「ねむけざまし」
※カップリングものではありません
※寝ずの番になった2人が焚き火のそばで怖い話をしているだけです
#ねむけざまし
2.イグナーツとリシテア
隣に座っているリシテアの頭ががくん、と大きく下がった。その衝撃で目が覚めたのか彼女が急に背筋を伸ばす。それでも瞼がどうしても落ちてきてしまうようだった。昼の模擬戦を思えば無理はない。イグナーツは火のはぜる音を聞きながら、一連の動作をぼんやりと見つめていた。眠気を誤魔化すため、眼鏡を外して目を擦ってみたが瞼の重さは変わってくれない。
級友たちは皆、夢の世界を楽しんでいる。前回の訓練でまさに貧乏籤を引いたラファエルはイグナーツに助言するとすぐに眠ってしまった。三秒もかからなかったのではないだろうか。
「眠そうですね、イグナーツ」
急に声をかけられ、狼狽したイグナーツは眼鏡を取り落としてしまった。迂闊に動いたら貴重な眼鏡を踏んで壊してしまう。その場にしゃがみ、炎の明かりを頼りに探すしかない。
だが指が土埃まみれになる前にリシテアから眼鏡を差し出された。彼女は読書家だが目は悪くないらしい。
「すみません。ありがとうございます」
「しっかりして下さいよ……これでは私が一人で寝ずの番をしているのと変わらないじゃないですか」
彼女は先ほどのうたた寝に気がついていないのかもしれない。目をつぶって考えごとをしていただけ、と思ってしまうのはよくある話だ。きっかけがなんであれ、お互いに眠気を振り払えたなら良しとしよう。
「気をつけます。ラファエルくんからいい眠気覚ましを教えてもらったんですが、少し使いにくくて」
「えっ、何か持ってるんですか?ずるくないですか?それに二人一組だって先生も言ってましたよね?」
どうやらリシテアは香り袋や甘いものの類だと思っているらしい。
「物じゃあないんですよ。怖い話をその場で作るんです」
「こ、こここ、怖い話??私の前ではやめて下さい。いえ、怖くなんかありませんけどね!苦手なだけです!」
イグナーツはクロードからリシテアは怖がりだから大きめの明るい洋燈を持たせてやってくれ、と助言されている。
「ではどんなものが苦手か教えてくれませんか?避けられるように工夫出来るかもしれません。気を逸らすためにローレンツくんが歌っているところを想像するのはどうですか?」
ローレンツは地声が大きいのに歌は自信がないのか、歌い始めがずれることが多く、よく咳き込んで誤魔化している。聖堂でのそんな姿を思い出したのかリシテアは吹き出してしまった。
───イグナーツって人のことよく見てますよね。でもあんたの描く絵をみれば納得できます。私が苦手なのは分からないこと、です。暗闇の中には何が潜んでいるのか分からない。だから怖……、いいえ、苦手なんだわ。うめき声やうなり声も、それと足音も嫌いです。私に何を伝えたいのか、何をさせたいのか、具体的なことが何も分からないから。
足音といえば……消灯後はすごく響くでしょう?昼間も同じように足音を立ててみんな歩いているはずですが、話し声や他の物音で打ち消されています。
「夜は松明を持ったセイロス騎士団の皆さんがニ、三人で見回りをしてますね」
彼らの足音は別に怖くないんです。たまにアロイスさんの話し声が聞こえることもありますし。あの人、騎士団長のはずなのに何をやってるんでしょうね……他にするべきことがあるはずなのに。とにかく、夕食後に書庫で読書や勉強に集中していると彼らとすれ違うことがあるんです。会釈だけされる時もあれば早く帰るよう促される時もあります。
ただ、たまに足音の数が合っていないような気がするんです。もう角を曲がってしまったからすれ違った彼らが二人なのか三人なのか、わざわざ確認するのも変ですから、引き返して確認したことはありません。こういうのは本当に訳がわからなくて苦手です───
「なるほど……確かに僕もそういうのは苦手です」
風が強く吹いて炎がその身を細くしたのでイグナーツは用意しておいた薪をそっと追加した。リシテアや自分は暗闇を恐れるが獣たちは炎を恐れている。獣たちは暗闇の方が安らぐのだ。
暗闇や物音は分からない、で立ち止まるリシテアは賢い。イグナーツは暗闇の分からなさに耐えかねて脳裏に絵を描いてしまう。
「でしょう?苦手なものについて話すのは私だけですか?イグナーツも話してくださいよ」
苦手、という表現に誤魔化されているが、リシテアの話はイグナーツが聞いても結構怖かった。それと同時に日頃こんな恐怖を感じる彼女を気の毒に思う。リシテアにせがまれるまま、イグナーツは口を開いた。
──考えごとが止まらなくなる時があって、僕はそういう自分が苦手です。こんなことはやめた方がいい、ってあとで反省はできるんですけど、その時は止まらないんです。
さっきリシテアさんは分からないことが苦手だ、と言ってましたよね?僕もそうなんです。ただ、僕は苦手すぎて勝手に考えてしまうんです。暗闇の中に潜んでいるものの正体を良くないものだ、と決めつけてしまう。例えばクロードくんが面倒くさがって畳まずに丸めただけの幌が動いた時に子供の頭くらいの大きさで人間と同じ形の瞳が沢山ある大きな蜘蛛の化け物が隠れている、とかそんな考えがよぎるんです。
「紛れ込んだ野ネズミより先にそっちが出てくるんですか?うーん……。ではイグナーツ、あの木の影に何が潜んでいると思いますか?」
いや、何もいないと思いますし、何かが潜んでいるとしてもきっと普通の盗賊だと思います……。でも分からないものって暗闇だけじゃありませんよね。他人が何を考えているか、も分からないでしょう?特にもう亡くなっていて、答えを聞くことができない人たちの考えは永久に確かめることができません。
だから僕はそういう時に勝手にひどい何か当てはめてしまって……それを止めることができない自分が苦手です───
キルステン家に起きたことを思うとイグナーツは本当に心が痛む。命を落とす瞬間にヴィクター商会を恨んでいても不思議ではない。ラファエル本人はことあるごとにイグナーツたちのせいではない、と慰めてくれるがそんなことを考えてしまう。
「いや、そういう時こそローレンツの歌でしょう?大丈夫ですよ、どうせ平民を良からぬ考えから遠ざけるのも貴族の責務だって言いますから」
いつもの調子を取り戻したリシテアが大人びた口調でそんなことを言ったので、イグナーツは先ほどの彼女と同じく吹き出してしまった。畳む
※カップリングものではありません
※寝ずの番になった2人が焚き火のそばで怖い話をしているだけです
#ねむけざまし
2.イグナーツとリシテア
隣に座っているリシテアの頭ががくん、と大きく下がった。その衝撃で目が覚めたのか彼女が急に背筋を伸ばす。それでも瞼がどうしても落ちてきてしまうようだった。昼の模擬戦を思えば無理はない。イグナーツは火のはぜる音を聞きながら、一連の動作をぼんやりと見つめていた。眠気を誤魔化すため、眼鏡を外して目を擦ってみたが瞼の重さは変わってくれない。
級友たちは皆、夢の世界を楽しんでいる。前回の訓練でまさに貧乏籤を引いたラファエルはイグナーツに助言するとすぐに眠ってしまった。三秒もかからなかったのではないだろうか。
「眠そうですね、イグナーツ」
急に声をかけられ、狼狽したイグナーツは眼鏡を取り落としてしまった。迂闊に動いたら貴重な眼鏡を踏んで壊してしまう。その場にしゃがみ、炎の明かりを頼りに探すしかない。
だが指が土埃まみれになる前にリシテアから眼鏡を差し出された。彼女は読書家だが目は悪くないらしい。
「すみません。ありがとうございます」
「しっかりして下さいよ……これでは私が一人で寝ずの番をしているのと変わらないじゃないですか」
彼女は先ほどのうたた寝に気がついていないのかもしれない。目をつぶって考えごとをしていただけ、と思ってしまうのはよくある話だ。きっかけがなんであれ、お互いに眠気を振り払えたなら良しとしよう。
「気をつけます。ラファエルくんからいい眠気覚ましを教えてもらったんですが、少し使いにくくて」
「えっ、何か持ってるんですか?ずるくないですか?それに二人一組だって先生も言ってましたよね?」
どうやらリシテアは香り袋や甘いものの類だと思っているらしい。
「物じゃあないんですよ。怖い話をその場で作るんです」
「こ、こここ、怖い話??私の前ではやめて下さい。いえ、怖くなんかありませんけどね!苦手なだけです!」
イグナーツはクロードからリシテアは怖がりだから大きめの明るい洋燈を持たせてやってくれ、と助言されている。
「ではどんなものが苦手か教えてくれませんか?避けられるように工夫出来るかもしれません。気を逸らすためにローレンツくんが歌っているところを想像するのはどうですか?」
ローレンツは地声が大きいのに歌は自信がないのか、歌い始めがずれることが多く、よく咳き込んで誤魔化している。聖堂でのそんな姿を思い出したのかリシテアは吹き出してしまった。
───イグナーツって人のことよく見てますよね。でもあんたの描く絵をみれば納得できます。私が苦手なのは分からないこと、です。暗闇の中には何が潜んでいるのか分からない。だから怖……、いいえ、苦手なんだわ。うめき声やうなり声も、それと足音も嫌いです。私に何を伝えたいのか、何をさせたいのか、具体的なことが何も分からないから。
足音といえば……消灯後はすごく響くでしょう?昼間も同じように足音を立ててみんな歩いているはずですが、話し声や他の物音で打ち消されています。
「夜は松明を持ったセイロス騎士団の皆さんがニ、三人で見回りをしてますね」
彼らの足音は別に怖くないんです。たまにアロイスさんの話し声が聞こえることもありますし。あの人、騎士団長のはずなのに何をやってるんでしょうね……他にするべきことがあるはずなのに。とにかく、夕食後に書庫で読書や勉強に集中していると彼らとすれ違うことがあるんです。会釈だけされる時もあれば早く帰るよう促される時もあります。
ただ、たまに足音の数が合っていないような気がするんです。もう角を曲がってしまったからすれ違った彼らが二人なのか三人なのか、わざわざ確認するのも変ですから、引き返して確認したことはありません。こういうのは本当に訳がわからなくて苦手です───
「なるほど……確かに僕もそういうのは苦手です」
風が強く吹いて炎がその身を細くしたのでイグナーツは用意しておいた薪をそっと追加した。リシテアや自分は暗闇を恐れるが獣たちは炎を恐れている。獣たちは暗闇の方が安らぐのだ。
暗闇や物音は分からない、で立ち止まるリシテアは賢い。イグナーツは暗闇の分からなさに耐えかねて脳裏に絵を描いてしまう。
「でしょう?苦手なものについて話すのは私だけですか?イグナーツも話してくださいよ」
苦手、という表現に誤魔化されているが、リシテアの話はイグナーツが聞いても結構怖かった。それと同時に日頃こんな恐怖を感じる彼女を気の毒に思う。リシテアにせがまれるまま、イグナーツは口を開いた。
──考えごとが止まらなくなる時があって、僕はそういう自分が苦手です。こんなことはやめた方がいい、ってあとで反省はできるんですけど、その時は止まらないんです。
さっきリシテアさんは分からないことが苦手だ、と言ってましたよね?僕もそうなんです。ただ、僕は苦手すぎて勝手に考えてしまうんです。暗闇の中に潜んでいるものの正体を良くないものだ、と決めつけてしまう。例えばクロードくんが面倒くさがって畳まずに丸めただけの幌が動いた時に子供の頭くらいの大きさで人間と同じ形の瞳が沢山ある大きな蜘蛛の化け物が隠れている、とかそんな考えがよぎるんです。
「紛れ込んだ野ネズミより先にそっちが出てくるんですか?うーん……。ではイグナーツ、あの木の影に何が潜んでいると思いますか?」
いや、何もいないと思いますし、何かが潜んでいるとしてもきっと普通の盗賊だと思います……。でも分からないものって暗闇だけじゃありませんよね。他人が何を考えているか、も分からないでしょう?特にもう亡くなっていて、答えを聞くことができない人たちの考えは永久に確かめることができません。
だから僕はそういう時に勝手にひどい何か当てはめてしまって……それを止めることができない自分が苦手です───
キルステン家に起きたことを思うとイグナーツは本当に心が痛む。命を落とす瞬間にヴィクター商会を恨んでいても不思議ではない。ラファエル本人はことあるごとにイグナーツたちのせいではない、と慰めてくれるがそんなことを考えてしまう。
「いや、そういう時こそローレンツの歌でしょう?大丈夫ですよ、どうせ平民を良からぬ考えから遠ざけるのも貴族の責務だって言いますから」
いつもの調子を取り戻したリシテアが大人びた口調でそんなことを言ったので、イグナーツは先ほどの彼女と同じく吹き出してしまった。畳む
「ねむけざまし」
※カップリングものではありません
※寝ずの番になった2人が焚き火のそばで怖い話をしているだけです
#ねむけざまし
1.ラファエルとマリアンヌ
金鹿の学級は現在、野営の訓練をしている。昼間の行軍と模擬戦で疲れた級友たちは就寝時間になるとすぐに夢の中へ入り込んでしまった。だが全員で眠ってしまうわけにはいかない。くじ引きでマリアンヌとラファエルが寝ずの番をすることになった。
今回は火を焚けるので幸運な方だろう。風の吹き付ける甲板よりはるかに快適だ。焚き火がはぜる音のおかげでマリアンヌは意識を失わずに済む。
「マリアンヌさん、随分と眠そうだなあ……」
自分ではしっかりと意識を保っているつもりだったがラファエルの意見は違うらしい。マリアンヌにそんな指摘をしてきた彼もやはり眠そうだった。
「申し訳ありません、やはり疲れているようです」
「寝てる皆がいないなら大声を出して筋肉をいじめてやればいいんだけどよぉ……」
それが出来ないから話しかけてきたのだろう。
「皆さんを起こしてしまいますものね」
ヒルダや義父であるエドマンド辺境伯ならきっと一晩でも他人と話し続けられる。マリアンヌは思わず大きなため息を吐いた。自分にそんなことは絶対出来ない。口下手がこんな所にも影響を及ぼす。
ぱちん、と少し大きめの音がして視線がそちらに吸い込まれる。飛んだ赤い火の粉はすぐに明るさを失い、目の前から消えてしまった。自分が飲み込んだ言葉の末路もこんな感じなのかもしれない。
「先生とクロードくんは眠気覚ましに怖い話をしたんだと」
鍛錬のことしか考えていないラファエルに怖い話が出来るのだろうか。思わず、目を見開いたマリアンヌの姿を見てラファエルが微笑んでいる。
「やっぱり先生とクロードくんはすごいなあ。眠気、どっかにいっちまったんだろう?まだ話してもいないのに」
「し、失礼しました……。どんな話を聞かせてくださるのでしょうか?」
ラファエルはそこで初めて自分が話し手になることに意識が向いたらしい。大きな手を口に当て、煌々と世界を照らす月に目をやり考え込んでいる。一見、粗野に見えるが彼は思慮深いのだ。
「ちょっと考えたんだけどよぉ……オデ、怖い話は知らないんだよな……だからこの場で作ることにする」
ではマリアンヌも聞いた話ではなく作り話をするべきだろうか。確かにこれは眠気覚ましになる。
───オデはこの通り身体がでかいだろう?筋肉もきちんといじめてるしな。だから村にいた時は力仕事をよく手伝ってたんだ。でも力仕事ってのは楽しいことだけじゃねぇ。
マリアンヌさんは村の葬式って出たことあるか?仲の良い家族や親戚がいっぱいいる年寄りの葬式は親戚の男衆が棺をでっけぇ輿にのせて担ぐんだ。教会で葬式をやって、墓地に運んで埋める。
でもな、そういう縁が薄い死人もいるんだ。オデは村でそういう担ぎ手のいない葬式を手伝ってたんだよ。棺をのせるでっけえ輿は日頃、どこに置いてあると思う?
「教会の物置でしょうか?」
村はずれの小屋にしまってあるんだ。まあ、あんまり目にしたいもんじゃねえよなあ。作ってて気分が良いもんでもないから、しょっちゅう作り直さなくてもいいように輿はすごく頑丈に作ってある。何十年も使うんだ。
そんな代物は重くて、勝手に動くわけがねぇ。でもな、夜にその小屋の近くを通ると、たまに小屋の中でがたがたと重くてでかいものが動いてる音がする時があるんだ。そんな時は必ず十日以内に葬式がある。輿が出番を呼んでるのか、出番が待ち切れないのか、はオデには分からねえ……。なんてったって作り話だからな───
「な、なるほど……」
マリアンヌはきちんと怖かったのだ。縁に恵まれなかった村人の行く末は他人事と思えなかったし、数多くの亡骸を運び続けた輿に染み込んでいるかもしれない何か、は獣の紋章と似た匂いがする。だが最後の一言に全てを持っていかれてしまった。
「オデの話、きちんと怖かったかぁ?」
焚き火に照らされるラファエルはいつものように微笑んでいる。
「はい、きちんと恐ろしかったです……。私も頑張ります」
「まだ夜は長いもんなあ」
ラファエルのように上手に話が作れるかは分からない。だが全力を尽くそう。そう考えたマリアンヌは大きく息を吸った。夜の空気を取り込んでゆっくりと口から吐いていく。それだけで頭の中が整理されていった。
───海沿いに暮らしていると……そうですね、クロードさんなら支離滅裂、の一言で済ませそうな話がよく耳に入ります。ラファエルさんは海を見たことがありますか?浜辺に立ったことは?
浜辺には様々なものが流れつきます。よく見つかるのは貝殻や流木……それに硝子や陶器の欠片でしょうか。波に耐える固さを持っているものですね。
たまに胸を締め付けられるようなものも見つかります。海で命を落とした人の骨です。どこの骨かと言うと……一目で人の骨だ、と分かる部分の骨です。当然波に晒されて傷んでいるので、見ただけでは死因は分かりません。陸から鉛色の海の中を覗けないのと同じです。
「海は青くねえのか?そういう歌もあるだろ?」
北の海は季節によって色が変わります。冬の海は今にも雪や雨が降りそうな曇天と通じている、と義父は話していました。人間は自然に勝てません。それでも時々、諦めの悪い骨があって……冬にそういった骨を手に取ると、一度だけ眼窩の向こうにありえないほど美しい、青い海が見えるのだそうです。
その骨が最後に見た光景なのか、生前に見た最も美しい海の眺めなのか、陸にいる私たちには分かりません。作り話ですから───
「い…、いかがでしたか?」
大して長く話したわけでもないのに喉がひどく渇いている。マリアンヌは水筒を手に取った。昼間にレオニーが見つけてくれた湧き水を汲んだので、中身がまだ半分は残っている。
「きちんと怖かったぞぉ、マリアンヌさん。オデ、今ちっとも眠くねぇ……」
マリアンヌは水を少しずつ飲みながらラファエルの言葉を待った。もしかしたらどこが怖かったのか教えてくれるかもしれない。
「いきなり頭の骨だけ見つかったら訳がわからなくて怖いだろうなぁ……あと終わりの言葉がオデとお揃いで嬉しかった」
そういうとラファエルは新しい薪を数本、火に追加した。あと三回くらい薪を足した頃には明けの明星が輝きだすだろう。その頃には面倒見の良いベレトが目を覚ます筈だ。畳む
※カップリングものではありません
※寝ずの番になった2人が焚き火のそばで怖い話をしているだけです
#ねむけざまし
1.ラファエルとマリアンヌ
金鹿の学級は現在、野営の訓練をしている。昼間の行軍と模擬戦で疲れた級友たちは就寝時間になるとすぐに夢の中へ入り込んでしまった。だが全員で眠ってしまうわけにはいかない。くじ引きでマリアンヌとラファエルが寝ずの番をすることになった。
今回は火を焚けるので幸運な方だろう。風の吹き付ける甲板よりはるかに快適だ。焚き火がはぜる音のおかげでマリアンヌは意識を失わずに済む。
「マリアンヌさん、随分と眠そうだなあ……」
自分ではしっかりと意識を保っているつもりだったがラファエルの意見は違うらしい。マリアンヌにそんな指摘をしてきた彼もやはり眠そうだった。
「申し訳ありません、やはり疲れているようです」
「寝てる皆がいないなら大声を出して筋肉をいじめてやればいいんだけどよぉ……」
それが出来ないから話しかけてきたのだろう。
「皆さんを起こしてしまいますものね」
ヒルダや義父であるエドマンド辺境伯ならきっと一晩でも他人と話し続けられる。マリアンヌは思わず大きなため息を吐いた。自分にそんなことは絶対出来ない。口下手がこんな所にも影響を及ぼす。
ぱちん、と少し大きめの音がして視線がそちらに吸い込まれる。飛んだ赤い火の粉はすぐに明るさを失い、目の前から消えてしまった。自分が飲み込んだ言葉の末路もこんな感じなのかもしれない。
「先生とクロードくんは眠気覚ましに怖い話をしたんだと」
鍛錬のことしか考えていないラファエルに怖い話が出来るのだろうか。思わず、目を見開いたマリアンヌの姿を見てラファエルが微笑んでいる。
「やっぱり先生とクロードくんはすごいなあ。眠気、どっかにいっちまったんだろう?まだ話してもいないのに」
「し、失礼しました……。どんな話を聞かせてくださるのでしょうか?」
ラファエルはそこで初めて自分が話し手になることに意識が向いたらしい。大きな手を口に当て、煌々と世界を照らす月に目をやり考え込んでいる。一見、粗野に見えるが彼は思慮深いのだ。
「ちょっと考えたんだけどよぉ……オデ、怖い話は知らないんだよな……だからこの場で作ることにする」
ではマリアンヌも聞いた話ではなく作り話をするべきだろうか。確かにこれは眠気覚ましになる。
───オデはこの通り身体がでかいだろう?筋肉もきちんといじめてるしな。だから村にいた時は力仕事をよく手伝ってたんだ。でも力仕事ってのは楽しいことだけじゃねぇ。
マリアンヌさんは村の葬式って出たことあるか?仲の良い家族や親戚がいっぱいいる年寄りの葬式は親戚の男衆が棺をでっけぇ輿にのせて担ぐんだ。教会で葬式をやって、墓地に運んで埋める。
でもな、そういう縁が薄い死人もいるんだ。オデは村でそういう担ぎ手のいない葬式を手伝ってたんだよ。棺をのせるでっけえ輿は日頃、どこに置いてあると思う?
「教会の物置でしょうか?」
村はずれの小屋にしまってあるんだ。まあ、あんまり目にしたいもんじゃねえよなあ。作ってて気分が良いもんでもないから、しょっちゅう作り直さなくてもいいように輿はすごく頑丈に作ってある。何十年も使うんだ。
そんな代物は重くて、勝手に動くわけがねぇ。でもな、夜にその小屋の近くを通ると、たまに小屋の中でがたがたと重くてでかいものが動いてる音がする時があるんだ。そんな時は必ず十日以内に葬式がある。輿が出番を呼んでるのか、出番が待ち切れないのか、はオデには分からねえ……。なんてったって作り話だからな───
「な、なるほど……」
マリアンヌはきちんと怖かったのだ。縁に恵まれなかった村人の行く末は他人事と思えなかったし、数多くの亡骸を運び続けた輿に染み込んでいるかもしれない何か、は獣の紋章と似た匂いがする。だが最後の一言に全てを持っていかれてしまった。
「オデの話、きちんと怖かったかぁ?」
焚き火に照らされるラファエルはいつものように微笑んでいる。
「はい、きちんと恐ろしかったです……。私も頑張ります」
「まだ夜は長いもんなあ」
ラファエルのように上手に話が作れるかは分からない。だが全力を尽くそう。そう考えたマリアンヌは大きく息を吸った。夜の空気を取り込んでゆっくりと口から吐いていく。それだけで頭の中が整理されていった。
───海沿いに暮らしていると……そうですね、クロードさんなら支離滅裂、の一言で済ませそうな話がよく耳に入ります。ラファエルさんは海を見たことがありますか?浜辺に立ったことは?
浜辺には様々なものが流れつきます。よく見つかるのは貝殻や流木……それに硝子や陶器の欠片でしょうか。波に耐える固さを持っているものですね。
たまに胸を締め付けられるようなものも見つかります。海で命を落とした人の骨です。どこの骨かと言うと……一目で人の骨だ、と分かる部分の骨です。当然波に晒されて傷んでいるので、見ただけでは死因は分かりません。陸から鉛色の海の中を覗けないのと同じです。
「海は青くねえのか?そういう歌もあるだろ?」
北の海は季節によって色が変わります。冬の海は今にも雪や雨が降りそうな曇天と通じている、と義父は話していました。人間は自然に勝てません。それでも時々、諦めの悪い骨があって……冬にそういった骨を手に取ると、一度だけ眼窩の向こうにありえないほど美しい、青い海が見えるのだそうです。
その骨が最後に見た光景なのか、生前に見た最も美しい海の眺めなのか、陸にいる私たちには分かりません。作り話ですから───
「い…、いかがでしたか?」
大して長く話したわけでもないのに喉がひどく渇いている。マリアンヌは水筒を手に取った。昼間にレオニーが見つけてくれた湧き水を汲んだので、中身がまだ半分は残っている。
「きちんと怖かったぞぉ、マリアンヌさん。オデ、今ちっとも眠くねぇ……」
マリアンヌは水を少しずつ飲みながらラファエルの言葉を待った。もしかしたらどこが怖かったのか教えてくれるかもしれない。
「いきなり頭の骨だけ見つかったら訳がわからなくて怖いだろうなぁ……あと終わりの言葉がオデとお揃いで嬉しかった」
そういうとラファエルは新しい薪を数本、火に追加した。あと三回くらい薪を足した頃には明けの明星が輝きだすだろう。その頃には面倒見の良いベレトが目を覚ます筈だ。畳む
webアンソロ参加作品「大切なあなたへ」
#クロヒル #ロレマリ
1.
ヒルダはカリード王、いや、クロードと共に王都で最も大きい市場を歩いていた。どんな凄腕の護衛といるときよりもヒルダが隣にいると安心するのだという。
「地上で一緒なら絶対に大丈夫、って気がするんだよな」
クロードはそう呟くと首を傾げた。雑踏の中で離れ離れにならないよう、腰に手を回されている。学生時代だったら三つ編みがヒルダの頭に触れただろう。だが共に装いは改まり、あの頃には全く想像しなかった未来に生きている。
「うーん、私にもホルスト兄さんやバル兄がいるから、そういう気持ちは分からなくもないんだけど……やっぱりちょっと大袈裟じゃない?」
王都でこっそりとそぞろ歩きをしよう、と提案してきたのはクロードだが、ヒルダも市場に用事があった。近いうちに家族やマリアンヌ宛に手紙を出す。手紙と言っても封書を一通、というわけではない。いつもこまごまとした品をいくつか見繕って一緒に送っている。今回はその品がなかなか定まらないのだ。
「マリアンヌだって俺の意見に同意してくれるよ」
「そう、マリアンヌちゃんなのよ!」
ヒルダはマリアンヌに贈る品を探すため、市場に来ていた。貴金属、美しい布、香辛料、山のように積まれた様々な商品を扱う市場はそこに来る人々の腹を満たすため屋台もたくさん出ている。
「ブリザーで凍らせながら運ぶのは駄目だったって?」
そう言って、クロードは串に刺した果物を売る屋台を指差した。そこには香り高く、色鮮やかで信じられないほど甘い果物が並んでいる。マリアンヌもローレンツもこちらで果物を食べ、その美味しさに感心していた。
「解凍したら萎びちゃったみたい」
マリアンヌたちは王都ではなくフォドラに戻る道中、かなり西にあった市場で見かけた芒果(マンゴー)を買い求めたが上手くいかなかったらしい。
「まあ難しいよなあ……。しかし無事に運べたとして、だ。あいつらフォドラでどう食べるつもりだったのかな」
フォドラでは果汁が滴る果物を素手で食べない。だからクロードが切れ目を入れて、ひっくり返した芒果(マンゴー)を素手で食べるところを見たマリアンヌとローレンツは最初、言葉を失っていた。彼らも行軍中は立ったまま、干し肉を手で裂いてその場で齧っていたというのに。
「切り分けてからお皿に盛り付けて食べるんじゃない?」
「つまんないな、フォドラでもみんな手をべたべたにして食べればいいのに」
結局、ローレンツたちが折れて素手で芒果(マンゴー)を食べたので───クロードは本当に嬉しそうにしていた。自分の文化を受け入れてもらえた、と感じたからだろう。
どんな工夫をすれば美味しさを保ったまま、生の芒果(マンゴー)をフォドラまで運べるのかヒルダには想像もつかない。結局、様々な店で試食に試食を重ねた結果、マリアンヌたちのために薄切りの干し芒果(マンゴー)を買った。丁寧に包んで迅速に運んでもらえば、味と香りを保ったままエドギアで仲睦まじく過ごす2人の元へ届くだろう。
執務に行き詰まったローレンツは干した芒果(マンゴー)を刻んだもの、を茶葉に混ぜてみた。芒果(マンゴー)はフォドラでは育たないので、現地に行って食べるか干したものを食べるしかない。
先日、ローレンツたちに宛ててパルミラから荷物が届いた。包みの中には手紙の他にこまごまとした物が沢山入っていて───送り主であるヒルダが日頃、何に囲まれて過ごしているのかよく分かる。その中に干した芒果(マンゴー)が入っていた。
「香りも味も素晴らしいです」
「僕も良い味になったと思う。まだ改良の余地はあるが」
舅であるエドマンド辺境伯がマリアンヌに持たせた白磁の茶器はもう空になっている。どうやら本当に気に入ったようだ。休憩時のささやかな楽しみが成功すると気分が良い。
ローレンツは脳裏に地図を浮かべた。フォドラとパルミラはオグマ山脈を境に分たれていて、その東西では随分と違いがある。文化も自然も異なるので当然、口にする物も違う。ヒルダがフォドラに残していった者たちは皆、彼女を気にかけていた。事あるごとに今頃何をしているのか、とつい考えてしまう。
「ヒルダさんは今頃、瑞々しい物を手で食べておいででしょうね」
「違いない。パルミラは果物が甘くて美味しいところだった」
パルミラのことを伝聞でしか知らない者たちは悪いことばかり想像するが、何度か訪れたことのあるローレンツたちはそうではない。だから実際に行くこと、見ること、会うことには大きな意味がある。知ってしまえば無知だった頃には戻れない。
「向こうに行ってクロードさんがこちらの甘い物が苦手、と仰っていた理由が初めて正確に理解できましたね」
「確かに。こちらの果物も菓子も向こうに比べれば全く甘くない」
皮を剥いただけの果物ですら驚くほど甘かった。そんな物を食べる人々が好む菓子は───頭痛がするような、衝撃的な甘さだった。ローレンツはテフがあまり好きではないが、あれならテフくらい苦い飲み物が合うだろう。
「お代わりをいただいてもよろしいですか?」
「勿論だとも。茶葉を新しいものに替えるので待ってくれたまえ」
窓の外に目をやれば真っ青な空に真っ白で山のような、雷をよぶ雲が浮かんでいる。パルミラほどではないがこちらも夏を迎えて暑くなってきた。次は茶葉に薄荷を混ぜて爽やかにするのも良いかもしれない。
「ヒルダさんたちを早くこちらにお招きしたいですね」
ローレンツが茶葉を匙で計っているとマリアンヌがそう話しかけてきた。彼女も雲の形がパルミラで見た、一際大きな雷雲に似ていると思ったのだろう。
ヒルダ単身の里帰りなら既に何度かあったのだ。だがパルミラ王夫妻のフォドラ訪問、という形になるとなかなか難しい。ベレトから何とか手筈を整えて欲しいと言われ、ローレンツは毎日頭を悩ませていた。
「このフォドラで一国の王をおまけ扱い出来るのはマリアンヌさんだけだな!さすが僕の妻だ!」
マリアンヌはそんなつもりは、と言って赤面している。だがこの訪問を実現させればクロードに序列というものを教えてやれるかもしれない。
2.
空で繋がるところの全て、を欲した先祖のおかげでクロード、いや、カリード王が治めている国は広大だ。砂漠も大瀑布も広大な森も豊かな農地もある。だが帰国して以来ずっと王都近辺にいるので実感がない。今日も昨日と同じく、書類と会議で一日が潰れてしまうだろう。
執務室の窓から見える空は青く、先日ヒルダが活けてくれた花は瑞々しい。近侍がきちんと水を換えているからだ。今日も彼らはきちんと見えないところに控えている。鈴を鳴らせば籠に入った果物の皮だって剥きに来るはずだ。だがカリード王、いや、クロードは命じたことがない。思索にふけることの多い執務室に刃物を持った他人を入れる気になれなかったからだ。籠の中には好き嫌いを理由として手で皮が剥ける果物だけを入れよ、と命じてある。
小腹のすいたクロードはいつものように籠に手を伸ばした。フォドラにいた頃はなんでも自分でやっていたので果物の皮も自分で剥く。いつもなら籠には葡萄や甘蕉(バナナ)しか入っていないが、今日は違っていた。
赤くて丸く懐かしい果物がいくつか入っている。クロードは鈴を鳴らしながら艶々と光る実にかぶりついた。蜜も多く、熟している。運ぶために早めに収穫したわけではないらしい。早めに収穫したものであっても王都に運び込む間に傷んでしまうだろう。
「どこから運んできた?誰の考えだ?」
鈴の音で呼ばれた近侍はひざまずき、林檎に齧り付く主君から目を逸らしている。クロードは王宮のものたちから威厳ある佇まいを求められるとつい、揶揄いたくなってしまう。
「面を上げろ」
観念した近侍は気まずそうに顔をあげた。
「王都の北にある果樹園からで、料理長の発案でございます」
クロードは手にした林檎をかじりながら脳内で地図を広げた。これまで特に気にかけることはなかったが、確かに山がある。それにいかにも料理長が考えつきそうなことだった。彼は古今東西の食材に強烈な興味を持っている。
「山を切り拓いて果樹園を作った者がいるのか!頭がいいな」
暑さに苦しむ王都の近辺といえども、標高が高ければ気温が低い。高地なら寒い土地でしか育たない果物や野菜が収穫できる。
「お気に召しましたでしょうか?」
クロードは好き嫌いを理由として葡萄や甘蕉(バナナ)だけを籠に入れさせていたが、召使たちは愚かではない。王の心に根付く他人への不信感に気が付いている。シャハドなら気に入ったので食べたい時に皮を剥け、と命じるだろう。
「料理長もお前も美味い、と思ったから俺の籠に入れたんだろう?」
心尽くしの一環であることはクロードにも分かっている。だが試されていることも分かっている。
「残りは厨房に持っていって氷菓にしてくれ。ヒルダにも食べさせてやりたい。最近暑くて辛そうだからな」
有能な近侍は表情を変えることなく、林檎を手に部屋から下がっていった。クロードとヒルダが子に恵まれたとして───その子が無事、この王宮で健やかに育ったらきっと召使たちに果物の皮を剥いてくれ、とねだるのだろう。
人が朝起きるのは首飾りの西も東も変わらない。だが、灼熱の太陽が照らすパルミラでは一日の始まりは日没から───とされている。フォドラとは何もかもあべこべだが、ヒルダはそれなりに楽しくやっていた。何よりも昼寝の習慣が素晴らしい。無理をしない生活習慣にはすぐに馴染んだ。目が覚める頃に月が出ていたら言うことはない。
「よう、氷菓なら食べられそうか?」
ヒルダが目が覚めたような、でもまたすぐに眠れそうな心地を寝台の上で味わっているとクロードに話しかけられた。昼寝に馴染みすぎたせいだろうか。近頃は眠っても眠っても眠り足りないし、本格的な夏がやってきたせいか食欲もない。
パルミラの氷室は半球型をしていて、天辺に穴が空いている。理屈を聞いてもにわかには信じ難いが、フォドラと違って氷を作るのにブリザーの魔法は使わない。ブリザーが使えるお抱え料理人なしでも作れるため、パルミラでは氷菓は気軽な食べ物だ。
クロードによると氷室は砂と粘土と卵白、それにヤギの毛を混ぜて作った断熱材で作られている。暖かい空気が天辺の穴から出ていくので下の方は低温が保たれる───そんな仕組みらしい。これならきっとフォドラでも導入は可能だろう。
「うん、喉乾いたから食べたい……」
身体を起こしてみたがやたらと瞼が重い。クロードの声がなんとなくいつもより楽しそうなので様子を確かめたいのに身体はまだ眠ろうとする。
「じゃあ口開けてくれ」
言われるがままに口を開けるとクロードはヒルダの口に匙をそっと入れた。意識が一気に覚醒したのは冷たさが理由ではない。味と香りのせいだ。一口目はすぐに飲み込んでしまったので早く確認がしたい。
「えっ!これ林檎?どこから持ってきたの?」
クロードは細かく刻んだ林檎を凍らせた氷菓をどこからか手に入れていた。パルミラとフォドラは植物相が全く違う。暑さに弱い林檎は王都近辺では栽培できないし、寒さに弱い芒果(マンゴー)はフォドラでは栽培できない。どちらも好きなヒルダには少し寂しい話だ。
「王都から少し離れたところに割と高い山があってな。中腹より上の方はガルグ=マクみたいに寒いんだ」
だらだらと過ごすのは大好きだが、こう暑いと趣味の宝飾品作りもする気になれない。道具と材料を持って山に行けば捗るのではないか。
「もっと早く教えてよ〜!離宮も良いんだろうけど山の方にも行ってみたいな」
暑い夏をやり過ごすための離宮は海沿いにある。クロードによると海から吹き付ける風があるので王都と比べればかなり涼しいらしい。来月はそちらで過ごそう、という話は既に出ている。
「うーん、あの山に泊まれるようなところはあったかな……」
考え事をするとクロードは手元がおろそかになる。こぼして無駄になる前にヒルダは皿と匙をとりあげて銀色の丸い盆に置いて、窓掛と窓を開けた。玉ねぎ型の屋根の上には三日月がかかっている。太陽が昇るまで、月は全てを支配下に置く。今のうちにしたいこととできることをしてしまおう。
「ほら、せっかくだからクロードくんも食べて」
ヒルダは月明かりに照らされながら匙で氷菓を掬い、クロードの口にそっと入れた。良いものはすぐに愛する人と分かち合うに限る。畳む
#クロヒル #ロレマリ
1.
ヒルダはカリード王、いや、クロードと共に王都で最も大きい市場を歩いていた。どんな凄腕の護衛といるときよりもヒルダが隣にいると安心するのだという。
「地上で一緒なら絶対に大丈夫、って気がするんだよな」
クロードはそう呟くと首を傾げた。雑踏の中で離れ離れにならないよう、腰に手を回されている。学生時代だったら三つ編みがヒルダの頭に触れただろう。だが共に装いは改まり、あの頃には全く想像しなかった未来に生きている。
「うーん、私にもホルスト兄さんやバル兄がいるから、そういう気持ちは分からなくもないんだけど……やっぱりちょっと大袈裟じゃない?」
王都でこっそりとそぞろ歩きをしよう、と提案してきたのはクロードだが、ヒルダも市場に用事があった。近いうちに家族やマリアンヌ宛に手紙を出す。手紙と言っても封書を一通、というわけではない。いつもこまごまとした品をいくつか見繕って一緒に送っている。今回はその品がなかなか定まらないのだ。
「マリアンヌだって俺の意見に同意してくれるよ」
「そう、マリアンヌちゃんなのよ!」
ヒルダはマリアンヌに贈る品を探すため、市場に来ていた。貴金属、美しい布、香辛料、山のように積まれた様々な商品を扱う市場はそこに来る人々の腹を満たすため屋台もたくさん出ている。
「ブリザーで凍らせながら運ぶのは駄目だったって?」
そう言って、クロードは串に刺した果物を売る屋台を指差した。そこには香り高く、色鮮やかで信じられないほど甘い果物が並んでいる。マリアンヌもローレンツもこちらで果物を食べ、その美味しさに感心していた。
「解凍したら萎びちゃったみたい」
マリアンヌたちは王都ではなくフォドラに戻る道中、かなり西にあった市場で見かけた芒果(マンゴー)を買い求めたが上手くいかなかったらしい。
「まあ難しいよなあ……。しかし無事に運べたとして、だ。あいつらフォドラでどう食べるつもりだったのかな」
フォドラでは果汁が滴る果物を素手で食べない。だからクロードが切れ目を入れて、ひっくり返した芒果(マンゴー)を素手で食べるところを見たマリアンヌとローレンツは最初、言葉を失っていた。彼らも行軍中は立ったまま、干し肉を手で裂いてその場で齧っていたというのに。
「切り分けてからお皿に盛り付けて食べるんじゃない?」
「つまんないな、フォドラでもみんな手をべたべたにして食べればいいのに」
結局、ローレンツたちが折れて素手で芒果(マンゴー)を食べたので───クロードは本当に嬉しそうにしていた。自分の文化を受け入れてもらえた、と感じたからだろう。
どんな工夫をすれば美味しさを保ったまま、生の芒果(マンゴー)をフォドラまで運べるのかヒルダには想像もつかない。結局、様々な店で試食に試食を重ねた結果、マリアンヌたちのために薄切りの干し芒果(マンゴー)を買った。丁寧に包んで迅速に運んでもらえば、味と香りを保ったままエドギアで仲睦まじく過ごす2人の元へ届くだろう。
執務に行き詰まったローレンツは干した芒果(マンゴー)を刻んだもの、を茶葉に混ぜてみた。芒果(マンゴー)はフォドラでは育たないので、現地に行って食べるか干したものを食べるしかない。
先日、ローレンツたちに宛ててパルミラから荷物が届いた。包みの中には手紙の他にこまごまとした物が沢山入っていて───送り主であるヒルダが日頃、何に囲まれて過ごしているのかよく分かる。その中に干した芒果(マンゴー)が入っていた。
「香りも味も素晴らしいです」
「僕も良い味になったと思う。まだ改良の余地はあるが」
舅であるエドマンド辺境伯がマリアンヌに持たせた白磁の茶器はもう空になっている。どうやら本当に気に入ったようだ。休憩時のささやかな楽しみが成功すると気分が良い。
ローレンツは脳裏に地図を浮かべた。フォドラとパルミラはオグマ山脈を境に分たれていて、その東西では随分と違いがある。文化も自然も異なるので当然、口にする物も違う。ヒルダがフォドラに残していった者たちは皆、彼女を気にかけていた。事あるごとに今頃何をしているのか、とつい考えてしまう。
「ヒルダさんは今頃、瑞々しい物を手で食べておいででしょうね」
「違いない。パルミラは果物が甘くて美味しいところだった」
パルミラのことを伝聞でしか知らない者たちは悪いことばかり想像するが、何度か訪れたことのあるローレンツたちはそうではない。だから実際に行くこと、見ること、会うことには大きな意味がある。知ってしまえば無知だった頃には戻れない。
「向こうに行ってクロードさんがこちらの甘い物が苦手、と仰っていた理由が初めて正確に理解できましたね」
「確かに。こちらの果物も菓子も向こうに比べれば全く甘くない」
皮を剥いただけの果物ですら驚くほど甘かった。そんな物を食べる人々が好む菓子は───頭痛がするような、衝撃的な甘さだった。ローレンツはテフがあまり好きではないが、あれならテフくらい苦い飲み物が合うだろう。
「お代わりをいただいてもよろしいですか?」
「勿論だとも。茶葉を新しいものに替えるので待ってくれたまえ」
窓の外に目をやれば真っ青な空に真っ白で山のような、雷をよぶ雲が浮かんでいる。パルミラほどではないがこちらも夏を迎えて暑くなってきた。次は茶葉に薄荷を混ぜて爽やかにするのも良いかもしれない。
「ヒルダさんたちを早くこちらにお招きしたいですね」
ローレンツが茶葉を匙で計っているとマリアンヌがそう話しかけてきた。彼女も雲の形がパルミラで見た、一際大きな雷雲に似ていると思ったのだろう。
ヒルダ単身の里帰りなら既に何度かあったのだ。だがパルミラ王夫妻のフォドラ訪問、という形になるとなかなか難しい。ベレトから何とか手筈を整えて欲しいと言われ、ローレンツは毎日頭を悩ませていた。
「このフォドラで一国の王をおまけ扱い出来るのはマリアンヌさんだけだな!さすが僕の妻だ!」
マリアンヌはそんなつもりは、と言って赤面している。だがこの訪問を実現させればクロードに序列というものを教えてやれるかもしれない。
2.
空で繋がるところの全て、を欲した先祖のおかげでクロード、いや、カリード王が治めている国は広大だ。砂漠も大瀑布も広大な森も豊かな農地もある。だが帰国して以来ずっと王都近辺にいるので実感がない。今日も昨日と同じく、書類と会議で一日が潰れてしまうだろう。
執務室の窓から見える空は青く、先日ヒルダが活けてくれた花は瑞々しい。近侍がきちんと水を換えているからだ。今日も彼らはきちんと見えないところに控えている。鈴を鳴らせば籠に入った果物の皮だって剥きに来るはずだ。だがカリード王、いや、クロードは命じたことがない。思索にふけることの多い執務室に刃物を持った他人を入れる気になれなかったからだ。籠の中には好き嫌いを理由として手で皮が剥ける果物だけを入れよ、と命じてある。
小腹のすいたクロードはいつものように籠に手を伸ばした。フォドラにいた頃はなんでも自分でやっていたので果物の皮も自分で剥く。いつもなら籠には葡萄や甘蕉(バナナ)しか入っていないが、今日は違っていた。
赤くて丸く懐かしい果物がいくつか入っている。クロードは鈴を鳴らしながら艶々と光る実にかぶりついた。蜜も多く、熟している。運ぶために早めに収穫したわけではないらしい。早めに収穫したものであっても王都に運び込む間に傷んでしまうだろう。
「どこから運んできた?誰の考えだ?」
鈴の音で呼ばれた近侍はひざまずき、林檎に齧り付く主君から目を逸らしている。クロードは王宮のものたちから威厳ある佇まいを求められるとつい、揶揄いたくなってしまう。
「面を上げろ」
観念した近侍は気まずそうに顔をあげた。
「王都の北にある果樹園からで、料理長の発案でございます」
クロードは手にした林檎をかじりながら脳内で地図を広げた。これまで特に気にかけることはなかったが、確かに山がある。それにいかにも料理長が考えつきそうなことだった。彼は古今東西の食材に強烈な興味を持っている。
「山を切り拓いて果樹園を作った者がいるのか!頭がいいな」
暑さに苦しむ王都の近辺といえども、標高が高ければ気温が低い。高地なら寒い土地でしか育たない果物や野菜が収穫できる。
「お気に召しましたでしょうか?」
クロードは好き嫌いを理由として葡萄や甘蕉(バナナ)だけを籠に入れさせていたが、召使たちは愚かではない。王の心に根付く他人への不信感に気が付いている。シャハドなら気に入ったので食べたい時に皮を剥け、と命じるだろう。
「料理長もお前も美味い、と思ったから俺の籠に入れたんだろう?」
心尽くしの一環であることはクロードにも分かっている。だが試されていることも分かっている。
「残りは厨房に持っていって氷菓にしてくれ。ヒルダにも食べさせてやりたい。最近暑くて辛そうだからな」
有能な近侍は表情を変えることなく、林檎を手に部屋から下がっていった。クロードとヒルダが子に恵まれたとして───その子が無事、この王宮で健やかに育ったらきっと召使たちに果物の皮を剥いてくれ、とねだるのだろう。
人が朝起きるのは首飾りの西も東も変わらない。だが、灼熱の太陽が照らすパルミラでは一日の始まりは日没から───とされている。フォドラとは何もかもあべこべだが、ヒルダはそれなりに楽しくやっていた。何よりも昼寝の習慣が素晴らしい。無理をしない生活習慣にはすぐに馴染んだ。目が覚める頃に月が出ていたら言うことはない。
「よう、氷菓なら食べられそうか?」
ヒルダが目が覚めたような、でもまたすぐに眠れそうな心地を寝台の上で味わっているとクロードに話しかけられた。昼寝に馴染みすぎたせいだろうか。近頃は眠っても眠っても眠り足りないし、本格的な夏がやってきたせいか食欲もない。
パルミラの氷室は半球型をしていて、天辺に穴が空いている。理屈を聞いてもにわかには信じ難いが、フォドラと違って氷を作るのにブリザーの魔法は使わない。ブリザーが使えるお抱え料理人なしでも作れるため、パルミラでは氷菓は気軽な食べ物だ。
クロードによると氷室は砂と粘土と卵白、それにヤギの毛を混ぜて作った断熱材で作られている。暖かい空気が天辺の穴から出ていくので下の方は低温が保たれる───そんな仕組みらしい。これならきっとフォドラでも導入は可能だろう。
「うん、喉乾いたから食べたい……」
身体を起こしてみたがやたらと瞼が重い。クロードの声がなんとなくいつもより楽しそうなので様子を確かめたいのに身体はまだ眠ろうとする。
「じゃあ口開けてくれ」
言われるがままに口を開けるとクロードはヒルダの口に匙をそっと入れた。意識が一気に覚醒したのは冷たさが理由ではない。味と香りのせいだ。一口目はすぐに飲み込んでしまったので早く確認がしたい。
「えっ!これ林檎?どこから持ってきたの?」
クロードは細かく刻んだ林檎を凍らせた氷菓をどこからか手に入れていた。パルミラとフォドラは植物相が全く違う。暑さに弱い林檎は王都近辺では栽培できないし、寒さに弱い芒果(マンゴー)はフォドラでは栽培できない。どちらも好きなヒルダには少し寂しい話だ。
「王都から少し離れたところに割と高い山があってな。中腹より上の方はガルグ=マクみたいに寒いんだ」
だらだらと過ごすのは大好きだが、こう暑いと趣味の宝飾品作りもする気になれない。道具と材料を持って山に行けば捗るのではないか。
「もっと早く教えてよ〜!離宮も良いんだろうけど山の方にも行ってみたいな」
暑い夏をやり過ごすための離宮は海沿いにある。クロードによると海から吹き付ける風があるので王都と比べればかなり涼しいらしい。来月はそちらで過ごそう、という話は既に出ている。
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「7年目の同窓会」参加ページ(クロヒル+ロレマリ)

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「大切なあなたへ」

かのひとはうつくしくpixiv factory版-通販A6p.192¥1530+送料
翠風ルートのクロヒル+ロレマリ小説です。支援Cから結婚するまでの長編です。
本文はこちらのハッシュタグから
#かのひとはうつくしく
※1
完売してしまったので無双で追加された情報も加えて文章を修正したPDFをpixivfactoryに登録しました。注文があるごとに印刷されるオンデマンド方式です。
※2
pixiv factoryはカバーやカラー口絵に対応していないので初版の際にカバー下のイラストやカラー口絵に使用したイラストを表紙に使ってあります。
※3
初版を頒布する際にboostしてくださった方へのお礼につけていた冊子掲載の「雷雨」全年齢版も掲載してあります。

かのひとはうつくしく2-通販A6p.94¥1200+送料
翠風ルートのクロヒル+ロレマリ小説短編集です。設定は「かのひとはうつくしく」と共通です。
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「再会と押し付けあいの遁走曲(フーガ)」(クロロレ再会アンソロジー「星降る夜が明けたなら」参加作品)
#クロロレ #アンソロ参加作品
1
クロードは祖父に言われるがまま士官学校に入ったが、これがなかなか面白い。立地条件も非常に良かった。ガルグ=マクは三国のちょうど中間地点にあるのでどの国の本も満遍なく書庫に入っている。それに何と言っても地下に謎の空間があるのが最高だ。
最初はそんな大きな謎にばかり目を奪われていたが身近なところにも謎は満ちている。ディミトリは夜な夜な何を調べているのか、ヒューベルトは修道院にいない時にどこで何をしているのか。マリアンヌは何を隠しているのか、リシテアの身に何が起きたのか。
一方で歴史の古い名家に名を連ねていても何の秘密も抱えていない者たちもいる。ヒルダとローレンツだ。ヒルダの兄ホルストはパルミラにもその名が知れ渡っているのでパルミラにいた頃から、クロードは彼のことを知っていた。当然そんなことを言えるはずもないが彼女とはとにかく気が合う。
問題はローレンツだ。彼もヒルダと同じく謎は一切ないのにクロードには彼が全く理解できない。よくいる親の写しのような子、と言う枠に彼は収まらなかった。
清廉そうな見た目をしている割に女学生の殆ど全てに声をかけている。それに加えてローレンツはガルグ=マクでクロードと和やかに挨拶を交わした次の瞬間、いきなり「盟主の座に相応しい人物かどうか見極めさせてもらう」と宣言したのだ。
「水面を観察する時にどうして石を放り込むんだ?」
「君は騙し討ちが好みか。だがな、グロスタール家の嫡子である僕とリーガン家の嫡子である君は死ぬまで縁が切れないのだぞ。それなら堂々としていた方がいいだろう」
何にしても入学したその日から紫色の瞳は共に自領を治めるに相応しいご令嬢、を探していない時に限ってクロードを見つめている。当初は聞き流していたが叱りつけられて助かった件もあった。個別に誕生日を祝う風習がないパルミラ出身のクロードは皆の誕生日を覚えていない。だがガルグ=マクに進学した平民の学生たちは王族や皇族、それに爵位を持つ貴族の級長から誕生祝いをもらったことを生涯誇るのだと言う。
ローレンツの叱言のおかげで春生まれの学生はクロードから誕生日を無事に祝ってもらえた。誠意を表すためクロードは蒸留酒の酒瓶を手に隣室を訪れている。
「助かったよ、今後は気をつける」
「リーガン家に入ってそんなに経っていないのだから仕方がない。今後は気をつけることだ」
二日前から当日にかけての罵声からは想像がつかないほどローレンツの反応はあっさりしていた。後は寝るばかりといった格好で酒を楽しむ彼を一言で表すなら〝柔らかい〟だろうか。クロードはローレンツの配偶者探しが難航している理由をいくらでも思いつく。だが、彼の美点もいくらでも思いつくようになった。
セイロス騎士団の者たちも教員たちも中央教会の者たちも皆、口を揃えて今年度はおかしい、と言う。魔道学院の時と同じく、帰国を促されるかもしれないと思いつつローレンツは父に宛てて毎節手紙を書いていた。クロードの為人について報告する時は筆が滑りがちになる。
春頃は名家の者として危ういことが多かった。ローレンツのように物心がついた時から嫡子として育てられた者とほんの数年前にリーガン家に引き取られ、付け焼き刃で嫡子としての教育を施された者は違う。だが奉仕活動、の名目で毎節必ず戦場へ赴くようになってからは見違えるほど頼もしくなった。
それにクロードの言を借りるなら、彼が〝異物〟であることはそんなに悪いことではない。感性が違ったおかげで二人揃って恐怖に潰れるようなことがなかったのだ、とローレンツは痛感している。
クロードは英雄の遺産がシルヴァンの兄マイクランをおぞましい魔獣に変えた晩、動揺したローレンツを優しく受け入れてくれた。今晩のローレンツは嵐の海に浮かぶ板切れに過ぎない。
毎日しつこく注意しているのに寝台に本が積み上げられていたが、クロードは気にせず寝台に座るローレンツに縋りついている。貴重な本が崩れ落ちて傷んだら、と思うが最終的に仰向けになってしまったため今は片付けられない。クロードをきつく抱きしめて頭や肩が本にぶつからないようにしてやるしかなかった。
「俺もあいつらと同じなんだ。俺も知りたいと思ったら止まれない」
「確かに君は何でもかんでも暴きたがる」
先ほどから会話は成立しないしローレンツの寝巻きは涙で温かく濡れている。だが、偉そうなことは絶対に言えない。ルミール村で目撃したものの詳細を言葉にしてしまったらきっとローレンツも今のクロードと同じような状態になるだろう。
「あいつら、出来るからやってみただけ、って……」
「だが君は相手の意思を尊重するだろう?」
だからローレンツたちは真夏のあの晩に最後の一線を越えていない。引き返そうと思えば奇妙な友情ということにしてまだ引き返せるだろう。己の冷徹さに怯えて自問自答を繰り返すクロードは混乱し、彼が持つ美徳について忘れている。
それを思い出させてやりたくてローレンツはクロードの耳飾りに舌を這わせた。言葉をかけても耳に届かないなら行為で伝えてやるしかない。
「えっ、あっ……今のって……」
「クロード、君がおかしなことを始めたら絶対にどんなことをしてでも僕が止めてやる。秘密にしても無駄だぞ。僕が気づかない筈がないだろう?」
ローレンツはそう言ってあの晩の続きをするか否かをクロードに委ねた。
2
季節は巡り、一年制の士官学校での暮らしが終わりつつあった。つまりクロードの子供時代はこれで終わってしまう。学生たちは波乱含みの時を過ごしたせいか皆、入学前と今とでは大違いだ。そうでなければ士官学校にいた意味がないと言うのは大前提として───クロードはローレンツに関して実に身勝手で理不尽な思いを抱いている。
入学当初、女子学生たちは皆、ローレンツを嫌がっていた。だがベレトの助言を受け入れた今は評価が真逆になりつつある。クロードは彼を身勝手な視線から守りたいと思っているが、皮肉なことに彼を最も邪な目で見ているのは自分だった。己の欲望を理解すればするほどおかしなことになっていく。
自己の矛盾に疲れていたクロードは懐かしい故郷の品を扱う東の商人が、荷車に小さな邪視よけのお守りをくくりつけていることに気づいた。人間は己の無力さを直視したくない時、信心に走ってしまうらしい。
気がつけばクロードは邪視よけのお守りを入手していた。フォドラのお守りとは設計思想が異なり、そっと揺らすと鈴の音がする。実に効き目がありそうな見た目をしていた。
気を使った商人が小さな布の袋に入れてくれたので、クロードもなんとなくお守りを袋に戻す。実はローレンツもクロードと同じくこの手のものを信じない。だが、クロードは夜の寒さを言い訳にして毎晩のようにローレンツを呼んだり、彼の部屋に入ったり、を繰り返しているからそっと置いてくればいい。児戯にも等しい行為だった。
昼に買った邪視よけのお守りと人には言えない行為に必要な軟膏を懐中に忍ばせてクロードは隣室の扉を叩いた。今日、黒鷲の者たちは泊まりがけで演習に出ている。
ローレンツもクロードと過ごす機会を逃したくない、と思っていたようで有意義な時を共に過ごした。手持ちの軟膏は使い切ってしまったので速やかに調合せねばならない。
今はローレンツが淹れてくれたお茶で乾いた喉を潤している。少し前の彼は万が一に備え、事後にはすぐに服装を整えていたが今は雑に寝巻きを羽織っているだけだ。軽くて触り心地の良い絹で出来ているせいか引き締まった身体の線がむき出しになっている。下履きすら身につけていないことが丸わかりだった。
「これからもこんな感じに穏やかに過ごしたいよな」
「それは僕たちの手腕次第だろう」
口には出さないがローレンツはファーガスのことを念頭に置いている。ダスカーの悲劇以来ファーガス神聖王国は統治機能を失いつつあり、その歪みはクロードたちの学生生活にも影響を及ぼしていた。
「そうだな。俺たちは良き領主として民の暮らしを守ってやらないと」
「それが選良の義務というものだ」
きっとその営為が糸をたぐるようにクロードの野望実現にも繋がっていくのだろう。
クロードが去った後、部屋を片付けていたローレンツは小さな白い袋を見つけた。ちょうどクロードが座っていたあたりなのでおそらく彼の忘れ物だろう。
手にとった際、微かに鈴のような音がした。鈴なら音がわかりやすいように袋から出して使う。不思議に思って袋の紐を解いたことをローレンツは後悔した。生まれてこの方こんな酷い造形物は見たことがない。一点物なのか、それとも金型があるのか。
これ、が大量に並べられている光景を想像したローレンツは自分が本当に、微かに震えていることに気がついた。仮にこれがクロードの所有物だとして、何に使うのかローレンツには全く分からない。とりあえず、落ち着きを取り戻すため再び小さな白い袋の中に戻した。
中身を見なかったことにできるか、はローレンツの精神力にかかっている。単純に忘れ物を届ける体でクロードに返そう、そんな風に無理やり自分を説得しローレンツは無理やり目を閉じた。目を閉じても先ほど目にしてしまった造形物の形が脳裏に浮かぶ。
先ほどローレンツの身体を暴いたもの、を参考に作られたのだろう。まるで腰を下ろして座っている犬のようだが、本来なら愛らしい顔のある筈の部分に信じられない部位がある。そして、その脚の間にも同じ形のものがついている。職人が本体と見做したものと同じく興奮しきっていた。
一体、どんな暮らしをしていればあんな形のものを思いつくのか。なんとか考えを逸らすため仕方なく、ローレンツは眠りにつくまで延々とセイロス教の聖句を繰り返し呟いた。後日、改めて女神に懺悔の祈りを捧げねばならない。
翌朝、あまり良く眠れなかったローレンツは急いで身仕度を整えると隣室の扉を強めに叩いた。
「起きろ、クロード!用事がある」
迫力に恐れをなしたのか内側から扉が開いたので無理やり室内に一歩踏み込む。クロードはまだ寝巻き姿のまま眠そうにしていた。ローレンツは後ろ手で扉を閉めるとクロードの手に小さな袋を押し付けた。褐色の手が袋を握って昨晩のローレンツと同じく、中身の形状を確かめている。
「忘れ物だ。その品のことは秘密にしてやるから」
「お前にあげようと思って市場で買ったんだよ。これ、俺の故郷の邪視よけなんだ」
嫉妬は古来数多くの人々を破滅に導いた。そして確かにローレンツは才気煥発かつ眉目秀麗なので嫉妬の対象になってもおかしくない。だが、こんな代物を持っていると知れたら嫉妬もされなくなるだろう。
「厚意だけもらっておこう。品は君が持っているといい」
「効き目があるはずなんだがなあ……」
誕生日祝いの品はまともだったのに何故、邪視よけのお守りに関しては美的感覚が壊れているのか。
「それなら将来の盟主たる君の手元にあった方が良い。僕はこれで失礼する」
勢いで返却に成功したローレンツは急いでクロードの部屋を後にした。
3
良き領主として民の暮らしを守らねば、と語り合っていたローレンツとの別れは唐突に訪れた。彼との生涯にわたる付き合い、が途切れたわけではない。帝国軍のガルグ=マク大修道院侵攻により当時の学生たちは皆、散り散りになっている。平民の学生たちとクロードはあれっきり会えていない。定期的に会えるのは嫡子にするためにエドマンド家に引き取られたマリアンヌ、爵位返上がらみで事務処理をせねばならないリシテア、そしてグロスタール家の嫡子であるローレンツくらいだろうか。
あの邪視よけはガルグ=マクにいた頃、ローレンツと離れ離れになる寸前までお互いに押し付けあった。彼がクロードの祖父オズワルドの葬儀に出席してくれた際に返してきたので今はクロードの懐にしまわれ、出番を待っている。
今やレスター諸侯同盟の盟主は羨望の対象ではない。円卓会議は今まで以上に紛糾し国の舵取りを担うクロードの負担は日々増していくばかりだ。楽しいことといえば春先の謝肉祭で開催宣言をするくらいだろうか。
オズワルドが亡くなって一年経っていないので喪に服すべきという意見もあった。だがクロードと気が合った祖父は賑やかな行事が好きだったし、謝肉祭を中止にしていたらクロードは喧しい劇伴を背に桟敷席でローレンツと口付けしていないだろう。一度演奏が始まると小休止を迎えるまで会話ができないから仕方がない。
それに目に映るものの中で嘘をついていないのは太陽の光だけ、というこの時期のデアドラでは正体を探らないのが嗜みだ。貴婦人でも道化師でもないどこかの何者かが睦み合っているに過ぎない。
クロードはそっとローレンツの背中に手を回しドレスの紐を引っ張った。金糸で見事な薔薇の刺繍が施してあるドレスは他人に身体を触らせなければ着ることも脱ぐことも出来ない。クロードはグロスタール家の上屋敷にいる召使たちがほんの少しだけ妬ましかった。やはり邪視よけは彼の近くにあることが望ましい。きっと彼の周囲にいる者たちのことも守ってくれるだろう。
ローレンツが仕返しのようにクロードの耳飾りを引っ張るのでクロードは背中で悪さをするのを中断し、唇を離さざるを得なかった。何のつもりか問いたかったが、まだ会話は出来ない。そっと顔に手巾を押し当てられた。そのまま、子供のように顔を拭かれているとようやく劇伴が止まり、舞台上にいる役者の声がクロードたちの座る桟敷席にも聞こえてきた。これでようやく会話が出来る。
「すまない、顔に紅がついてしまった」
「そのままでよかったのに」
そう言ってクロードはローレンツに笑いかけた。顔に紅が残っていても街中の人々からはそれもまた仮装の一環、と思われただろう。本当に恋人と熱烈な口付けをしたかどうかなど分かりはしない。
きっと桟敷席で互いに服を緩めた時に仕込まれたのだ。きっとあのおぞましい邪視避けがドレスの隠しに入っている。ドレスは裾を膨らませるため何枚も下着を身につけるし、骨組みも入っている。その上で護身用の短剣を仕込むため隠しを大きくしておいたから分からなかったのだろう。ローレンツは上屋敷で召使に仮装をまさに解いてもらっている時にようやく、クロードに仕返しされたことに気づいた。
「ああ、ちょっと待ちたまえ。短剣が入っているのでね」
隠しに手を突っ込むと、やはりあの布に包まれたおぞましい邪視よけの感触がする。短剣と一緒にそっと卓の上に置いた。来年はこの仮装に相応しい瀟洒な飾りがついた剣帯をつけ、隠しは縫い付けてしまおう。買い食い用の銅貨や銀貨は腕輪にして持ち歩けばいい。
「若様、こちらの袋は……?」
「いや、それも短剣も僕が片付けておくので先にこちらを緩めてくれたまえ」
今年もお美しかったですよ、と言って紐を解いてくれる古株の召使はまだ肌寒いというのにグラップラーの格好をしている。彼も謝肉祭の時期だけ日頃は仕事にふさわしい格好の内に秘めている真実を晒す。
召使が部屋から去ってすぐ、ローレンツはクロードに押し付けられた邪視よけを人目につかないところに隠した。次に円卓会議に随行できる日まで何とかして隠し通さねばならない。
そろそろ夏が近づこうという頃、帝国への対応を決定するためデアドラで円卓会議が開かれることとなった。近頃のエルヴィンはローレンツに留守を任せることが多い。あのおぞましい邪視避けがクロードの元にあるなら、父の留守を預かることは名誉なことだ。だが今は一刻も早く彼にあの邪視避けを押し付けにいきたい。まったく、名誉あるグロスタール家の嫡子に何ということをさせるのだろう。
父に随行出来たローレンツは議場に隣接する待合室で、他の家臣と共に円卓会議の終わりを待っていた。懐にはあの邪視避けを忍ばせている。会議はいつも通り紛糾しているらしい。議場に通じる扉が内側から勢いよく開き、中からクロードや諸侯たちが現れた。
「一旦休憩だ!二時間後に再開する。お、ローレンツも来てたのか。ちょっと顔貸せよ」
視線だけで父に行ってくる、と伝えるとローレンツはクロードと共に待合室から退室した。どこに通されたとしても二人きりになれた部屋に邪視避けをこっそり置いていけばよい。
通されたのはおそらくクロードの私室で、大袈裟な身振り手振りで何があるのか説明している。
「君の部屋とは思えないほど片付いているな」
「雇うなら勤勉な召使に限る」
ローレンツは勧められるままに長椅子に座り、後ろ手で背もたれと座面の隙間にこっそり邪視よけのお守りを押し込めた。
4
星辰の節の約束を守るためクロードが今からガルグ=マクに行くことを知る者は少ない。竜舎で飛竜の装備を確認していると少数派であるナデルがやってきた。
「坊主、どうしたんだ?珍しいな、邪視よけのお守りなんか首にかけて」
わざわざクロードを見送りに来てくれた彼はこのお守りを見てもローレンツのように苛烈な反応を示さない。何となくだよ、と言って服の中にお守りをしまい込むとクロードは飛竜に飛び乗った。
五年ぶりに訪れたガルグ=マクは密偵の報告と同じく荒れ果てている。クロードはフォドラの中央でどこへ行くにも便利な場所をエーデルガルトが放置していたことが信じられなかった。ベレトも含め、盗賊たちの巣窟と化したかつての母校に駆けつけてくれた皆の姿が頼もしい。ベレトの周りに人の輪が出来ている。彼はいつも質問攻めにされていて、それは学生時代と変わらない。懐かしい光景を目にしたクロードが少し離れた場所で微笑んでいるとローレンツに肩を叩かれた。彼もクロードと同じく平民の学生にベレトと話す機会を譲ってやっていた。
「クロード、君この先どうするつもりなのだ?」
いつも大きな声で朗々と語る彼に耳打ちされる。顔と顔が近づいたので彼が嗜みでつけている薔薇の香りが漂ってくる。
「ローレンツならどうする?」
クロードは大きく鼻で息を吸ってから質問に質問で返した。ローレンツは口を曲げ、眉間に皺を寄せている。笑顔のクロードが敢えて言わなかったこと、を口にさせられるからだ。
「僕たちは可能な限り長く、先生と共にあるべきだ」
彼の答えには迷いがない。ここ五年、彼なりにずっと考えていたのだろう。そして下品なものが嫌い、と公言するだけあってローレンツの物言いは実に上品だった。
大司教レアは帝国軍を迎撃する前、自分に何かあればベレトに後事を全て委ねると明言していた。セテスですら戸惑っていたのでクロードたちは今もその理由を知らない。とにかくどこへ行くのも便利なガルグ=マクを占有する根拠となる彼を王国に奪われるわけにはいかない。成り行き次第ではベレトという餌でセイロス騎士団を釣り上げられる。
「流石はローレンツ先生だな」
クロードが軽く揶揄うとローレンツは露骨に嫌な顔をした。くるくると表情が変わる様を見ると再会できたのだと言う実感が湧く。ローレンツはデアドラに来る機会を逃さなかった。だから謝肉祭の度に、円卓会議の度にクロードは彼とこんな軽口を叩いている。しかし肌を重ねられたとしてもその翌週には離れ離れになっていた。
だが今やガルグ=マク大修道院はクロードの掌中にある。勝ち続ける限りはローレンツと共にいられるだろう。
ガルグ=マク大修道院には貴賓室もあるのにローレンツも含めて皆、そちらを使おうとしなかった。中断してしまった学生生活のやり直しという気持ちがあるのだろう。皆、私物をかつて自分が使っていた学生寮の部屋に運び込んでいた。毎朝、空気を入れ替えるため窓や扉を開けていると懐かしい声がローレンツの耳に届く。隣室にはクロードがいて、何の理由もなく夕食も朝食も共にしている。
それでも今は戦時下で、現在は王国の攻略にかかりきりな帝国も、いつ同盟へ牙を剥くか分からない。だから先んじてミルディン大橋に蓋を、と言う状況だ。だからこんなことをしている場合ではないのだが───埃が入らないように伏せておいた白磁の茶器を手に取るとそこに小さな白い袋があったので再会し、共にあることを強く実感する
昨晩クロードがローレンツの部屋で過ごしたついでに置いていったのだ。きっと先日、ローレンツがクロードが薬を作るのに使う摺鉢の中に邪視よけを置いていった仕返しに違いない。離れ離れだった頃は隠し方が慎重だったが、近頃は押し付け方が二人とも雑になっていた。
この信じられない形をした邪視よけのお守りは今や数日ごとに持ち主を変えている。ローレンツはベレトや仲間たちと手合わせをすると槍の振るい方に凄みが出てきた、と褒められるようになった。きっと、こんな物を遺品にするわけにいかないという思いが気迫となって表れているのだろう。
ローレンツは小さな袋を取り出し、白磁の茶器を再び伏せると書庫から借りた本を手に隣室の扉を叩いた。いてもいなくてもどちらでも構わない。彼と共に過ごしていると細かい用事なら毎日いくらでも湧いてでてくる。
「クロード、いるのか?」
「ちょっと今は手が離せないから勝手に入ってくれ」
言われた通り勝手に扉を開けるとクロードが硝子の棒で液体をかき混ぜていた。机上に砂時計があるので砂が落ち切るまで他のことができないのだろう。
「書庫に行くついでに君が勝手に持ち出した禁帯出の本を戻してくる」
禁帯出の本は背表紙に印がつけてあるのですぐにわかる。ローレンツは手も目も離せないクロードに聞こえるように、本を一冊ずつ書名を読み上げてやることにした。甘やかしすぎかもしれない。
「上巻は読み終わったけどまだ下巻は読み終わってない」
「借りたがっている者がいるのだから、どちらも一度返せ。次は一冊ずつ借りるのだ」
クロードの目は砂時計と手元に、耳は話しかける声に集中している。ローレンツはその隙に本棚の整理をしてやりながら、クロードが本立てにしている小物入れの中に小さな袋を押し込んだ。
5
神話のような出来事を経て、ついに大乱は終結したが、これでもクロードの野望にはまだ足りない。道半ばといった所だ。
これから皆、故郷がまだ健在であることに感謝してそれぞれの暮らしに戻る。五年前のような慌ただしい別れではないことが救いといえば救いだろうか。近々、ベレトを王とした統一王国が発足する。首都がデアドラになる理由を皆、誤解していた。クロードがいるからデアドラになるわけではない。クロードがいなくなるからデアドラになるのだ。
その誤解を悪用して姿を消すクロードに言えたことではないのだが、とにかく名残惜しい。今はこの身体に流れるパルミラの血に従うが東に戻ればきっとフォドラを懐かしむ。特に隣で眠るローレンツの滑らかで温かな肌を恋しく思うだろう。
喉の渇きで目を覚ましたクロードは油が切れ、消えかけている明かりを頼りに水差しに汲んでおいた水を飲んだ。静かに寝息を立てているローレンツはまだ起きる気配がない。汗で額に張り付いている真っ直ぐな紫の髪をそっと耳にかけてやった。人間の贅沢は際限がない。毎日共に過ごせるだけで満足していたのに、数節後には同じ部屋で朝を迎えられないことを残念に思うようになった。
ローレンツは今日、グロスタール領に戻る。真面目な彼はそのための荷造りをほぼ終えていて、その前に隠し持っていた帳面の中身を全て写し終えられたのは僥倖と言えるだろう。彼の書いた詩は会えない間の慰めになる。鍵付きの箱の中に帳面をそっと戻す際、クロードは邪気よけのお守りも一緒に入れておいた。ネメシスの軍勢と戦って負傷した父エルヴィンの傷が癒えるまで、彼は自領で政務に邁進することになる。当分、詩を書く時間は取れないだろう。
寝台の脇に用意しておいた水差しがほぼ空になっていたことに気づいたクロードはそっとローレンツに口付けをした。きっと自分たちはお互いに相手のことを夢に見るだろう。夢で会えたとしてもこの先、何日も何日も瞼が上がった瞬間には一人にしてしまうのだから今日くらいは一緒にいてやりたい。
「ごめんな、まだ眠いよな。ちょっと水を汲んでくる。雨戸開けていいか?」
再会した頃より随分と日の出が早くなっている。空はもう白み始めていた。瞼が上がり美しい紫の瞳が現れたが、明け方の光が眩しいのかすぐにまた下りてしまう。
「ん……分かった……」
窓を開ける音、寝巻きを羽織る音、足音、甕から水差しに柄杓で水を汲む音。微睡んでいるローレンツはクロードの立てる物音を楽しんでいた。
彼をパルミラの王宮に呼び寄せることに成功したら、微睡みながら庭で放し飼いにしている孔雀が嘴を研ぐ音を楽しんでくれるだろうか。その前に何時間も謝る羽目になるだろうがクロードはその日が楽しみだった。
重傷を負って治療に専念する父エルヴィンに代わって必死で領内の被害回復に努めているローレンツの下に、デアドラからの使いとしてツィリルがやって来た。デアドラで何かあったとして───何故クロードからの使い、ではないのだろう。ベレトはガルグ=マクでの戦後処理を終え、デアドラに移ったばかりだ。何故、ナルデールではないのだろう。
「ツィリルくん、何があったのだろうか?」
「ねぇ、ローレンツ。クロードがどこにいるか知らない?あの人、居なくなっちゃったんだよ」
ローレンツはエドギア中に聞こえるような大声で、ただひたすら叫びたかった。しかしそう言うわけにはいかない。手にした茶器の持ち手をきつく持ち、何とか受け皿に戻すことに成功した。
「何故、僕に聞くのだろうか?」
「ボクたち、誘拐なのかどうかも分かんないんだよね。ローレンツは心当たりとか……ないの?仲良かったでしょ」
「仲が良かったと言うならツィリルくんこそ……」
クロードと違い、ツィリルは最初からパルミラ出身であることを皆に明かしている。彼は当てが外れて失望していることを隠しもしない。
「心当たりがないならいいや。ボクはヒルダのところに行くから何か思いついたら急いで先生に教えてあげてよ」
「待ちたまえ。ナルデールはデアドラにいるのだろうか?」
ツィリルは首を横に振った。
「ゴネリルでホルスト卿にナルデールの行方を知らないか、併せて聞いてみるといい。そこからたぐれるかもしれない」
「ありがと、さすがローレンツだ。じゃ、ボクは行くね」
ローレンツは何とか一日を終わらせ、軽い夕食を取ると自室に戻った。もし、誘拐や暗殺だったら───明日以降の政務に差し障りを出すわけにはいかない。久しぶりにローレンツは詩を書き連ねていたあの帳面を必要としていた。クロードは無事なのだろうか。
洋灯の油とインク壺の残量を確かめたローレンツは念のため、内鍵をしめてから箱を隠し場所から取り出した。腰につけていた鍵束から鍵を選び、箱を開けた瞬間の感情をどう表現すべきか。怒り、喜び、屈辱、懐かしさ、困惑、安堵───箱の中には詩を書き連ねていた帳面とあのおぞましい造形をした邪視よけのお守りが入っていた。
クロードは最初から、終戦後には姿を消すつもりだったらしい。絶対にこの邪視よけをローレンツの手元に、という強い意志を感じる。
「クロードめ……地の果てにいようとこの僕が必ず探し出してみせるからな……」
ローレンツは自らを奮い立たせるため帳面を開き、インク壺に硬筆の先を浸した。
6
クロードの予想はあたった。やはりローレンツはクロードの置き土産にしばらくの間、気が付かなかったらしい。そんな彼の生き様を見ているとクロードは善因善果、という言葉を思い出す。エルヴィンが治療に専念できるよう全力で政務に取り組んだから最速で領地を父に預けられるようになった。
エドマンド辺境伯に出し抜かれるわけにいかない、と言う思惑も確実にあっただろう。だが父の望み通りベレトの政務を助け、首飾りで二度目の再会を果たしている。
国交樹立と通商および和平条約の締結に向け、デアドラとパルミラの王都にひとまずフォドラ-パルミラ交流協会が設置されることとなった。ベレトの〝クロードといえばローレンツだから〟という言葉により、引き続き彼は両国を忙しく行き来している。まずはパルミラのことを知りたい、という彼をクロードは快く案内していた。
その一環で遊牧民たちが羊や馬、それに飛竜や天馬を放牧する草原に来ている。今でこそクロードの一族、つまり王族は定住しているが遠い祖先はこんな風に草原を移動しながら暮らしていた。クロードにとっても原風景にあたる草原を見たローレンツはその広大さに感心している。
「あぁ、皆なんて愛らしいのだろう」
春なので仔羊や仔馬の時期でもあった。彼らの価値は愛らしさだけではない。牧畜が盛んなグロスタール領出身のローレンツはそれも分かっているだろう。
「仔羊に触っても構わない、とさ」
逃げ出さないように囲った柵の中には愛らしい仔羊たちが沢山いる。これだけ羊がいれば食べさせるためにかなり移動するはずだ。広大な土地がなければ遊牧民である彼らは生きていけない。そしてクロード、いや、カリード王の祖先もかつてはこんな風に暮らしていたらしい。文化の違いはそう言った地理的なところから生まれるのだろう。だがこればかりは実際にどこまでも煌めく緑が続くこの地を見なければ理解できないかもしれない。
王の言葉に甘えたローレンツは遠慮なく、柵に入った。仔羊を撫でると温かくて柔らかな命そのものに触れたような気分になる。あまりの可愛らしさに中でも小柄な仔羊を抱き上げた時、ローレンツはあることに気付いた。首輪に見覚えのあるものが付けてある。よく見ると全ての仔羊にあの信じられない形をした、正視に耐えない邪視よけが着けてあった。
ローレンツが悲鳴を堪えてカリード王、いや、クロードを横目で見ると彼は必死に笑いを堪えている。
「大事な大事な宝物だぞ。取って食おうとする奴の視線から守りたいと思うのは当たり前だろ?」
そう言ってローレンツを見つめる緑の瞳は煌めく草原のように美しかった。畳む
#クロロレ #アンソロ参加作品
1
クロードは祖父に言われるがまま士官学校に入ったが、これがなかなか面白い。立地条件も非常に良かった。ガルグ=マクは三国のちょうど中間地点にあるのでどの国の本も満遍なく書庫に入っている。それに何と言っても地下に謎の空間があるのが最高だ。
最初はそんな大きな謎にばかり目を奪われていたが身近なところにも謎は満ちている。ディミトリは夜な夜な何を調べているのか、ヒューベルトは修道院にいない時にどこで何をしているのか。マリアンヌは何を隠しているのか、リシテアの身に何が起きたのか。
一方で歴史の古い名家に名を連ねていても何の秘密も抱えていない者たちもいる。ヒルダとローレンツだ。ヒルダの兄ホルストはパルミラにもその名が知れ渡っているのでパルミラにいた頃から、クロードは彼のことを知っていた。当然そんなことを言えるはずもないが彼女とはとにかく気が合う。
問題はローレンツだ。彼もヒルダと同じく謎は一切ないのにクロードには彼が全く理解できない。よくいる親の写しのような子、と言う枠に彼は収まらなかった。
清廉そうな見た目をしている割に女学生の殆ど全てに声をかけている。それに加えてローレンツはガルグ=マクでクロードと和やかに挨拶を交わした次の瞬間、いきなり「盟主の座に相応しい人物かどうか見極めさせてもらう」と宣言したのだ。
「水面を観察する時にどうして石を放り込むんだ?」
「君は騙し討ちが好みか。だがな、グロスタール家の嫡子である僕とリーガン家の嫡子である君は死ぬまで縁が切れないのだぞ。それなら堂々としていた方がいいだろう」
何にしても入学したその日から紫色の瞳は共に自領を治めるに相応しいご令嬢、を探していない時に限ってクロードを見つめている。当初は聞き流していたが叱りつけられて助かった件もあった。個別に誕生日を祝う風習がないパルミラ出身のクロードは皆の誕生日を覚えていない。だがガルグ=マクに進学した平民の学生たちは王族や皇族、それに爵位を持つ貴族の級長から誕生祝いをもらったことを生涯誇るのだと言う。
ローレンツの叱言のおかげで春生まれの学生はクロードから誕生日を無事に祝ってもらえた。誠意を表すためクロードは蒸留酒の酒瓶を手に隣室を訪れている。
「助かったよ、今後は気をつける」
「リーガン家に入ってそんなに経っていないのだから仕方がない。今後は気をつけることだ」
二日前から当日にかけての罵声からは想像がつかないほどローレンツの反応はあっさりしていた。後は寝るばかりといった格好で酒を楽しむ彼を一言で表すなら〝柔らかい〟だろうか。クロードはローレンツの配偶者探しが難航している理由をいくらでも思いつく。だが、彼の美点もいくらでも思いつくようになった。
セイロス騎士団の者たちも教員たちも中央教会の者たちも皆、口を揃えて今年度はおかしい、と言う。魔道学院の時と同じく、帰国を促されるかもしれないと思いつつローレンツは父に宛てて毎節手紙を書いていた。クロードの為人について報告する時は筆が滑りがちになる。
春頃は名家の者として危ういことが多かった。ローレンツのように物心がついた時から嫡子として育てられた者とほんの数年前にリーガン家に引き取られ、付け焼き刃で嫡子としての教育を施された者は違う。だが奉仕活動、の名目で毎節必ず戦場へ赴くようになってからは見違えるほど頼もしくなった。
それにクロードの言を借りるなら、彼が〝異物〟であることはそんなに悪いことではない。感性が違ったおかげで二人揃って恐怖に潰れるようなことがなかったのだ、とローレンツは痛感している。
クロードは英雄の遺産がシルヴァンの兄マイクランをおぞましい魔獣に変えた晩、動揺したローレンツを優しく受け入れてくれた。今晩のローレンツは嵐の海に浮かぶ板切れに過ぎない。
毎日しつこく注意しているのに寝台に本が積み上げられていたが、クロードは気にせず寝台に座るローレンツに縋りついている。貴重な本が崩れ落ちて傷んだら、と思うが最終的に仰向けになってしまったため今は片付けられない。クロードをきつく抱きしめて頭や肩が本にぶつからないようにしてやるしかなかった。
「俺もあいつらと同じなんだ。俺も知りたいと思ったら止まれない」
「確かに君は何でもかんでも暴きたがる」
先ほどから会話は成立しないしローレンツの寝巻きは涙で温かく濡れている。だが、偉そうなことは絶対に言えない。ルミール村で目撃したものの詳細を言葉にしてしまったらきっとローレンツも今のクロードと同じような状態になるだろう。
「あいつら、出来るからやってみただけ、って……」
「だが君は相手の意思を尊重するだろう?」
だからローレンツたちは真夏のあの晩に最後の一線を越えていない。引き返そうと思えば奇妙な友情ということにしてまだ引き返せるだろう。己の冷徹さに怯えて自問自答を繰り返すクロードは混乱し、彼が持つ美徳について忘れている。
それを思い出させてやりたくてローレンツはクロードの耳飾りに舌を這わせた。言葉をかけても耳に届かないなら行為で伝えてやるしかない。
「えっ、あっ……今のって……」
「クロード、君がおかしなことを始めたら絶対にどんなことをしてでも僕が止めてやる。秘密にしても無駄だぞ。僕が気づかない筈がないだろう?」
ローレンツはそう言ってあの晩の続きをするか否かをクロードに委ねた。
2
季節は巡り、一年制の士官学校での暮らしが終わりつつあった。つまりクロードの子供時代はこれで終わってしまう。学生たちは波乱含みの時を過ごしたせいか皆、入学前と今とでは大違いだ。そうでなければ士官学校にいた意味がないと言うのは大前提として───クロードはローレンツに関して実に身勝手で理不尽な思いを抱いている。
入学当初、女子学生たちは皆、ローレンツを嫌がっていた。だがベレトの助言を受け入れた今は評価が真逆になりつつある。クロードは彼を身勝手な視線から守りたいと思っているが、皮肉なことに彼を最も邪な目で見ているのは自分だった。己の欲望を理解すればするほどおかしなことになっていく。
自己の矛盾に疲れていたクロードは懐かしい故郷の品を扱う東の商人が、荷車に小さな邪視よけのお守りをくくりつけていることに気づいた。人間は己の無力さを直視したくない時、信心に走ってしまうらしい。
気がつけばクロードは邪視よけのお守りを入手していた。フォドラのお守りとは設計思想が異なり、そっと揺らすと鈴の音がする。実に効き目がありそうな見た目をしていた。
気を使った商人が小さな布の袋に入れてくれたので、クロードもなんとなくお守りを袋に戻す。実はローレンツもクロードと同じくこの手のものを信じない。だが、クロードは夜の寒さを言い訳にして毎晩のようにローレンツを呼んだり、彼の部屋に入ったり、を繰り返しているからそっと置いてくればいい。児戯にも等しい行為だった。
昼に買った邪視よけのお守りと人には言えない行為に必要な軟膏を懐中に忍ばせてクロードは隣室の扉を叩いた。今日、黒鷲の者たちは泊まりがけで演習に出ている。
ローレンツもクロードと過ごす機会を逃したくない、と思っていたようで有意義な時を共に過ごした。手持ちの軟膏は使い切ってしまったので速やかに調合せねばならない。
今はローレンツが淹れてくれたお茶で乾いた喉を潤している。少し前の彼は万が一に備え、事後にはすぐに服装を整えていたが今は雑に寝巻きを羽織っているだけだ。軽くて触り心地の良い絹で出来ているせいか引き締まった身体の線がむき出しになっている。下履きすら身につけていないことが丸わかりだった。
「これからもこんな感じに穏やかに過ごしたいよな」
「それは僕たちの手腕次第だろう」
口には出さないがローレンツはファーガスのことを念頭に置いている。ダスカーの悲劇以来ファーガス神聖王国は統治機能を失いつつあり、その歪みはクロードたちの学生生活にも影響を及ぼしていた。
「そうだな。俺たちは良き領主として民の暮らしを守ってやらないと」
「それが選良の義務というものだ」
きっとその営為が糸をたぐるようにクロードの野望実現にも繋がっていくのだろう。
クロードが去った後、部屋を片付けていたローレンツは小さな白い袋を見つけた。ちょうどクロードが座っていたあたりなのでおそらく彼の忘れ物だろう。
手にとった際、微かに鈴のような音がした。鈴なら音がわかりやすいように袋から出して使う。不思議に思って袋の紐を解いたことをローレンツは後悔した。生まれてこの方こんな酷い造形物は見たことがない。一点物なのか、それとも金型があるのか。
これ、が大量に並べられている光景を想像したローレンツは自分が本当に、微かに震えていることに気がついた。仮にこれがクロードの所有物だとして、何に使うのかローレンツには全く分からない。とりあえず、落ち着きを取り戻すため再び小さな白い袋の中に戻した。
中身を見なかったことにできるか、はローレンツの精神力にかかっている。単純に忘れ物を届ける体でクロードに返そう、そんな風に無理やり自分を説得しローレンツは無理やり目を閉じた。目を閉じても先ほど目にしてしまった造形物の形が脳裏に浮かぶ。
先ほどローレンツの身体を暴いたもの、を参考に作られたのだろう。まるで腰を下ろして座っている犬のようだが、本来なら愛らしい顔のある筈の部分に信じられない部位がある。そして、その脚の間にも同じ形のものがついている。職人が本体と見做したものと同じく興奮しきっていた。
一体、どんな暮らしをしていればあんな形のものを思いつくのか。なんとか考えを逸らすため仕方なく、ローレンツは眠りにつくまで延々とセイロス教の聖句を繰り返し呟いた。後日、改めて女神に懺悔の祈りを捧げねばならない。
翌朝、あまり良く眠れなかったローレンツは急いで身仕度を整えると隣室の扉を強めに叩いた。
「起きろ、クロード!用事がある」
迫力に恐れをなしたのか内側から扉が開いたので無理やり室内に一歩踏み込む。クロードはまだ寝巻き姿のまま眠そうにしていた。ローレンツは後ろ手で扉を閉めるとクロードの手に小さな袋を押し付けた。褐色の手が袋を握って昨晩のローレンツと同じく、中身の形状を確かめている。
「忘れ物だ。その品のことは秘密にしてやるから」
「お前にあげようと思って市場で買ったんだよ。これ、俺の故郷の邪視よけなんだ」
嫉妬は古来数多くの人々を破滅に導いた。そして確かにローレンツは才気煥発かつ眉目秀麗なので嫉妬の対象になってもおかしくない。だが、こんな代物を持っていると知れたら嫉妬もされなくなるだろう。
「厚意だけもらっておこう。品は君が持っているといい」
「効き目があるはずなんだがなあ……」
誕生日祝いの品はまともだったのに何故、邪視よけのお守りに関しては美的感覚が壊れているのか。
「それなら将来の盟主たる君の手元にあった方が良い。僕はこれで失礼する」
勢いで返却に成功したローレンツは急いでクロードの部屋を後にした。
3
良き領主として民の暮らしを守らねば、と語り合っていたローレンツとの別れは唐突に訪れた。彼との生涯にわたる付き合い、が途切れたわけではない。帝国軍のガルグ=マク大修道院侵攻により当時の学生たちは皆、散り散りになっている。平民の学生たちとクロードはあれっきり会えていない。定期的に会えるのは嫡子にするためにエドマンド家に引き取られたマリアンヌ、爵位返上がらみで事務処理をせねばならないリシテア、そしてグロスタール家の嫡子であるローレンツくらいだろうか。
あの邪視よけはガルグ=マクにいた頃、ローレンツと離れ離れになる寸前までお互いに押し付けあった。彼がクロードの祖父オズワルドの葬儀に出席してくれた際に返してきたので今はクロードの懐にしまわれ、出番を待っている。
今やレスター諸侯同盟の盟主は羨望の対象ではない。円卓会議は今まで以上に紛糾し国の舵取りを担うクロードの負担は日々増していくばかりだ。楽しいことといえば春先の謝肉祭で開催宣言をするくらいだろうか。
オズワルドが亡くなって一年経っていないので喪に服すべきという意見もあった。だがクロードと気が合った祖父は賑やかな行事が好きだったし、謝肉祭を中止にしていたらクロードは喧しい劇伴を背に桟敷席でローレンツと口付けしていないだろう。一度演奏が始まると小休止を迎えるまで会話ができないから仕方がない。
それに目に映るものの中で嘘をついていないのは太陽の光だけ、というこの時期のデアドラでは正体を探らないのが嗜みだ。貴婦人でも道化師でもないどこかの何者かが睦み合っているに過ぎない。
クロードはそっとローレンツの背中に手を回しドレスの紐を引っ張った。金糸で見事な薔薇の刺繍が施してあるドレスは他人に身体を触らせなければ着ることも脱ぐことも出来ない。クロードはグロスタール家の上屋敷にいる召使たちがほんの少しだけ妬ましかった。やはり邪視よけは彼の近くにあることが望ましい。きっと彼の周囲にいる者たちのことも守ってくれるだろう。
ローレンツが仕返しのようにクロードの耳飾りを引っ張るのでクロードは背中で悪さをするのを中断し、唇を離さざるを得なかった。何のつもりか問いたかったが、まだ会話は出来ない。そっと顔に手巾を押し当てられた。そのまま、子供のように顔を拭かれているとようやく劇伴が止まり、舞台上にいる役者の声がクロードたちの座る桟敷席にも聞こえてきた。これでようやく会話が出来る。
「すまない、顔に紅がついてしまった」
「そのままでよかったのに」
そう言ってクロードはローレンツに笑いかけた。顔に紅が残っていても街中の人々からはそれもまた仮装の一環、と思われただろう。本当に恋人と熱烈な口付けをしたかどうかなど分かりはしない。
きっと桟敷席で互いに服を緩めた時に仕込まれたのだ。きっとあのおぞましい邪視避けがドレスの隠しに入っている。ドレスは裾を膨らませるため何枚も下着を身につけるし、骨組みも入っている。その上で護身用の短剣を仕込むため隠しを大きくしておいたから分からなかったのだろう。ローレンツは上屋敷で召使に仮装をまさに解いてもらっている時にようやく、クロードに仕返しされたことに気づいた。
「ああ、ちょっと待ちたまえ。短剣が入っているのでね」
隠しに手を突っ込むと、やはりあの布に包まれたおぞましい邪視よけの感触がする。短剣と一緒にそっと卓の上に置いた。来年はこの仮装に相応しい瀟洒な飾りがついた剣帯をつけ、隠しは縫い付けてしまおう。買い食い用の銅貨や銀貨は腕輪にして持ち歩けばいい。
「若様、こちらの袋は……?」
「いや、それも短剣も僕が片付けておくので先にこちらを緩めてくれたまえ」
今年もお美しかったですよ、と言って紐を解いてくれる古株の召使はまだ肌寒いというのにグラップラーの格好をしている。彼も謝肉祭の時期だけ日頃は仕事にふさわしい格好の内に秘めている真実を晒す。
召使が部屋から去ってすぐ、ローレンツはクロードに押し付けられた邪視よけを人目につかないところに隠した。次に円卓会議に随行できる日まで何とかして隠し通さねばならない。
そろそろ夏が近づこうという頃、帝国への対応を決定するためデアドラで円卓会議が開かれることとなった。近頃のエルヴィンはローレンツに留守を任せることが多い。あのおぞましい邪視避けがクロードの元にあるなら、父の留守を預かることは名誉なことだ。だが今は一刻も早く彼にあの邪視避けを押し付けにいきたい。まったく、名誉あるグロスタール家の嫡子に何ということをさせるのだろう。
父に随行出来たローレンツは議場に隣接する待合室で、他の家臣と共に円卓会議の終わりを待っていた。懐にはあの邪視避けを忍ばせている。会議はいつも通り紛糾しているらしい。議場に通じる扉が内側から勢いよく開き、中からクロードや諸侯たちが現れた。
「一旦休憩だ!二時間後に再開する。お、ローレンツも来てたのか。ちょっと顔貸せよ」
視線だけで父に行ってくる、と伝えるとローレンツはクロードと共に待合室から退室した。どこに通されたとしても二人きりになれた部屋に邪視避けをこっそり置いていけばよい。
通されたのはおそらくクロードの私室で、大袈裟な身振り手振りで何があるのか説明している。
「君の部屋とは思えないほど片付いているな」
「雇うなら勤勉な召使に限る」
ローレンツは勧められるままに長椅子に座り、後ろ手で背もたれと座面の隙間にこっそり邪視よけのお守りを押し込めた。
4
星辰の節の約束を守るためクロードが今からガルグ=マクに行くことを知る者は少ない。竜舎で飛竜の装備を確認していると少数派であるナデルがやってきた。
「坊主、どうしたんだ?珍しいな、邪視よけのお守りなんか首にかけて」
わざわざクロードを見送りに来てくれた彼はこのお守りを見てもローレンツのように苛烈な反応を示さない。何となくだよ、と言って服の中にお守りをしまい込むとクロードは飛竜に飛び乗った。
五年ぶりに訪れたガルグ=マクは密偵の報告と同じく荒れ果てている。クロードはフォドラの中央でどこへ行くにも便利な場所をエーデルガルトが放置していたことが信じられなかった。ベレトも含め、盗賊たちの巣窟と化したかつての母校に駆けつけてくれた皆の姿が頼もしい。ベレトの周りに人の輪が出来ている。彼はいつも質問攻めにされていて、それは学生時代と変わらない。懐かしい光景を目にしたクロードが少し離れた場所で微笑んでいるとローレンツに肩を叩かれた。彼もクロードと同じく平民の学生にベレトと話す機会を譲ってやっていた。
「クロード、君この先どうするつもりなのだ?」
いつも大きな声で朗々と語る彼に耳打ちされる。顔と顔が近づいたので彼が嗜みでつけている薔薇の香りが漂ってくる。
「ローレンツならどうする?」
クロードは大きく鼻で息を吸ってから質問に質問で返した。ローレンツは口を曲げ、眉間に皺を寄せている。笑顔のクロードが敢えて言わなかったこと、を口にさせられるからだ。
「僕たちは可能な限り長く、先生と共にあるべきだ」
彼の答えには迷いがない。ここ五年、彼なりにずっと考えていたのだろう。そして下品なものが嫌い、と公言するだけあってローレンツの物言いは実に上品だった。
大司教レアは帝国軍を迎撃する前、自分に何かあればベレトに後事を全て委ねると明言していた。セテスですら戸惑っていたのでクロードたちは今もその理由を知らない。とにかくどこへ行くのも便利なガルグ=マクを占有する根拠となる彼を王国に奪われるわけにはいかない。成り行き次第ではベレトという餌でセイロス騎士団を釣り上げられる。
「流石はローレンツ先生だな」
クロードが軽く揶揄うとローレンツは露骨に嫌な顔をした。くるくると表情が変わる様を見ると再会できたのだと言う実感が湧く。ローレンツはデアドラに来る機会を逃さなかった。だから謝肉祭の度に、円卓会議の度にクロードは彼とこんな軽口を叩いている。しかし肌を重ねられたとしてもその翌週には離れ離れになっていた。
だが今やガルグ=マク大修道院はクロードの掌中にある。勝ち続ける限りはローレンツと共にいられるだろう。
ガルグ=マク大修道院には貴賓室もあるのにローレンツも含めて皆、そちらを使おうとしなかった。中断してしまった学生生活のやり直しという気持ちがあるのだろう。皆、私物をかつて自分が使っていた学生寮の部屋に運び込んでいた。毎朝、空気を入れ替えるため窓や扉を開けていると懐かしい声がローレンツの耳に届く。隣室にはクロードがいて、何の理由もなく夕食も朝食も共にしている。
それでも今は戦時下で、現在は王国の攻略にかかりきりな帝国も、いつ同盟へ牙を剥くか分からない。だから先んじてミルディン大橋に蓋を、と言う状況だ。だからこんなことをしている場合ではないのだが───埃が入らないように伏せておいた白磁の茶器を手に取るとそこに小さな白い袋があったので再会し、共にあることを強く実感する
昨晩クロードがローレンツの部屋で過ごしたついでに置いていったのだ。きっと先日、ローレンツがクロードが薬を作るのに使う摺鉢の中に邪視よけを置いていった仕返しに違いない。離れ離れだった頃は隠し方が慎重だったが、近頃は押し付け方が二人とも雑になっていた。
この信じられない形をした邪視よけのお守りは今や数日ごとに持ち主を変えている。ローレンツはベレトや仲間たちと手合わせをすると槍の振るい方に凄みが出てきた、と褒められるようになった。きっと、こんな物を遺品にするわけにいかないという思いが気迫となって表れているのだろう。
ローレンツは小さな袋を取り出し、白磁の茶器を再び伏せると書庫から借りた本を手に隣室の扉を叩いた。いてもいなくてもどちらでも構わない。彼と共に過ごしていると細かい用事なら毎日いくらでも湧いてでてくる。
「クロード、いるのか?」
「ちょっと今は手が離せないから勝手に入ってくれ」
言われた通り勝手に扉を開けるとクロードが硝子の棒で液体をかき混ぜていた。机上に砂時計があるので砂が落ち切るまで他のことができないのだろう。
「書庫に行くついでに君が勝手に持ち出した禁帯出の本を戻してくる」
禁帯出の本は背表紙に印がつけてあるのですぐにわかる。ローレンツは手も目も離せないクロードに聞こえるように、本を一冊ずつ書名を読み上げてやることにした。甘やかしすぎかもしれない。
「上巻は読み終わったけどまだ下巻は読み終わってない」
「借りたがっている者がいるのだから、どちらも一度返せ。次は一冊ずつ借りるのだ」
クロードの目は砂時計と手元に、耳は話しかける声に集中している。ローレンツはその隙に本棚の整理をしてやりながら、クロードが本立てにしている小物入れの中に小さな袋を押し込んだ。
5
神話のような出来事を経て、ついに大乱は終結したが、これでもクロードの野望にはまだ足りない。道半ばといった所だ。
これから皆、故郷がまだ健在であることに感謝してそれぞれの暮らしに戻る。五年前のような慌ただしい別れではないことが救いといえば救いだろうか。近々、ベレトを王とした統一王国が発足する。首都がデアドラになる理由を皆、誤解していた。クロードがいるからデアドラになるわけではない。クロードがいなくなるからデアドラになるのだ。
その誤解を悪用して姿を消すクロードに言えたことではないのだが、とにかく名残惜しい。今はこの身体に流れるパルミラの血に従うが東に戻ればきっとフォドラを懐かしむ。特に隣で眠るローレンツの滑らかで温かな肌を恋しく思うだろう。
喉の渇きで目を覚ましたクロードは油が切れ、消えかけている明かりを頼りに水差しに汲んでおいた水を飲んだ。静かに寝息を立てているローレンツはまだ起きる気配がない。汗で額に張り付いている真っ直ぐな紫の髪をそっと耳にかけてやった。人間の贅沢は際限がない。毎日共に過ごせるだけで満足していたのに、数節後には同じ部屋で朝を迎えられないことを残念に思うようになった。
ローレンツは今日、グロスタール領に戻る。真面目な彼はそのための荷造りをほぼ終えていて、その前に隠し持っていた帳面の中身を全て写し終えられたのは僥倖と言えるだろう。彼の書いた詩は会えない間の慰めになる。鍵付きの箱の中に帳面をそっと戻す際、クロードは邪気よけのお守りも一緒に入れておいた。ネメシスの軍勢と戦って負傷した父エルヴィンの傷が癒えるまで、彼は自領で政務に邁進することになる。当分、詩を書く時間は取れないだろう。
寝台の脇に用意しておいた水差しがほぼ空になっていたことに気づいたクロードはそっとローレンツに口付けをした。きっと自分たちはお互いに相手のことを夢に見るだろう。夢で会えたとしてもこの先、何日も何日も瞼が上がった瞬間には一人にしてしまうのだから今日くらいは一緒にいてやりたい。
「ごめんな、まだ眠いよな。ちょっと水を汲んでくる。雨戸開けていいか?」
再会した頃より随分と日の出が早くなっている。空はもう白み始めていた。瞼が上がり美しい紫の瞳が現れたが、明け方の光が眩しいのかすぐにまた下りてしまう。
「ん……分かった……」
窓を開ける音、寝巻きを羽織る音、足音、甕から水差しに柄杓で水を汲む音。微睡んでいるローレンツはクロードの立てる物音を楽しんでいた。
彼をパルミラの王宮に呼び寄せることに成功したら、微睡みながら庭で放し飼いにしている孔雀が嘴を研ぐ音を楽しんでくれるだろうか。その前に何時間も謝る羽目になるだろうがクロードはその日が楽しみだった。
重傷を負って治療に専念する父エルヴィンに代わって必死で領内の被害回復に努めているローレンツの下に、デアドラからの使いとしてツィリルがやって来た。デアドラで何かあったとして───何故クロードからの使い、ではないのだろう。ベレトはガルグ=マクでの戦後処理を終え、デアドラに移ったばかりだ。何故、ナルデールではないのだろう。
「ツィリルくん、何があったのだろうか?」
「ねぇ、ローレンツ。クロードがどこにいるか知らない?あの人、居なくなっちゃったんだよ」
ローレンツはエドギア中に聞こえるような大声で、ただひたすら叫びたかった。しかしそう言うわけにはいかない。手にした茶器の持ち手をきつく持ち、何とか受け皿に戻すことに成功した。
「何故、僕に聞くのだろうか?」
「ボクたち、誘拐なのかどうかも分かんないんだよね。ローレンツは心当たりとか……ないの?仲良かったでしょ」
「仲が良かったと言うならツィリルくんこそ……」
クロードと違い、ツィリルは最初からパルミラ出身であることを皆に明かしている。彼は当てが外れて失望していることを隠しもしない。
「心当たりがないならいいや。ボクはヒルダのところに行くから何か思いついたら急いで先生に教えてあげてよ」
「待ちたまえ。ナルデールはデアドラにいるのだろうか?」
ツィリルは首を横に振った。
「ゴネリルでホルスト卿にナルデールの行方を知らないか、併せて聞いてみるといい。そこからたぐれるかもしれない」
「ありがと、さすがローレンツだ。じゃ、ボクは行くね」
ローレンツは何とか一日を終わらせ、軽い夕食を取ると自室に戻った。もし、誘拐や暗殺だったら───明日以降の政務に差し障りを出すわけにはいかない。久しぶりにローレンツは詩を書き連ねていたあの帳面を必要としていた。クロードは無事なのだろうか。
洋灯の油とインク壺の残量を確かめたローレンツは念のため、内鍵をしめてから箱を隠し場所から取り出した。腰につけていた鍵束から鍵を選び、箱を開けた瞬間の感情をどう表現すべきか。怒り、喜び、屈辱、懐かしさ、困惑、安堵───箱の中には詩を書き連ねていた帳面とあのおぞましい造形をした邪視よけのお守りが入っていた。
クロードは最初から、終戦後には姿を消すつもりだったらしい。絶対にこの邪視よけをローレンツの手元に、という強い意志を感じる。
「クロードめ……地の果てにいようとこの僕が必ず探し出してみせるからな……」
ローレンツは自らを奮い立たせるため帳面を開き、インク壺に硬筆の先を浸した。
6
クロードの予想はあたった。やはりローレンツはクロードの置き土産にしばらくの間、気が付かなかったらしい。そんな彼の生き様を見ているとクロードは善因善果、という言葉を思い出す。エルヴィンが治療に専念できるよう全力で政務に取り組んだから最速で領地を父に預けられるようになった。
エドマンド辺境伯に出し抜かれるわけにいかない、と言う思惑も確実にあっただろう。だが父の望み通りベレトの政務を助け、首飾りで二度目の再会を果たしている。
国交樹立と通商および和平条約の締結に向け、デアドラとパルミラの王都にひとまずフォドラ-パルミラ交流協会が設置されることとなった。ベレトの〝クロードといえばローレンツだから〟という言葉により、引き続き彼は両国を忙しく行き来している。まずはパルミラのことを知りたい、という彼をクロードは快く案内していた。
その一環で遊牧民たちが羊や馬、それに飛竜や天馬を放牧する草原に来ている。今でこそクロードの一族、つまり王族は定住しているが遠い祖先はこんな風に草原を移動しながら暮らしていた。クロードにとっても原風景にあたる草原を見たローレンツはその広大さに感心している。
「あぁ、皆なんて愛らしいのだろう」
春なので仔羊や仔馬の時期でもあった。彼らの価値は愛らしさだけではない。牧畜が盛んなグロスタール領出身のローレンツはそれも分かっているだろう。
「仔羊に触っても構わない、とさ」
逃げ出さないように囲った柵の中には愛らしい仔羊たちが沢山いる。これだけ羊がいれば食べさせるためにかなり移動するはずだ。広大な土地がなければ遊牧民である彼らは生きていけない。そしてクロード、いや、カリード王の祖先もかつてはこんな風に暮らしていたらしい。文化の違いはそう言った地理的なところから生まれるのだろう。だがこればかりは実際にどこまでも煌めく緑が続くこの地を見なければ理解できないかもしれない。
王の言葉に甘えたローレンツは遠慮なく、柵に入った。仔羊を撫でると温かくて柔らかな命そのものに触れたような気分になる。あまりの可愛らしさに中でも小柄な仔羊を抱き上げた時、ローレンツはあることに気付いた。首輪に見覚えのあるものが付けてある。よく見ると全ての仔羊にあの信じられない形をした、正視に耐えない邪視よけが着けてあった。
ローレンツが悲鳴を堪えてカリード王、いや、クロードを横目で見ると彼は必死に笑いを堪えている。
「大事な大事な宝物だぞ。取って食おうとする奴の視線から守りたいと思うのは当たり前だろ?」
そう言ってローレンツを見つめる緑の瞳は煌めく草原のように美しかった。畳む
「返答」#クロロレ #クロロレワンドロワンライ参加作品
クロードの隣でローレンツがすうすうと寝息を立てている。ローレンツ自身は起きた時に殆ど夢の内容を覚えていないが、たまに寝言を言う。眠りが浅く、寝つきの悪いクロードの密かな楽しみだった。
深く眠っている時のローレンツは良い意味で力の抜けた顔をしているが、寝言を言う時は眉間に皺が寄る。ローレンツの寝返りで目が覚めてしまったクロードは消えかけた蝋燭の明かりを頼りにローレンツの様子を伺った。首を小刻みに振っているし、眉間に皺が寄っている。
「クロード!君は一体、何を考えているのだ!」
フォドラにいた頃の夢なのか、それとも外交官としてパルミラに赴任してからの夢なのか。
「お前のことだよ、ローレンツ」
クロードは寝汗で額に張り付いた紫の髪をそっと整えてやりながら返事をした。夢の中にいる自分はどんな言葉をローレンツに返したのだろう。知り合ったばかりの頃は彼のつんとした態度のせいで誤解していたが、あの頃から悪意はなかった。まだ短髪だった頃の彼を思い出すと自然とクロードの口元は緩んでしまう。
「何故そんな夢のようなことを……君、まさか寝ぼけているのではあるまいな?」
珍しく夢ではなく現実で会話が成立した。これも七月二十四日、誕生日のささやかな奇跡だと思いたい。
「すぐに返答が欲しい」
クロードはあの時と一言一句、同じことを言ってから滑らかな頬に口付けをした。この先は会話が成立せずともかまわない。彼が今、自分の隣で眠りについていること自体が返答だからだ。畳む
クロードの隣でローレンツがすうすうと寝息を立てている。ローレンツ自身は起きた時に殆ど夢の内容を覚えていないが、たまに寝言を言う。眠りが浅く、寝つきの悪いクロードの密かな楽しみだった。
深く眠っている時のローレンツは良い意味で力の抜けた顔をしているが、寝言を言う時は眉間に皺が寄る。ローレンツの寝返りで目が覚めてしまったクロードは消えかけた蝋燭の明かりを頼りにローレンツの様子を伺った。首を小刻みに振っているし、眉間に皺が寄っている。
「クロード!君は一体、何を考えているのだ!」
フォドラにいた頃の夢なのか、それとも外交官としてパルミラに赴任してからの夢なのか。
「お前のことだよ、ローレンツ」
クロードは寝汗で額に張り付いた紫の髪をそっと整えてやりながら返事をした。夢の中にいる自分はどんな言葉をローレンツに返したのだろう。知り合ったばかりの頃は彼のつんとした態度のせいで誤解していたが、あの頃から悪意はなかった。まだ短髪だった頃の彼を思い出すと自然とクロードの口元は緩んでしまう。
「何故そんな夢のようなことを……君、まさか寝ぼけているのではあるまいな?」
珍しく夢ではなく現実で会話が成立した。これも七月二十四日、誕生日のささやかな奇跡だと思いたい。
「すぐに返答が欲しい」
クロードはあの時と一言一句、同じことを言ってから滑らかな頬に口付けをした。この先は会話が成立せずともかまわない。彼が今、自分の隣で眠りについていること自体が返答だからだ。畳む
※カップリングものではありません
※寝ずの番になった2人が焚き火のそばで怖い話をしているだけです
#ねむけざまし
3.レオニーとクロード
寝ずの番を決めるくじ引きで今回、当たりを引いたのはレオニーとクロードだった。木の陰ですら怖がっていたリシテアを含めて皆、輝く星々の下で幸せそうに意識を手放している。野営訓練に慣れるにつれて皆、すぐに眠るようになった。そうしないとガルグ=マクへの帰路が辛くなってしまう。
「さっきクロードは当たりが出た!って言ってたけどこれはどう考えても外れだろ」
焚き火にあたりながらレオニーは口を尖らせた。火のそばは暖かくて何か話していないと瞼が勝手に下りてきてしまう。
「でもそんなに沢山当たりくじを作ってられないだろ?」
月明かりに照らされたクロードがほんの少し、煽るように茶化してきた。レオニーは今ではすっかり彼のそういった態度に慣れたので特に苛立つことはない。
将来、腕利きの傭兵になるレオニーにとって、級友たちは未来の雇い主候補と言える。しかし揃いも揃って変人だ。春頃は彼らと会話が噛み合わなかったし、何を考えているのかもさっぱり分からなかった。しかし今はその分からなさ、に不安を感じることはない。知るべき時が来れば彼らからきっと事情を説明されるだろう。レオニーは静かにその時を待っている。
「はぁ……なんだかどっと疲れた、眠くなってきた」
ため息をついても眠気は去ってくれない。クロードがまぜっ返してきたのも眠気を追い払うためだ。
「夜更かしが得意な俺でも一晩中、四方を確認するのは無理だ!眠気ざましになんかしようぜ」
「うーん……じゃあ、流行りにのって怪談でもするか?」
おあつらえ向きなことに雲が月を隠し、そのまま風も止んだので話し声を遮られることもない。強風下で一言ずつ聞き返しながら話したら、どんなに内容が怖くとも怪談ではなく笑い話になってしまう。
「いいね、どうせなら例のやつにしよう。期待してるぜ、レオニー」
流行りのきっかけを作ったクロードの声は弾んでいる。ちなみにベレトは学生が不安になるような遊びを流行させるな、とセテスから叱られたらしい。
・有名な怪談をそのまま語ってはならない
・その場で作った話でなくてはならない
これが最近、金鹿の学級で流行っている怪談の決まりだ。レオニーはしばらく考え込んでから静かに語り始めた。
───セイロス騎士団の騎士や修道士はどうだか分かんないけどさ、今年の学生って街育ちばっかりだよな。村の暮らしを知ってるのは私とラファエルくらいか?街の連中は山や森の中には人っ子一人いないと思ってるけどそうじゃない。
街の連中が知ってる山や森ってさ、村育ちの私から言わせれば山奥でも森の奥でもないんだよ。歩いてくる道がある訳だからな。でもさ、街の連中はそうだと信じ込んでるから木こりや炭焼きの仕事場で夜に人目をはばかるようなことをやるんだよ。
「今んとこ無知さが少し恥ずかしいだけで怖くないな……。あ、ローレンツにばれて下品だと叱られるから怖い、って仕掛けか?」
この場合は叱られるとしたらぼんくらさ、だろうな……。話を戻すよ。そっち方面じゃあなくて血を塗った人形を何体も木から逆さ吊りにしたり、とかそう言うことだよ。
当たり前だけど山や森の中って人間だけじゃなくて動物もいるからさ、血の匂いに引き寄せられた動物がそういう場を荒らすんだよ。おぞましい雰囲気になっていくんだけど、よく見れば歯形が熊だ狐だってことであんまり謎はないんだ。でもたまに大きくて真っ青で信じられないくらい綺麗な蝶がたかってることがある。あれだけはよく分かんないんだよな……私が今この場で考えた作り話だから───
「なるほどな……この話、どの部分が怖いか人によって違うと思うぜ」
その場で考えているからこそ語り手のそれまでの経験や知識が浮かび上がる。クロードの感想を聞いたレオニーは眉間に皺を寄せた。
「う、頑張って考えたところが響かなかったら嫌だな……」
「いや、きちんと怖かったぞ!答え合わせは野暮だからやめておこうぜ」
世界は広いのでフォドラの山や森には動物の血を好む蝶がいるのかもしれない。だがクロードの知る蝶は草の汁や花の蜜を吸うだけだ。クロードは動物の血を好む蝶も、己がフォドラとは違う常識を持っていると知れ渡ることも怖い。
口からこぼれ落ちてしまった答え合わせ、と言う発想がレオニーに定着しないよう急がねばならない。これまでも何度も何度も口先で危機をしのいでいる。今晩もきっと成功するはずだ。
───デアドラが水の街なのは知ってるよな?馬車の代わりに水路を船が行き交ってる。水路も慣れちまえば普通の道と使い心地は殆ど変わらないんだよ。だって乗り降りに注意が必要なのは船も馬も同じだろ?
でも一つ大きな違いがあってな、夜に一人歩きの酔っ払いが水路に落ちたら死んじまう。それで朝、家や職場の目の前に亡骸が浮いてたら嫌だろ?不気味だし、航行の邪魔にもなる。だからデアドラでは明け方に巡警が船を出して水路の確認をするんだ。人手や船には限りがあるから主な水路だけだが、それでもやらないよりましでな。
「大変な仕事だな……。それに転落の理由は酒だけじゃないだろ」
鋭いな。人が多いとどうしても物騒なことは起きるもんだ。とにかく巡警たちは潮の流れも細かく枝分かれした水路がどう繋がってるか、もきちんと分かってる。でもな、明け方に記録をとりながら水路に浮かんだ亡骸を回収してるとな、稀に存在しないはずの、どこに繋がってるのか全く分からない水路が目の前にひらけていることがあるんだと。
引き揚げた亡骸は一体、どこの歩道から転落したんだろうな?どうして転落したんだろうな?それは誰にも分からないんだよ。何てったって俺がたった今、作った話だからな───
「将来、デアドラで仕事する時は絶対に酒を呑まないようにしないと」
レオニーはそう言うと焚き火の目の前にいるにもかかわらず、寒そうに二の腕を手のひらで何度も擦った。どうやら彼女はクロードの意図とは異なる箇所を怖がっているらしい。こんな些細なことでも他人を思い通りにするのは難しい。
「うーん、依頼する時は金額に少し色をつけてやろうと思ったが安全のためにやめておくか?」
「えぇ?!そこは現行のままで頼むよ」
「覚えておくよ」
そう言えば、この野営地はレオニーにとって森の奥と言えるのだろうか。森や山との縁が浅いクロードにはまだ見当がつかない。畳む