「有情たちの夜」5.枠の外へ 紅花ルートフェヒュ前提 #クロロレ #有情たちの夜 #ヒューベルト #フェルディナント
(1)
せっかく手に入れたデアドラを闇に蠢くものたちに荒らされたくなかったヒューベルトは後事を軍務卿であるベルグリーズ伯に託した。自領を長男に任せられるとは言え、それでも多忙な彼は親帝国派諸侯の領地には殆ど立ち入っていない。故に領主が親帝国派であった場合、その土地の平民の暮らしは戦前と全く変わらなかった。そのことを親帝国派の領主たちは誇っても構わない、とヒューベルトは思う。
ベルグリーズ伯は元よりアミッド大河を挟んで、領地が隣り合うグロスタール家とは長年の消極的な交流があった。そんな蓄積のある彼から見たグロスタール伯エルヴィンは信頼に足るようで、リーガン領はほぼ全域がグロスタール家預かりになりつつある。戦わずして豊かな地域を手に入れたグロスタール家、戦時中に掴んだ商機と利権をいまだに手放さないエドマンド家は妬まれていた。
嫉妬に駆られた人々と闇に蠢くものたちの思惑が絡みあった結果、再びヒューベルトが自ら取り調べをする羽目になっている。五年前と同じ館を使っているが、使っている部屋も待遇も何もかも違う。端的にいって明るくて心地が良い。一番の違いは弁護人が同席していることだ。キッホルの紋章保持者は親友であるローレンツの隣に座り、珍しく黙っている。
「貴殿が静かにしていると些か調子が狂いますな」
だがヒューベルトはフェルディナントの外聞を気にしないところが好きだ。必要だと思ったら躊躇しないところが自分とよく似ている。正反対と言われながらも彼に惹かれたのはそういうことだろう。
「揶揄わないでくれたまえ」
「事実を申し上げたのみです。ではローレンツ殿、まず……フェイルノートに嵌っていた紋章石の行方について心当たりはおありですかな?」
ヒューベルトの言葉を耳にしてもローレンツは顔色ひとつ変えなかった。英雄の遺産や神聖武器を手に入れるため、闇に蠢くものたちは戦闘終了後にデアドラに乗り込んでいる。だが結果は芳しくなかった。
「私の親友をクロードの身代わりに仕立て上げようという動きは看過できない」
フェルディナントはそう言うが、グロスタール家が先んじて有力な武器を確保していたと言う噂もある。それは本当にグロスタール家の意志なのか、裏で手を引く存在があるのではないか。そんな嫌疑をかけられていた。
クロードがローレンツの知らぬ何かを仕掛けてからフォドラを去ったことは、想像に難くない。遅効性の毒が今頃になって効果を発揮したということだろうか。そう言うことなら、ローレンツはクロードに代わってヒルダを守らねばならない。最後まで彼と共にいたヒルダが知らぬうちに悪巧みに巻き込まれている可能性がある。
「他家が保管しているものについて、僕は関知していない」
グロスタール家はテュルソスの杖以外にもいくつかの神聖武器を管理していた。クロードから帝国相手に総力戦はしない、と言われていたが独自に爪と牙を研いでおく必要はある。ローレンツはフェルディナントが淹れてくれた紅茶に口をつけた。彼は同じ湯で先にヒューベルトのためにテフを淹れたのできっと安全だろう。
「それにフェイルノートとフライクーゲルをエーデルガルトから取り上げたのはアランデル公自身ではないか」
素直なフェルディナントの声には苛立ちが混ざっている。武具に詳しくキッホルの紋章を持っている彼がデアドラが陥落した際、武装解除を担当していた。彼以外にフェイルノートとフライクーゲルに触れるのはリンハルトとエーデルガルトしかいない。両名とも戦闘終了後はやることが山積みだった筈だ。自然な役割分担と言える。
「フェルディナントくんが検分した時は特におかしな点はなかったのだろう?」
デアドラ育ちでないとしてもクロードはあの水の都を愛していた。デアドラを守るための戦いで、彼が死力を尽くさなかったとは考えがたい。だが───
「そのように見受けられた。だがエーギル家には残念ながら英雄の遺産や神聖武器の類は伝わっていない」
「それでは確かに知識不足は否めませんな」
「二人ともクロードが作り出した奴自身の虚像に惑わされている。君たちはデアドラで奴に勝ったのだ」
ローレンツは思わず声を荒げた。二人とも相手がクロードでなければとっくに結論に辿り着いている筈だ。
(2)
資格のないものが英雄の遺産に触れると何が起きるのか、ヒューベルトもフェルディナントも目撃している。そしてレアは破裂の槍を手中に収めようとしていた。今思えばベレスはあの時から中央教会に対して不信感を覚えていたのかもしれない。とにかく当時は効率を優先すると言ってシルヴァンに直接、破裂の槍を返却していた。タルティーンではそのせいでヒューベルトたちは苦労することになる。
だからこそ自分もフェルディナントもローレンツの言うことが俄かには信じがたかった。英雄の遺産は禍々しい面もあるが使用者の力を千人力にする。悪用を恐れて弱体化させておくなど考えられない。
「クロードは英雄の遺産に興味を持っていたが、機序が理解出来ないものを切り札にするつもりはなかったのだ」
先ほど感情を露わにしたことを恥じているのか、ローレンツは淡々と事実を指摘した。ディミトリと親しかった名家は皆、嫡子を失ったがクロードの異常ともいえる発想のおかげで彼もヒルダも生きている。
クロードの出自を知った今となっては何の不思議もない。デアドラに現れたパルミラ兵こそがクロードの切り札だった。パルミラ育ちの彼にとってフェイルノートはよく命中し、紋章を持つ射手の体力を回復し続ける弓でしかない。全てを託すつもりはない上に悪用される危険がある、となったら躊躇する理由はないだろう。頭では理解出来るが紋章の有無で人生が大きく狂っていく国で育ったヒューベルトにはない発想だった。
「ああ、だから猜疑心の塊を自称していたのだな!」
そこは感心するところではない。フェルディナントが開いた唇に手を添えた。彼の発想はいつも些か突飛でヒューベルトの調子を狂わせる。弁護人が必要、と言うのもフェルディナントの発想でローレンツの要望ではない。彼の感じている居心地の悪さについてはヒューベルトにも責任があった。
「貴殿が少しは持つべきものですな。そしてクロード殿はもしかしたら……」
フォドラの良き貴族として育てられたフェルディナントとローレンツからしてみれば正気の沙汰ではない。現に大司教を守る剣、と称していたカトリーヌは戦場で常に雷霆を手にしていた。お尋ね者となった〝カサンドラ〟が新しい名とセイロス騎士団での職位を与えられたのは雷霆という手土産があったからかもしれない。今となっては真実を確かめる術は残っていないが、大司教レアの英雄の遺産に対する執着は常軌を逸していた。
ヒューベルトとフェルディナントはそれぞれ別の事象について勝手に納得している。しかしローレンツはこれまでと同じく、胸の内に溢れる納得のいかないこと、を理性でねじ伏せていた。惨めさに騒つく心を飼い慣らさねば門地も領地も危険に晒してしまう。
対外的には戦闘中行方不明ということになっているが、国外追放に至るクロードの奮戦ぶりはフェルディナントから聞いている。民に頭を下げて避難させ、軍港に罠を張った。エーデルガルトとベレスでなければ彼の罠を食い破ることは不可能だっただろう。死地において、クロードはフェイルノートにもローレンツにも頼らなかった。賭けに負けた彼は今どこにいるのだろう。
ローレンツはフェルディナントが淹れてくれた紅茶に口をつけた。この茶器はこの館に元からあったものではない。白地に紺の模様が入った帝国風のものだ。そんな些細な事柄がデアドラで円卓会議が開かれる日は二度と来ない、という事実をローレンツに突きつけてくる。
「何にしても、信じがたい愚行だ……では代わりに紛いものが嵌まっていたのか?」
武具に詳しいフェルディナントがかいつまんで説明してくれた。不具合を発見したのは女帝エーデルガルトの伯父、アランデル公らしい。彼も何某かの紋章を持っているのだろう。
「動作確認をした際にその紛いものが割れたので驚愕したそうだよ。破片を調べたところどうやら人造の紋章石が嵌まっていたらしい」
「因みにフライクーゲルに異常はありませんでした」
ヒューベルトの声に微かな苛立ちが混ざっている。視線の先にはフェルディナントが淹れたテフがあった。茶菓は人間に余裕をもたらしてくれる。
帝国が豊かと言えども、あれほどの大乱の戦費が全て開戦前に用立てられるはずがない。しかも戦災で壊滅的な被害を受けたデアドラ港やフェルディアを再興する羽目になっている。この状況ではパルミラとの国境警備はゴネリル家に外注せざるを得ない。クロードはフライクーゲル返還に至る事情まで読んだ上で、フェイルノートだけ無力化したことになる。
(3)
クロードの腹立たしい点はいくつもある。まず、ヒューベルトたちと考えが重なる点があったことが腹立たしい。英雄の遺産に頼らずやってのけようとしたこと、全力を尽くさなかったこと、その二点が特にヒューベルトの神経に触る。細かい点を上げ始めればきりがなく尋問に支障が出てしまうだろう。
「クロードは人の手だけで何とかしようとしたのだ……。知識は間違っていることがあるし、信頼も儚い。未来は観察できないからな」
親友の淹れた紅茶を口にして気が緩んだのか、ローレンツはそう呟いた。領主は即決する力と判断を保留する力、矛盾する二つの力をどちらも求められる。
「ローレンツ、これは私見でしかない。だが私が思うに……やはり最後に残るのは感情や想像力なのだ」
フェルディナントが自論でローレンツを優しくとりなした。当事者である自分なしに全てが決まっていくことへの憤り、そして悲しみがヒューベルトの主君エーデルガルトの原動力だ。ローレンツは彼自身が傷つかぬよう、得するようにクロードからお膳立てされたがそれでもひどく馬鹿にされた気分だろう。
「おや、想像力はともかく貴殿は感情に振り回された王国のものたちに引導を渡して回っていたではありませんか」
アリアンロッドでもタルティーンでもフェルディアでもフェルディナントは返り血まみれになっていた。彼の燃えるような橙色の髪と違って死人の血はどす黒く、布にこびりついたまま固まると擦れて引っ掻き傷ができる。彼はあの寒い王国でも湯が沸くまで我慢できず、川や池で血を洗い流していた。貴族らしい身なりを保つために野蛮なことをしているのだが、びしょ濡れの彼が火にあたりに行くと兵たちが貴族らしくない、と言って喜ぶ。
「ヒューベルト、混ぜっ返すのはやめてくれたまえ」
苦境はフェルディナントから優雅さを奪うことに失敗した。そして彼の思索はより深い領域まで到達し、政策に活かされることも多い。
「笑顔の奥でどんな感情を抱いていたのやら……」
「ローレンツ、私が共にいるのだから怖がらずに自分の感情を認めて欲しい」
ヒューベルトのフェルディナントに対する評価は戦乱の時を経て、目障りで薄っぺらな理想主義者から生まれついての人たらしへと変化していった。
そもそもローレンツはクロードを疑いの目で見ていた。徹底的に疑ってかかり、理性で彼の人柄や行為に判断を下した結果、なんとも言いがたい関係になっている。
「喜びを感じようとしても常に惨めさと寂しさがまとわりついてくる。現にこうして尋問まで受ける羽目になった」
「矛盾など感じる必要はない。全て自然な感情ではないか」
そう言えば先ほどヒューベルトはまず、と言った。クロードはフェイルノートの損壊以外に何をやらかしたのだろうか。
「こちらは貴殿が彼と共謀していない、という確証が欲しいだけです。では密貿易の件はご存知ですか?」
「当家の立場では推理しかできない」
デアドラ防衛戦で軍港が使用不可能になったため、帝国軍は民間用の港を接収した。活動拠点を奪われても商人や漁師たちは食べていかねばならない。彼らはデアドラ市の対岸にある小さな島に船を移した。その島はかつてクロードが平民たちや商船や漁船を避難させていた島の一つで、急拵えの設備しかない。保安を名目として取り扱いできる荷の量には制限がかけられた。超過分の取引は全て密貿易扱いになる。
逮捕も拿捕も帝国の匙加減次第という危うい状況にも関わらず、その島は戦乱で壊滅的な打撃を受けたファーガスとの貿易の拠点となっていた。彼の地は復興のため、ありとあらゆる物資を必要とする。そこに最近やたらとスレンやパルミラからの荷が増えたらしい。
リーガン領の管理を任せるが港湾および海上を除く、という帝国本土からの通達をローレンツの父エルヴィンが素直にのんだ理由はこれか、とローレンツは悟った。帝国本土から派遣された官吏たちが大型船が接岸出来る港湾関係を取り仕切っている。ファーガスと旧リーガン領の反帝国派同士連携させないために彼らは必死だ。
「ヒューベルト、恣意的な運用に私は反対だ。公正でなくては我々は正当性を失う」
「フェルディナントくん、フェルディアはまだ……」
フェルディナントの表情だけで状況が分かる。民たちにはまだ、どの土地の小麦が口に入っているか考える余裕はない。
(4)
タルティーンの野で敵がかつての再現を狙う様にヒューベルトは失笑してしまった。教会はネメシスを破り、王国は帝国軍を破っている。そんな夢に縋るくらい追い詰められた時点で負けなのだ。
「復興は道半ばですな。王が冷静であればああなっていないでしょう」
紫の瞳がヒューベルトをじっと見つめている。病的なまでに冷静だったクロードとディミトリを比べているのだろうか。ディミトリはタルティーンに出てくる必要などなかった。進軍するふり、だけに留めておけば王都フェルディアを守れただろう。
「僕は士官学校に入る前、魔道学院にいたことがある。情勢が悪化して入学早々、帰国せざるを得なかったが」
「ではローレンツには焼け落ちる前のフェルディアの記憶があるのだな。我々と違って」
「華やかではないが落ち着いた雰囲気の良い街だった。王都を陥落させまいとディミトリくんは賭けに出たのだろう」
ヒューベルトはローレンツの知らないことを知っている。ディミトリはヒューベルトの主君、エーデルガルトを殺すためだけにタルティーンの野に出陣した。十傑の子孫は白きものにとって他民族から中央教会とアンヴァルを守る捨て石に過ぎない。千年の時を経て、少しは愛着が芽生えただろうと思っていたのにレアはフェルディアに火を放った。かつてクロードが〝信じる〟と〝知る〟の違いについて考え続けろ、と言っていたのはあのような事態を避けるためなのだろう。セイロス騎士団の中にはファーガス出身者が多いと聞いている。
「王国軍のものたちは死に物狂いだった」
人間らしさを保証するものは一体なんなのか。フェルディナントは己に刃を向けたものの内にも美徳を見つける。不運にも刃を向ける羽目になった、とでも言うつもりだろうか。
「紋章石を手にするほどに、必死でしたな」
タルティーンの野で何があったのか、正確に知る兵や将は少ない。戦場は混乱するものだし、自分がいなかった場所で何が起きたのか把握するのは至難の業だ。だからヒューベルトも魔獣と化した王国兵を見てディミトリがどう感じたのか知らない。
「露悪的な態度を取るのは私がいるせいか?」
フェルディナントの目が細められた。彼は決して不正をするような人物ではない。だがローレンツとの友情が世間に知られている以上、忖度が疑われてしまう。
帝国のものたちは皆ローレンツに敬意を持って接し、人間らしく扱っている。親帝国派として知られるグロスタール家の嫡子で、彼らの予想から逸脱しないからだ。ではクロードはどうだったのだろうか。彼の常軌を逸した行動に人間らしさは見出されたのだろうか。ローレンツはそっと拳を握りしめた。今でも槍の訓練を怠ってはいない。
「紋章石を手に、と聞こえたが合っているだろうか」
「そうだ、我々はこの目で王国兵たちが魔獣になるさまを見た」
帝国軍には緘口令が敷かれている。フェルディナントといえども従わねばならない。ヒューベルトの監視下で、ローレンツがこの場で聞いたことを口外しないと分かっているから命令を破ってくれた。
「追い詰められた、と感じた時点で彼らは負けていたのです」
帝国軍はそんな彼らに勝利している。そこまでして彼らが守りたかった王都はよりによって、セイロス騎士団によって焼き払われたという。
「だが私は戦場で相対した彼らに崇高なものを感じたのだ」
セイロス教に拠って立った国は、皮肉なことにセイロス教を保護したせいで滅亡した。徹底抗戦の末、国土は荒廃し復興は遅々として進まない。クロードはフォドラから追放され、パルミラ産の小麦がファーガスへ輸出されている。この状況はローレンツにとってひどく据わりが悪い。
「それは彼らが王や国を見限ることなく殉じたからだろうか?」
正直に頷くフェルディナントを見て、ローレンツは気がついてしまった。自分はもうクロードやレスター諸侯同盟に殉じることはできない。
「レスター諸侯同盟は諸侯同士が対等な、王がいない国でした」
ヒューベルトに過去形を使われてローレンツの心は痛んだ。薄い唇はまだ言葉を紡いでいる。
「貴殿はフェルディナント殿と仲が良いが、それでもクロードは貴殿のことを真の友と思っていたのでしょう。だから友人が己に殉じることなく息災であってほしい、と願った」
金色の瞳はローレンツではなく隣に座るフェルディナントを見ていた。最後に残る感情、の解釈が合っているかどうか気になるらしい。
(5)
残念ながらローレンツはテフが嫌いなのだ───いつだったか定かではないが、寝物語にフェルディナントが語ってくれたことがある。戯れに、褥を共にしているのに他の男の話など、とヒューベルトが返したらフェルディナントはなんともいえない顔をしていた。
親友であるフェルディナントにテフを振る舞われた時もこんな風に笑みを浮かべていたのだろう。態度は友好的に、だが口にする意見は明確でなくてはならない。ゆっくりと口角をあげ、ローレンツはヒューベルトに微笑んでみせた。見るものによっては妖艶、とすら感じるかもしれない。彼は確実に名家の嫡子として教育を受けて育っている。
「奴と僕は断じて、友人などではない」
紋章石絡みの話題が出た時と違い、声が上擦るようなことはなかった。だが、その芝居が続く限りは旧同盟領の安全が保たれる。ローレンツは何重にもクロードに守られていて───フェルディナントの言うとおり、その奥にはきっとクロードの感情が秘められているのだ。
フェルディナントはローレンツの発言に顔をしかめている。彼は感情表現が豊かな方だが、勿論、他者の視線があるところではこんな顔をしない。これはヒューベルトに心を許している証だ。
「では、そういうことにしておきましょう」
帝国は近々、本格的に鎖国政策を取りやめるのでクロードの策に乗ったところでエーデルガルトに損はない。フェルディアの民は食わせてやらねばならないし、あれで外国や異教徒に対する嫌悪感が和らぐなら結構なことだ。クロードは首飾りの向こうから変わりゆくフォドラを見つめている。
感情というものは実に身勝手で現実と折り合いが悪く、自分の理性とすら調和がとれない。ヒューベルトの感情にとって、この件で何よりも重要だったのは闇に蠢くものたちが損をしたことだ。
実際はどうだか知らない。だがアランデル公と名乗るものの手の中で、フェイルノートが壊れたさまを思うとつい、笑いが込み上げてくる。だからベレスに誓いを立てたことは正しかったのだ───感情がヒューベルトにそう、訴えかけてくる。
事前にフェルディナントが言っていた通り、現状の説明を繰り返すだけでヒューベルトがさっと退いた。クロードはここまで予想してファーガスの民を人質に取ったのだろうか。ローレンツは自分の民ではない人々で賭けに出る、彼のやり方に幻滅せねばならない。心に一筋の傷が走ったような気分になったが、フェルディナントは喜んで構わないのだ、と主張する。
「しかし、知らなかったこととはいえ、フェイルノートの件は大問題だ。レスター地方だけの問題ではない」
ローレンツは横目でフェルディナントを眺めた。自分が何を言おうとしているのか、を察した親友が喜びに頬を染めている。レスター〝地方〟と口に出す時に痛みも感じて構わないのだろうか。ヒューベルトもローレンツの言葉を待っていた。
「英雄の遺産はフォドラの至宝だ。政務の合間に僕も本物の紋章石を探してみても構わないだろうか?」
ヒューベルトはフェルディナントを見て目を細めている。フェルディナントは実に上手く立ち回ってくれた。彼が親友を弁護する、と公言したらローレンツを疑うものたちは彼に拮抗する人物を引っ張り出さねばならない。実際は因果が逆なのだが、大抵の他者はそう誤解する。
きっと、彼らは自分らしくないことを実現したいときに互いの印象を利用しあっているのだ。ヒューベルトがクロードにどんな感情を抱いているのかローレンツは知らない。
「よろしいでしょう。ゲルズ公にも話をつけておきます」
形式を守るための馴れ合いに過ぎない、という謗りは甘んじて受けるしかなかった。クロードにまつわる噂は多種多様でどれも説得力がある。だがこれでローレンツは帝国の公式な見解を知ることができた。彼は国外で生存していてこのフォドラに干渉しようとしている。
どこまでも真っ直ぐなローレンツの親友はこれでおしまい、とばかりにファイアーの呪文を唱えた。湯を沸かし、嬉しそうに茶葉を取り替えている。フェルディナントがどこまで計算していたのか追及するほどローレンツもヒューベルトも野暮ではなかった。畳む
(1)
せっかく手に入れたデアドラを闇に蠢くものたちに荒らされたくなかったヒューベルトは後事を軍務卿であるベルグリーズ伯に託した。自領を長男に任せられるとは言え、それでも多忙な彼は親帝国派諸侯の領地には殆ど立ち入っていない。故に領主が親帝国派であった場合、その土地の平民の暮らしは戦前と全く変わらなかった。そのことを親帝国派の領主たちは誇っても構わない、とヒューベルトは思う。
ベルグリーズ伯は元よりアミッド大河を挟んで、領地が隣り合うグロスタール家とは長年の消極的な交流があった。そんな蓄積のある彼から見たグロスタール伯エルヴィンは信頼に足るようで、リーガン領はほぼ全域がグロスタール家預かりになりつつある。戦わずして豊かな地域を手に入れたグロスタール家、戦時中に掴んだ商機と利権をいまだに手放さないエドマンド家は妬まれていた。
嫉妬に駆られた人々と闇に蠢くものたちの思惑が絡みあった結果、再びヒューベルトが自ら取り調べをする羽目になっている。五年前と同じ館を使っているが、使っている部屋も待遇も何もかも違う。端的にいって明るくて心地が良い。一番の違いは弁護人が同席していることだ。キッホルの紋章保持者は親友であるローレンツの隣に座り、珍しく黙っている。
「貴殿が静かにしていると些か調子が狂いますな」
だがヒューベルトはフェルディナントの外聞を気にしないところが好きだ。必要だと思ったら躊躇しないところが自分とよく似ている。正反対と言われながらも彼に惹かれたのはそういうことだろう。
「揶揄わないでくれたまえ」
「事実を申し上げたのみです。ではローレンツ殿、まず……フェイルノートに嵌っていた紋章石の行方について心当たりはおありですかな?」
ヒューベルトの言葉を耳にしてもローレンツは顔色ひとつ変えなかった。英雄の遺産や神聖武器を手に入れるため、闇に蠢くものたちは戦闘終了後にデアドラに乗り込んでいる。だが結果は芳しくなかった。
「私の親友をクロードの身代わりに仕立て上げようという動きは看過できない」
フェルディナントはそう言うが、グロスタール家が先んじて有力な武器を確保していたと言う噂もある。それは本当にグロスタール家の意志なのか、裏で手を引く存在があるのではないか。そんな嫌疑をかけられていた。
クロードがローレンツの知らぬ何かを仕掛けてからフォドラを去ったことは、想像に難くない。遅効性の毒が今頃になって効果を発揮したということだろうか。そう言うことなら、ローレンツはクロードに代わってヒルダを守らねばならない。最後まで彼と共にいたヒルダが知らぬうちに悪巧みに巻き込まれている可能性がある。
「他家が保管しているものについて、僕は関知していない」
グロスタール家はテュルソスの杖以外にもいくつかの神聖武器を管理していた。クロードから帝国相手に総力戦はしない、と言われていたが独自に爪と牙を研いでおく必要はある。ローレンツはフェルディナントが淹れてくれた紅茶に口をつけた。彼は同じ湯で先にヒューベルトのためにテフを淹れたのできっと安全だろう。
「それにフェイルノートとフライクーゲルをエーデルガルトから取り上げたのはアランデル公自身ではないか」
素直なフェルディナントの声には苛立ちが混ざっている。武具に詳しくキッホルの紋章を持っている彼がデアドラが陥落した際、武装解除を担当していた。彼以外にフェイルノートとフライクーゲルに触れるのはリンハルトとエーデルガルトしかいない。両名とも戦闘終了後はやることが山積みだった筈だ。自然な役割分担と言える。
「フェルディナントくんが検分した時は特におかしな点はなかったのだろう?」
デアドラ育ちでないとしてもクロードはあの水の都を愛していた。デアドラを守るための戦いで、彼が死力を尽くさなかったとは考えがたい。だが───
「そのように見受けられた。だがエーギル家には残念ながら英雄の遺産や神聖武器の類は伝わっていない」
「それでは確かに知識不足は否めませんな」
「二人ともクロードが作り出した奴自身の虚像に惑わされている。君たちはデアドラで奴に勝ったのだ」
ローレンツは思わず声を荒げた。二人とも相手がクロードでなければとっくに結論に辿り着いている筈だ。
(2)
資格のないものが英雄の遺産に触れると何が起きるのか、ヒューベルトもフェルディナントも目撃している。そしてレアは破裂の槍を手中に収めようとしていた。今思えばベレスはあの時から中央教会に対して不信感を覚えていたのかもしれない。とにかく当時は効率を優先すると言ってシルヴァンに直接、破裂の槍を返却していた。タルティーンではそのせいでヒューベルトたちは苦労することになる。
だからこそ自分もフェルディナントもローレンツの言うことが俄かには信じがたかった。英雄の遺産は禍々しい面もあるが使用者の力を千人力にする。悪用を恐れて弱体化させておくなど考えられない。
「クロードは英雄の遺産に興味を持っていたが、機序が理解出来ないものを切り札にするつもりはなかったのだ」
先ほど感情を露わにしたことを恥じているのか、ローレンツは淡々と事実を指摘した。ディミトリと親しかった名家は皆、嫡子を失ったがクロードの異常ともいえる発想のおかげで彼もヒルダも生きている。
クロードの出自を知った今となっては何の不思議もない。デアドラに現れたパルミラ兵こそがクロードの切り札だった。パルミラ育ちの彼にとってフェイルノートはよく命中し、紋章を持つ射手の体力を回復し続ける弓でしかない。全てを託すつもりはない上に悪用される危険がある、となったら躊躇する理由はないだろう。頭では理解出来るが紋章の有無で人生が大きく狂っていく国で育ったヒューベルトにはない発想だった。
「ああ、だから猜疑心の塊を自称していたのだな!」
そこは感心するところではない。フェルディナントが開いた唇に手を添えた。彼の発想はいつも些か突飛でヒューベルトの調子を狂わせる。弁護人が必要、と言うのもフェルディナントの発想でローレンツの要望ではない。彼の感じている居心地の悪さについてはヒューベルトにも責任があった。
「貴殿が少しは持つべきものですな。そしてクロード殿はもしかしたら……」
フォドラの良き貴族として育てられたフェルディナントとローレンツからしてみれば正気の沙汰ではない。現に大司教を守る剣、と称していたカトリーヌは戦場で常に雷霆を手にしていた。お尋ね者となった〝カサンドラ〟が新しい名とセイロス騎士団での職位を与えられたのは雷霆という手土産があったからかもしれない。今となっては真実を確かめる術は残っていないが、大司教レアの英雄の遺産に対する執着は常軌を逸していた。
ヒューベルトとフェルディナントはそれぞれ別の事象について勝手に納得している。しかしローレンツはこれまでと同じく、胸の内に溢れる納得のいかないこと、を理性でねじ伏せていた。惨めさに騒つく心を飼い慣らさねば門地も領地も危険に晒してしまう。
対外的には戦闘中行方不明ということになっているが、国外追放に至るクロードの奮戦ぶりはフェルディナントから聞いている。民に頭を下げて避難させ、軍港に罠を張った。エーデルガルトとベレスでなければ彼の罠を食い破ることは不可能だっただろう。死地において、クロードはフェイルノートにもローレンツにも頼らなかった。賭けに負けた彼は今どこにいるのだろう。
ローレンツはフェルディナントが淹れてくれた紅茶に口をつけた。この茶器はこの館に元からあったものではない。白地に紺の模様が入った帝国風のものだ。そんな些細な事柄がデアドラで円卓会議が開かれる日は二度と来ない、という事実をローレンツに突きつけてくる。
「何にしても、信じがたい愚行だ……では代わりに紛いものが嵌まっていたのか?」
武具に詳しいフェルディナントがかいつまんで説明してくれた。不具合を発見したのは女帝エーデルガルトの伯父、アランデル公らしい。彼も何某かの紋章を持っているのだろう。
「動作確認をした際にその紛いものが割れたので驚愕したそうだよ。破片を調べたところどうやら人造の紋章石が嵌まっていたらしい」
「因みにフライクーゲルに異常はありませんでした」
ヒューベルトの声に微かな苛立ちが混ざっている。視線の先にはフェルディナントが淹れたテフがあった。茶菓は人間に余裕をもたらしてくれる。
帝国が豊かと言えども、あれほどの大乱の戦費が全て開戦前に用立てられるはずがない。しかも戦災で壊滅的な被害を受けたデアドラ港やフェルディアを再興する羽目になっている。この状況ではパルミラとの国境警備はゴネリル家に外注せざるを得ない。クロードはフライクーゲル返還に至る事情まで読んだ上で、フェイルノートだけ無力化したことになる。
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クロードの腹立たしい点はいくつもある。まず、ヒューベルトたちと考えが重なる点があったことが腹立たしい。英雄の遺産に頼らずやってのけようとしたこと、全力を尽くさなかったこと、その二点が特にヒューベルトの神経に触る。細かい点を上げ始めればきりがなく尋問に支障が出てしまうだろう。
「クロードは人の手だけで何とかしようとしたのだ……。知識は間違っていることがあるし、信頼も儚い。未来は観察できないからな」
親友の淹れた紅茶を口にして気が緩んだのか、ローレンツはそう呟いた。領主は即決する力と判断を保留する力、矛盾する二つの力をどちらも求められる。
「ローレンツ、これは私見でしかない。だが私が思うに……やはり最後に残るのは感情や想像力なのだ」
フェルディナントが自論でローレンツを優しくとりなした。当事者である自分なしに全てが決まっていくことへの憤り、そして悲しみがヒューベルトの主君エーデルガルトの原動力だ。ローレンツは彼自身が傷つかぬよう、得するようにクロードからお膳立てされたがそれでもひどく馬鹿にされた気分だろう。
「おや、想像力はともかく貴殿は感情に振り回された王国のものたちに引導を渡して回っていたではありませんか」
アリアンロッドでもタルティーンでもフェルディアでもフェルディナントは返り血まみれになっていた。彼の燃えるような橙色の髪と違って死人の血はどす黒く、布にこびりついたまま固まると擦れて引っ掻き傷ができる。彼はあの寒い王国でも湯が沸くまで我慢できず、川や池で血を洗い流していた。貴族らしい身なりを保つために野蛮なことをしているのだが、びしょ濡れの彼が火にあたりに行くと兵たちが貴族らしくない、と言って喜ぶ。
「ヒューベルト、混ぜっ返すのはやめてくれたまえ」
苦境はフェルディナントから優雅さを奪うことに失敗した。そして彼の思索はより深い領域まで到達し、政策に活かされることも多い。
「笑顔の奥でどんな感情を抱いていたのやら……」
「ローレンツ、私が共にいるのだから怖がらずに自分の感情を認めて欲しい」
ヒューベルトのフェルディナントに対する評価は戦乱の時を経て、目障りで薄っぺらな理想主義者から生まれついての人たらしへと変化していった。
そもそもローレンツはクロードを疑いの目で見ていた。徹底的に疑ってかかり、理性で彼の人柄や行為に判断を下した結果、なんとも言いがたい関係になっている。
「喜びを感じようとしても常に惨めさと寂しさがまとわりついてくる。現にこうして尋問まで受ける羽目になった」
「矛盾など感じる必要はない。全て自然な感情ではないか」
そう言えば先ほどヒューベルトはまず、と言った。クロードはフェイルノートの損壊以外に何をやらかしたのだろうか。
「こちらは貴殿が彼と共謀していない、という確証が欲しいだけです。では密貿易の件はご存知ですか?」
「当家の立場では推理しかできない」
デアドラ防衛戦で軍港が使用不可能になったため、帝国軍は民間用の港を接収した。活動拠点を奪われても商人や漁師たちは食べていかねばならない。彼らはデアドラ市の対岸にある小さな島に船を移した。その島はかつてクロードが平民たちや商船や漁船を避難させていた島の一つで、急拵えの設備しかない。保安を名目として取り扱いできる荷の量には制限がかけられた。超過分の取引は全て密貿易扱いになる。
逮捕も拿捕も帝国の匙加減次第という危うい状況にも関わらず、その島は戦乱で壊滅的な打撃を受けたファーガスとの貿易の拠点となっていた。彼の地は復興のため、ありとあらゆる物資を必要とする。そこに最近やたらとスレンやパルミラからの荷が増えたらしい。
リーガン領の管理を任せるが港湾および海上を除く、という帝国本土からの通達をローレンツの父エルヴィンが素直にのんだ理由はこれか、とローレンツは悟った。帝国本土から派遣された官吏たちが大型船が接岸出来る港湾関係を取り仕切っている。ファーガスと旧リーガン領の反帝国派同士連携させないために彼らは必死だ。
「ヒューベルト、恣意的な運用に私は反対だ。公正でなくては我々は正当性を失う」
「フェルディナントくん、フェルディアはまだ……」
フェルディナントの表情だけで状況が分かる。民たちにはまだ、どの土地の小麦が口に入っているか考える余裕はない。
(4)
タルティーンの野で敵がかつての再現を狙う様にヒューベルトは失笑してしまった。教会はネメシスを破り、王国は帝国軍を破っている。そんな夢に縋るくらい追い詰められた時点で負けなのだ。
「復興は道半ばですな。王が冷静であればああなっていないでしょう」
紫の瞳がヒューベルトをじっと見つめている。病的なまでに冷静だったクロードとディミトリを比べているのだろうか。ディミトリはタルティーンに出てくる必要などなかった。進軍するふり、だけに留めておけば王都フェルディアを守れただろう。
「僕は士官学校に入る前、魔道学院にいたことがある。情勢が悪化して入学早々、帰国せざるを得なかったが」
「ではローレンツには焼け落ちる前のフェルディアの記憶があるのだな。我々と違って」
「華やかではないが落ち着いた雰囲気の良い街だった。王都を陥落させまいとディミトリくんは賭けに出たのだろう」
ヒューベルトはローレンツの知らないことを知っている。ディミトリはヒューベルトの主君、エーデルガルトを殺すためだけにタルティーンの野に出陣した。十傑の子孫は白きものにとって他民族から中央教会とアンヴァルを守る捨て石に過ぎない。千年の時を経て、少しは愛着が芽生えただろうと思っていたのにレアはフェルディアに火を放った。かつてクロードが〝信じる〟と〝知る〟の違いについて考え続けろ、と言っていたのはあのような事態を避けるためなのだろう。セイロス騎士団の中にはファーガス出身者が多いと聞いている。
「王国軍のものたちは死に物狂いだった」
人間らしさを保証するものは一体なんなのか。フェルディナントは己に刃を向けたものの内にも美徳を見つける。不運にも刃を向ける羽目になった、とでも言うつもりだろうか。
「紋章石を手にするほどに、必死でしたな」
タルティーンの野で何があったのか、正確に知る兵や将は少ない。戦場は混乱するものだし、自分がいなかった場所で何が起きたのか把握するのは至難の業だ。だからヒューベルトも魔獣と化した王国兵を見てディミトリがどう感じたのか知らない。
「露悪的な態度を取るのは私がいるせいか?」
フェルディナントの目が細められた。彼は決して不正をするような人物ではない。だがローレンツとの友情が世間に知られている以上、忖度が疑われてしまう。
帝国のものたちは皆ローレンツに敬意を持って接し、人間らしく扱っている。親帝国派として知られるグロスタール家の嫡子で、彼らの予想から逸脱しないからだ。ではクロードはどうだったのだろうか。彼の常軌を逸した行動に人間らしさは見出されたのだろうか。ローレンツはそっと拳を握りしめた。今でも槍の訓練を怠ってはいない。
「紋章石を手に、と聞こえたが合っているだろうか」
「そうだ、我々はこの目で王国兵たちが魔獣になるさまを見た」
帝国軍には緘口令が敷かれている。フェルディナントといえども従わねばならない。ヒューベルトの監視下で、ローレンツがこの場で聞いたことを口外しないと分かっているから命令を破ってくれた。
「追い詰められた、と感じた時点で彼らは負けていたのです」
帝国軍はそんな彼らに勝利している。そこまでして彼らが守りたかった王都はよりによって、セイロス騎士団によって焼き払われたという。
「だが私は戦場で相対した彼らに崇高なものを感じたのだ」
セイロス教に拠って立った国は、皮肉なことにセイロス教を保護したせいで滅亡した。徹底抗戦の末、国土は荒廃し復興は遅々として進まない。クロードはフォドラから追放され、パルミラ産の小麦がファーガスへ輸出されている。この状況はローレンツにとってひどく据わりが悪い。
「それは彼らが王や国を見限ることなく殉じたからだろうか?」
正直に頷くフェルディナントを見て、ローレンツは気がついてしまった。自分はもうクロードやレスター諸侯同盟に殉じることはできない。
「レスター諸侯同盟は諸侯同士が対等な、王がいない国でした」
ヒューベルトに過去形を使われてローレンツの心は痛んだ。薄い唇はまだ言葉を紡いでいる。
「貴殿はフェルディナント殿と仲が良いが、それでもクロードは貴殿のことを真の友と思っていたのでしょう。だから友人が己に殉じることなく息災であってほしい、と願った」
金色の瞳はローレンツではなく隣に座るフェルディナントを見ていた。最後に残る感情、の解釈が合っているかどうか気になるらしい。
(5)
残念ながらローレンツはテフが嫌いなのだ───いつだったか定かではないが、寝物語にフェルディナントが語ってくれたことがある。戯れに、褥を共にしているのに他の男の話など、とヒューベルトが返したらフェルディナントはなんともいえない顔をしていた。
親友であるフェルディナントにテフを振る舞われた時もこんな風に笑みを浮かべていたのだろう。態度は友好的に、だが口にする意見は明確でなくてはならない。ゆっくりと口角をあげ、ローレンツはヒューベルトに微笑んでみせた。見るものによっては妖艶、とすら感じるかもしれない。彼は確実に名家の嫡子として教育を受けて育っている。
「奴と僕は断じて、友人などではない」
紋章石絡みの話題が出た時と違い、声が上擦るようなことはなかった。だが、その芝居が続く限りは旧同盟領の安全が保たれる。ローレンツは何重にもクロードに守られていて───フェルディナントの言うとおり、その奥にはきっとクロードの感情が秘められているのだ。
フェルディナントはローレンツの発言に顔をしかめている。彼は感情表現が豊かな方だが、勿論、他者の視線があるところではこんな顔をしない。これはヒューベルトに心を許している証だ。
「では、そういうことにしておきましょう」
帝国は近々、本格的に鎖国政策を取りやめるのでクロードの策に乗ったところでエーデルガルトに損はない。フェルディアの民は食わせてやらねばならないし、あれで外国や異教徒に対する嫌悪感が和らぐなら結構なことだ。クロードは首飾りの向こうから変わりゆくフォドラを見つめている。
感情というものは実に身勝手で現実と折り合いが悪く、自分の理性とすら調和がとれない。ヒューベルトの感情にとって、この件で何よりも重要だったのは闇に蠢くものたちが損をしたことだ。
実際はどうだか知らない。だがアランデル公と名乗るものの手の中で、フェイルノートが壊れたさまを思うとつい、笑いが込み上げてくる。だからベレスに誓いを立てたことは正しかったのだ───感情がヒューベルトにそう、訴えかけてくる。
事前にフェルディナントが言っていた通り、現状の説明を繰り返すだけでヒューベルトがさっと退いた。クロードはここまで予想してファーガスの民を人質に取ったのだろうか。ローレンツは自分の民ではない人々で賭けに出る、彼のやり方に幻滅せねばならない。心に一筋の傷が走ったような気分になったが、フェルディナントは喜んで構わないのだ、と主張する。
「しかし、知らなかったこととはいえ、フェイルノートの件は大問題だ。レスター地方だけの問題ではない」
ローレンツは横目でフェルディナントを眺めた。自分が何を言おうとしているのか、を察した親友が喜びに頬を染めている。レスター〝地方〟と口に出す時に痛みも感じて構わないのだろうか。ヒューベルトもローレンツの言葉を待っていた。
「英雄の遺産はフォドラの至宝だ。政務の合間に僕も本物の紋章石を探してみても構わないだろうか?」
ヒューベルトはフェルディナントを見て目を細めている。フェルディナントは実に上手く立ち回ってくれた。彼が親友を弁護する、と公言したらローレンツを疑うものたちは彼に拮抗する人物を引っ張り出さねばならない。実際は因果が逆なのだが、大抵の他者はそう誤解する。
きっと、彼らは自分らしくないことを実現したいときに互いの印象を利用しあっているのだ。ヒューベルトがクロードにどんな感情を抱いているのかローレンツは知らない。
「よろしいでしょう。ゲルズ公にも話をつけておきます」
形式を守るための馴れ合いに過ぎない、という謗りは甘んじて受けるしかなかった。クロードにまつわる噂は多種多様でどれも説得力がある。だがこれでローレンツは帝国の公式な見解を知ることができた。彼は国外で生存していてこのフォドラに干渉しようとしている。
どこまでも真っ直ぐなローレンツの親友はこれでおしまい、とばかりにファイアーの呪文を唱えた。湯を沸かし、嬉しそうに茶葉を取り替えている。フェルディナントがどこまで計算していたのか追及するほどローレンツもヒューベルトも野暮ではなかった。畳む
#クロード
「五年目の誕生日」
夏生まれ、という自覚しかなかった。基本的にパルミラの者は生まれた日に拘らない。クロードは後宮生まれなので文官たちの付けた記録───後宮は王の子を確保するためだけに存在する───が残っているはずだがフォドラに来るまで見てみたい、と思うことがなかった。
今は亡き祖父オズワルドが見せてくれた母の手紙から推理して七月二十四日、こちらで言うところの青海の節二十四日生まれということになっている。そんな危うい根拠しかない日付けだと言うのにクロードの周りにいる人々は本気だ。シャンバラへの出撃を数日後に控えているというのにクロードは今、朝食を食べにきた食堂で跪き、ベレトから花冠を授けられている。
「マリアンヌちゃんが選んでくれたお花、やっぱりきれいねえ」
「ヒルダさんも編むのがお上手で」
女子たちが学生時代のように温室の花を使って編んでくれたものだ。どうやらヒルダの口ぶりからするに分業制はまだ続いているらしい。花冠はしっかりと形を保っている。
「いよッ!お誕生日の王子様!」
レオニーのかけ声で食堂中がやんやと沸く。このかけ声にもこの五年ですっかり慣れた。フォドラでは年齢や立場に変わりなく誕生日当日に限り男性は誰でも〝王子様〟になる。一日中、花冠を被って過ごし、通りすがりの何も知らない者たちからも祝いの言葉をもらうのだ。卓の上には祝いの品がいくつも置いてある。戦時中なのできっとどれもこれもデアドラでリーガン家の家臣たちから貰ったものより中身はささやか
だろう。だが、何よりも皆が手間暇をかけてくれた事実がクロードは嬉しかった。自分でも驚くほど胸いっぱいになったがそれ以上にベレトが積み上げられた品を見て喜んでいる。
「また人徳を失わないようにしないとな……」
相変わらず恩師は表情に乏しく、口数は少なかった。だが噛み締めるような彼の言葉は驚くほど鋭い。星辰の節、あの約束の日のことを昨日のように思い出す。
まだ誰にも話していないが、全てが上手くいったらクロードはフォドラを去ることになる。無事、王になるその日まで祝いの品を贈ってくれたものたちと連絡を取ることすら難しい。後始末をさせられるものたちはきっと困惑するだろう。
「このまま朝から呑みたいところだが、残念ながら解散だ。やるべきことを終えてから夜に呑もう」
自分に言い聞かせるようにクロードは宣言した。エーデルガルトやディミトリの人生を狂わせた闇に蠢くものたちを倒さねばならない。フォドラへの良い置き土産になるだろう。
いつまでもこうして気の合う皆と共にいたかった。故郷に戻ったところで成功できるとは限らない。だがそれでも───自分に流れる王の血を無視することはできなかった。畳む
「五年目の誕生日」
夏生まれ、という自覚しかなかった。基本的にパルミラの者は生まれた日に拘らない。クロードは後宮生まれなので文官たちの付けた記録───後宮は王の子を確保するためだけに存在する───が残っているはずだがフォドラに来るまで見てみたい、と思うことがなかった。
今は亡き祖父オズワルドが見せてくれた母の手紙から推理して七月二十四日、こちらで言うところの青海の節二十四日生まれということになっている。そんな危うい根拠しかない日付けだと言うのにクロードの周りにいる人々は本気だ。シャンバラへの出撃を数日後に控えているというのにクロードは今、朝食を食べにきた食堂で跪き、ベレトから花冠を授けられている。
「マリアンヌちゃんが選んでくれたお花、やっぱりきれいねえ」
「ヒルダさんも編むのがお上手で」
女子たちが学生時代のように温室の花を使って編んでくれたものだ。どうやらヒルダの口ぶりからするに分業制はまだ続いているらしい。花冠はしっかりと形を保っている。
「いよッ!お誕生日の王子様!」
レオニーのかけ声で食堂中がやんやと沸く。このかけ声にもこの五年ですっかり慣れた。フォドラでは年齢や立場に変わりなく誕生日当日に限り男性は誰でも〝王子様〟になる。一日中、花冠を被って過ごし、通りすがりの何も知らない者たちからも祝いの言葉をもらうのだ。卓の上には祝いの品がいくつも置いてある。戦時中なのできっとどれもこれもデアドラでリーガン家の家臣たちから貰ったものより中身はささやか
だろう。だが、何よりも皆が手間暇をかけてくれた事実がクロードは嬉しかった。自分でも驚くほど胸いっぱいになったがそれ以上にベレトが積み上げられた品を見て喜んでいる。
「また人徳を失わないようにしないとな……」
相変わらず恩師は表情に乏しく、口数は少なかった。だが噛み締めるような彼の言葉は驚くほど鋭い。星辰の節、あの約束の日のことを昨日のように思い出す。
まだ誰にも話していないが、全てが上手くいったらクロードはフォドラを去ることになる。無事、王になるその日まで祝いの品を贈ってくれたものたちと連絡を取ることすら難しい。後始末をさせられるものたちはきっと困惑するだろう。
「このまま朝から呑みたいところだが、残念ながら解散だ。やるべきことを終えてから夜に呑もう」
自分に言い聞かせるようにクロードは宣言した。エーデルガルトやディミトリの人生を狂わせた闇に蠢くものたちを倒さねばならない。フォドラへの良い置き土産になるだろう。
いつまでもこうして気の合う皆と共にいたかった。故郷に戻ったところで成功できるとは限らない。だがそれでも───自分に流れる王の血を無視することはできなかった。畳む
(1)
春の日差しの中、礼服に身を包んだ学生たちが大聖堂に集まる様をヒューベルトは他人事のように眺めていた。今となっては遠い昔のように感じる。実りある一年を過ごして欲しい、と語るレアの言葉に吐き気を覚えた。
「ではまず一年のはじめである春から、話していただきましょう」
「春が一年の初め?誰がそんなことを決めたんだ?暦に対する違和感は今も残ってるぜ」
クロードはもう隣国出身であることを隠そうともしない。ヒューベルトも夜目が効く方だがそれでもあの時の彼が何故あんなことが出来たのか、本当に謎だった。クロードは答え合わせの機会など与えてやる気はなかっただろう。だがヒューベルトは先ほど意識を失ったクロードの身体を検めた際、ゆったりとした袖の中にフォドラで禁じられている遠眼鏡を見つけた。レンズが縦に並び、フォドラで流通している品よりもはるか遠くを見渡せる。星を見て方角を把握していたから彼はあの時、駆け出せたのだ。
「ぼろを出さずに済んだのは結構なことですな」
「春と言ったら先生だろ、盗賊から俺たちを救ってくれた」
あの時、コスタスが依頼通りクロードかディミトリの殺害に成功していたら中央教会やセイロス騎士団の権威は権威は失墜していただろう。
「偶然ですかな?」
「おいおい、ルミール村は帝国領だろう?それに先生はエーデルガルトを選んだ」
オズワルド公の手のもの───もっと言うならばパルミラの密偵がいた、と言うわけではないらしい。ヒューベルトは偶然というものに頼りたくなかった。だが五年間膠着していた状況が彼女の復帰で動き始めている。現に同盟領は今や帝国のものだ。
「当然のことです。貴殿たちよりエーデルガルト様の方があらゆる面で優れておいでですので」
「度胸があるのは認めるさ、それに俺より確実に頑強だ」
クロードはわざとらしく手首に巻いた鎖を引っ張り、軽く音を立てている。エーデルガルトではないから引きちぎれない、と訴えかけているのだ。本当に彼を生かしておいてよいのか───実に疑わしい。
あの節にあの課題を与えられたのが金鹿の学級ならどうなっていただろうか。クロードはこれまでその件について考えてみたことがなかった。ハンネマンやマヌエラがいればデアドラを守れたか、と言えばそれは違う。だがコスタスならばベレスがおらずと、も当時のクロードたちだけで何とかなったのではないかと思う。
国境付近には密猟者や旅人を狙った盗賊が出る。クロードは村のものたちが自警団を雇っているのではないか、と咄嗟に思いついた自分をこれまでずっと褒めてきた。しかし手首に鎖を巻かれている現状を鑑みるとしくじったような気がしてならない。苦々しいことにベレスとエーデルガルトの火力にしてやられたのだ。ミルディン陥落までは計算の範囲内で、陥落した時に備えてクロードはグロスタール伯にちょっとした依頼もしてあった。だがそれもデアドラを守れたら、という条件つきだったのだ。
野営の訓練中に他国のものたちを捨て石にして、金鹿の学級のものたちだけを助けていたら今こんな風に手首に鎖をかけられていただろうか。クロードはつくづく己の甘さ、いや、全方面に対して取り繕おうとしたことが嫌になった。エーデルガルトのようになりふり構わないものに敵うわけがない。
「話を続けるとしますか」
学生時代より髪を短くしたヒューベルトは記憶力に自信があるのか何も書き留めずひたすらクロードを観察している。
「あのあと確かエーデルガルトたちはザナドへ行ったんだよな。前から気になってたんだが……あそこは一体、何が赤いんだ?」
五年前、課題協力でザナドに行ったローレンツが首を傾げながら帰還してきた。岩も木の葉も別に赤くなかったらしい。それなのに何故、ザナドは昔から赤き谷と呼ばれるのだろうか。素朴だが大切な疑問であるような気がした。
「……とりあえず盗賊の血で赤く染まりましたな」
現にヒューベルトはほんの少しだけ言い淀んだ。どこまで明かすのか迷っているのかもしれない。
「その前から赤き谷、なんだろう?誰の血で染まったから赤き谷なんて呼ばれるようになったんだろうな」
名付けには意志が表れる。ザナドを見て赤い、と感じたものが居たのだ。
(2)
同胞の血で染まった谷を見て赤い、と感じたのは白きものたちだ。やはりクロードは恐ろしく勘が良い。彼はレアが白きものである、と知らないはずだ。
「その件に関して推測をお話ししたいのであればお聞きしましょう」
「拒否する。それよりロナート卿の話をしようぜ」
緑色の瞳がゆらぐ蝋燭の灯りを受けている。蝋燭は新品を用意させたので当分尽きてしまうことはないだろう。西方教会関連の工作を担当していたのはアランデル公たちだ。彼らに利用されたものたちは皆、捨て石にされまともな取り調べも裁判もなしに処刑されている。ダスカーの際もそうだったが、セイロス騎士団と中央教会の乱暴なやり方を目の当たりにしたヒューベルトは改めて彼らを味方に付ける気を失った。事がなった後で神がかった言いがかりをつけ、後ろから背中を刺しかねない。
ロナート卿が中央教会の振る舞いに耐えかねた事情はヒューベルトもうっすらと把握していた。いくらなんでも幕引きが粗雑すぎる。───こんな時期に散発的に反乱を起こされてもなんの後押しもしてやれない───一報が入った晩にそう嘆いた主君をモニカならどう励ましただろうか。あの頃は主君と二人きり、ガルグ=マクであれ宮城であれお互い以外に信頼できる存在はなかった。だが今はベレスに背中を任せられる。だからこうしてヒューベルト自身でクロードの尋問が出来るのだ。
「なあ、ヒューベルト。命よりも大切なものはあると思うか?」
ある。ヒューベルトにとって、そしてモニカにとって自分の命よりもずっと大切なのがエーデルガルトだ。
「答えなくて良いぜ。ロナート卿には命より大切なものがあったから勝ち目もないのに蜂起したんだ」
ロナート卿を突き動かしたものはヒューベルトたちも突き動かしている。中央教会を打ち砕くか命を落とすその時まで止まれないだろう。
「私どもに勝ち目がないと仰るのですか?」
「俺にはないんだよ。俺にとって命より大切なものはない」
クロードはそう、断言してから顔を歪めた。こちらに質問しておいて返答を拒否する傲慢さに気づいているのだろうか。捨て身の人間が何をやるのか、ロナート卿のことがあったのにきちんと理解出来なかったのが悔しいのだろう。だが彼となら未だ会話や交渉が可能だ。だから答えによっては水くらいなら飲ませてやってもいい。
ヒューベルトは隠しごとをしている。つまりエーデルガルトもまだ何かを隠している、と言うことだ。この部屋に囚われている限り、残念ながらクロードにもう隠しごとはない。ガルグ=マクにいた頃、クロードもディミトリもエーデルガルトもいくつか秘密を持っていて、そう言う意味では対等だったように思う。だがクロードは父の名を告げてしまったことで強みを失った。それに比べたら些細なことだが意識が戻った時の感触からして、隠し持っていた武器や薬品の類も取り上げられている。
「それが王国と盟約を結ばず中途半端な形で我々に抗った理由ですかな?」
僅かだがヒューベルトの声に好奇心が含まれていた。当然の疑問でローレンツと再会する機会があれば何故、諸侯を結集して事に当たらなかったのか、と詰られるだろう。シルヴァンやメルセデス、それにアネットと親しかった彼は、親帝国派の自分には無理でも盟主になら、という期待を持っていたはずだ。
「違う。イーハ公もディミトリもロナート卿の件について中央教会に苦情申し立てをしなかっただろう?」
国力が落ちてしまった王国が中央教会に鎮圧や捕縛を依頼するところまではクロードにも理解できる。だがどんな小国であろうと死刑に処すならば為政者の名において処さねばならない。
「彼らは委ねてはならないものを教会に委ねました」
ヒューベルトは吐き捨てるようにそう言ったが、王国をそこまで弱体化させたのは帝国の手のものたちだろう。そしておそらくその件を成功させたのはヒューベルトと敵対する派閥のものたちだ。些か身勝手だがその失望はクロードにもよく分かる。戦後の論功行賞に向けた味方同士の争いもすでに始まっているのだ。ヒューベルトは、いや、エーデルガルトは敵より憎い同胞を圧倒せねばならない。
「神懸かった理由で背中を刺されるのはごめんでね」
きっとディミトリはそんなことを望まない。だがそうせよと勧めるものは彼の周りに必ず存在する。そして彼にもイーハ公にもその暴発を抑える力はない。だからクロードはディミトリと盟約を結ぶ気になれなかった。
(3)
同盟と帝国が手を取る未来もあったのかもしれない。アミッド大河とデアドラを血に染めておきながらヒューベルトがそんな妄想をした、とフェルディナントに知られたら彼はどんな顔をするだろうか。
エーギル公失脚後、彼は五年間辛酸を舐めたが真っ直ぐなままだ。折れた骨は強くなるのだ、と言って朗らかに笑う。ヒューベルトに嬉しい驚きをもたらした彼はデアドラで戦うにあたって、元から親帝国派であったグロスタール伯そしてエドマンド辺境伯に宛てた書状を書いている。ヒューベルトが前もって作った文面を確認したエーデルガルトがこれでは威圧的すぎる、と眉を顰めたからだ。
「カトリーヌさんはレアさんのお気に入りだったが、俺としてはああいうのが一番困るんだよ」
彼女はロナート卿の嫡子クリストフを中央教会に突き出した張本人で、雷霆を振るってセイロス教会に仇なすものを屠る。
「あの様な狂信者が大手を振って歩いているのが中央教会です」
ダスカーでの沙汰はヒューベルトを絶望させた。闇に蠢くものたちが存在する証拠を集めて中央教会に駆け込めば庇護を受けられるのではないか。そう考えていた頃もあったのだ。幼かった自分の見通しの悪さに呆れてしまう。
「ローレンツによると彼女はカロン家のものだとか。なあ、俺の邪推を聞くか?」
クロードが指の節で机を叩いたのでヒューベルトが手首と親指に巻いた鎖も音を立てた。場の主導権を奪うつもりらしい。
「愉快な気分になれそうですな」
「ツィリルもカトリーヌもレアさんが己の器量が如何にでかいのか、を示すための生きた装身具なのさ」
パルミラ人とお尋ね者、と言うわけで二人とも一般的なフォドラ人からは眉を顰められる。従者程度なら構わないが、どう見ても経歴が明らかな彼女に偽名と騎士団での役職を与え、英雄の遺産である雷霆も持たせたままだ。気まぐれな慈悲を与えられた側はますますレアに傾倒する。
「私から言わせれば器量の小ささの表れです」
ベレスの判断は間違っていないのかもしれない。ヒューベルトは自分の口角が微かとはいえ、上がっていることに気がついた。
内装からも分かる通り、この部屋は尋問を受ける側の感覚が鈍るように工夫されている。クロードが敗北してしまったので時を告げる教会の鐘を鳴らすものも失せてしまった。風や自然光を遮られているので喉の渇きや空腹感などの身体感覚で時間経過を把握するしかない。
「機嫌がよさそうだ」
───勝ち戦のあとですので寛大な気分にもなろうというものです───クロードの言葉にそう返した癖にヒューベルトは視界を遮るため頭に布の袋を被せた。深く被せる際の動作で自分が頭を打っていたことを思い出す。最後、ベルナデッタに射られて落竜したのだ。
頭を振って外せないようにわざわざ喉元を紐で縛られた時は流石に不愉快だったが、それでも得られるものはある。人間は耳を閉じることはできない。クロードの耳は布の袋越しに扉が開閉される音をとらえた。
他にも何か聞こえないだろうか。クロードの耳がとらえるのは己の鼓動や呼吸音だけで他には何も新しく把握することができない。しばらくの間、焦る気持ちを押し殺していると再び扉が開閉され、喉元の紐が解かれ頭から袋を外してもらえた。目の前にいる人物は変わらないが目の前に水差しと銀の杯が二つある。
ヒューベルトはクロードの目の前で銀の杯に水を汲んで口をつけた。毒に反応する銀の器に加え、行動でこの水に毒は入っていない、と表明している。世の中には無色無臭透明な毒など数えきれないほど存在するし、ヒューベルトが本気でクロードを油断させて毒殺するならやはり今のように目の前で毒入りの水を飲むだろう。多少は苦しむことになるがその後で解毒剤を服用すればいい。
「喉が渇いては大変ですからな。まだ話していただきたいこともありますので」
「そっちこそずっと話し通しだから水を飲みながらの方がいいだろ?もうひとつの杯でいただくよ」
そう言ってクロードが白い歯を見せると意外なことにヒューベルトは親指に巻いた鎖を外してくれた。両手で抱え込む不恰好な形になるが、杯を口元に当てられながら飲むよりもずっとありがたい。
(4)
クロードは一気に杯を空けるようなことはせず、一口ずつ味わって飲んだ。喉を潤せた礼のつもりか両手首をヒューベルトに差し出している。
「結構です」
どうせ尋問が終わったら解放するのだ。親指に鎖を巻き直すより聞き取りを再開したい。ロナート卿の事件の後、ベレスが天帝の剣を手にした。あれこそが淀んだ空気が入れ替わる予兆だったのかもしれない。ガルグ=マクに潜入していた自分に何の断りもなく手を突っ込んできたものたちが失敗したのは愉快だった。
「水の礼をしたいが今は手持ちがなくてね」
「憶測で構いません」
クロードが帝国のものに直接語りかける機会は当分訪れない。ヒューベルトに回答を用意する義務はないが、彼が英雄の遺産についてどんなことを考えているのかは知りたかった。それに統一後はパルミラとも国交を樹立することになる。クロードの考えを把握しておくのは必要なことだ。
「俺たちは天帝の剣にしてやられたわけだが……」
緑の瞳は己の手のひらを見つめている。こぼれ落ちた命を惜しんでいるようにも見えた。ベレスの気まぐれに救われたのは学友のみで彼はオズワルドに次ぐ有力な後見人であったジュディッドを失っている。
「英雄の遺産について答え合わせは出来ましたかな?」
「まともな推論すら立てられなかったのは誰のせいだ?まあ良いさ。周知の事実だがあれは形状がなんであれ、弓だ。つまり矢と射手が必要な代物だ」
弓は矢がなければ使用できない。弓が遺産、矢が紋章石、射手が紋章保持者、というわけだ。弓と矢は入れ替わっても構わない。凡庸な例えだがよくまとまっていて分かりやすい。
「天帝の剣には紋章石がはまっていません」
「だからフレンだけでなく先生も誘拐すべきだったのさ」
「それなら同盟は今も健在であったかもしれませんな」
もしベレスが黒鷲優撃軍に合流していなかったら東回りで王国を目指すことは叶わず、アランデル公が地均しした西回りの経路で進軍していただろう。だがそれでは戦後の争いで不利になってしまう。ヒューベルトたちにとって本当の戦いはそこから始まるのだ。
戦争という営為は実に複雑なので現実にはたった一人にしてやられることなどあり得ない。ただもう少し時間が稼げればエーデルガルトが諦めて西から北上する、クロードはそう思っていた。だが事態がこうなってしまってはグロスタール伯たちがうまく後始末をしてくれるよう願うしかない。
「そうかもな。この後は東回りで北上するんだろう?ガスパール領やコナン塔の件はいい予行演習になったな」
もし自分が父のように強い力を持っていたらミルディン大橋を通行不可能になるまで破壊させた。輜重隊の兵も食べねば移動出来ないので補給路が延びれば延びるほど必要な物資が増加していく。そういったことを考えると帝国はミルディン大橋を再建せざるをえないのだ。戦争はただでさえ金がかかる。大橋の再建を妨害しながら時間稼ぎをしているうちに帝国の国庫から戦費が尽きるのではないか───クロードはそう考えたが、残念ながら諸侯たちの理解は得られなかった。
「破裂の槍が射手を選ぶさまは実におぞましかったですよ」
「ローレンツから聞いたよ。神罰、なんていう奴もいたな」
もし神罰というなら神はたまにひどく悪趣味になるらしい。当時の噂話を思い出したのかヒューベルトは失笑している。
「貴殿はどうお考えですか」
クロードは意図的に国を二分して茶番を続けたが王国は本当に国が二分されている。帝国もエーデルガルトが全権を握っているように見えるが、実際は内部にエーデルガルトと敵対する勢力が存在するのだろう。ヒューベルトは彼らを出し抜く手がかりを探すため、打てる手は全て打っている最中なのだ。そうでなければクロードの意見など聞く必要がない。
「陳腐なら単なる願望だし、再現性があるなら神罰と言う印象は受けないな。うまく言えないがもっと神罰ってやつは稀なんじゃないのか?ほら、アリルみたいな」
ガルグ=マクにいた頃、マリアンヌが教えてくれたが、女神の怒りに触れたためアリルはあのような土地になったのだと言う。あれこそ、どうすれば人の手で再現できるのかクロードにとって全く見当がつかない事象だった。
(5)
他文化を知り、セイロス教の影響を受けずに育っているクロードは時に思いもよらないようなことを言う。
「再現性ですか」
「俺やヒューベルトだってやろうと思えば人間が魔獣に変化する条件を整えられるんじゃないのか?」
それには紋章石が必須で、白きものの血液もあるに越したことはない。だから彼らはフレンを拐かしたのだ。レアの要請がなければセテスとフレンはガルグ=マクにやって来なかったのだから、彼らだけに責を負わせるのは間違っている。それでもヒューベルトはどうして人里離れた土地で安全を確保してくれなかったのか、と思ってしまう。
「それともあれはトマシュさんの顔を奪ったような連中にしか出来ないのか?」
ヒューベルトの答えを待たずに話し続けたクロードは、暗に取り上げられたフェイルノートとフライクーゲルのことを言っている。紋章を持たないものに英雄の遺産を握らせれば魔獣になるだろう。だがヒューベルトの脳裏に浮かんだのは闇に蠢くものたちの拠点のことだった。奪ったら即座に破壊せよ、と主君であるエーデルガルトから命じられている。だが───
「同じような下衆になれ、と?」
「逆に考えろよ、魔獣から人間に戻す手がかりがあるかもしれないじゃないか。それにトマシュの爺さんに成りすましていた奴みたいに任意で姿を選べた方が有利だろ」
確かに闇に蠢くものたちは都合よく姿を使い分けていた。ヒューベルトは顔と名を奪われる前のアランデル公のことを、モニカのことを覚えている。真の二人はあのような振る舞いをするものたちではなかった。だからこそヒューベルトは闇に蠢くものたちを絶対に許せない。人の手にこの世を取り戻し、彼らの名誉を回復せねばならない。
「その技術が確立され、普及した後はどうやって己が己である、と示すのでしょう?社会から信頼が失われますな」
「少し考えが足りなかったか」
クロードはわざとらしく咳払いをした。全くもって地に足がついていない。ヒューベルトは敬虔なセイロス教徒たちと打ち解けることができなかった。理由は異なるが、クロードとも彼らとは打ち解けられそうにない。円卓会議に出席していた諸侯たちは暴走しがちな彼を止めるのにかなり苦労したはずだ。
ヒューベルトがクロードの言葉に何かを見出している。だがそれは母国パルミラ関連ではない。客観的に見ればデアドラを奪われ同盟の諸侯たちに合わせる顔もなく───という敗軍の将、クロードのどこに価値を見出しているのか、段々と分からなくなってきた。ガルグ=マクで見聞きしたことを話せ、と言われているがこの五年間自由に出入り可能だった帝国のものたちの方が修道院やアビスに詳しいに決まっている。では五年前にクロードが夜の探索中に偶然見てしまった何か、に価値があるのだろうか。考える時間を稼ぐためにも無駄話を続けるしかない。問題は無駄話が思ったより楽しいことだ。
「でもな、アリルのようなことですら再現できる存在がいるかもしれない」
「おや、意外ですな。女神が実在する、と?」
「違う。そんなことは言っていない。再現できるならアリルのようなことですら女神の御業とは言えないってことだ」
一般論として、千年も続く組織が清廉潔白なわけがない。ディミトリの考えは聞いてみなければ分からないが、クロードが中央教会に改善を求めなかったのは完全に他人事だったからだ。仮の話だがフォドラがパルミラ王国の新たな領土になるならば、対応が全く異なってくる。内心は問わないとして言動は法律に従わせねばならない。心のうちでは何を信じても構わないが───例えば異教徒の子供を生贄にするような儀式は法律で禁ずる。それが植民地経営というものだ。
「ではどう言うことが女神の御業になるのでしょうか?」
クロードの視線に気づいたヒューベルトがそう問いかけながら再び杯に水を注ぐ。話を引き延ばさねばならない立場だが、教会のものたちと積極的に話そうとしなかったヒューベルトがまだ女神について語り続けることがクロードにとって意外だった。小さな丸い水面に視線を落としたが都合よく自分の顔など映ってくれない。
「この世界を作るとかそういう、本当に一度きりしか起きないようなことを起こすのが神様ってやつなんだと思うぜ」
一考に値すると思ったのだろうか。ヒューベルトは顎に手を当て口を閉じてしまった。
(6)
ヒューベルトは主君であるエーデルガルトの身の安全が脅かされること以外に怖いものはない。中央教会も闇に蠢くものたちも強大な敵だが対処できる。いや、対処できるように手を打ってきた。
頭は心にそのように感じよ、という命令を出す。しかし心は理屈通りにいかないものだ。無理やりねじ伏せた心は次第に何も感じなくなっていったが、近頃はその心に肉迫するものたちがいる。
工作のため主君に付き従って入学した士官学校時代の知己たちは皆、個性的で誰一人として重なるところがない。名前と姿を奪われたアランデル公やモニカのことを思えば、良くないことだとわかっていてもこの五年間ですっかり級友たちに情が湧いてしまった。彼らが顔と名を奪われてしまったら、と考えるだけでヒューベルトの心は千々に乱れる。一度緩んだ蓋はすぐ開いてしまうらしい。
諦めにも似た予測を、予測より遥かに上をいくことで驚かされるのは嬉しいのだ。尋問の前にわざわざ時間を作ってヒューベルトを訪ねてくれたフェルディナントの言葉が脳裏に浮かぶ。彼の言う通り、クロードのような人間を打ち解けさせる鍵は素直さや誠実さかもしれない。
「意外でした。その手のことは一括して否定にかかるたちかと」
「否定するにしても信仰するにしても全ては知ることから始まるもんだろ」
そう言ったあとクロードは失念していたことでも思い出したのか───あ、と一言だけ声を発すると黙ってしまった。彼は闇に蠢くものたちの行いが人の営為の範疇に収まるという。ルミール村や宮城で連中が何をしたのか詳しく知らないからそんな浮世離れをした解釈が出来るのだ。知らないということは本当に恐ろしい。
「敵を知らねばならないのは私とて承知しておりますよ」
苛立ちを隠さずそう伝えた。クロードは思索に耽ることで干渉を遮断しようとしているがそうはさせない。ヒューベルトは、いやヒューベルトたちは目を閉じて見ないふりが出来るような環境にいたことがない。そんなことをすれば処断した父と同じになってしまうし、立場が弱かった頃は誰かが痛めつけられているうちに必死で安全を確保せねばならなかった。
「こっちは知識の扱い方がおかしいんだ。せっかく中央教会に宣戦布告したんだから、色々と固執してくれるなよ?」
ヒューベルトに共鳴したかのように緑の瞳にも苛立ちが浮かんだ。クロードはもう笑顔で感情を覆い隠していない。
人生には夜空と宝石が必要、とクロードが悟ったのは前髪が伸びて三つ編みを作れるようになった頃のこと、このままパルミラにいても宝石が手に入らないと悟ったのは初めて毒を盛られた時のことだった。
「何を仰りたいのやら……測りかねますな」
フォドラに住むものたちはセイロス教によって作り上げられた柔らかで強靱な繭に包まれてこの千年を過ごしている。そこにはどこまでも広がる夜空のような思索の広がりが存在しない。
「俺たちは中央教会を知っているが信じていない。だが〝知る〟と〝信じる〟の違いは何だ?」
「経験で信じない、と判断しました」
ヒューベルトの理性的な答えを聞き、クロードは眉を顰めた。やはり自由の何たるかを知らずに生きてきたエーデルガルトとヒューベルトには限界がある。
「その経験を以って誰よりも自分たちの方が上手くやれると〝信じた〟わけだ」
今度はヒューベルトが眉を顰める番だった。
「我々は現実逃避をしません」
ディミトリであればクロードの言葉に引っかからず、そのまま流すだろう。迷いのないヒューベルトの言葉を聞いたクロードはエーデルガルトかディミトリどちらかが死ぬまでこの戦争は終わらない、と悟った。
「中央教会は女神の不在が証明されることを許さなかったから学問や技術に制限をかけたんだろうな。なあ……ヒューベルト、エーデルガルトはどこまでなら許容するんだ?」
例えば、レンズを縦に二枚並べて肉眼では見えない遠くを───夜空を眺めることを中央教会は禁忌としている。この手法を禁じられては肉眼では見えない小さな物体を観察することが出来ない。きっと女神が実存するか否かに関係がある分野なのだ。
「エーデルガルト様は人の世を取り戻すために立ち上がられたのです」
「答えになってないぜ」
この質問が敗軍の将であるクロードからレスターの民、いや、フォドラ全ての民にあてた最後の贈り物になるかどうかはヒューベルトにかかっている。
(7)
聖墓での誓いなど反故にしてやりたい。この距離で椅子に括り付けられたクロードにダークスパイクを直撃させてやったらどれだけ気分がいいだろうか。だがこれまでに嵩んだ戦費の件が絡んでいる。主君であるエーデルガルトがベレスの提案を受け入れたのはそういう冷静な判断があってのことだ。ほぼ無傷の同盟領はともかく荒廃した王国を併合すれば復興費用がかかる。それをパルミラとの貿易で賄う算段がついて安堵できたことは否定できない。
ベレスが黒鷲遊撃軍に合流して以来───あと一押し何かあれば、一気に戦局を傾けられるのに───という主君エーデルガルトの口癖はすっかり鳴りを潜めていた。正直言ってヒューベルトにはベレスが何を考えいるのかさっぱり分からない。分からないがそれで構わないとも思っている。ヒューベルトにとってそんな存在は彼女しかいなかった。だからこそクロードが何を腹に抱えているのかを知らねばならない。
水を取りに行った時のようにまた頭に袋を被せてやってもいいのだが、それもクロードの思惑通りのように感じてしまう。ヒューベルトは黒髪をかき上げると緑の瞳をまっすぐ見つめた。この瞳がベレスの行動以外の全てを見通しているとしても、帝国の勝利に変わりはない。
「今は戦時下ですので勝つために必要な制限はかけるでしょうな」
だが自分の返答は何とつまらないのだろう。中央教会を否定するなら終戦後すぐに可能な限り情報を公開し、技術にかけられた制限を取り払ってレアとの違いを打ち出す必要がある。覚悟はしているがやはりどうしても活版印刷が厄介だ。
ヒューベルトも元より情報戦に利用するつもりでいたが、闇に蠢くものたちが活版印刷を悪用しないわけがない。政策に関する的外れな意見はいざとなったら権力で押さえつけることは可能だが、それでは軋轢や遺恨が残る。
「英雄の遺産に関してはどうするんだ?何のために墓荒らしをしたんだ?」
敗軍の将だからこそクロードは追求の手を緩めなかった。今の立場で取れる限りの責任を取ろうとしている。戦闘終了後、武装解除をさせた時にクロードからはフェイルノートを、ヒルダからはフライクーゲルを取り上げているので気にかけて当然だった。
フォドラでは世界を作りたもうた女神の御業の詳細を知り、信仰を深めるために学問が存在する。セイロス教会がフォドラの知識を独占するための方便だ。情熱が都合の悪い真実に到達しそうになったら涜神行為だ、と言って阻止すれば良い。地理的な条件でセイロス教の教会は分裂しているが、この中央教会のやり方が激しい反発を呼んだのも分裂した理由の一つだろう。
「残念ながら中央教会の秘密保持は及第点だったようです」
ヒューベルトはもうクロードと話すつもりがないのか尋問を切り上げようとしている。しかしクロードは彼の常識に楔を打ち込めればそれで良かったので───馬鹿正直にパルミラの哲学者たちの間でも未だに〝知る〟と〝信じる〟はどちらが高度な状態であるか論争が続いていることを伝えていない。
「残念ながら、な。ヒューベルト、お前はこれまでも周囲を疑って来たんだろうが、今後の猜疑心はこれまでとは一味違うぜ」
ヒューベルトはこれまで己の全てが中央教会のものたちと異なると〝信じて〟いた。だが今後はその根拠を周囲に、何よりも己に知らしめねばならない。これがクロードが猜疑心の塊を自称する理由だ。
敵の逆張りをするだけなら敵と同じ輪に閉じ込められてしまう。〝知る〟ことは否定を伴うので己を蝕んでいく。そんな心苦しい毎日を送るものは自由な夜空と何があろうと砕けないほど硬く、色褪せずに輝きを放つ───宝石のような何かを心に持たねばならない。
「受けて立ちましょう」
揺らぐ蝋燭の灯りに照らされるヒューベルトは心に宝石を持っているのだろうか。クロードは民に堪えることを止めさせたが、ディミトリには命より大切なものがある。きっと命が尽きるまで抗うはずだ。
幼い頃に願った、全てを帳消しにするような奇跡は結局、今に至るまでクロードの身には起きなかった。故に絶対という言葉や奇跡の実現をクロードが〝信じる〟ことはない。それでも人生にはそんな言葉を必要とする局面がある。
───クロード、君の追悼文はこの僕が書いてやる。だが、それは遠い未来の話なのだから絶対にまだ死んでくれるなよ───
だからクロードはあの時、どんなに見苦しくも出自を匂わせて命乞いすることが出来たのだ。
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