-horreum-倉庫

雑多です。
#かのひとはうつくしく #完売本 #クロヒル #ロレマリ
17.anecdote(side:L)

 修道院が帝国軍に襲撃された際にローレンツも白きものを目撃した。セイロス教の瑞獣は自らの意志で人間の形を保つが人間は時と場合によって人間の形を保てなくなる。コナン塔でもルミール村でも目撃したし幾度となく撃退した帝国の魔獣のことを考えると流石にローレンツと言えども精神が揺らぐ。ローレンツは思わずマリアンヌから借りた本を手に取った。この本は修道院の書庫にもかつて置いてあったようだが二十年ほど前の大火で失われている。借りたものはかなり古びているのでおそらく元の持ち主はエドマンド辺境伯なのだろう。この詩篇の解説書は実に興味深く感銘を受けた部分はこっそり詩を綴っている帳面に書き留めてしまったほどだ。
 貴重な本を貸してくれた礼としてお茶に誘うとマリアンヌはローレンツのために時間を作ってくれた。領地から取り寄せた焼き菓子や茶葉のうちマリアンヌが好きそうなものを考えるだけでもローレンツは楽しくなってしまう。近頃、彼女は何だか塞ぎがちなので気晴らしになってくれたらと思った。
 アンヴァルで勝利し闇に蠢く者たちの本拠地を壊滅させガルグ=マクが盛夏を迎えつつあるようにローレンツたちの青春も終わりつつある。ローレンツはもう二十代半ばなので良き嫡子としての務めを果たさねばならない。そしてローレンツには絶対も永遠もないこの世の中でクロードのようにたった一人で全てを取り仕切る自信はなかった。父と家臣たちには戦争が終わっても結婚相手を見つけられなかったら見合いを再開すると伝えてある。叶うことならばという願いはあるがとりあえずローレンツは自分にできることをするしかない。
 魔道学院や士官学校は王族や皇族であれば従者と共に学生生活を過ごせるがそれ以外の者は身の回りのことは全て自分でやる。集団生活を送る前に一通りのことができるよう実家の使用人に教えて貰ってからローレンツは実家を出た。だから掃除や人寄せのための支度は別に苦ではない。来客と自分の目を楽しませるため最後に卓の上にベレトから貰った薔薇の花を飾った。これでいつでもマリアンヌを招き入れることが出来る。
 控えめに扉を叩く音がして待ち人が現れた。これまでの茶会や食事の際に彼女が好んでいたものから予想して供したものは全て気に入ったらしい。マリアンヌとローレンツは味の好みも合っている。またお茶の相手をしてほしいと頼むとローレンツの部屋に入ってから初めてマリアンヌの表情が曇った。
「私で、良いのでしょうか……」
「何を言う!僕は君が良いのだよ」
「………………。私、実は……あなたに言わなければいけないことが……」
 マリアンヌは美しくエドマンド家は豊かなのでもしかしたら秘密裡に縁談がまとまったのかもしれない。彼女がグロスタール家の嫡子である自分と親しげにしているせいで婚約者が不愉快な思いをしているのならば確かに距離をとってほしい、と告げる必要がある。この世には絶対や永遠がないとローレンツは知っていた。だからこそ辛くても受け入れてきちんとマリアンヌを祝福してやりたいと思っている。
「ずっと、隠してきたことがあるんです。実は……あの……私には……忌まわしい……紋章が……」
 先ほどまで顔を綻ばせながら紅茶を楽しんでいたというのにマリアンヌは今にも崩れ落ちてしまいそうだった。自領を守ることに役立つ紋章は貴族たちの間では天佑と言われる。それだけに彼女が怯えながら自分へ告げようとしていることがどれだけ重大であるか瞬時にローレンツは悟った。紋章を持っている学生たちは士官学校に入った後すぐに集められ専門家であるハンネマンの検査を受けている。ローレンツの記憶が確かならば彼女は検査を受けていない。きっとエドマンド辺境伯は修道院に膨大な額の寄進をしている。
「もういい!やめたまえ、マリアンヌさん!」
 ローレンツはこれ以上マリアンヌが宿すという謎の紋章に彼女自身を傷付けさせるわけにいかなかった。
「震えているじゃないか。そうまでして僕に何かを打ち明ける必要などない!」
 マリアンヌとエドマンド辺境伯は血縁者だが実の親子ではない。母方のものに姓を変えねばならなかった理由はおそらく彼女の実父にある。ローレンツはマリアンヌが何に苛まれて生きてきたのかを察した。そして彼女はローレンツをそこから遠ざけようとしている。
「僕が見たいのは、そんな君じゃない。笑顔の君が見たいんだ。きっと、今、君が言いかけた言葉の先に、君の魅力の秘密が隠されているのだろう。それでも、君が笑顔で話せる日が来るまで、僕は聞きたいとは思わない」
 彼女は陰鬱さこそが己自身だと信じ込んでいるがそんなことはない。他人を巻き込むまいとする頑固さは彼女の善良さの表れだ。それは宝石の輝きのように決して色褪せない。
 今、マリアンヌから具体的なことを告げられたらローレンツは今後は彼女の話を聞いてやることすら不可能になる。話を聞くためにもこの話を聞いてはならないのだ。
「僕はね、相手のすべてを知りたいなどという貪欲で下品な男とは違うのだよ。謎めいた君のままで、十分素敵だ。いや、むしろ謎めいているからこそ魅力的……」
 あのエドマンド辺境伯が解決出来なかった案件をローレンツ個人に解決出来る可能性は低い。だがここでグロスタール家やローレンツ自身の利にならないからと言ってマリアンヌから距離を置かれてしまうのはどうしても嫌だった。必死になって説得しているとローレンツのその姿が滑稽だったのかマリアンヌが声を上げて笑った。その朗らかな笑顔を見ているとやはり陰鬱さが彼女の本質である、とローレンツには思えない。マリアンヌはローレンツに変わりたい、と言ったが彼女は変わる必要などない。内に秘められた良さを表に出すだけで充分だしどうやらローレンツはその手伝いをさせてもらえそうだ。

 ある日ローレンツはベレトから遠出をしたいので武装して付き合ってほしいと頼まれた。大量の特効薬と松明とテュルソスの杖も持参して欲しいというのだから只事ではない。
「どこまで行くのだろうか?」
「エドマンド領だ」
 数日前マリアンヌは自領に用事があるといってガルグ=マクを離れている。
「夜に魔獣がうじゃうじゃ出る森ねえ……なんで昼はダメなんだ?」
 森に最も近い宿場町でベレトから簡単な説明を受けたクロードが当たり前のことを問うた。昼間の方が視認性が高く人間にとっては戦いやすい。
「討伐したい魔獣が夜にしか出てこないんだ」
「うーん、それなら巣を見つけて昼間にアグネアの矢みたいな黒魔法を放っちゃった方が安全じゃない?」
「つまり僕か?それならそれで別に構わないが……」
 ヒルダの言うことには一理ある。わざわざ魔獣が最も活動的な時間帯に戦闘する必要はない。そしてそんな方法で済むなら忙しい二人がこの時期こんなところに来る必要はない。ローレンツは並んで座る恋人同士を見て腕を組んだ。ベレトの庇護の下にあるからこんな我儘が通る。だが戦争が終わり新生軍が解散すればそれも終わりだと思うと叱る気にはなれない。
「察していると思うがマリアンヌの依頼だ。全てに理由があるし追及しないで欲しい」
 リンハルト以外の者は素直にベレトの言葉に頷いた。ベレトは今回マリアンヌと縁が深い者に声をかけている。マリアンヌは己の本質が陰鬱さだと思い込んでいるが絶対に違う。もしそうなら皆こんな風に心配しない筈だ。

 普通の獣ならば火を避けるが魔獣は火を見ると寄ってくる。霧深い森の中で視野を確保するため松明をかざすとベレトの説明通り魔獣それに加えて幻影兵がいた。この森は普通ではない。森全体が魔獣の巣になっていて複数の群れが住んでいる。
「確かに領内にこんな所があっては……マリアンヌさんが先生に助力を求めるのもわかるよ」
「奥にこの群れの主がいる。それが今回の標的だ」
 松明があって視野が確保できても単独行動が危険なことに変わりはないので別行動はせず一頭ずつ倒していくしかない。奥の方からひときわ大きな叫び声が聞こえてきた。
「もはや止まらぬ。おぬしの血肉を喰らうまで……!」
 皆一斉に口を閉じた。こんな危険な森の奥に自分たち以外に誰かいる。しかも発言内容が不穏だ。
「そんな……いけません!」
 そしてマリアンヌの声が続いた。ベレトが視野を確保するため右手で松明を掲げるとかつてコナン塔で見たマイクランのような姿をした魔獣が見える。どうやらマリアンヌはその魔獣を説得しようとしているようだ。人語を話す魔獣など今まで見たことがない。ヒルダがあれやこれや言いだそうとしたクロードの口を後ろ手で塞いでベレトの顔を見た。ヒルダもマリアンヌの意志を尊重し知らぬまま通すつもりらしい。
「行こうか」
 全てを知るベレトは口止めをされているのか余計なことを一言も言わない。きっとあれがあの光景こそがマリアンヌがローレンツに告げようとしてくれた秘密なのだ。ローレンツに門地や領地がなかったら遠ざけるためでなく助けを請うためにマリアンヌは全てを告げてくれたのかもしれない。だが全ては仮の話に過ぎずベレトはローレンツに手伝いを乞うてくれた。それならばローレンツはテュルソスの杖の力を借り己に宿る紋章の力を使い、なすべきことをなすしかない。

 人語を話していた魔獣は最後にマリアンヌとベレトに感謝し人の骨と剣を残して消えていった。人語を話すのだから他にどんな能力があっても不思議ではないがあれほど立ち込めていた霧が晴れ空には月が輝いている。
 マリアンヌの足元には古びた人骨が転がっていた。月光が作る影のせいでローレンツのいる位置からは彼女が手にしている剣はよく見えないがテュルソスの杖やフェイルノートと質感が似ている。白い光を浴びた彼女は深々と頭を下げた。
「皆さんありがとうございました。これで私の無実が証明されます」
 好奇心が身をもたげてくるがクロード、ヒルダ、リンハルトがガルグ=マクに戻る道すがらローレンツの代わりにマリアンヌから聞きたいことを全て聞き出してくれるだろう。先ほどヒルダから口を塞がれたクロードはきっと質問で頭がいっぱいの筈だ。
 皆に謝意を示したマリアンヌは剣を傍に置き戦闘中にずっと身につけていた紺色の外套を脱いだ。じきに夜が明けるとは言え返り血が染みて乾かないと冷えてしまうし上着に染み込んだ血が乾いたとしても広範囲にできた硬く薄い血の塊が肌にこすれて痛い時もある。
 ローレンツは自分の外套を脱ぎ彼女の肩にそっとかけてやった。五年前の彼女なら自分の不幸が感染るから、と悲鳴を上げて払いのけていただろう。共に過ごした年月は無駄ではなかったようでマリアンヌは厚意を素直に受け取るようになってくれた。今晩のローレンツは魔法しか使わなかったので外套に煤は多少ついているが魔物の返り血はついていない。
「すいません、ローレンツさん、お借りしたまま作業してもよろしいでしょうか?」
 マリアンヌはぶかぶかの外套を身につけたままローレンツに許可を取るとしゃがみ込み自分の外套を地面に広げてその上に頭蓋骨や小さめの骨を載せ始めた。その姿を見て困惑したヒルダが叫ぶ。もうこの森の中で一番強い生き物は人間だ。聞きつけられたところで何の問題もない。
「マリアンヌちゃん!ちょっと待って!それどうするの?」
「持ち帰って一族の墓地に埋葬します」
「他の骨はどうするの?」
 亡骸の扱いは千差万別だ。ローレンツは遺言に可能であれば自分の亡骸は貴族に相応しく扱って欲しいと明記してあるし火葬用に薪を買う金貨も遺言に同封してある。頭蓋骨の持ち主がどんな身分なのかは分からないが兵士であれば敵の怪しげな魔道士に亡骸を悪用されないため墓標も作らず穴を掘って埋めてしまうことも多い。故郷の墓に埋葬するため全身を持ち帰れることもあれば一部しか持ち帰れないこともある。
「でもこれ以上みなさんのお手を煩わせるわけには……」
「私にはまだどういうことか分からないけど本当は全身持って帰ってあげたいんでしょ?」
 ローレンツも聞き逃さなかったがヒルダも一族の、という言葉を聞き逃さなかった。マリアンヌにはきっと遠慮せねばならない、と判断する根拠がある。だがそんなことは度外視したくなるのが友情や愛情だ。マリアンヌがヒルダの言葉に頷いたので頭蓋骨はマリアンヌが外套に包んで運び他の骨はそれぞれ手分けして皆で運ぶことになった。人体には約二百本の骨がある。
「重たければそれも僕が持つが」
「大丈夫です。それに皆さんに持っていただいているのに私だけ手ぶらというわけには……」
 森の奥からエドマンド家が持っている屋敷へ向かう道中、こういう時には食事と風呂どちらが必要か皆で語り合っているうちに夜が明けた。日の出に照らされると改めて皆の格好がひどい有様なことがよく分かる。マリアンヌが身につけているローレンツの外套には思ったより煤がついていた。そのせいで彼女の白い頬が黒く汚れてしまっている。
「これは風呂だな」
 絶対に食事だ、と主張していたクロードが陽の光の下であっさりと意見を変えた。今更自分の惨状に気付いたらしい。外套なしで一晩過ごしていたローレンツは早く風呂に入ってあったまりたいと思っていたのでヒルダと同じく風呂派だった。

 ローレンツの見たところエドマンド家の使用人たちはよく躾けられていた。マリアンヌが男物の外套を身につけ魔獣の血にまみれた襤褸きれのような格好で現れ真っ先に使っていない敷布を玄関に持ってくるように命じても動じなかったしそこで同じく襤褸きれのような格好をした客人たちが古い骨を並べて検分しても狼狽するようなこともない。クロードとリンハルトによる検分は中々終わらず彼らの議論がマリアンヌの望まぬ方向へ行かないようにローレンツはずっと見張る羽目になった。結果として食事が先になったのだが検分しながらであったのでスープなどはなく手でつまめる物だけで済ませている。
 入浴を済ませベレトやクロードたちが糸が切れた操り人形のように眠っている最中、マリアンヌがローレンツが休んでいる客室の扉をそっと叩いた。
「お休みのところ申し訳ありませんがお時間いただけないでしょうか?」
 扉越しにローレンツに呼びかける声は落ち着いている。熟睡して昼夜を逆転させるわけにもいかないと考え椅子でうたた寝をするに留めていたのですぐにローレンツはマリアンヌの声に気がつくことができた。好きな人の声で起こされると心が躍る。彼女はうたた寝から目覚めたローレンツが使用人たちから誤解を受けぬように応接間に連れ出してくれてグロスタール家の嫡子として今後エドマンド辺境伯家の養女と深く付き合うならば知っておくべきことを手短に話してくれた。先日と違って本当に心から自分の話を聞いて欲しいのだとマリアンヌの表情も物語っている。だからだろうか。ローレンツは彼女のことを少し揶揄いたくなってしまった。クロードに笑われるのは癪だがマリアンヌを笑わせるのは全く嫌ではない。
「マリアンヌさんは本当に僕で良いのだろうか?」
 この時のマリアンヌの表情をローレンツは一生、忘れないだろう。ぽかんと口を開け目を丸くしてローレンツのことを凝視していた。つい先日のやりとりだから彼女もきちんと覚えている。
「まあ!ローレンツさんたら何をおっしゃるのですか?私はあなたが良いのです。優しくて面白くて……」
 その後はお互いに笑ってしまって全く言葉にならなかった。

 六年前クロードがリーガン家の嫡子として発表された時にローレンツは自分の手から将来の栄誉がすり抜けていったことに落胆しひたすら不愉快で納得いかなかった。ところが六年経ってみればローレンツは親に逆らいクロードに命を預けている。彼は度量が違うのだ。そしてローレンツは六年前には想像すらしなかった神話のような戦場に身を置いている。セイロス教の瑞獣と同じ色をした飛竜にまたがり上空から敵の様子を窺うクロードと本日彼の前衛を務めるヒルダの姿はきっとイグナーツが絵にする筈だ。
「砲台だらけで北の方に行くの嫌になっちゃう」
「二人とも気をつけてくれたまえ」
 砲台の奪取とヒルダが発見した毒の沼を発生させている魔道士の排除がローレンツが率いる別働隊の役目だ。ヒルダは滅多にやる気を出さないがホルストの件があるので今日は戦う前から偵察などで大活躍している。マリアンヌも心配そうにヒルダとクロードを見つめていた。その視線に気づいたヒルダが飛竜の上から手を振る。
「大丈夫!地上ならともかくクロードくんは空の上なら一番当てになるんだから!」
「確かに俺も地上ならヒルダの方が良いな」
 ローレンツは学生の頃、修道院の上空警備の際に上空でふざけていた二人を注意したことを思い出した。今にして思えばあの頃からクロードはヒルダに好意を持っていたのだろう。自分がマリアンヌに好意を持っていたのと同じく。畳む
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- 18.sequel:C&H -

 ヒルダはパルミラ王国の公文書に独自の視点を持った剃刀のように鋭い王妃であった、と記されている。
「クロードくん、どうやって帰るの?」
 クロードは新生軍の中でヒルダにだけは真の身分を告げていた。ガルグ=マクから母国パルミラに帰るにはアミッド大河沿いに東へ進むか北上しデアドラ港もしくはエドマンド港から船で東に向かう二つの道がある。デアドラに戻ってしまえばクロードはナデル以外の家臣たちに囲まれて船に乗るのも一苦労だしエドマンド港に行けば辺境伯の耳に入ってしまう。
「飛竜で東かな」
 明日、大司教代理であるベレトの名において新生軍の解散とフォドラの統一それと首都がデアドラであることが宣言される。ようやく帰郷できることもあり皆、浮き足立っていた。残務処理があるのでと言ってベレトとリーガン領から連れてきた兵たちを先にデアドラへ送り出し上空警備が緩やかになったら誰にも告げずそっと単騎で出発するつもりでいる。
 その道程はこの先の孤独を象徴している気がしてならない。クロードは友人が多い人気者だが七年間も王宮に姿を現さなかったカリードを父と母以外に気にかける者はいるだろうか。
「あの子を置いていくなら私にちょうだい」
 クロードの腕の中で怠そうにしているヒルダが言うあの子、はクロードがいつも騎乗している白い飛竜のことだ。元々の気質のせいなのか白子であったせいなのかは分からないがとにかく兄弟仲が悪く除け者にされている姿を見てクロードが引き取った。クロードに懐いているがヒルダにも懐いている。
「元から頼むつもりだった」
 あの白い飛竜に乗って帰れば名乗りを上げながら東へ移動しているのと同じなので別の飛竜を見つくろう予定だった。幸い路銀には困らないので宿場町ごとに飛竜を確保することも可能だろう。
「あのねぇクロードくん、怠けるのってすっごく気を使うんだから!」
 それまでクロードに背中を預けていたヒルダは真っ白な身体の向きを変えた。褐色の喉元で輝く翠玉の首飾りを弄りながらツィリルが聞いたら本当に機嫌を悪くしそうな話をし始める。
「喜んで仕事を引き受けてもらうには日頃から好かれなきゃいけないしどれくらい仕事を押し付けられる人なのか見極めなきゃいけないし!」
 言っていることは本当にひどいが全ての仕事を自力でやるわけにいかない立場であるクロードにとって実に示唆に富んでいる発言だった。そしてこのヒルダに部屋の片付けを手伝わせるマリアンヌはやはり大物なのではなかろうか。
「真理だな」
「船がいいよ。クロードくんがいなくなったってわかったらセイロス騎士団の人たちはきっと空しか見ないだろうから」
 学友たちがいればクロードが敢えて船や馬を使う可能性に気付くだろうが共に戦った貴族の嫡子たちは連れてきた兵たちを連れて自領に戻らねばならない。新生軍結成以来一度も帰省していないラファエルはベレト、クロード、ローレンツ、それにマリアンヌから書いてもらった紹介状を手に入れ妹と祖父を安心させるため一日早く出発した。帰路の補佐を、というわけでレオニーはマリアンヌにイグナーツはローレンツに雇われているためおそらくクロードの捜索はセイロス騎士団が主体となって行うことになる。
「参考にする」
「じゃあそろそろ自分の部屋に戻って。クロードくん明日は大変なんだからもう眠らないと」
 こんな風に同じ寝台で夜を過ごせる日が次にいつ来るのかクロードにもヒルダにも全く分からない。これまでずっとヒルダは修道院ではちょっと、と言っていたのに今晩に限ってお許しが出たのはそういうことだろう。クロードは白い肌の手触りや汗と香水の混ざった匂いをヒルダの部屋でもう少し楽しみたかったのだがどうやらヒルダはお開きにしたいらしい。
「こう言う時って普通、離れたくないから私も一緒に行く、とか無駄だって分かってるけど行かないで、と言うもんじゃないのか?」
 クロードがそう言って茶化すとヒルダは褐色の手を臍の下辺りに導いた。褐色の指を吸い付くような白い肌の上で遊ばせようとしたが強く掴まれる。
「私にはいつか命を賭ける日が来るの」
 フォドラでもパルミラでも貴族の娘が子を望まれるのは変わらないし出産が命懸けであることも同じだ。だがその前の段階でクロードがしくじって王宮内での政争に負ければクロードもヒルダも毎日命を狙われながら暮らすことになる。ヒルダはクロードの子を宿す日のことを真剣に話していた。妊娠出産以外で危険な目に遭わずに済むよう地均しをしておけ、と言っている。
 本気を出したヒルダはすごいのだ。こんなに精神的な興奮を掻き立てられる「部屋から出ていけ」の言い方が世の中に存在するとクロードは知らなかった。頭や体に溜まった熱を逃すために大きく息を吐く。
「何の憂いもないように整えておくよ。そうだ、こいつも預かってもらえないか?」
 クロードは首飾りを外してヒルダにつけてやった。しかし鎖が長く翠玉は小柄な彼女の豊かな胸の谷間に挟まれている。見張り役にはちょうど良いのかもしれなかった。母から餞別としてフォドラ風の女物の指輪を持たされているが人によって指の太さは違うしパルミラ育ちのクロードに指輪はどうにも馴染まない。
「あのね、クロードくん。こう言う時って普通、指輪を渡すもんじゃないの?」
「パルミラだと交換するのは首飾りなんだよ」
 ヒルダが桃色の瞳を見開いた。クロードが首飾りを服の下に着けていた理由がわかったからだろう。フォドラで言うならば結婚していないのに薬指に指輪を嵌めているようなものなので本当に居た堪れない気持ちになるのだ。特にツィリルに見つかって気まずい雰囲気になることを絶対に避けたかったので襯衣の内側に隠していた。このように両国では文化の違いがある。砦でヒルダから首飾りを着け直して貰った時は黙っていたが明るい未来を先取りできたような気がしてクロードはとても嬉しかったのだ。
「じゃあ次会える日までに私もクロードくんの分を用意しなきゃ。鎖の長さは少し短めにするからね」
 ヒルダの趣味は宝飾品作りだからきっとクロードに似合うような首飾りを作ってくれるだろう。会えない間、彼女が喜びそうなものをたまに贈ってそれに手紙を添えるのも楽しいかもしれない。

 王宮は上空も含めて手練れの衛兵に守られ何者の侵入も許さない。安全が確保されているからか王子は開放的な気分が味わえる屋外で昼食を取るのが好きだ。召使いたちは昼になると中庭にいつも絨毯を敷きそこに大きな銀の盆を置いてその上に飲み物や食べ物を用意している。
 王子は庭の出来になど目もくれなかったが数ヶ月前のある時、庭師に庭を花でいっぱいにしろと命じ、いつなら花が満開になるのかと問うた。庭師が恐る恐る六月には、と答えると王子は庭師に聞き取れない言葉で何事かをつぶやいた。王子の瞳はパルミラでは珍しい緑色だ。パルミラでは人を食い殺す化け物の瞳が緑色だと言われており七年も失踪していた彼には数々の怪しい噂がある。恐ろしい王子の機嫌を損ねてしまったかと思い庭師が怯えていると彼は懐から取り出した金貨を渡した。
 六月は王都が最も美しい月と言われる。花が咲き乱れ雨は滅多に降らず真夏ほど太陽の光は眩しくない。太陽の下でも月明かりの下でも快適に過ごせるのだ。そんな雲一つない真っ青な空で真っ白な飛竜が一頭、気持ちよさそうに飛んでいる。王宮の周りを旋回し何かを探しているようだ。しかし衛兵たちが弓砲台で狙おうとしないのでどうやら許可は取っているらしい。
 飛竜に気づいた王子は用意された昼食には目もくれず色とりどりの花で溢れかえる中庭の真ん中に立ち親指と人差し指を口に咥えると指笛を鳴らした。その音を聞きつけた真っ白な飛竜が王子を目掛けて一直線に降下し始める。騎手は飛竜が急に自分の言うことを聞かなくなったので一瞬焦ったようだが何が起きたのかを悟り手綱から手を離した。旅装から察するにパルミラの者ではない。騎手が外套の頭巾を外すと桃色の髪が風に煽られた。真っ白な顔は遠目に見ても喜びに染まり髪と同じ桃色の瞳が潤んでいるのか先ほどから手袋をしたまま目元を拭っている。見た目からしてどうやらフォドラの者のようだ。
 王子は先ほどから周りにかしずく召使いたちが分かる言葉を一言も発していない。だが召使いたちにも王子がずっと口にしているヒルダ、というのが騎手の名前であることが分かった。王子が大きく手を広げ彼女が着地するのを待っている姿を見れば立太子の礼を経たというのに喉元に首飾りを巻こうとしない理由も分かろうというものだ。
 飛竜は降下している最中でまだ王宮の二階にある露台くらいの高さだというのにヒルダは鎧から足を外し始めている。右足から外し鞍に手をついて左向きの横座りになると彼女は手を広げて待っている王子目掛けて飛び降りた。
 彼女は小柄だが勢いがついているので流石に王子も支えきれず二人は絨毯の上に転がってしまった。はしゃぐ二人の間に飛竜が白い鼻先をつっこむとそれがくすぐったいのか二人揃って笑っている。
「クロードくん本当に久しぶりだね、元気だった?」
「まあな。来てくれて嬉しいよ。こいつの面倒も見てくれてありがとな」
「置いていかれた者同士すっごく仲良くなったんだから!」
 召使いたちは言葉を理解できないというのにそれが分かっていないのかヒルダは王子の耳元に口を寄せた。
「それでパルミラ語が全くわからないふりは何ヶ月くらいすれば良いの?」
 通常であれば立太子の礼を経た王子が結婚すれば国を挙げての祝事となり王太子妃はそこで披露される。だが王太子妃が当時はまだ和平条約も締結していないフォドラ出身であったためお披露目はカリード王子の即位と同時となった。それまでも王太子夫妻のご学友とやらは非公式に度々フォドラからパルミラを訪れていたが皆とにかく変わり者揃いであった、と文書官の個人的な備忘録に記されている。パルミラとフォドラの国交は個人同士の強い結びつきがきっかけとなって樹立されたがその詳細な経過はエドマンド辺境伯となったグロスタール伯夫人の手記にも残されている。

 "小鳥が西風に乗って飛んでいった。辿り着いた東の地でどう羽ばたいたのかは皆も知る通りなのでここには記さない。ただ細やかながらフォドラ=パルミラ和平条約に携わった者として、あの二人の学友として、知っていることをきちんと書き残し時の流れに抗っておきたい。意志を持って残しておかねば全てが時の流れに覆い隠されてしまうことを私は身を持って知っている。ヒルダ=ヴァレンティン=ゴネリルは和平の証として異国の王に嫁いだのではない。学友クロード=フォン=リーガンの元に嫁いだのだ。二人は元から愛し合う恋人同士であったし何よりも気があう親友同士であったのだ"畳む
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19.sequel:L&M

 紋章を持つ貴族同士の婚姻は動物の品種改良と似ている。好ましい形質が確実に顕になるよう交配していくからだ。逆に好ましくない形質を持つものは間引かれる。マリアンヌの実父は"おこり"を恐れていた。モーリスの紋章を持つ子供はそれはそれは美しく生まれてくるのだという。両親は美しい乳児を愛さずにはいられない。子供は自分の一族にかかった呪いを知らずに育つが子供の成長と時を同じくして呪いはゆっくりと親を侵蝕していく。
 "おこり"いや"興り"が訪れると最初はぼんやりする時間が増える。言動に異常をきたしてしまえばもう死ぬまで止まらない。人格が崩れ獣性が剥き出しになっていく。獣性が剥き出しになれば社会的に破綻し最後はヒトの形を保てなくなる。ヒトのまま尊厳を保ち周囲から愛されて生涯を終えたいなら早く死ぬしかない。モーリスの紋章を持つ一族は前線で全く武器を持たず治療に専念する修道士や都市の消火隊など危険な仕事に従事するようになった。その結果かつて社会から根絶やしにされかけた一族は信頼を回復し地方で領主を務めるまでになった。それでもモーリスの紋章を持つ一族の生存戦略は変わらない。
 聡い子供だったマリアンヌは父方の一族が他者からの愛や情けを人質に生き延び子をなしているのだと気づいた時、女神に独身のまま死なせて欲しいと祈った。しかしその祈りは聞き入れられず父は"おこり"を迎え母は実家の力を使ってでも生き延びるよう娘に伝え父と共に姿を消している。その全てを悟った上でマリアンヌを引き取ったエドマンド辺境伯は多忙な身でありながら死に取り憑かれた養女から目を離さなかった。

 彼は周り中からやり手だと恐れられていたがマリアンヌの両親について語ると感情が処理しきれず泣いてしまうことが多い。それを本人も自覚しているのか近頃は召使いや家臣たちに見られぬよう出先で話すようになった。血が繋がっているせいかマリアンヌもエドマンド辺境伯も馬が大好きで今日も子馬が生まれたという馬場まで二人で赴いている。そして不思議なことに普通なら子馬を守るために気が立っている時期の母馬に近寄っても二人とも嫌がられることがない。血統管理を徹底して行った周囲の期待通り見事な子馬を産んだ母馬は牧場で誇らしげにしている。
「お養父さま、私の計算があっていればこの子は芦毛です」
 芦毛は馬の毛色の中で最も興味深いかもしれない。成長や老化に伴って色味が変わっていくからだ。そして芦毛同士で掛け合わせても子馬が芦毛になるとは限らない。
「そうか、マリアンヌがいうならきっとそうなのだろう。お前の結婚相手も馬が好きだといいな」
「私は結婚しません……お養父さまも結婚していないではありませんか」
 エドマンド辺境伯は周囲から結婚を勧められても自分に正直であるためだ、と嘯きずっと独身を貫いていた。だからといって女遊びが激しいという訳でもない。マリアンヌを引き取ったことは次善の策として周囲から歓迎されたがマリアンヌ本人は自分と実父がエドマンド家に入り込んだ異物だと認識している。
「お養父さま、私のことが邪魔になったらいつでも養子縁組を解消してください」
 マリアンヌはエドマンド辺境伯の血が繋がった姪だが養父が結婚し子を成したら絶対に実子を優先して欲しいと思っている。だが結婚せずとも満たされているから、と言って頑なに妻を娶ろうとしない。
「私は自分の愛が報われた証をそんな風に手放しても平然と生きていられるほど強い男ではないよ」
 死に瀕して子供を託されるほどの愛や信頼を手に入れた証がマリアンヌなのだ、とエドマンド辺境伯は繰り返す。だがそこには大きな謎があった。
「では何故私を士官学校へやるのですか?」
「ああ!マリアンヌ見てご覧!もう歯が生えている!」
 エドマンド辺境伯は鼻を擦り寄せてきた子馬の咥内が一瞬見えたのが嬉しかったのか養女であるマリアンヌの声を遮ってしまった。だが同じ動物好きとしてマリアンヌにもその気持ちは分かる。
「まあ!なんて可愛らしいんでしょうか!」
「だがどうやらまだ前歯だけだ」
 生まれたばかりの子馬は臼歯がないのでまだ飼い葉が食べられず母乳頼りだ。馬は歯が生え揃っても臼歯と前歯の間に大きな隙間がある。セイロス教ではこの馬銜を噛ませるのにおあつらえ向きのこの隙間こそが女神がヒトに馬を与えた証だと言われている。馬銜がなければヒトは馬を使役することができない。豚や鶏のように食糧として繁殖させるだけにとどまっただろう。モーリスの紋章は隙間なく歯が生えた馬のようだ。モーリスの紋章を持っている者は馬銜と手綱で操ることが出来ない馬に乗せられて死ぬまで下馬することが叶わない。エドマンド辺境伯は母馬の真似をして水桶に顔を突っ込んでいる子馬を眺めながら話を戻した。
「先ほどの話だが……ガルグ=マクで友人を作ってほしいからだ。運が良ければ私のように愛と信頼を手に入れられるかもしれない」
 愛も信頼もマリアンヌには縁遠く感じられた。あまり乗り気にはなれなかったが逆らう気力もない。新生活の支度に熱心なのはエドマンド辺境伯だけで身の回りの品をああでもないこうでもないと忙しいだろうに選んでいてなんだか現実感がなかった。

 そして今も現実感がない。薄明の中でローレンツがマリアンヌの前で膝をついている。場所は現在ではベレトが住み着いている旧リーガン邸の四阿屋だ。空の色は刻々と変わり太陽の赤と空の青を混ぜたような紫色になっている。晴れの日のデアドラは陽が落ちるたびに数分間、色を塗り替えられるのだ。
「マリアンヌさん、僕と生涯を共に過ごしてほしい。僕はいかなる時も貴女の支えになる」
 戦後、雲隠れしたクロードの代わりにマリアンヌもローレンツも水の都と名高いデアドラに呼び出され戦後処理の手伝いをしていた。二人とも一度は自領の復興のため地元に戻ったがベレトに呼び出された後はデアドラの上屋敷に来てもらっているだけで領地には戻れていない。季節が一巡し流石にもう一度きちんと領地に戻らねばという頃になってマリアンヌはローレンツと共にベレトから夕食に招かれた。その帰り道にこのような状態になっている。
 家格も釣り合っているし戦争も終わった。親に言えば全てがお膳立てされた筈だ。だがきっとローレンツはそれが嫌だったのだ。名家の者同士の結婚は事業と変わらない。マリアンヌの為だけの言葉をいつどこで告げるのかくらいは二人だけのものにしたかったのだろう。
 マリアンヌが黙って頷くとローレンツは左手の薬指に指輪をつけてくれた。いつの間にか陽は完全に落ちリーガンの紋章のような月と瞬く星が辺りを白く照らしている。

「私、自分にこんな未来が待っているなんて想像もしませんでした。毎日笑顔でいられるのはローレンツさんのおかげです」
「承諾してくれてありがとうマリアンヌさん。この手紙も無駄にならずに済んだ」

 ローレンツが胸元から取り出した封筒を月明かりの下で確認すると宛先はマリアンヌの養父であるエドマンド辺境伯になっている。
「お気遣いありがとうございます」
「速やかに直接ご挨拶に伺うつもりでいるから待っていて欲しい」
「ところでローレンツさん、この指輪はもしかしてヒルダさんが?」
「指の寸法を知らないかと手紙で問い合わせたらこれが届いてね。貴女がたの友情の証でもあるからこれを渡すべきと思ったのだ。だが結婚指輪は二人で選びたいな」
 クロードが会えない間のご機嫌取りにパルミラから宝石や研磨用の道具を寄越してくる、とヒルダが言っていた。大ぶりの金剛石は何かの牽制や誇示のつもりなのかもしれないがそれが流れ流れてマリアンヌの元へ辿り着いている。その思い切りの良さが実にヒルダらしくマリアンヌとローレンツは笑いを堪えることができなかった。

 エドマンド辺境伯は養女が持参したローレンツからの手紙を受け取り中身を確認するとマリアンヌの両親を偲ぶ祭壇にそっと置き深い深いため息をつくと右手で瞼を押さえた。この手紙を受け取るべきだった二人はもうこの世にいない。
「何か嫌なことがあればすぐにこちらに戻って来なさい。いつでも歓迎する」
「その……宜しいのでしょうか?」
 将来のエドマンド辺境伯としてマリアンヌは引き取られている。共同で双方の領地を統治している夫妻もいるがやはり今までのようにはいかない。
「そうだな、寂しくないと言えば嘘になる。だが円卓会議で婿殿をいびる楽しみができたから差し引きで損はしていない」
 養父がローレンツを婿殿と呼んだのでこの話は本決まりなのだとマリアンヌは察した。自然と笑みが溢れだす。
「あの……!ありがとうございます!」
「仕立て屋を呼ぼう。未来の婿殿を迎えるにあたってマリアンヌも私も美しく装わねば」
 一年近く自領に戻れなかったせいかローレンツがエドマンド領を訪問出来たのはデアドラで婚約指輪を受け取って貰えた日から数えて二節後だった。レスター諸侯同盟の南西部にあるグロスタール領と北東部にあるエドマンド領はかなり離れておりそもそも移動にも日数を要する。
 将来の舅からデアドラでは何度もきつい物言いをされたのでローレンツはそれなりに緊張していたが二ヶ月ぶりに小間使いの手を借りて美しく装ったマリアンヌの顔を目にすれば旅の疲れも含めて消え失せた。儀礼を完璧にこなすのが得意なローレンツは今のところエドマンド辺境伯から突飛なことを言われていない。この後は食事を共にしローレンツが日帰りできない遠方から訪れているためこの屋敷に一泊して帰る。当然泊まるのは客室だ。
 将来の花嫁の父は途中二年間の抜けがあるとはいえ十一年間大切に育ててきた娘を手放すのが寂しいのか気がつくと食事の手を止めてマリアンヌの顔を見つめている。正式な養女になっているがマリアンヌはエドマンド辺境伯の妹の娘、つまり姪だ。森の奥深くで人語を話す魔獣を倒した晩にマリアンヌが全くの他人ではないのだと話してくれた。二人の佇まいが似ているのは血縁者だからかもしれない。ローレンツがエドマンド領の名物である固い麺麭の上に香草のソースと魚介と野菜を何層にも重ねたサラダを褒めると二人とも満足そうに微笑んだ。
「モーリスの紋章はマリアンヌの実父やマリアンヌの本質ではないのだ」
 そういうとマリアンヌの養父は一気に葡萄酒の杯を空けた。本来なら召使いがお代わりを注ぐべきだが人払いをしているので皆、手酌で呑んでいる。例外中の例外だが繊細な話題を扱うので仕方なかった。
 ローレンツはマリアンヌから縁を切られるのが嫌で一度は聞くことを拒絶したモーリスの紋章に関する話もあの晩に聞いている。モーリスの紋章を宿す一族のうち社会に尽くそうとしなかった者は身を持ち崩しても誰も助けてくれなかった。"おこり"がいずれ来ると分かっていても見捨てられなかったのは献身的に社会に尽くした者たちだ。人懐こい犬だけが社会に受け入れられ愛されたように彼らは生き残りを賭けて自制心を強く持ち献身的に社会に尽くしてきた。
「狂おしいまでの生への渇望やそれを後押しする自制心や献身的な態度こそが本質だと私は考えている」
 そういうとエドマンド辺境伯は自領の名物である栗の粉で作ったパスタを口に運んだ。ローレンツは生まれて初めて食べたが絡めてある胡桃から作ったソースと実によく合う。
「僕も同意見です。モーリスの紋章はマリアンヌさんが愛されない理由にはならない」
「その通りだ。ローレンツくん。だから私も妹もあいつが……マリアンヌの実父がとても好きだった。我々は領地と門地に尽くし守るために生きろと言われて育ったがそれを破ってしまうほどに」
 ローレンツは自分が見ているものが信じられなかった。あのエドマンド辺境伯が人前でしかも重要な食事中に手巾で目元をぬぐっている。エドマンド辺境伯の弱さに触れたのは初めてだ。
「世間から見れば正しくない愛なのだろうがそんなことはどうでもよくなるほど私も妹もマリアンヌの実父のことが好きだった」
「そのお気持ちは……僕にもわかるつもりです。痛いほどに」
「マリアンヌは私にとって妹とあいつからの愛と信頼の証なのだ。だがモーリスの紋章にまつわる悪評は根強い。この子は見違えるほど強くなったがそれでも守ってやってほしい」
 エドマンド辺境伯はマリアンヌを守るためにあのハンネマンに検査を諦めさせるほどの大金を積んだ。市井の紋章学者が押しかけたこともあったが小物だったから金を握らせておくべき学者に入らなかったのだろう。
「お養父さま……今まで本当にお世話になりました」
 それまで二人の会話を妨げないために黙って食事と葡萄酒に口をつけていたマリアンヌが口を開いた。あからさまに飲みすぎている養父を心配して差し伸べた手の薬指ではヒルダが作った指輪が光っている。
「めでたいことがあったから今晩は呑みすぎたな。私は先に休ませてもらう」
 既に皆の皿は空になっていたのでマリアンヌが鈴を鳴らし召使いたちに皿を片付けさせた。瞼が上がらなくなりつつある主人の姿を見て執事が肩を貸している。マリアンヌはローレンツを連れてそっとその場を離れ客間に通してくれた。到着した時に渡した旅行鞄が既に運び込まれている。
 マリアンヌが後ろ手で鍵を閉めてくれたのでローレンツはずっと疑問に思っていた、本来ならば口にするべきではないことをようやく口に出来た。確かめておかねば今後、舅相手に失言する可能性もある。
「ところで……その……どうしても気になってしまうのだが」
 ローレンツには三人のうちにいくつも成立する相関関係が全く分からない。辺境伯の言う正しくない愛の対象が妹なのか妹の夫なのかすら分からない。
「お養父さまに確認したことはありません。学生時代は道に外れた愛に身を捧げた親たちのことが全く理解できませんでした」
 確かに学生時代のマリアンヌは死によって救われることを望んでいた。だが今は見違えるように明るくなっている。
「でもローレンツさんを好きになって少しは理解できたような気がします」
 それは光栄だ、と言葉で伝えようとしたがつま先立ちになったマリアンヌの唇で口を塞がれてしまったのでそれは叶わなかった。畳む
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「フォドラの卵」
1.デアドラ

 クロード=フォン=リーガンがリーガン家の嫡子として公表されたのは一一七九年のことだった。しかしエドマンド辺境伯は一一七六年にマリアンヌを養女としていたおかげで、公表される前からリーガン家に引き取られた行儀見習いの少年について把握していた。
 ガスパール領のロナート卿のように見ず知らずの子供を養子にする場合と血縁者を養子にする場合は心構えが違ってくる。その微妙な機微を感じ取ることができたのも愛する娘を託してくれた妹夫妻の導きだろう。マリアンヌは出奔したエドマンド辺境伯の妹にもその夫にもよく似ている。
 あの頃は女神の恩寵と言われていた血が薄まっていたことにどの国の者も焦りを見せていた。エドマンド家の本家もここ三代ほど紋章保持者は生まれていない。夫の家に伝わるモーリスの血が薄まっていることに期待したエドマンド辺境伯の妹は賭けに出て───負けた。
 だが五年に渡った大乱の末、勝ち負けを決定していた盤面も砕け散っている。呪いは解けグロスタール家へ嫁いだマリアンヌはデアドラの上屋敷に顔を出していた。上屋敷と言ってもグロスタール家の上屋敷ではない。エドマンド家の上屋敷だ。昼食までに帰る、と言う約束で実家に顔を出している。
「婿殿の顔も見たかったのだが」
「ローレンツさんにも休息は必要です」
 一般論を盾にマリアンヌは夫を守った。ローレンツは認めようとしないが彼は気直なたちなので舅に苦手意識を持っている。そんな彼を庇う養女の姿が微笑ましいのでエドマンド辺境伯はどうしてもローレンツに構ってしまう。
「そういうことにしたいのであれば構わないが」
 マリアンヌとローレンツの付き合いは長い。ガルグ=マクで出会った二人は五年間の大乱とその後の後始末を経てようやく結ばれた。かつては希死念慮に囚われ、何の意見も持たなかったマリアンヌが他家に嫁ぎ、次から次に湧き出る言いたいことを我慢している。そんな心の動きが育ての親に見透かされていることを察した養女は大きくため息をついた。
「火事の件もありましたし、ヒルダさんのことが心配で、私、ローレンツさんにその話ばかりしてしまって……」
 ゴネリル家のご令嬢ヒルダはマリアンヌの大親友だ。マリアンヌもゴネリルへ足を運んだことがあるし、彼女もエドマンドに遊びにきたこともある。ずっと塞いでいたマリアンヌを華やかさで照らし、世間へと連れ出してくれた。そんな彼女は学生時代からクロード=フォン=リーガンと親しかったと聞く。
「だが、元盟主殿が地元で他のご令嬢を娶るのも気に入らないのだろう?」
 仮の話を聞いただけでマリアンヌはひどく顔を顰めた。ヒルダには早くクロードと幸せになって欲しいが遠くにいってほしくない───子どものような我儘をローレンツに聞かれるのは恥ずかしいがエドマンド辺境伯に聞かれるのは構わないらしい。
「それは勿論です!ヒルダさんのことを……そんな……!」
 クロード=フォン=リーガンがクロード=フォン=リーガンであることをやめなければヒルダは今頃デアドラに居を構えていただろう。そしてクロード=フォン=リーガンがその立場と名を捨てなければマリアンヌとローレンツの結婚も二年は早かったのではなかろうか。二人とも彼の後始末に奔走していた。
 それはともかく、大切な存在が想定外の相手と恋をして心が激しく揺れる───エドマンド辺境伯にも覚えがあった。
 妹が愛した親友は忌まわしい紋章をその身に宿していた、親友が愛した男はパルミラの王子だった、そんなところは似なくていいのに見事な相似形をとっている。
「だが、険しい道をいく彼女のことを尊敬しているのだろう?」
「はい、自分の気持ちに正直で我慢強いヒルダさんを尊敬しています」
 彼女たちの友情が末長く続くようエドマンド辺境伯は女神に願った。友人がいれば自分の死後もマリアンヌは孤独にならない。
 数度の往来を経て現実と理想の齟齬を引き受ける覚悟が決まったのか、マリアンヌによるとヒルダはパルミラへ居を移すのだという。王族である先方の事情で正式な結婚はまだ先だ。代々国境を守ってきたゴネリル家の娘がパルミラの者からは愛姫扱いをされる。
 マリアンヌはヒルダが敵対勢力から何らかの危害を加えられるのではないか、と心配していた。しかし彼女とティアナが意気投合したらおそらく殆どの問題は解決できるだろう。王の寵愛があったとはいえティアナは単身、敵国の王宮で生き残り、出産にもこぎつけた。息子が十五になるまで育て上げている。
 旧円卓会議に出席していた諸侯たちは何故我らが盟主殿は全く地に足がついていないことばかり考えつくのか、という疑問をずっと抱えていた。彼の真の名と彼の母の名を聞いてようやく長年の胸のつかえが取れたのだ。
 だがティアナを直接知らない若者に言っても理解しないだろう。
「マリアンヌ……まだ起きていないことを漠然と憂うより先に考えねばならないことがある」
 あの怠惰なお嬢様が実に慎重に事を運んでいる。周りに頭を下げ周知し、目標へと進んでいく姿はどこか彼女の兄ホルストに似ていた。手続きの時間はかかるかもしれないがヒルダはいずれクロード、いやカリード王子の正妃となるだろう。
「王都で叛乱が起きた場合の逃走経路でしょうか?お義父さま、私……」
 エドマンド辺境伯は大袈裟にため息をついた。マリアンヌはまだ起きていないこと、に囚われている。
「それもまだ起きていないこと、だ。祝いの品を贈ってやらねば。形式はどうあれ二人は同居するのだから」
「そ、そうでした!お義父さまならヒルダさんとクロードさんに何を贈りますか?」
 ここでローレンツさんと相談しなくては、と言わないのがマリアンヌの個性だ。それを受け入れる度量のある男でなければマリアンヌのことは渡せない。君の名は出てこなかったよ───後日、ローレンツと会った時に必ず伝えなくては。エドマンド辺境伯はそう脳裏に刻んだ。
「そうだな、午後に街を散策しながら考えてみよう。さあ、もう帰りなさい。昼食は彼と取る予定なのだろう?」
 他国の王子とその愛姫への贈り物、となると生半可な物は贈れない。まずは誰にも邪魔されず、集中する必要があった。

 一人の昼食をゆったりと楽しんだエドマンド辺境伯の頭上を飛竜が飛んでいった。足首には産婆が騎乗していることを示す、黄色い飾りがついている。何か思いついたような気がしたがどうにもぼんやりとしている。
「念のために幌を出しますか?」
 船着場で商業地区に向かう主人を待っていた渡し船の漕ぎ手がそう、提案してきた。髪や服が汚れてしまったら引き返して汚れを落とさねばならない。
「いや、渋滞がない飛竜のほうが足が早いはずだ。ゆっくり漕いで距離を取ればいい」
 人口が密集する平時のデアドラにおいて、天馬や飛竜での飛行が許されているのは産婆と消火隊と領主の一族であるリーガン家の者だけだ。だが"落とし物"のことを考えたオズワルド公やゴドフロア卿は決して特権を行使しなかった。
 クロードだけが無邪気に特権を楽しんでいたのは彼の生まれのせいだろう。エドマンド辺境伯は飛び去る飛竜の後ろ姿を見つめた。先ほどの漠然とした思いつきを早く言語化してしまいたい。───無邪気な二人の喜ぶ顔はマリアンヌと婿殿が見れば良いのだ。畳む
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「フォドラの卵」
2.首飾り

 ホルストの前には妹の親友マリアンヌとその夫ローレンツがいる。国境を越えパルミラに入国する彼らのため、ホルストは関所の長として執務室に二人を迎え彼らの査証に署名した。将来的にはマリアンヌがエドマンド辺境伯となるため、彼らの姓は複合姓となっている。こうしておくことで二人の間に生まれた子供は将来、親と全く同じ姓を名乗ったまま自然とどちらの爵位も継げるようになるのだ。
「二人とも爵位を継ぐ前の自由を満喫しているようだ」
 領主になってしまえば気軽にフォドラの外へ出ることはむずかしくなる。まず健在であることが領主の務めだからだ。ヒルダはローレンツの父を責めたと聞くがネメシスの軍勢が攻めてきた際の振る舞いはあれが正しい。
「両国の友好関係が強固なものになればホルスト卿もヒルダさんとクロ……、失礼いたしました。カリード王子から王都に招かれるかと思います」
 ローレンツはクロード=フォン=リーガンの失踪の後始末に奔走し、パルミラに彼がいるという事実に真っ先に辿り着いた。互いの旅券は受け入れることとなったが未だにパルミラとの停戦協定や友好条約は締結されていない。クロード、いや、カリード王子が即位すればローレンツとパルミラの官吏たちの努力が実る日が早まるだろう。
「はは、私たちゴネリル家の者もいまだに彼のことは昔の名で呼んでしまうのだ」
 円卓会議に出るのは父であるゴネリル公でホルストはほとんど国境から動かない。だがリーガン家がリーガンの紋章を宿した少年を嫡子に据える、という話が円卓会議に出席する諸侯にだけ伝えられた時は例外だった。生涯にわたる付き合いになる───そう考えたホルストは内々のお披露目の際にデアドラまで足を運んだ。
 あの時、遠くから姿を見た少し不満げな面持ちで矢を放っていた少年が義理の弟になるのだと言う。背に浮かんだリーガンの紋章を見た時にはその紋章を繋いだのがティアナ=フォン=リーガンである、と分からなかった。このまま上手くいけばバルタザールと共に幼い頃、憧れた人と姻戚になることがホルストは少し照れくさい。
「僕の失言をお許しいただきありがとうございます。ヒルダさんのパルミラでの暮らしが少しでも安定したものになるよう、力を尽くします」
「ホルストさんが王都にいらしたら、きっとヒルダさんとナデルさんは大喜びしますね」
 この先の展望と夢を語る二人は長身だが細身で、とてもではないが護衛を付けずにパルミラ国内を移動できるような見た目をしていない。だが互いを頼りに旅ができるのは彼らが二人とも紋章を宿す歴戦の勇者だからだ。
「それにしても君たちであれば海路の方が早いように思えるのだが何故、陸路を?」
 マリアンヌがすっと歩み出て指を三本立てた。理由は三つあるらしい。
「ヒルダさんへお渡しするために運んでいる物がとても繊細で海上輸送に耐えない、こちらで買いつけをしたかった、ゴネリル家の皆さまから直接ヒルダさんへの言伝を聞くため、以上の三つが今回、陸路を選んだ理由となります」
 後ろで妻が話す様子を見守っているローレンツの顔は本当に幸せそうだ。妻が優秀であることに嫉妬せず頑丈に梱包された小ぶりな箱を小脇に抱えている。
 実際、適材適所なのだ。ヒルダがまだゴネリル家にいた頃、マリアンヌは何度か首飾りまで顔を出しに来たことがある。馬や天馬は巧みに乗りこなすのに自分の足で歩くと驚くほど人や家具にぶつかっていた。確かに壊れやすいものは持たせられない。
「ゴネリル公ご夫妻からの手紙と品は既に預かっております。明朝の出発までに用意していただければホルスト卿からの手紙と品も確実に王都のヒルダさんへ届けることが可能です。帰りは海路の予定なのでヒルダさんからいただいた返信はエドマンドから使者に持たせるつもりです」
 最後にローレンツがそう付け足した。二人はそのままエドギアに戻るのだろう。
「なるほど、ところで海上輸送に耐えないもの、とは何だろうか?」
 藁をふんだんに使えば大抵の割れ物は運ぶことができる。伯爵夫妻が自ら運ばねばならない品とは何だろうか。マリアンヌがローレンツを見つめた。彼でなければ梱包を解けないのだろう。そして梱包し直すのも彼でなければ出来ない。
 愛する奥方に滅法甘い、と評判なローレンツはホルストの許可を得ると抱えていた箱を執務用の机に置き、慎重に紐を解き始めた。どんな祝いの品より遠路はるばる親友とその夫が訪ねてくれたことをヒルダは喜ぶだろう。鍛錬の証である胼胝だらけの手でローレンツが天鵞絨ばりの小さな箱を開いた。
───中には卵の殻とそれを乗せるであろう小さな台座が入っている。
 ただしホルストはこんなに美しく飾り立てられた卵を見たことがない。殻はゴネリル一族の髪と瞳の色を模した薄紅色に塗られている。その上にはリーガンの紋章とゴネリルの紋章の金細工が貼られていた。二つの紋章の周りには貴石が散りばめられている。下から卵を覆う鈴蘭の花は真珠で茎は紋章と同じく金細工、葉は金緑石で出来ている。真珠はおそらくエドマンドから入ってきたものだ。そして美しく飾り立てられた殻の上にはこれまた小さな金鹿が立っている。レスターを守る聖獣の角や卵に散りばめられた貴石がこちらで買いつけたかったもの、だろう。
「卵の殻、だろうか?」
 ホルストは思わず卵を指さし、解説を求めてローレンツを見つめた。変わった舅との付き合いに苦労していることだろう。
「はい、針で穴をあけて中身を取り出した後に細工を施してあります」
「これは確かに海路には耐えなさそうだ。大きさから言って鶏だろうか?」
「はい、義父が考案したものです。意匠には私とローレンツさんの意見が反映されていますが……」
 彼の妻が解説を続けた。ホルストは正直言ってエドマンド辺境伯があまり得意ではない。控えめなマリアンヌが彼の養女だと知って驚愕したほどだ。この卵を目にする前に言葉だけで説明されたら馬鹿馬鹿しい、と思っただろう。だがこれは素晴らしい。努力せねば脆く崩れ去ってしまうが価値のあるもの、が永遠であって欲しい───そんな願いが込められている。
「画布や紙に描く絵なら級友のイグナーツくんに助力を仰げたのですが素材が素材なので金細工師に依頼しました」
 ローレンツはそっと台座の上に飾り立てられた卵を乗せた。小さな卵を乗せる台にも小さな小さな真珠が散りばめられている。エドマンド辺境伯の価値のないものに価値を付け、高価にする実験は成功していた。貼り付けてある真珠や金緑石も儚い土台の上で輝きを増している。これが流行れば今までは売り物にならなかった小粒の真珠も価値が出るだろう。
「これには我が妹ヒルダも大喜びするに違いない。品も素晴らしいが、君たちが彼の地まで持参することが同じくらい重要なのだ」
 せめてフォドラの中であったなら、というホルストの思いは消えない。何かあった時に駆けつけられないからだ。
「ありがとうございます。ゴネリル公ご夫妻からも過分な褒め言葉をいただきました。ヒルダさんたちにお見せするのが楽しみです」
 妻の言葉を聞いてもう良かろう、と判断したローレンツが再び卵と台座をそっと天鵞絨張りの箱にしまった。───友人たちと再会し、卵を見たヒルダたちが大喜びする様を直接見られないことがホルストは少し寂しい。畳む
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「フォドラの卵」
3.王都

 カリード王子はフォドラから呼び寄せた愛姫ヒルダと共に王宮の一角に居を構えている。客人は何日も前から申請を出し持ち込むものは全て事前に申告し、身に付けているものと持ち物を全て検めた後でなければ中に入ることはできない。それでも王宮は彼らにとって危険な場所だった。
 表敬訪問と陳情が殆どだがとにかく王宮には来客が多い。誰が誰と会うのか、を知るためカリード王子は来客記録を取る文官たちに賄賂を払っている。今日も文官たちは何故か、不思議なことに長めの昼休みをとっていた。
「今のうちに確認するからヒルダは廊下を見張ってくれ」
 文官は滅多に文字を書き間違えない。王宮勤めともなれば滅多に特に優秀だ。それなのに今日は珍しく紙を削った跡がある。そこには懐かしい名前と似つかわしくない物の名前が書かれていた。ローレンツの発想なのか、それともマリアンヌの発想なのか。困惑した文官が書き間違えても不思議ではない。
「クロードくん、戻ってきたよ!」
 カリード王子の愛姫ヒルダは他人の目や耳のない場所では彼をクロード、と呼ぶ。
 クロードは急いでヒルダと共に備品が置いてある隣の部屋に隠れた。表敬訪問を申請している者の一覧にローレンツとマリアンヌの名がある。早く教えてやりたいがここでは声を上げられない。
───クロードはヒルダが声を上げて喜ぶ姿が好きなのだ。
 ヒルダと共に気配を消す時には必ず手を握ることにしている。見咎められた時に彼女と抱き合っていれば相応しくないところで愛姫にちょっかいを出す馬鹿な王子、と言う扱いで見逃してもらえるからだ。だが即位してしまえばこんな誤魔化しにヒルダの美貌を利用しなくて済む。
 その日を迎えるためにもまず御前会議が終わるまで二人で生き延びねばならない。文官たちが仕事を再開し、机の上だけに集中しはじめたのを見計らった二人は気付かれぬように去った。あと一人、大臣を失脚させればこんな暮らしともおさらばだが最後まで油断は出来ない。
 ヒルダはいつものように蝋引きの書字板と鉄筆を渡してくれたがクロードはどちらもそっと書物机に置いた。
「いや、今日はそんなことをしてる場合じゃないんだ」
 いつもならクロードは盗み読んだ来客簿の中身を忘れてしまう前に急いで書き記す。だが今日はクロードの様子がいつもと違うことに困惑しているヒルダを抱き寄せ、耳元で見たものについて囁いた。
「え!本当に!やだ、ちょっとどうしよう……すっごく嬉しい!早くマリアンヌちゃんたちに会いたい!」
 クロードの背中に回された腕に力が入る。ゴネリルの紋章を宿しているせいかヒルダは怪力だ。クロードが宴会で歩けないほど泥酔した時は彼女が抱き抱えて部屋に戻る。召使たちが目を丸くして驚くのだがそれで良い。
 王都には西側の戦線に参加していた者も沢山存在する。彼らは皆、遠目に見たホルストの髪と瞳の色を覚えていた。クロードは人を食い殺す化け物と同じ色だ、ということで緑の瞳を厭われて育ったが、それと同じくらい西から戻った者たちは薄紅色の髪と瞳を嫌う。
 彼らはいざヒルダを目にするとこれまで培ってきた漠然とした恐怖と実際の彼女から受ける印象が噛み合わず混乱する。だがどちらも正しいのだ。クロードにとってヒルダは地に足をつけている限り最も頼りになり、小柄でいい匂いがして共にいると笑顔になれる存在だ。どこにも矛盾はない。
「あとあいつら今回、変なものをフォドラから持ってきてるんだよ」
 変なもの、と聞いたヒルダはクロードを解放し、長椅子に座ると首を傾げた。薄紅色の真っ直ぐでさらさらな髪が動きに合わせて揺れている。初めて父に引き合わせた時、父がヒルダの髪型を格闘の際に髪を掴まれない自信がある者にしかできない、と評していたが本気でうんざりされそうなので本人には伝えていない。
「クロードくんが庭で育ててる茸より変なものってあるの?」
「うん、普通の土産もあるにはあるんだが申告書類に卵の殻、と書いてあった」
「卵の殻?どういうこと?」
 もしかしたら意味が分かるかもしれない、と期待していたのにヒルダも困惑している。
「フォドラ育ちのヒルダに分からないなら俺に分かるわけないだろ?」
 申告内容を見た文官も驚いたのか筆が乱れ、紙を削って間違えた箇所を訂正していた。クロードとヒルダはともかく、クロードとヒルダと文官の心がひとつなることなど滅多にない。時機はずれたが三人とも何故、という疑問詞で頭がいっぱいになっていた。文官は客の相手をする機会がない。クロードは後日、筆を乱してしまった者に答えを教えてやろうと決めた。

 クロードが生まれた時に与えられた名はクロードではない。クロードは十代半ばで故郷を出て本名を名乗るなと強いられた結果、適当に選んだ名だ。だが、今ではその名で呼ばれることが心地よくて毎朝二回名前を呼ばれるまでは寝たふりをする。
「クロードくん、クロードくん、朝だよ。今日はマリアンヌちゃんたちが来る日でしょ?」
 つまり大して長く寝たふりはできない。クロードは寝返りを打つと寝台に肘をついて身体を起こした。筋金入りのおしゃれということもあるが、フォドラからの客人を迎える時のヒルダは念入りに身支度をする。一方でクロードは顔を洗って適当に櫛を入れておしまいだ。櫛を入れても寝癖が取れない時は頭に布を巻く。
 あれやこれやと忙しそうにしているヒルダを尻目にクロードはベレト宛の手紙を書き終えた。だがヒルダはローレンツたちに託す手紙を前日に書き終えているので比べてはならない。

 山積していた些細な用事を終え、二人で王子が客を歓待するのに使う応接間に向かうと既に懐かしい友人夫妻がクロードたちを待っていた。足元にはいつもローレンツが土産を運ぶのに使っている行李が、卓の上には小さな箱がのせてある。
「お久しぶりです!」
 実際に顔を合わせると疑問の解消より喜びの発露の方が優先される。
「結婚式いきたかったなあ……出られなくってごめんね」
「エドマンドにいらしてくれただけで充分です」
 ローレンツとマリアンヌの結婚式はエドギアで行われた。エドギアは遠すぎて流石にヒルダは参列できなかったがエドマンドで開かれた輿入れ前、最後の女性だけの集まりには参加している。パルミラとエドマンド領は海路ならば結構近いのだ。
 瞳を潤ませヒルダと手を取り合って再会を喜ぶ妻を見たローレンツが微笑んでいる。学生時代から彼はあんな風に柔らかな顔でマリアンヌを見つめていた。そのことを知っているとこちらまで釣られて笑顔になってしまう。
 だがクロードから見られていることに気づいたローレンツは鼻を鳴らした。学生時代から行儀よくしろ、と周囲に言って回っていた彼はクロードにだけひどく乱暴な態度を取る。
「ところでお前ら何持ってきたんだ?申告書を見てひたすら困惑してるんだが……」
「卵の殻だ」
 そんな男同士の会話が耳に入ったのかヒルダとマリアンヌがようやくクロードの方を向いた。ヒルダも中身を気にしている。
「お見せした方が早いかと……ローレンツさん、お願いします」
 妻の言葉に頷いたローレンツは慎重に梱包を解いていった。確かにマリアンヌには任せられない。中から現れた台座と鈴蘭に覆われた薄紅色の卵を見たヒルダは歓声を上げた。ご丁寧に金鹿まで載せてある。
「うそ、これどうなってるの?本当にこれ、土台が卵の殻なの?」
「はい、鶏の卵です。だから私は怖くて触れなくて……ずっとローレンツさんが運んでいました」
 道中ずっと舅のかけた圧に耐えてきたローレンツは実に晴れやかな顔をしていた。今度はクロードたちがこの見事な卵の殻を壊さないよう気をつけねばならない。
「舅が普通のものではつまらないと言って君たちの祝いの品として職人に作らせたものだ」
「いや、さすがエドマンド辺境伯だよ!パルミラにこんなものはない!」
「フォドラにも存在しない。こうして僕たちが持ってきてしまったからな」
 ローレンツさんたら、といってマリアンヌが笑っている。将来、パルミラにいる友人の元へ祝いの品を届けに行くようになるのだ、と入学したばかりの引っ込み思案な彼女に言っても信じないだろう。
「僕とマリアンヌさんの意見が意匠に取り入れられている」
「指輪とか耳飾りとか首飾りばっかり作ってきたけど私もこういうの作ってみようかな?」
「きっと素晴らしい物が出来上がるに違いありません」
 クロードの耳を実際にくすぐるのは親しい者たちの会話だ。だが、大切なものは柔く脆い。日々、努力して維持し価値を高めよ───というエドマンド辺境伯の声が聞こえたような気がした。畳む
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ガルグ=マクちっちゃいものクラブ参加作品
2.クロードとヒルダ編

 いつか見た光景がクロードの眼前で再現されていた。ヒルダさん!と叫ぶマリアンヌは隣にいるはずなのに、彼女の声が遠くから聞こえたような気がする。今回は敵将の前へワープした際に起きた事故だ。ヒルダより先に前衛としてワープで放り出されていたローレンツが慌てて空中にいた彼女を受け止める。手足の長い彼だから幼女の姿になったヒルダに手が届いたのかもしれない。桃色の髪は頭の後ろでひとつに結い上げてあるが少し乱れている。
 すでに転送魔法の魔法陣に囲まれていたクロードは何一つなす術がなく、ただ、その光景を見ているしかなかった。咄嗟にヒルダを受け止めてくれたローレンツには感謝の言葉しかない。
 ヒルダと違って頭身はそのままで敵将の射程範囲内に移動できたクロードはフェイルノートを引き絞った。ローレンツが小さなヒルダを守りながら長時間戦うことは難しい。増援を呼ばれる前にクロードが一撃で敵将を倒す必要がある。
 クロードがこの一矢に集中できるのは皆のおかげだ。ヒルダのこともローレンツのことも脳裏から追い出し、標的となる敵将を睨み付ける。そもそも一騎打ちで勝てるほど腕力に優れていなかったクロードは弓を覚えるしかなかった。だがこちらは才能があったようで放たれた矢の描く弧が金色に見える時がある。ホルストのような剣の達人は太刀筋が光って見えると聞くので似たような境地に達した、と言えるだろう。
「恨めばいいさ!」
 そう叫んでフェイルノートから放った矢は敵将の喉を貫いた。装飾品を手作りしたり美容に熱中したり、と愛らしい面が目立つがヒルダは前線で育っている。それでもあの年頃の小さな娘にこんな光景は見せたくない───クロードのそんな思いを察したのかローレンツが大きな手で目隠しをしていた。紫の籠手は目どころか顔のほとんどを覆い隠している。素直に瞼を下ろしているかどうかはクロードにもローレンツにも分からない。
 将を倒し敵の抵抗が止んだのでクロードは黄色い外套を肩から外しながらローレンツに近寄った。先ほどは何よりも安全を優先していたが五年前と同じく服の寸法が合っていない。そのことに気付いたローレンツが真っ青になっている。
「助かった!クロード、靴と手袋も拾ってあげてくれたまえ」
 クロードの黄色い外套に包まれた小さなヒルダは二人の会話を聞いて声を出してもいい、と判断したようだ。
「エルヴィンさま、よろいをあたらしくなさったのですか?」
 父親と間違われ動揺したローレンツの頬が赤く染まる。彼はクロードと違って色白なので動揺が顔色に現れやすい。あんなことで領主が務まるのだろうか。
「違う、僕はローレンツだよ。ヒルダさん」
「ちがうわ、ローレンツくんはわたしよりちいさいもの」
 クロードの脳裏に五年前抱えて運んでやった、家中の全てから愛されて育った子供の姿が浮かぶ。ヒルダもローレンツも五大諸侯の子女かつ紋章保持者なので円卓会議や"フォドラの首飾り"視察の際に親に連れ回されていたらしい。幼い頃からの顔見知りであったようだ。
「ああ、確かにそうだ。ローレンツはもっと小さかったよ。俺はクロードだ。よろしくな、ヒルダ」
「でしょ!ちっちゃかったよね!ねえ、エルヴィンさまでもクロードくんでもいいけどホルストにいさんかおとうさまのところへつれていってくれる?」
 古い顔見知りであったせいで生じた誤解をどう解いたものか、ローレンツは困り果てている。
「笑うなクロード!」
 思わず吹き出してしまったのは動揺を誤魔化すためだ。滑稽でもあるのだが彼らが小さな頃から顔見知りであったことが羨ましい。そんなことを悟られないようクロードはヒルダの靴と手袋を手に二人の後ろをついて行った。とにかくベレトや魔法に詳しい者たちに相談せねばならない。
「エルヴィンさま、そこでいちどおろしてもらっていいですか?」
 ぶかぶかになった服は着心地が悪いのだろう。小さいながらもおしゃれなヒルダはクロードの外套も利用して何とか見た目を整えようとしている。その間にクロードはローレンツから耳打ちされた。
「小さなヒルダさんは羽根のように軽いが父と間違われるのが居た堪れないので代わってくれ」
「いいぜ、エルヴィンさま」
「揶揄うのをやめたまえ、クロード!!」
 交代だ、というと素直にヒルダはクロードに身体を預けてくれた。ヒルダはゴネリル家のご令嬢らしく、共に地上に足をつけている限り最も頼りがいのある存在だがそれだけではない。装飾品作りや香油作りでも才能を発揮している。
 つまり彼女を抱き上げて運んでいると身体にお手製の香油の匂いがつくのだ。ローレンツが代わってくれ、というのはおかしな話ではない。好きな人の前に別の女性がつけた香油の匂いをさせて現れたくないのだろう。マリアンヌはおそらくそんなことを気にしないが、ローレンツはそう言うことを気にするのだ。

 ベレトは無表情なので内心が読めない。だが敵兵を倒して鍵を探し出し、扉を開けてヒルダの元に真っ先に走ってきたのは彼が心配している証拠だ。だからクロードは彼を信頼している。
 そして彼の後を追って主だった将たちがクロードたちの元にやってきた。面倒見の良いレオニーや親切なイグナーツ、それに小さなヒルダの視線から見て兄ホルストに似ているであろうラファエルは相好を崩しているし、年上ぶりたいリシテアは自分より小さくなったヒルダの方が背も足も小さいことを噛み締めている。
 そんな中でマリアンヌはただひたすら慈しみに満ちた顔をして、クロードに抱きかかえられたヒルダの姿を眺めていた。クロードはまだヒルダに自身の秘密を明かしていない。だからこの姿に何を思ったのか言って欲しくなかった。
「原因が解明されるまでワープは使えないな……」
 そういうと作戦を立てたベレトは唸った。何故こんな事故が起きたのか。かつてローレンツも似たような事故に遭ったことがある。クロードはヒルダを膝の上に乗せたままローレンツに問うた。皆、当事者の話を改めて聞きたがっている。
「お前の時は魔道書の誤植だったよな?」
 そのせいで五年前、子供の姿になってしまったローレンツは頷いた。真っ直ぐでさらさらとした紫色の髪が彼の仕草に合わせて揺れている。戦争が始まってからローレンツは髪を伸ばし始めた。魔力は髪に宿るからだ。
「そうだ。幸いなことに一晩で元に戻ったがな」
「エルヴィンさま、いつおうちにもどれるの?」
 クロードの膝に乗ったままのヒルダが問うた。グロスタール伯の顔を知るマリアンヌが堪らず吹き出している。ヒルダがこれくらい幼かった頃のグロスタール伯は本当にローレンツと瓜二つだったのかもしれない。
「いや、参ったな……」
 小さなヒルダはどうしてしらばっくれるのか、と思っているようだ。ローレンツは頬を膨らませた小さなヒルダの機嫌をどう取ったものか考えあぐねている。だから気づいていないらしいが彼はこれからしばらくの間、友人たちから"エルヴィンさま"と呼ばれるだろう。望外の楽しいこと、は機会を逃さず楽しむべきだ。皆その機会を狙っている。
「あの時と同じ方法で元に戻るならレストが使える修道士の手配しましょう」
 こう言う時にマリアンヌはとことん空気が読めないが五年前と比べてはるかに堂々と発言するようになった。もしかしたら彼女はローレンツに秘密を告げられるようになるかもしれない。
「教え子の幼い頃の姿が見られるのは楽しいが……またこんなことが起きては何もかもが滞ってしまうな」
 ベレトがぽつりと呟いた。戦闘は先ほど終わったばかりで皆疲れている。もう少しの間だけ、解決法から目を背けていたい。だが彼はきっと言ってしまうだろう。クロードにはベレトが次に何を言うか、もう分かっていた。
「全て買い直す資金がないなら知識のある者が総出で手持ちの魔道書の綴りが間違っていないかどうか確かめる必要がある」
 リシテアが顔を覆って呻いたがこれは全く大袈裟ではない。クロードに騙されるようにして新生軍の立ち上げに参加させられ皆、身が粉になるような日々を送っている。そこにそんな作業が加わったのだ。マリアンヌもローレンツもこめかみを抑えている。だが強大な帝国軍を相手に乏しい物資をなんとかやりくりして戦っている現状では、魔道書を全て新しいものに買い直せない。


 マリアンヌも先ほどローレンツと同じ光景を目にしていた。ただし格子の向こう側から、リブローでも魔法が届かない位置から、だった。あれが五年前と同じく、戦場でなかったならばちょっと楽しい騒動で済んだかもしれない。だがガルグ=マクで再会したクロードに巻き込まれる形でマリアンヌたちは最前線に立っている。
 ローレンツが遠目にもわかるほど血相を変えて走り出し、地面に叩きつけられるはずのヒルダを必死で抱きとめてくれた。彼はいつも誰かを守ろうとする。その後クロードが一撃で敵将を倒してくれた。彼はいつも狙いを外さないが、今回ばかりは外さなかった理由に個人的な思いが含まれていて欲しい。
「ローレンツさん、事故当時の記憶は今もないのでしょうか?魔道書の誤りを見つけるのに役立つかもしれません」
 ローレンツは残念そうに首を横に振った。学生時代と比べて髪が伸びたので確かに彼の父と雰囲気がそっくりになっている。ヒルダがあれくらい幼かった頃、グロスタール伯は今のローレンツと同じくらい若々しかったのかもしれない。
「残念ながらないのだ……今後のためにも魔道書の頭から中身を確かめるしかなさそうだよ」
 マリアンヌはため息をついた。先ほどのリシテアのため息とは理由が違う。五年前の事故の際、マリアンヌは自分が求めてはいけないものを目の当たりにした。
「はぁ……だが、僕もマリアンヌさんも協力しないわけにいかないな」
 ローレンツはため息の理由を誤解している。マリアンヌのため息は安堵のため息だ。もしマリアンヌが獣の紋章を継いでいなかったら、あんな子を腕に抱いてローレンツの隣を歩く未来があったのかもしれない。だからこそあの時、未来に怯える小さな彼にグロスタールの紋章を持つ妻を娶ればいい、とどうしても言えなかった。あの頃からそう言えなかったほど彼のことが好きだった、と気づいたのは最近だが。
 その後、小さなヒルダをガルグ=マクまで抱えていく役目はラファエルが指名された。筋骨隆々な身体つきがホルストと似ているからだろう。お役御免となったクロードが大きく肩を回している。
「血の気が引きましたね……大丈夫ですか?クロードさん」
 貫禄が出るよう頬髭を生やしているが大袈裟に嘆く表情は学生時代とあまり変わらない。遠くからそっとヒルダを見ている時の嬉しそうな顔も含めて、だ。
「いや小さくて細くて折れそうだった。あれなら気絶したローレンツの足首を持って地面を引きずる方がずっと気楽だ」
 小鳥を手の中におさめるとしたら、と考えればいい。持続することを考えず、完全に脱力するか力を込めるなら簡単だ。だが不快な思いや怖い思いをすることがないように小さくて柔らかいものを守るのは本当に難しい。
「ご経験が?」
「残念ながらないね。いつもマリアンヌがあいつを回復してやるからだろうな」
 そう言ってニヤリと笑うクロードの視線は何を見てもすぐにラファエルの肩に乗った小さなヒルダに戻っていく。小さなヒルダの要望に応えたのかラファエルがふざけて身体を揺らすので、危ないと言ってローレンツが怒っている。
「エルヴィンさま、そんなにしんぱいしなくてもだいじょうぶ!」
「そうだぞ!そんなに心配しなくても大丈夫だぁ!ヒルダさんはマーヤみてえに、羽根みてえに軽いからな!」
 ああもう、と荒げた声が少し後ろにいるマリアンヌにまで聞こえてきた。
「随分と楽しそうだな。マリアンヌ」
 将来、ローレンツが我が子を可愛がる姿を見る時、彼の隣にはマリアンヌではない女性が立っているに違いない。本来なら心にいくばくかの痛みを伴う光景のはずだった。
「クロードさんこそ楽しそうですよ」
「望外のものが見られるのは楽しいことだろう?」
 マリアンヌの脳裏に彼との会話が蘇る。生まれが明かせず、どこへ行っても疎まれる子供。クロードはヒルダを眺めているだけでこんなに幸せそうにしているのに、マリアンヌと同じく本当の自分をさらけ出していないのかもしれない。

 クロードがガルグ=マクを乗っ取った、と周知されてからは四方に散っていた教会関係者たちが再び集まり、様々な部門を再開させた。悲しいことに五年前より孤児院はその規模を拡大している。先にガルグ=マクへ戻ったベレトが小さなヒルダ用の服と靴を用意し今後の手筈の説明もしてくれた。少し変わったワープだから、という説明で納得してくれたらしい。
「わかりました。おようふくとくつをありがとうございます。ようやくじぶんでどこにでもいけるわ!」
「ヒルダさん、どこに行きますか?ご案内しますよ」
 髪の毛を後ろでひとまとめにした髪型がとても愛らしい彼女は真っ先にクロードのところへ行く、と言った。
「あらエルヴィン様のところでなくてよいのですか?」
 マリアンヌまで彼のことをエルヴィンと呼んだことを知ったらローレンツはどんな顔をするだろうか。
「だってこれ、クロードくんにかえしてあげなくちゃ!あのかっこうにはこのきいろのがいとうがぴったりよ」
 ヒルダは幼いころからおしゃれが大好きだったのだろう。幼い彼女なりに畳んだクロードの外套を手にしている。
「分かりました。ご案内しましょう。でもその前に洋服選びのお手伝いをしていただけませんか?」
 洋服選び、と聞いて小さなヒルダの顔が輝いた。本来のヒルダが身につけるべき服を一揃い医務室まで持っていかねばならない。本人が選んだとなれば彼女も不満はないだろう。マリアンヌはまず、小さなヒルダを連れて本人の部屋を訪れた。
 やはりヒルダは小さかろうと完璧だ、とマリアンヌは思う。小さなヒルダは行李や棚の中を開けて物色しているがマリアンヌと違って無意識に物を置いたりしない。寝台の上に洋服を広げて考え込んでいる。
「おおきくなったらこんなおようふくがきたいなとおもってたの」
「素敵な組み合わせです。では畳んでからクロードさんのお部屋に参りましょう」
 その他にも目覚めた時に必要そうな物、をマリアンヌは大きめの籠に詰めた。この部屋に元からあった大きな物で、両手で抱えるしかない。
 仕方ないので小さなヒルダに前を歩かせクロードの部屋の扉を叩いてもらった。どうぞ、と言う声と同時に中から何かの崩れる音がする。扉が外開きでなければ開け閉めにも苦労するかもしれない。勿論、寮の扉の開き方はそんな理由で決まっているわけではないが。
「ああ、ヒルダとマリアンヌか。歓待してやりたいがこの有様でね」
 クロードの背中越しに見える室内は床に紙が散乱している。彼がわざわざ廊下まで出てきたのはそのせいだろう。
「クロードくん、がいとうをかしてくれてありがとう」
 小さなヒルダが自分の外套を手にしていることに気づいたクロードは膝をついた。
「小さなお嬢さんのお役に立てて幸いだ」
 クロードは外套を恭しく受け取ったが、ヒルダからは見えないようにマリアンヌが持っている籠の上にそっと広げて被せた。一連の流れはまるで手品のようだった。
「マリアンヌ、それだと籠の中身が丸見えだ」
 クロードにそっと耳打ちされる。確かにすぐに身につけられるよう肌着を一番上に置いていた。上から広げた手巾を被せたので大丈夫だ、とマリアンヌは判断していたが言われてみれば薄い小さな布だ。やはりどうしても冷静ではいられないらしい。
「どうしたの?はやくいこうよ!」
「動揺してるのはお互い様だから仕方ないさ。後は頼んだぞ」
 マリアンヌはその晩とりあえずあれ以上の失態はないはずだ、と信じて床についた。しかしこの件には後日談がある。魔道書の誤植由来で事故が起きた際の教本には何度も翌朝の揉めごとを避けるために大人用の寝衣を着せてから眠らせてレストをかけよ、と書かれることになった。
 あの時、クロードの言う通り動揺していたマリアンヌはヒルダの寝衣を入れ忘れている。医務室の修道士もまだ解呪作業に慣れていなかったのでその場にある物を流用したらしい。クロードの外套だけを身に纏って医務室で目覚めたヒルダのことを思うとマリアンヌは申し訳なさで消えてしまいたくなる。
 後にマリアンヌは深酒をするたびに夫となったローレンツにこの件について話すようになるのだが、その度に彼は口籠もり何とも言えない表情を浮かべるのだった。畳む