#かのひとはうつくしく
#クロヒル
#ロレマリ
15.A(side:L)
ローレンツはベレトと共に中庭で茶会をしていた。竪琴の節から花冠の節にかけて咲く花は美しくグロンダーズで見た嫌な景色が上書きされていくかのようだ。野宿でも天蓋付きの寝台で寝ているように寛いで眠り野草を楽しんで食べるような強さを持つ恩師がローレンツの取り寄せた茶菓子に舌鼓を打っている。
「クロードとヒルダを二人一緒にしておくと俺の考えることが減って便利だな。お陰でローレンツと二人、こうしてのんびり過ごすことができる」
メリセウス要塞に入り込む計略を考えるクロードとヒルダは互いを補い合っていた。ただしその後、援軍として派遣されそうな帝国の将は誰なのか考えてくれと頼まれたフェルディナントとリンハルトは苦労したらしい。主にフェルディナントが。
「ご相伴にあずかれて光栄だよ。僕といえども気晴らしは必要だ」
アッシュ、メルセデス、イングリットが失ったもののことを思うと気晴らしに騎士物語や戦記物を読む気にもなれなかった。ファーガス王国は完全に崩壊している。
「気晴らしと言えばクロードが子供の頃に聞かされた御伽話が結構面白くて気晴らしになるらしい」
「らしい、とは?」
「俺は聞いたことがない。だが先日、ヒルダが感動して泣いたと言っていた」
クロードの話でそんなに心動かされるのはおそらくヒルダだけだ。二人は学生の頃から子犬のように戯れあっていたのでつまりはそういうことだろう。
「きっと僕が聞いたら苛々するだけだな」
「ローレンツにはフェルディナントの話をよく聞いてやって欲しい。きっと色々と聞いて欲しい話があるはずだ」
帝国の大貴族たちは領地と帝都の上屋敷を行き来して育つのでフェルディナントとリンハルトはアンヴァルに詳しい。メリセウス要塞攻略後のことを見据えるならば二人の話が今後大きく役に立つはずだ。
「それと間違えないで欲しいんだが……」
「何をだろうか?」
「何かを聞き出して欲しいわけではない。ただフェルディナントの話を聞いてやって欲しいんだ。絶対に必要だから」
若草色の瞳がじっとローレンツを見つめていた。ローレンツは一生、ベレトには敵わない気がする。
帝都アンヴァルを攻める拠点にするためメリセウス要塞は絶対に手に入れねばならない。可能なら設備をなるべく傷つけず備蓄してある物資も込みで、とベレトは述べた。
「これまで通りクロードから現場の裁量は全て任されているので従って欲しい」
ローレンツたちは同盟軍に攻撃されメリセウス要塞へ逃げ込もうとする帝国軍のふりをする直前、最後の打ち合わせをしている。
「こんな時にクロードがいないとは」
「あはは、確かにクロードくん一番演技がうまいもんねえ」
グロンダーズでもやっていたがクロードは敵兵を誘い出すため逃げ遅れたふりをするのが上手い。ここで大将首を取って形勢を一気に逆転したいという追い詰められた敵兵の欲望をとことん煽るのだ。ローレンツは何度見ても学生時代、ヒルダ相手に上空で軽業を披露している姿を見た時と同じく血の気が引いてしまう。
「だがクロードも今回は本気だ。フェルディナントもリンハルトも本気を出すように」
「先生、そうは言ってもやはり人選が倒錯しているような気がするのだが……」
今回フェルディナントはメリセウス要塞の中には入らない。ローレンツたちを要塞へ追い込む追手の同盟軍役をする。
「最後にもう一度言っておく。設備と物資目当ての作戦だ。雑兵に構わず司令官を目指す」
死神騎士を人質にすれば残りの兵たちは交渉の場に参加せざるを得ない。捕縛が叶わず殺害してしまった場合は代行を務める将を捕らえて再び交渉をする。敵兵を全滅させるより遥かに効率が良い。
ヒルダが考案しクロードが整えた作戦通りローレンツたちはメリセウス要塞の内部に侵入することができた。初めて入り込む老将軍はいかにも堅牢で正攻法で陥落させるには三倍どころのか五倍は兵が必要になっただろう。
「フェルディナントくんの本気、すごかったね」
「クロードの本気が同じくらい凄まじいことを願おう」
ローレンツとヒルダはお互いささやかな回復魔法を掛け合った。これからあの死神騎士と戦うのでフレンやマリアンヌの回復魔法を無駄遣いするわけにいかない。マリアンヌは申し訳なさそうにローレンツたちに小さく頭を下げた。
「ヒルダ、クロードを探して必ず一度本隊と合流するように伝えてくれ。合流と移動が最優先でその為の戦闘ならば許可するがそれ以外は許可しない」
「それならカスパルくんとは戦わずに済みそう……」
斥候の報告によるとカスパルもメリセウス要塞に来ているらしい。フェルディナントとリンハルトを要塞内部に潜入する部隊に入れていないのはベレトの温情であり同盟の諸侯たちへの気遣いだ。
「気になるだろうが無視してクロードとの合流を優先してほしい」
それくらいやらねば死神騎士を捕縛出来ないとベレトは判断している。ヒルダは珍しく緊張した面持ちでベレトの言葉に頷いた。
死神騎士を直接攻撃するベレト、リシテア、イグナーツ、ラファエルを攻撃させないためにローレンツとレオニーが増援と彼らの間に立ちはだかったが倒しても倒しても兵が減ってくれない。ローレンツは先にレオニーを輸送隊に武器を取りに行かせた。手元にはもう手槍しか残っていない。ダークスパイクΤが死神騎士を直撃し手応えを感じたリシテアが今です!と叫んだと同時に気の利くレオニーがローレンツの分も新しい槍を持ってきてくれると信じ最後の手槍を投擲した。死にかけでもなければ捕縛などできない。いつの間にか合流したクロードが死神騎士の動きを封じる為に肘を狙ったが躱されてしまう。
「くそ!外したか!魔獣の方がよっぽど当てやすい!!」
魔獣の分厚い毛皮に突き刺さるほどの強さで矢を放てる者にしか言えない台詞だ。
「殺したければ追ってこい。そろそろ刻限だ……」
「何か隠してやがるな……相手の言うとおりに動くのは癪だが、仕方ない。追うぞ!」
クロードの命令に従い皆一斉に死神騎士を追いかける。入り込む時はあれほど苦労した要塞を出ていくのは簡単だった。どうやってまた戻るのか、この後どうするのか考えねばならないことだらけだったがそんな焦りや困惑は突如、空から落ちてきた光の杭のせいで消え失せた。帝都アンヴァル攻略のため奪取しようとしていた要塞が全壊している。中に残っていた帝国軍の将兵たちがどうなったのか全く分からない。カスパルは遺体すら見つからないのかもしれない。そんな有様だというのにクロードは目の前の光景に夢中になって考え事を始めてしまった。
「ちょっと、悩んでる場合じゃないよー!また光の杭が降ってきたら死んじゃうよ!」
逃げようとしないクロードに痺れを切らしたヒルダが逃げるようにうながす。あんなものが再び降ってきたらどんな風に抗えば良いのだろうか。クロードが言う通りこんな途轍もない攻撃方法があるならなぜ今まで使われなかったのか。疑問は尽きない。その一方でローレンツもそしておそらくヒルダもメリセウス要塞を消し去った光の杭ですら消しさることが出来ない疑問をクロードに対して持ちはじめた。
「クロード、君には聞きたいことがあるが、まずは撤収を急がねばなるまい」
しかしミルディンへ退却することの方が先だった。ミルディンならば光の杭が落ちてこない、とは断言できないのだが。
命からがら逃げかえったミルディンでローレンツはクロードをかなり厳しく追及してしまった。この拒絶ぶりを予想できていたからリーガン公オズワルドはクロードの出自を徹底的に隠したのだろう。士官学校で一年を共に過ごし五年の時を経て共に戦いグロンダーズで勝利したローレンツとヒルダですらクロードに対する戸惑いと苛立ちを隠せない。
ヒルダは途中で戸惑いながらも譲歩していたがジュディッドにたしなめられたことからも分かる通りローレンツは明らかに言いすぎたのだ。入浴後、先日は屍山血河といった有様だったアミッド大河を眺めながらローレンツはため息をついた。ガルグ=マクに戻ってもここミルディンでも割り当てられた部屋がクロードの隣なのだ。いずれわだかまりなく話せる日が来ると分かっていても今日は気まずい。石造りの欄干に肘をかけたローレンツは下流を眺めている。視線の先にヒルダの故郷がありもっと先にはクロードの故郷がある。縁があったと婉曲表現を使っていたがクロードはパルミラで育ったのだ。そうでなければ諸侯たちやヒューベルトがクロードの正確な出自に辿り着けないわけがない。
「ローレンツさん」
振り向くと負傷者の治療を終えて砦に戻ってきたマリアンヌがいた。治療中、前掛けはしていたようでそこだけは怪我人の血はついていないがあとはどこもかしこも乾いた血がこびりついている。彼女が戦場で必死で重傷者の救護にあたった証拠だ。きっとこれから入浴するのだろう。小脇に荷物を抱えている。
「マリアンヌさん」
「これは私の血ではないので……」
ローレンツが心配そうに自分を頭のてっぺんから下まで眺めていることに気付いたマリアンヌが取り繕うように笑った。乾いて茶色くなった血が袖や裾にべっとりこびりついていようと彼女の笑顔は美しい。
「ローレンツさんこそ大丈夫ですか?」
「何がだろうか?幸い大した怪我を負うこともなくこうしてミルディンに戻れたが」
「クロードさんのことです」
「お恥ずかしながら僕とやつの言い争いなど珍しくもないはずだが……」
マリアンヌはそっとローレンツの隣に立ちローレンツと同じものを見た。下流にはヒルダの出身地であるゴネリル領、それにクロードの故郷パルミラがある。彼女は何を思うのだろうか。
「私にはローレンツさんがとても悲しそうに見えます」
そう語るマリアンヌの方こそ悲しそうだった。お前らは俺が嫌いに決まっている、だから世界を変えに来たんだといきなり宣言されても戸惑うだけだ。このローレンツ=ヘルマン=グロスタールを凡百どもと同じ枠に入れお前から嫌われるのが怖かったから言えなかった、と告白されても腹立たしいだけだった。
「いや全ては僕の不徳の致すところだ。驚いてあんな風に反発してしまったから結果としてクロードの主張が正しくなってしまったな」
雰囲気を変えたくて少しふざけてみたがマリアンヌがローレンツの冗談に気付いているのか無視しているのかが読み取れない。だがマリアンヌの指摘通りローレンツは悲しみを感じたのかもしれなかった。
「ガルグ=マクに戻ったらお二人のために聖典を最初から全て読み返してみます」
一千年の歴史を誇るセイロス教の聖典は正典と外典それに詩篇の三つからなる。礼拝の際に読み上げられるのは正典が殆どだ。マリアンヌはクロードの本当に反するのか、と言う発言が正しいかどうか確かめようとしている。
「膨大な量だ。マリアンヌさん一人ですることはない。僕も読もう。正典から始めるとして奇数の章はマリアンヌさんが偶数の章は僕が担当すると言うのはどうだろうか?」
全て合わせると六十六章あるので読む量は二人とも全く同じになる。マリアンヌはローレンツの提案を喜んで受け入れてくれた。
ミルディンから帝都アンヴァルまでの補給線を確保するのに散々苦労したがそれにも目処がついた。担当していたヒルダとフェルディナントが頑張ったおかげで想定していたより遥かに早く進軍が開始できる。ローレンツは二人を労うために茶会を開いていた。アンヴァルを陥落させれば長きに渡った戦乱もこれで終わりを告げるだろう。手持ちの茶葉を使い切ることに躊躇はなかった。
「だって帝国軍が態勢を整える前に進軍したいってクロードくんが言ってたから〜!」
ヒルダが先ほどからずっとクロードの話ばかりしているのでフェルディナントが眉尻を下げ声を出さずに笑っている。ローレンツも同じ気持ちだった。彼女は出来るのにやらない、とずっと言われていた。この心境の変化は実に喜ばしい。
「クロードもヒルダさんが奴の希望を叶えるために東奔西走していたことを知ればきっと喜ぶだろう」
そうだと良いんだけど、と言ってヒルダは照れ臭そうに笑っている。フォドラ最古にして最大の都市に攻め込む前の細やかな憩いのひと時だった。
ヒューベルトはクロードの倫理観を信頼しているらしい。ミルディンから帝都アンヴァルまでの街道はこちらの物資を狙った野盗は出るもののそれ以外は不自然なほどに無防備で不気味だった。
「斥候はいるんだろうが軍装を解かれると正直言ってこちらには見分けがつかん」
「でもクロードくん、この段階で今更大胆に方針を変えちゃおう、なんてことはもうお互いに出来ないでしょ?」
迎撃しやすいように先方がわざと開けた穴から侵入して罠を食い破りエーデルガルトを目指す以外に新生軍には勝ち目がない。正攻法で戦って打ち破るために必要な兵や物資を用意する間に向こうは占領したファーガスを更に搾り上げて更に軍備を増強するだろうしこちらの開戦準備の妨害もするはずだ。クロードがヒルダの言葉に頷く。
それまで散々皆で議論を尽くしていたせいかアンヴァルに最も近い宿場町で行った最後の軍議はかなり短く終わった。一度突入してしまえばエーデルガルトを倒さなければ出られないということは皆分かっていたからだ。
帝都アンヴァルはセイロス教の開祖セイロスが教えを説き始めたセイロス教にとっての聖地でもある。帝国軍の優秀な工兵たちはその聖地を躊躇せずに破壊し街中を砲台だらけにしていた。開戦前の帝都アンヴァルをよく知るフェルディナントとリンハルトは苦虫を噛み潰したような顔をしている。迎撃用の魔獣が闊歩する街中はクロードが腕を振り下ろす前から既に破壊されていた。自然に発生する魔獣と違い帝国軍が使役する特有の魔獣が何で出来ているのか新生軍の者たちは皆知っている。
「私とエーデルガルトはそりが合わなかったがそれでも私ならエーデルガルトの名でこんなことはしない」
辛そうなフェルディナントを慰める言葉をローレンツは持っていない。この後本格的な戦闘が開始されれば街は瓦礫の山と化す。
本隊を率いるベレトが死神騎士を倒しローレンツたちがヒューベルトを倒したらそこままエーデルガルトが籠城している宮城へ攻め込むことになっている。エーデルガルトはヒューベルトの信頼や忠誠に応えるため自らを新生軍を引き寄せる餌にしていた。
「早急に終わらせてしまおう。長引かせては市街地への影響が出るばかりだ」
ローレンツの言葉を聞いたフェルディナントは投石機や砲台だらけの街を迷うことなく駆けていった。魔法に弱いフェルディナントだが魔法職の者の胸元に入ってしまえばあとは腕力の問題になる。ローレンツはフェルディナントにマジックシールドをかけてやるため彼の後を追いかけた。
こちらもあちらも命懸けの大将戦は辛うじて新生軍の勝利に終わった。ドゥドゥが宮城の構造について教えてくれたおかげなのか、教えてくれたせいなのかクロードとヒルダは酷い目にあっている。鍵で施錠された空間にリシテアのワープでベレトと三人揃って放り出されエーデルガルトと直接対決する羽目になったからだ。
ベレトは平然とした顔で追いついてくれた後続部隊の者にあれやこれやと指示を出しているがクロードもヒルダもフェイルノートとフライクーゲルに縋り付かねば立っていられない。兵士たちの手前、倒れたり座り込んだりするわけにはいかないが足も腕も限界を迎えつつある。
「きょうだい、いくらなんでも無茶がすぎる……」
「死んじゃうかと思った……」
鍵を開けつつ徒歩で移動していたため玉座の間への到着が遅れたマリアンヌが安堵の涙を流しながらヒルダとクロードに回復魔法をかけていた。たまたま後続の部隊に配置されただけのイグナーツとアッシュも顔を真っ青にしている。二人ともハンターボレーが使えるのでドロテアやペトラ相手にクロードと同じことをやらされていたがエーデルガルトは格が違う。
「残敵の掃討とレアの捜索をするついでにこの宮城にある書類を全て持ち帰る。暖炉の中の燃えさしも回収してくれ」
実は皆、事がここに至るまで何故エーデルガルトが戦端を開いたのか分かっていない。確かに宣戦布告はあったが誰もあれが真の理由だと思っていなかった。マリアンヌのおかげで支えなしに立てるようになったクロードが手を叩く。
「もう一踏ん張りだ。皆、頑張ってレアさんと書類を探して欲しい。誤解を避けるため宝物には触れないように。だがこれだけ迷惑をかけられたんだ。エーデルガルトから酒くらいは奢ってもらっても良いだろう」
「あの……こういうところですので毒や呪いがかかっている可能性もありますから……」
宮廷内の権力争いのことを思えばマリアンヌの発言は至極真っ当だった。勝ったその日に毒入りの酒を飲んで死んでしまったら死んでも死にきれないだろう。
「確かすっごい大きな広間があったよね!じゃあそこに皆で持ち寄って飲んでも平気か確かめようよ!」
ヒルダの提案どおり晩餐会用の大広間に書類と酒や食糧を集めることになった。散開し本来の主が失せた巨大な宮城の中を歩いているとこれが現実なのか夢なのか分からなくなってくる。大司教であるレアと書類を探さねばならないのだがローレンツの足は地下の貯蔵庫を目指していた。酒蔵は大抵、気温が低く安定している地下にあるものだ。歴史の古いこの宮城ならばレスター諸侯同盟が出来た頃の葡萄酒も酒蔵に置いてあるかもしれない。長い廊下に敷かれた絨毯がローレンツの靴底の血を拭き取っていく。彷徨い歩いているうちにようやく二階にも地下にも繋がる階段を見つけた。欲望の赴くままに地下に降りるか名目を保つために一応、二階の部屋を漁るかローレンツが考えていると上から足音が聞こえてきた。それなら階段を上らざるを得ない。踊り場に差し掛かると慌てた様子のマリアンヌから声をかけられた。
「ローレンツさん!あの、ええと……」
「マリアンヌさん、どうしたのだ?!」
マリアンヌは治療以外では人との間に距離を保つというのに持っていた書類を床に置くと慌てて手を上に伸ばしローレンツの口を塞いだ。とにかくローレンツに声をひそめて欲しいということは充分伝わったので一旦離れて口を閉じ内緒話がしやすいように首を傾ける。律儀なマリアンヌがローレンツの耳元に口を寄せた。
「ここの二階には行かないでください!あの、その、ヒルダさんとクロードさんが二人きりでいるので……」
代々国境をパルミラから守ってきた一族の娘であるヒルダと明言はしなかったがパルミラの血を引くであろうクロードには話し合わねばならないことが山ほどある。きっと両国の口さがない者たちは受け継いだ伝統を蔑ろにして敵国の者と愛を育むのか、と二人に言いたてるだろう。そんな連中を黙らせるには二人の絆が何よりも重要になる。
「繋がっている階段はここだけだろうか?」
「隠し部屋の類がなければおそらくは……」
「では書類を置いていって貰えないだろうか。ここで僕が検分していれば誰も二階には上がれない」
集められた酒や肴の安全確認が出来るのはマリアンヌとフレンだけだ。早めに大広間に行ってもらわねば仲間達の恨みを買う。ローレンツはマリアンヌが外すのを手伝ってくれた籠手と槍を傍に置き階段に座り込んで建前や形式を守るために書類を眺めていたがそれでも興味深く夢中になってしまった。
「よ、ローレンツ先生。ガルグ=マクに戻るまで我慢できなかったのか?」
上段から声をかけてきたクロードの顔は逆光でよく見えないがひどく機嫌の良さそうな声をしている。我慢できなかったのはどちらなのだと少し腹の立ったローレンツはズボンの隠しから手巾を取り出しさっさと階段を降りて逃げようとしているクロードに渡した。彼はこの階段を無人にするために逃げようとしている。クロードが逃げればローレンツは追いかけざるを得ない。きっと後から時間差をつけてヒルダが降りてくるのだ。
「人前に出る前にこれで顔を拭け」
クロードは頬を、続けて口元を拭い自分で手巾を確かめている。自白したも同然のクロードは軽く首を横に振り舌打ちをした。
「ローレンツって他人のこと、そういう嵌め方するんだな!」
ローレンツは引ったくるようにして手巾をクロードから取り返した。五年前マリアンヌから貰った手巾に口紅の跡は残っていない。当然だろう。ヒルダに化粧直しなどする時間はなかったからだ。
「言っておくが君たちが二人きりになったことに最初に気付いたのはマリアンヌさんだからな?!」
ローレンツの言葉を聞いたクロードは呻き声をあげている。傍を通りかかってしまったマリアンヌのためにも軍規のためにもどうか二人の立てた物音が話し声だけでありますようにと願いながら書類を半分クロードに持たせた。畳む
#クロヒル
#ロレマリ
15.A(side:L)
ローレンツはベレトと共に中庭で茶会をしていた。竪琴の節から花冠の節にかけて咲く花は美しくグロンダーズで見た嫌な景色が上書きされていくかのようだ。野宿でも天蓋付きの寝台で寝ているように寛いで眠り野草を楽しんで食べるような強さを持つ恩師がローレンツの取り寄せた茶菓子に舌鼓を打っている。
「クロードとヒルダを二人一緒にしておくと俺の考えることが減って便利だな。お陰でローレンツと二人、こうしてのんびり過ごすことができる」
メリセウス要塞に入り込む計略を考えるクロードとヒルダは互いを補い合っていた。ただしその後、援軍として派遣されそうな帝国の将は誰なのか考えてくれと頼まれたフェルディナントとリンハルトは苦労したらしい。主にフェルディナントが。
「ご相伴にあずかれて光栄だよ。僕といえども気晴らしは必要だ」
アッシュ、メルセデス、イングリットが失ったもののことを思うと気晴らしに騎士物語や戦記物を読む気にもなれなかった。ファーガス王国は完全に崩壊している。
「気晴らしと言えばクロードが子供の頃に聞かされた御伽話が結構面白くて気晴らしになるらしい」
「らしい、とは?」
「俺は聞いたことがない。だが先日、ヒルダが感動して泣いたと言っていた」
クロードの話でそんなに心動かされるのはおそらくヒルダだけだ。二人は学生の頃から子犬のように戯れあっていたのでつまりはそういうことだろう。
「きっと僕が聞いたら苛々するだけだな」
「ローレンツにはフェルディナントの話をよく聞いてやって欲しい。きっと色々と聞いて欲しい話があるはずだ」
帝国の大貴族たちは領地と帝都の上屋敷を行き来して育つのでフェルディナントとリンハルトはアンヴァルに詳しい。メリセウス要塞攻略後のことを見据えるならば二人の話が今後大きく役に立つはずだ。
「それと間違えないで欲しいんだが……」
「何をだろうか?」
「何かを聞き出して欲しいわけではない。ただフェルディナントの話を聞いてやって欲しいんだ。絶対に必要だから」
若草色の瞳がじっとローレンツを見つめていた。ローレンツは一生、ベレトには敵わない気がする。
帝都アンヴァルを攻める拠点にするためメリセウス要塞は絶対に手に入れねばならない。可能なら設備をなるべく傷つけず備蓄してある物資も込みで、とベレトは述べた。
「これまで通りクロードから現場の裁量は全て任されているので従って欲しい」
ローレンツたちは同盟軍に攻撃されメリセウス要塞へ逃げ込もうとする帝国軍のふりをする直前、最後の打ち合わせをしている。
「こんな時にクロードがいないとは」
「あはは、確かにクロードくん一番演技がうまいもんねえ」
グロンダーズでもやっていたがクロードは敵兵を誘い出すため逃げ遅れたふりをするのが上手い。ここで大将首を取って形勢を一気に逆転したいという追い詰められた敵兵の欲望をとことん煽るのだ。ローレンツは何度見ても学生時代、ヒルダ相手に上空で軽業を披露している姿を見た時と同じく血の気が引いてしまう。
「だがクロードも今回は本気だ。フェルディナントもリンハルトも本気を出すように」
「先生、そうは言ってもやはり人選が倒錯しているような気がするのだが……」
今回フェルディナントはメリセウス要塞の中には入らない。ローレンツたちを要塞へ追い込む追手の同盟軍役をする。
「最後にもう一度言っておく。設備と物資目当ての作戦だ。雑兵に構わず司令官を目指す」
死神騎士を人質にすれば残りの兵たちは交渉の場に参加せざるを得ない。捕縛が叶わず殺害してしまった場合は代行を務める将を捕らえて再び交渉をする。敵兵を全滅させるより遥かに効率が良い。
ヒルダが考案しクロードが整えた作戦通りローレンツたちはメリセウス要塞の内部に侵入することができた。初めて入り込む老将軍はいかにも堅牢で正攻法で陥落させるには三倍どころのか五倍は兵が必要になっただろう。
「フェルディナントくんの本気、すごかったね」
「クロードの本気が同じくらい凄まじいことを願おう」
ローレンツとヒルダはお互いささやかな回復魔法を掛け合った。これからあの死神騎士と戦うのでフレンやマリアンヌの回復魔法を無駄遣いするわけにいかない。マリアンヌは申し訳なさそうにローレンツたちに小さく頭を下げた。
「ヒルダ、クロードを探して必ず一度本隊と合流するように伝えてくれ。合流と移動が最優先でその為の戦闘ならば許可するがそれ以外は許可しない」
「それならカスパルくんとは戦わずに済みそう……」
斥候の報告によるとカスパルもメリセウス要塞に来ているらしい。フェルディナントとリンハルトを要塞内部に潜入する部隊に入れていないのはベレトの温情であり同盟の諸侯たちへの気遣いだ。
「気になるだろうが無視してクロードとの合流を優先してほしい」
それくらいやらねば死神騎士を捕縛出来ないとベレトは判断している。ヒルダは珍しく緊張した面持ちでベレトの言葉に頷いた。
死神騎士を直接攻撃するベレト、リシテア、イグナーツ、ラファエルを攻撃させないためにローレンツとレオニーが増援と彼らの間に立ちはだかったが倒しても倒しても兵が減ってくれない。ローレンツは先にレオニーを輸送隊に武器を取りに行かせた。手元にはもう手槍しか残っていない。ダークスパイクΤが死神騎士を直撃し手応えを感じたリシテアが今です!と叫んだと同時に気の利くレオニーがローレンツの分も新しい槍を持ってきてくれると信じ最後の手槍を投擲した。死にかけでもなければ捕縛などできない。いつの間にか合流したクロードが死神騎士の動きを封じる為に肘を狙ったが躱されてしまう。
「くそ!外したか!魔獣の方がよっぽど当てやすい!!」
魔獣の分厚い毛皮に突き刺さるほどの強さで矢を放てる者にしか言えない台詞だ。
「殺したければ追ってこい。そろそろ刻限だ……」
「何か隠してやがるな……相手の言うとおりに動くのは癪だが、仕方ない。追うぞ!」
クロードの命令に従い皆一斉に死神騎士を追いかける。入り込む時はあれほど苦労した要塞を出ていくのは簡単だった。どうやってまた戻るのか、この後どうするのか考えねばならないことだらけだったがそんな焦りや困惑は突如、空から落ちてきた光の杭のせいで消え失せた。帝都アンヴァル攻略のため奪取しようとしていた要塞が全壊している。中に残っていた帝国軍の将兵たちがどうなったのか全く分からない。カスパルは遺体すら見つからないのかもしれない。そんな有様だというのにクロードは目の前の光景に夢中になって考え事を始めてしまった。
「ちょっと、悩んでる場合じゃないよー!また光の杭が降ってきたら死んじゃうよ!」
逃げようとしないクロードに痺れを切らしたヒルダが逃げるようにうながす。あんなものが再び降ってきたらどんな風に抗えば良いのだろうか。クロードが言う通りこんな途轍もない攻撃方法があるならなぜ今まで使われなかったのか。疑問は尽きない。その一方でローレンツもそしておそらくヒルダもメリセウス要塞を消し去った光の杭ですら消しさることが出来ない疑問をクロードに対して持ちはじめた。
「クロード、君には聞きたいことがあるが、まずは撤収を急がねばなるまい」
しかしミルディンへ退却することの方が先だった。ミルディンならば光の杭が落ちてこない、とは断言できないのだが。
命からがら逃げかえったミルディンでローレンツはクロードをかなり厳しく追及してしまった。この拒絶ぶりを予想できていたからリーガン公オズワルドはクロードの出自を徹底的に隠したのだろう。士官学校で一年を共に過ごし五年の時を経て共に戦いグロンダーズで勝利したローレンツとヒルダですらクロードに対する戸惑いと苛立ちを隠せない。
ヒルダは途中で戸惑いながらも譲歩していたがジュディッドにたしなめられたことからも分かる通りローレンツは明らかに言いすぎたのだ。入浴後、先日は屍山血河といった有様だったアミッド大河を眺めながらローレンツはため息をついた。ガルグ=マクに戻ってもここミルディンでも割り当てられた部屋がクロードの隣なのだ。いずれわだかまりなく話せる日が来ると分かっていても今日は気まずい。石造りの欄干に肘をかけたローレンツは下流を眺めている。視線の先にヒルダの故郷がありもっと先にはクロードの故郷がある。縁があったと婉曲表現を使っていたがクロードはパルミラで育ったのだ。そうでなければ諸侯たちやヒューベルトがクロードの正確な出自に辿り着けないわけがない。
「ローレンツさん」
振り向くと負傷者の治療を終えて砦に戻ってきたマリアンヌがいた。治療中、前掛けはしていたようでそこだけは怪我人の血はついていないがあとはどこもかしこも乾いた血がこびりついている。彼女が戦場で必死で重傷者の救護にあたった証拠だ。きっとこれから入浴するのだろう。小脇に荷物を抱えている。
「マリアンヌさん」
「これは私の血ではないので……」
ローレンツが心配そうに自分を頭のてっぺんから下まで眺めていることに気付いたマリアンヌが取り繕うように笑った。乾いて茶色くなった血が袖や裾にべっとりこびりついていようと彼女の笑顔は美しい。
「ローレンツさんこそ大丈夫ですか?」
「何がだろうか?幸い大した怪我を負うこともなくこうしてミルディンに戻れたが」
「クロードさんのことです」
「お恥ずかしながら僕とやつの言い争いなど珍しくもないはずだが……」
マリアンヌはそっとローレンツの隣に立ちローレンツと同じものを見た。下流にはヒルダの出身地であるゴネリル領、それにクロードの故郷パルミラがある。彼女は何を思うのだろうか。
「私にはローレンツさんがとても悲しそうに見えます」
そう語るマリアンヌの方こそ悲しそうだった。お前らは俺が嫌いに決まっている、だから世界を変えに来たんだといきなり宣言されても戸惑うだけだ。このローレンツ=ヘルマン=グロスタールを凡百どもと同じ枠に入れお前から嫌われるのが怖かったから言えなかった、と告白されても腹立たしいだけだった。
「いや全ては僕の不徳の致すところだ。驚いてあんな風に反発してしまったから結果としてクロードの主張が正しくなってしまったな」
雰囲気を変えたくて少しふざけてみたがマリアンヌがローレンツの冗談に気付いているのか無視しているのかが読み取れない。だがマリアンヌの指摘通りローレンツは悲しみを感じたのかもしれなかった。
「ガルグ=マクに戻ったらお二人のために聖典を最初から全て読み返してみます」
一千年の歴史を誇るセイロス教の聖典は正典と外典それに詩篇の三つからなる。礼拝の際に読み上げられるのは正典が殆どだ。マリアンヌはクロードの本当に反するのか、と言う発言が正しいかどうか確かめようとしている。
「膨大な量だ。マリアンヌさん一人ですることはない。僕も読もう。正典から始めるとして奇数の章はマリアンヌさんが偶数の章は僕が担当すると言うのはどうだろうか?」
全て合わせると六十六章あるので読む量は二人とも全く同じになる。マリアンヌはローレンツの提案を喜んで受け入れてくれた。
ミルディンから帝都アンヴァルまでの補給線を確保するのに散々苦労したがそれにも目処がついた。担当していたヒルダとフェルディナントが頑張ったおかげで想定していたより遥かに早く進軍が開始できる。ローレンツは二人を労うために茶会を開いていた。アンヴァルを陥落させれば長きに渡った戦乱もこれで終わりを告げるだろう。手持ちの茶葉を使い切ることに躊躇はなかった。
「だって帝国軍が態勢を整える前に進軍したいってクロードくんが言ってたから〜!」
ヒルダが先ほどからずっとクロードの話ばかりしているのでフェルディナントが眉尻を下げ声を出さずに笑っている。ローレンツも同じ気持ちだった。彼女は出来るのにやらない、とずっと言われていた。この心境の変化は実に喜ばしい。
「クロードもヒルダさんが奴の希望を叶えるために東奔西走していたことを知ればきっと喜ぶだろう」
そうだと良いんだけど、と言ってヒルダは照れ臭そうに笑っている。フォドラ最古にして最大の都市に攻め込む前の細やかな憩いのひと時だった。
ヒューベルトはクロードの倫理観を信頼しているらしい。ミルディンから帝都アンヴァルまでの街道はこちらの物資を狙った野盗は出るもののそれ以外は不自然なほどに無防備で不気味だった。
「斥候はいるんだろうが軍装を解かれると正直言ってこちらには見分けがつかん」
「でもクロードくん、この段階で今更大胆に方針を変えちゃおう、なんてことはもうお互いに出来ないでしょ?」
迎撃しやすいように先方がわざと開けた穴から侵入して罠を食い破りエーデルガルトを目指す以外に新生軍には勝ち目がない。正攻法で戦って打ち破るために必要な兵や物資を用意する間に向こうは占領したファーガスを更に搾り上げて更に軍備を増強するだろうしこちらの開戦準備の妨害もするはずだ。クロードがヒルダの言葉に頷く。
それまで散々皆で議論を尽くしていたせいかアンヴァルに最も近い宿場町で行った最後の軍議はかなり短く終わった。一度突入してしまえばエーデルガルトを倒さなければ出られないということは皆分かっていたからだ。
帝都アンヴァルはセイロス教の開祖セイロスが教えを説き始めたセイロス教にとっての聖地でもある。帝国軍の優秀な工兵たちはその聖地を躊躇せずに破壊し街中を砲台だらけにしていた。開戦前の帝都アンヴァルをよく知るフェルディナントとリンハルトは苦虫を噛み潰したような顔をしている。迎撃用の魔獣が闊歩する街中はクロードが腕を振り下ろす前から既に破壊されていた。自然に発生する魔獣と違い帝国軍が使役する特有の魔獣が何で出来ているのか新生軍の者たちは皆知っている。
「私とエーデルガルトはそりが合わなかったがそれでも私ならエーデルガルトの名でこんなことはしない」
辛そうなフェルディナントを慰める言葉をローレンツは持っていない。この後本格的な戦闘が開始されれば街は瓦礫の山と化す。
本隊を率いるベレトが死神騎士を倒しローレンツたちがヒューベルトを倒したらそこままエーデルガルトが籠城している宮城へ攻め込むことになっている。エーデルガルトはヒューベルトの信頼や忠誠に応えるため自らを新生軍を引き寄せる餌にしていた。
「早急に終わらせてしまおう。長引かせては市街地への影響が出るばかりだ」
ローレンツの言葉を聞いたフェルディナントは投石機や砲台だらけの街を迷うことなく駆けていった。魔法に弱いフェルディナントだが魔法職の者の胸元に入ってしまえばあとは腕力の問題になる。ローレンツはフェルディナントにマジックシールドをかけてやるため彼の後を追いかけた。
こちらもあちらも命懸けの大将戦は辛うじて新生軍の勝利に終わった。ドゥドゥが宮城の構造について教えてくれたおかげなのか、教えてくれたせいなのかクロードとヒルダは酷い目にあっている。鍵で施錠された空間にリシテアのワープでベレトと三人揃って放り出されエーデルガルトと直接対決する羽目になったからだ。
ベレトは平然とした顔で追いついてくれた後続部隊の者にあれやこれやと指示を出しているがクロードもヒルダもフェイルノートとフライクーゲルに縋り付かねば立っていられない。兵士たちの手前、倒れたり座り込んだりするわけにはいかないが足も腕も限界を迎えつつある。
「きょうだい、いくらなんでも無茶がすぎる……」
「死んじゃうかと思った……」
鍵を開けつつ徒歩で移動していたため玉座の間への到着が遅れたマリアンヌが安堵の涙を流しながらヒルダとクロードに回復魔法をかけていた。たまたま後続の部隊に配置されただけのイグナーツとアッシュも顔を真っ青にしている。二人ともハンターボレーが使えるのでドロテアやペトラ相手にクロードと同じことをやらされていたがエーデルガルトは格が違う。
「残敵の掃討とレアの捜索をするついでにこの宮城にある書類を全て持ち帰る。暖炉の中の燃えさしも回収してくれ」
実は皆、事がここに至るまで何故エーデルガルトが戦端を開いたのか分かっていない。確かに宣戦布告はあったが誰もあれが真の理由だと思っていなかった。マリアンヌのおかげで支えなしに立てるようになったクロードが手を叩く。
「もう一踏ん張りだ。皆、頑張ってレアさんと書類を探して欲しい。誤解を避けるため宝物には触れないように。だがこれだけ迷惑をかけられたんだ。エーデルガルトから酒くらいは奢ってもらっても良いだろう」
「あの……こういうところですので毒や呪いがかかっている可能性もありますから……」
宮廷内の権力争いのことを思えばマリアンヌの発言は至極真っ当だった。勝ったその日に毒入りの酒を飲んで死んでしまったら死んでも死にきれないだろう。
「確かすっごい大きな広間があったよね!じゃあそこに皆で持ち寄って飲んでも平気か確かめようよ!」
ヒルダの提案どおり晩餐会用の大広間に書類と酒や食糧を集めることになった。散開し本来の主が失せた巨大な宮城の中を歩いているとこれが現実なのか夢なのか分からなくなってくる。大司教であるレアと書類を探さねばならないのだがローレンツの足は地下の貯蔵庫を目指していた。酒蔵は大抵、気温が低く安定している地下にあるものだ。歴史の古いこの宮城ならばレスター諸侯同盟が出来た頃の葡萄酒も酒蔵に置いてあるかもしれない。長い廊下に敷かれた絨毯がローレンツの靴底の血を拭き取っていく。彷徨い歩いているうちにようやく二階にも地下にも繋がる階段を見つけた。欲望の赴くままに地下に降りるか名目を保つために一応、二階の部屋を漁るかローレンツが考えていると上から足音が聞こえてきた。それなら階段を上らざるを得ない。踊り場に差し掛かると慌てた様子のマリアンヌから声をかけられた。
「ローレンツさん!あの、ええと……」
「マリアンヌさん、どうしたのだ?!」
マリアンヌは治療以外では人との間に距離を保つというのに持っていた書類を床に置くと慌てて手を上に伸ばしローレンツの口を塞いだ。とにかくローレンツに声をひそめて欲しいということは充分伝わったので一旦離れて口を閉じ内緒話がしやすいように首を傾ける。律儀なマリアンヌがローレンツの耳元に口を寄せた。
「ここの二階には行かないでください!あの、その、ヒルダさんとクロードさんが二人きりでいるので……」
代々国境をパルミラから守ってきた一族の娘であるヒルダと明言はしなかったがパルミラの血を引くであろうクロードには話し合わねばならないことが山ほどある。きっと両国の口さがない者たちは受け継いだ伝統を蔑ろにして敵国の者と愛を育むのか、と二人に言いたてるだろう。そんな連中を黙らせるには二人の絆が何よりも重要になる。
「繋がっている階段はここだけだろうか?」
「隠し部屋の類がなければおそらくは……」
「では書類を置いていって貰えないだろうか。ここで僕が検分していれば誰も二階には上がれない」
集められた酒や肴の安全確認が出来るのはマリアンヌとフレンだけだ。早めに大広間に行ってもらわねば仲間達の恨みを買う。ローレンツはマリアンヌが外すのを手伝ってくれた籠手と槍を傍に置き階段に座り込んで建前や形式を守るために書類を眺めていたがそれでも興味深く夢中になってしまった。
「よ、ローレンツ先生。ガルグ=マクに戻るまで我慢できなかったのか?」
上段から声をかけてきたクロードの顔は逆光でよく見えないがひどく機嫌の良さそうな声をしている。我慢できなかったのはどちらなのだと少し腹の立ったローレンツはズボンの隠しから手巾を取り出しさっさと階段を降りて逃げようとしているクロードに渡した。彼はこの階段を無人にするために逃げようとしている。クロードが逃げればローレンツは追いかけざるを得ない。きっと後から時間差をつけてヒルダが降りてくるのだ。
「人前に出る前にこれで顔を拭け」
クロードは頬を、続けて口元を拭い自分で手巾を確かめている。自白したも同然のクロードは軽く首を横に振り舌打ちをした。
「ローレンツって他人のこと、そういう嵌め方するんだな!」
ローレンツは引ったくるようにして手巾をクロードから取り返した。五年前マリアンヌから貰った手巾に口紅の跡は残っていない。当然だろう。ヒルダに化粧直しなどする時間はなかったからだ。
「言っておくが君たちが二人きりになったことに最初に気付いたのはマリアンヌさんだからな?!」
ローレンツの言葉を聞いたクロードは呻き声をあげている。傍を通りかかってしまったマリアンヌのためにも軍規のためにもどうか二人の立てた物音が話し声だけでありますようにと願いながら書類を半分クロードに持たせた。畳む
#かのひとはうつくしく
#クロヒル
#ロレマリ
16.A(side:H)
ヒューベルトが生前に残した手紙の件でクロードをはじめ調べ物が苦ではない者たちは書庫に籠ったりレアに話を聞きに行ったりと忙しそうだ。マリアンヌもローレンツも夜更けまでずっと何かを読んでいる。物資の調達を担当するヒルダはその集団に加わっていないがこの先の未来のために絶対に必要な調べ物なのだ、とマリアンヌもローレンツも言っていた。闇に蠢く者たちはガルグ=マクには光の杭を落とせないがそれもレアが存命であればという条件付きらしい。クロードたちはフォドラ統一後のことだけでなく既に五年間帝国軍に捕らえられ弱ったレアの死後についても考え始めていた。
アンヴァルでのクロードの告白にヒルダは驚かされた。やるかやらないかそのどちらかしかない、と学びながら育ったクロードは自分自身を肯定するためにフォドラ全土を引っ掻き回したことになる。ファーガス神聖王国とアドラステア帝国が滅亡しレスター諸侯同盟の在り方も変化していく。その前にヒルダに色々と伝えておきたかったようだ。疎まれるのが恐ろしくて出自について中々皆に言えなかった、というクロードの発想や心の中に根付く恐怖はマリアンヌとも重なる。クロードはヒルダの前でだけ気を失いヒルダの前でだけ震えていた。震えていたことに気づいたのは最後、抱きしめてやった時だったが。
「やだ、エーデルガルトちゃんより私の方が怖いってこと?」
そう言ってふざけてみたものの五年間持ち越された理由はヒルダにも納得できるものだった。だから統一国家の王にもならない、ではなく王にはなれないのだとクロードは言う。確かに大司教レアの代理を務めるフォドラ人のベレトこそが王には相応しい。
「そうだな、怖いよ。嫌いなやつに嫌われるのなんかどうでもいいがヒルダは違う」
「我らが盟主様がそんな顔しないでよ」
「道半ばではあるんだがようやくここまで来たんだ。今更自分のことを嫌いになりたくない」
あの時ヒルダが爪先立ちになったのはクロードが泣きそうな顔をしていたからだ。あんな顔を見せられて拒めるはずがない。いつも好奇心で輝いている緑の瞳があの時ばかりは潤んでいた。クロードは両親のことを誇らしく思っているがそれでも社会情勢の影響は受ける。自己否定や自己嫌悪に苛まれ苦しんだ結果クロードには掲げざるをえなかった理想があってそれを他者から壊されないように心にしまいこんで大切にしてきた。
「頼りない盟主様の隣にはやっぱり私がいないとね!」
ヒルダもそれを大切にしてやりたいと思う。クロードが好きだからだ。きっと口さがない者たちが嘲笑するだろうがクロードの理想を空虚だと嘯き現実に屈服する者たちよりも夢を見る力がある者の方が素晴らしいのだ。
近々、光の杭が打てるような恐ろしい敵の元へ行くと言うのにあの時の少し幼げなクロードの表情を思い出すとヒルダは自然と微笑んでしまう。ヒルダの機嫌が良いと動物たちにもそれが伝わるようだ。ペガサスの羽根をそっと整え指で一つずつ塵を取り除いてやると嬉しそうに鼻をヒルダの頬に押し付けてきた。馬と同じく鼻先が温かく柔らかくて気持ちがいい。
「あ、珍しくヒルダが仕事してる」
ペガサスの厩舎を掃除しにやってきたツィリルがペガサスの手入れをしているヒルダを見て思わず呟いた。かつてヒルダはツィリルからパルミラではこんな怠け者を見たことがない、と言われている。ゴネリル領の実家にいた頃は更にひどくツィリルが使用人であったことすらヒルダは知らなかった。
「マリアンヌちゃんに頼まれたのよ。手入れする人の機嫌が大事だから変わってほしいって」
ヒルダが上機嫌な一方でマリアンヌはやはり塞いでいる。ヒルダには教えたくないと言う秘密を近々ローレンツに教えるつもりだからだ。
「そうなんだ、マリアンヌって無口だけど真面目でどんな動物もあの人に面倒みられるのが好きなのにどうしたんだろ?」
「おうちのことでいろいろあるみたい」
「そうなんだ、一緒に食事でもしてあげなよ」
勿論そのつもりだ、とヒルダは答えた。ツィリルに信頼されているマリアンヌがヒルダは誇らしい。気になるのはマリアンヌの告白に対してローレンツがどう反応するのか、だった。ヒルダにすら言えないようなことならばきっと彼女の秘密はグロスタール家にも悪い影響を及ぼす。ローレンツは将来の奥方のためマリアンヌとの付き合いを季節の挨拶程度にするのか?これからもせめて生涯に渡って良き友であってほしい、と言うのだろうか?ヒルダが聞いて一番小気味良いであろう答えはそんなことは全く気にしない、だ。しかしエドマンド辺境伯ですら解決出来ず金を積んで隠蔽しているような問題をローレンツ個人の心意気でなんとか出来るとは思えない。
備品の場所も知らないのか、と学生時代はツィリルから叱られていたヒルダだが使っていた桶を元に戻し厩舎を去った。食事に行く前に部屋で身体を拭いて藁だらけになった服を着替えたいからだ。クロードとローレンツのようにヒルダとマリアンヌは学生時代と同じ部屋を使っている。隣同士で何かと面倒が見やすくて便利だ。
「そろそろ食事に行かない?」
身支度を終えたヒルダが部屋の扉を叩くと中で椅子を引いて立ち上がる音がした。廊下に出てきたマリアンヌは手に本を持っている。ローレンツに貸す約束をしているのだと言う。食堂に行く前に渡してしまおうとマリアンヌが扉を叩いて声をかけるとローレンツが出てきて大喜びで本を受け取った。かつては修道院の書庫にもあったがどうやら二十年前の大火で焼けてしまった本らしい。
食堂に着くとヒルダはマリアンヌとローレンツが向かい合わせになるように座らせて自分はマリアンヌの隣に座った。いつもなら何も話さずただ幸せそうに相手をちらちら見ながら食事をする二人だが今日は話題がある。きっとマリアンヌの隣で食事をとりながらローレンツを観察しても不自然にはならない。ヒルダは観察していることを悟られないように全く興味はなかったが先ほどの本について二人に質問した。
ヒューベルトの残した資料によると闇に蠢く者たちの本拠地はゴネリル領の近くにある。彼らがシャンバラと呼んでいるそこへ向かう前に近くの砦で休息を取っていた。ここで一晩過ごし朝になれば戦場に向かう。
「ヒルダさんやゴネリル家には手間をとらせてしまったが首飾りに配置される兵のふりをして近づくことが出来て助かったな」
ローレンツの言葉を聞いたマリアンヌが頷いた。首飾りに向かう兵を攻撃すれば自身の存在が宿願を果たす前に明るみに出てしまう。神話のような時代から復讐の機会を望んでセイロス教関係者から隠れてきた彼らには耐えがたいはずだ。
「討ち漏らしたらゴネリル家の負担が増えちゃう!」
「そうそう、だからヒルダは引き続き本気出してくれよな」
クロードがそう言ってヒルダを揶揄うと周りの皆が釣られて笑った。この戦いが終わればクロードはおそらくフォドラを去る。迎えに来るのを待つのか自分から行くのかヒルダは決めねばならない。そしてクロードはヒルダの父ゴネリル公と兄ホルストを納得させなければならない。
その晩、この砦に泊まる際にはいつも使っている部屋でクロードのお粗末なサイレスがそれなりに役に立つようなことをしたヒルダはクロードが襯衣の下に首飾りをしていることを初めて知った。喉元に視線が注がれていると気づいたクロードが首の後ろに手を回す。
「死んだ叔父さんの形見だ。五年前は付けないで上着の隠しに入れて持ち歩いてたんだが失くしちまってな。マリアンヌに見つけて貰って以来失くさないように服の下に着けてたんだ」
白い掌にそっと乗せられた首飾りは三日月と鹿の顔をかたどっており緑の瞳の者が多いリーガン家に相応しく鹿の顔が丸ごと翠玉で出来ていた。金細工で出来た顔の輪郭や角や顔を囲む三日月もよく出来ている。おそらくリーガン家の嫡子が代々受け継いできた逸品だ。
「はぁ……私の知らないことばっかり」
「お、もう声が出せるのか。俺やっぱり魔法の才能ないなあ」
クロードから差し出された杯の水は先ほど身体を拭いた時と同様に生ぬるいが喉は潤すことが出来る。行軍への影響を考えてクロードには踏みとどまって貰ったがそれでも汗だくだし声は消せても喉は渇く。
「こんないい物持ってるなら見えるようにつければいいのに」
「う、故郷の風習がらみでそれはちょっとな……独り身の男はつけないんだよ」
フォドラ暮らしも長いと言うのにクロードにはまだ受け入れ難い習慣があるらしい。
「クロードくん、秘密があるってどんな気分なの?」
「誰にだって隠しごとのひとつやふたつあるだろ?ヒルダだって今晩のことは家族に隠すだろうし」
ヒルダは既にこの砦に元から置いておいた寝巻きを身に付けているが傍で伸びをするクロードはまだ暑いのか下穿きしか身に付けていない。褐色の身体には随分と傷跡が増えた。
「……私に話してクロードくんは楽にはなったの?」
「うーん……俺は元々俺の半分を恥じてた訳じゃあないからなあ……。あ、マリアンヌか!」
片方の血を恥じろと言われるのが嫌でフォドラ中を引っかきまわしたクロードは近々、自分の故郷を引っかきまわしに戻るのだろう。新生軍の幹部たちは皆クロードの出身地について知っているが現時点でクロードの出自について知っているのはおそらくヒルダだけだ。そしてどうやらクロードはクロードでマリアンヌのことを案じていたらしい。確かに同じく秘密を隠しながら学生生活を送った仲間でもある。
「自分から遠ざかってもらうために近々ローレンツくんに秘密を打ち明けるって……」
ヒルダは背中から抱きついてクロードに首飾りをつけてやりながらマリアンヌの計画について話した。クロードは背後から聞こえるヒルダの浮かぬ声でマリアンヌの秘密がどんな物であるか彼なりに察したらしい。
「それ、絶対に上手くいかないと思うぞ」
学生時代のローレンツがクロードに直接、気に食わないだの正体を暴くだのと宣言しながらしつこくまとわりついていた姿は強烈でヒルダも覚えている。そして今思えば彼はある意味真実に到達していた。
「う、確かにローレンツくんって割り切り方が独特だわ」
「俺はあいつの普通じゃあないところに期待するね」
猜疑心の塊、を自称していた割にクロードはローレンツを信頼しているらしい。前衛と後衛で組まされることが多い分クロードはヒルダの知らないローレンツの顔を知っているのだろう。友人を信頼するクロードの姿勢は美しい、とヒルダは思った。
「私もクロードくんが誰にも見られないで自分の部屋に戻れるって期待してるからね」
ちなみにクロードに割り当てられた部屋は当然ローレンツの隣で体調不良を押してこの戦いに加わろうとしている大司教レアの寝室と同じ階だ。
シャンバラと呼ばれる敵の本拠地はとにかく広大な地下空間で今まで誰もその存在に気づいていなかったと言う事実が地元の人間であるヒルダにとっては何よりも恐ろしい。それに加えてイグナーツもこの空間で使われている装飾はこれまで見たことがないものだ、と言っていた。リシテアの言う通り遥か昔の遺跡のようであるのに誰かが使っているせいか生活感があり気味が悪い。
いくつかの部屋に分かれている内部は絡繰仕掛けの魔獣のような何か、としか言いようのないものが密集している。幸い魔法が良く効くのでリシテアとローレンツが扉の向こうから黒魔法を放って攻撃していた。
「どんな罠がはられているか分からないから慎重に行こう」
シャンバラに突入する寸前ベレトから言われた言葉にヒルダもクロードも耳を疑った。アンヴァルではベレトの立案した作戦が短期決戦型だったせいで二人揃って本当に酷い目に遭っている。
慎重に中を確かめながら進み最後に残った真ん中の部屋に首魁と呼ぶべき者がいた。ヒルダが直接調べたわけではないがベレトがアンヴァルからガルグ=マクへ持ち帰らせた膨大な資料によると彼らがダスカーの乱と七貴族の変を起こしクロードの叔父一家を殺害しルミール村で惨劇を起こした。彼らのせいで人生が狂った者は数多く存在する。死者への手向けになると信じてヒルダもローレンツも必死になって斧と槍を振るいベレトとクロードの露払いをした。クロードがタレス相手に減らず口を叩く姿を見たかったしベレトのふるう天帝の剣がタレスに届くと知っていたからだ。畳む
#クロヒル
#ロレマリ
16.A(side:H)
ヒューベルトが生前に残した手紙の件でクロードをはじめ調べ物が苦ではない者たちは書庫に籠ったりレアに話を聞きに行ったりと忙しそうだ。マリアンヌもローレンツも夜更けまでずっと何かを読んでいる。物資の調達を担当するヒルダはその集団に加わっていないがこの先の未来のために絶対に必要な調べ物なのだ、とマリアンヌもローレンツも言っていた。闇に蠢く者たちはガルグ=マクには光の杭を落とせないがそれもレアが存命であればという条件付きらしい。クロードたちはフォドラ統一後のことだけでなく既に五年間帝国軍に捕らえられ弱ったレアの死後についても考え始めていた。
アンヴァルでのクロードの告白にヒルダは驚かされた。やるかやらないかそのどちらかしかない、と学びながら育ったクロードは自分自身を肯定するためにフォドラ全土を引っ掻き回したことになる。ファーガス神聖王国とアドラステア帝国が滅亡しレスター諸侯同盟の在り方も変化していく。その前にヒルダに色々と伝えておきたかったようだ。疎まれるのが恐ろしくて出自について中々皆に言えなかった、というクロードの発想や心の中に根付く恐怖はマリアンヌとも重なる。クロードはヒルダの前でだけ気を失いヒルダの前でだけ震えていた。震えていたことに気づいたのは最後、抱きしめてやった時だったが。
「やだ、エーデルガルトちゃんより私の方が怖いってこと?」
そう言ってふざけてみたものの五年間持ち越された理由はヒルダにも納得できるものだった。だから統一国家の王にもならない、ではなく王にはなれないのだとクロードは言う。確かに大司教レアの代理を務めるフォドラ人のベレトこそが王には相応しい。
「そうだな、怖いよ。嫌いなやつに嫌われるのなんかどうでもいいがヒルダは違う」
「我らが盟主様がそんな顔しないでよ」
「道半ばではあるんだがようやくここまで来たんだ。今更自分のことを嫌いになりたくない」
あの時ヒルダが爪先立ちになったのはクロードが泣きそうな顔をしていたからだ。あんな顔を見せられて拒めるはずがない。いつも好奇心で輝いている緑の瞳があの時ばかりは潤んでいた。クロードは両親のことを誇らしく思っているがそれでも社会情勢の影響は受ける。自己否定や自己嫌悪に苛まれ苦しんだ結果クロードには掲げざるをえなかった理想があってそれを他者から壊されないように心にしまいこんで大切にしてきた。
「頼りない盟主様の隣にはやっぱり私がいないとね!」
ヒルダもそれを大切にしてやりたいと思う。クロードが好きだからだ。きっと口さがない者たちが嘲笑するだろうがクロードの理想を空虚だと嘯き現実に屈服する者たちよりも夢を見る力がある者の方が素晴らしいのだ。
近々、光の杭が打てるような恐ろしい敵の元へ行くと言うのにあの時の少し幼げなクロードの表情を思い出すとヒルダは自然と微笑んでしまう。ヒルダの機嫌が良いと動物たちにもそれが伝わるようだ。ペガサスの羽根をそっと整え指で一つずつ塵を取り除いてやると嬉しそうに鼻をヒルダの頬に押し付けてきた。馬と同じく鼻先が温かく柔らかくて気持ちがいい。
「あ、珍しくヒルダが仕事してる」
ペガサスの厩舎を掃除しにやってきたツィリルがペガサスの手入れをしているヒルダを見て思わず呟いた。かつてヒルダはツィリルからパルミラではこんな怠け者を見たことがない、と言われている。ゴネリル領の実家にいた頃は更にひどくツィリルが使用人であったことすらヒルダは知らなかった。
「マリアンヌちゃんに頼まれたのよ。手入れする人の機嫌が大事だから変わってほしいって」
ヒルダが上機嫌な一方でマリアンヌはやはり塞いでいる。ヒルダには教えたくないと言う秘密を近々ローレンツに教えるつもりだからだ。
「そうなんだ、マリアンヌって無口だけど真面目でどんな動物もあの人に面倒みられるのが好きなのにどうしたんだろ?」
「おうちのことでいろいろあるみたい」
「そうなんだ、一緒に食事でもしてあげなよ」
勿論そのつもりだ、とヒルダは答えた。ツィリルに信頼されているマリアンヌがヒルダは誇らしい。気になるのはマリアンヌの告白に対してローレンツがどう反応するのか、だった。ヒルダにすら言えないようなことならばきっと彼女の秘密はグロスタール家にも悪い影響を及ぼす。ローレンツは将来の奥方のためマリアンヌとの付き合いを季節の挨拶程度にするのか?これからもせめて生涯に渡って良き友であってほしい、と言うのだろうか?ヒルダが聞いて一番小気味良いであろう答えはそんなことは全く気にしない、だ。しかしエドマンド辺境伯ですら解決出来ず金を積んで隠蔽しているような問題をローレンツ個人の心意気でなんとか出来るとは思えない。
備品の場所も知らないのか、と学生時代はツィリルから叱られていたヒルダだが使っていた桶を元に戻し厩舎を去った。食事に行く前に部屋で身体を拭いて藁だらけになった服を着替えたいからだ。クロードとローレンツのようにヒルダとマリアンヌは学生時代と同じ部屋を使っている。隣同士で何かと面倒が見やすくて便利だ。
「そろそろ食事に行かない?」
身支度を終えたヒルダが部屋の扉を叩くと中で椅子を引いて立ち上がる音がした。廊下に出てきたマリアンヌは手に本を持っている。ローレンツに貸す約束をしているのだと言う。食堂に行く前に渡してしまおうとマリアンヌが扉を叩いて声をかけるとローレンツが出てきて大喜びで本を受け取った。かつては修道院の書庫にもあったがどうやら二十年前の大火で焼けてしまった本らしい。
食堂に着くとヒルダはマリアンヌとローレンツが向かい合わせになるように座らせて自分はマリアンヌの隣に座った。いつもなら何も話さずただ幸せそうに相手をちらちら見ながら食事をする二人だが今日は話題がある。きっとマリアンヌの隣で食事をとりながらローレンツを観察しても不自然にはならない。ヒルダは観察していることを悟られないように全く興味はなかったが先ほどの本について二人に質問した。
ヒューベルトの残した資料によると闇に蠢く者たちの本拠地はゴネリル領の近くにある。彼らがシャンバラと呼んでいるそこへ向かう前に近くの砦で休息を取っていた。ここで一晩過ごし朝になれば戦場に向かう。
「ヒルダさんやゴネリル家には手間をとらせてしまったが首飾りに配置される兵のふりをして近づくことが出来て助かったな」
ローレンツの言葉を聞いたマリアンヌが頷いた。首飾りに向かう兵を攻撃すれば自身の存在が宿願を果たす前に明るみに出てしまう。神話のような時代から復讐の機会を望んでセイロス教関係者から隠れてきた彼らには耐えがたいはずだ。
「討ち漏らしたらゴネリル家の負担が増えちゃう!」
「そうそう、だからヒルダは引き続き本気出してくれよな」
クロードがそう言ってヒルダを揶揄うと周りの皆が釣られて笑った。この戦いが終わればクロードはおそらくフォドラを去る。迎えに来るのを待つのか自分から行くのかヒルダは決めねばならない。そしてクロードはヒルダの父ゴネリル公と兄ホルストを納得させなければならない。
その晩、この砦に泊まる際にはいつも使っている部屋でクロードのお粗末なサイレスがそれなりに役に立つようなことをしたヒルダはクロードが襯衣の下に首飾りをしていることを初めて知った。喉元に視線が注がれていると気づいたクロードが首の後ろに手を回す。
「死んだ叔父さんの形見だ。五年前は付けないで上着の隠しに入れて持ち歩いてたんだが失くしちまってな。マリアンヌに見つけて貰って以来失くさないように服の下に着けてたんだ」
白い掌にそっと乗せられた首飾りは三日月と鹿の顔をかたどっており緑の瞳の者が多いリーガン家に相応しく鹿の顔が丸ごと翠玉で出来ていた。金細工で出来た顔の輪郭や角や顔を囲む三日月もよく出来ている。おそらくリーガン家の嫡子が代々受け継いできた逸品だ。
「はぁ……私の知らないことばっかり」
「お、もう声が出せるのか。俺やっぱり魔法の才能ないなあ」
クロードから差し出された杯の水は先ほど身体を拭いた時と同様に生ぬるいが喉は潤すことが出来る。行軍への影響を考えてクロードには踏みとどまって貰ったがそれでも汗だくだし声は消せても喉は渇く。
「こんないい物持ってるなら見えるようにつければいいのに」
「う、故郷の風習がらみでそれはちょっとな……独り身の男はつけないんだよ」
フォドラ暮らしも長いと言うのにクロードにはまだ受け入れ難い習慣があるらしい。
「クロードくん、秘密があるってどんな気分なの?」
「誰にだって隠しごとのひとつやふたつあるだろ?ヒルダだって今晩のことは家族に隠すだろうし」
ヒルダは既にこの砦に元から置いておいた寝巻きを身に付けているが傍で伸びをするクロードはまだ暑いのか下穿きしか身に付けていない。褐色の身体には随分と傷跡が増えた。
「……私に話してクロードくんは楽にはなったの?」
「うーん……俺は元々俺の半分を恥じてた訳じゃあないからなあ……。あ、マリアンヌか!」
片方の血を恥じろと言われるのが嫌でフォドラ中を引っかきまわしたクロードは近々、自分の故郷を引っかきまわしに戻るのだろう。新生軍の幹部たちは皆クロードの出身地について知っているが現時点でクロードの出自について知っているのはおそらくヒルダだけだ。そしてどうやらクロードはクロードでマリアンヌのことを案じていたらしい。確かに同じく秘密を隠しながら学生生活を送った仲間でもある。
「自分から遠ざかってもらうために近々ローレンツくんに秘密を打ち明けるって……」
ヒルダは背中から抱きついてクロードに首飾りをつけてやりながらマリアンヌの計画について話した。クロードは背後から聞こえるヒルダの浮かぬ声でマリアンヌの秘密がどんな物であるか彼なりに察したらしい。
「それ、絶対に上手くいかないと思うぞ」
学生時代のローレンツがクロードに直接、気に食わないだの正体を暴くだのと宣言しながらしつこくまとわりついていた姿は強烈でヒルダも覚えている。そして今思えば彼はある意味真実に到達していた。
「う、確かにローレンツくんって割り切り方が独特だわ」
「俺はあいつの普通じゃあないところに期待するね」
猜疑心の塊、を自称していた割にクロードはローレンツを信頼しているらしい。前衛と後衛で組まされることが多い分クロードはヒルダの知らないローレンツの顔を知っているのだろう。友人を信頼するクロードの姿勢は美しい、とヒルダは思った。
「私もクロードくんが誰にも見られないで自分の部屋に戻れるって期待してるからね」
ちなみにクロードに割り当てられた部屋は当然ローレンツの隣で体調不良を押してこの戦いに加わろうとしている大司教レアの寝室と同じ階だ。
シャンバラと呼ばれる敵の本拠地はとにかく広大な地下空間で今まで誰もその存在に気づいていなかったと言う事実が地元の人間であるヒルダにとっては何よりも恐ろしい。それに加えてイグナーツもこの空間で使われている装飾はこれまで見たことがないものだ、と言っていた。リシテアの言う通り遥か昔の遺跡のようであるのに誰かが使っているせいか生活感があり気味が悪い。
いくつかの部屋に分かれている内部は絡繰仕掛けの魔獣のような何か、としか言いようのないものが密集している。幸い魔法が良く効くのでリシテアとローレンツが扉の向こうから黒魔法を放って攻撃していた。
「どんな罠がはられているか分からないから慎重に行こう」
シャンバラに突入する寸前ベレトから言われた言葉にヒルダもクロードも耳を疑った。アンヴァルではベレトの立案した作戦が短期決戦型だったせいで二人揃って本当に酷い目に遭っている。
慎重に中を確かめながら進み最後に残った真ん中の部屋に首魁と呼ぶべき者がいた。ヒルダが直接調べたわけではないがベレトがアンヴァルからガルグ=マクへ持ち帰らせた膨大な資料によると彼らがダスカーの乱と七貴族の変を起こしクロードの叔父一家を殺害しルミール村で惨劇を起こした。彼らのせいで人生が狂った者は数多く存在する。死者への手向けになると信じてヒルダもローレンツも必死になって斧と槍を振るいベレトとクロードの露払いをした。クロードがタレス相手に減らず口を叩く姿を見たかったしベレトのふるう天帝の剣がタレスに届くと知っていたからだ。畳む
#かのひとはうつくしく
#クロヒル
#ロレマリ
17.anecdote(side:L)
修道院が帝国軍に襲撃された際にローレンツも白きものを目撃した。セイロス教の瑞獣は自らの意志で人間の形を保つが人間は時と場合によって人間の形を保てなくなる。コナン塔でもルミール村でも目撃したし幾度となく撃退した帝国の魔獣のことを考えると流石にローレンツと言えども精神が揺らぐ。ローレンツは思わずマリアンヌから借りた本を手に取った。この本は修道院の書庫にもかつて置いてあったようだが二十年ほど前の大火で失われている。借りたものはかなり古びているのでおそらく元の持ち主はエドマンド辺境伯なのだろう。この詩篇の解説書は実に興味深く感銘を受けた部分はこっそり詩を綴っている帳面に書き留めてしまったほどだ。
貴重な本を貸してくれた礼としてお茶に誘うとマリアンヌはローレンツのために時間を作ってくれた。領地から取り寄せた焼き菓子や茶葉のうちマリアンヌが好きそうなものを考えるだけでもローレンツは楽しくなってしまう。近頃、彼女は何だか塞ぎがちなので気晴らしになってくれたらと思った。
アンヴァルで勝利し闇に蠢く者たちの本拠地を壊滅させガルグ=マクが盛夏を迎えつつあるようにローレンツたちの青春も終わりつつある。ローレンツはもう二十代半ばなので良き嫡子としての務めを果たさねばならない。そしてローレンツには絶対も永遠もないこの世の中でクロードのようにたった一人で全てを取り仕切る自信はなかった。父と家臣たちには戦争が終わっても結婚相手を見つけられなかったら見合いを再開すると伝えてある。叶うことならばという願いはあるがとりあえずローレンツは自分にできることをするしかない。
魔道学院や士官学校は王族や皇族であれば従者と共に学生生活を過ごせるがそれ以外の者は身の回りのことは全て自分でやる。集団生活を送る前に一通りのことができるよう実家の使用人に教えて貰ってからローレンツは実家を出た。だから掃除や人寄せのための支度は別に苦ではない。来客と自分の目を楽しませるため最後に卓の上にベレトから貰った薔薇の花を飾った。これでいつでもマリアンヌを招き入れることが出来る。
控えめに扉を叩く音がして待ち人が現れた。これまでの茶会や食事の際に彼女が好んでいたものから予想して供したものは全て気に入ったらしい。マリアンヌとローレンツは味の好みも合っている。またお茶の相手をしてほしいと頼むとローレンツの部屋に入ってから初めてマリアンヌの表情が曇った。
「私で、良いのでしょうか……」
「何を言う!僕は君が良いのだよ」
「………………。私、実は……あなたに言わなければいけないことが……」
マリアンヌは美しくエドマンド家は豊かなのでもしかしたら秘密裡に縁談がまとまったのかもしれない。彼女がグロスタール家の嫡子である自分と親しげにしているせいで婚約者が不愉快な思いをしているのならば確かに距離をとってほしい、と告げる必要がある。この世には絶対や永遠がないとローレンツは知っていた。だからこそ辛くても受け入れてきちんとマリアンヌを祝福してやりたいと思っている。
「ずっと、隠してきたことがあるんです。実は……あの……私には……忌まわしい……紋章が……」
先ほどまで顔を綻ばせながら紅茶を楽しんでいたというのにマリアンヌは今にも崩れ落ちてしまいそうだった。自領を守ることに役立つ紋章は貴族たちの間では天佑と言われる。それだけに彼女が怯えながら自分へ告げようとしていることがどれだけ重大であるか瞬時にローレンツは悟った。紋章を持っている学生たちは士官学校に入った後すぐに集められ専門家であるハンネマンの検査を受けている。ローレンツの記憶が確かならば彼女は検査を受けていない。きっとエドマンド辺境伯は修道院に膨大な額の寄進をしている。
「もういい!やめたまえ、マリアンヌさん!」
ローレンツはこれ以上マリアンヌが宿すという謎の紋章に彼女自身を傷付けさせるわけにいかなかった。
「震えているじゃないか。そうまでして僕に何かを打ち明ける必要などない!」
マリアンヌとエドマンド辺境伯は血縁者だが実の親子ではない。母方のものに姓を変えねばならなかった理由はおそらく彼女の実父にある。ローレンツはマリアンヌが何に苛まれて生きてきたのかを察した。そして彼女はローレンツをそこから遠ざけようとしている。
「僕が見たいのは、そんな君じゃない。笑顔の君が見たいんだ。きっと、今、君が言いかけた言葉の先に、君の魅力の秘密が隠されているのだろう。それでも、君が笑顔で話せる日が来るまで、僕は聞きたいとは思わない」
彼女は陰鬱さこそが己自身だと信じ込んでいるがそんなことはない。他人を巻き込むまいとする頑固さは彼女の善良さの表れだ。それは宝石の輝きのように決して色褪せない。
今、マリアンヌから具体的なことを告げられたらローレンツは今後は彼女の話を聞いてやることすら不可能になる。話を聞くためにもこの話を聞いてはならないのだ。
「僕はね、相手のすべてを知りたいなどという貪欲で下品な男とは違うのだよ。謎めいた君のままで、十分素敵だ。いや、むしろ謎めいているからこそ魅力的……」
あのエドマンド辺境伯が解決出来なかった案件をローレンツ個人に解決出来る可能性は低い。だがここでグロスタール家やローレンツ自身の利にならないからと言ってマリアンヌから距離を置かれてしまうのはどうしても嫌だった。必死になって説得しているとローレンツのその姿が滑稽だったのかマリアンヌが声を上げて笑った。その朗らかな笑顔を見ているとやはり陰鬱さが彼女の本質である、とローレンツには思えない。マリアンヌはローレンツに変わりたい、と言ったが彼女は変わる必要などない。内に秘められた良さを表に出すだけで充分だしどうやらローレンツはその手伝いをさせてもらえそうだ。
ある日ローレンツはベレトから遠出をしたいので武装して付き合ってほしいと頼まれた。大量の特効薬と松明とテュルソスの杖も持参して欲しいというのだから只事ではない。
「どこまで行くのだろうか?」
「エドマンド領だ」
数日前マリアンヌは自領に用事があるといってガルグ=マクを離れている。
「夜に魔獣がうじゃうじゃ出る森ねえ……なんで昼はダメなんだ?」
森に最も近い宿場町でベレトから簡単な説明を受けたクロードが当たり前のことを問うた。昼間の方が視認性が高く人間にとっては戦いやすい。
「討伐したい魔獣が夜にしか出てこないんだ」
「うーん、それなら巣を見つけて昼間にアグネアの矢みたいな黒魔法を放っちゃった方が安全じゃない?」
「つまり僕か?それならそれで別に構わないが……」
ヒルダの言うことには一理ある。わざわざ魔獣が最も活動的な時間帯に戦闘する必要はない。そしてそんな方法で済むなら忙しい二人がこの時期こんなところに来る必要はない。ローレンツは並んで座る恋人同士を見て腕を組んだ。ベレトの庇護の下にあるからこんな我儘が通る。だが戦争が終わり新生軍が解散すればそれも終わりだと思うと叱る気にはなれない。
「察していると思うがマリアンヌの依頼だ。全てに理由があるし追及しないで欲しい」
リンハルト以外の者は素直にベレトの言葉に頷いた。ベレトは今回マリアンヌと縁が深い者に声をかけている。マリアンヌは己の本質が陰鬱さだと思い込んでいるが絶対に違う。もしそうなら皆こんな風に心配しない筈だ。
普通の獣ならば火を避けるが魔獣は火を見ると寄ってくる。霧深い森の中で視野を確保するため松明をかざすとベレトの説明通り魔獣それに加えて幻影兵がいた。この森は普通ではない。森全体が魔獣の巣になっていて複数の群れが住んでいる。
「確かに領内にこんな所があっては……マリアンヌさんが先生に助力を求めるのもわかるよ」
「奥にこの群れの主がいる。それが今回の標的だ」
松明があって視野が確保できても単独行動が危険なことに変わりはないので別行動はせず一頭ずつ倒していくしかない。奥の方からひときわ大きな叫び声が聞こえてきた。
「もはや止まらぬ。おぬしの血肉を喰らうまで……!」
皆一斉に口を閉じた。こんな危険な森の奥に自分たち以外に誰かいる。しかも発言内容が不穏だ。
「そんな……いけません!」
そしてマリアンヌの声が続いた。ベレトが視野を確保するため右手で松明を掲げるとかつてコナン塔で見たマイクランのような姿をした魔獣が見える。どうやらマリアンヌはその魔獣を説得しようとしているようだ。人語を話す魔獣など今まで見たことがない。ヒルダがあれやこれや言いだそうとしたクロードの口を後ろ手で塞いでベレトの顔を見た。ヒルダもマリアンヌの意志を尊重し知らぬまま通すつもりらしい。
「行こうか」
全てを知るベレトは口止めをされているのか余計なことを一言も言わない。きっとあれがあの光景こそがマリアンヌがローレンツに告げようとしてくれた秘密なのだ。ローレンツに門地や領地がなかったら遠ざけるためでなく助けを請うためにマリアンヌは全てを告げてくれたのかもしれない。だが全ては仮の話に過ぎずベレトはローレンツに手伝いを乞うてくれた。それならばローレンツはテュルソスの杖の力を借り己に宿る紋章の力を使い、なすべきことをなすしかない。
人語を話していた魔獣は最後にマリアンヌとベレトに感謝し人の骨と剣を残して消えていった。人語を話すのだから他にどんな能力があっても不思議ではないがあれほど立ち込めていた霧が晴れ空には月が輝いている。
マリアンヌの足元には古びた人骨が転がっていた。月光が作る影のせいでローレンツのいる位置からは彼女が手にしている剣はよく見えないがテュルソスの杖やフェイルノートと質感が似ている。白い光を浴びた彼女は深々と頭を下げた。
「皆さんありがとうございました。これで私の無実が証明されます」
好奇心が身をもたげてくるがクロード、ヒルダ、リンハルトがガルグ=マクに戻る道すがらローレンツの代わりにマリアンヌから聞きたいことを全て聞き出してくれるだろう。先ほどヒルダから口を塞がれたクロードはきっと質問で頭がいっぱいの筈だ。
皆に謝意を示したマリアンヌは剣を傍に置き戦闘中にずっと身につけていた紺色の外套を脱いだ。じきに夜が明けるとは言え返り血が染みて乾かないと冷えてしまうし上着に染み込んだ血が乾いたとしても広範囲にできた硬く薄い血の塊が肌にこすれて痛い時もある。
ローレンツは自分の外套を脱ぎ彼女の肩にそっとかけてやった。五年前の彼女なら自分の不幸が感染るから、と悲鳴を上げて払いのけていただろう。共に過ごした年月は無駄ではなかったようでマリアンヌは厚意を素直に受け取るようになってくれた。今晩のローレンツは魔法しか使わなかったので外套に煤は多少ついているが魔物の返り血はついていない。
「すいません、ローレンツさん、お借りしたまま作業してもよろしいでしょうか?」
マリアンヌはぶかぶかの外套を身につけたままローレンツに許可を取るとしゃがみ込み自分の外套を地面に広げてその上に頭蓋骨や小さめの骨を載せ始めた。その姿を見て困惑したヒルダが叫ぶ。もうこの森の中で一番強い生き物は人間だ。聞きつけられたところで何の問題もない。
「マリアンヌちゃん!ちょっと待って!それどうするの?」
「持ち帰って一族の墓地に埋葬します」
「他の骨はどうするの?」
亡骸の扱いは千差万別だ。ローレンツは遺言に可能であれば自分の亡骸は貴族に相応しく扱って欲しいと明記してあるし火葬用に薪を買う金貨も遺言に同封してある。頭蓋骨の持ち主がどんな身分なのかは分からないが兵士であれば敵の怪しげな魔道士に亡骸を悪用されないため墓標も作らず穴を掘って埋めてしまうことも多い。故郷の墓に埋葬するため全身を持ち帰れることもあれば一部しか持ち帰れないこともある。
「でもこれ以上みなさんのお手を煩わせるわけには……」
「私にはまだどういうことか分からないけど本当は全身持って帰ってあげたいんでしょ?」
ローレンツも聞き逃さなかったがヒルダも一族の、という言葉を聞き逃さなかった。マリアンヌにはきっと遠慮せねばならない、と判断する根拠がある。だがそんなことは度外視したくなるのが友情や愛情だ。マリアンヌがヒルダの言葉に頷いたので頭蓋骨はマリアンヌが外套に包んで運び他の骨はそれぞれ手分けして皆で運ぶことになった。人体には約二百本の骨がある。
「重たければそれも僕が持つが」
「大丈夫です。それに皆さんに持っていただいているのに私だけ手ぶらというわけには……」
森の奥からエドマンド家が持っている屋敷へ向かう道中、こういう時には食事と風呂どちらが必要か皆で語り合っているうちに夜が明けた。日の出に照らされると改めて皆の格好がひどい有様なことがよく分かる。マリアンヌが身につけているローレンツの外套には思ったより煤がついていた。そのせいで彼女の白い頬が黒く汚れてしまっている。
「これは風呂だな」
絶対に食事だ、と主張していたクロードが陽の光の下であっさりと意見を変えた。今更自分の惨状に気付いたらしい。外套なしで一晩過ごしていたローレンツは早く風呂に入ってあったまりたいと思っていたのでヒルダと同じく風呂派だった。
ローレンツの見たところエドマンド家の使用人たちはよく躾けられていた。マリアンヌが男物の外套を身につけ魔獣の血にまみれた襤褸きれのような格好で現れ真っ先に使っていない敷布を玄関に持ってくるように命じても動じなかったしそこで同じく襤褸きれのような格好をした客人たちが古い骨を並べて検分しても狼狽するようなこともない。クロードとリンハルトによる検分は中々終わらず彼らの議論がマリアンヌの望まぬ方向へ行かないようにローレンツはずっと見張る羽目になった。結果として食事が先になったのだが検分しながらであったのでスープなどはなく手でつまめる物だけで済ませている。
入浴を済ませベレトやクロードたちが糸が切れた操り人形のように眠っている最中、マリアンヌがローレンツが休んでいる客室の扉をそっと叩いた。
「お休みのところ申し訳ありませんがお時間いただけないでしょうか?」
扉越しにローレンツに呼びかける声は落ち着いている。熟睡して昼夜を逆転させるわけにもいかないと考え椅子でうたた寝をするに留めていたのですぐにローレンツはマリアンヌの声に気がつくことができた。好きな人の声で起こされると心が躍る。彼女はうたた寝から目覚めたローレンツが使用人たちから誤解を受けぬように応接間に連れ出してくれてグロスタール家の嫡子として今後エドマンド辺境伯家の養女と深く付き合うならば知っておくべきことを手短に話してくれた。先日と違って本当に心から自分の話を聞いて欲しいのだとマリアンヌの表情も物語っている。だからだろうか。ローレンツは彼女のことを少し揶揄いたくなってしまった。クロードに笑われるのは癪だがマリアンヌを笑わせるのは全く嫌ではない。
「マリアンヌさんは本当に僕で良いのだろうか?」
この時のマリアンヌの表情をローレンツは一生、忘れないだろう。ぽかんと口を開け目を丸くしてローレンツのことを凝視していた。つい先日のやりとりだから彼女もきちんと覚えている。
「まあ!ローレンツさんたら何をおっしゃるのですか?私はあなたが良いのです。優しくて面白くて……」
その後はお互いに笑ってしまって全く言葉にならなかった。
六年前クロードがリーガン家の嫡子として発表された時にローレンツは自分の手から将来の栄誉がすり抜けていったことに落胆しひたすら不愉快で納得いかなかった。ところが六年経ってみればローレンツは親に逆らいクロードに命を預けている。彼は度量が違うのだ。そしてローレンツは六年前には想像すらしなかった神話のような戦場に身を置いている。セイロス教の瑞獣と同じ色をした飛竜にまたがり上空から敵の様子を窺うクロードと本日彼の前衛を務めるヒルダの姿はきっとイグナーツが絵にする筈だ。
「砲台だらけで北の方に行くの嫌になっちゃう」
「二人とも気をつけてくれたまえ」
砲台の奪取とヒルダが発見した毒の沼を発生させている魔道士の排除がローレンツが率いる別働隊の役目だ。ヒルダは滅多にやる気を出さないがホルストの件があるので今日は戦う前から偵察などで大活躍している。マリアンヌも心配そうにヒルダとクロードを見つめていた。その視線に気づいたヒルダが飛竜の上から手を振る。
「大丈夫!地上ならともかくクロードくんは空の上なら一番当てになるんだから!」
「確かに俺も地上ならヒルダの方が良いな」
ローレンツは学生の頃、修道院の上空警備の際に上空でふざけていた二人を注意したことを思い出した。今にして思えばあの頃からクロードはヒルダに好意を持っていたのだろう。自分がマリアンヌに好意を持っていたのと同じく。畳む
#クロヒル
#ロレマリ
17.anecdote(side:L)
修道院が帝国軍に襲撃された際にローレンツも白きものを目撃した。セイロス教の瑞獣は自らの意志で人間の形を保つが人間は時と場合によって人間の形を保てなくなる。コナン塔でもルミール村でも目撃したし幾度となく撃退した帝国の魔獣のことを考えると流石にローレンツと言えども精神が揺らぐ。ローレンツは思わずマリアンヌから借りた本を手に取った。この本は修道院の書庫にもかつて置いてあったようだが二十年ほど前の大火で失われている。借りたものはかなり古びているのでおそらく元の持ち主はエドマンド辺境伯なのだろう。この詩篇の解説書は実に興味深く感銘を受けた部分はこっそり詩を綴っている帳面に書き留めてしまったほどだ。
貴重な本を貸してくれた礼としてお茶に誘うとマリアンヌはローレンツのために時間を作ってくれた。領地から取り寄せた焼き菓子や茶葉のうちマリアンヌが好きそうなものを考えるだけでもローレンツは楽しくなってしまう。近頃、彼女は何だか塞ぎがちなので気晴らしになってくれたらと思った。
アンヴァルで勝利し闇に蠢く者たちの本拠地を壊滅させガルグ=マクが盛夏を迎えつつあるようにローレンツたちの青春も終わりつつある。ローレンツはもう二十代半ばなので良き嫡子としての務めを果たさねばならない。そしてローレンツには絶対も永遠もないこの世の中でクロードのようにたった一人で全てを取り仕切る自信はなかった。父と家臣たちには戦争が終わっても結婚相手を見つけられなかったら見合いを再開すると伝えてある。叶うことならばという願いはあるがとりあえずローレンツは自分にできることをするしかない。
魔道学院や士官学校は王族や皇族であれば従者と共に学生生活を過ごせるがそれ以外の者は身の回りのことは全て自分でやる。集団生活を送る前に一通りのことができるよう実家の使用人に教えて貰ってからローレンツは実家を出た。だから掃除や人寄せのための支度は別に苦ではない。来客と自分の目を楽しませるため最後に卓の上にベレトから貰った薔薇の花を飾った。これでいつでもマリアンヌを招き入れることが出来る。
控えめに扉を叩く音がして待ち人が現れた。これまでの茶会や食事の際に彼女が好んでいたものから予想して供したものは全て気に入ったらしい。マリアンヌとローレンツは味の好みも合っている。またお茶の相手をしてほしいと頼むとローレンツの部屋に入ってから初めてマリアンヌの表情が曇った。
「私で、良いのでしょうか……」
「何を言う!僕は君が良いのだよ」
「………………。私、実は……あなたに言わなければいけないことが……」
マリアンヌは美しくエドマンド家は豊かなのでもしかしたら秘密裡に縁談がまとまったのかもしれない。彼女がグロスタール家の嫡子である自分と親しげにしているせいで婚約者が不愉快な思いをしているのならば確かに距離をとってほしい、と告げる必要がある。この世には絶対や永遠がないとローレンツは知っていた。だからこそ辛くても受け入れてきちんとマリアンヌを祝福してやりたいと思っている。
「ずっと、隠してきたことがあるんです。実は……あの……私には……忌まわしい……紋章が……」
先ほどまで顔を綻ばせながら紅茶を楽しんでいたというのにマリアンヌは今にも崩れ落ちてしまいそうだった。自領を守ることに役立つ紋章は貴族たちの間では天佑と言われる。それだけに彼女が怯えながら自分へ告げようとしていることがどれだけ重大であるか瞬時にローレンツは悟った。紋章を持っている学生たちは士官学校に入った後すぐに集められ専門家であるハンネマンの検査を受けている。ローレンツの記憶が確かならば彼女は検査を受けていない。きっとエドマンド辺境伯は修道院に膨大な額の寄進をしている。
「もういい!やめたまえ、マリアンヌさん!」
ローレンツはこれ以上マリアンヌが宿すという謎の紋章に彼女自身を傷付けさせるわけにいかなかった。
「震えているじゃないか。そうまでして僕に何かを打ち明ける必要などない!」
マリアンヌとエドマンド辺境伯は血縁者だが実の親子ではない。母方のものに姓を変えねばならなかった理由はおそらく彼女の実父にある。ローレンツはマリアンヌが何に苛まれて生きてきたのかを察した。そして彼女はローレンツをそこから遠ざけようとしている。
「僕が見たいのは、そんな君じゃない。笑顔の君が見たいんだ。きっと、今、君が言いかけた言葉の先に、君の魅力の秘密が隠されているのだろう。それでも、君が笑顔で話せる日が来るまで、僕は聞きたいとは思わない」
彼女は陰鬱さこそが己自身だと信じ込んでいるがそんなことはない。他人を巻き込むまいとする頑固さは彼女の善良さの表れだ。それは宝石の輝きのように決して色褪せない。
今、マリアンヌから具体的なことを告げられたらローレンツは今後は彼女の話を聞いてやることすら不可能になる。話を聞くためにもこの話を聞いてはならないのだ。
「僕はね、相手のすべてを知りたいなどという貪欲で下品な男とは違うのだよ。謎めいた君のままで、十分素敵だ。いや、むしろ謎めいているからこそ魅力的……」
あのエドマンド辺境伯が解決出来なかった案件をローレンツ個人に解決出来る可能性は低い。だがここでグロスタール家やローレンツ自身の利にならないからと言ってマリアンヌから距離を置かれてしまうのはどうしても嫌だった。必死になって説得しているとローレンツのその姿が滑稽だったのかマリアンヌが声を上げて笑った。その朗らかな笑顔を見ているとやはり陰鬱さが彼女の本質である、とローレンツには思えない。マリアンヌはローレンツに変わりたい、と言ったが彼女は変わる必要などない。内に秘められた良さを表に出すだけで充分だしどうやらローレンツはその手伝いをさせてもらえそうだ。
ある日ローレンツはベレトから遠出をしたいので武装して付き合ってほしいと頼まれた。大量の特効薬と松明とテュルソスの杖も持参して欲しいというのだから只事ではない。
「どこまで行くのだろうか?」
「エドマンド領だ」
数日前マリアンヌは自領に用事があるといってガルグ=マクを離れている。
「夜に魔獣がうじゃうじゃ出る森ねえ……なんで昼はダメなんだ?」
森に最も近い宿場町でベレトから簡単な説明を受けたクロードが当たり前のことを問うた。昼間の方が視認性が高く人間にとっては戦いやすい。
「討伐したい魔獣が夜にしか出てこないんだ」
「うーん、それなら巣を見つけて昼間にアグネアの矢みたいな黒魔法を放っちゃった方が安全じゃない?」
「つまり僕か?それならそれで別に構わないが……」
ヒルダの言うことには一理ある。わざわざ魔獣が最も活動的な時間帯に戦闘する必要はない。そしてそんな方法で済むなら忙しい二人がこの時期こんなところに来る必要はない。ローレンツは並んで座る恋人同士を見て腕を組んだ。ベレトの庇護の下にあるからこんな我儘が通る。だが戦争が終わり新生軍が解散すればそれも終わりだと思うと叱る気にはなれない。
「察していると思うがマリアンヌの依頼だ。全てに理由があるし追及しないで欲しい」
リンハルト以外の者は素直にベレトの言葉に頷いた。ベレトは今回マリアンヌと縁が深い者に声をかけている。マリアンヌは己の本質が陰鬱さだと思い込んでいるが絶対に違う。もしそうなら皆こんな風に心配しない筈だ。
普通の獣ならば火を避けるが魔獣は火を見ると寄ってくる。霧深い森の中で視野を確保するため松明をかざすとベレトの説明通り魔獣それに加えて幻影兵がいた。この森は普通ではない。森全体が魔獣の巣になっていて複数の群れが住んでいる。
「確かに領内にこんな所があっては……マリアンヌさんが先生に助力を求めるのもわかるよ」
「奥にこの群れの主がいる。それが今回の標的だ」
松明があって視野が確保できても単独行動が危険なことに変わりはないので別行動はせず一頭ずつ倒していくしかない。奥の方からひときわ大きな叫び声が聞こえてきた。
「もはや止まらぬ。おぬしの血肉を喰らうまで……!」
皆一斉に口を閉じた。こんな危険な森の奥に自分たち以外に誰かいる。しかも発言内容が不穏だ。
「そんな……いけません!」
そしてマリアンヌの声が続いた。ベレトが視野を確保するため右手で松明を掲げるとかつてコナン塔で見たマイクランのような姿をした魔獣が見える。どうやらマリアンヌはその魔獣を説得しようとしているようだ。人語を話す魔獣など今まで見たことがない。ヒルダがあれやこれや言いだそうとしたクロードの口を後ろ手で塞いでベレトの顔を見た。ヒルダもマリアンヌの意志を尊重し知らぬまま通すつもりらしい。
「行こうか」
全てを知るベレトは口止めをされているのか余計なことを一言も言わない。きっとあれがあの光景こそがマリアンヌがローレンツに告げようとしてくれた秘密なのだ。ローレンツに門地や領地がなかったら遠ざけるためでなく助けを請うためにマリアンヌは全てを告げてくれたのかもしれない。だが全ては仮の話に過ぎずベレトはローレンツに手伝いを乞うてくれた。それならばローレンツはテュルソスの杖の力を借り己に宿る紋章の力を使い、なすべきことをなすしかない。
人語を話していた魔獣は最後にマリアンヌとベレトに感謝し人の骨と剣を残して消えていった。人語を話すのだから他にどんな能力があっても不思議ではないがあれほど立ち込めていた霧が晴れ空には月が輝いている。
マリアンヌの足元には古びた人骨が転がっていた。月光が作る影のせいでローレンツのいる位置からは彼女が手にしている剣はよく見えないがテュルソスの杖やフェイルノートと質感が似ている。白い光を浴びた彼女は深々と頭を下げた。
「皆さんありがとうございました。これで私の無実が証明されます」
好奇心が身をもたげてくるがクロード、ヒルダ、リンハルトがガルグ=マクに戻る道すがらローレンツの代わりにマリアンヌから聞きたいことを全て聞き出してくれるだろう。先ほどヒルダから口を塞がれたクロードはきっと質問で頭がいっぱいの筈だ。
皆に謝意を示したマリアンヌは剣を傍に置き戦闘中にずっと身につけていた紺色の外套を脱いだ。じきに夜が明けるとは言え返り血が染みて乾かないと冷えてしまうし上着に染み込んだ血が乾いたとしても広範囲にできた硬く薄い血の塊が肌にこすれて痛い時もある。
ローレンツは自分の外套を脱ぎ彼女の肩にそっとかけてやった。五年前の彼女なら自分の不幸が感染るから、と悲鳴を上げて払いのけていただろう。共に過ごした年月は無駄ではなかったようでマリアンヌは厚意を素直に受け取るようになってくれた。今晩のローレンツは魔法しか使わなかったので外套に煤は多少ついているが魔物の返り血はついていない。
「すいません、ローレンツさん、お借りしたまま作業してもよろしいでしょうか?」
マリアンヌはぶかぶかの外套を身につけたままローレンツに許可を取るとしゃがみ込み自分の外套を地面に広げてその上に頭蓋骨や小さめの骨を載せ始めた。その姿を見て困惑したヒルダが叫ぶ。もうこの森の中で一番強い生き物は人間だ。聞きつけられたところで何の問題もない。
「マリアンヌちゃん!ちょっと待って!それどうするの?」
「持ち帰って一族の墓地に埋葬します」
「他の骨はどうするの?」
亡骸の扱いは千差万別だ。ローレンツは遺言に可能であれば自分の亡骸は貴族に相応しく扱って欲しいと明記してあるし火葬用に薪を買う金貨も遺言に同封してある。頭蓋骨の持ち主がどんな身分なのかは分からないが兵士であれば敵の怪しげな魔道士に亡骸を悪用されないため墓標も作らず穴を掘って埋めてしまうことも多い。故郷の墓に埋葬するため全身を持ち帰れることもあれば一部しか持ち帰れないこともある。
「でもこれ以上みなさんのお手を煩わせるわけには……」
「私にはまだどういうことか分からないけど本当は全身持って帰ってあげたいんでしょ?」
ローレンツも聞き逃さなかったがヒルダも一族の、という言葉を聞き逃さなかった。マリアンヌにはきっと遠慮せねばならない、と判断する根拠がある。だがそんなことは度外視したくなるのが友情や愛情だ。マリアンヌがヒルダの言葉に頷いたので頭蓋骨はマリアンヌが外套に包んで運び他の骨はそれぞれ手分けして皆で運ぶことになった。人体には約二百本の骨がある。
「重たければそれも僕が持つが」
「大丈夫です。それに皆さんに持っていただいているのに私だけ手ぶらというわけには……」
森の奥からエドマンド家が持っている屋敷へ向かう道中、こういう時には食事と風呂どちらが必要か皆で語り合っているうちに夜が明けた。日の出に照らされると改めて皆の格好がひどい有様なことがよく分かる。マリアンヌが身につけているローレンツの外套には思ったより煤がついていた。そのせいで彼女の白い頬が黒く汚れてしまっている。
「これは風呂だな」
絶対に食事だ、と主張していたクロードが陽の光の下であっさりと意見を変えた。今更自分の惨状に気付いたらしい。外套なしで一晩過ごしていたローレンツは早く風呂に入ってあったまりたいと思っていたのでヒルダと同じく風呂派だった。
ローレンツの見たところエドマンド家の使用人たちはよく躾けられていた。マリアンヌが男物の外套を身につけ魔獣の血にまみれた襤褸きれのような格好で現れ真っ先に使っていない敷布を玄関に持ってくるように命じても動じなかったしそこで同じく襤褸きれのような格好をした客人たちが古い骨を並べて検分しても狼狽するようなこともない。クロードとリンハルトによる検分は中々終わらず彼らの議論がマリアンヌの望まぬ方向へ行かないようにローレンツはずっと見張る羽目になった。結果として食事が先になったのだが検分しながらであったのでスープなどはなく手でつまめる物だけで済ませている。
入浴を済ませベレトやクロードたちが糸が切れた操り人形のように眠っている最中、マリアンヌがローレンツが休んでいる客室の扉をそっと叩いた。
「お休みのところ申し訳ありませんがお時間いただけないでしょうか?」
扉越しにローレンツに呼びかける声は落ち着いている。熟睡して昼夜を逆転させるわけにもいかないと考え椅子でうたた寝をするに留めていたのですぐにローレンツはマリアンヌの声に気がつくことができた。好きな人の声で起こされると心が躍る。彼女はうたた寝から目覚めたローレンツが使用人たちから誤解を受けぬように応接間に連れ出してくれてグロスタール家の嫡子として今後エドマンド辺境伯家の養女と深く付き合うならば知っておくべきことを手短に話してくれた。先日と違って本当に心から自分の話を聞いて欲しいのだとマリアンヌの表情も物語っている。だからだろうか。ローレンツは彼女のことを少し揶揄いたくなってしまった。クロードに笑われるのは癪だがマリアンヌを笑わせるのは全く嫌ではない。
「マリアンヌさんは本当に僕で良いのだろうか?」
この時のマリアンヌの表情をローレンツは一生、忘れないだろう。ぽかんと口を開け目を丸くしてローレンツのことを凝視していた。つい先日のやりとりだから彼女もきちんと覚えている。
「まあ!ローレンツさんたら何をおっしゃるのですか?私はあなたが良いのです。優しくて面白くて……」
その後はお互いに笑ってしまって全く言葉にならなかった。
六年前クロードがリーガン家の嫡子として発表された時にローレンツは自分の手から将来の栄誉がすり抜けていったことに落胆しひたすら不愉快で納得いかなかった。ところが六年経ってみればローレンツは親に逆らいクロードに命を預けている。彼は度量が違うのだ。そしてローレンツは六年前には想像すらしなかった神話のような戦場に身を置いている。セイロス教の瑞獣と同じ色をした飛竜にまたがり上空から敵の様子を窺うクロードと本日彼の前衛を務めるヒルダの姿はきっとイグナーツが絵にする筈だ。
「砲台だらけで北の方に行くの嫌になっちゃう」
「二人とも気をつけてくれたまえ」
砲台の奪取とヒルダが発見した毒の沼を発生させている魔道士の排除がローレンツが率いる別働隊の役目だ。ヒルダは滅多にやる気を出さないがホルストの件があるので今日は戦う前から偵察などで大活躍している。マリアンヌも心配そうにヒルダとクロードを見つめていた。その視線に気づいたヒルダが飛竜の上から手を振る。
「大丈夫!地上ならともかくクロードくんは空の上なら一番当てになるんだから!」
「確かに俺も地上ならヒルダの方が良いな」
ローレンツは学生の頃、修道院の上空警備の際に上空でふざけていた二人を注意したことを思い出した。今にして思えばあの頃からクロードはヒルダに好意を持っていたのだろう。自分がマリアンヌに好意を持っていたのと同じく。畳む
#かのひとはうつくしく
#クロヒル
#ロレマリ
18.sequel:C&H
ヒルダはパルミラ王国の公文書に独自の視点を持った剃刀のように鋭い王妃であった、と記されている。
「クロードくん、どうやって帰るの?」
クロードは新生軍の中でヒルダにだけは真の身分を告げていた。ガルグ=マクから母国パルミラに帰るにはアミッド大河沿いに東へ進むか北上しデアドラ港もしくはエドマンド港から船で東に向かう二つの道がある。デアドラに戻ってしまえばクロードはナデル以外の家臣たちに囲まれて船に乗るのも一苦労だしエドマンド港に行けば辺境伯の耳に入ってしまう。
「飛竜で東かな」
明日、大司教代理であるベレトの名において新生軍の解散とフォドラの統一それと首都がデアドラであることが宣言される。ようやく帰郷できることもあり皆、浮き足立っていた。残務処理があるのでと言ってベレトとリーガン領から連れてきた兵たちを先にデアドラへ送り出し上空警備が緩やかになったら誰にも告げずそっと単騎で出発するつもりでいる。
その道程はこの先の孤独を象徴している気がしてならない。クロードは友人が多い人気者だが七年間も王宮に姿を現さなかったカリードを父と母以外に気にかける者はいるだろうか。
「あの子を置いていくなら私にちょうだい」
クロードの腕の中で怠そうにしているヒルダが言うあの子、はクロードがいつも騎乗している白い飛竜のことだ。元々の気質のせいなのか白子であったせいなのかは分からないがとにかく兄弟仲が悪く除け者にされている姿を見てクロードが引き取った。クロードに懐いているがヒルダにも懐いている。
「元から頼むつもりだった」
あの白い飛竜に乗って帰れば名乗りを上げながら東へ移動しているのと同じなので別の飛竜を見つくろう予定だった。幸い路銀には困らないので宿場町ごとに飛竜を確保することも可能だろう。
「あのねぇクロードくん、怠けるのってすっごく気を使うんだから!」
それまでクロードに背中を預けていたヒルダは真っ白な身体の向きを変えた。褐色の喉元で輝く翠玉の首飾りを弄りながらツィリルが聞いたら本当に機嫌を悪くしそうな話をし始める。
「喜んで仕事を引き受けてもらうには日頃から好かれなきゃいけないしどれくらい仕事を押し付けられる人なのか見極めなきゃいけないし!」
言っていることは本当にひどいが全ての仕事を自力でやるわけにいかない立場であるクロードにとって実に示唆に富んでいる発言だった。そしてこのヒルダに部屋の片付けを手伝わせるマリアンヌはやはり大物なのではなかろうか。
「真理だな」
「船がいいよ。クロードくんがいなくなったってわかったらセイロス騎士団の人たちはきっと空しか見ないだろうから」
学友たちがいればクロードが敢えて船や馬を使う可能性に気付くだろうが共に戦った貴族の嫡子たちは連れてきた兵たちを連れて自領に戻らねばならない。新生軍結成以来一度も帰省していないラファエルはベレト、クロード、ローレンツ、それにマリアンヌから書いてもらった紹介状を手に入れ妹と祖父を安心させるため一日早く出発した。帰路の補佐を、というわけでレオニーはマリアンヌにイグナーツはローレンツに雇われているためおそらくクロードの捜索はセイロス騎士団が主体となって行うことになる。
「参考にする」
「じゃあそろそろ自分の部屋に戻って。クロードくん明日は大変なんだからもう眠らないと」
こんな風に同じ寝台で夜を過ごせる日が次にいつ来るのかクロードにもヒルダにも全く分からない。これまでずっとヒルダは修道院ではちょっと、と言っていたのに今晩に限ってお許しが出たのはそういうことだろう。クロードは白い肌の手触りや汗と香水の混ざった匂いをヒルダの部屋でもう少し楽しみたかったのだがどうやらヒルダはお開きにしたいらしい。
「こう言う時って普通、離れたくないから私も一緒に行く、とか無駄だって分かってるけど行かないで、と言うもんじゃないのか?」
クロードがそう言って茶化すとヒルダは褐色の手を臍の下辺りに導いた。褐色の指を吸い付くような白い肌の上で遊ばせようとしたが強く掴まれる。
「私にはいつか命を賭ける日が来るの」
フォドラでもパルミラでも貴族の娘が子を望まれるのは変わらないし出産が命懸けであることも同じだ。だがその前の段階でクロードがしくじって王宮内での政争に負ければクロードもヒルダも毎日命を狙われながら暮らすことになる。ヒルダはクロードの子を宿す日のことを真剣に話していた。妊娠出産以外で危険な目に遭わずに済むよう地均しをしておけ、と言っている。
本気を出したヒルダはすごいのだ。こんなに精神的な興奮を掻き立てられる「部屋から出ていけ」の言い方が世の中に存在するとクロードは知らなかった。頭や体に溜まった熱を逃すために大きく息を吐く。
「何の憂いもないように整えておくよ。そうだ、こいつも預かってもらえないか?」
クロードは首飾りを外してヒルダにつけてやった。しかし鎖が長く翠玉は小柄な彼女の豊かな胸の谷間に挟まれている。見張り役にはちょうど良いのかもしれなかった。母から餞別としてフォドラ風の女物の指輪を持たされているが人によって指の太さは違うしパルミラ育ちのクロードに指輪はどうにも馴染まない。
「あのね、クロードくん。こう言う時って普通、指輪を渡すもんじゃないの?」
「パルミラだと交換するのは首飾りなんだよ」
ヒルダが桃色の瞳を見開いた。クロードが首飾りを服の下に着けていた理由がわかったからだろう。フォドラで言うならば結婚していないのに薬指に指輪を嵌めているようなものなので本当に居た堪れない気持ちになるのだ。特にツィリルに見つかって気まずい雰囲気になることを絶対に避けたかったので襯衣の内側に隠していた。このように両国では文化の違いがある。砦でヒルダから首飾りを着け直して貰った時は黙っていたが明るい未来を先取りできたような気がしてクロードはとても嬉しかったのだ。
「じゃあ次会える日までに私もクロードくんの分を用意しなきゃ。鎖の長さは少し短めにするからね」
ヒルダの趣味は宝飾品作りだからきっとクロードに似合うような首飾りを作ってくれるだろう。会えない間、彼女が喜びそうなものをたまに贈ってそれに手紙を添えるのも楽しいかもしれない。
王宮は上空も含めて手練れの衛兵に守られ何者の侵入も許さない。安全が確保されているからか王子は開放的な気分が味わえる屋外で昼食を取るのが好きだ。召使いたちは昼になると中庭にいつも絨毯を敷きそこに大きな銀の盆を置いてその上に飲み物や食べ物を用意している。
王子は庭の出来になど目もくれなかったが数ヶ月前のある時、庭師に庭を花でいっぱいにしろと命じ、いつなら花が満開になるのかと問うた。庭師が恐る恐る六月には、と答えると王子は庭師に聞き取れない言葉で何事かをつぶやいた。王子の瞳はパルミラでは珍しい緑色だ。パルミラでは人を食い殺す化け物の瞳が緑色だと言われており七年も失踪していた彼には数々の怪しい噂がある。恐ろしい王子の機嫌を損ねてしまったかと思い庭師が怯えていると彼は懐から取り出した金貨を渡した。
六月は王都が最も美しい月と言われる。花が咲き乱れ雨は滅多に降らず真夏ほど太陽の光は眩しくない。太陽の下でも月明かりの下でも快適に過ごせるのだ。そんな雲一つない真っ青な空で真っ白な飛竜が一頭、気持ちよさそうに飛んでいる。王宮の周りを旋回し何かを探しているようだ。しかし衛兵たちが弓砲台で狙おうとしないのでどうやら許可は取っているらしい。
飛竜に気づいた王子は用意された昼食には目もくれず色とりどりの花で溢れかえる中庭の真ん中に立ち親指と人差し指を口に咥えると指笛を鳴らした。その音を聞きつけた真っ白な飛竜が王子を目掛けて一直線に降下し始める。騎手は飛竜が急に自分の言うことを聞かなくなったので一瞬焦ったようだが何が起きたのかを悟り手綱から手を離した。旅装から察するにパルミラの者ではない。騎手が外套の頭巾を外すと桃色の髪が風に煽られた。真っ白な顔は遠目に見ても喜びに染まり髪と同じ桃色の瞳が潤んでいるのか先ほどから手袋をしたまま目元を拭っている。見た目からしてどうやらフォドラの者のようだ。
王子は先ほどから周りにかしずく召使いたちが分かる言葉を一言も発していない。だが召使いたちにも王子がずっと口にしているヒルダ、というのが騎手の名前であることが分かった。王子が大きく手を広げ彼女が着地するのを待っている姿を見れば立太子の礼を経たというのに喉元に首飾りを巻こうとしない理由も分かろうというものだ。
飛竜は降下している最中でまだ王宮の二階にある露台くらいの高さだというのにヒルダは鎧から足を外し始めている。右足から外し鞍に手をついて左向きの横座りになると彼女は手を広げて待っている王子目掛けて飛び降りた。
彼女は小柄だが勢いがついているので流石に王子も支えきれず二人は絨毯の上に転がってしまった。はしゃぐ二人の間に飛竜が白い鼻先をつっこむとそれがくすぐったいのか二人揃って笑っている。
「クロードくん本当に久しぶりだね、元気だった?」
「まあな。来てくれて嬉しいよ。こいつの面倒も見てくれてありがとな」
「置いていかれた者同士すっごく仲良くなったんだから!」
召使いたちは言葉を理解できないというのにそれが分かっていないのかヒルダは王子の耳元に口を寄せた。
「それでパルミラ語が全くわからないふりは何ヶ月くらいすれば良いの?」
通常であれば立太子の礼を経た王子が結婚すれば国を挙げての祝事となり王太子妃はそこで披露される。だが王太子妃が当時はまだ和平条約も締結していないフォドラ出身であったためお披露目はカリード王子の即位と同時となった。それまでも王太子夫妻のご学友とやらは非公式に度々フォドラからパルミラを訪れていたが皆とにかく変わり者揃いであった、と文書官の個人的な備忘録に記されている。パルミラとフォドラの国交は個人同士の強い結びつきがきっかけとなって樹立されたがその詳細な経過はエドマンド辺境伯となったグロスタール伯夫人の手記にも残されている。
"小鳥が西風に乗って飛んでいった。辿り着いた東の地でどう羽ばたいたのかは皆も知る通りなのでここには記さない。ただ細やかながらフォドラ=パルミラ和平条約に携わった者として、あの二人の学友として、知っていることをきちんと書き残し時の流れに抗っておきたい。意志を持って残しておかねば全てが時の流れに覆い隠されてしまうことを私は身を持って知っている。ヒルダ=ヴァレンティン=ゴネリルは和平の証として異国の王に嫁いだのではない。学友クロード=フォン=リーガンの元に嫁いだのだ。二人は元から愛し合う恋人同士であったし何よりも気があう親友同士であったのだ"畳む
#クロヒル
#ロレマリ
18.sequel:C&H
ヒルダはパルミラ王国の公文書に独自の視点を持った剃刀のように鋭い王妃であった、と記されている。
「クロードくん、どうやって帰るの?」
クロードは新生軍の中でヒルダにだけは真の身分を告げていた。ガルグ=マクから母国パルミラに帰るにはアミッド大河沿いに東へ進むか北上しデアドラ港もしくはエドマンド港から船で東に向かう二つの道がある。デアドラに戻ってしまえばクロードはナデル以外の家臣たちに囲まれて船に乗るのも一苦労だしエドマンド港に行けば辺境伯の耳に入ってしまう。
「飛竜で東かな」
明日、大司教代理であるベレトの名において新生軍の解散とフォドラの統一それと首都がデアドラであることが宣言される。ようやく帰郷できることもあり皆、浮き足立っていた。残務処理があるのでと言ってベレトとリーガン領から連れてきた兵たちを先にデアドラへ送り出し上空警備が緩やかになったら誰にも告げずそっと単騎で出発するつもりでいる。
その道程はこの先の孤独を象徴している気がしてならない。クロードは友人が多い人気者だが七年間も王宮に姿を現さなかったカリードを父と母以外に気にかける者はいるだろうか。
「あの子を置いていくなら私にちょうだい」
クロードの腕の中で怠そうにしているヒルダが言うあの子、はクロードがいつも騎乗している白い飛竜のことだ。元々の気質のせいなのか白子であったせいなのかは分からないがとにかく兄弟仲が悪く除け者にされている姿を見てクロードが引き取った。クロードに懐いているがヒルダにも懐いている。
「元から頼むつもりだった」
あの白い飛竜に乗って帰れば名乗りを上げながら東へ移動しているのと同じなので別の飛竜を見つくろう予定だった。幸い路銀には困らないので宿場町ごとに飛竜を確保することも可能だろう。
「あのねぇクロードくん、怠けるのってすっごく気を使うんだから!」
それまでクロードに背中を預けていたヒルダは真っ白な身体の向きを変えた。褐色の喉元で輝く翠玉の首飾りを弄りながらツィリルが聞いたら本当に機嫌を悪くしそうな話をし始める。
「喜んで仕事を引き受けてもらうには日頃から好かれなきゃいけないしどれくらい仕事を押し付けられる人なのか見極めなきゃいけないし!」
言っていることは本当にひどいが全ての仕事を自力でやるわけにいかない立場であるクロードにとって実に示唆に富んでいる発言だった。そしてこのヒルダに部屋の片付けを手伝わせるマリアンヌはやはり大物なのではなかろうか。
「真理だな」
「船がいいよ。クロードくんがいなくなったってわかったらセイロス騎士団の人たちはきっと空しか見ないだろうから」
学友たちがいればクロードが敢えて船や馬を使う可能性に気付くだろうが共に戦った貴族の嫡子たちは連れてきた兵たちを連れて自領に戻らねばならない。新生軍結成以来一度も帰省していないラファエルはベレト、クロード、ローレンツ、それにマリアンヌから書いてもらった紹介状を手に入れ妹と祖父を安心させるため一日早く出発した。帰路の補佐を、というわけでレオニーはマリアンヌにイグナーツはローレンツに雇われているためおそらくクロードの捜索はセイロス騎士団が主体となって行うことになる。
「参考にする」
「じゃあそろそろ自分の部屋に戻って。クロードくん明日は大変なんだからもう眠らないと」
こんな風に同じ寝台で夜を過ごせる日が次にいつ来るのかクロードにもヒルダにも全く分からない。これまでずっとヒルダは修道院ではちょっと、と言っていたのに今晩に限ってお許しが出たのはそういうことだろう。クロードは白い肌の手触りや汗と香水の混ざった匂いをヒルダの部屋でもう少し楽しみたかったのだがどうやらヒルダはお開きにしたいらしい。
「こう言う時って普通、離れたくないから私も一緒に行く、とか無駄だって分かってるけど行かないで、と言うもんじゃないのか?」
クロードがそう言って茶化すとヒルダは褐色の手を臍の下辺りに導いた。褐色の指を吸い付くような白い肌の上で遊ばせようとしたが強く掴まれる。
「私にはいつか命を賭ける日が来るの」
フォドラでもパルミラでも貴族の娘が子を望まれるのは変わらないし出産が命懸けであることも同じだ。だがその前の段階でクロードがしくじって王宮内での政争に負ければクロードもヒルダも毎日命を狙われながら暮らすことになる。ヒルダはクロードの子を宿す日のことを真剣に話していた。妊娠出産以外で危険な目に遭わずに済むよう地均しをしておけ、と言っている。
本気を出したヒルダはすごいのだ。こんなに精神的な興奮を掻き立てられる「部屋から出ていけ」の言い方が世の中に存在するとクロードは知らなかった。頭や体に溜まった熱を逃すために大きく息を吐く。
「何の憂いもないように整えておくよ。そうだ、こいつも預かってもらえないか?」
クロードは首飾りを外してヒルダにつけてやった。しかし鎖が長く翠玉は小柄な彼女の豊かな胸の谷間に挟まれている。見張り役にはちょうど良いのかもしれなかった。母から餞別としてフォドラ風の女物の指輪を持たされているが人によって指の太さは違うしパルミラ育ちのクロードに指輪はどうにも馴染まない。
「あのね、クロードくん。こう言う時って普通、指輪を渡すもんじゃないの?」
「パルミラだと交換するのは首飾りなんだよ」
ヒルダが桃色の瞳を見開いた。クロードが首飾りを服の下に着けていた理由がわかったからだろう。フォドラで言うならば結婚していないのに薬指に指輪を嵌めているようなものなので本当に居た堪れない気持ちになるのだ。特にツィリルに見つかって気まずい雰囲気になることを絶対に避けたかったので襯衣の内側に隠していた。このように両国では文化の違いがある。砦でヒルダから首飾りを着け直して貰った時は黙っていたが明るい未来を先取りできたような気がしてクロードはとても嬉しかったのだ。
「じゃあ次会える日までに私もクロードくんの分を用意しなきゃ。鎖の長さは少し短めにするからね」
ヒルダの趣味は宝飾品作りだからきっとクロードに似合うような首飾りを作ってくれるだろう。会えない間、彼女が喜びそうなものをたまに贈ってそれに手紙を添えるのも楽しいかもしれない。
王宮は上空も含めて手練れの衛兵に守られ何者の侵入も許さない。安全が確保されているからか王子は開放的な気分が味わえる屋外で昼食を取るのが好きだ。召使いたちは昼になると中庭にいつも絨毯を敷きそこに大きな銀の盆を置いてその上に飲み物や食べ物を用意している。
王子は庭の出来になど目もくれなかったが数ヶ月前のある時、庭師に庭を花でいっぱいにしろと命じ、いつなら花が満開になるのかと問うた。庭師が恐る恐る六月には、と答えると王子は庭師に聞き取れない言葉で何事かをつぶやいた。王子の瞳はパルミラでは珍しい緑色だ。パルミラでは人を食い殺す化け物の瞳が緑色だと言われており七年も失踪していた彼には数々の怪しい噂がある。恐ろしい王子の機嫌を損ねてしまったかと思い庭師が怯えていると彼は懐から取り出した金貨を渡した。
六月は王都が最も美しい月と言われる。花が咲き乱れ雨は滅多に降らず真夏ほど太陽の光は眩しくない。太陽の下でも月明かりの下でも快適に過ごせるのだ。そんな雲一つない真っ青な空で真っ白な飛竜が一頭、気持ちよさそうに飛んでいる。王宮の周りを旋回し何かを探しているようだ。しかし衛兵たちが弓砲台で狙おうとしないのでどうやら許可は取っているらしい。
飛竜に気づいた王子は用意された昼食には目もくれず色とりどりの花で溢れかえる中庭の真ん中に立ち親指と人差し指を口に咥えると指笛を鳴らした。その音を聞きつけた真っ白な飛竜が王子を目掛けて一直線に降下し始める。騎手は飛竜が急に自分の言うことを聞かなくなったので一瞬焦ったようだが何が起きたのかを悟り手綱から手を離した。旅装から察するにパルミラの者ではない。騎手が外套の頭巾を外すと桃色の髪が風に煽られた。真っ白な顔は遠目に見ても喜びに染まり髪と同じ桃色の瞳が潤んでいるのか先ほどから手袋をしたまま目元を拭っている。見た目からしてどうやらフォドラの者のようだ。
王子は先ほどから周りにかしずく召使いたちが分かる言葉を一言も発していない。だが召使いたちにも王子がずっと口にしているヒルダ、というのが騎手の名前であることが分かった。王子が大きく手を広げ彼女が着地するのを待っている姿を見れば立太子の礼を経たというのに喉元に首飾りを巻こうとしない理由も分かろうというものだ。
飛竜は降下している最中でまだ王宮の二階にある露台くらいの高さだというのにヒルダは鎧から足を外し始めている。右足から外し鞍に手をついて左向きの横座りになると彼女は手を広げて待っている王子目掛けて飛び降りた。
彼女は小柄だが勢いがついているので流石に王子も支えきれず二人は絨毯の上に転がってしまった。はしゃぐ二人の間に飛竜が白い鼻先をつっこむとそれがくすぐったいのか二人揃って笑っている。
「クロードくん本当に久しぶりだね、元気だった?」
「まあな。来てくれて嬉しいよ。こいつの面倒も見てくれてありがとな」
「置いていかれた者同士すっごく仲良くなったんだから!」
召使いたちは言葉を理解できないというのにそれが分かっていないのかヒルダは王子の耳元に口を寄せた。
「それでパルミラ語が全くわからないふりは何ヶ月くらいすれば良いの?」
通常であれば立太子の礼を経た王子が結婚すれば国を挙げての祝事となり王太子妃はそこで披露される。だが王太子妃が当時はまだ和平条約も締結していないフォドラ出身であったためお披露目はカリード王子の即位と同時となった。それまでも王太子夫妻のご学友とやらは非公式に度々フォドラからパルミラを訪れていたが皆とにかく変わり者揃いであった、と文書官の個人的な備忘録に記されている。パルミラとフォドラの国交は個人同士の強い結びつきがきっかけとなって樹立されたがその詳細な経過はエドマンド辺境伯となったグロスタール伯夫人の手記にも残されている。
"小鳥が西風に乗って飛んでいった。辿り着いた東の地でどう羽ばたいたのかは皆も知る通りなのでここには記さない。ただ細やかながらフォドラ=パルミラ和平条約に携わった者として、あの二人の学友として、知っていることをきちんと書き残し時の流れに抗っておきたい。意志を持って残しておかねば全てが時の流れに覆い隠されてしまうことを私は身を持って知っている。ヒルダ=ヴァレンティン=ゴネリルは和平の証として異国の王に嫁いだのではない。学友クロード=フォン=リーガンの元に嫁いだのだ。二人は元から愛し合う恋人同士であったし何よりも気があう親友同士であったのだ"畳む
#かのひとはうつくしく
#クロヒル
#ロレマリ
19.sequel:L&M
紋章を持つ貴族同士の婚姻は動物の品種改良と似ている。好ましい形質が確実に顕になるよう交配していくからだ。逆に好ましくない形質を持つものは間引かれる。マリアンヌの実父は"おこり"を恐れていた。モーリスの紋章を持つ子供はそれはそれは美しく生まれてくるのだという。両親は美しい乳児を愛さずにはいられない。子供は自分の一族にかかった呪いを知らずに育つが子供の成長と時を同じくして呪いはゆっくりと親を侵蝕していく。
"おこり"いや"興り"が訪れると最初はぼんやりする時間が増える。言動に異常をきたしてしまえばもう死ぬまで止まらない。人格が崩れ獣性が剥き出しになっていく。獣性が剥き出しになれば社会的に破綻し最後はヒトの形を保てなくなる。ヒトのまま尊厳を保ち周囲から愛されて生涯を終えたいなら早く死ぬしかない。モーリスの紋章を持つ一族は前線で全く武器を持たず治療に専念する修道士や都市の消火隊など危険な仕事に従事するようになった。その結果かつて社会から根絶やしにされかけた一族は信頼を回復し地方で領主を務めるまでになった。それでもモーリスの紋章を持つ一族の生存戦略は変わらない。
聡い子供だったマリアンヌは父方の一族が他者からの愛や情けを人質に生き延び子をなしているのだと気づいた時、女神に独身のまま死なせて欲しいと祈った。しかしその祈りは聞き入れられず父は"おこり"を迎え母は実家の力を使ってでも生き延びるよう娘に伝え父と共に姿を消している。その全てを悟った上でマリアンヌを引き取ったエドマンド辺境伯は多忙な身でありながら死に取り憑かれた養女から目を離さなかった。
彼は周り中からやり手だと恐れられていたがマリアンヌの両親について語ると感情が処理しきれず泣いてしまうことが多い。それを本人も自覚しているのか近頃は召使いや家臣たちに見られぬよう出先で話すようになった。血が繋がっているせいかマリアンヌもエドマンド辺境伯も馬が大好きで今日も子馬が生まれたという馬場まで二人で赴いている。そして不思議なことに普通なら子馬を守るために気が立っている時期の母馬に近寄っても二人とも嫌がられることがない。血統管理を徹底して行った周囲の期待通り見事な子馬を産んだ母馬は牧場で誇らしげにしている。
「お養父さま、私の計算があっていればこの子は芦毛です」
芦毛は馬の毛色の中で最も興味深いかもしれない。成長や老化に伴って色味が変わっていくからだ。そして芦毛同士で掛け合わせても子馬が芦毛になるとは限らない。
「そうか、マリアンヌがいうならきっとそうなのだろう。お前の結婚相手も馬が好きだといいな」
「私は結婚しません……お養父さまも結婚していないではありませんか」
エドマンド辺境伯は周囲から結婚を勧められても自分に正直であるためだ、と嘯きずっと独身を貫いていた。だからといって女遊びが激しいという訳でもない。マリアンヌを引き取ったことは次善の策として周囲から歓迎されたがマリアンヌ本人は自分と実父がエドマンド家に入り込んだ異物だと認識している。
「お養父さま、私のことが邪魔になったらいつでも養子縁組を解消してください」
マリアンヌはエドマンド辺境伯の血が繋がった姪だが養父が結婚し子を成したら絶対に実子を優先して欲しいと思っている。だが結婚せずとも満たされているから、と言って頑なに妻を娶ろうとしない。
「私は自分の愛が報われた証をそんな風に手放しても平然と生きていられるほど強い男ではないよ」
死に瀕して子供を託されるほどの愛や信頼を手に入れた証がマリアンヌなのだ、とエドマンド辺境伯は繰り返す。だがそこには大きな謎があった。
「では何故私を士官学校へやるのですか?」
「ああ!マリアンヌ見てご覧!もう歯が生えている!」
エドマンド辺境伯は鼻を擦り寄せてきた子馬の咥内が一瞬見えたのが嬉しかったのか養女であるマリアンヌの声を遮ってしまった。だが同じ動物好きとしてマリアンヌにもその気持ちは分かる。
「まあ!なんて可愛らしいんでしょうか!」
「だがどうやらまだ前歯だけだ」
生まれたばかりの子馬は臼歯がないのでまだ飼い葉が食べられず母乳頼りだ。馬は歯が生え揃っても臼歯と前歯の間に大きな隙間がある。セイロス教ではこの馬銜を噛ませるのにおあつらえ向きのこの隙間こそが女神がヒトに馬を与えた証だと言われている。馬銜がなければヒトは馬を使役することができない。豚や鶏のように食糧として繁殖させるだけにとどまっただろう。モーリスの紋章は隙間なく歯が生えた馬のようだ。モーリスの紋章を持っている者は馬銜と手綱で操ることが出来ない馬に乗せられて死ぬまで下馬することが叶わない。エドマンド辺境伯は母馬の真似をして水桶に顔を突っ込んでいる子馬を眺めながら話を戻した。
「先ほどの話だが……ガルグ=マクで友人を作ってほしいからだ。運が良ければ私のように愛と信頼を手に入れられるかもしれない」
愛も信頼もマリアンヌには縁遠く感じられた。あまり乗り気にはなれなかったが逆らう気力もない。新生活の支度に熱心なのはエドマンド辺境伯だけで身の回りの品をああでもないこうでもないと忙しいだろうに選んでいてなんだか現実感がなかった。
そして今も現実感がない。薄明の中でローレンツがマリアンヌの前で膝をついている。場所は現在ではベレトが住み着いている旧リーガン邸の四阿屋だ。空の色は刻々と変わり太陽の赤と空の青を混ぜたような紫色になっている。晴れの日のデアドラは陽が落ちるたびに数分間、色を塗り替えられるのだ。
「マリアンヌさん、僕と生涯を共に過ごしてほしい。僕はいかなる時も貴女の支えになる」
戦後、雲隠れしたクロードの代わりにマリアンヌもローレンツも水の都と名高いデアドラに呼び出され戦後処理の手伝いをしていた。二人とも一度は自領の復興のため地元に戻ったがベレトに呼び出された後はデアドラの上屋敷に来てもらっているだけで領地には戻れていない。季節が一巡し流石にもう一度きちんと領地に戻らねばという頃になってマリアンヌはローレンツと共にベレトから夕食に招かれた。その帰り道にこのような状態になっている。
家格も釣り合っているし戦争も終わった。親に言えば全てがお膳立てされた筈だ。だがきっとローレンツはそれが嫌だったのだ。名家の者同士の結婚は事業と変わらない。マリアンヌの為だけの言葉をいつどこで告げるのかくらいは二人だけのものにしたかったのだろう。
マリアンヌが黙って頷くとローレンツは左手の薬指に指輪をつけてくれた。いつの間にか陽は完全に落ちリーガンの紋章のような月と瞬く星が辺りを白く照らしている。
「私、自分にこんな未来が待っているなんて想像もしませんでした。毎日笑顔でいられるのはローレンツさんのおかげです」
「承諾してくれてありがとうマリアンヌさん。この手紙も無駄にならずに済んだ」
ローレンツが胸元から取り出した封筒を月明かりの下で確認すると宛先はマリアンヌの養父であるエドマンド辺境伯になっている。
「お気遣いありがとうございます」
「速やかに直接ご挨拶に伺うつもりでいるから待っていて欲しい」
「ところでローレンツさん、この指輪はもしかしてヒルダさんが?」
「指の寸法を知らないかと手紙で問い合わせたらこれが届いてね。貴女がたの友情の証でもあるからこれを渡すべきと思ったのだ。だが結婚指輪は二人で選びたいな」
クロードが会えない間のご機嫌取りにパルミラから宝石や研磨用の道具を寄越してくる、とヒルダが言っていた。大ぶりの金剛石は何かの牽制や誇示のつもりなのかもしれないがそれが流れ流れてマリアンヌの元へ辿り着いている。その思い切りの良さが実にヒルダらしくマリアンヌとローレンツは笑いを堪えることができなかった。
エドマンド辺境伯は養女が持参したローレンツからの手紙を受け取り中身を確認するとマリアンヌの両親を偲ぶ祭壇にそっと置き深い深いため息をつくと右手で瞼を押さえた。この手紙を受け取るべきだった二人はもうこの世にいない。
「何か嫌なことがあればすぐにこちらに戻って来なさい。いつでも歓迎する」
「その……宜しいのでしょうか?」
将来のエドマンド辺境伯としてマリアンヌは引き取られている。共同で双方の領地を統治している夫妻もいるがやはり今までのようにはいかない。
「そうだな、寂しくないと言えば嘘になる。だが円卓会議で婿殿をいびる楽しみができたから差し引きで損はしていない」
養父がローレンツを婿殿と呼んだのでこの話は本決まりなのだとマリアンヌは察した。自然と笑みが溢れだす。
「あの……!ありがとうございます!」
「仕立て屋を呼ぼう。未来の婿殿を迎えるにあたってマリアンヌも私も美しく装わねば」
一年近く自領に戻れなかったせいかローレンツがエドマンド領を訪問出来たのはデアドラで婚約指輪を受け取って貰えた日から数えて二節後だった。レスター諸侯同盟の南西部にあるグロスタール領と北東部にあるエドマンド領はかなり離れておりそもそも移動にも日数を要する。
将来の舅からデアドラでは何度もきつい物言いをされたのでローレンツはそれなりに緊張していたが二ヶ月ぶりに小間使いの手を借りて美しく装ったマリアンヌの顔を目にすれば旅の疲れも含めて消え失せた。儀礼を完璧にこなすのが得意なローレンツは今のところエドマンド辺境伯から突飛なことを言われていない。この後は食事を共にしローレンツが日帰りできない遠方から訪れているためこの屋敷に一泊して帰る。当然泊まるのは客室だ。
将来の花嫁の父は途中二年間の抜けがあるとはいえ十一年間大切に育ててきた娘を手放すのが寂しいのか気がつくと食事の手を止めてマリアンヌの顔を見つめている。正式な養女になっているがマリアンヌはエドマンド辺境伯の妹の娘、つまり姪だ。森の奥深くで人語を話す魔獣を倒した晩にマリアンヌが全くの他人ではないのだと話してくれた。二人の佇まいが似ているのは血縁者だからかもしれない。ローレンツがエドマンド領の名物である固い麺麭の上に香草のソースと魚介と野菜を何層にも重ねたサラダを褒めると二人とも満足そうに微笑んだ。
「モーリスの紋章はマリアンヌの実父やマリアンヌの本質ではないのだ」
そういうとマリアンヌの養父は一気に葡萄酒の杯を空けた。本来なら召使いがお代わりを注ぐべきだが人払いをしているので皆、手酌で呑んでいる。例外中の例外だが繊細な話題を扱うので仕方なかった。
ローレンツはマリアンヌから縁を切られるのが嫌で一度は聞くことを拒絶したモーリスの紋章に関する話もあの晩に聞いている。モーリスの紋章を宿す一族のうち社会に尽くそうとしなかった者は身を持ち崩しても誰も助けてくれなかった。"おこり"がいずれ来ると分かっていても見捨てられなかったのは献身的に社会に尽くした者たちだ。人懐こい犬だけが社会に受け入れられ愛されたように彼らは生き残りを賭けて自制心を強く持ち献身的に社会に尽くしてきた。
「狂おしいまでの生への渇望やそれを後押しする自制心や献身的な態度こそが本質だと私は考えている」
そういうとエドマンド辺境伯は自領の名物である栗の粉で作ったパスタを口に運んだ。ローレンツは生まれて初めて食べたが絡めてある胡桃から作ったソースと実によく合う。
「僕も同意見です。モーリスの紋章はマリアンヌさんが愛されない理由にはならない」
「その通りだ。ローレンツくん。だから私も妹もあいつが……マリアンヌの実父がとても好きだった。我々は領地と門地に尽くし守るために生きろと言われて育ったがそれを破ってしまうほどに」
ローレンツは自分が見ているものが信じられなかった。あのエドマンド辺境伯が人前でしかも重要な食事中に手巾で目元をぬぐっている。エドマンド辺境伯の弱さに触れたのは初めてだ。
「世間から見れば正しくない愛なのだろうがそんなことはどうでもよくなるほど私も妹もマリアンヌの実父のことが好きだった」
「そのお気持ちは……僕にもわかるつもりです。痛いほどに」
「マリアンヌは私にとって妹とあいつからの愛と信頼の証なのだ。だがモーリスの紋章にまつわる悪評は根強い。この子は見違えるほど強くなったがそれでも守ってやってほしい」
エドマンド辺境伯はマリアンヌを守るためにあのハンネマンに検査を諦めさせるほどの大金を積んだ。市井の紋章学者が押しかけたこともあったが小物だったから金を握らせておくべき学者に入らなかったのだろう。
「お養父さま……今まで本当にお世話になりました」
それまで二人の会話を妨げないために黙って食事と葡萄酒に口をつけていたマリアンヌが口を開いた。あからさまに飲みすぎている養父を心配して差し伸べた手の薬指ではヒルダが作った指輪が光っている。
「めでたいことがあったから今晩は呑みすぎたな。私は先に休ませてもらう」
既に皆の皿は空になっていたのでマリアンヌが鈴を鳴らし召使いたちに皿を片付けさせた。瞼が上がらなくなりつつある主人の姿を見て執事が肩を貸している。マリアンヌはローレンツを連れてそっとその場を離れ客間に通してくれた。到着した時に渡した旅行鞄が既に運び込まれている。
マリアンヌが後ろ手で鍵を閉めてくれたのでローレンツはずっと疑問に思っていた、本来ならば口にするべきではないことをようやく口に出来た。確かめておかねば今後、舅相手に失言する可能性もある。
「ところで……その……どうしても気になってしまうのだが」
ローレンツには三人のうちにいくつも成立する相関関係が全く分からない。辺境伯の言う正しくない愛の対象が妹なのか妹の夫なのかすら分からない。
「お養父さまに確認したことはありません。学生時代は道に外れた愛に身を捧げた親たちのことが全く理解できませんでした」
確かに学生時代のマリアンヌは死によって救われることを望んでいた。だが今は見違えるように明るくなっている。
「でもローレンツさんを好きになって少しは理解できたような気がします」
それは光栄だ、と言葉で伝えようとしたがつま先立ちになったマリアンヌの唇で口を塞がれてしまったのでそれは叶わなかった。畳む
#クロヒル
#ロレマリ
19.sequel:L&M
紋章を持つ貴族同士の婚姻は動物の品種改良と似ている。好ましい形質が確実に顕になるよう交配していくからだ。逆に好ましくない形質を持つものは間引かれる。マリアンヌの実父は"おこり"を恐れていた。モーリスの紋章を持つ子供はそれはそれは美しく生まれてくるのだという。両親は美しい乳児を愛さずにはいられない。子供は自分の一族にかかった呪いを知らずに育つが子供の成長と時を同じくして呪いはゆっくりと親を侵蝕していく。
"おこり"いや"興り"が訪れると最初はぼんやりする時間が増える。言動に異常をきたしてしまえばもう死ぬまで止まらない。人格が崩れ獣性が剥き出しになっていく。獣性が剥き出しになれば社会的に破綻し最後はヒトの形を保てなくなる。ヒトのまま尊厳を保ち周囲から愛されて生涯を終えたいなら早く死ぬしかない。モーリスの紋章を持つ一族は前線で全く武器を持たず治療に専念する修道士や都市の消火隊など危険な仕事に従事するようになった。その結果かつて社会から根絶やしにされかけた一族は信頼を回復し地方で領主を務めるまでになった。それでもモーリスの紋章を持つ一族の生存戦略は変わらない。
聡い子供だったマリアンヌは父方の一族が他者からの愛や情けを人質に生き延び子をなしているのだと気づいた時、女神に独身のまま死なせて欲しいと祈った。しかしその祈りは聞き入れられず父は"おこり"を迎え母は実家の力を使ってでも生き延びるよう娘に伝え父と共に姿を消している。その全てを悟った上でマリアンヌを引き取ったエドマンド辺境伯は多忙な身でありながら死に取り憑かれた養女から目を離さなかった。
彼は周り中からやり手だと恐れられていたがマリアンヌの両親について語ると感情が処理しきれず泣いてしまうことが多い。それを本人も自覚しているのか近頃は召使いや家臣たちに見られぬよう出先で話すようになった。血が繋がっているせいかマリアンヌもエドマンド辺境伯も馬が大好きで今日も子馬が生まれたという馬場まで二人で赴いている。そして不思議なことに普通なら子馬を守るために気が立っている時期の母馬に近寄っても二人とも嫌がられることがない。血統管理を徹底して行った周囲の期待通り見事な子馬を産んだ母馬は牧場で誇らしげにしている。
「お養父さま、私の計算があっていればこの子は芦毛です」
芦毛は馬の毛色の中で最も興味深いかもしれない。成長や老化に伴って色味が変わっていくからだ。そして芦毛同士で掛け合わせても子馬が芦毛になるとは限らない。
「そうか、マリアンヌがいうならきっとそうなのだろう。お前の結婚相手も馬が好きだといいな」
「私は結婚しません……お養父さまも結婚していないではありませんか」
エドマンド辺境伯は周囲から結婚を勧められても自分に正直であるためだ、と嘯きずっと独身を貫いていた。だからといって女遊びが激しいという訳でもない。マリアンヌを引き取ったことは次善の策として周囲から歓迎されたがマリアンヌ本人は自分と実父がエドマンド家に入り込んだ異物だと認識している。
「お養父さま、私のことが邪魔になったらいつでも養子縁組を解消してください」
マリアンヌはエドマンド辺境伯の血が繋がった姪だが養父が結婚し子を成したら絶対に実子を優先して欲しいと思っている。だが結婚せずとも満たされているから、と言って頑なに妻を娶ろうとしない。
「私は自分の愛が報われた証をそんな風に手放しても平然と生きていられるほど強い男ではないよ」
死に瀕して子供を託されるほどの愛や信頼を手に入れた証がマリアンヌなのだ、とエドマンド辺境伯は繰り返す。だがそこには大きな謎があった。
「では何故私を士官学校へやるのですか?」
「ああ!マリアンヌ見てご覧!もう歯が生えている!」
エドマンド辺境伯は鼻を擦り寄せてきた子馬の咥内が一瞬見えたのが嬉しかったのか養女であるマリアンヌの声を遮ってしまった。だが同じ動物好きとしてマリアンヌにもその気持ちは分かる。
「まあ!なんて可愛らしいんでしょうか!」
「だがどうやらまだ前歯だけだ」
生まれたばかりの子馬は臼歯がないのでまだ飼い葉が食べられず母乳頼りだ。馬は歯が生え揃っても臼歯と前歯の間に大きな隙間がある。セイロス教ではこの馬銜を噛ませるのにおあつらえ向きのこの隙間こそが女神がヒトに馬を与えた証だと言われている。馬銜がなければヒトは馬を使役することができない。豚や鶏のように食糧として繁殖させるだけにとどまっただろう。モーリスの紋章は隙間なく歯が生えた馬のようだ。モーリスの紋章を持っている者は馬銜と手綱で操ることが出来ない馬に乗せられて死ぬまで下馬することが叶わない。エドマンド辺境伯は母馬の真似をして水桶に顔を突っ込んでいる子馬を眺めながら話を戻した。
「先ほどの話だが……ガルグ=マクで友人を作ってほしいからだ。運が良ければ私のように愛と信頼を手に入れられるかもしれない」
愛も信頼もマリアンヌには縁遠く感じられた。あまり乗り気にはなれなかったが逆らう気力もない。新生活の支度に熱心なのはエドマンド辺境伯だけで身の回りの品をああでもないこうでもないと忙しいだろうに選んでいてなんだか現実感がなかった。
そして今も現実感がない。薄明の中でローレンツがマリアンヌの前で膝をついている。場所は現在ではベレトが住み着いている旧リーガン邸の四阿屋だ。空の色は刻々と変わり太陽の赤と空の青を混ぜたような紫色になっている。晴れの日のデアドラは陽が落ちるたびに数分間、色を塗り替えられるのだ。
「マリアンヌさん、僕と生涯を共に過ごしてほしい。僕はいかなる時も貴女の支えになる」
戦後、雲隠れしたクロードの代わりにマリアンヌもローレンツも水の都と名高いデアドラに呼び出され戦後処理の手伝いをしていた。二人とも一度は自領の復興のため地元に戻ったがベレトに呼び出された後はデアドラの上屋敷に来てもらっているだけで領地には戻れていない。季節が一巡し流石にもう一度きちんと領地に戻らねばという頃になってマリアンヌはローレンツと共にベレトから夕食に招かれた。その帰り道にこのような状態になっている。
家格も釣り合っているし戦争も終わった。親に言えば全てがお膳立てされた筈だ。だがきっとローレンツはそれが嫌だったのだ。名家の者同士の結婚は事業と変わらない。マリアンヌの為だけの言葉をいつどこで告げるのかくらいは二人だけのものにしたかったのだろう。
マリアンヌが黙って頷くとローレンツは左手の薬指に指輪をつけてくれた。いつの間にか陽は完全に落ちリーガンの紋章のような月と瞬く星が辺りを白く照らしている。
「私、自分にこんな未来が待っているなんて想像もしませんでした。毎日笑顔でいられるのはローレンツさんのおかげです」
「承諾してくれてありがとうマリアンヌさん。この手紙も無駄にならずに済んだ」
ローレンツが胸元から取り出した封筒を月明かりの下で確認すると宛先はマリアンヌの養父であるエドマンド辺境伯になっている。
「お気遣いありがとうございます」
「速やかに直接ご挨拶に伺うつもりでいるから待っていて欲しい」
「ところでローレンツさん、この指輪はもしかしてヒルダさんが?」
「指の寸法を知らないかと手紙で問い合わせたらこれが届いてね。貴女がたの友情の証でもあるからこれを渡すべきと思ったのだ。だが結婚指輪は二人で選びたいな」
クロードが会えない間のご機嫌取りにパルミラから宝石や研磨用の道具を寄越してくる、とヒルダが言っていた。大ぶりの金剛石は何かの牽制や誇示のつもりなのかもしれないがそれが流れ流れてマリアンヌの元へ辿り着いている。その思い切りの良さが実にヒルダらしくマリアンヌとローレンツは笑いを堪えることができなかった。
エドマンド辺境伯は養女が持参したローレンツからの手紙を受け取り中身を確認するとマリアンヌの両親を偲ぶ祭壇にそっと置き深い深いため息をつくと右手で瞼を押さえた。この手紙を受け取るべきだった二人はもうこの世にいない。
「何か嫌なことがあればすぐにこちらに戻って来なさい。いつでも歓迎する」
「その……宜しいのでしょうか?」
将来のエドマンド辺境伯としてマリアンヌは引き取られている。共同で双方の領地を統治している夫妻もいるがやはり今までのようにはいかない。
「そうだな、寂しくないと言えば嘘になる。だが円卓会議で婿殿をいびる楽しみができたから差し引きで損はしていない」
養父がローレンツを婿殿と呼んだのでこの話は本決まりなのだとマリアンヌは察した。自然と笑みが溢れだす。
「あの……!ありがとうございます!」
「仕立て屋を呼ぼう。未来の婿殿を迎えるにあたってマリアンヌも私も美しく装わねば」
一年近く自領に戻れなかったせいかローレンツがエドマンド領を訪問出来たのはデアドラで婚約指輪を受け取って貰えた日から数えて二節後だった。レスター諸侯同盟の南西部にあるグロスタール領と北東部にあるエドマンド領はかなり離れておりそもそも移動にも日数を要する。
将来の舅からデアドラでは何度もきつい物言いをされたのでローレンツはそれなりに緊張していたが二ヶ月ぶりに小間使いの手を借りて美しく装ったマリアンヌの顔を目にすれば旅の疲れも含めて消え失せた。儀礼を完璧にこなすのが得意なローレンツは今のところエドマンド辺境伯から突飛なことを言われていない。この後は食事を共にしローレンツが日帰りできない遠方から訪れているためこの屋敷に一泊して帰る。当然泊まるのは客室だ。
将来の花嫁の父は途中二年間の抜けがあるとはいえ十一年間大切に育ててきた娘を手放すのが寂しいのか気がつくと食事の手を止めてマリアンヌの顔を見つめている。正式な養女になっているがマリアンヌはエドマンド辺境伯の妹の娘、つまり姪だ。森の奥深くで人語を話す魔獣を倒した晩にマリアンヌが全くの他人ではないのだと話してくれた。二人の佇まいが似ているのは血縁者だからかもしれない。ローレンツがエドマンド領の名物である固い麺麭の上に香草のソースと魚介と野菜を何層にも重ねたサラダを褒めると二人とも満足そうに微笑んだ。
「モーリスの紋章はマリアンヌの実父やマリアンヌの本質ではないのだ」
そういうとマリアンヌの養父は一気に葡萄酒の杯を空けた。本来なら召使いがお代わりを注ぐべきだが人払いをしているので皆、手酌で呑んでいる。例外中の例外だが繊細な話題を扱うので仕方なかった。
ローレンツはマリアンヌから縁を切られるのが嫌で一度は聞くことを拒絶したモーリスの紋章に関する話もあの晩に聞いている。モーリスの紋章を宿す一族のうち社会に尽くそうとしなかった者は身を持ち崩しても誰も助けてくれなかった。"おこり"がいずれ来ると分かっていても見捨てられなかったのは献身的に社会に尽くした者たちだ。人懐こい犬だけが社会に受け入れられ愛されたように彼らは生き残りを賭けて自制心を強く持ち献身的に社会に尽くしてきた。
「狂おしいまでの生への渇望やそれを後押しする自制心や献身的な態度こそが本質だと私は考えている」
そういうとエドマンド辺境伯は自領の名物である栗の粉で作ったパスタを口に運んだ。ローレンツは生まれて初めて食べたが絡めてある胡桃から作ったソースと実によく合う。
「僕も同意見です。モーリスの紋章はマリアンヌさんが愛されない理由にはならない」
「その通りだ。ローレンツくん。だから私も妹もあいつが……マリアンヌの実父がとても好きだった。我々は領地と門地に尽くし守るために生きろと言われて育ったがそれを破ってしまうほどに」
ローレンツは自分が見ているものが信じられなかった。あのエドマンド辺境伯が人前でしかも重要な食事中に手巾で目元をぬぐっている。エドマンド辺境伯の弱さに触れたのは初めてだ。
「世間から見れば正しくない愛なのだろうがそんなことはどうでもよくなるほど私も妹もマリアンヌの実父のことが好きだった」
「そのお気持ちは……僕にもわかるつもりです。痛いほどに」
「マリアンヌは私にとって妹とあいつからの愛と信頼の証なのだ。だがモーリスの紋章にまつわる悪評は根強い。この子は見違えるほど強くなったがそれでも守ってやってほしい」
エドマンド辺境伯はマリアンヌを守るためにあのハンネマンに検査を諦めさせるほどの大金を積んだ。市井の紋章学者が押しかけたこともあったが小物だったから金を握らせておくべき学者に入らなかったのだろう。
「お養父さま……今まで本当にお世話になりました」
それまで二人の会話を妨げないために黙って食事と葡萄酒に口をつけていたマリアンヌが口を開いた。あからさまに飲みすぎている養父を心配して差し伸べた手の薬指ではヒルダが作った指輪が光っている。
「めでたいことがあったから今晩は呑みすぎたな。私は先に休ませてもらう」
既に皆の皿は空になっていたのでマリアンヌが鈴を鳴らし召使いたちに皿を片付けさせた。瞼が上がらなくなりつつある主人の姿を見て執事が肩を貸している。マリアンヌはローレンツを連れてそっとその場を離れ客間に通してくれた。到着した時に渡した旅行鞄が既に運び込まれている。
マリアンヌが後ろ手で鍵を閉めてくれたのでローレンツはずっと疑問に思っていた、本来ならば口にするべきではないことをようやく口に出来た。確かめておかねば今後、舅相手に失言する可能性もある。
「ところで……その……どうしても気になってしまうのだが」
ローレンツには三人のうちにいくつも成立する相関関係が全く分からない。辺境伯の言う正しくない愛の対象が妹なのか妹の夫なのかすら分からない。
「お養父さまに確認したことはありません。学生時代は道に外れた愛に身を捧げた親たちのことが全く理解できませんでした」
確かに学生時代のマリアンヌは死によって救われることを望んでいた。だが今は見違えるように明るくなっている。
「でもローレンツさんを好きになって少しは理解できたような気がします」
それは光栄だ、と言葉で伝えようとしたがつま先立ちになったマリアンヌの唇で口を塞がれてしまったのでそれは叶わなかった。畳む
「雷雨」
「かのひとはうつくしく」のboostお礼用冊子なのでそちらを先に読んだ方がわかりやすいかもしれません。
#クロヒル
#ロレマリ
#かのひとはうつくしく
#[れいほし3]
子孫繁栄は民草から皇族までありとあらゆる階級の願いだ。爵位がある貴族の家ともなれば子を成すことは大前提で、それが紋章を受け継ぐ男子であれば尚良いとされている。マリアンヌを見そめたグロスタール家の嫡子は周囲の期待を裏切ることなくグロスタールの紋章を持つ男子として生まれた。彼の御母堂はきっと安堵の涙を流したのであろう、とエドマンド辺境伯は思う。一方で養女のマリアンヌはモーリスの紋章を持たずに生まれてくることを期待されたが、実父から呪いを受け継いだ。行方不明になった妹と彼女の夫のことを思うと呪いが解けた今でさえ───辺境伯は未だに涙を禁じ得ない。
寂しくもめでたいことがあり、呑みすぎたエドマンド辺境伯は真夜中に目が覚めてしまった。目覚めてよかったのかもしれない。辛うじて上着は脱いでいたが寝巻きに着替えてもいないし、何もかぶらずに寝てしまったので耳や頭が冷え切っている。喉の渇きを潤すために杯に注いだ水差しの水も冷え切っていた。
今からグロスタール家と準備を始めるならば挙式は年が明けた春ごろだろうか。グロスタール領はここエドマンド領より南なので暖かいし陽の光も明るいので、それを計算して礼服やドレスの生地を選ばねばならない。きっと光沢がある華やかな生地が良いだろう。エドマンド領はフォドラの喉元と呼ばれる山脈の北端を擁しており、その麓は生地作りが盛んだ。食い倒れはアンヴァルで着倒れはデアドラ、デアドラで服を買うための服が要る、などと言われるがそのための生地はエドマンド領で作られていて、良港と名高いエドマンド港は生地を輸出するための港でもある。
辺境伯は持参金も嫁入り道具もマリアンヌを引き取った頃から何年もかけて用意していた。だが嫁入りとは言ってもあの性格だ。友人ができたとしても将来的には彼女が嫌悪感を持たずに済むような入り婿を探してやることになるだろう、と思っていた。自分の死後マリアンヌが一人きりにならないように。
それが何とグロスタール家の嫡子に見初められたのだという。生真面目で独特な彼はマリアンヌの本質に気付いたのだ。
「やるじゃないか」
マリアンヌとローレンツ、どちらに対しての言葉なのだろうか。決めかねたまま脳裏に浮かんだ言葉をそのまま呟いた。エドマンド辺境伯は寝巻きに袖を通し絹の帽子を被ると再び寝台に横たわり、布団の中に潜り込み雨が窓を叩く音に耳を澄ませる。遠くで雷の落ちる音がしていた。朝食を共にしたらとんぼ返りをさせるのが筋だが、明日もこの調子なら雨足の強さを言い訳にもう少しだけマリアンヌと一緒に居させてやっても良いのかもしれない。
グロスタール伯は功利的で良き嫡子として父の薫陶を受けたローレンツもその傾向が強い。エドマンド辺境伯はまだ髪が短かった頃の彼を覚えている。あれはクロード=フォン=リーガンが正式にリーガン家の嫡子になった頃だろうか。出席は叶わないものの円卓会議に随行していた彼はクロードの出現により、その手からこぼれ落ちていった栄誉の大きさに打ちのめされていたが必死で面目を保とうとしていた。───具体的に言うと手巾を噛み締めていた。
水の都と言われるデアドラは水路だらけで転落事故がよく起きる。会議を終えリーガン邸の船着場からそれぞれの上屋敷に向かう渡し船を皆で待っていた際、グロスタール家の家臣が船着場から水路へ転落しそうになった。慣れていない余所者であるが故の失敗なので仕方がないだろう。蜘蛛のように長い手足をしたローレンツは咄嗟に目の前の家臣を抱き上げたが、足首が二人分の体重に耐え切れなかった。まだ体幹が弱く姿勢に問題があったのだろう。彼の足首からは嫌な音がして、助けられた家臣は悲鳴をあげていた。足首がおかしな方に曲がったローレンツは息を荒げ涙目になっていて歩けないのは明白だったからだ。
エドマンド辺境伯は既に渡し船へ乗り込んでいたグロスタール伯に声をかけた。
「私が治療しますのでどうかお座りになったままで。ご子息の足に触れさせていただきます。君、手巾は持っているかね?」
ローレンツが痛みに顔を顰めたまま上着の隠しから手巾を取り出したので噛むように命じる。治癒魔法は大体の怪我を治療出来るが、関節や骨を元の位置に戻してからかけないと足が曲がったまま治ってしまう。
「三・二・一で戻す。痛いが我慢しなさい。そのあと私がライブをかける」
三秒後、言葉にならない呻き声が頭上から聞こえてきたが彼はなんとか喚き散らさずに済んだ。表面だけ見れば親切なエドマンド辺境伯という話だがそこにはきちんと絡繰がある。リカバーやリブローが使える者なら骨接の真似事など必要ない。リーガン邸の敷地内で起きた事故なのだ。人をやって邸内にいるリカバーやリブローの使える使用人に声をかければよい。そうしてリーガン家に借りを作るのか、それともこれをきっかけに嫡子とエドマンド家の間に繋がりを作ろうとするのかを見定めたかったのだ。
あの時、手巾を噛み締めていた若者が大乱を生き残りエドマンド領まで挨拶に来たと言うのだから人生は何があるか分からない。彼は今頃、夢も見ないほど深く眠っているのだろうか。それとも緊張のあまり眠れず───夜半すぎに鳴り始めた雷の音に耳を傾けているのだろうか。
雷鳴に紛れて小さく呻きながらマリアンヌは自室の寝台の上で何度も寝返りを打った。眠れないのは雷のせいではない。雷が鳴りはじめる前から眠れなかった。
マリアンヌは呪いが解けた晩からローレンツと二人きりでいる際に人気のないところでは素手同士で手を繋いだり頰や額に口づけをしたり、と言うような他愛もない触れ合いは何度もした。しかしその度に我が身に湧き起こる言いようのない衝動がマリアンヌにはなんとも恐ろしかった。ローレンツがその先を望んでいることは承知している。結婚したら将来的には二人で二つの領地を治めねばならない。だが婚前からこの衝動に従ったらマリアンヌはローレンツから片時も離れられなくなるような気がする。
マリアンヌが顔を真っ赤にしてそう語るとローレンツも耳まで赤くして了承してくれて、それがその時に食べていた茹でた海老のようだと思ったのを覚えている。ローレンツは自制心の塊のような人物でそれ以来ずっとマリアンヌの心の準備が整うのを待っていてくれた。
マリアンヌが宿すモーリスの紋章は獣の紋章と言われる。自分の巣とも言えるエドマンド家の本宅で初めて緊張が解けるなんてまるで獣ではないか。客室でのことを思い出すと居ても立っても居られないくなった。彼の口の中も舌も熱くてそれが堪らなく心地良かった。たったそれだけだったというのにローレンツの体温の高さがマリアンヌにもうつったかのようだった。
「あの……ごめんなさい」
「いや、正直言って望んでいたことではあるから謝る必要などないさ。ただ驚いただけで」
「驚かせて申し訳ありません……」
マリアンヌは夜になるといつも身体が冷え切ってしまうのだが今晩は違う。怒涛のように押し寄せる気恥ずかしさとその会話の後この身に受け入れた熱の記憶が身体から去ってくれない。それでもいつの間にかやってきた眠気がマリアンヌを包んでいく。意識を手放してから小間使いに起こされるまでは一瞬だった。髪を結い上げて貰い身支度を整える。ローレンツが気休めかもしれないが、といってライブをかけてくれたおかげで身体に痛みはなかった。治癒魔法はどこまでを負傷とみなすのだろうか?完治してしまえばまた痛い思いをするのかもしれない。ヒルダと会って話したかった。
窓からは昨夜の雷雨が嘘のように陽の光が差し込んでいた。きっと小鳥たちも安心したことだろう。食堂へ行くと既に養父であるエドマンド辺境伯と今や婚約者になったローレンツが席について朝食を取っていた。マリアンヌはあと何回この食堂で朝食をとるのだろうか。
「昨夜の雷はすごかったな。私はあまり良く眠れなかった」
「そうでしたか。僕は野営の時も背中さえつけばすぐに眠ってしまうので雷が鳴っていたことにすら気付きませんでした」
行軍中の休憩時間に彼がすぐに眠りについていたのはマリアンヌもよく覚えている。ローレンツは行軍中でも豪奢な寝台で羽毛布団にくるまっているかのようにすやすやと眠っていた。いくらなんでも嘘だ、と言って瞼を動きを確かめたクロードが驚愕していたのは確かグロンダーズだったか。昨晩、無理なことだとわかっているが、との前置き付きで朝まで一緒にいて欲しいとマリアンヌに言った後もどうやらすぐに眠ってしまったらしい。
「マリアンヌはどうだった?」
「あ……私もお養父さまと同じです。雷のせいで目が覚めてしまって……」
「目の下に隈が出来ているよ。今晩は早く休みなさい。しかし婿殿は頼もしいことだ」
養父がローレンツの寝つきの良さに感心しているのか嫌味を言っているのかマリアンヌには簡単に分かる。しかしローレンツが本当に眠ってしまったのかどうかは全く分からない。野営の時と同じく熟睡していても、眠れなかったのに虚勢を張っていても何だか可愛らしいとは思う。
「何にしても晴れてよかった。グロスタール領は遠い」
「荷物はまとめてありますので天気が崩れる前にここを発つつもりです」
「そうか、ではマリアンヌにお見送りさせよう」
雨さえ降ってくれればもう少しエドマンド邸にいられた筈のローレンツはしきたり通りに早々に去ることになった。玄関の扉を閉めれば少し耳が遠い馬丁しかいない。
「出来るだけ早く養父と共にグロスタール家へ挨拶に伺います」
「辺境伯はお忙しいからしばらく時間がかかりそうだ。一日千秋の思いで待っているよ。ではお元気で」
マリアンヌは馬車に乗り込もうとしたローレンツの肘を掴んだ。驚いたローレンツが振り返る。
「でも、その前に手紙のやり取りをしたり……それにデアドラでお会いできませんか?」
真意を理解した彼が目を大きく見開いたので菫青石のような瞳がよく見えた。デアドラは直線距離はともかく、交通の便を鑑みれば確かにエドマンド領とグロスタール領の中間地点でどちらの家も上屋敷を持っている。
「式や新生活の支度は確かに必要だね」
そして買い物の後で親が来ていない方の上屋敷に泊まればローレンツの望み通り、朝まで共に過ごすことができるだろう。前後の順番が多少ずれて書類の都合上の早産、をすることになったとしても気の良い恩師は地上における女神の代理人として急いで二人の結婚を認めてくれるだろう。そこさえ整えておけば後は何とでもなるのだ。
パルミラの王都に招かれたローレンツは身辺警護と称してレオニー、イグナーツ、ラファエルを雇い、爵位を返上したリシテアをマリアンヌの話し相手兼付き人として雇っている。王都までの道中は学生時代に戻ったかのような気楽さだった。
「ローレンツ、あんた完全にクロードに利用されてますよ」
「だがクロードの傍にいるヒルダさんの期待に応えないわけにはいかないだろう?たとえこの僕がおまけだとしてもな」
遠慮なく切り込むリシテアにローレンツが反論している。クロードは友人と会いたがるヒルダのため、マリアンヌを招待したかったのだが人妻だけを名指しするわけにいかない。だから夫であるローレンツに招待状を出したのだ。ヒルダの立場はまだ王子の愛姫でしかない。クロードが立太子の礼を経て結婚し、フォドラとパルミラ両国の間で和平条約が締結されなければヒルダの名前で客人を呼ぶのは難しいのだ。
異国からの書状を読んだローレンツは当然マリアンヌが身軽なうちに顔を見せに来て欲しい、という意図を察した。実際のところローレンツは貴重な品を持ち歩かない限り、マリアンヌと二人でいれば護衛など雇う必要もない。マリアンヌもローレンツがいれば話し相手や付き人など雇う必要もない。だが敢えて爵位を返上して隠遁生活を送っていたリシテアも話し相手として雇った。そうした方がヒルダもクロードも喜ぶと分かっていたからだ。
千年祭の約束の時もそうだったが立場が変わり、その生活に少し疲れたところで日常を離れると良い気分転換になる。友人たちと共に異国の風景に感嘆の声をあげながら街道を進むとあっという間に目的地であるパルミラの王都に到着した。フォドラとは全く異なる道中の景色や街並みをイグナーツが熱心に描き残している。王宮の門ではナデルがローレンツたち一行を待ち構えていた。
「グロスタール伯は随分と奥方にお甘いようで……」
「君の主人も相当だろう。何にしても雨に降られる前に着けて良かった。荷物を濡らしたくない」
「そうですな、幸運でした。あの雲の形からすると今晩は雷がうるさくて眠れないかもしれません」
パルミラに入ってから久しぶりに流暢なフォドラ語で話しかけられ、気安い雰囲気にはなったがやはり入念な検査があり武器や魔道書の類は取り上げられた。ローレンツたちは学生時代、クロードに外国の血が混ざっているなどと考えたこともなかった。しかしこうして王宮の応接間で母国の服に身を包む彼を見ていると瞳の色以外フォドラの血を感じさせるものがない。そしてそんな彼の傍にはパルミラの服に袖を通していてもフォドラ人にしか見えないヒルダがいる。
「みんな来てくれたんだ!!すっごく嬉しい!!ありがとう!!」
「ヒルダさん、お土産です。皆で選びました」
護衛という名目で雇われたラファエルだが実際は荷物持ちと言った方が正しいかもしれない。道中、複数の巨大な行李を軽々と持ち上げていたラファエルを見てパルミラ人たちが目を丸くして驚いていた。
「え!なんだろなんだろ?早く見たい!ラファエルくん!行李下ろしてくれる?」
ローレンツたちが通されたのはおそらくクロードとヒルダの私的な応接間なのだろうが、それでも充分に広々としている。大国の王族なのだから当たり前の話だが。行李の中を見て盛り上がる女性陣を尻目にローレンツはベレトからの親書をクロードに手渡した。中身を確認する緑の瞳が左右に目まぐるしく動いている。
「自分が頼む筋合いでもないが歓待してやって欲しいってさ。先生にはヒルダ共々元気でやってると伝えてくれ」
きっと大丈夫だろうと分かっていても皆かつての敵国で暮らすヒルダがとにかく心配だった。その想いの表れが大量の土産物だ。マリアンヌだけでなくローレンツの舅であるエドマンド辺境伯が持たせた化粧品もある。舅はやたらパルミラの水がヒルダの肌に合うのかを気にしていた。
「そうだ、クロ……あ、どう呼べば良いんでしょう?」
イグナーツの疑問はもっともだった。
「はは、クロードのままで良いさ。立太子の礼もまだだしな」
「……ではクロードくん、絵を描いても構わないですか?先生やゴネリル家の方にヒルダさんの様子を説明するのに一番早いので」
許可なしに王宮内の絵を描けば密偵に間違われる可能性がある。
「構わないぜ」
イグナーツとクロードのやり取りを耳にしたレオニーがクロードに一筆書かせようと提案した。衛兵に咎められた時もその書面を見せれば話が早い。
「その方がお互いに楽だろ?クロードもナデルさんも忙しいんだし、いちいちお伺いを立てられる方が面倒な筈だよ」
「いいな、それ。文面はどうするかな」
大乱を経てそれなりの地位に着き立派な大人になったというのに学生に戻ったかのように旅装も解かず皆ではしゃいだ。旅の恥はかき捨てというがその言葉の通りになっている。
「ねえ、お風呂入りたくない?案内するね」
大量の土産物をあらかた確認したヒルダが笑顔で提案した。フォドラの蒸し風呂とほぼ変わらないのだがパルミラでは湯浴みの際に湯浴み着は身につけず大きな布を一枚身体に巻くだけだ。混浴ができるはずもない。これまで泊まって来た宿も広ければ男女それぞれ二つの浴室があったし一つしかない宿は時間で区切っていた。
「ヒルダ、広い方の風呂使って良いぜ」
「ありがと、クロードくん」
ヒルダがパルミラ語で何か言うと召使たちが女性陣の荷物が入った行李を持って後に続いた。
「俺たちの使う方は脱衣所が狭いんで男どもはここで荷物を開いて着替えだけ持ってきてくれ」
クロード言うところの狭い方、の浴室は施術師を含めて成人男性が六人いても狭さを感じない。温められた大理石で出来た大きな台の上に横たわるクロードは施術師から身体を洗ってもらっている。
「これで狭い方なんですか?」
「これだけ広かったら中で腕立て伏せでもなんでもやりたい放題だぁ!」
イグナーツが思わず呟いた言葉もラファエルの叫び声も温かい蒸気で満ちた浴室に響いている。
「はは、鍛錬は足元が滑るからやめといた方がいいぜ。あれ、イグナーツたちも身体を洗って貰えば良いのに。ここの連中の腕は俺が保証するよ」
「僕たちそう言うのには慣れてないんです」
一方でフォドラの貴族は幼い子供の頃から召使たちに身なりを整えられて育つので召使から身体を触られることに躊躇がない。ローレンツは全く気にせず台の上に座ってまっすぐな紫の髪を洗われていた。
「こっちじゃ平民も貴族みたいに身体洗ってもらうの好きだぜ?」
パルミラは寒暖の差が激しいので夏の暑さを凌ぐための山小屋を構えている平民も多い。どちらも国の豊かさの表れなのかもしれなかった。
「文化の違いだな。そもそも寛ぎ方と言うのは人によって違うものだろう?」
泡を洗い流され目元のお湯を手で拭いながらローレンツが言った。パルミラ風に腰に布を巻いただけなので傷跡だらけの白い背中が剥き出しになっている。一際大きな傷跡はマリアンヌを庇った時に出来たものだろう。
「そうだな、今だから言うがいくら湯浴み着を着ているとは言え混浴は緊張して全然寛げなかったぞ」
「考えたこともなかったな」
心底意外そうにローレンツがつぶやくとイグナーツとラファエルも顔を見合わせてから頷いた。混浴が当たり前の皆にとっては男女混浴の公衆浴場は本当に寛ぐ場所でしかなかったらしい。
「あー皆、そろそろあがろうか………」
クロードは年相応のところがある少年だった。そう言う話でしかないのだが改めて口に出すと気恥ずかしい。
応接間に戻ったクロードたちはヒルダたちを待たずに食事や酒を召使たちに持って来させた。遅れてやってきた女性陣たちも酒杯を傾け無事の到着と再会を寿いでいる。酒に酔っていてもヒルダは実に上手に素手で米を食べていた。所変われば作法も変わる。
「そうだ、今晩は雨か。雷が鳴っても皆そのまま気にせず眠ってくれ」
「もう!クロードくんリシテアちゃんの前でその話やめてよねー!」
一体どういうことなのだろうかとローレンツは杯を傾けながら二人の言葉を待った。酒精で頬を赤くしたクロードが言うにはこの王宮には雷の晩にだけ姿を表す幽霊がいるらしい。どの国も古い建物には幽霊話が付き物というのは変わらないようだ。
「ここにはおっかない話がたくさん伝わってるがこれは本物だ。俺も子供の頃に見たからな」
「もうクロード!私を揶揄うのはやめてください!!」
「リシテア、怖くなったら私の部屋に来ても良いよ」
レオニーがそう言って胸を叩いた。酒豪としても名が知れ始めた彼女はほろ酔い程度なので逆に幽霊を見ても酒酔いのせいにできないだろう。
「はは、レオニーの部屋と間違えてローレンツたちの部屋に行くなよ」
「クロード!!いくら身内だけの酒の席でもそう言う話はやめたまえ!!」
そのあともラファエルの背中にクロードの従僕を座らせて腕立て伏せをさせるなどの悪ふざけが続いたが、そのうちクロードは船を漕ぎ始めてしまった。その姿をヒルダは咎めずに見つめている。
「安心しちゃったのよ。いつもはすっごく我慢してるの」
言われてみれば酔いの回りを計算せず、水でも飲むような勢いでクロードは酒を口にしていた。
「僕が運ぼうか?」
「うーん、それも面白そうだけど今日はやめとくねー」
ゴネリルの紋章をその身に宿すせいかヒルダはとにかく力が強い。小柄な彼女が襟巻きでも巻くように、膝の裏と首に手をやって肩に夫を担いで歩く姿を初めて見たパルミラの者たちはさぞ驚いただろう。召使たちは王子の愛姫の勇姿から目を背け、客人たちをそれぞれの部屋へと案内した。
ローレンツはそれなりに酔っていたがマリアンヌと共に割り当てられた部屋へ入ってすぐ寝台の枕元に封筒が置いてあることに気づいた。クロードの字でローレンツへ、と書いてある。
───子馬が必要なら白い引き戸の奥に置いてあるから使うといい───
これもかつてリーガン公の葬儀で足を踏んでやった仕返しだろうか。思わず喉から呻き声が出てしまった。こんなものを妻に見せるわけにいかない。慌てて紙を丸め、呪文を唱えて燃やした。そんな夫を気遣って寝巻きに着替えたほろ酔いのマリアンヌが近寄ってくる。
「どうかしましたか?」
「え、あ、いや、単なるクロードの悪ふざけだ。何でもない、よ……ああ、ずいぶん眠そうな顔をしているな、マリアンヌさんは……」
酒に酔って少し身体が温まっているマリアンヌを抱きしめると嗅ぎなれない柑橘系の甘い香りがした。きっと入浴した際にヒルダおすすめの化粧品や香水を試したのだろう。
「今日は疲れたからもう寝ようか」
愛を確かめ合うにしても妻がこんなに眠たそうにしているなら不可能だ。ローレンツは腕の中にマリアンヌをおさめると白い瞼を下ろした。旅程はまだ半分も終わっていないので子馬を使う晩もあるのかもしれない。なんと言っても二人は仲睦まじい夫婦なのだから。
同じ寝室で眠るようになってマリアンヌは改めて実感したが自分は眠りが浅い。そしてローレンツはとにかく寝つきが良く深く眠る。行軍中の野営の際も横たわって背中をつけることさえ出来たなら、瞳を閉じて三秒で本当に眠っていた。その分覚醒するのに少し時間がかかる。婚約前に一度エドマンド領に来てもらったことがあるが、その時のローレンツは熟睡しないように椅子に座って眠っていた。きっと本人にも自覚があるのだろう。今も夫より深酒をしたマリアンヌが思わず起きてしまうほどの雷鳴が轟いていると言うのに、つい先日まで敵国であったパルミラの王宮で熟睡している。
ローレンツは学生時代からずっとクロードのことを散々くさしていたが、客観的に見れば良き友だ。マリアンヌの夫は照れると言うことが殆どないのだがクロードに関してだけは例外で、いつまで経っても子供のような態度を崩さない。先程も追求しなかったが何やら彼相手に意地を張っていたようだ。
「すぐに戻ります」
そう言うと稲光に照らされる夫の寝顔に唇を落とし、マリアンヌは寝台から離れた。自分を寝かしつけてそのまま眠ってしまったローレンツを朝まできちんと眠らせてやりたい。マリアンヌは酒を飲むとかえって眠りが浅くなる方ですっかり目が冴えてしまっている。マリアンヌは室内履きを履き、寝巻きの上から頭巾付きの外套を羽織ってから広く長い廊下に出た。雷鳴が窓越しに光を落とす中を歩んでいると白と黒の世界に紛れ込んだような気持ちになる。
雷も幽霊も怖くはない。単なる暇つぶしだ。それに少し身体を動かした方が早くもう一度眠れる。気を利かせたつもりなのかマリアンヌとローレンツに与えられた部屋は友人たちが使っている部屋から少し離れた場所にあった。稲光を頼りに角をいくつか曲がったところで一度視野が完全な暗黒に包まれたが、再び白い光がマリアンヌを照らす。その時ようやくマリアンヌは二つのことに気づいた。自分は道に迷っているし廊下の片隅で見知らぬ少年が蹲って泣いている。
こんな晩に子供が一人で何をしているのだろう。雷が鳴ったと同時に現れた見知らぬ女はきっと恐ろしいはずだ。だから少年は大きな窓掛の襞の中に逃げこんでしまった。
「そうですね、窓に近寄れば侵入者から逃げられる確率は上がるかもしれません」
子供の形に膨らむ窓掛の布ごしに声をかけてやったが当然フォドラの言葉は理解してくれない。恐怖で固まっている少年はパルミラ語で必死に何かつぶやくばかりだ。これでは埒があかない。マリアンヌが小さな彼の強張る背中を布ごしに撫でてやると落ち着いたのか、ようやく布をめくって顔を出してくれた。しかし雷鳴が再び轟いたせいかすぐに小さな褐色の手で顔を隠してしまう。
「恥ずかしがり屋さんですね」
理解できるとは思えないが言葉が口を衝いてしまう。孤独そうな怯えた彼の瞳がかつての自分を思わせた。
「大丈夫、あなたも将来とても素敵な方たちに出会えます。勇気を出して一歩を踏み出すことです」
危害を加えないと分かったのか少年がマリアンヌの外套の裾を掴んでくる。どうやら溺れる者が掴む頼りない板切れにはなれたらしい。
「私と夫が泊まっている部屋に来ますか?」
ローレンツは驚くだろうがきっと少年を快く受け入れてくれるだろう。その時一際大きな音が近くで鳴りマリアンヌも流石に驚いて窓の外を見た。断続的に閃く稲光を頼りに庭の様子をしばらく伺ってみたものの結局よく分からない。マリアンヌが振り向くと先ほどまで隣にいた少年は姿を消していた。
やはり彼は自分から逃げる隙を窺っていたのかもしれない。これで残る問題はひとつだ。ローレンツが待っている部屋にたどり着けば良い。マリアンヌは雷鳴が轟く中、廊下に飾ってある壺の形を頼りに行きつ戻りつして何とか夫が寝ている温かくて良い匂いのする寝台に再び潜り込んだ。明朝になったら迷子がいたことをクロードとヒルダに報告しなければならない。
いつもはマリアンヌの方が早く起きることが多いのだが、真夜中の散歩で思ったより疲れたのかやはり翌朝はローレンツの方が早く目覚めたようだ。夫が身支度する物音でようやく目覚めたマリアンヌが布団の中でもぞもぞと動いているとめざといローレンツが掛け布団を捲って頬に口づけを寄越してくる。
「おはようございます、ローレンツさん」
「お湯を持ってきた召使いに聞いたがひどい雷だったそうだね」
「はい、それでよく眠れなくて……」
マリアンヌは半分くらいローレンツに手伝ってもらいながら身支度を終えて皆との朝食の席に着いた。たっぷり砂糖を入れた濃いめの紅茶を飲みつつ、薄く焼いた麺麭に塩味の効いた乾酪と小さくちぎった葉物の野菜をはさんで食べるのがパルミラ風らしい。麺麭はほんのりと甘く味がつけてあった。
「クロードさん、この王宮に小さな子供は住んでいますか?」
「マリアンヌたちのところと同じくまだ作ってないよ」
「朝からなんて話をするのだ……」
クロードの物言いを耳にしたローレンツが目元を指で押さえている。マリアンヌが事の仔細を皆に話すとクロードが顔色を変え目を大きく見開いた。顎に手を当て眉間に皺を寄せしばらく考え込んでいたが、彼の中ではなんとなく見当がついたらしい。
「どこからどう紛れ込んだんだろうなあ。まあ古い建物には色んなもんが住み着くもんだろ?」
「えっ……それならマリアンヌが見たのって!!」
皆なんとなく察していたが、リシテアを怯えさせないように黙っていたというのに当の本人が悲鳴をあげる。苦手なのに詳細を律儀に想像してしまうのが彼女の難儀なところだ。
「まあ今日は快晴だ。雷が鳴らないなら出てこないはずだぜ」
リシテアはその日一日中、海辺でも市場でも空模様を気にしていた。
母国からやってきた友人たちの接待二日目を終えたヒルダは寝台の上で大きな欠伸をした。クロードと同じく楽しかったがはしゃいで疲れたのだろう。労うために軽く肩を揉んでやるとヒルダは横たわった。薄い寝巻き越しに背中や腰をほぐしてやると改めて小柄なことが分かる。
「あー、そこそこ……ねえ、私が聞いたことのある話と違うんだけど」
「がら空きだから引っ越してきたのかもな」
クロードは今朝、リシテアのためと称して詳細を皆に話さなかったがこの王宮に出没する、と言われているのは雷の晩に現れる幽霊ではなく雷に怯えている者の元に現れる幽霊なのだ。そこが少し変わっている。クロードはうつ伏せになっているヒルダの動きを封じるように抱きしめた。耳の後ろに鼻を寄せて息をする。すぐに振り落とせるはずなのにヒルダはクロードに抱きしめられたままでいた。
「なんで誤魔化すのよ〜!」
「水仙の香りがする」
誤解があったようだがあの時の自分は雷に怯えていたわけではない。例によって例の如くいじめられてやり返したせいでさらに酷い目にあい悔しさや自己嫌悪やとにかくそういった負の感情が処理しきれず誰も来ないような外れで泣いていたのだ。
「フォドラの香水、お土産に貰ったの。やだ、そこで息するのやめてよ〜!」
ヒルダは昼間に大ぶりの耳飾りをつけていても入浴する時には外してしまうか眠る時に邪魔にならない小さな物に付け替えるようにしている。クロードは舌で耳朶がどうなっているのか確かめた。舌にちくりと金具の当たる感触がある。
「弱いからか?」
「駄目だってばぁ……明日は早起きするつもりなのにぃ……」
うつ伏せになっていたヒルダがなおも身体を捩らせたのですかさず胸元に手を入れ薄い寝巻き越しに触り心地を堪能する。フォドラの湯浴み着より心許ない生地で出来ているので胸が手のひらの中で形を変える様がよく分かった。多分臀部に押し付けているこちらの下腹部の変化もはっきりと伝わっているだろう。
「一回だけ、すぐに終わらせるから」
「それならこの体勢は嫌」
クロードが身体を起こすとヒルダは寝返りを打って微笑みながら褐色の頬を撫でた。その白い指が彼女がパルミラ出身ではないと主張している。遠くから自分のために来てくれたのだ。後宮におさめられている女奴隷たちとヒルダはそこが違う。幼い頃のクロードは彼女と言葉が通じなかったのは後宮におさめられたばかりでまだ教育を受けていない女奴隷だからだと思い込んでいた。
「だって顔がみえないんだもの」
ヒルダも真っ直ぐクロードの目を見るし瞳の色を恐れることがない。紅を落としていても艶やかな唇を少し厚めの唇でふさいだ。二人の子供が雷を怖がるのかどうかはまだ誰にも分からない。畳む
「かのひとはうつくしく」のboostお礼用冊子なのでそちらを先に読んだ方がわかりやすいかもしれません。
#クロヒル
#ロレマリ
#かのひとはうつくしく
#[れいほし3]
子孫繁栄は民草から皇族までありとあらゆる階級の願いだ。爵位がある貴族の家ともなれば子を成すことは大前提で、それが紋章を受け継ぐ男子であれば尚良いとされている。マリアンヌを見そめたグロスタール家の嫡子は周囲の期待を裏切ることなくグロスタールの紋章を持つ男子として生まれた。彼の御母堂はきっと安堵の涙を流したのであろう、とエドマンド辺境伯は思う。一方で養女のマリアンヌはモーリスの紋章を持たずに生まれてくることを期待されたが、実父から呪いを受け継いだ。行方不明になった妹と彼女の夫のことを思うと呪いが解けた今でさえ───辺境伯は未だに涙を禁じ得ない。
寂しくもめでたいことがあり、呑みすぎたエドマンド辺境伯は真夜中に目が覚めてしまった。目覚めてよかったのかもしれない。辛うじて上着は脱いでいたが寝巻きに着替えてもいないし、何もかぶらずに寝てしまったので耳や頭が冷え切っている。喉の渇きを潤すために杯に注いだ水差しの水も冷え切っていた。
今からグロスタール家と準備を始めるならば挙式は年が明けた春ごろだろうか。グロスタール領はここエドマンド領より南なので暖かいし陽の光も明るいので、それを計算して礼服やドレスの生地を選ばねばならない。きっと光沢がある華やかな生地が良いだろう。エドマンド領はフォドラの喉元と呼ばれる山脈の北端を擁しており、その麓は生地作りが盛んだ。食い倒れはアンヴァルで着倒れはデアドラ、デアドラで服を買うための服が要る、などと言われるがそのための生地はエドマンド領で作られていて、良港と名高いエドマンド港は生地を輸出するための港でもある。
辺境伯は持参金も嫁入り道具もマリアンヌを引き取った頃から何年もかけて用意していた。だが嫁入りとは言ってもあの性格だ。友人ができたとしても将来的には彼女が嫌悪感を持たずに済むような入り婿を探してやることになるだろう、と思っていた。自分の死後マリアンヌが一人きりにならないように。
それが何とグロスタール家の嫡子に見初められたのだという。生真面目で独特な彼はマリアンヌの本質に気付いたのだ。
「やるじゃないか」
マリアンヌとローレンツ、どちらに対しての言葉なのだろうか。決めかねたまま脳裏に浮かんだ言葉をそのまま呟いた。エドマンド辺境伯は寝巻きに袖を通し絹の帽子を被ると再び寝台に横たわり、布団の中に潜り込み雨が窓を叩く音に耳を澄ませる。遠くで雷の落ちる音がしていた。朝食を共にしたらとんぼ返りをさせるのが筋だが、明日もこの調子なら雨足の強さを言い訳にもう少しだけマリアンヌと一緒に居させてやっても良いのかもしれない。
グロスタール伯は功利的で良き嫡子として父の薫陶を受けたローレンツもその傾向が強い。エドマンド辺境伯はまだ髪が短かった頃の彼を覚えている。あれはクロード=フォン=リーガンが正式にリーガン家の嫡子になった頃だろうか。出席は叶わないものの円卓会議に随行していた彼はクロードの出現により、その手からこぼれ落ちていった栄誉の大きさに打ちのめされていたが必死で面目を保とうとしていた。───具体的に言うと手巾を噛み締めていた。
水の都と言われるデアドラは水路だらけで転落事故がよく起きる。会議を終えリーガン邸の船着場からそれぞれの上屋敷に向かう渡し船を皆で待っていた際、グロスタール家の家臣が船着場から水路へ転落しそうになった。慣れていない余所者であるが故の失敗なので仕方がないだろう。蜘蛛のように長い手足をしたローレンツは咄嗟に目の前の家臣を抱き上げたが、足首が二人分の体重に耐え切れなかった。まだ体幹が弱く姿勢に問題があったのだろう。彼の足首からは嫌な音がして、助けられた家臣は悲鳴をあげていた。足首がおかしな方に曲がったローレンツは息を荒げ涙目になっていて歩けないのは明白だったからだ。
エドマンド辺境伯は既に渡し船へ乗り込んでいたグロスタール伯に声をかけた。
「私が治療しますのでどうかお座りになったままで。ご子息の足に触れさせていただきます。君、手巾は持っているかね?」
ローレンツが痛みに顔を顰めたまま上着の隠しから手巾を取り出したので噛むように命じる。治癒魔法は大体の怪我を治療出来るが、関節や骨を元の位置に戻してからかけないと足が曲がったまま治ってしまう。
「三・二・一で戻す。痛いが我慢しなさい。そのあと私がライブをかける」
三秒後、言葉にならない呻き声が頭上から聞こえてきたが彼はなんとか喚き散らさずに済んだ。表面だけ見れば親切なエドマンド辺境伯という話だがそこにはきちんと絡繰がある。リカバーやリブローが使える者なら骨接の真似事など必要ない。リーガン邸の敷地内で起きた事故なのだ。人をやって邸内にいるリカバーやリブローの使える使用人に声をかければよい。そうしてリーガン家に借りを作るのか、それともこれをきっかけに嫡子とエドマンド家の間に繋がりを作ろうとするのかを見定めたかったのだ。
あの時、手巾を噛み締めていた若者が大乱を生き残りエドマンド領まで挨拶に来たと言うのだから人生は何があるか分からない。彼は今頃、夢も見ないほど深く眠っているのだろうか。それとも緊張のあまり眠れず───夜半すぎに鳴り始めた雷の音に耳を傾けているのだろうか。
雷鳴に紛れて小さく呻きながらマリアンヌは自室の寝台の上で何度も寝返りを打った。眠れないのは雷のせいではない。雷が鳴りはじめる前から眠れなかった。
マリアンヌは呪いが解けた晩からローレンツと二人きりでいる際に人気のないところでは素手同士で手を繋いだり頰や額に口づけをしたり、と言うような他愛もない触れ合いは何度もした。しかしその度に我が身に湧き起こる言いようのない衝動がマリアンヌにはなんとも恐ろしかった。ローレンツがその先を望んでいることは承知している。結婚したら将来的には二人で二つの領地を治めねばならない。だが婚前からこの衝動に従ったらマリアンヌはローレンツから片時も離れられなくなるような気がする。
マリアンヌが顔を真っ赤にしてそう語るとローレンツも耳まで赤くして了承してくれて、それがその時に食べていた茹でた海老のようだと思ったのを覚えている。ローレンツは自制心の塊のような人物でそれ以来ずっとマリアンヌの心の準備が整うのを待っていてくれた。
マリアンヌが宿すモーリスの紋章は獣の紋章と言われる。自分の巣とも言えるエドマンド家の本宅で初めて緊張が解けるなんてまるで獣ではないか。客室でのことを思い出すと居ても立っても居られないくなった。彼の口の中も舌も熱くてそれが堪らなく心地良かった。たったそれだけだったというのにローレンツの体温の高さがマリアンヌにもうつったかのようだった。
「あの……ごめんなさい」
「いや、正直言って望んでいたことではあるから謝る必要などないさ。ただ驚いただけで」
「驚かせて申し訳ありません……」
マリアンヌは夜になるといつも身体が冷え切ってしまうのだが今晩は違う。怒涛のように押し寄せる気恥ずかしさとその会話の後この身に受け入れた熱の記憶が身体から去ってくれない。それでもいつの間にかやってきた眠気がマリアンヌを包んでいく。意識を手放してから小間使いに起こされるまでは一瞬だった。髪を結い上げて貰い身支度を整える。ローレンツが気休めかもしれないが、といってライブをかけてくれたおかげで身体に痛みはなかった。治癒魔法はどこまでを負傷とみなすのだろうか?完治してしまえばまた痛い思いをするのかもしれない。ヒルダと会って話したかった。
窓からは昨夜の雷雨が嘘のように陽の光が差し込んでいた。きっと小鳥たちも安心したことだろう。食堂へ行くと既に養父であるエドマンド辺境伯と今や婚約者になったローレンツが席について朝食を取っていた。マリアンヌはあと何回この食堂で朝食をとるのだろうか。
「昨夜の雷はすごかったな。私はあまり良く眠れなかった」
「そうでしたか。僕は野営の時も背中さえつけばすぐに眠ってしまうので雷が鳴っていたことにすら気付きませんでした」
行軍中の休憩時間に彼がすぐに眠りについていたのはマリアンヌもよく覚えている。ローレンツは行軍中でも豪奢な寝台で羽毛布団にくるまっているかのようにすやすやと眠っていた。いくらなんでも嘘だ、と言って瞼を動きを確かめたクロードが驚愕していたのは確かグロンダーズだったか。昨晩、無理なことだとわかっているが、との前置き付きで朝まで一緒にいて欲しいとマリアンヌに言った後もどうやらすぐに眠ってしまったらしい。
「マリアンヌはどうだった?」
「あ……私もお養父さまと同じです。雷のせいで目が覚めてしまって……」
「目の下に隈が出来ているよ。今晩は早く休みなさい。しかし婿殿は頼もしいことだ」
養父がローレンツの寝つきの良さに感心しているのか嫌味を言っているのかマリアンヌには簡単に分かる。しかしローレンツが本当に眠ってしまったのかどうかは全く分からない。野営の時と同じく熟睡していても、眠れなかったのに虚勢を張っていても何だか可愛らしいとは思う。
「何にしても晴れてよかった。グロスタール領は遠い」
「荷物はまとめてありますので天気が崩れる前にここを発つつもりです」
「そうか、ではマリアンヌにお見送りさせよう」
雨さえ降ってくれればもう少しエドマンド邸にいられた筈のローレンツはしきたり通りに早々に去ることになった。玄関の扉を閉めれば少し耳が遠い馬丁しかいない。
「出来るだけ早く養父と共にグロスタール家へ挨拶に伺います」
「辺境伯はお忙しいからしばらく時間がかかりそうだ。一日千秋の思いで待っているよ。ではお元気で」
マリアンヌは馬車に乗り込もうとしたローレンツの肘を掴んだ。驚いたローレンツが振り返る。
「でも、その前に手紙のやり取りをしたり……それにデアドラでお会いできませんか?」
真意を理解した彼が目を大きく見開いたので菫青石のような瞳がよく見えた。デアドラは直線距離はともかく、交通の便を鑑みれば確かにエドマンド領とグロスタール領の中間地点でどちらの家も上屋敷を持っている。
「式や新生活の支度は確かに必要だね」
そして買い物の後で親が来ていない方の上屋敷に泊まればローレンツの望み通り、朝まで共に過ごすことができるだろう。前後の順番が多少ずれて書類の都合上の早産、をすることになったとしても気の良い恩師は地上における女神の代理人として急いで二人の結婚を認めてくれるだろう。そこさえ整えておけば後は何とでもなるのだ。
パルミラの王都に招かれたローレンツは身辺警護と称してレオニー、イグナーツ、ラファエルを雇い、爵位を返上したリシテアをマリアンヌの話し相手兼付き人として雇っている。王都までの道中は学生時代に戻ったかのような気楽さだった。
「ローレンツ、あんた完全にクロードに利用されてますよ」
「だがクロードの傍にいるヒルダさんの期待に応えないわけにはいかないだろう?たとえこの僕がおまけだとしてもな」
遠慮なく切り込むリシテアにローレンツが反論している。クロードは友人と会いたがるヒルダのため、マリアンヌを招待したかったのだが人妻だけを名指しするわけにいかない。だから夫であるローレンツに招待状を出したのだ。ヒルダの立場はまだ王子の愛姫でしかない。クロードが立太子の礼を経て結婚し、フォドラとパルミラ両国の間で和平条約が締結されなければヒルダの名前で客人を呼ぶのは難しいのだ。
異国からの書状を読んだローレンツは当然マリアンヌが身軽なうちに顔を見せに来て欲しい、という意図を察した。実際のところローレンツは貴重な品を持ち歩かない限り、マリアンヌと二人でいれば護衛など雇う必要もない。マリアンヌもローレンツがいれば話し相手や付き人など雇う必要もない。だが敢えて爵位を返上して隠遁生活を送っていたリシテアも話し相手として雇った。そうした方がヒルダもクロードも喜ぶと分かっていたからだ。
千年祭の約束の時もそうだったが立場が変わり、その生活に少し疲れたところで日常を離れると良い気分転換になる。友人たちと共に異国の風景に感嘆の声をあげながら街道を進むとあっという間に目的地であるパルミラの王都に到着した。フォドラとは全く異なる道中の景色や街並みをイグナーツが熱心に描き残している。王宮の門ではナデルがローレンツたち一行を待ち構えていた。
「グロスタール伯は随分と奥方にお甘いようで……」
「君の主人も相当だろう。何にしても雨に降られる前に着けて良かった。荷物を濡らしたくない」
「そうですな、幸運でした。あの雲の形からすると今晩は雷がうるさくて眠れないかもしれません」
パルミラに入ってから久しぶりに流暢なフォドラ語で話しかけられ、気安い雰囲気にはなったがやはり入念な検査があり武器や魔道書の類は取り上げられた。ローレンツたちは学生時代、クロードに外国の血が混ざっているなどと考えたこともなかった。しかしこうして王宮の応接間で母国の服に身を包む彼を見ていると瞳の色以外フォドラの血を感じさせるものがない。そしてそんな彼の傍にはパルミラの服に袖を通していてもフォドラ人にしか見えないヒルダがいる。
「みんな来てくれたんだ!!すっごく嬉しい!!ありがとう!!」
「ヒルダさん、お土産です。皆で選びました」
護衛という名目で雇われたラファエルだが実際は荷物持ちと言った方が正しいかもしれない。道中、複数の巨大な行李を軽々と持ち上げていたラファエルを見てパルミラ人たちが目を丸くして驚いていた。
「え!なんだろなんだろ?早く見たい!ラファエルくん!行李下ろしてくれる?」
ローレンツたちが通されたのはおそらくクロードとヒルダの私的な応接間なのだろうが、それでも充分に広々としている。大国の王族なのだから当たり前の話だが。行李の中を見て盛り上がる女性陣を尻目にローレンツはベレトからの親書をクロードに手渡した。中身を確認する緑の瞳が左右に目まぐるしく動いている。
「自分が頼む筋合いでもないが歓待してやって欲しいってさ。先生にはヒルダ共々元気でやってると伝えてくれ」
きっと大丈夫だろうと分かっていても皆かつての敵国で暮らすヒルダがとにかく心配だった。その想いの表れが大量の土産物だ。マリアンヌだけでなくローレンツの舅であるエドマンド辺境伯が持たせた化粧品もある。舅はやたらパルミラの水がヒルダの肌に合うのかを気にしていた。
「そうだ、クロ……あ、どう呼べば良いんでしょう?」
イグナーツの疑問はもっともだった。
「はは、クロードのままで良いさ。立太子の礼もまだだしな」
「……ではクロードくん、絵を描いても構わないですか?先生やゴネリル家の方にヒルダさんの様子を説明するのに一番早いので」
許可なしに王宮内の絵を描けば密偵に間違われる可能性がある。
「構わないぜ」
イグナーツとクロードのやり取りを耳にしたレオニーがクロードに一筆書かせようと提案した。衛兵に咎められた時もその書面を見せれば話が早い。
「その方がお互いに楽だろ?クロードもナデルさんも忙しいんだし、いちいちお伺いを立てられる方が面倒な筈だよ」
「いいな、それ。文面はどうするかな」
大乱を経てそれなりの地位に着き立派な大人になったというのに学生に戻ったかのように旅装も解かず皆ではしゃいだ。旅の恥はかき捨てというがその言葉の通りになっている。
「ねえ、お風呂入りたくない?案内するね」
大量の土産物をあらかた確認したヒルダが笑顔で提案した。フォドラの蒸し風呂とほぼ変わらないのだがパルミラでは湯浴みの際に湯浴み着は身につけず大きな布を一枚身体に巻くだけだ。混浴ができるはずもない。これまで泊まって来た宿も広ければ男女それぞれ二つの浴室があったし一つしかない宿は時間で区切っていた。
「ヒルダ、広い方の風呂使って良いぜ」
「ありがと、クロードくん」
ヒルダがパルミラ語で何か言うと召使たちが女性陣の荷物が入った行李を持って後に続いた。
「俺たちの使う方は脱衣所が狭いんで男どもはここで荷物を開いて着替えだけ持ってきてくれ」
クロード言うところの狭い方、の浴室は施術師を含めて成人男性が六人いても狭さを感じない。温められた大理石で出来た大きな台の上に横たわるクロードは施術師から身体を洗ってもらっている。
「これで狭い方なんですか?」
「これだけ広かったら中で腕立て伏せでもなんでもやりたい放題だぁ!」
イグナーツが思わず呟いた言葉もラファエルの叫び声も温かい蒸気で満ちた浴室に響いている。
「はは、鍛錬は足元が滑るからやめといた方がいいぜ。あれ、イグナーツたちも身体を洗って貰えば良いのに。ここの連中の腕は俺が保証するよ」
「僕たちそう言うのには慣れてないんです」
一方でフォドラの貴族は幼い子供の頃から召使たちに身なりを整えられて育つので召使から身体を触られることに躊躇がない。ローレンツは全く気にせず台の上に座ってまっすぐな紫の髪を洗われていた。
「こっちじゃ平民も貴族みたいに身体洗ってもらうの好きだぜ?」
パルミラは寒暖の差が激しいので夏の暑さを凌ぐための山小屋を構えている平民も多い。どちらも国の豊かさの表れなのかもしれなかった。
「文化の違いだな。そもそも寛ぎ方と言うのは人によって違うものだろう?」
泡を洗い流され目元のお湯を手で拭いながらローレンツが言った。パルミラ風に腰に布を巻いただけなので傷跡だらけの白い背中が剥き出しになっている。一際大きな傷跡はマリアンヌを庇った時に出来たものだろう。
「そうだな、今だから言うがいくら湯浴み着を着ているとは言え混浴は緊張して全然寛げなかったぞ」
「考えたこともなかったな」
心底意外そうにローレンツがつぶやくとイグナーツとラファエルも顔を見合わせてから頷いた。混浴が当たり前の皆にとっては男女混浴の公衆浴場は本当に寛ぐ場所でしかなかったらしい。
「あー皆、そろそろあがろうか………」
クロードは年相応のところがある少年だった。そう言う話でしかないのだが改めて口に出すと気恥ずかしい。
応接間に戻ったクロードたちはヒルダたちを待たずに食事や酒を召使たちに持って来させた。遅れてやってきた女性陣たちも酒杯を傾け無事の到着と再会を寿いでいる。酒に酔っていてもヒルダは実に上手に素手で米を食べていた。所変われば作法も変わる。
「そうだ、今晩は雨か。雷が鳴っても皆そのまま気にせず眠ってくれ」
「もう!クロードくんリシテアちゃんの前でその話やめてよねー!」
一体どういうことなのだろうかとローレンツは杯を傾けながら二人の言葉を待った。酒精で頬を赤くしたクロードが言うにはこの王宮には雷の晩にだけ姿を表す幽霊がいるらしい。どの国も古い建物には幽霊話が付き物というのは変わらないようだ。
「ここにはおっかない話がたくさん伝わってるがこれは本物だ。俺も子供の頃に見たからな」
「もうクロード!私を揶揄うのはやめてください!!」
「リシテア、怖くなったら私の部屋に来ても良いよ」
レオニーがそう言って胸を叩いた。酒豪としても名が知れ始めた彼女はほろ酔い程度なので逆に幽霊を見ても酒酔いのせいにできないだろう。
「はは、レオニーの部屋と間違えてローレンツたちの部屋に行くなよ」
「クロード!!いくら身内だけの酒の席でもそう言う話はやめたまえ!!」
そのあともラファエルの背中にクロードの従僕を座らせて腕立て伏せをさせるなどの悪ふざけが続いたが、そのうちクロードは船を漕ぎ始めてしまった。その姿をヒルダは咎めずに見つめている。
「安心しちゃったのよ。いつもはすっごく我慢してるの」
言われてみれば酔いの回りを計算せず、水でも飲むような勢いでクロードは酒を口にしていた。
「僕が運ぼうか?」
「うーん、それも面白そうだけど今日はやめとくねー」
ゴネリルの紋章をその身に宿すせいかヒルダはとにかく力が強い。小柄な彼女が襟巻きでも巻くように、膝の裏と首に手をやって肩に夫を担いで歩く姿を初めて見たパルミラの者たちはさぞ驚いただろう。召使たちは王子の愛姫の勇姿から目を背け、客人たちをそれぞれの部屋へと案内した。
ローレンツはそれなりに酔っていたがマリアンヌと共に割り当てられた部屋へ入ってすぐ寝台の枕元に封筒が置いてあることに気づいた。クロードの字でローレンツへ、と書いてある。
───子馬が必要なら白い引き戸の奥に置いてあるから使うといい───
これもかつてリーガン公の葬儀で足を踏んでやった仕返しだろうか。思わず喉から呻き声が出てしまった。こんなものを妻に見せるわけにいかない。慌てて紙を丸め、呪文を唱えて燃やした。そんな夫を気遣って寝巻きに着替えたほろ酔いのマリアンヌが近寄ってくる。
「どうかしましたか?」
「え、あ、いや、単なるクロードの悪ふざけだ。何でもない、よ……ああ、ずいぶん眠そうな顔をしているな、マリアンヌさんは……」
酒に酔って少し身体が温まっているマリアンヌを抱きしめると嗅ぎなれない柑橘系の甘い香りがした。きっと入浴した際にヒルダおすすめの化粧品や香水を試したのだろう。
「今日は疲れたからもう寝ようか」
愛を確かめ合うにしても妻がこんなに眠たそうにしているなら不可能だ。ローレンツは腕の中にマリアンヌをおさめると白い瞼を下ろした。旅程はまだ半分も終わっていないので子馬を使う晩もあるのかもしれない。なんと言っても二人は仲睦まじい夫婦なのだから。
同じ寝室で眠るようになってマリアンヌは改めて実感したが自分は眠りが浅い。そしてローレンツはとにかく寝つきが良く深く眠る。行軍中の野営の際も横たわって背中をつけることさえ出来たなら、瞳を閉じて三秒で本当に眠っていた。その分覚醒するのに少し時間がかかる。婚約前に一度エドマンド領に来てもらったことがあるが、その時のローレンツは熟睡しないように椅子に座って眠っていた。きっと本人にも自覚があるのだろう。今も夫より深酒をしたマリアンヌが思わず起きてしまうほどの雷鳴が轟いていると言うのに、つい先日まで敵国であったパルミラの王宮で熟睡している。
ローレンツは学生時代からずっとクロードのことを散々くさしていたが、客観的に見れば良き友だ。マリアンヌの夫は照れると言うことが殆どないのだがクロードに関してだけは例外で、いつまで経っても子供のような態度を崩さない。先程も追求しなかったが何やら彼相手に意地を張っていたようだ。
「すぐに戻ります」
そう言うと稲光に照らされる夫の寝顔に唇を落とし、マリアンヌは寝台から離れた。自分を寝かしつけてそのまま眠ってしまったローレンツを朝まできちんと眠らせてやりたい。マリアンヌは酒を飲むとかえって眠りが浅くなる方ですっかり目が冴えてしまっている。マリアンヌは室内履きを履き、寝巻きの上から頭巾付きの外套を羽織ってから広く長い廊下に出た。雷鳴が窓越しに光を落とす中を歩んでいると白と黒の世界に紛れ込んだような気持ちになる。
雷も幽霊も怖くはない。単なる暇つぶしだ。それに少し身体を動かした方が早くもう一度眠れる。気を利かせたつもりなのかマリアンヌとローレンツに与えられた部屋は友人たちが使っている部屋から少し離れた場所にあった。稲光を頼りに角をいくつか曲がったところで一度視野が完全な暗黒に包まれたが、再び白い光がマリアンヌを照らす。その時ようやくマリアンヌは二つのことに気づいた。自分は道に迷っているし廊下の片隅で見知らぬ少年が蹲って泣いている。
こんな晩に子供が一人で何をしているのだろう。雷が鳴ったと同時に現れた見知らぬ女はきっと恐ろしいはずだ。だから少年は大きな窓掛の襞の中に逃げこんでしまった。
「そうですね、窓に近寄れば侵入者から逃げられる確率は上がるかもしれません」
子供の形に膨らむ窓掛の布ごしに声をかけてやったが当然フォドラの言葉は理解してくれない。恐怖で固まっている少年はパルミラ語で必死に何かつぶやくばかりだ。これでは埒があかない。マリアンヌが小さな彼の強張る背中を布ごしに撫でてやると落ち着いたのか、ようやく布をめくって顔を出してくれた。しかし雷鳴が再び轟いたせいかすぐに小さな褐色の手で顔を隠してしまう。
「恥ずかしがり屋さんですね」
理解できるとは思えないが言葉が口を衝いてしまう。孤独そうな怯えた彼の瞳がかつての自分を思わせた。
「大丈夫、あなたも将来とても素敵な方たちに出会えます。勇気を出して一歩を踏み出すことです」
危害を加えないと分かったのか少年がマリアンヌの外套の裾を掴んでくる。どうやら溺れる者が掴む頼りない板切れにはなれたらしい。
「私と夫が泊まっている部屋に来ますか?」
ローレンツは驚くだろうがきっと少年を快く受け入れてくれるだろう。その時一際大きな音が近くで鳴りマリアンヌも流石に驚いて窓の外を見た。断続的に閃く稲光を頼りに庭の様子をしばらく伺ってみたものの結局よく分からない。マリアンヌが振り向くと先ほどまで隣にいた少年は姿を消していた。
やはり彼は自分から逃げる隙を窺っていたのかもしれない。これで残る問題はひとつだ。ローレンツが待っている部屋にたどり着けば良い。マリアンヌは雷鳴が轟く中、廊下に飾ってある壺の形を頼りに行きつ戻りつして何とか夫が寝ている温かくて良い匂いのする寝台に再び潜り込んだ。明朝になったら迷子がいたことをクロードとヒルダに報告しなければならない。
いつもはマリアンヌの方が早く起きることが多いのだが、真夜中の散歩で思ったより疲れたのかやはり翌朝はローレンツの方が早く目覚めたようだ。夫が身支度する物音でようやく目覚めたマリアンヌが布団の中でもぞもぞと動いているとめざといローレンツが掛け布団を捲って頬に口づけを寄越してくる。
「おはようございます、ローレンツさん」
「お湯を持ってきた召使いに聞いたがひどい雷だったそうだね」
「はい、それでよく眠れなくて……」
マリアンヌは半分くらいローレンツに手伝ってもらいながら身支度を終えて皆との朝食の席に着いた。たっぷり砂糖を入れた濃いめの紅茶を飲みつつ、薄く焼いた麺麭に塩味の効いた乾酪と小さくちぎった葉物の野菜をはさんで食べるのがパルミラ風らしい。麺麭はほんのりと甘く味がつけてあった。
「クロードさん、この王宮に小さな子供は住んでいますか?」
「マリアンヌたちのところと同じくまだ作ってないよ」
「朝からなんて話をするのだ……」
クロードの物言いを耳にしたローレンツが目元を指で押さえている。マリアンヌが事の仔細を皆に話すとクロードが顔色を変え目を大きく見開いた。顎に手を当て眉間に皺を寄せしばらく考え込んでいたが、彼の中ではなんとなく見当がついたらしい。
「どこからどう紛れ込んだんだろうなあ。まあ古い建物には色んなもんが住み着くもんだろ?」
「えっ……それならマリアンヌが見たのって!!」
皆なんとなく察していたが、リシテアを怯えさせないように黙っていたというのに当の本人が悲鳴をあげる。苦手なのに詳細を律儀に想像してしまうのが彼女の難儀なところだ。
「まあ今日は快晴だ。雷が鳴らないなら出てこないはずだぜ」
リシテアはその日一日中、海辺でも市場でも空模様を気にしていた。
母国からやってきた友人たちの接待二日目を終えたヒルダは寝台の上で大きな欠伸をした。クロードと同じく楽しかったがはしゃいで疲れたのだろう。労うために軽く肩を揉んでやるとヒルダは横たわった。薄い寝巻き越しに背中や腰をほぐしてやると改めて小柄なことが分かる。
「あー、そこそこ……ねえ、私が聞いたことのある話と違うんだけど」
「がら空きだから引っ越してきたのかもな」
クロードは今朝、リシテアのためと称して詳細を皆に話さなかったがこの王宮に出没する、と言われているのは雷の晩に現れる幽霊ではなく雷に怯えている者の元に現れる幽霊なのだ。そこが少し変わっている。クロードはうつ伏せになっているヒルダの動きを封じるように抱きしめた。耳の後ろに鼻を寄せて息をする。すぐに振り落とせるはずなのにヒルダはクロードに抱きしめられたままでいた。
「なんで誤魔化すのよ〜!」
「水仙の香りがする」
誤解があったようだがあの時の自分は雷に怯えていたわけではない。例によって例の如くいじめられてやり返したせいでさらに酷い目にあい悔しさや自己嫌悪やとにかくそういった負の感情が処理しきれず誰も来ないような外れで泣いていたのだ。
「フォドラの香水、お土産に貰ったの。やだ、そこで息するのやめてよ〜!」
ヒルダは昼間に大ぶりの耳飾りをつけていても入浴する時には外してしまうか眠る時に邪魔にならない小さな物に付け替えるようにしている。クロードは舌で耳朶がどうなっているのか確かめた。舌にちくりと金具の当たる感触がある。
「弱いからか?」
「駄目だってばぁ……明日は早起きするつもりなのにぃ……」
うつ伏せになっていたヒルダがなおも身体を捩らせたのですかさず胸元に手を入れ薄い寝巻き越しに触り心地を堪能する。フォドラの湯浴み着より心許ない生地で出来ているので胸が手のひらの中で形を変える様がよく分かった。多分臀部に押し付けているこちらの下腹部の変化もはっきりと伝わっているだろう。
「一回だけ、すぐに終わらせるから」
「それならこの体勢は嫌」
クロードが身体を起こすとヒルダは寝返りを打って微笑みながら褐色の頬を撫でた。その白い指が彼女がパルミラ出身ではないと主張している。遠くから自分のために来てくれたのだ。後宮におさめられている女奴隷たちとヒルダはそこが違う。幼い頃のクロードは彼女と言葉が通じなかったのは後宮におさめられたばかりでまだ教育を受けていない女奴隷だからだと思い込んでいた。
「だって顔がみえないんだもの」
ヒルダも真っ直ぐクロードの目を見るし瞳の色を恐れることがない。紅を落としていても艶やかな唇を少し厚めの唇でふさいだ。二人の子供が雷を怖がるのかどうかはまだ誰にも分からない。畳む
#クロヒル
#ロレマリ
14.A-(side:H)
ガルグ=マクからミルディン大橋へ行くにはグロスタール領を通過せねばならない。領内を通過するにあたって父親と戦いたくないローレンツは近頃ため息ばかりついている。
「ねえクロードくん、本当にローレンツくんのおうちのこと大丈夫なの?」
育てている薬草の様子を見るため温室にやってきたクロードにヒルダは話しかけた。一応見合いした仲ではあるし親友の好きな人でもある。酷い目にあってほしくない。
「もう手配は済ませたからグロスタール伯は領地の北側に兵を集中せざるを得ない。俺たちの通り道はがら空きの予定だ」
近頃は詳細が分からず不安に苛まれているローレンツをマリアンヌが心配そうに見ていた。瓦礫だらけの聖堂で祈りを捧げる時も食事の時も傍にいる。だが彼女は無言で何もローレンツに語りかけない。マリアンヌが口籠るのは何を言うべきか分からないから、ではなく何を言うべきではないのか分からないから、ということをヒルダは知っている。彼女の中には沢山の言葉が詰まっているのだ。
「ローレンツくんが元気でないとマリアンヌちゃんまで落ち込むから」
「今思うと学生時代はあいつ本当に元気いっぱいだったよな」
女神の塔の言い伝えなど自分は気にしない、何故なら毎日が自分にとって好機だから、と本気で言っていたのをヒルダも覚えている。ローレンツがそんなことを真顔で言っていた頃は温室の硝子にひびなど入っていなかった。放置されていた温室はやはり今まで通りとはいかないようでクロードはヒルダと話しながらしゃがみ込んで周りに生えた雑草を抜き葉を入り込む風や虫から守るため薬草に薄い布を被せている。その横顔は貫禄をつける為に頬髭は生やしたものの学生時代とあまり変わりがない。
「前衛頼むんでしょ?それなら元気でいてもらわないとクロードくんだって困るんじゃない?」
「うわっ!危ない!」
だがリーガン公の葬儀の頃と比べて全体的に筋肉がついたようだ。学生時代なら不意打ちで背中を叩くと地面に膝をついていたが今は堪えている。
「本気出さなくてこの強さなんだからミルディンでの活躍期待してるぜ」
「ええ〜!あんまり私のことあてにしないでよ〜!」
ゴネリル家は反帝国派だが本当にあてにされても困るのだ。何せ親帝国派筆頭のグロスタール家の嫡子とゴネリルの紋章を継ぐ娘が見合いをしている。その絡みでグロスタール家からゴネリル家に何か要請があるかもしれない。だがクロードはそれも織り込み済みで策を立てているのかもしれない。
ミルディン大橋は要衝で帝国軍の守りは固く複数の砦から増援が続々と現れてくる。ここを通せば首都アンヴァルを守るメリセウス要塞が剥き出しになる、と帝国軍も分かっているので必死だ。エーデルガルトのお気に入りで帝国の臣民からも人気が高いというラディスラヴァが直々に守っている。クロードとベレトは流石に母国に攻め込むのは気がひけるだろうということでフェルディナントとリンハルトは前線に出さずガルグ=マクからミルディンまでの補給を担当させた。その二人が前線に出た者たちの話を聞いては首を傾げている。新しい斧と特効薬を受け取るためヒルダは物資を積んだ幌馬車にいたフェルディナントたちに話しかけた。
「二人とも何か気になることがあるならクロードくんに伝えておいた方がいいよ、頼りない盟主様かもしれないけど聞く耳はあるから」
どうやら二人はミルディン大橋を守る将がラディスラヴァだけであることが引っ掛かっているらしい。
「実験みたいな配置だよね。一騎当千は言い過ぎだけどさ、どれだけ普通の兵をぶつければ紋章保持者を確実に仕留められるのか計測でもしたいのかな?」
「何それ……」
アッシュやイングリットが好む騎士物語や戦記で紋章を持つ者が倒れるのは誰かを庇った時だけだ。戦いの最中ヒルダは激った血が身体中を巡り暑くて堪らなくなるのだがリンハルトの言葉を聞いて一気に血の気が引いていく。震えを隠すために腕をさするが残念ながら誤魔化せている自信はない。
「前線に出ていないが私とリンハルトも紋章を持っている。ヒルダさんもクロードもローレンツもイングリットさんもだな?」
「あとマリアンヌも、だね」
「えっ?そうなんだ。何の紋章なんだろ?」
ヒルダは兵種の都合でローレンツと同じく前衛を務めることが多く戦闘中にマリアンヌの背中を確認することはできない。ヒルダは彼女が紋章を持っていることすら知らなかった。
「それは彼女から口止めされてるんだよね」
マリアンヌの件はともかくこれは絶対にヒルダの口からもクロードに知らせねばならない。後に吟遊詩人が紋章を持った英雄たちの勇ましい戦いぶりを讃え薔薇色の大河と謳ったミルディン大橋の戦いは新生軍と称するレスター諸侯同盟の勝利に終わった。散った薔薇の花びらは放置され踏みつけられればすぐに茶色くなる。血と同じだ。そしてヒルダたちの身体に流れる血は紋章を宿している。フォドラの名家に生まれた者たちはゴーティエ家の兄弟のようにその有無に大きく人生を左右されてきた。エーデルガルトはそんな世の中を変えたいのかもしれない。
クロードは勝利に浮かれることなくすぐに皆を集めそれぞれの実家に向けて出立して欲しいと告げた。ラファエルのようにミルディン大橋に残る者もいるが殆どの者が北上するかヒルダやリシテアのように東へ行く。ミルディンから家が近いローレンツやリシテアは街道を使って馬で帰宅する。ヒルダも船の方が早いのだがアミッド大河の対岸から妨害されることを考えると飛竜が一番早そうだった。
当然ゴネリルまでは遠すぎて直接飛ぶことはできないので宿場町で乗り換えていく。激しい戦闘の後なので無傷の飛竜はおそらくいないだろうが傷が軽いものがいないか探しにヒルダが竜舎にやってくると何故かクロードがいた。クロードはベレトそれに家が遠いマリアンヌを伴って馬車でデアドラへ行くのでもう出発していてもおかしくないというのに先ほどの戦闘で自分が騎乗していた白い飛竜の手入れをしている。
「よう、遠いのに手間かけるな」
「クロードくんだけマリアンヌちゃんや先生と一緒なのが羨ましい」
マリアンヌはデアドラ港からエドマンドへ船で戻るのだろう。一度先方へ遊びに行ったことがあるがエドマンド辺境伯はマリアンヌと髪の色が同じで背が高くほっそりとしていた。ヒルダは娘と仲良くしてくれてありがとう、と礼を言われたがローレンツへの当たりはかなり厳しいらしい。
「ええ……そっちかよ!」
レアの代理人であるベレトがいればセイロス教会のお墨付きなので多少は風当たりが和らぐだろう。家臣や他の諸侯との話し合いの際にクロードがベレトを必要とするのはヒルダも分かっていた。
「それに一晩くらい休みたかったな〜。クロードくんたちは馬車で眠れるから良いよね〜」
「でも俺はデアドラに着いたら逆に休めなくなるからなあ」
構ってもらえて機嫌の良さそうな白い飛竜が鼻先をクロードの頬に押し付けている。戦闘中は黒い手袋で守られている褐色の手が白い顎を撫で回した。命を預ける動物は手袋ごしに触っても信頼を得られない。
「うふふ、ご機嫌だね。お留守番なのがちょっと可哀想なくらい」
「ヒルダ、こいつに乗っていってくれ」
クロードが盟主となってからずっと騎乗している飛竜だ。貴重な白子の個体で育て上げるのが非常に難しい。
「でもクロードくんと私じゃ鞍の大きさが違うよ」
「付け替えに来たんだよ。多分あってると思うから乗ってくれ」
踏み台は近くにあるというのにクロードは飛竜の足元で跪いて掌を差し出した。傭兵上がりのベレトがよくこれをやる。踏み台がない出先や踏み台を出すのが面倒な時に跪いて掌を差し出すのだ。レオニーやクロードそれにベレトは本当に身軽で階段を数段飛ばしで駆け上がるように差し出された掌を足場にして馬や飛竜に飛び乗るがヒルダには自信がない。ちなみにローレンツは足が長いので馬なら鎧に足をかけ腕と背筋の力で普通に乗ることが出来る。
「やだ、台を出してよ〜!」
「大丈夫だって!転んでも俺しか見てないよ。転んだら踏み台持ってきてやるから」
ヒルダはレオニーのように数歩前から助走してクロードの掌を踏み鞍に手をかけたつもりだった。しかし姿勢が崩れクロードがどう庇ったのかヒルダには全く分からないが床に尻餅をついて寝転んだ彼の上に乗っかってしまっている。顔を上げれば目が合うが顔を下げていてもクロードの鼓動や身体の温かさがが伝わってきてこれもまた居た堪れない。ヒルダは意を決して顔を上げクロードの顔を見つめた。この角度だと彼の長い睫毛が翠玉の様な瞳に影を落とさないらしい。
「ごめん!クロードくん大丈夫?」
「いや、俺こそしっかり足場を作ってたつもりがこんなことになって……」
「やっぱり踏み台持ってきてね。鞍の大きさが合ってなかったら何度も乗ったり降りたりするんだから」
「異論はないが退いてもらわないと……」
見惚れる前に退こうと思ったがクロードにそう言われるまで赤く染まった滑らかな褐色の肌や太めの眉それに綺麗な鼻筋などからも目が離せなかった。色白なヒルダたちと違って顔色が分かりにくいクロードだがそれでも分かるくらい彼が顔を赤くすることがこの先あるのだろうか。きっとヒルダも顔が真っ赤になっているが上空は寒いから丁度良いのかもしれない。
ヒルダはクロードが持ってきた踏み台を使って改めて鞍に腰を下ろした。腰から膝までの長さが分からなければ正しい大きさの鞍は選べない。
「え、嘘でしょ!クロードくんがどうして私の鞍の大きさを知ってるの?!」
「そんなのよく見てたからに決まってるだろ」
クロードはローレンツから余計なことはべらべらしゃべる癖に肝心な時には口を閉じる、と言われている。だが目は口ほどに物を言うのだ。ヒルダは飛竜の手綱を手に取った。言いたいことも言わせたいことも山ほどあるがそれでも今は急いだ方が良い。
ミルディン大橋を越え帝国の本土へ侵攻していく前にヒルダたちはガルグ=マクに集合し下準備を整えていた。士官学校時代口数の少ないベレトが執拗に言っていた通り事前準備が成否の八割を左右する。ミルディン大橋の奪取に成功しダフネル家とセイロス教会を後ろ盾につけたクロードが諸侯たちとの交渉に成功したおかげで食糧が潤沢になりラファエルの機嫌が良い。ヒルダも実家で高い評価を受けゴネリル家も物資や兵を融通することとなった。その実家ではグロスタール家への義理を果たすために援軍を出したと聞いてヒルダは冷や汗をかいたが父と兄はどうやらクロードの度胸と着眼点を買っているらしい。マリアンヌもエドマンド辺境伯から資金を提供してもらうことに成功していた。
エドマンド辺境伯は久しぶりに戻ってきた養女に色々と持たせたらしくラファエルに荷物運びを手伝って貰っている。きっとお礼の品になりうる干し肉も行李に入っているのだろう。
「荷解きが終わったらヒルダさんのお部屋にお邪魔してもよろしいでしょうか?」
マリアンヌは自力で荷解きをしたら人が招ける状態でなくなることを見越してヒルダの部屋に行きたいと言っている。
「うん、良いよ。待ってるけど無理だと思ったら手伝うから声をかけてね」
やはり夕食の前には間に合わずマリアンヌは夕食後に土産物を持参してヒルダの部屋へやってきた。香水と色を付けた硝子を細かく組み合わせた洋燈は交易で手に入れた物らしくフォドラでは殆ど見かけない意匠をしている。
「わあ!すっごく綺麗……本当にもらっていいの?」
「はい……使っていただけたらとても嬉しいです。養父と二人で相談して選びました」
遊びに行って分かったのだがエドマンド辺境伯はマリアンヌのことをとても可愛がっている。侍女が片付けているであろう部屋は清潔で調度品は高価なものばかりだったし引き取った子供に箔が付くよう進学させ身の回りの品をふんだんに用意していた。
「夜だから少し飲もうか。前線に出たら勝つまでは酔っ払うのも無理でしょ?」
ヒルダは実家から持参した蒸留酒の瓶と硝子の杯を二つそれに錐と空の深皿を机の上に置いて水差しから水を注いだ。察したマリアンヌが掌を皿にかざすと皿の中の水が凍っていく。
「錐を貸してください」
マリアンヌが錐で氷の塊を突いて砕いている間に炒った胡桃を別の皿にあけた。
「この飲み方が一番好きなんだよね。氷ありがと」
ヒルダは指二本分の蒸留酒を注ぎ杯を掲げた。マリアンヌも手元で杯を軽く掲げている。兵たちがいる場では打ち合わせるが杯は打ち合わせないのが正式な作法だ。ひと口喉に流し込むと熱が胃に向かって降りていく。
「ご相談があるのです」
ほろ苦い胡桃を口に放り込みながらヒルダは頷いた。エドマンド辺境伯にも言えないようなことを聞かされるのかもしれない。
「私には秘密にしていることがあって……それをある方に言うべきかずっと考えているのですが答えが出ないのです」
きっとミルディンでリンハルトから聞いた件だ。リンハルトは既にマリアンヌの秘密を知っているのでマリアンヌがいうある方、はリンハルトではない。秘密を告げようとしている相手はきっとベレトかローレンツだ。
「それは私が聞いてもいいの?」
マリアンヌは琥珀色の蒸留酒を飲み干し机の上に置いた。彼女が作った透明な氷だけが中に残っている。
「私すごく狡いんです……。ヒルダさんには絶対に嫌われたくないので聞いて欲しくありません」
「じゃあその人から嫌われたいから話すの?」
酒精のせいで頰を赤くしたマリアンヌが首を横に振った。
「嫌われたくはありません。でも……私を遠ざけて欲しいのです。きっと私に深く関わると望んだ幸せは得られないので」
今はきちんと髪が結い上げられると言うのに入学当初の誰にも馴染もうとしなかったマリアンヌの姿がそこにはあった。
「そんな風に決めつけないで。私マリアンヌちゃんと仲良くなれてすごく嬉しいんだから」
ヒルダがそこを否定しても何の意味もないと分かっていても否定してやりたかった。知っていることを繋げて推理すればそんなことはすぐに分かる。まずマリアンヌの秘密はヒルダの人生には関わりようがない類のことで紋章を持つ名家の令嬢に求められるのは紋章を持つ後継者を産むことだ。秘密を打ち明け遠ざけようとしているのはベレトではない。ベレトには領地も門地もないので生まれた子供が紋章を持っていようといまいと関係ないからだ。自分のように紋章を持つ子供が欲しいローレンツにマリアンヌは秘密を告げようとしている。
「でも……私、これ以上自分のことを嫌いたくなくて……だから人として正しい行いをする必要があるのです」
言葉を失ったヒルダはマリアンヌの杯におかわりを注いだ。五年前の春の姿が人として正しい行いの結果だと言うなら正しい行いなどしなくてもよい。反射的にそう思ったが自己否定の塊である彼女が自分を肯定するために絶対必要なことなのだと主張している。
「秘密を告げても告げなくてもそれぞれ別の理由で辛いね」
「養父は事あるごとに自分を愛せ、と私に言ってきました。ずっと意味がわからなかったのですがこうなって私ようやくわかりました」
マリアンヌは一人で完結してしまっているがヒルダにはどうしてもエドマンド辺境伯が辛いことがあっても乗り越えられるのだから人として正しいこと、この場合は彼のためにローレンツと結婚しないことを選べ、と言うような人物に思えない。それも含めてヒルダはローレンツがマリアンヌの言葉に動じない方に賭けた。
「マリアンヌちゃんはその人に無理強いはしたくないんだね」
マリアンヌはかつてヒルダと二人で選んだ手巾で目元を押さえている。これが愛情でなければ何が愛情なのか。表面に現れはしないがこんなに深くローレンツを愛する人は今後、他にも現れるのだろうか。
「私はね、どっちを選んでも辛いマリアンヌちゃんの味方をしたいな。だから心の赴くままに決めて欲しいの」
「ヒルダさん、ありがとうございます……」
「あと一杯だけ呑んだらお開きね」
多分マリアンヌの部屋は悲惨なことになっている。明日は少し早めに起きて片付けを手伝ってやらねばならない。帝国本土へ向けて進軍する日が近いからだ。
遠くからローレンツたちが奪取した弓砲台に仕掛けられた罠が燃え上がる様を見てヒルダはリンハルトとの会話を思い出した。まともな神経の持ち主ならインデッハの紋章を持つ教務卿の娘ごと敵を焼き殺そうとしない。今日のヒルダは飛竜に乗ってクロードの副官をしているので戦場にも関わらず彼の舌打ちする音までよく聞こえる。きっと考えついたが実行しなかったのだ。
「くそっ!エーデルガルトのやつ煽りやがって!ヒルダあいつのところに行くぞ!」
クロードが飛竜の手綱を短く持ったのでヒルダも手綱を握りしめる。ガルグ=マクから撤退した時のクロードはエーデルガルトをあと一歩というところまで追い詰めていた。彼は今度こそとどめを刺す気でいる。
「クロードくん、分かってるだろうけどあんなことは出来なくていいの。出来たらダメなんだよ!」
ヒルダが見たところクロードの憤りは他の者たちと少し違っている。いつでもその境地に堕ちることが出来るからこその憤りのような気がした。だからこそクロードがそんな作戦を立てる姿を見たらヒルダは右手の指で丸を作り左手の人差し指で右手の爪を触って級友たちに知らせるだろう。ベルナデッタの死は何故自分たちが戦うのかを分かりやすく示した。あそこまでするのだからきっとエーデルガルトには狂おしいほどの理由がある。だが目的のためならどんな手段でも正当化されるという考え方を否定するためにクロードもヒルダも戦っているのだ。
先行していたベレトがクロードたちの元に戻ってきた。帝国軍が王国軍と交戦している地点へ移動する前にローレンツが率いていた別働隊と合流すべきだと言う。
「ディミトリたちには申し訳ないが潰しあってもらった方が有利になるしあそこに行くなら回復役と魔法職がもっと必要だ」
「あいつらはそれを知ってるのか?」
「もう伝えてきた。行こうか」
これだからベレトはクロードからきょうだい、と呼ばれるほど信頼されているのだ。ベレトが指定した合流地点に向かうとローレンツたちは交戦中だった。ホースキラーを持っている騎兵が多くローレンツは馬から降りて槍を振るっている。クロードは手槍でローレンツを狙っていた騎兵に気付き上空から一撃で仕留めると声をかけた。
「エーデルガルトたちのところへ行くぞ!ついてきてくれ!」
クロードたちの姿を認め完全に数的不利であることを察した帝国軍は本隊を目指して撤退し始めた。だからだろうか、少し油断してしまったらしい。戦記物や騎士物語で紋章を持つ騎士や英雄が倒れるのは人を庇った時だけだ。
ヒルダは自分が見たものを信じたくなかった。回復魔法が使える者はとにかく敵から狙いうちされる。どれだけ敵兵に損害を与えても即死させない限りは彼らが敵兵を回復させてしまうからだ。せめてエーデルガルトの元へ攻め込む部隊の回復役を削らなければ面目が立たないと思ったのだろうか。撤退していく帝国軍の兵士が最後の嫌がらせのように手槍を投擲しマリアンヌの胸に突き刺さるはずだった手槍がローレンツの背中に刺さっていた。出血のせいで鎧に覆われていない腰から膝までも真っ赤に染まっている。
「ローレンツさん!だめ!だめ!私まだあなたに何もお伝えしていません!」
クロードから副官としてローレンツの様子を確かめるように頼まれたヒルダはマリアンヌの元に駆けつけた。重傷を負って横たわっているローレンツの傍でマリアンヌが絶叫している。いつも静かな彼女が泣き叫ぶのは本当に珍しいことだった。マリアンヌはヒルダが差し出した特効薬にも気付かず必死でローレンツの手当てをしている。彼女の悲鳴を聞きつけたフレンがリブローを使いようやくローレンツの容態は安定した。
「ありがとうマリアンヌさん、面倒をかけてすまなかったね」
「ご無事でよかったです……申し訳ありません、私が手槍に気が付かなかったせいですよね」
「いや、貴族の責務を果たしただけなのだから恐縮などしないで欲しい」
彼女自身は気がついていないようだがずっとローレンツの手を取っている。これは死を看取る時の姿勢でもあるが今頃ローレンツは自分が素手でないことを後悔しているだろう。もう大丈夫だと確信できたヒルダは再び飛竜の手綱を引いた。先行したクロードに良い知らせを伝えねばならない。
三つ巴の戦いは長く激しく続きエーデルガルトに深傷を負わせることには成功したがまた撤退されてしまった。副官という話だったが途中から仕事が伝令に変わったヒルダはくたくたに疲れていた。体を拭いてとりあえず休もうと思ったが酷い物を見過ぎて中々眠れない。仕方がないので月明かりを頼りに陣内を散歩することにした。炊事の煙で敵に見つかることを考慮しなくても良いのでそこらじゅうに焚き火の跡がある。それを上手く避けて歩かねばならない。
流石に疲れ果てたようで他の者たちは皆寝静まっている。そんな中ひとつだけ灯りがついている天幕があった。クロードの物だ。きっとまだ考えごとをしているのだろう。だがヒルダが自分の天幕に引き上げようとしていた時もクロードは兵たちを労うと言ってベレトと共に歩き回っていた。一体、いつになったら休む気なのだろうか。そう思ったヒルダはクロードの天幕を訪れた。
「お疲れさまクロードくん」
「わ、どうしたんだ?こんな時間に訪ねてくるなんて」
「嫌なもの見たから上手く眠れなくて。気晴らしに何か楽しい話でもしてよ」
先程の軍議で報告した通りディミトリの最期をヒルダは見てしまった。舞踏会の時に踊ったことがある相手の悲惨な末路が頭から離れない。
「俺も疲れて頭が回らないから今は無理だなあ」
ヒルダが椅子がわりに座っている大きな行李にクロードも座った。いつも着ている大仰な上着はきっと行李の中にしまわれている。
「それにクロードくんは皆のことを労ってたけどクロードくんのことは誰が労うのかな、と思って」
「はは、そりゃありがたい話だな。頭でも撫でてくれるのか?」
「それくらいならここでもしてあげる」
だがその先のことはこんな布一枚で遮られた空間でなど絶対にお断りだ。誰にも物音を聞かれない場所がいい。問題はガルグ=マクにもそんな場所はない、ということだ。畳む