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雑多です。
#かのひとはうつくしく
#クロヒル
#ロレマリ
19.sequel:L&M

 紋章を持つ貴族同士の婚姻は動物の品種改良と似ている。好ましい形質が確実に顕になるよう交配していくからだ。逆に好ましくない形質を持つものは間引かれる。マリアンヌの実父は"おこり"を恐れていた。モーリスの紋章を持つ子供はそれはそれは美しく生まれてくるのだという。両親は美しい乳児を愛さずにはいられない。子供は自分の一族にかかった呪いを知らずに育つが子供の成長と時を同じくして呪いはゆっくりと親を侵蝕していく。
 "おこり"いや"興り"が訪れると最初はぼんやりする時間が増える。言動に異常をきたしてしまえばもう死ぬまで止まらない。人格が崩れ獣性が剥き出しになっていく。獣性が剥き出しになれば社会的に破綻し最後はヒトの形を保てなくなる。ヒトのまま尊厳を保ち周囲から愛されて生涯を終えたいなら早く死ぬしかない。モーリスの紋章を持つ一族は前線で全く武器を持たず治療に専念する修道士や都市の消火隊など危険な仕事に従事するようになった。その結果かつて社会から根絶やしにされかけた一族は信頼を回復し地方で領主を務めるまでになった。それでもモーリスの紋章を持つ一族の生存戦略は変わらない。
 聡い子供だったマリアンヌは父方の一族が他者からの愛や情けを人質に生き延び子をなしているのだと気づいた時、女神に独身のまま死なせて欲しいと祈った。しかしその祈りは聞き入れられず父は"おこり"を迎え母は実家の力を使ってでも生き延びるよう娘に伝え父と共に姿を消している。その全てを悟った上でマリアンヌを引き取ったエドマンド辺境伯は多忙な身でありながら死に取り憑かれた養女から目を離さなかった。

 彼は周り中からやり手だと恐れられていたがマリアンヌの両親について語ると感情が処理しきれず泣いてしまうことが多い。それを本人も自覚しているのか近頃は召使いや家臣たちに見られぬよう出先で話すようになった。血が繋がっているせいかマリアンヌもエドマンド辺境伯も馬が大好きで今日も子馬が生まれたという馬場まで二人で赴いている。そして不思議なことに普通なら子馬を守るために気が立っている時期の母馬に近寄っても二人とも嫌がられることがない。血統管理を徹底して行った周囲の期待通り見事な子馬を産んだ母馬は牧場で誇らしげにしている。
「お養父さま、私の計算があっていればこの子は芦毛です」
 芦毛は馬の毛色の中で最も興味深いかもしれない。成長や老化に伴って色味が変わっていくからだ。そして芦毛同士で掛け合わせても子馬が芦毛になるとは限らない。
「そうか、マリアンヌがいうならきっとそうなのだろう。お前の結婚相手も馬が好きだといいな」
「私は結婚しません……お養父さまも結婚していないではありませんか」
 エドマンド辺境伯は周囲から結婚を勧められても自分に正直であるためだ、と嘯きずっと独身を貫いていた。だからといって女遊びが激しいという訳でもない。マリアンヌを引き取ったことは次善の策として周囲から歓迎されたがマリアンヌ本人は自分と実父がエドマンド家に入り込んだ異物だと認識している。
「お養父さま、私のことが邪魔になったらいつでも養子縁組を解消してください」
 マリアンヌはエドマンド辺境伯の血が繋がった姪だが養父が結婚し子を成したら絶対に実子を優先して欲しいと思っている。だが結婚せずとも満たされているから、と言って頑なに妻を娶ろうとしない。
「私は自分の愛が報われた証をそんな風に手放しても平然と生きていられるほど強い男ではないよ」
 死に瀕して子供を託されるほどの愛や信頼を手に入れた証がマリアンヌなのだ、とエドマンド辺境伯は繰り返す。だがそこには大きな謎があった。
「では何故私を士官学校へやるのですか?」
「ああ!マリアンヌ見てご覧!もう歯が生えている!」
 エドマンド辺境伯は鼻を擦り寄せてきた子馬の咥内が一瞬見えたのが嬉しかったのか養女であるマリアンヌの声を遮ってしまった。だが同じ動物好きとしてマリアンヌにもその気持ちは分かる。
「まあ!なんて可愛らしいんでしょうか!」
「だがどうやらまだ前歯だけだ」
 生まれたばかりの子馬は臼歯がないのでまだ飼い葉が食べられず母乳頼りだ。馬は歯が生え揃っても臼歯と前歯の間に大きな隙間がある。セイロス教ではこの馬銜を噛ませるのにおあつらえ向きのこの隙間こそが女神がヒトに馬を与えた証だと言われている。馬銜がなければヒトは馬を使役することができない。豚や鶏のように食糧として繁殖させるだけにとどまっただろう。モーリスの紋章は隙間なく歯が生えた馬のようだ。モーリスの紋章を持っている者は馬銜と手綱で操ることが出来ない馬に乗せられて死ぬまで下馬することが叶わない。エドマンド辺境伯は母馬の真似をして水桶に顔を突っ込んでいる子馬を眺めながら話を戻した。
「先ほどの話だが……ガルグ=マクで友人を作ってほしいからだ。運が良ければ私のように愛と信頼を手に入れられるかもしれない」
 愛も信頼もマリアンヌには縁遠く感じられた。あまり乗り気にはなれなかったが逆らう気力もない。新生活の支度に熱心なのはエドマンド辺境伯だけで身の回りの品をああでもないこうでもないと忙しいだろうに選んでいてなんだか現実感がなかった。

 そして今も現実感がない。薄明の中でローレンツがマリアンヌの前で膝をついている。場所は現在ではベレトが住み着いている旧リーガン邸の四阿屋だ。空の色は刻々と変わり太陽の赤と空の青を混ぜたような紫色になっている。晴れの日のデアドラは陽が落ちるたびに数分間、色を塗り替えられるのだ。
「マリアンヌさん、僕と生涯を共に過ごしてほしい。僕はいかなる時も貴女の支えになる」
 戦後、雲隠れしたクロードの代わりにマリアンヌもローレンツも水の都と名高いデアドラに呼び出され戦後処理の手伝いをしていた。二人とも一度は自領の復興のため地元に戻ったがベレトに呼び出された後はデアドラの上屋敷に来てもらっているだけで領地には戻れていない。季節が一巡し流石にもう一度きちんと領地に戻らねばという頃になってマリアンヌはローレンツと共にベレトから夕食に招かれた。その帰り道にこのような状態になっている。
 家格も釣り合っているし戦争も終わった。親に言えば全てがお膳立てされた筈だ。だがきっとローレンツはそれが嫌だったのだ。名家の者同士の結婚は事業と変わらない。マリアンヌの為だけの言葉をいつどこで告げるのかくらいは二人だけのものにしたかったのだろう。
 マリアンヌが黙って頷くとローレンツは左手の薬指に指輪をつけてくれた。いつの間にか陽は完全に落ちリーガンの紋章のような月と瞬く星が辺りを白く照らしている。

「私、自分にこんな未来が待っているなんて想像もしませんでした。毎日笑顔でいられるのはローレンツさんのおかげです」
「承諾してくれてありがとうマリアンヌさん。この手紙も無駄にならずに済んだ」

 ローレンツが胸元から取り出した封筒を月明かりの下で確認すると宛先はマリアンヌの養父であるエドマンド辺境伯になっている。
「お気遣いありがとうございます」
「速やかに直接ご挨拶に伺うつもりでいるから待っていて欲しい」
「ところでローレンツさん、この指輪はもしかしてヒルダさんが?」
「指の寸法を知らないかと手紙で問い合わせたらこれが届いてね。貴女がたの友情の証でもあるからこれを渡すべきと思ったのだ。だが結婚指輪は二人で選びたいな」
 クロードが会えない間のご機嫌取りにパルミラから宝石や研磨用の道具を寄越してくる、とヒルダが言っていた。大ぶりの金剛石は何かの牽制や誇示のつもりなのかもしれないがそれが流れ流れてマリアンヌの元へ辿り着いている。その思い切りの良さが実にヒルダらしくマリアンヌとローレンツは笑いを堪えることができなかった。

 エドマンド辺境伯は養女が持参したローレンツからの手紙を受け取り中身を確認するとマリアンヌの両親を偲ぶ祭壇にそっと置き深い深いため息をつくと右手で瞼を押さえた。この手紙を受け取るべきだった二人はもうこの世にいない。
「何か嫌なことがあればすぐにこちらに戻って来なさい。いつでも歓迎する」
「その……宜しいのでしょうか?」
 将来のエドマンド辺境伯としてマリアンヌは引き取られている。共同で双方の領地を統治している夫妻もいるがやはり今までのようにはいかない。
「そうだな、寂しくないと言えば嘘になる。だが円卓会議で婿殿をいびる楽しみができたから差し引きで損はしていない」
 養父がローレンツを婿殿と呼んだのでこの話は本決まりなのだとマリアンヌは察した。自然と笑みが溢れだす。
「あの……!ありがとうございます!」
「仕立て屋を呼ぼう。未来の婿殿を迎えるにあたってマリアンヌも私も美しく装わねば」
 一年近く自領に戻れなかったせいかローレンツがエドマンド領を訪問出来たのはデアドラで婚約指輪を受け取って貰えた日から数えて二節後だった。レスター諸侯同盟の南西部にあるグロスタール領と北東部にあるエドマンド領はかなり離れておりそもそも移動にも日数を要する。
 将来の舅からデアドラでは何度もきつい物言いをされたのでローレンツはそれなりに緊張していたが二ヶ月ぶりに小間使いの手を借りて美しく装ったマリアンヌの顔を目にすれば旅の疲れも含めて消え失せた。儀礼を完璧にこなすのが得意なローレンツは今のところエドマンド辺境伯から突飛なことを言われていない。この後は食事を共にしローレンツが日帰りできない遠方から訪れているためこの屋敷に一泊して帰る。当然泊まるのは客室だ。
 将来の花嫁の父は途中二年間の抜けがあるとはいえ十一年間大切に育ててきた娘を手放すのが寂しいのか気がつくと食事の手を止めてマリアンヌの顔を見つめている。正式な養女になっているがマリアンヌはエドマンド辺境伯の妹の娘、つまり姪だ。森の奥深くで人語を話す魔獣を倒した晩にマリアンヌが全くの他人ではないのだと話してくれた。二人の佇まいが似ているのは血縁者だからかもしれない。ローレンツがエドマンド領の名物である固い麺麭の上に香草のソースと魚介と野菜を何層にも重ねたサラダを褒めると二人とも満足そうに微笑んだ。
「モーリスの紋章はマリアンヌの実父やマリアンヌの本質ではないのだ」
 そういうとマリアンヌの養父は一気に葡萄酒の杯を空けた。本来なら召使いがお代わりを注ぐべきだが人払いをしているので皆、手酌で呑んでいる。例外中の例外だが繊細な話題を扱うので仕方なかった。
 ローレンツはマリアンヌから縁を切られるのが嫌で一度は聞くことを拒絶したモーリスの紋章に関する話もあの晩に聞いている。モーリスの紋章を宿す一族のうち社会に尽くそうとしなかった者は身を持ち崩しても誰も助けてくれなかった。"おこり"がいずれ来ると分かっていても見捨てられなかったのは献身的に社会に尽くした者たちだ。人懐こい犬だけが社会に受け入れられ愛されたように彼らは生き残りを賭けて自制心を強く持ち献身的に社会に尽くしてきた。
「狂おしいまでの生への渇望やそれを後押しする自制心や献身的な態度こそが本質だと私は考えている」
 そういうとエドマンド辺境伯は自領の名物である栗の粉で作ったパスタを口に運んだ。ローレンツは生まれて初めて食べたが絡めてある胡桃から作ったソースと実によく合う。
「僕も同意見です。モーリスの紋章はマリアンヌさんが愛されない理由にはならない」
「その通りだ。ローレンツくん。だから私も妹もあいつが……マリアンヌの実父がとても好きだった。我々は領地と門地に尽くし守るために生きろと言われて育ったがそれを破ってしまうほどに」
 ローレンツは自分が見ているものが信じられなかった。あのエドマンド辺境伯が人前でしかも重要な食事中に手巾で目元をぬぐっている。エドマンド辺境伯の弱さに触れたのは初めてだ。
「世間から見れば正しくない愛なのだろうがそんなことはどうでもよくなるほど私も妹もマリアンヌの実父のことが好きだった」
「そのお気持ちは……僕にもわかるつもりです。痛いほどに」
「マリアンヌは私にとって妹とあいつからの愛と信頼の証なのだ。だがモーリスの紋章にまつわる悪評は根強い。この子は見違えるほど強くなったがそれでも守ってやってほしい」
 エドマンド辺境伯はマリアンヌを守るためにあのハンネマンに検査を諦めさせるほどの大金を積んだ。市井の紋章学者が押しかけたこともあったが小物だったから金を握らせておくべき学者に入らなかったのだろう。
「お養父さま……今まで本当にお世話になりました」
 それまで二人の会話を妨げないために黙って食事と葡萄酒に口をつけていたマリアンヌが口を開いた。あからさまに飲みすぎている養父を心配して差し伸べた手の薬指ではヒルダが作った指輪が光っている。
「めでたいことがあったから今晩は呑みすぎたな。私は先に休ませてもらう」
 既に皆の皿は空になっていたのでマリアンヌが鈴を鳴らし召使いたちに皿を片付けさせた。瞼が上がらなくなりつつある主人の姿を見て執事が肩を貸している。マリアンヌはローレンツを連れてそっとその場を離れ客間に通してくれた。到着した時に渡した旅行鞄が既に運び込まれている。
 マリアンヌが後ろ手で鍵を閉めてくれたのでローレンツはずっと疑問に思っていた、本来ならば口にするべきではないことをようやく口に出来た。確かめておかねば今後、舅相手に失言する可能性もある。
「ところで……その……どうしても気になってしまうのだが」
 ローレンツには三人のうちにいくつも成立する相関関係が全く分からない。辺境伯の言う正しくない愛の対象が妹なのか妹の夫なのかすら分からない。
「お養父さまに確認したことはありません。学生時代は道に外れた愛に身を捧げた親たちのことが全く理解できませんでした」
 確かに学生時代のマリアンヌは死によって救われることを望んでいた。だが今は見違えるように明るくなっている。
「でもローレンツさんを好きになって少しは理解できたような気がします」
 それは光栄だ、と言葉で伝えようとしたがつま先立ちになったマリアンヌの唇で口を塞がれてしまったのでそれは叶わなかった。畳む
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これは昔カレー沢薫先生にオンラインサイン会で描いていただいたローレンツくんです。
今使っているデザインだと投稿にユーザーアイコンが要らないんですが気が変わった時の為にアップしておきます。
HN
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鳥だったところにこの単語で登録するために前後を飾り付けただけなので数字は読んでも読まなくてもよいです。名前なんてものはしょせん記号に過ぎないので……。

おたくがらみの傾向
好きなもの
・生理痛が重そうな二次元のイケメン
・権力構造に敏感な存在

苦手なもの
・R18において人間と実在する動物(馬とか犬とか)が絡むやつ
・推しカプが社会の機能不全の犠牲になることを美化する話
・キャラに作者がマウントを取っているように感じられる作風
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canvaで適当に作ったこのサイトのバナーです。
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同じくcanvaで適当に作ったこのサイトのヘッダーです。

本当に倉庫や物置でしかないのでこのサイトの名前はhorreumです。
万が一リンクを貼りたいという場合は
https://horreum.sub.jp/teg/tegalog.cgi?
に貼ってください。
バナーは持ち帰りでお願いします。
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#[れいほし3]
黎明の星の下にて3開催おめでとうございます!
ポイピクやくるっぷが重かった時に備えて個人サイトにも展示物を置いています。
てがろぐの仕様でハッシュタグに数字が入っていると分離されてしまうのでTwitterのタグと違って[]で囲んだ独自タグを使っています。

「雷雨」
翠風ルートのクロヒル+ロレマリ小説です。
戦後、クロードとヒルダが暮らす宮殿に金鹿の皆で遊びに行く話です。

通販の一覧です

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かのひとはうつくしく-通販
翠風ルートのクロヒル+ロレマリ小説です。支援Cから結婚するところまでの長編です。
本文はこちらのハッシュタグから
#かのひとはうつくしく

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かのひとはうつくしく2-通販
翠風ルートのクロヒル+ロレマリ小説短編集です
本文はこちらのハッシュタグから
#かのひとはうつくしく番外編

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真昼の月と花冠-通販
無双青ルートのクロヒル+ロレマリ小説です。
本文はこちらのハッシュタグから
#真昼の月と花冠
「雷雨」

「かのひとはうつくしく」のboostお礼用冊子なのでそちらを先に読んだ方がわかりやすいかもしれません。
#クロヒル
#ロレマリ
#かのひとはうつくしく
#[れいほし3]



 子孫繁栄は民草から皇族までありとあらゆる階級の願いだ。爵位がある貴族の家ともなれば子を成すことは大前提で、それが紋章を受け継ぐ男子であれば尚良いとされている。マリアンヌを見そめたグロスタール家の嫡子は周囲の期待を裏切ることなくグロスタールの紋章を持つ男子として生まれた。彼の御母堂はきっと安堵の涙を流したのであろう、とエドマンド辺境伯は思う。一方で養女のマリアンヌはモーリスの紋章を持たずに生まれてくることを期待されたが、実父から呪いを受け継いだ。行方不明になった妹と彼女の夫のことを思うと呪いが解けた今でさえ───辺境伯は未だに涙を禁じ得ない。
 寂しくもめでたいことがあり、呑みすぎたエドマンド辺境伯は真夜中に目が覚めてしまった。目覚めてよかったのかもしれない。辛うじて上着は脱いでいたが寝巻きに着替えてもいないし、何もかぶらずに寝てしまったので耳や頭が冷え切っている。喉の渇きを潤すために杯に注いだ水差しの水も冷え切っていた。
 今からグロスタール家と準備を始めるならば挙式は年が明けた春ごろだろうか。グロスタール領はここエドマンド領より南なので暖かいし陽の光も明るいので、それを計算して礼服やドレスの生地を選ばねばならない。きっと光沢がある華やかな生地が良いだろう。エドマンド領はフォドラの喉元と呼ばれる山脈の北端を擁しており、その麓は生地作りが盛んだ。食い倒れはアンヴァルで着倒れはデアドラ、デアドラで服を買うための服が要る、などと言われるがそのための生地はエドマンド領で作られていて、良港と名高いエドマンド港は生地を輸出するための港でもある。
 辺境伯は持参金も嫁入り道具もマリアンヌを引き取った頃から何年もかけて用意していた。だが嫁入りとは言ってもあの性格だ。友人ができたとしても将来的には彼女が嫌悪感を持たずに済むような入り婿を探してやることになるだろう、と思っていた。自分の死後マリアンヌが一人きりにならないように。
 それが何とグロスタール家の嫡子に見初められたのだという。生真面目で独特な彼はマリアンヌの本質に気付いたのだ。
「やるじゃないか」
 マリアンヌとローレンツ、どちらに対しての言葉なのだろうか。決めかねたまま脳裏に浮かんだ言葉をそのまま呟いた。エドマンド辺境伯は寝巻きに袖を通し絹の帽子を被ると再び寝台に横たわり、布団の中に潜り込み雨が窓を叩く音に耳を澄ませる。遠くで雷の落ちる音がしていた。朝食を共にしたらとんぼ返りをさせるのが筋だが、明日もこの調子なら雨足の強さを言い訳にもう少しだけマリアンヌと一緒に居させてやっても良いのかもしれない。

 グロスタール伯は功利的で良き嫡子として父の薫陶を受けたローレンツもその傾向が強い。エドマンド辺境伯はまだ髪が短かった頃の彼を覚えている。あれはクロード=フォン=リーガンが正式にリーガン家の嫡子になった頃だろうか。出席は叶わないものの円卓会議に随行していた彼はクロードの出現により、その手からこぼれ落ちていった栄誉の大きさに打ちのめされていたが必死で面目を保とうとしていた。───具体的に言うと手巾を噛み締めていた。

 水の都と言われるデアドラは水路だらけで転落事故がよく起きる。会議を終えリーガン邸の船着場からそれぞれの上屋敷に向かう渡し船を皆で待っていた際、グロスタール家の家臣が船着場から水路へ転落しそうになった。慣れていない余所者であるが故の失敗なので仕方がないだろう。蜘蛛のように長い手足をしたローレンツは咄嗟に目の前の家臣を抱き上げたが、足首が二人分の体重に耐え切れなかった。まだ体幹が弱く姿勢に問題があったのだろう。彼の足首からは嫌な音がして、助けられた家臣は悲鳴をあげていた。足首がおかしな方に曲がったローレンツは息を荒げ涙目になっていて歩けないのは明白だったからだ。
 エドマンド辺境伯は既に渡し船へ乗り込んでいたグロスタール伯に声をかけた。
「私が治療しますのでどうかお座りになったままで。ご子息の足に触れさせていただきます。君、手巾は持っているかね?」
 ローレンツが痛みに顔を顰めたまま上着の隠しから手巾を取り出したので噛むように命じる。治癒魔法は大体の怪我を治療出来るが、関節や骨を元の位置に戻してからかけないと足が曲がったまま治ってしまう。
「三・二・一で戻す。痛いが我慢しなさい。そのあと私がライブをかける」
 三秒後、言葉にならない呻き声が頭上から聞こえてきたが彼はなんとか喚き散らさずに済んだ。表面だけ見れば親切なエドマンド辺境伯という話だがそこにはきちんと絡繰がある。リカバーやリブローが使える者なら骨接の真似事など必要ない。リーガン邸の敷地内で起きた事故なのだ。人をやって邸内にいるリカバーやリブローの使える使用人に声をかければよい。そうしてリーガン家に借りを作るのか、それともこれをきっかけに嫡子とエドマンド家の間に繋がりを作ろうとするのかを見定めたかったのだ。
 あの時、手巾を噛み締めていた若者が大乱を生き残りエドマンド領まで挨拶に来たと言うのだから人生は何があるか分からない。彼は今頃、夢も見ないほど深く眠っているのだろうか。それとも緊張のあまり眠れず───夜半すぎに鳴り始めた雷の音に耳を傾けているのだろうか。

 雷鳴に紛れて小さく呻きながらマリアンヌは自室の寝台の上で何度も寝返りを打った。眠れないのは雷のせいではない。雷が鳴りはじめる前から眠れなかった。
 マリアンヌは呪いが解けた晩からローレンツと二人きりでいる際に人気のないところでは素手同士で手を繋いだり頰や額に口づけをしたり、と言うような他愛もない触れ合いは何度もした。しかしその度に我が身に湧き起こる言いようのない衝動がマリアンヌにはなんとも恐ろしかった。ローレンツがその先を望んでいることは承知している。結婚したら将来的には二人で二つの領地を治めねばならない。だが婚前からこの衝動に従ったらマリアンヌはローレンツから片時も離れられなくなるような気がする。
 マリアンヌが顔を真っ赤にしてそう語るとローレンツも耳まで赤くして了承してくれて、それがその時に食べていた茹でた海老のようだと思ったのを覚えている。ローレンツは自制心の塊のような人物でそれ以来ずっとマリアンヌの心の準備が整うのを待っていてくれた。
 マリアンヌが宿すモーリスの紋章は獣の紋章と言われる。自分の巣とも言えるエドマンド家の本宅で初めて緊張が解けるなんてまるで獣ではないか。客室でのことを思い出すと居ても立っても居られないくなった。彼の口の中も舌も熱くてそれが堪らなく心地良かった。たったそれだけだったというのにローレンツの体温の高さがマリアンヌにもうつったかのようだった。
「あの……ごめんなさい」
「いや、正直言って望んでいたことではあるから謝る必要などないさ。ただ驚いただけで」
「驚かせて申し訳ありません……」
 マリアンヌは夜になるといつも身体が冷え切ってしまうのだが今晩は違う。怒涛のように押し寄せる気恥ずかしさとその会話の後この身に受け入れた熱の記憶が身体から去ってくれない。それでもいつの間にかやってきた眠気がマリアンヌを包んでいく。意識を手放してから小間使いに起こされるまでは一瞬だった。髪を結い上げて貰い身支度を整える。ローレンツが気休めかもしれないが、といってライブをかけてくれたおかげで身体に痛みはなかった。治癒魔法はどこまでを負傷とみなすのだろうか?完治してしまえばまた痛い思いをするのかもしれない。ヒルダと会って話したかった。
 窓からは昨夜の雷雨が嘘のように陽の光が差し込んでいた。きっと小鳥たちも安心したことだろう。食堂へ行くと既に養父であるエドマンド辺境伯と今や婚約者になったローレンツが席について朝食を取っていた。マリアンヌはあと何回この食堂で朝食をとるのだろうか。
「昨夜の雷はすごかったな。私はあまり良く眠れなかった」
「そうでしたか。僕は野営の時も背中さえつけばすぐに眠ってしまうので雷が鳴っていたことにすら気付きませんでした」
 行軍中の休憩時間に彼がすぐに眠りについていたのはマリアンヌもよく覚えている。ローレンツは行軍中でも豪奢な寝台で羽毛布団にくるまっているかのようにすやすやと眠っていた。いくらなんでも嘘だ、と言って瞼を動きを確かめたクロードが驚愕していたのは確かグロンダーズだったか。昨晩、無理なことだとわかっているが、との前置き付きで朝まで一緒にいて欲しいとマリアンヌに言った後もどうやらすぐに眠ってしまったらしい。
「マリアンヌはどうだった?」
「あ……私もお養父さまと同じです。雷のせいで目が覚めてしまって……」
「目の下に隈が出来ているよ。今晩は早く休みなさい。しかし婿殿は頼もしいことだ」
 養父がローレンツの寝つきの良さに感心しているのか嫌味を言っているのかマリアンヌには簡単に分かる。しかしローレンツが本当に眠ってしまったのかどうかは全く分からない。野営の時と同じく熟睡していても、眠れなかったのに虚勢を張っていても何だか可愛らしいとは思う。
「何にしても晴れてよかった。グロスタール領は遠い」
「荷物はまとめてありますので天気が崩れる前にここを発つつもりです」
「そうか、ではマリアンヌにお見送りさせよう」
 雨さえ降ってくれればもう少しエドマンド邸にいられた筈のローレンツはしきたり通りに早々に去ることになった。玄関の扉を閉めれば少し耳が遠い馬丁しかいない。
「出来るだけ早く養父と共にグロスタール家へ挨拶に伺います」
「辺境伯はお忙しいからしばらく時間がかかりそうだ。一日千秋の思いで待っているよ。ではお元気で」
 マリアンヌは馬車に乗り込もうとしたローレンツの肘を掴んだ。驚いたローレンツが振り返る。
「でも、その前に手紙のやり取りをしたり……それにデアドラでお会いできませんか?」
 真意を理解した彼が目を大きく見開いたので菫青石のような瞳がよく見えた。デアドラは直線距離はともかく、交通の便を鑑みれば確かにエドマンド領とグロスタール領の中間地点でどちらの家も上屋敷を持っている。
「式や新生活の支度は確かに必要だね」
 そして買い物の後で親が来ていない方の上屋敷に泊まればローレンツの望み通り、朝まで共に過ごすことができるだろう。前後の順番が多少ずれて書類の都合上の早産、をすることになったとしても気の良い恩師は地上における女神の代理人として急いで二人の結婚を認めてくれるだろう。そこさえ整えておけば後は何とでもなるのだ。

 パルミラの王都に招かれたローレンツは身辺警護と称してレオニー、イグナーツ、ラファエルを雇い、爵位を返上したリシテアをマリアンヌの話し相手兼付き人として雇っている。王都までの道中は学生時代に戻ったかのような気楽さだった。
「ローレンツ、あんた完全にクロードに利用されてますよ」
「だがクロードの傍にいるヒルダさんの期待に応えないわけにはいかないだろう?たとえこの僕がおまけだとしてもな」
 遠慮なく切り込むリシテアにローレンツが反論している。クロードは友人と会いたがるヒルダのため、マリアンヌを招待したかったのだが人妻だけを名指しするわけにいかない。だから夫であるローレンツに招待状を出したのだ。ヒルダの立場はまだ王子の愛姫でしかない。クロードが立太子の礼を経て結婚し、フォドラとパルミラ両国の間で和平条約が締結されなければヒルダの名前で客人を呼ぶのは難しいのだ。
 異国からの書状を読んだローレンツは当然マリアンヌが身軽なうちに顔を見せに来て欲しい、という意図を察した。実際のところローレンツは貴重な品を持ち歩かない限り、マリアンヌと二人でいれば護衛など雇う必要もない。マリアンヌもローレンツがいれば話し相手や付き人など雇う必要もない。だが敢えて爵位を返上して隠遁生活を送っていたリシテアも話し相手として雇った。そうした方がヒルダもクロードも喜ぶと分かっていたからだ。
 千年祭の約束の時もそうだったが立場が変わり、その生活に少し疲れたところで日常を離れると良い気分転換になる。友人たちと共に異国の風景に感嘆の声をあげながら街道を進むとあっという間に目的地であるパルミラの王都に到着した。フォドラとは全く異なる道中の景色や街並みをイグナーツが熱心に描き残している。王宮の門ではナデルがローレンツたち一行を待ち構えていた。
「グロスタール伯は随分と奥方にお甘いようで……」
「君の主人も相当だろう。何にしても雨に降られる前に着けて良かった。荷物を濡らしたくない」
「そうですな、幸運でした。あの雲の形からすると今晩は雷がうるさくて眠れないかもしれません」
 パルミラに入ってから久しぶりに流暢なフォドラ語で話しかけられ、気安い雰囲気にはなったがやはり入念な検査があり武器や魔道書の類は取り上げられた。ローレンツたちは学生時代、クロードに外国の血が混ざっているなどと考えたこともなかった。しかしこうして王宮の応接間で母国の服に身を包む彼を見ていると瞳の色以外フォドラの血を感じさせるものがない。そしてそんな彼の傍にはパルミラの服に袖を通していてもフォドラ人にしか見えないヒルダがいる。
「みんな来てくれたんだ!!すっごく嬉しい!!ありがとう!!」
「ヒルダさん、お土産です。皆で選びました」
 護衛という名目で雇われたラファエルだが実際は荷物持ちと言った方が正しいかもしれない。道中、複数の巨大な行李を軽々と持ち上げていたラファエルを見てパルミラ人たちが目を丸くして驚いていた。
「え!なんだろなんだろ?早く見たい!ラファエルくん!行李下ろしてくれる?」
 ローレンツたちが通されたのはおそらくクロードとヒルダの私的な応接間なのだろうが、それでも充分に広々としている。大国の王族なのだから当たり前の話だが。行李の中を見て盛り上がる女性陣を尻目にローレンツはベレトからの親書をクロードに手渡した。中身を確認する緑の瞳が左右に目まぐるしく動いている。
「自分が頼む筋合いでもないが歓待してやって欲しいってさ。先生にはヒルダ共々元気でやってると伝えてくれ」
 きっと大丈夫だろうと分かっていても皆かつての敵国で暮らすヒルダがとにかく心配だった。その想いの表れが大量の土産物だ。マリアンヌだけでなくローレンツの舅であるエドマンド辺境伯が持たせた化粧品もある。舅はやたらパルミラの水がヒルダの肌に合うのかを気にしていた。
「そうだ、クロ……あ、どう呼べば良いんでしょう?」
 イグナーツの疑問はもっともだった。
「はは、クロードのままで良いさ。立太子の礼もまだだしな」
「……ではクロードくん、絵を描いても構わないですか?先生やゴネリル家の方にヒルダさんの様子を説明するのに一番早いので」
 許可なしに王宮内の絵を描けば密偵に間違われる可能性がある。
「構わないぜ」
 イグナーツとクロードのやり取りを耳にしたレオニーがクロードに一筆書かせようと提案した。衛兵に咎められた時もその書面を見せれば話が早い。
「その方がお互いに楽だろ?クロードもナデルさんも忙しいんだし、いちいちお伺いを立てられる方が面倒な筈だよ」
「いいな、それ。文面はどうするかな」
 大乱を経てそれなりの地位に着き立派な大人になったというのに学生に戻ったかのように旅装も解かず皆ではしゃいだ。旅の恥はかき捨てというがその言葉の通りになっている。
「ねえ、お風呂入りたくない?案内するね」
 大量の土産物をあらかた確認したヒルダが笑顔で提案した。フォドラの蒸し風呂とほぼ変わらないのだがパルミラでは湯浴みの際に湯浴み着は身につけず大きな布を一枚身体に巻くだけだ。混浴ができるはずもない。これまで泊まって来た宿も広ければ男女それぞれ二つの浴室があったし一つしかない宿は時間で区切っていた。
「ヒルダ、広い方の風呂使って良いぜ」
「ありがと、クロードくん」
 ヒルダがパルミラ語で何か言うと召使たちが女性陣の荷物が入った行李を持って後に続いた。 
「俺たちの使う方は脱衣所が狭いんで男どもはここで荷物を開いて着替えだけ持ってきてくれ」
 クロード言うところの狭い方、の浴室は施術師を含めて成人男性が六人いても狭さを感じない。温められた大理石で出来た大きな台の上に横たわるクロードは施術師から身体を洗ってもらっている。
「これで狭い方なんですか?」
「これだけ広かったら中で腕立て伏せでもなんでもやりたい放題だぁ!」
 イグナーツが思わず呟いた言葉もラファエルの叫び声も温かい蒸気で満ちた浴室に響いている。
「はは、鍛錬は足元が滑るからやめといた方がいいぜ。あれ、イグナーツたちも身体を洗って貰えば良いのに。ここの連中の腕は俺が保証するよ」
「僕たちそう言うのには慣れてないんです」
 一方でフォドラの貴族は幼い子供の頃から召使たちに身なりを整えられて育つので召使から身体を触られることに躊躇がない。ローレンツは全く気にせず台の上に座ってまっすぐな紫の髪を洗われていた。
「こっちじゃ平民も貴族みたいに身体洗ってもらうの好きだぜ?」
 パルミラは寒暖の差が激しいので夏の暑さを凌ぐための山小屋を構えている平民も多い。どちらも国の豊かさの表れなのかもしれなかった。
「文化の違いだな。そもそも寛ぎ方と言うのは人によって違うものだろう?」
 泡を洗い流され目元のお湯を手で拭いながらローレンツが言った。パルミラ風に腰に布を巻いただけなので傷跡だらけの白い背中が剥き出しになっている。一際大きな傷跡はマリアンヌを庇った時に出来たものだろう。
「そうだな、今だから言うがいくら湯浴み着を着ているとは言え混浴は緊張して全然寛げなかったぞ」
「考えたこともなかったな」
 心底意外そうにローレンツがつぶやくとイグナーツとラファエルも顔を見合わせてから頷いた。混浴が当たり前の皆にとっては男女混浴の公衆浴場は本当に寛ぐ場所でしかなかったらしい。
「あー皆、そろそろあがろうか………」
 クロードは年相応のところがある少年だった。そう言う話でしかないのだが改めて口に出すと気恥ずかしい。

 応接間に戻ったクロードたちはヒルダたちを待たずに食事や酒を召使たちに持って来させた。遅れてやってきた女性陣たちも酒杯を傾け無事の到着と再会を寿いでいる。酒に酔っていてもヒルダは実に上手に素手で米を食べていた。所変われば作法も変わる。
「そうだ、今晩は雨か。雷が鳴っても皆そのまま気にせず眠ってくれ」
「もう!クロードくんリシテアちゃんの前でその話やめてよねー!」
 一体どういうことなのだろうかとローレンツは杯を傾けながら二人の言葉を待った。酒精で頬を赤くしたクロードが言うにはこの王宮には雷の晩にだけ姿を表す幽霊がいるらしい。どの国も古い建物には幽霊話が付き物というのは変わらないようだ。
「ここにはおっかない話がたくさん伝わってるがこれは本物だ。俺も子供の頃に見たからな」
「もうクロード!私を揶揄うのはやめてください!!」
「リシテア、怖くなったら私の部屋に来ても良いよ」
 レオニーがそう言って胸を叩いた。酒豪としても名が知れ始めた彼女はほろ酔い程度なので逆に幽霊を見ても酒酔いのせいにできないだろう。
「はは、レオニーの部屋と間違えてローレンツたちの部屋に行くなよ」
「クロード!!いくら身内だけの酒の席でもそう言う話はやめたまえ!!」
 そのあともラファエルの背中にクロードの従僕を座らせて腕立て伏せをさせるなどの悪ふざけが続いたが、そのうちクロードは船を漕ぎ始めてしまった。その姿をヒルダは咎めずに見つめている。
「安心しちゃったのよ。いつもはすっごく我慢してるの」
 言われてみれば酔いの回りを計算せず、水でも飲むような勢いでクロードは酒を口にしていた。
「僕が運ぼうか?」
「うーん、それも面白そうだけど今日はやめとくねー」
 ゴネリルの紋章をその身に宿すせいかヒルダはとにかく力が強い。小柄な彼女が襟巻きでも巻くように、膝の裏と首に手をやって肩に夫を担いで歩く姿を初めて見たパルミラの者たちはさぞ驚いただろう。召使たちは王子の愛姫の勇姿から目を背け、客人たちをそれぞれの部屋へと案内した。
 ローレンツはそれなりに酔っていたがマリアンヌと共に割り当てられた部屋へ入ってすぐ寝台の枕元に封筒が置いてあることに気づいた。クロードの字でローレンツへ、と書いてある。
───子馬が必要なら白い引き戸の奥に置いてあるから使うといい───
 これもかつてリーガン公の葬儀で足を踏んでやった仕返しだろうか。思わず喉から呻き声が出てしまった。こんなものを妻に見せるわけにいかない。慌てて紙を丸め、呪文を唱えて燃やした。そんな夫を気遣って寝巻きに着替えたほろ酔いのマリアンヌが近寄ってくる。
「どうかしましたか?」
「え、あ、いや、単なるクロードの悪ふざけだ。何でもない、よ……ああ、ずいぶん眠そうな顔をしているな、マリアンヌさんは……」
 酒に酔って少し身体が温まっているマリアンヌを抱きしめると嗅ぎなれない柑橘系の甘い香りがした。きっと入浴した際にヒルダおすすめの化粧品や香水を試したのだろう。
「今日は疲れたからもう寝ようか」
 愛を確かめ合うにしても妻がこんなに眠たそうにしているなら不可能だ。ローレンツは腕の中にマリアンヌをおさめると白い瞼を下ろした。旅程はまだ半分も終わっていないので子馬を使う晩もあるのかもしれない。なんと言っても二人は仲睦まじい夫婦なのだから。

 同じ寝室で眠るようになってマリアンヌは改めて実感したが自分は眠りが浅い。そしてローレンツはとにかく寝つきが良く深く眠る。行軍中の野営の際も横たわって背中をつけることさえ出来たなら、瞳を閉じて三秒で本当に眠っていた。その分覚醒するのに少し時間がかかる。婚約前に一度エドマンド領に来てもらったことがあるが、その時のローレンツは熟睡しないように椅子に座って眠っていた。きっと本人にも自覚があるのだろう。今も夫より深酒をしたマリアンヌが思わず起きてしまうほどの雷鳴が轟いていると言うのに、つい先日まで敵国であったパルミラの王宮で熟睡している。
 ローレンツは学生時代からずっとクロードのことを散々くさしていたが、客観的に見れば良き友だ。マリアンヌの夫は照れると言うことが殆どないのだがクロードに関してだけは例外で、いつまで経っても子供のような態度を崩さない。先程も追求しなかったが何やら彼相手に意地を張っていたようだ。
「すぐに戻ります」
 そう言うと稲光に照らされる夫の寝顔に唇を落とし、マリアンヌは寝台から離れた。自分を寝かしつけてそのまま眠ってしまったローレンツを朝まできちんと眠らせてやりたい。マリアンヌは酒を飲むとかえって眠りが浅くなる方ですっかり目が冴えてしまっている。マリアンヌは室内履きを履き、寝巻きの上から頭巾付きの外套を羽織ってから広く長い廊下に出た。雷鳴が窓越しに光を落とす中を歩んでいると白と黒の世界に紛れ込んだような気持ちになる。
 雷も幽霊も怖くはない。単なる暇つぶしだ。それに少し身体を動かした方が早くもう一度眠れる。気を利かせたつもりなのかマリアンヌとローレンツに与えられた部屋は友人たちが使っている部屋から少し離れた場所にあった。稲光を頼りに角をいくつか曲がったところで一度視野が完全な暗黒に包まれたが、再び白い光がマリアンヌを照らす。その時ようやくマリアンヌは二つのことに気づいた。自分は道に迷っているし廊下の片隅で見知らぬ少年が蹲って泣いている。
 こんな晩に子供が一人で何をしているのだろう。雷が鳴ったと同時に現れた見知らぬ女はきっと恐ろしいはずだ。だから少年は大きな窓掛の襞の中に逃げこんでしまった。
「そうですね、窓に近寄れば侵入者から逃げられる確率は上がるかもしれません」
 子供の形に膨らむ窓掛の布ごしに声をかけてやったが当然フォドラの言葉は理解してくれない。恐怖で固まっている少年はパルミラ語で必死に何かつぶやくばかりだ。これでは埒があかない。マリアンヌが小さな彼の強張る背中を布ごしに撫でてやると落ち着いたのか、ようやく布をめくって顔を出してくれた。しかし雷鳴が再び轟いたせいかすぐに小さな褐色の手で顔を隠してしまう。
「恥ずかしがり屋さんですね」
 理解できるとは思えないが言葉が口を衝いてしまう。孤独そうな怯えた彼の瞳がかつての自分を思わせた。
「大丈夫、あなたも将来とても素敵な方たちに出会えます。勇気を出して一歩を踏み出すことです」
 危害を加えないと分かったのか少年がマリアンヌの外套の裾を掴んでくる。どうやら溺れる者が掴む頼りない板切れにはなれたらしい。
「私と夫が泊まっている部屋に来ますか?」
 ローレンツは驚くだろうがきっと少年を快く受け入れてくれるだろう。その時一際大きな音が近くで鳴りマリアンヌも流石に驚いて窓の外を見た。断続的に閃く稲光を頼りに庭の様子をしばらく伺ってみたものの結局よく分からない。マリアンヌが振り向くと先ほどまで隣にいた少年は姿を消していた。
 やはり彼は自分から逃げる隙を窺っていたのかもしれない。これで残る問題はひとつだ。ローレンツが待っている部屋にたどり着けば良い。マリアンヌは雷鳴が轟く中、廊下に飾ってある壺の形を頼りに行きつ戻りつして何とか夫が寝ている温かくて良い匂いのする寝台に再び潜り込んだ。明朝になったら迷子がいたことをクロードとヒルダに報告しなければならない。

 いつもはマリアンヌの方が早く起きることが多いのだが、真夜中の散歩で思ったより疲れたのかやはり翌朝はローレンツの方が早く目覚めたようだ。夫が身支度する物音でようやく目覚めたマリアンヌが布団の中でもぞもぞと動いているとめざといローレンツが掛け布団を捲って頬に口づけを寄越してくる。
「おはようございます、ローレンツさん」
「お湯を持ってきた召使いに聞いたがひどい雷だったそうだね」
「はい、それでよく眠れなくて……」
 マリアンヌは半分くらいローレンツに手伝ってもらいながら身支度を終えて皆との朝食の席に着いた。たっぷり砂糖を入れた濃いめの紅茶を飲みつつ、薄く焼いた麺麭に塩味の効いた乾酪と小さくちぎった葉物の野菜をはさんで食べるのがパルミラ風らしい。麺麭はほんのりと甘く味がつけてあった。
「クロードさん、この王宮に小さな子供は住んでいますか?」
「マリアンヌたちのところと同じくまだ作ってないよ」
「朝からなんて話をするのだ……」
 クロードの物言いを耳にしたローレンツが目元を指で押さえている。マリアンヌが事の仔細を皆に話すとクロードが顔色を変え目を大きく見開いた。顎に手を当て眉間に皺を寄せしばらく考え込んでいたが、彼の中ではなんとなく見当がついたらしい。
「どこからどう紛れ込んだんだろうなあ。まあ古い建物には色んなもんが住み着くもんだろ?」
「えっ……それならマリアンヌが見たのって!!」
 皆なんとなく察していたが、リシテアを怯えさせないように黙っていたというのに当の本人が悲鳴をあげる。苦手なのに詳細を律儀に想像してしまうのが彼女の難儀なところだ。
「まあ今日は快晴だ。雷が鳴らないなら出てこないはずだぜ」
 リシテアはその日一日中、海辺でも市場でも空模様を気にしていた。

 母国からやってきた友人たちの接待二日目を終えたヒルダは寝台の上で大きな欠伸をした。クロードと同じく楽しかったがはしゃいで疲れたのだろう。労うために軽く肩を揉んでやるとヒルダは横たわった。薄い寝巻き越しに背中や腰をほぐしてやると改めて小柄なことが分かる。
「あー、そこそこ……ねえ、私が聞いたことのある話と違うんだけど」
「がら空きだから引っ越してきたのかもな」
 クロードは今朝、リシテアのためと称して詳細を皆に話さなかったがこの王宮に出没する、と言われているのは雷の晩に現れる幽霊ではなく雷に怯えている者の元に現れる幽霊なのだ。そこが少し変わっている。クロードはうつ伏せになっているヒルダの動きを封じるように抱きしめた。耳の後ろに鼻を寄せて息をする。すぐに振り落とせるはずなのにヒルダはクロードに抱きしめられたままでいた。
「なんで誤魔化すのよ〜!」
「水仙の香りがする」
 誤解があったようだがあの時の自分は雷に怯えていたわけではない。例によって例の如くいじめられてやり返したせいでさらに酷い目にあい悔しさや自己嫌悪やとにかくそういった負の感情が処理しきれず誰も来ないような外れで泣いていたのだ。
「フォドラの香水、お土産に貰ったの。やだ、そこで息するのやめてよ〜!」
 ヒルダは昼間に大ぶりの耳飾りをつけていても入浴する時には外してしまうか眠る時に邪魔にならない小さな物に付け替えるようにしている。クロードは舌で耳朶がどうなっているのか確かめた。舌にちくりと金具の当たる感触がある。
「弱いからか?」
「駄目だってばぁ……明日は早起きするつもりなのにぃ……」
 うつ伏せになっていたヒルダがなおも身体を捩らせたのですかさず胸元に手を入れ薄い寝巻き越しに触り心地を堪能する。フォドラの湯浴み着より心許ない生地で出来ているので胸が手のひらの中で形を変える様がよく分かった。多分臀部に押し付けているこちらの下腹部の変化もはっきりと伝わっているだろう。
「一回だけ、すぐに終わらせるから」
「それならこの体勢は嫌」
 クロードが身体を起こすとヒルダは寝返りを打って微笑みながら褐色の頬を撫でた。その白い指が彼女がパルミラ出身ではないと主張している。遠くから自分のために来てくれたのだ。後宮におさめられている女奴隷たちとヒルダはそこが違う。幼い頃のクロードは彼女と言葉が通じなかったのは後宮におさめられたばかりでまだ教育を受けていない女奴隷だからだと思い込んでいた。
「だって顔がみえないんだもの」
 ヒルダも真っ直ぐクロードの目を見るし瞳の色を恐れることがない。紅を落としていても艶やかな唇を少し厚めの唇でふさいだ。二人の子供が雷を怖がるのかどうかはまだ誰にも分からない。畳む