#ラジオ・デアドラ
#完売本
#ヒルマリ
8.
マリアンヌのアパートや机を燃やした男はラファエルに羽交い締めにされながらも炎で浄化しなかったら世界が滅ぼされてしまう、と熱弁していた。緑の瞳は熱に浮かされていて激怒するレオニーとヒルダの姿が脳内で像を結んでいるかどうかは怪しい。
ベレトに依頼された通り録音機材を回していたので一部始終の音声が録れている。最新型のマイクは机を漁る音や呪文を詠唱する声、それを阻止するため殴りかかるラファエルの叫び声を拾った筈だ。
日頃はこの時間帯に見かけない他の階で働く者たちも騒ぎを聞きつけてやってきたので本番一時間前だというのに人だかりが出来ている。残念ながらテープを一本使い切ってしまったのでこの先のやり取りは音声に残せない。ベレトが取り上げた社員証はマリアンヌが確認したところ残念ながら本物だった。営業部門で働いていたらしい。
通報を受けやってきた警察に男を引き渡す際ベレトは火事を起こせば世界が救われるなんて有り得ないだろう、と語りかけていた。いつもは表情に乏しい彼が珍しくうんざりとした表情を浮かべていたので強くマリアンヌの印象に残っている。
男が狙っていたのは皆で調べた嫌がらせの小火や火事の記録をまとめて作った資料だ。公的機関へ訴えられる前に手を打とうとしたらしいが独断専行なのか命じられてのことなのかは分からない。
餌にしたので仕方ないことだがマリアンヌの机が焦げている。煙や臭いを取るため大きく窓が開けられ入ってきた風のせいで水色の髪が乱れていた。
「イメージの問題だろうな……取り敢えずお高い録音機材が燃えなくて良かったと思おう」
内密の話をするため野次馬たちを追い払ったレオニーが呆然としているマリアンヌの肩を軽く叩いた。レオニーは番組を続けていくうちに混沌とした場面に慣れたらしい。
もしかしたら局内にいる危険人物を誘き出せるかもしれないとヒルダがベレトに提案した時マリアンヌは一連の放火事件の被害者として賛成できないと反対した。ヒルダの机や私物が燃えてしまうなど耐え難い。調査結果を集計し綺麗にまとめたのはヒルダでそれは彼女の机に入っていたのだが隙をついて資料を隠滅しようとした男は何故かマリアンヌの机を燃やした。
「なあマリアンヌさん、その机もう使い物にならないだろうからオデが下に運んでやるよ!」
「調書を取られるだろうから俺が下書きしておこうか」
「マリアンヌちゃん、下の方の引き出しに入ってるものなら無事なんじゃない?」
黙っていればしっかり者に見えるマリアンヌが呆然としている姿はヒルダにもレオニーにも見慣れた光景だ。脳内だけが猛烈に動いている時もあれば本当に何も考えていない時もある。裏方として番組を支える構成作家の生活を支えるディレクターと本来支えられるだけの筈だった番組パーソナリティは無事だった引き出しの中から大量の書き付けと糊のチューブを七本、消しゴムを八個そして半年ほど前に失くしたと言って再発行してもらっていた黒魔法使用許可証を見つけ出した。士官学校を卒業し何年か軍務に就いていれば普通なら整理整頓の達人になる。厳しい訓練を経ても尚矯正されなかった散らかし癖はマリアンヌの強烈な個性なのだ。
「犯人、私とヒルダさんのことを何重にも間違えたんですね……」
放送中、レオニーはヒルダにもよく言及する。かなり際どい企画の度に私が責任取るからやってみようの一言で押し切られた、とこぼすので知名度自体は高い。それとこれまでの番組でつけられた怠け者のヒルダ、という二つ名が印象に残っていたせいで混沌としたマリアンヌの机をヒルダの机だと思ったのだ。レオニーのせいでマリアンヌは再び被害に遭った、と言えなくもない。
「ああ、なんてことでしょう……ヒルダさん!恐ろしくありませんでしたか?」
マリアンヌは片付けのため軍手をしていたヒルダの手を煤がつくことも気にせず白い手で取り握りしめている。レオニーは初めてマリアンヌが正面から誰かの顔を見つめている姿を目にした。彼女は常に伏し目がちに過ごし正面から誰かの顔を見るとしてもそれはヒルダだけだ。
「大丈夫だよ、資料も録音機材も燃えなかったし後で偉い人たちからたーくさん叱られるだろうけど今は大丈夫!」
「それにしてもヒルダさんと私を間違えるなんて……耐えがたいです……!」
問題はそこではないのだがヒルダが何故マリアンヌを見つけ出さねばと思ったのかレオニーにも分かるような気がした。他の者が彼女の美徳に気付く前に唾をつけておかねば掻っ攫われてしまう。もたもたしているうちに小鳥の雛のようなマリアンヌの前に自分以外の誰かが現れてしまったら。彼女がそいつの顔を真っ直ぐに見ることがヒルダには耐え難かったのだ。畳む
#完売本
#ヒルマリ
8.
マリアンヌのアパートや机を燃やした男はラファエルに羽交い締めにされながらも炎で浄化しなかったら世界が滅ぼされてしまう、と熱弁していた。緑の瞳は熱に浮かされていて激怒するレオニーとヒルダの姿が脳内で像を結んでいるかどうかは怪しい。
ベレトに依頼された通り録音機材を回していたので一部始終の音声が録れている。最新型のマイクは机を漁る音や呪文を詠唱する声、それを阻止するため殴りかかるラファエルの叫び声を拾った筈だ。
日頃はこの時間帯に見かけない他の階で働く者たちも騒ぎを聞きつけてやってきたので本番一時間前だというのに人だかりが出来ている。残念ながらテープを一本使い切ってしまったのでこの先のやり取りは音声に残せない。ベレトが取り上げた社員証はマリアンヌが確認したところ残念ながら本物だった。営業部門で働いていたらしい。
通報を受けやってきた警察に男を引き渡す際ベレトは火事を起こせば世界が救われるなんて有り得ないだろう、と語りかけていた。いつもは表情に乏しい彼が珍しくうんざりとした表情を浮かべていたので強くマリアンヌの印象に残っている。
男が狙っていたのは皆で調べた嫌がらせの小火や火事の記録をまとめて作った資料だ。公的機関へ訴えられる前に手を打とうとしたらしいが独断専行なのか命じられてのことなのかは分からない。
餌にしたので仕方ないことだがマリアンヌの机が焦げている。煙や臭いを取るため大きく窓が開けられ入ってきた風のせいで水色の髪が乱れていた。
「イメージの問題だろうな……取り敢えずお高い録音機材が燃えなくて良かったと思おう」
内密の話をするため野次馬たちを追い払ったレオニーが呆然としているマリアンヌの肩を軽く叩いた。レオニーは番組を続けていくうちに混沌とした場面に慣れたらしい。
もしかしたら局内にいる危険人物を誘き出せるかもしれないとヒルダがベレトに提案した時マリアンヌは一連の放火事件の被害者として賛成できないと反対した。ヒルダの机や私物が燃えてしまうなど耐え難い。調査結果を集計し綺麗にまとめたのはヒルダでそれは彼女の机に入っていたのだが隙をついて資料を隠滅しようとした男は何故かマリアンヌの机を燃やした。
「なあマリアンヌさん、その机もう使い物にならないだろうからオデが下に運んでやるよ!」
「調書を取られるだろうから俺が下書きしておこうか」
「マリアンヌちゃん、下の方の引き出しに入ってるものなら無事なんじゃない?」
黙っていればしっかり者に見えるマリアンヌが呆然としている姿はヒルダにもレオニーにも見慣れた光景だ。脳内だけが猛烈に動いている時もあれば本当に何も考えていない時もある。裏方として番組を支える構成作家の生活を支えるディレクターと本来支えられるだけの筈だった番組パーソナリティは無事だった引き出しの中から大量の書き付けと糊のチューブを七本、消しゴムを八個そして半年ほど前に失くしたと言って再発行してもらっていた黒魔法使用許可証を見つけ出した。士官学校を卒業し何年か軍務に就いていれば普通なら整理整頓の達人になる。厳しい訓練を経ても尚矯正されなかった散らかし癖はマリアンヌの強烈な個性なのだ。
「犯人、私とヒルダさんのことを何重にも間違えたんですね……」
放送中、レオニーはヒルダにもよく言及する。かなり際どい企画の度に私が責任取るからやってみようの一言で押し切られた、とこぼすので知名度自体は高い。それとこれまでの番組でつけられた怠け者のヒルダ、という二つ名が印象に残っていたせいで混沌としたマリアンヌの机をヒルダの机だと思ったのだ。レオニーのせいでマリアンヌは再び被害に遭った、と言えなくもない。
「ああ、なんてことでしょう……ヒルダさん!恐ろしくありませんでしたか?」
マリアンヌは片付けのため軍手をしていたヒルダの手を煤がつくことも気にせず白い手で取り握りしめている。レオニーは初めてマリアンヌが正面から誰かの顔を見つめている姿を目にした。彼女は常に伏し目がちに過ごし正面から誰かの顔を見るとしてもそれはヒルダだけだ。
「大丈夫だよ、資料も録音機材も燃えなかったし後で偉い人たちからたーくさん叱られるだろうけど今は大丈夫!」
「それにしてもヒルダさんと私を間違えるなんて……耐えがたいです……!」
問題はそこではないのだがヒルダが何故マリアンヌを見つけ出さねばと思ったのかレオニーにも分かるような気がした。他の者が彼女の美徳に気付く前に唾をつけておかねば掻っ攫われてしまう。もたもたしているうちに小鳥の雛のようなマリアンヌの前に自分以外の誰かが現れてしまったら。彼女がそいつの顔を真っ直ぐに見ることがヒルダには耐え難かったのだ。畳む
#ラジオ・デアドラ
#完売本
#ヒルマリ
書き下ろし「焼け跡」
アパートが半焼した。火元は隣室だったが隣人に瑕疵があったとも思えない。構成作家の安い給料で住める程度のぼろアパートだったのでいつ何があってもおかしくなかった。とは言え仕事を終えアパートの周りに消防士が見張り役として立っているところを見てしまったマリアンヌが受けた衝撃は大きい。住民です、と言って住所入りの身分証明書を見せて中に入った。
消火活動で水浸しになった廊下を歩くとわずか数歩だというのに喉の奥に鉛のような何かが溜まっていく。わざと何度か瞬きしてから思い切って自室の玄関を開けるとやはり惨憺たる有様だった。焦がしてはならないものが焦げた匂いが室内に充満している。軍に何年もいたのに整理整頓が苦手なので元から部屋は酷い有様だったがそれでも火事だけは出していなかったのに。
室内に置いてあったものは消火用の水で濡れているか焦げたか焦げ臭い匂いがついているか、に二分されている。床に膝と手をつきたかったがそうしたら今履いているなけなしのスカートすら駄目になってしまうだろう。幸い、通帳は防火加工がしてある貴重品入れに入っていたので無事だった。貴重品入れを探し出すついでに部屋の中を漁ってみたが、愛用していた帽子も仕事道具である辞書も読み返していた詩集も焦げている。天日干しでもすれば匂いは取れるのだろうか。目に入る何もかもが煙か水で傷んでいた。取り敢えず今晩の夜露をしのがねばならない。壁と天井はあるが安全のため今晩はここで寝泊まりするな、と消防士から指導されたからだ。
マリアンヌは貴重品入れから銀行の通帳ともう帰れない実家の鍵を取り出し、ハンドバッグに突っ込んでからとぼとぼと職場に向けて歩き始めた。あそこなら二十四時間必ず誰かいるが市電はそうではない。
火災現場にいると焦げ臭さに関して鼻が麻痺してしまう。しかし同じ車両に乗り合わせた他の者たちは違った。皆、違和感を覚え眉間に皺を寄せている。マリアンヌは学生時代や軍にいた頃に己が意図していないところで周りを困惑させていたことを思い出してしまった。
嫌なことというのは立て続けに起こるものなのか職場の玄関先で履いていた靴のつま先が石畳のわずかな隙間に引っかかる。何故何もないところで転ぶのかとよく不思議がられたが転ばずに歩ける人たちには分かるまい。慌てて地面に手と膝をつくとかぶっていた帽子が転げ落ちた。今日は何から何までうまくいかない。
「あれ?どうしたの?帰ったはずだよね?」
頭のてっぺんから爪先までいつも完璧なヒルダがマリアンヌの帽子を手渡してくれた。帽子は机の下に置いてあった貴重品入れを引っ張り出す時に煤がべっとりとてっぺんや縁についていたらしい。マリアンヌは自分と同じ車両に乗り合わせていた人々の彷徨う視線や困惑の理由を今更になって知った。
「その……と、隣の部屋から火が出て……」
「え!やだ!大変じゃない!」
流石に予想外だったのかヒルダは薄紅色の瞳を大きく見開いて驚いている。
「はい、鎮火はしたので」
マリアンヌは自分の部屋への延焼は免れたが煤や煙、消火活動で撒かれた水で持ち物の殆どが駄目になったことをヒルダに伝えた。とりあえず明日店が開いたら着替えを買わねばならない。
「うわ、これから片付けとか手続きで忙しくなるね。明日は休みをとらないと!」
「とりあえず夜露はしのげると思ってここに戻りました」
マリアンヌはきっと全く軍人に見えない軍人だった筈だ。だがこういう時に士官学校上がりだという彼女の素地が透けて見える。本当に夜露をしのぐことしか考えていないのだ。ヒルダからすれば歯痒いことに明日以降は物件を見つけるまで安宿に泊まるつもりでいるのだろう。
「夜露って……局の仮眠室で寝るつもりだったの?」
「いいえ、デスクに突っ伏して寝ようと思っていました。仮眠室は他の方が使うかもしれませんし」
「とりあえずダイナーで何か食べようよ」
マリアンヌは実家も遠いし友人も殆どいない。誰かに頼るとしたら自分しかいないという確信があったヒルダは手を差し伸べた。
「ゴネリル少佐のご実家に、わ、私が……?」
ヒルダと付き合っているにも関わらずマリアンヌはホルストを理由にヒルダの自宅に近寄ろうとはしなかった。ホルストのことは大好きだが来たくない理由、を聞いてその時ばかりは彼が兄であることをヒルダは悔しく感じた。
「どうしていつも兄さんのことが出てくるのよ!付き合ってるのは私よ!それと私も明日片付け手伝うね」
ダイナーで軽めの夕食をとりながらヒルダはひとまずしばらく自分の家に泊まるように、とマリアンヌに提案した。ホルストもヒルダが放送業界へ引き摺り込んだマリアンヌの窮状を知れば泊めるように言うだろう。ヒルダは兄のそういうところが好きだ。ゴネリル邸は無駄に広く部屋も余っている。マリアンヌは逡巡していたがヒルダの目論見通り段々とゴールがずれ始めた。最初は今晩泊まることすら拒否していたが今は次の物件が見つかるまでというのは甘え過ぎではないか、という話になっている。
「……ではお言葉に甘えてお世話になります」
帰宅後にヒルダがかいつまんでマリアンヌの窮状を説明すると当然だがホルストも両親も気の毒に思ったらしい。念のためマリアンヌが軍にいたことはホルストに話さなかった。軍でうまくやっている者と軍で人間関係に躓いた者の話が噛み合うとは思えない。
とりあえずヒルダは煤だらけで酷い有様のマリアンヌを風呂に放り込んでいる。その間にヒルダはソファーを引っ張り座面をベッドに変形させシーツを掛けた。あとは自分のベッドの下に入れてある毛布と枕を出せばいい。
「ありがとうございました」
「私のお古でごめんね」
客用の掛け布団や枕を取りに行く前にマリアンヌがヒルダの部屋に戻ってきた。着替えなど持っていないのでマリアンヌのためヒルダは寝巻きを上から下まで貸してやっている。
「これからは着替え一式をロッカーに入れておくことにします……」
「そんなこと誰もしてないと思うな……。明日頑張って片付けちゃおうね!」
「申し訳ないのですが片付けより先に服を買いに行きたいんです……」
ヒルダとマリアンヌは体格が違うから着心地が悪いのだろうか。今彼女が身につけている寝巻きは丈はともかく細身なマリアンヌにはきつくなさそうに見える。
「うん、別にいいけどまず何が買いに行きたいの?」
「肌着です……流石にお借りしっぱなしなのは申し訳ないので……」
確かにそうだろう。翌朝、店が開く時間に合わせて起床しヒルダはまずマリアンヌの買い物に付き合った。買い物の仕方にも個性がある。マリアンヌはヒルダと違って熟考した結果買わないことが多かった。通帳の残高は減っていったが誰からも責められずにたくさん買い物ができる機会を堪能する。どの店でも焼け出されたと話すと店員たちは同情してくれた。
片付けをする前にヒルダの家に買ったものを置いてから二人はマリアンヌのアパートに向かった。エプロンと軍手それに頭にバンダナを巻いてもう使い道がなくなったものをひたすら片付けていく。ヒルダの見たところ全て捨てるしかなさそうだった。だがマリアンヌは濡れたものと焦げたものに分け何故か濡れたものから容赦なくゴミ袋に詰めている。焦げたものは何故か手付かずだった。
「ねえそれだとゴミ袋の重さが偏っちゃわない?」
「焦げたものの中からレオニーさんの番組に提供できそうなものを探します」
「きっと聞いたリスナーの中では語り草になるわ」
その前に考えなくても進められる作業を進めてしまいたい、というわけらしい。だがどういうことだかヒルダにはよく分からなかった。マリアンヌは沈黙をヒルダからの答えと受け取ったらしい。
「使い物にならない上に番組パーソナリティの私物ですらないと言う事実とレオニーさんの真っ当さが正面からぶつかった時に笑いが生まれる、と思いまして」
そう言って番組に提供するため焦げた私物を漁るマリアンヌはまるで焼け跡から生える芽のようだ。この新芽をヒルダは守らねばならない。貯金を崩したり安月給をやりくりしながら家具や日用品を再び買い揃えていくうちにこの感性が失われたら大きな損失になる。きっかけが火事であったのは残念だがずっと兄に気兼ねしてヒルダの家に来てくれなかったマリアンヌが昨日は泊まってくれたことも含めてこれは千載一遇の機会を迎えたのだ。言うべきことはもう決まっている。
───ねえ、昨日泊まったから分かるでしょ?うちは今、部屋が余ってるの。だから───畳む
#完売本
#ヒルマリ
書き下ろし「焼け跡」
アパートが半焼した。火元は隣室だったが隣人に瑕疵があったとも思えない。構成作家の安い給料で住める程度のぼろアパートだったのでいつ何があってもおかしくなかった。とは言え仕事を終えアパートの周りに消防士が見張り役として立っているところを見てしまったマリアンヌが受けた衝撃は大きい。住民です、と言って住所入りの身分証明書を見せて中に入った。
消火活動で水浸しになった廊下を歩くとわずか数歩だというのに喉の奥に鉛のような何かが溜まっていく。わざと何度か瞬きしてから思い切って自室の玄関を開けるとやはり惨憺たる有様だった。焦がしてはならないものが焦げた匂いが室内に充満している。軍に何年もいたのに整理整頓が苦手なので元から部屋は酷い有様だったがそれでも火事だけは出していなかったのに。
室内に置いてあったものは消火用の水で濡れているか焦げたか焦げ臭い匂いがついているか、に二分されている。床に膝と手をつきたかったがそうしたら今履いているなけなしのスカートすら駄目になってしまうだろう。幸い、通帳は防火加工がしてある貴重品入れに入っていたので無事だった。貴重品入れを探し出すついでに部屋の中を漁ってみたが、愛用していた帽子も仕事道具である辞書も読み返していた詩集も焦げている。天日干しでもすれば匂いは取れるのだろうか。目に入る何もかもが煙か水で傷んでいた。取り敢えず今晩の夜露をしのがねばならない。壁と天井はあるが安全のため今晩はここで寝泊まりするな、と消防士から指導されたからだ。
マリアンヌは貴重品入れから銀行の通帳ともう帰れない実家の鍵を取り出し、ハンドバッグに突っ込んでからとぼとぼと職場に向けて歩き始めた。あそこなら二十四時間必ず誰かいるが市電はそうではない。
火災現場にいると焦げ臭さに関して鼻が麻痺してしまう。しかし同じ車両に乗り合わせた他の者たちは違った。皆、違和感を覚え眉間に皺を寄せている。マリアンヌは学生時代や軍にいた頃に己が意図していないところで周りを困惑させていたことを思い出してしまった。
嫌なことというのは立て続けに起こるものなのか職場の玄関先で履いていた靴のつま先が石畳のわずかな隙間に引っかかる。何故何もないところで転ぶのかとよく不思議がられたが転ばずに歩ける人たちには分かるまい。慌てて地面に手と膝をつくとかぶっていた帽子が転げ落ちた。今日は何から何までうまくいかない。
「あれ?どうしたの?帰ったはずだよね?」
頭のてっぺんから爪先までいつも完璧なヒルダがマリアンヌの帽子を手渡してくれた。帽子は机の下に置いてあった貴重品入れを引っ張り出す時に煤がべっとりとてっぺんや縁についていたらしい。マリアンヌは自分と同じ車両に乗り合わせていた人々の彷徨う視線や困惑の理由を今更になって知った。
「その……と、隣の部屋から火が出て……」
「え!やだ!大変じゃない!」
流石に予想外だったのかヒルダは薄紅色の瞳を大きく見開いて驚いている。
「はい、鎮火はしたので」
マリアンヌは自分の部屋への延焼は免れたが煤や煙、消火活動で撒かれた水で持ち物の殆どが駄目になったことをヒルダに伝えた。とりあえず明日店が開いたら着替えを買わねばならない。
「うわ、これから片付けとか手続きで忙しくなるね。明日は休みをとらないと!」
「とりあえず夜露はしのげると思ってここに戻りました」
マリアンヌはきっと全く軍人に見えない軍人だった筈だ。だがこういう時に士官学校上がりだという彼女の素地が透けて見える。本当に夜露をしのぐことしか考えていないのだ。ヒルダからすれば歯痒いことに明日以降は物件を見つけるまで安宿に泊まるつもりでいるのだろう。
「夜露って……局の仮眠室で寝るつもりだったの?」
「いいえ、デスクに突っ伏して寝ようと思っていました。仮眠室は他の方が使うかもしれませんし」
「とりあえずダイナーで何か食べようよ」
マリアンヌは実家も遠いし友人も殆どいない。誰かに頼るとしたら自分しかいないという確信があったヒルダは手を差し伸べた。
「ゴネリル少佐のご実家に、わ、私が……?」
ヒルダと付き合っているにも関わらずマリアンヌはホルストを理由にヒルダの自宅に近寄ろうとはしなかった。ホルストのことは大好きだが来たくない理由、を聞いてその時ばかりは彼が兄であることをヒルダは悔しく感じた。
「どうしていつも兄さんのことが出てくるのよ!付き合ってるのは私よ!それと私も明日片付け手伝うね」
ダイナーで軽めの夕食をとりながらヒルダはひとまずしばらく自分の家に泊まるように、とマリアンヌに提案した。ホルストもヒルダが放送業界へ引き摺り込んだマリアンヌの窮状を知れば泊めるように言うだろう。ヒルダは兄のそういうところが好きだ。ゴネリル邸は無駄に広く部屋も余っている。マリアンヌは逡巡していたがヒルダの目論見通り段々とゴールがずれ始めた。最初は今晩泊まることすら拒否していたが今は次の物件が見つかるまでというのは甘え過ぎではないか、という話になっている。
「……ではお言葉に甘えてお世話になります」
帰宅後にヒルダがかいつまんでマリアンヌの窮状を説明すると当然だがホルストも両親も気の毒に思ったらしい。念のためマリアンヌが軍にいたことはホルストに話さなかった。軍でうまくやっている者と軍で人間関係に躓いた者の話が噛み合うとは思えない。
とりあえずヒルダは煤だらけで酷い有様のマリアンヌを風呂に放り込んでいる。その間にヒルダはソファーを引っ張り座面をベッドに変形させシーツを掛けた。あとは自分のベッドの下に入れてある毛布と枕を出せばいい。
「ありがとうございました」
「私のお古でごめんね」
客用の掛け布団や枕を取りに行く前にマリアンヌがヒルダの部屋に戻ってきた。着替えなど持っていないのでマリアンヌのためヒルダは寝巻きを上から下まで貸してやっている。
「これからは着替え一式をロッカーに入れておくことにします……」
「そんなこと誰もしてないと思うな……。明日頑張って片付けちゃおうね!」
「申し訳ないのですが片付けより先に服を買いに行きたいんです……」
ヒルダとマリアンヌは体格が違うから着心地が悪いのだろうか。今彼女が身につけている寝巻きは丈はともかく細身なマリアンヌにはきつくなさそうに見える。
「うん、別にいいけどまず何が買いに行きたいの?」
「肌着です……流石にお借りしっぱなしなのは申し訳ないので……」
確かにそうだろう。翌朝、店が開く時間に合わせて起床しヒルダはまずマリアンヌの買い物に付き合った。買い物の仕方にも個性がある。マリアンヌはヒルダと違って熟考した結果買わないことが多かった。通帳の残高は減っていったが誰からも責められずにたくさん買い物ができる機会を堪能する。どの店でも焼け出されたと話すと店員たちは同情してくれた。
片付けをする前にヒルダの家に買ったものを置いてから二人はマリアンヌのアパートに向かった。エプロンと軍手それに頭にバンダナを巻いてもう使い道がなくなったものをひたすら片付けていく。ヒルダの見たところ全て捨てるしかなさそうだった。だがマリアンヌは濡れたものと焦げたものに分け何故か濡れたものから容赦なくゴミ袋に詰めている。焦げたものは何故か手付かずだった。
「ねえそれだとゴミ袋の重さが偏っちゃわない?」
「焦げたものの中からレオニーさんの番組に提供できそうなものを探します」
「きっと聞いたリスナーの中では語り草になるわ」
その前に考えなくても進められる作業を進めてしまいたい、というわけらしい。だがどういうことだかヒルダにはよく分からなかった。マリアンヌは沈黙をヒルダからの答えと受け取ったらしい。
「使い物にならない上に番組パーソナリティの私物ですらないと言う事実とレオニーさんの真っ当さが正面からぶつかった時に笑いが生まれる、と思いまして」
そう言って番組に提供するため焦げた私物を漁るマリアンヌはまるで焼け跡から生える芽のようだ。この新芽をヒルダは守らねばならない。貯金を崩したり安月給をやりくりしながら家具や日用品を再び買い揃えていくうちにこの感性が失われたら大きな損失になる。きっかけが火事であったのは残念だがずっと兄に気兼ねしてヒルダの家に来てくれなかったマリアンヌが昨日は泊まってくれたことも含めてこれは千載一遇の機会を迎えたのだ。言うべきことはもう決まっている。
───ねえ、昨日泊まったから分かるでしょ?うちは今、部屋が余ってるの。だから───畳む
#完売本
#ヒルマリ
7.
まともな仕事についていないリスナーばかりの番組で扱うには壮大すぎるというレオニーの意見をマリアンヌはきちんと受け止めてくれた。ヒルダの人を見る目は素晴らしい。
「深夜放送と言えば怖い話だ!今日も引き続き調べたら怖かった話について話そう。図書館に置いてあるもの、例えば本や新聞の縮刷判や雑誌のバックナンバーで確かめられるもの限定だぞ」
マリアンヌの人を見る目も素晴らしい、となるようにレオニーも精一杯話さねばならない。絶対に手のひらに収まるようにしてみせる、と言う宣言通り手のひらに収まるような企画になっている。人間はどう科学技術と付き合っていくべきか、危険な秘密結社にどう対抗するかという雲を掴むような話にすると殆どの者が語るべき言葉を持たない。
「火力発電所と駐輪場のたとえを知っていますか?」
「その言いぶりだとなんだか聖典みたいだな」
台本の趣旨を説明するのに必要なのかマリアンヌはレオニーが聞いたことのない例えを口にした。町内に火力発電所を作るから何か聞きたいことがあれば遠慮なく、と言われても想像がつかないが駐輪場なら屋根付きなのか何台収容なのかなど皆細かく具体的なことを質問できる。火力発電所について質問したかったら火力発電所について具体的なことを知らねばならない。
小さな話から始めて具体的にヒルダやベレトが何をしたのかリスナーにも想像がつくようになったら何を突き止めたのかを番組でも取り上げていく。
「この企画が始まるまで他の番組やアナウンサーあてにもあのおかしな魔法陣が描かれた手紙は継続して届いていた」
ガラス越しにスタジオを眺めながらベレトはそう言った。マイクを挟んでレオニーとマリアンヌが座っている。レオニーが口籠もり目の前のマリアンヌがさらさらとノートに何かを書き付けていた。ペンを握る手はインクのしみだらけで昨日ヒルダが塗ってやったマニキュアは既にところどころ剥げている。
「あ、マリアンヌちゃんがきちんと対処したから!」
ヒルダは目を丸くした。専門知識のあるマリアンヌがきちんと被害を報告し事態を深刻に捉えた上層部がラファエルとベレトを雇ったせいで犯人たちの目論見は失敗している。何としても成果を得たいと考え継続していたのだろう。ベレトは自分の顔の前でVサインを作った。お前のことを見ているぞ、と挑発するジェスチャーだ。
「そしてこれ、をされただけで相手は動きを止めた」
ヒルダもマリアンヌも薄々気付いているがとにかく被害は広範囲にわたり個人や同好の士によるささやかな集団の規模を超えている。軍、消防、警察のような組織が新たに作られつつあるのだ。
「ひと睨みでひいてくれてよかった」
「今のところ刑法に違反してるからな」
ベレトとマリアンヌが盛り上がっていたのでヒルダも異端者狩りについて本を読んでみた。当時のフォドラは病禍に苦しみ不安に覆われていた。何とかしたいという切なる思いがさらなる暗黒を呼び寄せていく。ヒルダたちが生きる現代も貧困問題や環境問題などさまざまな問題を抱えている。だがそれらを解決するために小火騒ぎや火事を起こして回るという手段には全く賛成できない。
ガラスの向こうではレオニーが葉書を読み上げマリアンヌが笑っている。ヒルダはマイクに拾われないように静かに笑う彼女が好きだ。このままではアガルタの民のように女神に滅ぼされてしまう、と焦る人々は最新技術で救われる人の顔を見ようとしない。ヒルダはそこに憤慨している。
ラジオという全く新しいメディアがなければマリアンヌは軍をやめた後まだ孤独にダイナーで働き続けていただろう。だがヒルダが関わっていた番組に宛てて彼女は葉書を出した。放送は今のところ唯一生中継が可能なメディアだが当時の番組を介したマリアンヌとヒルダのやりとりは古式ゆかしき文通に等しい。ヒルダは顔も知らないうちに彼女の独特な観察眼やわかりやすい文章に惚れ込んでいた。今回発揮された調査に関する技術力はマリアンヌを探すときに培ったのだろう。
「先端技術を禁止する法律を作られたらどうしようかな」
答えが返ってくることを期待せずヒルダは呟いた。新聞の一面は近頃宗教警察のことばかり伝えてくる。賛否はかろうじて否の方が多いが今後は分からない。不規則で享楽的で周囲からの理解を諦めた暮らしを送る番組のリスナーたちはもちろん嫌がっている。
「何度でもそれはおかしいと言い続けるんだ。愛おしいと思うものがあるなら尚のこと言い続けるしかない」
ベレトは声荒げず静かに、しかし聞き取りやすく話す。そして基本無表情なのだが珍しく柔らかい笑顔を浮かべながらヒルダの問いに答えた。意外性が全くない、とレオニーに指摘されたこともある通り学生時代のヒルダは勉強があまり好きではなかった。しかしベレトのような教師と出会っていたら少しは真面目に勉強したかもしれない。畳む