蒼月ルートのクロロレです。「家出息子たちの帰還.2」#クロロレ #家出息子たちの帰還
2.
───ダスカーでは巫者は大まかにふたつに分類される。精霊や神と交流を持つ力に恵まれたものたちと儀礼や占いや医術を学んだものたちだ。真偽の判断がつけにくいにも関わらず、前者の方が評価が高い。
手元で再現できる技術に絶望したものたちが巫者に頼るからだ。(中略)計り知れない神秘の力にすがる人々を愚かだと断じるのは容易い。ただし真偽の判断がつかない領域はよからぬものが参入してしまう───
平地にあるフェルディアと山中にあるガルグ=マクは寒さの質が異なる。空気が乾燥していて風が強いせいかフェルディアにいる時より喉が渇きやすい。蝋燭の心許ない灯りに照らされながら、ディミトリは水差しから杯に水を汲んだ。どちらも銅製なので陶器や硝子と違って砕けることがない。不注意で歪めてしまってもドゥドゥに直してもらえる。
とくとくという軽い水音に死者の声が練り込まれている。《首を、悔しい、仇を討て、どうして》最後のどうして、だけはフェルディアにいても掴めない。ディミトリの士官学校進学に関して宮廷では意見が割れた。王位に空白が生じてしまう。だが今はガルグ=マクにいる。
冷え切った水を勢いよく飲み込むと喉が鳴り、愛しい人々の声は消えた。不調法は後で詫びるとして、彼らの声で耳が満ちる前にあたりの音を探らねばならない。寮内はやっと消灯時間を迎えた。これでようやく書庫を自由に漁ることができる。
不意に扉を叩く音がして、自分でも馬鹿らしいほどに脈が乱れた。中央教会はディミトリを害さない。
「ディミトリ、夜遅くにすまない」
「演習の件か?」
そうだ、という返事を聞きながらディミトリは扉を開けた。廊下には寝巻きの上に上着を羽織ったクロードが立っている。彼は手で二の腕を擦っていた。
「大袈裟だな……そんな状態で明後日野営は大丈夫なのか?」
「いや、野営なら火が焚けるからましだ」
実際の戦場では敵の目を掻い潜るため火が焚けないことも多い。クロードはきっと初陣もまだなのだろう。
「目を通して署名したら明日中にアロイスさんに渡してくれ」
クロードが差し出したのは演習の際に護衛を担当する騎士たちの名簿だった。既にエーデルガルトとクロードは署名を済ませている。
「思ったより少ないな」
「だよなあ、俺たちはともかくエーデルガルトがいる。ヒューベルトが苦情申し立てをしてないのが意外だ」
ディミトリ個人だけで言えば特に問題はない。膂力で解決できる分野ならブレーダッドの紋章を持つものたちはある意味無敵だ。しかし世界は複雑で息苦しい。
「帝国領だからかもしれない」
納得したかどうかはともかくクロードはなるほど、と言って部屋を去った。
ディミトリはクロードと同じく夜になると部屋を抜け出し書庫へと向かう。シルヴァンも主君に倣って夜になると部屋を抜け出すが、行き先は将来の主君と違ってじつに多彩だ。きっと起こす揉めごともさぞ華やかなことだろう。
それはさておき、ブレーダッドの紋章を受け継ぐディミトリはクロードと違って危険から身を隠そうとしない。彼は己の影響力を最小限に抑えたい時にだけ身を隠す。書庫で何を手に取っているのか、今はまだ知られたくないのだ。
修道院を巡回している騎士の足音がする。ここの騎士たちは悪意がない。それだけでクロードは優しく顎の下をくすぐられたような心地になった。母国の王宮ならこうはいかない。
彼らが手にする松明に照らされぬよう、クロードは黒い外套の頭巾に三つ編みを押し込んだ。月明かりも届かない物陰からそっと様子をうかがう。暗所からは明るい場所がよく見えるのだ。清廉潔白さを表す白い外套に身を包んだ騎士たちは歩調を崩すことなく去って行く。
近々、全員で参加する野営訓練もあることだし引き際が肝心だろう。巡回をやり過ごしたクロードは物陰の中で大きく溜息をついた。ディミトリの調べものにはどんな意味があるのだろう。
夜更け過ぎに寮に戻ると隣室から微かに灯りと声が漏れていた。ローレンツは声を抑えているつもりらしいが、建物の造りや地声の大きさのせいで上手くいっていない。聞き取れるのは今、廊下にいるクロードくらいかもしれないが。
───絶えざる御助けの女神よ───を去って身許に召された───のために祈り求めます───憐みが豊かに与えられますように───
どうやら彼は誰かを悼んでいるようだった。意外だった。レスター諸侯同盟の円卓会議に参加する諸侯たち世俗的で宗教を利用すべきもの、としている。領主としてはそれが正しい。民草の倫理観まで領主個人が責任を取るのは負担が大きいからだ。宗教者とは互いに棲み分けて付かず離れずという状態が望ましい。
クロードは外出を悟られぬようローレンツの声に合わせて扉の把手に手を掛けた。畳む
2.
───ダスカーでは巫者は大まかにふたつに分類される。精霊や神と交流を持つ力に恵まれたものたちと儀礼や占いや医術を学んだものたちだ。真偽の判断がつけにくいにも関わらず、前者の方が評価が高い。
手元で再現できる技術に絶望したものたちが巫者に頼るからだ。(中略)計り知れない神秘の力にすがる人々を愚かだと断じるのは容易い。ただし真偽の判断がつかない領域はよからぬものが参入してしまう───
平地にあるフェルディアと山中にあるガルグ=マクは寒さの質が異なる。空気が乾燥していて風が強いせいかフェルディアにいる時より喉が渇きやすい。蝋燭の心許ない灯りに照らされながら、ディミトリは水差しから杯に水を汲んだ。どちらも銅製なので陶器や硝子と違って砕けることがない。不注意で歪めてしまってもドゥドゥに直してもらえる。
とくとくという軽い水音に死者の声が練り込まれている。《首を、悔しい、仇を討て、どうして》最後のどうして、だけはフェルディアにいても掴めない。ディミトリの士官学校進学に関して宮廷では意見が割れた。王位に空白が生じてしまう。だが今はガルグ=マクにいる。
冷え切った水を勢いよく飲み込むと喉が鳴り、愛しい人々の声は消えた。不調法は後で詫びるとして、彼らの声で耳が満ちる前にあたりの音を探らねばならない。寮内はやっと消灯時間を迎えた。これでようやく書庫を自由に漁ることができる。
不意に扉を叩く音がして、自分でも馬鹿らしいほどに脈が乱れた。中央教会はディミトリを害さない。
「ディミトリ、夜遅くにすまない」
「演習の件か?」
そうだ、という返事を聞きながらディミトリは扉を開けた。廊下には寝巻きの上に上着を羽織ったクロードが立っている。彼は手で二の腕を擦っていた。
「大袈裟だな……そんな状態で明後日野営は大丈夫なのか?」
「いや、野営なら火が焚けるからましだ」
実際の戦場では敵の目を掻い潜るため火が焚けないことも多い。クロードはきっと初陣もまだなのだろう。
「目を通して署名したら明日中にアロイスさんに渡してくれ」
クロードが差し出したのは演習の際に護衛を担当する騎士たちの名簿だった。既にエーデルガルトとクロードは署名を済ませている。
「思ったより少ないな」
「だよなあ、俺たちはともかくエーデルガルトがいる。ヒューベルトが苦情申し立てをしてないのが意外だ」
ディミトリ個人だけで言えば特に問題はない。膂力で解決できる分野ならブレーダッドの紋章を持つものたちはある意味無敵だ。しかし世界は複雑で息苦しい。
「帝国領だからかもしれない」
納得したかどうかはともかくクロードはなるほど、と言って部屋を去った。
ディミトリはクロードと同じく夜になると部屋を抜け出し書庫へと向かう。シルヴァンも主君に倣って夜になると部屋を抜け出すが、行き先は将来の主君と違ってじつに多彩だ。きっと起こす揉めごともさぞ華やかなことだろう。
それはさておき、ブレーダッドの紋章を受け継ぐディミトリはクロードと違って危険から身を隠そうとしない。彼は己の影響力を最小限に抑えたい時にだけ身を隠す。書庫で何を手に取っているのか、今はまだ知られたくないのだ。
修道院を巡回している騎士の足音がする。ここの騎士たちは悪意がない。それだけでクロードは優しく顎の下をくすぐられたような心地になった。母国の王宮ならこうはいかない。
彼らが手にする松明に照らされぬよう、クロードは黒い外套の頭巾に三つ編みを押し込んだ。月明かりも届かない物陰からそっと様子をうかがう。暗所からは明るい場所がよく見えるのだ。清廉潔白さを表す白い外套に身を包んだ騎士たちは歩調を崩すことなく去って行く。
近々、全員で参加する野営訓練もあることだし引き際が肝心だろう。巡回をやり過ごしたクロードは物陰の中で大きく溜息をついた。ディミトリの調べものにはどんな意味があるのだろう。
夜更け過ぎに寮に戻ると隣室から微かに灯りと声が漏れていた。ローレンツは声を抑えているつもりらしいが、建物の造りや地声の大きさのせいで上手くいっていない。聞き取れるのは今、廊下にいるクロードくらいかもしれないが。
───絶えざる御助けの女神よ───を去って身許に召された───のために祈り求めます───憐みが豊かに与えられますように───
どうやら彼は誰かを悼んでいるようだった。意外だった。レスター諸侯同盟の円卓会議に参加する諸侯たち世俗的で宗教を利用すべきもの、としている。領主としてはそれが正しい。民草の倫理観まで領主個人が責任を取るのは負担が大きいからだ。宗教者とは互いに棲み分けて付かず離れずという状態が望ましい。
クロードは外出を悟られぬようローレンツの声に合わせて扉の把手に手を掛けた。畳む
蒼月ルートのクロロレです。「家出息子たちの帰還.1」
#クロロレ #家出息子たちの帰還
───ダスカー人の中には人間がその霊魂を喪失したことにより病が生ずる、と考えるものたちがいる。彼らの中で病人が出ると巫者はその魂を探すための儀礼を行う。(中略)一方でパルミラの霊媒文化は国土が広いこともあり、寄り合い所帯のようになっている。一言では言い表すことは不可能だ。だが基本的には災厄の原因を霊的に突き止め、除去することに変わりはない───
クロードは仕立ててもらったばかりの士官学校の制服に身を包み、言われていた通りに扉を叩いた。書斎にいる祖父は先ほどは制服姿を見せに来い、と言っていたが昼食後しばらく経っていてこの陽気なのでうたた寝をしているのではないだろうか。数秒待ってみたが反応がない。いつもなら入室を促す声がする。
予想があっているのか確かめるため、クロードはそっと扉を開けた。陽当たりの良い窓のそばで大きな椅子に座った老人が気持ちよさそうに目を閉じている。声をかけるべきかクロードは迷ってしまった。
ゴドフロア一家が事故で亡くなって以来、ずっと眠りが浅かったのだと召使や家臣たちから聞いている。クロードは霊魂といった超自然的な存在を感じ取れるわけではない。だが目を開けてリーガン家の屋敷で過ごしていれば嫌でも飛び込んでくる───別に嫌だと思ったことはないが。
例えば今、祖父がうたた寝をしている書斎にはゴドフロアから父であるオズワルドに贈られた蒸留酒の瓶が置いてある。針金を使って文机の引き出しを開いた時は愛らしい子供の字で書かれた祖父宛の手紙を見つけた。そもそも廊下や居間に彼らの肖像画が飾られている。肖像画が真実を伝えているなら、彼らとカリード、いやクロードの母ティアナはよく似ていたし、彼らと自分も似ているような気がした。クロードは彼らと一度も顔を合わせたことはない。だがリーガン家に入って以来、ずっと叔父一家の存在を感じている。
いずれクロードの絵も飾るのだ、と言って祖父は画家を何人か呼んだ。素描を描かせてああだこうだと話していたのでそのうちクロードの肖像画も廊下や居間に飾られるのだろう。パルミラの王宮にいた頃に肖像画を描こうと提案されたことなどない。だから少しこそばゆい気持ちになった。
祖父が今、瞼の裏で失った者たちと会っているのなら───起こすのは正しい行為なのだろうか。祖父は妻も息子一家も失っていて、クロード一人でその穴を埋められるとは思えない。躊躇していると祖父の白い瞼が上がり、自分と同じ緑色の瞳が現れた。制服姿のクロードを見て微笑む祖父の瞳は先ほどまで何を見ていたのだろうか。
ローレンツたちにはねえやがいた。優しくて美しかったことだけ思い出してやるように、と両親から言われている。グロスタール家の本宅で子守を任されていたのだから身辺調査は完璧だった。彼女はグロスタール家の家臣と恋に落ち───今はもうこの世にいない。彼女を裏切ったという家臣も行方不明だ。
嬉しそうに恋人の名を口にしていたねえやの弾むような声や喜びに満ちた表情をローレンツはまだきちんと覚えている。褒め上手で明るくて愉快で、多忙な両親が不在でも彼女がいてくれたからローレンツたちは寂しい思いをせずに済んだ。グロスタール家の本宅も狩猟小屋もエドギアの街中もねえやとの楽しく幸せな思い出に満ちている。
子守と実母の仲は難しい、というのが一般論だ。子守が仕事を上手くやればやるほど子供の気持ちが実母から離れてしまうため、雇い主である高貴な女性が子守相手に拗ねてしまうのだという。だがローレンツの母はねえやの死後にしばらく伏せってしまうほどに彼女がお気に入りだった。彼女を裏切った家臣は今頃どこで何をしているのだろうか。彼は他にも問題を起こしていたらしく、エルヴィンが領主の名の下に探させている。だが未だに生死すら分からない。
その後しばらくしてグロスタール領とリーガンの境でリーガン家のオズワルド卿一家が事故死した。ローレンツの父エルヴィンは家の内でも外でも落ち着かない日々を過ごしている。ローレンツたちは父の無実を信じているが、未だによからぬ噂も絶えない。あれ以来エルヴィンはひどく慎重になり、ローレンツは政情不安を理由に志半ばでフェルディアから自領に戻ることになった。
機会があるたびに魔道学院への復学を願い出ているが、きっとこのまま自領に留まることになる。人脈を自力で広げることを半ば諦めていた頃にローレンツは父の書斎に呼び出された。机の上には封が切られた書簡がある。
横目で確認するなど貴族らしからぬ行いだ。しかしローレンツの意識はどうしても差出人名に引き寄せられてしまう。もしかして直筆なのだろうか。そこには大司教レアの名が記されていた。
「魔道学院に戻してやれずにすまないな。代わりに士官学校はどうだろうか?」畳む
#クロロレ #家出息子たちの帰還
───ダスカー人の中には人間がその霊魂を喪失したことにより病が生ずる、と考えるものたちがいる。彼らの中で病人が出ると巫者はその魂を探すための儀礼を行う。(中略)一方でパルミラの霊媒文化は国土が広いこともあり、寄り合い所帯のようになっている。一言では言い表すことは不可能だ。だが基本的には災厄の原因を霊的に突き止め、除去することに変わりはない───
クロードは仕立ててもらったばかりの士官学校の制服に身を包み、言われていた通りに扉を叩いた。書斎にいる祖父は先ほどは制服姿を見せに来い、と言っていたが昼食後しばらく経っていてこの陽気なのでうたた寝をしているのではないだろうか。数秒待ってみたが反応がない。いつもなら入室を促す声がする。
予想があっているのか確かめるため、クロードはそっと扉を開けた。陽当たりの良い窓のそばで大きな椅子に座った老人が気持ちよさそうに目を閉じている。声をかけるべきかクロードは迷ってしまった。
ゴドフロア一家が事故で亡くなって以来、ずっと眠りが浅かったのだと召使や家臣たちから聞いている。クロードは霊魂といった超自然的な存在を感じ取れるわけではない。だが目を開けてリーガン家の屋敷で過ごしていれば嫌でも飛び込んでくる───別に嫌だと思ったことはないが。
例えば今、祖父がうたた寝をしている書斎にはゴドフロアから父であるオズワルドに贈られた蒸留酒の瓶が置いてある。針金を使って文机の引き出しを開いた時は愛らしい子供の字で書かれた祖父宛の手紙を見つけた。そもそも廊下や居間に彼らの肖像画が飾られている。肖像画が真実を伝えているなら、彼らとカリード、いやクロードの母ティアナはよく似ていたし、彼らと自分も似ているような気がした。クロードは彼らと一度も顔を合わせたことはない。だがリーガン家に入って以来、ずっと叔父一家の存在を感じている。
いずれクロードの絵も飾るのだ、と言って祖父は画家を何人か呼んだ。素描を描かせてああだこうだと話していたのでそのうちクロードの肖像画も廊下や居間に飾られるのだろう。パルミラの王宮にいた頃に肖像画を描こうと提案されたことなどない。だから少しこそばゆい気持ちになった。
祖父が今、瞼の裏で失った者たちと会っているのなら───起こすのは正しい行為なのだろうか。祖父は妻も息子一家も失っていて、クロード一人でその穴を埋められるとは思えない。躊躇していると祖父の白い瞼が上がり、自分と同じ緑色の瞳が現れた。制服姿のクロードを見て微笑む祖父の瞳は先ほどまで何を見ていたのだろうか。
ローレンツたちにはねえやがいた。優しくて美しかったことだけ思い出してやるように、と両親から言われている。グロスタール家の本宅で子守を任されていたのだから身辺調査は完璧だった。彼女はグロスタール家の家臣と恋に落ち───今はもうこの世にいない。彼女を裏切ったという家臣も行方不明だ。
嬉しそうに恋人の名を口にしていたねえやの弾むような声や喜びに満ちた表情をローレンツはまだきちんと覚えている。褒め上手で明るくて愉快で、多忙な両親が不在でも彼女がいてくれたからローレンツたちは寂しい思いをせずに済んだ。グロスタール家の本宅も狩猟小屋もエドギアの街中もねえやとの楽しく幸せな思い出に満ちている。
子守と実母の仲は難しい、というのが一般論だ。子守が仕事を上手くやればやるほど子供の気持ちが実母から離れてしまうため、雇い主である高貴な女性が子守相手に拗ねてしまうのだという。だがローレンツの母はねえやの死後にしばらく伏せってしまうほどに彼女がお気に入りだった。彼女を裏切った家臣は今頃どこで何をしているのだろうか。彼は他にも問題を起こしていたらしく、エルヴィンが領主の名の下に探させている。だが未だに生死すら分からない。
その後しばらくしてグロスタール領とリーガンの境でリーガン家のオズワルド卿一家が事故死した。ローレンツの父エルヴィンは家の内でも外でも落ち着かない日々を過ごしている。ローレンツたちは父の無実を信じているが、未だによからぬ噂も絶えない。あれ以来エルヴィンはひどく慎重になり、ローレンツは政情不安を理由に志半ばでフェルディアから自領に戻ることになった。
機会があるたびに魔道学院への復学を願い出ているが、きっとこのまま自領に留まることになる。人脈を自力で広げることを半ば諦めていた頃にローレンツは父の書斎に呼び出された。机の上には封が切られた書簡がある。
横目で確認するなど貴族らしからぬ行いだ。しかしローレンツの意識はどうしても差出人名に引き寄せられてしまう。もしかして直筆なのだろうか。そこには大司教レアの名が記されていた。
「魔道学院に戻してやれずにすまないな。代わりに士官学校はどうだろうか?」畳む
「BOTH」番外編「かわいい」「食欲」「コスモス」(クロロレワンドロワンライ参加作品)
#クロロレ #完売本 #現パロ #BOTH
昼間のローレンツはかなりよく食べる方だ。装いが異なる夜に会う時は全く食事をしない。部屋へ向かう前に彼は一杯だけ赤ワインを飲むが、コルセットでの締め上げ方を見るにおそらくそれが限界なのだ。棘を持たぬ薔薇はない、という諺の通りどんなに完璧に思えるものにも欠点がある。ローレンツは作り上げた外見に満足しているが苦しいはずだ。夜に会う時は目的が目的なのですぐにお互い一糸まとわぬ姿になる。勿論早く彼の身体を堪能したい、という思いもあるが近頃では窮屈さから早くローレンツを解放してやりたいという思いもクロードの中に芽生えつつあった。
今日はブランチではなくきちんとした昼食を二人で共にするためローレンツが選んだ店に来ていた。ジャケットを着用するように、と事前に言われたのでクロードは先日彼から見立ててもらったジャケットを着ている。常連客であるローレンツのために用意された席からはガラスごしにコスモスが咲き乱れる庭がよく見えた。クロードはローレンツに教えてもらうまで知らなかったが、コスモスは秋にならなければ咲かない。季節は徐々に移り変わり、ちょっと試しに、ということで始まった二人の交際もいくつかの季節を越えていた。
男同士の気楽さはいくつもあるが、昼食時に重いものを食べられることもそのひとつだとクロードは思う。クロードは女性と付き合っていた時には遠慮して品数が多いコースを選んだことがない。食べ終わる時間に差が出ないよう、気を使って食べるくらいなら物足りない方がマシだと思っていたからだ。クロードがマグロのハーブ焼きを食べおわるのと同時にローレンツは鯛のソテーを平らげた。
「次はステーキか。楽しみだな」
「この店のミディアムレアが絶品でね。君に食べさせたかった」
気が利く給仕がローレンツの目くばせだけで皿を下げワインのお代わりを注いでくれる。今日は二人とも車ではないので昼から酒を飲んでいた。ローレンツはこの店のソムリエを信頼しているらしく、最初に予算を告げその後は何も言わず全てを任せている。腹の中が落ち着くタイミングを見計らっているのか肉料理が出てくるまで少し間があった。
ローレンツは飽きもせず席から見えるコスモスを眺めながらグラスを傾けている。クロードは花を見て綺麗だとは思うがすぐに飽きてしまう。上手に生けたり面倒を見ることはできない。しかし美しい花を見て嬉しそうにしているローレンツはとても可愛い、とクロードは思う。夜の姿はひたすら美しく妖艶でとてもではないが可愛いと言う表現は使えない。
「ローレンツは本当に花が好きなんだな」
「君は人工物の方が好みだったな」
上手いことを言ったと思い込んでくすくす笑うローレンツの顔は酒精で少し赤くなっている。まるで彼が一番好きだと言う薔薇のようだ。今日は食前酒から始まりこの時点で何杯も呑んでいるので、頬が赤くなるのはまったく不思議ではないが油断している彼は本当に可愛い。
「いや、確かにそうだが花の美しさがわからないわけじゃあないぞ」
「では花の美しさを讃えてみたまえ」
花は種子植物の生殖器官だ。受粉を手伝わせるために他の動物を魅了するように出来ている。虫も鳥もヒトも花に夢中と言えるだろう。クロードは花に夢中なローレンツに夢中だ。
「色だな」
「他には?」
今日のローレンツは酒のせいなのか随分とクロードに絡んでくる。だがクロードの花に関する知識は本当にお粗末だ。と言うかあまり自然に詳しくない。美しい景色もすぐに飽きてしまう。ローレンツの言う通りクロードは人が作り出したものの方が好きだった。
「は、花びらの枚数がフィボナッチ数列に従っているところとか?」
「あっはっは!クロード、君!そんな粋がった高校生みたいなことをいい歳して!ふふっ!」
クロードの苦し紛れの発言が何故かツボにハマったローレンツは口に手を当て、肩を震わせながら笑っている。クロードはしばらくそんな隙だらけのローレンツを眺めていたかったが焼きたてのステーキが運ばれてきたので中断せざるを得なかった。どうしても温められた白い皿の上に乗せられたステーキに視線がいってしまう。ローレンツも目尻の涙を白く長い指で拭い、外側に置いてあるフォークとナイフを手に取った。彼もまた目の前のステーキに集中している。ローレンツの大好物だと言うステーキは確かに絶妙な焼き加減で、ナイフで切り分けた時に現れた断面は美しいピンク色をしていた。食材管理が雑な店で食べれば食中毒を起こしても不思議ではない。どこかの誰かを思い起こさせるそんな危ういステーキだった。
「カトラリー越しでも柔らかさを感じるだろう?」
フォークやナイフを刺した時の感触が確かにローレンツの言う通り柔らかい。フォークを使い口の中に入れると肉汁が溢れ出してくる。赤ワインとフォンドボーのソースは基本に忠実で肉の味によく馴染んでいた。クロードがしみじみと咀嚼し目の前のローレンツのように味に集中していると音も立てずにやってきた給仕によってグラスが取り替えられ、今度は肉に合わせたのであろう赤ワインが注がれた。隙だらけのローレンツは肉を食べつつペースを落とさず、ぐいぐいと飲み続けている。脂で艶やかになった唇が赤い液体で満たされたワイングラスに触れるさまがどこか夜に出会う彼の姿を思わせた。
今日は昼食後このまま解散する予定だが本当にそれでいいのだろうか。酒が抜けた後でも同じように感じるのだろうか。クロードは真剣に考える必要があった。畳む
#クロロレ #完売本 #現パロ #BOTH
昼間のローレンツはかなりよく食べる方だ。装いが異なる夜に会う時は全く食事をしない。部屋へ向かう前に彼は一杯だけ赤ワインを飲むが、コルセットでの締め上げ方を見るにおそらくそれが限界なのだ。棘を持たぬ薔薇はない、という諺の通りどんなに完璧に思えるものにも欠点がある。ローレンツは作り上げた外見に満足しているが苦しいはずだ。夜に会う時は目的が目的なのですぐにお互い一糸まとわぬ姿になる。勿論早く彼の身体を堪能したい、という思いもあるが近頃では窮屈さから早くローレンツを解放してやりたいという思いもクロードの中に芽生えつつあった。
今日はブランチではなくきちんとした昼食を二人で共にするためローレンツが選んだ店に来ていた。ジャケットを着用するように、と事前に言われたのでクロードは先日彼から見立ててもらったジャケットを着ている。常連客であるローレンツのために用意された席からはガラスごしにコスモスが咲き乱れる庭がよく見えた。クロードはローレンツに教えてもらうまで知らなかったが、コスモスは秋にならなければ咲かない。季節は徐々に移り変わり、ちょっと試しに、ということで始まった二人の交際もいくつかの季節を越えていた。
男同士の気楽さはいくつもあるが、昼食時に重いものを食べられることもそのひとつだとクロードは思う。クロードは女性と付き合っていた時には遠慮して品数が多いコースを選んだことがない。食べ終わる時間に差が出ないよう、気を使って食べるくらいなら物足りない方がマシだと思っていたからだ。クロードがマグロのハーブ焼きを食べおわるのと同時にローレンツは鯛のソテーを平らげた。
「次はステーキか。楽しみだな」
「この店のミディアムレアが絶品でね。君に食べさせたかった」
気が利く給仕がローレンツの目くばせだけで皿を下げワインのお代わりを注いでくれる。今日は二人とも車ではないので昼から酒を飲んでいた。ローレンツはこの店のソムリエを信頼しているらしく、最初に予算を告げその後は何も言わず全てを任せている。腹の中が落ち着くタイミングを見計らっているのか肉料理が出てくるまで少し間があった。
ローレンツは飽きもせず席から見えるコスモスを眺めながらグラスを傾けている。クロードは花を見て綺麗だとは思うがすぐに飽きてしまう。上手に生けたり面倒を見ることはできない。しかし美しい花を見て嬉しそうにしているローレンツはとても可愛い、とクロードは思う。夜の姿はひたすら美しく妖艶でとてもではないが可愛いと言う表現は使えない。
「ローレンツは本当に花が好きなんだな」
「君は人工物の方が好みだったな」
上手いことを言ったと思い込んでくすくす笑うローレンツの顔は酒精で少し赤くなっている。まるで彼が一番好きだと言う薔薇のようだ。今日は食前酒から始まりこの時点で何杯も呑んでいるので、頬が赤くなるのはまったく不思議ではないが油断している彼は本当に可愛い。
「いや、確かにそうだが花の美しさがわからないわけじゃあないぞ」
「では花の美しさを讃えてみたまえ」
花は種子植物の生殖器官だ。受粉を手伝わせるために他の動物を魅了するように出来ている。虫も鳥もヒトも花に夢中と言えるだろう。クロードは花に夢中なローレンツに夢中だ。
「色だな」
「他には?」
今日のローレンツは酒のせいなのか随分とクロードに絡んでくる。だがクロードの花に関する知識は本当にお粗末だ。と言うかあまり自然に詳しくない。美しい景色もすぐに飽きてしまう。ローレンツの言う通りクロードは人が作り出したものの方が好きだった。
「は、花びらの枚数がフィボナッチ数列に従っているところとか?」
「あっはっは!クロード、君!そんな粋がった高校生みたいなことをいい歳して!ふふっ!」
クロードの苦し紛れの発言が何故かツボにハマったローレンツは口に手を当て、肩を震わせながら笑っている。クロードはしばらくそんな隙だらけのローレンツを眺めていたかったが焼きたてのステーキが運ばれてきたので中断せざるを得なかった。どうしても温められた白い皿の上に乗せられたステーキに視線がいってしまう。ローレンツも目尻の涙を白く長い指で拭い、外側に置いてあるフォークとナイフを手に取った。彼もまた目の前のステーキに集中している。ローレンツの大好物だと言うステーキは確かに絶妙な焼き加減で、ナイフで切り分けた時に現れた断面は美しいピンク色をしていた。食材管理が雑な店で食べれば食中毒を起こしても不思議ではない。どこかの誰かを思い起こさせるそんな危ういステーキだった。
「カトラリー越しでも柔らかさを感じるだろう?」
フォークやナイフを刺した時の感触が確かにローレンツの言う通り柔らかい。フォークを使い口の中に入れると肉汁が溢れ出してくる。赤ワインとフォンドボーのソースは基本に忠実で肉の味によく馴染んでいた。クロードがしみじみと咀嚼し目の前のローレンツのように味に集中していると音も立てずにやってきた給仕によってグラスが取り替えられ、今度は肉に合わせたのであろう赤ワインが注がれた。隙だらけのローレンツは肉を食べつつペースを落とさず、ぐいぐいと飲み続けている。脂で艶やかになった唇が赤い液体で満たされたワイングラスに触れるさまがどこか夜に出会う彼の姿を思わせた。
今日は昼食後このまま解散する予定だが本当にそれでいいのだろうか。酒が抜けた後でも同じように感じるのだろうか。クロードは真剣に考える必要があった。畳む
「BOTH」番外編「旅行」「色づく」(クロロレワンドロワンライ参加作品)
#クロロレ #完売本 #現パロ #BOTH
クロードがローレンツの目の前で膝をついてから暫く経った。クロードの母国とクロードが現在、ローレンツと共に住んでいる国の結婚に関する文化がかなり異なっている上にお互いに仕事があるので準備は中々進まない。クロードの母国では結婚する二人はとにかく挙式前に写真を撮りまくり、写真集を作って親族や友人に渡す風習がある。
新婚カップルがその写真集を作るために年収と同じくらいの金額を費やすことも珍しくない。カメラマンやメーキャップアーティストを雇って衣装を借り、遠方までロケに行きスタジオも使う。最初は面食らっていたローレンツだがクロードの母国の花嫁たちと同じく楽しくなってきたらしく、様々な衣装を身につけて二人の写真を撮った。
ローレンツは性的指向について職場でオープンにしている。空港で制服姿の彼とそれなりにめかし込んだクロードがカメラマンを連れて写真を撮っていた時には地上職員や真っ赤な制服に身を包んだ女性乗務員や黒い制服に身を包んだ男性乗務員が通りがかりにチーフおめでとうございます、チーフお幸せに、と口々に声をかけてきた。
つまり初対面でクロードはローレンツの職業に気付いていた、ということになる。いつもと違い後ろにひとまとめにされた紫の髪が新鮮だった。男性乗務員の制服である赤いファスナーのラインが目立つ黒の詰襟のスーツは彼の手足の長さを引き立てている。機内では黒一点で働くことも多い、という彼はきっと目立つだろう。だが彼は職場にも実家にも異性装については話していないようだ。職場での写真の他にお約束のタキシード、クロードの母国の民族衣装、それにこちらの国の中世の騎士めいた格好など様々な衣装やシチュエーションで撮影をしたが、彼が一番着たがりそうな衣装の写真は撮っていない。そこでクロードはあることを思いつき、敢えて旅行代理店に電話で予約を入れた。
ローレンツがフライトを終えて五日ぶりに帰宅すると郵便受けにクロードからの手紙が入っていた。お互いのスケジュールはカレンダーアプリで完全に共有しているし、連絡を取り合うならメッセンジャーアプリの方がレスポンスが早い。クロードは良くも悪くも理屈が先行するタイプだ。こういう効率が悪いことは基本、好まないので絶対に何か裏がある。
不審に思って封を開けると中から日付とフライトナンバーが書かれたバーコード入りのカードが二枚出てきた。素直に行き先を書けば良いものを、そう言うところを省略してしまうのは実にクロードらしい。直近の方は最初の数字が一で末尾が奇数なので、ここから西か南へ行く便だろう。ローレンツは脳内で時刻表を広げると玄関に荷物を放り出し、夏物が入れてある箱をクローゼットの奥から取り出した。
クロードに自動手荷物預け機での手続きを任せてローレンツは近くのソファに座って騒めく乗客たちの様子を見ていた。私用搭乗で乗客目線を味わうことはサービスの向上に役立つ。楽しそうな親子連れには、ビジネスマンにはそれぞれどんなサービスを提供するべきか。ローレンツが真剣に考え込んでいるとクロードが戻ってきた。引きずるトランクがないので足取りが軽い。
「はいこれ手荷物の引換券」
見慣れた感熱紙を受け取るとメモ欄にHEAと印字されている。クロードから受け取ったカードに書いてある自社のフライトナンバーを見た時からきっと同僚たちから何か仕掛けられる、とは思っていたがこんなに素早く最初の一手を打ってくるとは考えていなかった。ローレンツが思わず、熱くなった目元を押さえていると心配したクロードが声をかけてきた。
「どうしたんだよさっきからずっと黙りこくっててさ」
「HappyEverAfterの略だ。同僚たちの悪戯だよ」
涙を拭った白い指がメモ欄を指差した。航空業界は仲間意識が強いらしい。一方でクロードの仕事はフリーランスの通訳兼翻訳家で、医療保険のための通訳士組合以外どこにも属していない。クロードとローレンツは見た目も働き方も正反対だった。搭乗手続きの際にも性別を問わず地上職員がチーフ、と嬉しそうにローレンツに声をかけてくる。好かれてるんだな、とクロードが言うとローレンツは微笑んだ。
クロードはローレンツが狭い席で長い手足を持て余さないよう、非常口近くの広い座席を予約したのだが向かいには乗務員席がある。ローレンツの部下が赤い制服を身につけて座っているので何となく寛げない。
職業病なのかローレンツの性分なのか、飲み物や食事を持ってきた部下にトイレを軽く掃除しておいただの何番の客は顔色が悪いから気にかけておくようにだのと耳打ちしている。数時間のフライトは全く休まらずに終わったし、到着した空港でも降機した途端に地上職員からチーフ、と呼び止められていた。
出発した空港でもそうだったがその度にクロードは値踏みされているような気がして緊張してしまう。女社会のトップに立つ女性たちからすればクロードなど吹けば飛ぶような立場だろう。
「やれやれお眼鏡に適ったのかね、俺は」
「今後、フライトに影響が出るようなことをしなければ何も言われないさ」
「例えば?」
「そうだな、婚約破棄とか?」
真顔でそんなこと言ってくるので絶対にそんなことしない、と眉間に皺を寄せてクロードは反論した。生活時間が噛み合わず寂しさや疑念を募らせ、フライトに行くなと言い出すパートナーと別れる者はとても多いとローレンツは言う。クロードは今まで一度もそんなことを言わなかったが翌日にフライトを控えていたのにも関わらず抑えの効かなかった晩はあり、流石にその翌朝は涙目で怒鳴りつけられた。
急ぎの時は通勤にも制服を着用せねばならず社則で制服着用時は笑顔を保つことになっている。身体の痛みを堪えて優雅な笑顔を浮かべていると思うと流石に申し訳なかったし、怒られて当たり前ではあった。
窓の外には青い空が広がり飛行機はひっきりなしに離着陸を繰り返している。ローレンツからすれば日常だが、クロードにとってはどこか心が沸き立つ光景を横目に見ながら人の流れに乗っていく。辿り着いた到着手荷物受取所はごった返しているが、航空会社の職員はいないのでトランクが出てくるのを待ちながらクロードはローレンツの腰に手を回した。脱いだコートを腕にかけているローレンツはまだクロードが何を企んでいるのか知らない。
トランクを受け取り、出口の目の前にあるタクシー乗り場から中距離のタクシーに乗るとようやく気が抜けたのかローレンツはクロードの肩に寄りかかって眠ってしまった。他人の目があると休めないのだろう。クロードはスマホで改めて滞在期間中の天気と日没の時間を調べた。長期予報と同じく予報は全て晴天だったのでおもわず拳を握ってしまう。ビーチリゾートでの写真撮影はクロードの母国の女性たちも憧れるシチュエーションだ。
プライベートビーチがあるホテルのバンガローもカメラマンも衣装もスタイリストも全て手配してある。旅行代理店の女性社員はクロードの話を聞くと全て無駄になるかもしれない、と把握した上でそれはそれは熱心に手配をしてくれた。彼女のためにも撮影を成功させたい。承諾してくれるのかどうか判らないが、クロードはローレンツが女性の格好をしている姿も記念に残したいと思っていた。勿論その写真を配ったり家族に見せて回るつもりはない。自分たちだけの大切な思い出を残すためにプロの手を借りたい。
クロードはそっと眠っているローレンツの髪を撫でながら車窓から外を眺めた。タクシーの窓から見える高速道路沿いに植えられた椰子の木は排気ガスにも負けず、青い空に向かってぐいぐいと背を伸ばし南国特有の雰囲気を醸し出している。
フォドラは同性婚は珍しくないがそれでも異性装をする人は少数派だ。トランスジェンダーということであれば本来の性別に寄せていく経過のひとつとして社会も理解を示すが、ローレンツの場合は単に好きな格好がしたいだけなので理解を得にくい。しかし彼が異性装をしていなかったら自分たちは出会うことはなかったのだ。対外的には美術館で出会ったということになっている。秘密にするのは構わないが自分たちに嘘はつきたくない。
タクシーは一時間ほどでホテルに到着した。クロードが寝息を立てているローレンツの口に軽くキスをすると下りていた白い瞼が一瞬で上がり美しい紫の瞳が現れる。
「え、あ?もう着いたのか?」
「よく寝てたから起こさなかった」
ローレンツが眠っている間にタクシーの会計を済ませボーイに荷物も預けたらしい。タクシーに乗っている間にクロードから何故、ここに自分を招待したのか聞きだそうと思っていたのに謎は持ち越しだ。チェックインに時間がかかるらしくクロードはしょっちゅう時計を見てはまだなのか、とぶつぶつこぼしている。待ちきれなさそうなクロードの気を紛らわせるためにローレンツはウェルカムドリンクとしてテーブルの上に置いてあるジュースをグラスに注いで渡してやった。いつも待ち合わせ場所にしているホテルのバーでもこんな感じでローレンツを待っているのだろうか。
「乾杯は?」
悪戯っぽく笑ってクロードにグラスを掲げて見せるとようやく気が変わったらしい。二人でグラスを合わせると思ったより遥かに軽やかな音がした。ピンク色のジュースを口にするとグァバの香りが鼻腔に広がる。ローレンツたちが今住んでいる街でも似たようなジュースを出す店はあるのだが、吹き抜けになっている豪華なリゾートホテルのロビーで青い空と青い海を見ながら飲むのではやはり味が違う。
「リーガン様、ご案内いたします」
「間に合いそうか?」
「はい、全て手配済みです」
部屋に案内するため荷物を乗せたカートを押しながら、数歩先を行くスタッフの耳に入らないようにローレンツはクロードに小声で話しかけた。
「何を企んでいるのかそろそろ僕にも話したまえ」
「ちょっと忙しくなる、かもしれない」
「忙しい?どういうことだ?」
ホテル本館の外に出て南国の太陽に照らされながら敷地内を歩いているとプライベートビーチが目に入る。今はシーズンオフだが夏になればきっと水着姿の宿泊客でごった返すのだろう。クロードが予約したバンガローは一番奥にある大きなものだった。カードキーをかざし荷物を運び込んだスタッフからお入りください、と言われたローレンツは室内を見て言葉を失った。バンガローのリビングにはウェディングドレスを着たトルソーがいくつも飾られている。靴やアクセサリーなどの小物も選べるようにいくつも用意されていた。
「キャンセルも出来るぜ。その可能性も込みで手配したからな。でも着るならカメラマンとスタッフを呼ぶ。このホテル、式場としても人気あるんだ」
気を使ってくれたのだろう。男性の格好でドレスの試着室に行けば嫌でも目立つ。クロードはホテルに事情を説明しローレンツが安心して衣裳や小物を選べるように運び込んでもらったのだ。それにこのホテルは空港から離れていて同じ職場の者と遭遇する可能性もかなり低い。
「ここまで手を煩わせてしまったのだ。着ないわけにいかないだろう。クロード、ありがとう。気遣いがとても嬉しいよ」
「はぁー!無駄にならないで良かった!カメラマンとスタッフに電話して俺も支度してくるわ」
ローレンツは一日に二度も涙ぐむことになるとは思わなかった。
「それと日没まであと三時間くらいだからそれまでにドレスと小物を選んで支度してくれ」
そしてクロードからとんでもない爆弾を落とされた。素人の作業時間予測ほど恐ろしいものはない。
「はあっ?!三時間?僕が夜、君に会う時ですら支度に二時間かかるんだぞ!」
涙を拭くようにとクロードから渡されたタオルを握りしめたローレンツは思わず叫んでしまった。
「じゃあ見通しが甘い俺のこと叱ってる時間が勿体ないな!」
小言を避けるためするりと外に出てしまったクロードに憤慨しながらもローレンツは運び込まれたアクセサリーや靴、それにドレスを眺めた。クロードがどう説明したのか見当はつく。きっと自分のサイズを測ったあとスタッフたちを相手に「俺よりデカくて、でも細身で」と何回も繰り返したのだろう。クロードが手配したというスタッフが来たらしく、ドアホンが鳴ったのでローレンツは立ち上がってドアを開けた。時間に追われるのは本業で慣れている。満席の大型機で食事を提供する時のことを思えばヘアもメイクも着替えも全て間に合わせられるような気がした。
なんたって僕はローレンツ=ヘルマン=グロスタールなのだからね!
一方、クロードはローレンツが撮影を承諾してくれたことに胸を撫で下ろしていた。ボトムになるための小細工に過ぎないから記録なんかしない、と怖がった彼が言い張って断られる可能性はかなり高かったと思う。
髪が短い男の身支度は大して時間がかからない。理容室で髭と髪を整えてもらいタキシードを着るだけだ。今日の自分は添え物に過ぎないのでそれで良い。時間調整のためバーに行き、冷えたビールで喉を潤しながらスマホのメッセージアプリを立ち上げた。尽力してくれた旅行代理店の担当者に承諾してくれた、とメッセージを送る。彼女もきっと喜んでくれるだろう。
ローレンツから女装姿を全く写真に残していない、と聞いた時からクロードはもったいないと思っていたのだ。マッチングアプリ内にあった僅かな画像は彼がアカウント削除した際、同時に消去されている。初めて会った時の美しい姿は未だにクロードの脳裏に焼き付いていた。
万が一のことがあって家族や職場に知られたくないという考えはクロードにも分かる。分かるのだが夜の彼だって紛れもなく彼なのだ。誰にも迷惑をかけていないのだから、プロの手を借りてとびきり美しい姿を残しておいて何が悪いのだろうかと思う。
一般論の域は出ないがパルミラの既婚者たちは皆、写真に一家言ある。それは皆、この結婚写真の撮影を経験しているからだ。おかげでクロードも写真やカメラにほんの少しだけ詳しくなってしまった。バーの窓から見えるこの抜けるような青空が、天候にもよるが日が暮れるわずかな間だけオレンジやピンクそれに紫に彩られる。特に日没後の十分から三十分の間はマジックアワーと呼ばれ、殆ど影のない不思議な写真が撮影出来る。何だか自分たちに相応しいような気がしたのだ。軽口なせいか飲みやすい地ビールのグラスを空にするとクロードは席を立った。
支度を整えバンガローに戻り、カードキーで玄関のドアを開けると何某かを担当しているスタッフとローレンツが真剣な口調で何事かを相談する話し声が聞こえてきた。クロードは通訳と翻訳が本業だが女性のファッションには詳しくないので皆、フォドラの言葉で話している筈なのに何を話しているのか全く分からない。辛うじて意味がわかったのはスタッフのこうするともっとお綺麗ですよ、という言葉だけだ。
「進捗は?」
「八割くらいだからまだ外で遊んでいたまえ」
「タキシード姿でか?!」
「……おとなしく座っていられるならこちらにきたまえ」
クロードは自分が着ていた服の入っているガーメントケースをクローゼットにしまい、ソファーの上で座って忙しくしているローレンツたちを眺めていた。床に広げられている名前も分からない何か、を踏まないように座面の上で胡座を組んだ方が良いのかもしれない。これまでに男性姿で撮った結婚写真を見たスタッフが選んだドレスはどれも似合いそうだったが、ローレンツは肩も首も腕も出ているデザインのものを選んでいた。それで良いのだ、とクロードも思う。
ビーチへの移動時間も計算して設定したアラームが鳴ると同時にスタッフが座っているローレンツにティアラを被せた。どうやらこれで完成らしい。
「似合うかね?」
プロの手による化粧やヘアメイクそれにドレスも確かに素晴らしいのだが、女性のファッションに疎いクロードは的確に褒める言葉を持たない。だが喜びのあまり照れているローレンツの顔はいくらでも褒められる。この時の顔をクロードは一生忘れないだろう。この顔が見たくて大枚をはたいたのだ。
「似合ってるさ!すごく綺麗だよ。じきに日が沈む。俺たちに相応しいと思わないか?」
一人で身動きが取れる格好ではないのでスタッフが一人、ローレンツについて撮影場所であるビーチまでベールやドレスの裾を持ってついてきてくれた。カメラマンの指示に従ってベールやドレスの裾の形を微調整する係でもあるのだという。
流石に緊張していたのかローレンツが無言で移動していたので、通りすがりの宿泊客は皆、広告写真か何かの撮影とでも思ったらしい。彼の声さえ聞かなければそう考えるのが合理的なようだった。
夕暮れの光の中で写真を撮るのに化粧がいるのだろうかとクロードは訝しく思っていたが日が暮れる前、青空の下を移動したのできちんと化粧を施しておいて正解だったらしい。てっぺんから爪先まで美しく装ったローレンツとすれ違った宿泊客はウェディングドレスを身につけたローレンツを見て「モデルさんだよ、背が高いね」と口々に呟いていた。
青空の下でも予行演習としてカメラマンに言われるがままに二人でいくつかポーズをとった。夕暮れの中オレンジの光に照らされて金色に染まる白いベールやドレスの裾を翻し、微笑むローレンツの姿は動画で残しておきたいほど美しかった。だが後で見返してもこれほどの感動がないことはクロードにも分かっている。カメラマンの指示に従って二人、砂の上で飛んだり跳ねたり抱きついたりじゃれあったりしているうちに日は完全に沈み、マジックアワーは終わりを告げた。ビーチからバンガローのあるエリアやホテル本館を見ると煌々と明かりがついている。
「夢のような時間だったよ。ありがとうクロード」
衣装や小物を返却しスタッフたちとカメラマンに重ね重ね礼を言い、二人きりになるまではあっという間だった。写真の選別は明日ということになっている。
「化粧を落として着替えたら食事をしに行こう」
「化粧を落とすのは待ってくれ」
プロのメイクを落とすのは惜しいがローレンツが持参した着替えは男物のみだ。顔がここまで作り込んであるのに男物の服を着たら台無しになってしまう。だからさっさと顔を洗って外出できる状態になりたいのにまだ何かあるのだろうか。バスローブ姿のローレンツが腕組みをして待っているとクロードから袋を手渡された。開けて中身を確認すると白地に赤い縁取りと紺のメーカーロゴが入った、某ビールメーカーのキャンペーン用ワンピースが出てきた。チューブトップで丈は相当短い。
「このメイクにこの服は合わない!」
「そんなの俺には分からないよ!」
ローレンツは改めてクロードが何故、女性から逃げられてしまったのかを理解した。
「こんな格好で外に出られるわけないだろう!靴だってローファーと男物のサンダルしかないのだぞ」
「食事の前にちょっとだけ!着てるとこが見たいだけだって!」
理解したが、今日のローレンツは彼女たちが求めてやまなかった彼からの気遣いを過剰に受けている。身体の線を整えてくれるようなビスチェもないしこれだけ丈が短いならば股間が目立たないように固定する必要もある。クロードが求めているであろう身体の線は作れないが駄々を捏ねている子供に等しい彼を説得するため、ローレンツはバスローブを脱ぎ渡されたワンピースを着た。鏡で確認する気にもなれないがメイクも全く噛み合っていないだろう。
「やはり丈が短すぎる」
ローレンツは男物の肌着が見えないように白い手で裾を引っ張ったが、やりすぎると今度は胸がずり下がる。困っているとクロードが抱きついてきた。裾をめくりあげ肌着の中に褐色の手を入れてくる。南国とはいえずっと外で撮影していたので冷えた身体にクロードの温かい手が心地よかった。
「短くないよ、こういうことがしたくて着て貰ったんだから。あれ?なんだか思ったより身体が冷えてるな」
褐色の手が冷えた白い臀部を撫で回す。触られたところからクロードの持つ精気を与えられているような気がした。
「ンッ……君と違って肩も腕も剥き出しだったからな」
じゃああっためてやらないと、とクロードが耳元で囁いた時にローレンツはレストランでの夕食を諦めた。運が良ければ日付が変わる前にルームサービスを頼めるかもしれない。畳む
#クロロレ #完売本 #現パロ #BOTH
クロードがローレンツの目の前で膝をついてから暫く経った。クロードの母国とクロードが現在、ローレンツと共に住んでいる国の結婚に関する文化がかなり異なっている上にお互いに仕事があるので準備は中々進まない。クロードの母国では結婚する二人はとにかく挙式前に写真を撮りまくり、写真集を作って親族や友人に渡す風習がある。
新婚カップルがその写真集を作るために年収と同じくらいの金額を費やすことも珍しくない。カメラマンやメーキャップアーティストを雇って衣装を借り、遠方までロケに行きスタジオも使う。最初は面食らっていたローレンツだがクロードの母国の花嫁たちと同じく楽しくなってきたらしく、様々な衣装を身につけて二人の写真を撮った。
ローレンツは性的指向について職場でオープンにしている。空港で制服姿の彼とそれなりにめかし込んだクロードがカメラマンを連れて写真を撮っていた時には地上職員や真っ赤な制服に身を包んだ女性乗務員や黒い制服に身を包んだ男性乗務員が通りがかりにチーフおめでとうございます、チーフお幸せに、と口々に声をかけてきた。
つまり初対面でクロードはローレンツの職業に気付いていた、ということになる。いつもと違い後ろにひとまとめにされた紫の髪が新鮮だった。男性乗務員の制服である赤いファスナーのラインが目立つ黒の詰襟のスーツは彼の手足の長さを引き立てている。機内では黒一点で働くことも多い、という彼はきっと目立つだろう。だが彼は職場にも実家にも異性装については話していないようだ。職場での写真の他にお約束のタキシード、クロードの母国の民族衣装、それにこちらの国の中世の騎士めいた格好など様々な衣装やシチュエーションで撮影をしたが、彼が一番着たがりそうな衣装の写真は撮っていない。そこでクロードはあることを思いつき、敢えて旅行代理店に電話で予約を入れた。
ローレンツがフライトを終えて五日ぶりに帰宅すると郵便受けにクロードからの手紙が入っていた。お互いのスケジュールはカレンダーアプリで完全に共有しているし、連絡を取り合うならメッセンジャーアプリの方がレスポンスが早い。クロードは良くも悪くも理屈が先行するタイプだ。こういう効率が悪いことは基本、好まないので絶対に何か裏がある。
不審に思って封を開けると中から日付とフライトナンバーが書かれたバーコード入りのカードが二枚出てきた。素直に行き先を書けば良いものを、そう言うところを省略してしまうのは実にクロードらしい。直近の方は最初の数字が一で末尾が奇数なので、ここから西か南へ行く便だろう。ローレンツは脳内で時刻表を広げると玄関に荷物を放り出し、夏物が入れてある箱をクローゼットの奥から取り出した。
クロードに自動手荷物預け機での手続きを任せてローレンツは近くのソファに座って騒めく乗客たちの様子を見ていた。私用搭乗で乗客目線を味わうことはサービスの向上に役立つ。楽しそうな親子連れには、ビジネスマンにはそれぞれどんなサービスを提供するべきか。ローレンツが真剣に考え込んでいるとクロードが戻ってきた。引きずるトランクがないので足取りが軽い。
「はいこれ手荷物の引換券」
見慣れた感熱紙を受け取るとメモ欄にHEAと印字されている。クロードから受け取ったカードに書いてある自社のフライトナンバーを見た時からきっと同僚たちから何か仕掛けられる、とは思っていたがこんなに素早く最初の一手を打ってくるとは考えていなかった。ローレンツが思わず、熱くなった目元を押さえていると心配したクロードが声をかけてきた。
「どうしたんだよさっきからずっと黙りこくっててさ」
「HappyEverAfterの略だ。同僚たちの悪戯だよ」
涙を拭った白い指がメモ欄を指差した。航空業界は仲間意識が強いらしい。一方でクロードの仕事はフリーランスの通訳兼翻訳家で、医療保険のための通訳士組合以外どこにも属していない。クロードとローレンツは見た目も働き方も正反対だった。搭乗手続きの際にも性別を問わず地上職員がチーフ、と嬉しそうにローレンツに声をかけてくる。好かれてるんだな、とクロードが言うとローレンツは微笑んだ。
クロードはローレンツが狭い席で長い手足を持て余さないよう、非常口近くの広い座席を予約したのだが向かいには乗務員席がある。ローレンツの部下が赤い制服を身につけて座っているので何となく寛げない。
職業病なのかローレンツの性分なのか、飲み物や食事を持ってきた部下にトイレを軽く掃除しておいただの何番の客は顔色が悪いから気にかけておくようにだのと耳打ちしている。数時間のフライトは全く休まらずに終わったし、到着した空港でも降機した途端に地上職員からチーフ、と呼び止められていた。
出発した空港でもそうだったがその度にクロードは値踏みされているような気がして緊張してしまう。女社会のトップに立つ女性たちからすればクロードなど吹けば飛ぶような立場だろう。
「やれやれお眼鏡に適ったのかね、俺は」
「今後、フライトに影響が出るようなことをしなければ何も言われないさ」
「例えば?」
「そうだな、婚約破棄とか?」
真顔でそんなこと言ってくるので絶対にそんなことしない、と眉間に皺を寄せてクロードは反論した。生活時間が噛み合わず寂しさや疑念を募らせ、フライトに行くなと言い出すパートナーと別れる者はとても多いとローレンツは言う。クロードは今まで一度もそんなことを言わなかったが翌日にフライトを控えていたのにも関わらず抑えの効かなかった晩はあり、流石にその翌朝は涙目で怒鳴りつけられた。
急ぎの時は通勤にも制服を着用せねばならず社則で制服着用時は笑顔を保つことになっている。身体の痛みを堪えて優雅な笑顔を浮かべていると思うと流石に申し訳なかったし、怒られて当たり前ではあった。
窓の外には青い空が広がり飛行機はひっきりなしに離着陸を繰り返している。ローレンツからすれば日常だが、クロードにとってはどこか心が沸き立つ光景を横目に見ながら人の流れに乗っていく。辿り着いた到着手荷物受取所はごった返しているが、航空会社の職員はいないのでトランクが出てくるのを待ちながらクロードはローレンツの腰に手を回した。脱いだコートを腕にかけているローレンツはまだクロードが何を企んでいるのか知らない。
トランクを受け取り、出口の目の前にあるタクシー乗り場から中距離のタクシーに乗るとようやく気が抜けたのかローレンツはクロードの肩に寄りかかって眠ってしまった。他人の目があると休めないのだろう。クロードはスマホで改めて滞在期間中の天気と日没の時間を調べた。長期予報と同じく予報は全て晴天だったのでおもわず拳を握ってしまう。ビーチリゾートでの写真撮影はクロードの母国の女性たちも憧れるシチュエーションだ。
プライベートビーチがあるホテルのバンガローもカメラマンも衣装もスタイリストも全て手配してある。旅行代理店の女性社員はクロードの話を聞くと全て無駄になるかもしれない、と把握した上でそれはそれは熱心に手配をしてくれた。彼女のためにも撮影を成功させたい。承諾してくれるのかどうか判らないが、クロードはローレンツが女性の格好をしている姿も記念に残したいと思っていた。勿論その写真を配ったり家族に見せて回るつもりはない。自分たちだけの大切な思い出を残すためにプロの手を借りたい。
クロードはそっと眠っているローレンツの髪を撫でながら車窓から外を眺めた。タクシーの窓から見える高速道路沿いに植えられた椰子の木は排気ガスにも負けず、青い空に向かってぐいぐいと背を伸ばし南国特有の雰囲気を醸し出している。
フォドラは同性婚は珍しくないがそれでも異性装をする人は少数派だ。トランスジェンダーということであれば本来の性別に寄せていく経過のひとつとして社会も理解を示すが、ローレンツの場合は単に好きな格好がしたいだけなので理解を得にくい。しかし彼が異性装をしていなかったら自分たちは出会うことはなかったのだ。対外的には美術館で出会ったということになっている。秘密にするのは構わないが自分たちに嘘はつきたくない。
タクシーは一時間ほどでホテルに到着した。クロードが寝息を立てているローレンツの口に軽くキスをすると下りていた白い瞼が一瞬で上がり美しい紫の瞳が現れる。
「え、あ?もう着いたのか?」
「よく寝てたから起こさなかった」
ローレンツが眠っている間にタクシーの会計を済ませボーイに荷物も預けたらしい。タクシーに乗っている間にクロードから何故、ここに自分を招待したのか聞きだそうと思っていたのに謎は持ち越しだ。チェックインに時間がかかるらしくクロードはしょっちゅう時計を見てはまだなのか、とぶつぶつこぼしている。待ちきれなさそうなクロードの気を紛らわせるためにローレンツはウェルカムドリンクとしてテーブルの上に置いてあるジュースをグラスに注いで渡してやった。いつも待ち合わせ場所にしているホテルのバーでもこんな感じでローレンツを待っているのだろうか。
「乾杯は?」
悪戯っぽく笑ってクロードにグラスを掲げて見せるとようやく気が変わったらしい。二人でグラスを合わせると思ったより遥かに軽やかな音がした。ピンク色のジュースを口にするとグァバの香りが鼻腔に広がる。ローレンツたちが今住んでいる街でも似たようなジュースを出す店はあるのだが、吹き抜けになっている豪華なリゾートホテルのロビーで青い空と青い海を見ながら飲むのではやはり味が違う。
「リーガン様、ご案内いたします」
「間に合いそうか?」
「はい、全て手配済みです」
部屋に案内するため荷物を乗せたカートを押しながら、数歩先を行くスタッフの耳に入らないようにローレンツはクロードに小声で話しかけた。
「何を企んでいるのかそろそろ僕にも話したまえ」
「ちょっと忙しくなる、かもしれない」
「忙しい?どういうことだ?」
ホテル本館の外に出て南国の太陽に照らされながら敷地内を歩いているとプライベートビーチが目に入る。今はシーズンオフだが夏になればきっと水着姿の宿泊客でごった返すのだろう。クロードが予約したバンガローは一番奥にある大きなものだった。カードキーをかざし荷物を運び込んだスタッフからお入りください、と言われたローレンツは室内を見て言葉を失った。バンガローのリビングにはウェディングドレスを着たトルソーがいくつも飾られている。靴やアクセサリーなどの小物も選べるようにいくつも用意されていた。
「キャンセルも出来るぜ。その可能性も込みで手配したからな。でも着るならカメラマンとスタッフを呼ぶ。このホテル、式場としても人気あるんだ」
気を使ってくれたのだろう。男性の格好でドレスの試着室に行けば嫌でも目立つ。クロードはホテルに事情を説明しローレンツが安心して衣裳や小物を選べるように運び込んでもらったのだ。それにこのホテルは空港から離れていて同じ職場の者と遭遇する可能性もかなり低い。
「ここまで手を煩わせてしまったのだ。着ないわけにいかないだろう。クロード、ありがとう。気遣いがとても嬉しいよ」
「はぁー!無駄にならないで良かった!カメラマンとスタッフに電話して俺も支度してくるわ」
ローレンツは一日に二度も涙ぐむことになるとは思わなかった。
「それと日没まであと三時間くらいだからそれまでにドレスと小物を選んで支度してくれ」
そしてクロードからとんでもない爆弾を落とされた。素人の作業時間予測ほど恐ろしいものはない。
「はあっ?!三時間?僕が夜、君に会う時ですら支度に二時間かかるんだぞ!」
涙を拭くようにとクロードから渡されたタオルを握りしめたローレンツは思わず叫んでしまった。
「じゃあ見通しが甘い俺のこと叱ってる時間が勿体ないな!」
小言を避けるためするりと外に出てしまったクロードに憤慨しながらもローレンツは運び込まれたアクセサリーや靴、それにドレスを眺めた。クロードがどう説明したのか見当はつく。きっと自分のサイズを測ったあとスタッフたちを相手に「俺よりデカくて、でも細身で」と何回も繰り返したのだろう。クロードが手配したというスタッフが来たらしく、ドアホンが鳴ったのでローレンツは立ち上がってドアを開けた。時間に追われるのは本業で慣れている。満席の大型機で食事を提供する時のことを思えばヘアもメイクも着替えも全て間に合わせられるような気がした。
なんたって僕はローレンツ=ヘルマン=グロスタールなのだからね!
一方、クロードはローレンツが撮影を承諾してくれたことに胸を撫で下ろしていた。ボトムになるための小細工に過ぎないから記録なんかしない、と怖がった彼が言い張って断られる可能性はかなり高かったと思う。
髪が短い男の身支度は大して時間がかからない。理容室で髭と髪を整えてもらいタキシードを着るだけだ。今日の自分は添え物に過ぎないのでそれで良い。時間調整のためバーに行き、冷えたビールで喉を潤しながらスマホのメッセージアプリを立ち上げた。尽力してくれた旅行代理店の担当者に承諾してくれた、とメッセージを送る。彼女もきっと喜んでくれるだろう。
ローレンツから女装姿を全く写真に残していない、と聞いた時からクロードはもったいないと思っていたのだ。マッチングアプリ内にあった僅かな画像は彼がアカウント削除した際、同時に消去されている。初めて会った時の美しい姿は未だにクロードの脳裏に焼き付いていた。
万が一のことがあって家族や職場に知られたくないという考えはクロードにも分かる。分かるのだが夜の彼だって紛れもなく彼なのだ。誰にも迷惑をかけていないのだから、プロの手を借りてとびきり美しい姿を残しておいて何が悪いのだろうかと思う。
一般論の域は出ないがパルミラの既婚者たちは皆、写真に一家言ある。それは皆、この結婚写真の撮影を経験しているからだ。おかげでクロードも写真やカメラにほんの少しだけ詳しくなってしまった。バーの窓から見えるこの抜けるような青空が、天候にもよるが日が暮れるわずかな間だけオレンジやピンクそれに紫に彩られる。特に日没後の十分から三十分の間はマジックアワーと呼ばれ、殆ど影のない不思議な写真が撮影出来る。何だか自分たちに相応しいような気がしたのだ。軽口なせいか飲みやすい地ビールのグラスを空にするとクロードは席を立った。
支度を整えバンガローに戻り、カードキーで玄関のドアを開けると何某かを担当しているスタッフとローレンツが真剣な口調で何事かを相談する話し声が聞こえてきた。クロードは通訳と翻訳が本業だが女性のファッションには詳しくないので皆、フォドラの言葉で話している筈なのに何を話しているのか全く分からない。辛うじて意味がわかったのはスタッフのこうするともっとお綺麗ですよ、という言葉だけだ。
「進捗は?」
「八割くらいだからまだ外で遊んでいたまえ」
「タキシード姿でか?!」
「……おとなしく座っていられるならこちらにきたまえ」
クロードは自分が着ていた服の入っているガーメントケースをクローゼットにしまい、ソファーの上で座って忙しくしているローレンツたちを眺めていた。床に広げられている名前も分からない何か、を踏まないように座面の上で胡座を組んだ方が良いのかもしれない。これまでに男性姿で撮った結婚写真を見たスタッフが選んだドレスはどれも似合いそうだったが、ローレンツは肩も首も腕も出ているデザインのものを選んでいた。それで良いのだ、とクロードも思う。
ビーチへの移動時間も計算して設定したアラームが鳴ると同時にスタッフが座っているローレンツにティアラを被せた。どうやらこれで完成らしい。
「似合うかね?」
プロの手による化粧やヘアメイクそれにドレスも確かに素晴らしいのだが、女性のファッションに疎いクロードは的確に褒める言葉を持たない。だが喜びのあまり照れているローレンツの顔はいくらでも褒められる。この時の顔をクロードは一生忘れないだろう。この顔が見たくて大枚をはたいたのだ。
「似合ってるさ!すごく綺麗だよ。じきに日が沈む。俺たちに相応しいと思わないか?」
一人で身動きが取れる格好ではないのでスタッフが一人、ローレンツについて撮影場所であるビーチまでベールやドレスの裾を持ってついてきてくれた。カメラマンの指示に従ってベールやドレスの裾の形を微調整する係でもあるのだという。
流石に緊張していたのかローレンツが無言で移動していたので、通りすがりの宿泊客は皆、広告写真か何かの撮影とでも思ったらしい。彼の声さえ聞かなければそう考えるのが合理的なようだった。
夕暮れの光の中で写真を撮るのに化粧がいるのだろうかとクロードは訝しく思っていたが日が暮れる前、青空の下を移動したのできちんと化粧を施しておいて正解だったらしい。てっぺんから爪先まで美しく装ったローレンツとすれ違った宿泊客はウェディングドレスを身につけたローレンツを見て「モデルさんだよ、背が高いね」と口々に呟いていた。
青空の下でも予行演習としてカメラマンに言われるがままに二人でいくつかポーズをとった。夕暮れの中オレンジの光に照らされて金色に染まる白いベールやドレスの裾を翻し、微笑むローレンツの姿は動画で残しておきたいほど美しかった。だが後で見返してもこれほどの感動がないことはクロードにも分かっている。カメラマンの指示に従って二人、砂の上で飛んだり跳ねたり抱きついたりじゃれあったりしているうちに日は完全に沈み、マジックアワーは終わりを告げた。ビーチからバンガローのあるエリアやホテル本館を見ると煌々と明かりがついている。
「夢のような時間だったよ。ありがとうクロード」
衣装や小物を返却しスタッフたちとカメラマンに重ね重ね礼を言い、二人きりになるまではあっという間だった。写真の選別は明日ということになっている。
「化粧を落として着替えたら食事をしに行こう」
「化粧を落とすのは待ってくれ」
プロのメイクを落とすのは惜しいがローレンツが持参した着替えは男物のみだ。顔がここまで作り込んであるのに男物の服を着たら台無しになってしまう。だからさっさと顔を洗って外出できる状態になりたいのにまだ何かあるのだろうか。バスローブ姿のローレンツが腕組みをして待っているとクロードから袋を手渡された。開けて中身を確認すると白地に赤い縁取りと紺のメーカーロゴが入った、某ビールメーカーのキャンペーン用ワンピースが出てきた。チューブトップで丈は相当短い。
「このメイクにこの服は合わない!」
「そんなの俺には分からないよ!」
ローレンツは改めてクロードが何故、女性から逃げられてしまったのかを理解した。
「こんな格好で外に出られるわけないだろう!靴だってローファーと男物のサンダルしかないのだぞ」
「食事の前にちょっとだけ!着てるとこが見たいだけだって!」
理解したが、今日のローレンツは彼女たちが求めてやまなかった彼からの気遣いを過剰に受けている。身体の線を整えてくれるようなビスチェもないしこれだけ丈が短いならば股間が目立たないように固定する必要もある。クロードが求めているであろう身体の線は作れないが駄々を捏ねている子供に等しい彼を説得するため、ローレンツはバスローブを脱ぎ渡されたワンピースを着た。鏡で確認する気にもなれないがメイクも全く噛み合っていないだろう。
「やはり丈が短すぎる」
ローレンツは男物の肌着が見えないように白い手で裾を引っ張ったが、やりすぎると今度は胸がずり下がる。困っているとクロードが抱きついてきた。裾をめくりあげ肌着の中に褐色の手を入れてくる。南国とはいえずっと外で撮影していたので冷えた身体にクロードの温かい手が心地よかった。
「短くないよ、こういうことがしたくて着て貰ったんだから。あれ?なんだか思ったより身体が冷えてるな」
褐色の手が冷えた白い臀部を撫で回す。触られたところからクロードの持つ精気を与えられているような気がした。
「ンッ……君と違って肩も腕も剥き出しだったからな」
じゃああっためてやらないと、とクロードが耳元で囁いた時にローレンツはレストランでの夕食を諦めた。運が良ければ日付が変わる前にルームサービスを頼めるかもしれない。畳む

3.
───精霊や神と交流する力に恵まれた巫者も大まかに二つに分類することができる。過酷な修業と儀式を経て、力を得たものたちと精霊や神に選ばれて力を得たものたちだ。一晩中、呪文を唱えながら己の身体を鞭打つ修業や焼けた炭の上を裸足で歩く儀式などが有名だ。(中略) 選ばれた、というと修業や儀式抜きで楽に力を得たような印象を受ける。だが神に選ばれたものたちは巫病と呼ばれる謎の病に長期間、苦しむ。巫病は当初、巫病として認識されない───
敵わない。多少はある年の功も、この身に宿す紋章も残酷な格差をシルヴァンに思い知らせるだけだった。退屈なほどに静かだった夜は切り裂かれている。彼を守るためグレンは命を落としたというのにディミトリは駆け出してしまった。
囮になってこちらを守るためだという意図は分かっている。だが訓練用の槍しか持っていない身で先王の血とブレーダッドの紋章を受け継ぐ存在がそんな係を担当する必要はない。
盗賊たちの叫び声から察するに確かに級長、いや、後継者たちの命が主目的のようだった。だが半分はまだこの野営地に残っている。
あたりは盗賊と学生双方の叫び声や武器を振るう音、魔法の詠唱で騒然としていた。フェリクスは実戦経験もあり、剣技も巧みだが安全のため刃が潰してある剣では真の実力を発揮できるはずもない。仕方なくシルヴァンが握っている槍も刃が潰してある。
「危ない!メルセデスさん!」
篝火の明るさを頼りに、頼りにならない鈍らを振るって盗賊と戦っていると自分と同じく槍を構えていた筈のローレンツの叫び声が聞こえた。シルヴァンの手元に手槍があったら、彼女の後ろで斧を振り上げた盗賊の喉目掛けて投擲していただろう。歯軋りした瞬間に盗賊の身体が炎に包まれた。どうやら彼は黒魔法も得意らしい。
修道士希望のメルセデスは動じることなく負傷した他の学生に回復魔法をかけている。戦場においては修道士が真の勇者、というのはよく聞く話だ。修道士たちは丸腰で傷病兵の救助にあたる。
「あら〜、ローレンツ、久しぶりね〜?助けてくれてありがとう〜」
久しぶり、ということは彼らは顔見知りなのだろうか。そんな呑気なことを考えながらシルヴァンは槍の柄で盗賊の喉を勢いよく突いた。ぐええ、といううめき声に合わせて周囲から感嘆の声が沸いたのでゴーティエの小紋章が背に浮かんだのだろう。
「いや、これも貴族の責務だ」
必死で盗賊たちに抗っているとディミトリたちが援軍を引き連れて戻ってきた。後に聞いて呆れたのだが、ディミトリはクロードを追いかけていたのにクロードはうろ覚えで走っていたのだという。これが後の世に伝えられる必然の出会い、だ。
野営地を襲った盗賊たちは赤き谷にこもっているのだという。青獅子の学級は奉仕活動として彼らを捕縛するセイロス騎士団の補助をすることになった。ローレンツは彼らの担任教師となったベレトから課題協力を求められている。
彼は教師として採用されてすぐ、名簿を手に学生たちに聞き取りをして回っていたので魔道学院にいたことを覚えているのだろう。その際もガルグ=マクではまだ資格をとっていない、と正直に話したのだが傭兵暮らしが長いせいか腑に落ちないらしい。
「先生のクロードより僕、という選択は高く評価しているが……」
「……分かった。では、言い方を変えよう。練習をする機会を提供、出来るかも、しれない」
だが言質を取られないように途切れ途切れに話すベレトが念のために、とローレンツを選ぶのも分かるような気がした。まずファーガス騎士の国なだけあって黒魔法が得意な学生があまりいない。そして担任ではないので彼が黒魔法を使えるとは知らなかった───という言い訳が可能だ。平民たちはこういった図々しさで困難な場面に保険をかけて乗り切る。手を貸さないのもなんだか貴族らしくないような気がしてローレンツは首を縦に振った。
そんなやりとりがあったものの今のところディミトリとドゥドゥー、それにフェリクスが鬼神のような強さを発揮しているのでローレンツには一向に練習する機会、とやらが訪れない。だが得難い経験は出来たように思う。
「分かってたつもりだが、やっぱり目指す気にもなれないな……」
ローレンツの隣に陣取るシルヴァンが橋の向こうを眺めてしみじみと呟いた。クロードは彼の礼儀正しさや実直なところを参考にすべきだが───槍を振るう兵種としてディミトリが参考になるかならないか、で言えば全くならない。
「三人とも無理をしていないか心配ね〜」
魔道学院で顔見知りになったメルセデスが橋の向こうを眺めながら服についた土埃を払った。ローレンツの槍もシルヴァンの槍も盗賊たちの血で赤く汚れている。貴族の責務を果たした筈なのにあまり良い気分ではなかった。畳む