?」
「私はブリザーでヒルダさんがサンダーです」
物売りから買った蒸留酒を呑んでいるせいか今晩はマリアンヌの口が軽い。
「髪型が軍人っぽくないもんな。何かは使えるんだろうと思ってたよ」
「とは言っても敵兵相手に使ったことはありません。盗掘者や密猟者を相手にすることがほとんどです」
「盗掘?」
クロードは国境地帯に大きな遺跡がある、という話を聞いたことがない。銃で武装した兵士がうろつく辺りで犯罪に手を染めるのは危険な上に大した利益も上がらないのではないだろうか。
「険しい土地こそ修行に相応しいと考えたセイロス旧教の聖職者たちが作った修道院がたくさんあるのだ。九世紀以上経てば全てに価値がある。外国の研究者や好事家が高い値を出すらしい」
「ローレンツたちって大変なんだな」
焚き火に照らされながらクロードがそう呟くと隣に座るローレンツが毛布の下で、ヒルダたちにはわからないようにそっと手を握ってきた。
「無事に戻れたら今聞いた話もきちんと忘れるんだぞ。いいな?」
冷たい空気を吸い込んでしまったせいか息が詰まる。クロードは物覚えが良い方だがそれでも記憶は褪せていく。スマートフォンが使えないことがこれほど悔しかったことはない。見たものの全てを、感じたことの全てを記録しておきたい。例え失ったもの実感するだけだとしても。
翌朝、無事に電車は復旧した。焚き火にあたって夜は過ごせたもののクロードはやはり外で眠る気にはならなかったらしい。彼は席に着いた途端に眠ってしまった。長い睫毛が褐色の肌に影を落としている。
「ちょっと寂しいね。そうでしょ?ローレンツくん」
「厄介払いが出来るならそれでいい」
ああいう野宿に慣れているローレンツたちはきちんと睡眠を取ったのでもう眠る気になれず、彼が起きない程度の声でゴネリルに着くまでずっと話していた。
十九時間遅れで到着したゴネリルは昼時だった。暗くなるまで時間を潰さねばならない。
「お昼は皆で一緒に食べようよ。すっごく美味しい店に連れてくからさ!」
それなら最後の夕食はクロードと二人きりで食べられる、ローレンツは反射的にそう思ってしまった。自分が今晩、何を失うのか全力で目を逸らさねばならない。
アミッド大河の河口にあるゴネリルは昔から漁業が盛んで海鮮料理が有名だ。大ぶりで新鮮な帆立やムール貝がこれでもかと出てくる店はヒルダの兄ホルストもお気に入りなのだという。魚市場のすぐ近くにあり清潔で味も良く値段も手頃だ。
「あーあ、やっぱり兄さんがいたら良かったなー!皆と会わせたかったよ」
レモンを搾って帆立にかけながらヒルダはそうぼやいたが、ホルストがいたらおそらくクロードは出国出来ない。
「そう言えばどこへ行けば良いのだろうか?」
「あっそうだね!もう教えておかなきゃ」
ローレンツはヒルダに耳打ちされた内容を一言一句間違うことのないように脳裏に刻み込んだ。埠頭、船の名前、船長の名前。夜の闇に紛れながら探さなくてはならない。海上で船から船へと渡って勝手に出国することを船渡りという。協力してくれる漁船の船長の為にも尻尾を掴まれるわけにいかない。ローレンツはクロードにも覚えてもらうため、一言一句間違いなく彼の耳元に薄い唇を寄せて囁いた。
「船の上では絶対にバル兄の言う通りにしてね」
ヒルダの視線がクロードが着ている黒いパーカーのポケットに刺さっている。クロードがフォドラに入り込んでしまって以来、ずっと電源をオフにしたままの無線機が入っているのだ。フォドラの領海内で電源を入れたら海軍の探索網に引っ掛かってしまう。確実に公海で電源を入れねばならない。クロードはひどく真面目な顔をして頷いてからこの店の人気メニューだという牡蠣を丸呑みにした。
「分かってる。協力してくれた皆には迷惑かけたくないんだ。失敗しなかった時のために今、皆に礼とお別れを言わせてくれ」
「ああ、クロードさん!そんな……寂しくなります
。女神のご加護があなたにありますように」
「元気でね。私も久しぶりに教会に行こうかな。クロードくん、無事に戻れるように祈ってるね」
ヒルダとマリアンヌはクロードのために右手で十字を描いた。セイロス正教の教えでは頭は知性、胸は感情、右肩は意志、左肩は希望を表す。フォドラに残るローレンツたちにはクロードの無事を確かめる術がない。きっとクロードは無事だ、という希望を持って日々を送るしかないのだ。テーブルの上を貝殻だらけにして楽しい食事は終わった。
クロードがいた痕跡は出来るだけ少ない方がいい。別れ際にローレンツはヒルダからあまり人がいない公園を教えてもらった。一応ゴネリルの街が見下ろせる景観が良いところ、ということになっているのだが電力事情の悪いフォドラでは夜景はまず見えないし、遊具がないので親子連れもいない。クロードとベンチに座ってくだらないことを話しながらぼんやりと時間を潰すのにちょうど良かった。寒がりなクロードに軍服を上着を貸してやったのに、それでも彼はローレンツにべたべたとくっついてくる。時の流れが早いのか遅いのかもう分からない。密かにローレンツが混乱し始めた頃に漁港の隣にある軍港から空砲が撃たれた。
「なんだ?!演習?」
「いや、単に時間を知らせているだけだ。漁港の近くで温かいものを食べて、完全に日が暮れるのを待ってから埠頭に行こう」
空砲のおかげで混乱がおさまったローレンツは着せてやった自分の軍服をクロードから取り上げた。ローレンツの方が肩幅もあり腕も長いので、クロードはパーカーの上から着込むことが出来る。クロードの体温が移った軍服はとても温かかった。今から数刻後にローレンツはこの温かさを永遠に失う。
フォドラでの最後の食事はローレンツの手料理ではなかった。ヒルダの提案内容からすれば当たり前の話だがなんとなく気に食わない。漁港のそばにある大衆食堂はローレンツが言うには値段の割に味が良いらしいが、パルミラにいた時と同じくうまく飲み込めなかった。
「どうした、緊張するのは分かるが僕はともかく君はこれから先長丁場になるのだぞ。食べられる時に食べておかねば」
「そうだな、心配かけてすまない」
公海に出たら漁船に積んであるボートに乗り換えて無線機の電源を入れる。ローレンツとはこの漁港でお別れだ。
「ボートに乗るところまでは着いていってやるから早く食べるのだ」
口に含んだスープが喉を通って胃まで下りていく。
「でもどうして」
「君が我が国にいる間は君を監視しないわけにいかないだろう」
普通なら照れて視線を外すところだがローレンツは真っ直ぐにこちらを見てくる。クロードの方が視線を外すしかなかった。暗くなった埠頭でヒルダの教えてくれた漁船を探す。
「なあこれも電力節約ってやつか?不便すぎないか?」
「そうだな、だが初めて感謝したかもしれない」
暗がりが警察や憲兵隊に見つかるわけにいかないクロードとローレンツを隠してくれる。瞬いて今にも消えそうな灯りをたった一つだけつけた漁船にようやく辿り着く。
「ヒルダに教えてもらいました。バルタザールさんですか?」
中からは筋骨隆々な黒髪の男が現れ無言で手のひらを差し出した。ローレンツが丸めてゴムで束ねたブリギットの紙幣と国際電話が出来る未使用のテレホンカードを渡すと男は顎をしゃくった。どうやら乗船しても構わないらしい。船は暗闇の中、音もなく発進し港の外に出た。
「ヒルダは元気か?」
「明日まではゴネリルにいますよ。会いに行くといい」
「海上統制をされて暇になったら顔を出すかな」
「よくあるのですか?」
「巡視長が変わったばっかりで法則が掴めねえんだ。念のために船倉に居てくれ。ああ、兄ちゃんは髪が長いのか……ちょっと待った」
そういうとバルタザールは小さなランタンと昔、自分が被っていたのであろう海軍のキャップをローレンツの頭に後前になるようにかぶせた。
「髪を上げて隠せ。分かるな?失敗した時のためだ。俺がこうやって把手を五回鳴らしたら失敗の合図だから憶えておけ」
ローレンツは合点が入ったのか、ため息をついてゴムで髪を束ねキャップに真っ直ぐな紫の髪を押し込んでいる。まるで初めて会った時のようで髪が長いとは分からない。梯子で船倉に降りるとクロードは小声で何故か顔が赤いローレンツに解説を求めた。
「これ何の意味があるんだよ」
「こら、大人しくするんだクロード!」
キャップをつつこうとすると本気で止められる。質屋の腕時計に加えて新たな謎がまた発生してしまった。
「そんなことより僕は君に言うべきことがある。もう残り時間が少ないからな。無事に帰宅出来たら家事を習え。こんなに何にも出来ない大人は生まれて初めて見た」
帰宅すれば使用人たちがなんでもやってくれることをどう説明したものか。口から生まれたような、と言われてきたクロードだがうまく言葉が出てこない。
「この先、君が一人になることが心配でたまらない」
心の底からクロードのことを心配してくれているからだ。
「だからせめて君がボートに乗り込むところまでは自分の目で確認したいのだ。そうすればこの先一生会えなくても後悔だけはしないで済む」
クロードがボートに乗ってしまえばフォドラに残るローレンツにはクロードの無事を確認する術がない。ローレンツは無意識に左肩をさすっていた。左肩の希望にすがって生きていくしかない。
「ありがとうローレンツ、俺のこと心配してくれて」
もう残り時間がない。死ぬまで直接告げる機会はないのかもしれない。言葉を続けようとしたその時、船倉の把手がかちかちと五回鳴らされた。細長い光が入り込み、扉の向こうで何があったのか知らせてくる。
「ぼろ船なもんで開けるのにコツが必要でしてね!お待ちください。海上統制があったなんて知りませんでした」
「近頃は船渡しで外国へ向かう者が増えたからな。船倉を検めさせてもらう」
「いや船渡しなんて大それたこと俺には出来ませんよ」
大袈裟に哀れみを乞うているのは顧客に情報を知らせるためでもあるのだろう。どうやらこの船はパルミラで言うところの沿岸警備隊かそれに類するもの、の巡回に引っかかってしまったらしい。クロードの正体が知れたら船を出してくれたバルタザールにも、一緒に乗船しているローレンツにも迷惑がかかってしまう。どうしたものかと必死で考え込んでいるとそれまで向かい合っていたローレンツが急にクロードに覆いかぶさってきた。白い手が頬を掴み薄い唇がクロードの下唇を挟んでくちゅくちゅと音を立てる。細長かった光が四角形になると見せつけるようなローレンツの動きが止まった。止まったが唇は離してくれないのでクロードは質問も異議申し立ても出来ない。
「俺に出来るのはせいぜい情熱的な恋人たちの逢瀬の場を提供するくらいでしてね。皆さんも若い頃、俺みたいな子悪党に小銭を恵んでやったでしょう?」
バルタザールが船に乗り込んだ男たちに堂々と嘘をつく。
「全く悪質な!さっさと岸に戻れ!最後までさせるな!」
だから海軍のキャップを被せたのか、とクロードにも合点が入った。そしてローレンツの考えるやりたい盛りの若い兵士、はあんな感じらしい。
バルタザールが自己申告した悪事は外国との物のやりとりも人の移動も伴わない些細な悪事なので取り締まる側も賄賂をたくさんは受け取れない。さっさと解放して別の船を探した方が賄賂で儲けることが出来る。
うまいことを考えたものだ。漁船に乗り込んできた男たちはもう自分たちの船に戻っている。バルタザールが危機を回避する知恵に感心したし謎は解けたが、これでクロードはどんなに早くてもあと一ヶ月半はパルミラに戻れないことが確定してしまった。畳む
#クロロレ #完売本 #現パロ #また会えようが、会えまいが
ヒルダの兄ホルストは海軍の軍人だ。兄の地位が高く有名人なので、彼女は兵舎村で士官学校時代と同じく天衣無縫に過ごしている。
彼女の故郷に行くのは初めてなマリアンヌとそもそもこちらで電車に乗るのが初めてなクロードが進行方向を向いて並んで座り、それぞれの向かいにヒルダとローレンツが座っていた。四人で座れるコンパートメントが取れたので少しは寛げる。深緑の軍服に囲まれ、一人私服を身につけて窓際に座るクロードは流れていく外の景色を眺めていた。よく磨かれたガラスに彼の顔が写り込んでいる。どこの何者なのか見る者に判断を委ねるしかない彼の瞳は溢れ出す好奇心のせいか、若草を濡らす露のように輝いていた。
フォドラの喉元に沿ってアミッド大河の河口へ向かうので景色も起伏に富んでいる。クロードはパルミラに戻れば二度とフォドラへ戻ることが出来ない。自分のいる土地が、母方の一族の故郷がどれほど美しいのか知って欲しいし覚えておいて欲しい。ローレンツはそう思っている。
「卵を茹でてきました……」
フォドラの人々が長距離列車に乗る際は必ず食べ物と飲み物を持ち込むし、停車駅でも買い足しておく。余ったら着いた先で食べるだけだ。電力事情が悪いのでいつ列車がいつ停車するか分からないし、自分たちもいつ空腹を覚えるのか分からない。乗客は列車の中でお湯が使えるようになっているがローレンツも念のため水筒に紅茶を淹れてきた。
「ありがとうマリアンヌさん。ヒルダさん、大佐はいらっしゃるのだろうか?」
「残念だけどまだ航海中なの。でも皆で帆立やムール貝たべたりしようね!」
軍を除隊したホルストの友人が漁師をしていて船を出してくれると言う。勿論そんな危うい話はコンパートメントに座っているとはいえ、いつ車掌が来るか分からない車内で出来るはずもなく当たり障りのない話をするしかなかった。
「イグナーツたちが一緒じゃないのは残念だな」
クロードがはっきりと彼の質問に否と答えてからは特に剣呑な雰囲気になっていない。合宿が終わって戻る頃にはクロードがこの村にいないかと思うと少し残念な気がする、と言ってイグナーツとレオニーはファーガス地方で行われる強化合宿へ向かった。合宿はとにかくきついがファーガスは雪質が良く、出される食事も豪華なので悪くないらしい。
「あと少し戦績が上がれば体育競技専門の部隊に転属出来る筈だが、二人ともその手前だから今が一番忙しい」
ローレンツは軍楽隊を避けている。従弟が事故死してからピアノの演奏自体辞めてしまった。だからこそイグナーツにもレオニーにも競技で成功して欲しい、と心の底から願っている。血管が震えて太陽とひとつになったような、そんな気持ちになるほど没頭できる何かがあるのは人生が祝福されている証拠だ。彼らからその熱が奪われてはならない。
「お二人には本当に成功して欲しいです」
クロードの向かいに座っているマリアンヌはそう言うと弁当や飲み物を置くための机でゆで卵を転がした。パリパリと殻にひびが入る音がする。力の加減を間違えてマリアンヌが卵を潰してしまうのではないか、とローレンツは冷や冷やしたがそんなことはなく薄茶色の殻に全体的にひびが入っていた。
「クロードさんもどうぞ」
ひびだらけの卵を剥くとマリアンヌは白く輝く茹で卵をクロードに手渡した。茶会の日にバターを塗る手つきが余程おぼつかなかったのか、彼女は完全にクロードを子供扱いすることにしたらしい。
「せめて塩が欲しい。何にも付けないで食べるのか?」
「もう味は付いています」
クロードはマリアンヌから受け取ったゆで卵を目の前でくるくると回し、塩の粒などがついていないことを確認すると一口かじった。驚いたのか目を見開いている。
「本当だ、塩味がついてる!どうやって?」
「茹で終わったら殻付きのまますぐに冷たい塩水につけて一晩置くと黄身にも味が付きます。私の一番の得意料理です」
「ああ!浸透圧を使うのか!懐かしいな。中学の理科で実験をやったよ!」
クロードは料理が全く出来ないせいかマリアンヌの得意料理、という発言をそのまま受け流していた。
「透明卵と塩水の実験か?」
「そう!それそれ!明かりで照らしながら揺らすと黄身が動くのが見えるんだよ」
食用の酢に卵を漬けておくとクエン酸が炭酸カルシウムで出来ている殻を溶かして薄い膜だけになり、中身が透けて見えるようになる。そうやって作った透明な卵を今度は塩水や真水に漬けて重さを測り、変化を記録していく。野生動物と同じく物理法則も国境線など関係ない。人間の思惑に左右されないのだ。
ローレンツも卵を軽く小さなテーブルの角で叩いて殻を剥いた。車内で食べる場合、半熟にすると黄身が垂れて面倒なことになる。固く茹でられているせいさ卵の黄身は色が薄い。得意料理というだけあって塩加減が丁度よかった。きちんと黄身にも塩味がついている。紙袋に殻をまとめローレンツが持参した紅茶を飲み終えてしまうともう、次の停車駅までやることがない。それぞれにうとうとし始めた時に車内放送が流れた。
「停電の為ここで十時間停車いたします」
クロードはローレンツに寄りかかって微睡んでいたが、眠気が一気に吹き飛んだ。窓の外には野原が広がるだけで見渡す限り何の建物もない。せめてどこかの駅に停車中ならそこから降りて、何か買えたかもしれないのにこんな中途半端なところで閉じ込められてしまうとは。
「うわあ、冗談は勘弁してって感じ」
「全くだ」
マリアンヌはまだヒルダに寄りかかって眠っているがローレンツとヒルダは目が覚めたらしい。不愉快そうにこめかみを押さえていた指を離し、ヒルダがマリアンヌの白い頬をつつく。
「こんなところで十時間も立ち往生だと?!」
「クロード、十時間で済むわけないだろう。明日の朝まで待たされるに決まっている」
「えっ早く見積もって十時間なのか?それなら今すぐ食堂車に食い物買いにいこうぜ!」
ローレンツやヒルダ、それに起こされたマリアンヌはうんざりしているようだが全く驚いていない。大あくびをしたマリアンヌがすみません、と言ってから窓の外を眺めた。
「ああ、来ましたね」
「来るって何がだ?」
クロードが窓に手をついて外を眺めると野原一面に何かを抱えた人がいて、一斉に車両に向かって走ってくる。
「物売りです……。外に出て薪と毛布を買いましょう」
「えっ?なんでだ?俺は乗ったままの方がいいと思うんだが」
こんなところで迂闊に降車して停電から復旧した時に電車に乗りそびれたらそれこそ詰んでしまう。
「クロード、君は気づいていないようだが暖房も止まっている」
ローレンツが足元を指差した。確かに先程まで足元に感じていた熱がない。クロードは手首を見て時間を確認し右手で顔を覆った。確かに日が暮れたらもっと寒くなる。外なら焚き火で暖を取れるのだ。通路は既に同じことを考えた者で溢れている。車掌なのか乗客なのか判らないがドアを開けた者がいるらしい。
皆、ホームでもないところから降りるのに慣れているのか車両からどんどん人が減っていく。フォドラへ迷い込んでしまってから信じられないこと続きだ。レディファーストということなのか、先に降りたヒルダとマリアンヌは一直線に物売り目指して駆け出している。
「梯子を下りるのと変わらない」
先に降りたローレンツがどう地面まで下りたものかと戸惑っているクロードに声をかけてきた。だが足で探ってみてもつま先を下ろす先がわからない。
「分かった、飛び降りてこい。受け止めてやるから」
痺れを切らしたローレンツはクロードのために両腕を広げた。まるで初めて会った時のようだ。クロードは向きを変えるために一度、車両内に戻りローレンツの方を向いてから躊躇せずに床を蹴った。あの時のように二人揃って地面に倒れ込む。ただあの時と違って衆人環視の場であるため流石にキスは出来ない。しかしローレンツの喉がひくりと動いたのをクロードは見てしまった。あの時の身勝手な自分なら気付かなかっただろう。
「下りろ、ヒルダさんたちを探すぞ」
ローレンツは起き上がると腰や背中についた雑草を叩いて落とした。辺りを歩き回っている物売りから食べ物や飲み物を買いながらヒルダたちを探して歩くが中々見つからない。遂に日が暮れ始めオレンジ色の光が辺りを照らしていく。焚き火をひとつひとつ回って、ようやく彼女たちと合流する頃には食べ物も飲み物も両手一杯になっていた。
「二人ともおそーい!」
「申し訳ない。まずはとうもろこしをどうぞ」
既に二人は火を起こし毛布を膝に掛けている。クロードも買っておいてもらった毛布を膝に掛けローレンツの隣に座った。どこの誰が茹でたのかわからないとうもろこしの皮を剥いてかぶりつく。甘くて美味しかった。クロードはそう感じる自分が信じられなかった。
「食べ終わったら皮と芯を燃やしてやろう」
「やっぱりファイアーが使える人が一緒だと便利よねえ」
それまで黙ってとうもろこしにかぶりついていたヒルダが二人分の芯と皮を足元にまとめた。
「僕をライターやマッチ扱いしないでくれたまえ」
「ヒルダとマリアンヌは何の魔法が使えるんだ?」
「私はブリザーでヒルダさんがサンダーです」
物売りから買った蒸留酒を呑んでいるせいか今晩はマリアンヌの口が軽い。
「髪型が軍人っぽくないもんな。何かは使えるんだろうと思ってたよ」
「とは言っても敵兵相手に使ったことはありません。盗掘者や密猟者を相手にすることがほとんどです」
「盗掘?」
クロードは国境地帯に大きな遺跡がある、という話を聞いたことがない。銃で武装した兵士がうろつく辺りで犯罪に手を染めるのは危険な上に大した利益も上がらないのではないだろうか。
「険しい土地こそ修行に相応しいと考えたセイロス旧教の聖職者たちが作った修道院がたくさんあるのだ。九世紀以上経てば全てに価値がある。外国の研究者や好事家が高い値を出すらしい」
「ローレンツたちって大変なんだな」
焚き火に照らされながらクロードがそう呟くと隣に座るローレンツが毛布の下で、ヒルダたちにはわからないようにそっと手を握ってきた。
「無事に戻れたら今聞いた話もきちんと忘れるんだぞ。いいな?」
冷たい空気を吸い込んでしまったせいか息が詰まる。クロードは物覚えが良い方だがそれでも記憶は褪せていく。スマートフォンが使えないことがこれほど悔しかったことはない。見たものの全てを、感じたことの全てを記録しておきたい。例え失ったもの実感するだけだとしても。
翌朝、無事に電車は復旧した。焚き火にあたって夜は過ごせたもののクロードはやはり外で眠る気にはならなかったらしい。彼は席に着いた途端に眠ってしまった。長い睫毛が褐色の肌に影を落としている。
「ちょっと寂しいね。そうでしょ?ローレンツくん」
「厄介払いが出来るならそれでいい」
ああいう野宿に慣れているローレンツたちはきちんと睡眠を取ったのでもう眠る気になれず、彼が起きない程度の声でゴネリルに着くまでずっと話していた。
十九時間遅れで到着したゴネリルは昼時だった。暗くなるまで時間を潰さねばならない。
「お昼は皆で一緒に食べようよ。すっごく美味しい店に連れてくからさ!」
それなら最後の夕食はクロードと二人きりで食べられる、ローレンツは反射的にそう思ってしまった。自分が今晩、何を失うのか全力で目を逸らさねばならない。
アミッド大河の河口にあるゴネリルは昔から漁業が盛んで海鮮料理が有名だ。大ぶりで新鮮な帆立やムール貝がこれでもかと出てくる店はヒルダの兄ホルストもお気に入りなのだという。魚市場のすぐ近くにあり清潔で味も良く値段も手頃だ。
「あーあ、やっぱり兄さんがいたら良かったなー!皆と会わせたかったよ」
レモンを搾って帆立にかけながらヒルダはそうぼやいたが、ホルストがいたらおそらくクロードは出国出来ない。
「そう言えばどこへ行けば良いのだろうか?」
「あっそうだね!もう教えておかなきゃ」
ローレンツはヒルダに耳打ちされた内容を一言一句間違うことのないように脳裏に刻み込んだ。埠頭、船の名前、船長の名前。夜の闇に紛れながら探さなくてはならない。海上で船から船へと渡って勝手に出国することを船渡りという。協力してくれる漁船の船長の為にも尻尾を掴まれるわけにいかない。ローレンツはクロードにも覚えてもらうため、一言一句間違いなく彼の耳元に薄い唇を寄せて囁いた。
「船の上では絶対にバル兄の言う通りにしてね」
ヒルダの視線がクロードが着ている黒いパーカーのポケットに刺さっている。クロードがフォドラに入り込んでしまって以来、ずっと電源をオフにしたままの無線機が入っているのだ。フォドラの領海内で電源を入れたら海軍の探索網に引っ掛かってしまう。確実に公海で電源を入れねばならない。クロードはひどく真面目な顔をして頷いてからこの店の人気メニューだという牡蠣を丸呑みにした。
「分かってる。協力してくれた皆には迷惑かけたくないんだ。失敗しなかった時のために今、皆に礼とお別れを言わせてくれ」
「ああ、クロードさん!そんな……寂しくなります
。女神のご加護があなたにありますように」
「元気でね。私も久しぶりに教会に行こうかな。クロードくん、無事に戻れるように祈ってるね」
ヒルダとマリアンヌはクロードのために右手で十字を描いた。セイロス正教の教えでは頭は知性、胸は感情、右肩は意志、左肩は希望を表す。フォドラに残るローレンツたちにはクロードの無事を確かめる術がない。きっとクロードは無事だ、という希望を持って日々を送るしかないのだ。テーブルの上を貝殻だらけにして楽しい食事は終わった。
クロードがいた痕跡は出来るだけ少ない方がいい。別れ際にローレンツはヒルダからあまり人がいない公園を教えてもらった。一応ゴネリルの街が見下ろせる景観が良いところ、ということになっているのだが電力事情の悪いフォドラでは夜景はまず見えないし、遊具がないので親子連れもいない。クロードとベンチに座ってくだらないことを話しながらぼんやりと時間を潰すのにちょうど良かった。寒がりなクロードに軍服を上着を貸してやったのに、それでも彼はローレンツにべたべたとくっついてくる。時の流れが早いのか遅いのかもう分からない。密かにローレンツが混乱し始めた頃に漁港の隣にある軍港から空砲が撃たれた。
「なんだ?!演習?」
「いや、単に時間を知らせているだけだ。漁港の近くで温かいものを食べて、完全に日が暮れるのを待ってから埠頭に行こう」
空砲のおかげで混乱がおさまったローレンツは着せてやった自分の軍服をクロードから取り上げた。ローレンツの方が肩幅もあり腕も長いので、クロードはパーカーの上から着込むことが出来る。クロードの体温が移った軍服はとても温かかった。今から数刻後にローレンツはこの温かさを永遠に失う。
フォドラでの最後の食事はローレンツの手料理ではなかった。ヒルダの提案内容からすれば当たり前の話だがなんとなく気に食わない。漁港のそばにある大衆食堂はローレンツが言うには値段の割に味が良いらしいが、パルミラにいた時と同じくうまく飲み込めなかった。
「どうした、緊張するのは分かるが僕はともかく君はこれから先長丁場になるのだぞ。食べられる時に食べておかねば」
「そうだな、心配かけてすまない」
公海に出たら漁船に積んであるボートに乗り換えて無線機の電源を入れる。ローレンツとはこの漁港でお別れだ。
「ボートに乗るところまでは着いていってやるから早く食べるのだ」
口に含んだスープが喉を通って胃まで下りていく。
「でもどうして」
「君が我が国にいる間は君を監視しないわけにいかないだろう」
普通なら照れて視線を外すところだがローレンツは真っ直ぐにこちらを見てくる。クロードの方が視線を外すしかなかった。暗くなった埠頭でヒルダの教えてくれた漁船を探す。
「なあこれも電力節約ってやつか?不便すぎないか?」
「そうだな、だが初めて感謝したかもしれない」
暗がりが警察や憲兵隊に見つかるわけにいかないクロードとローレンツを隠してくれる。瞬いて今にも消えそうな灯りをたった一つだけつけた漁船にようやく辿り着く。
「ヒルダに教えてもらいました。バルタザールさんですか?」
中からは筋骨隆々な黒髪の男が現れ無言で手のひらを差し出した。ローレンツが丸めてゴムで束ねたブリギットの紙幣と国際電話が出来る未使用のテレホンカードを渡すと男は顎をしゃくった。どうやら乗船しても構わないらしい。船は暗闇の中、音もなく発進し港の外に出た。
「ヒルダは元気か?」
「明日まではゴネリルにいますよ。会いに行くといい」
「海上統制をされて暇になったら顔を出すかな」
「よくあるのですか?」
「巡視長が変わったばっかりで法則が掴めねえんだ。念のために船倉に居てくれ。ああ、兄ちゃんは髪が長いのか……ちょっと待った」
そういうとバルタザールは小さなランタンと昔、自分が被っていたのであろう海軍のキャップをローレンツの頭に後前になるようにかぶせた。
「髪を上げて隠せ。分かるな?失敗した時のためだ。俺がこうやって把手を五回鳴らしたら失敗の合図だから憶えておけ」
ローレンツは合点が入ったのか、ため息をついてゴムで髪を束ねキャップに真っ直ぐな紫の髪を押し込んでいる。まるで初めて会った時のようで髪が長いとは分からない。梯子で船倉に降りるとクロードは小声で何故か顔が赤いローレンツに解説を求めた。
「これ何の意味があるんだよ」
「こら、大人しくするんだクロード!」
キャップをつつこうとすると本気で止められる。質屋の腕時計に加えて新たな謎がまた発生してしまった。
「そんなことより僕は君に言うべきことがある。もう残り時間が少ないからな。無事に帰宅出来たら家事を習え。こんなに何にも出来ない大人は生まれて初めて見た」
帰宅すれば使用人たちがなんでもやってくれることをどう説明したものか。口から生まれたような、と言われてきたクロードだがうまく言葉が出てこない。
「この先、君が一人になることが心配でたまらない」
心の底からクロードのことを心配してくれているからだ。
「だからせめて君がボートに乗り込むところまでは自分の目で確認したいのだ。そうすればこの先一生会えなくても後悔だけはしないで済む」
クロードがボートに乗ってしまえばフォドラに残るローレンツにはクロードの無事を確認する術がない。ローレンツは無意識に左肩をさすっていた。左肩の希望にすがって生きていくしかない。
「ありがとうローレンツ、俺のこと心配してくれて」
もう残り時間がない。死ぬまで直接告げる機会はないのかもしれない。言葉を続けようとしたその時、船倉の把手がかちかちと五回鳴らされた。細長い光が入り込み、扉の向こうで何があったのか知らせてくる。
「ぼろ船なもんで開けるのにコツが必要でしてね!お待ちください。海上統制があったなんて知りませんでした」
「近頃は船渡しで外国へ向かう者が増えたからな。船倉を検めさせてもらう」
「いや船渡しなんて大それたこと俺には出来ませんよ」
大袈裟に哀れみを乞うているのは顧客に情報を知らせるためでもあるのだろう。どうやらこの船はパルミラで言うところの沿岸警備隊かそれに類するもの、の巡回に引っかかってしまったらしい。クロードの正体が知れたら船を出してくれたバルタザールにも、一緒に乗船しているローレンツにも迷惑がかかってしまう。どうしたものかと必死で考え込んでいるとそれまで向かい合っていたローレンツが急にクロードに覆いかぶさってきた。白い手が頬を掴み薄い唇がクロードの下唇を挟んでくちゅくちゅと音を立てる。細長かった光が四角形になると見せつけるようなローレンツの動きが止まった。止まったが唇は離してくれないのでクロードは質問も異議申し立ても出来ない。
「俺に出来るのはせいぜい情熱的な恋人たちの逢瀬の場を提供するくらいでしてね。皆さんも若い頃、俺みたいな子悪党に小銭を恵んでやったでしょう?」
バルタザールが船に乗り込んだ男たちに堂々と嘘をつく。
「全く悪質な!さっさと岸に戻れ!最後までさせるな!」
だから海軍のキャップを被せたのか、とクロードにも合点が入った。そしてローレンツの考えるやりたい盛りの若い兵士、はあんな感じらしい。
バルタザールが自己申告した悪事は外国との物のやりとりも人の移動も伴わない些細な悪事なので取り締まる側も賄賂をたくさんは受け取れない。さっさと解放して別の船を探した方が賄賂で儲けることが出来る。
うまいことを考えたものだ。漁船に乗り込んできた男たちはもう自分たちの船に戻っている。バルタザールが危機を回避する知恵に感心したし謎は解けたが、これでクロードはどんなに早くてもあと一ヶ月半はパルミラに戻れないことが確定してしまった。畳む
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