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雑多です。
「さかしま」31.#クロロレ #さかしま #完売本 #オメガバース

 ネメシスとの戦いを数刻後に控え、緊張に身体を硬くしていたローレンツはベレトからこっそり枢機卿の間にくるように、と耳打ちされた。個人的なの話なのかもしれない。黙って赴いた枢機卿の間には先客のマリアンヌ、メルセデスがいた。
 彼女たちに加えてローレンツ、という顔ぶれにリンハルトが遅刻してやって来てベルナデッタが欠席ならばこれはオメガの会合だったのかという話になる。しかし招集をかけたのは学生時代から医師としてオメガたちを気にかけてくれるマヌエラではなくベレトだ。それにベレトはまだ誰かを待っている。続けてやってきたのはリシテア、ヒルダ、クロードだった。紋章を持っているものだけを呼び出したならばインデッハの紋章を持つベルナデッタ、キッホルの紋章を持つフェルディナント、セスリーンの紋章を持つリンハルトやセイロス騎士団関係者たちもいなければおかしい。理由は分からないがベレトは十傑の紋章を継ぐものだけを集めていた。
「集まったな。レアに全て任せると言われたので早速始めたいと思う。クロードが同じ話をレアから聞いているので俺の理解や説明が間違っていたら訂正してくれ。十傑の紋章のことだ」
「きょうだい、今告げるのは皆の悩みの種が増えるだけかもしれんぞ」
 いや、ネメシスとの戦いが始まる前に言わねば意味がないのだ、と前置きしてからベレトは話し始めた。二人の意見が異なるのは珍しい。クロードからの訂正はほぼ入らず、つっかえながらではあったがベレトは丁寧にローレンツが生まれた時から親しんでいたセイロス教がいかに急拵えで興された宗教であったかという話をした。
 確かに当初は急拵えだったがその後、信徒たちが信仰ゆえに成し遂げた偉業は多い。オメガであるローレンツの社会生活を守ってくれる抑制剤もセイロス教の修道院が開発し、フォドラ全土に普及させている。千年間の理論武装を経たものが現在のセイロス教だ。
「つまりレア様は罪人の子供が生まれついての罪人にならないように工夫して下さったのね〜?」
 ベレトが何を言いたいのかメルセデスが三秒でまとめた。彼女は喋り方がゆっくりだが言葉はいつも真実を突く。教会での奉仕活動に人生を捧げたいと言っているメルセデスの深い信仰は揺らがなかったようだ。
「ネメシスは軍勢を引き連れているのだろう?彼らの中にタレスやソロンのようなものがいて仲違いさせるためにこの情報を悪用するかもしれない。だから先に俺から伝えたかった」
「ようやく、何故あの時レア様が破裂の槍を回収したがったのかがわかりました……。結局はスレン族と戦うゴーティエ家の元へ戻すことになるのに、と不思議だったのです。まさか素材がレア様のご家族の亡骸だったなんて……」
 マリアンヌは胸の前で手を組み上わせザナドの人々のために祈りを捧げた。どんな存在も女神の愛と我々を引き裂くことは出来ない、と聖典は語る。学生時代とは異なり、厭世的な態度が薄れた彼女の祈りが死者たちに届くことをローレンツも願った。おそらく特定の信仰を持たないクロードには理解し難いかもしれない。だが信心深いセイロス教徒としては普通のことだ。
「先生、カトリーヌさんの雷霆とエーデルガルトのアイムールはセイロス騎士団が保有していますが、アラドヴァルと破裂の槍とルーンとアイギスの盾は今どこにあるんですか?」
 新生軍が利用可能な英雄の遺産はローレンツが父であるグロスタール伯から使うことを許されたテュルソスの杖、同じようにゴネリル家から提供されたヒルダのフライクーゲル、クロードが所有するフェイルノート、マリアンヌ個人が所有するブルトガング、メルセデスが持つラフォイルの宝珠の五つだ。アイムールは回収したが使える者が誰もいない。
 リシテアの質問にベレトは即座に答えた。
「その件についても言わねばと思って皆に集まってもらった。打ち砕くものはドミニク家にあると確認が取れたがその四つは所在不明だ」
 ヒルダとリシテアが同時にはあ?!と大声を出した。
「グロンダーズで勝った後、私、ディミトリくんがどの辺りで討ち死にしたか報告したのに!」
「でも再利用出来そうなものがないか負傷者を探すついでに検分したわよね〜?」
「はい。物資が不足気味でしたから武器と医薬品は見逃さなかったはずです……」
 その晩、人の往来が途絶えるまでクロードの天幕の中で人に言えないようなことに耽っていたローレンツは黙ってクロードを見た。クロードも黙ってローレンツを見ていた。これはとても拙い。
「きょうだい、きょうだいの杞憂かもしれない。アンヴァルから持ち出した物の検分はまだ終わってないんだ」
「クロードくん!何それ!撤退する帝国軍に回収されてたかもしれないってこと??」
「あの時はヒューベルトが生きてた!あいつならそれくらいやるだろ!」
 枢機卿の間は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。グロスタール家の名誉を挽回し、英雄として歴史に名を残すには堕ちたとはいえ伝説の英雄であるネメシスと戦って勝たねばならない。そのことを思うと緊張しローレンツは己の胃を石のように重く感じていたのだがベレトの話を聞いて力が抜けた。
「先生、行方不明になっている英雄の遺産がある、と知っているのはこの場にいるものたちだけか?」
「この場にいないものは皆、自軍の誰かが回収したと思い込んでいるはずだ」
 ベレトが言う通り、今の今までローレンツもそうだと思い込んでいた。旗手が生存していれば破裂の槍はシルヴァンの形見としてゴーティエ領に持ち帰られた可能性が高いがあの惨状では期待できない。
「皆、ネメシスとの戦いに勝った後は自領にすぐ帰るつもりでいると思うがもうしばらくガルグ=マクに留まって俺を手伝って欲しい」
 リシテアが頭を抱えて机に突っ伏した。
「こんな話を聞いてしまっては帰れるわけがないでしょう……」
 他のものはともかく破裂の槍の所在が判明するまでローレンツはベレトのそばを離れるわけにいかない、と思った。自領に戻らない理由が出来てしまった。自領に戻ったら未来の領主としての生活が待っている。自領に戻ればパルミラへの個人的な旅行やお忍びで訪れた学友を自領でもてなすことくらいは可能だろう。だがそれ以上は無理だ。両親や領民たちにどう申し開きをすればよいのか分からない。
「先生、提案がある。セスリーン、インデッハ、キッホルの紋章を持っている者達にも所在が不明であると伝えて協力してもらおう」
 紋章を持たないものが英雄の遺産を手に取って使おうとすると人間としての形を保っていられなくなってしまう。だが別の紋章であっても紋章さえ持っていれば手に取っても健康を害することはない。ローレンツの提案を受け、それぞれ協力依頼をすることとなった。
「ベルナデッタには私から伝えておくわ〜」
「ではリンハルトさんへは私が……」
 自然とキッホルの紋章を持つフェルディナントへは発案者であるローレンツが伝えることとなった。
「フレンには俺から伝えておくよ」
 学生の頃、フレンと話すクロードを見て感じていたのは嫉妬なのだろう。ようやくローレンツは認めた。幾多の夜を共に経た今は心がざわめくようなことはない。
「セテスさまには先生から伝えてくださいね!私はハンネマン先生とカトリーヌさんに伝えてきます!」
 ヒルダの言葉を聞いたベレトはうっと呻いて両手で顔を隠した。彼はそんな仕草も含めてとても表情豊かになったと皆から言われている。ローレンツたちの学生生活は不本意な終わりを遂げたが、五年の時を経て形を変えて帰ってきた。帰ってきた学生のような暮らしもこの大乱も終わりが見え、また大人としての生活に戻る日が近づいている。
 五年前に一度陥落していることから判るとおりガルグ=マクは防衛戦には向かない。どの国のものでもなくセイロス教の総本山としたのは中立を保ち、攻め込まれないようにするためだ。実際千年間はレアたちの思惑通りに過ぎている。ベレトたちはガルグ=マクを背に、攻め込んでくるネメシスの軍勢を迎撃するためカレドニス台地に陣を敷いた。籠城出来るほどの物資はなく、五年前の帝国軍による襲撃やシャンバラでベレトを守るついでに白きものの姿で皆を守ってくれたレアも床に臥している。自分たちで何とかするしかない。
 飛竜に乗っているヒルダが偵察に出て毒の沼に気付いて教えてくれた。沼を越えてやってきた敵はヒルダの振るうフライクーゲルと全く同じ形をした斧を携えている。ベレトが攻撃を避けながら反撃したがどう見ても生者ではなかった。
「ネメシスに従う将は、あと……九人か。倒したこいつを含めると十人……。まさか、こいつらフォドラの十傑……?いやいや、まさかな」
「ネメシス本人が蘇ったなら不思議でもないだろう。ただフライクーゲルは偽物だったな」
 二人の会話を聞き数刻前ベレトに聞かされた話を思い出した教え子たちはネメシスの軍勢の将が携えるアラドヴァル、ルーン、破裂の槍、アウロラの盾らしき物も同じく偽物であるよう願った。
「イグナーツ、南側の砲台を確保して魔獣を攻撃。ローレンツ、イグナーツを援護」
「承った。先生は?」
「俺を囮にもう何人かここで倒してから直進する」
 ベレトは矢継ぎ早に他の者にも指示を出した。基本に忠実な、包囲網を縮めていくやり方はいつも変わらない。
「最終的にはネメシスのところで皆集合だ。俺の援護を頼む」
 ベレトの指示を受けクロードは北に向かうことになった。青い空に白い飛竜が浮かび上がる。雪の深い冬のオグマ山脈ならばともかく、自然界において白は弱い個体の色だ。その白い飛竜を成体になるまで育て上げ調教し、乗りこなすクロードはどこか気が優しいのだろう。そうでなければレスター諸侯同盟のことなど放置していた筈だ。
 初めての熱発作の後でローレンツはどんなに癪でも第二性を受け入れねばなりません、とオメガの教育係にきつく言われた。自分の第二性を受け入れ、個性を熟知し対策を練るのが努力であってアルファやベータであるかのように装うのは努力ではなく現実逃避だ、とすら言われた。
「ふん、君なんか好きな所へ行ってしまうがいいさ」
 青い空に馴染むことを許されない、白い飛竜に乗るクロードの姿をいつまでも見ていたかった。時は常に流れ、辛い時間が過ぎゆくのと引き換えに幸せな時間も過ぎていく。もう認めるしかない。それが現実だ。ローレンツは槍を構えイグナーツと敵の間に割って入った。
「ありがとうございます!左前方に何か怪しい術を使っている将がいるので気をつけてください!」
 その後、ローレンツがミュソンに魔法の撃ち合いでなんとか競り勝ったのとほぼ同時に戦場の逆側では毒の沼を発生させていたラミーヌが倒された。絶対にここで負けるわけにはいかないが、一人ずつ蘇った先祖を倒し、歩みを進めるごとに秘められた幸せな時間の終わりが近づいてくる。
「先生、クロード!ネメシス以外の将はすべて片づいたぞ!」
 歴史に残る大乱がなければローレンツはクロードと一線を越えなかっただろう。
「手こずらせてくれたが……これでようやく、ネメシスと同じ舞台に立てたってわけだな」
 クロードがネメシスに向けて矢を放つとその背に赤くリーガンの紋章が輝いた。戦う前クロードはフォドラの夜明けが俺たちを待っている、と言っていた。

 夜が明けたら三日月は東の空に消える。
───つまりそういうことだ。
 大して強くもない癖に勧められるがままに酒を飲み、今日くらいはと言っていつもとは逆にローレンツの寝室に転がりこんだこの男の真の名をローレンツは知らない。だがそれ以外に知っておくべきことは全て知っていた。
 食の好み、服の好み、戦い方、機嫌を損ねる理由、ローレンツと違って人の悪意に敏感であること。
 きっかけは発情期だったかもしれないが、その後は完璧に服薬していたのにローレンツは何度も何度もクロードに身体を明け渡した。ダフネル家でリーガン家で戦場で、そしてここガルグ=マクで。こんなにも深く知りたいと思える相手に出会えて幸せだ。目尻から涙が溢れたのは幸せだからなのかその幸せが失われるからなのか単なる生理現象なのか。口を吸われながら中を激しく擦られ、快感で真っ白になったローレンツの頭には判断がつかなかった。

 空が白むまでは〝クロード〟はローレンツのものだったので互いに求め合い、二人で朝焼けを眺めた。肌寒い山の朝に感じた温もりや朝焼けの眩しさを忘れなければ大抵のことには耐えられるだろう。畳む
「さかしま」32.#クロロレ #さかしま #完売本 #オメガバース

 フォドラ最大の都市はアンヴァルのままだが、旧レスター諸侯同盟の首都デアドラがフォドラ統一国家の首都となった。しばらくの間はベレトが大司教と王を兼ねる。大司教座がデアドラへ移るのか、ガルグ=マクに残っているセテスが大司教となるのかは決めかねているようだ。
 統一王ベレトの部下は旧アドラステア帝国出身者とレスター諸侯同盟出身者が多い。その二国については問題にならなかったが、今や空白地帯となった旧ファーガス神聖王国における人材不足が深刻だ。皮肉なことにファーガス公国へ鞍替えした諸侯だけが生き残り、ブレーダッド家への忠誠を誓っていた名家達は後継者を失っている。旧ファーガス公国に与した諸侯にブレーダッド家への忠誠を誓った名家の所領は与えない、というのが統一王ベレトの方針だった。彼らが裏切らなければまだディミトリも彼の幼馴染たちも生きていたかもしれない、と思うとそこは譲れないのだろう。
 カリードは棗椰子の種を指で摘んで雑紙の上にそっと置いた。行儀作法にうるさい誰かの顔が浮かばなければごみ箱に吐き捨てていただろう。庭に生える棗椰子が気に入って住み始めた屋敷で、優雅にフォドラ中に放った密偵たちが寄越した分厚い報告書をめくっている。父が住む宮殿に引っ越す日が迫っていた。

 生存本能が高いのは悪いことではない。しかしその結果、風見鶏のようになった諸侯たちの相手はアッシュには荷が重いだろう。戦費を確保する必要がなくなった諸侯たちは経済力をつけ始める。それ自体は民草にとっては良いことだ。しかし豊かになれば彼らはアッシュの機嫌など取る必要がなくなる。理詰めで相手を服従させられるマリアンヌか、実は有無を言わせぬ迫力があるメルセデスあたりがアッシュを手伝ってやってくれていると良いのだが。
 アッシュは爵位も紋章も持たず手元にあるのは武勲と誠実な人柄だけだ。しかしベレトにそこを見込まれ英雄の遺産の探索とファーガス地方の改革を託されている。彼は出身地こそファーガスだが旧体制の色が全くついておらず純粋なベレト派と言えるだろう。
 朴訥としたベレトの人柄で覆い隠されているがフォドラの外から見ればベレトの側近はローレンツ、マリアンヌ、ヒルダをはじめとする旧レスター諸侯同盟派とフェルディナント、リンハルト、カスパルをはじめとする旧アドラステア帝国派に分けられる。本人たちに全くその意思がなくとも、名家出身の彼らの血筋に付随するものがそのような構図を浮かび上がらせる。彼らが細心の注意を払って過ごさねばそれぞれ、旧同盟、旧帝国の権益を担っていた者たちに担ぎ出される危険があるのだ。
 カリードがきょうだい、と呼ぶベレトは人が良いので、何か問い合わせれば全て正直に答えてくれるだろう。だが他人の目を通さねば判らないことが沢山あるのだ。フォドラに関する報告書は毎週カリードの元に届くようにしてある。
「喉が渇いた」
 きりの良いところまで報告書を読み終えたカリードが鈴を鳴らしてそう告げると隣室に控えていた召使がすぐにお茶を淹れてくれた。いつも地獄のように熱いお茶を淹れて寄越す彼はカリードが信頼している数少ない召使いだ。
「カリード様、僕は明日からしばらく小屋に行きますので代わりの者を早く見つけませんと」
 そしてオメガだ。フォドラ帰りでなかったら彼を身近に置くことはなかっただろう。
 発情期の彼らが寝泊まりする厳重に警備された施設を〝小屋〟と呼ぶ。未婚のオメガたちは熱発作に苦しみながら、アルファがフェロモンにあてられないよう隔離される。
 パルミラの抑制剤は激しい副作用と引き換えに、服用していれば妊娠の確率がかなり低くなる。しかしアルファを誘引するフェロモンの放出は止まらないので、不本意な性行為を避けるには物理的に隔離するしかない。激しい副作用に耐えかねて縋るオメガたちの相手をして嗜虐心を満足させるたちの悪いアルファもいる。
 だから小屋に寝泊まりする者たちは番に関する事故を防ぐため黒く、幅が広い皮製の首輪をしていた。一方で当主の血を継ぐ子を確実に産むことを期待され、貴族や王族の家に迎え入れられるオメガもいる。パルミラのオメガたちはアルファたちの都合に合わせて踏みつけられたり拝まれたり、と実に不安定な立場にあった。
 だがフォドラの抑制剤は発情期自体が来ないのだ。あれこそが本物の抑制剤だ、とカリードは思う。抑制剤はフォドラの社会制度にきちんと組み込まれていてオメガの兵士たちによる共済もある。
 共済がきちんと機能しているので、あれほど出来の良い抑制剤の評判が国外には広がっていかない。オメガの兵士たちが首飾り付近の戦闘で捕虜になった場合は共済を利用して身代金を支払い、さっさとフォドラへ戻ってしまうのだ。戦争以外の交流をもっと早く持っていれば抑制剤のことに気づけたかもしれない。
「いや、俺の身の回りの世話はお前にしかさせない。フォドラにいた頃は身の回りのことはなんでも自分でしていたから、十日くらいなんてことはないさ。それにお前の母は俺の恩人だ」
 カリードはパルミラに戻り、母にグロスタール家の嫡子に手を出したことを正直に話した。その時、ティアナの手元にあった花瓶をそっと取り上げてくれた側女が彼の母だ。あの花瓶が頭に当たっていたらカリードは死んでいたかもしれない。
「あれはお方様との約束を破ったカリード様が悪いと母も申しておりました」
 カリードの母ティアナはデアドラまで潜入したカリードの父に見初められて後宮に入った。最初は側室だったが王子を産んだので部屋と側女を与えられている。
「なんだ、お前まで母上の味方か!これは困ったな。とにかくお前以外に俺の身の回りの世話をさせる気はないんだ。辛いとは思うが堪えて王宮への引っ越しを手伝ってくれよ。お前のために予定を十日遅らせるから」
 そう言うとカリードはふざけて忠実な小柄で線の細い少年の頭を撫でた。何度目の発情期なのかは知らないが、まだ自分の身体の変化に怯えている頃だろう。その上失職の恐怖まで味わうことはない。パルミラ人の少年らしい、あちこちへ飛び跳ねたようなふわふわした癖っ毛にカリードの指が沈んだ。
───何もかもが違う。
 召使が隣室に下がるとカリードはようやくフォドラのものと違ってかなり小ぶりな硝子製の茶器に口をつけた。彼の淹れるお茶は冷ましてからでないと飲めやしない。そしてフォドラの食べ物に慣れた身からすると信じられないほど甘い。ローレンツが淹れてくれた繊細な味と香りの紅茶が懐かしかった。カリードは視線を再び報告書に落としたが、褐色の指はさらさらと流れる紫色の髪を思い出していた。
───密偵たちは当然、デアドラにもいる。

 大乱が終わり二年過ぎたがローレンツは父であるグロスタール伯エルヴィンが健在であることを理由に、まだグロスタール領へ戻っていない。勿論、両親を安心させるために何度か実家へ顔を出してはいる。
 だが父の政務の手伝いを弟妹に任せてすぐにガルグ=マクへ戻り、デアドラへの遷都の手伝いをした。デアドラにいてもクロードと会えるわけではないのだが、ぽっかりとあいた心の穴が埋まるような気がした。
 時代は移り変わっていく。新しく基準が作られていく時期に自領に籠るより、政治の中心にいた方が結果として有利になるという判断が働いたのだろう。ローレンツが父であるエルヴィンから叱られるようなことはなかった。
 グロスタール家がデアドラに構えた上屋敷はすっかりローレンツの自宅兼デアドラに上屋敷がないかつての学友たちの宿泊所と化している。ローレンツが居なくても泊まれるように取り計らってあった。今日もあの大乱で最も荒廃したフリュム復興を担当しているカスパルとフェルディア視察に行ってガラテア領から船で戻ったフェルディナントが共に泊まりに来ている。
「すまないな、また世話になる」
「もう勝手知ったるって感じだな!」
 旅装を解いた二人がローレンツと共に夕食を取るため客室から食堂へとやってきた。デアドラ湾はまだ埋め立てる余地があり、陸上側にもまだ余っている土地はある。しかしベレトが住む王宮や政府の建物ですら建築中だ。ベレトの仮住まいとしてクロードが去り、空き家となったリーガン家の邸宅が使用されているような現状では資材や人手が個人所有の邸宅建築に回ってくるのは当分先だろう。
「君たちにも早く上屋敷を構えて欲しいが泊まりに来なくなったら来なくなったで寂しいだろうな」
「ローレンツの家の料理人は腕がいい。私の上屋敷では彼の弟子を雇いたい」
 アンヴァルも港を抱え魚介類が有名なのだが、デアドラとは水揚げされる魚の種類が違う。水温が冷たい土地の魚は脂がのっていて格別だった。
「今日は白身魚の蒸し焼きだそうだ」
 料理を持ってきた召使が三人の杯に白葡萄酒を注いでいく。硝子の工芸品もデアドラの名物だ。三人の会話は外に持ち出せないことも多いため、察した召使は最低限の給仕をするとすぐに下がっていく。ローレンツが満足気に口の端を上げて杯を手に取った。
「誰に乾杯する?」
「アッシュに!」
 カスパルが杯を掲げた。勢いが良かったので中身がこぼれ落ちそうになってしまう。次にフェルディナントが杯を掲げた。
「ローレンツに!」
 アッシュはローレンツの協力を得て行方不明になっていた破裂の槍を回収し、ベレトの代理としてスレン族との和平条約を結んだ。和平交渉でアッシュを主体としたのは爵位のない彼に権威を持たせ、ファーガス公国に与した諸侯たちに対抗出来る存在にするためだ。彼はまだゴーティエ領に留まっているが、破裂の槍の輸送を担当したローレンツはベレトにいち早く事の仔細を報告するため、そのまま船でデアドラに戻っている。入れ替わりにマリアンヌがゴーティエ領に向かった。
「では僕はシルヴァンに」
 三人で杯を合わせると硝子のぶつかる軽やかな音がした。
「スレン族との交渉が有利に運べて本当に良かったな、ローレンツ。先方はこちらの事情を知らない」
「そうだな、痩せ我慢して彼らの前で破裂の槍を使った甲斐があったよ」
 それはマリアンヌの提案だった。ローレンツがやらなければ槍の技能が著しく低かった彼女が代わりにやりかねない。紋章が適合せずとも破裂の槍は利用可能であること、それにもかかわらず封印するのだ、と示すためスレン族関係者の前でローレンツは破裂の槍を振るって見せた。
「俺は触れもしないから想像するしかねえけどやっぱり変な気分になるのか?」
 紋章を持たないカスパルが皿に散らされた赤い胡椒を白身魚に乗せて口に入れた。パルミラから輸入している赤い胡椒はレスターからアンヴァルへ運ぶだけで値段が倍に跳ね上がる。赤はアドラステア帝国にとって国を象徴する色であったので、宮廷料理ではよく使われていたと聞く。今日泊まる客人がアドラステア地方出身であると知った料理人の気遣いだが、それを知ってか知らずかカスパルは満足そうに食べていた。
「正直言って気持ちが悪かった。だが家系にもよる筈だ」
 その時のことを思い出しただけでローレンツの表情が暗くなる。ローレンツの先祖にゴーティエの紋章を持つものがいれば違和感はかなり薄らいだ筈だが、伝えられてきた家系図の通りどうやら存在しなかったらしい。
「私も受け継いでいるがキッホルの紋章を持つ者は多いな。どの名家にもキッホルかセスリーンの紋章を持つものが嫁いで来ているのではないか?」
「じゃあ、俺の子供や孫に紋章が出たりするのかな。リンハルトに会えたら計算してもらうか」
 カスパルはアンヴァルでハンネマンと共に宮城の調査にあたっている親友の名を出した。運べる書類は暖炉の中の燃えさしも含め、全てガルグ=マクへ運ばせたベレトだが動かせないものもある。真相究明には当分時間がかかりそうだった。
 ベレトの教え子たちは皆何らかの理由でフォドラ中を駆け回っている。エーデルガルトに持たせる計画でもあったのかアウロラの盾はアンヴァルで発見され、ルーンはドロテアとベルナデッタが発見したが、アラドヴァルがまだ見つかっていない。アンヴァルから持ち帰った資料によってディミトリの身に何が起きていたのかも明らかになりつつある。ベレトから知らされた一同は彼の身に起きた不運に深く同情した。グロンダーズに慰霊碑を建てる話も出ている。
「手紙の方がまだ早そうだ。我々も次はいつ会えるのか見当がつかないな。ローレンツはどこへ行くのだ?」
「ゴネリル領だ。フォドラの首飾りまで王の露払いに行く」
 ローレンツの言葉を受けてフェルディナントとカスパルが同時に大きく息を吐いた。畳む
#かのひとはうつくしく #完売本 #クロヒル #ロレマリ
#表紙
カバー
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表紙
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1.C-(side:L)

 ガルグ=マク修道院附属士官学校にはフォドラ中の者が集まる。出身地別に学級は分かれるがそれでも一年間身分に関係なく共に同じ学び舎で学ぶ。礼服に身を包んだローレンツは級長になれなかったことで落胆していた。ただあの胡散臭いクロード=フォン=リーガンを見極める機会は得られたし生涯の伴侶をガルグ=マクで見つけることができるかもしれない。親からは士官学校で見つけられなければ見合いをするようにと言われている。結婚した後で妻を愛せるようになるのだろうと思っていてもローレンツは最初から親を頼るのは嫌だった。
 職員の指示に従い壮麗な聖堂での長い式典の後それぞれの教室で待機することになった。こうして改めて学友たちを眺めてみると金鹿の学級は他の学級と比べて平民の学生の割合が多く逆にグロスタール家の嫡子であるローレンツが気を使わねばならないような名家の出の者は少ない。ゴネリル家、エドマンド家、コーデリア家のご令嬢くらいだろうか。ローレンツは彼女たちとは初対面だが失礼のないように名前と髪の色、瞳の色は先に覚えておいた。
 そのうちの一人であるリシテアは長い長い式典に参加中、人混みに酔ってしまったらしく教室までは何とか堪えたものの今は真っ青な顔をして椅子に座り込んでいる。
「大丈夫かい?水か何か持ってこようか?医務室まで歩けないなら僕が抱えていくが」
「少し休めば大丈夫です」
 本人は大丈夫と言っているが本当にその言葉を信じても良いのだろうか。今日は礼服なので身につけてはいないが明日からは級長の証である黄色の外套を身につける予定のクロードはリシテアの体調不良に気づいていないのか女子学生の中で小柄だが最も華やかで目立っていたゴネリル家のご令嬢ヒルダに話しかけている。
「だから手伝って欲しいんだよ」
「えぇ〜でもマヌエラ先生の方が話しやすいんじゃないかな」
「おい、クロード!こちらに来てくれ」
 クロードとは円卓会議に出席する父グロスタール伯に随行した際に名乗りあった程度でほぼ初対面だが同じ五大諸侯の家柄でもあるので敬語は使ってやらない。ローレンツが呼ぶとクロードはすぐにやってきてリシテアの異変に気づいた。
「リシテア、一体何枚着てるんだ?確かにここは山の中だから寒いが着込みすぎも身体が締まって良くないぞ」
「ご婦人相手になんてことを聞くのだ!君は将来レスター諸侯同盟の盟主になるのだぞ!」
「必要だから聞いただけだ!」
 ローレンツの剣幕に押されずクロードは言い返してきた。久しぶりに顔を見たが自分が身につけることのできない級長の証である黄色の外套はきっと少し浅黒い肌の彼によく似合うことだろう。
「君は必要なことなら何でも聞き出すのか?!他人のいる場で!」
「ローレンツ、お前はもういいよ。な、ヒルダ。言った通りになっただろう?」
 ヒルダはため息をつくと堪えきれずに机に突っ伏しているリシテアに話しかけた。その口調はとても優しい。
「クロードくんは男子だから言い出しにくいよね、これからはマヌエラ先生がいない場で体調のことで不安があったら私に言って欲しいの」
 士官学校では学級単位かつ男女共同で奉仕活動にあたる。クロードは具合が悪い女子に大変な仕事を割り振らずに済むよう内密に聞き取っておいて貰いたいようだ。
「とりあえず制服の襟元と腰回りを緩めようね、少しは楽になるだろうから」
 青い顔をしているリシテアにヒルダが優しく話しかけたのがきっかけになったのかリシテアの周りに女子学生たちが集まっている。これ以上、淑女を凝視しては失礼なのでローレンツは目を逸らした。年代物の教卓と黒板が目に入る。ローレンツの父もこの教室で学んでいた。教室の内装は細かいところまで父から聞いた通りでその記憶力の良さに身内ながら舌を巻いてしまう。父と同じように鷲獅子戦で勝利を収めねばどんな叱言を言われるのか分かったものではない。その為にはまず当日、体調不良の者がいないことが大前提だ。ローレンツは水を汲む為にそっと席を離れた。黒鷲や青獅子の教室の前を通ったがどうやら特に体調を崩した者はいないらしい。
 リシテアの為に水を汲んで戻ってきたローレンツは女子学生の輪に入りそびれた水色の髪の女子学生がいることに気づいた。きっとエドマンド辺境伯の養女マリアンヌだろう。輪に入りそびれていてもリシテアのことが心配なのか壁際から小柄な彼女を薄茶色の瞳でちらちらと見ている。マリアンヌは背が高いことを気にかけているのか少し猫背気味だがローレンツは長身だ。彼女は自分と並んで歩けば俯く必要はない。
 入学式の日に起きた細やかな事件は初めての野営訓練の夜に起きた大事件によって上書きされてしまい皆すっかり忘れていたが後になって思い返してみるにあの時点で充分に帝国はその策謀をもってレスター諸侯同盟へ深く強く介入していた。クロードがリーガン家の嫡子になったのもリシテアの体調が悪いのも元を正せばこの時点で帝国の工作が成功していたからだ。ただその中途半端な成功ゆえに帝国によるフォドラ統一は失敗した、とも言える。畳む
#かのひとはうつくしく #完売本 #クロヒル #ロレマリ
2.C-(side:H)

 クロードは他人の喉元に入り込むのが上手い。ヒルダ自身も楽をするために他人の喉元に入り込む自覚があるのですぐに分かった。それにしても十代の男子が女子の体調を気遣うのは珍しい。ディミトリもメルセデス辺りに頼んでいるのだろうか。そんな訳で不本意ながらヒルダは女子学生の意見をまとめクロードに伝える係をやっている。レオニーは臆さないが盟主の嫡子と言うだけで萎縮してしまう学生もいるのだ。
 一度役割を任されてしまえば期待に応えないわけにいかない。だからこそヒルダは期待をかけられることを嫌い責任というものから逃げ回っていたのだがそうなってみるとどうしても気になる同級生がいた。マリアンヌだ。とにかく何も話さずすぐに一人で厩舎へ行ってしまうので噂話だけが流れている。ダフネル家の代わりに五大諸侯に加わったやり手のエドマンド辺境伯は注目度が高い。おそらくヒルダの兄ホルストの次くらいに学生たちから注目されている親族だろう。マリアンヌは彼のお眼鏡に叶って養女になったとか目ぼしい若者が彼女しかいなかったから仕方なく彼女を養女にしたとかそんな噂だ。クロードの耳にも当然入っている。
「ヒルダはどっちだと思う?」
「もー!私に無責任なこと言わせないでよね!」
 クロードはふざけて話題を振ってきたが有名な家族がいる誇らしさと煩わしさはヒルダにも分かる。その件に関してはマリアンヌをそっとしておいてやりたいので普通に言い返した。そんな会話をした数日後、逃げた教師に代わってヒルダたちの担任を務めることになったベレトに誘われヒルダとクロードは彼と昼食を共にしていた。
「マリアンヌは足が早い」
 士官学校の生徒はとにかく走らされる。訓練服姿なら楽な方で鎧や武器を身につけた状態でも走ることになる。そうだとしても唐突なベレトの一言に驚いたクロードは瞬きをしていた。何の工夫をせずとも黒くて長いまつ毛が緑の瞳に影を落としている。角度によっては目の下に隈が出来ているように見えることもある。
「それは意外だな」
「だからきっと良い修道士になる」
「前後の繋がりが分からないんですけど?!」
「現場に出れば分かるようになる」
 デアドラ風キジの揚げ焼きを器用に切り分けながらベレトは言った。彼は口数が少なすぎて言っていることがよく分からないことが多い。それでもいつもは説明を促されると一言二言は足すのだがこの日は同じ言葉を繰り返すのみだった。

 午後は座学なので皆、鍛練とは別の意味で辛い思いをする。眠らないように必死だ。ヒルダも例外ではない。眠気を覚ますために何か面白いものはないかと桃色の瞳で教室を見回した。
 ラファエルは諦めて眠る方かと思いきや椅子に座る振りをして足の筋肉を鍛えている。マリアンヌはもう陥落寸前だったが前後に船を漕ぎ始めた瞬間に持っていた鉄筆を取り落としてその衝撃で目を覚ました。そして案の定、鉄筆の行く先を見失っている。ヒルダが軽い音がした方を見ると通路を挟んだ隣に座っているローレンツがすぐに身体を曲げ長い腕を伸ばして拾ってやっていた。授業中なせいか彼はいつものような無駄口を叩かない。余計なことを言わなければ彼はあんなに感じが良いのかとヒルダは驚いた。
 クロードと張り合っているローレンツはこうした時も居眠りなどしないが実は女子学生からとにかく評判が悪い。近々ヒルダは皆の意見を取りまとめ担任であるベレトを経由して彼への苦情を申し立てねばならないだろう。ローレンツから食事に誘われたことがない領主の娘はこの士官学校に存在しない。当然、ヒルダも誘われたが断っている。薔薇の花のように美しいと言われたがずば抜けて背が高い彼と常に並んで歩けば小柄な自分は首を痛めてしまうだろう。級友の意外な姿を目撃しすっかり眠気の覚めたヒルダは余所見をしていた間に書き連ねられた黒板の中身を意味も分からず手元の書字板に書き写した。
 午後の座学が終わると学生は基本自由に過ごして良いことになっている。クロードはどこかへ雲隠れしてしまうがローレンツは基本的に訓練場で槍を振るっていることが多い。
「ローレンツくん、ちょっと良いかな。さっきの授業でよく分からないところがあって……」
 だがヒルダは自分に余所見をさせた責任を取らせるべくローレンツに声をかけた。ヒルダが意味も分からず書き写した書字板を見てローレンツの菫青石のような瞳が左右に動いていく。そして彼は本当に意外なことを言った。
「申し訳ない。ここは僕もよく聞いていなかったので後でハンネマン先生に質問しに行こうと思っていた」
「じゃあ後で教えてくれる?」
「ああ、任せてくれたまえ」
 ローレンツはクロードへの対抗意識が本当に強く彼が茶化すものは必ず尊重する。それは身分であったり規則をきちんと守ることであったり様々だか授業を真面目に受けることはその中核をなしていた。きっと彼もヒルダと同じものを横目で見ていたからその間の解説がすっぽ抜けているのだろう。いや、ヒルダよりずっとよく見ていたのだ。そうでなければマリアンヌの鉄筆が転がっていった先などわかるはずもない。畳む