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雑多です。
#かのひとはうつくしく番外編
#クロヒル
#ロレマリ
#ガルグ=マクちっちゃいものクラブ
ガルグ=マクちっちゃいものクラブ参加作品
2.クロードとヒルダ編

 いつか見た光景がクロードの眼前で再現されていた。ヒルダさん!と叫ぶマリアンヌは隣にいるはずなのに、彼女の声が遠くから聞こえたような気がする。今回は敵将の前へワープした際に起きた事故だ。ヒルダより先に前衛としてワープで放り出されていたローレンツが慌てて空中にいた彼女を受け止める。手足の長い彼だから幼女の姿になったヒルダに手が届いたのかもしれない。桃色の髪は頭の後ろでひとつに結い上げてあるが少し乱れている。
 すでに転送魔法の魔法陣に囲まれていたクロードは何一つなす術がなく、ただ、その光景を見ているしかなかった。咄嗟にヒルダを受け止めてくれたローレンツには感謝の言葉しかない。
 ヒルダと違って頭身はそのままで敵将の射程範囲内に移動できたクロードはフェイルノートを引き絞った。ローレンツが小さなヒルダを守りながら長時間戦うことは難しい。増援を呼ばれる前にクロードが一撃で敵将を倒す必要がある。
 クロードがこの一矢に集中できるのは皆のおかげだ。ヒルダのこともローレンツのことも脳裏から追い出し、標的となる敵将を睨み付ける。そもそも一騎打ちで勝てるほど腕力に優れていなかったクロードは弓を覚えるしかなかった。だがこちらは才能があったようで放たれた矢の描く弧が金色に見える時がある。ホルストのような剣の達人は太刀筋が光って見えると聞くので似たような境地に達した、と言えるだろう。
「恨めばいいさ!」
 そう叫んでフェイルノートから放った矢は敵将の喉を貫いた。装飾品を手作りしたり美容に熱中したり、と愛らしい面が目立つがヒルダは前線で育っている。それでもあの年頃の小さな娘にこんな光景は見せたくない───クロードのそんな思いを察したのかローレンツが大きな手で目隠しをしていた。紫の籠手は目どころか顔のほとんどを覆い隠している。素直に瞼を下ろしているかどうかはクロードにもローレンツにも分からない。
 将を倒し敵の抵抗が止んだのでクロードは黄色い外套を肩から外しながらローレンツに近寄った。先ほどは何よりも安全を優先していたが五年前と同じく服の寸法が合っていない。そのことに気付いたローレンツが真っ青になっている。
「助かった!クロード、靴と手袋も拾ってあげてくれたまえ」
 クロードの黄色い外套に包まれた小さなヒルダは二人の会話を聞いて声を出してもいい、と判断したようだ。
「エルヴィンさま、よろいをあたらしくなさったのですか?」
 父親と間違われ動揺したローレンツの頬が赤く染まる。彼はクロードと違って色白なので動揺が顔色に現れやすい。あんなことで領主が務まるのだろうか。
「違う、僕はローレンツだよ。ヒルダさん」
「ちがうわ、ローレンツくんはわたしよりちいさいもの」
 クロードの脳裏に五年前抱えて運んでやった、家中の全てから愛されて育った子供の姿が浮かぶ。ヒルダもローレンツも五大諸侯の子女かつ紋章保持者なので円卓会議や"フォドラの首飾り"視察の際に親に連れ回されていたらしい。幼い頃からの顔見知りであったようだ。
「ああ、確かにそうだ。ローレンツはもっと小さかったよ。俺はクロードだ。よろしくな、ヒルダ」
「でしょ!ちっちゃかったよね!ねえ、エルヴィンさまでもクロードくんでもいいけどホルストにいさんかおとうさまのところへつれていってくれる?」
 古い顔見知りであったせいで生じた誤解をどう解いたものか、ローレンツは困り果てている。
「笑うなクロード!」
 思わず吹き出してしまったのは動揺を誤魔化すためだ。滑稽でもあるのだが彼らが小さな頃から顔見知りであったことが羨ましい。そんなことを悟られないようクロードはヒルダの靴と手袋を手に二人の後ろをついて行った。とにかくベレトや魔法に詳しい者たちに相談せねばならない。
「エルヴィンさま、そこでいちどおろしてもらっていいですか?」
 ぶかぶかになった服は着心地が悪いのだろう。小さいながらもおしゃれなヒルダはクロードの外套も利用して何とか見た目を整えようとしている。その間にクロードはローレンツから耳打ちされた。
「小さなヒルダさんは羽根のように軽いが父と間違われるのが居た堪れないので代わってくれ」
「いいぜ、エルヴィンさま」
「揶揄うのをやめたまえ、クロード!!」
 交代だ、というと素直にヒルダはクロードに身体を預けてくれた。ヒルダはゴネリル家のご令嬢らしく、共に地上に足をつけている限り最も頼りがいのある存在だがそれだけではない。装飾品作りや香油作りでも才能を発揮している。
 つまり彼女を抱き上げて運んでいると身体にお手製の香油の匂いがつくのだ。ローレンツが代わってくれ、というのはおかしな話ではない。好きな人の前に別の女性がつけた香油の匂いをさせて現れたくないのだろう。マリアンヌはおそらくそんなことを気にしないが、ローレンツはそう言うことを気にするのだ。

 ベレトは無表情なので内心が読めない。だが敵兵を倒して鍵を探し出し、扉を開けてヒルダの元に真っ先に走ってきたのは彼が心配している証拠だ。だからクロードは彼を信頼している。
 そして彼の後を追って主だった将たちがクロードたちの元にやってきた。面倒見の良いレオニーや親切なイグナーツ、それに小さなヒルダの視線から見て兄ホルストに似ているであろうラファエルは相好を崩しているし、年上ぶりたいリシテアは自分より小さくなったヒルダの方が背も足も小さいことを噛み締めている。
 そんな中でマリアンヌはただひたすら慈しみに満ちた顔をして、クロードに抱きかかえられたヒルダの姿を眺めていた。クロードはまだヒルダに自身の秘密を明かしていない。だからこの姿に何を思ったのか言って欲しくなかった。
「原因が解明されるまでワープは使えないな……」
 そういうと作戦を立てたベレトは唸った。何故こんな事故が起きたのか。かつてローレンツも似たような事故に遭ったことがある。クロードはヒルダを膝の上に乗せたままローレンツに問うた。皆、当事者の話を改めて聞きたがっている。
「お前の時は魔道書の誤植だったよな?」
 そのせいで五年前、子供の姿になってしまったローレンツは頷いた。真っ直ぐでさらさらとした紫色の髪が彼の仕草に合わせて揺れている。戦争が始まってからローレンツは髪を伸ばし始めた。魔力は髪に宿るからだ。
「そうだ。幸いなことに一晩で元に戻ったがな」
「エルヴィンさま、いつおうちにもどれるの?」
 クロードの膝に乗ったままのヒルダが問うた。グロスタール伯の顔を知るマリアンヌが堪らず吹き出している。ヒルダがこれくらい幼かった頃のグロスタール伯は本当にローレンツと瓜二つだったのかもしれない。
「いや、参ったな……」
 小さなヒルダはどうしてしらばっくれるのか、と思っているようだ。ローレンツは頬を膨らませた小さなヒルダの機嫌をどう取ったものか考えあぐねている。だから気づいていないらしいが彼はこれからしばらくの間、友人たちから"エルヴィンさま"と呼ばれるだろう。望外の楽しいこと、は機会を逃さず楽しむべきだ。皆その機会を狙っている。
「あの時と同じ方法で元に戻るならレストが使える修道士の手配しましょう」
 こう言う時にマリアンヌはとことん空気が読めないが五年前と比べてはるかに堂々と発言するようになった。もしかしたら彼女はローレンツに秘密を告げられるようになるかもしれない。
「教え子の幼い頃の姿が見られるのは楽しいが……またこんなことが起きては何もかもが滞ってしまうな」
 ベレトがぽつりと呟いた。戦闘は先ほど終わったばかりで皆疲れている。もう少しの間だけ、解決法から目を背けていたい。だが彼はきっと言ってしまうだろう。クロードにはベレトが次に何を言うか、もう分かっていた。
「全て買い直す資金がないなら知識のある者が総出で手持ちの魔道書の綴りが間違っていないかどうか確かめる必要がある」
 リシテアが顔を覆って呻いたがこれは全く大袈裟ではない。クロードに騙されるようにして新生軍の立ち上げに参加させられ皆、身が粉になるような日々を送っている。そこにそんな作業が加わったのだ。マリアンヌもローレンツもこめかみを抑えている。だが強大な帝国軍を相手に乏しい物資をなんとかやりくりして戦っている現状では、魔道書を全て新しいものに買い直せない。


 マリアンヌも先ほどローレンツと同じ光景を目にしていた。ただし格子の向こう側から、リブローでも魔法が届かない位置から、だった。あれが五年前と同じく、戦場でなかったならばちょっと楽しい騒動で済んだかもしれない。だがガルグ=マクで再会したクロードに巻き込まれる形でマリアンヌたちは最前線に立っている。
 ローレンツが遠目にもわかるほど血相を変えて走り出し、地面に叩きつけられるはずのヒルダを必死で抱きとめてくれた。彼はいつも誰かを守ろうとする。その後クロードが一撃で敵将を倒してくれた。彼はいつも狙いを外さないが、今回ばかりは外さなかった理由に個人的な思いが含まれていて欲しい。
「ローレンツさん、事故当時の記憶は今もないのでしょうか?魔道書の誤りを見つけるのに役立つかもしれません」
 ローレンツは残念そうに首を横に振った。学生時代と比べて髪が伸びたので確かに彼の父と雰囲気がそっくりになっている。ヒルダがあれくらい幼かった頃、グロスタール伯は今のローレンツと同じくらい若々しかったのかもしれない。
「残念ながらないのだ……今後のためにも魔道書の頭から中身を確かめるしかなさそうだよ」
 マリアンヌはため息をついた。先ほどのリシテアのため息とは理由が違う。五年前の事故の際、マリアンヌは自分が求めてはいけないものを目の当たりにした。
「はぁ……だが、僕もマリアンヌさんも協力しないわけにいかないな」
 ローレンツはため息の理由を誤解している。マリアンヌのため息は安堵のため息だ。もしマリアンヌが獣の紋章を継いでいなかったら、あんな子を腕に抱いてローレンツの隣を歩く未来があったのかもしれない。だからこそあの時、未来に怯える小さな彼にグロスタールの紋章を持つ妻を娶ればいい、とどうしても言えなかった。あの頃からそう言えなかったほど彼のことが好きだった、と気づいたのは最近だが。
 その後、小さなヒルダをガルグ=マクまで抱えていく役目はラファエルが指名された。筋骨隆々な身体つきがホルストと似ているからだろう。お役御免となったクロードが大きく肩を回している。
「血の気が引きましたね……大丈夫ですか?クロードさん」
 貫禄が出るよう頬髭を生やしているが大袈裟に嘆く表情は学生時代とあまり変わらない。遠くからそっとヒルダを見ている時の嬉しそうな顔も含めて、だ。
「いや小さくて細くて折れそうだった。あれなら気絶したローレンツの足首を持って地面を引きずる方がずっと気楽だ」
 小鳥を手の中におさめるとしたら、と考えればいい。持続することを考えず、完全に脱力するか力を込めるなら簡単だ。だが不快な思いや怖い思いをすることがないように小さくて柔らかいものを守るのは本当に難しい。
「ご経験が?」
「残念ながらないね。いつもマリアンヌがあいつを回復してやるからだろうな」
 そう言ってニヤリと笑うクロードの視線は何を見てもすぐにラファエルの肩に乗った小さなヒルダに戻っていく。小さなヒルダの要望に応えたのかラファエルがふざけて身体を揺らすので、危ないと言ってローレンツが怒っている。
「エルヴィンさま、そんなにしんぱいしなくてもだいじょうぶ!」
「そうだぞ!そんなに心配しなくても大丈夫だぁ!ヒルダさんはマーヤみてえに、羽根みてえに軽いからな!」
 ああもう、と荒げた声が少し後ろにいるマリアンヌにまで聞こえてきた。
「随分と楽しそうだな。マリアンヌ」
 将来、ローレンツが我が子を可愛がる姿を見る時、彼の隣にはマリアンヌではない女性が立っているに違いない。本来なら心にいくばくかの痛みを伴う光景のはずだった。
「クロードさんこそ楽しそうですよ」
「望外のものが見られるのは楽しいことだろう?」
 マリアンヌの脳裏に彼との会話が蘇る。生まれが明かせず、どこへ行っても疎まれる子供。クロードはヒルダを眺めているだけでこんなに幸せそうにしているのに、マリアンヌと同じく本当の自分をさらけ出していないのかもしれない。

 クロードがガルグ=マクを乗っ取った、と周知されてからは四方に散っていた教会関係者たちが再び集まり、様々な部門を再開させた。悲しいことに五年前より孤児院はその規模を拡大している。先にガルグ=マクへ戻ったベレトが小さなヒルダ用の服と靴を用意し今後の手筈の説明もしてくれた。少し変わったワープだから、という説明で納得してくれたらしい。
「わかりました。おようふくとくつをありがとうございます。ようやくじぶんでどこにでもいけるわ!」
「ヒルダさん、どこに行きますか?ご案内しますよ」
 髪の毛を後ろでひとまとめにした髪型がとても愛らしい彼女は真っ先にクロードのところへ行く、と言った。
「あらエルヴィン様のところでなくてよいのですか?」
 マリアンヌまで彼のことをエルヴィンと呼んだことを知ったらローレンツはどんな顔をするだろうか。
「だってこれ、クロードくんにかえしてあげなくちゃ!あのかっこうにはこのきいろのがいとうがぴったりよ」
 ヒルダは幼いころからおしゃれが大好きだったのだろう。幼い彼女なりに畳んだクロードの外套を手にしている。
「分かりました。ご案内しましょう。でもその前に洋服選びのお手伝いをしていただけませんか?」
 洋服選び、と聞いて小さなヒルダの顔が輝いた。本来のヒルダが身につけるべき服を一揃い医務室まで持っていかねばならない。本人が選んだとなれば彼女も不満はないだろう。マリアンヌはまず、小さなヒルダを連れて本人の部屋を訪れた。
 やはりヒルダは小さかろうと完璧だ、とマリアンヌは思う。小さなヒルダは行李や棚の中を開けて物色しているがマリアンヌと違って無意識に物を置いたりしない。寝台の上に洋服を広げて考え込んでいる。
「おおきくなったらこんなおようふくがきたいなとおもってたの」
「素敵な組み合わせです。では畳んでからクロードさんのお部屋に参りましょう」
 その他にも目覚めた時に必要そうな物、をマリアンヌは大きめの籠に詰めた。この部屋に元からあった大きな物で、両手で抱えるしかない。
 仕方ないので小さなヒルダに前を歩かせクロードの部屋の扉を叩いてもらった。どうぞ、と言う声と同時に中から何かの崩れる音がする。扉が外開きでなければ開け閉めにも苦労するかもしれない。勿論、寮の扉の開き方はそんな理由で決まっているわけではないが。
「ああ、ヒルダとマリアンヌか。歓待してやりたいがこの有様でね」
 クロードの背中越しに見える室内は床に紙が散乱している。彼がわざわざ廊下まで出てきたのはそのせいだろう。
「クロードくん、がいとうをかしてくれてありがとう」
 小さなヒルダが自分の外套を手にしていることに気づいたクロードは膝をついた。
「小さなお嬢さんのお役に立てて幸いだ」
 クロードは外套を恭しく受け取ったが、ヒルダからは見えないようにマリアンヌが持っている籠の上にそっと広げて被せた。一連の流れはまるで手品のようだった。
「マリアンヌ、それだと籠の中身が丸見えだ」
 クロードにそっと耳打ちされる。確かにすぐに身につけられるよう肌着を一番上に置いていた。上から広げた手巾を被せたので大丈夫だ、とマリアンヌは判断していたが言われてみれば薄い小さな布だ。やはりどうしても冷静ではいられないらしい。
「どうしたの?はやくいこうよ!」
「動揺してるのはお互い様だから仕方ないさ。後は頼んだぞ」
 マリアンヌはその晩とりあえずあれ以上の失態はないはずだ、と信じて床についた。しかしこの件には後日談がある。魔道書の誤植由来で事故が起きた際の教本には何度も翌朝の揉めごとを避けるために大人用の寝衣を着せてから眠らせてレストをかけよ、と書かれることになった。
 あの時、クロードの言う通り動揺していたマリアンヌはヒルダの寝衣を入れ忘れている。医務室の修道士もまだ解呪作業に慣れていなかったのでその場にある物を流用したらしい。クロードの外套だけを身に纏って医務室で目覚めたヒルダのことを思うとマリアンヌは申し訳なさで消えてしまいたくなる。
 後にマリアンヌは深酒をするたびに夫となったローレンツにこの件について話すようになるのだが、その度に彼は口籠もり何とも言えない表情を浮かべるのだった。畳む
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1.ローレンツとマリアンヌ編

 朝起きたらまず身支度を整える。エドマンドの家にいた時は侍女が髪をまとめて結い上げてくれた。自力でやろうとすると水色の髪は全くいうことをきいてくれない。鏡の前で先日、シルヴァンから忠告されたように笑顔を作ってみたが頬が引き攣りそうになるだけだった。
 義父は士官学校へ行けば必ず良いことがある、と言って送り出してくれたが何もかもがうまくいかない。今日もきっと義父に興味のある学生や教会関係者が自分に話しかけてくることだろう。そんな中マリアンヌはローレンツから義父と全く似ていない、とはっきり指摘された。彼は五大諸侯の嫡子なのでマリアンヌが養女になる前から義父であるエドマンド辺境伯を知っていた可能性がある。
 義父は引き取った養女を気にかけて色々と世話を焼き、話しかけてくれたのだが当時のマリアンヌは自分の側から話しかけることがほとんどなかった。今はほんの少し、そのことを後悔している。マリアンヌはあまり上手く話せないのだが、それは生来の口下手さだけが理由ではない。
 本当に義父のことを知らないからだ。適当なことを言って義父に迷惑をかけるわけにはいかない。
 士官学校の寮は扉が外開きだ。だから開ける前に人の声や足音に注意してから開けねばならない。義父は在学中、不用意に扉を開けたせいでマリアンヌの実父を思い切り小突いてしまったのだという。その話を思い出したのはどん、という鈍い音がした後だった。時刻は明け方で、いつもなら天馬の面倒を見るイングリットくらいしか起きていない。
「すみません、大丈夫ですか?!」
 顔を押さえてうずくまっているのは真っ直ぐな紫色の髪を肩の辺りまで伸ばした子供だった。一目で寸法違いと分かるくるぶし丈の寝巻きに身を包んでいる。士官学校は修道院の附属施設だ。修道院は寄る辺のない子供たちの面倒も見ている。だが、そこから紛れ込んだ子供にしては身につけている寝巻きが上等だった。白い指の間から血が出ていたのでおそらく取っ手が鼻を直撃したのだろう。マリアンヌは義父が買い求めローレンツが褒めてくれた手巾を渡した。
「まさかこの時間に人が歩いているとは思わなくて……申し訳ありません……」
「ぼくも、ふちゅういでした……」
 怪我の責任を取るためマリアンヌがライブの呪文を唱えると鼻血を出していた痕跡は手巾に残るのみ、となった。僕、と言っているのでどうやら男の子らしい。よく見ると袖もずいぶん余っているようで何重にも捲っている。
「ここは……寮なので……おうちはどこですか?」
「わかりません……じぶんのおへやでねていたはずなのに」
「まあ、なんてこと……」
 自分の身には余ることが起きたのでマリアンヌは素直にヒルダの名を呼びながら隣室の扉を叩いた。
「もー!こんな時間に何?」
 朝寝坊好きなヒルダが大あくびをしながら扉を開けてくれた。寝巻き姿で髪は下ろしたままの素顔だがそれでもこんなに美しい。
「小さな子供が寮の中に入り込んでいて……」
 訳がわからない、という顔をしたヒルダのためマリアンヌは扉を大きく開き、戸惑っている子供の姿を見せた。途端にヒルダの眠気は飛び去ったらしい。下りてこようとする瞼に隠れがちだった薄紅色の瞳が、しっかりと不安そうにしている子供の姿を捉えている。
「え、うそ!その子ローレンツくん、だよね?」
 ヒルダにそう耳元で囁かれ、マリアンヌは初めて彼と目の前の子供がローレンツそっくりなことに気づいた。言われてしまうと彼としか思えない。一体、何が起きたのか。確かに髪の色も瞼の形もローレンツそのものだった。ヒルダが部屋に手招きしてくれたので今は二人で彼女の部屋に入り込んでいる。
「どうしましょう……」
「勿論、先生に相談だよ!でもその前に確かめたいことがあるからちょっとクロードくんを起こしてくるね」
 そこで待ってて、と言われたのでマリアンヌはローレンツらしき少年とヒルダの部屋で二人きりになった。何かの事故で姿形が変わった場合、精神だけは元のままなことが多い。だがローレンツの性格から言ってもし精神が元のままならば、クロードの部屋に怒鳴り込むか階下にいるベレトの元へ直行するだろう。
「きっとなんとかなります」
 自分の口下手さが本当に嫌になる。なんの意味もない慰めの言葉を口にしてみたがクロードは果たして部屋にいるだろうか。馬や天馬の面倒を見るため早起きしているマリアンヌやイングリットは時々、埃まみれで朝帰りをしているクロードの姿を見かけるのだ。
「はやくもどらないとねえやも、おとうさまもおかあさまもきっとぼくをしんぱいしています」
 真っ先にねえや、が出てくるところが微笑ましい。マリアンヌの前で嘆く少年時代のローレンツは髪が長かった。魔力は髪に宿ると言われる。英雄の遺産、テュルソスの杖を受け継ぐグロスタール家の者らしい髪型と言えるだろう。
「そうですか」
 どうにもぎこちない相槌しか返せない。だが小さなローレンツはマリアンヌにあれやこれやと話しかけてくれる。気を使われているのかもしれない。
「ぼくはきのう、けんさをうけました」
 マリアンヌは思わず、息を呑んだ。十傑の子孫が受ける検査と言えば紋章の検査に決まっている。
 獣の紋章を持っている、と判明した時の両親の顔は未だに忘れられない。だからこそ自分を養女として迎え入れた伯父、いや、義父がマリアンヌが獣の紋章を宿していると知った時の反応に未だに戸惑っている。義父の頬を伝う涙には喜びや親しみが含まれていた。愛を人質に取られた彼の人生やマリアンヌの人生に意味などあるのだろうか。
「結果は聞きましたか?」
「まだです。もしぼくがもんしょうをやどしていなかったら……」
 ハンネマンの研究によって、今ではすぐ分かるようになったがローレンツやマリアンヌが幼い頃は試薬の反応が出るのに一晩かかった。きっとグロスタール家の人々は眠れぬ夜を過ごしたことだろう。小さなローレンツは色々と思い出したせいか流石に不安そうな顔をしていた。
 人生を左右する検査を受けたばかりな上に、目覚めたら知らない場所にいたのだから仕方がない。ローレンツが積み重ねてきたものが取り払われた結果が現状だとしたら、マリアンヌは絶対に目に出来ないはずの貴重なものを目にしていることになる。
「大丈夫ですよ。きっと受け継いでいます。それにもし紋章を受け継いでいないとしても……」
 ローレンツの子供には発現するかもしれない。だがそれでは問題を先送りにしているだけで同じ心配がつきまとう。それにそのためにはあること、が必要だった。
「紋章を宿す者を探して雇えばいいのです」
 想像すらしていなかった答えだったらしく小さなローレンツは目を丸くしている。マリアンヌが取り繕わねば、と強く感じた瞬間に扉を叩く音が聞こえた。
「なんだよローレンツ!随分可愛くなったな!」
 寝巻き姿のクロードの視線はしばらくヒルダの部屋の中を縦横無尽に彷徨い、最後にじっと見つめても失礼には当たらないローレンツの姿に注がれた。どうやら既にローレンツの姿形が変わった件について説明を受けていたらしい。
「クロードくん、まだアビスに出入りしてるなら心当たり、あるんじゃない?」
「いや、流石にそんな作用があるものは扱ってないよ」
 その後もヒルダが思いつく限りのおどろおどろしい単語を出し、重ねて尋ねたせいだろうか。小さなローレンツは何度かどなたですか、と問おうとしたが結局、口を結んでいる。眉根を寄せて不安や恐怖を堪えていた。
「じゃあクロードくん、マリアンヌちゃんと一緒に先生のところへ連れて行ってあげて」
 マリアンヌはすでに制服に身を包んでいるが口下手だしヒルダも寝巻き姿で出歩くわけにいかない。クロードなら寝巻き姿につっかけ履きでも先生の前に顔を出せるだろう、と言うことらしい。
「ま、そうなるよな。不安だろうがついてきてくれ。信頼出来る大人のところへ連れて行くから」
 クロードが小さなローレンツを手招きした。その褐色の手は弓使いらしく胼胝だらけで、彼が決して語らない日頃の努力が偲ばれる。
「大丈夫ですよ。私もついていきますから」
「ありがとうございます」
 マリアンヌの知る十九才のローレンツならきっとご婦人に負担をかけるわけにいかない、と言って提案を断っただろう。将来、長槍を振り回し重い茶器を軽々と持ち上げることになる手はまだ小さく柔らかい。何故そんなことをマリアンヌが知っているかというと反射的に小さな白い手を握ってしまったからだ。


 背中に目がついていないのが実に惜しい。小さなローレンツの手を握っているのがマリアンヌでなければクロードは遠慮なく凝視した筈だ。引っ込み思案なマリアンヌがローレンツの手を取った、その瞬間をヒルダと共有できたこともクロードは嬉しい。クロードは口は上手い方だ。しかし見てきたように語っても伝わらないことがある、とも知っている。この件はクロードとヒルダの間で語り草になるだろう。マリアンヌ自身は自分には度胸がない、と思い込んでいるが実際はかなり大胆なことをするのだ。
 クロードは円卓会議に参加するためデアドラへやってきたエドマンド辺境伯と会ったことがある。見た目は洒脱だが物言いは鋭く大胆だった。マリアンヌは養女だがエドマンド辺境伯の大胆さを色濃く受け継いでいるのかもしれない。
 とにかくマリアンヌはローレンツのことを何とかしてやりたい、と強く思ったのだ。彼女はいつも何かに怯えていて枠から出ようとしない。でも今朝はそこを越えて小さな彼の手を取った。ローレンツの肉体と精神が元通りになった時にこの記憶はどうなるのだろうか。
「私たちの先生のところへお連れします」
「階段を下りたらすぐだ」
 クロードが廊下の先を指さすとローレンツは神妙な顔をして丈の長い寝巻きの裾をそっとめくった。これでは外を歩かせるわけにいかない。靴をどうしたのか聞くと目が覚めた部屋に巨大な靴しかなかったのだという。確かにローレンツは長身に相応しい大きな足をしている。
「まあ……なんてこと……ずっと裸足だったのですね?気がつきませんでした」
 二階の廊下は絨毯が敷いてあるが階段と一階の廊下は違う。小さなローレンツはそのことを察したらしい。マリアンヌがしゃがんだので小さなローレンツは救いを求めるように紫の瞳でクロードを見上げた。この小さなローレンツは怪我人を背負って戦場を駆け抜けるマリアンヌを知らない。細身の身体のどこにそんな力が、とクロードは毎度感心してしまう。
「はじめておあいしたごふじんに、そんなことをさせるわけには……」
 故郷にいた頃クロードはよく靴を隠された。だから裸足で外を歩くと碌なことが起きない、とよく分かっている。
「足に布を巻く時間がもったいない。ほら、背負ってやるから俺んとこに来い。それともご婦人の背中の方が好みかな?」
 クロードはあんな育ち方をしたというのに他人に、しかもローレンツに親切にしてやれることが自分でも不思議だった。嫌な記憶は鮮明なままだが、仕上げに振り掛けられる粉砂糖のような暮らしをここガルグ=マクで送っているからだろうか。
 小さなローレンツは弾けるような早さでクロードの背中に身体を預けた。よろしくお願いします、といって乗せられた身体は悔しいかな、背中越しでも白い手足が長いとわかる。
 ベレトの部屋はさして遠くない。両腕と背中の塞がっているクロードの代わりにマリアンヌが扉を叩いてくれた。
「朝早くに申し訳ありません。先生、ご相談したいことが……」
 謎多き担任教師は講義の支度をしていたらしい。早朝にも関わらずすぐに三人とも部屋へ招き入れてくれた。こういう時はベレトの無表情さが救いになる。
「……という訳なんだ。どうしたらこの子が元に戻れると思う?」
 クロードが説明する間、マリアンヌは当然のように寝台の上で所在なさげに座っているローレンツと目の高さを合わせるためしゃがみ込んでいた。
「先週皆に渡した黒魔法の教科書に誤植があったんだ。その知らせが来たのが昨日だった。今日の講義で伝えようと思ったが……どうやら遅かったらしい」
 フォドラの印刷技術は貧弱だ。活字を組み合わせるのではなく、木の板にその頁の文章を丸ごと彫りつけて紙や布に転写している。だから内容を訂正した冊子が刷り終わるのに時間がかかったようだ。
「そうか、ローレンツは昨日、黒魔法の自主訓練をしていたから……」
 金鹿の学級の者たちは皆、得意な武器や戦い方が全く違う。だから黒魔法の得意なローレンツだけが被害に遭ったらしい。
「ここにいるのは、ぼくのおちどではないのですね?」
「そうだ。だから安心して欲しい」
 ベレトがそう語りかけると小さなローレンツは安堵のため息を吐いてから手で顔を覆った。先ほどマリアンヌに握られていた手は将来、槍の鍛錬で胼胝だらけになる。
「その新しい教科書を真っ先に使ったのはローレンツさんですね。先生、それで対処法は?」
 ベレトは冊子をクロードとマリアンヌに寄越した。かなり革新的なことが書いてある。自然を捉え直し逐一命令を下して、求める現象を発生させるのが魔道だ。しかしその術式が自然な人間の認識からかけ離れている。
 魔道が得意でないクロードなら項目と数値がずれないように項目の直後に数値を持ってくるだろう。だが、これまで読んだ魔道書は項目を先に全て述べた後で数値を一気に言うものばかりだった。この時に数値を言い間違えてしまうと発動しない。
 だが今ベレトが見せてくれた黒魔法の教科書は設計が全く違う。要素ごとに項目と数値がまとめられていた。
「いや、これはすごい。魔道が苦手なやつでもこれなら何とかなるんじゃないのか?」
「確かにとても興味深いですが……話題がずれています」
 ベレトも頷いている。思考があちこちへ飛んでしまうのはクロードの悪い癖だ。冊子の後ろの方には起こりうる状態異常とその回復方法について記されている。意識と肉体が乖離した際にレストをかけるとこの状態異常は回復するらしい。
「マリアンヌ、マヌエラを起こしてきてもらえないだろうか?俺は必要なものを医務室に運んでおくから」
 先ほどはクロードだけで構わないだろうと思っていたがこうなるとマリアンヌがいてくれてありがたい。マヌエラの部屋はおそらく男子学生には見られたくない状態になっているはずだ。
 パルミラ人はナデルのように大柄な者が多い。だからクロードはフォドラへ行けば、背が伸びれば自分がかなり大きな方になるのではないかと期待していた。しかし実際は見ての通りで、皆が皆ラファエルやヒルダの兄ホルストのような筋肉質というわけではないが背は高い。そんな訳でクロードはローレンツからもディミトリからも見下ろされている。
「俺からも頼むわ。ちびすけのことは任せてくれ」
 クロードはそう言って小さなローレンツと共にマリアンヌとベレトを見送った。将来、クロードがローレンツの子供の頭を撫でる日が来るかもしれない。だが本人の頭をこんな風に撫でる日は二度と来ないだろう。クロードは寝台の端で大人しく座っているローレンツの頭に触れた。彼の父と同じく肩のあたりまで伸びている紫の髪をくしゃくしゃにする。
「やめてください。せっかくねえやがねるまえにくしをいれてくれたのに」
「すまんな、でもこうしておけばマリアンヌが───さっきの水色の髪をしたお姉さんが整えてくれるかもしれないぞ?」
 クロードに乱された紫の髪を整える小さなローレンツの手が一瞬止まった。子供の頃から好みは一貫しているらしい。
「これいじょう、あのかたにごめんどうをおかけするわけには……」
 だが幼い彼は思い直した。フォドラでは力なき幼子でも美しい振る舞いを追求することが出来る。パルミラの者からするとフォドラは痩せ我慢の国に過ぎない。だがクロードはフォドラで過ごすうちにこれはこれで美しい、と思えるようになった。
 それでもパルミラ育ちのクロードは先ほど、咄嗟に小さなローレンツの手を取ったマリアンヌの内心に渦巻く衝動を高く評価しているし、彼女の抱える不満が解消されることを願っている。
 マリアンヌとベレトの忙しない往来を何度か経て、クロードは小さなローレンツを医務室まで背負っていくことになった。クロードの隣を歩き、小さなローレンツに治療法を説明するマリアンヌは常日頃と違って加害強迫の症状が現れていない。穏やかな彼女の姿がどんな様子だったかヒルダに話してやりたくてクロードは黙っていた。きっと喜ぶに違いない。


 翌朝、いつもの姿に戻ったローレンツが昨日の自分がどんな様子だったのか、必死にクロードから聞き出そうとしてきたので───もちろん思わせぶりなことだけ言って肝心なことは何ひとつ教えてやらなかった。畳む
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「置かれた場所では咲かない───ローレンツとマリアンヌ───」

11/3 ロレマリ
1.実家
 ようやくデアドラでの政務を終え、自領に腰を落ち着けることになったローレンツが本宅に戻ると父は執務室ではなく玄関の外で待っていてくれた。ようやく家督を継ぎ父を休ませてやれる。千年祭の日にガルグ=マクへ行くためこっそり抜け出てから今日まで本当に心配ばかりかけてしまった。
「ローレンツ、中で母上が待っている。早く入って挨拶しなさい」
「分かりました。父上、お話ししたいことがありますので夕食後にお時間を作っていただけますか?」
「分かった。書斎で待っていよう」
 屋敷の中から出てきた召使いに荷物を任せローレンツは久しぶりに実家へと足を踏み入れた。手巾で目元を押さえる母の手に見事な紅玉の指輪が嵌っている。マリアンヌへ求婚する際に指輪を散々、物色したがヒルダの協力を得られなかったらこの紅玉の指輪より素晴らしいものは見つからなかっただろう。そんなことを考えながらローレンツは長期間の不在を詫び、自室へと戻った。
 身体を休めるため旅装を解き、寝台の上に横たわつて長い手足を投げ出す。マリアンヌが指輪を受け取ってくれたということは彼女がこの屋敷に引っ越してくる、ということだ。この部屋を夫婦の寝室にするならこの寝台はどうするべきなのか。エドマンド辺境伯のことだから嫁入り道具をたくさん持たせるだろう。果たして入りきるだろうか。執事が呼びにくるまで見慣れた天蓋の下でローレンツは家具の配置について考えていた。
 実家に戻って最初の食事くらいは心穏やかに食べたかったのでマリアンヌに求婚した件は食後に話すと決めたが視線が両親の指にはまっている指輪をつい追ってしまう。父は結婚指輪の他に私信や文書にいつでも封ができるように印章指輪をつけている。
「ローレンツ、痩せてしまったのが心配だわ」
「いつまでも食べ盛りというわけではありませんので……」
 きっと母の記憶に残っているのは士官学校にいた頃の食べ盛りな姿や食べることが仕事の一部であった前線にいた頃の姿なのだ、とローレンツは察した。戦時中より筋肉が落ちてしまったのは確かだ。食べて動かなければ筋肉は保てない。父と槍の鍛錬の予定を立てたりして、久しぶりの親子水入らずな食事の時間は和やかに終わった。
 夕食後、ローレンツが父の書斎に向かうといつもは書類が山積みになっている机の上に杯が二つと蒸留酒の瓶が乗せてある。机の向かいにはローレンツが座るための椅子が置いてあった。無言で椅子を引くと父はローレンツの杯に指二本分の酒を注いだ。士官学校へ向かう前日にもこうして飲ませてもらったことがあるが、その時には酒を割るための水が水差しに用意してあった。
「父上、エドマンド家のマリアンヌ嬢に求婚しました」
「使用人たちの間では意見が割れていた」
 グロスタール家はフォドラ各地に屋敷を構えているが使用人は現地採用が半分、エドギアから派遣する者が半分で異動も多い。使用人の研鑽になるしどの屋敷で何があったのか報告させる良い機会になる。
「ゴネリル家のご令嬢とも手紙のやり取りをずっとしていただろう?」
「将を射るにはまず馬を射よ、と言いますので」
 そしてやはりローレンツの行動は使用人を経由してエドギアにいた父にまで筒抜けになっていた。だが散々、彼女たちへの言伝を頼んだのは自分なので使用人たちを責める気にはなれない。
「なるほど、親友か。戦術としては正しいと言わざるを得ない。しかし……」
 家格も釣り合っている。共にガルグ=マクで学生時代を過ごし、各地の死線を潜り抜けデアドラでベレトにこき使われた仲だ。実の親がどんなことになったのかも全て明かしてもらったがそれでも人生を共にしたいという思いは消えなかった。彼女が宿すモーリスの紋章は結婚の障害にならない。
「マリアンヌさんほど勇敢な人を僕は他に知りません」
「いや、私はお前の人を見る目は信頼しているよ。リーガン公の葬儀の際に見かけたので顔も覚えている。背が高くて細身で美しいご令嬢だったな」
「では何故……」
「ローレンツ、私ですらエドマンド辺境伯には言い負かされてしまう。お前は実に生直なたちだから彼を舅とするのはかなり大変だろう、と思っただけだ」
 エルヴィンは空になったローレンツの杯に酒を注いでから自分の杯を煽った。もう薄めなくても蒸留酒が楽しめる年頃になったというのに自分はまだ親に心配をかけている。ローレンツの頬が酒以外の理由で赤く染まった。
「父上、それは僕が彼女との結婚を諦める理由にはなりません……」
「今後、お前は幾度となく彼に言い負かされるだろう。勝ち目がないのに言い返したくなる時もある筈だ。だがそういう時は親の方が先に死ぬ、と思って我慢するのだ」
 若き日の父も舅に言い負かされた時はそう考えて我慢していたのかもしれない。ローレンツも将来、我が子に似たような助言をする日が来るのかもしれない。だが……。
「父上、それは失言では?」
「お前の胸の内におさめておきなさい。そしてこれまで以上に健康と安全に気を配るのだぞ。お前一人ではなく……」
「妻子の分も、ですね」
  ローレンツは些か語尾を食い気味に父の言葉を継いだ。確かにマリアンヌを妻にするならば気を配ってやらねばならない。
 
2.街中
 大乱の前はアンヴァルがフォドラ一の都会だった。セイロス教の教えの影響が少なくダグザやブリギットとも交易を重ねていたし、三国の中で最も国土が広く豊かでフォドラ中の高級品はアンヴァルに集まっていた。戦争が終わりフォドラが統一されてからはデアドラがフォドラ一の都会になりつつある。東の大国パルミラと国交が樹立しつつあり、東から物も人も金もエドマンド港かデアドラ港を経由してフォドラに流れこむようになった。パルミラに近いのはエドマンド港だが残念ながら港の規模が違う。デアドラ港の方がより多くの大型船を受け入れることが可能なのでエドマンド港が後塵を期している。
 ローレンツに会うためマリアンヌはデアドラに出向いて結婚式や新生活に備えて買い物をしていた。デアドラは直線距離はともかく交通面ではグロスタール領とエドマンド領の中間にあるため互いに自領に戻っている今は合流しやすい。
 エドマンド辺境伯が待ち合わせ場所に少し早めに着いていたローレンツの前にマリアンヌの手を取って現れた。マリアンヌはエドマンド辺境伯の養女と言うことになっているが実際は血の繋がった伯父と姪なので二人はよく似ている。水路の渡し船に乗っている者たちからは実の親子に見えるかもしれない。
「ごきげんよう、婿殿。今日は晴れているから荷物が濡れる心配がないな」
「お久しぶりです。辺境伯、マリアンヌさん」
 いつもならローレンツが自らエドマンド家の上屋敷へ迎えに行くので今回はデアドラ中央教会近くにある庭園で待ち合わせを、とマリアンヌから言われた時点で二人きりになれないだろうと覚悟していた。咲き誇る薔薇が心を慰めてくれることを願って場所を指定してくれたマリアンヌの気遣いが嬉しい。
「こうしてマリアンヌと共に買い物が出来て私は幸せだ」
 普通の若者なら期待に胸を膨らませて新生活への支度をするはずだが、士官学校入学前のマリアンヌは厭世観や希死念慮に苛まれ何一つ支度しようとしなかった。十代の娘が自分のために小物を買いたがらないというのだから当時のマリアンヌが如何に深刻な状態であったかが分かる。そんな養女に代わって買い物や荷造りをしたのは義父であるエドマンド辺境伯だった。その時期のことを思えば確かにこうしてデアドラの街中で買い物ができる日々は幸せそのものと言えるだろう。
 硝子工芸の店を数軒巡った後で辺境伯がマリアンヌに髪飾りを買ってやりたい、というので三人は彼がデアドラで贔屓にしている宝飾店にやってきた。確かに伯爵夫人ともなれば硝子玉で出来た髪飾りで済ませるわけにはいかない場面がある。店主はローレンツが贈った婚約指輪を目にするとひどく真面目な顔をしてマリアンヌに語りかけた。
「申し訳ありませんが店の者たちを集めてもよろしいでしょうか?」
 ヒルダが作ってくれた大切な指輪に何か瑕疵や曰くがあるのだろうか。予想外の提案をされ動揺した彼女が救いを求めるように真っ先にローレンツの方を見つめた。こういう時にこれまでなら義父である辺境伯を見ていたのだろうが今は違う。待ち合わせ場所でエドマンド辺境伯の姿を目にした時に感じた苛立ちは朝日を浴びた霜のように溶けローレンツの胸の内から消えていった。未来の舅はお手並み拝見といった顔をしてローレンツを眺めている。
「この指輪は僕が彼女に贈ったものだ。何か気になる点があるのだろうか?」
 ローレンツはマリアンヌの白い手をそっと握った。店主に対して、なるべく苛立ちを感じさせないような話し方を心がけたつもりだがおそらくエドマンド辺境伯には気取られているだろう。
「これほどの逸品は滅多に出回りません。店の者たちに見せて真に良い金剛石がどんなものなのか勉強させたいのです」
「そういうことでしたら……」
 安心したマリアンヌが指輪を外し天鵞絨が貼ってある小さな板の上にそっと置いた。ヒルダの豪快さもこの金剛石のように輝いている。店主は礼を言うと手を叩いて店の者たちを呼び寄せた。次にこんな逸品いつ見られるか分からないぞ、と言う店主の言葉に頷いた店の者たちは真剣な顔で指輪を凝視している。その様子に若干ローレンツもマリアンヌも引いていた。
「確かに大きくて美しいとは思うが……」
「若様はどちらでこの指輪を手に入れたのですか?」
 すれたデアドラの宝石店で働く者たちがこんなはしゃぎ方をするほどの金剛石の出所をローレンツとマリアンヌは知っている。その上で何かを察した紫色の瞳と榛色の瞳が見つめあう。あれは詫びの品だ。
「友人から譲り受けた。友人はパルミラに少々縁があるのでおそらくそちらの伝手だろう」
 ローレンツは嘘をついていない。嘘はついていないがクロードが一体、何をやらかしてヒルダを怒らせたのかが気になった。マリアンヌも同じことを考えているらしく目が合うとひどく真面目な顔をして小さく頷いてくれた。ローレンツは伏し目がちであった彼女と目が合うようになったことに言いようのない幸せを感じる。

3.手紙
 養父と共にエドマンド領の本宅へ戻ったマリアンヌは執事から自分宛の手紙を受け取ると思わずその封筒を胸に抱きしめた。この日数で返事が来たということはヒルダがゴネリル家にいる時に上手く本人の元へ渡ったのだろう。パルミラに行っている場合はゴネリル家に手紙を留め置いて貰っているためかなり時間がかかる。
 "マリアンヌちゃん、お元気ですか?"から始まる簡易で素朴な文章はいつもマリアンヌの胸を打つ。打算がなく誠意だけがそこにあるからだ。
「上屋敷も楽しいがやはり住みなれた我が家が一番、と思うようになったらもう年だな」
 義父が執事に外套を預けながらしみじみとそう呟いた。身に付けている襯衣はわざわざエドマンド領から生地を持参してデアドラで仕立てた物だ。エドマンド辺境伯は交易で得た莫大な富を染料や織物といった地場産業に投資している。
「あら、もうそんなお年なのですか?」
「そうとも!なんと言っても私は花嫁の父だからね」
 マリアンヌが嫁げばまたエドマンド辺境伯は一人きりになってしまう。年寄りは部屋で休ませてもらうよ、と言って去る後ろ姿が少し寂しそうだった。マリアンヌは家臣や召使たちと話せるようになった頃、養父は本当に一人きりなのか彼らに確かめたことがある。自分より優先すべき人がいるなら遠慮してほしくないと思ったからだ。だが家臣も召使も首を横に振りマリアンヌが養女として自分たちの主人と共にいることを喜んでくれた。グロスタール家に嫁ぐことになっても彼らを疎かにはできない。
 自室に着くと荷解きもせずにマリアンヌはヒルダからの手紙の封を切った。遠方とのやりとりなのでたまに手紙の内容が食い違うことがある。マリアンヌがデアドラから出した手紙には、指輪の金剛石が自分たちが想像していたより遥かに価値が高くとても驚いたことについて書いたのだが今回受け取った手紙はその件への返信だろうか。マリアンヌは深呼吸してから便箋を開いた。

"マリアンヌちゃん、お元気ですか?お察しの通りあれはクロードくんから私に贈られたご機嫌伺い兼詫びの品です。パルミラとフォドラの慣習や法律の違いもあって書類上での結婚は当分先になるけれど、この秋から王宮ではなく王都に用意した館に一緒に住もう、全て用意するから身一つで来て欲しい、とクロードくんから提案されていました。でもクロードくんが不注意で小火騒ぎを起こしてその話が延期になってしまったの。"

 マリアンヌは小火騒ぎという単語だけ拾ってしまい、反射的に王宮内における権力争い故の付け火かと考え慌てて文章を何度か読み返した。クロードの不注意ときちんと書いてある。手の甲で額の冷や汗を拭ってから続きを読み始めた。

"延期について詫びた最初の手紙には何も同封されていませんでした。結婚を考える歳になったのに好奇心が抑えられなくて小火騒ぎを起こすなんて有り得ないでしょ?だからパルミラ語でも"絶対に許さない"と書いた手紙をクロードくんに送ったの。ここまで読んで察したと思うけれど……"

 怒られてようやく詫びの品を用意した、というわけだ。ヒルダはひと目で贈られた金剛石の価値を理解しただろう。きっと自分のために指輪や首飾りを作ることも出来たし、彼女のことだからそれはそれは素晴らしいここぞという時に身に付けるような逸品になったはずだ。そしてヒルダの隣に立つクロードは美しい指輪もしくは首飾りを目にするたびに自分がかつてヒルダを激怒させたことを思い出すわけだ。だからと言って水に流すために死蔵するのも勿体ない。
 ヒルダからの手紙を読み終え再び封筒にしまったマリアンヌは左手を顔の高さに上げた。薬指の上で指輪は相変わらず輝いている。ローレンツから指輪を渡された時もその指輪を作ったのがヒルダだと聞いた時もこの上なく嬉しかった。この指輪は死ぬまで付けていたい。満足げに微笑むと便箋を取り出すためマリアンヌは引き出しを開けた。ヒルダ宛の手紙を書く時はいつも蝋引きの書字板を使って、文章をあれこれ考えてから便箋を取り出す。しかし今日は書きたいことが明確に決まっていた。

"ヒルダさんはクロードさんの失敗を忘れてさしあげることに決めたのですね。事情を知ってますます婚約指輪が大切に思えてきました。将来、私が子供に恵まれその子が結婚を考える時になってもこの指輪を譲ってやれないような気がします。
 私もヒルダさんに倣ってクロードさんがヒルダさんとローレンツさんをこちらへ置き去りにしたことを許してさしあげることにしました。
 いつまでゴネリルにいらっしゃいますか?可能ならばこちらでお会いして直接お礼を……"

4.上屋敷
 三度目の正直とはよく言ったもので二回連続でエドマンド辺境伯がくっ付いてきたが今回、ローレンツはマリアンヌと二人きりになれた。そして今ちょっとした事情がありマリアンヌはローレンツの部屋でエドマンド家の上屋敷から召使が戻って来るのを待っている。
「ご面倒をおかけして本当に申し訳ありませんでした……」
「いや、良いんだ。あれは正しい行動だったしこちらこそ至らない点が多くて本当に申し訳なかった」
 ローレンツは今日の一件でエドマンド辺境伯からどんな酷い嫌味を言われるか分からない。しかしその覚悟を決めた。髪が濡れたまま頭を下げて謝るマリアンヌの左手薬指にはまだあの金剛石の指輪が輝いているので、それだけでもう良いような気すらしている。
 今日は挙式に必要なものを探すという名目でデアドラの街中を二人でそぞろ歩きする予定だった。ローレンツもマリアンヌもそれはそれは今日という日を楽しみにしていた。生憎の雨だったが腕を組んで歩けば傘はひとつで充分だし、マリアンヌが転ばないようにローレンツが気をつけてやれば良い。ところが歩き始めてすぐに二人の目の前で女性が水路に転落した。通りかかった渡し船の漕ぎ手が慌てて櫂を差し出したが気でも失っているのか掴もうとしない。その様子を見てまずいと思ったローレンツが上着の釦に手をかけた瞬間、マリアンヌから声をかけられた。持っていて下さい、と自分の手のひらに乗せられた金剛石の指輪を見てローレンツがどういうことか、と一瞬だけ戸惑った隙にもうマリアンヌは水路に飛び込んでいて、雨で濁った水面には水色の髪が広がっていた。飛び込んだ際に結んでいた髪が解けたのだろう。
 そこから近所の者が呼んだ巡警が到着し二人揃って彼らの詰所で毛布に包まりつつ、再び彼女の薬指に指輪をはめてやった瞬間までローレンツは全て鮮明に覚えている。しかし一連の流れを言語化したくない。先日、父に妻子の安全に気を配るように心がけると宣言したばかりなのに自分は一体何をやっているのか。あれこそがモーリスの紋章をその身に宿す者の本分だと言うのに。
「あの方が気を失っていたから私でも義父に教えてもらった通り助けることが出来ました」
 マリアンヌは要救助者に背後から近寄り脇の下から手を入れて水面から顔が離れるようにしていた。きちんと呼吸を確保したいという意図がある行動だった。
「技術が身に付いていることは本当に素晴らしいが肝が冷えたよ」
 転落場所からほど近いグロスタール家の上屋敷から迎えが来るまでの間に改めて聞いたが、エドマンド辺境伯はマリアンヌを養女にしてすぐに縦帆を使った小型船の操船術を彼女に教えたようだ。強風を受けて横転することもしょっちゅうだったという。でもおきあがりこぼしのように起き上がるので───とはマリアンヌの弁だが見た目からでは想像がつかない特技と言える。
 ローレンツも船着場の整備用階段から水路に腰のあたりまで浸かって要救助者を抱き上げたりしたため、結局二人とも海水で全身べとべとになってしまった。上屋敷についた途端、大袈裟に嘆く召使たちによって二人はまとめて浴室に追い立てられ身包み剥がされた。雨の日に水路に転落した、とだけ聞いた召使たちの衝撃を思えば逆らうことなど出来はしない。
「何だか懐かしい気分ですね」
「確かにガルグ=マクを思い出す」
 他人と共に入浴し、髪や体を自分で洗うのはガルグ=マクにいた時以来だろうか。ローレンツは今晩、エドマンド家に泊まるつもりでいたのでお抱えの施術師に休みを与えてしまっていた。
 そして風呂から上がって気づいたのだがここにはマリアンヌの着替えがない。急いで洗って暖炉の前に干しても乾くはずもなく当然裸でいさせるわけにはいかない。結局、平謝りをしてローレンツの肌着や襯衣を渡した。マリアンヌは男物の肌着や襯衣を身に付けその上から毛布を被っている。当然、人前に出られる格好ではないので召使に今すぐエドマンド家の上屋敷に行って靴も含めたマリアンヌの着替えを一式持ってくるように、と申し伝えた。
 これでようやく一息つける筈だったがローレンツはマリアンヌを咄嗟に客室ではなく自分の部屋に通してしまった。この顛末がクロードに知られたら十年は揶揄われてしまうし婚約中の今、辺境伯には絶対に知られたくない。ローレンツは自室の見慣れた長椅子に、真っ白な脚を揃えて座る婚約者の隣に腰を下ろした。毛布を肩から被っているが、いつもは隠れている膝や太腿が剥き出しになっている。肩にそっと手を回して毛布を掴み足が冷えてしまうからと言って膝にかけ直してやった。
 だが上半身から毛布を剥がすと今度はいつもなら、紺色の釣鐘型をした外衣で隠されている上半身の体の線が男物の襯衣のせいであらわになってしまう。婚約してからローレンツはマリアンヌと何度も寝台で朝の紅茶を共に飲んだことがある。それにも関わらず棚からさっさともう一枚予備の毛布を出せば良い、ということにローレンツは気が付かず、召使が婚約者の着替えを持参するまで固まっていた。畳む
#かのひとはうつくしく番外編
#クロヒル
#ロレマリ
「置かれた場所では咲かない───クロードとヒルダ───」

1.執務室
 自分宛の荷物が届いたから、とのことでしばらく実家に帰っていたヒルダが要塞にいるホルストの元に戻ってきた。五年に及ぶ大乱のあとヒルダと共に戦った戦友たちはそれぞれに人生という双六の駒をひとつ進めていたがヒルダはホルストの補佐をするにとどまっている。
 相談がある、とのことでホルストは時間を作り執務室にヒルダを迎えていた。毎日食堂や訓練場で顔を合わせるもののヒルダは最近、捕虜の面倒を熱心にみているので滅多に執務室に顔を出してくれない。

「私クロードくんのところに一度行ってみようと思うの」

 クロードくん、こと隣国パルミラの王子が寄越してきた使節に最初に対応したのはホルストだ。外交官として何度も国境を越えパルミラの官吏たちと折衝を重ねたのはローレンツだ。今も交渉は続いており首飾りを越えていく彼をホルストはいつも励ましている。そうして他人が踏み固めた道を悠々と歩いていくのは実にヒルダらしい、と言えるのかもしれない。

「招かれたのか?」

 ヒルダが首を縦に振ったのでひとまとめにしてある薄紅色の髪が軽やかにゆれた。

「うん。兄さん、わたしね、ずっと悩んでたことがあるの。それでクロードくんが見るに見かねたらしくてそんなに悩んでるなら一度こっちに来ないかって」
「招いてくれたのだな。父上と母上が許可を出したのなら私も異論はない」
「うーん、父さんと母さんは兄さんが良いって言うなら行っても構わないって」

 ローレンツとその部下たちの血の滲むような努力の結果、和平条約が締結されつつあるし互いの国の旅券は有効になっている。ヒルダも腕っぷしは強い方だ。しかし護衛なしでかつての敵国へ行かせるのは心許ない。

「それならバルタザールを連れて行くと良い。彼の路銀は私が出そう」
「路銀のことはともかくバル兄を貸してくれてありがとう!」

 バル兄と色々相談しなきゃ、と言ってヒルダはホルストの執務室から去った。ホルストはヒルダが生まれた日のことも検査の結果ゴネリルの紋章を持っていると判明した日のことも覚えている。今日のことも忘れないだろう。
 ヒルダは小さな頃から宝飾品が好きな娘で自作したり買い集めている。毎日のように身につけるものを変えていた。しかし戦争が終わってこちらに戻ってきてからは首飾りだけはずっと同じものをしている。三日月と鹿の顔が組み合わさったものでかつてゴドフロア卿が身に付けていたものだ。今回は戻ってくるだろうが上手くいけば近いうちにヒルダはフォドラを出ていく。

 バルタザールとクロードから譲り受けたという白い飛竜に跨ったヒルダは二節ほどでホルストの元に戻ってきた。二人とも日に焼けてバルタザールはともかくヒルダは長旅で流石に疲れた顔をしている。

「ただいま、兄さん」
「戻ったぜ!ホルスト!」
「お帰り、ヒルダ!父上と母上が顔を見たがっている。少し休んだら日が暮れる前に本宅へ行きなさい」
「確かにこのままゆっくり休んだら根が生えて動けなくなるぜ?」

 ヒルダも自分の傾向に心当たりがあるらしく素直に本宅へと戻っていった。これで聞かせたくない話が出来る。まだ日は高かったがバルタザールはパルミラで買ってきたと言う蒸留酒の瓶の蓋をホルストの執務室で開けた。

「良い香りだ……ホルストが気にしてるようなことはヒルダも自力で確かめてたぜ」

 パルミラは政治的な問題を解決するために王が結婚を繰り返す国だ。その結果クロードは大量の異母兄弟と共に育ち彼の苦労や苦悩はそこから始まっている。クロードはその慣習を破るつもりがあるのかどうか。

「ヒルダには久しぶりの逢瀬を楽しんで欲しかったからバルタザールに付き添ってもらったのだがな」
「たとえ別れるとしても、か?」
「本人同士がどんなに好き合っていてもヒルダは私の妹だからな……」

 ヒルダはパルミラにもその勇名が届くホルストの妹だ。愛を貫くとしたら敵国出身の女と言われ辛い思いをするかもしれない。

「頼まれた通り色々調べてきてやったぜ」

 ホルストが首肯するとバルタザールは酒瓶の蓋を閉め行李の中から地図を取り出し机の上に広げた。街の地図などではなくパルミラ全土をおさめたものだ。バルタザールの指がパルミラの国境線をなぞっていく。パルミラと国境を接している国はフォドラを含めて九だ。

「フォドラとの一番でかい違いはこれだな。慣習に従うならクロードの奴はヒルダの他にあと八人は妻を娶る羽目になる」

 例外はあるものの基本的には一夫一妻制のフォドラで育ったヒルダには耐え難いのではないだろうか。

「国境線を安定させるためか?」
「そうだ。だからヒルダとクロードの結婚自体は歓迎する奴も多いと思うぜ」

 バルタザールがため息をついた。ご結婚おめでとうございます、どうか早く他の隣国出身の妃もお迎えくださいと言う家臣はある意味最もたちが悪い。

「慣習の違いというやつだな……」
「だからヒルダはクロードを振るのは簡単だしクロードの奴もそれは覚悟してたはずだ」

 だがヒルダはそうしなかった。そして実家から出奔するような他人から見てわかりやすいこともしていない。

「でもな、ヒルダはどんな答えを出すとしても一度も向こうに行かずに決めるなんて無礼だと思ったのさ」
「バルタザール、本当に世話になった」
「おう、俺は身軽だから何かあればすぐヒルダのために飛んでいってやるよ!」

 持つべきものは身軽で腕っぷしが強く欲しい言葉をくれる友だ。バルタザールのような良き友がいてホルストは幸せ者だ。

2.客間
 クロードは今回、両親とヒルダを引き合わせるために彼女をパルミラに招いたのだがそこにとんでもない異分子が紛れ込んでいた。バルタザールだ。少し考えてみればホルストと親しいのだから護衛としてヒルダについてきても不思議ではない。慎重にことを進めたかったというのによりによってヒルダの護衛がバルタザールなのだ。クロードが気付いてほしくないことに気付いてホルストに報告するに決まっている。

「クロード!お前やっぱり俺のことずっと誤魔化してやがったな!!」

 バルタザールが元気に吠えているのはクロードがヒルダのために用意させた部屋だ。この部屋は一人で出歩くことのない賓客用のもので客人が泊まる主寝室は応接間を介して客人の護衛や召使が寝泊まりする小さな寝室と連結している。何かあれば扉を開けて簡単に行き来ができるようになっているのだ。クロードの予想ではレオニーがそこで寝泊まりする筈だった。レオニーなら気を利かせて二人の時間に乱入するようなこともなかっただろう。

「えー、バル兄やっぱりティアナさまとお会いしたい感じ?」
「そりゃ勿論そうよ!」

 ヒルダと両親の顔合わせはうまくいった。和やかに顔合わせの食事は終わりその後、ヒルダとティアナは浴場で鉢合わせして何やら女同士の話も出来たようだ。パルミラの西進を阻み続けてきたゴネリル家の娘であることがどう転ぶか不安ではあったが父はヒルダのことを悪くない、と思ったらしい。武勇もだがホルストが高潔であることにもクロードは感謝せねばならない。一方でティアナはヒルダの父やホルストのことも知っているので話が早かった。
 
 気を紛らわすためクロードは召使に用意させておいた紅茶に口をつけた。フォドラと違いパルミラでは硝子製の小さな茶器に注ぐ。持ち手はなく縁を持って飲むので慣れないうちは火傷に注意する必要がある。三人は客室の応接間に敷かれた繊細な幾何学模様の巨大な絨毯の上で三者三様の格好でくつろいでいる。椅子も一応あるのだがクロードは絨毯の上で胡座をかきバルタザールは寝転んでいた。ヒルダは大きな座布団の上にちょこんと座り込んでいる。すぐ近くに大男がいるせいかその華奢さが目立つ。

「俺みたいに頬髭が生えたようなでかい息子がいる人妻に今更どんな用事があるんだ?!」
「ティアナさまを困らせるようなことはしねえよ!」
「こう言ってるし会わせてあげられないかなあ、クロードくん」

 バルタザールがヒルダの言葉を聞いて勢いよく身体を起こした。流石ホルストの妹、人情がわかってるだのなんだの言いたい放題だ。建前で言えば客人の護衛如きが王妃の顔を直接見ることなどあり得ない。

「ねえ、バル兄。もしお会いできたらクロードくんにお礼しなきゃ」
「そうだな!おい、クロード!何が良い?なんでもしてやるから!」
「クロードくんと兄さんが喧嘩したらバル兄はクロードくんに加勢してあげてよ」

 クロードには元から聡明なヒルダなら絶対にこちらでも上手くやっていける、という願望にも近い思いがあった。そしてそれは今証明されたと言っても過言ではない。

「おい、ヒルダそれは勘弁してくれよぉ……」

 バルタザールの視線が彷徨い声が震える。屈強な大男が形無しだった。自分の失言に気づいて顔が青ざめている。

「よし!それで決まりだ!頼んだぜバルタザール!」
「言っとくけど二人きりで会わせて貰えたら、の話だからな!もういい!俺は明日に備えて寝るぞ!」

 油断してヒルダに言質を取られたのが恥ずかしいのかバルタザールは扉から自分に与えられた小さな寝室へ下がっていった。

「あれはさ、目の下に隈が出来た寝不足の醜い顔を初恋の人に見られたくない、とかだと思うよ」

 ようやく二人きりになれたのでクロードは座っているヒルダの膝に頭を乗せて横たわった。バルタザールの前向きさには本当に感心させられてしまう。彼のような前向きさがあればクロードも異母兄弟とうまくやっていけたのかもしれない。

「さっきヒルダは喧嘩って言ったけどな、俺のことをいきなり殴っても構わない奴がこの世に五人だけいるんだ」

 クロードの物騒な発言を耳にしたヒルダは指を折って数え始めたが小指が真っ直ぐなままだ。

「父さんでしょー?兄さんでしょー?それに立場を押し付けた先生と残務を押し付けたローレンツくんと……あと一人は誰?」
「ヒルダだよ。ごめんな、戦争を言い訳にしてゴネリル家への挨拶も説明も省いちまった」

 白い指が耳飾りがついている方の耳たぶを軽く引っ張る。

「いてッ……!!」
「兄さんに殴られたらもっと痛いわよ!頼りない王子様、この私に隣にいて欲しいならしっかりしてね。もう言い訳はなしなんだから」

 ヒルダはフォドラに戻ったら家中の者に宣言するつもりなのだ。支度に時間がかかりそうだがかつての敵国に嫁ぐつもりだ、と。

3.中庭
 建前では王妃が客人の護衛如きと二人きりになるわけがない。だが王妃が自らの腹を痛めて産んだ、七年近く失踪していた王子の様子が気になって部屋を訪ねて行くことはあり得る。
 王子は淡い花のような色の髪と瞳をした客人を色とりどりの花が咲き誇る自室前の庭へ招き入れていた。客人は昨夜王妃から賜った面紗を肩に掛けている。この庭は王子が自ら手入れをしている小さな薬草園でもあった。外からの視線や風を遮るため半円状の植え込みで覆われていて緑の壁のようになっている。壁の向こうには客人が連れてきた護衛が控えていた。

「この辺は全部毒が取れるやつだ。そこの彩りがいい茸も絶対に素手で触るなよ」
「そういえばローレンツくんが怒ってたよ」
「どの件でだ?」
「部屋を片付けなかった件で」

 クロードはヒルダ以外には誰にも何も告げずフォドラを後にした。どこへ行ったのかいつ戻ってくるのか、一体何を考えてのことなのか、そもそもいつまでもクロードの荷物に部屋を占有させておくわけにいかない、と言う理由でローレンツとマリアンヌはクロードの部屋を漁ったことがある。警戒したローレンツは革手袋をはめマリアンヌには物を触らせなかった。密偵対策に何を仕込んでいるか分からないと考えたのだろう。フォドラを去る、と気取られないようにクロードは毒薬や毒薬の材料もそのままにしていったのでローレンツの判断は正しい。

「あいつどの瓶に触ったのかな……」

 ローレンツが仕込んであった薬品で火傷をしたことに驚いたマリアンヌが床の上にあったガラクタに躓いて転び、お互いに回復魔法を掛け合っていた姿をヒルダはまだ覚えている。自分たちと違って一緒にいられて羨ましいと思ったからだ。
 
「二人ともここに居たのね。ああ、ヒルダさん。今日は風が強いから面紗は頭から被ったほうがいいわ。髪に砂が付いてしまうのよ」

 クロードの部屋を通って庭に面紗をかぶったティアナが現れた。お付きの侍女はクロードの部屋の入り口で控えているのだろう。植え込みの向こうにはバルタザールがいる。

「わかりました。ティアナさま」
「母さん、ちょっと相談に乗ってくれ。そこが空いてるだろ?何か植えようと思うんだ」
「カリードの庭で咲いているとどんなに美しくても毒草に見えてしまうわね」

 ヒルダはティアナの視線が逸れた隙に肩にかけていた面紗を植え込みの向こうに放り投げた。会話は筒抜けなのでバルタザールは絶対に察している。

「やだ、風で飛んで行っちゃった!ねえ!取ってきて!」
「おう!任せとけ!」

 バルタザールは飛び上がってヒルダの面紗を掴むと植え込みの隙間から庭に入り込んだ。侵入の言い訳となった面紗をそそくさとヒルダに渡し即座に身体をティアナの方を向けて片膝をつく。胸元に手を当て顔を下げる仕草を見ると日頃どんなに無頼を気取っていても元の育ちの良さが分かる。

「お久しぶりです。俺のこと、覚えておいででしょうか?」
「まあ、なんてこと!当ててみせるからまだ名乗らないで!」

 クロードが唇に手を当ててヒルダを手招きした。ティアナの気が逸れている今しかない。二人はバルタザールが素直に首を垂れている隙にそっと物音を立てずに部屋の中に戻った。

「うまくいったね!クロードくん!」

 ヒルダが握り拳を振り上げるとクロードが何故かまた唇に指を当て手招きをしている。どういうことか、とそっと束ねた窓掛の近くにいるクロードの元へ近寄ると背中越しに抱きしめられた。

「ここなら庭から見えない」

 窓掛を閉めてやりたい気持ちもあるが他人の目がある状態も保たねばならない。ヒルダも二人の会話が気になるが急にクロードに抱きしめられたせいか耳が自分の鼓動や彼の息遣いを拾ってしまう。ヒルダは二人を見張るどころではなかった。クロードはどうだか分からないが。
 バルタザールとティアナの邂逅は小さな砂時計の砂が半分も落ち切らないうちに終わった。膝をつき手の甲への接吻を許されてそれでおしまい、という流れが長引くはずもない。何事もなかったかのようにクロードは庭への扉を開いた。バルタザールはもう植え込みの向こうに戻っている。身分も用事もないのに王妃と同じ場所にはいられないからだ。

「何か思いついたか?母さん」
「そうねえ、今はここでは育たない故郷の花ばかり思いつくわ」
「じゃあ午後のお茶の時に皆で話し合ってみるか。ヒルダも考えておいてくれよな」

 ティアナは何があったのかおくびにも出さず入り口で控えていた侍女と共にクロードの部屋を去った。クロードは扉が閉まった途端に大きな安堵のため息をつきヒルダも緊張してかいた額の汗を手の甲で拭った。それでもクロードがヒルダをお人好しと呼ばないのがありがたい。
 庭に面した扉が開きバルタザールが入ってきた。先程ティアナの前だけでまとっていた柔らかな雰囲気は消え失せいつもの彼に戻っている。その後は態度が崩れることがなかった。
 そして昨晩よりもかなり早い時間に今日は疲れたから、と言ってバルタザールはさっさと与えられた小さな寝室に引っ込んでしまった。昼の件に関する彼なりの礼なのかもしれない。

4.寝室
 フォドラにいる時はガルグ=マク、デアドラ、首飾りの何処にいても互いの気を散らすものがたくさんあってまともに話し合いをするために環境を調整するのが大変だった。どうやらパルミラでもそれは変わらないらしい。
 だが今晩もバルタザールが寝室に引っ込んでくれたのでクロードはさっそくヒルダの寝室に入り込んだ。昼間とは異なり窓掛をきちんと閉め燭台の蝋燭を灯す。ファイアが使えるローレンツなら寝台に寝転がったまま蝋燭を灯すことができるのだろうが残念ながらクロードにはウインドしか使えない。寝台にいながらにして灯りを消すことはできるが灯りを消したくはなかった。
 昨晩は本当に久しぶりだったこともありお互いに何も言わずに寝台の上で実際に会わなければできないこと、に没頭してしまったし今晩も出来ればそうしたい。そうしたいのだがこれだけは絶対に言わなくてはならない。

「ヒルダには今後も何回か行き来してもらうことになると思う。でもな……頼むから!!次からはレオニーを雇ってくれ!!バルタザールがいると気が散る!!」

 頼りないと言われようが情けないと言われようがそれがクロードの本心だった。これから二人で他の隣国出身の妃は必要ない、と家臣や親族たちを説得せねばならない。これまでの慣習を破るという大変なことが待ち受けているのに母の身辺に気を取られるのは御免こうむる。

「バル兄って生々しいんだか爽やかなんだかよく分かんないわよね……」

 寝台の上で縋りつかれながら言われてしまってはヒルダも受け入れるしかない。対面時間のあの短さから言ってバルタザールが挨拶しかしていないのは確実なのだが母親のことだと思うと拒否感が強いのだろう。真の事情を明かせるわけもないのでクロードがヒルダ付きの男の護衛を嫌がった、という事実だけが表沙汰となる。真の事情が明るみに出ないようにする囮役をかって出てやろう、とヒルダは決めた。

「返事は?」

 服の裾から手を侵入させながら催促することではない、と思いつつもヒルダはクロードがしたいようにさせている。白い肌の上をそっと這い回る手の持ち主は故郷に戻っても時間を作って弓の鍛錬を続けているようで以前と同じく胼胝だらけだ。

「レオニーちゃんの他の依頼と重なってなかったら、ね」

 ヒルダは白い手をクロードの頬にそっとあてた。童顔なことを気にして生やした頬髭の奥に照れ屋で臆病な少年の姿が隠されている。ヒルダはクロードがリーガン家の嫡子として発表される前に開かれた、諸侯向けの内々でのお披露目の時にクロードと会っている。その時はクロードに対して何の感想も意見もなかった。
 クロードを強く意識し始めたのは士官学校に入ったあと、金鹿の学級の者たちの前で自己紹介をした時のことだ。皆が興奮してホルストのことばかりヒルダに質問する中でクロードだけがヒルダの顔にほんの一瞬だけ浮かんだ恐れや怒りを察して「両親と名字以外にホルストと同じところはあるか?」と皆の前で堂々とヒルダに問うてくれた。ヒルダはクロードのおかげで自分と兄は名字と両親と髪と瞳の色が同じなだけでそれ以外は全く違う人間である、と高らかに宣言することが出来た。それまでずっと周りの者に言いたかったのに言葉にすら出来なかった思いをクロードが引き出してくれた。

「あーもうレオニーのこと通年で雇っちまうかなあ!!」

 そんなことは露知らずクロードはこの先のことを考えている。ヒルダは自分にのしかかるクロードの頭を抱えて身体の向きを変えた。部屋着越しに豊かな胸元に顔が埋まったのでクロードも抗わない。学生の時ほどではないがあちらこちらに跳ねている焦茶色の癖っ毛を白い指で梳く。風呂上がりに髪を整えるためにつけた香油の香りが辺りに漂った。おそらくパルミラでしか育たない花か果実で香り付けがしてある。香水にはそこそこ詳しいヒルダが嗅ぎ慣れていない香りだった。

「甘くて良い香りがする」
「土産に持たせようか?」

 クロードがヒルダの胸元で囁く。フォドラに戻って一人になった時この香りを嗅いだらクロードと共にいるような気持ちになるのか今、全身で感じている息遣いそれに体温がないことを寂しく思うのか。

「私、今日はもう何にも考えたくない」
「どんなに些細なことでも?」
「うん、もう面倒くさい。全部明日にする」

 ヒルダが伝えたかったことを察したクロードが身体を起こそうとしたのでヒルダは白い手から力を抜いて瞼を閉じた。畳む
#かのひとはうつくしく番外編
#クロヒル
#ロレマリ
「ペアエンドまであと少し」

1.ヒルダ
 戦後、級友たちはそれぞれに忙しく、会う機会は減り季節の変わり目に便りをもらう程度となっていた。ヒルダも兄ホルストの補佐をしたり戦時中は我慢していた豪華な宝飾品作りに熱中したりとそれなりに忙しくしている。
 帝国軍と戦うにあたって無駄飯食いを抱え込む余裕はないと言うクロードの意向でガルグ=マクで新生軍を立ち上げた際に何度か捕虜交換式が行われ、捕虜は全てパルミラへと戻してしまった。しかし最近また首飾り近辺でパルミラ軍との小競り合いが起きているせいかパルミラ兵の捕虜が増えつつあった。
 現在ヒルダはそんな彼らを取り調べしつつ、やんわりと面倒を見ている。戦後すぐに姿を消したクロードを偲ぶのに丁度いい。
「それで"絶対に許さない"はパルミラ語でなんていうの?」
 ヒルダは捕虜が言うままにその言葉を書きつけた。捕虜たちは最初、小柄で愛らしい見た目のヒルダが捕虜の管理を行うと知って侮った。しかし戦争も終わり頭のてっぺんから爪先まで美しく装った彼女がグラップラーの顎に一発拳を入れて気絶させる姿を見ると認識を改めた。どうやら冗談やおためごかしの嘘ではなく彼女は本当にあのホルストの妹らしい、と。ヒルダは捕虜たちから名前と経歴を聞き取って記録を作り、薬師や修道士を手配して怪我を治療させ食事と清潔な衣服を与えながらパルミラ語を学んでいた。
 フォドラは訛りはあれどフォドラ語を話す者しかいないが広大な領土を誇るパルミラでは東西によって使う言語が違うのだという。パルミラの西部ではフォドラとほぼ同じ言語を使うのでヒルダはパルミラ西部の者から王都がある東部で使われる言語を習っている。
「何故そんな物騒な言葉が知りたいんですか?」
「うーん……言われた時にわかるようにしておきたいから、かな?」
 小首を傾げるヒルダの仕草と会話の内容が合っていない。
「ヒルダ様にそんなことを言う捕虜はいません!新入りがそんなことを言ったら俺が殴ってやります!」
 ヒルダにパルミラ語を教える役を仰せつかった捕虜が必死になって言い返してきた。反抗的な新入りを炙り出すためにそんな言い回しを知りたいわけではない。将来、王宮で悪意を向けられた時のために知っておきたいのだ。目の前で憤慨する彼に実はパルミラの王子と将来を誓い合っている仲だと告げたらどうなるのだろうか。反応を想像しただけでヒルダは面倒臭くなった。
「なんだか感動しちゃった……私たちって出会ったきっかけは最悪だったけどいい友達になれたのね」
「そう!いい友達になろうとかそう言う言葉なら喜んで教えますよ!」
「はぁい、それじゃあ書き取るから"良いお友達になれそう"はパルミラ語でどういうか教えて?」
 クロードの手腕次第ではヒルダが王宮に入ったあと「絶対に許さない」と言われることもあるだろう。その時は笑顔で「良いお友達になれそう」と言ってやるつもりだ。

2.クロード
 クロードはヒルダからまともに暮らせるようになるまでパルミラに行くことはあっても絶対に住まない、と宣言されている。緑の瞳から放たれた視線がフォドラから届いた手紙の上で左右に動いた。もう少しゴネリル領で待っていて欲しい、という手紙の返事にはわざわざパルミラ語で"絶対に許さない"と書いてある。
 いきなり王宮に住むのは敷居が高かろうと思い、クロードはヒルダのために王都に私邸を用意した。そこまでは喜んでもらったのだ。だがその私邸で小火騒ぎがあり住めたものではなくなってしまった。クロードの実験のせいで起きた小火騒ぎなので何の申し開きもできない。これが権力闘争の果てに付け火をされたと言う話ならきっとヒルダも許してくれただろう。ひたすら手紙で謝り倒すしかなかった。

 フォドラにおける逓信事業はセイロス教会が担っている。大司教座があるガルグ=マクと各教区に点在する教会や修道院の間で交わされる文書を送り届けるついでに信徒の私信や小包を扱うようになった。一方、パルミラでは各地にある法学校の同郷会の者たちが担っている。
 フォドラとパルミラの国境を越えるような私信や小包はごく僅かにしか存在しないがそれは元捕虜たちの互助会が担っていた。これはお強請り上手なヒルダが自分が面倒を見ていた捕虜たちをパルミラへ返還する際に手紙を持たせたことをきっかけとしている。ヒルダの仕切りで両国の国境を越えた初めての信書はローレンツがクロードに宛てて書いた、読む人が読めば激しい憤りがこもっているとすぐに分かる代物だった。一度前例が出来てしまえばか細くも経路は確保される。
 そのか細い経路を伝って届けられたヒルダからの手紙を、さっさと出ていくはずだった王宮の私室で読み返すたびクロードの口からため息が出た。ヒルダに対する罪悪感に囚われたクロードをよそに廊下からは若い女官たちがはしゃぐ声が聞こえてくる。日頃は大きな声で話すと女中頭から行儀が悪いと叱責されるのだが、怒鳴り声が聞こえないと言うことは彼女たち皆が好む出入りの商人が王宮にやってきたのだろう。
 耳を澄ませていたつもりだが意気消沈しているクロードは声をかけられるまでナデルが自分の様子を見にきたことに気づかなかった。
「腑抜けた顔をしてるな……延焼しなかったことに感謝して誠意は形にして届けるしかないだろうに」
「形?なんのことだ?」
「大広間に宝石商が来てるぜ」
 フォドラにいた頃と違い、くだらない話をする相手がナデルくらいしか居なくなってしまったクロードは街中に構えた館について彼相手に散々愛の巣だのなんだのと言っていたので誤魔化しが効かない。クロードは再びため息をついた。だが今度のため息は修繕費と宝石代でおそらく手持ちの現金が底をつくことに対するため息だった。

3.ローレンツ
 自領へ戻ってすぐ恩師から泣きつかれたローレンツはデアドラで目が回りそうになる程忙しい毎日を送っている。ベレトはマリアンヌにも泣きついていた。それほどにクロードが抜けた穴は大きいのだ。だがその穴もリーガン領の南に位置するグロスタール領の未来の領主であるローレンツとリーガン領の北に位置するエドマンド領の未来の領主であるマリアンヌの必死の努力によって埋まりつつある。
 フォドラでの立場を投げ出したようにパルミラでの立場を投げ出してこちらに来ようともクロードの席はもうない。かろうじて言うならゴネリル家の婿に入るくらいだろうか。小気味良くはあるがやはり味気なかった。
「ローレンツ様、ゴネリル家のヒルダ様より小包が届いております」
「分かった。小包?心当たりがないな……」
 そう呟きつつローレンツは修道士が差し出した受領証に署名した。ヒルダからこんな風に物が送られてきたことはない。いつもの彼女とは異なる、随分と大仰な送り方でますます訳がわからなかった。だが手紙ならば心当たりがある。ローレンツはマリアンヌに結婚を申し込もうとしていた。このローレンツ=ヘルマン=グロスタールが愛しい人に求婚するにあたって指輪がないなど有り得ない。宝飾品作りが趣味のヒルダは手に入った素材で指輪や首飾りを作ってはマリアンヌに贈っていた。つまり彼女はマリアンヌの指の寸法を知っている。そこでローレンツは知恵を拝借したいという手紙を書いたのだった。
 小包はゴネリル家の印章を押した封蝋で厳重に封じられている。ローレンツはいつも持ち歩いている小刀で紐を切り包みを開けた。木箱の中に手紙と天鵞絨の小さな箱が入っている。ローレンツは手紙より先に中身を見て絶句した。大ぶりな金剛石が嵌まった女性用の指輪が入っている。慌てて同封されていた手紙に目を通した。短い手紙は実にヒルダらしい愛らしくも読みやすい書体で綴られている。

「滅多に手に入らない大粒な良い石を入手できたのでローレンツ君の願いが叶うこと、マリアンヌちゃんが幸せになることを願ってこの指輪を贈ります。代金を払おうとしたら絶対に許さないからね!
追伸・どうしてあんな質問をしておいて私が作らないと思ったの?」

 ローレンツは忙しい合間を縫ってデアドラの宝石商を巡っていたがマリアンヌに相応しいものは中々見つからなかった。グロスタール家には歴代の嫡子を経由して伯爵夫人に受け継がれる見事な紅玉の指輪があるのだが、それを取りに戻れば家人全てに勘付かれありとあらゆることが親同士の打ち合わせで決まってしまう。領民のために人生を捧げるのは嫌ではなかった。その立場に立てることは天佑であり誇りに思う。だが誰がなんと言おうと政略結婚ではなく恋愛結婚であった証として求婚だけは自分で全てを取り仕切りたい、それがローレンツの細やかな望みだった。
「ますます頭が上がらなくなってしまったな」
 この借りを返すべくヒルダのために出来ることはなんでもやろう、ローレンツはそう誓った。

4.マリアンヌ
 マリアンヌは窓掛の隙間から差し込んだ朝日を頼りに自分の左手を見た。ヒルダが作ってくれたと言う婚約指輪の真ん中に据えられた金剛石は本当に大粒で存在感を放っている。紛失したらと思うと恐ろしくて外すことが出来なかった。それに少し角度が変わるだけで美しく輝くので目が離せない。夢中で眺めていたので召使が自室の扉を叩く音にも気付かなかった。
 エドマンド辺境伯は家を空けていない時は必ずマリアンヌと朝食を取ることにしている。引き取られたばかりの頃は、父のことを話そうとしては涙を流して口をつぐんでしまう義父と何を話せば良いのか分からずマリアンヌは食事以外に口を使わなかった。だがいまは違う。ローレンツの話をすれば良い。自分も相当な変わり者だがローレンツはそれに輪をかけた変わり者で共に戦い、共に働いた彼の話ならいくらでも出て来る。それに宝飾品に詳しい義父がヒルダが作りローレンツに託した婚約指輪を褒めてくれるのが嬉しかった。
「マリアンヌ、手が止まっているよ。せっかくなのだから焼きたてのうちに食べなさい」
 義父に指摘されマリアンヌは瞬きをした。榛色の瞳で向かいに座るエドマンド辺境伯の皿を見てみれば、殆ど空になっていると言うのに自分の皿にはまだ乾酪入りの麺麭が半分近く残っている。二人の皿に乗っているのはエドマンド領にしかない麺麭で、二重になった麺麭生地の内側に生の乾酪をいれ軽く焦げ目がつくまで焼いたものだ。
「嫁いだらきっと朝食の献立も変わるのでしょうね」
「土地によって名産品が異なるからこそ私は巨万の富を築くことが出来たのだよ、マリアンヌ」
「ガルグ=マクやデアドラでローレンツさんからいただいたのですが……グロスタール領の茶菓子は本当に美味しいのです。だから懐かしく思うことがあってもきっと向こうの食事に馴染める筈です」
 エドマンド辺境伯はそんな風に自領への未練を断ち切ろうとする養女を見て思うところがあったらしい。

 数節後、輿入れするためエドマンド領からやってきたマリアンヌを迎え入れたグロスタール伯爵家の人々は驚愕することになる。エドマンド辺境伯が用意した嫁入り道具の中にエドマンド種の種牛と雌牛がいたからだ。ローレンツとマリアンヌは自領で酪農の振興に成功し後に"牛馬の父母"と讃えられるようになる。ローレンツはその二つ名を喜んでいなかったが彼らの代で成し遂げられた品種改良の成果はそれほどに素晴らしく、そのきっかけとなったのはグロスタール伯爵夫人となったマリアンヌの嫁入り道具だった。畳む
#真昼の月と花冠
#クロヒル
#ロレマリ
ファイアーエムブレム風花雪月無双青燐ルート準拠のクロヒル+ロレマリ小説です。
1.

 フォドラという柵に囲われた羊の群れに花火を投げ込んだらどうなるだろうか。良き羊飼いであることを望まれ、柵の中に招き入れられたクロードは己の血をどう扱うべきか迷っている。ある者はクロードに流れる血を羊を喰らう狼の血と言うだろう。
 将来、共に領地を治める同世代の貴族たちと信頼関係を構築するためクロードは士官学校へ行くよう祖父のオズワルドから言われた。パルミラには法学校と兵学校がある。だが、どちらも平民や下級貴族の子がのしあがるための施設なので王族とは関係ない。クロードは最初、集団生活に乗り気ではなかった。
「世間は偉大な書物だ。お前は本が好きなのだからまずは学校で読んでくると良い。それに運が良ければ将来の妻と出会えるかもしれないぞ」
「でも平民の女生徒だっているんだろ?」
「お前の子を産んでくれるなら身分は問わない」
 祖父は寂しいのだ。クロードを首飾りの向こうから呼んだのも顔も見たことがない叔父一家が事故で亡くなったからだ。子供は育て上げらるなら多ければ多いほどいい。頭数が揃い、縁談に使えるからだ。
 だがクロードの子はパルミラ王の血を引くことになる。ティアナは自分の故郷へ向かう我が子へ祖父がなんと言おうと勝手に結婚するな、子供を作るな、ときつく命じた。その件について既に申し出てあるのだが祖父は鼻で笑う。
 おそらく、そういったことの積み重ねの果てにクロードの母はパルミラの王子であった父の手を取ったのだ。

 遠目に見ても所在が分かるように、と言う理由なのかクロードはガルグ=マクでは肩から黄色い布をかけることになった。ディミトリは王子としてエーデルガルトは皇女として一身に学生たちの視線を集めている。だが金鹿の学級では事情が違った。視線は二手に分かれていてクロードだけでなくヒルダにも向いている。
 薄紅色の髪と瞳をした彼女はかの有名なホルストの妹だ。ホルストの勇名は首飾りの東側、パルミラの王都にも伝わっている。刀で建物を真っ二つに切ったなど虚実が混ざったものではあるが。
 そんなヒルダとクロードが言葉を交わしたのは入学して最初の自己紹介の時だ。ヒルダはその時から、後宮育ちのクロードから見ても頭のてっぺんからつま先まで完璧に仕上がっていた。後宮には一族の運命と威信を背負ってこんな風に戦わされる娘が掃いて捨てるほど存在する。
 だがゴネリル、の名を聞いて騒めく学生たちを見たヒルダは一瞬だけ表情を曇らせた。そのことに気づいたのは進行役をしていたクロードだけかもしれない。
「俺は残念ながらまだホルストさんと直に会ったことがないんだよな。ヒルダ、両親と名字以外に兄さんとここが似てる、なんてとこあるか?」
 パルミラの王都で後宮に入る娘なら高らかにここで一族について語り始める。
「私と兄さんは髪と瞳の色と名字以外ぜーんぜん違うの!両親が同じだって信じられないくらいよ!」
 だがそう言ってヒルダは朗らかに笑ったのだ。
 確かにクロードは世間を知らない。そして、あれこそが本物の笑顔だ、とクロードはその時確信した。



 ガルグ=マクに来て分かったことがある。秘密があるのはクロードだけではない。ディミトリにもマリアンヌにもリシテアにも秘密がある。秘密があるのは学生だけではない。このガルグ=マク修道院自体が非常に謎めいた場所で、大司教レアも補佐であるセテスも何かを隠している。極め付けが先日の野営訓練でクロードたちの命を救ってくれたシェズだ。彼女は何もないところから剣を生み出し、双剣を振るうと風体が変わる。自分の力の正体がさっぱり分からないのだという。
「剣はね、命の危険を感じないと出てこないのよ」
「任意で出せたら便利だよなあ」
 彼女は己が抱える謎に戸惑ってはいるが病的な悩み方をしていない。そこがマリアンヌや深夜の徘徊時によく姿を見かけるディミトリとの違いだ。
 ディミトリもエーデルガルトも従者付きでここガルグ=マクに入学している。ドゥドゥもヒューベルトもそれぞれ、主人に危険を及ぼさない存在かどうかシェズを気にしていた。彼らの慌てぶりからしてもシェズの力の源や原理はどこか怪しいのだろう。彼女が青獅子の学級を選んだのは正解だ。黒鷲の学級に行けばヒューベルトが金鹿の学級に来ればクロードが徹底的に調べただろう。
 一方でそんなどこか危うい場の雰囲気に全く呑まれていない者たちがいる。その筆頭であるローレンツとヒルダはそれぞれマリアンヌにご執心だった。勿論クロードも彼女の秘密には興味がある。だがひたすら心を配り、何かを待っている彼らはクロードと違ってそんなことを気にしていない。
 今日もマリアンヌは向かいにローレンツ、隣にヒルダという布陣で食事をしている。しかし視点を変えればローレンツが二人を独占しているようにも見える。それが何となく気に食わなかったクロードはローレンツの隣、つまりヒルダの向かいにゴーティエチーズグラタンをのせた盆を置いた。
「ここ、良いか?」
「何だ、クロードか」
「うん、いいよクロードくん」
 マリアンヌは固まってしまったが、向かいのヒルダが了承したならローレンツはもうクロードが隣に座ることを断れない。
「ここの食堂はフォドラ中の料理が食べられるのがすごいよな」
 実はこんな風に食事を自分で運んだこともなかったし、友人と会話を楽しみながら食事をするのも初めてだ。祖父オズワルドが言っていた通り、確かに世間は偉大な書物なのかもしれない。
「確かにそうだな」
 珍しくクロードの言葉に反論しなかったローレンツの目の前にはダフネルシチューがある。ダフネルはレスター諸侯同盟に属しているがそれでも他領の料理だ。彼からすれば大冒険なのかもしれない。
「ほんとほんと!私ファーガス行ったことないからゴーティエチーズグラタンってガルグ=マクで初めて食べたけどとっても美味しいよね!」
 ヒルダもローレンツも他学級に友人がいる。他国出身の学友と共に生活し他国の食を味わうことによって国は違えどセイロス教徒同士仲良くしろ、という中央教会の意図を感じる。だが、クロードの母国であるパルミラは枠の外だ。まるで真昼の月のようだ。畳む
#真昼の月と花冠
#クロヒル
#ロレマリ
2.

 パルミラの歴史は隣国から厭われ恐れられる歴史だ。頭ではそう理解していたつもりでもいざ体感してみると顔を覆いたくなってしまう。ホルストが何故あんなに学生たちから人気があるのかクロードにも理解出来てしまった。フォドラの首飾りにいる兵たちはここ百年、常に外敵に備えている。古強者が集う要塞ではあのローレンツすら緊張していた。
 戦争は始める前の下準備で概ね勝敗が決まる。諸侯から提供された物資の分配は速やかに行われるべきだが同時に間違いがあってはならない。一昼夜かかるこの作業が終わればクロードたちは援兵として配備につく。
 作業の邪魔にならないように、と言うわけで学生たちは大広間に集められていた。その大広間の中でヒルダは寛ぎきっている。壁の東側に大軍が展開しているというのに呑気に、香油の調合をしていた。手つきを見るにどうやら移液管の扱いには慣れているらしい。
「余裕だな」
「だってここが私の故郷だもの。生え抜きの人たちはみーんな私どころか兄さんがよちよち歩きだった頃のことまで覚えてるのよ?」
 手先が器用なのだろう。クロードから話しかけられていても視線は手元に集中し、香り付けの精油をこぼすこともない。彼女の周りには香油入りの小さな瓶がたくさん並んでいる。
「茴香(ウイキョウ)が結構きつくないか?」
 クロードは勝手に一本拝借して香りを確かめた。全部同じ配合なのだろうか。
「うーん、今はそう感じるかも 」
「そうか、使うのは平時じゃないのか……」
「血の匂いで鼻がおかしくなると、これくらい強くないと分かんなくなるんだよね」
 ヒルダは怒るでもなく、何でもないことのようにクロードに意見を伝えて髪をかきあげた。柑橘系の甘い香りがあたりを漂う。今作っているものとは調合が違うらしい。
 可憐で、怠け者を自称していても彼女は最前線の子供だったのだ。クロードも後宮でなんとか生き延びてきたが、ヒルダにもヒルダなりの苦労がある。
「奥が深いもんだなあ。なあ、これ俺にもくれないか?」
「そんな顔しておねだりしても、これは女性物だから駄目。クロードくんたちには別のを後で作ってあげる。楽しみにしててね」
「後でとお化けは出ないもんだぜ?」
「本当にね。あーあ、お化けでもいいからこれ嗅がせてあげたいな」
 そっと手が伸びてきてクロードから小さな瓶を取り上げた。指先まで白いその手は英雄の遺産、フライクーゲルを振るうことができる。ヒルダのような若い娘はこれまでクロード、いや、カリードの周りにはいなかった。
 母ティアナは気質だけならリシテアに似ている。見た目は全く似ていないが、二人とも真面目で繊細でいちいち傷つく。だが怒り続けるだけの力強さがある。だから父の手を取り首飾りを越え、パルミラに渡ったのだ。救われない思いを抱える人々は新天地やそこで生まれた子供に縋る。美しい物語の主人公としては正しいのだろう。
───だがクロードはまだ自分の出生に納得できていない。



 あのホルストが救援を要請したのも納得できるような大軍が首飾りの近辺に陣を敷いていた。彼らを諦めさせることが目標だがそれでも激戦が予想される。人間同士が殺意を持って直接ぶつかり合う戦場で、名もなき兵士たちが縋るのは回復魔法が使える修道士だ。効率化を求めると人間は人間味を失っていき、戦場では修道士と伝令兵は敵から真っ先に狙われる。クロードはローレンツを修道士の資格を持つマリアンヌの副官に指名していた。
 他の者には恐縮するばかりなのだが彼女はローレンツが相手の時は感情を露わにする。ローレンツ自身は己の美徳や魅力がそうさせるのだ、と思い込んでいるが第三者から見れば彼の個性に耐えかねた、が正しい。当たり前だがマリアンヌの内にも様々な思いが渦巻いている。不自然なまでに殻にこもっているよりずっといい、とクロードは思う。
 日が暮れると戦闘は強制的に終了する。暗くなってしまえば射手はまさに打つ手がない。兵種の都合で早く撤収できたクロードは竜舎から飛竜を一頭拝借し、砦の外に向かった。撤収してくる兵を直接労いたかった───飛竜の件で苦言を呈されたらそう言い訳をするつもりでいる。
 本陣の奥の奥、今はまだ自国の兵に向けてしか掲げられていない遠征軍総大将の軍旗を確かめたかった。あの大軍を用意したのは誰なのか、クロードにしか本当のところがわからない。眼下にいる兵たちを大声で労いながら飛竜の手綱を操り、その場をさり気なく離れる頃合いをうかがっていた。 
「クロード!何をしている!早く戻れ!」
 だがクロードは地上からよく通る声で話しかけられた。なんとローレンツにはあの過酷な一日を終えてもなお、他人を怒る元気が残っているらしい。
「よう、ローレンツにマリアンヌ、生きててくれて嬉しいぜ」
 近接戦闘をしないクロードと違って二人の服は他人の血で黒く汚れている。ローレンツが浴びたのは返り血でマリアンヌの服についているのは怪我人の血だ。二人ともヒルダが調合してくれた香油は使っているのだろうか。
「当たり前だ。僕もマリアンヌさんもこの後、爵位を継ぐのだからな!」
 爵位を継ぐ、というローレンツの言葉を耳にしたマリアンヌは眉間に皺を寄せた。どんな感情であれ、彼女の場合は露わにした方がいい。
「大事な身の上なら早く戻ればいいのに」
「僕は貴族だぞ?平民を先に安全な場所へ逃すにきまっている!それに後備えは武人の誉れだ!」
 ローレンツは手にした槍の柄で地面を突いた。賛同している時も異議を唱えたい時も槍兵はあんな風に地面を突く。全ては文脈次第なのだ。
 クロードは素朴さと無知で己の正当性を示すようなやり口を好かない。それに双眼鏡と活版印刷を禁じるセイロス教の教えも馬鹿馬鹿しいと思っている。だがフォドラを迷信の徒と見下すパルミラの者たちと最後の最後まで戦場に残り、撤退する兵たちを守る後備えを喜んで務めているローレンツ、どちらの人間性が優れているのか。答えは口に出すまでもない。畳む