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雑多です。
#かのひとはうつくしく
#クロヒル
#ロレマリ
9.interval(side:C)

 カリードの父と母が出会ったのはまだ父が王位を継ぐ前のことで思い切って国を捨てた母もまさか自分の夫が王になるとは考えもしなかったようだ。しかし大国の王ともなれば情勢を安定させるために妻をたくさん娶らねばならない。そこからカリードの苦難は始まっている。王宮で若き日の父の不始末について八つ当たりをされながら育ち異母兄弟たちから追い詰められいよいよ進退が極まった時に顔を見たことすらない母方の祖父からフォドラへ呼び出された。カリードは王宮という閉ざされた世界からリーガン家を経由しクロードという名で学校という閉ざされた世界へ移り住むことになった。

 綺麗事で秘密を覆い隠すセイロス教会のお膝元での暮らして何になるのかと祖父相手に粋がってみたもののガルグ=マクでの生活はクロードの想像を超えていた。閉ざされた未開の国と思っていたがとんでもない。紋章や英雄の遺産への興味は尽きなかったが何よりもクロードの心を動かしたのは士官学校という場に集う人々の来歴だった。
 兵士ですらない孤児のツィリルが前線であるフォドラの首飾りからガルグ=マクまで流れ着いていることを知りクロードは己の無知さを恥じた。異国出身であろうと気にしないということを周りに示すため敢えてツィリルに身の回りの世話をさせているレアや孤児であり紋章を持たぬ身でありながら騎士団の団長を務めるアロイスそれに戦場をよく知る傭兵上がりの担任ベレトはクロードの蒙を啓いた。組織の長としてどう振る舞うべきか彼らから学べた気がする。
 学友たちも負けていない。典型的なフォドラの貴族だと思って正直なところ見下していたローレンツは印象より遥かに懐が広いしイグナーツはフォドラの外でも通用するような素晴らしい絵を描く。ラファエルは許すことの強さを教えてくれた。レオニーと共に過ごさなかったら慎ましく生きることと誇り高く生きることが両立出来ることを知らなかっただろう。残り時間を見据えて必死に生きるリシテアの強さ、大きな秘密に押しつぶされそうになりながらも戦場を駆け回るマリアンヌの勇敢さには感銘を受けた。そしてパルミラの王宮にまでその名が伝わるホルストの妹ヒルダがいたことに、彼女が小柄で陽気であることに驚いた。

 そんな人々に囲まれて子供でいられる最後の一年を満喫していたクロードだが穏やかな日々は終わりを迎えつつある。
「心当たりは全くないがエーデルガルトは会う前から俺が嫌いだったんだろうな」
 クロードの言葉を聞いてディミトリがため息をついた。
「……確かに宣戦布告の内容は個人的な好き嫌いで始めたのかと思うくらい支離滅裂だったが……」
 きちんと整理整頓されたディミトリの部屋で二人は今どうやって学生たちを全員無事に帰宅させるか相談をしていた。皆ペトラのように帝国の人質になるわけにはいかないからだ。青獅子の者たちは帝国軍の追跡を避けるためオグマ山脈を縦走し全員でまずイングリットの故郷であるガラテアを目指す。ところが金鹿の者たちは全員でというわけにいかない。クロードやマリアンヌのような北部出身の学生の他にアミッド大河沿いに自宅のある学生が沢山いる。だがクロードは何としても北上しデアドラに戻らねばならない。
「俺たちは冷静になって全員帰宅させてやろう」
「そうだな。こちらは全員一緒に動けるがクロードの方は二手に分かれるから大変だな。船は出してもらえそうなのか?」
 だからクロードはヒルダとはここでお別れだ。クロードはダブネルまでディミトリたちと行動を共にするが東部出身の彼女はリシテアたちと共にガルグ=マクからアミッド大河を目指す。
「船は出してくれるだろうが対岸が帝国領だからなあ……」
「東に向かう者たちが心配なのは分かるが出来ることをやろう。彼らの無事は信じるしかない」
 お気に入りの妃ティアナが産んだたった一人の王子が潜入中ということでクロードの父がフォドラ方面への軍事行動に制限をかけている。だからきっとゴネリル家には船と騎士団を出す余裕があるはずだ。
 修道院の敷地内にいる者たちに敵襲を知らせる鐘が鳴り響いたその時、クロードは自室で寝台から敷布を剥がし切れ目を入れていた。山の中に何箇所か逃走用物資の集積場所を作って用意したが例え布きれ一枚であろうと余計に持ち込んでおきたい。少し手を加えておけばすぐに割いて包帯にできるし風避けに使いたいときはそのままかぶれば良い。冬山の中ではたった一枚の布が命を救う場合もある。
「クロードくん!先生が呼んでる!大広間だよ!」
「他の皆は?」
「寮に残ってるのはクロードくんだけだから迎えに来たの!」
 ヒルダは僅かに見えている床の隙間を飛び石を伝うように器用に伝ってクロードの元へやってきた。白く小さな手が褐色の手首を力強く引っ張り寝台から立ち上がらせる。そのまま手を離さずクロードのを引っ張りながらすたすたと大股の急ぎ足で廊下を歩いていくので先ほど切れ目を入れていた布は畳む暇もなく左手で鷲掴みにしたままだ。
「待ってくれ!肩が!」
「え、でも急がなきゃ!」
 よほど焦っていたのかヒルダは自分がクロードの手首を掴みっぱなしであることに気付いていなかったらしい。クロードとしても二人きりであったし手を離してほしくないような気もしたが肩が壊れては本末転倒だ。
「本当に力が強いな……腕がもげるかと思った……」
 彼女の身に宿る紋章のせいだとわかっていてもこの小さな身体のどこから力が湧いてくるのかと不思議な気持ちになってしまう。
「ひどーい!」
「流石に大広間までの道は手を引かれなくても分かる。それと十秒だけ時間をくれ」
 クロードは軽く肩を回し鷲掴みにしていた敷布を両手で広げた。先ほど入れた切れ目のところを持ち前後に引っ張って半分に割いていく。これで一枚の布は二枚になった。片方は素早く畳んで上着の隠しにしまいもう片方を不思議そうな顔をしてクロードを見つめているヒルダの桃色の頭に面紗のように被せてやる。頭から腰の辺りまで覆われるだろうと思っていたがヒルダが小柄なせいか布が顔に被さり口元まで隠れてしまう。
 ヒルダのその姿がクロードにパルミラで見合いに臨む貴族の女性を思い起こさせた。貴族の女性は見合いをする際に面紗で顔を隠す。当然前が見えないので兄弟やいとこが付き添い二人きりになることはないし正式に婚約するまで見合い相手といえども素顔を見ることは許されない。結婚しても構わないと思えば面紗を引っ張り上げてその時、初めて素顔を見せる。
「ささやかだけど餞別だよ。切れ目が入れてあるから包帯にもしやすいしこの大きさなら風よけにも使えるだろ」
 ヒルダが頭巾のようになっている部分をそっと引っ張って顔を出した。ここはフォドラなのでヒルダの行為には何の意味もない。
「ありがとうクロードくん。怪我をしないで帰る自信がないからとっても嬉しい」
 微笑んではいるが髪と揃いの桃色の瞳には闘志が宿っていた。クロードは以前、日頃出さない本気を出せ、とヒルダを焚きつけている。だがクロードはヒルダが本気を出して戦う姿を見ることはできない。ヒルダが東方面へ逃げる学生たちのまとめ役になってくれたようにクロードも北のダフネルを目指す学生たちのまとめ役になっているからだ。畳む
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10.interval(side:M)

 エドマンド辺境伯は書斎に通された妹の娘を生まれて初めて見た瞬間に泣いた。目をきつく強く閉じたせいで頬にこぼれ落ちた涙を手巾で拭きながらもすぐ書類を取り出せたことから分かる通りずっと前から覚悟して用意していたのだろう。自分や妹と同じ水色の髪そして彼女の父と同じ薄茶色の目をした娘は言われるがままに署名しマリアンヌ=フォン=エドマンドとなった。
「ただいま戻りました」
 マリアンヌが帰宅の挨拶をするため養父の書斎に顔を出すとエドマンド辺境伯は棚の上に作った小さな祭壇の蝋燭に火を灯していた。マリアンヌの両親を偲ぶもので彼女の実母が家を出る前に残していった髪の毛と彼女の実父がエドマンド辺境伯に当てた直筆の手紙が飾ってある。彼女の亡骸は見つからず妻の死に関係があったであろうマリアンヌの父は失踪したのでこの髪の毛と手紙しかマリアンヌとエドマンド辺境伯には残されていない。
「おかえり。リーガン家のひよっこはなかなかやり手のようだ。誰か一人くらい捕虜になるかと思ったが皆見事に逃げおおせた」
 養父は皆、と言ったのできっと東に逃げた者たちも無事に帰宅できたのだ。
「はい、クロードさんはすごい方です。でもすごい方はクロードさんだけではありません」
「マリアンヌ、入学前は友人など出来るはずもないと言っていたがそんなことはなかっただろう?」
「はい……」
「色々大変な目にもあったとは思うがマリアンヌをガルグ=マクへやって良かった。私があいつと知り合ったのもガルグ=マクでね……」
 マリアンヌはヒルダと選んだ手巾を養父にそっと差し出した。養父は滅多にマリアンヌの父について語らないのだが語り始めると泣いてしまうことが多い。
「お養父さま、そんなに話すのがお辛いのでしたらその、私の父のことは……」
「いいや、話したいんだ。少しずつしか話せないが……いつも取り乱してしまって申し訳ない。明日の午後仕立て屋が来るまでゆっくり休みなさい」
「仕立て屋……ですか?」
「そうだ。リーガン公の葬儀に間に合うように新しい喪服を作りなさい」
 エドマンド辺境伯は同盟きっての論客で交渉の場に立てば彼に勝てる者は殆どいないと言われている。ローレンツの父であるグロスタール伯もマリアンヌの養父は敵に回したくないのだという。多分こういうところが原因だ。

 数節後、マリアンヌは作りたての喪服を身に纏って養父であるエドマンド辺境伯と共にデアドラのリーガン邸にいた。侍女を帯同させているのでガルグ=マクにいた頃のように編み上げた部分から髪の毛がこぼれ落ちることもない。リーガン邸は長く盟主を務めていたオズワルドを悼む弔問客でごった返している。その中に見覚えのある髪型をした桃色の頭が見えた。
「私はリーガン家の家臣たちと少し話をしてくる」
「あの……私は……」
 マリアンヌは辺境伯の地位を継ぐ者として養女となったので養父の出る会合には帯同せねばならない。眉尻を下げている養女を見て養父は実母と同じ場所に笑窪を浮かべた。
「お友達が来ていたのだろう?せっかくだから話しておいで。私は少し時間がかかるからね。ああ、弔い酒は飲んでも構わないがもう無理だと思ったら私の名を出してきちんと断りなさい」
 許可を得て広い邸内を再び探し歩いたがヒルダはなかなか見つからない。もしかしたら人違いなのかもしれなかった。マリアンヌは後継者として顔と名を売らねばならないがヒルダはそんなことをする必要がない。きっとゴネリル家を代表してリーガン公の葬儀に出席するのはヒルダではなく彼女の兄か父だ。
「マリアンヌさん!」
 騒々しい邸内でもよく通る声がマリアンヌの鼓膜を叩く。振り向いてみればそこに喪服姿のローレンツが立っていた。見慣れた制服姿ではないので少し違和感がある。
「ローレンツさんお久しぶりです。あの……ヒルダさんを見かけませんでしたか?」
 ローレンツは給仕たちが注いで回っている弔い酒を空けると首を横に振った。脱出行の際に伸びた紫の髪が長さはそのままに整えられている。
「ふむ……クロードとリシテアさんには会ったがヒルダさんは見かけていないな。良かったら探すのを手伝わせてもらえないだろうか?」
 コーデリア家はリシテアが主体となって近々爵位を返上するのだという。その関係でデアドラに来ていてもおかしくはない。
「ありがとうございます。ヒルダさんから手紙はいただいたのですが直接お会いできるならお会いしたくて」
 ローレンツはマリアンヌの言葉を聞いて小さく頷いてくれた。彼はいつからかマリアンヌの言葉を黙って待ってくれるようになった。背が高いローレンツが見渡してくれればすぐに見つかるような気がするし口籠もってしまうマリアンヌが声をかけるより本来は朗々と語るローレンツが声をかければすぐに気づいてもらえるだろう。ところが中々ヒルダは見つからない。
「人違いだったのでしょうか?」
「いや、マリアンヌさんが彼女を見間違えるはずはない。今日は前夜式でごった返しているから会えないだけで明日には貴賓席で会えるだろう。リシテアさんの居場所なら分かるが挨拶していくかい?」
 マリアンヌが頷くとローレンツは弔問客用の軽食が用意されている部屋に連れて行ってくれた。そこにはリーガン家の使用人たちが総出で作った菓子や弔い酒用の肴がおいてある。
「また会いましたね、ローレンツ。ああ!マリアンヌ!元気にしてましたか?この揚げ菓子最高ですから食べた方がいいですよ」
 リシテアは生地に干し葡萄が練り込んである揚げ菓子を頬張っていた。
「ええ、私は元気です。リシテアさん、ヒルダさんを見かけませんでしたか?」
「あれ?ヒルダ居ないんですか?私はここについたばかりの時に会ったんですが……帰っちゃったのかもしれませんね。まあ焦らずとも明日にはヒルダにもクロードにも貴賓席で会えますよ」
 リシテアはローレンツと同じことを言った。そもそもデアドラでヒルダと会う約束をしていたわけでもない。それでも少し残念に思いながらマリアンヌはようやく給仕から弔い酒受け取り杯に口をつけた。死者に捧げる杯なので空ければ空けるほど良いとされている。
「私だけお会いできないなんて……」
「いやマリアンヌさん、僕もヒルダさんに会えていないのだからそれは違う」
 空きっ腹に流し込んだせいか酒の周りが早くマリアンヌの頬は赤く染まった。給仕がまたマリアンヌの杯に酒を注いでくれたので空けようとするとローレンツにそっと杯を取り上げられてしまった。
「それ以上は明日に障りが出てしまう」
 おかげでマリアンヌも養父からもう無理だと思ったら断るようにと言われていたことを思い出せた。
「すいません、ありがとうございます。ふふ……ローレンツさんは私が養父の名を出さなくても止めてくれるのですね」
 マリアンヌは酒を飲むと気持ち悪くなってしまうことの方が多いのだが今日は違った。いつも心から離れない重りはどこへ行ってしまったのだろう。リシテアが絶賛していた揚げ菓子のように心がふわふわと軽い。
「マリアンヌさん、それは当然のことだ。貴族というか男として守らねばならない一線がある」
 その後のことをマリアンヌはよく覚えていないのだがきちんと養父と共にデアドラの上屋敷へ帰り帯同していた侍女にずっとローレンツの話をしていたらしいということは翌朝養父から聞いた。畳む
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11.interval(side:L)

 他人の秘密は財産と同じだ。握る秘密の数が多ければ多いほど自分の意のままに過ごすことが出来る。ローレンツは初対面の時からクロードを訝しみ何とかして秘密を暴こうとしていたがその結果思いもよらない秘密をその手に握ってしまった。クロードのことだけなら計算づくで淡々と処理するだけだがヒルダの名誉も絡んでいる。
 釘を刺すような祖父は亡くクロードですら無視ができないようなリーガン家の年嵩の家臣たちはエドマンド辺境伯と話していたし国境を守るゴネリル家からはヒルダしかデアドラに来ていない。きっと今後は身動きの取れない父と兄に代わってヒルダが様々な場所に顔を出すのだろう。将来の円卓会議をクロード、マリアンヌ、ローレンツと共に彼女が担うのかもしれない。
 そんな遠い将来のはともかく年頃の男女のことであるし葬儀の場というのはただでさえ感情が昂るものだ。ローレンツにしてもリーガン公を悼む気持ちとクロードへの苛立ちが混ざりあっている。弔い酒と共に苦々しい思いを飲み下していた時にローレンツはマリアンヌを見かけたのだ。ガルグ=マクにいる時と違い身の回りの世話をする侍女が帯同しているのか今晩の彼女は美しく髪を結い上げている。一瞬で苛立ちが吹き飛び給仕が注いだ弔い酒を今度は心を落ち着けるために飲み干した。
 マリアンヌは当然ヒルダに会いたがっているが握ってしまった秘密がローレンツに歯止めをかける。少し早めにリーガン邸に到着しクロードと一言二言話したローレンツは父であるグロスタール伯に連れられ共に他の弔問客たちと歓談していた。その場を学友たちがいるので挨拶を、と言って中座した時にローレンツはクロードが姿を消していることに気づいた。
 そして彼を探すうちに物陰で抱き合う喪服姿の二人を目撃し今に至る。気づかないふりをして通り過ぎたが未だに弔問客のうろつく一階や二階に戻っていないなら二人は客が入れないようになっている三階にでもいるのかもしれない。その先のことはマリアンヌと共にいる今は考えたくなかった。
「すいません……私があの時すぐヒルダさんに声をかけておけばこんな風にローレンツさんにご迷惑をかけることもなかったのに」
「迷惑だなんてとんでもない。中々お役に立てなくて申し訳ないね」
 杯を持って邸内を歩いていると周りからどうしても献杯を、と言われる。ローレンツは可能な限りマリアンヌに代わって献杯しているつもりだったがそれでもマリアンヌに全く呑ませずに済んだわけではない。それなりに弔い酒を口にしていたせいだろうか。彼女の顔はかなり赤くなっているし足元も少しおぼつかなくなっている。ローレンツも父であるグロスタール伯と共にリーガン邸を訪れているのでとてもではないがクロードやヒルダのような振る舞いは出来ない。ヒルダを探すふりをやめて本当にエドマンド辺境伯を探した方が良さそうだった。
「マリアンヌさん、今晩はもうお養父上と上屋敷へ戻った方がいい」
 マリアンヌによるとエドマンド辺境伯はリーガン家の家臣たちと話がある、とのことだったのでローレンツは改めて足元のおぼつかない彼女に肘を差し出し会議が出来そうな大きさの部屋を順ぐりに確かめていく。三部屋目でようやくローレンツはマリアンヌと同じ水色の髪をした壮年の男性を見つけることが出来た。円卓会議に帯同した際に顔を見たことがあるので人違いではない。話し合いはちょうど終わったところのようだった。
「失礼します、エドマンド辺境伯」
 ローレンツはエドマンド辺境伯とマリアンヌが並んでいるところを初めて見た。二人を見比べてみると顔立ちや体つきがよく似ていて実の親子ではないにしても血縁関係にあることが分かる。ただし二人が醸し出す雰囲気は全く違う。酒に酔っていない時のマリアンヌが常に何かにおびえて伏し目がちであるのに対しエドマンド辺境伯は自信に満ち溢れ何者にも譲らない気の強さを感じる。
「君はグロスタール伯の嫡子だね」
「はい。ローレンツ=ヘルマン=グロスタールです」
 ローレンツはクロードが現れる前には五大諸侯の家に生まれた唯一の紋章を受け継ぐ男子であったのでエドマンド辺境伯が自分の名を知らぬはずがない。しかし彼はローレンツの名を呼ばなかった。彼の口元は笑っているが酔ったマリアンヌの白い指先が添えられている肘とローレンツの顔を見比べていてその二点間を行き来する視線がまるで刃物のようだ。ローレンツの肉体も危険を感じているのかマリアンヌの代わりにかなり弔い酒を煽ったと言うのに酔いが急激に冷めていく。
「まあ、お養父様!こんなところにいらしたのですね、ローレンツさんが探していたのでここでお会いできて本当に良かったです」
 酔っているマリアンヌの頭からは誰のためにエドマンド辺境伯を探していたのかがすっぽ抜けてしまったらしい。養女の毒気のない言葉を聞いてローレンツの言動には何ひとつやましいところがない、と判断しエドマンド辺境伯は肘とローレンツの顔を交互に見ることをやめた。
「マリアンヌは少々酒が過ぎたようだね。デアドラは水路が多いから酔って歩けば命取りだ。感謝するよローレンツくん」
「いいえ、名誉ある貴族として当然のことです」
 マリアンヌがエドマンド辺境伯の腕を取り二人が退室するまでローレンツは生きた心地がしなかった。それもこれも全てクロードのせいだ。ローレンツはマリアンヌがくれた手巾で汗を拭きながら明日は絶対にクロードに何か言ってやろうと誓った。

 翌日、葬儀の会場であるデアドラ中央教会に訪れたローレンツは神妙な顔をして喪主として振る舞っているクロードの足の甲を貴賓席に着席しているのを良いことに他の者には分からないように思いきり強く踏んだ。一瞬、クロードは後で仕返ししてやるから覚えていろ、という顔をしてローレンツを睨みつけてきたがどうやら葬儀が終わるまでの間に同じく貴賓席に座っていたヒルダとマリアンヌの会話を小耳に挟んだらしい。教会での一連の儀式が終わるとクロードは慌ててローレンツを人気のないところへ連れ出した。
「マリアンヌのこと誤魔化してくれたんだな」
「ふん、どうやら心当たりがあるようだな」
「言っておくがあの状況じゃ風呂は使えないしうちはじいさんと俺の男所帯で子馬がない。だからそこまでやましいことはしてない」
 子馬とは女性が足や下腹部を洗う時に使う椅子型の器具のことだ。跨って使うので子馬と呼ばれる。ローレンツは自分の頬に熱が集まっていることを自覚した。きっと顔は真っ赤に染まっていることだろう。
「君、なんてこと言うのだ!そもそも前夜式の最中に姿を消したから僕相手に取り繕う羽目になっているのだぞ!」
「ヒルダのためにもまずお前の誤解を解かないとまずいだろう!」
 ローレンツは頭が痛くなってきた。そこまで、という含みのある表現も気になったがそもそも当事者抜きに男二人でこんな言い争いをしていることが間違っている。
「分かった。この話はこの場限りにしておく。言っておくがヒルダさんのためだぞ」
 クロードからは珍しく恩にきる、と言われたがそんなことより頼むからもっと上手くやってくれ、と言うのが身分や立場を全て取り去ったローレンツの本音だった。畳む
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 12.interval(side:H)

 クロードは三つ編みを切り落とし少し大きめの黒い喪服に身を包み喉には白い襟締を付けていた。彼は二十歳にもならないというのにリーガン公の葬儀が終わればレスター諸侯同盟の盟主になる。彼がいなければローレンツの父グロスタール伯がその立場についていただろう。
「遠くから来てくれてありがとうな」
「クロードくん大変だったね。兄さんと父さんはやっぱり前線を離れられなくて……」
 リーガン公の訃報を知ったゴネリル公は娘のヒルダに飛竜を宿場町で乗り継ぎデアドラへ行くよう命じた。ゴネリル公もホルストもリーガン公の死に乗じてパルミラ軍が攻勢をかけてくる可能性が高く前線から動くことができない。いつもなら面倒臭がって言うことを聞きたがらないヒルダだが今回ばかりは二つ返事で引き受けた。ゴネリル家がクロードを支持していることを世間に知らしめねばならないしデアドラで買い物をしたかったし別れ際に思わせぶりなことをした理由をクロードから直接聞きたいと思ったからだ。
 当然喪服姿では長時間の騎乗など出来るはずもないのでヒルダはデアドラの上屋敷に寄って持参した喪服に着替えている。いつ必要になるか分からないのだからと作らされた真っ黒で地味な喪服に白い襟締を付けていてもクロードはすぐにヒルダのことを見つけた。
「取り敢えず一杯どうだ?」
 弔い酒をすすめてきたクロードの目元には長い睫毛のせいで影が出来ていたがそれでも隈を隠しきれていない。
「いただこうかな、喉乾いちゃったし」
「美人に献杯して貰えてじいさんも喜んでるよ」
「他の人にも同じこと言ってるんでしょ?」
「はは……手厳しいな……」
 リーガン家が用意した弔い酒は口当たりが良く飲みやすかった。きっと故人が決めたのだろう。クロードが選んだならもっと強い酒にしたはずだ。
「誰か来てる?」
 クロードは正確にヒルダの意図を察しリシテアとローレンツがいる、と教えてくれた。マリアンヌが到着していないのは残念だが共にガルグ=マクからアミッド大河に向かった仲間であるリシテアが来ているなら絶対会っておきたい。
「リシテアは俺にしか用事がないからもう話せると思うぜ。あいつは酒より甘味だから軽食を置いてあるところにいるんじゃないかな」
 ローレンツはグロスタール伯に帯同しており葬儀の場に集まってきた者たちに用事がある。おそらくヒルダと世間話をする余裕はないだろう。ヒルダは杯を手にリシテアの元へ向かった。彼女は船上でヒルダに詳細を教えようとはしなかったが爵位返上の件と言いコーデリア家ではおかしなことが起きている。
 リシテアはクロードの言う通りの場所でデアドラの銘菓を堪能していた。おそらく既に全種類味見して気に入ったものをお代わりしている。
「ねえいつまでデアドラにいるの?お葬式が終わったら一緒にお買い物しない?」
「そうですね。次にいつデアドラに来られるかわかりませんから書店には行っておきたいです」
 実にリシテアらしい答えが返ってきた。明日に備えてそろそろコーデリア家の上屋敷に戻ると言う彼女と約束を取り付けたヒルダは他の弔問客に挨拶をしつつ友人や知人が来ていないのかリーガン邸の中を再び探し始めた。ゴネリル家の者がきちんと出席していると周りから認識してもらわねばならない。
 思い出話に花を咲かせている者は皆歓談用の椅子や卓が置いてある部屋の中央に集まっている。まだ挨拶をしていない者はいないかとヒルダが部屋の隅を眺めた時、月が明るいせいか質の良い織物で作られた窓掛の奥に人が隠れているのが見えた。露台への出入り口として作られたかなり大きな窓の窓掛なので葬儀の場を狙う輩が身を潜めるのにはちょうど良いのかもしれない。
 追悼のために百合の花を活けた花瓶が飾ってある卓の隅にヒルダはそっと自分の杯を置いた。相手が固い仮面で顔を隠している場合は硝子の杯で叩くより直接顔面に握り拳を叩き込んだ方が効果が高い。気付かれないようにそっと窓掛に近寄っていく。この部屋にいるのは酔っぱらいと給仕ばかりで助太刀は望めそうにないから一撃で仕留めねばならない。潜んでいる者の正体を確かめるべくヒルダは窓掛の縁にそっと手を掛け引っ張ると褐色の手が見えた。
「え?クロードくん?」
「え、あ、ヒルダ?まずいんだ……物が二重に見える」
 ヒルダは慌てて人に見られない様にそっと窓掛けの内側に入った。物が二重に見えるのは失神の前兆だ。クロードは人前で失神するわけにいかないと思って咄嗟に隠れたようだがそんな判断をする時点でもうおかしくなっている。
「平気なの?」
 そう問うた時にはクロードはもうヒルダに縋りついて失神していた。脱出行の疲れが取れないうちにリーガン公がなくなり精神に負荷がかかったせいだろう。強がってはいるがクロードはヒルダより年下で彼から聞いた話によると同盟諸侯の名家の者として育てられていたわけではない。長く祖父に仕えていた家臣たちに言うことを聞いてもらうだけでも大変なはずだ。
 ヒルダはクロードが前のめりに倒れて床に頭をぶつけないよう抱きかかえてやった。クロードの鼓動が直接ヒルダに伝わってくる。修道士の資格を持っているマリアンヌほど上手く判断はできないが少し鼓動が早めのような気がした。そして喪服ごしに触れた身体はやはり細い。
 クロードたちは帝国軍の追手をかわすために街道を使わずオグマ山脈をダフネル領を目指して縦走した。ヒルダも山岳地帯であるフォドラの喉元を要するゴネリル領育ちだから分かるが登山は本当に大変なのだ。しかも彼らが縦走したのは雪山で温暖なデアドラに住んでいたクロードにはさぞ辛かったことだろう。ヒルダはそっと薄い背中を喪服越しに撫でた。あと少し様子を見て意識が戻らなかったら流石に助けを呼ばねばならない。でももう少しヒルダだけでクロードのことを労ってやりたかった。
「クロードくん、一人ぼっちは大変だねえ」
 聞こえているかどうかは分からないがヒルダはクロードの耳元で囁いた。ヒルダの父ゴネリル公が亡くなったとしてもヒルダにはホルストがいる。そのことを思えば入学当初のローレンツの焦りも分からなくはないのだ。彼も一人っ子でグロスタール伯が亡くなれば全ての責任を彼一人で負わねばならない。だから共に自領を治めてくれる配偶者を探して躍起になっていたのだ。迷惑行為になっていたが。
「でも今だけは私が一緒にいるからね」
 だがリーガン家とゴネリル家の間には何の話もないのでクロードが意識を取り戻し窓掛けを捲れば二人はまた単なる同窓生に戻る。ヒルダの背中に回された指が微かに動いた。どうやら意識が戻ったらしい。
「すまん!ヒルダ!」
「頭打たなくて良かったね。それとどうせなら御礼言ってくれない?」
 クロードが頭を預けていた肩が急に軽くなる。大丈夫そうだと察したヒルダがそっと離れようとした時、背中に回されたクロードの腕に力が入った。
「ごめん、ありがとう。もう大丈夫だ」
「ねえ……人が入って来られないようなところはないの?」
「えっ……その、それって」
「襟締、きつく結びすぎなのよ。解いて休まないと」
 ヒルダは喪主が他人の前で服装を乱すわけにいかない、と言う話をしているのだがクロードの反応を見るにあの餞別はそういうことだったのだろう。畳む
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13.A-(side:L)

 冬のオグマ山脈の寒さは皆の身体を痛めつけたが修道士の資格を持つマリアンヌとメルセデスの活躍により誰も手足の指を失うことなく帰郷することが出来た。魔道学院に続き士官学校も最後まで通うことが叶わなかったローレンツは暖炉の火に照らされながらグロスタール家が各地方に放っている密偵からの報告書を読んでいる。どうやらファーガスで政変が起きたらしい。ディミトリが亡くなった、逃亡した、と情報がかなり錯綜している。共に冬山を踏破したファーガス出身の者たちのことを思うとローレンツは心が痛んだ。皆ディミトリ王に仕える日を楽しみにしていたのだ。
 ローレンツの掌に円形の魔法陣が浮かぶ。暖炉で燃やせば燃えさしが残る可能性がある。読み終わった報告書を暖炉ではなく掌の上で完全に灰になるまで燃やした。紙は貴重だが仕方ない。近々また円卓会議が開かれる。その際にグロスタール家が本当はどこまで事態を把握しているのか気取られてはならない。ローレンツは幼い子供の頃から物覚えを父から試されながら育っていた。すれ違った者の服装やちらりと見せられた紙に書いてある文章などをよく見て覚えておく遊びだと思っていたが自然と訓練されていたらしい。そんなこともあり灰となった報告書の中身はローレンツの脳内に残っている。ある密偵は従者が命懸けでディミトリを逃したと報告したが他の密偵はディミトリは処断されたと報告した。
 帝国軍の侵攻から命からがら逃げ帰った士官学校の学生たちはファーガスの者であれレスターの者であれどうしても大人たちに信じさせねばならないことがある。それは敵が身分や姿形を乗っ取り身体を操ることだ。魔法であればあまりに高度すぎて荒唐無稽すぎてローレンツにしても見ていなければ信じられない。ディミトリが再び現れたとしてそれが本物のディミトリなのかどうかも考える必要がある。もし敵がローレンツの身分や姿形を乗っ取ったらどれほど無念だろうか。オックス家のモニカは彼女の身分と姿形を乗っ取ったクロニエという者が迂闊だったおかげで死後といえども名誉は回復されたが同じ目にあったらと考えるだけでも血の気が引いてしまう。それを避けるためにはどうふるまうべきなのか考える必要がある。ルミール村で見かけたエーデルガルトの周りにいたような怪しい魔道士を遠ざけねばならない。大人たちが信じなかったとしてもクロードに必ず時間を作らせ二人で対策を練る必要があった。
 ローレンツには跡取りとしてデアドラで名と顔を売るように言われる時と父の名代として他の土地を訪れたり自領を治めねばならぬ時があり円卓会議の度に必ずデアドラへ行けるわけではない。マリアンヌも似たような立場で円卓会議に帯同すれば必ず彼女と会えるというわけではなかった。分かっていてもリーガン邸の応接間に彼女の姿が見えないとローレンツは残念だと思ってしまうし自分が不在であった時にマリアンヌがどう感じているのかが気になってしまう。
 父であるグロスタール伯と共にリーガン邸の応接間に通されるとエドマンド辺境伯が一人静かに会議が始まるのを待っていた。今回は残念ながらマリアンヌは帯同していないようでそうすると若輩者であるローレンツは口を噤むしかない。
「グロスタール伯、人払いを願いたい」
 マリアンヌと同じ水色の髪をしたエドマンド辺境伯にそう話しかけられたグロスタール伯はローレンツと同じ紫色の瞳で彼を見つめた。
「ここにいるのは辺境伯と私と私の息子だけだが」
「そう、ご子息がいらっしゃるので人払いを願いたいのです」
「私がその話を息子の耳に入れるべきと判断したらどうするのかね」
 グロスタール伯は淡々とした口調でエドマンド辺境伯に異を唱えた。一体二人で何の話をするつもりなのか。
「それはご自由に。ですが私がご子息に聞かせたくないと考えていることはご理解いただきたい」
 父はエドマンド辺境伯に一応反論したがそれでも後でローレンツに内密の話を教えてくれる保証などない。幼い頃からここがこう言う場だとは知っていたが士官学校でそれぞれの家の後継者たちと親交を深めた後のローレンツには耐えがたく自分から退室を求めた。

 その晩、円卓会議を終えたクロードと話すためローレンツはまだデアドラに残っていた。クロードはリーガン邸の他にもデアドラ市内にいくつか拠点を持っていてローレンツはそのうちのひとつに足を運んでいる。
「ああ疲れた!いずれ慣れるんだろうが爺さんが生きてた頃とは大違いだ」
 クロードは踵が高く足の甲に飾りがついている婦人物の靴を手に取った。手持ち無沙汰なのか褐色の手は買いもしない売り物を弄り回している。ローレンツたちは地味な平服に身を包み本物の靴屋で話し合いをしていた。何故靴屋を拠点にしているのかクロードに問うたら薬屋だと分かり易すぎるから、という答えが返ってきたので本当になんの意味もないらしい。
 代行を務めていた時のように祖父オズワルドの許可を得た内容ならば諸侯たちも納得するがどんなに些細なことであってもクロード独自の発想ならばきっと皆納得しない。彼らを説得し新しいことを始めるのはさぞ骨が折れることだろう。
「毎度思うのだが……僕がここで君から聞いた話を父に報告したら、とは考えないのか?」
「確かにお前って大した弱みもないし買収しにくいし完全に操れるとは言い難いもんな」
 これがクロードのよくないところだ。露悪的で信頼を軽んじるような物言いをする。ローレンツはクロードから靴を取り上げ彼の手が届かない上の棚に置いた。
「猜疑心の塊である君から理由もないのに信用してもらえるとは光栄なことだ」
「マリアンヌの足の寸法でも知ってたら別だったろうなあ」
「クロード!!」
 だがもし知ることが出来たら靴を贈りたい。マリアンヌは自分が美しいと信じていないがローレンツならきっと彼女を引き立てる靴を選べる。
「贈ったものを履いてるところを見せてもらうのも命懸けだな。ヒルダやリシテアと違ってマリアンヌはいつも丈の長い服着てるだろ?」
 だがクロードの言う通り裾を捲ってもらわねば履いているところを見ることすら叶わないだろう。婚約をした後ですら難しいのではないだろうか。
「なんてことを言うのだ……」
「お前さっきから真っ赤になったり真っ青になったり忙しいなあ……冗談に決まってるだろ!話を元に戻すが親どもが信じない件に関してはお前たちに警戒してもらうしかないんだ」
 クロードが言うにはディミトリも身分や姿形を乗っ取る者たちについて調べていたらしい。労力を思えば職位が低い者や平民になる意味がないので身分が高く権力に近い者が狙われる。クロードを亡き者にしたい場合はローレンツ、マリアンヌ、ヒルダそしてリシテアが狙われることだろう。誰かが疑わしいと思った時は右手の親指と人差し指で丸を作り左手の人差し指で右手の人差し指の爪に触れる。自分から本人であることを示したい時は右手の人差し指を伸ばし左手の人差し指で右手人差し指の第二関節に触れると言うことになった。文書で伝えるわけにはいかないので誰かと直接、会うたびに伝えていくしかない。リーガン公の葬儀以来ヒルダは自領からあまり出てこなくなった。今日決めた符牒をヒルダに伝えるのは誰になるのだろうか。
「君は僕と同じく若輩者なのだから色んな場所へ視察に行って顔を売ることだな。ああ、グロスタール領へは来なくて結構だ」
「何をやったところでこれ以上嫌われようも好かれようもないからな」
 エドマンドには良港がありアミッド大河の対岸は帝国でフォドラの喉元の東はパルミラだ。どちらも就任したばかりのレスター諸侯同盟の盟主がなるべく早く視察に行くべき場所と言える。

 ガルグ=マクが陥落して三年が経過した。冬が来る度にローレンツは死に物狂いで自領へ戻ろうとしていたあの時のことを思い出す。オグマ山脈を縦走した者たちは皆同じだろうとローレンツは信じている。レスター諸侯同盟はアドラステア帝国が攻め込んでこようとパルミラ側の国境警備を怠るわけにはいかない。挟撃する好機と見てパルミラが攻め込んでくる可能性は排除できない。ローレンツはグロスタール領から物資を運びつつフォドラの首飾りへ向かう兵士たちに帯同していた。
 国境を守る要塞ではホルスト卿だけでなく懐かしい顔がローレンツを出迎えてくれた。ヒルダは学生時代は二つ結びにしていた髪を後ろでひとまとめにしている。
「ローレンツくんお疲れ様!」
 ローレンツは要塞から少し離れたところにあるゴネリル家の本宅には顔を出さずにそのまま北上して自領へ戻る予定だったので意外な再会だった。自称か弱い妹のヒルダはゴネリル公に命じられ近頃は要塞で兄の手伝いをしているのだという。ヒルダと共に物資の検分をすると予定よりかなり早く仕事が終わった。
「その結い方もお似合いだ」
「ありがとう、ローレンツくんもその髪型すっごく似合ってる!」
 二人は今、視察と案内という名目で誰からも話を聞かれない望楼に上りパルミラを見ながら密談をしている。望楼の上は風が強く伸ばした紫の髪が風に煽られた。魔道学院にいた頃の長さまで伸ばすつもりでいる。
「クロードくんが結構な博打うちだから冷や冷やしちゃって……ローレンツくん家から物資や兵が援助してもらえて兄さんはどう考えてるか分かんないけど私個人は助かった〜って感じなの」
「クロードは何に金貨を賭けているのだろうか?」
 ヒルダは目の前に広がる荒涼とした平原を指差した。パルミラ軍がフォドラの喉元を越えようとしたことをきっかけにガルグ=マクに士官学校が設立されている。この国境地帯から全ては始まっているのかもしれない。
「パルミラ軍が攻めてこない、に全財産賭けてるわ。この間、クロードくんの指示で捕虜も全員交換したの」
「交換……ということは身代金を払わせなかったのか?」
 ヒルダは首を縦に振った。捕虜交換ならばこちらも身代金を払わずに捕虜になった兵を取り戻すことができるが実入りは全くない。解放する捕虜の人数が多かった場合は衣食住を保障した分だけ損をしてしまう。
「うん。一応それぞれ人数は同じだったんだけど中に密偵が紛れ込んでるかもしれないじゃない?それなのに大丈夫だから、しか言ってくれなくて」
 私にすら事情を話してくれないなんて、とヒルダは失望しているのかもしれない。だがローレンツがヒルダの失望を感じ取ってしまっていることを悟られるわけにいかなかった。前夜式の晩にローレンツが何を見たのかがヒルダに分かってしまう。それでもどうにかして友人を慰めたいのだが何も確実なことを言ってやれなかった。
「でも私ツィリルくんがうちにいたことすら知らなかったでしょ?そんなだからクロードくんが何考えてるのか全然理解できないのかな。パルミラに密偵はいっぱい放ってるみたいだけど……」
 士官学校にいた者たちにとって身近なパルミラ人といえばツィリルだ。ツィリルはゴネリル家の下働きをしていた時に酷く扱われているのを見たレアがガルグ=マクに引き取り従僕にしたのだという。クロードが厄介な隣国をどう捉えているのかよく分からないことをヒルダは気にしていた。
「だが子供は邸内で働かせないものだろう?」
 一般的な話になるが名家の者は身の安全を守るため邸内に出入りする使用人の顔と名前は全て覚えるように躾けられながら育つ。ヒルダは自分が世間知らずであったことを悔いているがツィリルが馬丁や庭師の下働きをしていたならばヒルダには彼の顔を見る機会すらなかったのではないだろうか。
「兄さんは私と違ってクロードくんに全く異議を唱えなかったの。だからなんだか二人のこと遠く感じちゃったな……」
「先生とは真逆だな。クロードは余計なことはべらべらしゃべる癖に肝心な時には口を閉じる」
 寂しそうなヒルダを元気付けてやりたいがローレンツにそれは出来ない。彼女が求めているのはクロードの言葉だからだ。
「先生かぁ……生きてると良いね。この間マリアンヌちゃんと会った時にも話したんだけど私たちは千年祭の日に顔を出してみるつもり」
「顔を出せばヒルダさんたちには確実に会えるわけか」
 同窓会をしようと言い出したのはクロードだからヒルダはクロードとは必ず会える。だが自分とマリアンヌは再会出来るのだろうか。ローレンツはずっと疑問を抱えていたが思わぬところで答えを得た。
「途中からうちの学級に来た子たちも来てくれると良いね」
 特異な経歴のベレトを慕って黒鷲や青獅子から金鹿の学級に転籍した者たちが何名かいる。
「残念ながらフェルディナントくんとは未だに連絡が取れない」
「そっか……ローレンツくんでも無理なんだ……マリアンヌちゃんも全然連絡が取れないって……」
 フェルディナントはローレンツともヒルダともマリアンヌとも仲が良かった。帝国軍がガルグ=マクに侵攻してきた際エーデルガルトに置き去りにされた黒鷲の学級の者たちは開戦と同時に帝国軍に降伏し帰郷している。彼らは帝国に残る家族を即位したエーデルガルトとその側近であるヒューベルトから守るためにガルグ=マクを去ったのだがその際、意見の取りまとめをしたのがフェルディナントだ。
「息災であると信じるしかない」
 ローレンツは伸ばした真っ直ぐな紫の髪をかきあげた。ヒルダも目を逸らし唇を噛んでいる。礼儀正しく陽気で好奇心が強く紅茶と乗馬が好きなフェルディナントとローレンツはすぐに仲良くなった。同じ学級の者たちからは鬱陶しいと思われていたようだがそんなことは関係ない。
「うん、元気じゃないフェルディナントくんって想像がつかないわ」
 実際は帝国軍によるガルグ=マク侵攻と父親が蟄居させられたことに衝撃を受けかなり落ち込んでいたのだがローレンツもどうせ思い出すなら溌剌としていたフェルディナントの姿を思い出したい。
「約束の日に皆で会えると信じよう。さあこれ以上ご婦人が風に当たるのはよろしくない」
 そう言うとローレンツはヒルダの手を取った。ゴネリル公の差し金なのか父の差し金なのかは分からない。だが父の名代として他所の土地に赴くとこうして鳥籠の扉が開いていることが多々ある。クロードの顔が脳裏にちらついたが本気でヒルダに惚れてしまいそうな者が手を取るより遥かにましだろう。それが分かっているヒルダもローレンツの肩に軽く頭を預けた。実に見事に笑顔を作っている。箱入り娘は箱の底に穴を開けるのに協力する友人さえいれば親の目を気にせず案外好き勝手にやれるのだ。
「マリアンヌちゃんじゃなくて残念ね」
「いや、クロードに妬かれるかと思うと僕は気分がいい。今月は僕で何人目かな?」
「五人目よ!嫌になっちゃう!」
「どの名家の親も似たようなものだろうな……」
 協力関係を結ぶ寄せ餌としての見合いはしょっちゅうだ。リーガン公が生きていたらとっくにクロードとヒルダの縁談は本決まりになっていたのかもしれない。だが取り計らってくれる年長者が周りにいないクロードはありとあらゆることを自分で決めねばならない立場だ。ヒルダはかなり長く待たされる可能性が高い。

 一一八五年星辰の節、ローレンツは廃墟と化したガルグ=マクを訪れていた。壮麗な聖堂は瓦礫だらけで盗賊の棲家になっている。同じ入口から侵入したイグナーツと共に矢羽が空を切る音や悲鳴が聞こえた方に向かうと再会を願っていた人がそこにいた。教え子が辿り着く度に彼は驚いていたが教え子たちは皆驚かされたのはこちらだと思っている。
 クロードはこの五年間ずっとガルグ=マクの様子を窺っていたらしい。ベレトと会うために帝国からやってきたリンハルトとフェルディナントを質問攻めにしているが何故この利便性に優れたガルグ=マクをエーデルガルトが放棄したのかについて満足がいく答えは得られなさそうだった。
「そんなことよりクロード、君が奪った玩具をエーデルガルトさんが取り返しに来た時の算段はついているのかね?」
「俺はここに籠るつもりはないよ。セイロス騎士団だって守りきれなかったんだぜ?」
「え〜!じゃあどうする気なの?」
 ヒルダの問いは当然のものだ。嫌な予感がしたローレンツの視線が彷徨い同じことを危惧しているマリアンヌの視線と絡みあう。
「こちらから攻め込む」
「攻め込むって……どこまで?」
「最終的には帝都アンヴァルだ」
 皆同窓会に出るためガルグ=マクに来たのであってクロードによる帝国侵攻作戦に参加するために遠路はるばるやってきた訳ではない。枢機卿の間に集まっていた者たちは一斉にクロードへ文句を言い始めた。たとえ信用を失ってしまうとしても傭兵として働き始めたレオニーやまだ仕える主人を持たず実家の手伝いをしているイグナーツやラファエルはクロードとの友情故に当分戻れない、と地元に伝えることすらできない。クロードには奇襲以外に勝ち目がないからだ。
「クロード、この件を家臣たちに話したのか?」
 話している訳がない。もし話していたらベレトと共に盗賊たちに囲まれて冷や汗をかくようなことをする訳がない。
「答えがわかってるくせに聞くなよ」
「ではせめて平民の学生たちとは雇用契約を結びたまえ!僕のような貴族の子弟はともかく彼らには生活がかかっているのだぞ」
 イグナーツ、ラファエル、レオニーそれに元傭兵のベレトもローレンツの言葉に頷いてくれた。特にレオニーは借金をして士官学校に入学している。クロードが空しか見ないならローレンツが地面を見るしかない。レオニーたちとクロードの交渉が長時間に渡るのは明白なのでローレンツはレオニーたちに持参した茶葉で紅茶を淹れてやった。アッシュがこの場にいれば更に交渉は厳しいものとなっただろう。
「では皆さんごゆっくり。実りある話し合いをしてくれたまえ」
「相手を焚き付けるだけ焚き付けておいて俺の味方はしないのかよ!」
「事前に説明があれば助太刀できたかもしれないが情報が少なすぎて自信がないので撤退させてもらう」
「ローレンツくんに無理なら私にはもっと無理だわ〜」
 ヒルダの言葉に頷くとローレンツは自分と同じく生活がかかっていない階層の出であるヒルダとマリアンヌの手を取りまさに両手に花という状態で枢機卿の間から去った。扉の向こうからはレオニーだけでなくイグナーツの声も聞こえてくる。商家出身のイグナーツは正式な帳簿が作れるのでもしかしたらレオニーより手強いかもしれない。
「これで気は済んだかね?ヒルダさん」
「うん、意地悪はこれでおしまい。この後はずっと味方してあげるつもり」
「こうなるとお義父さまへすぐに手紙が出せないことがありがたいような……」
 もう子供ではないのだから感情に振り回されてはならない、家のために生きろと諦めを強いる実家での暮らしに三人ともそれぞれ追い詰められていた。もし戦争が起きなかったら今頃ローレンツはマリアンヌの前で片膝をついていたかもしれない。家格は釣り合っているし三年もあれば彼女の信頼を得る自信はあった。だが戦争の影響でそれどころではなくなってしまった。
 未婚であるエドマンド辺境伯はともかくローレンツとヒルダの両親はそれなりに幸せそうではある。しかしローレンツとヒルダは五年も持ち越してしまったせいかまだその境地に達することができなかった。ローレンツはマリアンヌもそうであれば良いと願っている。だから今回、家族と縁が薄く孤独なクロードが引っ掻き回してくれたお陰で人生の階段を登ることを先延ばしに出来てありがたく思っていた。

 一人勝手に根回しをしていたクロードに付き合い皆で武装してアリルに向かうことになった。ダフネル家の援助を受けミルディン大橋を確保できればきっと親たちも親不孝な嫡子たちを許す。その為にはまず無事に合流場所まで辿り着かねばならないので馬上のローレンツは密かに緊張していたが呑気なことにマリアンヌとクロードは谷にまつわる不気味な話で盛り上がっていた。ますます自分がしっかりせねばとローレンツが上を見上げると軍旗を掲げた集団が見えた。先方も存在を知られてはならないのでアリルに潜んで待っているという話だったがあれは違う。
「クロード、お喋りの時間は終わりだ。あそこを見たまえ」
「おっと……。誰がお出迎えに来てくれたんだ?」
 頭上ではディミトリやその友人たちを裏切りあっさりとファーガス公国に鞍替えしたローベ家の軍旗が翻っている。ローレンツが情勢に詳しくないベレトにわかるように解説すると彼ははすぐに部隊を二つに分けイングリットにペガサスで様子を伺うように命じた。ペガサスやドラゴンは弓兵に弱いが彼女はとにかく矢を避けるのが上手い。一方でローレンツはベレトから別働隊を率いるように言われた。
「挟み撃ちされそうな気がする、と思わせるだけでいい。実際は不可能だからな」
 裏を返せば溶岩のせいで足元が覚束ない戦場でそれくらい積極的に攻め込まねばならないということだ。これは確かに誰にも任せられない。
「ローレンツはそういうのが得意だろう?」
 ベレトはそういうと五年前のように剣帯を鳴らしながらあっという間に本隊の前線へ行ってしまった。敵軍の様子を伺っていたイングリットがかなり前方に移動したベレトの元へ急降下しているのが見えたが何があったのかはもう遠すぎてよくわからない。馬が地熱で足を痛めないよう足元をよく見て手綱を捌かねばならず本隊の動静を確かめる余裕などローレンツにはなかった。
 必死になって敵の増援部隊と戦闘しているうちにクロードがジュディッド自身の率いる援軍と合流しローレンツたちは灼熱の谷を出ることが叶った。何故イングリットがあの時大慌てで降下したのか分かったのは全てが終わりローレンツが谷の修道院側の出口に辿り着いた時のことだった。ファーガス情勢は混迷を極めており板挟みになったアッシュはグェンダルと共に死地に引き摺り出されたのだろう。ベレトを慕ってやってきたファーガス出身者たちはアッシュを囲み汗を拭うふりをして涙を拭いている。ベレトは父ジェラルドの仇と手を組んでいたエーデルガルトにはあっさり斬りかかったがアッシュには手を差し伸べた。クロードは笑顔でその様子を眺めている。
「煉獄の次は地獄の釜の蓋か?」
「お前んとこの穀物あてにしてるぜ」
 ミルディン大橋という地獄の釜の蓋を取り戻してもその先に待っているのは帝国との総力戦だ。クロードの本当の願いは一体何なのか。誰かに語ったことはあるのかとローレンツは問いたかったがどうせまともに答えるわけがないので聞くのを止めた。畳む
#かのひとはうつくしく
#クロヒル
#ロレマリ
14.A-(side:H)

 ガルグ=マクからミルディン大橋へ行くにはグロスタール領を通過せねばならない。領内を通過するにあたって父親と戦いたくないローレンツは近頃ため息ばかりついている。
「ねえクロードくん、本当にローレンツくんのおうちのこと大丈夫なの?」
 育てている薬草の様子を見るため温室にやってきたクロードにヒルダは話しかけた。一応見合いした仲ではあるし親友の好きな人でもある。酷い目にあってほしくない。
「もう手配は済ませたからグロスタール伯は領地の北側に兵を集中せざるを得ない。俺たちの通り道はがら空きの予定だ」
 近頃は詳細が分からず不安に苛まれているローレンツをマリアンヌが心配そうに見ていた。瓦礫だらけの聖堂で祈りを捧げる時も食事の時も傍にいる。だが彼女は無言で何もローレンツに語りかけない。マリアンヌが口籠るのは何を言うべきか分からないから、ではなく何を言うべきではないのか分からないから、ということをヒルダは知っている。彼女の中には沢山の言葉が詰まっているのだ。
「ローレンツくんが元気でないとマリアンヌちゃんまで落ち込むから」
「今思うと学生時代はあいつ本当に元気いっぱいだったよな」
 女神の塔の言い伝えなど自分は気にしない、何故なら毎日が自分にとって好機だから、と本気で言っていたのをヒルダも覚えている。ローレンツがそんなことを真顔で言っていた頃は温室の硝子にひびなど入っていなかった。放置されていた温室はやはり今まで通りとはいかないようでクロードはヒルダと話しながらしゃがみ込んで周りに生えた雑草を抜き葉を入り込む風や虫から守るため薬草に薄い布を被せている。その横顔は貫禄をつける為に頬髭は生やしたものの学生時代とあまり変わりがない。
「前衛頼むんでしょ?それなら元気でいてもらわないとクロードくんだって困るんじゃない?」
「うわっ!危ない!」
 だがリーガン公の葬儀の頃と比べて全体的に筋肉がついたようだ。学生時代なら不意打ちで背中を叩くと地面に膝をついていたが今は堪えている。
「本気出さなくてこの強さなんだからミルディンでの活躍期待してるぜ」
「ええ〜!あんまり私のことあてにしないでよ〜!」
 ゴネリル家は反帝国派だが本当にあてにされても困るのだ。何せ親帝国派筆頭のグロスタール家の嫡子とゴネリルの紋章を継ぐ娘が見合いをしている。その絡みでグロスタール家からゴネリル家に何か要請があるかもしれない。だがクロードはそれも織り込み済みで策を立てているのかもしれない。

 ミルディン大橋は要衝で帝国軍の守りは固く複数の砦から増援が続々と現れてくる。ここを通せば首都アンヴァルを守るメリセウス要塞が剥き出しになる、と帝国軍も分かっているので必死だ。エーデルガルトのお気に入りで帝国の臣民からも人気が高いというラディスラヴァが直々に守っている。クロードとベレトは流石に母国に攻め込むのは気がひけるだろうということでフェルディナントとリンハルトは前線に出さずガルグ=マクからミルディンまでの補給を担当させた。その二人が前線に出た者たちの話を聞いては首を傾げている。新しい斧と特効薬を受け取るためヒルダは物資を積んだ幌馬車にいたフェルディナントたちに話しかけた。
「二人とも何か気になることがあるならクロードくんに伝えておいた方がいいよ、頼りない盟主様かもしれないけど聞く耳はあるから」
 どうやら二人はミルディン大橋を守る将がラディスラヴァだけであることが引っ掛かっているらしい。
「実験みたいな配置だよね。一騎当千は言い過ぎだけどさ、どれだけ普通の兵をぶつければ紋章保持者を確実に仕留められるのか計測でもしたいのかな?」
「何それ……」
 アッシュやイングリットが好む騎士物語や戦記で紋章を持つ者が倒れるのは誰かを庇った時だけだ。戦いの最中ヒルダは激った血が身体中を巡り暑くて堪らなくなるのだがリンハルトの言葉を聞いて一気に血の気が引いていく。震えを隠すために腕をさするが残念ながら誤魔化せている自信はない。
「前線に出ていないが私とリンハルトも紋章を持っている。ヒルダさんもクロードもローレンツもイングリットさんもだな?」
「あとマリアンヌも、だね」
「えっ?そうなんだ。何の紋章なんだろ?」
 ヒルダは兵種の都合でローレンツと同じく前衛を務めることが多く戦闘中にマリアンヌの背中を確認することはできない。ヒルダは彼女が紋章を持っていることすら知らなかった。
「それは彼女から口止めされてるんだよね」
 マリアンヌの件はともかくこれは絶対にヒルダの口からもクロードに知らせねばならない。後に吟遊詩人が紋章を持った英雄たちの勇ましい戦いぶりを讃え薔薇色の大河と謳ったミルディン大橋の戦いは新生軍と称するレスター諸侯同盟の勝利に終わった。散った薔薇の花びらは放置され踏みつけられればすぐに茶色くなる。血と同じだ。そしてヒルダたちの身体に流れる血は紋章を宿している。フォドラの名家に生まれた者たちはゴーティエ家の兄弟のようにその有無に大きく人生を左右されてきた。エーデルガルトはそんな世の中を変えたいのかもしれない。

 クロードは勝利に浮かれることなくすぐに皆を集めそれぞれの実家に向けて出立して欲しいと告げた。ラファエルのようにミルディン大橋に残る者もいるが殆どの者が北上するかヒルダやリシテアのように東へ行く。ミルディンから家が近いローレンツやリシテアは街道を使って馬で帰宅する。ヒルダも船の方が早いのだがアミッド大河の対岸から妨害されることを考えると飛竜が一番早そうだった。
 当然ゴネリルまでは遠すぎて直接飛ぶことはできないので宿場町で乗り換えていく。激しい戦闘の後なので無傷の飛竜はおそらくいないだろうが傷が軽いものがいないか探しにヒルダが竜舎にやってくると何故かクロードがいた。クロードはベレトそれに家が遠いマリアンヌを伴って馬車でデアドラへ行くのでもう出発していてもおかしくないというのに先ほどの戦闘で自分が騎乗していた白い飛竜の手入れをしている。
「よう、遠いのに手間かけるな」
「クロードくんだけマリアンヌちゃんや先生と一緒なのが羨ましい」
 マリアンヌはデアドラ港からエドマンドへ船で戻るのだろう。一度先方へ遊びに行ったことがあるがエドマンド辺境伯はマリアンヌと髪の色が同じで背が高くほっそりとしていた。ヒルダは娘と仲良くしてくれてありがとう、と礼を言われたがローレンツへの当たりはかなり厳しいらしい。
「ええ……そっちかよ!」
 レアの代理人であるベレトがいればセイロス教会のお墨付きなので多少は風当たりが和らぐだろう。家臣や他の諸侯との話し合いの際にクロードがベレトを必要とするのはヒルダも分かっていた。
「それに一晩くらい休みたかったな〜。クロードくんたちは馬車で眠れるから良いよね〜」
「でも俺はデアドラに着いたら逆に休めなくなるからなあ」
 構ってもらえて機嫌の良さそうな白い飛竜が鼻先をクロードの頬に押し付けている。戦闘中は黒い手袋で守られている褐色の手が白い顎を撫で回した。命を預ける動物は手袋ごしに触っても信頼を得られない。
「うふふ、ご機嫌だね。お留守番なのがちょっと可哀想なくらい」
「ヒルダ、こいつに乗っていってくれ」
 クロードが盟主となってからずっと騎乗している飛竜だ。貴重な白子の個体で育て上げるのが非常に難しい。
「でもクロードくんと私じゃ鞍の大きさが違うよ」
「付け替えに来たんだよ。多分あってると思うから乗ってくれ」
 踏み台は近くにあるというのにクロードは飛竜の足元で跪いて掌を差し出した。傭兵上がりのベレトがよくこれをやる。踏み台がない出先や踏み台を出すのが面倒な時に跪いて掌を差し出すのだ。レオニーやクロードそれにベレトは本当に身軽で階段を数段飛ばしで駆け上がるように差し出された掌を足場にして馬や飛竜に飛び乗るがヒルダには自信がない。ちなみにローレンツは足が長いので馬なら鎧に足をかけ腕と背筋の力で普通に乗ることが出来る。
「やだ、台を出してよ〜!」
「大丈夫だって!転んでも俺しか見てないよ。転んだら踏み台持ってきてやるから」
 ヒルダはレオニーのように数歩前から助走してクロードの掌を踏み鞍に手をかけたつもりだった。しかし姿勢が崩れクロードがどう庇ったのかヒルダには全く分からないが床に尻餅をついて寝転んだ彼の上に乗っかってしまっている。顔を上げれば目が合うが顔を下げていてもクロードの鼓動や身体の温かさがが伝わってきてこれもまた居た堪れない。ヒルダは意を決して顔を上げクロードの顔を見つめた。この角度だと彼の長い睫毛が翠玉の様な瞳に影を落とさないらしい。
「ごめん!クロードくん大丈夫?」
「いや、俺こそしっかり足場を作ってたつもりがこんなことになって……」
「やっぱり踏み台持ってきてね。鞍の大きさが合ってなかったら何度も乗ったり降りたりするんだから」
「異論はないが退いてもらわないと……」
 見惚れる前に退こうと思ったがクロードにそう言われるまで赤く染まった滑らかな褐色の肌や太めの眉それに綺麗な鼻筋などからも目が離せなかった。色白なヒルダたちと違って顔色が分かりにくいクロードだがそれでも分かるくらい彼が顔を赤くすることがこの先あるのだろうか。きっとヒルダも顔が真っ赤になっているが上空は寒いから丁度良いのかもしれない。
 ヒルダはクロードが持ってきた踏み台を使って改めて鞍に腰を下ろした。腰から膝までの長さが分からなければ正しい大きさの鞍は選べない。
「え、嘘でしょ!クロードくんがどうして私の鞍の大きさを知ってるの?!」
「そんなのよく見てたからに決まってるだろ」
 クロードはローレンツから余計なことはべらべらしゃべる癖に肝心な時には口を閉じる、と言われている。だが目は口ほどに物を言うのだ。ヒルダは飛竜の手綱を手に取った。言いたいことも言わせたいことも山ほどあるがそれでも今は急いだ方が良い。

 ミルディン大橋を越え帝国の本土へ侵攻していく前にヒルダたちはガルグ=マクに集合し下準備を整えていた。士官学校時代口数の少ないベレトが執拗に言っていた通り事前準備が成否の八割を左右する。ミルディン大橋の奪取に成功しダフネル家とセイロス教会を後ろ盾につけたクロードが諸侯たちとの交渉に成功したおかげで食糧が潤沢になりラファエルの機嫌が良い。ヒルダも実家で高い評価を受けゴネリル家も物資や兵を融通することとなった。その実家ではグロスタール家への義理を果たすために援軍を出したと聞いてヒルダは冷や汗をかいたが父と兄はどうやらクロードの度胸と着眼点を買っているらしい。マリアンヌもエドマンド辺境伯から資金を提供してもらうことに成功していた。
 エドマンド辺境伯は久しぶりに戻ってきた養女に色々と持たせたらしくラファエルに荷物運びを手伝って貰っている。きっとお礼の品になりうる干し肉も行李に入っているのだろう。
「荷解きが終わったらヒルダさんのお部屋にお邪魔してもよろしいでしょうか?」
 マリアンヌは自力で荷解きをしたら人が招ける状態でなくなることを見越してヒルダの部屋に行きたいと言っている。
「うん、良いよ。待ってるけど無理だと思ったら手伝うから声をかけてね」
 やはり夕食の前には間に合わずマリアンヌは夕食後に土産物を持参してヒルダの部屋へやってきた。香水と色を付けた硝子を細かく組み合わせた洋燈は交易で手に入れた物らしくフォドラでは殆ど見かけない意匠をしている。
「わあ!すっごく綺麗……本当にもらっていいの?」
「はい……使っていただけたらとても嬉しいです。養父と二人で相談して選びました」
 遊びに行って分かったのだがエドマンド辺境伯はマリアンヌのことをとても可愛がっている。侍女が片付けているであろう部屋は清潔で調度品は高価なものばかりだったし引き取った子供に箔が付くよう進学させ身の回りの品をふんだんに用意していた。
「夜だから少し飲もうか。前線に出たら勝つまでは酔っ払うのも無理でしょ?」
 ヒルダは実家から持参した蒸留酒の瓶と硝子の杯を二つそれに錐と空の深皿を机の上に置いて水差しから水を注いだ。察したマリアンヌが掌を皿にかざすと皿の中の水が凍っていく。
「錐を貸してください」
 マリアンヌが錐で氷の塊を突いて砕いている間に炒った胡桃を別の皿にあけた。
「この飲み方が一番好きなんだよね。氷ありがと」
 ヒルダは指二本分の蒸留酒を注ぎ杯を掲げた。マリアンヌも手元で杯を軽く掲げている。兵たちがいる場では打ち合わせるが杯は打ち合わせないのが正式な作法だ。ひと口喉に流し込むと熱が胃に向かって降りていく。
「ご相談があるのです」
 ほろ苦い胡桃を口に放り込みながらヒルダは頷いた。エドマンド辺境伯にも言えないようなことを聞かされるのかもしれない。
「私には秘密にしていることがあって……それをある方に言うべきかずっと考えているのですが答えが出ないのです」
 きっとミルディンでリンハルトから聞いた件だ。リンハルトは既にマリアンヌの秘密を知っているのでマリアンヌがいうある方、はリンハルトではない。秘密を告げようとしている相手はきっとベレトかローレンツだ。
「それは私が聞いてもいいの?」
 マリアンヌは琥珀色の蒸留酒を飲み干し机の上に置いた。彼女が作った透明な氷だけが中に残っている。
「私すごく狡いんです……。ヒルダさんには絶対に嫌われたくないので聞いて欲しくありません」
「じゃあその人から嫌われたいから話すの?」
 酒精のせいで頰を赤くしたマリアンヌが首を横に振った。
「嫌われたくはありません。でも……私を遠ざけて欲しいのです。きっと私に深く関わると望んだ幸せは得られないので」
 今はきちんと髪が結い上げられると言うのに入学当初の誰にも馴染もうとしなかったマリアンヌの姿がそこにはあった。
「そんな風に決めつけないで。私マリアンヌちゃんと仲良くなれてすごく嬉しいんだから」
 ヒルダがそこを否定しても何の意味もないと分かっていても否定してやりたかった。知っていることを繋げて推理すればそんなことはすぐに分かる。まずマリアンヌの秘密はヒルダの人生には関わりようがない類のことで紋章を持つ名家の令嬢に求められるのは紋章を持つ後継者を産むことだ。秘密を打ち明け遠ざけようとしているのはベレトではない。ベレトには領地も門地もないので生まれた子供が紋章を持っていようといまいと関係ないからだ。自分のように紋章を持つ子供が欲しいローレンツにマリアンヌは秘密を告げようとしている。
「でも……私、これ以上自分のことを嫌いたくなくて……だから人として正しい行いをする必要があるのです」
 言葉を失ったヒルダはマリアンヌの杯におかわりを注いだ。五年前の春の姿が人として正しい行いの結果だと言うなら正しい行いなどしなくてもよい。反射的にそう思ったが自己否定の塊である彼女が自分を肯定するために絶対必要なことなのだと主張している。
「秘密を告げても告げなくてもそれぞれ別の理由で辛いね」
「養父は事あるごとに自分を愛せ、と私に言ってきました。ずっと意味がわからなかったのですがこうなって私ようやくわかりました」
 マリアンヌは一人で完結してしまっているがヒルダにはどうしてもエドマンド辺境伯が辛いことがあっても乗り越えられるのだから人として正しいこと、この場合は彼のためにローレンツと結婚しないことを選べ、と言うような人物に思えない。それも含めてヒルダはローレンツがマリアンヌの言葉に動じない方に賭けた。
「マリアンヌちゃんはその人に無理強いはしたくないんだね」
 マリアンヌはかつてヒルダと二人で選んだ手巾で目元を押さえている。これが愛情でなければ何が愛情なのか。表面に現れはしないがこんなに深くローレンツを愛する人は今後、他にも現れるのだろうか。
「私はね、どっちを選んでも辛いマリアンヌちゃんの味方をしたいな。だから心の赴くままに決めて欲しいの」
「ヒルダさん、ありがとうございます……」
「あと一杯だけ呑んだらお開きね」
 多分マリアンヌの部屋は悲惨なことになっている。明日は少し早めに起きて片付けを手伝ってやらねばならない。帝国本土へ向けて進軍する日が近いからだ。

 遠くからローレンツたちが奪取した弓砲台に仕掛けられた罠が燃え上がる様を見てヒルダはリンハルトとの会話を思い出した。まともな神経の持ち主ならインデッハの紋章を持つ教務卿の娘ごと敵を焼き殺そうとしない。今日のヒルダは飛竜に乗ってクロードの副官をしているので戦場にも関わらず彼の舌打ちする音までよく聞こえる。きっと考えついたが実行しなかったのだ。
「くそっ!エーデルガルトのやつ煽りやがって!ヒルダあいつのところに行くぞ!」
 クロードが飛竜の手綱を短く持ったのでヒルダも手綱を握りしめる。ガルグ=マクから撤退した時のクロードはエーデルガルトをあと一歩というところまで追い詰めていた。彼は今度こそとどめを刺す気でいる。
「クロードくん、分かってるだろうけどあんなことは出来なくていいの。出来たらダメなんだよ!」
 ヒルダが見たところクロードの憤りは他の者たちと少し違っている。いつでもその境地に堕ちることが出来るからこその憤りのような気がした。だからこそクロードがそんな作戦を立てる姿を見たらヒルダは右手の指で丸を作り左手の人差し指で右手の爪を触って級友たちに知らせるだろう。ベルナデッタの死は何故自分たちが戦うのかを分かりやすく示した。あそこまでするのだからきっとエーデルガルトには狂おしいほどの理由がある。だが目的のためならどんな手段でも正当化されるという考え方を否定するためにクロードもヒルダも戦っているのだ。
 先行していたベレトがクロードたちの元に戻ってきた。帝国軍が王国軍と交戦している地点へ移動する前にローレンツが率いていた別働隊と合流すべきだと言う。
「ディミトリたちには申し訳ないが潰しあってもらった方が有利になるしあそこに行くなら回復役と魔法職がもっと必要だ」
「あいつらはそれを知ってるのか?」
「もう伝えてきた。行こうか」
 これだからベレトはクロードからきょうだい、と呼ばれるほど信頼されているのだ。ベレトが指定した合流地点に向かうとローレンツたちは交戦中だった。ホースキラーを持っている騎兵が多くローレンツは馬から降りて槍を振るっている。クロードは手槍でローレンツを狙っていた騎兵に気付き上空から一撃で仕留めると声をかけた。
「エーデルガルトたちのところへ行くぞ!ついてきてくれ!」
 クロードたちの姿を認め完全に数的不利であることを察した帝国軍は本隊を目指して撤退し始めた。だからだろうか、少し油断してしまったらしい。戦記物や騎士物語で紋章を持つ騎士や英雄が倒れるのは人を庇った時だけだ。
 ヒルダは自分が見たものを信じたくなかった。回復魔法が使える者はとにかく敵から狙いうちされる。どれだけ敵兵に損害を与えても即死させない限りは彼らが敵兵を回復させてしまうからだ。せめてエーデルガルトの元へ攻め込む部隊の回復役を削らなければ面目が立たないと思ったのだろうか。撤退していく帝国軍の兵士が最後の嫌がらせのように手槍を投擲しマリアンヌの胸に突き刺さるはずだった手槍がローレンツの背中に刺さっていた。出血のせいで鎧に覆われていない腰から膝までも真っ赤に染まっている。
「ローレンツさん!だめ!だめ!私まだあなたに何もお伝えしていません!」
 クロードから副官としてローレンツの様子を確かめるように頼まれたヒルダはマリアンヌの元に駆けつけた。重傷を負って横たわっているローレンツの傍でマリアンヌが絶叫している。いつも静かな彼女が泣き叫ぶのは本当に珍しいことだった。マリアンヌはヒルダが差し出した特効薬にも気付かず必死でローレンツの手当てをしている。彼女の悲鳴を聞きつけたフレンがリブローを使いようやくローレンツの容態は安定した。
「ありがとうマリアンヌさん、面倒をかけてすまなかったね」
「ご無事でよかったです……申し訳ありません、私が手槍に気が付かなかったせいですよね」
「いや、貴族の責務を果たしただけなのだから恐縮などしないで欲しい」
 彼女自身は気がついていないようだがずっとローレンツの手を取っている。これは死を看取る時の姿勢でもあるが今頃ローレンツは自分が素手でないことを後悔しているだろう。もう大丈夫だと確信できたヒルダは再び飛竜の手綱を引いた。先行したクロードに良い知らせを伝えねばならない。

 三つ巴の戦いは長く激しく続きエーデルガルトに深傷を負わせることには成功したがまた撤退されてしまった。副官という話だったが途中から仕事が伝令に変わったヒルダはくたくたに疲れていた。体を拭いてとりあえず休もうと思ったが酷い物を見過ぎて中々眠れない。仕方がないので月明かりを頼りに陣内を散歩することにした。炊事の煙で敵に見つかることを考慮しなくても良いのでそこらじゅうに焚き火の跡がある。それを上手く避けて歩かねばならない。
 流石に疲れ果てたようで他の者たちは皆寝静まっている。そんな中ひとつだけ灯りがついている天幕があった。クロードの物だ。きっとまだ考えごとをしているのだろう。だがヒルダが自分の天幕に引き上げようとしていた時もクロードは兵たちを労うと言ってベレトと共に歩き回っていた。一体、いつになったら休む気なのだろうか。そう思ったヒルダはクロードの天幕を訪れた。
「お疲れさまクロードくん」
「わ、どうしたんだ?こんな時間に訪ねてくるなんて」
「嫌なもの見たから上手く眠れなくて。気晴らしに何か楽しい話でもしてよ」
 先程の軍議で報告した通りディミトリの最期をヒルダは見てしまった。舞踏会の時に踊ったことがある相手の悲惨な末路が頭から離れない。
「俺も疲れて頭が回らないから今は無理だなあ」
 ヒルダが椅子がわりに座っている大きな行李にクロードも座った。いつも着ている大仰な上着はきっと行李の中にしまわれている。
「それにクロードくんは皆のことを労ってたけどクロードくんのことは誰が労うのかな、と思って」
「はは、そりゃありがたい話だな。頭でも撫でてくれるのか?」
「それくらいならここでもしてあげる」
 だがその先のことはこんな布一枚で遮られた空間でなど絶対にお断りだ。誰にも物音を聞かれない場所がいい。問題はガルグ=マクにもそんな場所はない、ということだ。畳む
#かのひとはうつくしく
#クロヒル
#ロレマリ
15.A(side:L)

 ローレンツはベレトと共に中庭で茶会をしていた。竪琴の節から花冠の節にかけて咲く花は美しくグロンダーズで見た嫌な景色が上書きされていくかのようだ。野宿でも天蓋付きの寝台で寝ているように寛いで眠り野草を楽しんで食べるような強さを持つ恩師がローレンツの取り寄せた茶菓子に舌鼓を打っている。
「クロードとヒルダを二人一緒にしておくと俺の考えることが減って便利だな。お陰でローレンツと二人、こうしてのんびり過ごすことができる」
 メリセウス要塞に入り込む計略を考えるクロードとヒルダは互いを補い合っていた。ただしその後、援軍として派遣されそうな帝国の将は誰なのか考えてくれと頼まれたフェルディナントとリンハルトは苦労したらしい。主にフェルディナントが。
「ご相伴にあずかれて光栄だよ。僕といえども気晴らしは必要だ」
 アッシュ、メルセデス、イングリットが失ったもののことを思うと気晴らしに騎士物語や戦記物を読む気にもなれなかった。ファーガス王国は完全に崩壊している。
「気晴らしと言えばクロードが子供の頃に聞かされた御伽話が結構面白くて気晴らしになるらしい」
「らしい、とは?」
「俺は聞いたことがない。だが先日、ヒルダが感動して泣いたと言っていた」
 クロードの話でそんなに心動かされるのはおそらくヒルダだけだ。二人は学生の頃から子犬のように戯れあっていたのでつまりはそういうことだろう。
「きっと僕が聞いたら苛々するだけだな」
「ローレンツにはフェルディナントの話をよく聞いてやって欲しい。きっと色々と聞いて欲しい話があるはずだ」
 帝国の大貴族たちは領地と帝都の上屋敷を行き来して育つのでフェルディナントとリンハルトはアンヴァルに詳しい。メリセウス要塞攻略後のことを見据えるならば二人の話が今後大きく役に立つはずだ。
「それと間違えないで欲しいんだが……」
「何をだろうか?」
「何かを聞き出して欲しいわけではない。ただフェルディナントの話を聞いてやって欲しいんだ。絶対に必要だから」
 若草色の瞳がじっとローレンツを見つめていた。ローレンツは一生、ベレトには敵わない気がする。

 帝都アンヴァルを攻める拠点にするためメリセウス要塞は絶対に手に入れねばならない。可能なら設備をなるべく傷つけず備蓄してある物資も込みで、とベレトは述べた。
「これまで通りクロードから現場の裁量は全て任されているので従って欲しい」
 ローレンツたちは同盟軍に攻撃されメリセウス要塞へ逃げ込もうとする帝国軍のふりをする直前、最後の打ち合わせをしている。
「こんな時にクロードがいないとは」
「あはは、確かにクロードくん一番演技がうまいもんねえ」
 グロンダーズでもやっていたがクロードは敵兵を誘い出すため逃げ遅れたふりをするのが上手い。ここで大将首を取って形勢を一気に逆転したいという追い詰められた敵兵の欲望をとことん煽るのだ。ローレンツは何度見ても学生時代、ヒルダ相手に上空で軽業を披露している姿を見た時と同じく血の気が引いてしまう。
「だがクロードも今回は本気だ。フェルディナントもリンハルトも本気を出すように」
「先生、そうは言ってもやはり人選が倒錯しているような気がするのだが……」
 今回フェルディナントはメリセウス要塞の中には入らない。ローレンツたちを要塞へ追い込む追手の同盟軍役をする。
「最後にもう一度言っておく。設備と物資目当ての作戦だ。雑兵に構わず司令官を目指す」
 死神騎士を人質にすれば残りの兵たちは交渉の場に参加せざるを得ない。捕縛が叶わず殺害してしまった場合は代行を務める将を捕らえて再び交渉をする。敵兵を全滅させるより遥かに効率が良い。
 ヒルダが考案しクロードが整えた作戦通りローレンツたちはメリセウス要塞の内部に侵入することができた。初めて入り込む老将軍はいかにも堅牢で正攻法で陥落させるには三倍どころのか五倍は兵が必要になっただろう。
「フェルディナントくんの本気、すごかったね」
「クロードの本気が同じくらい凄まじいことを願おう」
 ローレンツとヒルダはお互いささやかな回復魔法を掛け合った。これからあの死神騎士と戦うのでフレンやマリアンヌの回復魔法を無駄遣いするわけにいかない。マリアンヌは申し訳なさそうにローレンツたちに小さく頭を下げた。
「ヒルダ、クロードを探して必ず一度本隊と合流するように伝えてくれ。合流と移動が最優先でその為の戦闘ならば許可するがそれ以外は許可しない」
「それならカスパルくんとは戦わずに済みそう……」
 斥候の報告によるとカスパルもメリセウス要塞に来ているらしい。フェルディナントとリンハルトを要塞内部に潜入する部隊に入れていないのはベレトの温情であり同盟の諸侯たちへの気遣いだ。
「気になるだろうが無視してクロードとの合流を優先してほしい」
 それくらいやらねば死神騎士を捕縛出来ないとベレトは判断している。ヒルダは珍しく緊張した面持ちでベレトの言葉に頷いた。
 死神騎士を直接攻撃するベレト、リシテア、イグナーツ、ラファエルを攻撃させないためにローレンツとレオニーが増援と彼らの間に立ちはだかったが倒しても倒しても兵が減ってくれない。ローレンツは先にレオニーを輸送隊に武器を取りに行かせた。手元にはもう手槍しか残っていない。ダークスパイクΤが死神騎士を直撃し手応えを感じたリシテアが今です!と叫んだと同時に気の利くレオニーがローレンツの分も新しい槍を持ってきてくれると信じ最後の手槍を投擲した。死にかけでもなければ捕縛などできない。いつの間にか合流したクロードが死神騎士の動きを封じる為に肘を狙ったが躱されてしまう。
「くそ!外したか!魔獣の方がよっぽど当てやすい!!」
 魔獣の分厚い毛皮に突き刺さるほどの強さで矢を放てる者にしか言えない台詞だ。
「殺したければ追ってこい。そろそろ刻限だ……」
「何か隠してやがるな……相手の言うとおりに動くのは癪だが、仕方ない。追うぞ!」
 クロードの命令に従い皆一斉に死神騎士を追いかける。入り込む時はあれほど苦労した要塞を出ていくのは簡単だった。どうやってまた戻るのか、この後どうするのか考えねばならないことだらけだったがそんな焦りや困惑は突如、空から落ちてきた光の杭のせいで消え失せた。帝都アンヴァル攻略のため奪取しようとしていた要塞が全壊している。中に残っていた帝国軍の将兵たちがどうなったのか全く分からない。カスパルは遺体すら見つからないのかもしれない。そんな有様だというのにクロードは目の前の光景に夢中になって考え事を始めてしまった。
「ちょっと、悩んでる場合じゃないよー!また光の杭が降ってきたら死んじゃうよ!」
 逃げようとしないクロードに痺れを切らしたヒルダが逃げるようにうながす。あんなものが再び降ってきたらどんな風に抗えば良いのだろうか。クロードが言う通りこんな途轍もない攻撃方法があるならなぜ今まで使われなかったのか。疑問は尽きない。その一方でローレンツもそしておそらくヒルダもメリセウス要塞を消し去った光の杭ですら消しさることが出来ない疑問をクロードに対して持ちはじめた。
「クロード、君には聞きたいことがあるが、まずは撤収を急がねばなるまい」
 しかしミルディンへ退却することの方が先だった。ミルディンならば光の杭が落ちてこない、とは断言できないのだが。

 命からがら逃げかえったミルディンでローレンツはクロードをかなり厳しく追及してしまった。この拒絶ぶりを予想できていたからリーガン公オズワルドはクロードの出自を徹底的に隠したのだろう。士官学校で一年を共に過ごし五年の時を経て共に戦いグロンダーズで勝利したローレンツとヒルダですらクロードに対する戸惑いと苛立ちを隠せない。
 ヒルダは途中で戸惑いながらも譲歩していたがジュディッドにたしなめられたことからも分かる通りローレンツは明らかに言いすぎたのだ。入浴後、先日は屍山血河といった有様だったアミッド大河を眺めながらローレンツはため息をついた。ガルグ=マクに戻ってもここミルディンでも割り当てられた部屋がクロードの隣なのだ。いずれわだかまりなく話せる日が来ると分かっていても今日は気まずい。石造りの欄干に肘をかけたローレンツは下流を眺めている。視線の先にヒルダの故郷がありもっと先にはクロードの故郷がある。縁があったと婉曲表現を使っていたがクロードはパルミラで育ったのだ。そうでなければ諸侯たちやヒューベルトがクロードの正確な出自に辿り着けないわけがない。
「ローレンツさん」
 振り向くと負傷者の治療を終えて砦に戻ってきたマリアンヌがいた。治療中、前掛けはしていたようでそこだけは怪我人の血はついていないがあとはどこもかしこも乾いた血がこびりついている。彼女が戦場で必死で重傷者の救護にあたった証拠だ。きっとこれから入浴するのだろう。小脇に荷物を抱えている。
「マリアンヌさん」
「これは私の血ではないので……」
 ローレンツが心配そうに自分を頭のてっぺんから下まで眺めていることに気付いたマリアンヌが取り繕うように笑った。乾いて茶色くなった血が袖や裾にべっとりこびりついていようと彼女の笑顔は美しい。
「ローレンツさんこそ大丈夫ですか?」
「何がだろうか?幸い大した怪我を負うこともなくこうしてミルディンに戻れたが」
「クロードさんのことです」
「お恥ずかしながら僕とやつの言い争いなど珍しくもないはずだが……」
 マリアンヌはそっとローレンツの隣に立ちローレンツと同じものを見た。下流にはヒルダの出身地であるゴネリル領、それにクロードの故郷パルミラがある。彼女は何を思うのだろうか。
「私にはローレンツさんがとても悲しそうに見えます」
 そう語るマリアンヌの方こそ悲しそうだった。お前らは俺が嫌いに決まっている、だから世界を変えに来たんだといきなり宣言されても戸惑うだけだ。このローレンツ=ヘルマン=グロスタールを凡百どもと同じ枠に入れお前から嫌われるのが怖かったから言えなかった、と告白されても腹立たしいだけだった。
「いや全ては僕の不徳の致すところだ。驚いてあんな風に反発してしまったから結果としてクロードの主張が正しくなってしまったな」
 雰囲気を変えたくて少しふざけてみたがマリアンヌがローレンツの冗談に気付いているのか無視しているのかが読み取れない。だがマリアンヌの指摘通りローレンツは悲しみを感じたのかもしれなかった。
「ガルグ=マクに戻ったらお二人のために聖典を最初から全て読み返してみます」
 一千年の歴史を誇るセイロス教の聖典は正典と外典それに詩篇の三つからなる。礼拝の際に読み上げられるのは正典が殆どだ。マリアンヌはクロードの本当に反するのか、と言う発言が正しいかどうか確かめようとしている。
「膨大な量だ。マリアンヌさん一人ですることはない。僕も読もう。正典から始めるとして奇数の章はマリアンヌさんが偶数の章は僕が担当すると言うのはどうだろうか?」
 全て合わせると六十六章あるので読む量は二人とも全く同じになる。マリアンヌはローレンツの提案を喜んで受け入れてくれた。

 ミルディンから帝都アンヴァルまでの補給線を確保するのに散々苦労したがそれにも目処がついた。担当していたヒルダとフェルディナントが頑張ったおかげで想定していたより遥かに早く進軍が開始できる。ローレンツは二人を労うために茶会を開いていた。アンヴァルを陥落させれば長きに渡った戦乱もこれで終わりを告げるだろう。手持ちの茶葉を使い切ることに躊躇はなかった。
「だって帝国軍が態勢を整える前に進軍したいってクロードくんが言ってたから〜!」
 ヒルダが先ほどからずっとクロードの話ばかりしているのでフェルディナントが眉尻を下げ声を出さずに笑っている。ローレンツも同じ気持ちだった。彼女は出来るのにやらない、とずっと言われていた。この心境の変化は実に喜ばしい。
「クロードもヒルダさんが奴の希望を叶えるために東奔西走していたことを知ればきっと喜ぶだろう」
 そうだと良いんだけど、と言ってヒルダは照れ臭そうに笑っている。フォドラ最古にして最大の都市に攻め込む前の細やかな憩いのひと時だった。

 ヒューベルトはクロードの倫理観を信頼しているらしい。ミルディンから帝都アンヴァルまでの街道はこちらの物資を狙った野盗は出るもののそれ以外は不自然なほどに無防備で不気味だった。
「斥候はいるんだろうが軍装を解かれると正直言ってこちらには見分けがつかん」
「でもクロードくん、この段階で今更大胆に方針を変えちゃおう、なんてことはもうお互いに出来ないでしょ?」
 迎撃しやすいように先方がわざと開けた穴から侵入して罠を食い破りエーデルガルトを目指す以外に新生軍には勝ち目がない。正攻法で戦って打ち破るために必要な兵や物資を用意する間に向こうは占領したファーガスを更に搾り上げて更に軍備を増強するだろうしこちらの開戦準備の妨害もするはずだ。クロードがヒルダの言葉に頷く。
 それまで散々皆で議論を尽くしていたせいかアンヴァルに最も近い宿場町で行った最後の軍議はかなり短く終わった。一度突入してしまえばエーデルガルトを倒さなければ出られないということは皆分かっていたからだ。

 帝都アンヴァルはセイロス教の開祖セイロスが教えを説き始めたセイロス教にとっての聖地でもある。帝国軍の優秀な工兵たちはその聖地を躊躇せずに破壊し街中を砲台だらけにしていた。開戦前の帝都アンヴァルをよく知るフェルディナントとリンハルトは苦虫を噛み潰したような顔をしている。迎撃用の魔獣が闊歩する街中はクロードが腕を振り下ろす前から既に破壊されていた。自然に発生する魔獣と違い帝国軍が使役する特有の魔獣が何で出来ているのか新生軍の者たちは皆知っている。
「私とエーデルガルトはそりが合わなかったがそれでも私ならエーデルガルトの名でこんなことはしない」
 辛そうなフェルディナントを慰める言葉をローレンツは持っていない。この後本格的な戦闘が開始されれば街は瓦礫の山と化す。
 本隊を率いるベレトが死神騎士を倒しローレンツたちがヒューベルトを倒したらそこままエーデルガルトが籠城している宮城へ攻め込むことになっている。エーデルガルトはヒューベルトの信頼や忠誠に応えるため自らを新生軍を引き寄せる餌にしていた。
「早急に終わらせてしまおう。長引かせては市街地への影響が出るばかりだ」
 ローレンツの言葉を聞いたフェルディナントは投石機や砲台だらけの街を迷うことなく駆けていった。魔法に弱いフェルディナントだが魔法職の者の胸元に入ってしまえばあとは腕力の問題になる。ローレンツはフェルディナントにマジックシールドをかけてやるため彼の後を追いかけた。

 こちらもあちらも命懸けの大将戦は辛うじて新生軍の勝利に終わった。ドゥドゥが宮城の構造について教えてくれたおかげなのか、教えてくれたせいなのかクロードとヒルダは酷い目にあっている。鍵で施錠された空間にリシテアのワープでベレトと三人揃って放り出されエーデルガルトと直接対決する羽目になったからだ。 
 ベレトは平然とした顔で追いついてくれた後続部隊の者にあれやこれやと指示を出しているがクロードもヒルダもフェイルノートとフライクーゲルに縋り付かねば立っていられない。兵士たちの手前、倒れたり座り込んだりするわけにはいかないが足も腕も限界を迎えつつある。
「きょうだい、いくらなんでも無茶がすぎる……」
「死んじゃうかと思った……」
 鍵を開けつつ徒歩で移動していたため玉座の間への到着が遅れたマリアンヌが安堵の涙を流しながらヒルダとクロードに回復魔法をかけていた。たまたま後続の部隊に配置されただけのイグナーツとアッシュも顔を真っ青にしている。二人ともハンターボレーが使えるのでドロテアやペトラ相手にクロードと同じことをやらされていたがエーデルガルトは格が違う。
「残敵の掃討とレアの捜索をするついでにこの宮城にある書類を全て持ち帰る。暖炉の中の燃えさしも回収してくれ」
 実は皆、事がここに至るまで何故エーデルガルトが戦端を開いたのか分かっていない。確かに宣戦布告はあったが誰もあれが真の理由だと思っていなかった。マリアンヌのおかげで支えなしに立てるようになったクロードが手を叩く。
「もう一踏ん張りだ。皆、頑張ってレアさんと書類を探して欲しい。誤解を避けるため宝物には触れないように。だがこれだけ迷惑をかけられたんだ。エーデルガルトから酒くらいは奢ってもらっても良いだろう」
「あの……こういうところですので毒や呪いがかかっている可能性もありますから……」
 宮廷内の権力争いのことを思えばマリアンヌの発言は至極真っ当だった。勝ったその日に毒入りの酒を飲んで死んでしまったら死んでも死にきれないだろう。
「確かすっごい大きな広間があったよね!じゃあそこに皆で持ち寄って飲んでも平気か確かめようよ!」
 ヒルダの提案どおり晩餐会用の大広間に書類と酒や食糧を集めることになった。散開し本来の主が失せた巨大な宮城の中を歩いているとこれが現実なのか夢なのか分からなくなってくる。大司教であるレアと書類を探さねばならないのだがローレンツの足は地下の貯蔵庫を目指していた。酒蔵は大抵、気温が低く安定している地下にあるものだ。歴史の古いこの宮城ならばレスター諸侯同盟が出来た頃の葡萄酒も酒蔵に置いてあるかもしれない。長い廊下に敷かれた絨毯がローレンツの靴底の血を拭き取っていく。彷徨い歩いているうちにようやく二階にも地下にも繋がる階段を見つけた。欲望の赴くままに地下に降りるか名目を保つために一応、二階の部屋を漁るかローレンツが考えていると上から足音が聞こえてきた。それなら階段を上らざるを得ない。踊り場に差し掛かると慌てた様子のマリアンヌから声をかけられた。
「ローレンツさん!あの、ええと……」
「マリアンヌさん、どうしたのだ?!」
 マリアンヌは治療以外では人との間に距離を保つというのに持っていた書類を床に置くと慌てて手を上に伸ばしローレンツの口を塞いだ。とにかくローレンツに声をひそめて欲しいということは充分伝わったので一旦離れて口を閉じ内緒話がしやすいように首を傾ける。律儀なマリアンヌがローレンツの耳元に口を寄せた。
「ここの二階には行かないでください!あの、その、ヒルダさんとクロードさんが二人きりでいるので……」
 代々国境をパルミラから守ってきた一族の娘であるヒルダと明言はしなかったがパルミラの血を引くであろうクロードには話し合わねばならないことが山ほどある。きっと両国の口さがない者たちは受け継いだ伝統を蔑ろにして敵国の者と愛を育むのか、と二人に言いたてるだろう。そんな連中を黙らせるには二人の絆が何よりも重要になる。
「繋がっている階段はここだけだろうか?」
「隠し部屋の類がなければおそらくは……」
「では書類を置いていって貰えないだろうか。ここで僕が検分していれば誰も二階には上がれない」
 集められた酒や肴の安全確認が出来るのはマリアンヌとフレンだけだ。早めに大広間に行ってもらわねば仲間達の恨みを買う。ローレンツはマリアンヌが外すのを手伝ってくれた籠手と槍を傍に置き階段に座り込んで建前や形式を守るために書類を眺めていたがそれでも興味深く夢中になってしまった。
「よ、ローレンツ先生。ガルグ=マクに戻るまで我慢できなかったのか?」
 上段から声をかけてきたクロードの顔は逆光でよく見えないがひどく機嫌の良さそうな声をしている。我慢できなかったのはどちらなのだと少し腹の立ったローレンツはズボンの隠しから手巾を取り出しさっさと階段を降りて逃げようとしているクロードに渡した。彼はこの階段を無人にするために逃げようとしている。クロードが逃げればローレンツは追いかけざるを得ない。きっと後から時間差をつけてヒルダが降りてくるのだ。
「人前に出る前にこれで顔を拭け」
 クロードは頬を、続けて口元を拭い自分で手巾を確かめている。自白したも同然のクロードは軽く首を横に振り舌打ちをした。
「ローレンツって他人のこと、そういう嵌め方するんだな!」
 ローレンツは引ったくるようにして手巾をクロードから取り返した。五年前マリアンヌから貰った手巾に口紅の跡は残っていない。当然だろう。ヒルダに化粧直しなどする時間はなかったからだ。
「言っておくが君たちが二人きりになったことに最初に気付いたのはマリアンヌさんだからな?!」
 ローレンツの言葉を聞いたクロードは呻き声をあげている。傍を通りかかってしまったマリアンヌのためにも軍規のためにもどうか二人の立てた物音が話し声だけでありますようにと願いながら書類を半分クロードに持たせた。畳む