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雑多です。
「有情たちの夜」5.枠の外へ 紅花ルートフェヒュ前提 #クロロレ #有情たちの夜 #ヒューベルト #フェルディナント

(1)
 せっかく手に入れたデアドラを闇に蠢くものたちに荒らされたくなかったヒューベルトは後事を軍務卿であるベルグリーズ伯に託した。自領を長男に任せられるとは言え、それでも多忙な彼は親帝国派諸侯の領地には殆ど立ち入っていない。故に領主が親帝国派であった場合、その土地の平民の暮らしは戦前と全く変わらなかった。そのことを親帝国派の領主たちは誇っても構わない、とヒューベルトは思う。
 ベルグリーズ伯は元よりアミッド大河を挟んで、領地が隣り合うグロスタール家とは長年の消極的な交流があった。そんな蓄積のある彼から見たグロスタール伯エルヴィンは信頼に足るようで、リーガン領はほぼ全域がグロスタール家預かりになりつつある。戦わずして豊かな地域を手に入れたグロスタール家、戦時中に掴んだ商機と利権をいまだに手放さないエドマンド家は妬まれていた。
 嫉妬に駆られた人々と闇に蠢くものたちの思惑が絡みあった結果、再びヒューベルトが自ら取り調べをする羽目になっている。五年前と同じ館を使っているが、使っている部屋も待遇も何もかも違う。端的にいって明るくて心地が良い。一番の違いは弁護人が同席していることだ。キッホルの紋章保持者は親友であるローレンツの隣に座り、珍しく黙っている。
「貴殿が静かにしていると些か調子が狂いますな」
 だがヒューベルトはフェルディナントの外聞を気にしないところが好きだ。必要だと思ったら躊躇しないところが自分とよく似ている。正反対と言われながらも彼に惹かれたのはそういうことだろう。
「揶揄わないでくれたまえ」
「事実を申し上げたのみです。ではローレンツ殿、まず……フェイルノートに嵌っていた紋章石の行方について心当たりはおありですかな?」
 ヒューベルトの言葉を耳にしてもローレンツは顔色ひとつ変えなかった。英雄の遺産や神聖武器を手に入れるため、闇に蠢くものたちは戦闘終了後にデアドラに乗り込んでいる。だが結果は芳しくなかった。
「私の親友をクロードの身代わりに仕立て上げようという動きは看過できない」
 フェルディナントはそう言うが、グロスタール家が先んじて有力な武器を確保していたと言う噂もある。それは本当にグロスタール家の意志なのか、裏で手を引く存在があるのではないか。そんな嫌疑をかけられていた。



 クロードがローレンツの知らぬ何かを仕掛けてからフォドラを去ったことは、想像に難くない。遅効性の毒が今頃になって効果を発揮したということだろうか。そう言うことなら、ローレンツはクロードに代わってヒルダを守らねばならない。最後まで彼と共にいたヒルダが知らぬうちに悪巧みに巻き込まれている可能性がある。
「他家が保管しているものについて、僕は関知していない」
 グロスタール家はテュルソスの杖以外にもいくつかの神聖武器を管理していた。クロードから帝国相手に総力戦はしない、と言われていたが独自に爪と牙を研いでおく必要はある。ローレンツはフェルディナントが淹れてくれた紅茶に口をつけた。彼は同じ湯で先にヒューベルトのためにテフを淹れたのできっと安全だろう。
「それにフェイルノートとフライクーゲルをエーデルガルトから取り上げたのはアランデル公自身ではないか」
 素直なフェルディナントの声には苛立ちが混ざっている。武具に詳しくキッホルの紋章を持っている彼がデアドラが陥落した際、武装解除を担当していた。彼以外にフェイルノートとフライクーゲルに触れるのはリンハルトとエーデルガルトしかいない。両名とも戦闘終了後はやることが山積みだった筈だ。自然な役割分担と言える。
「フェルディナントくんが検分した時は特におかしな点はなかったのだろう?」
 デアドラ育ちでないとしてもクロードはあの水の都を愛していた。デアドラを守るための戦いで、彼が死力を尽くさなかったとは考えがたい。だが───
「そのように見受けられた。だがエーギル家には残念ながら英雄の遺産や神聖武器の類は伝わっていない」
「それでは確かに知識不足は否めませんな」
「二人ともクロードが作り出した奴自身の虚像に惑わされている。君たちはデアドラで奴に勝ったのだ」
 ローレンツは思わず声を荒げた。二人とも相手がクロードでなければとっくに結論に辿り着いている筈だ。
 
 
 
(2)
 資格のないものが英雄の遺産に触れると何が起きるのか、ヒューベルトもフェルディナントも目撃している。そしてレアは破裂の槍を手中に収めようとしていた。今思えばベレスはあの時から中央教会に対して不信感を覚えていたのかもしれない。とにかく当時は効率を優先すると言ってシルヴァンに直接、破裂の槍を返却していた。タルティーンではそのせいでヒューベルトたちは苦労することになる。
 だからこそ自分もフェルディナントもローレンツの言うことが俄かには信じがたかった。英雄の遺産は禍々しい面もあるが使用者の力を千人力にする。悪用を恐れて弱体化させておくなど考えられない。
「クロードは英雄の遺産に興味を持っていたが、機序が理解出来ないものを切り札にするつもりはなかったのだ」
 先ほど感情を露わにしたことを恥じているのか、ローレンツは淡々と事実を指摘した。ディミトリと親しかった名家は皆、嫡子を失ったがクロードの異常ともいえる発想のおかげで彼もヒルダも生きている。
 クロードの出自を知った今となっては何の不思議もない。デアドラに現れたパルミラ兵こそがクロードの切り札だった。パルミラ育ちの彼にとってフェイルノートはよく命中し、紋章を持つ射手の体力を回復し続ける弓でしかない。全てを託すつもりはない上に悪用される危険がある、となったら躊躇する理由はないだろう。頭では理解出来るが紋章の有無で人生が大きく狂っていく国で育ったヒューベルトにはない発想だった。
「ああ、だから猜疑心の塊を自称していたのだな!」
 そこは感心するところではない。フェルディナントが開いた唇に手を添えた。彼の発想はいつも些か突飛でヒューベルトの調子を狂わせる。弁護人が必要、と言うのもフェルディナントの発想でローレンツの要望ではない。彼の感じている居心地の悪さについてはヒューベルトにも責任があった。
「貴殿が少しは持つべきものですな。そしてクロード殿はもしかしたら……」
 フォドラの良き貴族として育てられたフェルディナントとローレンツからしてみれば正気の沙汰ではない。現に大司教を守る剣、と称していたカトリーヌは戦場で常に雷霆を手にしていた。お尋ね者となった〝カサンドラ〟が新しい名とセイロス騎士団での職位を与えられたのは雷霆という手土産があったからかもしれない。今となっては真実を確かめる術は残っていないが、大司教レアの英雄の遺産に対する執着は常軌を逸していた。



 ヒューベルトとフェルディナントはそれぞれ別の事象について勝手に納得している。しかしローレンツはこれまでと同じく、胸の内に溢れる納得のいかないこと、を理性でねじ伏せていた。惨めさに騒つく心を飼い慣らさねば門地も領地も危険に晒してしまう。
 対外的には戦闘中行方不明ということになっているが、国外追放に至るクロードの奮戦ぶりはフェルディナントから聞いている。民に頭を下げて避難させ、軍港に罠を張った。エーデルガルトとベレスでなければ彼の罠を食い破ることは不可能だっただろう。死地において、クロードはフェイルノートにもローレンツにも頼らなかった。賭けに負けた彼は今どこにいるのだろう。
 ローレンツはフェルディナントが淹れてくれた紅茶に口をつけた。この茶器はこの館に元からあったものではない。白地に紺の模様が入った帝国風のものだ。そんな些細な事柄がデアドラで円卓会議が開かれる日は二度と来ない、という事実をローレンツに突きつけてくる。
「何にしても、信じがたい愚行だ……では代わりに紛いものが嵌まっていたのか?」
 武具に詳しいフェルディナントがかいつまんで説明してくれた。不具合を発見したのは女帝エーデルガルトの伯父、アランデル公らしい。彼も何某かの紋章を持っているのだろう。
「動作確認をした際にその紛いものが割れたので驚愕したそうだよ。破片を調べたところどうやら人造の紋章石が嵌まっていたらしい」
「因みにフライクーゲルに異常はありませんでした」
 ヒューベルトの声に微かな苛立ちが混ざっている。視線の先にはフェルディナントが淹れたテフがあった。茶菓は人間に余裕をもたらしてくれる。
 帝国が豊かと言えども、あれほどの大乱の戦費が全て開戦前に用立てられるはずがない。しかも戦災で壊滅的な被害を受けたデアドラ港やフェルディアを再興する羽目になっている。この状況ではパルミラとの国境警備はゴネリル家に外注せざるを得ない。クロードはフライクーゲル返還に至る事情まで読んだ上で、フェイルノートだけ無力化したことになる。
 
 
 
(3)
 クロードの腹立たしい点はいくつもある。まず、ヒューベルトたちと考えが重なる点があったことが腹立たしい。英雄の遺産に頼らずやってのけようとしたこと、全力を尽くさなかったこと、その二点が特にヒューベルトの神経に触る。細かい点を上げ始めればきりがなく尋問に支障が出てしまうだろう。
「クロードは人の手だけで何とかしようとしたのだ……。知識は間違っていることがあるし、信頼も儚い。未来は観察できないからな」
 親友の淹れた紅茶を口にして気が緩んだのか、ローレンツはそう呟いた。領主は即決する力と判断を保留する力、矛盾する二つの力をどちらも求められる。
「ローレンツ、これは私見でしかない。だが私が思うに……やはり最後に残るのは感情や想像力なのだ」
 フェルディナントが自論でローレンツを優しくとりなした。当事者である自分なしに全てが決まっていくことへの憤り、そして悲しみがヒューベルトの主君エーデルガルトの原動力だ。ローレンツは彼自身が傷つかぬよう、得するようにクロードからお膳立てされたがそれでもひどく馬鹿にされた気分だろう。
「おや、想像力はともかく貴殿は感情に振り回された王国のものたちに引導を渡して回っていたではありませんか」
 アリアンロッドでもタルティーンでもフェルディアでもフェルディナントは返り血まみれになっていた。彼の燃えるような橙色の髪と違って死人の血はどす黒く、布にこびりついたまま固まると擦れて引っ掻き傷ができる。彼はあの寒い王国でも湯が沸くまで我慢できず、川や池で血を洗い流していた。貴族らしい身なりを保つために野蛮なことをしているのだが、びしょ濡れの彼が火にあたりに行くと兵たちが貴族らしくない、と言って喜ぶ。
「ヒューベルト、混ぜっ返すのはやめてくれたまえ」
 苦境はフェルディナントから優雅さを奪うことに失敗した。そして彼の思索はより深い領域まで到達し、政策に活かされることも多い。
「笑顔の奥でどんな感情を抱いていたのやら……」
「ローレンツ、私が共にいるのだから怖がらずに自分の感情を認めて欲しい」
 ヒューベルトのフェルディナントに対する評価は戦乱の時を経て、目障りで薄っぺらな理想主義者から生まれついての人たらしへと変化していった。



 そもそもローレンツはクロードを疑いの目で見ていた。徹底的に疑ってかかり、理性で彼の人柄や行為に判断を下した結果、なんとも言いがたい関係になっている。
「喜びを感じようとしても常に惨めさと寂しさがまとわりついてくる。現にこうして尋問まで受ける羽目になった」
「矛盾など感じる必要はない。全て自然な感情ではないか」
 そう言えば先ほどヒューベルトはまず、と言った。クロードはフェイルノートの損壊以外に何をやらかしたのだろうか。
「こちらは貴殿が彼と共謀していない、という確証が欲しいだけです。では密貿易の件はご存知ですか?」
「当家の立場では推理しかできない」
 デアドラ防衛戦で軍港が使用不可能になったため、帝国軍は民間用の港を接収した。活動拠点を奪われても商人や漁師たちは食べていかねばならない。彼らはデアドラ市の対岸にある小さな島に船を移した。その島はかつてクロードが平民たちや商船や漁船を避難させていた島の一つで、急拵えの設備しかない。保安を名目として取り扱いできる荷の量には制限がかけられた。超過分の取引は全て密貿易扱いになる。
 逮捕も拿捕も帝国の匙加減次第という危うい状況にも関わらず、その島は戦乱で壊滅的な打撃を受けたファーガスとの貿易の拠点となっていた。彼の地は復興のため、ありとあらゆる物資を必要とする。そこに最近やたらとスレンやパルミラからの荷が増えたらしい。
 リーガン領の管理を任せるが港湾および海上を除く、という帝国本土からの通達をローレンツの父エルヴィンが素直にのんだ理由はこれか、とローレンツは悟った。帝国本土から派遣された官吏たちが大型船が接岸出来る港湾関係を取り仕切っている。ファーガスと旧リーガン領の反帝国派同士連携させないために彼らは必死だ。
「ヒューベルト、恣意的な運用に私は反対だ。公正でなくては我々は正当性を失う」
「フェルディナントくん、フェルディアはまだ……」
 フェルディナントの表情だけで状況が分かる。民たちにはまだ、どの土地の小麦が口に入っているか考える余裕はない。
 
 

(4)
 タルティーンの野で敵がかつての再現を狙う様にヒューベルトは失笑してしまった。教会はネメシスを破り、王国は帝国軍を破っている。そんな夢に縋るくらい追い詰められた時点で負けなのだ。
「復興は道半ばですな。王が冷静であればああなっていないでしょう」
 紫の瞳がヒューベルトをじっと見つめている。病的なまでに冷静だったクロードとディミトリを比べているのだろうか。ディミトリはタルティーンに出てくる必要などなかった。進軍するふり、だけに留めておけば王都フェルディアを守れただろう。
「僕は士官学校に入る前、魔道学院にいたことがある。情勢が悪化して入学早々、帰国せざるを得なかったが」
「ではローレンツには焼け落ちる前のフェルディアの記憶があるのだな。我々と違って」
「華やかではないが落ち着いた雰囲気の良い街だった。王都を陥落させまいとディミトリくんは賭けに出たのだろう」
 ヒューベルトはローレンツの知らないことを知っている。ディミトリはヒューベルトの主君、エーデルガルトを殺すためだけにタルティーンの野に出陣した。十傑の子孫は白きものにとって他民族から中央教会とアンヴァルを守る捨て石に過ぎない。千年の時を経て、少しは愛着が芽生えただろうと思っていたのにレアはフェルディアに火を放った。かつてクロードが〝信じる〟と〝知る〟の違いについて考え続けろ、と言っていたのはあのような事態を避けるためなのだろう。セイロス騎士団の中にはファーガス出身者が多いと聞いている。
「王国軍のものたちは死に物狂いだった」
 人間らしさを保証するものは一体なんなのか。フェルディナントは己に刃を向けたものの内にも美徳を見つける。不運にも刃を向ける羽目になった、とでも言うつもりだろうか。
「紋章石を手にするほどに、必死でしたな」
 タルティーンの野で何があったのか、正確に知る兵や将は少ない。戦場は混乱するものだし、自分がいなかった場所で何が起きたのか把握するのは至難の業だ。だからヒューベルトも魔獣と化した王国兵を見てディミトリがどう感じたのか知らない。
「露悪的な態度を取るのは私がいるせいか?」
 フェルディナントの目が細められた。彼は決して不正をするような人物ではない。だがローレンツとの友情が世間に知られている以上、忖度が疑われてしまう。



 帝国のものたちは皆ローレンツに敬意を持って接し、人間らしく扱っている。親帝国派として知られるグロスタール家の嫡子で、彼らの予想から逸脱しないからだ。ではクロードはどうだったのだろうか。彼の常軌を逸した行動に人間らしさは見出されたのだろうか。ローレンツはそっと拳を握りしめた。今でも槍の訓練を怠ってはいない。
「紋章石を手に、と聞こえたが合っているだろうか」
「そうだ、我々はこの目で王国兵たちが魔獣になるさまを見た」
 帝国軍には緘口令が敷かれている。フェルディナントといえども従わねばならない。ヒューベルトの監視下で、ローレンツがこの場で聞いたことを口外しないと分かっているから命令を破ってくれた。
「追い詰められた、と感じた時点で彼らは負けていたのです」
 帝国軍はそんな彼らに勝利している。そこまでして彼らが守りたかった王都はよりによって、セイロス騎士団によって焼き払われたという。
「だが私は戦場で相対した彼らに崇高なものを感じたのだ」
 セイロス教に拠って立った国は、皮肉なことにセイロス教を保護したせいで滅亡した。徹底抗戦の末、国土は荒廃し復興は遅々として進まない。クロードはフォドラから追放され、パルミラ産の小麦がファーガスへ輸出されている。この状況はローレンツにとってひどく据わりが悪い。
「それは彼らが王や国を見限ることなく殉じたからだろうか?」
 正直に頷くフェルディナントを見て、ローレンツは気がついてしまった。自分はもうクロードやレスター諸侯同盟に殉じることはできない。
「レスター諸侯同盟は諸侯同士が対等な、王がいない国でした」
 ヒューベルトに過去形を使われてローレンツの心は痛んだ。薄い唇はまだ言葉を紡いでいる。
「貴殿はフェルディナント殿と仲が良いが、それでもクロードは貴殿のことを真の友と思っていたのでしょう。だから友人が己に殉じることなく息災であってほしい、と願った」
 金色の瞳はローレンツではなく隣に座るフェルディナントを見ていた。最後に残る感情、の解釈が合っているかどうか気になるらしい。
 
 
 
(5)
 残念ながらローレンツはテフが嫌いなのだ───いつだったか定かではないが、寝物語にフェルディナントが語ってくれたことがある。戯れに、褥を共にしているのに他の男の話など、とヒューベルトが返したらフェルディナントはなんともいえない顔をしていた。
 親友であるフェルディナントにテフを振る舞われた時もこんな風に笑みを浮かべていたのだろう。態度は友好的に、だが口にする意見は明確でなくてはならない。ゆっくりと口角をあげ、ローレンツはヒューベルトに微笑んでみせた。見るものによっては妖艶、とすら感じるかもしれない。彼は確実に名家の嫡子として教育を受けて育っている。
「奴と僕は断じて、友人などではない」
 紋章石絡みの話題が出た時と違い、声が上擦るようなことはなかった。だが、その芝居が続く限りは旧同盟領の安全が保たれる。ローレンツは何重にもクロードに守られていて───フェルディナントの言うとおり、その奥にはきっとクロードの感情が秘められているのだ。
 フェルディナントはローレンツの発言に顔をしかめている。彼は感情表現が豊かな方だが、勿論、他者の視線があるところではこんな顔をしない。これはヒューベルトに心を許している証だ。
「では、そういうことにしておきましょう」
 帝国は近々、本格的に鎖国政策を取りやめるのでクロードの策に乗ったところでエーデルガルトに損はない。フェルディアの民は食わせてやらねばならないし、あれで外国や異教徒に対する嫌悪感が和らぐなら結構なことだ。クロードは首飾りの向こうから変わりゆくフォドラを見つめている。
 感情というものは実に身勝手で現実と折り合いが悪く、自分の理性とすら調和がとれない。ヒューベルトの感情にとって、この件で何よりも重要だったのは闇に蠢くものたちが損をしたことだ。
 実際はどうだか知らない。だがアランデル公と名乗るものの手の中で、フェイルノートが壊れたさまを思うとつい、笑いが込み上げてくる。だからベレスに誓いを立てたことは正しかったのだ───感情がヒューベルトにそう、訴えかけてくる。



 事前にフェルディナントが言っていた通り、現状の説明を繰り返すだけでヒューベルトがさっと退いた。クロードはここまで予想してファーガスの民を人質に取ったのだろうか。ローレンツは自分の民ではない人々で賭けに出る、彼のやり方に幻滅せねばならない。心に一筋の傷が走ったような気分になったが、フェルディナントは喜んで構わないのだ、と主張する。
「しかし、知らなかったこととはいえ、フェイルノートの件は大問題だ。レスター地方だけの問題ではない」
 ローレンツは横目でフェルディナントを眺めた。自分が何を言おうとしているのか、を察した親友が喜びに頬を染めている。レスター〝地方〟と口に出す時に痛みも感じて構わないのだろうか。ヒューベルトもローレンツの言葉を待っていた。
「英雄の遺産はフォドラの至宝だ。政務の合間に僕も本物の紋章石を探してみても構わないだろうか?」
 ヒューベルトはフェルディナントを見て目を細めている。フェルディナントは実に上手く立ち回ってくれた。彼が親友を弁護する、と公言したらローレンツを疑うものたちは彼に拮抗する人物を引っ張り出さねばならない。実際は因果が逆なのだが、大抵の他者はそう誤解する。
 きっと、彼らは自分らしくないことを実現したいときに互いの印象を利用しあっているのだ。ヒューベルトがクロードにどんな感情を抱いているのかローレンツは知らない。
「よろしいでしょう。ゲルズ公にも話をつけておきます」
 形式を守るための馴れ合いに過ぎない、という謗りは甘んじて受けるしかなかった。クロードにまつわる噂は多種多様でどれも説得力がある。だがこれでローレンツは帝国の公式な見解を知ることができた。彼は国外で生存していてこのフォドラに干渉しようとしている。
 どこまでも真っ直ぐなローレンツの親友はこれでおしまい、とばかりにファイアーの呪文を唱えた。湯を沸かし、嬉しそうに茶葉を取り替えている。フェルディナントがどこまで計算していたのか追及するほどローレンツもヒューベルトも野暮ではなかった。畳む
1.#願い骨
#クロロレ
#完売本
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 誰も自分のことを知らないところに行くか消えてしまいたい。
 カリードの願いは幼い少年にしてはかなり深刻なものだった。彼は物心がついてからほとんど温かい食べ物を食べたことがない。出来立ての料理には毒物や異物が混入されていることが多く、安全を確かめてからでなければ口にすることが出来ない。
 先日も嫌がらせで食事の中に細かく砕いた陶器のかけらが入っていて、気をつけていたつもりなのに舌や喉の奥を切ってしまった。これからは目の細かいザルで濾してから食べようと思い、既に台所から盗んである。そんな環境なので王宮の台所で働く者たちは裏金を稼ぎやすい。妃同士の嫌がらせの代行が出来るからだ。どちらの陣営からも金を貰う。金さえ払えば食べ物を使った嫌がらせを打ち消すことが出来た。
 王宮の妃たちは実家からの援助があり、最初から金で安全が買える立場の者と美しさを見込まれて買い付けられた女奴隷や捕虜など、王宮の外に味方がいない者に分かれる。ティアナとカリードは後者だった。
 カリードの母の名は元はティアナ=フォン=リーガンと言う。だが彼女は王宮に入る時にその名を捨てた。パルミラ王の妃として相応しい名前ではないからだ。王宮にいる国外出身の妃たちは皆、親の付けた名前を捨て公的にはパルミラ風の名を名乗る。
「母さんはフォドラに帰りたいと思わないの?」
「カリード、あなたが国外で暮らせたとしてパルミラに帰りたいと思うかしら?」
 その質問の答えはもちろん否、だった。母がそう思う理由は知らないが、今の気持ちを理解できたカリードはそれ以来フォドラへの里帰りを提案することはなかった。フォドラはどんなところなのだろうか。この王宮よりも母が嫌がる土地だ。きっとろくでもないに決まっている。
 昨日まで肩で風を切って王宮内を歩いていた王子が木にぶら下がる母親の亡骸に縋って泣き喚く姿も、喉に金貨を詰めて死ぬ赤ん坊もここでは珍しくない。カリードは仕方なく、従者がやるようなことも器用にこなすようになった。飛竜や馬に騎乗する際の鞍や手綱の装着は従者に任せるのが常だが、何者かによって巧妙に切れ目を入れられていることも多い。自力で出来るようになるしかなかった。異母兄弟たちには卑しい仕事がお似合いだ、と笑われたが王族に相応しい技能を身につけつつ、生き延びるには従者のようなことも出来るようになるしかなかった。
 王族の男子は誕生すると雨の様に尊い天の恵み、と称され盛大に祝われる。しかし王宮内の政治闘争に巻き込まれて命を失うことは珍しくない。王女はそのほとんどが成人するが王子は元服の儀式を迎えられる者の方が少ない。カリードが思うに仕組みに不具合があるのだが、誰もその仕組みを変えようとしなかった。生き残って勝った者が運用しているからだ。もしカリードが生き残って勝ったらこんな仕組みはぶち壊してやるつもりだ。でもそんな日が果たして来るのだろうか。
 カリードの瞳は母であるティアナと同じ緑色をしている。パルミラでは緑は不吉な色で、人の心を弄び食い尽くす化物の瞳の色が緑だと言われている。目を閉じて眠っていれば可愛いパルミラの少年で居られるが、一度目覚めて相手を見つめればそんな評価とはもうお別れだ。彼をいじめる異母兄弟や妃たちにしてみれば、不吉な目を持つカリードは物を見ることすら許されない。いっそ盲目であれば、王位争いから脱落した者として周囲はカリードに優しくしたかもしれなかった。
 だがそんな優しさなど要らない。あいつらから恐れられたい。カリードの精神は追い詰められ、病んだ心が言動を支配するかどうかの瀬戸際にあった。

 フォドラの貴族や王族には他国とは異なる独特な家督相続の慣習がある。子の性別年齢は一切関係なく紋章を受け継いでいる者が全てを相続する。紋章を受け継いでいる子が複数いる場合は、大紋章を受け継ぐ子が優先され、小紋章を受け継ぐ子は何も相続しない。大紋章同士、小紋章同士で初めて年齢や性別が関係してくる。しかし紋章を持つ子を複数持つ、そんな機会に恵まれる親は殆どいない。
 ティアナ=フォン=リーガンがフォドラを出たのは弟ゴドフロアが原因だ。ティアナはリーガンの紋章を持たないが長子で、弟が生まれるまではリーガン家の後継者として育てられた。紋章の発現には法則があり、リーガンの紋章と相性がいい紋章を持っている男性と結婚すれば子か孫には高確率で紋章が現れる。
 ティアナには盟主を務めるリーガン家に生まれた者として、レスター諸侯同盟に人生を捧げる覚悟もリーガン家のために好きでもない男性と結婚して子を為す覚悟もあった。その為に彼女は本当に好きだった人が結婚した際も全てを飲み込んで祝福したというのに、後から生まれたリーガンの紋章を宿すゴドフロアにそれまでの努力と我慢の全てを台無しにされた。歳の離れた弟であるゴドフロアに罪はない。だがゴドフロアが生まれると分かっていたら彼女はもっと違う人生が歩めただろう。
 ゴドフロアを見ているのが辛くなったティアナの手をパルミラの王が取った時、これで自分の全てを無意味にしたフォドラから離れられる、彼女はそう考えた。父オズワルドと弟ゴドフロアはティアナを取り戻すべく秘密裏にしつこく手紙や使者を寄越した。しかし「紋章なしの役立たずと縁を切る良い機会なのだから決断しろ」というティアナからの言伝を聞き、彼らは遂に彼女を永久に失ったことを理解した。リーガン家の人々はティアナに失望したが、ティアナからすればティアナがリーガン家の人々に失望させられた分だけやり返してやったにすぎない。ティアナはパルミラ王との間に生まれた王子にフォドラ語の名前は付けなかった。パルミラには他に十傑の子孫は存在しないので、カリードには紋章の検査を受けさせていない。


 ガルグ=マク修道院附属の士官学校はフォドラの縮図だ。優秀な若者が集まっているが社会の歪みの影響を受けて理不尽な思いをしている学生も多い。そんな彼らは二つの集団に分けられる。仕えられる者と仕える者だ。前者は恵まれているが選択の余地がない。後者は主人に全てを委ねる羽目になるがそこを間違えなければ良い。学生たちは一年かけて人を使うことの難しさと人に使われる恐ろしさを学ぶ。
 今日の金鹿の学級は撤退戦の演習をしていた。皆が作戦通り素早く配置につく中、リシテアが右手を構える。
「クロード!いきますよ!」
 ワープの魔法でクロードを壁役のローレンツの後ろに移動させればそれでおしまいの筈だった。心得た、とばかりに振り向きもせず後ろ手で手を振ったクロードが白い光の中に消え、ローレンツの後ろに現れる筈だった。ところがローレンツの後ろに現れたのは頭に布を巻いた小さな子供だった。
 宙にぽっかりと浮かぶ子供を見たローレンツが持っている槍を投げ捨て地面に叩きつけられる前に抱きとめる。
「リシテアさん!!どうしてこうなった!!」
「すいませんローレンツ!」
 予想外のことが起きたのでレオニーが走って担任であるベレトを連れてきた。刀をかちゃかちゃと揺らしながら、現場に到着したベレトはどんな事故が起きたのかひと目で察した。
「ローレンツ、その子に意識はあるか?」
 長身の教え子が頭を横に揺らしたのを見てベレトは再び質問した。
「呼吸はしているか?」
 今度は頭が縦に揺れた。自力で呼吸しているなら今すぐ死ぬことはないだろう。そう判断したベレトはリシテアとローレンツとレオニーにはそのまま待機するよう命じ、先行していた部隊には演習が中止になった、と告げるため腰の剣をかちゃかちゃと鳴らしながら再び走っていった。
「レオニーどうしよう、私のせいでクロードが……」
「大丈夫だ。きっと何とかなるさ」
 動揺して震えている小さなリシテアをレオニーが優しく宥めている。ローレンツの腕の中で気を失っている子供はそのリシテアよりも更に小さく、熱の塊の様だ。彼と密着している部分がどちらのものとも分からない汗でぐっしょりと濡れていく。
「君はどこの誰なんだろうね?」
 ローレンツがそう問うても返事はない。横抱きにしていると腕が両方とも使えない、と気づいたローレンツは頭に布を巻いている子供を縦に抱え直し、左腕の上に乗せた。右肩の上に頭が来るようにしたい。どうにかしたい、と腰を反らしているとレオニーが近付き小さな身体が落っこちないよう、ローレンツと密着するように角度を整えてくれた。
「これでよし。ローレンツがいてくれて助かったよ。無意識の人間って子供ですら重いからな」
「手伝いに感謝するよ、レオニーさん。いや、困っている者を助けるのは貴族の務めだからね。しかし僕はこの子で手一杯だからリシテアさんを頼む」
 ワープは難易度が高く、この学年ではリシテアの他にはリンハルトしか使い手がいない。士官学校の職員の中でも使えるのはマヌエラだけだ。術式を使って対象を解体し、別の地点で再構築することによって移動させる、という行為の答え合わせができるマヌエラに協力してもらう必要がある。リシテアはクロードの解体には成功したが、再構築の際に何かがあったのだ。
 動揺して震えるリシテアをレオニーが抱きしめて宥めている。ローレンツの視線に気づいたレオニーが唇の前に人差し指を立てた。どうやらリシテアは自分の失敗を悔いて、泣いているらしい。彼女の誇りや名誉に関わることなのでローレンツにも否やはなく無言で頷いた。
 再びベレトがローレンツたちの元へ戻ってきた。この人はいつもそこら中を駆け回っているな、と教え子一同から思われている。
「ローレンツはそのまま医務室のマヌエラ先生のところへ行ってくれ。ワープの不具合もだがその子を診てもらわないと。レオニー、何度も走らせて悪いがひとっ走りして医務室へ。途中でセテスとすれ違ったらセテスにも事情を説明しておいてくれ。終わったら教室で待機。リシテアは何があったのか今、歩きながら俺に話す」
 鍛錬になるから丁度いいさ、と自分の槍とローレンツの槍を持って駆け出したレオニーの後ろ姿はあっという間に見えなくなった。一方であからさまにしょげているリシテアは歩みが遅く、子供を抱き抱えているローレンツが追い抜いてしまいそうだ。
「ローレンツ、俺たちは気にせずまず医務室へ。レオニーほど急がなくてもいいがその子は早く医者に診てもらった方がいい」
 ローレンツも魔道をやっているのでリシテアが感情的になるのは痛いほど分かった。リシテアがベレトに事情を説明し始めたので急ぎ足で歩く。盗み聞きは品位に欠けるからだ。元からローレンツは歩幅が大きいのでリシテアたちとの距離はどんどん開いていった。


 パルミラの王宮の階段には絨毯が敷き詰めてある。一段ごとに太く大きな針で留められており、転倒事故を防ぐため毎朝敷き直された。あんな危ないところを歩く位なら、手すりを滑り降りた方がましなのでカリードは手すりを愛用している。
 先ほど異母兄であるシャハドに因縁をつけられ、服に隠れて見えないところを酷く蹴られた。手首も捻り上げられたときに痛めてしまったし、今日はうまく手すりを滑り下りたり、手すりの上を歩いたり出来そうにない。諦めて階段をとぼとぼ下りていると足元に違和感を覚えた。どうやら上の方にいる何者かが絨毯から針を外したらしい。目障りなんだよ!!というシャハドにおもねる異母兄の叫び声を耳にしたカリードは、とっさに手で頭を庇ったが勢いよく投げ落とされた人形のように階下まで転がり落ち、そのまま気を失ってしまった。

 意識の戻ったカリードが最初に感じたのは薔薇の香水と汗が混じった匂いだった。次に感じたのは温もりと浮遊感だった。どうやら転がっていた自分を抱き上げて誰かが運んでくれているらしい。まだ王宮に詳しくない下男が、床に転がされていた自分を哀れんで異母兄弟の目につかないところへ運んでくれているのだろうか。自分に親切にしてくれた下男が酷い目に遭わずに済むよう、外の空気を感じながら目を閉じたまま命令する。
『降ろせ、この様なところを見られたら明日おまえの身に何があってもおかしくない』
「おや、目が覚めたのか」
『もう一度言う。はやく降ろせ」
「国外の子なのか?僕には君の言葉がわからない」
 二回とも知らない言葉で返された。パルミラの王宮では外国の王家から嫁いできた妃でもない限り、極力パルミラ語で話さねばならない。皆の理解できない言葉を使って謀をしたと見做されるからだ。瞼を開けて見れば全く見たことのない光景が広がっている。見たことのない植物、見たことのない森、見たことのない建物、そしてよく見てみればカリードを抱き上げている大男の服も今まで見たことがない。
 ここはどこだ。
 それまで弛緩していたカリードの身体に緊張が走った。身体をすり抜けさせ、逃げる為に腕を突っ張ったが呻き声が出るだけで痛くてうまく力が入らない。不安で意識が向いていなかったが、身体のあちこちを痛めてしまっていることを思い出した。
「こら止めたまえ。転げ落ちたら怪我をする」
 改めて大男に抱え直され逃げ出すのが不可能な体勢になってしまう。
「身体が痛いのなら無理しないことだ」
 カリードの呻き声を聞きながら、頭を撫でてくる大男が何を言っているのか全く分からない。西方出身で王都近辺の言葉をまだ覚えていないようだ。だが声が綺麗だなと思った。
 やがて王都や離宮では見たことのない建築様式の巨大な建物に到着した。白い服に身を包んだ大人たちと今、カリードを抱きかかえている者と似たような意匠の黒い服に身を包んだ若者たちが忙しそうに構内を行き交っている。男は階段を上り扉が開けっぱなしになっている部屋にカリードを伴ったまま入室した。
「マヌエラ先生、連れてきました」
「とりあえず診察をしましょう。ローレンツ、この子をそこの寝台に座らせてやって」
 部屋の片隅にある人体模型や数多くの瓶から察するに施療院の様な所だろうか。カリードを寝台に下ろすと大男が肩や腕をぐるぐると回した。上半身はカリードが触れていた部分が汗びっしょりで服の布が変色している。
 薬師らしい、薄茶色の短髪で目の下に泣き黒子のある女性が小さな鏡を持って近寄った。恥も外聞もかなぐり捨てて大きく口を開け舌を出し「あー」と言っている。意図を察したカリードは彼女に向けて口を開け舌を出して見せた。
「口の中をひどく切っているわ。まずそこから治しましょう。これではまともに食事も取れない」
 唇に人差し指と中指を当てられる。何が始まるのか分からないまま、カリードが黙っていると薬師はぶつぶつと何かを呟き始めた。ここ二日ほど舌で忌々しくなぞっていた口内炎が消えていく。どうやら治癒魔法をかけてくれたらしい。続けて彼女はカリードの左手首で脈をみようとしたが、青く残る内出血痕を見て諦め指を首の血管にあてた。
「脈に異常はなし。目も見えているし声も聞こえていてよ。身体の傷は魔法で転移したことによって出来たものではないわ。その前からあった傷よ。深刻ね」
 今度は動作で両腕を上げる様に言われた。この薬師は色っぽい見た目をしているのだが、それを鼻にかけるようなところが一切なく、言葉の分からないカリードにも分かるように大袈裟に身体を動かしてくれるのでありがたい。大きく腕を動かすと引き攣れるように痛んで声が出てしまう。
 カフタンを脱がされ服で隠されていた部分に広がるカリードの内出血や傷痕を見た薬師と大男はため息をついて、それぞれカリードの腕を手に取り呪文を唱え始めた。何を言っているのか全く分からないが二人とも美しい声をしていた。腕から手の甲にかけてついていた大きな擦過傷が消えていく。
 二人が詠唱する声でも咎めに来たのかカリードのいる施療院のような部屋に、緑色の髪と瞳をした男性が入ってきた。母からフォドラには髪の毛も瞳も緑色の人々がいると聞いたことがある。パルミラならばその髪の色と目の色を理由に迫害され、生き延びることは出来ないだろう。
 これで分かった。ここは母の故郷フォドラだ。階段から落ちて気絶しただけで何故、こんなところに来てしまったのかは分からない。そしてどうやって王宮へ帰ればいいのかも分からなかった。
「この子か。レオニーから話は聞いた。何か私に出来ることはあるか?」
「こちらの言葉を全く理解しないから修道院附属の孤児院に入れても馴染むのに時間がかかるでしょうね」
「孤児院の修道士たちは忙しい。ずっとこの子に付いているわけにもいかないだろう」
 薬師と緑色の髪と瞳の男が話し合う様子をカリードはじっと見ていた。言葉は分からないが困惑しているのはわかる。母があまりフォドラの言葉を教えたがらなかったせいで、意味はよく覚えていないが知っているフォドラ語がひとつだけある。
「ころさないでください」
 カリードと同じ部屋にいる三人は息を呑んで顔を見合わせている。全員の白い顔から血の気がひいて青くなっていた。
「ころさないでください」
 最初にカリードの言葉に応えてくれたのは、自分をずっと抱きかかえてくれた紫色の髪をした大男だった。背が高いから一苦労だろうに足を折り曲げ、床に膝をつきカリードと視線を合わせてくれる。
「ころさない」
「ころさないでください」
「ころさない」
「ころさない」
 彼はカリードに言葉を教えてくれるつもりのようだった。カリードがうまく真似できたことに満足したのか小さく微笑むと立ち上がった。座っているカリードからすればまさに見上げるほど大きい。
「ベレト先生の許可が下りるなら僕がこの子にフォドラ語を教えます」
「そうして貰えると助かる」
「この子はきっと一筋縄では行かないわ。困ったことがあればいつでも相談に来なさい。私以外の誰を頼れば良いか教えてあげてよ」
「マヌエラ先生、あなたはまたそういう物言いを……。とりあえず教室に戻ります。この子を歩かせても大丈夫でしょうか?」
 薬師の女性は大男の言葉を聞くとカリードの両膝に手を当て呪文を詠唱した。
「たった今、大丈夫になったわ。私は調べ物をしてからリシテアの相談に乗るのでリシテアにもう少し待つように伝えてね」


 ローレンツが謎の少年の手を引き、金鹿の学級に戻るとベレトは自分が戻るまで全員待機、と言い残してまた何処かへ消え失せていた。同級生全員とワープ絡みの現象であるせいか、黒鷲の学級からリンハルトが来ている。皆、謎の少年を見て思うところがあるようだ。
「ワープで事故があったんだって?まあ人間の存在を解体して再構築するんだから何があっても仕方ないよ」
「でもこんなこと、あってはならないです!!」
「リシテアはそうは言うけど、どんな事故だってあってはならないんだからいったんそこから離れようよ」
 リンハルトは謎の少年を一瞥した。異国風の出で立ちが同級生のペトラを思わせる。心細いのか小さな褐色の手でローレンツの手を握っていた。
「この子はクロードの錨だから根掘り葉掘りいろんなことを聞き出さない方がいい。この子とクロードがいかに違うのか、を術者が認識すればするほど元に戻すのに困るよ」
「ではいっそこの子をクロードと呼ぶべきか?」
 ローレンツの提案を聞いてリシテアとリンハルトは目を合わせた。
「いいね、それ!悪くはないと思う」
「そうか、では皆も協力してくれたまえ。この子をクロードと呼ぼう。もうひとつ協力して欲しいことがある。彼はこちらの言葉を全く理解していない。分からずに下品な言葉を覚えさせないためにも言葉遣いに気を付けて欲しい」
 先ほど小さなクロードが発した言葉は強烈な印象をローレンツに与えた。小さな身体は怪我だらけで話せる言葉が命乞いのみだったことから察するに、ひどい環境に身を置いていたのだろう。このローレンツ=ヘルマン=グロスタールの庇護下にある間だけでも、小さな子供にあんな言葉を使わせてはならない。
「とりあえずみんなで自己紹介しなくちゃね!」
 場の雰囲気を盛り上げるのが上手なヒルダがそう言ってくれた。だが全く言葉が通じない同士で名を名乗るのは難しい。呼びかけている言葉なのか名前なのかそれすらも分からないからだ。皆で頭を抱えていると何かの包みを持ったベレトがマヌエラを伴って教室に戻ってきた。
「待たせてすまないな。ああ、その子は元気になったのか」
「ベレト先生、技術的な問題を解決するためその子をとりあえずクロードと呼ぶことになった」
「あら、悪くなくってよ。本当の名前を聞いてはダメ。元に戻すのが難しくなるからこの子の謎は謎のままにしておきましょ。謎だらけって魅力的で良いわね。リンハルトかリシテアが?」
 リンハルトがローレンツを指差すとマヌエラはローレンツの発想を褒めてくれた。ベレトは持ってきた包みを開けて小さいクロード用の服を出し、彼の肩に当て大きさがちょうどいいか見ている。見立てが正しかったことに満足すると手を叩いて注目、と言った。
「復旧作業用の部屋を確保した。リシテア、責任を取ってマヌエラ先生が魔法陣を描く手伝いをすること」
「授業や訓練の合間に、となると五日間くらいかかるわ。頑張りましょうね。リンハルトも気が向いたら手伝って頂戴。興味深いはずよ」
「クロードがいればその小さなクロードの面倒を見せるんだがいないので仕方ない。ローレンツが五日間面倒を見てくれ」
 分担は決まりローレンツが小さなクロードの面倒を見ることになった。そうなるとやはり名前を覚えてもらわねば何かと不便なのだが、この小さなクロードは皆が名を名乗っていると言うことすら理解しない。
「ああ、引き受けた。ところで先生方、僕たちは先ほどからこのクロードに名前を教えるのにも苦戦しています。どうしたら良いのだろうか?」
「寸劇してみたらどうかしら。例えばそうね…ここにいる皆で私の名前を呼んでちょうだい。一人ずつよ。はい、じゃあ先ずベレト先生から」
 ベレトに名を呼ばれたマヌエラは手を挙げて子供のような仕草と口調で「はーい!」と返事をする。
舞台が長いだけあって、観客を小さなクロードたった一人と定めたその演技は本気だった。教室にいる全員から名を呼ばれ終えると次はあなたの番、と言わんばかりに小さなクロードの肩をポンと叩いた。全員が固唾を飲んで見守る中、クロードはきちんとマヌエラを「マヌエラセンセイ」と呼ぶことが出来た。
「これを全員分繰り返してその後この子の、クロードの名前も呼んであげなさい。言っておくけれど照れたらダメよ」
 マヌエラの体当たりの演技を見て真っ青になったマリアンヌをヒルダが励まし、なんとか全員小さなクロードに名を名乗ることが出来た。今度は小さなクロードにこの場での名前がクロードだと理解してもらわねばならない。皆に緊張が走ったが最初にローレンツが小さなクロードの名を呼ぶときちんと返事が出来た。
 安心した金鹿の学級の面々とリンハルトはようやく自分たちが空腹であったと思い出し、皆で連れ立って食堂へと移動した。ここで再び問題が発生した。
 小さなクロードは何が食べられるか分からない。皆で相談しわざと違う料理を注文し、少しずつクロードの為に別皿に自分の皿から分けてやったのだが、彼はどの皿も何かが気になるのか水をかけ、フォークとスプーンで皿の上に均してからでないと食べようとしなかった。
「小さなクロードくんは毒か何かを警戒しているんでしょうか?」
「でもイグナーツ、オデたちクロードくんの目の前で同じ皿の食いもん食ってるだろ?」
 ラファエルの指摘はもっともだ。じゃあ極端な猫舌なだけか、と皆は安心したがこの場で唯一、先ほどの「ころさないでください」という彼の言葉を聞いていたローレンツだけは内心で、控えめに言ってもこれはとてもまずい、と思っていた。行儀作法の問題ではない。小さなクロードには何か大きな欠落がある。たった数日でそれを埋めることは適わないとしても全力を尽くさねばならない。パスタを一本ずつ袖口で拭こうとしたので流石にそれは声を荒げて止めた。


 薬師改めマヌエラセンセイ、のお陰でカリードは皆の名前を覚えた。お姉さんたちは一人を除いて皆、自然体の演技を見せてくれたが、名を呼ばれ返事をするだけなのに何故か飛び上がっていたマリアンヌの事は少し心配になった。カリードは元いた所への帰り方もフォドラの言葉もわからない子供だが、皆が優しいので少しだけ余裕を取り戻していた。
 先ほど施療院のような部屋から食堂へと連れ出された時と同じく、カリードはベレトセンセイから貰った荷物を持ったローレンツに手を引かれまた部屋の外に出ることになった。気が付けば日が落ち、昼間は過酷な太陽光で熱せられるパルミラであれば一日が始まる時間だ。進む方角から食べ物の匂いがしている。
 どうやら食堂へ連れて行ってくれるらしい。大きな食堂に着くとローレンツが椅子を引き、カリードを先に座らせてくれた。座席は決まっていないのに皆がクロード、ことカリードの周りに料理が乗ったお盆を持ってくる。そして皆が自分の皿からカリードに食べ物を分けてくれるので、目の前は小さな皿だらけになった。肉も魚も野菜も麺類もある。安全な食べ物であると教えているつもりなのか皆、カリードから見える席で美味しそうに食べていた。いい匂いですぐにでも食べたいのだが、見るからに熱そうでほとんどの物が冷まさないと食べられない。
 幸い水をもらえたので、貰った食べ物を冷ますために満遍なく水をかけてかき混ぜた。皿の上で水にふやけた食べ物を捏ね回し、小さく刻んでから口に入れるとイグナーツとレオニーが眉尻を下げてカリードを見つめてきた。完全に心配されているのだが口に入れるためにはこうするしかなかった。
 首飾りの内側に籠る臆病者、パルミラに攻め込む力もなくおかしな女神への信仰を言い訳にして頭を使わず現実から目を背けている、というのがパルミラから見たフォドラだ。大人の言うことはあてにならないものだとつくづく思う。
 彼らは言葉のわからないカリードに名前を教える術を知っていたし、見当違いではあったが皿の中身をかき回している姿を見て、異物や毒が混入していないかカリードが確かめていると予想することも出来ている。皆、突然現れた不気味な子供というだけでは済まさず、カリードをきちんと観察し推論を立てていた。同じ王宮に住む義理の母親たちや異母兄弟の方こそカリードを、フォドラの血を引く不吉な緑の目を持つ王子、としか見做さない。物理的な距離は近しかったのに誰よりも離れているような気がした。
「あー食堂も私たちが最後だったけどきっとお風呂もそうね、嫌だけど急がなきゃ髪を濯ぐお湯がなくなっちゃう」
「確かに。食後に食堂でお茶が飲みたかったが今日は絶対に入浴したいから諦めるか」
 カリードが皆のお裾分けのみで構成された不思議な食事を終えても、ローレンツはヒルダと何か話していたがどうやらそれも終わったらしい。また何処かへ行くつもりのようだ。ローレンツは再び、カリードと手を繋いでくれた。促されるままにまた移動すると、そこはローレンツの自室の様だった。夕食も食べたしカリードをずっと抱き上げてこの大きな建物まで運んでくれたから、疲れて眠いだろうに彼はまだ眠るつもりはないらしい。ベレトから渡された荷物を開け寝台の上に出して中身を確認していた。
「クロードおいで。これはベレト先生が用意してくれた君の物だ」
 ベレトセンセイ、が用意した包みには子供用の寝間着や肌着、明日着せる予定の服が入っていた。ローレンツはその中から寝間着と肌着だけ取り分け、カリードに持つ様に促すと今度は棚から何枚か布を取り出しカリードの体に巻き付ける。
「これなら浴室で使えるか。大変なことがあった日であればこそ寝る前には体を綺麗にしておかねばならないよ」
 ローレンツが棚から何かを出している間、渡された服をその辺に放り投げ、カリードは先程身体に巻きつけてもらった大きめの布を頭からかぶって遊んでいた。
「退屈なのはわかるがその遊び方は前が見えなくて危ない。では行こうか」
 布越しにローレンツの声がして頭の上から延びてきた手に布を取り払われてしまう。行くよ、と言われた様な気がしてカリードはローレンツの手を取った。廊下を渡りきり別の建物に入ると中がやたらと暖かい。若者たちが出入り口付近で屯していた。
「ローレンツ、リンハルトから聞いたぞ。その子が謎の少年か」
「その通りだフェルディナント君。話したいことはたくさんあるが、ここで話すと君が湯冷めしてしまうな。後日、茶会を開くのでそれまで待っていてくれたまえ」
 ローレンツはこのオレンジ色の髪をした青年とかなり親しい様だが話をあっさりと切り上げていた。また退屈したカリードに布をかぶって遊ばれるのが嫌だったのかもしれない。フォドラの浴室もパルミラと同じ蒸し風呂だった。一人で服を脱ぎローレンツの真似をして籠に入れる。入れ替わりでイグナーツが出てきた。
「ああローレンツくんにクロードくん!中にはラファエルくんとベレト先生だけ残ってます。二人が石にお湯をかけまくるから大変でした…」
「あの二人は全く…」
 そう話しながら湯浴み着を脱いだイグナーツが籠の中から眼鏡を取り出して掛けた。ここは籠の中に安心して眼鏡を置いておけるのだ。ここにはきっとカリードの服を隠したり、女物の服に取り替えて侮辱する様な輩はいないのだ。嫌な思い出が蘇ったので目をきつくつぶってやり過ごす。
 ローレンツは脱衣所に置いてある湯浴み着に着替えてからカリードの身体に、先程の布を巻いてくれた。ここの湯浴み着がローレンツやラファエルにちょうど良いのなら確かにカリードには大きすぎるだろう。裾を踏んで転んでしまうかもしれない。
「ついてきたまえクロード。洗い場はこちらだ」
 ローレンツが洗い場の水盆から桶でお湯をすくい身体に掛けている様子から察するに、フォドラとパルミラは入浴の習慣が同じらしい。湯浴み着の上からお湯を掛けたローレンツは、カリードを伴って奥にある部屋に移った。一際湯気が濃く誰がいるのか分からない。
「誰だあ?」
「ラファエルくんか。僕だ。クロードも連れてきている」
「そうかあ、オデはそろそろ上がるよ。石にお湯は足すか?」
「足さなくていい。多分クロードがのぼせる」
「おやすみラファエル。やあローレンツ、クロード」
 湯気の奥からカリードの服を用意してくれたベレトセンセイの声がした。
「ローレンツ本当にお湯は足さなくていいのか?」
「繰り返しますが結構です」
 ベレトセンセイは何かをローレンツに提案したらしいが、ローレンツはそれをぴしゃりと断っていた。ローレンツはじっと黙って汗が出るのを待ちたいだが、ベレトセンセイは話したい方らしくローレンツに色々と話しかけている。
「割と甲斐甲斐しく面倒を見る方なんだな」
「困っている者を助けるのは貴族の責務です。怪我だらけで、言葉のわからない子供が困っていないというなら誰が困っていることになるのでしょうか?」
『熱っ!』
 三つ編みを解き忘れていたので、蒸気で熱された飾りの金具がふとした拍子に顔に当たり、声が出てしまった。慌てて解こうとするが金具が熱くて指で触れない。三つ編みの途中の部分を指で持っているしかなかった。振り向いたローレンツはひと目見て何があったか理解したらしい。
「はぁ……先生、僕たちは先に身体を洗うよ。先生ものぼせる前に切り上げることをお勧めする」
 ローレンツはカリードのために洗い場で水を桶に入れ、その中にお下げを入れて冷やしてくれた。
「明日入浴させる時は髪を梳かしてから、だな。さあクロード、髪と身体を洗うんだ。出来るだろう?」
 前を緩めているにもかかわらず、身体にぴったりと張り付いた湯浴み着の中でローレンツの白く長い腕が蠢き身体を洗う姿をどう表現すれば良いのか今のカリードにはよく分からない。軽く湯当たりでもしているのか、頭が少しくらくらした。だが身体も髪も何とか彼のお眼鏡にかなう様な洗い方が出来ていたらしい。特に介助されることはなかった。
 ベレトセンセイ、の用意した寝間着はカリードには少し丈が短めだったが、身体があったまっているので構内を少し歩く程度なら寒くない。ローレンツは何故か自分の部屋ではなく隣室の扉を開け、ファイアーの魔法で洋灯をつけた。部屋の中は物だらけでごちゃごちゃしていて足の踏み場もない。
「やはり、な……本当なら君はこの部屋で寝るべきなのだが片付ける気力が今の僕にはない。明日は逃げずに片付ける。たとえ休養日が潰れようと、だ。クロード、僕の部屋においで。替えの毛布を出そう」
 何事かを呟きランプの灯を消すと、隣室を見なかったことにしてローレンツはカリードを自分の部屋に入れてくれた。
 あの部屋は一体、何なのだろう?
「おいで、狭くて申し訳ないがね」
 ローレンツが自分が横たわっている寝台をぽんぽんと叩いて誘う。カリードは誘われるがままに空間を作る為、わざと横向きに寝ているローレンツに近寄った。流石に疲れたのか彼は紫色の髪を白い枕に散らばせながら、すうすうと寝息を立てて寝ている。ローレンツは毛布は二枚用意してくれていたが枕は用意し忘れていた様だ。仕方がないのでカリードは大男の胸元に潜り込み、今日ずっと自分を抱き上げてくれていた、白くて長い彼の腕を枕にして眠った。


 ローレンツが朝、目を覚ますと腕の中に小さいクロードがいた。横に並んで寝ていたつもりだが何故か腕が痺れている。そうか自分は枕を用意し忘れたのか。だが今日はクロード本人の部屋を片付けて、小さなクロードが泊まれる状態にする予定だから買わなくても良いのかもしれない。
 近頃のローレンツは実家にいる時ならば、考えもしないことばかり考える。枕など高くもないのだから買ってやればいいのに。
 実家を離れるのは二度目だがこちらの方が波乱万丈だ。ロナート卿のことを思えば小さな子供の面倒を見ることなどいざこざのうちにも入らない。まあそれも隣室の住人が無事に戻ればの話だが。
 小さな頭の下から腕を引き抜き、熱の塊のような身体を抱き上げて自分が使っていた枕の上に乗せてやる。熱でも出ているのかもしれないと思って、額に手を当ててみると少し眉がぴくりと動いた。額は冷たく熱もなく小さいクロードはよく眠っている。弟妹たちが幼かった頃のようだった。
 汗だくなので起きたら寝間着も昨日彼が着ていた服や頭に巻いていた布も、全て洗濯室に持っていかねばならない。ローレンツが一人で過不足なく子供の面倒を見ることなどできる訳がないのだから、何でも先生方や級友たちに相談するのが良いだろう。いつもなら訓練着に着替えて訓練場へ朝の鍛錬に行く時間だ。しかしまだ眠る小さいクロードを残して部屋から出て行ってしまっては、目覚めた彼がこの広い修道院の中で自分を探し回って迷子になるかもしれない。ローレンツは朝の鍛錬を諦めた。
 部屋にある水瓶からローレンツが桶に水をくみ、口を濯いだり顔を洗っているとその物音で小さなクロードは目が覚めたらしい。大欠伸する音が聞こえたので声をかけた。
「おはようクロード」
『ローレンツおはよう』
 ローレンツが布を差し出すと意図を察したようで、小さなクロードは小さく欠伸をしながら水瓶に近寄ってきた。褐色の小さな手で口を濯いで顔を洗い顔を拭く姿からは、昨日の酷い状態が想像出来ない。クロード本人のことも勿論、このガルグ=マクに戻さねばならない。しかし子供をあんな目に合わせる環境に、目の前のこの子を戻して良いのだろうかという考えがローレンツの脳裏によぎる。
「おはよう」
「おはよう」
 それでも言葉が通じるであろう、元いた場所に戻してやらねばならない。小さいクロードがこうしてガルグ=マクで過ごせるのは五日に満たないのは分かっていたが、色々と割り切るのは難しかった。やはりローレンツは小さいクロードに、フォドラ語と行儀作法を少しでもいいから教えたいと思う。
「着替えたら朝食を食べに行こうか」
 寝間着を脱ぎ制服に着替えてからローレンツは小さいクロードの着替えを手伝ってやった。釦を掛け違えるようなことはなかったが早く行かないと食堂が混み合ってしまう。

 士官学校の食堂は昼食や夕食では多種多様なメニューを提供するが朝食のメニューはサラダ、麺麭、乾酪だけだ。全て冷たいので昨日のような異常な食べ方はしない筈だが、先にローレンツが食べる姿を見せなければ小さいクロードは朝食を口にしない可能性は高い。五日間のうちにまともに食事ができるようになるか心許ないが、ここは安全なのだと早く分かって欲しかった。
 ローレンツが鍛錬を諦めて早めに食堂へ来たので中は空いていた。受け取り口が見える席に小さなクロードを待たせ、二人分の朝食と取り皿を受け取った。先にローレンツが食べてみせてから取り皿に小さなクロードの分を取り分ける。麺麭は二つもらってきているが、その場で二つに割って一つずつ食べた。ローレンツの予想通り多少細かく切り刻む傾向はあるものの、冷菜は異様な食べ方をしない。二人が食べ終わった頃にレオニーとラファエル、それにディミトリがやってきた。ディミトリはレオニーたちから先に話を聞いていたらしい。
「おはようローレンツ。確かにレオニーの言う通りその様子ではしばらく朝の鍛錬は無理か。その子を無事に親元へ返してやれるといいな」
「おはようディミトリくん。クロード、ディミトリにあいさつ」
「ディミトリにあいさつ」
「違う、おはようディミトリ」
「おはようディミトリ」
「おはようクロード」
 ディミトリはローレンツと小さなクロードのやりとりを見て微笑み、その場を離れいつもの場所へ手に盆を持ったまま移動した。彼もまた食に問題を抱える者だが、それを知る者はこの修道院にはほとんど存在しない。
 レオニーが空になった小さいクロードの皿を見てローレンツにどうだった?と問うてきたので改善された、とローレンツは答えた。ラファエルとレオニーは両手を打ち合わせて喜び、二人とも小さいクロードの頭をくしゃくしゃと撫でた。
「食べ終わったらリシテアとリンハルトを起こしてマヌエラ先生のところに連れて行く約束なんだ。例の作業があるから」
「そうか。リシテアさんはともかくリンハルト君は苦労しそうだな…」
「そうなんだよ。だからラファエルがリンハルトを運んでくれる手筈になってる」
「リンハルト君は軽いから朝飯前だな!まあ、腹が減ったから朝飯は食うけどよ!」
「はは、確かに朝食は食べるべきだ。さて、僕はクロード本人の部屋を片付けてくる。今晩は彼の部屋に小さいクロードを寝かせるつもりでね」
 ラファエルとレオニーはしばし顔を見合わせてからゆっくりとローレンツを見つめた。
「後で雑巾の差し入れに行くから」
「ゴミ捨てに人手がいるなら絶対オデに声かけてくれよな!」
 いつも頼もしいラファエルと気がきくレオニーの表情を見て、覚悟を決めたローレンツは小さなクロードを伴って隣室、つまりクロード本人の部屋へ向かった。


 ローレンツはカリードを伴って自分の部屋に戻ると黒い上着とズボンを脱ぎ、昨日外で着ていたような服に着替え何故か隣室に向かった。扉を開け放ったまま窓を開けて空気を入れ替え、棚の上の方から雑巾で拭き始め汚れを落としていく。陽の光の下で見ても酷く乱雑な部屋だ。しかし薬品の入っている色とりどりの瓶や何本もの調剤用の匙、瑪瑙で出来た乳鉢と乳棒それに薬研など面白そうな物がたくさん置いてあった。
「クロードめ……よくも僕の部屋の隣にこんな混沌を……」
 ローレンツが何か呟きながら拭き掃除をしている。カリードは最初、ローレンツがカリードに話しかけているのかと思ったがそうではなかった。ローレンツは掃除しながらこの部屋にはいない誰かの名前を呼んでいる。
 彼らは便宜上カリードをクロード、と呼んでいるがそれは誰かに因んだ呼び名だ。彼らは親切で危害を加えないが、カリード自身の名を聞き出すことを諦めている。何故か心がちくりと傷んで涙が出そうになった。だがカリードはフォドラの言葉が分からないので自分の名を名乗ることもできない。
 こんなことなら渋るお母様にもっと強く強請ってフォドラの言葉を習っておけばよかった、と思う。もし帰れたら絶対に習う、と誕生日の聖者に誓った。パルミラでどんなにフォドラのものを遠ざけ、自分の父親はパルミラ王なのだ、と主張しても瞳が緑色なかぎりフォドラから逃れられないのに無駄なことをした。もっと早く己に流れるフォドラの血を受け入れるべきだったのだ。
 カリードはローレンツが拭いてくれた椅子に座って、膝を抱えながら掃除が終わるのを待っている。この部屋の持ち主はどんな奴なのだろう。本と薬草と何に使うのかよく分からない道具だらけだ。カリードと同じく好奇心が旺盛で押さえられない人物なのかもしれない。
 ローレンツは構ってくれないし、今にも均衡を失って崩れ落ちそうな机の上が気になる。積み上げられた本のてっぺんに置いてあった書字板を開いてみれば、予想通り右側にも左側にもぐちゃぐちゃと何かが書き連ねてあった。フォドラ語が分かれば読めたのだろうか。じっと眺めているうちにカリードはあることに気がついた。
 数字を表す方法の一つに画線法というものがある。フォドラでは縦線を左から右に向けて増やしていく。四本引いたあと横棒を右上から左下に向かって引けば五になる。だがこの部屋に置いてある蝋引きの書字板の持ち主は〼で五を表していた。この、升記号を使って五を表すのはパルミラの習慣だ。この部屋にパルミラ語のものはないだろうか?本でも書きつけでもなんでもいい。もしあるならこの部屋の持ち主、ローレンツに部屋を片付けさせる人物は確実にパルミラ人だ。そうでないとしてもパルミラ縁の者だろう。なんだか許せなくなったカリードは鉄筆の上についているヘラで、書いてあることを全部均して読めなくしてやろうかと思ったが止めた。
 カリードがフォドラの血を引くのがカリードのせいではないように、この部屋の持ち主がパルミラ人もしくはパルミラ縁の者であることはこの部屋の持ち主のせいではない。そこをごちゃ混ぜにして義母たち、そして異母兄弟たちと同じような振る舞いをすることはない。
 ただ、なんだか腹立たしいのは確かなので、書字板の隅にパルミラ語で伝言を残すことにした。この部屋の持ち主がここに戻った後で読んで警戒すればいい。万が一パルミラ語が読めなかったとしたら、その場合は何が書いてあるのか分からないのだから許されるはずだ。
"自分がどれだけ恵まれているのか自覚しろ、二度と行方不明になるな"
 ローレンツの目を盗んでそう書いた。幸いローレンツは掃除に夢中で、カリードが書字板に何か書き込んだことに気付いていない。ローレンツが棚の埃を取り終え、瑪瑙で出来た乳鉢や乳棒などの道具を棚に戻す為に拭き始めたのでカリードも近くに座って布を取り黙って拭き始めた。
「手伝ってくれるのかい?クロード。本人よりきちんとしているな」
 窓からは陽光と心地よい風が入る中でローレンツと二人、何も話さず床の上に座り込んで調剤用の匙を一本ずつ磨いていると、カリードは言葉では表現出来ない何かを感じた。それはカリードが王宮で味わったことのない、安らぎそのものだった。
 続けて床や寝台の上に積み上げられた本を本棚に戻していく。寝台の上から物がなくなると、ローレンツは大の字になって寝転がった。昨日のようにカリードがその脇に入り込むとローレンツは小さな頭を撫でた。
「僕の部屋の寝台よりずいぶん広いな。僕の部屋の寝台がこれくらい広かったら今晩も君と一緒に寝ても大丈夫だったのだがね…」
 何事かを呟くとローレンツは寝台で目を瞑ってしまった。昨日彼を疲れさせた自覚のあるカリードは彼を起こすべきか迷ったが、開けっ放しの扉からレオニーやラファエルの話し声が聞こえた途端にローレンツは跳ね起きた。カリードには油断して眠っている姿を見られても構わないようだが、あの二人には油断して眠っている姿を見られたくないらしい。
「おーいローレンツくん!なにか手伝えることはあるかあ?」
「二部屋分の敷布とか持ってきたぞー!」
「ああ二人ともちょうど良かった。僕の部屋もクロードの部屋も敷布を取り替えたいんだ」
「終わったら食堂に行こう。リシテアとリンハルトにはもう声をかけてあるんだ」
 寝台を整えるのに三人もいらないのでその間レオニーがカリードの手を引いて廊下で一緒に待ってくれた。レオニーは弓使いらしく右手に三本指の手袋をしている。カリードが今のところ唯一使える武器も弓だ。首飾りのフォドラ側にいた頃スナイパーをしていたカリードの母はフォドラ語は教えてくれなかったが弓は教えてくれた。弓の練習をしていると父も母も喜んだのでカリードはレオニーの右手をつつくと弓矢を構える真似をした。
「おっクロードも弓が使えるのか!でも腕はこうしたほうがいいな」
 レオニーはカリードの腕を取りパルミラ式の弓術からすれば少し上の方に構えさせた。
『お母様…』
「ん?クロード今なんか言ったか?ああ、終わったみたいだな。皆で食事に行こう」
 レオニーの弓の構え方はカリードの母と同じ構えだ。名を捨て故郷を捨てても母も自分がフォドラ人であることは変えられないし、母がフォドラで生まれたのは母のせいではない。フォドラ出身の母を持つのはカリードのせいではない。
「待たせてすまなかったね、レオニーさん。クロードは大人しく待てただろうか?」
 カリードが己の心に溜まった澱の様な怒りに直面して我を忘れそうになった瞬間、ローレンツの白い手がカリードの手を取った。お陰で正気が保てた様な気がする。


 ローレンツは小さいクロードの異常な猫舌について考えてみた。自分が子供の頃はどうだったか。勿論冷ましてからでないと食べられなかった物もあった。しかしあんな食べ方はしていない。木か陶器でできた匙があればいいのだろうか。
 今日の昼食でも皆、ローレンツに協力してくれた。買い出しから戻ってきたイグナーツ、ヒルダ、マリアンヌを含め全員でまた全く違うメニューを頼んでいる。全員小さいクロードの目の前で取り分け、食べるところも見せてくれた。リシテアは責任を感じているのか、食後のデザートである桃のシャーベットを気前よく二等分して小さいクロードに寄越している。
「流石にこれは冷えていると認識したから普通にひとさじ分を口に入れて食べていますね。どうですかクロード、美味しいでしょう」
「クロード、ありがとう、だ。ありがとう、真似して」
「ありがとう」
「ありがとう」
 ローレンツの言語指導も甘味も楽しんでいる小さいクロードを眺め、リシテアも楽しそうにしている。
「人間の口の中ってのは本来、熱に鈍感なんだよね。人間は食べ物を加熱したがる唯一の生き物だからさ」
 魔法陣作成に駆り出されているリンハルトが今日小さいクロードに分け与えたのは、焼き立てのガルグ=マク風ミートパイだ。冷えてしまえば脂が固まり食べられた物ではない。だが今日も小さいクロードは細かく切り刻んで皿になすりつけ、可能な限り冷まして食べている。その光景を見たリンハルトは表情にも口にも一切、出さなかったが、ローレンツが気にするのが作法の問題だけではない、と把握していた。
 身体機能には問題がないのに精神的な問題が行動に影響している。ローレンツはフェルディナントと同じく貴族としてのあり方を真剣に考えているので、不幸な子供が幸せな子供になれるよう努力する。その努力の一環で小さなクロードの精神的な問題に到達できたのだろう。
 ローレンツの考えたことをそこまで把握しているリンハルトだったが彼の視点はまた別物だった。魔道において精神の健康は、門外漢が思っているよりはるかに重視される。目の前の小さいクロードが精神に問題を抱えているせいで、元のクロードが復元されない可能性もなくはない。それなら切り捨てられるような弱点にあえて着目し、配慮できるならばそうした方がいい。一見遠回りに見えても目的を早くたち成出来ることもある。そういう意味でも建前や綺麗事や理想は社会や人間に必要なのだ。
 建前や綺麗事や理想を軽視する、というかうまく利用できないほどに潔癖なエーデルガルトとヒューベルトは危うい、とリンハルトは思う。彼らは決して悪人ではないのだ。現に青獅子の担任であるマヌエラの要請を受け、金鹿の学級で起きた魔法事故の現状回復にリンハルトを差し出している。
 リンハルトは小さいクロードが唯一安心して食べられる毒味済みの桃のシャーベットを、小さいクロードとリシテアから凝視されながら平然と完食した。続けて淹れたての熱い紅茶を啜る。その音が少し耳障りなのかローレンツの眉間にしわがよった。
「リンハルト君、小さいクロードの教育によくない振る舞いは謹んでくれたまえ」
「はは、これは失礼。でもわざとだよ。空気が混ざれば口の中は冷えるし熱に敏感な先端ではなく舌の付け根のほうに熱い液体が移動していくからね」
 リンハルトの解説を聞いていたヒルダが「あ、分かった!」と叫んだ。
「食べさせてあげなよ!ローレンツくんが!」
「だがこんなに大きくて自分で食器が扱える子に食べさせるなど…」
 小さいクロードは幼児ではあるが乳児ではない。恥も誇りも感じる年頃だ。ローレンツがこの年頃の時に行儀作法がなっていないから食べさせてやろう、などと言われたら馬鹿にされたように感じて怒ってしまっただろう。
「大丈夫だよ、きっとクロードくん怒らないから!夕飯の時にグラタン食べさせてあげなよ!あれが食べられたら他のも大丈夫だよ!」
「どうしてグラタンなのだ。難易度が高くないかね?」
「いざとなったらブリザーでなんとか…」
 そういうとマリアンヌは指先に冷気を纏わせた。マリアンヌは基本、無口で自己主張の激しい個性的な金鹿の学級から浮いているように見えるが充分強烈な個性を持っている。彼女にないのは自信だけだ。
 ヒルダとローレンツの会話を聞いていたリンハルトが再び行儀の悪い振る舞いをした。大きく口を開け舌を出し匙で先端をつつく。小さいクロードも面白がって真似をしたがローレンツが見てはならない物を見たような顔をしたので口を閉じた。
「今、匙でつついてみせた辺りが特に熱を感じやすいところだからグラタンを食べさせてあげる時は避けてあげなよ。僕は眠くなったから部屋で寝てくる」
「えーっ!午後も手伝って欲しかったのに」
「こんなに眠かったら呪文の綴りを間違えかねない」
 リシテアにそう告げるとリンハルトは欠伸をしながら容赦なく自室へと帰っていった。

 昼食後、ローレンツはカリードを伴って市場へむかった。リシテアへの差し入れや自分が飲む茶葉、それに小さいクロードに木の匙を買うためだ。この上迷子になられると更に事態が悪化するのだろう。人混みの中でずっとローレンツはカリードと手を繋いでいる。真っ先に買った木の匙の包みはカリードが左手で持っていた。
 フォドラの市場で目に入る野菜や果物は、パルミラで見たことがないものやパルミラとは形の異なるものが多い。模様が全く同じなのにまん丸な西瓜を見た時は驚いた。パルミラの西瓜は楕円形だ。こちらの茄子は信じられないほど小さい。
 だが最後に寄った店でパルミラの着香茶を見た時はもっと驚いた。包みにカリードにも読める文字が書いてある。小競り合いはしているが同じ茶葉を飲む者がいると言うことだ。別に大して好きな茶葉でもないのだがなんとなく目が離せずじっと眺めていたら、ローレンツがカリードの視線の先に気づいて茶葉の袋を手に取った。
「君はこの着香茶が好きなのか!では帰ったら夕食の前に部屋で淹れてあげよう」
「ローレンツありがとう」
「干しいちじくも買って帰ろう。着香茶にはよく合うから」
 カリードはローレンツの言葉はほとんど分からない。だが茶葉を買ってくれた彼が何かをとても喜んでいることだけは分かった。ローレンツと出会ってまだ二日目だが、彼は表情が豊かな上に色白ですぐに顔が赤くなったり青くなったりするので、言葉は分からずとも気持ちはわかる様なつもりになっている。きっと今は楽しい筈だ。
 寮の自室に戻るとローレンツはさっそく荷解きをしてあっという間に買った物を片付けてしまった。隣室の住人とはここが違うのだろう。
「帰ったら座る前に荷物を全て片付けるのが部屋を綺麗に保つコツなのだよ。一度でも座ってしまうと体が動かなくなる」
 ローレンツが白く長い指を鳴らすとファイアーの魔法が発動した。銅か何かでできている蛇口付きの壺から微かな音がする。
「僕はファーガスにいたことがあってね。その時に気に入って買ったのだ。ご覧クロード。下の段に火を入れると上の段に汲んでおいた水を沸かすことができる。その上に茶器を置けば紅茶が冷めない」
 カリードの住む王都は寒くないので使わないが、山岳地帯であるフォドラとの国境沿いに住む民が好んで使っている給茶器とよく似ている。湯を沸かしている間、ローレンツは買ってきた干しいちじくを小さなナイフで薄切りにした。豆皿に盛り付けると茶器に茶葉を入れお湯を注いで蒸らす。
 これはかなり独特な香りがついているお茶なのでお茶受けもまた個性や主張が強い物にせねばならない。燻製にした乾酪と合わせる者もいる。飾り気のない真っ白な器にまさに紅い茶を注ぐ手付きは軽やかだ。
「さあどうぞ、クロード。君の口に合うと良いのだが。木の匙ですくって飲みたまえ。それなら熱くは感じないだろう」
「ローレンツありがとう」
 薄切りにしてもらった干しいちじくをかじってから木の匙でほんの少しすくって冷やした着香茶を口に含む。鼻腔に香りが広がって体の内側だけがパルミラに戻った様な気がした。
『いい香りがする。このお茶がこんなにいい香りだなんて知らなかった』
 異国に流出する様な茶葉だから王宮への献上品より等級は下なのは確実だ。しかしローレンツが淹れてくれたと思うと安心して飲めて、その分だけカリードには美味しく感じられる。
「君の言葉がわかればいいのだがね」
 一煎目を飲み終えたローレンツは席を立ち二煎目を淹れた。給茶器の中のお湯はまだ熱く、色も香りも一煎目に負けていない。
 ローレンツはしばらく逡巡していたが木の匙を手に取り、カリードの下唇にそっと押し当てた。一体何がしたいのだろう。ほんの数日しか共に過ごしていないが王宮にいる血を分けた、言葉のわかる者たちより信頼出来る。カリードが口を開けるとローレンツは匙で舌の先端ではなく舌の奥に茶を注いだ。
 自分で飲んだ時と味が全くが違う。それにあんな淹れたばかりのお茶は匙ですくったとしても熱くて飲めない筈なのに飲み込むことができた。ローレンツに飲ませてもらうとそれだけで味まで変わった気がした。干しいちじくの良さも引き立つ。
『美味しい』
 思わず声が出た。誰かに理解して貰うために出た言葉ではなく内心がこぼれ落ち、それが声になっていた。
「気に入ったかね。口に入れるものはどれもこれも適温というのがあるのだ」
 相変わらず、ローレンツの言っていることは全く分からない。だが大切なことを伝えようとしていることは分かった。


 食べ物にも飲み物にも適温と言うものがある。ローレンツの目の前にいる小さなクロードは物心ついてからずっと異物混入を避けるため、適温のものを口にする機会が極端に少なかったのだろう。人間は食べずに生きていけない。彼はこのまま育てば食を楽しむ人を馬鹿にする様になってしまう───そんな可能性もあった。だがそうはならないだろう。
 ローレンツがもうひと匙すくって飲ませようとすると小さなクロードは干しいちじくを口にした。その方が確かに美味しい。その後、ふた匙目も抵抗なく口に含んでくれたのでこれならなんとかなるだろう。ローレンツは世話をしていてすっかり冷めてしまった着香茶を行儀悪く一気に飲み干した。リシテアたちへ差し入れにいかねばならない。
「茶器を片付けたらマヌエラ先生やリシテアくんたちへのところへいくよ。もしかしたらリンハルトくんもいるかもしれない」
「マヌエラセンセイ、リシテア、リンハルト」
 小さなクロードは聞き取れた人の名前を繰り返した。リシテアは修道院の一角を提供してもらい、クロードを復元させる魔法陣をマヌエラとリンハルトに手伝って貰いながら書いている。日頃は余裕と茶目っ気が目立つマヌエラだが学生の無事がかかっているとなると話は別だ。きびきびとリシテアやリンハルトに指示を出しながら、本人も床に膝をつき必死で術式を書いている。消え失せてしまったクロードを探しだす術式はとにかく難しい。
 小さなクロードは寸劇をやってくれたマヌエラにじゃれつく雰囲気ではない、と察してローレンツの手を握り大人しくしている。部屋の片隅に差し入れの菓子をそっと置いて二人で静かに去ることにした。

 帰り道、どうせ空振りだろう、と期待せずにローレンツたちが寮の一階にあるベレトの部屋を訪れると珍しく在室中で何か書き物をしている様だった。ローレンツは椅子を勧められ、小さなクロードはその後ろにあるベッドに放り投げられた。
「子供の世話なんて慣れないだろうによく頑張っているな」
「いや、周りに助けてもらっているよ。先生、話を聞いてもらえないだろうか。誰にも言わないで欲しい」
 小さいクロードがきゃあきゃあはしゃぐ声を背にしてベレトは黙って頷いた。
「クロードが戻らねばレスター諸侯同盟に近いうちに内紛が起きるだろう。だがその為にはこの小さいクロードを手放さねばならない。僕とマヌエラ先生で治したがこの子は全身傷だらけだった。全て魔法事故とは関係ない傷だ。そんな環境に戻さなくてはならない」
「この小さいクロードがどこの誰なのか分からないが、それでもこうして縁が出来てしまえば手放すのは辛いな。その後の無事を確かめることもできないし」
 ベレトは勧められた椅子に座って俯くローレンツの頭を撫でた。
「セテスからあの言葉の件は聞いている。小さな子供が痛めつけられているのをみると自分が万能でないことを悔しく感じるものだ」
「時間が足りません、あまりに中途半端だ。あの時に先生方の前であんな大見得を切った自分が恥ずかしくてたまらない」
「別に無謀ではないし恥ずかしく思うことでもない。それは優しさを示す勇気がある証拠だ。持っている者は少ない。グロスタール領の領民は幸せだな。未来の領主が優しくて勇敢なのだから」
 ベレトはローレンツに手巾を差し出した。どうしても諦めがつかない。取り乱してしまったことをベレトに詫びるとローレンツは小さなクロードを連れて彼の部屋を去った。


 夕食の時間となり疲れ果てた顔をしたリシテアが食堂にやってきた。
「ローレンツ、差し入れの茶菓子をありがとうございました。あんた本当にいい趣味してますよね。後日、改めて買いに行きたい美味しさでした」
「盆の上に桃のシャーベットしか乗っていないのだがリシテアさん、まさかそれが夕飯なのかい?」
「これを食べないと頭が働かなくて夕飯も選べないんです……私なんかまともな方です!マヌエラ先生は外に呑みに行ったしリンハルトは廊下で寝てますし。あ、もうラファエルに運んでくる様に頼みました」
 上空警備を終えたヒルダとレオニーは寒かったのか既にシチューを食べ始めている。厩舎での当番を終えたイグナーツとマリアンヌもやってきて、何故か緊張した面持ちでローレンツとカリードを見ていた。マリアンヌは何かに備えて指先に冷気を纏わせカリードを見て小さく頷いている。彼女の少しずれたところ、美しいのに大切な何かを諦めている様なところがパルミラにいるカリードの母を思わせた。このまま親切なフォドラの人々に囲まれて暮らしていきたい。
 しかしカリードが居なくなれば王宮での母の立場が悪くなる。絶対に戻らなくてはならない。リシテアの努力が実るまで待つしかなかった。
「クロード、イグナーツくんの隣で座って待っていたまえ」
 ローレンツが席を立ったので声をかけ、ついて行こうとしたら止められてしまった。いったいどういうことだろうか。先ほども驚いてローレンツに声をかけようとしたらベレトに止められてしまった。唇に手を当てる仕草はパルミラもフォドラも変わらないらしい。
 イグナーツは小さく手を振ってカリードに笑いかけている。隣に座ると頭を撫でてくれたがどうせなら、自分ではなくローレンツの頭を撫でてやってほしい。先ほどベレトの部屋で泣いていたからだ。
「クロードくん、大人しく待てて偉いねえ」
 ヒルダも近寄って声をかけてくる。どうやら今日はみんなから一口ずつ貰うのではなくローレンツがカリードの為に食事を選んでくれるらしい。
 リシテアが食べている桃のシャーベットだと良いな、と思っていたのにローレンツが持ってきたのはグラタンだった。グラタンは冷やすと乾酪からでた油が浮いて気持ち悪くなるから嫌いなのに何故、ローレンツはあれにしたのだろう。お盆にはグラタンが二つ乗せてある。ローレンツの夕食もカリードの夕食もグラタンでは誰か他の人に冷たい食べ物を分けてもらうしかない。
 口をへの字にして黙っているとローレンツは何故かカリードの皿から一口食べた。何かを確かめているのか何度か噛んでそして飲み込む。そして納得がいったのか誰に向けるわけでもなく頷いた。彼は食堂の金属製の匙をカリードに持たせ、大きく口を開けると舌の中ほどを指さす。
「クロード、食べさせてくれ」
 ローレンツが何を考えてこんなことをさせようとしているのかカリードにはよく分からないが彼の口の中を見られたのはなんだか嬉しい。匙の先にほんの少し乾酪の塊を乗せてローレンツの口の中に入れる。匙を引き出すと熱で溶けた脂がついた薄い唇がてらてらと光った。
「ありがとうクロード。美味しいよ」
 次に管状の短い麺を匙に乗るくらいの長さに切って待ち構えていた口の中に入れた。ローレンツは唇に残った白いどろどろとしたソースを無意識に舌で舐めとっている。カリードが皿の五分の一程食べさせた終えるとでローレンツは白い手巾で口元を拭いてイグナーツから渡された水を飲んだ。先ほどレオニーが汲んでくれたもので、魔法で冷やされている。
「どうして自分には同じことができないのだろうねえ。クロード、口を開けたまえ」
 今度はローレンツが昼間購入して、カリードの知らぬ間に持ち込んでいた木の匙でグラタンをすくった。少し怖かったが昼間のお茶もローレンツに飲ませてもらうと味と香りが違ったので、大きく口を開ける。焼けて少し硬くなった乾酪と柔らかい筒状の麺が舌の真ん中に乗せられた。自分で食べたなら熱くて吐き出してしまう筈なのに香ばしくて美味しい。もっと欲しくなって再び口を開けた。
『美味しい』
「気に入った様だな、ほらもっと食べたまえ」
 熱のおかげで柔らかい乾酪とソースの絡んだ小海老と筒状の麺が先ほどと同じ場所に乗せられる。何口か食べさせてもらった後で初めてイグナーツから冷たい水を勧められた。水でびしゃびしゃになっていない食べ物がこんなに美味しいとは知らなかった。カリードは名前しか知らない国に迷い込んで未知の体験を楽しんでいる。

 ローレンツは四分の一ほど食べさせたところで皿と匙を小さいクロードと交換した。少し冷めてしまっているが充分に温かいグラタンの残りを自分で自分の口に入れる。小さいクロードも意を決して水の掛かっていないグラタンを自分で食べる気になった様だ。恐る恐る匙を口の中に入れ飲み込んでいる。先に完食したローレンツはヒルダが彼を労って持ってきてくれた食後の紅茶を、匙は使わず茶器から直接飲んでいる。
「ローレンツくんお疲れ様でした」
「ローレンツ君って理想にがんじがらめになって身動きが取れなくなると思ってたからなんだか感動しちゃった!」
「小さいクロードくんに食べさせてあげる姿が雛に取ってきた餌を与える燕のようで感動しました」
「捨て身になれるのは強みだな!」
「あんたはなりふり構ってないほうが魅力的かもしれませんよ」
 恥を忍んで至った行為が級友たちから予想外に褒められてローレンツの顔は日頃、前髪で隠されている額まで真っ赤になった。


 夕食後、カリードは昨日と同じく風呂に連れて来てもらっていた。フォドラの人々はパルミラの者たちと同じく、毎日入浴する習慣らしい。脱衣所で湯浴み着姿になったローレンツに三つ編みを解かれ、先端につけていた飾りも取られてしまった。だが椅子に座ってローレンツに髪を梳かしてもらうのは気持ちが良い。
「よぉ、ローレンツ。この子が例の子か。無事に家に戻してやれると良いな」
「あぁ、シルヴァン。その通りだ。便宜上クロードと呼んでいる」
「クロード、シルヴァンだ」
「シルヴァンダ」
「シルヴァン」
「シルヴァン」
 赤毛のシルヴァンはローレンツと親しい仲のようだ。彼がローレンツと話し込んで着替えの手が止まっていても急かしたりしない。
「本当に全く言葉が通じないのか…」
「人名が人名だと分からないくらい言葉が違うようで皆の名前を教えるのも苦労した」
「その上、髪の毛まで梳かしてやっている、と。ローレンツはいい兄貴なんだな」
 カリードはシルヴァンを、容易く笑顔を見せるが容易に人を信用しないような人物である様に感じた。顔立ちは全く似ていないが、あの王宮で生き延びて王となったカリードの父と雰囲気が少し似ている。
「弟妹はいるが世話は乳母がしていた」
「そうだな、確かに俺も兄上から世話をされた覚えはないな」
 シルヴァンはふざけて手を伸ばし、カリードの髪を手入れしているローレンツの頭をくしゃくしゃとかき混ぜた。
「クロードをお前に寄せるんじゃなくてお前がクロードに寄っていった方が面白いよ」
「僕はこの真っ直ぐな髪の毛が気に入っているんだから余計なことをするのはやめたまえ」
 黒髪を頭の上に結いあげた男に耳を引っ張られるまで、制服姿のシルヴァンと湯浴み着姿のローレンツのじゃれ合うような言い合いは続いた。
 結論から言うと今日は欲求に任せて石にお湯を掛けまくる、という悪行の限りを尽くす者が居なかったので、カリードは先に髪を梳かしてもらう必要はなかったがよしとする。風呂上がりにカリードは真っ先に脱衣籠から飾りを取り出して三つ編みの先に付けた。またベレトセンセイが用意してくれた丈の短い寝巻きに着替え、後はローレンツの部屋で寝るだけだとカリードは思っていた。しかし今日は何故かローレンツが隣室の扉を開けている。掃除はもう終わったのにどういうことだろうか。ローレンツはファイアーの魔法で洋燈に火を付けるとベッドを指さした。ローレンツの部屋のものよりかなり大きい。
「今日はここで眠りたまえ。昨日は枕を用意し忘れていてすまなかった」
 昼間、ローレンツがラファエルと一緒にシーツを替えていた寝台だ。今晩、カリードをここで眠らせる為に昼間の彼らはこの部屋を片付けていたのだろう。この部屋の主は謎めいている。どこかにパルミラ語の書き付けでもあるのかもしれない。もし見つけることができれば、カリードの存在する今が何年なのかも分かる可能性があった。極端な未来や過去ではないというのも何となく分かっている。
 怪しい部屋の主の正体を知る為に家探しをしたい。だが、如何せん背が足りない。棚の上の方の物を検める場合、椅子か机が必要となる。家具を引き摺る物音が隣室のローレンツに聞こえてしまうのではないかとカリードは考え込んでしまった。
「………ド、クロード!」
 何故かローレンツがこの部屋の寝台に横たわって隣を叩いている。実際は考え込んでいただけなのだが、指示が伝わらなかったと思ったのだろう。ローレンツの自室にある調度品から察するに彼は美へのこだわりがとても強い。だが他人と向き合う時になりふりを構わず意志を伝えようとしてくる。それは時に弱みにもなりうるのだが彼は気にしない。
 カリードはこの部屋の主という謎の男に囚われるのは止め、心細さを装ってローレンツの胸元に潜り込むことにした。大きく息を吸い込むと風呂上がりに彼が塗っていた薔薇の香油の香りがする。
「その歳で一人で寝られないわけがないだろうにどうしたのだ?さあ、君が寝るまではついていてやるから今日はここで手足を伸ばして眠りたまえ」
 大きな白い手でカリードの背中を撫で、あやしているつもりのローレンツは今日は感情が乱高下して疲れたらしい。カリードを腕の中に収めながらカリードより遥かに先に眠ってしまった。彼はおそらくカリードと違い、本当に安定し恵まれた環境に育ったのだろう。洋燈の揺らぐ光に照らされて健やかに眠るローレンツは誠実で美しかった。パルミラの王宮では滅多に見られない美徳だ。
 家探しするつもりのこの部屋で、ローレンツが眠ってしまったので音を立てるようなことは何も出来ない。カリードは彼の胸元で薔薇の香りに包まれて眠るしかなかった。この部屋の主が結果として、とことんローレンツに守られているのが少し気に食わないが仕方ない。

 寝つきも寝起きも良いローレンツは翌朝、瞼を開けて最初に見た光景がクロードの部屋であったので目覚めた時に昨晩、何があったのか理解するのに数秒かかった。後日、事情があったとはいえ何度か部屋に入り込んだ挙句に眠ってしまった、とクロード本人に詫びねばならないだろう。しかもどうやら同じ毛布に包まって小さいクロードを寝かしつけている最中に、年長者である自分の方が先に眠ってしまったらしい。小さいクロードは自分に抱きついて眠っていた。熱の塊のような小さいクロードと触れあっている所はどちらの汗かわからない汗でぐっしょりと濡れている。髪の毛も洗った直後の様にびしょ濡れでよくこんなに汗がかけるものだと何故か感心してしまった。着替えさせる前に髪の毛を拭いてやらねばならない。
「おはよう、クロード」
「おはよう、ローレンツ」
 ローレンツの声で起こされ朝、最初に見たのもローレンツだったのでカリードは改めて昨晩の選択の正しさを知った。深い充足感がある。もし夜中に彼の腕から抜け出して家探しを実行し物音を立ててしまったら彼は目を覚まし、隣の自室に戻って一人で眠っただろう。


 本来なら泊まりがけの野外演習の日だったがクロードが不在であり、その翌日には小さいクロードともお別れなので最後のお楽しみとして皆で修道院近くの森へ狩りにきていた。レオニーが言う通り小さいクロードは弓使いらしく、森に着いてから彼女とイグナーツが用意した短弓を与えると大喜びでまず雉を仕留めた。誇らしげに雉を掲げローレンツに見せに来る。
「見事なものだな!もう一度行っておいで」
 焚き火の近くで小さいクロードから雉を受け取ったベレトがそう許可を出したので、仕草だけで意図を察した小さいクロードはあっという間に森の奥に消えてしまった。
 小さな後ろ姿を追いかけるのはローレンツに任せ、拠点にしている焚き火のそばでベレトは手際良く羽をむしって袋に詰めている。雉の羽根は矢羽の材料になる。奪った命は一欠片も無駄にしないのが民草の狩猟だ。
 復旧作業中のリシテアだけは修道院に残っているがそれでも八人いるので当然、雉一羽だけでは足りない。弓使いとして刺激を受けたレオニーも水辺へ獲物を探しに行ってしまった。ヒルダはマリアンヌに火の番をして欲しい、と乞うて焚き火の前に座らせ自身は皆の荷物が入っている行李を漁ってまな板と調味料を探している。ラファエルは今日は空振りに終わるのを前提として猪用の罠を仕掛けに行った。ラファエルはもう猪の方から危険だと認識されているのか彼がいると猪は出てこない。
 レオニーの水辺近くから鴨を狙う作戦は成功した様で両手に二羽ずつ鴨を持って戻って来た。
「わあ!レオニーちゃんすごいね!八人だし五羽もあれば充分じゃない?」
「クロードが獲った雉の羽根だ。矢羽に使うといい」
「わあ先生ありがとな!鴨の下処理手伝うよ!」
 和気藹々と焚き火のそばで声をあげていれば近寄らないのが獣で、関係なく近寄って攻撃してくるのが魔獣だ。魔獣は元となった動物が極端に巨大化し、魔法が使えるようになったもので不思議な仮面を付けたものと付けていないものの二種に分けられる。どちらも気性が荒く厄介で、一人でいる時に遭遇したら逃げ出すしかない代物だ。
 だから獲物を深追いした小さいクロードが生まれて初めて鳥型の魔獣である巨鳥と狼型の魔獣である巨狼の二体と遭遇した時、そばにいてやれて良かった、とローレンツは思った。巨狼は狼に似ているのに体長が小さいクロードの三倍はある。
 巨鳥ははるか上空にいるはずなのにあんなに大きく見えるのだ。子供の足に合わせて移動したため拠点まではそれほど離れていない。派手に音を立てて戦闘を始めてしばらく持ち堪えられれば誰かが気づいて加勢してくれるだろう。正直言ってローレンツ一人だけならば持ち堪えられるのだ。問題は小さいクロードを逃すかどうか、まだ共に行動するならどう守るか、だ。
 多少は弓を扱えるがよその土地から来て魔獣に慣れていない子供が一人で拠点まで逃げ切れる可能性と、二頭の魔獣に囲まれて増援が来るまでの間たった一人で子供を守り切れる可能性どちらが高いだろうか。ローレンツは載せたくない重りを天秤にかけて測らねばならない。
「クロード、絶対に僕から離れてはいけない」
 お楽しみの狩猟で拠点から離れないつもりであった為ローレンツはいつも腰から下げている短刀しか武器を持っていない。短刀と言ってもパルミラとの国境を守る部隊が使用している物と型は同じなので、成人男性の肘から手首くらいまで長さはある。人間相手ならば充分に武器として有効だ。
 そう、人間が相手ならば。
 巨狼は毛皮が分厚くて貫通させられないし巨鳥は羽ばたきで跳ね返してくる。黒鷲の学級所属のドロテアの様に隕石魔法が使えれば一発で仲間が気づいてくれるだろう。だが人間は手持ちの札だけで勝負に出ねばならない時がある。
 それが傷薬もまともな武器もない状態で巨鳥と巨狼に挟撃されていても、だ。小さいクロードが短弓を持っているので巨鳥の方がまだ気絶させやすい。羽ばたきの力で飛ばされてくる石礫から小さいクロードの頭を咄嗟に庇ったら左手首に拳と同じ大きさの石礫がぶつかり一瞬、手首から先の感触がなくなった。その数秒後にローレンツは強烈な痺れと痛みを感じた。それでも利き手である右腕は最後まで温存せねばならない。
「クロード、狼ではなく鳥を射るのだ。出来れば目だ」
 負傷した左手は指を動かせず人差し指で標的を示すことすら出来ない。ローレンツはだらりと垂れる左手を肘の力で動かし鳥を示すと自分の瞼を叩いて小さいクロードに指示を出した。彼は怪物を前にして恐怖のあまり緑色の目は涙で潤み呼吸が荒くなっている。だがローレンツの指示は理解できた、と言わんばかりに片目をつぶった。
 矢筒から矢を取り出し激しい向かい風の中で短弓を構える。巨狼の放つ大旋風を食らって褐色の頬や小さな手の甲に深い切り傷がついていたが、小さいクロードが弦を鳴らし放った矢は巨鳥の目に見事突き刺さった。しかし痛みのあまり巨鳥は激しく首を振りその勢いで矢は抜け落ちてしまった。
 ローレンツは目を攻撃され痛みと怒りに我を忘れた巨鳥が、嘴を大きく開きこちらに向かってくる瞬間を狙っていた。頬から血を流す小さいクロードの前に立ち、口の中に向かって右手を掲げライナロックを放つとローレンツの背中に光り輝く紋章が現れる。口の中を魔法で燃やされて混乱した巨鳥は眩暈を起こして均衡を失い地面に墜落した。衝撃で地面が激しく揺れる。ローレンツは切り傷だらけになった小さいクロードに無事な右腕で回復魔法をかけた。仕組みを理解していない小さいクロードはローレンツの右腕を負傷した左手首に押しやって回復させようとする。
「ありがとう。不便だが自分には回復魔法をかけられないのだ」
 小さいクロードの幼気な姿に思わず笑みが溢れた。これでしばらく巨狼の前からどう撤退するのかに集中できる。かなり大きな衝撃音がしたので拠点近くにいる仲間はすぐに救援に来てくれるだろう。
 無傷なままの巨狼が急に向きを変えローレンツたちとは逆の方向に大旋風を放った。それに構わず雄叫びをあげたラファエルが籠手で殴りかかり、彼の後ろからは矢が飛んでくる。どうやらイグナーツも来てくれた様だった。ラファエルが壁役となり射手のイグナーツを守ろうとしている。彼は図体に似合わず動きが素早く巨狼の攻撃を避けているが、射手であるイグナーツもに微かに攻撃が当たっているようだ。回復魔法をかけに近寄るかローレンツが迷っているとふいに左手首が動く様になった。リブローを使えるマリアンヌが魔獣たちの死角にいるらしい。
「イグナーツ君!巨鳥が目覚める前にもう一度攻撃したい!手伝ってくれ!」
 気絶状態の魔獣に攻撃を加えると深手を与えられるのだが、畳み掛けなければ覚醒して必ずこちらに反撃しようとする。再び気絶させる為にローレンツはイグナーツに声をかけた。魔獣は四度気絶させてからでないと倒せない。自分の身体を盾にして、小さなクロードを気絶している巨鳥から遠ざけマリアンヌのいる地点に移動させた。
「先ほどはありがとう、マリアンヌさん。クロードを頼む。この安全な場所から動かずにラファエル君とイグナーツ君をリブローで回復してほしい」
「分かりました。レオニーさんとヒルダさんと先生が魔獣たちから気付かれないよう大回りで包囲しようとしています。そちらはリブローの範囲外なのでローレンツさんは向こうでの回復役をお願いします」
「引き受けた。クロード、マリアンヌさんから離れない様に」
 ローレンツが小さいクロードの手を取りマリアンヌの制服の袖を握らせたので言葉は分からずともどんな指示を出したのか、は理解できた様だった。
『ローレンツ、気をつけて』
 ローレンツは小さいクロードに後ろ手で手を振るとまた魔獣に挟撃される地点に戻って行った。ラファエルやレオニーに回復魔法をかけたかと思うと再びライナロックを放ち、止めこそレオニーとベレトに譲ったが殊勲賞ものだった。
 マリアンヌもリブローを使い切ってしまい、小さいクロードを連れて戦闘をしている地点に入り込んだ。フィンブルを打ちつつ近接魔法であるライブを使い切るまで皆を回復をしたので彼女も疲れ果てている。言いつけを守ってマリアンヌから離れなかった小さいクロードは彼女を庇って左手を怪我した。傷は痛むがローレンツの様に勇敢になれた気がして、ほんの少し自分が誇らしい。

 ベレトが拠点に戻るよう指示したので今は全員で先程の焚き火をしていた場所へ移動している。マリアンヌもローレンツも魔力切れを起こしていて呆然としていた。これまではローレンツが小さいクロードの手を引いていたが今は逆に小さいクロードが森の中でローレンツの手を引いている。焚き火は既に消えていたが、雉や鴨を狙うような獣は魔獣との戦闘に怯えて近づかなかったので昼食で食べるはずだった小さいクロードとレオニーの成果は奪われていなかった。
「皆ご苦労だった。結果として野外演習をやれたも同然だな。皆、疲れ果てているようだからここで雉と鴨を食べてから修道院へ移動だ」
 イグナーツが弓の弦と乾いた枝で火を起こし、再び付けてくれた焚き火に皆であたる。ローレンツは自分の手を引いてくれた小さいクロードが負傷している、と気づいたが魔力切れを起こしているのでまともな回復魔法をかけてやることも出来ない。まだじくじくと血や分泌物で湿ったままの傷が痛々しい。褐色の左手を握って親指でさすってみたが魔力がないので呪文が唱えられない。何かしてやれることがないか、とまともに動いてくれない頭で考えたローレンツは傷口の膿を吸って地面に向かって吐き出した。
 魔力切れ由来の判断力の低下は体質によるが金鹿の学級所属のリシテア、マリアンヌ、ローレンツは全員それが著しい。同級生たちは魔力の切れた彼らが何かやっていても命の危険がなければ皆、気に留めもしない。だから小さいクロードが傷の上をぬめったローレンツの舌のせいで、今まで感じたことのない熱さを感じ、己の鼓動のせいで周りの音が一時的に聞こえにくくなったとしても皆全く気に留めていなかった。魔力の回復には睡眠が一番なのだが食事でもわずかに回復する。だからただひたすら早く食べさせてまともな状態に戻さなければ、と思うだけだ。

 雉や鴨を捌く時は胆のうを破かないようそっと取り出さねばならない。力任せにして引っ張り出そうとすると、中で破けて胆汁が肉やその他の内臓を苦くしてしまう。ヒルダは宝飾物作成が趣味で手先は器用な筈なのに、力の加減が出来ず肉を苦くしてしまうので鳥が上手く捌けない。だが肉のことならなんでも知っている、と豪語するラファエルは体格に似合わずその繊細な作業が上手かった。野営での調理に慣れているのはベレトとレオニーで、今日もくり抜かれた内臓を細かく切って網の上で焼いている。イグナーツは手先が器用なので丸焼きの時は人数分に切り分ける担当だ。弓矢も使えるので貴族のお得意様のため接待の一環で勢子を務めたこともある。
 イグナーツが切り分けてくれた雉と鴨を皆、必死で食べていた。修道院へ戻るまでの間にまた魔獣や野盗の襲撃がないとは言えない。食べて少しでも魔力を回復させなければ危なくて移動すら出来なかった。
 ヒルダもだがローレンツは魔力切れを起こしていなくとも、こういう場面ではまるで役に立たない。貴族の出なので士官学校に来るまで勢子や料理人なしの狩猟をしたことがなかったからだ。忸怩たる思いを抱えながら火に当たって待っているしかない。クロードも調理は出来ないが獲物を捌くのは上手だ。ただし薬の原材料となる獣の肝を得る為に覚えているだけなので、彼が捌いた獲物はあまり評判が良くない。
「部隊の長が切り分けて部下を労うこともあるのだから将来的には出来るようにならないと」
「先生のおっしゃる通りで僕としても経験を積まねばならないと思っている」
「まあ今回は仕方がない。次回はイグナーツに教えてもらいながらその腰の短刀で切り分けてみると良い。将来の部下が喜ぶぞ」
 鴨を食べながら少し判断力の戻ったローレンツがベレトと話し合いをしている。疲れ果て小さいクロードを困惑させていた先ほどとは全く違う。渡された鴨肉にも無遠慮に全力で齧り付き、骨で歯を痛めるような真似は絶対にしない。ローレンツは歯に触れた暢思骨に気付き、松の葉の様に二股に分かれた骨が壊れないよう、そっと舌で舐って口から出した。小さいクロードの住む土地で同じ占いをやるかどうかは分からない。だが、フォドラにはこの骨を使った占いがある。
 この骨は非常に脆く、先端と先端を持って互いに逆方向へ捻ると必ず割れてしまう。そしてその時に二等分になることがない。折れた骨のうち長い方を持っていた者の願いが叶う、と言われている。故にフォドラでは皆、鳥の暢思骨のことは誰も暢思骨とは言わない。願い骨と言う。
「クロード、願い骨だ。君の土地でもやるのかな?」
 そう言うとローレンツは暢思骨を手のひらに乗せて小さいクロードに差し出した。小さいクロードが小さな褐色の親指と人差し指で片側をそっと摘む。どうやらどういう占いなのか理解しているらしい。ローレンツも笑って逆側の端を摘まんだ。願いごとを頭に浮かべ、それぞれの向きへ骨を捻るとローレンツが持っていた方の骨が短く割れた。
『やった!勝った!』
 ローレンツは小さいクロードの願いが叶うように、と願いながら骨を捻ったがどうやらそれは効き目があったらしい。嬉しそうにはしゃぐ小さいクロードの願いは一体何だったのだろうか?案外、願い骨で勝ちたいとかそんな内容だったのかもしれない。明日には彼とお別れだ。少しでも良い思いをして自分の時代、自分の土地に戻ってほしかった。それがどんなに過酷な環境であろうと生き延びてくれる強い子供だ、と信じて送り出す以外ローレンツに出来ることはなかった。


 リシテア、リンハルト、そしてマヌエラの努力の結晶である魔法陣が予定通りに完成した。本来のクロードの帰還は目の前にいる小さいクロードとの別れを意味している。小さいクロードがどこから来た誰なのかは分からない。過去からなのか未来からなのかも分からない。言葉の違う異国にあっても時代が同じならば再会も望める。だが遠い過去や遠い未来の人物であった場合、これで二度と会うことはないだろう。
 ローレンツと手を繋ぎ、魔法陣が準備された部屋に入った途端小さいクロードは自分の身に何が起きるのかを察したようだった。名残惜しくないようにラファエルによじ登って肩から地面に向かって飛び降り、次に一緒に弓矢を射たイグナーツに抱きつく。リンハルトとは口を開けて舌を見せ合った。
「クロード、あんたを絶対に家族のところに返してあげますからね」
「ねえリシテアちゃん、何のお土産も渡せないの?」
「残念ですが出来る限り、現れた時の状態にしないと帰してあげられない確率が上がります」
 金鹿の学級の面々と小さいクロードは正に同じ釜の飯を食った仲、になったので皆、彼との別れを惜しんでいた。元気でね、とだけ繰り返すヒルダ、それに髪の毛ををくしゃくしゃとかき回すレオニーから少し離れた場所で、マリアンヌが手巾を顔に押し当て震えていた。小さいクロードはフォドラに現れた時と同じ服を着ているがまだ頭に布を巻いていない。
「レオニーさん、いくらなんでも乱しすぎだ。ほらおいでクロード。頭に布を巻いてあげるから」
 ローレンツは床に膝をつき、小さいクロードと目線を合わせて手櫛で髪を整えてから頭に布を巻いてやった。初めて会った日のように抱き上げ耳元で
「クロード、君は強い子だ」
 と言うと魔法陣の真ん中で彼を下ろした。小さいクロードは皆の方を向き、深く頭を下げ両腕を伸ばして手を頭の位置より高くした状態で掌を上にしている。おそらくそれが彼の国での最敬礼なのだろう。
 ベレトとマヌエラ、リンハルトが見守る中、覚悟を決めたリシテアが呪文を唱えると青白い光が小さいクロードを包み始めた。彼を包んだ青白い光は球体となり揺らぎながら中心に向けて消えていく。
 球体も消えた空間を見た学生たちが皆、喪失感に呆然としているとマヌエラが続けて!と檄をとばした。リシテアが再び呪文を唱えると、空中に青白い光で出来た球体が再び発生した。激しくうねり、うねる度に大きさを増し成人男性程度の大きさになったかと思うとそこから鋼の弓を持ったままのクロードが落ちてきた。
「いってえ!リシテア、次は足が下になるように飛ばしてくれよ頼むぜ…」
 強かに腰を打ったクロードが呻きながら立ち上がり、事態を飲み込めず茫然としているとベレトが拍手をした。
「お帰りクロード。魔法事故があって野外演習の日から五日経っている。リシテアが頑張ったからこうして戻れた訳だ。リシテアと彼女を手伝ってくれたマヌエラ先生とリンハルトにお礼を言いなさい」
 クロードの姿を確認しベレトに努力を認められたリシテアは膝の力が抜けてその場にへたり込んでしまった。マヌエラが近寄りそっと手を取る。
「頑張ったわね、これでもうワープは失敗しないように出来るわ」
「私もう二度と失敗しません」
 と言った後、リシテアは泣き始めてしまった。ここ数日の心労を思うと実習の日の失敗は責められない。学級の皆がそう思った時、魔法陣が無害な形で無効になるよう靴で文字を消しながらリンハルトがリシテアに近づいた。
「気負わない方がいいよ。失敗してもまた同じようにすれば復元できるんだから怖がらずにワープの練習やりなよ。次も手伝うから」
「あんたのそういう慰め方わたし大嫌いです!!」
 そう叫ぶとリシテアは手巾で鼻をかんだ。クロードはリシテアを労いたいのだが、リンハルトに激怒している今は聞いてもらえそうにない。落ち着くまでかなり長く待つことになりそうだ。
「あの、腹減ったから飯を食いに行きたいんだけどこれは昼食か?夕食か?」
「昼食だぞクロードくん!オデと一緒に肉を食おう!」
 本来のクロードが食堂で雉のデアドラ風揚げ焼きを雑に大きく切りフォークに刺して齧り取って食べているとローレンツがため息をついた。
「クロード、やはり君の行儀作法はなっていない」
「齧りつくのがうまい料理だと思うんだがなあ」
「そういう料理があるのは否定しないよ」
 ローレンツは小さいクロードに買ってやった木の匙をどうしようかと迷っていた。しかし大口をあけて熱々の揚げ焼きにかじりつくクロードを見ているうちになんとなくあれは手元に置いておこう、という気持ちになった。
「ところでクロード君はこの五日間、何かあったんですか?こちらはリシテアさんもですがローレンツ君も大変だったんですよ」
 イグナーツにそう問われてもクロード自身には時間が経過したという感覚が全くない。それはクロードとカリードの関係性あってこその現象なのだがこの時点では誰もそのことに気が付いていない。
「いや、俺の中では五分も経ってないんだよ。いなかった間に何があったのか教えてくれるか?あと、なんでラファエル以外は皆、グラタン食べてるんだ?」


 カリードが再び目を開けると見慣れた王宮の天井が目に入った。都合よく薬師のところへ連れていってくれる親切な下男などいるわけがない。階段から転倒して頭を打ち気絶していたようだったが痛みはなく身体がすんなりと動く。口の中を舐め回してみるとあれだけ大きかった口内炎もすべて消えている。
 慌てて跳ね起き、自分の部屋へと駆け込んだ。労力に見合った結果が得られたか物陰から確認していた異母兄もさぞ驚いていることだろう。着ていたカフタンを脱いで確認すると皆で狩りに行った時に怪我をした左手以外、傷跡すら残っていない。魔法陣の部屋に行く前ローレンツが回復魔法をかけてくれたのだが負傷してから少し時間が経っていたせいか左手の怪我だけは治ったが跡が残ってしまっている。今となってはこれが唯一のフォドラ土産だ。
「え……夢じゃ……なかった???」
 自分の身にあんな不思議なことが起きるとは思いもしなかった。何を話しているのか全く分からなかったフォドラの人々は、カリードに誠実に接してくれた。子供だというだけで親切にされる日が来るなんて考えたこともなかった。とても幸せな夢の様な数日間を過ごした。
 自分の見たものが夢でないならばフォドラの人々は臆病者ではなかった。臆病者であればあんな恐ろしい化け物と戦うことは出来ない。ただ、カリードの母ティアナが故郷とどうしようもなく上手くいかなかったのも事実なのだろう。
 再びカフタンを着るとカリードは書字板にローレンツの最後の言葉を忘れないうちにパルミラの文字で書き留めた。
『クロード、きみはつよいこだ』
 意味は全く分からないが聞き取れた音は全て書き留めてある。フォドラ語を覚えてお別れの時にローレンツから何を言われたのか知る日が楽しみだ。その為には今日も明日もこの先も王宮で生き延びて、ありとあらゆることを学ばねばならない。
 階段から突き落として仕留めたつもりの相手が走って自分の部屋に戻った姿を見て、扉の向こうに待ち構える異母兄たちはさぞ驚いていることだろう。母ティアナの待つ部屋に行くのですら殴り合いをせねばならないと思うと苛々する。自分を落ち着かせる為だろうか、カリードは無意識のうちに左手の傷跡をさすっていた。
 色素が濃く沈着してしまった固い傷跡を目にすると異母兄たちに負けるわけがない、という気がしてくる。フォドラの地で見た巨鳥と巨狼に比べればあんな連中、なんてことはない。
 カリードが部屋を見回すと火鉢が目に入った。馬鹿正直に殴ったり殴られたりしてやる必要はない。部屋の外で待ち構えている連中全てにお見舞いしてやるにはどれくらいの灰が必要だろうか。扉に耳を当て廊下の話し声を聞き最低でも何人いるのかを頭の中で数えた。
 適当な籠に布を敷いて円匙で灰を籠の中に入れる。手で顔に叩きつけてやりたいのでついでに冷えているかどうかも確かめた。熱い灰で火傷してしまっては元も子もない。
 扉を開け部屋からカリードを引き摺り出そうとする異母兄たちの顔に暖炉の灰を叩きつけてやった。痛む眼を手で覆って床に膝をつくのは転倒を避ける本能なのだろうか。
「この卑怯者め!!」
「袋叩きは卑怯じゃないのかよ!!」
 異母兄たちの負け惜しみに捨て台詞を吐いて、カリードは小脇に籠を抱えたまま母ティアナの部屋へ向かって駆け出した。帰る時もティアナの部屋にある火鉢か暖炉から灰を貰っておけばなんとかなるだろう。とにかく一刻も早く母のところへ行って、フォドラ語を習いたいという話をする必要があった。

───帝国暦1178年
 衝動的に王の手をとって以来、ティアナの人生は全く予想していない方へと転がっていった。ティアナの目の前で眉間に皺を寄せ、顰めっ面をしている我が子も予想外の産物だ。リーガン家の者が喉から手が出るほど欲しがっていた、リーガンの紋章をその身に宿している。検査用の試薬は取り寄せなかったが弓を教えてやった時、息子の背に紋章が発現したところをティアナは直に確認した。
「薬漬けにされてたんだぜ、でも」
「獣から人間に戻してやった、とでも言うつもりなの?」
 パルミラ王の後宮にいるのは太守の娘や他国の姫が多い。王の息子を産み我が子をパルミラの大王にする為ならどんなことでもする。そんな中、ティアナが命懸けで産んで育てた息子が、昨年から第一王子となった異母兄の面目を丸潰れにするような騒ぎを起こした。
 第一王子は母がダークメタルと塩を特産品とする小国の王家の出であったので、長じれば二つの国の王となる資格があった。彼がパルミラ王となれば闘わずして領土が拡大できる。そんな訳で彼は継承権争いではシャハドに次ぐ本命と見做されていた。王冠がふたつ約束された息子を産み、続けて娘も産んだその妃はパルミラの後宮で権勢を振るえるはずだったが、ある時から体調を崩し離宮に閉じこもり全く姿を表さなくなった。
 件の小国でお家騒動があり、それに絡んで第一王子の母が幽閉されていた、と知ったカリードはまず彼女に毎日盛られていた薬をすり替えたのだと言う。そもそもパルミラの王子として他国の騒動を自国の王宮に持ち込むなど言語道断だが、第一王子が継承権争いで優位に立てたのは母の故郷の王にもなれるからだ。第一王子は二正面作戦を取り、母親が離宮に幽閉されることを黙認した。
「俺はあの方の息子も娘も大嫌いだがあの方ご自身は割と好きなんだよ」
 ティアナの記憶に残るまだ健康だった頃の彼女は、後宮の中では珍しく攻撃的ではなかった。ティアナやカリードの瞳の色を化け物と同じ色だ、と詰る我が子たちに対し瞳の色を自分の意志で選んで生まれる者などいない、と戒めていた覚えがある。

 息子はいつの間にか拵えてきた左手の傷跡をさすりながら話題をすり替えようとしていた。彼も本当は母が何を言いたいのか分かっている。それでも煌めく緑の瞳が、自分のやり遂げたことを誇りに思っていた。本心ではティアナも息子を手放しで褒めてやりたい。
「憤りに任せて行動しては駄目と教えたでしょう。嘘も薬物も腕力も全てあなたが生き残るために使いなさい」
「それじゃあ、ただ生きてるだけだ」
 カリードは第一王子の母が正気を取り戻す手伝いをした。そして第一王子は先日、母を危険に晒し続けた件で実の母から告発された。誇り高きパルミラの王に相応しくない振る舞いが周知され、第一王子は継承権を失ったも同然だ。しかし彼は手勢にも資金にも恵まれている。一方、ティアナには有力な後ろ盾がない。カリードはこのままいけば報復を受けるだろう。
 十五年前の今日、故郷の暦で言うならば青海の節二十四日にティアナは息子を産んだ。パルミラでは誕生月だけが重視される。効率を重視しているのか誕生月が同じ者をまとめて祝う。だからティアナの息子は誕生日を祝われたことがない。
 弟のゴドフロアが生まれた後でも誕生日だけはティアナが主役だった。息子はリーガンの血や瞳の色のせいでとにかく異母兄弟やその母親との折り合いが悪い。いつかはこんな日が来るだろう、と薄々は分かっていた。
 時は来た、ただそれだけだ。そして日付に意味などない。今日が例え青海の節、二十四日であってもだ。
「カリード、フォドラから便りが来たの。あなたにも関わりがあるから読んで良いわ」
 ティアナは実家であるリーガン家から送られてきた書状を息子に渡した。これが息子にとって初めて受け取る、祖父からの誕生祝いとなるだろう。自分と同じ色の瞳が左から右へ右から左へと動いていく。幼い頃のカリードは母から受け継いだリーガンの血を疎んじていた。しかし息子はある時から急に我が身を嘆くのをやめ、熱心にフォドラの言葉を学ぶようになった。だから自分の叔父一家が事故で亡くなり、後継者を失ったリーガン家の嫡子としてカリードを迎えたい、と言うこの書状の内容も完璧に理解できるだろう。第一王子と同じく自分も二つの国を同時に手に入れることが出来るのだ、と理解できるだろう。
「このままいけば俺は兄上たちの力で王宮から追放されるだろう。出ていくならその前にしたい。自分の足で出て行くなら荷造りもできるしな」
 冗談めかした物言いで母を慰める息子を見ていると、ティアナは今までの教育方針が合っていたのかどうか分からなくなる。ある時を境にして急にカリードは図太くなった。
「あなたがフォドラへ行くことになると知っていたら生まれた時にフォドラ語の名前もつけてやったのに」
「いや、もう俺の向こうでの名前は決まってるんだ」
 そして図太くなったカリードはたまにおかしなことを言うようになった。そしてそんな時は決まってティアナが知らぬ間に作っていた左手の傷痕をさすっている。
「あらそんなこと、実家からの手紙には……」
「そうだな、そんなこと手紙には書いていない。でももう決まってるんだ」

───クロード、君は強い子だ───畳む
2.#願い骨#クロロレ#完売本#R18 pass:18↑?y/n
 事故当時の記憶がないクロードにしてみれば、精密検査は痛くもない腹を探られているようなものだった。だがクロードが消失した五日間、なんとか現状を回復するために力を尽くしたマヌエラが職業人として検査を、というならいうことを聞くしかない。
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