#クロード
「五年目の誕生日」
夏生まれ、という自覚しかなかった。基本的にパルミラの者は生まれた日に拘らない。クロードは後宮生まれなので文官たちの付けた記録───後宮は王の子を確保するためだけに存在する───が残っているはずだがフォドラに来るまで見てみたい、と思うことがなかった。
今は亡き祖父オズワルドが見せてくれた母の手紙から推理して七月二十四日、こちらで言うところの青海の節二十四日生まれということになっている。そんな危うい根拠しかない日付けだと言うのにクロードの周りにいる人々は本気だ。シャンバラへの出撃を数日後に控えているというのにクロードは今、朝食を食べにきた食堂で跪き、ベレトから花冠を授けられている。
「マリアンヌちゃんが選んでくれたお花、やっぱりきれいねえ」
「ヒルダさんも編むのがお上手で」
女子たちが学生時代のように温室の花を使って編んでくれたものだ。どうやらヒルダの口ぶりからするに分業制はまだ続いているらしい。花冠はしっかりと形を保っている。
「いよッ!お誕生日の王子様!」
レオニーのかけ声で食堂中がやんやと沸く。このかけ声にもこの五年ですっかり慣れた。フォドラでは年齢や立場に変わりなく誕生日当日に限り男性は誰でも〝王子様〟になる。一日中、花冠を被って過ごし、通りすがりの何も知らない者たちからも祝いの言葉をもらうのだ。卓の上には祝いの品がいくつも置いてある。戦時中なのできっとどれもこれもデアドラでリーガン家の家臣たちから貰ったものより中身はささやか
だろう。だが、何よりも皆が手間暇をかけてくれた事実がクロードは嬉しかった。自分でも驚くほど胸いっぱいになったがそれ以上にベレトが積み上げられた品を見て喜んでいる。
「また人徳を失わないようにしないとな……」
相変わらず恩師は表情に乏しく、口数は少なかった。だが噛み締めるような彼の言葉は驚くほど鋭い。星辰の節、あの約束の日のことを昨日のように思い出す。
まだ誰にも話していないが、全てが上手くいったらクロードはフォドラを去ることになる。無事、王になるその日まで祝いの品を贈ってくれたものたちと連絡を取ることすら難しい。後始末をさせられるものたちはきっと困惑するだろう。
「このまま朝から呑みたいところだが、残念ながら解散だ。やるべきことを終えてから夜に呑もう」
自分に言い聞かせるようにクロードは宣言した。エーデルガルトやディミトリの人生を狂わせた闇に蠢くものたちを倒さねばならない。フォドラへの良い置き土産になるだろう。
いつまでもこうして気の合う皆と共にいたかった。故郷に戻ったところで成功できるとは限らない。だがそれでも───自分に流れる王の血を無視することはできなかった。畳む
「五年目の誕生日」
夏生まれ、という自覚しかなかった。基本的にパルミラの者は生まれた日に拘らない。クロードは後宮生まれなので文官たちの付けた記録───後宮は王の子を確保するためだけに存在する───が残っているはずだがフォドラに来るまで見てみたい、と思うことがなかった。
今は亡き祖父オズワルドが見せてくれた母の手紙から推理して七月二十四日、こちらで言うところの青海の節二十四日生まれということになっている。そんな危うい根拠しかない日付けだと言うのにクロードの周りにいる人々は本気だ。シャンバラへの出撃を数日後に控えているというのにクロードは今、朝食を食べにきた食堂で跪き、ベレトから花冠を授けられている。
「マリアンヌちゃんが選んでくれたお花、やっぱりきれいねえ」
「ヒルダさんも編むのがお上手で」
女子たちが学生時代のように温室の花を使って編んでくれたものだ。どうやらヒルダの口ぶりからするに分業制はまだ続いているらしい。花冠はしっかりと形を保っている。
「いよッ!お誕生日の王子様!」
レオニーのかけ声で食堂中がやんやと沸く。このかけ声にもこの五年ですっかり慣れた。フォドラでは年齢や立場に変わりなく誕生日当日に限り男性は誰でも〝王子様〟になる。一日中、花冠を被って過ごし、通りすがりの何も知らない者たちからも祝いの言葉をもらうのだ。卓の上には祝いの品がいくつも置いてある。戦時中なのできっとどれもこれもデアドラでリーガン家の家臣たちから貰ったものより中身はささやか
だろう。だが、何よりも皆が手間暇をかけてくれた事実がクロードは嬉しかった。自分でも驚くほど胸いっぱいになったがそれ以上にベレトが積み上げられた品を見て喜んでいる。
「また人徳を失わないようにしないとな……」
相変わらず恩師は表情に乏しく、口数は少なかった。だが噛み締めるような彼の言葉は驚くほど鋭い。星辰の節、あの約束の日のことを昨日のように思い出す。
まだ誰にも話していないが、全てが上手くいったらクロードはフォドラを去ることになる。無事、王になるその日まで祝いの品を贈ってくれたものたちと連絡を取ることすら難しい。後始末をさせられるものたちはきっと困惑するだろう。
「このまま朝から呑みたいところだが、残念ながら解散だ。やるべきことを終えてから夜に呑もう」
自分に言い聞かせるようにクロードは宣言した。エーデルガルトやディミトリの人生を狂わせた闇に蠢くものたちを倒さねばならない。フォドラへの良い置き土産になるだろう。
いつまでもこうして気の合う皆と共にいたかった。故郷に戻ったところで成功できるとは限らない。だがそれでも───自分に流れる王の血を無視することはできなかった。畳む



(1)
せっかく手に入れたデアドラを闇に蠢くものたちに荒らされたくなかったヒューベルトは後事を軍務卿であるベルグリーズ伯に託した。自領を長男に任せられるとは言え、それでも多忙な彼は親帝国派諸侯の領地には殆ど立ち入っていない。故に領主が親帝国派であった場合、その土地の平民の暮らしは戦前と全く変わらなかった。そのことを親帝国派の領主たちは誇っても構わない、とヒューベルトは思う。
ベルグリーズ伯は元よりアミッド大河を挟んで、領地が隣り合うグロスタール家とは長年の消極的な交流があった。そんな蓄積のある彼から見たグロスタール伯エルヴィンは信頼に足るようで、リーガン領はほぼ全域がグロスタール家預かりになりつつある。戦わずして豊かな地域を手に入れたグロスタール家、戦時中に掴んだ商機と利権をいまだに手放さないエドマンド家は妬まれていた。
嫉妬に駆られた人々と闇に蠢くものたちの思惑が絡みあった結果、再びヒューベルトが自ら取り調べをする羽目になっている。五年前と同じ館を使っているが、使っている部屋も待遇も何もかも違う。端的にいって明るくて心地が良い。一番の違いは弁護人が同席していることだ。キッホルの紋章保持者は親友であるローレンツの隣に座り、珍しく黙っている。
「貴殿が静かにしていると些か調子が狂いますな」
だがヒューベルトはフェルディナントの外聞を気にしないところが好きだ。必要だと思ったら躊躇しないところが自分とよく似ている。正反対と言われながらも彼に惹かれたのはそういうことだろう。
「揶揄わないでくれたまえ」
「事実を申し上げたのみです。ではローレンツ殿、まず……フェイルノートに嵌っていた紋章石の行方について心当たりはおありですかな?」
ヒューベルトの言葉を耳にしてもローレンツは顔色ひとつ変えなかった。英雄の遺産や神聖武器を手に入れるため、闇に蠢くものたちは戦闘終了後にデアドラに乗り込んでいる。だが結果は芳しくなかった。
「私の親友をクロードの身代わりに仕立て上げようという動きは看過できない」
フェルディナントはそう言うが、グロスタール家が先んじて有力な武器を確保していたと言う噂もある。それは本当にグロスタール家の意志なのか、裏で手を引く存在があるのではないか。そんな嫌疑をかけられていた。
クロードがローレンツの知らぬ何かを仕掛けてからフォドラを去ったことは、想像に難くない。遅効性の毒が今頃になって効果を発揮したということだろうか。そう言うことなら、ローレンツはクロードに代わってヒルダを守らねばならない。最後まで彼と共にいたヒルダが知らぬうちに悪巧みに巻き込まれている可能性がある。
「他家が保管しているものについて、僕は関知していない」
グロスタール家はテュルソスの杖以外にもいくつかの神聖武器を管理していた。クロードから帝国相手に総力戦はしない、と言われていたが独自に爪と牙を研いでおく必要はある。ローレンツはフェルディナントが淹れてくれた紅茶に口をつけた。彼は同じ湯で先にヒューベルトのためにテフを淹れたのできっと安全だろう。
「それにフェイルノートとフライクーゲルをエーデルガルトから取り上げたのはアランデル公自身ではないか」
素直なフェルディナントの声には苛立ちが混ざっている。武具に詳しくキッホルの紋章を持っている彼がデアドラが陥落した際、武装解除を担当していた。彼以外にフェイルノートとフライクーゲルに触れるのはリンハルトとエーデルガルトしかいない。両名とも戦闘終了後はやることが山積みだった筈だ。自然な役割分担と言える。
「フェルディナントくんが検分した時は特におかしな点はなかったのだろう?」
デアドラ育ちでないとしてもクロードはあの水の都を愛していた。デアドラを守るための戦いで、彼が死力を尽くさなかったとは考えがたい。だが───
「そのように見受けられた。だがエーギル家には残念ながら英雄の遺産や神聖武器の類は伝わっていない」
「それでは確かに知識不足は否めませんな」
「二人ともクロードが作り出した奴自身の虚像に惑わされている。君たちはデアドラで奴に勝ったのだ」
ローレンツは思わず声を荒げた。二人とも相手がクロードでなければとっくに結論に辿り着いている筈だ。
(2)
資格のないものが英雄の遺産に触れると何が起きるのか、ヒューベルトもフェルディナントも目撃している。そしてレアは破裂の槍を手中に収めようとしていた。今思えばベレスはあの時から中央教会に対して不信感を覚えていたのかもしれない。とにかく当時は効率を優先すると言ってシルヴァンに直接、破裂の槍を返却していた。タルティーンではそのせいでヒューベルトたちは苦労することになる。
だからこそ自分もフェルディナントもローレンツの言うことが俄かには信じがたかった。英雄の遺産は禍々しい面もあるが使用者の力を千人力にする。悪用を恐れて弱体化させておくなど考えられない。
「クロードは英雄の遺産に興味を持っていたが、機序が理解出来ないものを切り札にするつもりはなかったのだ」
先ほど感情を露わにしたことを恥じているのか、ローレンツは淡々と事実を指摘した。ディミトリと親しかった名家は皆、嫡子を失ったがクロードの異常ともいえる発想のおかげで彼もヒルダも生きている。
クロードの出自を知った今となっては何の不思議もない。デアドラに現れたパルミラ兵こそがクロードの切り札だった。パルミラ育ちの彼にとってフェイルノートはよく命中し、紋章を持つ射手の体力を回復し続ける弓でしかない。全てを託すつもりはない上に悪用される危険がある、となったら躊躇する理由はないだろう。頭では理解出来るが紋章の有無で人生が大きく狂っていく国で育ったヒューベルトにはない発想だった。
「ああ、だから猜疑心の塊を自称していたのだな!」
そこは感心するところではない。フェルディナントが開いた唇に手を添えた。彼の発想はいつも些か突飛でヒューベルトの調子を狂わせる。弁護人が必要、と言うのもフェルディナントの発想でローレンツの要望ではない。彼の感じている居心地の悪さについてはヒューベルトにも責任があった。
「貴殿が少しは持つべきものですな。そしてクロード殿はもしかしたら……」
フォドラの良き貴族として育てられたフェルディナントとローレンツからしてみれば正気の沙汰ではない。現に大司教を守る剣、と称していたカトリーヌは戦場で常に雷霆を手にしていた。お尋ね者となった〝カサンドラ〟が新しい名とセイロス騎士団での職位を与えられたのは雷霆という手土産があったからかもしれない。今となっては真実を確かめる術は残っていないが、大司教レアの英雄の遺産に対する執着は常軌を逸していた。
ヒューベルトとフェルディナントはそれぞれ別の事象について勝手に納得している。しかしローレンツはこれまでと同じく、胸の内に溢れる納得のいかないこと、を理性でねじ伏せていた。惨めさに騒つく心を飼い慣らさねば門地も領地も危険に晒してしまう。
対外的には戦闘中行方不明ということになっているが、国外追放に至るクロードの奮戦ぶりはフェルディナントから聞いている。民に頭を下げて避難させ、軍港に罠を張った。エーデルガルトとベレスでなければ彼の罠を食い破ることは不可能だっただろう。死地において、クロードはフェイルノートにもローレンツにも頼らなかった。賭けに負けた彼は今どこにいるのだろう。
ローレンツはフェルディナントが淹れてくれた紅茶に口をつけた。この茶器はこの館に元からあったものではない。白地に紺の模様が入った帝国風のものだ。そんな些細な事柄がデアドラで円卓会議が開かれる日は二度と来ない、という事実をローレンツに突きつけてくる。
「何にしても、信じがたい愚行だ……では代わりに紛いものが嵌まっていたのか?」
武具に詳しいフェルディナントがかいつまんで説明してくれた。不具合を発見したのは女帝エーデルガルトの伯父、アランデル公らしい。彼も何某かの紋章を持っているのだろう。
「動作確認をした際にその紛いものが割れたので驚愕したそうだよ。破片を調べたところどうやら人造の紋章石が嵌まっていたらしい」
「因みにフライクーゲルに異常はありませんでした」
ヒューベルトの声に微かな苛立ちが混ざっている。視線の先にはフェルディナントが淹れたテフがあった。茶菓は人間に余裕をもたらしてくれる。
帝国が豊かと言えども、あれほどの大乱の戦費が全て開戦前に用立てられるはずがない。しかも戦災で壊滅的な被害を受けたデアドラ港やフェルディアを再興する羽目になっている。この状況ではパルミラとの国境警備はゴネリル家に外注せざるを得ない。クロードはフライクーゲル返還に至る事情まで読んだ上で、フェイルノートだけ無力化したことになる。
(3)
クロードの腹立たしい点はいくつもある。まず、ヒューベルトたちと考えが重なる点があったことが腹立たしい。英雄の遺産に頼らずやってのけようとしたこと、全力を尽くさなかったこと、その二点が特にヒューベルトの神経に触る。細かい点を上げ始めればきりがなく尋問に支障が出てしまうだろう。
「クロードは人の手だけで何とかしようとしたのだ……。知識は間違っていることがあるし、信頼も儚い。未来は観察できないからな」
親友の淹れた紅茶を口にして気が緩んだのか、ローレンツはそう呟いた。領主は即決する力と判断を保留する力、矛盾する二つの力をどちらも求められる。
「ローレンツ、これは私見でしかない。だが私が思うに……やはり最後に残るのは感情や想像力なのだ」
フェルディナントが自論でローレンツを優しくとりなした。当事者である自分なしに全てが決まっていくことへの憤り、そして悲しみがヒューベルトの主君エーデルガルトの原動力だ。ローレンツは彼自身が傷つかぬよう、得するようにクロードからお膳立てされたがそれでもひどく馬鹿にされた気分だろう。
「おや、想像力はともかく貴殿は感情に振り回された王国のものたちに引導を渡して回っていたではありませんか」
アリアンロッドでもタルティーンでもフェルディアでもフェルディナントは返り血まみれになっていた。彼の燃えるような橙色の髪と違って死人の血はどす黒く、布にこびりついたまま固まると擦れて引っ掻き傷ができる。彼はあの寒い王国でも湯が沸くまで我慢できず、川や池で血を洗い流していた。貴族らしい身なりを保つために野蛮なことをしているのだが、びしょ濡れの彼が火にあたりに行くと兵たちが貴族らしくない、と言って喜ぶ。
「ヒューベルト、混ぜっ返すのはやめてくれたまえ」
苦境はフェルディナントから優雅さを奪うことに失敗した。そして彼の思索はより深い領域まで到達し、政策に活かされることも多い。
「笑顔の奥でどんな感情を抱いていたのやら……」
「ローレンツ、私が共にいるのだから怖がらずに自分の感情を認めて欲しい」
ヒューベルトのフェルディナントに対する評価は戦乱の時を経て、目障りで薄っぺらな理想主義者から生まれついての人たらしへと変化していった。
そもそもローレンツはクロードを疑いの目で見ていた。徹底的に疑ってかかり、理性で彼の人柄や行為に判断を下した結果、なんとも言いがたい関係になっている。
「喜びを感じようとしても常に惨めさと寂しさがまとわりついてくる。現にこうして尋問まで受ける羽目になった」
「矛盾など感じる必要はない。全て自然な感情ではないか」
そう言えば先ほどヒューベルトはまず、と言った。クロードはフェイルノートの損壊以外に何をやらかしたのだろうか。
「こちらは貴殿が彼と共謀していない、という確証が欲しいだけです。では密貿易の件はご存知ですか?」
「当家の立場では推理しかできない」
デアドラ防衛戦で軍港が使用不可能になったため、帝国軍は民間用の港を接収した。活動拠点を奪われても商人や漁師たちは食べていかねばならない。彼らはデアドラ市の対岸にある小さな島に船を移した。その島はかつてクロードが平民たちや商船や漁船を避難させていた島の一つで、急拵えの設備しかない。保安を名目として取り扱いできる荷の量には制限がかけられた。超過分の取引は全て密貿易扱いになる。
逮捕も拿捕も帝国の匙加減次第という危うい状況にも関わらず、その島は戦乱で壊滅的な打撃を受けたファーガスとの貿易の拠点となっていた。彼の地は復興のため、ありとあらゆる物資を必要とする。そこに最近やたらとスレンやパルミラからの荷が増えたらしい。
リーガン領の管理を任せるが港湾および海上を除く、という帝国本土からの通達をローレンツの父エルヴィンが素直にのんだ理由はこれか、とローレンツは悟った。帝国本土から派遣された官吏たちが大型船が接岸出来る港湾関係を取り仕切っている。ファーガスと旧リーガン領の反帝国派同士連携させないために彼らは必死だ。
「ヒューベルト、恣意的な運用に私は反対だ。公正でなくては我々は正当性を失う」
「フェルディナントくん、フェルディアはまだ……」
フェルディナントの表情だけで状況が分かる。民たちにはまだ、どの土地の小麦が口に入っているか考える余裕はない。
(4)
タルティーンの野で敵がかつての再現を狙う様にヒューベルトは失笑してしまった。教会はネメシスを破り、王国は帝国軍を破っている。そんな夢に縋るくらい追い詰められた時点で負けなのだ。
「復興は道半ばですな。王が冷静であればああなっていないでしょう」
紫の瞳がヒューベルトをじっと見つめている。病的なまでに冷静だったクロードとディミトリを比べているのだろうか。ディミトリはタルティーンに出てくる必要などなかった。進軍するふり、だけに留めておけば王都フェルディアを守れただろう。
「僕は士官学校に入る前、魔道学院にいたことがある。情勢が悪化して入学早々、帰国せざるを得なかったが」
「ではローレンツには焼け落ちる前のフェルディアの記憶があるのだな。我々と違って」
「華やかではないが落ち着いた雰囲気の良い街だった。王都を陥落させまいとディミトリくんは賭けに出たのだろう」
ヒューベルトはローレンツの知らないことを知っている。ディミトリはヒューベルトの主君、エーデルガルトを殺すためだけにタルティーンの野に出陣した。十傑の子孫は白きものにとって他民族から中央教会とアンヴァルを守る捨て石に過ぎない。千年の時を経て、少しは愛着が芽生えただろうと思っていたのにレアはフェルディアに火を放った。かつてクロードが〝信じる〟と〝知る〟の違いについて考え続けろ、と言っていたのはあのような事態を避けるためなのだろう。セイロス騎士団の中にはファーガス出身者が多いと聞いている。
「王国軍のものたちは死に物狂いだった」
人間らしさを保証するものは一体なんなのか。フェルディナントは己に刃を向けたものの内にも美徳を見つける。不運にも刃を向ける羽目になった、とでも言うつもりだろうか。
「紋章石を手にするほどに、必死でしたな」
タルティーンの野で何があったのか、正確に知る兵や将は少ない。戦場は混乱するものだし、自分がいなかった場所で何が起きたのか把握するのは至難の業だ。だからヒューベルトも魔獣と化した王国兵を見てディミトリがどう感じたのか知らない。
「露悪的な態度を取るのは私がいるせいか?」
フェルディナントの目が細められた。彼は決して不正をするような人物ではない。だがローレンツとの友情が世間に知られている以上、忖度が疑われてしまう。
帝国のものたちは皆ローレンツに敬意を持って接し、人間らしく扱っている。親帝国派として知られるグロスタール家の嫡子で、彼らの予想から逸脱しないからだ。ではクロードはどうだったのだろうか。彼の常軌を逸した行動に人間らしさは見出されたのだろうか。ローレンツはそっと拳を握りしめた。今でも槍の訓練を怠ってはいない。
「紋章石を手に、と聞こえたが合っているだろうか」
「そうだ、我々はこの目で王国兵たちが魔獣になるさまを見た」
帝国軍には緘口令が敷かれている。フェルディナントといえども従わねばならない。ヒューベルトの監視下で、ローレンツがこの場で聞いたことを口外しないと分かっているから命令を破ってくれた。
「追い詰められた、と感じた時点で彼らは負けていたのです」
帝国軍はそんな彼らに勝利している。そこまでして彼らが守りたかった王都はよりによって、セイロス騎士団によって焼き払われたという。
「だが私は戦場で相対した彼らに崇高なものを感じたのだ」
セイロス教に拠って立った国は、皮肉なことにセイロス教を保護したせいで滅亡した。徹底抗戦の末、国土は荒廃し復興は遅々として進まない。クロードはフォドラから追放され、パルミラ産の小麦がファーガスへ輸出されている。この状況はローレンツにとってひどく据わりが悪い。
「それは彼らが王や国を見限ることなく殉じたからだろうか?」
正直に頷くフェルディナントを見て、ローレンツは気がついてしまった。自分はもうクロードやレスター諸侯同盟に殉じることはできない。
「レスター諸侯同盟は諸侯同士が対等な、王がいない国でした」
ヒューベルトに過去形を使われてローレンツの心は痛んだ。薄い唇はまだ言葉を紡いでいる。
「貴殿はフェルディナント殿と仲が良いが、それでもクロードは貴殿のことを真の友と思っていたのでしょう。だから友人が己に殉じることなく息災であってほしい、と願った」
金色の瞳はローレンツではなく隣に座るフェルディナントを見ていた。最後に残る感情、の解釈が合っているかどうか気になるらしい。
(5)
残念ながらローレンツはテフが嫌いなのだ───いつだったか定かではないが、寝物語にフェルディナントが語ってくれたことがある。戯れに、褥を共にしているのに他の男の話など、とヒューベルトが返したらフェルディナントはなんともいえない顔をしていた。
親友であるフェルディナントにテフを振る舞われた時もこんな風に笑みを浮かべていたのだろう。態度は友好的に、だが口にする意見は明確でなくてはならない。ゆっくりと口角をあげ、ローレンツはヒューベルトに微笑んでみせた。見るものによっては妖艶、とすら感じるかもしれない。彼は確実に名家の嫡子として教育を受けて育っている。
「奴と僕は断じて、友人などではない」
紋章石絡みの話題が出た時と違い、声が上擦るようなことはなかった。だが、その芝居が続く限りは旧同盟領の安全が保たれる。ローレンツは何重にもクロードに守られていて───フェルディナントの言うとおり、その奥にはきっとクロードの感情が秘められているのだ。
フェルディナントはローレンツの発言に顔をしかめている。彼は感情表現が豊かな方だが、勿論、他者の視線があるところではこんな顔をしない。これはヒューベルトに心を許している証だ。
「では、そういうことにしておきましょう」
帝国は近々、本格的に鎖国政策を取りやめるのでクロードの策に乗ったところでエーデルガルトに損はない。フェルディアの民は食わせてやらねばならないし、あれで外国や異教徒に対する嫌悪感が和らぐなら結構なことだ。クロードは首飾りの向こうから変わりゆくフォドラを見つめている。
感情というものは実に身勝手で現実と折り合いが悪く、自分の理性とすら調和がとれない。ヒューベルトの感情にとって、この件で何よりも重要だったのは闇に蠢くものたちが損をしたことだ。
実際はどうだか知らない。だがアランデル公と名乗るものの手の中で、フェイルノートが壊れたさまを思うとつい、笑いが込み上げてくる。だからベレスに誓いを立てたことは正しかったのだ───感情がヒューベルトにそう、訴えかけてくる。
事前にフェルディナントが言っていた通り、現状の説明を繰り返すだけでヒューベルトがさっと退いた。クロードはここまで予想してファーガスの民を人質に取ったのだろうか。ローレンツは自分の民ではない人々で賭けに出る、彼のやり方に幻滅せねばならない。心に一筋の傷が走ったような気分になったが、フェルディナントは喜んで構わないのだ、と主張する。
「しかし、知らなかったこととはいえ、フェイルノートの件は大問題だ。レスター地方だけの問題ではない」
ローレンツは横目でフェルディナントを眺めた。自分が何を言おうとしているのか、を察した親友が喜びに頬を染めている。レスター〝地方〟と口に出す時に痛みも感じて構わないのだろうか。ヒューベルトもローレンツの言葉を待っていた。
「英雄の遺産はフォドラの至宝だ。政務の合間に僕も本物の紋章石を探してみても構わないだろうか?」
ヒューベルトはフェルディナントを見て目を細めている。フェルディナントは実に上手く立ち回ってくれた。彼が親友を弁護する、と公言したらローレンツを疑うものたちは彼に拮抗する人物を引っ張り出さねばならない。実際は因果が逆なのだが、大抵の他者はそう誤解する。
きっと、彼らは自分らしくないことを実現したいときに互いの印象を利用しあっているのだ。ヒューベルトがクロードにどんな感情を抱いているのかローレンツは知らない。
「よろしいでしょう。ゲルズ公にも話をつけておきます」
形式を守るための馴れ合いに過ぎない、という謗りは甘んじて受けるしかなかった。クロードにまつわる噂は多種多様でどれも説得力がある。だがこれでローレンツは帝国の公式な見解を知ることができた。彼は国外で生存していてこのフォドラに干渉しようとしている。
どこまでも真っ直ぐなローレンツの親友はこれでおしまい、とばかりにファイアーの呪文を唱えた。湯を沸かし、嬉しそうに茶葉を取り替えている。フェルディナントがどこまで計算していたのか追及するほどローレンツもヒューベルトも野暮ではなかった。畳む